北米の浄土真宗本願寺派日系二世の越境教育
一
-
1
9
3
0
"
-
'
1
9
5
0
年代における龍谷大学への留学を中心に一一
小 島
勝
は じ め に
本稿は,吉田亮・同志社大学文学部教授を代表者とする,平成2
0
-
-
-
-
2
2
年度科 学研究費補助金基盤研究(
C
)
r北米日系二世の日本留学に関する研究」にお 砂る研究分担者としての研究課題「日系二世の日本留学一龍谷大学を中心に 一」の研究成果の一部として執筆するものである。この科研は,2
0
0
7
(平成 19)年度に開始された同志社大学人文科学研究所第 2研究会の共同研究「北米 日本人移民のトランスナショナリズム」をもとに遂行されているが,北米の日 本人移民の越境活動の事績を追究することを主眼とし,移民の帰国・再移民・ 転移民,日系二世の留学・帰国などを視野においている。 私には,龍谷大学に所属していることからも,特に北米から龍谷大学や中央 仏教学院,京都女子高等専門学校や平安中学校などに「日本留学」した日系二 世の教育問題・事情に関する研究課題が与えられたが,これまでこの課題につ いて研究したことはなし暗中模索の心境で研究を開始することになった。 これまで,龍谷大学文学部・京都女子大学図書館・龍谷大学付属平安高等学 校・中央仏教学院・諦土真宗本願寺派国際部,サンフランシスコにお砂る同じ く本廟寺派のB
u
d
d
h
i
s
tC
h
u
r
c
h
e
s
o
f
Am
e
r
i
c
a
の本部やNa
t
i
o
n
a
l
J
a
p
a
n
e
s
e
American H
i
s
t
o
r
i
c
a
l
S
o
c
i
e
t
y
,ロサンゼJレスの本願寺派の別院や全米日系人 博物館などで関係資料を蒐集し,関係者へのインタビュー行ってきた。また,2
0
0
7
(平成19) 年8
月2
8
日と2
0
0
8
(平成2
0
)
年8
月 9日の研究会で2
回の発表 をしたが,本稿はこれらをもとにして中間報告的に記述・分析をしたいと思う。 したがって,より詳細な事績の蒐集と分析は,次稿を期したいと考えている。1.浄土真宗本願寺派の日系二世の日本留学の経緯
(1)日系二世の日本留学の事由 山下草園は,記述している。 「親達が其の子女を日本に留学させ度いと言ふ欲求の中には,調べてみれば 複雑多岐な原因と理由が包含されてゐるが,兎に角その親達自身の意志が,最 近の日本留学を俄然盛んにし,一種の流行的時代風潮化せしめる役目を司った ことに間違ひないのである。ずっと以前の大正末から昭和の初めへかけての日 系市民の日本留学は,誠に寂参々たるものであったし,留学生自身にしても 特殊の志望と,条件を持って居る者が殆んどであったので,必ずしも親達の意 志に依って動いて居る者が大部分ではなかった。それが過ぐる昭和 7年満州事 変直後を契機として,祖国日本に向って一斉に注がれた親達の好望は,より明 あたか せき 確化しより熱烈化し来って,其結果恰も堰を切った洪水の如き勢をもって日系 市民学生群を大挙日本へ送ること〉はなったのである。だから 1935年噴迄の彼 等第二世の日本留学は,その7割乃至8割迄が,親達の意志に拠って動いてゐ ると見る可き確実なる根拠があるのでる。」 「日系二世の日本留学」という事象が流布したのは,満州事変後の 1932 (昭 和7)年噴からで,近代日本が西洋化を超えて国粋的傾向を帯びる頃で、あった。 一世の高齢化にともなう将来への不安を基礎に,二世に日本的素養を身につけ た「日本人」であり続けることを期待ないし祈願しての「日本留学」であった と言える。 そして山下草園は,日系二世の「日本留学」が盛んになった事由として,次 の7
点をあげている。 すなわち,①円価低落の粛した経済的理由,②日本精神及び文化研究熱の勃 興に依る精神的理由,③就職上の必要から来る実際的理由,④日系市民の使命 遂行上の必要,⑤女子を中心としての家庭的要求に基づく理由,⑥宗教団体の 連繋的誘導に依る理由,⑦漠然とした憧れと時代風潮に依る理由,である。 もたら ①の「円価低落の粛した経済的理由」については r若し方面を変へて,第 二世をアメリカ内地に置かず,日本へ留学せしめるとすれば,最高学府に入れ でも,月々 70円乃至80円見当なら充分であるから,円価の安い場合それは 18~19弗から 25弗足らずで済むのである。若し米貨 50弗を出せば,優に 2 人を 日本の大学に学ばしめることが出来るから,結局家で遊ばせて置くよりも更に 経済的である」とされている。 -78一北米の浄土真宗本願寺派日系二世の越境教育(小島)②の「日本精神及び文化研究熱の勃興に依る精神的理由」については,.新 興の意気に輝く日本は,昭和
6
年末から同7
年へかけての上海事変及満州国出 現の事件に依ってその東洋に於ける盟主たるの存在を広く世界に認識せしめ, (中略)海外に於ける同胞には,祖国の有する色々のものに,一層の磨きと意 義が加はって急に輝き出したやうに受け取れたのである。(中略)それは只単 に自分自身の為に必要だと言ふだけのものではなくもっと第二世に必要なもの である。日本人の血を真直ぐに享け乍ら,生れ乍らにしてアメリカの市民であ り,将来善良なる市民として活動すべき日系市民は,此の日本民族としての粋 と誇りを継承してそれを米国伝来の長所に加味調和してこそ,東西文化の融合 せっし を実現することが出来,日米平和の模子となることが出来るのである」と解説 されている。日本精神の高揚は,国際的孤立と裏腹の関係にあったが,.日本 熱」が高まったのである。 ③の「就職上の必要から来る実際的理由」については,日本人移民のアメリ カ社会における地位の向上にともなって,.教育,教化,社会,医事,官庁, 商産,娯楽興業など,何処へ行っても日本語なり日本に関する知識の一端は必 要となって,事務員等の採用条件の一つにそれが加はるのが常識となって来 つ〉ある」現状であり,日本語学校も著しく復興してきているとする。「本場」 日本への留学の誘因になったのである。 いわゆる ④の「日系市民の使命遂行上の必要」に関しては,.アメリカに於ける所謂 初代同胞時代は,既に末期に在り,それと共に日系市民社会が将に実現の過程 に就いてゐる。即ち第一世から第二世への転換期にあるのであって(中略)第 一世から見れば,第二世達が,純粋なアメリカ人の中に自由に飛躍して,新境 地を拓いて呉れることは,何よりも先づ第ーに望む可きことには違ひないが, さりとて自分違第一世が開拓した地盤も完全に守って行って呉れなければなら せっし ない。そして精神的には,日米文化の仲介者であり,和平の槙子であって呉れ なければ困る。