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久 富 木 成 大

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(1)

いわゆる︑桐城︵とうじよう︶派文学とは︑主として︑安徽省︑

桐城県出身の官僚地主階級とでも称すべき人々によって唱えられた

文学である︒それは︑彼らの古文についての︑独特の文学論にもと

づく文章によって︑綴られていた︒

桐城派文学の創始者と目されているのは︑清朝初期の方苞︵一六

六八〜一七四九︶である︒彼は︑明代の初めに︑江西省婆源から桐

城へ移住してきたといわれる︑この地方の豪族︑方氏の一族である︒

方苞は︑後にふれる〃義法″にもとづく文学論をとなえ︑それを弟

子の劉大棚にさずけた︒一方︑方氏の一族︑方澤と︑この劉大栂と

梅伯言の文学と思想︵久富木成大︶ はじめに 一︑梅伯言の生涯 二︑梅伯言をめぐる桐城派の〃文統〃 三︑梅伯言の社会思想 四︑梅伯言と桐城派の文学

おわりに

注 はじめに 梅伯言の文学と思想

に師事していた眺薫二七三一〜一八一五︶は︑方苞のとなえた〃義

法〃説にもとづく文学論を︑発展させた︒これによって︑桐城派の

文学論は完成したといわれる︒このように︑桐城派文学の理論は︑

清朝初期から︑乾隆・嘉慶時代という︑清朝の社会と文学の形成と

興隆の時期を背景として︑構成されていった︒

桐城文学の理論を完成した眺薫︵字は姫傳︶の著名な弟子として︑

王先謙は︑次の四人をあげる︒

○姫傳の徒は︑伯言・異之・孟塗・植之︑最も著はる︒︵姫傳之徒︑

伯言異之孟塗植之︑最著I﹁續古文辞類纂﹂原纂例略︶

ここにのべるように︑伯言I梅會亮︑異之I管同︑孟塗I劉開︑

植之I方東樹の四人が︑桃薫の弟子として知られている︒彼ら四人

のあとも︑桐城派は隆盛の一途をたどるが︑時代を経るにしたがっ

て︑支流として︑いくつかの分派を生ずるようになった︒陽湖派と ① か︑湘郷派などと呼ばれるものが︑それである︒桐城派の勢力は︑

太平天国の乱︑五四運動・民国革命などの︑長期にわたる乱世のな

かでも︑一貫して持続した︒桐城派の人々は︑これらの乱の︑初め

から終りまで︑ずっと反革命の行動をとったのである︒それは彼ら

の出自からして︑当然のことであった︒

久富木成大

一一一一一

(2)

一︑梅伯言の生涯

さきにすでにふれたように︑梅伯言は名前を會亮と称していた︒

伯言はその字︵あざな︶である︒また︑室名を柏視山房となづけて

いた︒乾隆五○年︵一七八五年︶︑上元︵江蘇省︶に生まれ︑威豊六

年︵一八五六年︶︑七一才で卒した︒当時の読書人の常として︑彼も

科挙に応じ︑三七才で進士となり︑官は戸部郎中にまで至っている︒

首都北京において︑官にあること二十余年にして︑金陵に退き︑そ

この揚州書院の講師となった︒その翌年︑喜憲︑つまり太平天国軍

が金陵を陥すにおよび︑そこを去った︒そして︑長年の友人︑河道

総督の楊以増のもとに身をよせ︑そこで客死した︒

桐城派の中心人物となった彼は︑朱埼・宗稜辰・曽国藩ら︑同派

の後輩たちに︑大きな影響を与えた︒梅伯言の著作物は︑大きく三

類に分けられる︒先ず第一に︑彼の文集・詩集をあげなければなら

ない︒﹁柏視山房耕麗文紗﹂一巻.﹁柏視山房文集﹂十六巻.﹁柏相山

房文續集﹂一巻.﹁柏根山房詩集﹂十巻.﹁柏視山房詩續集﹂二巻. 小論においては︑前述の眺薫門下の梅伯言に注目し︑その文学と 思想について︑若干の考察を試みたい︒彼は︑眺草門下の四天王の 一人として︑従来︑位置づけられてはいるが︑それは︑実作者として のことで︑桐城派の〃流れ″のなかで︑彼の果たした役わりの意味 が︑明白にとらえられてはいない︒彼は桐城派文学に対して何をな したのか︑それは︑師のいかなる教えに︑どのように関わるのか︑ とい︑うことを︑ここでは明らかにしたい︒ 梅伯言の文学と思想︵久富木成大︶

二︑梅伯言をめぐる桐城派の〃文統″

桐城派にあって︑方苞l劉大柵l眺薫I梅伯言という文統

のあることは︑さきに述べたとおりである︒この文統を通じて︑そ

れぞれの師弟のあいだには︑どのような文章上の精神︑ないしは技

法が授受されたのであろうか︒ここでは︑梅伯言が︑師たちから与

えられたものがどのよ︑フなものであったかを︑考えてみたい︒

桐城派文学の創始者として︑方苞がそれに言及されるのは︑彼が

文章についての〃義法〃概念を確立したからである︒それでは︑〃義 ﹁柏視山房耕麗文﹂二巻︒つぎに︑下記のような紀行文がある︒﹁淀 通河記﹂一巻.﹁遊小盤谷記﹂一巻.﹁遊瓜歩山記﹂一巻︒さいごに︑ 編墓物で︑﹁古文詞略﹂二十四巻がある︒

梅伯言の若いころには︑すでに四川・湖南・湖北地方を中心に︑

白蓮教徒の乱がつづいた︒嘉慶時代に入ってからは︑天理教徒の乱

が起こり︑首都北京の皇城にまで︑叛乱軍が侵入した︒そして又︑

晩年にはアヘン戦争も経験している︒彼の生存中︑多発したこれら

の叛乱は︑多くは農民の不満がその根底にあるのであるが︑それら

の︑最も大規模なものである太平天国の乱のなかで︑前述のごとく︑

彼は死んでいったのである︒彼は︑このような騒然たる時勢のなか

で︑桐城派の中心人物として︑華々しい文筆活動を展開した︒彼は

どのよ︑フなことを考え︑いかに時代に処しよ蕾フとしていたのであろ

うか︒そして︑そこでの彼の文筆活動は︑いかなる意味を荷ってい

るのである︑フか︒

(3)

