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中央学術研究所紀要 第10号 L03山崎守一「Uttarajjhaya研究2」

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(1)

UTTARAJJHAYA研究I

屯IL r、

山 崎 守 一

1 は じ め に 2第9章Namipavvaija 3第10章Dumapattayam● 4第11章Bahussuyapujjam 1 は じ め に 本稿はUttaradhyayana-sutraの第9,10,11章をCharpentierの校 (2) 訂本を底本として日本語訳を試みることを目的とするものである。 A第9章NamipavvaijヨはMithil且の王Namiとバラモンに変装し たIndraとの対話で構成される。ここでIndraは一連の質問や暗示によ ってNami王が出家することを断念させようとしている。 (3) Utt研究の第3番目として発表されたLAlsdorfの研究は,驚くべき 卓見と貴重な示唆とを含んでおり,テキストの批判校訂と翻訳に多大な貢 献をしている。しかしながら,Alsdorfのとった研究方法,すなわち,韻 律という新しい視点から原典に手をつけて,しばしば読み方を変更する文 献学的操作は,理論のゆきすぎとして一部のインド人学者から批判修正の 論文も発表されている。 J.P.ThakerはUtt.9,34-36: josahassamsahassanamsamgamedujjaejme, egamjinejjaappanamesaseparamojao.34 (3)

(2)

appanamevajujjhahikimtejujjhenabajjhao, appanamevamappanamjaittasuhamehae.35 pamcimdiyanikohammanammayamtahevalohamca, −dujjayamcevaappanamsavvamappejiejiyam・ ouJJayamcevaappanamsavvamappejiejiyam36 (4) をとりあげた。これらの詩煩は意味の煩雑さを伴い,多くの研究者を困難 に陥し入れている。特に,第36詩煩の第一行は突如としてAryametre に変わり,さらにkoham,manam,mayam,lohamを受ける動詞あるい は分詞がないこともあって,大いに議論を呼ぶところとなっている。 Charpentierは第36詩煩の意味が明確でなく,構文が極端に混乱してい (5) ると言及している。また,Jacohiは同一詩煩の中にAryaとAnustubh がある例は数多く存在し,構文が正しくなくとも意味は明確であると述べ (6) ている。 さらにAlsdorfは第34詩碩は当時の格言に富む詩集から採用されたオ リジナルな答えであるが,一方第35,36詩頒は一つの詩煩: appanamevajujjhahi!savvamappejiejiyam dujjayamcevaappanamjaittasuhamehae,

「あなた自身とのみ戦え。自己が征服される時,すべてが征服される。

征服しがたい自己を征服する人は幸福を得るであろう」 から発展したものであり,かつこの詩煩は後世に付加されたものと考えて (7) いる。

これに反してThakerはインドの伝統的文化に培われた精神を顧慮す

るならば,これらの三詩頒の中には一貫した明白な理念が流れていると

Alsdorfに反論している。彼の反論を要約して示せば以下のようになる

(8) う。 ①Aryametreが後世の挿入であるとするAlsdorfの考えに対して, metreがAnustubhからAry画に変わる詩煩は,その詩煩がオリジナル であったかどうかには関係なく各むくきことではない。一つの詩煩の中 (4)

(3)

UTTARAJJHAYA研究塁 でmetreの交換がなされた詩頒の数はおびただしい。古代の作詩家にと ってmetreよりも理念を表現することの方が大切であった。さらにArya は後世に発展したmetreであるが後世の作詩家なら本来の作詩家より もつとmetreの司一性を意識してAryaではなくAnustubhを挿入し たであろう。 ②Atmanは自己から分離した存在としてみなされない。Atmanと 戦 う と い う こ と は , 現 実 に 自 己 に よ っ て の み 戦 い う る も の で あ る 。 そ の よ うな内なる戦いは外の同盟から何ら援助を期待できない。人は自己によっ て 自 己 を 消 滅 さ せ ね ば な ら な い 。 人 は 自 己 と 戦 う こ と が 残 さ れ て い る す べ てである。これが古代から今日まで続いているインド伝統の精神である。 このようなインド的状況の許で,実際,自己のAtmanの征服とは自制 を意味し,その自制は当然のこととしてkrodha,mana,maya,lobhaの 克服と十分な制御とを含んでいる。従ってAlsdorfのいうkrodha,mana, maya,lobhaが場を得ていないということは否定せざるをえない。 ③appanamevamappanam...に関して,Thakerはappanamevama-ppanamjaittasuhamehaeと読み,Sktatmanamevaatmanamjitva sukhamedhateと表現することができるとする。appanamの繰り返しは 「自己の征服」を強調しているのであり,表現の繰り返しはインド伝統の ものであり,古代のテキストの中にしばしばみられ,Alsdorfのいうとこ ろの単なる筆写のmischiefとはきめつけられない。 さらに彼はAryaとAnustubhが一つの詩煩を構成するのは古代から のインドの伝統であると述べ,kohammanammayamlohamをaccu‐ sativeにとれば,三詩碩で椛成されたNami王のインドラに対する解答 は文脈に即したものになるというのである。Thakerの見解からすれば 現行のUttの校訂本で十分な解釈ができるということになろう。 し か し , 誰 し も 知 る よ う に 現 存 の 全 註 釈 よ り も っ と 古 い 時 代 に 原 典 に 手 を 加 え 始 め た の は 事 実 で あ る 。 韻 律 的 に 正 し い テ キ ス ト を 人 工 的 に 再 構 r 兵 R u

(4)

成することは一種の偽造といえるかもしれないが,Alsdorfのこの研究は Utt.に限らず,Ardha-MagadhiひいてはPaliにおける多くの言語学的, あるいは文法的な問題を研究する上で基本的な重要性を持っている。それ ゆえに彼の業績を無視して新しい研究成果を望むことは不可能であろう。 B.第10章Dumapattayamは古Vaitaliya/Aupacchandasakametre で著わされ,Mahaviraが彼の弟子Goyamaに直接,説教するという形式 をとっている。このmetreで著わされたものは,ジャイナ教聖典の中で, この章を含めSuyagadamga12,Utt15,Dasaveyaliya10のわずか4 章にみられるにすぎない。従ってAlsdorfによって指摘されているよう (9) に,この章がもつインドの韻律学史に占める重要性と文献学的重要性は多 大なものがある。

ところで各詩煩の終わりに繰り返される"samayamgoyamamapama-yae"をどのように解釈するかが問題となるが,この問題はすでに本邦で (10) も論じられ本章の和訳もされているので,筆者はAlsdorf説を支持する (11) 立場にあることを表明し,未だ判然としない語句の存在する詩頒をとりあ げ,語桑研究を試みることにする。 C第11章BahussuyapujjamはSlokametreで著わされるが,以下に 挙げるpadaは余分なsyllableを持つ。 9-syllablepadas:lc,2d,6ac,7a,9c,13a,14d,16d,17d,18acd,19d, 20d,21cd,22cd,23d,24ad,25acd,26d,27ad,28acd,29ad,30acd 10-syllablepadas;10a,15a これら多くのpadaは恐らくhyper-metricとみなされいくつかの hyper-metricpadaは誤読から生じたのであろう。しかしながら,ある pada(e.g2d,9c,18a)はelision(母音の省略)によって正常化するこ とができる。 また次のpadaは7つのsyllableを持つ。すなわち,5a,13b,16a,19a, 20a,21a,22a,23acであるがこれらは後世に手を加えられた結果に他な ( 6 )

(5)

UTTARAJJHAYA研究豆 らないであろう。したがって失なわれたsyllableを仮定することによっ

てこれらのpadaを正常化することができるかもしれない。しかしArnold

はRgvedaにおいて多くのdimeterverse(二歩格詩)が7-syllableの みを含んでいることを指摘している。そして正常なdimeterverseから 最後のsyllableが失なわれているものをcatalecticdimeterverse,それ (12) 以外の場合を〃eptasy"α〃cと呼んでいる。 〔注〕 / 可 、 ( 上 ノ (2) ′ q , 、 J ノ (4) (5) (6) r ワ 、 k j ノ (8) (9) (10) (11) 「Uttaradhyana-sutra第8章Kaviliyamの研究」『中央学術研究所紀要身 第9号昭和55年6月pp.1-23に続くものである。 JarlCharpentier,TheU"αγ“"yayα"as"〃α,ArchivesD'Etudes Orientalesvol.18,Uppsala1922. L.Alsdorf,"Naraipavvajja:ContributionstotheStudyofaJaina canonicallegend",IndologicalStudiesinHonorofW.Noγ畑α〃 Bγ0”〃=America〃Oγ泥泥raISeries47,pp8−17 J.p.Thaker,"GenuinenessofUttaradhyayana-sutraIX34-36",S〃γ? A化〃"2ノ『γαル"nVidy列ayaGolde〃ノ"bileeVolume,PartI,Bombay 1968,pp’79-84 Charpentier,op.cit.,p.315. H.Jacobi,血加αS"jγas(Partn),SEEXLV,Oxford1895,p39 Alsdorf,op.cit.,pp.14−5 Thaker,o’cit.,pp180-81でAlsdorfの研究を要約し,p.181の後半 からAlsdorfの研究に対する反論をしている。 LAlsdorf,"UttarajjhayaStudies",Indo-Iγα城α〃んz〃"α/,VolVX pp.111-15. 谷川泰教「Uttarajjhay風研究1−第3章と第10章を中心として−」『密 教文化』第114号,1975,pp.45-32渡辺研二「Uttarajjhayaの研究Ⅱ 10章に関するAlsdorf説の検討と和訳一」「大正大学大学院研究諭 集」第2号,pp226-213 samayaは"opportunity,occasion"の意味に解し,pamayaeの目的語 にとる。そしてpamayaeはpra-fヘ/madのcausat1veのoptativeで あり,Skt対応語はpramadayehとなる。したがってsamayamgoyama mapamayae="0Gautama,youshouldnotwastetheopportunity" となる。Jaina教では陥廻転生を認め人間に生まれ変わることは極めて難 しいときれ,人fS¥として生まれたからには修行の機会を失なうべきでないと 「 7 、 』