言葉を換へて言えば,第二世は第一世の粒々辛苦して開拓した 地盤を完全に継承し,之を守り,其の発展を助長し,更に自らは大和民族の長 所を享け継ぎ,日米文化の融合と,和平増進のセンターたる可きアメリカ市民 ゃ としての,その特殊性を充分に発揮して呉れるやうに,衷心から希求して歓ま ないのである。その為めには,第二世の英語力及びアメリカ市民性に併せて, 日本語学力を養ひ,あらゆる点からして正しき日本を知らしめなければならな い。そして大和民族の特質と其の価値を誤りなく享受さす可きである」という ことであった。⑤の「女子を中心としての家庭的要求に基づく理由」については i日本婦 すこぷ 人の持つ謙譲美は,アメリカ圏内の良家庭に於てきへ,頗る賞讃されてゐる時 代であるが,日系市民女性聞に於ても,アメリカ式に適度の日本女性美を調和 する事を以て理想として居る者が多い。(中略)斯うして婦女を中心としたる より良き家庭への建直しは,只単に日本語や,特殊の職業の勉学のみに限らず, もっと実際的要求と目的の許に,女子を日本に留学せしめること〉なったので ある」と説明されている。 ⑥の「宗教団体の連繋的誘導に依る理由」は本稿に最も関連しているが,次 のように解説されている。 「本願寺系学校は日本内地の同一系統の,大学校,男女専門学校,中等学校, 高等女学校,寄宿寮等と特別の連絡を執り,浄土宗は同じく浄土宗系のものと, 曹洞宗は日本の曹洞宗系と,日蓮宗系は日本の同系のものと連繋して留学生を 送ってゐる。基督教系統と,神道系統のものは, 1935年噴迄は,仏教系統の者 の連繋に見るやうな,密接な連絡団体を持って居なかったが,併し青山学院や 同志社大学等に入学する者は絶えたことがない。各派仏教中でも,本願寺派, 浄土宗派,日蓮宗派が,アメリカに於ては教勢旺んであり一方日本に於ても教 育設備に最も力を尽してゐる関係で,留学生の収容数も随って非常に多い。其 他の宗派で,未だ連繋的誘導を行ふだけの充分なる設備や,連絡団体の無き者 は,前記各派の何れかの学校を選ぶか,或はそれに関係する寄宿寮を選ぶもの す 〈 な ( 7 ) が砂くない。」 浄土真宗本願寺派や浄土宗,曹洞宗,日蓮宗,キリスト教,神道などの宗教 団体の活動が盛んになり,日本にある同系統の学校と連繋し,寄宿舎などを完 備して「日本留学」を推進したのである。本稿は,浄土真宗本願寺派の僧侶養 成からはじまった龍谷大学への留学について主として論じるが,他の宗教・宗 派も同様に各々の趣意をもって i日本留学」を推奨した。 そして,⑦の「漠然とした憧れと時代風潮に依る理由」に関しては,例えば, 漠然とした考えで二世を日本へ留学させる「親達の先づ第ーに考へることは, 自分は永住土着の積りであるが,若しか経済的に見込みさへ付くやうになった ら余世を日本で送り度いし,さうでなくても,一朝戦争でも突発するとか,又 は抜き差しならぬ仕事上の都合とか,家庭に関する理由とかで,何時故国に引 揚げなければならぬやうになるかも知れない。そうした場合に日本で教育して 置いたら非常に便利である」と。 このような種々の事由が連動して「日本留学」が盛んになったが,⑥の宗教 80 北米の浄土真宗本願寺派日系二世の越境教育(小島)
団体の教勢の維持ないし拡大も他の事由と関連し連動しながら推進されたと考 えられる。
(
2
)北米関教財団の設立と二世の開教使養成 本稿では,主として北米におげる浄土真宗本願寺派の日系二世の日本留学事 情について論じるが,仏教系の留学先としては r大学には東京に東洋大学と, 大正大学の2
つがある。京都には西本顧寺系に龍谷大学があり,東本願寺系に 大谷大学があって,この2つは既に之迄日系市民卒業者を出してゐる。東京の 立正大学は日蓮宗系統である。(中略)京都には真宗系の京都女子高等専門学 校及び岡高等女学校,中央仏教学院があり,中学校には真宗系の平安中学校, 顕真学苑,東本願寺系の大谷中学校等の外に立命館中学校もある。(中略)学 校の寄宿舎は,仏教系に武蔵野女子学院高等女学校の雪心寮,千代田女専及び 高女,鶴見高等女学校,京都の京都女子高等専門学校及び高女,龍谷大学,大 谷大学,中央仏教学院,平安中学,広島の安芸高等女学校に附属する各寄宿舎 などあり」とされているように, 1935(昭和10)年噴には全国的に多くの受げ 入れ機闘があったようである。また r本願寺系学校は日本内地の同一系統の, 大学校,男女専門学校,中等学校,高等女学校,寄宿寮等と特別の連絡を執 り」とあるように,本願寺派も「特別の連絡」をとっていたようである。この 実際については研究途上にあるが,本願寺派の場合を中間報告的に論じたい。 1929(昭和4)年に設立された「北米開教財団」が,日系二世の日本留学の 母胎となったと考えられる。この「北米関教財団」について,常光浩然は『北 米仏教史話一日本仏教の東漸一J([財]仏教伝道協会, 1973年)で,次のよう に記述している。 r1926年の開教使会議ならびに信徒会議において,北米開教財団に関する協 議をかさね,つづいて1
9
2
7
"
-
'
8
年にわたり,いろいろの調査研究をすすめた結 果, 1929(昭和4)年の開教使ならびに信徒会議において,資本金50万ドルの 北米開教財団の設立を議決した。しかも,会議開会中の1929年10月31日をもっ て,財団の創立総会とすることとなった。これ実に,北米に仏教伝道が開始さ れてから31年自にあたるのである。この財団設立の目的は,北米におげる仏教 百年の大計にもとづくもので,これによって,英語伝道のための英文仏典,英 文の仏教伝道用書籍の刊行,第二世の開教使養成,サンデー・スクールの教科 書編成,男女仏教青年会の指導機関の充実,孤独老衰の日本人の収容保護所開 設など,その他必要な関連事業の経営資金の源泉とするものである。内田暁融監督が辞任して帰国すると,佐々木千重,花田凌雲,楠原竜誓,佐々木芳照が 開教総長または代理に任ぜられたが,第
9
代の北米開教総長として,1
9
3
0
年 (昭和5年)竜谷大学教授増山顕珠が赴任した。増山は内田についで約7年間 総長として在任し,北米仏教団の中興の祖と何がれている」。 北米への「仏教」の開教の開始については,常光浩然自身も「明治2
6
年に米 国シカゴ市において万国宗教大会開会の節,釈宗演,芦津実全,土宣法竜,八 淵蝿竜の4
師が出席して大いに仏教を説き,仏教文書を頒布し,仏教入門者の あった時をもって,仏教が米国に伝来した最初とするのが妥当であろう」とし ているように1
8
9
3
年(明治2
6
年)のようであるが r浄土真宗」の開教の開始 となると,1
8
9
9
(明治3
2
)