法〃とは︑いかなるものであろうか︒〃義″とは︑文章を構成する言

葉が空虚でないことであり︑〃法〃とは︑語と語のつながり方に︑あ

る種の方向︑ないしは法則性があることといわれる︒従って︑〃義法″

とは︑文章の内容と形式についての︑規範性に関する概念であると ② いえる︒これは又︑〃義〃︑つまり内容は︑文章の思想性についていっ

たものであり︑〃法〃は芸術性についていったものであると説明され ③ ることもある︒それでは︑方苞のこうした〃義法″説は︑いかなる

現実を反映してとなえられるに至ったものである︑フか︒

方苞は︑康煕・雍正・乾隆の三帝の時代に生きている.この前後

の散文家には︑つぎのような人々がいる︒まず︑黄宗義・顧炎武・

王夫之であるが︑彼らは︑異民族としての清朝の支配に︑漢民族と

しての立場から︑根強く反抗した︒また︑彼らは︑考證学の基礎を

うち立てることにも︑功があった︒それから︑顔元のように︑清朝

の国学とでもいうべき朱子学に︑強く反対する文章を書いた人もい

た︒さらに︑小説家の蒲松齢は︑作中の妖怪をして︑科挙をはじめ︑

清朝の諸制度への不平と批判を︑しばしば述べ行わせている︒この

ような人々の文章に注目するとき︑この時代の文章には︑あるいみ

で強い現実主義の傾向もあったのだということができよう︒一方

では又︑明末清初には︑反擬古派の文章家たちの主張のあったこと

も︑無視することはできない︒それは具体的には︑明末の歸有光・

銭謙益らの︑いわゆる唐宋八家文派のことである︒この影響は︑康

煕年間においても盛んであった︒方苞は︑これら同時代の︑〃現実主

義派〃・〃唐宋八家文派〃の文章を︑それぞれ批判した︒〃現実主義派″

に対しては︑ことに朱子学に反する主張をする人々の文章は︑方苞

梅伯言の文学と思想︵久富木成大︶ には許せなかった︒それは︑文章は孔子の教えを社会に広めること︑ つまり〃戴道″という点で︑社会に責任を負うべきであるとする考 えが︑方苞にはあったからである︒そして︑朱子こそは孔子の道統 をうけつぐ人と︑方苞は認めていたのである︒また︑俗語も多くふ くまれる蒲松齢の小説などは︑方苞には︑論外の文章と見られてい たはずである︒〃八家文派〃に対しては︑例えば︑かつてその領袖で あった銭謙益について︑方苞はつぎのよ︑フにい︑フ︒

○凡そ︑佛を學ぶ者の傳・記︑佛氏の語を用うれば︑則ち雅なら

ず︒子厚・子贈︑皆︑弦︵ここ︶を以て︑自ら暇︵あやま︶つ︒

明の銭謙益に至りては︑則ち涕唾の人をして鶚せしむるが如し︒

豈にただ佛説のみならんや︒即ち︑宋の五子の講學の口語もま

た︑宜しく散禮の文に入れるべからず︒司馬氏のいわゆる︑言︑

雅馴ならざるなり︒︵凡爲學佛者傳記︑用佛氏語則不雅︑子厚子

鱈︑皆以弦自暇︑至明銭謙益︑則涕唾之令人殼芙︑豈惟佛説︑

即宋五子講學口語︑亦不宜入散禮文︑司馬氏所謂言不雅馴也I

﹁方望溪先生全集﹂巻六︑答程蕊州耆︶

右の引用文にも明らかなように︑司馬遷の一︲史記﹂五帝本紀論賛

に︑﹁言葉の︑最も典雅なものを選んで︑この篇を書いた﹂とある︒

方苞によれば︑散文は︑まず︑このように典雅な用語で統一されな

ければならなかった︒仏教用語とか︑口語などが混入してはならな

い︒仏教に精通していた銭謙益の文章には︑仏教用語が︑しばしば

用いられている︒そのため方苞は︑﹁まるで涙や唾液が︑汚らしくた

れていて︑吐気を催させるよ書フなものだ﹂と︑銭謙益の文章を酷評

する︒また︑〃八家文派〃ともいうべき︑反擬古派の人々が模範とあ

(4)

おぐ八家文のなかでは︑方苞は︑特に柳宗元に対して批判的であっ

た︒

○子厚︑自ら述ぶ︒文を爲るに皆︑原︵もと︶を六經に取ると︒

甚だしきかな︑それ︑自らこれを知ることを審らかにする能は

ざる︒彼れ︑道に渉ると言ふは︑多く層末支離にして︑歸宿す

る所なし︒且つ︑諸經の字義を承け用ふるとするも︑尚ほ︑い

まだ當らざるものあり︒けだし︑その根源は︑周秦漢魏六朝の

諸家の文より雑出し︑諸經においては︑ただ釆色聲音の助けに

用ふるのみ︒故に︑凡そ作るところ︑古︵いにしえ︶に効︵な

ら︶ひて︑自らその鰐を旧︵みだ︶す︒引嚥︑凡て狼なるもの

なり︒瀞︑繁くして蕪︑句︑枕にして且つ穂なるものなり︒記.

序・書・説・雑文︑みなこれあり︒ひとり碑誌のみ︑六朝初唐

の餘習に冊︵よ︶るのみにあらざるなり︒︵子厚自述︑爲文皆取

原於六經︑甚哉︑其自知之不能審也︑彼言渉於道︑多虐末支離︑

而無所歸宿︑且承用諸經字義尚有未當者︑蓋其根源雑出周秦漢

魏六朝諸家文而於諸経特用為釆色聲音之助爾︒故凡所作︑効古

而自泪其禮者︑引嚥凡授者︑鮮繁而蕪︑句胱且糠者︑記序書説

雑文皆有之︑不濁碑誌価六朝初唐餘習也I﹁方望溪先生全集﹂

巻五︑書柳文後︶

柳宗元は︑文章を草するのに︑六経に依拠するといいながら︑実

際には︑そうではない︒主として拠っているのは︑〃周秦漢魏六朝″

の諸家の文である︒そのため︑彼の文章には︑むだな修飾語があふ

れていて軽薄で︑しまりがない︒そこには︑六朝から初唐にかけて

の︑峅麗文の影響が︑色こぐ反映されているのだと︑方苞は見てい 梅伯言の文学と思想︵久富木成大︶

つく︾◎

方苞は︑ここにのべたような︑同時代の文章の現実のすがたに対

する批判を通じて︑あるべき文章のかたちを摸索した︒そして︑理

想の文章の手本を︑﹁左伝﹂と﹁史記﹂に求めた︒そして︑その﹁左

伝﹂と﹁史記﹂の文章の︑内容と形式とを分析し︑そこから︑〃義法〃

という概念を生み出したのである︒

方苞の〃義法〃概念は︑彼の同郷の弟子︑劉大樋に受けつがれ︑

そのもとで講じられた︒劉大柵は︑この〃義法″を︑やはり同郷︑

つまり桐城県出身の弟子︑眺薫に授けた︒行論の必要上︑ここでし

ばらくわき道にそれて︑眺黛の思想的立場をうかがうに足る彼自身

の発言について検討してみよ︑フ︒

○夫れ︑古人の文は︑豈にただ文︵かざる︶のみならんや︒道義

を明らかにし︑風俗を維し︑以て世を詔︵みちび︶くもの︑君

子の志しなり︒︵夫古人之文︑豈第文焉而巳︑明道義︑維風俗以

詔世者︑君子之志1﹁惜抱軒全集﹂文集巻六︑復汪進士輝祖書︶

眺薫は︑文章に︑ここからうかがえるように︑道義を明らかにし︑

それによって風俗を正しく維持し︑世を正しい方法へ誘うものとい

う︑大きな役わりを荷わせている︒ここに︑他に先がけて︑かかげ

られるのが︑〃道義を明らかにする〃ということであるが︑桃薫自身

では︑その〃道義″として︑いかなるものを考えていたと見るべき

である︑7か︒

○孔子没して大道すたる︒⁝⁝宋の時︑眞儒︑乃ち聖人の旨を得

て︑群經ほぼ定説あり︒元・明これを守り︑著はして功令を爲

︵つく︶る︒明の供君に當り︑凱政しばしば作︵おこ︶るも︑ 一一一ハ

(5)

