はじめに
2012年10月に、ドイツ連邦共和国史上 最初の緑の党出身の市長がシュトゥットガ ルトで誕生した1。このフリッツ・クーン
(Fritz Kuhn)市長誕生に際して、緑の党の 党首エズデミール(Cem Özdemir)は「クー ンの勝利は、我々緑の党が『価値保守主義
(wertkonservativ)』であることを示した。[...]
南東部における緑の党は、左派であり、政治 的な意味でリベラルであり、同時に価値保 守主義であると有権者に受け入れられた。そ れらは相互に矛盾するものではない」と述べ ている2。またその翌月にハノーファーで開 催された党大会の開会演説で、エズデミール は「緑の党は保守政党である。それはまさに 価値保守主義という意味においてである。中 道路線支持者に党を開いたとしても、それは
[緑の党がこれまで主張してきた:中田]政
策を犠牲にするということを意味しない」と 述べ、再び「価値保守主義」という概念に言 及している3。シュレーダー政権期に環境大 臣であったトリティン(Jürgen Trittin)も「我々 は価値保守主義的であり、構造保守主義的
(strukturkonservativ)ではない」と、同様の 発言を同じ党大会で行っている4。
党勢としてこの時期上昇機運にあった緑の 党は、中道市民勢力の取り込みを目指し、そ の戦略として「価値保守主義」という概念を 前面に打ち出したのであるが5、この価値保 守主義という、我が国ではあまり聞き慣れな い用語は、一体どのような政治理念を表現す る概念なのであろうか?
価値保守主義(Wertkonservatismus)とは、
社会民主党国会議員であったエルハルド・
エップラー(Erhard Eppler)の著作『終わり か転換か』(1975)の中で初めて提起され た概念であると言われている6。エップラー
新しい社会運動における価値保守主義
H. グルールと B. シュプリングマンを題材に(1)
Wertkonservatismus in den Neuen Sozialen Bewegungen.
Herbert Gruhl und Baldur Springmann Teil 1
中 田 潤
1 前年5月には、ドイツ連邦共和国最初の緑の党首班(ヴィンフリード・クレッチュマン(Winfried Kretschmann))による州政府がバーデン=ヴュルテムブルク州に誕生していた。
2 „Grün heißt wertkonservativ“, in: Frankfurter Rundschau vom 22.10.2012.
3 „Der konservative Beat der Grünen“, in: Zeit vom 17.11.2012.
4 „Die Suche nach neuen alten Werten“, in: Tagesspiegel vom 18.11.2012.
5 CDUが同様のロジックで市民勢力を取り込む可能性について以下を参照。Hildebrand, Daniel: „Herbert Gruhl und die ökologische Protestbewegung“, in: Historisch-Politische Mitteilungen, 10/2003, S. 325-332. ここで はS. 329.
6 Euchner, Walter; Grebing, Helga: Geschichte der sozialen Ideen in Deutschland: Sozialismus - katholische Soziallehre - protestantische Sozialethik. Ein Handbuch, Wiesbaden 2005.
