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デューイ教育思想における連続の概念 一その哲学的基盤の考察一

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デューイ教育思想における連続の概念

一その哲学的基盤の考察一

  教育学研究室 関

(1969年11月12日受理)

第一章 デューイ教育思想における連続の概念の重要性  第一節 教育の概念と連続の概念との結合

 第二節 デューイ教育思想の基盤(認識論)における連続の原理 第二章 デューイ思想にたいするダーウィンの進化論思想の影響  第一節 デューイ思想にたいするダーウィニズムの影響

 第二節 哲学にたいするダーウィニズムの影響に関するデューイの解釈 第三章 生命活動における連続的性質

 第一節 有機体と環境との連続(一つの統一)

 第二節 生命活動と探究との連続 結 語

 第一章 デューイ教育思想における連続の概念の重要性

  第一節 教育の概念と連続の概念との結合

 ジョン・デュー.一.一一イの教育学上の主要著作(特に『民主主義と教育』や『経験と教育』)を 丹念に読む者は,彼の教育思想の展開の過程において,教育の概念と連続の概念とが密接 に結合されているのを発見したり,あるいは少なくとも,教育の概念と連続の概念との密 接な関連のもとにしか,彼が自己の教育思想を表現せざる蓼えなかった姿を見出すに相違

ない。

       (1)

 筆者は先に「デューイの反省的思考の本質」と題する小論において,デューイの中心理 論は探究としての思考の理論であると述べて,その反省的思考の理論の考察を通じて,デ ューイの教育思想究明の手がかりを得るべく,その思考状態の構造の考察にしたがったこ       (2)

とがある。また,「デューイにおける思考論の特質」と題する小論においては,「思考と行 動との統合(連続)の理論」と副題して,彼の思考論の特質が,思考と行動,認識と活動

との統合(連続)に見出されることを強調した。これら一連のデューイの思考論の考察を

(2)

316 茨城大学教育学部紀要 第十九号

通して得られた連続の概念についてのある程度の把握が,彼の教育学上の主要著作を考察 吟味する際に,特に連続の概念に留意して教育の概念を把握するように筆者を駆りたてた

ものであることは疑うことができない。

 本稿は,標題に示すとおり,「デューイの教育思想における連続の概念」について,特 にその哲学的基盤の考察に焦点をあてて論述されるものであるが,しばらくは,彼の教育の 概念と連続の概念とがいかに結合して表現されているかを検討することにしたい。

 デ= 一一イは,『民主主義と教育』の第4章「成長としての教育」第3節「発達の概念の 教育的意味」において,発達に関する純粋の結論は「生活とは発達であり,そして発達す

ること,成長することは生活である」ということだと述べた後で,それを教育的同義語と して「これは,(i)教育的過程は,教育的過程以上の目的を有しない。即ち教育的過程は       e  e    教育的過程そのものの目的であること,(ii)教育的過程は連続的な再組織の,再構成の,変       (3)

化の過程であること,を意味している」と言い直している。更に彼は」学校教育の目的は,

        成長を保証するところの諸能力を組織化することによって,教育の連続性を保証すること    (4)       。.。

である」と述べたり,「学校教育の価値の標準は,それが連続的な成長にたいする欲求を創 り,その欲求を実際に効果あらしめる手段を与えるその度合にある」と論じて,教育の

       

連続性,あるいは「連続的な成長」と学校教育の目的,あるいは学校教育の価値の標準と を関連させている。更に彼は同・書第5章「準備説・開発説・形式陶冶説」の第1節「準備         としての教育」において,前章で述べたことを反復して「教育過程は連続的な成長の過     (5)

程である」(the educative process is a continuous process of growth…….)と再確 認をしている。

 なお彼は第6章「保守的及び進歩的なものとしての教育」の第3節「再構成としての教

      ● ● ● ● ●       (6)

育」において,成長の理想は「教育は経験の絶え間なき再組織あるいは再構成である」と

       いう概念に帰着する,と述べ,「連続的な再構成としての教育観と他の一面的な教育の諸 説との本質的な相違は,この説が目的(結果)とその過程とを同一視するところにあ

 (7)

ると説いて自説の本質的特徴を簡明に浮きぼりにしている。更に彼は自説の特徴をなおも 明確にするために「これまでの諸章において,発展させられてきた教育の観念は,形式的

       e

には経験の連続的な再構成の観念として要約されるものであり,それは,遠い未来のため の準備としでの教育,開発としての教育,外的な形成としての教育,および過去の反復と       (8)

しての教育とは区別される観念である」と具体的説明を附している。

        『経験と教育』の第2章「経験に関する理論の必要」において,デューイは「経験の連 続」を一つの明確な原理であるとして,「後に,もっと詳細に,経験の連続の原理,ある e

いは,実験的連続(experimental cQntinuum)と呼ばれるところのものについて論ずる

(3)

関:デューイ教育思想における連続の概念 317 であろう。ここでは,単にこの原理が教育的経験の哲学にとって重要であるということを          (9)

強調したいのである」と述べ,なお同書の第三章「経験の標準」において,「教育的に価       (10)

値ある経験と,そうでない経験とを識別」しようとする試み,即ち,「さまざまな経験のも        (11)

       e つ固有の価値の間の識別」の標準として,「経験の連続の原理」と「相互作用の原理」を        (12)

提起し,その章の全スペースをこの説明にあてていることは周知のとおりである。更に彼 は同書の第7章「教材の進歩的組織」において,「経験は,教育的であるためには,拡大

し?つある教材の世界へ一事実,あるいは情報,および観念からなる教材の世界ヘー

      

導き入れられなければならない……,この条件は,教育者が,教授や学習を,経験の再構   …      (13)

成の連続的過程として見る時にのみ満足される。」 と経験と教材と連続との関係を問題と しながら,経験の発展を論じている。

 ふたたび「民主主義と教育」に還って,教育の概念と連続の概念との結合を見ると,デ ューイはその第8章「教育の目的」において,「教育の目的はそれが実際に作用する教育

        (14)      (15)

の過程の中にある」という有名な,

      『目的の「内在的」性格」の論理を展開している。彼 は「目的は常に結果に関連するものであるから,目的が問題となっている場合,見定める         べきeg−一のことは,外部から課された仕事が内的連続性を有しているかどうふということ    (16)      ...

