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インド哲学仏教学論集 第1号(2012.3.25 発行) 001藤井, 教公「元暁『涅槃宗要』訳注(一)」

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Instructions for use Title 元暁『涅槃宗要』訳注(一) Author(s) 藤井, 教公 Citation インド哲学仏教学論集, 1, 1-47 Issue Date 2012-03-25 DOI 10.14943/hjiphb.1.1

Doc URL http://hdl.handle.net/2115/62107

Type bulletin (article)

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元暁﹃

槃宗

要﹄訳注

︵一︶

一︑はじ めに 筆者 は本務 校 である 北 海道 大学文 学 部の学 部 演習 にお いて︑ 平 成二十二年四月より︑ 受講生とともに元暁の ﹃涅 槃宗要 ﹄ の 講読 を開始し︑二年間続けて︑ ほ ぼ 全体の三分の一 を 読んだ︒ この 元暁撰﹃涅 槃 宗要 ﹄は︑ ﹃ 大正新 脩 大蔵経﹄三十八巻に入 蔵 し てい るが ︑ 未 だ国訳 も され ておら ず ︑ こ れ ま での 研究成 果 も極め て 少 ない ⼀ ︒そこで︑ 東アジ ア仏 教にお け る 大 乗 ﹃ 涅 槃 経﹄ の 受 容と解 釈 を 検 討 す る 一 助と し て 本書を 取 り 上 げ 訳 注を 作 成 する こと にし た ︒ 学 部 の 演 習 で はある が ︑ 受 講者 にはあ ら か じ め 分 担範囲 を 決め て訳注原 稿を作成 して もらい︑ 教場 でその原 稿を検討し︑ 訂正 や補い を 施 し た︒ 演 習 の期間は 半期 ごと に区切 られている ので︑ 継続して参 加した人もいる が ︑ 新 規に受講する人 ︑ や め る人もいた︒ 本稿は︑ 平成二十二年度 の 前 期 と 後 期に受 講 者 が分 担 作 成 した訂 正 原稿を 集 め︑それに 藤 井 が 最終的に眼を通したものである︒今回 は 読了した 部分のうち︑ 紙幅の都合で︑ ﹃ 大正蔵経 ﹄テキストの三頁弱を載せ るに 止ま った︒ 年 度末の慌 ただしい時 期 に短 時間 に編集せざ るを得な か ったが︑ 受講 者の一 人 ︑ 丹 野佑 香氏に面倒な編集の労 を担っていただいた︒ 本稿は表記の 不統一︑ 注の重複 などや︑ 思わぬ過 誤 も多い と思 われ るが︑ 本 稿が日本で 初 の国 訳で あるという点 で発 表に意義 が あ ると考え︑ あえて 刊行す る 次第 で あ る︒ 原 稿 作成 者は︑以下 の 諸氏で あ る︒

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﹃涅槃宗要 ﹄ は新羅の元 暁 ︵ 六 一七 〜六 八六 ︶ の 撰︒元暁は義湘 と と も に統一 新 羅で 活躍した最も著名な仏教者で 後 に還 俗 したが︑ 民衆教化に意を尽くした︒ 彼の著作は数多いが︑ タイ トルに ﹃ 宗要 ﹄ と いう名の付く元暁の 現 存す る著作は本書以 外 に ﹃ 法華宗要 ﹄ や ︑﹃ 無量寿経宗要 ﹄﹃ 弥勒上生経宗要 ﹄﹃大 慧度経宗要 ﹄ などがあり︑ 他の著作にしても経論の注疏類が多い︒ 元暁の著作は八六部 と されてい る が ︑その著作の数につ い ては確定しがた い ようで ⼆ ︑そ れ ら の正 確な 著作年代 の 確 定 は さ ら に難しいようである 三 ︒ 彼 の著作で法 蔵の ﹃ 起信論義記﹄ に大きな影響を与えた ﹃起信論疏﹄ ︵ ﹃ 海東疏﹄ ︶ は 法 蔵の ﹃ 義記﹄ 以 前が成 立 の下 限に なるが︑ 本 書 ﹃ 涅 槃宗要 ﹄ 中 に 引か れ る 諸 師 の説がそれぞれ誰のものかが同定できれば︑ 本書についても成 立 時 期の下 限 が推定できようが︑本稿ではそこまでの検討に至ってい な い︒ 本書について︑ こ れまで講読 した内容部分から 指 摘できる一︑ 二の点 を 記せ ば︑ まず第一に浄影寺 慧遠の影響の大 き さで あ る ︒ 慧遠の ﹃ 大乗 義章﹄ や ﹃大般 涅 槃経義記﹄ の 文を 明らかに踏まえた表現 が見られる こ と か ら︑ 述作の際の慧遠の影響の大 きさを看取できる ︒このことはすでに木村宣彰 氏 によって 指摘されていたことであるが︑今回改 め て確認された︒ 第二 点は ︑ 世親 の ﹃法 華論﹄ の 引用についてである ︒ 本書 中に は同論の引用が複数回見られる が︑ それらの引用は勒那 摩 提 訳を 依用し て いると い う 点 である ︒ 周 知のように︑ ﹃ 法 華 論﹄ の漢 訳テキ ス トには︑ 勒那 摩提 訳と 菩提流支 訳の二種 がある が ︑ 吉蔵の注釈書 ﹃ 法 華論疏 ﹄ は菩提流支訳に拠っており︑ 中国 仏 教では菩提流支訳の依用が多い︒ こ の点︑ 元 暁は勒那 摩 提 訳を 用いる 点 に独 自性が見 られる ︒ な お ︑ 同 じ 元 暁の ﹃法 華 宗 要﹄ にも ﹃法 華論﹄ の 引用が多く 引 かれる が ︑ 同 じく 勒那 摩提 訳を 用いている 点 は変わらな い ︒ 佐々木恵脩 ︵院生︶ ︑ 松 浦 未歩︑ 佐 藤圭︑ 濱 口涼子︑ 森 田 政明︑ 松 原有吾︑ 西野直人︑ 高 谷和明 ︵院生︶ ︑ 福岡沙和︑ 廣 瀬 中︑ 丹 野 佑 香 ︑芝田侑人︑ 五十嵐大樹︑西東大吾︑酒 井 泰 匡氏ら十五名︒ 二︑ ﹃ 涅 槃宗 要 ﹄ について

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本書の内容と構成の梗 概を示すた め に大 まか な分科を示す と︑次のようで あ る︒ 一︑略述大意 二︑広開分別 二︱ 一 因縁 を 説 く 二︱二 教宗 を明 か す 二︱二︱ 一 涅槃 門 二︱二︱ 一︱ 一 名義 門 二︱二︱ 一︱二 体相門 二︱二︱ 一︱三 通局門 二︱二︱ 一︱四 二滅門 二︱二︱ 一︱五 三事門 二︱二︱ 一︱ 六 四徳 門 二︱二︱二 仏性 門 二︱二︱二︱ 一 出体門 二︱二︱二︱二 因果門 二︱二︱二︱三 見性 門 二︱二︱二︱四 有無門 二︱二︱二︱五 三世門 二︱二︱二︱ 六 会通門 二︱三 経の体を出 す

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こと 二︱四 教迹 を明か す 右 の 通りである が ︑ ﹃ 涅槃経﹄ の内容について涅 槃と仏 性 の二 義 を 重視し解 釈している こ と が 知られる ︒ 本書の ﹃ 大正蔵経﹄ テキストについて附言すると︑ テキストの 底本は ﹁ 天治元年写日光輪王 寺 蔵本﹂ と あり︑ 他 の対校テキ ストはな い︒ つまり ︑ 本書の写本はこれ一本し か なくて︑ 孤 本 と い うことである ︒ い ま 天 治元年 ︵ 一一二四︶ に 写された日光 輪王寺蔵本 写 本の由 来 について検討するいと まがな い が︑ ﹃大 正蔵経﹄テキストを読 むうち ︑ 経典の引用部分の中などに﹃大 正 蔵 経﹄ テ キ ス ト 自身 の 誤 り か ︑ あ る い は 写 本に 由来 する 誤りな の か︑ それと も 著者 元 暁 自身 に 由 る も のな の か 判然と し な い が 幾 度 かあ っ た ︒ 写本が見 られればよいがと思っているうち︑ 立 正 大学大 学 院博士課程の留学生︑ 金 慧 鏡 四 氏から︑ 韓国の元暁思 想実 践 僧 伽 会刊行 ︑ 慧 峰 尚 泳 監 修 ・嘉恩謹訳 ﹃ 校訂 国訳 涅槃経宗要 ﹄ ︵二○○四年刊︶の提供を受けた︒ 同 書は日光輪王寺写本影印 を 巻末に収録し︑ ﹃ 大正蔵 経 ﹄ テキストとつきあわせて独自の批判テ キストを提示しており︑ 大 変 有 用であった︒ しか し︑ ﹃大正 蔵経﹄ テ キストを訂正する 際の根拠が判然としな い箇所も見られる ︒ 本 稿では同書に収録される 写 本影印と ﹃大正蔵経﹄ テキ スト を対照した結果︑ 同テキストに 不備の箇 所が あるこ と が知られた︒これらについては本 稿 の注部分に記 した︒ ⼀ たとえば︑木村 宣 彰﹁元暁の 涅 槃 宗要︱特に浄 影寺慧遠との 関連︱﹂ ︵ ﹃ 仏教学セミナー﹄一九七七年十月︶ ︑李 平来﹁ ﹃ 涅 槃 宗要﹄の如来 蔵 説 ﹂ ︵ ﹃ 印度学仏教学研究﹄三十巻︑第 二号︑一九八 二 年 三月︶など︒ ⼆ 福士 慈稔﹁元暁の著述に 関 する私見﹂ ︵ ﹃印度学仏教 学研究﹄五一 巻 第 二号︑二○○三年 三月︶ ︒ 三 伊吹 敦﹁ 元 暁の著作 の 成立 時期に つ い て ﹂ ︵ 東洋 大学 文学部 イ ンド哲 学 科編 ﹃東洋 学 論叢 ﹄ 通号三一号︑二 ○○六年三月︶ ︒ 四 同氏は 元 暁 の ﹃ 法 華宗要﹄ をテーマ に博士論文 を 執筆中 で ︑ 本書の訳 注 についても貴 重な助言を 得 た︒ 氏 の 成果 に次のものがあ る ︒﹁ 元曉 ﹃ 法 華宗要﹄訳 注 ︵ 1 ︶ ﹂ ﹃大 学院年 報 ﹄ ︵ 立正大 学 大 学 院 文 学研究科︶ ︑ 第 二 八 号 ︑ pp .45-60 ︑ 二 ○一一 年 三月 ︑﹁ 元曉﹃ 法 華宗要﹄訳 注 ︵ 2 ︶ ﹂ ﹃仏教 学論 集 ﹄︵ 立正大 学大 学院仏教 学研究会︶ ︑ 第 二 八 号︑ pp .17-52 ︑ 二 ○一一年三月︑ ﹁ ﹃法華宗要﹄ の成立について﹂ ﹃印度学仏教学研究 ﹄︵日 本 印 度 学 仏 教学 会 ︶︑ 第 六十巻 第 一号 ︑ pp .533-528 ︑二 ○一一年十二 月︒