は、自然の保護・人文主義・連帯を重視する 人々の共同体の維持、そして個々人の価値と 尊厳の維持に取り組む政治姿勢を価値保守主 義と呼び、こうした政治姿勢は、上記の価 値の「維持」に大きな関心を払うが故に「保 守」という名称が冠せられるべきなのであっ た。またこうした価値の維持のために既存の 支配構造の変革が必要ならば、それを厭わ ない立場であることも強調されていた7。こ の価値保守主義に対して、連邦共和国にお けるいわゆる保守主義陣営は「構造保守主義
(Strukturkonservatismus)」と呼ぶべきである とし、彼らの関心は、現存する支配構造や権 力構造、そして彼らの特権の維持であり、そ の意味で彼らは保守的なのであった8。 このエップラーの説明から明らかなように、
価値保守主義と構造保守主義は、双方とも保 守主義という名称を関しながらも、維持すべ き価値内容について両者の間には本質的な相 違が存在していた。それにもかかわらず、今 日においてさえ大きな影響力をなお保持して いる、左派・右派という一次元的政治思考様 式に妨げられて、その両者の間にある相違は、
これまで十分認識されてこなかった9。さら に70年代末から80年代初頭にかけての緑
の党の創設期において、いわゆる新左翼の流 れをくむグループは、党内での主導権を握る ために、価値保守主義勢力をナチズムと同列 視する戦術を採用した。当時の多くのジャー ナリズムが彼らの言説を受け入れていったこ とにより、価値保守主義と構造的保守主義の 間にある相違は、意識の背景へ退いていくこ とになった。
他方CDU/CSUというエップラーの議論で
いう構造保守主義陣営の側も、緑の党という 新たな政治勢力の出現に際して、彼らを政治 的に信頼するに値しない「左翼」勢力と見な すという戦術をとることによって、価値保守 主義という政治理念の存在を半ば意図的に見 落とした。
近年の緑の党内の議論とそれにともなう政 策転換は、まさにこの価値保守主義が持つ市 民への訴求力を再発見した結果でもあった。
またそれは実は緑の党を成立させてきた原点 の価値への部分的な回帰という性格も持って いた。
そこで本稿では、緑の党の成立期に焦点を 当て、そこにおける価値保守主義的潮流の存 在の指摘し、その上でその実態を再構成する ことを目指す。その際に、創設期の緑の党に
7 Eppler, Erhard: Ende oder Wende von der Machbarkeit des Notwendigen, Stuttgart [u.a.] 1975.
8 Ebd.
9 例えばフランクフルターアルゲマイネ紙は、価値保守主義的潮流を代表する政党といえる「緑の行動・ 未来(Grüne Aktion Zukunft: GAZ)」の設立を取り上げた記事の中で、この政党を「保守的」であると 性格づけつつも、その保守性とは「あらゆる急進主義との決別と体制内改革性にある」と述べている。
この論調は明らかに価値保守主義の性格を捉え損なっている。„Die Grünen - zwischen Bürgerinitiative und Partei“, in: Frankfurter Allgeimeine Zeitung(以下FAZと略す)vom 11.8.1978.またGAZの結党直後 にグルールの講演を聞いたある新聞記者は、「彼の議論をよく聞けば聞くほど、これまで普通に使われ てきた「右派」と「左派」という区分は相応しくないと感じた」と印象を述べている。ここからも「価 値保守主義」がこれまでのイデオロギー軸に位置づけられないことが漠然と意識されながらも、それを 適切に政治空間に位置づける言説が確立していなかったことがわかる。„Politiker warnt vor übermäßigem Wirtschaftswachstum“, in: Passauer Neue Presse vom 13.7.1978: Archiv Grünes Gedächtnis der Heinrich-Böll- Stiftung(以下AGGと略す):G.01 - FU Berlin, Spezialarchiv „Die Grünen“, 659 Bunte/Alternative Listen, Parteigründung der Grünen und Konflikt mit Gruhl Band 1.