である」と目的についての論究が連続性の問題と結びついていることを明らかにしてい る。更に彼は「活動を指導するための計画として活動の内部から生ずるところの目的は,

常に帰結(ends)と手段との両方なのであり,その場合の帰結と手段との区別は,単なる        (17)

便宜上の区別にすぎない」と論じて,いわゆる「デューイの論理学(ことにその「価値判        (18)

断の論理学」)における,「目的=手段の連続体」という思想』を表明している。同書の第 26章「道徳論」においてデューイは,内的道徳観と外的道徳観との妥協の弊害が「個人が 老若いずれを問わず,自分の興味をはたらかせ,そして反省することを要求されるところ

        の条件の下で,前進的に累積される事業(関註連続的発展的活動)に従事することができな        (19)       ..

い場合にひきおこされる」と説いて道徳的教育において生徒自身の興味を具体化する連続 的活動がいかに重要であるかを力説している。また学校の諸条件が望ましい業務を与えて e

いる場合,生徒に自分の作業を続行させるところの全体としての業務一即ち,その業務  …      (20)

の連続的発展に生徒の興味をもたせることができるとしている。更に彼は「自我が既成出 来合いのものではなくて,行為の選択を通して蓮繭彫成されていくものであ9i,)とレ、

うことが認識されるや否や,道徳論において義務と興味とを対立させることによっておこ るすべての問題は解決されると説いている。

 なおも根源的な意味においてデューイが教育の概念と連続の概念とを関連させていると

ころをたずねると・それは「民主主義と教育』の第一章「生活の必要としての教育」の第一一

(4)

318 茨城大学教育学部紀要 第十九号

節「伝達による生の更新」の中に見出される。彼は「全くの生理的意味における生命にた いして同様に,その経験にたいしても,更新による連続の原理が適用される。人間の場合 には肉体的生命の更新とともに,信仰・理想・希望・幸福・苦痛・及び常習の改造が行な われる・社会期硬新によって,あらゆる経験が鰍することは・ H」1白嫌 Rある・

教育は,その最も広い意味において,この社会的な生命の連続の手段なのである」と述べ ることにおいて,更新による連続の原理が,生命(生理的生命)に適用されると同様に,

経験(社会的生命)にも適用され,それによって社会が連続するものであり,この社会的 生命の連続の手段が教育であることを明確にしている。

 以上私はデューイにおける教育の概念と連続の概念とがいかに結合的に表現されている かを明らかにするために,『民主主義と教育」や「経験と教育」の内容について探索をし,

はんさをいとわず記述し続けてきた。したがって,教育哲学的内容の表現の論理的斉合性 ということは配慮の外におかれたので,もちろん取扱われている思想内容そのものは,断 片的に表現され,前後無秩序に,あるいは重複的に表現されているかもしれないことは怪 しむに足らないように思われる。ただ以上の叙述を通じて私の強調したい点は,彼がその 教育上の主要著作において自己の教育思想を展開させている過程のなかで,教育の概念と 連続の概念とを実に密接に結合させて表現しているということである。彼の教育概念はも ちろん経験概念と密接な関連をもつものであるが,連続の概念を離れては彼の教育の概念 も経験の概念も理解されえないものとさえ考えられるものである。この点で私はデューイ 教育思想における連続の概念の重要性を認めるのである。

  第二節 デューイ教育思想の基盤(認識論)における連続の原理

 第一節において,私はデューイの教育思想においては,教育の概念と連続の概念とが密 接に結合していることを,したがって,デュ.一一イの教育思想における連続の概念の重要性

を例証するために,いうならば帰納的とでもいうべき方法的努力をしてきた。こんどはそ れとは逆に,いうならば演繹的とでも称するべき方法によって,デューイの教育思想にお ける連続の概念の重要性を根拠づけたいと思うのである。

 大浦猛博士が『デューイ思想の基本的な特色の一つは,「連続」(continuity)の原理に        (23)

ある』と説かれたことについては私の先の論文において示した通りであるが,「連続」の 概念,あるいは連続の原理がデューイの思想の基本的な特色であり,あるいは基盤的立場 であることについては諸家の意見の一致を見るところである。例えば西田文夫氏はrデュ

ー一

C哲学は,実に異質的な種々の要素によって構成されている。しかも二元的対立を克服 したいという彼の熱情的な要求は,これらの異質的な種々の要素を経験と自然との連続観        (24)

の立場で綜合しようとする」と述べられて,デューイの哲学の根本的立場が経験と自然と

(5)

関:デューイ教育思想における連続の概念 319

の連続観にあることを明らかにされ,また,清水秀吉氏は「デューイ学説の意義を考察す るには,まず,経験の原理によって裏づけられている彼の哲学説の顕著な一特色としての,

彼独自の連続一元観に目を向けねばならない。ここに連続一元観というのは,ギリシャ以 来哲学において,およそ相互に矛盾対立するものと思われていた両概念を,連続一元的に 見る連続観(continualism)のことである。彼は,在来のあらゆる学説と彼自身の学説と の根本的相違は,窮極するところ二元観とこの連続一元観との相違に由来するものとし,

_聡叙述せられて,デ。一イ学説の鹸の撰には,デユーイの連続元観の把握が

前提であることを強調されている。

 清水幾太郎氏は,「デューイの思想においては何も彼も連続し,その意味で対立や敵対        (26)

という非連続の関係が何処にも見出されないのだが」とデューイの連続観に対して,やや 批判的な見地を示されてはいるものの,彼の思想の根的特色が「連続観」にあることにつ いては,その点を強調こそすれ,決して否定されてはいられない。却ってあまりに悲徹底 した連続観の立場にたいして驚き,あるいは疑念をもっていられるのではないかと思われ るほどである。また,山元一郎氏はデューイの実験主義の価値論に関連して『まず実験主義 から出てくる当然の帰結は,そこで使われる道具としての理論にも,それによって結果され た状況にも,もはやそれ以上の実験を必要としないような終局的なものはありえない,と いうことです。多くの哲学が教えた終局的な絶対不動の価値は,実験主義の立場からは成 立しません。そこには,生きることの確実性の漸増はあっても,高められた確実性は,よ り高い確実性への,より根深い探究をうながします。そこでは,すべては終止することの ない系列的な展開過程のうらにあります。「生きるということは,そこにおいて先行の行 為が後行の行為生起の諸条件を準備するような,さまざまな事物の結びついた連続性をう        (27)      t°

み出すことを意味する」のです』と述べて,デューイの実験主義思想における価値が連続 性との重要な関連にあることを明らかにせられている。

 以上私は大浦猛博士。西田文夫氏・清水秀吉氏・清水幾太郎氏・山本一郎氏等の所説を 引用することにおいて,デューイの思想における連続の概念,あるいは連続の原理の基本 的特色性や重要性を明らかにしたのであるが,これらはあくまでもデューイの研究者,い わばデューイに関しては第三者の意見であって,あくまでもデューイ自身の所説でないこ