年に「本願寺法主明知上人は薗田宗恵及び西嶋覚了 をサンフランシスコに派遣して開教に着手させた。これが本願寺の北米開教の 第一歩であるが,それはまた仏教各宗派に先がけたもので,北米における仏教 伝道の晴矢でもあった」とされる。したがって r北米に仏教伝道が開始され てから3
1
年目」というのは,後者を基準にしている。 寺川抱光編『北米開教沿革史~ (本願寺北米関教本部,1
9
3
6
[昭和1
1
J
年) に付録として「北米開教財団一設立の趣意並に定款一」がつりられているが, 「財団設立の目的は?J として,次のように記述されている。 でん 「望むなら先づ備へなければならぬ。北米仏教を悠久堅持し,進みて広く伝 化するには,何はさて第ーに確固たる財源がなくてはならない。即ち本財団の 完成こそ北米の仏教に磐石の礎を築く大業である。況んや既に時代は第一世の きざ 調落期に入り,のびて第三世が芽を萌しつ〉あるではないか。一世より二世へ, また さらに第三世へと進展しつh この三期に跨をかけて,北米仏教興亡の危機は せまってゐるのである。この重大危機に当り,我が教団が百年の大計を樹立せ まいしん んとして日夜遁進する。この趣意を他にして本財団設立の目的は決して他には ないのである。」 世代交代にともなう「北米仏教興亡の危機」の認識のもとに r北米開教財 団」がされている。また r為さねばならぬ仕事」として,次のようにある。 「先づ伝道および教育事業として,直ちに為さねばならぬ仕事は,差し当り 英文の仏典や仏書の編纂及び刊行である。(中略)次に百年の計は人を育成す で ん け るに知かずとか一一白人間に仏教を伝化するにも,第二世三世に仏種を深く植 えつけて行くにも最も必要なのは日英両語に熟達したる信者でなければならな い。この意味に於て早く我が教団では,最も信念も厚く徳望もある第二世並に すペ 白人を厳選した上,凡ての経費を貢いで故国に留学させ,仏教の研究と修養を 82 北米の浄土真宗本願寺派日系二世の越境教育(小島)積ましめ,然るのち北米の教団で活動せしめるのである。」 英文の仏典・仏書の編纂・刊行に次いで r二世の日本留学」が「為さねば ならぬ仕事」になっている。「日本留学」には r白人」も念頭におかれていた が r第二世三世に仏種を深く植えつげて行くにも最も必要なのは日英両語に 熟達したる信者でなければならない」とするところに,北米開教財団の事業と しての「日本留学」にかげられた並々ならぬ期待が感じ取れる。北米関教
3
0
年 にしてはじめて「北米関教財団」が設立され,喫緊の課題のひとつである「第 二世の開教使養成」にあたることになったのである。これらの課題の多くは, 一世の高齢化と二世・三世の成長・成人化,日本語優位から英語優位への日本 人社会の変化を主たる鉱脈としていたが,“英語を話せる開教使の養成"が, アメリカ社会で諦土真宗ないし仏教が生き延びる上で必要不可欠と認識される ようになった。英語も日本語も話せる二世を日本に留学させて,本山の膝元で しっかりと浄土真宗ないし仏教を学ばせ r開教使」の資格をもってアメリカ 社会で仏教伝道を行える人物の養成が希求されたのである。 ( 3) 角田昇の日本留学 折りしもその時,第 9代の北米関教総長として赴任してきたのが,龍谷大学 教授の増山顕珠であった。増山顕珠については,次のように記されている。 「昭和5年5月北米開教総長に任ぜられ,同年7月4日,家族を同伴して着 任した。翌6
年には,開教3
0
年記念 r北米仏教団教勢一覧』を発行し,その年8
月には,第二世開教使養成のため,サンタパーパラ仏青会員角田昇を日本に 留学せしめ,またロスアンゼルス仏教会を昇格せしめて,羅府本願寺別院と称 した。」 増山顕珠は,サンタパーパラ仏教青年会会員であった角田昇を最初の留学生 として日本に派遣したが,これを契機として“終生"と言っても過言ではない ほどアメリカから日本への留学生と関わりつづけることとなった。この全容に ついては今後の課題としたいがIi'教海ー澗』第8
3
5
号(
1
9
3
6
[昭和1
1
]
年8
月5
日付,教海雑誌社)には,増山顕珠の「北米の仏教を語る」が掲載されてい る。 本願寺の仏教会に在留同胞の8
割以上が属し,アメリカ・カナダを通じて独 立教会45カ所,支部協会約80,開教使70余名,日曜学校生徒数約 1万5千名・ 教師約1千名になっていて,第二世のための市民協会(会員数は男子約3千 名・女子約2
千名)もあるが,善良な二世三世の仏教徒の養成が課題として,「次の世に於ては,日本語を自由に話し,又自由に聞き得る日系人は少なくな り,日常の生活には,英語が唯一の言葉となります。故に仏教の説教講演も英 語が用ゐられねばなりません。依って北米の開教本部では,第二世にして優秀 な学生を,京都に留学せしめて,この準備を急ぎつ〉あります。
O
白人伝道の 方も近来盛になりまして,仏教東漸の釈尊の金言も実現しつ〉あります。数年 以前迄はIi日本から仏教が来て居るが,これは日本から移住した人々の聞に のみ行はれて白人聞に何等の感化力がない』と公言されたものですが,現在で は『白人が仏教に転宗しつ〉ある。これは牧師の怠慢の然らしめた所である』 と云った様な言葉が牧師の口を通して出て来る様になりました。現在養成し つ〉ある第二世の開教使が北米に帰ってくる様になれば,この伝道に更に拍車 をかけるものと信じて居りますJ (15
頁)と述べている。 英語による説教や「白人伝道」のために,二世の開教使の養成が不可欠と力 説しているが,北米開教総長を退任して帰国後も留学生の世話を情熱的に行っ たようである。 角田昇については,寺川抱光編「北米開教沿革史~ (本願寺北米開教本部,1
9
3
6
年)において,昭和6
(19
3
1)年r
8
月5
日一一第二世開教使候補者,角 田昇(サンタパアパラ仏青)氏を第l回日本留学生として送る」とあるし,前 出『教海ー澗』の第7
9
4
号(
1
9
3
3
(昭和8
)年2
月1
1
日付)にもr
本派北米仏 教会派遣の第二世として最初に留学を命ぜられし学生に角田昇君あり同君は昭 和7
年4
月龍谷大学専門部に入学し成績操行共に優秀にて将来を嘱望されつ〉 あるJ (19
頁)の記事が見られる。 また,北米仏教団C
B
u
d
d
h
i
s
tC
h
u
r
c
h
e
s
o
f
A
m
e
r
i
c
a
)
が1
9
9
8
(平成1
0
)
年 に発行したIiBUDDHISTCHURCHES OF AMERICA-A L
e
g
a
c
y
o
f
t
h
e
F
i
r
s
t
1
0
0
Y
e
a
r
s
一』と題する1
1
?