士大夫︑綱紀を維持し︑節義を守ることを明らかにし︑明をし

て久しく後に亡ぼしめるは︑それ宋儒論学の効ならんや︒⁝⁝

明末より今日に至り︑學者⁝⁝それ甚だしきものは︑蓋︵こと

ごと︶く程朱を舎てて︑漢の士を宗とせんと欲す︒枝をこれ蝋

して︑その根を去り︑細きをこれ蒐めて︑その矩を遣︵わす︶

る︒それ篇︵なん︶ぞ蔽なるにあらずや︒︵孔子没而大道微︑:.⁝

宋之時︑真儒乃得聖人之旨︑群經略有定説︑元明守之︑著爲功

令︑當明供君︑凱政瘻作︑士大夫維持綱紀︑明守節義︑使明久

而後亡︑基宋儒論學之功哉︑:⁝・明末至今日︑學者⁝⁝其甚者︑

欲壼舎程朱而漢之士︑枝之臘而去其根︑細之蒐而遣其距︑夫笛

非蔽興I﹁惜抱軒全集﹂文集巻七︑贈銭獄之序︶

ここに明らかなように︑眺薫は宋学に絶大な信頼をおいている︒

そして︑宋学をおとしめて漢学を高く評価しようという︑当時の一

部の学者たちの動きを︑激しく批難している︒彼が︑文章によって

広めようとした〃道義″は︑これによって︑宋学.つまり程朱の学

にもとづくものであったのだとい︑うことが︑よくわかる︒ここで︑

このことを確認した︑うえで︑本来の話題である︑桐城派の文統をめ

ぐる〃義法″説の授受の問題に︑論点を戻さなければならない︒

さきにのべたように︑眺薫は︑師︑劉大柵に︑方苞の唱えた〃義

法″を授けられている︒以下に︑眺薫が︑この問題をどのよ︑フに発

展させたかとい︑うことを︑彼の文章についての論理のなかから︑探っ

てみたい・

○文を爲︵つく︶るゆえんのもの八︑日はく︑神・理・氣・味・

格・律・聲・色なり︒神・理・氣・味なるものは︑文の精なり︒

梅伯言の文学と思想︵久富木成大︶ 格・律・聲・色なるものは︑文の粗なり︒然れども︑筍くも︑ その粗を舎てれば︑則ち精なるものもまた胡︵なに︶を以て寓

︵よ︶らん︒學者の古人における︑必らず始めにその粗に遇い︑

中にその精に遇い︑終りに則ちその精なるものを御して︑その

粗なるものを遣︵わす︶る︒︵所以爲文者八︑日神理氣味格律聲

色︑神理氣味者︑文之精也︑格律聲色者︑文之粗也︑然筍舎其

粗︑則精者亦胡以寓焉︑學者之干古人︑必始而遇其粗︑中而遇

其精︑終則御其精者而遣其粗者I古文瀞類纂序目︶

このように︑方苞は︑文章を形成する要素として︑まず神・理・

気・味・格・律・声・色の八つの概念をかかげる︒これらのうち︑

神・理・気・味の四者は︑文章の〃精″にかかわるものであるとい

う︒そして︑格・律・声・色の四者は︑文の〃粗″についてのもの

であるといっている︒では︑この〃精″と〃粗″とは︑一体なにを

さすのであろうか︒眺薫は︑この二つの関係について︑ここで︑﹁筍

くも︑その粗を舎てれば︑則ち︑其の精なるものも︑また胡を以て

寓らん﹂︑つまり︑〃粗〃は〃精″が身を寄せるところであるという︒

またこれは〃粗″は〃精″を盛るための器であるともいえようか︒

そうすると︑結局のところ︑〃粗″は形式で︑〃精″は︑その形式に

盛られた内容ととることができる︒従って︑〃精〃は︑方苞の提起し

た︑あの〃義″であり︑〃粗〃は〃法″であるということになる︒こ

れについては︑すでに︑先人に次のような指摘がある︒

○彼のいわゆる格・律・声・色・は︑ほぼ方苞のいうところの〃法″

にあたる︒しかし︑神・理・気・味は︑作文の方法や標準の問題

ではない︒作者が創造的に到達した︑ある境地をいうのである︒

(6)

︵他的所謂格律声色︑約略当子方苞所謂法︑而神理気味︑則決不

是作文法和標準的問題︑而是作者創造上所能達到的一種境界I李 ④ 鴻郭﹁桐城派社会主義社会有無作用﹂︶

したがって︑眺薫は︑方苞の〃義法〃説に対して︑〃義″の性格を

〃神・理・気・味″に分析し︑〃法″を同じく〃格・律・声・色″に

分析し︑師から伝えられた方苞の説を︑細密に深化したということ

ができる︒

しかし︑彼のしたことは︑それのみではない︒〃義法″説を〃精″

と〃粗″に編成しなおした︑彼のこの行為のなかには︑実は︑大き

な意味があるのである︒ここで︑我々は︑眺薫が文章に盛るべき道

義として︑朱子学を信奉し︑推賞していたことを想起しなければな

らない︒その彼の思想的立場と︑ここにあげられた〃精″と〃粗〃

の概念とは密接に関連し︑重なり合うのである︒周知のごとく︑朱

子学では精なる〃理〃と︑粗なる〃気″の概念が提起されているの

である︒朱子学の展開の歴史のなかで︑この理と気についての考え

に︑いくつかの分派が生じている︒明代中期の羅欽順︑王廷相らに

はじまり︑明末清初の王夫之之へと受けつがれ︑清朝中期に戴震に

至って完成された︑いわゆる〃気一元の哲学″が︑それらのなかに

ある︒この立場では︑気が万物の根源で︑理は気を離れては︑独立

に存在することはできない︒ここに︑この説の特色がある︒眺薫が

新たに提起した︑〃精″なるこの概念は︑まさに︑〃気一元の哲学″

での理に相当するであろう︒そして︑〃粗″は︑当然のこととして︑

気にあたるのである︒つまり︑ここで眺薫は︑朱子学的世界観と︑

みずからの文章観を対応させることに成功しているのである︒かつ 梅伯言の文学と思想︵久富木成大︶

て︑このことについて︑重沢俊郎氏は︑﹁その問の論理は︑全く理気

説に基いて組立てられているという事実を通して︑程朱学による文

章論の完成が彼によって追求されていたということ︑そして︑その

当然の帰結として:⁝・文章は⁝⁝程朱学的世界の発展に寄与し︑程

朱学的社会秩序の確立の有力な武器となりうるというのが︑眺薫の ⑤ 文章哲学であったと考えられる﹂と︑明蜥な説明を与えている︒こ

のように︑文章のなりたちを︑眺薫は朱子学的な世界観で説明した

わけであるが︑彼はたしかに︑文章そのものを︑一つの世界とみる

みかたをしていた︒このことについて︑彼はつぎのよ︑フにいってい

る︒

○吾れ︑嘗ておもへらく︑文章の原︵もと︶は天地に本づく︒天

地の道は陰陽剛柔のみ︒筍くも陰陽剛柔の精を得れば︑皆︑以

て文章の美となるべし︒陰陽剛柔︑竝︵なら︶び行はれて︑偏

廃す容︵べか︶らず︒其の一端ありて︑其の一を絶ち亡くすれ

ば︑剛なるものは債強に至りて挑戻︑柔なるものは︑頽慶に至

りて閣幽強則ち必らず文にあずかるものなし︒︵吾嘗以謂文章之

原︑本乎天地之道﹃陰陽剛柔而巳︑筍有得乎陰陽剛柔之精︑皆

可以爲文章之美︑陰陽剛柔︑竝行而不容偏震有其一端而絶亡

其一︑剛者至憤強而挑戻・柔者至於頽震而閤幽︑則必無與於文

章美︒I﹁惜抱軒文集﹂巻四︑海愚詩集序︶

ここに言及されている〃陰・陽・剛・柔″の語は︑周知のごとく

﹁周易﹂に由来するのであるが︑ここで注目すべきは︑このことで

はなく︑冒頭の〃文章のもとは︑天地に本づく″ということばであ

る︒これは︑文章を成り立たせている諸々の原理と︑天地を構成す

(7)