とは改めて言うまでもないところである。これから以後において,私は彼自身の直接語 る言葉に耳をQiたむけて,彼の認識論における連続の原理の真意を把握することにした

い。

       (28)

 デューイは『民主主義と教育』の第25章において「認識論」を説いているが,その冒頭

に治いて,彼は「本書においては,多くの認識の理論(theories of knowing)が批判さ

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320 茨城大学教育学部紀要 第十九号

れた。それらの認識論は相互に相異なっているにもかかわらず,われわれが積極的に提唱 している認識論とは根本的な点で相違している点においてすべてが一致している。われわ れの提唱している認識論は連続(性)を主張する(assumes continuity)。これにたいし本 書で批判された多くの認識論は,ある根本的な分裂・対立,専門語でいう二元論というも        (29)

のを主張したり,あるいは含んだりしている」と述べて,彼の認識論の根本的特徴が連続 を主張することにあること,その点において,二元論を主張する他の認識論とは本質的に 区別されるものであることを明らかにしている。我々はここに,デューイの認識論の独自 性を見うるのである。したがって連続の概念が彼の思想の,したがって教育思想のいかに 重要な原理であるかを推測しうるのである。

 更に彼は同じく第25章「認識論」の結末の近くにおいて,「本書において提唱したとこ ろの認識の方法に関する理論は,プラグマティズムの認識の方法の理論だといえよう。こ のプラグマティズムの認識の方法の理論の根本的特徴は,環境を故意に(有目的的に)変        (30)

容する活動と認識との連続(性)を主張するところにある」と述べて,同章冒頭において 彼が説いた連続の認識論が,プラグラマティズムの認識の方法の理論であること,しかも その理論の根本的特徴が,活動と認識(一環境を有目的的に変容せんとする一)との 連連続を主張するところにあることを明確にしている。

 デューイは知識と実践,理論と実際,精神と身体,等を対立させている二元観は,労働 者階級と支配者階級との対立に基づくものであり,現今の科学の発達がこのような二元的       (31)

対立を不可能とさせている事情を三点に分離し叙述している。要点のみを列挙すると,

 ①,最近の生理学や心理学の進歩は,心意活動と神経系統の活動との関係(両者の連続   の関係)を明らかにした。

 ②,生物学の発達は,進化の事実の発見によって,連続の真理性(心意活動と神経系統   の活動との・頭脳の活動と身体的活動との連続の真理性)を確かめた。進化論の哲学   的意味は,より単純な生物よりわれわれ人間のような複雑な生物にいたるまでの連続   を強調したことにある。

 ③,実験的方法の発達

  認識論における転換をもたらした大きな力は,実験的方法が,知識を獲得し,その知   識をして単なる意見ではなく確実な知識たらしめる方法一発見および証明の方法一と   して発達したことである。

       (23)  

と整理することもできる。①および②については,先に述べた小論においても,デュー一イ

が近代諸科学の論理に支えられて,即ち,生理学的・心理学的・生物学的基礎によって精

神的活動と肉体的活動との連続を主張したと述べられたところである。要するにデニーイ

(7)

関 デューイ教育思想における連続の概念 321

において,二元論を主張する認識論が連続の認識論に転換させられたのであり,その連続 とは活動と認識との連続を意味するものであり,しかもそれは,近代諸科学によってその 基盤を与えられているものである。

 デューイは「民主主義は,自由な交渉,社会的連続を原則として立つものであるから,一 つの経験をして他の経験にたいして指導と意味とを与えることを可能ならしめる方法とし て知識を見るところの講論醗達させねばなら縄と駐主義に相応する識論の発

達が必要であることを強調しながら,実は,生理学・生物学・実験的諸科学の論理の最近の 進歩は,このような認識論を創りだし,定式化するのに必要とされる特殊な知的道具(the sp㏄ific inte11㏄tual instrumentalities)を供給していると説いている。即ち,民主主義に 相応する認識論が活動と認識との連続(性)を主張する認識論として形成されているとする のである。そしてこの認識論を教育的に適用することは,学校における知識の獲得と社会生 活の環境の中で遂行されている活動や業務とを結合することを意味すると結論している。

 本章においてはデュ炉イ教育思想における連続の概念の重要性を論ずるために,第一節 においては,デューイの教育思想の展開の過程において,教育の概念と連続の概念とが密 接に結合されていることを詳説した。また,第二節においては,デュ 一一イ教育思想の基盤 としての彼の認識論における連続の原理の大観を試みた。彼は,二元論を主張する他の認 識論と自己の主張する認識論との本質的区別を論じて,それを後者が「連続を主張」する

ことにあると断じている。連続とは活動と認識との連続を意味するものであり,それは近 代諸科学の成果に基礎づけされておるものとするのである。

 第二章 デューイ思想にたいするダーウィンの進化論思想の影饗   第一節 デューイ思想にたいするダーウィニズムの影響

 デューイの思想形成にたいするダーウィンの進化論思想の影響のいかに甚大であったか は諸家の一致して説くところであり,しかも影響の甚大であることが単に語られるにとど

まらず,デューイの生年とダーウィンの『種の起原』の出版年との偶然の暗合が特別の歴 愛的意味をもつもののごとく語られるのもまた一般のことである。例えば,清水幾太郎氏 はその事情を次のように述べている。「デューウィは,一八五九年,アメリカのニュ.一一・

イングランドに生れた。誰でも知っているように,この一八五九年という年は,ダーウィ

ンの『種の起原』が出版された年であり,また,マルクスの『経済学批判」が出版された

年である。ダーウィンとマルクスとは・即ち,エンゲルスが「マルクス葬送の辞」(一八

八三年)で語ったように,「有機的自然における進化の法則」を発見した人問と「人間の

歴史における進化の法則」を発見した人間とは,こうした歴史的因縁めゆえに,デューウ

(8)

 322      茨城大学教育学部紀要 第十九号       (34)

イの学問的生涯に附きまとうことになる。」 また,山本晴義氏はその著作『プラグマティ ズム』において,「ダーウィンの『自然陶汰による種の起源』が世におくられたのは一八 五九年十・一月四日,アメリカ南北戦争の二年前,ちょうどジェー一ムスがハーバード・ロレ ンス理科学校に入学する二年前,デューイが生まれた年である。そして進化論がプラグマ ティズムに適用されたのは,自然科学ではライト,法律学ではホームズ,ワー一ナ,グリー ン,歴史学ではフィスク,生理学と心理学ではジェームス,そして教育学ではデューイ等 によってであった。そもそもこの時代におけるダーウィニズムの影響はすさまじかった。

ある意味で,アメリカの指導的なブルジョア・イデオローグでダーウィニズムからの決定        (35)