周年記念誌には,r
T
s
u
n
o
d
a
,S
h
o
d
o
N
o
b
o
r
-UJ として経歴が掲載されている。それによると,1
9
1
3
年2
月2
6
日にカリフォ ル ニ ア 州 のOxnard
に生まれ, 1931~1932年に SantaB
a
r
b
a
r
a
S
t
a
t
e
T
e
a
c
h
e
r
s
'
C
o
l
l
e
g
e
で学んだ後,1
9
3
8
(昭和1
3
)
年3
月に龍谷大学を卒業。1
9
3
4
(昭和9
)年5
月1
9
日に得度をし,1
9
3
8
(昭和1
3
)
年5
月2
4
日に「教師」 資格を取得して1
9
3
8
(昭和1
3
)
年1
2
月2
2
日に「帰国」し,1
9
3
9
(昭和1
4
)
年6
月1
5
日に「開教使」の資格を取得している。 龍谷大学で学んでいる聞に得度をして「角田昇道」となり,卒業後に「教 師」資格を取得して r帰国」後に「開教使」になっている。このことから, 本山の膝元である龍谷大学に学んで r得度」と「教師資格の取得」が可能に - 84ー北米の浄土真宗本願寺派日系二世の越境教育(小島)なり,北米仏教団が期待する「開教使」になったことがわかる。ということは 裏を返せば,本山ででなければ「得度」と「教師資格の取得」はかなわず,北 米といえども海外の開教区での「得度」と「教師資格の取得」ができなかった ことを意味する。現在は北米開教区でもこのことを可能にする方針に転じられ る過程にあるようであるが,このような本山の方針は今日なお継続しているの である。浄土真宗本願寺派の日系二世の日本留学の基本的な事由は,ここにあ ったと言えよう。 前掲の『海外開教要覧』によれば,角田昇道は, 1939(昭和14)年10月24日 から1949(昭和24)年4月1日までサンフランシスコにあった米国仏教団本部 (Nathai Headquartem)(p録事事務扱を務め,この間の1940(昭和15)年 7月30日(あるいは9月12日)から1949(昭和24)年4月1日までサンフラン シスコ仏教会に駐在したことになっている。そして,同日からは山東三州仏教 会 (TRI-STATE BUDDHIST CHURCH)に駐在している。「開教使」の資 格を取得後,北米開教の要職にあったと見られる。
(
4
)久間田勝の日本留学 前出の常光浩然『北米仏教史話一日本仏教の東漸一』の増山顕珠に関する記 述の中に r昭和7年,全米の仏教青年会の大会を催し,同年12月には,シア トノレ仏教青年会員久間田勝を第二世間教使の候補者として,日本に送り,米国 仏教の基礎を作ることに力をそそいだ」とある。また,前出の寺川抱光編『北 米開教沿革史』によれば, 1932(昭和7)年 r12月27日一沙市仏青久間田勝氏, 第二世開教使候補として日本留学のため出帆」の記事が見られる。『教海ー澗』 第794号 (1933[昭和8]年2月11日付)にも r今回第2回留学生として久間 田勝氏が1月14日神戸入港の氷川丸にて来朝(中略)フランクリン・ハイスク ール修了後ワシントン大学を中途退学し真宗仏教学を研績の目的にて留学せし ものに付角田君と同じく龍大教授松陰了諦氏の指導の下に山科北辰寮に入寮し 多分来る4月龍谷大学に入学するならんといふJ (19頁)とある。 北米開教総長の増山顕珠は,角田昇に次いでシアトル仏教青年会会員の久間 田勝を「第2回留学生」として派遣したのであった。前出の WBUDDHIST CHURCHES OF AMERICA.Iにも, rKumada Kenryo MasaruJとして,1908年7月14日にワシントン州シアトルで生まれ, 1927~1929年にワシントン 大学に学んだ後, 1931年1月にWilson'sModern Business Co
l
1
egeを卒業。和10)年5月16日に得度をして, 1938(昭和13)年12月21日に教師, 1939(昭 和14)年8月2日に開教使になっているのである。そして, 1989(平成元)年 5月6日に京都で死去とある。角田昇と同様に,日本留学中に得度をし,教師 資格を取得して,帰国後に開教使になっている。 帰国後の経歴について「海外開教要覧』では,-久間田顕了」として, 1940(昭和15)年5月31日から1955(昭和30)年9月1日まで羅府(ロサンゼ ルス)別院の参勤事務扱, 1959(昭和34)年8月31日から1961(昭和36)年8 月31日まで同副輪番を務めたが,そしてこの間の戦時中の1943(昭和18)年か ら1945(昭和20)年8月までは,ユタ州のオグデン (Ogden)仏教会に駐在し ている。そして, 1955(昭和30)年9月1日から1959(昭和34) 8月31日まで カリフォルニア州サンノゼ別院に参勤・駐在した後, 1961(昭和36)年8月31 日から1970(昭和45)年7月23日までシアトル別院の輪番を務め, 1970(昭和 45)年9月1日から1973(昭和48)年3月31固まで米国仏教団日本事務局(京 (25) 都市下京区堀川通り西本願寺海外部)の事務局長になったのである。 羅府別院の参勤事務扱からオグデン仏教会駐在を経てサンノゼ別院に参勤・ 駐在。再び羅府別院の副輪番を務め,シアト/レ別院の輪番を終えて,西本願寺 海外部の事務局長に就任したと見られるが,角田昇と同様に北米関教進展の要 職にあったと言える。 ところで"教海ー調』第794号には「ワシントン大学を中途退学し真宗仏教 学を研鎮の目的にて留学」とあるのに, "BUDDHIST CHURCHES OF
AMERICA~ では Wilson's Modern Business Collegeを卒業してから,龍谷 大学に留学したことになっている。後者は本人の申告にもとづいているので, 後者の方が正しいと思われるが,今後の確認事項としたい。いずれにせよここ で注目されるのは,①「米国仏教の基礎を作ることに力をそそいだ」という文 言と,②角田昇と同じく松陰了諦・龍大教授の指導の下に山科北辰寮に入寮し たという事実であろう。 ①については,先述したように,-日本留学」は北米仏教団がアメリカで生 き延びるのに不可欠の使命を帯びており,当時の北米開教総長の最重要課題の ひとつであったことが思量される。また②からは,松陰了諦・龍谷大学教授が このことに大いに尽力したことと留学生の寄宿寮が設けられたことがわかる。 ( 5 )留学生寮の設置 「山科北辰寮」に関しては,-寄宿舎建築趣意書」なる文書が,カリフォル - 86 北米の浄土真宗本願寺派日系二世の越境教育(小島)
ニア州ロサンゼルスにある「全米日系人博物館
(Zhe
JAPANESE
AMER-ICAN NATIONAL MUSEUM
