八 七 六 五 四 三 二
むすび 添書き中止の理由 ﹁庭野法座﹂添書きのねらい ﹁庭野法座﹂添書きの意図 佼成会の﹁法座﹂ 霊友会の法座の意味 霊友会塁茶羅の添書き 佼成会勧請塁茶羅の添書き 塁茶羅の勧請 はじめに
大林宏至
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佼成会では、入会後礼拝の対象として会員すべてに総戒名を下付した。さらに信仰が深化し、勧誘活動により自 分が導いた﹁子﹂の数が三○人︵世帯︶ないし五○人︵世帯︶に達すると、支部長など支部幹部の推薦により会長 佼成会では、昭和一一一一年の教団創立から同四一一年一二月までの約一一一○年間、会員の信仰の厚薄に応じ礼拝の対象 い として﹁総戒名﹂や﹁品1茶羅﹂、﹁守護神﹂の勧請を行なってきた。 会員に授与した塁茶羅の中で、昭和一一一一年から同一一六年頃までの受茶羅には庭野日敬開祖の直筆による、﹁庭野 法座﹂の添書きと﹁庭野好造﹂の円型朱色の印影が加えられている。それは塁茶羅の左側中央部分より下部に向け 墨筆を用い−行で書き入れてある。佼成会創立から二一一一年頃までの塁茶羅には庭野法座の上部に、会員に勧請した 日付もしくは神入れしたと思われる日付がある。二一一一年以降から一一六年頃までの塁茶羅では年月日は省略されて単 に庭野法座の添書きと庭野好造の印影のみがある。本稿ではその添書きの意味と添書きを中止した理由を考察し、 庭野開祖の教団内の位置を明らかにする。 ものである。 立正佼成会︵以下、﹁教団﹂または﹁佼成会﹂という︶の歴史の視点として、庭野日敬及び長沼妙佼両師相互の 協力と信仰的緊張関係を認識することがひとつの大きなポイントではなかろうか。この小論は、異茶羅の添書きに ついての考証を通じて、そこに込められた庭野日敬師の教団初期における微妙な教団内の立場を読み取ろうとした はじめに 塁茶羅の勧請 145 立正佼成会勧請塁茶羅の添書き「庭野法座」に関する一考察
塁茶羅の形態には大小一一種類がある。小は会員各家に授与する巨受茶羅︵縦一一五・八m×横一四・八m︶と本部施 設の御宝前や旧数字支部長に授与した、より規格の大きい塁茶羅があった。家庭用塁茶羅に比してそれらを一般的 には﹁大量茶羅﹂と称している。大量茶羅はすべて庭野開祖の直筆により図顕したものである。佼成会が勧請した 日蓮図顕の塁茶羅には大量茶羅は存在しない。 で継続した。 で継続した。 146 ⑫ .副会長の許可を得て自受茶羅が勧請される。拝受した会員は冒受茶羅を御宝前の中心に祁り、総戒名はその脇に祁っ た。塁茶羅を拝受した会員は﹁幹部﹂と呼称され、拝受した日にちをその家の﹁御命日﹂と定めた。毎月御命日に は幹部は﹁御宝前﹂を清拭し新しい生花や野菜・生魚などのお供物を供え、導いた子らと経典を読謂し、そのあと 参加者やその関係者の信仰状況について相互に情報交換を交わすなどして、﹁親子関係﹂の件を深めた。 佼成会の会員に勧請された星茶羅には大別して二種類ある。そのひとつは日蓮が図顕した白受茶羅の複製と庭野開 祖が日蓮の塁茶羅をモデルに独自に図顕したものである。 創立から昭和二○年代の中頃まで会員に授与する画受茶羅は、日蓮が弘安四年︵一一一八一︶に図顕した口受茶羅の図 ⑬ 版を縮小印刷−︶、庭野開祖が添書きして長沼脇祖と共に神入れをしたものである。本部修養道場完成を契機に庭野 開祖は日蓮の受茶羅をモデルにした佼成会独自の塁茶羅を直筆により作成して道場御宝前に祭肥した。これにより、 昭和二八年四月以降、会員に授与する塁茶羅は庭野開祖直筆の大星茶羅を縮小印刷したものに変わった。それらの り 冒受茶羅に庭野開祖・長沼脇祖は神入れをして会員に授与した。この冒受茶羅の授与は同四一一一年の本尊勧請形式改正ま で継続した。受茶羅の勧請式は昭和一一一一年一○月一一一一一日の第一回を皮切りに同四一一年一一一月一一六日の第一一六九回ま