的な影響をうけなかった者はほとんどなかったといえる」と述べられ,前述のような,デ ューイの思想形成にたいするダーウィンの進化論思想の影響について明言されている。植 田清次氏は「特に,デューイ哲学において,ダーウィン主義の色調が強い。デューイ哲学 は,みかたによっては,ダーウィン思想の変形とも思われるほど,ダーウィンについての 言及が多く,ダーウィン的思惟に富んでいる。したがって,プラグラマティズムはデュー       (聯)

イ哲学を通してみられるとき,多くのダー一ウィン的要素を包含するのである」とデューイ 哲学とダーウィン主義との密接な関連を強調されているのである。

 デューイの思想形成にたいするダーウィンの進化論思想の影響の最も明白な証拠は,デ ューイの論文r哲学にたいするダーウィンの影響』に涯然としているようであるが,この 間の事情について清水幾太郎氏は「一九〇九年,『種の起原』の出版五十周年を記念する 催しが世界の各地で行われ,進化論の勝利が更めて確認された。この年,デューウィは五 十歳に達した。五十歳のデューウィは,コロンビア大学においてダーウィンに因んで一つ の講演を行った。この講演は,一方から見れば,ダーウィンの業績を讃え,哲学及び科学 に対する彼の影響を明らかにするものであったが,他方から見れば,ダーウィンとの関係 を利用しつつ,デューウィ自身の思想を力強く主張するものであった。この講演に満ちて いるデューウィの明るい自信は,五十年後の今日,これを活字で読むわれわれにも生々と     (37)

感じられる」と叙述せられているのである。

 八杉龍一氏は「進化論の思想的影響」に関連して「プラグマティズムと進化論」の関係 を論じ,ダーウィンによる進化論の確立をその成立の重要な動機としている点において,

アメリカのプラグマティズムは注目されるものであるとして,デューイの言葉を引用しつ つ次のように説かれている。「デューイ(工Dewey一八五九一一九五二)は論文「哲学 にたいするダーウィニズムの影響」(一九一〇)で,ダーウィニズムが宗教よりもむしろ 哲学にとって大きな意味をもっていることを説いている。すなわち,「……『種の起原』

は,けっきょくにおいて知識の論理を変換させ,従って道徳政治,宗教の扱いを変換させ,

(9)

関  デューイ教育思想における連続の概念 323

ざるをえないような,思考様式を導入した。また,「ダーウィニズムに抗して武人のよう にたちあがった諸観念は,宗教との結びつきで強力になっているけれども,それらの観念 の起原と意味は,宗教のなかにではなく科学と哲学のなかにさがされねばならない」とい

う言葉も,それと関連をもっているであろう。さらにデューイはいう。 「哲学にたいする ダ・・一・ウィンの影響は,生命の現象を変遷の原理によって征服し,それによって新しい論理        (38)

を解放して心や道徳や生命に適用されるようにしたことにある。」

 これまで諸家の所説を引用しながら叙述した内容は,デューイの思想形成にたいするダ ーウィンの進化論思想の影響,およびその影響の最も明白な証拠としてのデューイの論文

『哲学にたいするダーウィニズムの影響』の内容のごく粗朴な紹介であった。われわれは デューイの連続の概念がダーウィンの進化論思想とどのように思想的系譜として接続し,

それが『哲学にたいするダーウィニズムの影響」にどのように叙述表現されているのか,

を知らなければならない。

 まさにこの点に関して,山本晴義氏は前述の著作において,デューイが「哲学にたいす るダーウィンの影響』の中で,いわゆる進化論的自然主義としての彼の哲学の特質をつぎ の四点のようにまとめていると述べられている。

 「一,有機体(生物・人間)の生を環境との適応関係としてつかむ。

  二,人間をどこまでも生物との連続性において,したがってまた自然との連続性にお    いてつかむ。

  三,有機体の成長を連続的過程としてつかむ。

  四,だからそこでは「種」は決して固定的なものでなく,不断に変化する。そしてそ    れはあらゆる実体概念(社会においては身分や階級)を否定して,これを機能概念       (39)

   に解消してゆくことを意味する。」

 以上の四点に要約されたデューイのいわゆる進化論的自然主義の哲学の特質は,デュー イ教育思想における連続の概念の考察の視点から,特にその哲学的基盤の考察の観点から,

今後の究明の課題として注目されるものとしては次の二点であると考えられる。

 ①人間・生物・自然の連続性。

 ② 有機体(生物・人間)の成長の連続性。

  第二節 哲学にたいするダーウィニズムの影響に関するデューイの解釈

 これまで,デューイ思想にたいするダーウィニズムの影響について,私は第三者をして

語らしめてきた。ここで,デューイ自身が哲学にたいするダーウィニズムの影響がいかな

るものであるかについて語るところを聞くことによって,本章主題の意義を考察すること

にしたいg何故ならば,哲学にたいするダーウィニズムの影響として彼の解釈するところ

(10)

324 茨城大学教育学部紀要 第十九号

は,デューイの場合,ダーウィニズムへの好意的・是認的立場によって解釈されるもので あって,それがそのまま,デ=・一一イ思想にたいするダーウィニズムの影響として把握し得 ると思われるからである。

 この問題については,当然のことながら,デューイの著書『哲学にたいするダーウィンの 影響」(The Influence of Darwin on Philosophy and Other Essays in Contemporary Thought,1910)が考察されなければならない。彼は本書の序文において,当代の哲学的 思想は変化の哲学・再構成の哲学(aphilosophy of transition and r㏄011struction)と 呼ばれること,またプラグマティックな精神は一あらゆるものを形式的な定義をした後 で整理箱の仕切の中へ押しこんでしまうことによって,処置してしまう一精神の習慣に たいする反逆であること,プラグマティズムを知的再構成の一般的運動の要素として全体 的に把握することがよりよいこと,したがって,プラグマティズムを過去の体系そのもの により定義しないこと,プラグマティズムを完全性と究極性を要求する固定的体系と見な いこと,古典的諸哲学(過去の哲学体系)が修正されるべきであり,しかも,その影響が        (40)

残っていること等を論じている。これらは哲学にたいするダーウィニズムの影響について 語ろうとする場合におけるデューイの問題意識としても受けとれるし,また,プラグマテ ィストとしてのデューイが自分の哲学の基本的立場を主張しているようにも受けとれる。

 「種」は変化する

 デゴーイは本書本文の冒頭において『種の起原』の刊行の意義について,「起原(origin)