(6)

誠めている。 (12)E.V.Arnold,Vedicハ化〃e,Cambridge1905,20 〔 略 字 表 〕 AMg=Ardha-Magadhi;AMgD=MuniShriRatnachandrajiMaharaj,An IllustratedArdha-MagadhiDictionary1923-32;BHS=BuddhistHvbrid Sanskrit;BHSD=F.Edgerton,BuddhistPlybridSanskritDictionary,New Haven1953;BHSG=F・Edgerton,BuddhistHybridSanskritGrammar,New Haven1953;CPD=V.Trenkner,DinesAndersen,HelmerSmith,ACritical PaliDictionary,1924-;Dhp=Dhammapada;Dhpa=Dhammapadatthakatha; EV=KR.Norman,TheElders'Verses,London1969(=I),1971(=n); Geiger=PaliLiteraturundSprache,Strasburg1916;JAOS=Journalof theAmericanOrientalSociety,NewHaven;JOI=JournaloftheOriental Institute,Baroda;m.c.=metricausa;MIA=MiddIeIndo-Aryan;MW= Monier-Williams,Sanskrit-EnglishDictionary,Oxford1899;PED=Pali- EnglishDictionary,PTS,1925;Pischel=R.Pischel,GrammatikderPrakrit-Sprachen,Strassburg1900;Pkt=Prakrit;PSM=HargovindDasTSheth, Paia-Sadda-Mahannavo,1963;SBE=SacredBooksoftheEast,Oxford;Skt= Sanskrit;Sn=Suttanipata;St.=Stanza;Turner=R.L.Turner,ACompara- tiveDictionaryoftheIndo-AryanLanguage,London1966;Utt.=Uttara-dhyayana-sutra;Uv.=FBernhard,Udanavarga,Gottingen1965-v.I.= variantreading 2第9章Namipavvajja

1.caiunadevalogauuvavannomanusammilogammi

uvasantamohanijjosaraiporaniyamjfiim

神々の世界を去って〔ナミ(Nami)は〕人間の世界に生まれた。彼は

迷いをなくして前生を億念した。 詩頒1-5はAryametreである。 caiuna<*tyajitvana,-tvana/-tunaはahsolutiveendingである。−tnna∼一 一unaこの他に動詞へ/tyajのAMgahsolutive形としてcaitta,caittanam cicca,cecca,ciccana,ceccana,-cajjaがみられる。

deva-logau,metreがAryaであるため第3ganaは、,−、,が要求され,-logao

8)

(7)

UTTARAJJHAYA研究Ⅱ とあるべきところであるが,-logauと表記される。Charpentier本ではnom1‐ nat'veにおいてuがoの短音をあらわす。これに反してDevendraの註釈が -logaと読んでいることから,Alsdorfは、cで-logaoの代わりに−lug且と 訂正する。 sarai,Skt.smarati">sarai,-iは、c 2jaimsarittubhayavamsabasambuddhoanuttaredhamme puttamtbavetturajjeabbinikkbamainamiraya 前生を億念してから尊者(bhagavat)ナミ王は無上法においてsvayam-sambuddha(自ら完全に悟れるもの)になった。そして,息子を王位につけ て(世間から)退いた。 sarittu,AMgにおいて最もよく使用されるahsolutiveの一形は-ttaO-tva である(Pischel582)。Asoka王碑文におけるahsolutiveの一つの例は−tu この場合の発展過程は-tu<*-tu<-tva.cf.-(t)una<-tvana[u/va]。また AMgにおいてinfinitive(-turn)はahsolutiveとしても使用される(Pischel §576)。すなわち,-tta/-turn/-tuである。この例はBHSでもみられる(BHSG §3554)。 sahasarnbuddha,AMgDのSkt対応語はsahasarnbuddha.PSMはsvaka-sambuddhaJacobiの英訳(SEEXLV,p36)ではSvayamsainbuddha. Charpentier(p.313)はSchubring(Ayarahgasutta,p106)がsaha=svaka を記載しているのでsvayam>saarnがsaha(m)になった,すなわち母音接続を 回避するためにhを挿入したと考えられると説明している。これに反してPischel (§226)はPktでsandhi-h-が存在したことを否定し,-h-は子音の帯気音から 起こるとする。たとえば-t->-th->-h-と考え,一h一</-y-(e.g.chaha<( chaya)とは認めていない。しかしながら,sNGhosal('TheEuphonic-glide HinPrakrit',JOIBaroda,IX,1960,pp256-59)は音便上のつなぎ音(eupho-nic-glide)-h-の存在を認めた多くの学者に言及し多数の例を引用し,つなぎ 音-h-はPktでの現象であることを証明している。従ってsaha<(svayainに とる。saha-samuiya(Utt28,17)も同様でsaha<(svayainであろう(SBE XLV,p.154,n2.)。 BHSG(4.67)ではつなぎ音-h-を認めず,BHSG(21.80)はMahavastu I53,2ahamがayamから由来して生起すると考えたSenartの説明を疑問視 する。またPED(s.v.nahuta)はnahuta<^Sktnayutaを記載するが,p錘: ( 9 )

(8)

における他の例はみられないようである。J.Brough教授(TheG瓦"“"γI D"αγ籾apada,London,1962,39)とT.Burrow(TheLα"g"ageofメル言 K"αγOSオ賊doc"加師/SかO脚C〃伽eseT"γ舵Stan,Cambridge,1937,28(3)) によれば-y->-h-の変化はガンダーリ方言では存在していたことが知られる。 3.sedevalogasariseanteuravaragauvarebboe bhumjittunamirayabuddhobbogepariccayai 神の世界にふさわしいすぐれた享楽を楽しんだ後後宮の美しい婦人た ちと交わりのあるそのナミ王は覚りを得て享楽を捨てた。 anteura-vara-gao,nom.sg.,anteuraのSkt対応語はantahpuraである。そ の発展過程はantah-pura>anto-pura)>ante-(p)ura(-as)>-e;Magadhism)^ varebhoeはace.pi.でbhumjittuの引的語である。 devalogasariseもace.pi.である。 4mihilamsapurajanavayambalamorobamcapariyanamsavvam ciccaabhinikkhantoegantamahiddhiubhayavam ミティラー(Mithila)の町や国,軍隊後宮,そして家来のすべてを捨 てて,尊者は世間を去って人里離れたところに住んだ。 cicca<(Skttyaktvaと考える時,-tv->-cc-が何故可能になるかが問題とな Z,(L.A.Schwarzschield,"SomeFormsoftheAhsolutiveinMIA",JAOS, 76pp111-15)。Pischel(§587)は2つの理由(a)-tyaはRg-Veda(=RV) で、cの時のみ起こり,これに反して−ccヨはAMgでは散文の中でみられるの が普通である。(b)RVで-tyaは短母音が鼻音で終わる動詞の後でのみ起こり AMgではすべての母音,あるいは子音の後でみられる−から−ccaがVedic -tyaから由来していることを否定する。 これに反してK.R.Norman先生はPischelの要点(a)(b)の誤りを指摘し つつ論を進め,-tva>-ccaは決して満足いく説明ではなく,-cca<-tyaの方が より的を得ていることを論証している。そしてAMgはahsolutiveのような限 定された分野ではVedicSktの性格をとどめていると結論する。詳しくはK.R Norman,"SomeAhsolutiveFormsinArdha-Magadhi",/"伽Iγα宛れ” (10)

(9)

UTTARAJJHAYA研究Ⅱ ノり"γ"α1,Vol.II,pp.313-15をみよ。 したがってcicca/cecca(a>ibefore-cc-)<'*cacca</Skt*tyaktya=Skt tyaktvaと結論することができよう。 ahiddhio.インド諸版本はahitthitoと読む。また,AMgD,PSM,Turnerに ahiddhioの項目がない。しかしながらahiddhioは正しい読みに思える。なぜな らadhisthita>adhitthita6>adhiddhiaの発展過程が読みとれるからである。 tth>ddhの可能な例としてSattasai(Sα〆α§“α“加咋sH〃α,Weber'sedition. Leipzig,1881)403にみられるkaddhia(denominativeverbkaddhaiの過去 分詞)をあげることができる。krsta>kattha(inMIA)>kaddha 5.kolahalagabhuyamasimihilaepavvayantammi taiyarayarisimminamimmiabhinikkhamantammi 王 者 の 聖 仙 で あ る ナ ミ が 出 家 し て 家 を 去 っ た 時 , ミ テ ィ ラ ー で 喧 騒 が あ 一つた○ kolahalagabhuyam,kolahalagabbhuyamが要求される(m.c.)。変則な -bbhuvamを避けるためv1kolahala-sambhuyamがある。 pavvayantammi,pra-ヘ/vrajのlocsg現在分詞である。 taiya<Skttada.MIAでは時として-ka-が挿入されることがある。たとえ‐ ifaham「私」>*aha-ka-m>hage同様に*ta-ka da>*tayaya>*tayiya (口蓋音yの後で-a-)>-i-)>taiya"then". 6.abbhutthiyamrayarisimpavvajjathanamuttamam sakkomahanaruvenaimamvayanamabbavi 出家者の勝れた地位についた王者の聖仙にバラモンの姿でシャクラ (Sakra)はこのように言った。 この詩碩からSlokametreとなる。 abbavi,3.sgaorist.BHSではabravit,Paliではabravi. mahana,Skt対応語はbrahmanaderivationはbrahmana>*bambhana (inとhが転換))>*ba(b)hana)>bahana)>mahana,bは時としてmになる (Pischeel250)。 (11)