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五 ︑ 現代 語訳部分で︑訳者 の補いについては︵ ︶で示した︒ 四︑書き 下 し 部分における経文の引用には﹁﹂を付して引用範囲を示した︒ 二︑テキストの提示は﹃大正蔵経 ﹄ テキストに準じたが︑書き 下 し 部分では新字体を用いた︒ 三︑注番 号は書き 下 し 部分の当該語に付した︒ 一︑ 本稿は ﹃ 大正新 脩大蔵経﹄ 巻三十八所収の元暁 ﹃ 涅 槃 宗要 ﹄ の テキスト︑ 二 三九頁上段十三行目から二四一頁中 段十八 行 目までの範囲の訳注を収 め る︒ 三︑凡例

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︻テキスト︼ ﹃大正蔵 ﹄巻三十八︑ p. 239a l .1 5 〜 b l .1 8 元暁師撰 是經有其二門 ︒一者 略 述大意︒二者 廣開分 別︒述大 意 者 ︒ 原 夫 涅 槃 之 爲道也 無 道而 無 非道 ︒無 住而無 非 住︒是 知 其道 至近 至遠 ︒證 斯道者彌寂彌 暄︒ 彌 暄 之故普震八聲通虚 空而不息︒彌寂之故遠離十相同眞際而湛 然︒由至遠故隨教逝之綿歴千劫而不 臻︒由 至近故忘 言尋之不 過一念而自會也︒今是 經者斯乃佛法之 大海方等之祕 藏︒其爲教 也難 可測量︒由 良 廣蕩 無崖甚深無底︒以 無 底故無所不窮︒以無崖故無所不該︒統衆典 之部分歸萬流之一 味︒開 佛 意之至公和百 家之異 諍︒遂使擾擾四生僉歸無二之實 性︒ 夢夢長睡並到 大覺之 極 果 極 果之 大覺也︒ 體 實 性而忘心實 性 之無二︒混眞忘而爲一︒ 既無二也︒何得 有 一眞忘 混 也︒孰爲其實 ︒斯 即理智都忘名 義 斯 絶︒是謂涅 槃 之玄 旨也︒ 但以諸 佛 證而不位 ︒無所不 應無所不説︒是 謂涅 槃之 至教 也 ︒ 玄 旨 已而不 嘗 寂 ︒ 至教 説 而未嘗 言︒是 謂理教之 一味也︒爾乃聽滿字 者咸蒙毛孔之益︒求 半偈者不傾骨 髄 之摧 造逆罪者 信是經 而能滅︒燋善種者 依茲教 而還生之矣 ︒ 所 言 大般涅 槃 經者 ︒若也具存 西域之音︒應謂摩訶般涅 槃 那 ︒ 此 土 譯之 言 大滅度 ︒ 欲 明 如來 所 證 道 體 周無外 ︒ 用 遍 有 情 廣 苞遠濟︒莫是爲 先依莫先義︒故名爲 大 體大用無二無別 ︒既無彼崖可到 ︒何有此崖 可離︒ 無 所離故無所不離 乃 爲大 滅︒ 無所到 故無所不到方是大度 ︒ 以是 義故名大滅度 ︒ 所言 經 者 ︒大 聖格言 貫 十方而一揆 ︒ 歴千 代 而莫二法 ︒而且常故名爲經 ︒正説之前 先 序 時事︒以之故言序品︒第一故導 大般 涅 槃 經 序品 第一︒

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︻書き下 し︼ 今︑是の経は斯れ乃ち仏法の大海︑方等 ⼋ の秘蔵なり ︒ 其の教たるや測量すべきこと難し︒ 良︵ま こ と︶ に広蕩︑ 無 崖 ︑甚 深︑ 無 底 なるに由 る︒無底 九 な るを以 て の 故 に 窮 ま らざ る所 無 し ︒ 無 崖 な るを以て の 故 に 該ね ざ る所 無し︒ 衆 典 の 部分を統べ 万流 の一味に帰 す ︒ 仏 意の至公を開いて百家の異 諍を和す︒ 遂 に擾擾 ︵ じょうじょう︶ の 四生 ⼀〇 をして無二の実性に僉 ︵みな ︶ 帰 さ しむ ︒ 夢 夢 ︑ 長 睡 ︑ 並 び に 大覚 の 極果に到る ︒ 極果の 大覚 たる や実 性を体 し て忘心 す ︒ 実 性の無 二 は真 忘を 混じ て 一 と 為 す︒ 既に二無きなり ︒ 何 ぞ 一の真忘 混ずる こ と有らんや ︒ いず れを かその実と為 すや ︒ 斯 れ即ち理智都 て忘じて︑ 名 義 斯 れ 絶 す︒是れを涅 槃の玄 旨 と 謂 う也︒但だ諸仏の証を 以て位 せ ず ︒ 応ぜざる所無く説か ざ る所無し︒是れを涅 槃 の至教と 謂う也 ︒ 玄 旨 已でにして嘗て寂 せず ︒ 至 教説いて未だ嘗て言わず ︒ 是れを理教 の 一味と 謂 う也︒ 爾 して乃ち 満字 ⼀⼀ を聴 く 者 は 咸 く毛 孔の益を蒙り︑ 半 偈を 求むる者 は骨髄の摧を 傾けず ︒ 逆罪を 造 る者 は是の経を 信 じて能く滅す︒ 善 種を燋 せ る者 は茲の教に 依 りて還たこれ を生 ずるなり︒ 言 う所の大般 涅 槃経 とは︑ 若 しや具さに西域の音 を 存せ ば︑ 応に摩 訶 般 涅 槃 那 と謂うべし︒ 此の 土に之を訳して大滅度と言う︒ 如 来 所証の 道 は 体 周く無外なるを明か さんと欲す︒ 用 遍 く ︑ 有 情広 く苞み︑ 遠く済 う ︒ 是 れを 先と 為さ ざ れ ば ︑ 依る に 先 の 義 無 し ︒ 故 に 名 づ け て 大 と 為 す ︒ 体 大 に用は無二にして無別なり︒ 既 に無なれば︑ 彼の崖の到る べきなし︒ な んぞ 此の崖の離るべき有らんや︒ 離する所無きが 故に離せざる所無きを乃ち大滅と為す︒ 到る所無きが故に到ら ざる所なし︒方に是れ大度なり︒是の 義 を 以 ての故に大滅度と名づく ︒ 大意を 述 ぶとは︑ 原 ︵ も と ︶ より夫れ涅 槃の道 ⼀ たるや︑ 道無くして道 に非ざる無し︒ 住 無くして ⼆ 住に非ざる無し ︒ 是れ︑ その道の至近にして至遠なるを 知り︑斯の道 は弥寂にし て 弥 暄 三 なるを証す︒ 弥 暄 の故に普く八声 四 を震わせ 虚空に 通 じて息 まず ︒弥寂 の故に十相 五 を遠離 して真際 六 に同じ て 湛然たり ︒至遠に 由る が故に教 に随い之を 逝 くに綿歴 する こと 千 劫 に し て 臻らず ︒至近に 由 る が 故に言を忘れて 七 之を尋ぬるこ と一念に過 ぎ ずして自 ずから会す也︒ 是の経にその二門有り︒一には大意を略述し︑二には広く分別を開く︒ 言う所の経 と は︑ 大聖の格言にして︑ 十 方 を貫いて一揆 な り︒ 千 代 を歴して二 法 なし︒ 而 して且 つ 常 な るが故に名づけて経

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︻現代 語 訳︼ この経には二つの面 か らのアプローチが考えられる ︒ 一 には大意を 略 述し︑ 二 には広く考察を 加 える の二つである ︒ 大 意を 略述するとは︑ も とより涅 槃に到る道たるや︑ 道 な ぞ ど こ にも無いと 言 えるし︑ すべてが道であるとも 言えよう︒ 拠 り所な ぞ どこにもな いが︑ 同時にすべてが拠り所であるといえよう︒ そ の道 が ︵涅 槃に︶ 最も近 いも の であると 同 時 に 最 も 遠 いも ので あるこ と を知 り︑ その 道がます ます 寂静 なもので あると同時 に ます ますに ぎやか なもので あるこ と を覚る︒ ます ますに ぎやか だからこそ八種の声 調 の声 を虚空にひろく響かせ︑ ま すます 寂 静だからこそ︑ 十種の ありようを離れて 真理に同じ︑ 静まりか えっているのである ︒ 最も遠いからこそ︑ 教 えに随ってこの道を行くに︑ ど こまでも続き︑ 千 劫を 経ても到達する こ とができ ない︒最も近いからこそ︵教えの︶言葉 を忘れて 道を追求す る に︑一瞬の間に自 得 す るのである︒ と為す︒正 説 の 前 に先に時 事を序す︒之を以ての故に序 品 と為す︒第一 なるが故に大般 涅 槃経序 品 第一 と導う︵導= 噵︶ ︒ いま︑ こ の ﹃ 涅 槃 経﹄ は仏法 の 大海にして︑ 大乗の秘密の ︵教えの ︶ 蔵 である︒ その教えは測る こ とは困難である ︒ そ れ ほ ど広々としていて果てしが なく︑ 非 常に 奥深く︑ 底 な しである ︒ 底 なし なの で ︵か え っ て ︶ 窮 まら ない とこ ろが ない︒ 果 て し が な い の で 収 め 尽 くさ ない とこ ろが ない︒ 多 くの経 典 の そ れぞ れの部 分 を 統 一 して︑ す べ て の 流れが 収 束して一 つの 流れに な るように︑一つの︵教 えの ︶味に帰一す る︒仏の意趣が 万 人に開かれたものであるこ とを 示して百 家 の 諍い を和 すのである︒ そして最終的には騒がしい衆生をただ 一 つの真実の本性に帰入 せし め る ︒ 夢 を見続 け て醒 め な い輩︑ 長 い眠り か ら覚 め な い輩︑ 彼 ら も究 極の大いなる覚りと いう結 果に到る のである ︒ そ の究 極の おおい なる覚りたるや︑ 真 実の本性 をその本質 と していて︑ 心のはたらきなどはもはや抜け落ちている︒ 真実の本性がただ 一つと いうのは︑ 真実と虚妄と が混じて一つにな っている ので ある︒既に一つに なってい るのであれば︑ も う一つの 真実と虚 妄と が混 じると い うこ とな ぞ ありえ な い ︒ ︵ 真と妄とが一に な っているその︶ どちらを真実とな す べきであろうか︒ それは真理と智慧とが混 然 と一 体となり︑ 名 称 も 意義 も超越しているの である ︒これを涅 槃の奥深い意趣︵玄 旨 ︶と いうのであ る ︒ただ仏 たちの覚り を 位 置 づけたものだけではなく︑ ︵ 衆生のはた

