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『宗教研究』新第11巻第5号(*84号)

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(1)

――目次――

1,

大集経と佉羅帝との関係,羽溪了諦,Ryōtai HATANI,pp.1-14.

2,

宗教儀礼における社会的拘束性,古野清人,Kiyoto FURUNO,pp.15-37.

3,

有部宗内における発智系,非発智系等の諸種の学説及び学統の研究(承前),西義雄,Yoshio

NISHI,pp.38-59.

4,

神名の言語学的研究(承前),その困難と通患,松村武雄,Takeo MATSUMURA,pp.60-72.

5,

古典文学における墓の宗教,アンティゴネーを中心として,黒田正利,Masatoshi KURODA,pp.73-81.

6,

特殊的教団より見たる秘事法門,竹園賢了,Kenryō TAKEZONO,pp.82-93.

7,

四分の相縁関係について,唯識四分説の一部として,富貴原章信,Shōshin FUKIHARA,pp.94-112.

8,

龍樹・提婆に知られたる数論・勝論学説について,五十嵐智昭,Tomoaki IGARASHI,pp.113-129.

9,

印度における階級思想の変遷,善波周,Makoto ZENBA,pp.130-144.

10,

葬制沿革史料,柳田国男,Kunio YANAGIDA,pp.145-173.

11,

新刊紹介,pp.174-186.

Posted in 1934

(昭和9)年

(2)

大集耕と怯絆希との関係.

ヽ _

羽 渓 了 諦

∵ 〓︶ 火薬紅は法血の集を説いた一類の綻仙ハを編纂したものであることは殆ど疑のないところであるが、柾々のM仙想 的内容を有った経典が集成された叢書であつて、しかもそれ等の紆此ハは一時に成立したものでなく、新蕾の別が 柄かに認められる。 今この大基経に廃する紅此ハの挽かれた場所として示されてゐる謂はゆる詮麗を見ると、必らすしも同一でない が.そのうち仕羅神山において説かれたと倦へられるものが吋なり多いことに範づく。すなはち隋の那連銀耶合 ︵Nare已rP↑y”naS︶の諾した大方等‖蹴鮭︵大方等犬集縫目赦分︶は拉初の推拓旛E法品より俳現紳適品に至る七品 は王命城の迦蘭陀竹園︵F喜r曾くe雲⊥査︳︶で詮かれたことになつてゐるが、第八の星宿品より以下全品の説 かれた桝は仕拝唱山と記され.また同人諜の大方等〃赦経︵大方等大集経月祓分︶は前粋が諭かれて後引続いて 失張任羅帝山に於て説かれたものと僅へられ、更に同人謂の大集須弼薄紅︵大方等大柴経狼捕縄分︶も亦同じく 怯辣帝山を説法の場所としてゐる。仕羅砥と松羅帝とは同人の音諜であるけれども、抵も葡も共にtiの封書であ るから、開封が同一原音の育克であることは疑を容れない。 大集経と怯躍帝との関係 rこiJ ●

(3)

大祐経と怯締付とり㈹棒 二 放伐の須肋亜紀は州戚拝世の功徳を諒き.その本鞘を述べ、その本生を明かにして﹂以て地織信仰を淡吹した も0であつて.柄かに地織菩薩緯を諌想して作られたもわである.而し七現存せる地織経としては隋の法繹等撰 〓わ衆結日蝕に﹁欠課人名、今附北涼録.﹂と註記されてゐる大方憐十輸控八巻と玄非繹の大乗大集地裁十輪紅十 谷と輸婆迦羅︵Cub︼︼旨賀各号5 草薙畏︶謂の地裁菩薩俵軌一巻と賓又難陀澤の地蔵菩薩本願経二審との囚踵で あつて、唯だ最後山鮭のみは仰利天上の説法となつてゐるが、その他の三鮭はいづれも皆倍羅帝耶︵若しくは任 羅堤耶︶山を以てその説鹿としてゐる。松雄壷耶は後の論誰によつて仕羅帝︵捉︶の嘩背が明か忙なれば、その於 格の青島であることが判るであら−リJ北叫に注意すべきは岡本共謀と有機されねる故初の二経には共に仰が〃赦挺 を説き託って複、引績き杢紅を説かれたことが記されてゐることである。従って本鮭は富然大集経中月臓分と須 禰瓶分とりmに編入せらるべき性質いものであらねばならぬ。筑るに隋の開塁ハ年僻就によつて合成された大方 等火集鮭にこれが過せられてゐるのは、本紀が遼邸の申⊥で繹されて、常時なほ中間へ倦解してゐなかった蔑、 ︵二︶ 怜就はこれを知見しなかったからであると考察するほかに、命通の途はなからうと想ふ。 以上の他、怯羅竹山を詮庭とする火集紅仙ハに佃㌫織経がある。塩基赦菩薩に閲する漢籍経此ハの現存せるものに 九踵あるが、その中佃就合成の大方等大集鮭に机入されてゐる虚葬織#躍品︵︰寧鱒識謹と博へられてゐるが、聖 ︵∵︶ 堅詫と触る説が正しいやうである。︶と木賃諾の大集大鹿貧絨北[薩所閉経とが妙賓肝蹟堂をその詮慶とし、法天諜 の艶麗蛋摘韮=薩陀羅尼纏が蕃栗山頂天官酎ち兜密天甘をその説起としてゐるほかは、.すべて伏羅帝日直詮法とな ︳ヽヽ︳ ってゐる.付しそい湖底の音鳥に美々甚▲だし︿乱雑であつて、倒せば仰陀耶曾繹の塩基丼鮭鮭には任羅砿細山と 73β

(4)

ヽヽ なり.聞弗鋸久謂の虚寅草昔庫維には松雄璃迦山とたり、特種蜜多滞り通容赦北‖蕨仲兄鮭には偲紬山となり、同 −、、︳ヽ 人語り樅欒余地菩薩結には仏陀羅山となり、菩提留支諜の俳訟如意鹿賀痛苦薩陀羅侶には怯廼山となり、柴野八 ︳ヽヽ の出歩曲菩薩間七俳陀鉦最終及びその岡本異謂たる闇郵裾多諾の如来方便善票几掟には親羅渉︵婆︶山となつてゐ

るが、いづれにしても同〓哩昔の略膏若しくは批■背を幻したものであことは殆ど疑を容れない。但し故初の任羅

底辺去しくは怯羅抵迦は怯羅帝に接昼郡−⋮の附加された形であるらしく、叔後り難羅捗︵姿︶は難が現代文郊で はcIJ∵三軍音−せられ、我が閥ではk2.と空音られてゐるから二見別系のやうに考へられるかも知れないが、 併し鵜にはkヒといふ古青もあるのであるから∵難羅抄は実弾怯羅帝の原音の極北したものであらう。殊にこの 山頂が諾大仙入り佳麗と指定されてゐることは怯耗帝=砦しくは怯羅低山砦しくは佳耗提山岩しくは怯羅底︵麺︶ 山若しくは任羅山などの場ム‖と異るところがないのであるから.これ等は皆向一原青に基いた略音悲しくは靴音 であるに撞ひない.こり璧Hに就いては後に論述するであらうから.故には唯だ二三の例外を除いては塩基頼経

の設題が一般に伐羅帝由と悼へちれてゐることを指摘するに止めて退く。

然らば大張鮭に調はゆる仏経焚砥︶とは兆して河鹿を指示してゐるのであらうか。これに勤して比較的詳細は 地理的説明を典へてゐろもわは 曲経であるJその盛宿L品節八之一には﹁繭竺切凹大下中甜大龍王・⋮︰由担︼ ヽヽ︳ 宮殿套如甜下松羅低山完ハ山車埋、於二山頂朗↓有■大聖入党桝二属竺被山周匿縦横jE等囚萬両年一切荘厳 是七貨、﹂と詮かれ、また﹁爾時妹致薙巽言−il⋮墓蒔︰:中州通力垂融雪山哀レ墨而往−到二羅任低山頂ご 左笹避と怯締骨との閥怖 アaヲ

(5)