る原理とが︑共通のものであるとい︑フ認識を︑ここに提示している

のである︒文章と世界とは︑したがって︑別のものではない︒この

よ︑フな文章についての考えのうえに︑前述の︑眺薫の文章論は成立

しているのである︒つまり︑眺藁が︑〃義法〃説を︑朱子学の世界観

である〃理気説″で整理したのは︑その前提となる基礎の段階で︑

すでに︑文章が︑〃世界〃と同一の原理︑つまり陰陽剛柔の働きによ

り︑成立しているという︑彼一流の見解があったからに外ならない・

文章と世界についての︑この桃薫の見解は︑結局のところ︑文章と

いうものの持つ︑全体性ということに帰着するとみてよいであろう︒

世界が︑認識の全体であるよ︑フに︑文章も又︑この全体性を失って

はならないであろうからである︒文章の持つべき︑この全体性とい

うことに関して︑眺薫は︑それをさらに徹底させようとしている︒

この文章の〃精″〃粗″だけでなく︑文章には︑〃義理〃と〃考証″

の要素も備わらなければならないという︒〃義理〃とは︑眺藁の場合︑

い︑フまでもなく︑それは朱子学の精神である︒〃考証〃とは︑考證学

的な要素のことである︒文章を書くものは︑〃文章″・〃義理〃・〃考證″

の︑この三要素を兼ね︑文章にそれらをすべて反映させなければな

らないという︒︵﹁惜抱軒全集﹂文集巻四述庵文紗序︶︒これは当時

の学問である︑漢学の持つ考證的側面と︑宋明学の︑朱子学的性格

とを︑統一的に文章に反映させることであり︑学問の世界の全体を︑

文章にとり入れることである︒こうして︑さきの〃精″〃粗〃に関連

しての文章論と︑朱子学と︑考證学とが︑一人の人格の中で一体化

させられ︑それが文章に反映されることを︑眺薫は主張する︒文章

の︑全体性ということを︑どこまでも追求しようとするのである︒

梅伯言の文学と思想︵久富木成大︶ 眺薫は︑こうして︑文章の持つ︑全体性ということを︑徹底して 追求した︒このことが︑その弟子︑梅伯言に︑どのような影響を与 えたである︑フか︒このことについて︑以下に論じよ︑フ︒

さきに︑第一章でのべたように︑梅伯言の生きた時代は︑まこと

に騒然とした雰囲気に満ちていた︒このような社会相のなかで︑彼

は華々しい文筆活動を展開したのである︒桐城派の作家としての︑

彼の性格を知るためにも︑彼が︑社会をどのよ︑フに見ていたかとい

うことを知ることは︑大事な︑欠かせないことである︒以下に︑梅

伯言の社会思想について︑考察を加えたい︒

まず︑梅伯言が︑広いいみでの︑社会の階級というものを︑どう

みていたかとい︑うことから︑見てゆきたい︒

○今︑夫れ︑四民の︑うち︑士の農工商實より貴きは︑較然として

明らかになり︒⁝:・かの士や︑考試場屋の苦しみあり︒文学聲

病の學あり︒其の程度を違ふるも︑則ち又︑被奪朴責の刑あり

て︑以てその後に随ふ︒凡そ︑士の深く憂へて︑以て大辱と爲

す所のものは︑民︑みな脱然として患なし︒かの民や︑その身

を度いてその事を苦しみ︑萬︵けっ︶して以て嘗試︵こころみ︶

るべからざるもの有り︒故に甘心絶意︑その業を楽しみて遷ら

ず︒︵今夫四民之内︑士之貴於農工商買也︑較然明美︑.:⁝彼士

也有考試場屋之苦︑有文字聲病之學︑違其程度︑則又有被奪 三︑梅伯言の社会思想

−一

(8)