本稿では﹁庭野法座﹂の添書きの意味を取り上げ考察を加えることを中心として進めるので、庭野開祖図顕の塁 茶羅と日蓮図顕塁茶羅の相違や庭野法座以外の添書きの詳細については次回に譲ることにする。 と﹁花押﹂が存する。 日蓮図顕の白受茶羅は先に述べた様に縮小印刷したものなので、庭野開祖による添書きは日付と庭野法座の文字と 印影のみである。しかし、大宮受茶羅は庭野開祖が日蓮の塁茶羅をモデルに独自の視点から題目を始め諸仏・諸菩薩 の名号や妙法蓮華経の経文の一部などを書き入れたものである。その塁茶羅の左右両端に、大量茶羅図顕の意図や 祭祁する目的、勧請する意味を添書きしてある。 庭野開祖が最初に図顕したものには、昭和二一一一年一一一月一一八日の本部修養道場完成時、教団の本尊として祭祁し た大量茶羅がある。この塁茶羅の添書きには庭野法座の文字は見当たらず、図顕の趣意や法華経の流布、会員各家 肋 の繁栄と信仰、心の増進を祈念する意の文字と﹁立正交成会会長日敬﹂の文字と﹁花押﹂が残されている。 また、一一四年二月一一日、庭野開祖が会員の為に初めて授与した大星茶羅がある。その添書きは本部修養道場建 創 設に建設委員長として昼夜を問わず献身した佐野元章元総務の努力を称え顕彰したものである。その後一一八年四月 二八日、庭野開祖は仏教伝来一四○一年を記念して、当時の支部長全員のもとに授与した大星茶羅がある。これら はいずれも、日蓮図顕の複製塁茶羅添書きの位置には日付と庭野法座と印影に替わって﹁立正交成会会長日敬﹂
二佼成会勧請塁茶羅の添書き
霊友会塁茶羅の添書き 147 立正佼成会勧請塁茶羅の添書き「庭野法座」に関する一考察⑳ 霊友会の会員組織は、御旗支部から枝分かれした支部、その支部の下部組織として法座があ伽ソ法座を単位に会員 が組織される。支部・法座には個人名を冠している。庭野開祖は入会して二ヵ月後には塁茶羅を拝受し﹁庭野法座﹂ を名乗り、入会一年半後の昭和二一年四月一一四日には新井支部の副支部長に任命されている。庭野開祖の導きの子 長沼脇祖も入会二ヶ月後には﹁長沼法座﹂を持った。このように霊友会では﹁法応﹂は組織の単位を意味して使用 している。また法座は御宝前の意味でも使用されている。 したがって霊友会の塁茶羅に添書きしてある﹁小谷法座﹂の意味は、霊友会の会員はすべて小谷喜美元会長から 枝分かれした、小谷会長の﹁子﹂であるということにあり、逆の意味で同会会員の﹁親﹂は﹁すべて小谷会長に帰 て て い い る る 四 ○ ○
四霊友会の法座の意味
庭野開祖は次女の病気を契機に昭和一○年八月、霊友会に入会した。同年一○月一日には同会の塁茶羅を拝受し 、 いる。庭野開祖は長沼脇祖を同一一年一月頃に導いた。脇祖は同年四月一日に開祖同様の霊友会昌ヱ茶羅を拝受し 148 霊友会の塁茶羅は佼成会と同様に日蓮が弘安四年に顕わした塁茶羅の印刷縮小したものである。その左下には添 書きがある。佼成会が今でも保管している霊友会の受茶羅には、手書きによる﹁昭和一一一一年四月一日﹂の日付けと ﹁小谷法座﹂の文字、霊友会の四角形朱色の印影がある。佼成会の添書きとの相違は、日付けと小谷法座が行を変 えていること、印影が教団名であるのに対し、佼成会のそれは﹁庭野好造﹂個人名であることの二点である。 霊友会では現在も塁茶羅を授与している。しかし、小谷喜美会長逝去後塁茶羅の添書きは﹁小谷法座﹂から﹁霊 友会﹂に変えている。日付けは塁茶羅入神の年月日が今でも書き込まれている。