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らきかけ ︶に応じないこ と は なく︑ 教えを説か な いこ とは ない のである ︒これを涅 槃の教えの至り︵ 至 教 ︶ と い う の であ る ︒ 玄旨はこれまでに冥 寂 したこ と は な く︑ 至 教 はこれまでに教と して 説かれたこ と は な かった︒ これ を理と教の一 味というの である ︒ そうであるから完全 な 教えを聴く者は︑ 皆ほんの髪の毛の 穴ほ どの 利益 を蒙り︑ 不完 全 な 偈を求め る者は︑ 骨髓 が 砕 け る よ うな 努 力 を 傾 ける こと もな い ︒ 五 逆 罪を 造る者 も ︑ こ の ﹃ 涅 槃 経﹄ を 信 じる こと によ ってその罪を 消滅さ せ る こ と が でき ︑ 善 の種を 焼いてしまった者も︑この経によって再び生じさ せ る こ と ができる のである ︒ 言うと こ ろ の ﹃ 大 般涅 槃 経 ﹄ と は ︑ も し 西域 の 音 を 詳 しく 残 せば ﹁ 摩訶 般涅 槃那﹂ と いうべ き であ る ︒ 中 国 で こ れを 訳して ﹁ 大 滅度﹂と いうのであ る ︒如来 が 証 得 し た覚 りは︑その 本 質は隅々 まで行きわ た り︑内外 のな いこと を 明かそうと す るので ある︒ その覚りの働きは全周的で︑ 衆生はその内に広く包摂さ れ︑ 遠く救済 されるのである︒ これを先 としなければ︑ 依 拠す べき︵ 先 後 の ︶ 先 とい う意義はな く な っ てし まう︒それ ゆ え名づけ て ﹁ 大 ﹂と するのであ る ︒ ︵ 覚りの︶本質は大きく︑その 働きは無二にして別物は な い︒ 無二であるならば到達すべき悟 り の 彼岸もな い︒ な ら ばど うして離れるべき 迷いの此 岸 が あろ うか︒離れるべき所が 存 在しな い から離れな い 所がな い というの を﹁大 滅 ﹂ ︵ 大い なる滅 ︶ とし︑ 到 達 す べき所が存在 し な い か ら 到 達 しない 所 が な い ︒ ま さ にこ れ こ そ が ﹁大 度 ﹂ ︵大い な る 渡 り︶である︒ このような 意 義 に よって ﹁ 大滅度﹂というの である ︒ 言う所の ﹁ 経 ﹂ と は︑ 偉大 な聖人の格言であり︑ 十方に通じて 同一の趣旨で ある︒ 幾 時 代 をも超え︑ 二 種の 教法は存し な い︒ そうしてまた常住 な存在で あるから ﹁経 ﹂ と 名づけ る ので ある︒ 本 論 と なる説法の 前 に先 に説法の時 や 状況について 説いて序 としたのである ︒ このような こ と から序品と するのである ︒第一番目な ので︑ ﹃ 大般涅 槃 経﹄ 序品 第一というのである ︒ ⼀ 道は目的のため の 手段の意だが︑ 仏 典漢訳の当初︑ ﹁ 覚 り﹂ ︵ bo dhi ︶ の 訳語 とし て用 いら れた︒ こ こ で も涅 槃に 到る ﹁道﹂ の意 の ほか に︑ 涅 槃 とい う﹁覚 り ﹂の意味でも解釈 しうる︒

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⼆ 住無 くし て ﹁ 無 住﹂は﹃維 摩 経﹄ を 踏 まえる︒ 同経 ﹁観衆 生 品﹂ に﹁又問 ︒顛倒 想 孰 爲 本︒ 答曰︒無 住 爲 本︒又問 ︒無 住孰 為本︒ 答 曰︒無 住則 無本 ︒ 文 殊 師 利 ︒ 從 無 住本 立 一 切法 ︒ ﹂ ︵ ﹃ 大正蔵 ﹄ 巻 十 四 ︑ 547c ︶︿ 又問う︒顛倒想は孰れを本と為すや︒答えて曰く︑ 無住を本と為す︒又 問う︒ 無 住 は 孰れ を本 と為 すや ︒答え て 曰く ︑ 無 住な ら ば 則 ち 本 無 し︒ 文殊 師利よ ︑ 無住の本 よ り 一切法 を立 つ る な り﹀ 三 音はケン︒あたたかい︑の意︒ ﹁ 寂﹂ の反対語ならば ﹁ 喧﹂ の字がふさ わ し い ︒テキ ストの錯誤か︒ 四 八声 ﹃菩薩瓔珞経﹄などには ﹁ 復以八聲震動十方 無 量 佛國 悉令 聞知﹂ ︵ ﹃大正 蔵 ﹄ 巻 十六 ︑ 119b 14 ︶と用 例 がある が ︑詳細 は 未 検 ︒ 五 十相 未検 ︒ 六 真際 真実 の極み ︑ 真理 のこ と︒ ︑真 如の同義語︒ 七 言を 忘れて ﹁亡言﹂ は ﹃ 荘子﹄ を 踏 まえての 表 現︒ ﹃ 荘 子﹄ 外物 篇 に ﹁荃者所以在魚︒ 得魚而 忘 荃︒ 蹄者所以在兔 ︒ 得 兔 而 忘蹄︒ 言者所以在 意︒ 得意而 忘言﹂ ︿筌 とは 魚を 在う る所以︑ 魚を 得て筌 を 忘る︒ 蹄 は兔 を在うる所以︑ 兔 を得て 蹄 を 忘 る︒ 言は意を在うる所以︑ 意を得て言 を忘 る﹀とあ るによる︒ ⼋ 方等 大乗 の こ と ︒ vaip ul y a の訳語︒ 九 無底 空 間 的に 限 定 されない こと ︒奥深く 思惟を超えている ことの意で︑禅宗で は 執着を離れた 状態を表 現する 語 と し て多用 さ れる ︒ ⼀〇 四生 有情︵ 衆 生︶ の 生まれ方 と し て の︑卵 生 ︑濕 生︑胎 生 ︑化生 を いい︑衆生全体を 表す語として使われる︒ ⼀⼀ 満字 完 全な教 え︑了 義のこ と ︒ ﹃ 涅 槃 経﹄ に出 る︒半字はそ の反対語 ︑不 了 義 のこ と︒ ︻テキスト︼ ﹃大正蔵﹄巻三十八 p. 239b l .18~p .2 39c l .8 二者 廣開之内有其 四門 ︒初 説 因 縁︒ 次明 教宗 ︒ 三 出 經 體 ︒ 四 辨 教迹︒第 一 説 經 因縁 門者 ︒問佛 臨涅 槃 而説 是經 ︒爲 有 因 縁 爲無因 縁 ︒若 無因 縁亦應 無 説︒若 有 因 縁有 爲幾 種︒ 答 佛説是 經無因 無 縁︒ 所以 然 者 ︒ 所 説之旨絶於名言 不 開因 縁故︒能説之人離諸 分別不 思 因縁故︒無 因 強説是經 ︒如此 下 文 言︒如拉羅婆夷名爲食油︒ 實不食油強爲立 名字爲食油︒ 是大 涅槃 亦 復 如是︒ 無 有因 縁 強 立 名字︒又攝論云︒若 佛 果是無分別智所

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顯離分別 ︒衆生︒云何得 作 衆生利 益 事︒如理 無倒爲 顯 無功用作事︒故重説偈 言︒譬摩尼 天 鼓 無思成自事︒如是不分別種種佛事成︒ 解云︒若依 是 義 無 因 縁 而 有 所説︒ 又 復 得 言 無因 縁故亦無所説︒如 是 經 下 文 言︒若知 如 來常 不説 法是名菩 薩具足多聞︒ 二夜 經云︒ 從初得 道 夜乃 至涅 槃夜 是 二 夜 中 間不 説 一 言字 ︒以是 證 知無 因無説 ︒ 或有説者 ︒有 大因 縁 佛 説是 經︒ 所以 然 者 ︒如愚 癡 人都無因 縁 有無所作︒智者不爾︒ ︻書き下 し︼ 二には広開の内に其の四門あり︒ 初 めに因 縁を 説 く ︒ 次に教 宗 ⼀ を明かす︒ 三 には経 の 体 ⼆ を出だす︒四には教迹 三 を弁ず ︒ 第一に経 を説く因 縁とは︑ 問う︒ 仏 ︑ 涅 槃に臨みて是の経 を説 く ︒ 因縁 有りと や 為ん ︑ 因 縁 無 しと や為ん ︒ 若し 因縁 無く ん ば︑ また応に説無か るべし︒ 若 し因 縁あらば︑ 幾 種を為すこ と有るや︒ 答う︒ 仏 ︑ 是 の経 を説くこ と無因にして 無縁なり︒ 然 る所以は︑所説の旨名 言 を 絶して︑因 縁 を開か ざ る が 故なり︒能説 の 人︑諸の分別 四 を離れて因 縁 を思わざる が 故な り ︒ 因無 くして強いて是の経を説く︒ 此の下 の 文に言 う が 如 し︒ ﹁拉 羅 婆 夷 五 を名づけて食油と為すが如し︒ 実に油を食せざるを 強いて名字を立つる ことを為して 食油と為す︒ この大 涅 槃もまたまた是の如し︒ 因 縁有るこ と無くして︑ 強いて名字を立つ﹂ と ︒ また摂論に云く︒ ﹁ 若し仏果 六 はこれ無分別智 七 の 所 顕に して︑ 衆 生 を 分別するところを離 る れば︑云 何が衆生利益 の事 を作して︑ 理 の如 くに して倒する こ と無きを得 んや︒無功用 ⼋ の作事 九 を顕 さ ん が 為 の 故 に 重 ねて 偈 ⼀〇 を説いて言 く ︒譬えば摩尼 ⼀⼀ と天 鼓 ⼀⼆ とは思 ⼀三 無く し て 自ら事を 成ず ︒ 是 の如く分別 ⼀四 せ ず して種種の仏事 ⼀五 は成 ずるなり ⼀六 ﹂ と ︒ 解して云く︒ もし是の義 に依 らば︑ 因 縁無くし て所説有り ︒ 又た復た 因 縁 無き故 に 亦た所説 無しと 言 うを得 ︒ 是の 経の下の文 に 言うが如し︒ ﹁若し如来常に法を 説 か ずと 知 らば︑ 是 を菩薩 ⼀七 は多聞を具足 ⼀⼋ すと 名 づ く ⼀九 ﹂ と ︒ 二 夜経に云く︒ ﹁初 め て 道を得たる夜従り︑ 乃ち涅槃の夜に至 る ま で ︑ 是の二 夜の中 間 に は一言 の 字も説か ず ⼆〇 ﹂と ︒是れを 以って無 因無説を 證知 ⼆⼀ す︒