と種(So, ecies)という言葉の結合そのものが,一つの知的叛逆の具体化であり,新しい知 的気質の導入である。……2千年間,自然や知識の哲学に君臨していた概念,ごく普通の 知識教養となっていた概念は,固定的なもの,および究極的なものの優越性という仮定に 立脚していた。それらの概念は,変化や起源を欠陥や非実在の証拠として取扱うことに立 脚していた。『種の起原』は絶対的永遠性という神聖な箱に手をかけながら,固定し,完成 していると見られてきた諸形式を,生まれるもの,亡び去るものとして論じながら,結果 的には,知識の論理を,したがって道徳政治,および宗教の取り扱いを変革することと結       (41)

びついていたところの,思考の方法を導き入れたのだ。」 と述べている。このように見ら れる『種の起原』の意義は,それを宗教的に見るならば,「天地を造るに工夫を凝せる証       (42)

跡有るを以て工夫者(造物主)ありとの論」(the argument from deslgh)の否定として,

       (43)

また同じ意義をもつものとしての(the doctrine of design)や(the design−argument)

の否定として見出されることになる。それは「種」を不変・固定と見る立場を取って成立

していた哲学や宗教にたいして,「種」を変化するものと見る立場を取ることによって反

逆することなのである。以上の如きデニーイの所説は次のような事情の説明を補うことに

(11)

関  デューイ教育思想における連続の概念 325

よって,より明らかとなるであろう。「十八世紀スエーデンの博物学者リンネ(Carlvon Linn6,1 707− 1 778)の試みた分類法は劃期的なものであったが,彼は「種」を不変なる

ものと考えた。種の起原が神の創造によるものとすれば,種が不変であるとするのは当然 の信念である。……すでにリンネも,ある程度の「種」の変化を認めざるを得なかったが,

神の定めた「種」が変化するという観念は,当代西欧の神観を動揺せしめる危険をはらみ,

ひいては,神が人間に与えたとせられる道徳法則についての観念にも動揺を与えるおそれ があるため,種が変化するという観念は,容易には受け容れがたいものがあった。フラン スの博物学者ラマルク(Jean Baptiste Pierre Lamarck,1744−1829)は,十九世紀の はじめ,すでに明確に「種」の変化を説いた。それは環境に応ずる動物の努力により,器 官の発達あるいは退化がみられること,さらにこの変異が遺伝せられることを説くもので ある。最も単純な下等動物から,猿を経て,人類に至る連続的進化の過程を彼は描V〈てい る。彼はそこに神の意志を認めたが,しかし,それは人間と動物との間に根本的な相違を 考えようとする伝統的なキリスト教的人間観とは,明らかに相容れぬ観念をふくむもので   (44)

あった。」ラマルクの『動物哲学」(Philos phie Zoologique,2vo!s,,1809)からダーウィ ンの『種の起原』に至る五十年間に,「種」は変化し生物は進化するという観念は,識者 ならびに世間の間に次第に認められてきており,進化論を受け容れる素地はすでにできて いたといわれる。それならばダーウィンの仕事の力点はいずれに求められるのであろう か。この間の事情については,デューイの所説を補う意味で,前述の説明を続けて引用す ることにする。「彼が「種の起原」を公にした当時,「種」が変化し生物が進化するとい う考えはすでに識者によってしばしば説かれていたところである。たとえ当時の学界にお いて,必ずしも公認するところとはなっていなかったが,一般世間でこのことを認める人 々は多かった。……したがってダーウィンが特に力説したのは,種の変化であるよりもむ

しろ,いかにして種が変化し,いかなる要因によって生物が進化するか,ということであ った。これに対する彼の答が「自然陶汰」(natural seleCtion)である。それでは「自然 陶汰」はいかにして行なわれるか。それは,生存斗争において,適者が生存するという仕 方によってである。生存斗争において,優秀なものが残り,それが遺伝し,これが積み重        (45)

なって,新しい「種」が生ずるというのであった。」以上の補説によると,ダーウィンの 業績は種がいかにして変化し,生物がいかなる要因によって進化するかを明らかにしたこ と,結局は自然陶汰の学説を完成したことにある。しかもその進化論の学説が勝利を得て,

当代の西欧の世界観・人生観・社会観に甚大な影響を与えた点にこそある。

tL

̀相(エイドス)・種(スペキエス)一古典的な生物変化の観念

 デューイは『哲学にたいするダーウィンの影響』において,進化論によって否定されざ

(12)

326 茨城大学教育学部紀要 第十九号

      e        e  e

るをえなかった古典的哲学の生物変化の観念の特徴が目的の観念をもつことにあるとして いる。即ち,生物における変化は秩序的におこる変化である。それは異積的である。それ らは恒情的に一つの方向に向う。それは他の物の変化のように破壊でもなく滅却でもな い。あてのない流れの中へ無益に移ることでもない。生物の変化は実現であり,完成であ る。一つ一つの連続的段階は,それが前の段階とどんなに似ていなかろうとも,その正味 の結果を保存し,また,その後の段階の側におけるより完全な活動のための道を用意して いる。「生物における場合,変化はどう見ても,他のものの場合におこる変化と同じよう にはおこらない。即ち,よρ以前の変化は,より後の結果を目ざして規制されている。

(有機体)のこの前進する組織は,真の究極的な言葉一テロス,完成し完結した目的に        (46)

到達するまでは止まない」 ものである。この究極の形式は多くの機能をはたらかせる。

その機能の注目すべき価値は,この究極的な形式がそれから自分自身の起原をうけている 胚と同じような胚を生産するということである。その胚は自己一完成活動の同じ循環を なすことができる。しかも,時間的に非常に離れ,空間的に非常に引き離れているために 相互に協議をする機会をもたず,相互に作用しあう手段をもたないところの無数の個体の 場合にも,同じドラマは同じ運命を演じている。「同じ種類の事物は同じ手続きを通過す る」のである。「この形式的活動は,一連の変化を貫徹して作用しており,それらの変化 に唯一のコースを保持せしめる。それは,それらの変化の目的のない流れを,それ自身の 完全な実現のために従属せしめる。それは,空間と時間の制限を超えて,空間的には遠方 にあり,時間的にはかけ離れた個体をして,構造と機能の画一的な類型を保たしめる。こ の原理は実在の本性そのものにたいする洞察を与えるように思われた。この原理にたいし,

アリストテレスは形相(エイドス)という名称を与えた。この言葉をスコラ哲学者はラテ       (47)

ン語の種(スペキエスー species) と翻訳した」のである。この言葉の力は,流動の中に も秩序を保ち,変化の中にも恒久性を具現するところの宇宙の万物にこの言葉を適用する ことによって,深められたのである。

 古典的哲学において,エイドス・スペキエスは固定した形式と宇宙形成の目的の概念で あって,自然と知識の中心的原理であり,この原理の上に科学の論理が構築されていた。

「真に知るということは,変化を貫いて自己を実現し,それらの変化を固定した真理の境       (48)