大鴨経と操羅帝との機体 四 と記されてゐる。か1る記事に御すれば.倍羅砥といふ山は架蛋的なものであつて.現貫の地上に求めることの 机釆ないもの1やうに比える。なほ同経に於ては野二この山が﹁任薙低空人位慶﹂といはれてゐるから、この山 名はこの山に任してゐたと倦へられる聖人の名より探られたものであるらしい。 ところが戎革者はこの任薙帝を以て干閻︵穿。t。−この灘摩帝︵G?mJi︶の摘靴せるもの、従つて口瓶経及び ︵M︶ヽ− 〃赦終に謂はゆる任羅帝山は有名な干閲の牛角︵G。笠轟 ヽヽ 任羅に抽託するといふやうなことは∵背剋畢上組封にあり得ないことであるから、か1る詑は承認し難いっ併し 現型の日蔵経が干閲と何等かの関係のあつたことは疑ふ故地がないと調って可い。荒し同紅の護塔品に於ける手 間の地即並に憶説に閲する記事が精確を極めてゐるからである。大鰐この謹坊口⋮は仰が請託王に付喝せられた大 聖人の支提︵C2.tya坊︶佳麗を指示したものであつて、印度の主要な国都を始めとして西域憲且にまで亙ってゐ るが、その中雌だ干閲の雅摩婆羅香︵G。−ゴaS巳agandh・こ聖人の支捉佳麗に封してのみ特に﹁水河岸上牛頭川遼、 撃河岸側ごといふやうな地理叫詮明が加へられ、しかもそれが既にS−ei−−氏によつて指摘された通り杵確を棲 めてゐるのである。故に珊⋮はゆる牛頭︵G。号芝山とは玄弊の西域記に謂はゆる竪繋鰯伽︵GO宮孟土山即ち牛 角山のことであつて、Stei︸一氏はこの山が王城の酉捕を去る二十飴只の虎に弄って、この山の崖谷の問に一伽藍 があり、また阿羅漢の任する巌窟があるといふ玄非の押城の記録に基いて、この牛角川を以て葡萄の産地として 有名なUj已と糾する大邑に封して和闊︵苧。t弓︶沃地の西南端に近い恰拉恰什河︵Kal・〒K註黒玉河︶の畷崖 ︵九︶ 樗足した出である。さすればこり池坊=⋮に調はゆる†粕川小水河持上 上に降起サるK。一⋮J冒i山いことであると r.フJ

(6)

にあろ隼粥山とは即ち現今の ROill巨.ri仙を指してゐるのであつて、かい雅姥婆辣市大聖人の交接什虚に紬する 地理的詮明は貫に措辞であるから、か1る記事は干開の地即k精通してゐたものでなくては到底ものすることは 山東ない。従ってこの日祓経の中抄︿とも護塔品は干問囲と解凍な関係に於て成立したものだと考定され得る。 なほ同じくこの護堵品には干開閉に就いて次のやうな詳細な記事が掲げられてゐる。 爾時≠尊卑±十八夜叉勝一言、我今持二此聖人仕慶一付∴喝於汝↓此二十支提輔徳佐虚、好加二愛敬∵精心維持、 ヽヽヽヽ︳ヽ 時二十八夜叉略言、敬順二沸教↓二十支提如来什喝、萱敢不レ持、但群鰹婆羅香山一艇我雅一垂取↓時紙利呵婆 ヽヽヽ︳ヽヽ●ヽ︳︳ヽヽヽ︳ヽヽヽヽヽ︳ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 連多箭王、釦白レ俳言、世尊如米今者以二千開閉牛角寒山雅摩婆羅乾陀牟尾大文捉慶一付﹁喝於我¶然彼国土城 ヽヽヽヽヽヽ︳ヽ︳ヽヽヽヽヽヽtヽヽ︳ 邑村落悉皆歩艇、所レ有人民悉従二他方飴図土一束、或飴天下、或飴利中、菩練磨討薩、大師支俳、大阿羅漢、 ヽヽ︳ヽ︳ヽヽヽヽ︳ヽ︳ヽヽ︳ヽ 得粟沙門、五仲通人、坐膵力故、向レ被供蕃、雅摩婆羅皆無二衆生↓一切来者皆是他国、せ尊此二十八諸夜叉 賂不レ骨二護持↓我今怪レ此、桝以者何、以下彼不お経二我等諸龍一得二悪名↓俳言、龍‡英二如レ是詮↓何以故、今

ヽヽヽ︳ヽ︳ヽヽ︳︳ヽヽヽヽヽ︳︳ヽ︳

有二二拡大稲穂人↓見二於四諦∵鱒抄勒閥一而姓レ彼仕、以∵彼二些柑徳衆生有∴大力一故、於丁血離摩婆羅布山大 ︳ヽヽヽヽヽヽヽ’ 支提庭↓日夜常来一切仇蕃、龍王常レ知、如レ克之時、恒不二磯乏↓叉迦梨俳畔、彼チ囲因名二迦避抄摩↓国土 供大、安穏豊禦、郁椛華某、衆生受用、紋囲多有二百千五摘記人↓世相縞目依二止其中、係レ念坐抑、柴二阿持

■ヽ︳︳ヽヽヽ︳︳ヽ︳ヽ●▼ヽヽ︳︳ヽ︳︳ヽ︳

多羅三琴二菩提づ艮二英国土安穏豊欒一彼土衆生多行二放逸∵軍重責欲二軍由義人↓焉作二悲名↓以∴次時事

ヽヽ︳ヽヽ︳︳ヽヽヽ︳ヽ︳︳ヽヽヽヽヽヽ

撃破聖人↓時評行者受こ斯撃己、各離二彼図↓散向∴飴方”時彼衆生見二聖人去↓心大概菩、是因縁故、種国 土中水天火天暦生二眼倉↓所レ有諸水河池泉井一朝結城、時彼衆生無l永火一散、磯渇皆死、是時国士自然丘荒、 ヽ 天集経と佳躍帝との閥係 五 7β∂

(7)

六 大集経と怯躍帝との脚伴 仰一字l龍壬づ我今不レ久往∴裸摩婆羅平尾佳麗↓ 結伽七日、受二解嘩警 令ド干閲幽我滅度後一百年、定時彼国 造復興一皿、多傾∵城邑郡螺村↓人民蛾盛、倍率大乗↓安穏快楽、種椛飲食、及諸炎華無台所二乏少↓ こ抄雑文中にはナ周囲に掬する苗憶説の骨ナがすべて絨込まれてゐることは一見明瞭であつて↓彼図上︵干固︶ 城邑村落悉皆賽蝿.桝レ市人民悉従二他方敏園土一木、﹂とか、﹁皆無二衆生↓一切来者皆赴他聞、﹂とかいふは、西曲の 干蘭囲史並びに玄非の粥域記にこの囲はもと無人の躾野であつたが、阿輪迦王の時代印度人と支那人とがこの地 ︵▲へ︶ に於いて別命して創めて圃ケ建てたといふ憶説と一致し、またこの閣を迦避沙歴と名づけたといふは、謝遜抄摩 ︵し︶ ︵不乙a蔓ゴ︶は水瓶の義であるが、婦人の乳庚を意味するSt己ごと同義にも川ゐられるのであるから、これ亦渡初 の干開園王が地乳によつて育てられたが篤に、雅薩旦那︵戸lSt一nP地乳の韮︶を以て或は千席閥史のやうにこの 図の王名とし、或は.西域記のやうにこの間の祁兢としたといふ憶説と符合し、なほまた迦某俳の時﹁彼図︵干臓︶ 多有二百千五通聖人当世哩踊‖伐二水甚申↓係レ念坐膵、聖二阿鐸多羅三貌二義品讐以二共闘土安穏盟焚パ彼士衆生多 行二枚準二軍謹五欲二軍由蛮人づ篤作二無名↓以二次撞土一筆毎没入↓暗譜行者受二斯撃己.各離二彼閲↓散向二敵 方ごといふは、手間国史に﹁音曲葉仰‖世わ代に手関囲には伽藍と二部の僧伽とは非常に多く、人民は篤く教法 を信じたけれども.迦基伽の教法の嚢滅と同時に、干闊囲の俳教も破壊せられた。その後間もなくKh賀1巾くa仙 及び只ナ已e官一St旨等多︿氷り、干閻聞方而のC註よP山中に化して、庶民を化導したけれども、紋等は諸仙を ︵八︶ 昨蔑誹誇して、竜も宗教を信じなかつたから、詔仙は怒って、干尉囲を去って他国へ赴いた。﹂と倦へられてゐる ところと大腰に於て似池ひ、殊に﹁川二束埴土・平鹿雇人ごといふは玄彿が十閲の北方に化してゎたといふ局労 73β

(8)

落週︵若ニュハ︰1︶叫に於て、聖者大地鮪延︵ソごご巳三レ1古いこご︶が′での城主つk一台号︺を始めとしてその倍伍及び 代衆の投げつけた土砂によつて埋められたといふ梵本D︰く︶曽ad旨p第三十七草及び漢薄根本詑一切有部咄奈耶 第l週十五⊥ハ客年に記載されてゐるPルカ脾H喩滞、常びに支那が十閻に近い現今のUztllnlTatiに相常する喝摩 へ九︶ ︵コ一き″エに於て土人から捌いた易労落迦城内に於ける一羅漢の被った大迦拓延と同様た寄鍋に閲する俸 を意味 せることは疑を容れない。従って口祓経の護塔‖⋮は干開聞に闘する諾博詮を知悉してゐたもの1筆に成ったこと は明瞭であると謂はねばたらぬ。 併しながら以上の諭誇に基いて、現埋としての日減軽と千閲図との闇には直接閥係があつたやうに考へ、延い ては妙くとも本紀の護堵晶が干関囲内に於て創作されたもの1やうに推定することは、あまりに早計であらう。 何となれば前摘の引川経文に於て見たやうに、千路周が中二﹁彼閲﹂と呼ばれて、全く他囲扱ひにされてゐるか ︳ヽ︳ヽヽ︳ヽ らである。就中﹁今宥∵二粥大福穂人づ兄∴於四諦∵従二抄勒圃一両従卜彼︵手間開︶任、﹂といふ一節に着眼して考察 を遅らせば、この謹塔晶は寧ろ沙勒︵不詳Fg≒︶囲を中心として成立したものと観る方が安常であらう。 三 苦しH政経の護塔晶が沙勒圃に於て創作訳しくは加筆されたものであるといふ如上の推定がiEしいとすれば、 日減耗の後牛部・H痛控・靴減絡・須獅祓控及び鹿賀減控の詮起たる佳羅帝は、玄非が伐沙即ち沙勒の正晋として拳 ︵∵∩︶ 二こ げた託栗多底、また慧苑が疏勒の革滞として示した侠︵松の説か︶路数恨勒と同一原音の樽批したもの1青詣では あるまいかと憩はれる。但しその原青に就いては畢者の意見匿々として一致を炊き.Julie−1氏は前者を㌘岬t註 大兵総と伏膵癌との関係 七 7∂7