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︻現代 語 訳︼ これらの四段のうち︑ まず 経の説かれた因縁について述べる ︒ 問う ︒ 仏 ︵ 釈 尊︶ は入 般涅 槃を前 に し て この 経を 説く ︒ そ の 因縁 は有る の か︑ 無 い の か ︒ も し 因 縁 が無 ければ 経を 説く こと はな かった で あろ う ︒ もし 因縁 があ れば ︑ そ の 因 縁 は 何 種 類 か ある のか︒ 答える ︒ 仏 はこの経を 因 縁無く説いた︒ そ の理 由は ︑ 説 かれた内容が言語を超越していて因縁について説明しな い からである ︒ また仏 は 分別 する こと がな いた め︑ 因縁 につ いて考 え な い からである ︒ よ っ て 因 も無く ︵ 直接的な 原 因 によ らず︶ ︑ 強いてこの経 を説いたのである︒ ﹃ 大 般涅 槃経 ﹄ で 以 下 の文 のように 言われている ︒﹁ 拉羅婆夷を 食 油と 名 づ ける ような も のである ︒ 実 際は油を 食べな いも の に対して強いてそのように名づけたのである ︒ 大 涅 槃 と い う語 もこれ と 同じで あ る︒ つまり︑ 因 縁 が 無 いのにも関わら ず ︑ 強 いてそのよ う に名づけられたのである︒ ﹂また ︑ ﹃摂大乗論﹄に次 のよ うに説 か れ て いる ︒ ﹁ も し仏の位 は 無分別智であ って衆 生を分別す る こ と が な ければ︑ どのように衆生利 益 を なして︑ 正しい道理に従って顛倒す るこ とが ないのであろうか︒ 無 功用 の作事 ︵ 意思的努力を 加えな い 働き︶ を 顕らかにするた め の故にさらに偈を説いて言う︒ たとえば珠玉 と 天 鼓とはたくまずし て自 然に作用す る ︒ こ のように︑ 理 解させ る よう説明す る こ と なく︑ 種 種の仏の教化は達成 さ れるのである﹂ と ︒ 解 釈してい う に は ︑こ の こ と に 依 る な ら ば ︑因 縁 無 く し て 説 か れ た の で あ る ︒ ま た ︑因 縁 が 無 い か ら こ そ 説 か れ な い と も 言 う こ と が で き る︒この経の下の文に 言う︒ ﹁ もし 如来は常に法を説か な い ということを 知ったなら︑これを︑菩薩が 多 く聞くと いうことを 具えている と 名づける ﹂と ︒ ﹃ 二夜 経﹄に言う には︑ ﹁ ︵ 釈尊が︶初 め てさとりを得 た夜より ︑涅 槃に至 っ た夜に至るまで︑こ 或いは 有 るの説く とは︑大因 縁 有 り て︑ 仏是の経 を 説く︒然る 所以 は︑愚 癡 人 ⼆⼆ 都て因 縁無 くして 無所 作 ⼆三 有るが如 し︒ 智者 は爾 らず ︒ 第二に ︑ 広く考 察を 加 える 部分を 四段と する ︒ 一 段 目 は 経 の説 かれた 因 縁 ︵ いわれ︶ を 述 べる ︒ 二段 目 は教 え の 中心とな る 点 を 明かす︒三段目は経の本質について説く︒四段目は言 教について説く︒

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の二夜の間には一言の教えも説いてい ない﹂と︒これによって︑ 因縁 がな い か ら こ そ説 かれな い のだと わ かる のである ︒ あるいは有る人が説くには︑ 説 かれることがあるとは︑ 大 いに 因 縁 があり︑ 仏はこの経 を説いたのである︒ その理由 は︑ 愚 か な人にはみ な因 縁なく な す べ きこ とが ないよう なもので ある︒ 智 者はそうでは ない︒ ⼀ 宗︵ むね︶ 中心となるもの ︒ ⼆ 体 働きのもととなる 実体︒本 質︒ 三 教迹 仏の説 かれた 教えの あ と ︒ 言 教 ︒ 四 分別 心の働きが対 象を思惟し︑計量すること︒あれこれ 判 断 すること︒ 五 拉羅 婆 夷 tailapā yika の訳 語︒ゴキブリの意︒原文 で は ﹁ 拉 羅 婆夷 ﹂でなく﹁抵羅婆夷 ﹂ となっている︒ ﹃大般涅 槃 経 ﹄ ︵ ﹃大正 蔵 ﹄ 巻 十二︑ p74 7b ll .1 6 〜 19 ︶ ﹁如坻羅婆夷 名 爲 食油︒實不食油︒強爲立 名 ︒名 爲食油︒是名無因強 立名 字 ︒ 善男子 ︒ 是大涅 槃 亦 復 如是︒無 有因縁 強 爲立名 ︒ ﹂ 六 仏果 修行 の因 によって 達せら れ る仏 の位︒ 七 無分 別智 主観︑客 観の相を離れて平等 に 働く真実 の智慧︒概 念 的思惟を超えた真実 智 ︒ ⼋ 無功 用 自然 のままでな ん ら の 造 作︑意 志的 努力を加 えな いこ と︒ ︵功 用 努力︒身 口意 の動 作︒働 き ︒ 作用︒ ︶ 九 作事 活 動︒なすべ きこ とを実 行 する︒働 き︒ 目的を 達 成するこ と︒ ⼀〇 偈 gāthā の音写といわれる︒また伽陀とも音写する︒経・論などのうちで︑仏 の教えを 詩句 によって述べ たもの︒あ る いは仏・菩薩 の徳を たたえた詩 句 ︒ ⼀⼀ 摩尼 maṇ i の音写︒珠 ・宝・離垢・如意と漢訳する︒珠 玉の総称︒/如意珠︒ ※摩 尼 珠 珠 玉 の総称︒宝珠︒珠 玉は悪を去り︑濁水を清らかにし︑災難をさ ける徳 が あると さ れる ︒/ 振多摩 尼 の 略 ︒如 意 珠 をさす ︒ ま た ︑ 如意 珠 に 譬えられる仏性のことをいう 場 合もある︒ ⼀⼆ 天鼓 忉利 天の善 法 堂に ある 鼓︒打たなく ても︑おの ずか ら妙 音 を 発するとい う ︒ ⼀三 思 心の動機づけ の作用︒ 心がある方面に動機づけられること︒ / 心の造作︑ 意 のはたらきと解せられる︒ 志向 ︒ 思 考︒ 五 遍 行の心所の一つ︒ 身・語・意の三業 をつくる心作用で あり︑業の体︒

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⼀四 分別 あれ これ分 けて考える こと ︒ / 人びとに 理解させるよ うに 分 けて説 く︒ /正し い 智慧 のは たら き に つ い て い う︒ /知 識を もって す る理 解︒対 象 を思 慮すること︒ ⼀五 仏事 仏のなす べき 仕 事 ︑ 仏の 教化 を さす ︒衆生 を 救 う 事業 活動 ︒仏の所作 ︒ ⼀六 ﹃摂大乗論釈 ﹄ ︵ 世親釈︑真諦 訳︶ ︵ ﹃ 大 正 蔵 ﹄ 巻 三 十 一 ︑ p. 243a ll .2 ~ 7 ︶ ﹁若佛果是無 分別智所顯離分別衆生 ︒云何得作衆 生利益事︒ 如 理不倒︒ 爲顯無 功用作 事︒ 故重 説偈 論曰 譬摩尼天鼓 無思成自事 如此 不 分 別 種種佛 事 成﹂ ⼀七 菩薩 bo dhi-sattva の音写︒さとり の 成就を欲する人︒さとり の完 成に努 力 する 人︒仏になろ うと志す者︒ ⼀⼋ 具足 具えている こと ︒ 具わ り︑満 ち 足 りている こと ︒ ⼀九 ﹃大般涅 槃 経 ﹄ ︵ ﹃大正 蔵 ﹄ 巻 十二︑ p. 520b ll .8~9 ︶ ﹁是事 若知 如 來 常 不 説法︒ 亦名 菩薩具 足 多聞 ︒ ﹂ ⼆〇 ﹃二 夜 経 ﹄に つ い て は詳細未 検 ︒た だ し ︑ ﹃ 大智 度 論 ﹄他 ︑ 多 く の 典 籍 で﹁ 二 夜 經 ﹂ の 語 が見 られ る ︒ たとえば︑ ﹃ 大智 度論﹄ ︵ ﹃大正 蔵 ﹄ 巻 二十五︑ p. 59c ll .5~ 7 ︶に は次 のよ うに ある ︒ ﹁ 人 不聞 法︒ 凡 人 著 於 我︒又佛二夜經 中 説 ︒ 佛初得道 夜至 般涅 槃夜 ︒是二夜 中間 所説經 教︒一切皆實不顛倒︒ ﹂ ⼆⼀ 證知 はっ き りと 知 る こ と ︒ ⼆⼆ 愚癡人 愚かな人︒ ⼆三 所作 義務 ︒ ︵ 修行者 の ︶ な すべ きこ と︒ /身 ・ 口 ・意 の三 業を 能作と解 すのに対し ︑そ れ が 発 動 す るこ とを いう︒ ︻テキスト︼ p. 239c ll .8~2 3 有深所以乃有所作︒如 智度 論云︒譬如須彌 山 王不 以無 因縁 及小 因 縁而自 動作︒諸 佛 亦爾︒ 不 無因 縁而 有所説︒ 依是文 意有 因有説 ︒若 依是 意説此 經 因有 總有別 ︒ 別 而 論之 因縁無量︒所 以然者 ︒ 大人 發言必不 徒説︒一偈 一 句各有因縁 ︒ 一言之

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内亦有衆縁︒ 此經梵本有二萬五 千 偈則有 二萬五 千 因縁︒隨其一偈皆有四句︒則十萬 句有爾許因縁︒又一一句各有諸縁︒由 是 言 之有無量縁︒別縁如是不可具陳︒總因縁者 如 來 宜以大因 縁而 説是 經︒ 所謂 欲顯諸 佛 出世之大意故︒如 法花 經言︒諸 佛如 來唯以 一事因縁故出現於世乃 至廣説 ︒ 又此經 菩 薩品云︒若有人能供養恭敬無量諸 佛 ︒方乃 得 聞 大涅 槃經 ︒所 以者何 ︒ 大徳之人乃能得 聞如是大事︒ ︻書き下 し︼ 深き所以有りて乃ち所作 ⼀ あり︒ ﹃智度論﹄ ⼆ に云うが如し︒ ﹁ 譬えば︑ 須弥山王 三 の無 因縁 及び小 因 縁を 以てすれども 自ら動 作せ ざるが如し 四 ﹂と ︒諸 仏も亦た爾り︒因 縁無くし て所説有らず︒是の 文 の意に依 らば因有りて説有り︒若し是 の 意に 依り て 比 の経 の因 を 説 か ば 総 有 り別 有り︒ 別 して之 を論ずれば因 縁 無量なり︒然 る所以 は ︑ 大 人 五 言を 発するに必ず徒に説 か ず ︒ 一偈 一句に各 因縁有り ︒ 一 言の内に亦た衆くの縁有り ︒ 此 の経 の梵本に二萬五 千 偈有れば︑ 則ち二萬五 千の因縁有り ︒ 其 の一 偈に随って皆四句有り︒則ち十萬句に爾許の因縁有り︒ 又一一の句に 各諸の 縁 有り︒ 是れに由 り て之を言 わば︑ 無量の 縁有り︒ 別縁は是くの如く具さに陳ぶべから ず︒ 総の因 縁 は︑ 如 来宜しく大因 縁を以て是の経 を説きたもうべし︒ 所 謂諸仏出世の 大意 を顕 さんと欲す る が故 なり︒ 法 華経に言 うが如し︒ ﹁ 諸 仏如 来は唯一事の因 縁を以ての故に世に出現したもう 六 ﹂ と ︒ 乃 至広説 せ ば︑ 又此 の経の菩薩品に云く ︑﹁ 若し人有りて︑ 能く 無量の諸 仏を供養 七 し恭敬 ⼋ せば ︑ 方 に乃ち 大 涅 槃 経を 聞く ことを得 ん ︒ 所 以 は何ん ︒ 大徳 九 の人は乃ち能く是くの如きの大 事 ⼀〇 を聞くことを得 ⼀⼀ ﹂と︒ ︻現代 語 訳︼ 深い理 由 があって︑ な すべきことがあるのである ︒﹃ 大智 度論 ﹄ で 言われているこ と と同じである︒ ﹁ ち ょ うど︑ 須 彌山王が