界の中へ保持する永遠不変の目的(apermanent end)を把握することである。」ので南

る。

 古典的な種の観念と目的の観念

 古典的な種の観念の特徴はそれが目的の観念を伴っていたことにある。すべての生物に

おいて,特殊な類型は,成長の初期の段階を,自己自身の完成の実現に向けながらあらわ

(13)

関:デューイ教育思想における連続の概念 327

れている。しかも,この有目的な統制原理は,感覚では見られぬものであるから,それは 観念的な,あるいは合理的な力でなければならぬということになる。しかし完全な形態は 感覚せられる変化(the sensible changes)を通じて,序々に近づくのであるから,合理 的・観念的な力は,感覚的な領域の中で,また,それを通じて,それ自身の究極的な具現

をするということになる。上記のごとく把握された古典的な種の観念と目的の観念との結       (49)

合の推論は次の三つの形で自然へ拡大的に適用されることになる。

 (a)自然は無益なことは何事もなさない。しかし,すべてのことは,将来の目的のため   になされる。

 (b)それ故に,自然的な感覚しうる事件の中には,霊的なものであるが故に知覚はされ   ないが,啓蒙化された理性によって把握されるところの,霊的な原因をもつ力が含ま   れている。

 (c)この原理の具現は,物質と感覚とを,それ自身(この原理)の実現のために従属さ   せるのである。そしてこの究極の完成は,自然と人間との目標である。『

 この適用の説明を一言に要約すれば,「全体としての自然は或る一個の植物乃至動物に        (50)

おける目的の実現と全く同様の目的の漸次的実現である。」 ということになるであろう。

 古典的な種の観念と目的の観念との結合の推論が自然への拡大的に適用されることにな

      ■   

った結果として,造物主のはからいありとする論(desigh argument)は,次の二つの方 向,即ち,

 ① 目的があるということが,自然の明瞭さと科学の可能性とを説明すること

 ② この目的があるということの絶対的な,あるいは秩序整然たる性格が,人間の道徳   的,宗教的努力にたいして制裁と価値とを与える

においておこなわれることになったのである。

 この古典的哲学が,2千年以上の間,ヨーロッパの公的なそして優勢な,哲学として存 続し続けたのである。天文学・物理学・化学から,固定した最初の,究極の原因が駆逐さ れたことは,この学説にある程度の衝撃を与えたことになる。しかし,反対に,植物や動 物の生命の詳細がますます明らかになったことは,その衝撃を補うように作用した。そし て,おそらく,「天地を造るに工夫を凝せる証跡有るを以て工夫者(造物主)ありとの論」

(the argument from design)を強化しさえした。①有機体の環境にたいする,感覚器

官の有機体にたいする,眼のような複雑な器官の互いに似ていない各部分の器官そのもの

にたいする,この驚くべき適応,②より低い形態のより高い形態への前兆,③より後にな

ってはじめてその機能をはたらかすところの器官にたいする,成長のより初期の段階の準

備,これらのことは植物学・動物学・古生物学・遺伝学の進歩によって,ますます認識さ

(14)

328 茨城大学教育学部紀要 第十九号

れるようになった。「それらのことは,十八世紀の後半において,有機的生命の科学によ って是認されたものとして,有神論的および観念論的哲学の中心点であったところの,造       (51)

物主のはからいありとする論にたいして,束になって特権をつけ加える」ことになったの

である。

 哲学にたいするダーウィンの影響

 私はこれまでデューイの説くところに忠実にしたがいながら,ダーウィンの進化論思想 の過去の哲学にたいする清算・解体・再構成の作業の意味を認識すべく論究を続け,特に 清算・解体の対象となった古典的哲学の問題の所在を明らかにしてきた。哲学にたいする ダーウィンの影響は,それを極く概括的に言うならば「生命の現象を変化の原理に服せし めたことにある。そして,それによって,その新しい論理を精神や道徳や生活に適用され         (52)

るように解放した」ことにある。デューイは哲学にたいするダーウィンの観念の役割を二 つに分けて考察している。

 第一・に,ダーウィニズムによって提示された新しい論理は哲学上考究すべき問題を変更 させた。即ち,哲学は絶対的な起原と絶対的な究極性とを探究することを放棄し,特殊な 価値と特殊な諸条件とを探究しなければならない。ダーウィンは全体としての偶然に,そ

      の  e   

の部分としての神のはからいに世界を帰することの不可能性を明らかにした。ダーウィン        (53)

によって影響された知的変化の本質は次の3点に明らかにせられる。

 ① 興味が,特殊な変化を大仕掛な本質 (the wholesale essence)へ後退させること   から,特殊な変化が具体的な目的にいかに役立ち,また,いかに無にするか,に移っ   た。

 ② 即ち,興味が一度限りに事物を形成した知性から,事物は今もなお形成されつつあ   るという知性へと移った。

 ③ 即ち,興味が,善の究極のゴールから,現在の諸条件についての知性的管理を生ぜ   しめ,しかも,現在の不注意や愚鈍さをうちやぶり,あるいは捨てさせるところの正   義と公平の直接の増加へ,と移った。

 第二に,哲学にたいするダーウィンの観念の役割は,特殊な出来事の意味,あるいは,

今の意味や効用についての価値観を変換させたことにある。デューイによる究極的な結 論を言うならば,哲学は道徳的・政治的診断と予後との方法(amethod of moral and        (54)

political diagnosis and prognosis)となることが要請せられるのである。もう少しデュ

ーイの所説にしたがって説明を加えよう。古典的な論理は,ある遠い原因と永遠なゴール

の故に・不可避的に生(life)はある質と価値とを一いかなる経験がその問題にあらわ

れようとも一持たねばならないということを証明するために哲学を設けた。大仕掛な

(15)

関:デューイ教育思想における連続の概念 329

(whole sale)正当化の義務は,不可避的に,特殊な出来事の意味を,一度限りのそれら の出来事の背後に横たわる何物かに依存させるところのすべての思考を伴っていた。今の 意味や効用には価値がないとする習慣は,当面している経験の事実をわれわれが探究する ことを妨げる。即ち,その習慣は,その経験の事実が提示する弊害を深刻に認識すること を妨げ,また,それらの事実が約束はしているが,しかしまだ完成していないところの善 について深刻な関心をもつことを妨げる。その習慣は,ある人にたいしては大仕掛な超越 的救済策を,他の人にたいしては大仕掛な超越的保証を求める仕事へと思考を転換せしめ