おける価値保守主義を代表する2人の人物に 焦点を当ていく10。
1. ヘルベルト・グルール
(Herbert Gruhl 1921-1993)
生い立ち
価値保守主義を思想面で、またその政治的 実現のための行動の側面において代表してき た人物をまず一人とり上げるとするならば、
それはヘルベルト・グルールであろう。
彼は1921年10月22日に、バ ウ ツ ェ ン(Bauzen)近郊の村グナウシュヴィッツ
(Gnauschwitz)で、母へレーネと父マックス の間にもうけられた4人の子供の末っ子とし て生まれた。両親はこの地で農場を経営して いた。グルール一家は、ドイツ南東部に居住 する少数民族であるソルブ人であり、家庭内 では日常的にソルブ語とドイツ語が使われて いた。またグルール家は、ルター派のプロテ スタントであった11。
1933年にナチスが政権を掌握すると、ヘ ルベルトも他の多くの少年と同様にユンク フォルクに加入するが、そこでの上級者達の
振る舞いに嫌気がさし、翌34年には早くも 脱退している。当地の農業専門学校に1936 年から通い始め、それと同時に両親が経営す る農場で働くようになる。しかしながら第二 次世界大戦勃発後の1941年3月4日、国防 軍に招集されたことによって学業は中断され る。翌年12月にすでに招集されていた兄の ヴァルターがロシア戦線で戦死し、ヘルベ ルトも1945年1月にアメリカ軍の捕虜とな る。ドイツの敗戦後もグルールは、ベルギー にあるドイツ軍捕虜収容所に収容されていた が、同年6月に脱走を企て故郷のグナウシュ ヴィッツに戻った12。
1947年3月よりグルールは戦争によって 中断していた学業を再開する。バウツェン にある高等学校(Oberschule)においてアビ トゥーアを取得し、同年11月にフンボルト 大学哲学部に入学する。専攻はドイツ学、英 語学、哲学および歴史学であった。その後 アメリカ軍占領地区にベルリン自由大学が新 設されると、こちらの講義にも参加するよう になり、1948年夏学期からは、正式ベルリ ン自由大学に所属を変更する。1957年には、
ホフマンスタールに関する論文で博士号を取 得するが、その間にマリアンネ・キースリッ
10 ドイツにおける価値保守主義を含むエコロジー思想の源流は、20世紀初頭に遡ることができる。そ
の意味で、価値保守主義を議論するためには、20世紀前半、とりわけナチズム期における環境問題 の議論についても目配りしておく必要があるが、紙幅の関係上、本稿では論じない。その問題は稿を 改めて論じる予定であるが、20世紀前半についてはとりあえず以下を参照。小野清美『アウトバー ンとナチズム 景観エコロジーの誕生』ミネルヴァ書房2013年。藤原辰史『ナチス・ドイツの有機 農業「自然との共生」が生んだ「民族の絶滅」』柏書房2005年。Linse, Ulrich: Ökopax und Anarchie.
Eine Geschichte der ökologischen Bewegungen in Deutschland, München 1986(内 田 俊 一 他 訳『生 態 平 和とアナーキー ドイツにおけるエコロジー運動の歴史』法政大学出版局1990年)。Uekötter, Frank:
Umweltgeschichte im 19. und 20. Jahrhundert, München 2007(服部伸他訳『ドイツ環境史 エコロジー時 代の途上で』昭和堂2014年)。
11 Kempf, Volker: Herbert Gruhl. Pionier der Umweltsoziologie. Im Spannungsfeld von wissenschaftlicher Erkenntnis und politischer Realität, Graz 2008, S. 23-27 und 331. 以下の記事にも彼のキャリアが短く紹介 されている。„Stocknüchterner Protest“, in: FAZ vom 7.8.1978.