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因縁なくし ては︑ある いは小因縁 によっては 自ら動 か な い ことと同 じだ﹂と ︒ 諸 仏もまた そのようである ︒ 因縁 がな ければ︑ 教 え が鋭 かれる こ と は な い ︒ こ の文 ︵ 大 智度 論︶ の意味 す ると ころによるならば︑ 因 縁があって説くことがあるのである︒ も しこの意に よ って︑こ の経を説いた因縁につ いて説くな ら ば︑総論と各 論があ る ︒個別に 論ずると︑ ︵ 涅 槃経が説 か れた︶ 因 縁の数 は 限 り が な い︒ その理由 は︑ 転輪王や仏 などの偉大 な人 物は教えの言葉 を無駄に発す る こ と は な いからである︒ 一 偈一 句にそれぞれ因縁がある ︒ 一つの言葉の中にまた多くの因縁が ある︒ こ の経のサンスクリットテキストには︑ 二 万 五 千の偈が あり ︑ そ れはつまり 二 万五 千の因縁 があると いう こと である ︒ その一つの偈 の 中 に︑ それ ぞれ四つの句がある ︒ つまり ︑ 十 万 句に多くの因縁がある ︒ また一つ一つの句にそれぞれ多くの因縁 がある ︒ これに従 って言うな ら ば︑ 無量の因縁 が ある こととなる ︒ 各 論 の因縁 は 以 上のごとく ︵ 無量な の で︶ 詳しく 述 べる こと はできな い︒ 総論での因縁 は如来 は 大因縁 によ っ てこの経を説 かれたのであろ う ︒ いわゆる多くの仏が︑ 世に出現されるこ との目的を表そうとす るか らである ︒﹃ 法華経﹄ で次のように言うがごとくである ︒﹁ 多 くの 仏︑如来はただ一つの大 事 な い われのみの故に世に出現さ れ る ︒ ﹂ と︒ さらに広 説す れば︑ ま た︑こ の 経 ︵ 涅 槃 経 ︶の 菩 薩品に次のようにある︒ ﹁ もし︑数え切れないほどの仏を 供養 し敬 えば︑ す なわち︑大 涅 槃経 を聞 くことが で き るだ ろう︒ そ れはなぜか︒たくさんの功徳を積んだ人は︑ ︵つまりその功徳 で︶仏 の 大事︵な 説法︶を 聞く こと ができる からである ︒﹂ ⼀ 所作 なす べきこと ︒行い ︒ ふるまい ︒つくられたもの ︒ ⼆ ﹃智 度論 ﹄ ︵ 竜樹著 ︶ 大乗 仏 教の 初 期の 論書 で あ り︑ 大品般若 経を 逐条的に 解釈 した注釈書 ︒ 三 須弥 山 古代インドのコス モ ロ ジーによれば︑世界の中心に 高くそびえる巨 大 な山︒ 四 ﹃大 智度論﹄ ︵﹃大正 蔵 ﹄ 巻二十五︑ p. 57c l .25 ︶ ﹁譬如須彌山王不以 無 事 及 小因縁而動︒ ﹂ 五 大人 転輪王︑または仏・菩 薩をい う︒立派な人︒ 六 ﹃妙 法 蓮 華 経 ﹄ 鳩 摩 羅 什 訳 ︵ ﹃ 大 正 蔵 ﹄ 巻 九 ︑ p.7a l .21~l .23 ︶

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﹁唯以一大事因縁 故出現於 世︒舍利弗︒云何名諸佛世尊︒ 唯以一大事因縁 故 出現於 世 ︒ ﹂ 七 供養 奉 仕 する こと ︒尊敬 を もっ て仕え︑世話する こと ︒ ⼋ 恭敬 敬い︑つつし むこ と︒ 尊敬︒仰 ぎ見るこ と︒ 九 大徳 徳あ る人︒ 徳 行のあ る者の意︒ ⼀〇 大事 法華経では︑一大事因縁の略︒ 最も大切なこと︒ /仏がこの世に出 現したことの意味︒ 釈 尊がこの世に出現したただ一つの目的︒ ひい ては修行の眼目︒修行して悟りを開 くこと︒ただし︑ここ での﹁ 大 事﹂と は ︑仏が涅 槃 経を説くことを指す ︒ ⼀⼀ ﹃大般涅 槃 経 ﹄ ︵ ﹃大正 蔵 ﹄ 巻 十二︑ p. 658c ll .17~20 ︶ ﹁若有人 能供養恭敬 無 量諸佛︒方乃得 聞 大涅 槃經︒薄福之 人 則 不得 聞︒所以者何︒大徳之人乃能得 聞 如 是大事︒ ﹂ ただし︑ ﹁ 薄 福之人 則 不得 聞︒ ﹂の一文 は﹃涅 槃 宗要﹄ で は省略されている︒ ︻テキスト︼ p. 239c l .23~p .240a l .1 何 等 爲大︒所謂諸 佛甚深祕藏 如來 之 性 ︒以是 義 故 名爲 大 事 ︒ 解 云 ︒今説 是 經之 時正臨一化 之 終日究意顯示諸佛 大意︒ 所謂總 括 成 道 以 來 隨機 所説一 切 言 教 ︒悉 爲示一味之道 ︒普今歸趣無二之 性︒十方世 一切 諸佛 悉同是 意 無 二 無別 ︒是 謂諸佛 出 世大 意︒ 是名如 來 甚深祕藏︒由 有如 是一大 因縁 ︒是故 如 來 説 是 大 經 ︒ ︻書き下 し︼ ﹁何 等 を か大と為す︒ 所 謂 諸 仏 の 甚 深秘蔵如 来 の性 な り︒是の義を以っての故に ︑名づけて 大 事と 為す ⼀ ﹂と︒解し て 云く ︒ 今是 の経を 説 く 時︑正 に一化 の 終 日 に臨み て ︑ 意を 究 め 諸仏 の 大意 を 顕示 す︒ 所 謂 成道 ⼆ 以来 の 機 三 に随う所説の一 切 の 言 教 を総 括し︑悉 く為に一味 四 の道を 示 し︑普く今無二の 性に帰趣す︒十 方 の世 の一切の諸仏悉く是を 同じくして意に二無く 別 無

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︻現代 語 訳︼ し 五 ︒ 是 れ を 諸仏出 世 の 大意と 謂う ︒是れ を 如来甚 深 の秘 蔵と 名 づ く︒ 是 く の 如 き の 一大 因 縁 有 る に 由 り て ︑ 是 の 故 に如来是 の大経 を説く︒ ﹁何をもって︿大﹀ と するのか︒それはいわゆる仏陀達の深奥 な秘密 の 教えであ る仏陀にな る 可能性︵ 仏性 ︶であ る ︒この 意 義 によ っ て ︑大事と 言うのであ る ︒ ﹂ 解 釈 し て 言うには ︑今この経を説く 時︑ 釈 迦 仏 の 教 化 の終わり の日に臨み ︑意を 究 め て仏性 を示すので ある︒ い わゆ る成 道以 来 ︵ 仏が ︶ 相 手の素質に 応じて 説かれた一 切 の 教えを総 括し︑ 悉 く 全て 平等 な ︵ 仏の︶ 道を示し︑ 広 く今ただ一つの本性に趣くのである︒ 十 方世界の 一 切 の諸 仏もこれに同じくして︑ その意義 に二つ なく別のもの はな い︒ これを 諸 仏 が 世に出現 する 大きな 意 趣と 言う ︒ こ れを 如来 の甚 深 の 秘 蔵 と 名 づける ︒ このような 一 つ の 大きな い われ が有るこ とによって︑この故に如 来 はこの大般 涅 槃経 を説かれたもうのである︒ ⼀ ﹃大般涅 槃 経 ﹄ ︵ ﹃大正 蔵 ﹄ 巻 十二︑ p. 65 8c ll .21~2 2 ︶ ﹁何等 爲 大︒所謂諸佛甚深祕 藏 如來性是︒以是義故 名 爲 大 事︒ ﹂ ⼆ 成道 悟り︒ 悟 りを 開くこと ︒ / 釈尊が菩 提樹下で諸の魔 を 伏し︑ 悟 りを完成 したことをい う︒ /如来が言語によって示した教え︒ 言い表 し ︒ 三 機 機根のことを指す︒ 機根 教えを 聞 い て 修行をし得る能 力 ︒/衆生の根性・性質︒ 四 一味 事︵ 諸現象︶ または理︵ 本 質︶ の平等 で あ る こ と を ︑海水 のすべてが 同 一 の塩味 であ るこ とに喩 え る︒ また︑無差 別 であ るこ と︒ 五 無二 無別 対立も 差 別もない こと ︒/別々のもので はない こ と ︒