(9)

二ニ︶ の封育と宥撤し、ヨanke氏は芥a−u竃nt賀㌣若しくは六plu竃d一−a−・aを以て.−︶isc−︼り︻氏はぎ−目貫t≒Pを以て 後者の封育と考足したが、Sy−ノ1aiロLぎi氏は之等の見解に反封して倍︵警P︶は埜背の喉青倉気青を以てその封書 とせなければならないといふ見地から空−Pの青馬と考定し、路︵L。tl︶はr〇.吸出勒︵chOtl古−エe︶は署Pの ︵〓ニ︶ 封書と観て、偲路数恨勒より巴喜虐苫といふ原音を探り〓したのである。なほStein氏は前示した︼#昌ke 及びPischり一両氏の詮を襲うて、話死多底の嘩背は芥已u琶t弓、Ka言ぇh⋮、㌘lu貰t5 の如きものである とし.これ等は執れも﹁兇暴の性格を具ふる﹂といふ意味であるから.玄非が倍沙閥の條に﹁人性猥暴﹂と記し 〓門︶ たところに該蕾すると観たのである。併しこの見解は両者の晋鞘附倉に於てよほど無理がある上に、もし詑東多 ︳︳▼ヽ●ヽ 床が斯る意味を有つ原語の封苦であるとすれば、玄弊は何故に窒利託栗多底と呼んで、特に﹁帥聖﹂を意味する﹁窒 利﹂︵凰︶といふ言葉をこれに冠せしめたのであらうか。恐ら︿此の矛盾を合流し得る途は恐見されぬであらう。 故に以上の誹詑中、音韻車上最も安富と認められるものは.偲路数坦勒を芥FTO管aの封育と考足したL3、叫 氏の見解であると信ずる。声−⋮○菩Pは本木﹁櫨﹂を意味する こ旨誓a︼と﹁験舵﹂を意味するへu竺rP−との結 合した語であるが、支那に於ては後者が﹁停﹂を意味するへ○菩ハ∴と有機されて、口織控の中屋宿品第八之一に 於てはこれが﹁任虚血咤﹂︵堅JarO讐hい↑︶と青課され、﹁櫨辱﹂と義課されてゐる。而して同品に於ては雪山より基 に乗じて仕羅低山頂に到った殊致雄姿︵JOこr諾PJ大菩薩によつて物語られた偲虞風咤大仙党人の奇怪な事蹟が 記載されてゐる.1Lぎi氏は干聞及び疏勒と闘係のある日祓鮭に於て位威風咤大仙のことが詳説され、しかも怯 虞風咤といふ仙名が唐代疏勒の串背と着順された倍路数但勒と同一原音の青馬であるといふ根碩たどに基いて、 大集経と依羅帝との闘僻 八 7こiβ

(10)

︵一五︶ ≡∈○霊r︰の書鉢すなはち櫨唇文字はもと匹⋮○朝七の地たる疏勒園に行はれ東ものであらうと推定して.一時 畢外の注意を喚起したことであつた。謂はゆる櫨唇文字の疏勒本渡詮に就いては今や到底承認することはできな いけれども、唐代疏勤の本名が堅己rO葦⋮大仙の名と錆びつけられてゐたことは、、殆ど疑を挿む故地がない。故 に日蔵紅に謂る伐雉抵も、月減耗に訓⋮はゆる仕羅帝も北ハに己1PrO号叫が只≠誓○菩叫に特化し、更に舛h≒○芸−1叫と俗 語化した形の封青であるに速ひない。而て前摘の鶏薙渉︵婆︶は多分打身誓。菩イ の略音であらうと考へられる。

若し兆して任薙砥が疏軌の革育たる怯路数但勒︵巴1≒○朝.語︶より特批し俗語化した匹︼arO‡ll叫 の封晋である とすれば、妙くとも日赦挺の後牛、任羅抵山上の倉産金部と故彼の護堵=⋮とは疏勒図と密接な閥係のあることは 否定されないだらう。おそらくこれ等の部分は疏勒囲に於て附加されたのであらう. なほ日歳紅が説かれ託って、引披き怯羅葡山で説かれたとなつてゐる月赦鮭も、亦その分布閲浮捷品第十七・ 畳宿柿受品第十八及び建立塔寺品第十九︵大方等大基経第五十五−六所収︶を二讃すれば、中亜に於て加筆され たことが容易に知られる.例せばその建立塔寺品においては.俳陀が光明を放って諸方を照さる1や、即時に四 天下に無量の詔仰のH現したことが詮かれてゐるが、その中この間浮掟に於て最も多数の俳の規はれた所は、窪 且の二百五伽を第一位とし、これに次いでは干閲︵空邑On︶囲の百八十仰、泡盛︵声uc︼︼エ囲の九十九俳、沙勒 ︵田立1g≒︶囲の九十八俳であつて、印鹿本閥に於ては遠かにその数を減じ、拘産経︵声○邑抑︶の五十俳を最大多 数とし、乾陀羅︵G巳邑︼耳a︶閲の如きは僅かに十俳に過ぎないのであるじこれに依って観ると、本品の作者が俳 大鶴建と怯羅紺との関係 九 73ク

(11)

一C

大臨終と怯羅帝との関係

教有縁の聖地として三度本国よりも支那及び中震を造かに重税してゐたことが判る。その他の二品に於ても巾並

に於ける地名が頻々として硯はれ、特に干閲の国土が難防︵西燕博の干囲困史に謂はゆる手間の王家≦jayaの 意繹︶天子に付嘱されてゐる。故に月穀粒が現型として成立したのは、それが支部に於て諸掛された隋代以前支 那仰教の隆盛を極めた東普時代、屋︰l竃王家によつて統治された干閲の怖教極盛時代たる西暦第四世紀噴と観れ

ば、大過なからうと‖心ふ。但し西歳丹殊爾部に龍椒の著として収められてゐる諸軽輩集中に本鰹が引用されてゐ

︵二ハ︶ るといふことであるから、若しそれが龍樹の眞排であるとすれば、本檻の原型といふべきものは西暦第二世紀中

葉までに成立したゐたと推定せねばならぬ。

かやうに、口赦及び月蹴雨粒は中亜1多分疏勒若しくは干師地方に於て、その一部分が添加され、若しくは

害改められたことは明瞭であるが、爾経全部がこの地方に於て創作されたと考写することは飴りに早計であらう。

蓋し日織鮭申その筋言Mより節七晶に至る主食城の迦蘭陀竹園の禽座は原本的部分であつて、その節八品より節

十二品に至る伍羅低山上の倉座及び辟後の社格品は疏勤に於て附加されたと認むべき地方的色彩の濃厚な部分で

あり、次に月赦経の初品より節三晶にいたる序分は日減軽の詮法撃−後、引続いて同じ怯羅帝山に於て説かれた

ものとしようとする意閲を以て書かれ、その節十七品より第十九品にいたる野鱒分には、印鑑よりも寧ろ中亜及

び支那を仰法有縁の聖地として舎発する態度が示されてゐるから、これ等の部分は中亜に於て添附若しくは加筆

されたものと判断せざるを碍ないけれども・本経の正宗分たる本管⋮節囲より忍辱品節十六之二に至るまでは比

較的原理を保ルしてゐるもわと認定され得るからである。

74β

(12)