12 Kempf: Herbert Gruhl, S. 26f. und 331.
ヒ(Marianne Kießlich)と結婚し、その三年 後の1954年秋に、長男のアンドレアスが誕 生している。博士号取得後、グルールは事務 用機器を取り扱う業者に職を得るが、その関 係で1958年にハノーファー近郊のバーリン グハウゼン(Baringhausen)に居を移す13。
キリスト教民主同盟へ
後にキリスト教民主同盟(以下CDUと略 す)に所属する政治家として活躍していくこ とになるグルールであるが、CDUとの出会い は比較的遅かった。彼自身の回想によれば、
1953年にベルリンで開催されていた党の集 会への参加がCDUとの最初の接触であった。
しかしながら彼の政党政治への関与は、その 後、急速に積極的なものとなっていく。例え ば、最初の政治集会参加の翌年グルールはす でにCDUに入党(ベルリン・ヴァンゼー支 部)しているし、その後の積極的な党活動が 評価され、ほどなくベルリン・ツェーレンド ルフ支部の支部長に就任している14。また前 述のように、職場の関係で1958年からバー リングハウゼンに転居していたが、そこでも CDUでの活動は継続し、1961年に当地の町 会議員に初当選している。その後1964年に は、CDU町議会議員団長に、翌年にはハノー ファー郡(Landkreis Hannover)の党支部長に 就任(1974年まで在任)している15。こうし た党内でのキャリアの上昇を背景に、1967年 に実施されたニーダーザクセン州議議員選挙 に際し、候補者に擁立されるがこの時は落選 している。それにも関わらずその2年後には、
今度は連邦議会議員選挙の候補者として擁立 される。ヴィリー・ブラント首班による社会
民主党・自由民主党連立政権が成立すること になる、この1969年の選挙では、CDUは得 票率を減らしていた。それゆえに候補者順位 19位(ニーダーザクセン)であったグルール 本人自身も当選の可能性は低いと考えていた が、結果的には初当選を果たした16。
環境問題への関与
グルールがいかなる時点で、環境問題に強 い関心を寄せるに至ったのかという点を明ら かにすることは、実はそれほど容易なことで はない。教養市民層と自然保護に関する歴史 的関係に目を向けて見ると、その辺の事情が 見えてくる。すでにリンゼらの研究によって 明らかにされているように、ドイツの教養市 民層は、すでに20世紀への世紀転換期より、
時期によってその力点・ニュアンスの違いこ そあれ、産業社会化の進展に対して、自然に 対するロマン主義に依拠しながら一貫して警 鐘をならし続けてきた社会集団であった17。 また看過できない相違は当然のことながら存 在するものの、現代的環境政策とこの自然保 護運動の間には明確な連続性が存在してい る。またグルールが教養市民層の末裔と呼ん で差し支えないようなハビトゥスを備えた人 物であることを考える時、彼自身が自ら意識 する以上に、彼の行動・志向様式は、環境問 題への関心によって規定されてきたと言える かも知れない。実際彼は、自伝の中で、自ら の農村的な出自が影響して、住宅建設・道路 建設といった経済成長に伴う急激な開発に対 して、すでに1960年代前半より強い違和感 を持っていたことを告白している18。 こうした本人には無自覚な、教養市民層の
13 Ebenda, S. 28f. und 332.
14 Ebenda, S. 93.
15 Kempf: Herbert, S. 94.
16 Gruhl, Herbert: Überleben ist alles. Erinnerungen, München [u.a.] 1987, S. 155; Kempf: Herbert Gruhl, S. 102.
17 Linse, Ulrich: Ökopax und Anarchie.
伝統の継承の側面は別として、グルールが、
メディアを通して意識的かつ明確に環境問題 について初めて発言を行ったのは、1970年 9月8日の『ヴェルト』紙上においてであった。
「産業界への要求 環境保護は生産に優先さ れなければならない」と題されたこの論考の 中で、グルールは「未来に対して我々が考察 する際に、その基礎に置かれなければならな いのは、生活と環境の相互関係の学、つまり エコロジーである」と述べている。具体的に はワンウェイボトルと廃棄物の処分の問題を 挙げながら、これまでの経済優先の思考様式 からの転換を訴える。またこうした抜本的な 変化をもたらす政策は「全ての社会領域」に おいて着手されなければならず、それが結果 的に経済成長の速度の鈍化、もしくはその減 退をもたらすものであるとしてでもある。ま たグルールにとって、こうした政策は科学技 術と敵対するものではなかった。具体的には モータリゼーションを例に挙げながら、こう した自動車を中心とした社会からの後戻りは 現実的ではなく、むしろ環境を汚染する化石 燃料に依存しない動力源(具体的には電力)