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︻テキスト︼ p. 240a ll .1~ 8 如是總門 一大因 縁即 攝別門無量因 縁︒以 其 衆 縁 不出一意︒ 問彼初 師 義無 因無説 ︒ 此 後 師 意 有 因有説 ︒ 如是二説何得何失 ︒或有説者 ︒二説 悉 得 ︒皆 依 經 典 不 相妨 故︒ 雖非 不然故説有無無而 非定然故不相違︒説經 因縁 應如是 知︒第二 辨教 宗 者 ︒ 此 經 宗 旨説者不同︒有師説言︒ 經 文始終 所 詮衆義 以 爲經宗︒ ︻書き下 し︼ 是く の如く 総 門 の 一 大 因縁 は 即 ち別門 の無 量 因縁 を 摂 す︒ 其 の 衆く の縁 を 以 て す と も 一意を出 でず ︒ 問 う ︑ 彼 の 初 師 の 義 は 因無くして説無し︒ こ の後の師の意は因有りて説有り︒ 是 くの如き の二説は何れの 得 ︑ 何 れの失な らん︒ 或 いは有るの説くは︑ 二説悉 く 得と︒ 皆 経典に依 りて 相い妨 げ ざるが故 なり︒ 然ら ず に非ざるが故に有無を説くと雖も︑ 無にして定んで然るに非ざ るが故に相い違わず︒経の因縁を説くこと応に是くの如く 知 るべし︒ 第二に教 宗 ⼀ を弁ずと は ︑ この経 の 宗旨 ⼆ ︑説 かば不同な り ︒有る師 の説いて言わ く︒経文 の 始 終の所 詮 の衆くの 義︑以 て 経宗 三 と為す と ︒ ︻現代 語 訳︼ このように総論の一大因縁は各論の無量の因縁を 含 ん でいる︒ それら多くの因縁があってもただ一つの意趣を出な い ︒ 問 う︑ かの最初 の師の意 義は因が無 ければ説法 する ことは無いと いう ︒ こ の後の師の考えは因が有って説法 が あるという︒ このよう な 二 つの説 は ど の 点で 正しく ︑ ど の 点で 誤っ ている の か ︒ ある いは ある説 で は ︑二つの説 はどち ら も す べ て 正し い︒ ︵ こ れら 二説は︶皆 経 典に 依っ ており ︑ ど ち らの説も お互いに矛 盾 せず同 時 に成り立つ も のだ から である ︒ ︵ こ れらの説が す べ て 正し いということは︶ そのとおりであるから︑ 有 因 ・ 無因を説いてい ると 言っても︑ 無 であってもはっきりとそうだと 言っている

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わけではな いので両者は違わな い︒経の因縁を説くことはまさにこのようであると 知 るべきである ︒ 第 二に 教 旨 を説くとは︑ こ の経の要点 を説くならば︑ 同じでは な い ︒ ある師が説いて言うには︑ 経 全体で書かれていること の多くの教 義 をその経の本旨とすると︒ ⼀ 教宗 教え ︒ ⼆ 宗旨 根本 の 趣 意 ︒ 一つの 宗 派の 教理や 宗 義の 要 旨︒ 三 経宗 或る経典 に説かれた教えの骨 格 となっている 主要点︒ ︵中村元﹃広説 仏教語大 辞 典 ﹄ よ り︶ ︻テキスト︼ p. 240a ll .8~1 5 對問而言︒即有 六六三十 六義︒所謂第一長壽因果乃至最 後諸陰法門︒或有説者 ︒四種 大 義 爲 此經 宗︒ 何等 爲 四 ︒ 一 者大 涅槃 圓極 妙 果 具 足 三 事 及與四徳︒二者 一 切衆生悉有佛 性︒煩惱 覆 故不能見︒三 者三寶 佛 性 同 體 無二︒四者闡 提謗法執性二乘︒悉 當 作佛 ︒如是四 義以爲 其宗 ︒ ︻書き下 し︼ 問いに 対 して言 わく︒ 即ち六六 三 十 六 義 有 り ︒所謂第 一 の 長 寿 の因 果よ り乃 ち最後 の 諸 陰 ⼀ の法門 に 至 る ︒或 いは有 る の 説 くは︑ 四 種の大 の 義 を 此の経 の 宗 と 為す ︒ 何 等 を か 四 と為す ︒ 一 には︑大 涅 槃 の 円 極 ⼆ の妙果 三 は三事 四 及び四徳 五 を具足す︒ 二には︑ 一切衆生悉 有 仏性 六 ︒ 煩 悩覆うが故に見るこ と能わず︒ 三には︑ 三宝 と仏性 七 は同体 に して無二なり︒ 四 には︑ 闡 提 ⼋ の謗法 九 ︑執性の二乗 ⼀〇 も︑悉 く 当に仏と作るべし︒ 是 くの如き四義 ︑以て 其 の宗 と為す︒

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︻現代 語 訳︼ 問いについて言う︒ す な わち 六 六︑ 三十 六の意 義 がある ︑ と ︒ つまり ︑ 第一の ︵ 仏 の ︶ 長 寿 の 意 義 から︑ 最後の 五蘊の集 ま りとしての 身心の 法門までで あ る︒ ある人が説くには︑ 四 種類の大の意義 を この経の旨 と なす︑ と ︒ 四 種類 とは 何か︒ 一 には︑ 大般涅 槃 と いう円満至 極のすばらしい結果は︑ ︵ 戒・定・ 慧の ︶三 つと︵常・楽・我 ・浄の︶四つの徳性 を具 え てい る︒ 二に は︑ 生きとし生け るものは︑ す べて生まれ な がらにして仏に な りうる可能性 を有してい る ︒ 煩 悩が覆ってい るため に 仏性 を見 る こ とができな いのである ︒三に は ︑ ︵仏・法 ・僧の︶三 宝 と 仏 性 と が ︑同一体 にしてただ 一 つである ︒四には︑ 一 闡提の経 の誹 謗 者 も︑ それぞれの本性 に とらわれ る ︵ 声聞 と縁覚の ︶ 二乗もみ な ︑ す べて 仏となる︒ 以 上の四つの意義 を ︑ そ の本旨 と なす の で あ る ︒ ⼀ 諸陰 個体︑ 個人 存 在を意味する ︒﹁ 陰﹂ は ﹁ 蘊﹂のことで︐五蘊をいう︒ ⼆ 円極 円満 至 極 ︒ 円 満 で あ り ︑ 究 極に 達 す る こ と ︒ 三 妙果 みごとな結果︒ 妙 因・ 妙 行 によって得た証果︒すなわち 仏 果︒さと り︒すぐれた最上の境地︒ 四 三事 戒・ 定・慧の 三学 ︒ 戒 つつ しみ︒ 戒め︒行い をつつ し む た めの 戒め︒ 戒めを守る ︒仏教に 帰依した者が守る べき行いの規則 ︒ 道徳 ︒ 定 瞑想 ︒静 かな 瞑想 ︒心の 安 定︒心の 安らぎ ︒ 心の 動 揺 を静 める こと ︒ 慧 道理を 選 び分け る 判断 をする心作用︒ 分 別判断 ︒ 分別し判断 す る心作用︒ 事 物や道理を認知 ・ 判断 ・ 推理する精神 作 用︒ よく分別する思 慮 ︒ 五 四徳 四つのすぐれた性質︒ さ と り の 四つの徳︑ ま たは 境地︒ ニ ルヴァーナの四つの 属 性を いう︒ ﹃ 涅 槃 経﹄ では 常 ・ 楽 ・ 我 ・ 浄の涅槃の四徳 を説 く ︒ 六 一切衆生悉有 仏性 生きとし 生け るものは すべ て 生まれながら に し て 仏 と なりう る 可能性︵ 仏性︶があ る ︑という 意︒ 七 仏性 仏の 性質︒仏と しての本 性 ︒覚者 ︵仏︶とな りうる可能 性 ︒大乗 仏 教で はこれ が す べての 人 間 ︑または存在に 具 わっているとい う ︒ ⼋ 闡提 一闡 提 ︵ icc h antik a ︶の 略 ︒ 原 義 は ︑ 欲 望 を い だ く 者 ︒ 断 善 根 者 ︒信 不 具 足 と も 訳 さ れ る ︒ 生 死 を 欲 し て 出 離 を 求 め な い 者 ︒不 成 仏 ︒ 成 仏する 素質・因縁をもたない 者 ︒ ﹃ 涅槃 経﹄で は 経の誹謗 者で ︑ ﹁ 一 切 衆 生 悉 有 仏 性 ﹂ の 唯 一 の 除 外 例 と し て 記 さ れ る ︒

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九 謗法 仏 法 を誹 謗するこ と︒仏 の 教えをそしり ︑正し い 真理をな いがし ろ にするこ と︒ 最大 の罪 の一 つ︒ ⼀〇 二乗 声聞 乗と縁 覚 乗の 二つを いう︒ 乗 は ︑ 乗り 物 の 意︒ 声開 とは ︑ 師 の教 え に よって悟 る人 で︑ 仏 の 教 えを 直 接開 き︑ 四諦の道 理 に よって さ と る人 た ち︑お よびそ の 立 場 を い う︒縁 覚 とは ︑理性を体 得 し て自らさ と る人 で︑仏 の 教 え によらず ︑ひとり で十 二因縁 の道渥 を 観 察し て さ とる人たち︑およびその立場 を いう︒大 乗の人たちからいえば︑この二 種の人 た ち︑およびそ の立 場は自 己 の完成 にとど まって︑多くの他人 の 救済に向 かわないから︑ 劣 った 立場であるとみるのである︒ ︻テキスト︼ p. 240a ll .1 5 ~2 2 或有説者 ︒出世因果以其爲 宗︒果即菩 提涅 槃︒因即 佛 性聖行︒如能陀章開菩提果︒ 哀歎章 中 開涅 槃果︒如來 性 品顯 佛 性因︒聖 行品 中 説 行徳因︒其餘諸品重顯因果︒故知 無上因果爲宗︒或有説者 ︒ 當常現常二果爲 宗︒所 謂 一切衆生 悉有佛 性 ︒是 顯當常如來 所證大般 涅槃︒ 是 明 現 常聖 行等因即 助顯 於果非爲正宗︒ ︻書き下 し︼ 或いは有る の 説くは ︑出世の因果其れを以て 宗 ⼀ と な すと ︒ 果 はすなわ ち菩 提涅 槃 な り︒因はす な わち仏性 聖 行 ⼆ なり︒ よ く陀章の菩提の果 を開く 三 が如く︑ 哀歎章 中 に涅 槃の果を 開く︒如来 性 品は仏性の因を 顕す ︒ 聖行品 中 に行徳 四 の因 を 説 く ︒ 其の余の諸品重ねて因果を 顕す︒ 故 に無上の因果を 宗 と為すことを 知る ︒ 或 いは有るの説くは︑ まさに当常と現常の二果を 宗 と為すと︒い わゆる一切衆生悉 有仏性 と は︑是れ当常 を 顕 し︑如 来 が 証 する所の大 般 涅槃 五 は是れ現常を明かす︒聖行 等 の 因 は︑即ち果を助顕す︒正宗 六 と為すに非ざるなり︒