)Jに残っている。この趣意書は,以下のようである。 「我が北米教団は北米仏教の将来を考慮して昨年角田昇君を京都に留学せし めました。次いで今春の会議では第二次の留学生を派遣する事が決議され唯今 は折角人選中であります。我が教団の留学生以外に私費留学の希望者もありま しばしば して,私共は屡之が教育に関して種々な依頼を受げる事があります。今後日 本への留学生は年々増加する傾向にあると思はれますが唯だ下宿屋に止宿せし める丈では何だか物足りない感じがします。小規模でも第二世の為めの寄宿舎 を建築して之が教養に便利な設備をしたいと存じます。大方諸君何卒之の趣意 に御賛同下さい。
0
計画見積 一 , 場 所 京 都 市 山 科 町 京都駅より片道12分汽車賃片途10銭。 一,宅地北海道寄宿舎の宅地の空地を無料借用す。 一,費用 日本金約2
千円 若し募金2千円以上ある時は宅地を別に購入するか又は維持費基金 とす。 一,維持費寄宿舎には宅地税も家屋税も不要なり,新築数年後より少額 の修繕費を要すべし。 一,所有者寄宿舎の所有者は北米関教々務所或は北米開教財団とす。O
御芳名記録 寄宿舎の御芳名は寄宿舎の一室仏聞に木札にて記録し永く感謝の意を表す。O
設計図 別紙の通りJ (句点・読点は適宜つけた=筆者注)。 設計図については割愛するが, 1階は 6畳 1聞に 4畳半 2閉それに 3畳 1聞 になっており 2階が 8畳 1聞に 6畳 2聞になっている。山科にある,本山の 北海道寄宿舎の空き地を無和階用しての寄宿舎の建築計画であった。この計画 が立てられた時期は r第二次の留学生の人選中Jとあるから, 1932 (昭和7) 年頃と思われるが,前掲の寺川抱光編『北米関教沿革史』にも r北米教団在 日本寄宿舎建築の件 (1933年度)Jとして, r (イ)増山総長も手許にて既に募 金中の事なれば,右は総長自身の事業として経営して頂き,処理一切も亦総長 に一任のこと (ロ)各開教使は出来得る限り之を援助する事」の記事が見られる。 また,
I
F
B
U
D
D
H
I
S
T
CHURCHES OF AMERICA
.JJの編纂に中心的にか かわったRyoMunekata氏から「和光寮」が京都市内にあったことをお聞き しF
I
教海ー澗』第7
9
8
号(19
3
3
年6
月1
5
日付)には「北米留学生寄宿舎上棟 式」と題する記事がある。 この記事は i洛西本派角坊別院の東方に建築中の寄宿寮は,北米仏教団派 遣留学生を収容し,松陰龍大教授を寮監とし,真宗精神を基調として人格教育 を施しつ〉あるが,増山総長の寮舎設置の企画に本山当局も砂からず好意を寄 せ,別院境内の東方に1
3
0
坪余の地を草して建坪4
0
坪余の2
階建寮舎を新築中 の処, 6月5日午後4時より上棟式を挙行せり。当日参列の来賓は本山より各 執行,各部長,龍大側より花田学長,湯次,藤音両学監,教授等5
0
余名を始め 龍大在学の留学生も出席(中略)階下に仏間と食堂等7室,階上に8室を設け, 15~16名余の収容力あり,落成は 8 月中句ならんと J(
6
頁)となっているが, 場所も部屋の間取りも異なるので,これを「山科北辰寮」と見なすことはでき ない。したがって,この記事は「和光寮」と思われるが,両者の関係も含めて 留学生寮の実際については今後の研究課題としたい。 いずれにせよ,北米仏教団の意向を受けて増山顕珠と松陰了諦がこのことに 大いに尽力したことは,確かなようである。松陰了諦は,増山顕珠の後任とし て1
9
3
7
(昭和1
2
)
年1
2
月から1
9
4
1
(昭和1
6
)
年3
月まで第1
0
代の北米開教総長 を務めたが,日系二世の日本留学に貢献した詳細についても今後の研究課題と したい。2
.日本留学したその後の浄土真宗本願寺派の日系二世
日本留学した、浄土真宗本願寺派の日系二世として,角田昇と久間田勝につい て記述したが,その後にはどのような人々がいたのだろうか。第2
次世界大戦 前から戦後間もなくの1
9
5
0
年噴までの期間に限定して,どのような人々がどの ような動機で日本留学したのかを考察してみよう。 前出の山下草園著の『日系市民の日本留学』には学校別の留学生の名前が掲 載されていて i龍谷大学(京都) 吉上岩三郎,久間田勝,角田昇(加州), 丸谷房人(ヒロ )Jとある。また,前出のI
F
B
U
D
D
H
I
S
T CHURCHES OF
AMERICA
.JJには i龍谷大学」に学んだ開教使として,次のような人々が掲 載されている。(1)寺尾英雄, (2) 石浦入遁, (3) 辻顕隆, (4) 藤本芳彦, ( 5 )増永正公, (6) 広田徹然, (7)多田覚英, (8) 猫田円整, (9) 竹本 - 88 北米の浄土真宗本願寺派日系二世の越境教育(小島)明雄。そして r中央仏教学院」には(10)永谷清人の名が見られ r築地仏教 学院」には (11)柿本徹心が学んだ。また「東京大学」には (12)佐々木千洋
と(13)海野大徹が r同志社大学」には (14)小野明信が学んだとある。 吉上岩三郎については, II"
BUDDHIST CHURCHES OF AMERICAJJ
に名前は挙がっているが,経歴は掲載されていなし3。また,丸谷房人については 「ノ、ヮイ」からの龍谷大学への留学である。永谷清人
(Na
g
a
t
a
n
i
,K
i
y
o
t
o
S
e
i
j
i
n
)
は, 1911年にカリフォルニア州に生まれ, 1937(昭和12)年3月15日 に中央仏教学院を卒業しているが,同年2月15日に得度,同年6月12日に教師 になっているし,柿本徹心(
K
a
k
i
m
o
t
o
,T
e
s
h
i
n
T
o
r
u
)
は, 1915年に同じく カリフォルニア州に生まれ, 1949(昭和24)年から1951(昭和26)年まで築地 仏教学院に学んでいる。 佐々木千洋(
S
a
s
a
k
i
,La Verne S
e
n
y
o
)
は, 1930年にカリフォルニア州ス トックトンに生まれ,祖父の佐々木千重は初代のカナダ開教使であり北米関教 総長も務めたが, 1952年9月サクラメント州立大学を卒業した後, 1953(昭和 28)年から5
年間,東京大学大学院でインド哲学を主として学んで修士号を取 得した。 1965年には,パシフィック大学の修士号も取得したが, 1952(昭和 27)年2月22日に得度をし, 1957(昭和32)年8月27日に教師, 1958年7月1 {お} 日に開教使になっている。龍谷大学ではなく東京大学を選んだ理由は r宗派 に限らず,広く日本仏教を学びたかったJ(佐々木千洋師談話)と語っている。 戦後は,浄土真宗本願寺派に限らず,より広く仏教,さらにはキリスト教まで 学ぶ二世が増えていったようである。得度がアメリカでもできたと言うが,教 師資格は東京大学大学院在学中に取得した。東京大学大学院在学中には r築 地の中央仏教学院でも学んでいたJ (佐々木千洋師談話)という。 海野大徹(Unno
,T
a
i
t
e
t
s
u
)
は, 1929年に福岡県に生まれ1961年にアメリ カに帰化したが, 1951年にU
.C
.