(10)

7.kimnubhoajjamihilakolahalagasamkula savvantidarunasaddapasaesugihesuya 「尊者よ,何故に今ミティラーは喧騒で満ちているのですか。恐ろしい 騒音が王宮や家々において聞かれます」 suvvanti.動詞へ/sruの3pi.passiveである。3.sg.passiveはsuvval このderivationは§ruyate>suyate>*suvati>suvvaiとなる。 8.eyamatthamnisamittaheukaranacoiu taunamirayarimidevindaminamabbavi このことを聞いて王者の聖仙であるナミは理由と議論に駆りたてられ て,その時神々の王(天帝)にこのように言った。 padabはJacobiによって"pursuinghisreasonsandarguments"と英訳 されたが,Alsdorfは"urgedbyreasonsandarguments"としか訳せないと する。インドラが質問だけをして何の理由も議論も進めなかったのでJacobiには この句は場違いに思われたのであろう。しかし文脈に何の関係もなく二人の対談者 を紹介するのに全く機械的にこのSlokaを詩人は使用していることを知らねばな らない。すなわちheu-karaija-coioはどんな議論にもすでに用意された句であ り,この特別な場合に作られたものでないであろうとAlsdorfは説明する。 tao<Ctatas 9.mihilaeceievacchesiyacchaemanorame pattapupphaphaloveebahunambahugunesaya 「 ミ テ ィ ラ ー に 涼 し い 陰 を 放 ち 葉 や 花 や 果 実 が 茂 り , 常 に 多 く の 人 た ちに多くの福徳を与える美しい霊樹(α"かαtree)がある。 DevendraはceiyaをudyanaとしてmanOramaをその名称としてすな わち,第一半詩節のvaccheだけをinst.pi.にとってその他の語尾一eをIocat1v蓬 に解している。又,Jacobiはmanommaを固有名詞と考え,"InMithilaisthe sacredtreeManorama"と訳し,Charpentierは"InMithilainthegarden r 1 ワ ) 、 ÷ = ノ

(11)

UTTARAJJHAYA研究Ⅱ Manorama"と考えた。しかしAlsdorfによれば,王がMithil豆における特定 の木について話しているのではないことが全く明らかで,つまり,彼自身を意味し ている「霊樹」について比峨的に話しているだけであり,木に固有名をつけること は比峨を崩すことを意味すると考える。caityaの意味については中村元博士『ブ ッダ最後の旅」(岩波書店,1980,pp193-96)で詳述している。 10.vaenahiramanammiceiyammimanorame duhiyaasaranaattaeekandantibhokhaga この美しい霊樹が風によって根こそぎにされた時尊者よ,これらの烏 た ち は 不 幸 で 避 難 す る と こ ろ が な く 哀 れ で 悩 ま さ れ る 」 atta<(arta「悩まされた」 hiramanammi,Skthriyamane 11.eyamatthamnisamittaheukaranacoiu tautamimrayarisimdevindoinamabbavi こ の こ と を 聞 い て 神 々 の 王 は 理 由 と 議 論 に 駆 り た て ら れ て そ の 時 , 王 者の聖仙にこのように言った。 12.esaaggiyavauyaeyamdajjhaimandiram bhayavamanteuramtenamkisanamnavapekkhaha 「火があり風があります。あなたの宮殿は燃えております。それ故 後宮(の婦人たち)は恐れております。何故あなたは後宮(の婦人たち) を世話しないのですか」 dajjhai,dah->dah-であるからdahyate>dajjhai"isburnt". avapekkhaiは*avapreksateではない。しかし,apeksate(*apa-preks"look formards,carefor,consider")を表わしている。 tena(m),"becauseofit","therefore". “mは3.sg.accussativeでanteuraを指す。 (13)

(12)

bhayavamはvocativebhagavanではない。ジャイナPkt,特にこのような 古い詩碩の中では「尊者」の呼びかけはbhayavamではなく,bhagavamと表記 される。その例として18,8,910;21,122,4;2356を挙げることが できる。 bhayavamは正確な読みであることが立証されさらにインドラは王が出家す るのを思いとどまらせようとしているのが明らかであり尊敬語bhagavatを使用 するのは適切でない。実際にインドラは以下の詩煩でkhattiyaと6回,narahiva manuyahiva,patthivaとそれぞれ1回ずつ呼びかけている。そして王がすべての テストに合格したときはじめてインドラはbhante(第58詩頒)と王に呼びかける のである。従ってbhayavamはSktbhagavamではなくてbhayaという名詞 に接尾辞vatが付いたもので,形容詞として「恐ろしい」と訳すべきである。 kisa,Pischel(428)はkisa=kasmatであり,Palikissaに対応し多くの 場合,「何故?」という副詞的な意味をもつと説明する。この説明は多くのPkt文 法学者,Geiger(111.1)に代表されるPali文法学者,その他Edgerton(BHSG §2116)等によって受け継がれてきた。しかしながら,kisa(<Palikissa)=kim saと解した方がよいように思える。この場合のsaは3人称単数代名詞でなく

Sktsvid(interrogativeparticle)から由来して生起する。従ってkisa="why"

とみなすことができる。-ms->-ss-の発展についてはEVn417,sa<svidに ついてはEVI37をみよ。 13=8

14.suhamvasamojivamojesimonatthikimcana

mihilaedajjhamanienamedajjhaikimcana

「我々は自分のものを何ももたない。幸福に生活し,生存する。ミテさ

ラーが燃えている時,私自身に属するもので燃えるものは何もない。

この詩碩は有名であり,仏教文献や古典インド文献にも類似したものがみらオ1 ヲ つ 。 Jataka539,g125: susukhamvatajivamayesamnon'atthikincanam, Mithilayadayhamanayanamekinciadayhatha'ti UdanavargaXXX44 susukhambatajivamoyesamnonastikincanam, (14)

(13)

UTTARAJJHAYA研究Ⅱ mithilavamdahvamanavamnanodahvatikincanam MahabharataXII9917 susukhamvatajivamiyasyamenastikincana mithilavampradiptavamnamedahvatikincana‐ユムご その他第1半詩節に類似したものとしてSantyuttanikayaI,p.114,Dhammapada 200,UdanavargaXXX49を第2半詩節に類似したものとしてMahavastu Il1,p.453を挙げることができる。 mo=no"ofus,tous".第1人称代名詞複数形のencliticformである。BPIS でも同様である(BHSG20.56)。 15.cattaputtakalattassanivvavarassabhikkhuno piyamnavijjaikimciappiyampinavijjai 息子や妻を捨て,仕事に従事しない比丘にとって,愛しいものは存在し な い し 愛 し く な い も の ( 憎 い も の ) も 存 在 し な い 。 nivvavara<fSktnirvyapara"withoutemployment,activity賑 16.bahumkhumuninobhaddamanagarassabhikkhuno savvauvippamukkassaegantamanupassau

聖人や,家を捨てた比丘には多くの幸せがある。彼はすべての束縛から

解放され,孤独であることをみとおしている」 cf.Jataka529,g12ab sadapibhadramadhanassaanagarassabhikkhuno 1 ワ ー 1 マ エ イ ー 上 上 18.pagaramkaraittanamgopurattalaganica ussulagasayagghmtaugacchasikhattiya 「囲いの壁都城の門,見張塔鋭い杭,Sataghniを作らせてから,あ (15)

(14)

なたは行く(=出家する)ことができるでしょう。おお君主よ当 karaittanam,動詞へ/krのcausativeahsolutive. ussulaga,Devendraはussulaga=khatika「堀」と説明し,Jacobiもそのよ うに訳している。AMgDはSkt対応語を示さずに「敵の軍隊を破壊するための 堀,あるいは塑壕」の意味を与えている。さらにCharpentierは「Devendraが 後にSkt対応語としてucchulaを与えているように,ussulaga-はuccuda-. uccula-(ucchudaとも書かれる)「旗の上の部分」に等しく単に旗を意味している ように思える。「旗」の意味が直前の語attalaka「見張塔」にも適合する」と述べ ている。しかしAlsdorfはud-fsula「侵入者を突き刺すために堀の水の中に固定 された杭」に解している。ここではussulaga<*ut-sula-kaにとる。 sayagghi,AMgDによればSkt対応語はきataghniで「一度に百人を殺せる ミサイル」の意味である。 gacchasi,2.sg.futureに解する。cf.Berger("Futurischesgaecんα〃imPali", M""chenerStudienz"γ助γαchwissensc"α〃4,p.25),Alsdorf(p.11).

khattiya,taogacchasikhattiyaをJacobiは"thenyouwillbeaksha-triya"と訳すが,ending-鼠はAMgではvocatlveであることが可能であり

(Pischel363),ここではvocatlveにとる。この一風はpluta/plutiで3morae

である。cf.Whitney,Sα"s々γ〃Gγα加加αγ,78. 19=8

20.saddhamnagaramkiccatavasamvaramaggalam

khantimniunapagaramtiguttamduppadhamsayam

「信を都市とみなし,扉の門(aggala)は苦行(tapas)と自制(samvara)