更に月減軽の琴1後.同じ怯羅葡山上の命痘で説かれたといふ地織十輸鮭の成立地に就いて討究しょう。 Chaユes巳iCt氏は地織菩薩が摩尼教徒によつて死者の紳たる明使の一人と看倣づれてゐた革貫に基いて、菩薩 が氷世の引導者となつてゐる郵を、波斯のゾリアスクー教の天使たるSrOS一1の慈悲深い所動と比定したのである ︵一ヒ︶ が.この地織菩薩の思想とイランの宗教m心想との摘係に就いてはl大いに︰拝意する必姿があらうと思ふ。勿論. 地織の起源が吠陀帥話中希臓のN2u二維馬のlupiterと同語たるDy2−Sが天父︵Dyい11−竃tar︶と弼せられたのに 封して、地母︵弓ユt−︼iくTm惹こと呼ばれた印度アーリヤ人釈放古の女紳に在ったことは、一般畢者の認めてゐる 所であるが、併し印度に於ては地猫背薩が支部及び日本に於ける如く猫立した信仰封象となつてゐた許跡は殆ど 探り出し得ないのであつて、印度を周遊した法願・玄非及び義渾の如きも軸蔵信明に関する記録は絶えて遺さな かったのであり、且つ印度に於ける沸教遺物に微しても、地赦菩薩信仰の成立を否定するのである。さうしてみ ると、地祓菩薩の信仰の確立したのは何うしても中亜であつたと推定する他はないのである。惟ふに、地赦十輪 紅が党初繹出された北涼時代以前、おそらく西暦第四世紀頃、.夙に塔里木︵ぎ・ym︶盆地の商連へ移住したイラン 人の問有の宗教たるゾロアスター教の天使SrO卦の思想に助成されて、遽に地織が猫立の菩薩として信仰せられ るやうになつたのであらう。かくて地織菩薩の功徳利益を誼いた地織十輪経がイラン語族の俳僧によつて編押せ られるに至ったのであらう。この地織十輪経よりもー啓蟄虚した地租本開墾蚕は、その詮虚は栃利天上となつ てゐるけれども、その俸諸君は干開聞の抄門貫叉難陀であつたから.この経も亦印度で成立したものでなく、お 大集経と任那帝との関係 7.り

(13)

大集経と保雄帝との関係

そらく千僧地方に於て地祓十輪鮭に基くと同時に、阿拗陀仰の本棚⋮心想に模倣して作られたものであるに逮ひな

い。すでに無量光の韮を有する阿摘陀婆︵Amit註Ja︶俳、その西方浄土の荘厳の一部、及びその将士往生の囚た

る願求・種名・善根などの思想と共通する表現がイラン間有の宗教の聖此ハアゴスタ挫に於て認め得られることがー

二八︶ 宣−i。t・Lぎi−E︻叫。t諸氏正よつて指摘され、しかもイラン文化が中電に於て焼く且つ深く浸潤してゐた事賓に照

して、それ等が竹牽強附禽の妄見として二大に附し去ることのできないことを考慮に容れてみると、地蔵菩薩の

思想蟹展が中亜に於てイラン宗教の影響の下に成就されたのであらうといふ推定もあながち否定することはでき

ないと信する。殊に地織十輪鮭が月減耗の詮かれ詰った後、同じ偲羅葡山に於て詮かれたといふ鮎から観てもー

この経の成立地が印度ではなく、疏動地方であつたことが推測される。

すでに陳べたやうに、地弛十輪経は塩基紙背薩に付鵬されてゐるのである。従って虚牢絨菩薩の功徳利益を説

いた虚賽畢菩薩控も地織十輪紅と同じく怯羅鴨川上で詮かれたことゝされてゐる。而して本経が大方等大袋紅に

納入されてゐる虚茎絨品に掠って作られたものであることは、繭者の内容を一見すれば疑のないところであから一

本経は地織十輪経の成立以後、虎賽蔵品に基いて造られたものであるに逮ひない。ところが、塩基蹴品に於ては

妙賓荘厳堂を以てその詑鹿としてゐるにも拘らず、それに掠って作られた塩基畢菩薩挺に於ては前述したやうに

倍羅塩山がその説法の場桝とされてゐる。その理由に就いては、すでに地裁十輪鮭が鹿基地菩薩に付喝されてゐ

るところに虚基準縫製作の動機があるといふ見地から、前者に接紙せLめる為に後老の詮鹿を前者と川じく任姓 ︵一札︶ 低山に改欒Lたぃであらうといふ見解が張表されてゐる。これも憬かに¶肯するに足る意見ではあるが、併し朝 アまゴ

(14)

って虚巫学経とその基本となつた璧義品との内容を比較封鹿tてみると・後者は徹頭徹尾自力教に立脚して挽

かれてゐるに反して、前者は全く他力数的立場に吏改され・しかも虚表書薩は後者に警裟方大荘厳囲の一

賓荘厳如来の朗に在つ蛋薩として詮かれてゐるに反して、前者に於て岳方毒薬依困の筆数慧釆の朗に

在ったと記され.菩薩の本国が苦から西方に挿向せトめられてゐるのであるからー要の製作された主要な動

横は後者の自力教的立場を持換して、他力数的立場に入らしめよう与るところに在ったと言品べく、従って

前者は特た他力救済を本廟とする阿摘陀彿の西方浄土詮に櫨倣して、虚表書薩の本国をも東方竺よ晶方俳

土に挿換せしめたのであると考足して然るべきで誓う。若し果して然りとすれば・萱草経がその詮雷雲

蔵品に随うて妙賓荘厳堂といふやうな架売場所に取らないで・これ姦勒の芸の特託し窟慧と改めたの

は、単に地蔵十輪挺に接警しめる焉と観るよりも、寧ろ虚義品の自力警他力教に特化せトめた場庭、冨

換へれば虚基争経の豊し完域晶示したものと観る方が、この場合華鶉を得てゐるやうに考へられる。故に

本経も亦地蔵十輪経と同じく琉勒地方に於て阿弼陀彿の思想の影響の下に、多分イラン語族の俳徒の手によつて

迫られたものであらうと推定してもー決して唐突な想像ではあるまいと信する。

最後に大方等大集経に編入されてゐる須翔蔵分に就いて言しよう。これは先きに述べたやうにl地彗口薩の

功徳を説き、その本願を述べ、その本生を明かト、以て地蔵信仰を故吹したものであつて、柄かに地蔵十輪警

濠想してゐるから、その成立以後の出現であることは疑を容れ已〇しかもその詮慶も亦同じく任羅帝山とされ

てゐるから、これも亦疏勒地方で成立したものと推定せざるを得ない。

大集経と怯羅帝との関係 ア4β

(15)

−四 大黒経と倍締貯との関係 これを聾するに∵大方等大集経に蜃する諸経典中.倍羅帝山上の詮法となつてゐるものは、疏勒若しくはイラ ン文化の最も柴えた塔男本盆地南遽の要衝たる干園地方に於て.イラン語族の併倍よつて、その一部が添附され たか、若しくはその全部が製作されたか、いづれかであると観て然るべきであらう。 旺 ( ( ( ( ( ( ( ′−ヽ ′−、 ( ( ( ( ( ( ( ( 毒さ重さ善房享書ご〇≡ ≡≡こ 松本文博士著﹁彿典批評諭﹂ 二三−ニニ貫。 l三三−四二貢。 同 上 M.A.SteinいAncient声hOFnニーPp■ご㌫︼︼sP ROC打tliuこLireO=llePddha−Pp.㌍誉丁中寺本氏霹﹁千開園史﹂一八1二〇京、玄井撰﹁西域紀﹂巻十二、農匪且 那固の條。 呂On訂TWi≡amsいSPnS訂el−EngH∼h t︶ic−i〇nnl−y−p・誓芦 寺本氏欝﹁千開園史﹂一三貫。 拙稿﹁中電彿敦の特徴﹂ハ﹁日本偶数嬰協骨年報﹂筋一年、九七1一〇三賞︶。 玄弊撰﹁西域記﹂二審、怯沙幽の條。 慧苑撰﹁新誇大方廣彿撃蕨経書義﹂巻上。 S.Julien盲ぎOriessuニesc邑r訂s。CCiden已es・︼ヲp・誓タ。・ド 浮uetindか一房cO訂訂n邑Jed顔旨かme占rieロt−苧−篭持︶p・望?琵二戸−茎料、p・芝ア芝・ 芦A.SteinいAucient KhOtPn︸i︸p・金・ 出u亡etinde−由cO︼か才aロ邑se d由ユrかme−Orien√巨こ苦心一p・雲∽−宏・ 寺本氏課﹁手間国史﹂一二三京。

Cbar訂s Eきt︰Hind已sm and出uddbism、干p・琵L

拙稿﹁巧域彿数の研究﹂ハ﹁宗教画究﹂特婦娩﹁彙近㌫数研元東湖﹂所載 二六八−九巧

絵本文博士莱﹁悌典批判詭﹂ 〓ハ入質。

︵ニ︶ 同上一五八貫。

︵巴 寺本娩光氏謬﹁千開国史し一二二貫。

(16)

宗教儀槽に於ける社食的拘束性

清 人

古 野

人間的現象を説明するため批合的要素の重要さを強調する傾向は批倉畢の分野に於けるsOCiO−Ogismeの拳派の

卓越した貢献であるのみでな︿、この傾向は心理畢の領域にも穿入して次第に強輩たる地盤を接待してゐる。殊

にデュルケム峯派が数十年に五つてそのユ=クな杜合畢的研究法を提唱し賞辞的効果をあげてきたフランスでは か1る硯角からの観察は今や漸く畢的曹放となつてゐるかに見ゆる。 ﹁心理畢は生物畢的科挙である﹂と定義し、客観的で貫験的な行動の心理畢を樹立してゐるソルポンのアンリ.