B
e
r
k
e
l
e
y
を卒業した後, 1956(昭和31)年 に東京大学大学院で修士, 1968(昭和43)年に同大学院で博士の学位を取得し ている。 1951(昭和26)年9月15日に得度をし, 1955(騒和30)年9月29日に 教師, 1957(昭和32)年8月19日に開教使になっているが,いずれも日本留学 を契機に果たしたようである。 小 野 明 信(
O
n
o
,A
k
i
r
a
M
y
o
s
h
i
n
)
は, 1917年にコロラド州に生まれ, 1946(昭和21)年に同志社大学の法学士になっている。 1957年から1958年には,F
r
e
s
n
o
S
t
a
t
e
C
o
l
l
e
g
e
のM
a
s
t
e
r
sprogram
にも学んだが, 1954年10月1
3
日に 得度をし, 1954年11月19日に教師, 1957年1月18日に開教使になっている。本稿では紙幅の関係から,北米から1950年代までに「龍谷大学」に学んだ 人々に限定して論述し,ハワイからの留学生や龍谷大学以外の機関への留学の 実際については,次稿に譲りたい。
ではこれから順次,主としてIf'BUDDHIST CHURCHES OF
AMER-ICAn
を参照しながら,これらの人々の日本留学の実際を紹介し考察してみよつ
。
(1)寺尾英雄 (Terao,Eiyu Hideo)は, 1913年にカリフォルニア州ユニ オンアイランドで生まれ, 1994年に同州パークレイで死去している。 1938(昭 和13)年3月に龍谷大学を卒業したが, 1935(昭和10)年8月16日に得度をし, 1936(昭和11)年7月18日に教師資格を取得している。前掲の『海外開教要 覧』によれば, 1938(昭和13)年5月19日から翌年の4月1日までサンフラン シスコ仏教会,同日から翌1940(昭和15)年4月30日までカリフォルニア州の オークランド仏教会,同日から1942(昭和17)年5月9日までワシントン州の シアト/レ仏教会, 1949(昭和24)年4月1日から1961(昭和36)年1月15日ま での同州のスポーケン仏教会,同日からカリフォルニア州のアラメダ仏教会に 駐在している。龍谷大学卒業直後から,各地の仏教会で活動した事績が見られ るのである。 ただ,寺尾英雄は6歳の時に両親とともに当時の広島県安佐郡東野町に“帰 って"おり(奥様である寺尾光子様からの聞き取りによる=筆者註),ここの 学校から龍谷大学に入学し,松陰了諦の影響を受けて北米での開教を志したと 見られる。したがって r留学」とは言えず「帰米二世」であるというのが大 方の見解であろう。「広義の留学」に含める余地もあろうが,これについては 今後の検討課題とし,本稿ではこの場合は「越境教育」ではあっても「留学」 と考えるのは閤難との見解に立って論を進めたい。以下についても,明らかに 「留学」をした者と今後に確認を要する者が含まれているが,当面は「越境教 育」として一括して紹介・分析し,より詳細な記述・分析は今後を期したい。 ( 2 )石浦入遁(Ishiura,Newton)は, 1918年にハワイ州カウアイで生ま れ, 1938(昭和13)年に九州学院を卒業して同年から1941(昭和16)年まで龍 谷大学に学んだ後, 1948年にはNewYork Union Theological Seminaryに 学んでいるo そして,龍谷大学在学中の1938(昭和13)年11月18日に得度をし, 1941(昭和16)年7月3日に教師資格を,同年の7月15日に開教使資格を取得 (38) している。 その後の経歴については,同じく『海外開教要覧』によれば, 1958(昭和 一90ー北米の浄土真宗本願寺派日系二世の越境教育(小島)
33)年12月3日からカナダのトロント仏教会に駐在し, 1968 (昭和43)年6月 1日からカナダ仏教団本部の開教総長事務扱,翌1969 (昭和44)年6月1日か ら岡本部の開教総長になっている。ここでは,第2次世界大戦前後のことは不 明であるが,カナダ仏教会の発展に中心的に活動したと考えられる。「トロン ト仏教会」に関して,常光浩然編『日本仏教渡米史~ (仏教出版局, 1964[昭 和39J年)に,次のような記述がある。 「この仏教会は目下,開教使石浦入道が駐在して,メンバーも五百余戸にて, カナダ最大の仏教会である。会堂もカナダーのモダンさで,大きさも最大であ るが,サンデースクーノレ教室が狭いので現在,会堂につづいて
8
教室を新築し, 内外とも最も充実した仏教会となっている。また,特筆すべきは,白人がかな り集まり,青年会々長も白人である。日本語学校は,表面上は別の組織である が,役員や教師は全部仏教会がつとめている。」 石浦入遁の尽力もあって, トロント仏教会が「カナダ最大の仏教会」になっ ている。そして r青年会々長も白人」というところに,日系二世の日本留学 の貴重な成果が見られる。 ( 3 )辻顕隆 (Tsuji,Kenryu Takashj)は, 1919年にカナダのプリティッ シュ・コロンビアに生まれ, 1964年にアメリカに帰化したとある。教育歴とし ては, 1937年"-'1938年にパンクーパーのブリティッシュ・コロンビア大学に学 んだ後, 1941 (昭和16)年10月に龍谷大学を中途退学し, 1945年から1946年に トロント大学に学んでいる。そして,龍谷大学在学中の1941 (昭和16)年3月 15日に得度をし,同年11月10日に教師, 1958年12月3日に開教使になっている。 『海外開教要覧』には, 1958 (昭和33)年12月3日からサンフランシスコ仏教 会に駐在し, 1968 (昭和43)年6月1日から北米関教総長とある。 ま た , 前 掲 の 常 光 浩 然 『 北 米 仏 教 史 話 一 日 本 仏 教 の 東 漸 一 』 に は , r1940 (昭和15)年3月3日,第1回カナダ仏教団留学生として辻隆に,学費 補助35ドルを送金することに決定」とある。「第1回カナダ仏教団留学生」と して,学費の補助を受けているのである。そして,翌1941 (昭和16)年11月1 日には r辻顕隆が本派仏教会開教使として駐在」の記述があるので,この年 の10月に龍谷大学を中途退学してすぐにカナダ仏教会に駐在したことになるが, これまで見てきた経歴によると,まだこの時点では教師も開教使の資格ももっ ていないことになるので今後の検討課題としたい。 いずれにせよ,辻顕隆は日米開戦のあおりをまともに受けることになる。 r1941年12月7日,日米開戦の直後,ラジオを通じて仏教関係の活動は一切禁止された。そして平原隆智,立花連心,片津俊雄,朝香栄観,辻顕隆の5名 の開教師は,信徒とともに廃櫨の街に軟禁された。 1945年8月終戦とともに, 大暗黒時代がやって来た。すなわちカナダ政府は,半強制的に奥地にあった
2
つの仏教会堂を残して,他の全部の仏教会堂を売却してしまったのである。そ して1947年,生田開教使と,カナダ国籍を持つ辻開教使とを除き,全部の開教 師に帰国命令が出た。幸い奥地にあった生田,河村の2開教使は,とくに信徒 の請願運動の結果,送還だけは免れた。かくて会堂は売られ,開教使は帰国さ せられた時代になったが,そのため信徒と残った開教使が一本になって,猫田 円整,西村了観,生田享成らの二世開教使が活動する状況になっている。」 辻顕隆はカナダ国籍をもっていたためにカナダに残ることができ,後述する 猫田円整らとカナダにおりる仏教会の復興に寄与することになる。 常光浩然著『北米仏教史話一日本仏教の東漸一』によると, r1942年(昭和 17年) 3月頃から,カナダ政府の方針によって日本人は西海岸から百哩東部に 移動を命ぜられる。(中略)この間,本派仏教会会員は辻開教使と官憲と種々 交渉の結果,辻開教使・杉浦昭子の両名が日本人最後の移動まで世話をなし, 1942年10月29日,日本人全部を見送り,本派仏教会を閉じてご本尊を奉戴し, サンドンに移動した」と記述されている。「カナダ仏教団は北米仏教団から独 立してから1936年にいたって,はじめて専任の初代監督として青木善雄が来任 し,在任5年にして,ハワイ,ヒロ別院輪番に転任した。戦前は12の仏教会と 8名の開教使があった」とされるが,青木善雄の後を継いでカナダ仏教団を支 えたのが辻顕隆であったと言えるo ( 4 )藤本芳彦 (Fujimoto,Hogen Y oshihiko)については, 1919年にカ リフォルニア州のBrawleyで生まれ, 1982年に同州のサクラメントで死去し て い るo 1940年 6月にSanta Barbara State Col