る。しかし,結局超越的な原理による証明は具体における問題の解決にはならない。

 われわれの教育の,行儀の,政治の改善と進歩のためには,われわれは発生の特殊的諸 条件に頼らなければならない。慨して宇宙を理想化し,合理化することは,結局,特殊的 にわれわれと関係しているところの事物の進行を支配することの無能力の告白にすぎな い。人間がこの無能力によって苦しめられるかぎり,人類は自然に,自分が担うことので きない責任の負担を,超越的原因に由来するより高い能力者の双肩に移すことになる。

 結局,ダーウィニズムによる新しい論理は,特殊的にわれわれと関係しているところの 事物の進行を支配するための知的生活の中へ(人間の)責任を導入したのである。もしも 価値に関する特殊な諸条件への,および諸観念の特殊な諸結果への洞察が可能であるなら ば,哲学は,序々に,生活の中におこるより切実なあつれきのありかを見つけ,そして,

それらのあつれきを処理する方法を考案する方法とならねばならない。即ち,哲学は道徳 的および政治的な診断と予後の方法とならねばならないのである。

 ダーウィニズムの勝利

 かくして,デューイは「ダーウィンの発生的な,しかも実験的な論理によって行われる       (55)

べき哲学における変化の方向を予期する」ことに確信をもつことができた。何故なら,旧 観念はゆっくりと降伏しているからである。旧観念は抽象的論理的形式と範疇を超えたも のであり,習慣であり,傾向であり,深くしみ込んだ嫌悪と好みの態度であるが故に降伏 せざるを得ないものである。デューイは,「疑いもなく,現代の思想における古い問題の 最大の溶解剤,新らしい方法・意図・問題の最大の沈澱剤は,『種の起源」にその頂点を 見出すところの科学的輪によってなされたそれである爬述べて「種の起原』の囎こ たいして最大級の讃辞を呈しているのである。

第三章 生命活動における連続的性質

 第一節 有機体と環境との連続(一つの統一)

前章「デューイ思想にたいするダーウィンの進化論思想の影響」において,私は,デュ

(16)

330 茨城大学教育学部紀要第十九号

一イ思想にたいするダーウィニズムの影響がいかに甚大であったかを第三者によって語 らせたり,また,哲学にたいするダーウィニズムの影響についてデューイ自身の解釈を明 白にすることによって,デュー一イ思想にたいするダーウィニズムの影響を間接的た把握し てきた。これらの作業は,デュ.一一イの連続観の形成の上にダーウィニズムがいかなる影を おとしたかを探るという土台的構築の意味をもっている。「今日認められているようにダ ーウィンは種の起原の完全な説明を提供したのではなかったとしても,超自然的な理論は 彼の研究によって粉砕されたのである。そして無生物界におけると同様生物界においても その発展は連続的であるという,多くのすぐれた思想家が懐いていた見解を確認したので ある。創造とアダムの堕落とを納めた棺槽には新たな釘が打ちこまれた。そして漬罪説は その基礎となっていたユダヤの物語から切離されることによってはじめて救われることが できたのである。自然においては無限に有力な外的な知性者によって手段と目的とが適応 させられているという理論の信用を失墜させる上に,いわゆるダー一ウィニズムは大きな影       (57)

響を及ぼした」と説かれているとおり,ダーウィニズムは超自然な理論の粉砕と生物にお ける発展の連続の確認とに大きな役割を果たしたのである。我々はこの大遺産の哲学的な 意味での正統な継承者としてデューイを位置づけ,その連続観を考察することにする。

 連続性

 デューイの連続観が最も明晰な形で述べられているのは,彼の晩年(79才)に完成ざれ た主著『論理学一探究の理論』(Log董c−The Theory of lnquiry−1938)の第二章「探究 の現実的な基盤一生物学的な側面一」および第三章「探究の現実的な基盤一文化的な側面 一」においてである。本稿では特に第二章を中心として生物学的な側面からデュー一イの連 続観を考察することにする。

 前述したとおりデューイは「連続性という前提によって除外されるのは,現に生じてい る変化の原因として,まったく新しい外部の力が登場することである」と連続性の概念の 真意を示すのであるが,それは積極・消極両様の形で具体化される。彼は連続性を自然主 義的な論理学の理論の第一の根本原理として,積極的にこういう。 「下等な(単純な)活 動や形態と,高等な(複雑な)活動や形態とが連続しているということである。連続とい

うだけでは分からない。しかしその意味は,完全な断絶を排除する一方,同じもののたん なるくりかえしも排除している。それはまた,完全な割れ目や間隔を排除するように,

「高等」を「下等」に還元することを排除する。種子から成熟へという生きた有機体の成       (58)

長と発達は,連続性の意味の例証である。」 と。更に消極的な形で彼は「論理学のテー一マ の明確かつ独特な性格を説明するために,われわれは「理性」とか「純粋直観」のような       (59)

新しい力または能力を突然もちだすことをしない」と連続性を説明している゜デューイの

(17)

関  デューイ教育思想における連続の概念 331

連続性の概念をこのように大観した上で我々はその基底の考察に入ることにする。

 有機体の生命活動の特徴と連続的性質

 デューイは有機体と環境とが一・つの統一をなしていることを論証するために,有機体は 環境のなかで生きているのではなくて,環境を手段として生きているということ,生きて いくという過程は有機体によって演じられていると同様に環境によっても演じられるこ

と,有機体の構造の分化とともに環境も拡大すること,有機体と環境との相互作用のバラ ンスが維持される必要のあること,有機体と環境との相互作用の過程は自己維持的である こと等について述べた後で,「生命がつづくかぎり,生命の過程は,他の事物との持続的 な関係をたえず維持し回復しようとする過程である。そしてこのことが,有機体の生命活 動の特徴である。個々の活動は,すべてつぎの活動への道を開く。両者は,たんなる継起 ではなく,連続である。生命活動のこうした連続的な性質は,個々の活動の複雑な諸要素 が微妙なバランスをとることによってもたらされる。ある活動内のバランスが乱されると き一つまり何かの要素が多すぎるか少なすぎるとき一客観的な意味での欲求,追求,

充足(あるいは満足)があらわになる。構造の分化とそれに見合う活動の分化が大きくな るほど,バランスをたもつことがむずかしくなる。実際,生きるということは,不均衡と       (60)

均衡回復のたえざるワズムであるとみなしてよい。」 と有機体の生命活動の特徴とその連 続的性質を明らかにしている。

 高等な有機体の均衡回復一統一された関係の回復一発達の源泉

 デューイは高等な有機体における有機的要素と環境的要素との不均衡が生じた場合の均 衡回復は統一された関係の回復であって,有機体の以前の状態への回復ではないことを強 調している。即ち,有機体と環境の両方が明らかに変化しても,統一された関係はありう