ピエロンでさえも充分に祀倉的影響を認めてゐる。氏によればそれは二つの様式で現はれる。最も原初的な生物

︵一︶

拳的行動でさえも欒形し配合化するしーまた一連の新な行動・一連の特別に眈魯的な行動を促し生ぜしめる。氏

は特に高級で複雑な心理的機能は罫に﹁統合的反動﹂として記述し又は詮明してゐる。=鱒偶に傾向に複雑な成人 ︵二︶ 生活では1原始人でも文明人でも同じく・集合的影響が著しく主宰してゐる。﹂﹁われらの周囲に且またわれらの

うちに於て認識するところの人間は吐合的影響の働きに訴へてこそ、その行為の複雑な態様が詮明されうるので

︵三︶

あると﹂。

宗教俵鯉に於ける軋骨的拘束性 74β

(17)

︵一︶ コeコーiヨ含つコニーVレ・C一∑Ogie e電設ヨenta12一︻諾1︼P・曇†ムジ

︵二︶ l一︶己・−p・謀・

︵三︺ Ann含七syc︼l01〇g⋮膏eこ吏ぶp・警戸C︹Pi含。コこ、e d︵ハくe㌻ppeヨeコt mental e二、iコ︹e≡gence﹀−浩ギニワーア

但しピエロンは言ふ、﹁社命化された人に向けられ且また祀撃的な方法を利用する集合的心理学に主要な場所を輿へ乍bも、 閃有の心理学、個人の涯按的併死に関するすべてに就いてほ、余ほこれを産物撃の一部門としてのみ科学的と考へうる。﹂ コントやデュルケムからり配合畢的ぎspiratiO︸lを明瞭に自認してゐる新・誓わ﹁心理畢汎論﹂の監修者である ヂォルヂュ・デュマは、個人的心理畢は有機的反能の生理学的研究に限定さるべきで、穣飴のすべて、固有た意識的 なものは超脱に於ても蟹展に於ても祀倉的とし、従って批撃墜的方法を以て花川すべきことを主張してゐる。カ レヂ・ド・フランスのピエル・ジャネが最近に於ては吐合的感情の問題を旺合筆火の力勅い感化の下に取扱ってゐ ることも注目に慣する。アメリカの吐合心理学者や宗教心珊畢者にも佃人に及ぼす旺倉の役割を力説してゐる者 の抄くないことは冗言を資すまでもない。 私はか1る畢的潮流は宗教現象を分析し説明するためにも大きな寄輿をなしうると信する着で、この稲では宗 教儀噌につきかゝる見地からの吐合学的検討を試みたい。意闘するところは宗教儀融が寧ろ個人の自蛮的な衝動 的な表現ではな′\して、それが如何に洗く集八〓的なものによつて拘束されてゐるかを貰諾するにある。 われらは宗教現象・ぷ数寄貰を以て本質的に且また何にもまして柾倉的な現象・事貨L手る軽舟撃明方法に恒心 !! しかもそ再・ぺ部分は帖倉畢的 据たらんことを瑚するじ止弁畢主義わ八木敷革諒がそれに封ブリいくつか誓冊雉 方法に槻しての知識の映如を暴解してゐるにすぎない1I・∫にも拘らず、輝かしい効兼を聯してゐることは否定で 宗敦儀渡に於ける址曾的拘束性 アイ〝

(18)

きなhr▲‖¥ 宗教現象は柾付現吸である。しかろにフランス址行革涙によれば、杜仲瑚象は仙人現象とは弼立したものであ る。その特徴は集人〓表象、集ム‖意識にある。但㌧配付は集合表象.集合意識から成ると云ふことは別に新しい本 鰹論的責在主義を表明するものでなく、幣畢に倍存しない一料率を構成するに必須な努作上の隠語︵FypOth∼ses detra邑−︶、探求上の指向︵di−・eCtiOnSderecherc−−eS︶ たるにすぎない。・従って池川と結果に於てのみ吟味さる べきもので、議論の飴地なきものである。研究の途上に於て、事案の教ふるところによつて階詮を修iEして行け ばよいのである。われらは科挙に於ては決定的な眞靴の獲得を故郷しなければならぬ。しかして純然たる個人現 表から置分された政令現象の準度 ︵ciit野e︶は拘束性と外在性とである。われらの集合的な考へ、感じ、動きの 諸様式は個人に封し外部から一棟の拘束︵cOntrainte︶として賦課されるのである。モニエが記す如く、社食の生 活は何にもまして所作と拙念と活動と概念との合致であつて、そこに常に構成の徴を見るべきである。そして宗 教事貫は嘗てユベルが述べた如くに、祀唐事賓の最もよき徴の一つである特色即ち拘束的樵威︵au冒it巾cOnぎー 〓︶ ign呂te︶と云はるべきものを高度に提示してゐる。宗教的の信念、行事、律法は人間の意志よ力も秀でた権威に よつて賦課されてゐるのである。 謎

︵一︶ ChPntepie de︼aSaussaye∵呂anue︻de旨i∼tOine de恥邑igiOnS︸p・只X≦llに於けるアンリ・ユペルの序文を参照。

しかるに宗教現象は先づ運動と表象とを含んでゐるが、前者は神秘的な効力を賦興された行篤である俵祀 −

宗教俵絶に於ける配合的拘束性

(19)

宗教俵祓に於ける杜骨的拘束性 一八 ritesmanuelsこit誌OrPuパを含めて −・がこれである。しかして﹁宗教的俵絶とは所謂聖なる事物に及ぼさるる ︵一︶ 有効なる俸承的行為である。﹂こ1でわれらが封象にしてゐる儀穫は社食的特質を有し、集合鰹、集囲の自費的な ︵こ︶ 作品であること、換言すれば集園の情的状態の所産として了解さるべきことが指摘されねばならぬ。語原的探索 からしても∵フテン語のritusは主として宗教的祭緒又は慣習を意味しritus とm。Sとは屡々一緒に用ひられ てゐる。またサンズクリトでもritiは風習・慣用を指してゐる。マレットはriの語原を流れると解して儀噂は砦 ︵三︶ 干の情緒の流出を統制するものだと看撤してゐる。か1る観粘からしても俵縫が慣習の事貰であつて、各儀鵡は 一つの集圏偲を含んでゐることは疑ふべくもない。儀鰭のこの社食的特性こそはrit邑ismeの宗教畢を取扱ふに 際しては特別な関心を彿はるべきものである。 謹 ︵一︶ M.Mauss∵訂二Pi㌢e︵in完it・︶−p・雷−ご・ ︵ニ︶ lH﹂IubeユいOp・CitJ pXX声 ︵三︶ R・R・害arettいSacramentね○︻simple f01k−−冨山−p・㌢ 宗教儀稽の社食的特性のうちでも最も顕著なのはそれの有してゐるOb−肯atiOnのカである。既にデュルケムは ﹃宗教現象の定義について﹄に於て∴示教現象を拘束的信念︵cr。y呂CeS ObHg賢ires︶の拘束的行事︵pratiques Ob−igatOires︶への内密な結合にあるとみた。われらは宗教儀楷のもつ配合的拘束力を多環節的配合︵sOCi冨sp? −︶、Se聖完ntaires︶に於ける儀祀のうち主として粟に踊する諸祭儀について分析しょう。これらの配分では宗教現象 の司る設剥が支配的であつて云娃ゞ宗教的なものは敢令の各瞞を被ってゐるが故に判然たる解梓宮家すし、そ一mV ㌢郎

(20)

俵絶は主としてmPl三alriteで未だ素撲なOra=ite しか有しないので行動の観察が容易に可能だからである。

そこでは個人がわれらの社食に於けるほど個人性を浮彫にしてゐず、窺細な所作でも音訓の欒化でも配合的に橡

め定められてゐて、誰もが宗教的に風習に合致するからである。仇ってそこでは宗教儀祀に於ける祀合的拘束力

の作用を殆んどーゴa已mumに近く槍許しうると恩ふ。

現存する民族のうちでも最も原始的なものに数えられてゐるアンダマン鳥人に於て、構成ある民族単著祀禽単

著のブラウンは、へceremOnia−weepi−毒。なる注目すべき現象を指摘してゐる。この祭儀的に泣くことは主として 七つの場合がある。︵↓︶二人の友又は縁者がいくらかの問別れてゐて再脅するとき、彼等は互ひに抱擁して一緒 に泣く。︵二︶婦和の祭儀に際し、嘗て敵たりし両方は抱き合って共に泣く。︵三︶葬の期の終りに守襲者の友人ら は共に泣︿。︵四︶死後親帝の者や友人らは屁鰹を拘いて泣く。︵五︶死者の骨が塞から復啓されるとき彼等は泣 く。︵六︶結婚の柑、各々仰の縁者は花嫁と花婿とを泣く。︵七︶イ:シエションの祭儀の様々な段階に於て若者叉 二︶

は少女の女系の縁者は彼又は彼女のために泣く。これらは勿論単なる感情の自費的の表現ではなくて、慣習によ

ってその演出を強制されてゐる儀稽である。︵この鳥人は思ひのま1に落涙しうる。︶彼等はまた単に悲しいから 泣くのでないことは例へば︵四︶、︵五︶の場合を除いて考察すれば容易に首肯できる。殊に悲しみどころか悦びの