の開発とそれに至までの経過措置として、環 境汚染を軽減する技術開発の積極化を主張す る。さらにこうした措置を法的に後押しする ための「基本法の改正の必要性」を主張して いた19。すでにこの論考において、彼の後年 の主張の基本的な骨子はほぼ全て展開されて いる。
しかしながら一点だけここで指摘しておき
たいのは、「クリーン」なエネルギー源とし ての電力についての当時のグルールの理解 である。電力そのものはクリーンなエネル ギーだとしても、その生産のために環境に負 荷をかける化石燃料が使用されていた。グ ルールによれば、この問題を回避する方策は 結局原子力の利用であった。「放射性廃棄物 を危険のない形で除去することが可能になる ならば」、原子力によって化石燃料からの完 全な脱却が可能になる、という彼の発言は、
1970年時点では後年と異なり、なお彼が原 子力に対して楽観的な展望を持っていたこと を示している20。
ともかく前述のようにグルールは1969年 末以来連邦議会議員となっており、著作や論 説といった手段と並んで、政治家という立 場で、積極的に環境問題に取り組んでいく。
その組織的な拠り所となったのは、1970年
4月にCDU/CSU国会議員団内に設立され
た「ワーキンググループ『環境への配慮』
(Arbeitsgruppe für Umweltvorsorge)」であった。
当時CDU/CSU内において、環境問題につい
て相応の知識を持ち合わせていた議員はおら ず21、このワーキンググループ内において、
グルールは、早々にリーダーシップを発揮し ていくことになる。
ま たSPD首 班の連 邦 政 府は、こ の当 時 環境問題に組織的に取り組み始めてきてい た。野党であったCDU/CSUもこれに対抗す るために、翌71年には経済構造専門委員会
(Bundesfachausschuß für Strukturpolitik)内に
18 Gruhl: Überleben ist alles, S. 148f.
19 „Forderung an die Industrie. Umweltschutz muß Vorrang vor Produktionserfolg haben“, in: Die WELT, Nr. 208 vom 8.9.1970, S. 7.
20 Ebenda.
21 カール・ベッヒャルト(Karl Bechert)、エルハルド・エップラーといった例外はあったもののSPD/
FDPにおいても、状況はそれほど異なるものではなかった。なおベッヒャルトの業績および彼につい ての史料の所蔵状況については、緑の党文書館のクリストフ・ベッカー=シャウム氏より多くの情報 を提供して頂いた。この場を借りて御礼を申し上げる。
環境問題小委員会(Unterausschuß für Umwelt- fragen)を設置し、その委員長にグルールを 任命した。この委員会の当座の最大の任務は、
1972年に予定されている連邦議会選挙に向 けて、CDU/CSUの環境問題に関するマニュ フェストを作成することであった22。この小 委員会の活動の成果は、1972年10月27日 に23ページからなる「環境への配慮のため のCDUプ ロ グ ラ ム72(Programm der CDU für Umweltvorsorge ‘72)」として発表された。
このプログラムは、事実上の起草者であった グルールとならんで、リヒアルト・フォン・
ヴァイツゼッカー(Richard von Weizsäcker)
によってプレス発表されたが、それは来る戦 選挙でCDUが勝利した暁には、彼が環境問 題担当大臣に就任することが予定されていた という事情に由来していた23。
このプログラムによって、グルールの環境 に対する認識は、CDUの公式の政策として 承認されるに至り、またそれにより彼は、環 境問題に関する事実上の党スポークスマンの 地位を獲得することになる24。
物質的な成功は、人間の生活条件を 徐々に損なってきている[...]未来の社 会における人間の営みは、物質的な価値 よりもむしろより文化的な価値に向けら れるべきである。[...]これからの社会は、
経済的な利用という観点からのみではな く、自然保護および土地保全という観点 から空間を見ていく視点を持つべきであ る。[...]人口密集地域では、保養そし て大気・環境の浄化のために近郊に緑地
帯を設置するべきである25。
プログラムのこの一節からグルールの基本 的理念である「経済成長ならびに進歩信仰に 対する疑念」を明確に読み取ることができる。
また「CDUは、連邦および州の自然保護を 目的とする市民組織(Verbände)に対して、