であり完壁な囲いの壁は忍辱(ksanti)であり,3つのGuptiによっ

て堅固である。 padaaはunmetreであり,padadをSantisuriはtiguttiduppadhamsayain と説明しており,padacdはnagaramを修飾している2つ以上のbahuvrihiと みなすことができるので,Alsdorfの読み saddhamnagaramkiccanarntava-sarnvara-m-aggalam/ khanti-niuna-pagaramtigutti-duppadhamsagamノを採用する。 (16)

(15)

UTTARAJJHAYA研究量 tigutti,3guptiとはmano(意),vaya(口),kaya(身)を指す。 duppadhamsaya=dup-pa-dhams-a-ya<duS/dur-pradhrSya、/dh輯の現 在語幹はdharsa-.このderivationはdharsa-">*dhassa-">dhamsa-kicca<(*krtya.-cca<(-tyaについては4の註記をみよ。 21.dhanumparakkamamkiccajivamcairiyamsaya dhiimcakeyanamkiccasaccenapalimanthae 勤行(parakrama)を弓とみなし,歩行における注意(irya)を常に弓 弦とみなし,堅固な心(dhrti)を弓の先端とみなし,真理によって(こ の弓を)縛るべきである。 jiva,Sktjya「弓弦」が発展してjivaになったのである。derivation;jya> *jiya>Jiva(y/v) keyana<ketana「弓の先端」 palimanthae,極めて難解な単語である。Devendraはpalimanthae=badhni- yatと説明する。Jacobiは"heshouldbend(thisbow)"と訳す。またChar-pentierはこの語を極端に疑わしいと考え,v、1.parimamghaeを考慮すべきこと を提案する。 恐らくDevendraの註釈はこの語の語源に糸口を与えているように思える。と いうのはmanth-はbandh-の方言の形であろう。-b->-m-の例として bahana>mahana,kabandha>kamandhaを挙げることができるように(Pi-schel250),palimanth-<paribandh-が可能になる。従ってpari-1/bandh のoptativeにとる。cf.K.RNorman,"MiddleIndo-AryanStudiesV" JOI,1965,p.116

22.tavanarayajuttenabhittunamkammakamcuyam

munivigayasamgamobhavauparimuccae

苦行という矢によって業である(敵の)鎧を貫通して,聖人は戦いから

解放される時,(業の制約の)存続から解放される」 vigayasamgamo</vigata-sangrama「彼が戦いから解放される時」。 Alsdorfは詩頒21と22abは後B身の挿入であり,この3行を排除すれば王の (17)

(16)

答えは明確になり,インドラの言葉に対するすぐれた反論となる。そして6つの padaを持つSlokaは普通である(e.gDhammapada)と説明する。さらに彼は 続けて慣用句eyamatthamnisametta……で分けられた一つの詩碩の中で提案 や反駁をするのがsarnvadaの形式的理想的な図式であるから二つ以上の詩頒は 同種の格言的な詩碩,適切な引用等の付加によってふくれ上がったものと疑わざる をえない。詩煩20-22もこのケースにあてはまると結論を下している。 23=正一

24.pasaekaraittanamvaddhamanagihaniya

balaggapoiyauyataugacchasikhattiya

「 宮殿,りっぱな家,娯楽のための家々を作らせてから (出家する)ことができるでしょう。おお君主よ」 あなたは行く vaddhamanagihani</Sktvardhamana-grhaJacobiは「最高の種類に属す るVardharaanaと呼ばれる家」という意味を与えている。 balaggapoiyao,Sktv訓員grapotikaのaccusativepi.語源がはっきりしてお らず,辞書編集者によって「池にあるある種の大テント」と述べられてきた。BHS

ではb罰lagraputikaと綴られ,BHSDは「湖水に建てられた宮殿」の意味を記載

している。いずれにしても「ある蔵の娯楽のための家」を指すことに疑いはないで あろう。 25=8

26.samsayamkhalusokunaijomaggekunaigharam

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「 通路に家を建てる人は確実に疑惑に陥る。彼が行きたいと思うところ

はどこにでも避難所を建てるでしょう」 kunai,動詞へ/krの3.sg.現在形。Sktkrnoti>kunotif>kunai,-oti/>-ati は-ati動詞から類推して。 (18)

(17)

UTTARAJJHAYA研究Ⅱ khalu,AMgにおいてkhaluと同様にkhu,huが使用される。これらは不変 辞で「実に」と訳されるべきものであるが発展過程はkhalu>kh*lu>*khlu> k)khu>khu/kho>huとなる。 27=1:‐ 28.amoselomahareyagamthibheeyatakkare nagarassakhemamkaunamtaugacchasikhattiya 「泥棒,強盗,すり,夜盗を(罰して),都市に安全を与えてから,あな たは行く(出家する)ことができるでしょう。おお君主よ」 kaunam,動詞Vkrのahsolutiveはkrtva,Paliではkatva/katvana, kattaの形をとる。u>va(guna)>va(vrddhi)であるから,ahsolutiveending は-tvana/-tuijaとなる。*kat-tuna>ka(t)una(att>at))>kauna lomahara,AMgDは「虐殺の後に略奪する強盗」を記す。 gamthibhea,Sktgranthibheda「すり」。 29=8 30.asaimtumanussehimmicchadamdopajumjai akarino'tthabajihantimuccaikaraujano

「人間たちはしばしば不正に罰則を適用します。無実の人たちが縛られ

罪を犯した人が自由にしています」 31=11

32.jekeipatthivatujjhamnanamantinarahiva

vasetethavaittanamtaugacchasikhattiya 「王よあなたに屈服しない王たちをすべて服従せしめてから,あなた (19)

(18)

は行く(出家する)ことができるでしょう。おお君主よ一 n'anam-"donotbenddowntoyou" thavaittanain,Sktsthapayatiのahsolutiveはsthapayitva,thavei/thava yaiのahsolutiveはthava(y)itta(nam)>thavaittanam. 33=8

34.josahassamsahassanamsamgamedujjaejine

egamjinejjaappanamesaseparamojau

「戦いにおいて征服しがたい幾千もの(敵)を征服するであろう人が

ただ自分自身を征服したとするなら,それは最高の勝利である。

samgame,Sktsaiigramaのlocativesg."inbattle". dujjae,Sktdurjayaのaccusativepi.「征服しがたい(敵)」。

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である。 cf・Dhp.103 yosahassamsahassenasamgamemanusejine ekamcajeyya-m-attanarnsavesarpgamajuttamo

35.appanamevajujjhahikimtejujjhenabajjhau

appanamevamappanamjaittasuhamehae

自分自身とのみ戦え。何故あなたはうわくだけ戦うのか。自分自身によ

って自分自身を征服してから,人は幸福になるだろう。

bajjhao=bahya-tas,副詞であり意味は'externally'である。 appanamevamappanam=appana m-eva−m−appanam

jaitta,動詞へ/jiのahsolutiveである。現在語基はjayati.ahsolutive*jay-itva[jitva]>jaitta. (20)

(19)

UTTARAJJHAYA研究Ⅱ 36.pamcindiyanikohammanammayamtahevalohamca dujjayamcevaappanamsavvamappejiejiyam 五 根 , 怒 り 自 負 心 迷 い そ し て 負 り の 心 を , ま た 同 様 に 征 服 し が た い自分自身をさえ(征服して),自分自身が征服された時,すべてが征服さ れたのである」 taheva<(tathaiva"inthesameway,similarly" padaabcのsyntaxは不完全である。なぜならすべてのaccusat1veに対して 動詞がないからである。この動詞は詩煩35からjaittaであるとみなさざるをえな い。 aPPaは−a語基と同様にとり扱われる。従ってaPPeはlocativeである。appe jieはlocativeabsoluteとなる。 appa,AMgではaya,ata,atta,appaの4語形がみられるが,Paliではatta の一語形だけがみられるにすぎない。derivation:Sktatmanf>*atpan(アショ ーカ碑文においてtm>tp)>appa(n) 37=11 38.jaittaviulejannebhoittasamanamahane dattabhoccayajitthayataugacchasikhattiya 「大きな供物を捧げて沙門(samana)やバラモンに食物を与えて,施 し物を与えて,自分自身楽しんで,お供えをして,それからあなたは行く (出家する)ことができるでしょう。おお君主よ」 jaitta,詩碩35のjaittaと語根を異にする。この えを捧げるお供犠をする」のahsolutiveである。 jittha,Sktにおいて動詞へ/yajのahsolutive Sα"S”〃R“オSV”6-Fbγ加Sp、129)。 weakgradeformij+tva >istva >y-inha >j-Htha, jaittaは動詞へ/yaj「生けに 従って*yaj-itvaf>jaitta はistv嵐である(Whitney, (21)

(20)

従-ってjitthaとjaittaは両方ともAMgではへ/yajのahsolutiveである。 39=8 40.josahassamsahassanammasemasemasegavamdae tassavisamjamoseuadintassavikimcana 「人は毎月幾千もの牛を捧げるべきであるけれど,自分を制御する人は 何 も 捧 げ な く と も す ぐ れ て い る 」 seo<"sreyas'better 41=工 42.ghorasamamcaittanamannampatthesiasamam ihevaposaharaubhavahimanuyahiva 「在家の生活階梯(且§rama)を捨てて,あなたは他の生活階梯(asrama) 〔に入ること〕を望みます。ここにおいて布薩(uposatha)を喜ぶ人にな りなさい。人々の王よ」 Alsdorfに従い,ghorasamamをgharasamamに改めて読む。 posaha,uposatha<(upavasatha 1>(u)posaha 一日すべての罪の行為を捨てて宗教的な場所で断食をしなければならないという 男子の在家信者の第11番の誓い(AMgD)。 manuyahiva,vocative.Sktmanuja+adhipa「人々の王」。 43=8 44.masemasetujobalokusaggenatubhumjae (22)