1
egeを卒業した後, 1946(昭和21)年9月30日に龍谷大学を卒業した。そして, 1942(昭和17)年 3月15日に得度をし, 1943(昭和18)年9月25日に教師, 1953年6月28日に開 教使になっている。 『海外開教要覧』によれば, 1953(昭和28)年6月29日から1954(昭和29) 年2月1日まで羅府別院に駐在し,同日(あるいは1955[昭和30J年4月1 日)から1959(昭和34)年 7月 1日 ま で カ リ フ ォ ル ニ ア 州 の プ レ ス ノ (Fresno)別院に駐在。 1963(昭和38)年9月1日から米国仏教団本部に駐 在して, 1967(昭和42)年7月1日から1968(昭和43)年2月1日までカリフ オルニア州にあった仏教研究所(INSTITUTEOF BUDDHIST STUDIES)の主事を務めた。 ( 5 )増永正公 (Masunaga,Shoko)は, 1915年にカリフォルニア州のサ クラメントで生まれ, 1991年に同地で死去している。 1936年にVentra Col -legeを卒業し, 1942~1945年に Japan Foreign Office Schoolに学んだ後, 1947(昭和22) 年に龍谷大学大学院で修士号を取得し,さらに 1952~1953年に はワシントン大学で, 1962~1969年には San Meteo Collegeで学んでいる。 そして, 1939年12月15日に得度をし, 1941年に教師, 1952年3月24日に開教使 になっている。 龍谷大学に学ぶ前に得度をして教師資格を取っていることが疑問であるが, 今後の検討課題としたい。「海外開教要覧』では, 1949 (昭和24)年4月1日 から1960 (昭和35)年9月25日までシアトル別院に参勤・駐在し,同月20日か ら1969 (昭和44)年9月1日までカリフォルニア州のサンマテオ仏教会に駐在 し,同日から羅府別院の副輪番を務めたとある。シアトル別院からサンマテオ 仏教会への異動の日付について,どちらかが誤りと見られるが,今後確認した し ~o ( 6 )広田徹然 (Hirota,Tetsunen)は, 1928年にカリフォルニア州サン タマリア (SantaMaria)に生まれ, 1949 (昭和24)年3月に龍谷大学を卒業 している。 1947 (昭和22)年2月15日に得度をし, 1948 (昭和23)年10月16日 に教師, 1958年9月1日に開教使の資格を取得している。自坊は広島県の蓮生 寺になっており, 1949 (昭和24)年6月9日にアメリカに帰国したとされるが, 龍谷大学以外の学歴が記載されていないことから,早くに広島県に“帰郷"し ていたと見られる。したがって,先述の寺尾英雄の場合と同様 r越境教育」 を受けたが「留学」ではなかったと一応考えたい。 『海外開教要覧』を見ると,開教使資格取得の直後の1958 (昭和33)年12月 3日から1960 (昭和35)年1月1日までオレゴン州のオレゴン仏教会に駐在し, 1963 (昭和38)年6月1日から1965 (昭和40)年6月30日までイリノイ州の中 西部仏教会に,同日から1972 (昭和47)年9月1日までオレゴン州のアイダホ オ レ ゴ ン 仏 教 会 に , 同 日 か ら カ リ フ ォ ル ニ ア 州 の ワ ッ ソ ン ピ ル (Wat -sonville)仏教会に駐在している。 (7)多田覚英 (Tada,KakuyeDは, 1930年にカナダのパンクーパーで 生まれ, 1948 (昭和23)年から1952 (昭和27)年まで龍谷大学に学んでいる。 そして, 1954年から1955年までカナダのトロント大学で学修し, 1958年には同 じくカナダのSir George Williams Collegeを卒業。 1959年から1960年には
De Paul Universityに学んでいる。また,龍谷大学在学中の1951年3月15日 に得度をし, 1955年4月22日に教師資格を取得している。 「海外開教要覧』では, 1959(昭和34)年2月 1日からアメリカ・イリノイ 州の中西部仏教会に, 1968(昭和43)年9月 1日からはカリフォルニア州のリ ードレー (Reedley)仏教会に駐在したことが記されているが,父親の多目覚 哉は, 1929(昭和4)年7月17日から1934(昭和9)年1月16日までパンクー ノf -仏教会に,同日から翌年4月 1日まで同じくカナダのピクチャービュート (Picture Butte)仏教会に駐在した。 多目覚英師は,-パンクーパーの幼稚園へ行ったが 7歳の時に兵庫県龍野 の正覚寺に帰郷し,石海尋常高等小学校と龍野中学校を終えてから父の勧めで 龍谷大学に入った。そして,父との関係から辻賢隆先生のもとでお手伝いをし たが,辻先生の影響を大いに受けた。シアトル時代に久間田顕了先生のもとで 働いたこともあるo トロント大学では文学部に学び, Sir George Williams CollegeはYMCAの創始者が創立した学校でプロテスタントの学校であった が,社会学や心理学を学んだ。また, De Paul Universityはカトリックの学 校で,浄土真宗以外に広く宗教を学べたことはよかった。教師資格は本山から 特別にいただ、いたJ (多目覚英師談話)と語っている。シアトルでも開教に従 事したようであるが,カナダ仏教会から派遣された留学生ではなかったものの, 結果的には龍谷大学で学んだことが後のカナダ・アメリカでの開教の礎となっ た。 幼少期に「帰郷」しているので,この場合も「留学」ではなく「越境教育」 を受げたと考えたい。 ( 8 )猫田円整 (Nekoda, Ensei Hitoshi)に関しては, 1919年にパンクー ノTーで生まれ, 1950(昭和25)年に龍谷大学に学んでいる。そして, 1960年か ら1963年までBCAStudy Center(後のIBS)とPacificSchool of Religion に学んだ。龍谷大学在学中の1950(昭和25)年6月15日に得度をし,同年8月 30日に教師,同じく同年12月16日に開教使になっている。『海外開教要覧』で は,カナダのアルパタ教区 (AlbertaDistrict)に1950(昭和25)年12月16日 から1963(昭和38)年7月26日まで駐在した後,同日に米国仏教団本部に駐在 したことが掲載されている。 猫回円整師によると,-トロント仏教会にいた時,辻賢隆・カナダ総長から “仮の得度"である『補教士』の資格をいただいて英語伝道に従事していたが, 二世開教使の養成という辻先生の方針があり生田真成先生のお勧めもあって, 94 北米の浄土真宗本願寺派日系二世の越境教育(小島)
1
9
5
0
年5
月から1
0
月まで,カナダ教団から奨学金をいただいて西村了観師とと もに龍谷大学専門部に学んだ。当時京都女子大学学長であった増山顕珠先生の ご家族らとともに和光寮に寄宿していたが,増山先生から夜に3時間半から3 時間直接学ぶこともできた。この間,京都女子大学で英語を教える機会もあっ たが,マッカーサーの指令で帰国することになったJ (猫田円整師談話)といつ
。
猫田円整師は後年,日校部部長も務め日曜学校のカリキュラムの編成などに 活躍することになるが,龍谷大学に籍をおき,増山顕珠と子弟の関係にあった ことが基礎になっている。(
9
)竹本明雄(Takemoto
,A
r
t
h
u
r
Akeo Meiyu)
は,1
9
2
1
年にカリフォ ルニア州のプレスノ(
F
r
e
s
n
o
)
で生まれ,1
9
4
5
年6
月から1
9
4
7
年6
月までLos A
n
g
e
l
e
s
C
i
t
y
C
o
l
l
e
g
e
に学んだ後,1
9
5
0
年6
月にSanF
r
a
n
c
i
s
c
o
S
t
a
t
e
C
o
l
l
e
g
e
で哲学・言語・人類学などを学修して卒業。1
9
5
0
年から1
9
5
1
年までu
.
C
.