場合さえ見出さるるので判明する。断るまでもなくアンダマン鳥人は悲しみから自敬的に泣くことがある。子供

は叱られ又は怪我をすれば泣き叫ぶし、寡婦は近く死んだ夫を想ふて泣く。男はどう云ふ理由からしても稀にし

か自費的に泣かない、儀穫に参加してゐるときには群然と流沸するのではあるが。上述の場八じに於ける如きw? 宗教儀絶に於ける杜曾的拘束性 7一夕

(21)

宗教儀終に於ける社命的拘束性

二〇

。pingはブラウンの所謂cerem。nia−cust。mSと呼ぶものである。これらはある腸合た於て人々は慣習上からし

て抱き合って泣くことを要求されてゐることを物語つてゐる。もしも集園内の男又は女がかくすることを怠った

︵二︶ ときは、それ竺種の犯行と看倣されて人這批難さる1のである。要するにこれらの祭繕は感情の自費的費霹 でなく、すべてObl宮iOnの感情が結び付いてゐるところめ慣習的行動であつて、これらの行動をある一定の場 ︵三︶ 合に一定の様式を以て演ずることは人々の義務である。

アンダマン鳥人の粟の諸祭儀に於て、泣くことは集固的感情の集困的及び儀穏的表現である。このことはこれ

らの祭儀が仔細な鮎に至るまで慣習によつて規定されてゐることからも明瞭である。﹁哀悼することはー彼等が

悲哀を感じてゐやうともゐまいとも一線者及び友人の義務であり、且またある期間だけ哀悼することが同様に

︵四︶

彼等の養務である。﹂人々は度を過した哀悼をしてもいけないのである。

︵一︶ A・R・・冒。WnこrndamanIs一a各rsこ革叩、p・m芦この普の野訂第二版は昨年出てゐる。 ︵ニ︶ lbid・︸p−哲芦 ︵三︶Ibid・ら琶・若者は押諭的にはデニケ晶次の祀骨喪主義に影響きる1ところ多く、一種の機能主義的な民族学説を 提唱してゐる。ブラウンによれば、俵祓の槻能は二人以1の人々の間に社命的紐帯の存在してゐることを確認するにある。 泣く祭儀は連街の感じを表明するものである︵p・冨︸paSSl−2︶。かくて祭俵はそれに参加してゐる人々の心に於ける杜骨的 感情のいくつかを更新又は修正するに役立っものと見てゐる︵p.監缶−皆ご。 社命鴇園の凝集力は各員を互ひに結びつける感傭又ほ情的惹鴇の集合的世系の存在に直接に倍存してゐる0集圃二nの 死はこれらの感情に対する直接的な攻撃である。アンダマン砧に於ける理非の風習は、恥骨艶聞の盲の死によつて朔警︶ れた錐掴的蓮仰感帖への加許に射する築囲的反動として激明きるぺきものと借ずる︵ワ出挙︺。﹃死者は迎柑の紐にょつて依 ;巧β

(22)

然牝きてゐる人々に紡びつけられてゐた。彼示死んだ今でもそれらの.紐尊は存在すること止めないで、祉骨が死の効果から 恢独するまでは継放してゐる。⋮︰余は信ずる、アンダマ.ン鳥人の吊葬の風習は既存者の軋命的感帖が除々に再糾織されて 死にょつて生じた新な状況に邁臆せしめられるところの手段としての根擦から詑明きるべきであると﹄︹p・諾8︺。ブラウン の詑明の原理は﹃宗教蛮活の原初形態﹄に於けるデュルケムのそれと殆んど同一である︵拙諦、六六〇頁以下参照︶。 われらはまた現存する未開人のうちで最も原始的なオーストラリア人について、その栗の儀踵の社食的拘束を ︵一︶ 観察しょう。デュルケムは煩雑的俵祀︵rites piac已aires︶を取扱ふてこの間題に閲し精細な記述を残してゐる。 ︵二︶ こ1ではスペンサーと故ギレンとの近著﹁アルンク族﹄によつて再叙述を試みよう。 瀕死の男はキャンプで母、母の兄弟、息子及び姉妹の息子と姉妹によつて国儀される。臨終になると兄と母の 兄弟とが補足を掲げてその姿勢を決める・。死者は直ちに基︵wa︼g−1a︶に運び去られる。その傍で息子達1もし 誰もゐなかつたら弟達又は彼等の息子ら 一 によつて死者の髪が切られる。これが行はれてゐる問、婦女や子供 らは見えないところに過去してゐる。それから屍照は顎のところまで膝を持ち上げて坐した姿勢にされ、丸穴の 中に埋没される。顔を紳話期の男子又は女子のキャンプ場所即ちTmara A−chera︵太古のキャンプ︶ へ向けてそ の塚の同じ側には窪みが作ってあつて、U︻thana︵埋没の時と最終の吊葬祭俵との間に於ける死者の婁に輿へられた名︶が 屍鱒を訪れたいときに机入できる様になつてゐる。最終の吊葬が行はるるまではU−th巴″aは時の一部は墓で、一 部は縁者を監親して.また一部はAr⋮ゴb≒inga︵lJ−thalJPのspiritdOub−2︶と組んで過すのである。埋没の後間 もなく髪は僻遠の場所に持ち去られてk=ru・urkna︵室の本質の意︶と呼ばれる腰帯が作られる。死者のキャンプは 直ちに焼彿はれ、家材道具もすべて破壊されて了ふ。地方的野営︵−OCa−camp︶は新らしい場所に移動する。死 宗教俵線に於ける配合的拘束性 アβヱ

(23)

二二 宗教俵鐙に於ける祉骨的拘束性 が惹き起されて後暫くはキャンプの内では落付かぬ薄束味憩いほどの感情が常に存してゐる。極めて度々土人ら は閣内に離散する。彼等は死者の塵があたりを排掴してゐると感する。ErunchaurupurrP︵人が墓場から立上って くるのを妨げる悪寒︶又は声urdaitcha︵人を殺す患者︶も恐らくそうである。彼等は夜に一寸した異常な物音にも驚 くのである。そしてこれはキャンプが常態に復する少し以前まではそうである。 死者との関係に準接して各人に課せらる死者の名に封する沈獣の度合がある。死者の渡直後からの畢の時期− 一年又は あれば囁き忙よつてである。もしU−tha−︼aが自分の名が奉げられてゐるのをきくと、縁者らが本営に彼のために 悲しんでゐないと結論して、自分が快よく思ってゐないことを示すために彼等の夢の中にやってきて煩はする。 また死者の声u−−iP︵兄達︶、OkコiP︵父、父の兄弟︶.買a︵母、母の姉妹︶、Ungar2.tCha︵姉達︶、Uwinnp︵父 の姉妹︶、或は才︻u⊇︵賓の母︶はすべて死者の名前に言及Lてはならない。Ur−︶mi−chi已−−a︵基地での最終の哩 葬祭儀︶が行はれた後は墓地の近くに行ってもならない。A−亨aやltipやqmbirna︵妻の兄弟︶、Umbス姉妹 の娘達︶、与︼k己︼a︵父の姉妹の息子及び娘連︶.AlluP︵天文は妻︶、Hr昌dera Chimmicaであつた者は菓の時が 経ると ≦th呂Pの激怒を招くことなしにその名に言及しうる。また埋没後は基には誰もが長期間訪れないし. 基の近くにはじき呂aを妨げすことを恐れて少くともニケ年はキャンプは作られない。 死者の娘建と合法的に結婚しうる男達 − は現在結析してゐてもゐなくとも死者の名を 死者のGlm20na・t 述べてならないのみでなく、哩葬にも出てはならぬし基で行はれるその後の粟の拷祭儀に参加することもできな アββ

(24)

い。lコーコderP︵義父︶に滞る男が死んだときには自分の屑を切ることが彼等の義務である。もしも婿がql︺aヨg≒P と呼ばれてゐるこのc墓i3griteを息業によく行はないときには、あるIru邑eraがその者の特定の妻又は女を 他の男に輿へて死去した義父の亡−thaコaを宥和するのである。それで男は死んだ義父への義務を果した恒久的な

記録である傷痕を雨眉にもつてゐる。

男が死ぬ時には特定のAnt一P︵妻︶又はAml琵は白煙管泥を髪、頚及び胸に塗りつけ、A邑≡iニヨaの祭儀 が執行されるまでは若干の問沈歎したま1である。喪中の寡婦はそれでInpirta即ち白くされた者と呼ばれてゐ る。時として鱒寡婦は火︵ura︶からの煙管泥友を塗る、この場合には ぎa⊥npirtaと呼ぼれる。アルソタよりも

っと北部の部族例へばテンナント・クリークに住んでゐるソーラムンガ放では寡癖は十ニケ月もの長期に亘つて

話すことを許されす、この間を通じてたゞ非常に巧妙なges冒e−aロg品eを以て意志表示をする。 寡婦が沈黙の禁令の撤退を欲するときにはTer−・aと云ふ大きな木の容器に喰べられる種子や小球根をみたし、