(21)

UTTARAJJHAYA研究堂 nasosakkhayadhammassakalamagghaisolasim 「愚かな人がたとえ毎月吉祥草(Kusa)の尖端につけて食物を摂ったと しても,その人は良く説かれた法を会得した人の16分の1の価値もない」 kusa,吉祥草ともいう。葉が針のように細く尖っている。「吉祥草の先端」とは 極めてわずかの分量に害えていう。 agghai,動詞へ/arhの3.sg.現在形。PEDは語根としてargh-/arh-atiを 記載している。このことはMWによっても立証される。 sakkhayadhamma,Devendraはsakkhayadhammassa=svakhyatadharmas- yaと説明する。この場合の発展過程はsvakhyata->'''sakkha(t)a-">sakkhaya-となるであろう。 この詩煩と同様のものが,Isibhasiyaim41,13にさらに仏教文献にもみられる。 Mahavastuiii,435 masemasekusagrenabalobhurnjeyabhojanam, nasosvakhyatadharmanamkalamarghatisodasim. Uv.24,20E: masemasekusagrenayohibhunjitabhojanam, natatsvakhyatadharmasyakalamarghatisodasim Dhp70 masemasekusaggenabalobhunjethabhojanam, nasosahkhatadhammanamkalamnagghatisolasim パーリ文にsahkhata-とあるのはパーリ語への翻訳者がdharmaの別名とし てのsvakhyata-"welltaught"をsahkhata-にとり違えた結果に他ならないで あろう。従ってこのパーリ文は本来svakkhata-と表記されるべきであろう。拙 稿「ダンマパダ語源学研究ノート」「印度学仏教学研究」第29巻第2号,pp931−30 を参照。 45=11

46.hirannamsuvannammanimuttamkamsamdusamcavahanam

kosamvaddhavaittanamtaugacchasikhattiyaH

「金貨,金,宝石,真珠真鋪,外套車,宝を増やさせてから,あな

たは行く(出家する)ことができるでしょう。おお君主よ 」

(23)

(22)

hirannamとsuva”amは意味が同じであるのでどちらかを取り除き,mani-rauttamの後にCaを挿入する(Alsdorf)。 47=8 48.suvannaruppassaupavvayabhavesiyahukelasasamaasamkhaya

narassaluddhassanatehimkimciicchauagasasamaanantiya

「Kailasaと同じくらい大きい金や銀の山が数えられないほどあったと

しても,負欲な人にと-うてそれら(の山)は何でもない。というのは彼の

望みは虚空のように終わりがないから。 padaabdのmetreはVamsastha,padacはUpajatiである。Alsdorfは この詩煩を後世の付加とみなす。 49.pudhavisaltJavacevahirannampasubhissaha padipunnamnalamegassaiivijjatavamcare

地面に米,大麦,金,そして家畜が満ちていようとも,これらすべては

一人の人にとって十分ではないと知って,人は苦行を実践すべきである」

50=正 51.accherayamabbhudaebhoecayasipatthiva

asantekamepatthesisamkappenavihammasi

「なんて不思議なんだろう1王よ,あなたはすばらしい享楽を放棄し

ている。あなたは真実でない愛楽を求めている。あなたは想像によってく

つがえされるでしょう」 accherayamabbhudae,Alsdorfはaccherayamabbhudaeと表記する。こ (24)

(23)

UTTARAJJHAYA研究Ⅱ れに反して−m一をsandhiconsonantに解し,accheraya-m-abbhudaeと分解 手 、 ブ 9 ′ D C 52=8 53.sallamkamavisamkamakamaasivisovama kamepatthemanaakamajantidoggaim 「 愛楽は槍であり,愛楽は毒であり,愛楽は毒蛇のようなものである。 愛楽を求める人たちは不本意に地獄に行きます。 第2半節はunmetreである。Alsdorfはpadacdをkamepatthayamana hiと読みこの問題点を解決する。又彼はこの詩頒をインドラに対する王の真 実の反論とみる。 doggai</Sktdurgati.derivation;durgati)>duggati)>d6ggai.ジャイナ教で

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「動物」ないしは「地獄」に生まれ変わることを意味しているので,ここでは「地 獄」と訳す。詳しくはSchubring,TheDoctrineoft舵"伽as,Delhi1962, §93を見よ。 54.ahevayantikohenammanenamahamagai mayagalpadigghaulobhauduhaubhayam 彼らは怒りの故に地獄の方へ行きます。彼は自負心の故に下方へ行きま す 。 迷 妄 は 再 生 へ の 障 害 で あ り 寅 欲 か ら 二 つ の 世 界 に 危 険 が 生 ま れ ま − 斗 一 ’ 9 」 ahe,Sktadhas"downwards",ahevayanti"theygodownwards"="they gotoadurgati" 註釈害がvayantiと読んでいるからCharpentierはvayantiと表記する。しか し文脈から考えるとAlsdorfのようにvayaiと読むことも可能であろう。 ahamagai=adha-magati"adownwardgati",このgatiはdurgatiを指す。 (25〉

(24)

gai-padigghao.このgatiはsugatiを意味する。−3oは二重ablative語尾 である。二重ablative語尾-a<-at -o<[-tas 我々はここで-a-f-0>-aoを持つ。 ablativesg.語尾はBHSにおいては-atah,-ato,atu(BHSG8.50),Pkt においては-ao,adoが一般的である(Pischel§365)。BHSG§850はPali におけるablative語尾一atoの存在を否定し,またGeigerも-atoについて触れ ていないが,CPD(sv.uncha)とC.Caillat(PouruneNouvelleGγα沈加αzγg duP瓦",Torino1970,p.22)は,-atoの例を記している。また,nasato(Sn. 198),santhavato(Sn.207)もこの例であろう。 duhao,Pischel436はSkt対応語として*dvidhatasを記し,Schubring (Aydγα"gas"〃α,p85)とBollee(S加伽”zz"沢SUyagada,p.188)はPischel に従っている。 dvi-dha>du-ha,この−回はablativeであり,-aoO-atasによってとって 代わられたように思える。それ故du-haがdu-haoになったのであろう。意味は 「この世と次の世において」となる。 55.avaujjhiunamahanaruvamviuvviunaindattam vandalabhitthunantoimahimahurahimvagguhim バラモンの変装を投げ捨てて,インドラの状態に変わって,彼はこれ愚 の甘い言葉で彼を賞賛しながら,お辞儀をした。 viuvviuna,註釈書ではvikrtyaとして説明される。Sktにおいて動詞へ/kr はPresentindicativekarotiを作る。しかしweakgradeformofpresent はkuru-となる。eg.kurute(Whitney,Sα"Sたγ〃Gγα加加αγ,714)。一つ の母音で始まる語尾の前のkuru-はkurv-となる。MIAにおいて,kurv-は Paliにおいてはkubb-になり,Pktにおいてはkuvv-となる。すなわちkurv- >Palikubb->Pktkuvv-となる。vi-(k)uvv-f>viuvv-,iuna-UituijaU-itva-(na)であり従ってvi-kr-のahsolutiveはviuvviuna"havingchanged, havingmadedifferent"である。 56.ahotenijjiukohoahomanoparajiu ahonirakkiyamayaaholobhovasikau (26)

(25)

UTTARAJJHAYA研究塁 「りつばです!あなたは怒りを征服しました。り-つばです!あなた は自負心を完全に征服しました。りつばです1迷妄は除かれました。り つ ば で す 1 負 欲 は 征 服 さ れ ま し た 。 57.ahoteajjavamsahuahotesahumaddavam ahoteuttamakhantiahotemuttiuttama 聖人よ,りつばです!あなたの誠実さは。聖人よ たの優しさは。りつばです!あなたの無上の忍辱は。 たの無上の自由自在は。 り つ ば で す 1 あ な り つ ば で す 1 あ な 58.ihamsiuttamobhantepacchahohisiuttamo

loguttamuttamamthanamsiddhimgacchasinirau

尊者よこの世であなたは無上の人ですし,これからも無上の人である

でしょう。煩悩から逃れてあなたはこの世の無上なものよりもっと高い状

態,すなわち究境に行くことができるでしょう」 hohisi,動詞へ/bhnの2.sg.future,derivation:*hosyasi>*hosyisi(a)>i aftery)>*h6ssisi>*hosisi>hohisi nirao,Sktnir-rajas(rr>Vr).「汚れのない煩悩のない罪のない」。 gacchasi,詩煩ISと同様に2sgfutureである。Devendraが示している gacchasittisutratvadgamisyasiは適切な説明であろう。 59.evamabhitthunantorayarisimuttamaesaddhae

payahinamkarentopunopunovandaisakko

このように王者の聖仙を賞讃しながらシャクラは無上の信心で右側を 向けて廻りながら,何度も何度も尊敬を払った。 payahina,pradaksina+kr=「右側を廻ってその人に尊敬の意を払うこと」。 (27)

(26)

60.tovandiunapaecakkamkusalakkhanemunivarassa agasenuppaiulaliyacalakumdalatiridi

それからCakraとAhkusaによって印されたすぐれた聖人の足にお辞

儀をしてから,彼は美しく揺れている耳飾りと王冠を身につけて虚空に飛

び上がった。 Cakra,Ahkusa=thewheelandthehook(Jacobi,p.41). Alsdorfは詩碩54-60をredactorによって付加されたものとみている。 61.naminameiappanamsakkhamsakkenacoiu caiunagehamcavedehisamannepajjuvatthiu シヤクラによって親しく励まされたナミは自分を謙遜した。Videhaの 王は家を捨てて沙門の仲間に入った。 Utt.18,46; karakandukalimgesuparncalesuyadummuho/ namirayavidehesugandharesuyanaggaiノ Nami王はVideha型の王であることが知られる。cf.Jacobi,Ausgeuノαん〃G EγZ"〃〃γ壇g如加A”ノ戚nis〃〃I,Leipzig1886,p.34 62.evamkarentisambuddhapamdiyapaviyakkhana viniyattantibhogesujahasenamirayarisi ttibemi 諸々の覚者,賢者,智者はこのように行ずる。すなわちこの王者の聖仙 であるナミのように,彼らは享楽から顔をそむけるのである。 このように私は語ります。 3第10章Dumapattayam St.29: ciccanadhanamcabhariyampavvaiohisianagariyam, (28)

(27)

UTTARAJJHAYA研究豆 mavantampunoviaiesamayamgoyamamapamayae.