朴責之刑以随其後︑凡士所深憂以爲大辱者︑民皆脱然而無患︑

彼民也度其身而苦其事︑有萬不可以嘗試者︑故甘心絶意︑楽其

業而不遷︒I﹁績古文鮮類纂﹂巻二︑梅伯言︑臣事論︶

梅伯言は︑当時の社会における職業によって︑支配階級と被支配

階級とを︑厳然と区別している︒そして︑右の文に見られるよ︑フに︑

支配階級を〃士〃で代表して示しているのであるが︑その士たるも

のは︑科挙受験の苦しみや︑詩歌・学問修得の苦しみに耐えなけれ

ばならない︒それによって︑官位と教養とが︑身にそなえられるこ

とになる︒しかしながら︑さらに大きな苦しみとして︑失政による

官位の剥奪や︑鞭うちの刑などが︑ひかえている︒それにひきかえ︑

民︑つまり農業や工業や商業に従事する人々は︑士の多くの苦しみ

とは無縁である︒ただ我が身のことばかりを考えて︑日々の仕事を

楽しみつつ︑何代もつづけて︑同じ仕事に従事している︒梅伯言は︑

士は︑このよ︑フな民の嘗めない苦しみを耐えしのび︑民の知らない

恥辱を︑きびしく知るという︒そこに︑士が民と区別され︑格別に

尊重されるべき理由が生まれるのであると︑梅伯言は考える︒そし

て︑それによって︑士には支配するものとしての地位が与えられる

ことになるのである︒

では︑その士の現況について︑梅伯言はどのように見ているので

あるミフか︒

○古︵いにしえ︶の人︑一命より以上︑その憂患︑遠︵たがい︶

に相い増し︑以て卿相に至る︒惟だ︑庶人は則ち憂ひなし︒悲

しいかな︑三代より以下︑士の富貴を畏︵いみきら︶ひて居ら

ざるもの︑何ぞ少きや︒︵古之人自一命以上︑其憂患痩相増也︑ 梅伯言の文学と思想︵久富木成大︶

以至於卿相︑惟庶人則無憂︑悲夫︑自三代而下︑士之畏富貴而

不居者何少也︒I梅伯言﹁臣事論﹂︶

士たるものが︑位が高まるにつれて︑いよいよ士たるの能力を発

揮し︑責任の重さを感じながら︑そのつとめを十分に果たしたのは︑

残念ながら︑古代における夏・段・周の三代までのことであった︒

それ以後は︑今に至るまで悲しむべきことに︑士はただ富貴をむ

さぼるばかりで︑それを忌み︑避けるほどの見識のあるものは︑非

常に少ない︒では︑士が︑このよ︑フに堕落した理由は︑どこにある

のである︑7か︒

○一國の士︑その材たるものは︑百に一二もなし︒:︒⁝今︑士の

商實負販に類することあるを以て︑而して︑商實負販の者を用

ふることの︑士を用ふることに異なることなしと謂ふ︒此れ︑

士の終︵つひ︶に出でざるゆえんなるか︒︵一國之士︑其材者百

無一二焉︑⁝⁝今以上之有類於商貫負販也︑而謂用商貢負販者

之無異於用士︑此士之所以終不出欺I﹁續古文鮮類纂﹂巻二︑

梅伯言︑士説︶

士が富貴にあこがれて︑それのみに心をくだくのだとすれば︑士

と商人とは異なるところがない︒もともと︑真の士は得がたいもの

であるのに︑現在では︑その真の士を発掘する努力を怠っている︒

士の現状が︑商人に類似したものであるとするならば︑そうしたも

のを用いるのもやむをえないではないかというわけで︑政府は︑安

易な態度で士を採用している︒これでは︑士の質も︑ますます低下

していくのも︑やむをえないことではないかと︑梅伯言は考える︒

他方︑これまでのべたような︑士が︑その責任と能力を︑社会の

(9)

ために正しく発揮するということに︑怠惰︑もしくは無能であると

いうことから生ずる社会の乱れ以上に︑以下にのべるような︑悪い

事態があった︒このことについて︑梅伯言は︑つぎのようにいって

いう旬︒

○天下に乱民あり︑姦民あり︒官吏を毒し︑飢寒を迫らせ︑刃を

挺して卒起し︑薫與随和し︑以て自ら救はんことを索︵もと︶

む︒此れ︑乱民の常態なり︒若しそれ︑所なく激發し︑椙︵さ

か︶んに狂惇の説を爲し︑以て愚替を招誘し︑これを名づけて

教へといふ︒これ姦民なり︒姦民たるものは︑古へは︑これな

きなり︒︵天下有凱民︑有姦民︑毒官吏︑迫飢寒︑挺刃而卒起︑

索黛與随和以自救︑此凱民之常態也︑若夫無所激發︑而侶爲狂

惇之説︑以招誘愚曹而名之日教︑是爲姦民︑姦民者古無是也I

﹁柏視山房文集﹂巻一︑民論︶

士が︑士たるの責任を怠ることによって︑いわば消極的に社会に

害を及ぼすのに対して︑みずからすすんで︑積極的に社会に害毒を

ふりまくものがいると︑梅伯言はみている︒こうした人物たちの作

為が頻発し︑それは後にのべるよ︾フに︑士にもそれに当るものがい

たが︑多くは農民を中心にした︑梅伯言の︑いわゆる民のしわざで

あることが︑ほとんどであった︒梅伯言は︑それを乱民︑ないしは

姦民と呼んでいる︒これらは等しく農民起義の主体である︒ここに

梅伯言のいうところでは︑実際に蜂起したものを乱民といい︑その

ための教唆の段階にあるものを︑姦民といい分けているのであると︑

見てよい︒

これら乱民︑ないし姦民にたぐいするもので︑専ら士の側のもの

梅伯言の文学と思想︵久富木成大︶ として︑つぎのような社会勢力があった︒

○右の復社人姓氏一巻︑朱氏舞尊︑これを得たり︒⁝⁝凡そ二千

二百五十五人⁝⁝ああ︑濫︵みだ︶れたるのみ︒夫れ︑君子の

相い遊ぶところ︑講説道藝︑名たかければ則ち薫おほし︒薫お

ほければ︑則ち品は婿︵みだ︶る︒蓋し必らず人ありて︑吾が

爲に怨を天下に取り︑而して吾を激するも︑以て同類の恥を庇

ふ能はず︒故に箏ひあり︒箏へば則ち︑これに勝つ術を求める

ゆえん︑小人に異なるなきものあり︒而るに︑救ひを螢むとこ

ろのものも︑又︑必らずしも皆︑君子ならず︒而して︑君子︑

遂に世の詣病となる︒黛禍まさに急なる時にあたり︑婁東の張

⑥ ⑦ 氏︑急卒を京師に走らせ︑書を要人に致し︑周延儒を起復せし

む︒事︑乃ち解け︑夫の延儒は相ならず︒固より明の亡ぶるを

救うことなし︒しかるに張氏の︑時の相に傾くゆえんのものは︑ ⑧ その禍︑黛人に異るものあらんや︒余︑復社源流の一書をみる

に︑明季はなはだ鯵なりといふ︒然れども︑頗るその實を過た

んかと疑ふ︒⁝⁝夫れ漢と明と︑みな禍を筐豐に受く︒しかる

に東林と黛銅と偏にその名を受く︒文人瀞脊︑よく天下を震動

奔走し︑浮語虚詞多し︒.:⁝然して一時の習尚を以てして︑後

世をして︑士気のばすべからずといはしむ︒しこうして名賢も

また︑これがために垢︵はじ︶を受け︑馴︵しだい︶に清議た

たざるに至る︒廉恥の道きえ︑庸儒無恥の徒︑正論を附し︑以

て自らの便とすれば︑則ち︑薫人なる者もまた︑後世の責め無

かること能はざるか︒︵右復社人姓氏一巻︑朱氏舞尊得之︑⁝⁝

凡二千二百五十五人︑⁝⁝鳴呼︑濫巳︑夫君子相勝虚︑講説道

一一一一

(10)