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︻現代 語 訳︼ ある説では︑ 仏が世に現れた原因と結果を本旨とな す︒ 結 果と は悟りと涅 槃である ︒ そ の原因とは仏 性と聖行である ︒ 純陀 品が悟りという結果を説いているように︑ 哀 歎品に涅 槃という 結果 を説明す るので あ る︒ 如 来 性 品 は 仏 性 と いう原因 をあら わ し︑ 聖行品 中 には修行の特性 と いう原因 を説いている︒ その他の諸品は重ねて原因 と結果をあらわしている︒ だから最高の原 因と結果とが本旨だと 知 る のだ︒ またある説では︑ 実現されるべき常住性 と現在の常住性 と を本旨としている︒ 所 謂一 切衆生悉 有仏性 と は︑ 実現されるべき 常住性 で あり︑ 如 来が 体 得 した偉大 な涅槃 は 現在の獲 得されてい る 常住性 を 明か してい る ︒ ま た 清 らか な行 などの原因 は 結果 を助 けあ らわし出 すものである から︑正しい本旨と はしな いのである ︒ ⼀ 宗 根本 の 原理︒ ⼆ 聖行 涅 槃 経に説く︑五行の一つ︒菩薩が修する 戒 ・定・慧の行︒ 三 開菩 提 果 菩提 という結果 について解 説するの意︒ 四 行徳 仏道を修行した結果︑身 に 具 わった徳︒ 五 大般涅 槃 すぐれて完全なさ とり の境地︒ また釈尊の偉大な死を いう︒ 六 正宗 釈尊から代々の祖師 達 が連綿と正し く伝えてきた正し い宗旨︒ ︻テキスト︼ p. 240a l .22~p .240b l .1 0 若據佛 意欲使衆生各 證 當 果︒但 當 果未非 恐 難取信︒是故自 説 所證將 成 物 信︒以是 義 故 二果爲宗︒但從現立題故 名涅 槃也 ︒或有説者 ︒ 圓 極 一果爲是經 宗 ︒所 謂諸 佛 大 般 涅 槃︒所以從宗而立題名︒瓔珞 經 六 種瓔珞爲 宗︒大般若經 三 種般若爲 宗︒

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當知 是 涅 槃 經 一大 涅槃 爲宗 ︒ 或 有 説 者︒諸 佛祕 藏無二實 性以爲經 宗︒如是實 性離相 離性故於諸門無障無礙︒離相故不垢不淨 非因非果不 一 不異非有非無︒以離性故亦 染亦淨爲因爲果亦一亦異爲有爲無爲︒染 淨故或名衆生或名生死 ︒亦名如來亦名法 身︒爲因果故或名 佛 性 名如來 藏 或名菩提 名大 涅槃︒ 乃 至 爲有無故名爲二諦︒非有無 故 名爲 中 道 ︒ 由非一故能當 諸門 ︒ 由 非異 故 諸門 一味 ︒如是無 二祕 藏以爲是經 宗旨︒ 但 其題目之中 不能並偏存諸名︒且 隨時 事 立 涅槃 名︒ ︻書き下 し︼ 若し仏の意 欲 に 拠 ら ば︑衆生をして各当果 ⼀ を証 せし め ん と 欲 す ︒ 但し 当果 は未だ 信 を 取 ること難きを恐 る る に 非ざ る に あ らず ︒ 是 の 故 に 自 ら證 する所 を 説 い て将 に物 ⼆ の 信 を成 ぜん とす︒ 是 の義 を以 ての 故に二果を宗 と為す︒但 し 現に従りて題を 立つるが故に 涅槃 と名づ く なり︒或いは有るの説くは︑円 極の一果を是の経宗と為すと ︒ 所 謂 諸仏の大般涅 槃 三 なり︒ 宗に従 いて題の名を立 つる所 以 は︑ 瓔珞 経 四 は六 種の 瓔珞 五 を 宗 と為す︒大般若経 六 は三種の般若 七 を宗 と為す ︒ 当 に 知 る べ し︑ 是の 涅 槃 経は一大涅槃 を宗 と為す と ︒或いは有るの説くは︑諸仏秘蔵 ⼋ の無 二の実 性 九 を以 て経 の宗と為す︒ 是 く の如き の実 性は︑相を 離 れ ⼀〇 ︑性 を離るるが故に︑諸門において障無く︑礙無し︒ 相 を 離 れ る故に 垢 なら ず浄 なら ず︑ 因 に 非 ず果 に 非 ず ︑ 一 なら ず異 なら ず︑ 有に非 ず 無に非 ず ︒ 性 を離 るを以 て の 故 に 亦 た 染︑ 亦た浄なり︑ 因たり果たり︑ 亦 た一亦た異︑ 有為 ⼀⼀ たり無為 ⼀⼆ たり︒ 染と浄とのゆえに或は衆生と名づけ︑ 或は生死 ⼀三 と名づけ︑ 亦た如 来と名づけ︑ 亦た法身 ⼀四 と名づ く ︒ 因 果 を 為すが故に或は仏性 ⼀五 と名づけ︑ 如 来蔵 ⼀六 と名づけ︑ 或 は菩提 ⼀七 と名づけ︑ 大 涅槃 と名づ く ︒ 乃 至 有 無た るが故に名づけて二諦 ⼀⼋ と為す︒ 有無に非ざるが故に名づけて 中 道 ⼀九 と為す︒ 一 に非ざるに 由 るが故に能く 諸門に当る ︒ 異に非ざるに 由 る が故 に︑ 諸 門 は一味なり︒ 是くの如き無二の秘蔵 を以て是の経の宗 旨 と 為す︒但 し其の題目の中 に並 べて偏に諸名 を存す る能わず︒且 く 時 事に随いて 涅槃の名 を立つ︒

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︻現代 語 訳︼ もし仏の意欲に拠るならば︑ 衆生にそれぞれ未来の仏果を 獲 得 させようとされるであろう︒ た だし︑ 未 来の仏果については︑ ︵衆生がその獲 得を︶信ずるこ とが困難 で あ ると 恐れ ないわけ では な い ので︑それで自ら自分の 覚 りを説いて︑それで衆生に 信 じ させ よう とされ た の で あ る︒こ の よ う な 理由 に よ って︑ ︵ 当 果 と現果 の ︶二果 を経 の 本旨 とす る︒た だ し︑ 現果 に 従 っ て 題 を 立ててい るので︑ 涅槃 と名づけ るので あ る︒ あるいは 別の 説では︑ 円満 で究極 的 な果 をこの経の本旨 と す る ︑ と いう︒ い わゆ る諸 仏の大般 涅槃 ︵す ぐれ て完全 な悟りの境 地︶である︒ 形を こえ て いる た めに ︑ け が れ ても いず ︑ 清 ら か でもな く ︑ 原 因でもなく結 果でもなく ︑ 一つでも異なるものでもなく ︑ 有 でもなく無でもな い︒ 性質を こ えているた め に︑ 染でもあり︑ また浄でもある ︒ 原因でもあり結果でもある ︑ 一 つのあり方で も あり︑ 異なるあり方でも ある︒ 有 為でも あり︑ 無為でも ある︒ け がれてい るこ と︑ 清らか で あるこ と から︑ あ るいは衆生 と 名 付 け︑ あるいは生 死 と名 付け︑また︑如 来 と名 付け︑法身とも名づけ る︒ ︵修行という ︶ 原因 と結果︵としての仏果 ︶とい う因果関係が成立しているので︑ あ るいは仏 性 と 名付け︑ 如来 蔵と 名づけ︑ あるいは菩 提 と名 付け︑ 大 涅槃 と名づけ る︒ また︑ 有無である た めに二諦と 名 づける のである ︒ 有無ではな い た め に︑ 中道と 名 づける ︒ 一つではな い た め に︑ 仏 の 諸の教えにか なうことができる︒ 異 なるものではな い という理 由によって︑ 諸の教えは平 等で無差別な ものである ︒ このような 二 つとな い 仏の秘密の教えの蔵を この経の本旨と す る ︒ 但し︑ その題目の中 に諸の名 前をす べ て入れるこ と はできない︒ 仮 初 め に 時 や事 柄に従って涅 槃と いう名前を立 てたのである ︒ 経の本旨によって︑ その題名を名づけるのはどのような理 由によってか︒ 瓔 珞経は 六 つの種類の瓔珞をなしている ︒ 大般若 経は︑ ︵ 実相 ・観照・文 字 の︶ 三つ の種類の般 若 を 本 旨と なし ている ︒ この涅 槃 経は︑一大涅 槃を本旨としている と いうこと を 知 るべきである ︒ あるいはまた別の説では︑ 諸 仏の秘密の教えの蔵の二つと無いその真理︑ 経の本旨とな す︑ と 言 う︒ この ような真理は︑形 と 性質 とを超えているので︑さまざまな面において障害がな い︒

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⼀ 当果 当来の 果 ︒未 来の 果報︒ ⼆ 物 生命︒ 生 きもの︒ /衆 生のこ と ︒ 世 の人び と ︒人 民︒ 三 大般涅 槃 すぐれて完全なさ とり の境地︒ また︑ ︵ 釈尊の︶偉大な死を い う︒ 四 纓絡経 ﹃ 菩 薩纓絡経﹄ ︒ 種々の大 乗の法門を 説く現在法経︵ 現在現われている法についての経︶ ︒ 五 瓔珞 仏像 の首 飾り や︑堂︑宮 殿 の飾り に 用いるもの︒宝を連ねたひも︒ 六 大般若経 ﹃大般若波羅蜜多経﹄ ︒ 七 般若 さとりを得る真実 の智慧︒さとり の 智慧︒真実を見る智慧の眼︒存 在のす べ てを全体的に把捉するにいたる︒善 悪といった分別から離 れた智慧で 無 分別智と呼ばれる︒ ⼋ 秘蔵 仏の 教えの 秘 密の蔵 ︒ 九 実性 本性︒ 真 如の異名 ︒ ⼀〇 離相 仏の 所説 が一相一味で ある こと を表 す 三 相の 一つ ︒ニル ヴ ァーナに 相の ない こと ︒ ※三 相 ①生 死の 相の ない 解脱 相 ②離相 ③生 死涅槃 の 相もなく︑ 無 相ももたない滅 相 ︒ ⼀⼀ 有為 つくられたものの意︒ 因と 縁の和合によってつく りだされた︵為作 ︑ 造 作︑ 有作の︶諸現象を いう︒ 因縁 に よってつくられた 生滅変化 するもの︒ 生 ・住・ 異 ・ 滅 の 四 つの相を とる無 常 なもの︒ つくら れ たもの︒ 直接 原因 ︑間接 原 因 に よって成 立し た事 物︒無 為 の対︒ ⼀⼆ 無為 つくられたものでないもの︒ 種々の原因・条 件 ︵ 因縁︶に よって生 成されたものではない 存在︒因 果関係を離れている 存 在︒ 成立・破 壊を超えた超時 間 的な 存在︒ 生滅変化を超えた常住絶対の真実︒現象 を はなれた絶対的なもの︑ 無 限 定 なものをさす 語︒ ⼀三 生死 生と死︒ 迷 い の世 界︑ 流転 の姿を 表す代 表的なこ とば︒ 迷 いのあり 方︒ 迷 い の 生 活 ︒ 現実 社会 の苦しみ︒ 生 まれか わ り死 にかわっ て︑ 絶える こ との ない 迷いの 世 界 ︒ 輪 廻 に同 じ︒ ⼀四 法身 法仏・法 身仏・自 性身・法性身・宝仏などともい う︒法の集ま り︒ 真理を身体としているものの意︒真理そのもの︒永遠の理法とし て の仏︒ 本 体 と して の身 体︒そ れ は 純 粋で︑差 別相 のないものであ る ︒そ れは空と同じ であ る︒ ⼀五 仏性 仏の 性質︒仏と しての本 性 ︒覚者 ︵仏︶とな りうる可能 性 ︒大乗 仏 教で はこれ が す べての 人 間 ︑または存在に 具 わっているとい う ︒ ⼀六 如来 蔵 如 来 の 胎 の意で︑ 胎と は母 胎と 胎児の ど ち ら をも意味する ︒成長 して仏となる べ き 胎 児とも︑ その 胎に 仏を 宿すものとも と れ る が ︑ い ず れにせよ 単に心と してで は なく︑衆生 を その 存在の可能 性 全体からとらえた表現で あ る ︒ 同 時 に︑構造的に はなお 客 塵 煩悩につきまとわ れ ている 状 態で︑ 仏 と同 じで はない ︒ 凡 夫 の心の う ちに 存している如 来 ︵仏︶とな りうる可能 性 ︒衆生 の うちに あ る︑如 来たる べき 因︒仏とな り う る 清 浄 な 可 能性を内 に 蔵 すること︒万 有の諸相 の成立する根源 だ と考えられた︒