第1半詩節は問題なく,「財産と妻を捨てて(ciccana,tyaktvaではなく

て,*tyaktya(na)から由来して生起していることについては,Utt.9,4

の註記をみよ),あなたは出家して家なきものとなる」と訳すことができ

る。しかし,padacにおけるaieは極めて難解である。Jacobiは何の註

釈もつけずに"donot,asitwere,returntoyourvomit"と英訳して

いる。 そしてこの語且ieはUtt.24,14:

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aienikkhivejjavaduhaovisamiesaya.

にもみられる。ctyによってaie=adaditaと説明されるが,もちろんこ

の解釈は不可能である。またPischel(460)はaie=*adriyeh=adriye-thahを記しているが,a-ヘ/dr=「注意する,考える,敬う」(MW)の意

味であり,文脈に適しないし,adriyethahf>aieは不可能に思えるので,

この説明は否定されざるをえない。

Charpentier(p.366)はどのように可能かは明らかでないにしても,

aieはa-da-と何らかの関連があるとみている。これはW.Schubring

(^Aydγα"gas〃がα,Glossar,p.84)とも一致する。それゆえCharpentier

の示唆に解決の糸口があるように思える。

PED(s.v.adiyati)はoptativeとしてadiyeを与える。したがって

Palioptativea(d)iye(t)>aieが考えられ,aieは3.sg.opt."he

shouldtake"ということになる。padac:「吐き出したものを再び人はと

るべきでない」。v.l且vieがあるように,具体的には「飲む」ことを意味

しているのであろう。cf.L.Alsdorf,"Vantamapatum",/"〃α〃L”gui-sties,16,pp.21-28. St.32: (29)

(28)

avasohiyakantagapahamoinnosipahammahalayam.

gacchasimaggarnvisohiyasamayarngoyamamapamayae.

まずavasohiyaを検討するにPSMにこの項目はない。AMgDはUtt.

のこの部分をとりあげ,Sktavasodhya"havingremovedorabandoned"

を与えている。しかし,そのような語堂はSktには存在しない。ctyは

avasohiya=parihrtyaと説明しているが,語形に関しては疑問が残る。

Jacobiの英訳:"Nowyouhaveenteredonthepathfromwhichthe

thornshavebeencleared,thegreatpath;walkintherightpath;

Gautama,&c."をみる限り,avasohiyaは過去分詞に解していることが

知られよう。Vaitaliyametreであるため−sohiyaj>-sohiyaと解したの

であろうが,-iya/-iy豆はahsolutive語尾である。したがってavasohiya

は明らかにahsolutiveである。ava/apa-sudh-はSktには存在しない

が,hiper-formに理解して,visohiyaと同様の意味にとればよいように

思える。そしてkantagaはaccusativepi.ではなく,ablativesg.とい

うことになろう。

次にmahalayarnであるが,Pischel(595)を始めとして,多くの

Pkt文法学者はmahalaya=mahatを記している。しかしながら,この場

合二つの解釈が可能になる。すなわち,(T)maha-falaya「大きな住居」と

②maha-fla-bka「偉大な」に解釈が可能となる。ここでは文脈から②を

採用する。

この視点からPED(sv.mahallaka[adistortedmah-ariyaka>

-ayyaka)>-allaka])は訂正されねばならない。語源学的に解明すれば,

形容詞mahatに二つの接尾辞が付加されている。すなわち,maha十11+

kaj>mahallaka.あるいはmaha+1+ka>mahalaka>Pktmahalaya/

mahalagaである。

したがって,「イバラから道をきれいにして,あなたは偉大な道に入っ

ている。道をきれいにしてあなたは行く。ゴータマよ’あなたは機会を逸

(30)

(29)

UTTARAJJHAYA研究正 すべきでない」と訳せよう≦ St.33:

abalejahabharavahaemamaggevisamevagahiya,

pacchapacchanutavaesamayamgoyamamapamayae.

Jacobiは"Donotgetintoanunevenroadlikeaweakburden-bearer;foryouwillrepentofitafterwards;Gautama&c."と訳し

ている。vagahiyaを検討するに,AMgD,PSM,Pischelのいずれも言

及していない。Jacobiは命令形に訳していることが知られるが,-iy豆は

ahsolutive語尾である。そして語根は、/gahである。動詞asiがしばし

lsiと表記されるように(Pischel145),ava-gah-yaがva-gahyaと

表わされる。したがってSktavagahya>AMgvagahiyaとなり,abso-lutivevagahiyaは"havingplunged"の意味を持つ。また,第1半詩節

のmaはanutavaeにかかるように思われる。そこでSt.33は「ひ弱な

荷物運び人のように,平坦でない道に入り込んで,あなたは後々に後海す

べきでない。ゴータマよ’あなたは機会を逸すべきでない」と訳せよう。

St.36: buddheparinivvudecaregamagaenagarevasamjae, santimaggamcavuhaesamayamgoyamamapamayae.

このSt.において難解な語句が2つある。すなわち,samjaeとvuhae

とである。Jacobiの英訳:"Theenlightenedandliberatedmonkshould

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preachtoalltheroadofpeace;Gautama,&c."をみるとsamjaeは

nominativesingularに理解される。これは採用されるべきである。

次にvuhaeを検討するに,Pischel(76)は*vumhae=vrmhayetを

記載している。Jacobiも脚注でbuhae=vrmhayetと述べている。しかし

r Q 1 、 、 J 入 ノ

(30)

"heshouldpreach"=vuhaeであり,Sktbrrnhati(<Jbrh"tobe strong")の本来の意味とは異なっている。padacに類似した句がDhp. 285cにもみられるosantimaggamevabruhayaであるoDhpa(vol.3, p.429)によればbruhaya=vaddhayaということになる。またMax Muller(TheD〃α”"mpada,SBE,vol.10,Oxford1881,p.70)と Radhakrishnan(TheD〃α獅加αpada,Oxford1950,p.149)は"cherish thewayofpeace"と訳している。 さらにUv.XVllI5の第2半詩節は鏑ntimargamevabrrnhayen nirvanarnsugatenadesitamであり,Utt.10,36とパラレルな関係にあ ることが知られよう。 Dhp.とUv.のパラレルな部分から,AMgvuhaeは語源的にはSkt vrinhayati"tomakebig,strong",Palibruheti"tomakestrong,practice、 devoteoneselfto"のoptativeであることがリ」らかである。すなわち, vuhaeはSktbrrnhayati>Palibruheti>AMgvuhei(vuhayai)と発 展したvuheiのoptativeである。意味はパーリ語と同様に「実践する」 が文脈によく適合している。それ故St.36はr悟り,解脱した僧は村に あっても町にあっても遍歴すべきである。そして寂静の道を実践すべきで ある」と訳せよう。 4 第 1 1 章 Balussuyapujjam 1.samjogavippamukkassaanagarassabhikkhuno ayarampaukarissamianupuvvimsunehame 繋縛から解放された出家比丘の正しい行為(善行)を私は次第に明らか にしましょう。私に耳を傾けなさい。 padacはunmetre paukarissami,pradur/pradus+、/kr「明らかにする」のfuture・pau−は Paliではpatu-(hyperPalism)となる。語源に関してMWはpra=pra+dur (32)

(31)

UTTARAJJHAYA研究霧 'outofdoors'を示唆している。

2.jeyavihoinivvijjethaddheluddheaniggahe

abhikkhanamullavaiavinieabahussue 無知で,倣慢で,負欲で自制のない,そして絶え間なく話している人 は,教導されざる,かつ博学ならざる人である。 padadは9つのsyllableを持つ。このpadaはavinie'bahussueと読むこ とによ-って正常化することができる。K.RNormanEVI37とEVII61 はこのような詩煩がTheragathaとTherigath盃でもみられることを指摘してい る。 abhikkhanam,Sktabhiksna'constantly' bahussua,Sktbahusruta"verylearned"

3.ahapamcahimthanehimjehimsikkhana

thambhakohapamaenamrogenalassaena ここに修学を不可能にする5つの原因がある。 不注意,負欲,怠惰である。 labbhai ya すなわち,倣慢,怒り thambha,kohaはinstrumentalの働きをするablativeに解する‘ 4.ahaatthahimthanehimsikkhasllittivuccai

ahassiresayadantenayamammamudahareH

8つの原因の故に,教導されうる人と言われる。すなわち彼は笑わな

い粥に自制する。秘密を話すべきでない。

sikkhasili,第1半詩節をJacobiは"Foreightcausesdisciplineiscalled

virtue"と訳している。sikkhヨは女性名詞でnominativeにとることも可能であ

るが,siksa-silin="capableofbeinginstructed"と複合語に読み主語と考え‐

た方がよいであろう。 (33)