強力な共同決定権および監査機能を認めるつ もりである」とも述べられていた26。1990 年代に入り多くの連邦州でこうした法整備が なされたことを考えると、この提言は、現実 に約30年先んじていた。その他水質保全・
大気浄化等に関する提言が盛り込まれたこの プログラムは、環境問題を全ての政策レベル において配慮するという意味において、その 後の連邦共和国の環境政策の基本的な方針を 先取りするものと言えた27。
オイルショックと CDU 内での冷遇
しかしながら、1973年に入ると、グルー ルのCDU内での環境問題エキスパートとし ての地位は揺らぎ始める。1971年5月のド イツ・マルクの一時的な固定相場制からの離 脱に象徴された、いわゆるブレトン・ウッズ 体制の揺らぎは、annus horribils(最悪の年)
である1973年に各国が本格的な変動相場制 に移行したことにより事実上崩壊を迎える。
それに加えて1973年10月の第4次中東戦 争の勃発を期に生じたいわゆる「石油危機」
により、連邦共和国を含めた西側先進諸国 で経済危機が深刻化した。例えば1973年に
はなお4.8%を維持していた連邦共和国の経
済成長率は翌年0%へと下落し、失業者数は
22 Gruhl: Überleben ist alles, S. 152f.; Kempf: Herbert Gruhl, S. 103f.; Mende, Silke: Nicht rechts, nicht links, sondern vorn. Eine Geschichte der Gründungsgrünen, München 2011, S. 77.
23 Gruhl: Überleben ist alles, S. 153.; Kempf: Herbert Gruhl, S. 118-120.
24 Gruhl: Überleben ist alles, S. 169f.
25 Kempf: Herbert Gruhl, S. 121f.
26 Ebenda.
1974年には100万人を超えるに至った28。 こうした当時の人々にも実感されていた「時 代の転換 (Trendwende)」に対して、西ドイ ツ社会のコンセンサスの中心的部分を担って きた既成の政党は、そのコンセンサスの核心 部分を成す「経済成長」の回復に対する諸策 へと関心を集中していき、結果的に環境問題 への関心は後退していく29。例えば1975年 6月にマンハイム党大会で採択されたCDU の戦略的活動方針では、経済成長の安定的維 持が最重要課題とされていた30。
しかしながら、こうした政党政治レベルで の関心の変化とは対照的に、グルールは一貫 して環境政策の重要性を唱え続け、また環境 への影響という観点から原子力発電所の増設 に対する懸念を明確に主張し始める31。その
結果、グルールは次第に党内で孤立していく ことになる32。
こうしたグルールの姿勢がCDU/CSU指導 部との間で初めて明確な軋轢を引き起こした のは、党連邦議会議員団長であったカール・
カールステン(Karl Carsten)との間で1973 年7月に行われた会談の場であった。この会 談のためにグルールは12ページからなる文 書を作成し、CDU/CSUが今後取り組むべき 環境政策について、カールステンに持論を展 開した。その主張は、以下の3点に要約する ことができた。1.成長を前提とする社会のあ り方は、重要な資源の枯渇という要素も考慮 に入れると、今後100年間に壊滅的な帰結を もたらすこと33。2.枯渇する可能性のある化 石燃料に代わるエネルギー源として最重視さ
27 1972年の連邦議会選挙でCDUは前回よりもさらに1.2%得票率を減らし、連邦共和国史上初めて議 会第一党の地位をSPDに譲り渡した。しかしながらグルールが立候補していた選挙区(ハノーファー
III)におけるCDU得票数は減少しなかった。グルールはこれを自らの環境問題への取り組みが有権者
に評価された結果であると分析している。Gruhl: Überleben ist alles, S. 153. ただし原子力発電について は、このプログラムでは以下のように述べられている。「交通と暖房の領域において、電力需要がさら に増大するならば、電力の生産もこれまで以上に増強されなければならない。この目標を達成するた めには、原子力に依存する以外に手段は残されていない。放射線および放射性廃棄物の問題は、現在 の研究水準では統制可能である」Programm der CDU für Umweltvorsorge '72, S. 17. グルールがこの時点 で準備中(1975年に出版)の著作『収奪された地球』の中で明白に原子力発電に対して批判的な姿勢 を示している時、このプログラムが示す原子力発電容認は、党内での反発に対する一定の妥協を示す ものといえた。Kempf: Herbert Gruhl, S. 123.