藝︑名高則黛衆︑黛衆則品清︑蓋必有人爲吾取怨於天下而激吾

以下能庇同類之恥︑故有爲︑孚則所以求勝之術︑或無異乎小人︑

而所螢救者︑又不必皆君子︑而君子遂爲世之訴病︑當薫禍方急

時︑婁東張氏︑走急卒京師︑致書要人︑起復周延儒︑事乃解︑

夫延儒即不相︑固無救於明之亡︑而張氏之所以傾時相者︑有異

乎其禍薫人者耶︑余観幾社源流一書︑言明季甚羅︑然頗疑過其

實︑⁝⁝夫漢譽明皆受禍於苣豐︑而東林與黛銅偏受其名︑文人

蒋苓︑能震動奔走天下︑多浮語虚詞︑.⁝:然以一時之習尚︑使

後世謂士気不可伸︑而名賢亦爲之受垢馴至清議不立︑廉恥之道

消︑庸儒無恥之徒︑附正論以自便︑則薫人者︑亦不能無後世之

責也夫I﹁續古文鮮類纂﹂巻六︑梅伯言︑書復社人姓氏後︶

顧憲成・顧允成らは︑明の万暦三二年︵一六○四年︶に︑彼らの

郷里︑無錫に︑東林書院をひらいた︒そこでの多くの同志への講学

を通じて︑彼らは激しい政治批判を展開した︒彼ら東林党の人士の

出自は︑多く新興の地主階級であり︑その立場からして批判の対象

となったのは︑宮廷の門閥貴族たちの専政と︑崔官の横暴とであっ

た︒東林党はしばしば弾圧され︑その都度︑多くの刑死者を出した︒

一方︑万暦の末に︑蘇州で結成された復社は︑張溥を中心にして︑

さかんに政治活動をおこなった︒やがて︑東林党の刑死者の子孫た

ちも合流し︑復社は︑小東林とも呼ばれるようになり︑政治的に大

きな影響を発揮するようになった︒例えば︑政権をたおしたり︑さ

きの引用文にあげられていた︑周延儒に︑内閣を組織させたりもし

た︒しかし︑結局のところ東林党も︑小東林としての復社も︑宮廷

の門閥貴族を中心とする勢力によって︑弾圧され︑滅ぼされてしまつ 梅伯言の文学と思想︵久富木成大︶

た︒

梅伯言は︑東林党と︑それにつらなる復社の人々の流した害毒の

みによって明は滅亡したのだとは︑決していっていない︒しかしな

がら︑富官とともに︑均しく明滅亡の責めの一端をになうべきもの

としては︑みているのである︒それは︑張溥をはじめとして︑彼ら

党人・社人たちが︑国家権力を混乱させ︑さらに又︑日々の言動を

通じて︑士大夫階級の伝統的な醇風の美俗を壊乱せしめたと︑梅伯

言はとらえているからである︒最初にのべたごとく︑梅伯言は︑支

配階級︑つまり〃士〃に︑社会の安定と成長のための全責任を負わ

せていた︒士には多くの試練が課せられ︑それに耐えるには︑十分

な精神の緊張の持続が保たれなければならない︒〃士〃の︑この状態

をもたらすのに役立つものが︑前述の醇風美俗である︒しかし︑東

林党や復社の人々の属する︑新興地主階級の人々の新らしい風俗は︑

梅伯言にとっては︑ここに引用した文中にもあるように︑〃浮語虚詞〃

によって成りたっている以外の何物でもない・この風俗が︑士の心

を触むのである︒さきに梅伯言がのべていた︑〃士の︑商實負販に類

するもの〃の実態が︑ここに至って︑よくわかる︒つまり︑商人と︑

見分けがたくなるまでに堕落した〃士〃は︑梅伯言にいわすれば︑

新興地主階級に属する〃士仏ないしは︑その風俗に染まった〃士〃

のことである︒

新興の地主階級の立場を代表するとされる東林党︑復社の活動を

このように否定する以上︑梅伯言は︑明らかに宮廷門閥貴族階級と

同じ立場から発言しているのだということが︑よくわかる︒実は︑

このことは︑桐域派の人々に共通した立場でもあったのである︒そ

一一一一一

(11)

して︑このことが︑桐城派文学の性格を︑そのまま物語ることにも

なるであろう︒

〃党〃や〃社″が︑〃士〃の心を蝕ばむという︑すでにのべたこと

のほかに︑また︑別の面から︑梅伯言は︑東林党や復社のような︑

〃士〃の団体が︑政治活動をすることに︑反対する︒

○ああ︑權︑士より出でて︑黛銅清流の禍い成る︒權︑民より出

て︑左道凱政の禍い烈し︒然れば則ち王者の權を以て︑而して

教化︑おこし易︵やす︶からずと謂ふものは︑則ち妄なり︒︵嵯

乎︑權出於士︑而薫鋼清流之禍成︑權出於民︑而左道凱政之禍

烈︑然則以王者之權︑而謂教化不易興者︑則妄美I﹁柏視山房

文集﹂巻一︑民論︶

士が︑いわゆる〃党″をむすんで権力をふるえば︑後漢の〃黛鋼

の禁″とか︑唐末の〃清流の禍″などというような︑混乱がおこる︒

また︑民が︑権力をほしいままにすれば︑農民起義などの︑邪道の

乱政が出現する︒そうしたことが起こるのは︑権力そのものが悪い

のではない︒権力は皇帝一人がそれを行使するとき︑初めて教化が

おこり︑社会が安定するのである︒ここで︑梅伯言が主張したいの

は︑結局のところ︑分裂状態が悪いということである︒〃党〃がよく

ないのは︑それが国家に本来あるべき︑全体性︑それは統一性とい

いかえてもいいかも知れないが︑そ︑フしたものを︑損︑フかたちでの

権力の行使という方向に走りがちであるからである︒それが決して

よい結果をもたらさないことは︑ここでの引用文に明らかなよ書7に︑

歴史が正しく証明してくれている︒

梅伯言の社会思想の本質は︑門閥貴族的見地からする︑全体性の

梅伯言の文学と思想︵久富木成大︶ 回復︑ないしは志向というところにある︒具体的には︑皇帝︲11士 l民と︑それぞれの階級が︑正しく位置づけられ︑整序されるこ とである︒もうすこしわかりやすくいえば︑皇帝権力を中心にして︑ 士と民が︑それぞれ︑完全な同心円を形作ることである︒社会の︑ このよ管フな意味での︑全体性実現のために︑〃士〃には重い責任が負 わされ︑〃士〃の手になる文章にも︑そのための大きな役わりが荷わ されているのである︒以下に︑章を改めて︑この文章のことについ て︑みていきたい︒

四︑梅伯言と桐城派の文学

前章でのべたように︑〃士〃には︑梅伯言によると︑人間として格

別の任務があった︒文章を作ることも︑また︑その任務に︑積極的

に︑そったものでなければならない︒そして︑それは又︑師の眺薫

から授けられた︑桐城派文学の伝統をついだものでもなければなら

ないはずである︒こうした点から︑梅伯言と文章とについて︑みて

みたい︒

では︑まず︑梅伯言の文章歴というようなことについて︑彼自身

ののべるところを︑聞いてみよう︒

○曾亮︑少︵わか︶くして驍禮の文を爲︵つく︶る︒異之いはく︑

人に哀樂なるものあるは︑面なり︒今︑これに玉冠をもってす

れば︑美なりといへども︑その面を失ふ︒此れ︑耕禮の失なり︒

余いはく︑誠に是れあり︒然して︑﹁江南を哀しむの賦﹂・﹁楊遵

彦に報ずる書﹂は︑その意︑もとより快ならずや︒しかるに︑

一一一一一一

(12)