(32)

vuccai,動詞へ/vacのpassiveで,Sktucyateから由来する。Paliにおいて vacatiの過去分詞はv-utta,これはSktuktaから由来する。従ってinitialy-は、/vacの現在語基から復元されたのである。 cty:ahassirittiahasanasilonasahetukamahetukamvahasannevaste. ahassiraのSkt対応語はahasra='notlaughing'であるから,「笑わない人 の意味であろう。Jacobiは"nottobefondofmirth"と訳している。 mamma-<Sktmarman「秘密」。 udahare,ud-a-へ/hrの3.sg.optative従ってpadadは"heshouldnot tellsecret"と訳すべきであろう。cf.Jacobi:"nottospeakevilofothers" 5.nasilenavisilenasiyaailolue akohanesaccaraesikkhasilittivuccai 彼 は 不 作 法 に ふ る ま う べ き で な い 。 行 状 悪 く ふ る ま う べ き で な い 。 は な はだしく欲しがるべきでない。怒りから解放されるべきである。真理を愛 すべきである。(このような)彼は教導されうる人と言われる。 padaaはunmetre1syllable不足である。naasileと読むべきか。 siya,動詞へ/asの3.sg.optative.Sktsyat>s'ya/siya"heshouldbe". 6.ahacoddasahimthanehimvattamaneusamjae avinievuccaisounivvanamcanagacchai (次の)14の状態に陥りつつある比丘は教導されざる人と言われる= して彼は浬繋に達しない。 そ coddasa,Sktcaturdasa,この場合の発展過程はcaturdaSa)>ca(t)uddasa> cauddasa>coddasa(a+u)>o) 7.abhikkhanamkohlhavaipabandhamcapakuvvai mettijjamanovamaisuyamladdhunamajjai 彼 は し ば し ば 怒 る 。 彼 は 連 続 的 に 怒 る 。 彼 は 友 情 を 否 定 す る 。 博 学 を 得 (34)

(33)

UTTARAJJHAYA研究塁 て彼は自慢する蚕 mettijjamana,v1.mittijjamana.AMgDはSkt対応語mitriyamanaを与 える。denominativeverbmitrayateのpassive現在分詞にとる。 majjai,cty:madyatidarpamyati 8.avipavaparikkheviavimittesukuppai suppiyassavimittassarabebhasaipavayam 彼は悪を周囲にまでもまき散らす。彼は友人にさえも腹を立てる。彼は 非常に親密な友人にさえも秘密に悪口を言う。 pavaparikkhevin,Jacobiはctyに従って"ifhefindsfaultwithfriend" と訳しているが,MW(s.v.pariksepin)は"whoscattersordistributes"で あり,これに従って訳す。

9.painnavaiduhilethaddheluddheaniggahe

asamvibhagiaviyatteaviniettivuccai

彼はでたらめに話をする。彼には悪意がある。彼は倣慢である。彼は寅

欲である。彼は自己を教導しない。彼は分かち合わない。彼は賢くない。

(このような)彼は教導されざる人と言われる。

padacはunmetreこのpadaは'viyatteと読むことによって正常化される。

2の註記をみよ。 painnavai,DevendraはSkt対応語としてpratijiiavadiを記す。しかし Charpentierはpainnavai=Sktprakirnavadi"talkingonmiscellaneousmat-ters,talkingnonsense《と考える。彼の見解は採用されるべきである。prakirna は'scattered'の意味であり,prakirnavadinは"speakingatrandom,speak-ingnonsense"を意味する。 aviyatteはapritikarahとして説明されてきた。しかしaviyatte</apritikarah は語源的には不可能である。Charpentier(p.320)はこの語の正しい由来を知ら ないと述べているが,viyattaはvy-ヘ/afljの過去分詞から由来して生起してい ( 3 5

(34)

るに違いない。すなわち,a-viyatta<a-vyakta"notlearned,wise"である aviyattaの-i-はsvarabhaktivowelである。 10.ahapannarasahimthanehimsuviniettivuccai niyavattiacavaleamaiakuuhale

しかし(次の)15の状態の故に彼はよく教導された人と言われる。生活

が控え目である。堅固である。欺かない。好奇心を持たない。

padaaはunmetreである。aha る。 p をとり除けば,完全なSlokametreとな 11.appamcaahikkhivaipabandhamcanakuvvai

mettijjamanobhayaisuyamladdhumnamajjai

侮辱の言葉をほとんど言わない。連続的に怒らない。友情を崇め尊ぶ。

博学を得て自慢しない。 appam,Sktalpa"toasmallextent"のaccusatlveであり,atmanではな い。appamcaahikkhivai="heuttersfewinsults"となる。 laddhum,St.7ではahsolutiveladdhunaであったが,ここではinfinitive laddhumとな-っている。AMgではinfinitiveはahsolutiveとして使用される ことができる。Utt.9,2の註記をみよ。 12.nayapavaparikkhevinayamittesukuppai appiyassavimittassarahekallanabhasai

悪を周囲にまき散らさない。友人に腹を立てない。親密でない友人にさ

えも秘密に良く言う。

1

3

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hirimampadisamlinesuviniettivuccai (36)

(35)

UTTARAJJHAYA研究Ⅱ 口論と騒動から解放されている。悟っている。高貴な生まれである。謙 虚 で あ る 。 虚 心 で あ る 。 ( そ の よ う な ) 彼 は よ く 教 導 さ れ た 人 と 言 わ れ る 。 14.vasegurukuleniccamjogavamuvahanavam piyamkarepiyamvaisesikkhamladdhumarihai 師の家に常に住んでおりヨーガ(yoga)を行じ,学習に対する熱意を 持ち,行動と言葉において親切である人は教導を得るに値する。 padad;sesikkhamladdhumarihaiは−−−−,,−−−となりunmetre, uvahanavam,Sktupadhanavat.AMgDは"onewhopractisestheausterity knownasUpadhanawithaviewtostudythescriptures"を記している。 15.jahasamkhammipayamnihiyamduhaovivirayai evambahussuebhikkhudhammokittttahasuyam 貝殻の上におかれた水が二様に輝くように,非常に博学な比丘に課せら れた法(dhamma),名声,知識はちょうどそのようである。 padaaはunmetre.SuttagameVolII,theSthanakvasied.byMuniSri PhulchandjiMaharaj(Gurgaon1954),p.993は,jahasarnkhammipayanr, nihiyainduhaovivirayaiと表記する。この解決はjah豆をとり除くことにある ように思える。 duhao,*dvidhatas.dvi-dha'two-fold',derivation:*du-dha)>duha'>duh-ao(ablative).Utt.9,54の註記も併せ参照。 bhikkhu,-uで終わるlocativeはPischel(379)には記述されていないが, Charpentier(p.321)はDevendraの註釈(arsatvadbhiksau)から,locative であることを想定する。 Sktbhiksuのlocativesingularはbhiksauである。語尾一auが−oに変 化し,bhikkhoとなり,さらにbhikkhnと書かれたように思える。-o)>-uの例 は他にも存在する。例えばPali文献においてtarnkissahetuという構文があ る。BHSではtatkasyahetohとなる。それ故,PalihetuはSkthetohか ら由来して生起していることが知られよう。また,Theragatha934c,1123c,1128a ではhetuと表記されている。-u<(-u<(-oの発展過程,すなわち,hetoh> (37)

(36)

*heto>hetu>hetuを読みとることができる。cfK.R.Norman,EVII PTS,1971,p177,Geiger22. bahussuebhikkhu(nihiyam)は"placedinalearnedmonk"と訳せよう二 Jacobiは“…ofaverylearnedmonk"と訳しており,nominativeにとっ ているように思える。 dhammo,ctydharmo-yatidharmah「苦行者の義務」。 16.jahasekamboyanamainnekanthaesiya asejavenapavareevamhavaibahussue 最上の馬であるKamboja馬の駿馬はスピードがすぐれているように 非常に博学な人もそのように(すぐれている)。 padaaは1sylladle不足であり,padad(---,ハ,−−−)は1syllable余 分である。havaiをhoiと読むならmetreは可。evamhavaibahussueはSt. 30までpadadを構成する。 ainna,Devendraによってa,”a−は嵐kirija(iva)vinitasvahとして説明さ れ,Jacobiの英訳もこれを受け継いでいる。しかしCharpentier(p.277)は ajanya=ajaneya"anoblehorse,athoroughbred"の可能性を示唆している。一一f BHSDによれば,ajanyaのほかにajaniya,ajanya,ajaniya,ajaneya(=Pali ajanna,ajaniya,ajaniya,ajaneyya)の語形が存在する。今,ここではChar-pentierのSktajanya>AMgainnaは極めて可能であるように思える。風1”a は*ajinnaとajaijnaを通り,ajanyaに遡ることが読みとれよう。すなわち ajanya>ajanna>*ajinna(口蓋音jの後ではa>i)>ainna'thoroughbred' を見ることができるのである。palatal,jの後でa>iについてはK.R.Norman, "MiddleIndo−AryanStudiesXIII,ThePalatalisationofVowelsinMiddle Indo-Arvan",ノ、〃"al0JがleOrientalIns""ite(Baroda)25,(1976),p.332 を参照。 Kamboya(Kamboja),Afghanistanの東部地方を指す。馬の産地として有名 である(N.L.Dey,TheGeograpノ"calDictio"αγyofAncie城α"αM“j“"“ 伽成α,1927)。 kanthae,cty:kanthakah-pradhano6VoPED(svkanthaka)nameof Gotama'shorse,onwhichhelefthisfather'spalace.BHSD(s.v.kap-thaka):nameoftheBodhisattva'shorseAMgD(sv.kamthaa):ahorse ofnoblebreednotterrifiedevenbytheexplosionsofguns.Jacobiによれ (38)