28 Rödder, Andreas: Die Bundesrepublik Deutschland 1969-1990, München 2004, S. 64; Wolfrum, Edgar: Die geglückte Demokratie. Geschichte der Bundesrepublik Deutschland von ihren Anfängen bis zur Gegenwart, Stuttgart 2006, S. 321f., 327f. und 335.
29 環境立法にこだわり続けるグルールに対して、あるFDP議員が「あなたは現在の経済危機について何
の関心もないのか?今は別な問題がより重要なのである」と「諭された」エピソードを紹介している。
Gruhl: Üerleben ist alles, S. 169.
30 Kunz, Rainer [u.a.]: Programme der politischen Parteien in der Bundesrepublik Deutschland, München 1979, S. 64.
31 例えば1975年3月14日の連邦議会における演説の中で、グルールは原子力発電所の増設計画に対す る懸念を明確に表明していた。彼はその根拠の一つとして政府の計画と市民の意思の乖離を指摘する が、そこにはこの時期激しく展開していたヴィール(Wyhl)での原発建設反対運動が念頭にあった。
Stenographischer Bericht des Deutschen Bundestages, 156. Sitzung vom 14. März 1975, S. 10885-10887.
32 グルール自身も1973年頃よりこうした自己認識を持っていた。Gruhl: Überleben ist alles, S. 158.
れている原子力は、発電所から発生する廃熱 の自然環境への影響、放射線被爆の問題、そ して放射性廃棄物の処理の問題を考えた時、
慎重になるべきであること。3.CDU/CSUは、
自然環境を「保全する」という「保守的な理 念」の体現に向けた機会をこれまで積極的に 利用してこなかった。それゆえに健全な環境 を維持するための政策という論点を積極的に 選挙キャンペーンで展開していくべきであり、
グルールが行ってきたこれまでの取り組みを 党執行部はより積極的に支持するべきである こと34。
カールステンは、こうしたグルールの主張 に対し、環境問題を議題とした党所属議員に よる特別の会合を設定することを約束する が、実際には党内の、とりわけエネルギー政 策関係議員の反発を背景に、この約束を反故 にした35。
その後グルールは、党内での彼に対する風 当たりが、どれほど激しいものであるのかと いうことを、ある同僚議員から知らされる。
その議員によれば、グルールは現在、経済政 策ならびにエネルギー関係の族議員達、そし て原子力関係の専門家達からの強い非難に晒 されており、またCDU/CSUに強い影響力を 持つ産業界は、彼を「苦々しく」思っていた。
さらにこの産業界は、現在グルールの排除を 画策しており、彼を再選させるべきではない
候補のナンバーワンと見なしていた。また当 時ドイツ工業連盟会長であったハンス=ギュ ンター・ゾール(Hans-Günther Sohl)も同意 見であった36。
こうした党内の水面下で進行していたグ ルールに対する引き下ろし工作とは対照的 に、彼のこの時期、自らの環境問題に対する 考えを3つの形で明らかにしている。その 第一は、1976年1月22日の連邦議会演説で あった。この演説の中でグルールは、実際の 電力需要は減少しているにもかかわらず、電 力需要の増大という産業界の意向を受けた電 力需要予測に基づき原子力発電所の増設を 進める連邦政府の姿勢を批判していた37。そ の第二は、1975年9月に出版され、後にベ ストセラーとなる著作『収奪された地球
「経済成長」の恐るべき決算』であり38、最 後は翌10月に公表された、環境問題小委員 会作成による「環境への配慮のための拡大構 想 76(Erweiteres Konzept für Umweltvorsorge
‘76)」であった。この「構想76」は、ほぼ
全ての部分が委員長であったグルールによっ て執筆されており、来る1976年の連邦議会 選挙における、CDU/CSUの環境政策の基本 方針となるはずのものであった。そのため、