佼成会では﹁法座﹂と言えば組織単位にリーダーを中心として円座を組み、会員が相互に個人の苦悩を語り、そ の解決を図る場であり、また教義や行事の執行予定を伝達する場であると一般的には理解されている。 しかし法座が前述の意味で使用されるようになったのは佼成会創立後八年を経て、会員数が飛躍的な増加を見せ 四 はじめた昭和一一一年七月以降である。当時佼成会の施設は唯一、一一五坪・一○国宜一一間の本部道場があるのみで、同 年末に会員数が約三一一○○世帯を超えると参拝者を建物内に全員収容できず、本部道場の庭にむしろを敷き、施設 の不足を補なうようになった。翌一三年末には一万世帯に達した。 戦前戦中には会員は入会時に庭野開祖・長沼脇祖から直接の指導を受けるのが一般的であったが、この二一一年頃 になると入会者数一日平均約二○名を数え、両師だけの指導では不可能となり、支部毎に車座を形成して支部長よ り指導を受ける形態が自然に定着した。その形態を当初は﹁法論座﹂あるいは﹁車座﹂と称していたのが﹁法座﹂ 画 という呼称に定着したものと田心われる。 従って霊友会と佼成会において使用している法座の意味は基本的には相違している。しかし、﹁庭野法座﹂の添 書きは佼成会創立初期から昭和二四から二五年頃まで見られる。また佼成会でもブロック制施行後﹁地区法座﹂と いう言葉を使用している。これは組織としての法座を意味しているので、あながち佼成会の法座と霊友会のそれと は全く相違しているとは云えない。しかし霊友会の影響があったことは否めないのではないだろうか。
五佼成会の﹁法座﹂
す﹂ものであることを強調している。その意味合いは現在でも変わっていない。 149 立正佼成会勧請塁茶羅の添書き「庭野法座」に関する一考察六﹁庭野法座﹂添書きの意図
根本的には庭野開祖は教団内の秩序を明確にする意味を含めたと考えられる。その理由の一つには庭野開祖と長 沼脇祖との関係を会員に認識させることであった。二つには名目上の会長村山日雲や幹部との関係があった。 第一点は、霊友会の小谷喜美会長が会員すべての親であると同様に、立正佼成会は庭野日敬を基点とした会員組 織であり、会員はすべて庭野の﹁子﹂であることを暗黙の内に強調したと思われる。 庭野開祖と長沼脇祖の関係は、両師が霊友会会員であった時には長沼脇祖は庭野開祖の導きの子である。だが佼 成会を創立した時点、それ以降は有力な同志である。さらに脇祖の発言は庭野開祖の﹁磨き役﹂に徹しようとする “ 脇祖の気概により、庭野開祖の発一一一一口よりも強力であった。また、長沼脇祖は開祖より一七歳年長である上に、社会 的知識、経験は開祖より豊富であった。さらに脇祖の導き系統の会員数は庭野開祖のそれを超えているばかりでな 四 く、長沼脇祖は霊友会当時の発音修行により、壷垂感指導に優れ、教団の重要事項の決定や会員の信仰指導に決定的七﹁庭野法座﹂添書きのねらい
150 ところで、庭野開祖はなぜ﹁庭野法座﹂と添書きをしたのだろうか。その理由の一つは、庭野開祖が霊友会の巨受 茶羅に倣ったと思われることである。二つには塁茶羅は身延参拝の際には個人でも土産同様購入できること。また 他の教団でも会員に頒布しており、佼成会勧請の塁茶羅と他の塁茶羅との相違が不分明である点からその違いを強 調する意味を含めたのではないだろうか。三つには塁茶羅は印刷物であり、塁茶羅に神入れしてあるとは言え﹁神﹂ は不可視である。そこで開祖の肉筆を加えることにより塁茶羅に生命を吹き込んだのではないのだろうか。添書きのある塁茶羅の勧請は昭和二五年頃までで終わっている。その理由はまず、庭野開祖の立場が時間の経過 と共にその実績により強化されたことによる。 開祖は昭和一七年五月、教団最初の施設﹁本部道場﹂の建設を期して、牛乳配達業をやめて布教に専念した。し かし村山会長や他の幹部は布教と職業を兼ねていた。 