(37)

UTTARAJJHAYA研究Ⅱ if,Buddhaの馬はKanthakaと呼ばれ,この詩煩の中で,この語は固有名詞で はなく,一つの名称であるという。ここではctyに従って「最上の馬」の意味に とる。 asa,Paliにおいてはassaのみであるが,Pktにおいてはassa,asaの2語形 が存在する。derivation;Sktasva>assa>asa 17.jahainnasamarudhesuredadhaparakkame ubhaonandighosenamevamhavaibahussue

駿馬に乗った,力強い勇気のある両側に合唱隊を伴った英雄のよ

に,非常に博学な人もちょうどそのようである。 ubhao,Pischel(123)はubhao=*ubhatasと説明する。AMgDとPSM はSkt対応語ubhayatasを記している。しかしながら,ubhaoはSktにおけ るgenitivedualubhayohから由来する両数形に解することが可能なように思え る。ubhaoは"onbothsides,inbothways"を意味するPaliubhatoに相当 する。従ってubhao</gen.dualSktubhayohと見なすことができよう。この 他にUtt.において両数形と考えられる形がいくつか存在する。拙稿「中期印度 アリアン語における両数形について」『印度学仏教学研究』第28巻第1号pp l48-49を参照。 nandighosenam,nandighosepadvadasaturyanirghosatmakenaとDevendra は説明する。AMgDも同様に"achorusofasetoftwelvekindsofmusical instruments"と記載する。また,Charpentierはnandighosaが'Arjuna's Chariot',一般的な意味で'battle-chariot'を意味すると述べている。さらにMW (sv.nandi-ghosa)は"cryormusicofjoy,(esp)theproclamationofa panegyristorherald'と説明する。語義が判然としないが,一応AMgDに従っ て訳す。

18.jahakarenuparikinnekumjaresatthihayane

balavanteappadihaeevamhavaibahussue

雌象に囲まれた力強い敵し難き60歳の象のように,非常に博学な人もち

ょうどそのようである。 (39)

(38)

padaa;−−−−−−−−−と数えることができる。cf.F・Edgerton,"Meter, − Phonology,andOrthographyinBuddhistHybridSanskrit",JAOS,Vol 66,43.padacは,'ppadihaeと読むべきである。2の註記をみよ。 kunjara,PaliもBHSも同形である。PEDにおける'derivationunknown はSktkunjaraの由来が不明であることを意味している。すなわち,kunjaraに 対するインド・ヨーロッパ語の語源がない。そしてこの語はnonIEか擬声語で ある。しかしながら,「象」を意味することに疑いはない。 19.jahasetikkhasimgejayakhandhevirayai vasahejuhahivaievamhavaibahussue 群れの王であり,鋭い角があり,大きな肩のある雄牛が輝くように非 常に博学な人もそのようである。 padaaは1syllable不足である。 jayakhandha<Sktjata-skandha.cty;jatah=upacitibhutah'increased grownと説明する。従って,jayakhandhaは「大きな肩」を意味し一般的に は「非常に強い」を意味しているのであろう。cf.Jacobi:'strong-necked' 20.jahasetikkhadadheudaggeduppahamsae sihemiyanapavareevamhavaibahussue 鋭い牙を持ち,決して襲われることのない,勇猛な獅子が,すべての獣 の中で最もすぐれているように,非常に博学な人もそのようである。 padaaは1syllable不足である= 21.jahasevasudevesamkhacakkagayadhare appadihayabalejoheevamhavaibahussue まき貝,車輪,棒を持っている,敵し難き力で戦うVasudevaのよう に,非常に博学な人もそのようである。 (40)

(39)

UTTARAJJHAYA研究Ⅱ padaaは1syllable不足である。p且dac−=−−,−−−と数えることがで きよう。cf.Edgerton,opcit.43 22.jahasecaurantecakkavattimahiddhie coddasarayanahivaievamhavaibahussue 偉大な力を持ち,王の14の宝を持つ世界の君主のように,非常に博学な 人もそのようである。 padaaは1syllable不足である。padac;coddasarayanahivai,1syllable 余分である。この解釈は−rayana-を-ray"na-と読むことにある。yの後のa はS"αγα姉α々〃vowelである。多くの単語の中で歴史的根拠上,挿入であるとみ なされ,一かたまりの子音を解くために展開されうる母音は韻律のために無視さ れねばならない。多くの場合詩頒が作成された時代には未だ挿入母音が発展して いなかったことによると思われる。cf.K.RNorman,EVI,51,EVII,75 cauranta,Sktcatur-anta"fourends",caturanta"possessingfourends (oftheworld)"or"possessingwholeworld".従ってこの語は“universa emperor"を意味しているものと解する。 mahiddhi,derivation;maha+rddhi>maha+iclclhi>mah'iddhi JJ.Meyer(HinduTales,London,1909,p.84n.3)によれば,Jainacakra-vartlnの14の宝とは,1)senapati,2)grhapati,3)purohita,4)gaja,5)haya, 6)sutradhara,7)stri,8)cakra,9)chattra,10)carma(Charpentierは camaraとする),11)mani,12)kakini,13)khadga,14)dandaである。これ に反して仏教徒は7つの宝を数える。すなわち,1)cakra,2)gaja,3)turaga 4)maiji,5)stri,6)grhapati,7)senapatiあるいはparinayakaである。 23.jahasesahassakkhevajjapanipurandare sakkedevahivaievamhavaibahussue 千の眼を持ち手に金剛杵を持ち,要塞の破壊者であり,神々の王であ る シ ャ ク ラ の よ う に 非 常 に 博 学 な 人 も そ の よ う で あ る 。 padaa,cとも1syllable不足である“ (41)

(40)

24.jahasetimiraviddhamseuccitthantedivayare jalanteivateenaevamhavaibahussue 暗闇の破滅者であり,光明によって燃えているかのように昇りつつある 太陽のように,非常に博学な人もそのようである。 padaaは尊--=−−−−と数えることができるかもしれない。 25.jahaseuduvaicandenakkhattaparivarie padipunnepunnamasieevamhavaibahussueH 星座によって囲まれ,満月の日に満ちている星の君主である月のよ・‐ に,非常に博学な人もそのようである。 padaaは1syllable余分。 padac:、∼−−−−−−−cfEdgerton,op.cit43. uduvai,Sktudu-pati'lordofstars=moon'. ptmnamasie,locativesingular,"onthefull-moonday先 26.jahasesamaiyanamkotthagaresurakkhie n3nadhannapadipunneevamhavaibahussue 同業組合員のよく守られた貯蔵庫が,さまざまな穀物で満ちているよう に,非常に博学な人もそのようである。 samaiya,v.l.samaiyamganamSktsamajikaにおける意味は「集会における 参加者」のみである。ctysamajah-samnhastamsamavayantitlsamajikah-samuhavarttayolokastesam.Jacobiは「商人」の訳語を当てている。一応ここ ではctyに従-って"memberofguild"に訳す。 27.jahasadumanapavarajambunamasudamsana anadhiyassadevassaevamhavaibahussue (42)

(41)

UTTARAJJHAYA研究蔓

Anadhiya神に属するSudarsanaと名づけられたJambu樹が樹木の

うちで最高であるように,非常に博学な人もそのようである。 padaaは1syllable余分。 anadhiya,Jacobiはanadhiyaと読み且jnasthitaに等しいと考え,padac を"whichistheabodeofthepresidingdeity"と訳している。しかしながら, 他のeditionもanadhiyassaと読んでおり,anadhiya-は正しい読みであろう。 一方,Devendraはanadhiya=ana山taと説明するが文脈に適しない。AMgD はanadhiya(anadrta)"thepresidingdeityofJambudvipa,namedAnadhia" と説明する。今ここではAnadhiya="nameofadeva"に解する。 28.jahasanainapavarasalilasagaramgama

siyamlavantapavahaevamhavaibahussue

Nila山の裾野から流れて,水が大海に流れ行くSite川が川の中で最高

であるように,非常に博学な人もそのようである。 Jacobiによれば,SitaはJainaの宇宙観ではNila山脈から流れ出て東の 大海に流れ出る川を指す。cf.W.Schubring,TheDoctrineoft舵〃"αS Delhi,1962,p.227 nilavantapavaha,Jacobi:"withitsdarkwaters".Devendraによって nilavatpravahaと読まれ,Nilavat=Nilaであり,Varadhara山脈の第4番目 であると説明され後世の註釈家たちによってこの解釈が受け継がれてきた。しか しながら,これに反してCharpentier(p322)はnilavantapavaha=nilapranta-pravaha"flowingfromtheextremevergeofMountNila"の可能性を指摘 する。Charpentierにしたがって訳す。 padaa,cとも1syllable余分。 29.jahasenaganapavaresumahammandaregiri nanosahipajjalieevamhavaibahussue さまざまな植物が輝いている高いMandara山が山の中で最高であるよ うに,非常に博学な人もそのようである。 (43)

参照

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