これを賤しむなり︒異之いはく︑彼︑その意はもとより限りあ

り︒孟・筍・莊周・司馬遷の意あらしめ︑来ること雲の興るが

ごとくし︑聚ること車の屯するがごとくすれば︑則ち百の徐・

庚の詞といえども︑以てその一意を毒くすに足らず︑と︒余︑

ついに梢︵ようや︶く學びて︑古文詞を爲︵つく︶る︒異之︑

ことごとくは善しと謂はず︒日はく︑子の文の病は雑なり︒一

篇のうち︑數禮駮見す︒その冠を武にし︑その服を儒にすれば︑

全人にあらざるなり︑と︒余の自信は︑異之を信ずるの深にし

かざるなり︒一言を得るごとに︑爲︵ため︶に數日憂喜す︒︵曾

亮小好爲餅禮文︑異之日︑人有哀楽者︑面也︑今以玉冠之︑錐

美失其面美︑此餅禮之失也︑余日︑誠有是︑然哀江南賦︑報楊

遵彦書︑其意固不快耶︑而賤之︑異之日︑彼其意固有限︑使有

孟筍莊周司馬遷之意︑來如雲興︑聚如車屯︑則難百徐庚之詞︑

不足以壼其一意︑余遂梢學爲古文詞︑異之不壼謂善也︑日子之

文病雑︑一篇之中︑數禮駮見︑武其冠︑儒其服︑非全人也︑余

自信不如信異之深︑得一言爲數日憂喜I﹁續古文辞類纂﹂巻六︑

梅伯言︑管異之文集書後︶

ここでは︑若年のころの四六文に心酔していた時代に︑同門の友

人︑管異之の助言と示唆によって︑次第に好みが古文へと移っていっ

たことが︑往事を回想し︑今は亡き管異之を偲びながら︑感情をこ

めて述べられている︒管異之が︑そのときのべたことの要点は︑以

下のごとくである︒つまり︑餅体の文︵四六文︶は︑技巧が表面に

出て︑その文章独自の持味が︑それによって隠されてしまう︒その

結果︑文の〃意〃︑つまり主題が薄れてしまうのである︒その時︑管 梅伯言の文学と思想︵久富木成大︶

異之は︑〃意〃の強い︑立派な文章として︑﹁孟子﹂・﹁筍子﹂・﹁荘子﹂・

﹁史記﹂をあげた︒これらは︑古文を代表する作品である︒こうし

て︑梅伯言は四六文を捨てて︑古文を学び︑作ることに専念するよ

うになった︒その間の事情を︑もうすこしさぐってみたい︒

○莊子は︑文の工︵たくみ︶なるものなり︒莊子を以て︑道術を

言ふと爲せば︑莊子を知るものにあらざるなり︒しかるに︑世

の莊子を言ふものは︑必らず道を以てこれに歸せしめて日はく︑

莊子なるものは︑浮屠の法の祖とするところなり︑と︒又︑日

はく︑孔孟の徒なり︑と︒:.:・言の純︑義の精︑いまだ︑今の

いはゆる制義のごときものにあらず︒而して︑あに立言なりと

言ふを得んか︒莊周や︑屈原やへ司馬遷や︑みな志を時に得ざ

るものの爲すところなり︒皆︑怨俳の書なり︒然り而して︑莊

子の怨俳たるや隠なり︒︵莊子者︑文之工者也︑以莊子爲言道術︑

非知莊子者也︑而世之言莊子者︑必以道歸之︑日莊子者︑浮屠

法之所祖也︑又日孔孟之徒也⁝⁝言之純︑義之精︑未有如今所

謂制義者美︑而豈得謂立言乎哉︑莊周也︑屈原也︑司馬遷也︑

皆不得志於時者之所爲也︑皆怨俳之書也︑然而莊子之怨俳也隠

美I﹁續古文誹類纂﹂巻六︑梅伯言︑書莊子後︶

・古文がなぜ︑梅伯言をひきつけたのか︒梅伯言は︑古文のどうい

うところに魅せられたのであろうか︒このことについて︑﹁荘子﹂を

素材にしながら︑梅伯言は︑以下のごとくのべている︒彼は︑﹁荘子﹂

の文章は工︵たくみ︶であるとい︑フ︒彼は︑この点から﹁荘子﹂を

評価するのであり︑﹁荘子﹂を︑いわゆる〃道″の哲学をのべたもの

として位置づける︑世間一般の見方と︑視点を異にしている︒では︑

(13)

その工︵たくみ︶であるとい︑フ評価は︑具体的には︑どのよミフなこ

とであろうか︒梅伯言は︑荘周を︑祖国の腐敗に絶望して︑入水し

て死んだ屈原や︑友人を弁護して︑忌まわしい宮刑に処せられた司

馬遷とともに︑志を時代に得ぬものとして︑同列に位置づける︒そ

して︑彼らの立言の根拠を︑等しく〃怨俳″に求める︒不幸の極に

立たされた者としての︑自らの率直な感情を︑少しもいつわること

なく︑ありのままに文章に定着させえた荘周たちの文辞に︑梅伯言

は︑﹁言の純︑義の精﹂なるものを認めた︒この点住当時の〃制義〃︑

つまり科挙に用いられる八股文などでは︑とても実現できないもの

である︒そして︑更に︑荘周の場合には︑屈原や司馬遷にもない長

所がある︒それは︑〃隠〃ということで︑その怨排の感情を︑さりげ

なく表現することである︒これは一種の筆力であり︑それに成功し

た荘周を︑梅伯言は︑工︵たくみ︶と評したのである︒この﹁書荘 ⑨ 子後﹂は︑梅伯言の三八歳の時に書かれている︒そのため︑若年の

ときのものではない︒しかしながら︑﹁荘子﹂を通してみられる︑古

文の持つ︑このような特徴が︑他の文体にない新鮮な魅力を︑梅伯

言に対して発揮し︑彼は︑それにとらえられたのである︑フ︒

このようにして︑友人管異之との交友のうちに︑古文への目をひ

らかれた梅伯言は︑共に入門した眺薫のもとで︑桐城派の古文につ

いての理論の習得と︑実作とに精進した︒そして︑ついに桐城派を

代表する作家となった︒このことについて︑﹁清史稿﹂は︑つぎのよ

電フに記している︒

○京師に古文を治むるものは︑皆︑梅氏の問法に従ふ︒この時に

當り︑管同すでに前︵さき︶に逝き︑會亮︑最も大師たり︒︵京

梅伯言の文学と思想︵久富木成大︶ 師︑治古文者︑皆従梅氏問法︑當是時︑管同已前逝︑會亮最爲 大師I﹁情史稿﹂四九二 では︑さいごに︑梅伯言の︑桐城派文学への影響ということにつ いて考えてみたい︒すでに︑﹁清史稿﹂ののべるところに従ってみた ように︑梅伯言は︑都においても︑当時の桐城派を代表する人物で あった︒そうした彼の名声は︑師の眺薫に授けられた理論を︑忠実 に実践化することによってえられたものであると考えられる︒梅伯 言が︑師から受けついだものの実践化という点では︑創作それ自体 とは次元を異にするが︑以下のよ雲フなことも︑広いいみで︑それに 入れて考えてよいである︑フ︒

元来︑桐城派では︑散文のみが︑その創作と鑑賞の対象とされて

いた︒それは︑桐城派の初代総帥とでもいうべき方苞に︑詩人︑な

いしは詩に︑つぎのような見解があり︑それが派内の態度を︑なが

く決めていたからであると考えられる︒

○蓋し古文の傳はるは︑詩賦と道を異にす︒魏晉以後︑姦余汚邪

の人にして︑詩賦は衆の穂する所となるものあり︒彼の瞑を以

て聲色の中に職し而して曲さにその情状をう︒また︑いはゆる

誠にして︑形︵あら︶はすものなり︒故に︑言をこれ工︵たく

み︶にして︑流俗の棄てる所とならず︒古文の若きは︑則ち經

術に本づき︑事物の理に依り︑中に得るところあるにあらざれ

ば︑以て偏りをなすべからず︒︵蓋古文之傳︑與詩賦異道︑魏晉

以後︑姦余汚邪之人︑而詩賦爲衆所構者有美︑以彼瞑隔於聲色

之中︑而曲得其情状︑亦所謂誠而形者也︑故言之工︑而爲流俗

所不棄︑若古文︑則本經術而依於事物之理︑非中有所得︑不可

(14)