昭和一八年には庭野開祖・長沼脇祖の杉並警察署拘留を契機として両師が実質的な教団の責任者に就いた。この 一八年の事件では富樫昌代・森田育代二人の支部長を残して一一○数人の支部長と村山会長は退会し︵石原副会長は 一五年頃既に退会していた︶、佼成会創立以来の古参幹部のほとんどが姿を消した。 そして昭和一一○年には長沼脇祖を通した神示から幹部や会員に庭野開祖を﹁会長先生﹂、長沼脇祖は﹁副会長﹂ 一一つには佼成会の実質的な布教や運営は庭野開祖・長沼脇祖が担っていたが、発足当時の便宜的な手法により、 ㈱ 村山旦裳を名目上の会長に立て、副会長に開祖の元奉公先、王人石原淑太郎を据えた。そして庭野開祖は教団組織上 総務の役を、会計には脇祖の夫長沼謙次をあてた。そこで会員に真実の指導者が誰であるか実質的な手法で、認識 させるため幹部に与える星茶羅に添書きしたと考えられる。 三つには教団幹部間の秩序維持の必要性があった。昭和一一○年の神示があるまで開祖は﹁庭野先生﹂脇祖は﹁長 沼先生﹂と会員から呼ばれていた。また、幹部の間では役割の違いはあっても権限のヒエラルキーはなかったこと から、﹁庭野さん﹂﹁長沼さん﹂と互いに姓を呼びあっていた。そこで幹部間の位置関係を明確にした。 八 な役割を果たしていた。 添書き中止の理由 151 立正佼成会勧請異茶羅の添書き「庭野法座」に関する一考察
星茶羅に残された僅か四文字の﹁庭野法座﹂には、庭野開祖の教団創立から長沼脇祖遷化までの約一一○年間の両 師の関係や開祖の教団創立初期の教団内立場を語る意味が深い底流となり包含されている。その言葉から敢えて云 うならば、庭野開祖は佼成会発足当時から、現在の様に全会員から讃仰され尊崇されるような﹁会長先生﹂の立場 にあったのではなく、ご自身の弛まぬ仏道修行の結果と会員に生きる喜びを与えたことにより、教団の開祖として 崇められるようになったのである。 長沼脇祖遷化の後、教団は発展を重ね、その活動は国内にとどまらず、世界的レベルに広がった。平成二年一 ○月四日庭野日敬開祖は入寂されたが、その一年後、開祖は﹁一乗大師﹂の読号を庭野日鑑第二代会長から得て、 法輪閣の一角から教団の行く末を見守っている。 この小論では﹁庭野開祖研究﹂の一部に触れたものであるが、庭野開祖や長沼脇祖に関する人物事績に関しては、 まだ究明すべき様々な課題が残されている。併せて佼成会の星茶羅についても引き続き研究を深めたい。 むすび 注 ⑩昭和一一一一年一一一月、庭野日敬師・長沼妙佼師によって創設された法華系の在家教団。創立から昭和一一三年までは﹁大日本 152 勘 の呼称を使用するようになった。一一一一・一二年には会員数が飛躍的に増加し、教団としての基礎が固まり庭野開祖は 会長先生、長沼脇祖は副会長としての立場がさらに明確となった。 昭和一一三年八月には宗教法人令に基づき法人格を取得し、名実ともに両師は教団のトップとして立った。
、教団では昭和五三年より庭野日敬師・長沼妙佼師をそれぞれ庭野開祖・長沼脇祖と尊称を付して呼んでいる。以下本稿 でも庭野開祖・長沼脇祖と記す。 考察 ⑪佼成会の会員組織単位は﹁支部﹂であった。その幹部とは﹁支部長﹂、﹁副支部長﹂、﹁会計﹂、の三役と御守護神拝受者、 ⑧好造は庭野開祖が姓名学に基づき最初に使用した選名。佼成会創立後も使用した。因みに長沼脇祖は﹁成江 を選名とした。昭和二○年代後半頃印影は庭野日敬に変わる。 ⑨添書の日付けは必ずしも会員が拝受した日付とは同一ではない。拝受した日付以前となっている例もある。 ⑩入会を勧めることを﹁導き﹂という。導くものを﹁親﹂と称し導かれたものを﹁子﹂という。両者の間柄を 立正交成会﹂と称した。同一一三年八月から﹁立正交成会﹂に変更し、なお昭和一一一五年六月に﹁立正佼成会﹂と改称してい る。