る以上,有機体と環境のいずれかの新旧の状態が同一一一一一である必要はない。彼はその例を高 等な有機体にみられる食物追求にとり,追求そのものが,有機体を古い環境とはちがった 環境に導き,新しい条件のもとでの食物の補給は有機体の状態を変えてしまう。有機体と 環境の関係(すなわち相互作用)の形式は回復するが,同一の条件が回復するわけではな いと論じてこの事実が生命活動の正常な特徴としての発達を示すものとしている。彼の説 くところによると欲求は不変の要素として残っても,その性質は変化する。欲求の変化と ともに探究活動や追求活動も変化する。そしてこの変化につづいて,充足あるいは満足も 変化する。すくなくとも高等な有機体の追求活動は,たとえ有機体と環境の関係の変化に

よるものにすぎなくとも,古い環境を変えさせるのである。デュー一イは均衡回復が統一さ れた関係の回復であることと発達とを結びつけて「新しい条件に応じて適応様式を変えた

り,たもったりする能力は,有機的進化という広範囲な発達の源泉である。人間という有機

(18)

332 茨城大学教育学部紀要 第十九号

体については,とくにつぎのことがいえよう。欲求をみたすために行なわれる活動は環境 を大きく変えるので,また新しい欲求が生じ,それをみたす有機体の活動がさらに変化す        (61)

る。こうして無限の連鎖が考えられるのである」と両者の関連を明らかにし,高等な有機 体における有機的要素と環境的要素との不均衡が生じた場合の均衡回復を統一された関係 の回復と見ることの妥当性を明確にし,有機体の以前の状態への回復と見ることの不合理 性を指摘している。

 高等な有機体の場合一欲求から満足までの時間が長くなる

 デューイは下等な有機体の場合には,有機体のエネルギーと環境のエネルギーの相互作 用は,たいてい直接的な接触によって起こるものであり,有機体の緊張は,表面と内面との 緊張にすぎないから,時間がかからないとする。しかし,遠隔感覚器官と特殊な運動器官 をもった有機体においては,生命活動の連続的な性格から,下等な有機体の場合と異なる 必要があることを次のように説明している。「連続した行為のなかで,初めの行為は,後 の行為への道を用意するものでなければならない。欲求が生じてから満足に至るまでの時 間は,相互作用が直接的な接触でない場合には,どうしても長くなる。なぜなら,離れた 事物との関係を確立し,目や耳の刺戟を通して探究活動を起こして初めて,統一関係が達          (62)

.成できるからである。」

 そこでデューイは,高等な有機体における均衡回復の活動を次の三つの段階をもつ一定 の順序によるものとする。

 ① 最初の活動一有機体が直接接触している物質によっては諸要素の統一がとれない   という有機体の不均衡の状態が出発点である緊張活動。それはその活動のあるものは   ある方向に,他のものはまたべつの方向に向っているような,即ち,その現在の接触   活動と,遠隔感覚器官による活動とのあいだに食いちがいが起っている緊張活動。

 ② 中間の活動一飢えた動物が餌をもとめる活動。連続のなかの明確な中間段階。

 ③ 最後の活動一食物を食べるという最後の行為。

したがって,高等な有機体の場合,即ち,遠隔感覚器官と特殊な運動器官とをもった有機 体の場合には,有機体と環境との相互作用,即ち,統一された関係の回復は時間のかかる 過程と見倣されざるをえないのである。

 以上に述べられた有機体と環境との一つの統一に関するデューイの所説は,有機体と環 境との連続(相互作用や一つの統一を連続と呼ぶことには,検討吟味を加えることを必要

とするが)を強調するものであり,デュ.一一イの連続観の基礎的立場を示すものとして注目

しなければならない。

(19)

関:デューイ教育思想における連続の概念 333

  第二節 生命活動と探究との連続  行動の連続性

 デューイは,環境=有機体の相互作用を刺戟=反応の相互作用ということばであらわし てもよいとした上で,この相互作用関係をどのように把握するかで,行動の連続性の説明 が可能になったり,不可能になったりすると把握の仕方を重視している。デューイの否定 する(行動の連続性の見地から)把握の仕方は〈たんなる刺戟=反応〉であり,<特定 の感覚刺戟にたいする特定の反応〉であり,〈孤立し完結した刺戟=反応〉である。彼は く刺戟を特定の感覚刺戟の継起と同じものとする理論〉は,餌を追いもとめたり,餌にこ っそり近づいたりするような統一のとれた連続的な反応を全然説明できない,としてそれ を退けるのである。その理論によれば,動物は各段階ごとに,行く手をよぎるあらゆるも のにたいして,新しい孤立した「反応」(反作用)をしなければならないことになる。石 にも茂みにも土地の高さや地質の変化にも,無数のばらばらの行為で反応するため,行動 の連続性がなくなってしまう。ばらばらの刺戟にたいして無数のばらばらの反応をしたあ とでは,いわば,自分が何であるかも忘れよう。したがってこの理論は否定されざるをえ ないとするのである。

 デューイによって肯定される把握の仕方は,刺戟がその有機体の全身の状態である,即 ち,刺戟がその有機体の全身の活動における緊張(最終的には接触活動と遠隔感覚器官に よる活動とのあいだの緊張に還元される)であるとする理論である。たとえば目のような 遠隔感覚器官を通して,離れた対象からある刺戟をうけた動物が追跡行為を起こしている 例をとれば,特殊な感覚刺戟が生じて,もっと多くの他の有機的なはたらき一即ち,消 化器や循環器のはたらき,自律,末梢,中枢の神経・筋肉系統のはたらき一と協調す

る。このような協調は,その有機体の全身のひとつの状態であって,ひとつの刺戟を構成 する。餌の追跡は,その有機体の全身の状態にたいするひとつの反応であって,特定の感 覚刺戟にたいする反応ではない。したがって,いわゆる刺戟と反応の区別は,分析的に反 省して初めてできることである。いわめる刺戟は,その有機体の全身の状態であって,そ

こにふくまれた緊張のために,いわゆる反応としての追跡活動へとひとりでに移行するこ とになる。刺戟は,協調した連続的行動全体の初めの部分にほかならず,反応は後の部分に ほかならない,ことになる。「有機体の行動は,実際のところ,個々ばらばらの反射弓(感 覚器官から神経中枢を経て筋肉。腺などの運動器官にいたる一連の神経の伝導路をいう)

      (63)

という単位のつながりや寄せ集めではなく,重なり加わる力と方向をもっている」という のがデューイが行動の連続性を説明する場合の基本的強調点である。この点は,心理学上,

行動を構成する要素が「特定の刺戟stimulusによって惹起される特定の反応reSponseで

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