Berkeley
に学んだ後,1
9
5
5
(昭和3
0
)
年に龍谷大学大学院で修士号を取得 し て い る 。 そ し て , さ ら に1
9
5
7
年 か ら1
9
5
9
年 ま でS
t
a
t
eC
o
l
l
e
g
e
o
f
Los
A
n
g
e
l
e
s
,1
9
6
0
年から1
9
6
1
年までS
t
a
t
eC
o
l
l
e
g
e
o
f
Long Beach
で学修してい る。また,1
9
5
3
(昭和2
8
)
年7
月1
5
日に得度をし,教師には1
9
5
5
年9
月2
9
日, (58) 開教使には1
9
5
5
年1
2
月1
日になっている。龍谷大学時代に得度をし,修士課程 を終えてから教師・開教使になっているのである。 『海外開教要覧』には,1
9
5
5
(昭和3
0
)
年1
2
月1
日(あるいは1
9
5
6
[昭和3
1
]
年5
月1
5
日)から1
9
5
9
(昭和3
4
)
年8
月3
1
日まで羅府別院に,1
9
6
4
(昭和3
9
)
年1
0
月1
日からは西羅府仏教会に駐在したことが掲載されていて,龍谷大 学を修了してほどなく羅府別院に駐在したことがわかる。 以上,主として,1
9
3
0
年代から1
9
5
0
年代まで北米での開教を志して龍谷大学 に学んだ,浄土真宗本願寺派の日系二世の事績を記述・分析した。北米以外の ハワイの日系二世,龍谷大学以外の中央仏教学院や京都女子高等専門学校,平 安中学校などへの留学事情も含めて,より詳細な論考については次稿を期した し〉。 最後になりましたが,本稿でお名前を挙げた方々とともに,浄土真宗本願寺 派国際部部長・桐林三巴,同国際部・鈴川智信,ロサンゼルス別院輪番・安孫 子洋の各師にお世話になりました。記して感謝申し上げます。面会してのインタビューにご協力いただいた,佐々木千洋,多田覚英,猫田円整の各師にもお 礼を申し上げます。佐々木千洋師は那須英勝教授に,多田覚英師は安孫子洋師 に,猫田円整師は多国覚英師にご紹介いただいた。あわせてお礼を申し上げま す。 註 (1) 山下草園『日系市民の日本留学事情』文成社, 1935(昭和10)年,本文の3頁。 以下も本文の頁。なお,かなづかいは,旧かなづかいのままにしたが,旧漢字は 新漢字に,漢数字は算用数字に改めた。また,漢字に適宜ふりがなをつけた。他 の参照文献の引用においても同様。 (2) 向上 7 頁。ここで r十八九弗」は r18~19 弗」とした。以下も同様。 (3) 向上, 8~10頁。 (4) 同上, 13頁。 (5) 同上, 14~15頁。 (6) 同上, 21~22頁。 (7) 同上, 24頁。 (8) 向上, 25頁。 (9) 向上, 162~164頁。 仰向上, 24頁。 (ID 常光浩然『北米仏教史話一日本仏教の東漸一~ (財)仏教伝道協会, 1973(昭 和48)年, 87頁。
ω
同上, 13頁。 側海外聞教要覧刊行委員会(海外寺院開教使名簿) (代表阿部慶昭)編集・発 行『海外開教要覧(海外寺院開教使名簿)~浄土真宗本願寺派, 1974(昭和49) 年 2頁。 以下では w海外開教要覧』と略記する。 (1~ 寺川抱光編『北米関教沿革史』本願寺北米開教本部, 1936(昭和11)年, 566頁。 本書には,漢字にすべてふりがながつけてあるが,一部を除いて省略した。。
5) 向上, 567~568頁。 ( 16) 常光浩然,前掲『北米仏教史話一日本仏教の東漸-~, 88頁om
寺川抱光編,前掲『北米開教沿革史~, 26頁。 (18) BUDDHIST CHURCHES OF AMERICA-A Legacy of the First 100 Years一, Buddhist Churches of America, 1998, p. 117参照。以下では, BUD-DHIST CHURCHES OF AMERICAと略記する。
本書は,主として歴代の開教使のプロフィールによって構成されているが, } 11 添泰信・龍谷大学文学部教授にご教示いただき借用させていただいた。また,那 須英勝・龍谷大学文学部教授にご紹介いただいたKenKaji氏と,本書の編纂に たずさわったRyoMunekata氏にも編集の経緯などについてご教示いただいた。 記して感謝します。 - 96ー北米の浄土真宗本願寺派日系二世の越境教育(小島)
帥前掲 r海外聞教要覧~ 15買には. ( 書 き に し て あ る 。 側 向 上 . 9. 15. 33頁参照。
ω 常光浩然,前掲『北米仏教史話一日本仏教の東漸一~. 88頁。 仰寺川抱光編,前掲『北米開教沿革史~. 27頁。
側 前 掲 .BUDDHIST CHURCHES OF AMERICA, p.118参照。
帥前掲 r海外開教要覧~ 21頁参照。副輪番の日付は. ( 書 き に し で あ る と思われる。 (25)前掲 r海外開教要覧~. 33. 17. 31. 10頁参照。 側全米日系人博物館所蔵の文書の閲覧については,カリフォルニア大学ロサンゼ Jレス校大学院生のEmilyAndersonさん,前出のRyoMunekata氏,那須英勝 教授などにお世話になりました。記して感謝します。 仰)寺川抱光編,前掲 r~~米関教沿革史J. 556頁。 側前掲Jr海外開教要覧JJ. 5頁参照。 仰山下草園,前掲『日系市民の日本留学事情~. 276頁。 (30) リストアップするにあたっては,前出のRyoMunekata氏にご教示いただい た。記して謝意を表します。
帥 前 掲 .BUDDHIST CHURCHES OF AMERICA. 121頁参照。 仰 向 上 .140頁参照。
仰 向 上 .131頁参照。 帥 向 上 .129頁参照。 (35) 同上. 128頁参照。
(
36)前掲.BUDDHIST CHURCHES OF AMERICA. 116頁参照。 (扮前掲Jr海外開教要覧JJ. 9 ----10. 12. 15. 30----31頁参照。 (
38)前掲.BUDDHIST CHURCHES OF AMERICA. 120頁参照。 側 前 掲 r海外開教要覧JJ.65頁参照。
側 常 光 浩 然 編 r日本仏教渡米史』仏教出版局.1964 (昭和39)年. 317頁。 帥 前 掲 .BUDDHIST CHURCHES OF AMERICA. 132頁参照。 倒 前 掲 r海外開教要覧.!I. 9.16頁参照。
(43X44)常光浩然,前掲『北米仏教史話一日本仏教の東漸一JI183頁。
附常光浩然編,前掲『日本仏教渡米史~. 312頁。
側常光浩然,前掲『北米仏教史話一日本仏教の東漸一~ 183頁。 附常光浩然編,前掲『日本仏教渡米史~. 312頁。
仰)前掲, BUDDHIST CHURCHES OF AMERICA, 124頁参照。 側 前 掲 r海外開教要覧JJ,9 ----10, 22. 25頁参照。
(50) 前掲.BUDDHIST CHURCHES OF AMERICA, 121頁参照。 則 前 掲 r海外開教要覧JJ,16, 22, 31頁参照。
(52)前掲.BUDDHIST CHURCHES OF AMERICA, 132頁参照。 倒前掲Jr海外開教要覧JJ,18, 30, 34頁参照。
帥前掲, BUDDHIST CHURCHES OF AMERICA, 133頁参照。 邸)前掲Jr海外開教要覧~, 26, 34, 66----67頁参照。
(56)前掲, BUDDHIST CHURCHES OF AMERICA, 141頁参照0
(51)前掲 r海外開教要覧.1, 9, 67頁参照。
(58) 前掲, BUDDHIST CHURCHES OF AMERICA, 127頁参照。 帥前掲海外開教要覧.1, 22, 24頁参照。
キーワード 日系二世,越境教育,関教使