以爲億I﹁方望溪先生全集﹂巻六︑答申謙居害︶

詩人には︑性々にして〃姦余汚邪″の人がいて︑そうした人格に

もかかわらず︑すばらしい作品のおかげで︑世間から高く遇せられ

ている人がいる︒それは︑詩が︑〃曲さに情状を得″というように︑

外界の事象を︑たくみに表現すれば︑それでよいからである︒とこ

ろが︑散文︑ことに古文では︑そうはいかない︒それは︑経学に対

する深い教養と︑そこから得られた︑透徹した見解が文章にあらわ

れるからである︒内に充実した︑高い人格がなければ︑古文は作れ

ないのである︒ことに︑桐城派では︑作品と人格の︑高い次元での

一致ということが要求される︒詩人にありがちな︑放縦さが︑方苞

には許しがたいことであったのであり︑そのために︑詩一般にまで︑

方苞はよい感情を持つことができなかったもののようである︒こう

して︑詩は退けられたわけである︒このよ︑フな考え方は︑又︑その

弟子の眺薫にも︑以下のごとく受けつがれている︒

○夫れ︑古今︑詩人なるもの多し︒詩を爲りて善きものも︑また

多し︒しかれども︑卓然として雄才なりと穗するに足るもの︑

千餘年のうちに︑數人なるのみ︒甚だしいかな︑それ得ること

の難きや︒︵夫古今爲詩人者多芙︑爲詩而善者亦多美︑而卓然足

構爲雄才者︑千餘年中︑數人焉耳︑甚美︑其得之難也1﹁惜抱

軒全集﹂文集巻四︑海愚詩紗序︶

このような考えにもとづいて︑眺藁は︑﹁古文辞類纂﹂を編集して

いるが︑そのなかに︑詩は収めていない︒他方︑眺薫の唱えた︑あ

らゆるものを受け入れた梅伯言は︑この一点だけは︑師とは違った

道を歩んでいる︒ 梅伯言の文学と思想︵久富木成大︶

○桃姫傅先生︑古文詞類纂を定む︒蓋し古今の佳文︑ここに壼く︒

今また︑これを約選し︑三百餘篇を得たり︒しこうして︑詩歌

を終りに増す︒昌黎いはく︑詞備はらざれば︑以て文を成すべ

からず︒詞を尚ぶにあらざるなり︒詞は︑吾が気を載するゆえ ⑩ んのものなればなり︒⁝⁝李天生は︑黄河以南の文を讃まざれ

ば︑則ち陰︵せま︶し︒︵桃姫傅先生︑定古文詞類纂︑蓋古今佳

文壼於是美︑今復約選之︑得三百餘篇︑而増詩歌於終︑昌黎日︑

詞不備不可以成文︑非尚詞也︑詞所以載吾気者也:.⁝李天生乃 ⑪ 不讃黄河以南之文︑則隔美I梅曾亮﹁古文詞略﹂凡例︶

ここにのべるように︑梅伯言は︑みずからの編纂物である﹁古文

詞略﹂に︑詩をとり入れた︒このことに関連して︑彼は︑まず韓愈

の言葉を引用している︒それによれば︑詞︵ことば︶が十分にそな

わらなければ︑文章は成立しない︒それは︑ことばは︑感情を伝え

る手段であるからである︒引用の文で︑つぎにあげられているのは︑

李天生は黄河以南の文章を読まない︒だから︑見識が狭いのである

とい︑フ文章である︒ここでふれた二つの例は︑いずれも︑必要なも

のを欠くことによって生ずる︑不完全な状況に関連したことを︑の

べている︒したがって︑結局のところ︑詩を欠けば︑文の全体性が

損われるということを︑ここでの韓愈のことばや︑李天先のことな

どは︑髻聡しているのであると見るべきである︑フ︒こ︑フして︑﹁古文

詞略﹂に詩がとり入れられたことによって︑桐城文学に︑詩が︑〃文″

として認められたことになる︒これは桐城派としては画期的なこと

であり︑梅伯言をまって︑そのことが初めて実現したのである︒ 二一一ハ

(15)

文章は︑天地︑つまり世界と同じ要素によって構成されている︒

そのため︑文章即世界であり︑文章を作ることが︑朱子学的世界観

を盛った世界像を作ることであるとするのが︑梅伯言の師︑桃薫の

教えであった︒だとするならば︑文章と世界は対応しなければなら

ない︒世界が全体であるように︑文章の世界も︑全体性によって貫

かれねばならない︒文字で書かれたものの世界︑つまり文章に詩歌

が欠けることは︑したがって︑文章の全体性を損うことになるので

ある電フ︒詩歌を桐城派文学のなかにとり入れること︑これは一見し

て眺薫に異をとなえることであるかのよ書フに思われるが︑大局で︑

実は︑師の眺薫の考えに沿︑うことになるのである︒方苞・眺薫と︑

詩人ないしは詩に対して︑厳しすぎるほどの対応をしてきた桐城派

では︑詩歌は︑文章の外におかれていた︒前述のごとく︑梅伯言に

至って︑詩歌が文章のなかに︑その席を与えられた︒このことによっ

て︑文章の世界の︑ある面での全体性が︑ひとつ実現されたことに

なるである︑フ︒これは︑眺薫の立場に反するものではない︒そして︑

このことは︑方苞以来の〃義法″説が︑朱子学的理気説の方向で︑

その理論化がなされたことの必然の結果であったと考えられる︒そ

れは︑ひとことでいえば︑朱子学的見地からする︑世界性︑全体性

を実現することであるからである︒そして︑このことは︑また︑師

の眺薫の説を受けついで︑それにもとづいて︑みずからの社会につ

いての見方も︑文学に対処する仕方も︑すべて徹底させていった梅

伯言の一途さをまって︑初めて実現したことでもあった︒

梅伯言の文学と思想︵久富木成大︶

おわりに

⑪ ⑩ ⑨ ⑧ ⑦ ⑥ ⑤ ③ ② ①

鈴木虎雄﹁桐城文派の主張と之に対する諸異説﹂︵﹁支那学﹂六巻一号︑昭

和七年一月︶参照︒

郭紹虞﹁中国文学批評史﹂七十八︑方苞古文義法︒

李鴻郭﹁桐城派社会主義有無作用﹂只是一個内容與形式相適応思想性與芸

術性統一的問題︒︵一九六三年十二月︑安徽人民出版社発行﹁桐城派研究

論文集﹂所収︶④前掲﹁桐城派研究論文集﹂所収︒注③参照︒

京都大学一九六八年度特殊講義﹁桐城方氏の学﹂︒その一九六九年一月二

八日の講義︒

張薄・字天明︑明崇禎の進士︒復社を組織し︑その中心となる︒

字玉縄︑明萬暦の進士︒

原文は︑幾になっている︒

﹁柏視山房文集﹂は︑編年をもって分類されている︒それについて楊以増

は序文のなかで︑〃以編年無分禮〃とのべている︒﹁書荘子後﹂は︑道光癸

未︑つまり一八二三年のところに︑おさめられている︒この年︑梅伯言は

三八歳である︒

明末清初の人︒名は因篤︒﹁清代七百名人傅﹂第四編︑学術︵理学︶参照︒

同治丁卯︑季春︑合肥李氏校刊本︒

‐ も

>王

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