ここでは立正佼成会と表記する。 ②﹁第一の階段﹂といわれる昭和一八年の出来事は脇祖と庭野開祖夫人の軌喋から生じている。﹁立正佼成会と日敬・妙佼﹂ ﹃立正佼成会史﹄第一巻、八四頁。 ③入会した会員に下付されるお札形式の戒名。短冊方用紙に﹁諦生院法道慈善施先祖帥的家徳起菩提心﹂と記し、︵○○家 には右側に当主、左側にその妻の実家の姓を記入する︶その家の代々の先祖をすべて祁っているとする。 側日蓮や庭野開祖が法華経の教相に基づき、仏の世界を図顕したもの。 ⑤家の守り神。拝受した家の守護神として御宮形式により勧請される。 ⑥昭和四二年以降は本尊勧請形態の改正に伴い冒受茶羅に替わり、久遠本悌の絵像を勧請している。総戒名と守護神の勧請 立正佼成会勧請塁茶羅の添書き「庭野法座」に関する し﹂い這う○ は現在も継続している。 ﹁親子関係﹂ つま気﹂鱈え︶﹂ 153
支部があった。 ⑩庭野開祖が拝受した塁茶羅の所在は不明であるが、長沼基之現特別顧問は塁茶羅に記されてあった日付と小谷法座の ⑲昭和二八年四月当時の支部は数字支部が第一から第四八支部までと地方支部が北多摩支部他一一○の支部までの合計六九 ⑰右側には﹁維持昭和一一三年一一一月一一八日交成会本部道場建設完成之日奉斎戒休浴謹写之﹂左側には﹁一天四海皆帰妙法 ⑯日蓮図顕の塁茶羅にはない、仏・菩薩や法華経の経文の一節が加えられている。 広宣流布併而会員各家家門繁栄異体同心信力増進者也立正交成会会長日敬花押﹂の文字がある。 ⑱右側には﹁維時昭和一一四年一月二八日立正交成会修養道場建設二際シ終始建設委員長トシテ会長副会長ヲ補佐シ克ク之 レヲ完成ス其ノ功勘カラズ依而之ヲ賞ス﹂。左側には﹁授輿之祈佐野元章信力増進修行不退者也会長日敬花押﹂の ⑬妙法蓮華経の第二○章﹁常不軽菩薩品﹂を読調することにより神を入れた。 ⑭現在の﹁立正佼成会発祥の地修養道場﹂のこと。一般的には﹁旧本部﹂と称されている、佼成会二番目の施設。昭和二 三年一一一月竣工した。延べ床面積約五五四・四平方メートル。 ⑮会員各家に対し星茶羅に替えて久遠実成釈迦牟尼世尊の絵像を勧請した。本尊形式改正後の第一回勧請式は昭和四一一一年 (14)(13リ⑫ ⑳霊友会本部から御旗を授与された支部。平成十三年九月現在、国内外あわせて二五支部ある。︵海外五支部︶ 文字がある。 文字と印影を確認している。 七月九日に行なわれた。 塁茶羅拝受者をいう。 仏壇のこと。 154
考察 ⑳拙稿﹁事務日誌﹂﹃中央学術研究所紀要﹂第一一一一号︵平成五年︶によれば、﹁立つ人もなく三々五々車座に法論の花を咲 かせた﹂︵昭和一一一年五月二八日︶、﹁一一一一一一五五足の踏み場もなく法論が沸騰して居った﹂︵同年六月五日︶、﹁終日、各支部 長にて法論沸とうして居た﹂︵同年六月一五旦、﹁両師の面前にて法論座施行す﹂︵同年七月五日︶とあり、車座、法論座 という言葉はあるが、法座という言葉は見られない。 ⑬﹁チャンダナ﹂M一八九︵一一○○○年五月一日発行︶拙稿﹁立正佼成会における用語法座の意味内容の変遷﹂参照。 例﹁庭野日敬の思想形成﹂﹁立正佼成会史﹂第一巻、八○頁。 田﹁第一の階段﹂を経た昭和一九年六月、本部付支部及び第一支部から第八支部までの九支部に組織の再編成をする。第 二支部︵森田育代支部長︶以外は長沼脇祖の導き系統であった。本部付支部は開祖・脇祖の親戚縁者や知人で構成した。 ㈱本名寅次︵一八九○∼?︶国柱会に所属、中野区新井薬師近くで金物屋を営む。 の昭和一一○年一一一月会員数一一一七七世帯、一一一年一一一月会員数一一一一一四一一世帯、一三年一一一月会員数九五四一一世帯、一一一一一年 一一一月会員数一七九八三世帯 155 立正佼成会勧請塁茶羅の添書き「庭野法座」に関する