夫の死後生清してゐる婦人のキャンプ内で新らしく煙管泥を塗る。テルナを塘ぎ、婦人らに伴なはれて野営の中

央部に任する。そして皆な坐して高らかに耽泣する。ところで死者の息子又は弟であつた男らはやつてきて一行

に加はり、寡婦の辛からテルナを取ってホア、永ア、ホアと高らかに叫ぶ、寡婦を除く婦女らは競泣をやめてこ

の叫聾に和する。暫くの後、テルナは寡婦の近く頬に慣れない位にして左右に振り廻し一同ホア、ホア、ホアと

叫ぶ。今や寡婦は競泣をやめて同じ叫聾を低い調子で賛する。数分後にテルナは殿の男に渡され、男らは地に侍

り両手で楯を支え、立ってゐる婦女の前でこれをひどく地に打つける。寡婦は飛び上って、数分間椰を打つのに

宗教俵稔に於ける祀骨的拘束性 7う3

(25)

二四 宗教儀祓忙於ける杜骨的拘束性 相和してホ7、ホア、ホアの吋聾に加はる。これが終ると男らは解散Lわがキャンプに掃ってかのテルナの中に 入れてあつた食物の配分を喰べる。かくて寡麻は人々に話しかけて差支ない。但し煙管泥を塗りつけることは依 然としてである。この祭儀は球根又は草の賓の蒐集に象徴化されてゐる如く、寡婦がキャンプに云はば深い悲し みで留ってゐるときには著しく抑止されてゐた婦人としての日常生活を再開することを意味する。また息子又は 義弟らへの提供は彼女が第一期の喪を正常に果したことを示し且彼ら − 殊に夫が死してゐるのに妻は生きてゐ ることに暫くは不快がってゐると想定されてゐる弟連 − の善意をうるために意固されてゐる。実際弟は兄捜が 月の死後間もなく婦人としての日常の仕事例へぼ芋などを採集してゐるのに薮で出合したときに彼女を槍で殺し ても正常だとされてゐる。 かくして恐らく十ニケ月又は十八ケ月の後にUrpmi−cEmi〓aの祭儀が墓地で行はれる。これに先んじて寡癖 は動物の小骨を集め、また部族の姉妹達からもえておく。それから死者の娘又は妹連などから髪束をえて.これ を甘に膠つけたものなどで大きな頭飾︵Chimuri−−a︶を作る。これが準備されると、寡癖は死者の弟に誘はれて基 を訪れてqrp已−chimiuaの祭儀に参加する。 この祭儀は仔細な鮎では部族内でも興ってゐるが一例を拳ぐればかうである。所定の臼に女らは婦人キャムブ に集って寡婦を化粧させる。男らはキャムプから墓場への途上数百ヤードの所に坐してゐる。Okniaと芥u−−ia とHtia及びA−−iraは白煙管泥でY字形を身軽の正面に描いて装飾をする。GaヨmOnaは頭を垂れて離れて坐し、 彼等に最も近く血縁及び部族上の息子が坐Lて居る。寡如の化粧がすんで了ふと女らはキャムプから僻殊な悲し 7∂4

(26)

みの嘆息を頚して近づいて来る。兜頭には寡癖が立って居る。彼女は木製の容器に頚飾を持ってゐる。一行は

Gamm。。aが位記してゐる所の場所迄やつて釆て、後者の後に近づく。それから各人の背後に立って寡婦は各人

の腕の下或は膝の上に容器を順次に挿込む。其問女らは高らかに泣き叫び男らは頚を下げて洗沸してをるが音は

たてない。むの容器が男の膝の上にのって居る問寡婦と、死者のAロuaに雷る他の女ら−疲女らは従ってGal mmOnaに封してMl畠の関係にある!はGammOnaを後方から抱擁するのである。これらの女は今問題と してゐる男らに話し掛けることを厳重に禁止されてる人々である。これが終るとGammOnaの息子達も同様に取

扱はれ、それからこれら二組の男子らは地上に坐ったまゝであるが他の男らは皆女らにつき従はれて墓場の方に

出掛ける。途牛ぼにして一隊は死者の長兄の長男に出合し立止る。彼は二つの頚飾を容由から取出し・死者の

Ok。已aや芥u−−iraやHtiaまたIrunderaやqmbirnaやA−−iraである各人に近付いて順次に抱擁Lて行く。

それから一つの頚飾を寡婦の頭上にもーつのを死者の妹の頭上にのせ、容器から皮銅製の輪を持ち出して之を死

者のAuira又はqmbaたりし女らの頭上に雀く。これらが経った時に一隊は誰もが楯及び槍投げを以て出掛け

る。一語も話されない∵育と言ふのはたゞ嘆きの聾のみである。故人が死んだ所のキャムプに先づ第一に訪問が

なされ、焼跡−土人が死ぬとそのキャムプは焼き彿はれるーの周囲を踊って弛もホア、ホア、ホア、ホ7ア と叫ぶ。男は左手に楯を持ったま1で右手で投槍を打振る。踊りと叫びとに加はつた女らは両手の掌を答申に打 振る。死者のMiaとUwinna及びMuraである女らは叫びに加はらす高聾に嘆いて地に打倒れるのである。十 分間近くも続く共編りが終ると仝陳は一竜りに墓場に赴いて指導者は主除から回路をなしてバ=アウ、バ=アウ 宗教儀紐k於ける杜骨的拘束牲 ア∂さ

(27)

と高聾に叫ぶ。主陳はホア、ホアと叫びながら行進し、投槍を茎中に唸らせ女らはその後について行くのである。 先着した指導者は基に最後のパ=アウと共に跳び上る。︵この中には精醒が逃れ去って荒々しく踊少出してゐる とされてゐるのだ。︶他の者は急いで彼について釆て居る。そして基の上或は周囲で前に後にホア、ホアと叫びな がら踊り始めなどする。そして足で新塞が常におほはれてゐる所の小枝を踏み付けて折る。すつかり折ってしま ふと踊りは止められて男らは女から分離して一方の側に行く。其間寡婦及び他の女らは跡を掃除する。これが済 むとMiaやUwinna及び呂uraの女らは今道中身低頭してある限りの聾で嘆いて居たのが亦しても身鯉を地 に打ちつけながら起ち上って基へ近付く。基の周囲に集って彼女らは戦闘用の梶棒で頭をなぐり又切って自身に 崖よ重傷を蒙らしめる。その傷口から血が基へ流れ落ちる。暫らくにして切傷をつくることを止めて出てゆく。 人々は寡婦が血縁及び部族上の姉妹らと出てきて基の頂きに穴を掘る問、荘重に片側に起立してゐる。穴が丁度 よい深さになると寡婦らは朗飾りを頭から取去る。この間女らはすべて高聾で叫び.頚飾りを引裂いて躇いて基 の中にこの造物を入れる。ついで皮紐製の環も木製容器も同様に廃置して土を盛る。終れば男らは基の上に数分 間中伏する。ついで寡婦と他のAnupの女らが最後にMiaやUwinna及びMuraの女らが氷って伏せる。 これが終ると寡婦は墓の傍に立ち白煙管泥を身髄から彿ひ落して、彼女の東が終結にあることを示す。彼女は そうしたいと思へばその後に餌前舶に狭い白い帯を塗ってもよい。これは彼女が未だ悲しんでゐるので現在は結 婚することを束にしてゐないことを死者に通知するのだと看倣されてゐる。 死者の感は基あ中に拭ってこれらの手拭きをすべて監税してゐるとされてわる。寡軒が粟の象徴である白色を 宗教儀鯉灯於ける配合的拘束性 グβ♂

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塗ったこと、頚飾りを作って壊したことからして、死盤はlヨらが正しく哀悼されたことを知る。頚飾りと共に彼

女は自身及び死者の縁者や友人らの悲しみを埋めて了ふことを知る。また男女の叫要は現在の様にして脅かされ

ることを欲しないし、また死者の藍が安住しないならば怒り出すであらうことを、彼は生前の経験からして認め

る等である。

婦人の死者の場合のUrpmi−chim︼i亡a の虚筐はこれとは多少とも違ってゐる。アリス・スプリングスで女が死

んでから十ニケ月後に行はれたこの祭儀を一例として記述してみる。

旭日が茸ると間もなく女らはすべてLukwurra即ち婦人キャムプに集合してくる。死者の母は煙管泥で身鰹を くまなく濃く塗少、また部族上の Mias︵母、母の姉妹︶も同じ様にするが塗る程度は少い。姉らは前額や胸に

自バンドをなし、父の姉妹らは身鰐や頭に黄土を塗りまた前額に白バンドをなす。悲しみのうちに十分問飴り相

互の抱擁に費された後、基へ行進する。暫く行くと一行は死者の血縁上の兄弟であつた男がl群の部族的兄弟を

連れて来るのに出合する。誰也が坐って又しても悲歌が開始さるる。翫飾りを入れた容器を持ってゐる姉らはこ

れを兄弟に渡す。兄弟は低所してこれを数分問胃に押しっけ、それから頭飾少の一つを取って母の頭におく。母

はこれを暫く被った後に容器に返し、これを姉らが取って各人の悲しみを鏡めるため順次に胃に押しっける。そ

して兄弟によつて頚飾りが取られ死者の部族上の二人の姉の頭にのせられる。一行は暫くの行程は兄弟のみに導

かれる。他の男らは後に残ってゐる。女の与pmikhimi〓aには如何なる男も出席することを許されない。 墓への途上で母は塵∼どつと地に朴れて、頭を物掘り棒で切ることをなす。その都度に二人の女によつて引上 宗教儀経に於ける杜骨的拘束性 7∂7