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⼀七 菩提 煩悩を断じて得たニルヴァーナをい う︒さと りの境地︒さと り の智慧︒ ⼀⼋ 二諦 二 つ の 真 理 ︒ 真諦 ︵ 第 一義諦 ︒ 真 実 の 見 方 ︶ と俗諦 ︵世俗諦 ︒ 世俗 一般の 見 方 ︶ ︒真 実と しての 真 理と 世俗 の生 活の 上での 真 理 ︒ 前者 は聖 人の見ると こ ろで あ り ︑後者 は 凡 夫 の 知 ると ころで あ る ︒ ⼀九 中道 二つのものの対立を離れていること︒断・ 常 の二見︑あるいは 有・ 無の 二 辺 を 離 れ た 不 偏 に し て 中 正 な る 道 ︒い ずれ に も と ら わ れ ずに 現実を正しく見きわ め ることをいう︒ ︻テキスト︼ p. 240b ll .1 0~27 問六 師所説 何 者爲 實︒ 答或 有説 者︒ 諸説 悉 實 ︒佛 意無 方無不 當 故 ︒ 或有説者 ︒後 説爲實 ︒ 能得 如來無方意故︒並容前説諸師 義故︒當 知是二説亦不相違也︒總説雖然︒於 中分別 ︒ 且依二門 以示其 相 ︒ 謂 涅 槃 門 及 佛 性門 ︒涅 槃之 義 六 門 分 別 ︒ 一 名 義門 ︒二 體相 門︒三通局 門 ︒ 四 二滅 門︒ 五三 事 門 ︒六 四徳 門︒ 名義 門内 翻名釋義 ︒ 初 翻名 者諸 説 不 同︒ 或説無翻 ︒或説有翻 ︒ 有翻之説雖有 諸宗︒今 出一義 翻爲滅度︒ 其文證 者 如 法 花 經 長行 言︒如來於今日中 夜入當無餘涅 槃︒下 偈 頌 曰︒ 佛此夜滅度 ︒如薪盡火滅︒又此 大經 第一 卷云︒隨其類音普 告衆生︒今日如來將欲涅 槃︒六卷泥洹 此 處 文 言 ︒悟惔寂滅大牟尼尊 告諸衆生︒今當滅度 ︒ 以是 等文當 知 滅度 正 翻涅 槃也︒無翻之説亦有諸宗︒且 出 一義︒ 彼 師説 言︒外 國 語容 含多名訓︒ 此 土語偏不能 相當︒是故不可一名而翻 ︒ ︻書き下 し︼ 問う ︑六師の所説 ︑ 何 者 を か実と為 す︒答う︑或いは有る の説 くは︑ 諸 説 悉 く実なり ︒仏意は無 方 ⼀ にし て当 たらざ る 無 き が故なりと︒ 或いは有るの説くは︑ 後説を実と為す︒ 能く如来 の無方の意を得 る が故なりと ︒ 並びに前説の諸師の 義 を容 れる

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︻現代 語 訳︼ が故な り ︒まさに 知 る べし︑ こ の二説も また相違せざる こ とを ︒総説 ⼆ は然 りとい え ども︑中 に お いて分 別 せば︑しばらく二 門によりて以ってその相を示す︒ 涅 槃門及び仏 性 門をいう︒ 涅 槃の義は 六 門 を分別す︒ 一 は名 義 門 ︒ 二は体相 三 門︒ 三は通局 四 門︒ 四に二滅 門︒ 五に三 事 五 門︒ 六 に 四徳 六 門︒ 名 義 門の内に名を翻じ 義 を 釈す︒ 初 め名を翻ずるは︑ 諸説不同なり︒ 或 いは︑ 翻ずるなしと説く︒ 或いは︑ 翻ずる有りと説く︒ 翻ずる有りの説は︑ 諸宗有りといえども︑ 今一義 を出して 翻じて滅度と為す︒ その文證は︑ 法花経の 長行に言う が 如し︒ ﹁ 如 来 今日の中 夜 七 において︑入りてまさに無余 ⼋ 涅槃 に 入 るべ し 九 ﹂と︒下 の偈頌 に曰 く︑ ﹁仏この夜滅度す るこ と︑ 薪尽きて 火滅す る が如し ⼀〇 ﹂と ︒又 此 の 大 経 第 一 巻 に 云 く ︑﹁ 其 の 類 の 音 に 随 い て 衆 生 に 普 く告 げて︑今日如 来まさに 涅槃せ ん と欲す ⼀⼀ ﹂と︒六 巻 泥 洹 の 此の 処の 文に言 は く︑ ﹁悟 惔 ⼀⼆ 寂滅 なる大 牟 尼 ⼀三 尊は諸の 衆 生に今当に滅度すべしと 告 げたもう ⼀四 ﹂と ︒こ れ ら の 文 を 以 っ て ︑当 に 知 る べ し ︑ 滅 度 は 涅 槃 と 正 し く 翻 ず る な り と ︒ 翻 ず る 無しの説もまた諸宗 あり︒ しばらく一義 を出す︒ 彼の師の問いて言わく︑ 外 国語は多くの名訓 を容 含す︒ 此 の土の語は︑ ひと えにして相当るこ とあたわず︒この故に ︑一名にして翻ずるべからずと︒ 質問する ︒ 六 師の説の いずれが真 実 である か ︒答えて言う︒ある人 の説くには︑ ﹁ 諸 説は全 て 真実であ る ︒ 仏の心 に決ま っ た方 向性 はなく︑それを定め る ことなど出来ないから だ﹂と︒ また別の 説では︑ ﹁後の 説 を真実とす る ︒ よ く如 来 の 心に決ま った方向 性がな い ことを 知 っている からだ ︒ これは前 の諸師 の説 の内容 も 受 け入 れている た め ︑ こ の二説 の 間には違 いがな い こ と を知 るべ き だ ﹂ とい う ︒ 総 説はこ の 通 り で あ るけ れ ど も︑ そ の 内 容 を細か く 分 別 す る 場 合 は︑ 二 つ の 方 向性 に よ っ て そ の 様相を示すことにしよう︒ その方向 性 と は涅 槃門と仏性 門 とで ある ︒ 涅 槃の意味は 六 つに分けられる ︒ 一つは名 称と 意 義 の方 向 性 ︒ 二 つは本 体 とその相との方向 性︒ 三つは全体に通じるこ と︑ 及び一部分に限るこ と ︒ 四つは二滅︒ 五 つは戒 ・ 定 ・ 慧の 三学︒ 六 つは涅 槃の四徳︒ まずは名 称と 意 義 の方向 性 について翻 訳して意味を説 明する ︒ 初 め に︑ 名 称 の翻 訳については︑ 諸 説は一 致 しない︒ ある説は 翻訳できない と言い︑ ある説では 翻 訳できるとし︑ 翻 訳できるとす る説の中 でも︑ さ らに意見が分

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る﹂ かれたが︑ 今は一つの意味を出して滅度とされている ︒ そ の証拠 は ︑ 法 華経の長行 に 言う ﹁ 如 来 は 今日の 中 夜に無 余 涅 槃 に入 とい う 文 に あ る︒ その下 の 偈頌 には ﹁仏はこ の 夜に︑ 薪が燃 え 尽 きて 火 に 滅す る か の ように 滅 度す る﹂ とある︒ また大 涅 槃経 の第 一巻には ﹁ その類 に 従って 衆 生に 普く告 げ る︒如 来 は今 日ま さに 涅槃に 入ら ん と す る﹂とある︒ ﹃六 巻泥洹 ﹄ のこ の 場 所 の 文 に ﹁ 素 晴 らしく心静か な状態にある偉大 なる聖 者 が諸 々の 衆生に告 げ る ︒ 今 ま さに 滅 度す るで あろう ﹂ とある︒ こ れ らの文 に よ っ て ︑ 滅度を涅 槃と翻 訳 すると 知 る べ きだ ︒ 翻 訳できな いと いう説 にも様 々な 意見 がある が ︑ いま 一つ の 意見を出 して おこ う︒ 彼の 師が言 う には︑ 外 国 語 は多 くの名称 と意義 を 内包している ︒ 此 の土地 の 言葉は偏っており︑ 一 つの言葉で言 い表すことはできな い ︒だから︑一つの名称に翻訳できな いと︒ ⼀ 無方 方向 性 が 無限 定な こと ⼆ 総説 まとめて 説くこと︒一般性︒ 三 体相 本体 すな わち特質 と形相 ︑ すが た︒ 四 通局 通と は一般に 行き渡 る こと ︒局と は 一 部 分に 限る こと ︒ 五 三事 戒・ 定・慧の 三学 ︒ 六 四徳 四 つのすぐれた性質︒涅 槃 の常・楽 ・我 ・浄の徳性︒ 七 中夜 夜の中ごろの部 分 ︒ 夜 なか︒ ⼋ 無余 死後に生まれ変わ らない こ と ︒ 九 ﹃妙 法 蓮 華 経 ﹄ 序 品に ﹁如來於今日中 夜 當入無 餘 涅 槃 ︒ ﹂ とあ る︵ ﹃大正 蔵 ﹄ 巻 九 ︑ p. 4 b ︶ ⼀〇 ﹃妙 法 蓮 華 経 ﹄ 序 品の 偈 に ︑ ﹁佛此 夜 滅度 如薪盡火滅﹂とある︵ ﹃大正 蔵 ﹄ 巻 九︑ p. 5 a ︶ ⼀⼀ ﹃ 涅 槃経 ﹄ 三 六 巻 本︵ 南 本 ︶ 巻 第 一 に ︑ ﹁ 隨 其類 音普告 衆 生 ︒ 今日如 來 應供 正遍 知︒ 憐愍衆生覆 護 衆生 ︒ 等 視衆生 如 羅睺羅︒ 爲作 歸依爲 世 間舍 ︒ 大 覺世尊 將 欲 涅 槃 ︒ ﹂ と ある ︵ ﹃ 大 正蔵 ﹄ 巻十 二︑ p. 605a ︶ ︒

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