(29)

宗教俵醸に於ける社食的拘束性

二八

げられる。彼女らの義務は彼女が傷けすぎるのを妨げるにある様である。しかし基に辿りついた頃には、彼女の

身鱒は傷で埋まり鋭い三角の刺で蓋はれてゐる。彼女は墓に身を投げつけて・両手でその土を壊す。それから皆

の母の姉妹と父の姉妹とは基に身を投げ、母の姉妹は血が流れ出るまで身憬を傷つけたり打合ったりする。誰も

が物掘り棒を持ってゐて、これを自分の頭でも他人のでもお橘ひなしに用ひる。誰も打撃を趣け様ともしないで

却って待ってゐる様である。父の姉妹はひどく打榔はされるが傷けられはしない。暫くにして他の女らは Mias 及びUw−⋮を連れ去り、姉らが穴を掘ってそこに破った頚飾りをおく。又しても母の姉妹らは基に打伏して

互ひに頭を傷つけるっ虎幽に立ってゐる女らの悲泣や嘆聾は彼女らを狂愚に陥らし世るかに見ゆる。そして白煙

管泥の上から身鯉を通してくる血は彼女らを幽聾の様に児はしめる。液後に年老いた母のみが濁り臥したま1で

残される。全く疲労の極に達し基の上で扱かに悲しんでゐる。姉らが近付いて煙管泥を沸ひ落して母を引起すの

である。これが済めば祭儀は終末に来ったのであつて、基は均されて人々は立去るのである。

彼らは決してこれらの生理的な痛苦をーオーストラリア人は文明人ほどには痛感しないにしてもーー避けて

この Urpmi−chi−墓−a の祭儀に映席し棟とは考へない。女らは全くの狂愚になるまで精根を疲らし一切り傷け る方法に全く構はないかに見える。但し如何に狂愚になつてゐてもか1る場合生命に閲する部分は傷けず、切る へ三︶ のは眉、頭蓋及び肢に限られてゐる鮎で制限がある。 ス.ヘンサーはかくの如きオーストラリア人の粟の祭儀での自己拷問︵selご。r−ure︶自己載断︵aut?m邑atHOn︶ の現毅を説明して云ふ司ある限度まで.恐らく大きな限鹿まで・この過度の誇示はそれが部族の櫓暫であると云 7β3

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ふ串‡によつてゐる。またこれとしてあらゆる活動が慣習によつて東繋され制限されてゐる民族の想像力に封し 極めて糾い把持をしてゐるのである。黒人が仲間の侮蔑と嘲弄とに封するほど敏感になる何物もない、︰⋮・。ま た一部分は、充分な悲しみの計数が誇示されないとすると怒ったじ旨aゴa即ち死者の嚢から害されるとの土人 ︵四︶ の抱いてゐる恐怖が考慮されなければならない﹄と。 謹 ︵一︶ デュルケム、﹃宗教生活の原初形憑﹄︵拙薄、六五〇頁以下参照。︶ ︵二︶ 謬ldwinSpencera已the−ateF・J■GiuenいTheArunta・AStuせOf aSt。neAgePe旦e.−篭戸 この書は著者らの 以前の諸好著のうちでの誤謬を.訂正してゐる鮎からも注目きれねぼならぬ。 ︵三︶ lbid・︸p.怠り一念申 ︵四︶ Ibid・−p・怠。・ かゝる ceremOnia−custOmS はまたニュウジランドのマオり族に於けるtaコgiや、l﹁ソガレプァ諸島の罵hu 祭儀に於ても見出さるる。雨着は酷似してゐるので共通の起源であつて同じ心理畢的因子に支配されてゐると云 はれてゐる。こゝではpehuの慣習−唄ひ泣きまた貝で肉憬を切るところのーをTeRangi HirOa氏の好 ︵︼︶ 著﹃トンガレヴァの民族畢﹄によつて略述してみる。 璽に際しては、女らは非常に興奮して腕を小さい蛤見で傷け始める。これを彼女は悲愁のたゞ中でこの用途の ため赤来にも石にあてて尖らせたのである。切れば切るほど全く無調子に絶叫を賛し、男らも亦この乱暴な魔道 に参加してゐるのである。人々はこれを休止する前に、肢、腕、及び覇からも血が吹き出し、止めなく流れる憤. でこれを拭ひ去るにつれて頼で赤い血潮と混じて顛は全く物怖ろしい形相になる。 宗教儀祀に於ける社命的拘束性 ア占タ

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三〇 宗教儀絶に於ける牡骨的拘束性 この慣習は血縁者の禽合に細達する感情に敬するものであるらしい。身内の者が家庭又は地方的薬園に遣って くるとき、その出現は種々の感情を喚起する。彼は単に一個人たるのみでなく、密接に関係した集園の盲な抄 でノ全部貞は彼らの感じを表明するために集合Lなければならぬ。彼は共同祉倉によつて迎接されてでなければ 個人的挨拶を交へるわけにはゆかない。彼の到着は人々に彼が居る問に物故した縁者の記憶を蘇らし、共同社食に とつての彼等の損失と結びついた悲哀は再び喚び醒される。この訪問者は死者に浜の手向をなさねばならぬし、そ して全共同性が悲哀を分有するのである。死の糊に惹き起された感情状態は反復さるる。これこそ旅人が共同髄 と共に彼の哀愁を表明しうる最初の横倉だからである。通常な哀突と挽歌とが唄はれ、それに哀語と調子、すべ ての観念聯想が涙に於て生理畢的表現を見出す。悲しみの感情は強さを増して、働実の口頭的表現となり生理的 連動ともなるのである。事を叩き、遮ひに肉が切られて流血するに至って経頂に達する。土人の文化は悲しみの ■ 公的デモストレーションに封して何らの制限を課しないのみでなく、寧ろ自然で通常な行篤として奨励してゐる. 土人にとつては、悲しみは落涙と肉髄への生理的暴力が心的緊張を弛める唯一の手段であるほどの抑盤を胸中に 作るのである。 このpeFl祭儀はいま倍加減された形態で行はれてゐるが、現在ではもつと普通の用語はseくaである。人々 ︵ニ︶ は坐して流沸し手を叩くし、血はrasi貝で以て顛又は身恨を引掻き又は切ることによつて引田されるのである。 注 ︵一︶ Te RP扁ニIirOP︵ヮ声ヒuck︶いピー−nO−OgyOr TOngareくPこ讐ド ?テ︶ Hbid・−p・苫−¶¶、p試Sim・ ア〟∂

(32)

︵り︶ さらにわれらはデルマ師の報常によつてマーカサス鳥人の湖死者及び死者を失する祭儀を見よう。 怪我、堕落.病気の如き死を怖れしめろ株な郭ぺた轟件に際しては、屡上全納谷の縁者及び友人は現場に駆 け っける。急報はあらゆる方南にとび遠い縁者を探す。彼等は直ちに‖掛ける。女らは叫び泣き吼え乍ら。飛ぶ様 に両腕を拭げ、髪を引抜き頸を叩き、時には裸形となる。頼や腹や股にあらゆる種知の鋭利な器具で切傷をつけ る。彼女らは病者のところに請いてもこれをやめない。人は病者の鼻や耳に拾し辱を押へて魂が出て行︿のを防 ぐ。同時に眠てゐる生命を呼び離すためその髪を引張り班を引掻く。女らは踊ってーー∈蒜inei︹大牽での唄の意、女 が卿死者死者を失するに用ふる唄︶を唄ふ.その闇、址早そうしえない老婆らは叫ぶのだけは叫んで、たゞ踊りでは 苦悶してゐる態みたいに侍って飛び上る所作をやるだけであぇ。男らは一般に泣きも踊りもしない。しかし餓砲 を放って、患者の魂を魅しに来る精蚤どもを迫挽ふ。 時には唄ひ女らは需い娘らが唄を知らぬと云って∼苦はこの命令的なパントニムを恥じて − 失しないのぎ 叱る。デルマ師は賓際これらの唄や嘆きの中には何ら眞蟄なものがないと云ってゐる。二つの節の問で突然に情 緒を中止して喫煙し話し人‖ひ笑ひさえする。そして忽ちにしてもつと美しく唄ひ‖す。こり瀕死者を失すること ほど性格の虚偏についての正しい観念を輿へてくれるのは他にあるまいと師は嘆じてゐる。今やこの風習は次第 へ二︶ に磨れてゐると。 −王 ∈一P ︵二 RぎワSi︼鼠。n亡eごJ崇こむReごgien。u訂−−aganisn−e desヲどquisiensこじ声 ︵三︶ ibid・﹀P●−ふ−−ひ、pPSSiヨー 宗教俵蔭に於ける恥骨的拘束性 r〝J

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