この文書は当時CDU幹事長であったクルト・ ビーデンコップ(Kurt Biedenkopf)に送付さ れていた39。
33 この主張は、前年に発表されたいわゆるローマ・クラブによる第一報告書『成長の限界』に大きな影
響を受けていた。
34 Gruhl: Überleben ist alles, S. 164f.
35 Ebenda.
36 Ebenda, S. 184.
37 Stenographischer Bericht des Deutschen Bundestages, 215. Sitzung vom 22. Januar 1976, S. 14915f.; Kempf:
Herbert Gruhl, S. 130.またグルールは同様の趣旨の連邦議会での演説をその後も繰り返し行っている。
例えば以下の連邦議会議事録を参照。Stenographischer Bericht des Deutschen Bundestages, 31. Sitzung vom 15. Juni 1977, S. 2309-2311.
38 Gruhl, Herbert: Ein Planet wird geplündert. Die Schreckensbilanz unserer Politik, Frankfurt a.M. 1975(辻村透 他訳『収奪された地球 「経済成長」の恐るべき決算』東京創元社1984年)。
グルールはこれと前後して、『収奪された 地球』および「構想76」について協議すべく、
1973年にCDU党首に就任していたヘルムー ト・コール(Helmut Kohl)に会談を申し入 れるが、コールは多忙を理由にこれを断って いる。グルールは、11月に再度会談を申し 入れるが回答はなく、また「構想76」に対 する党執行部からの公式な反応もなかった。
こうしたコールならびにビーデンコップを 中心とする党執行部の態度に不信感を募らせ たグルールは、4月23日にコールに書簡を 送る40。その中で彼は、連邦議会選挙に向け た党執行部方針案が近々に決定されるという タイミングにおいて、自らの環境政策をその 中に盛り込む機会を逸しないために、党執行 部が環境政策に対して方針を明確にすること を要求した。強い口調の書簡の中で具体的要 求として挙げられたのは、以下の3点であっ た。1.CDUは来るべき選挙において、環境 政策ついてのプログラムを策定する意図があ るのか明確にすること。2.経済政策専門委 員会(Wirtschaftspolitischer Ausschuß)は、党 の意思決定の構造上、経済構造専門委員会41 が作成した法案を改変したり、ペンディング にしたりする権限を有しているのか。そして 3.多くの時間を費やして作成された委員会 での活動の成果に対して、党執行部が回答す ら寄せない状況を、委員会の一員として一体 どのように理解すれば良いのか42。
こうしたグルールの強硬な姿勢に対して、
コールは5月16日に、ビーデンコップは5 月11日に、ほぼ同内容の回答を行っている。
その内容は以下のように要約できるであろ
う。2月26日に開催された経済政策専門委 員会は、「構想76」の「大幅な改善」が必要 である、という結論に達した。また党エネル ギー政策ワーキンググループでも「構想76」
に対する反対論が大勢を占めた。とりわけそ の批判の核心は、「構想76」の中で述べられ ている以下のような原子力利用に対する批判 的な姿勢であった。
原子力発電所が今後も建設される限 り、核燃料はさらに大量に[...]使用さ れることになる。その際に廃熱の利用が なされなければならない[...]高速増殖 炉ないし核融合炉がそれぞれ実用可能か どうかは、なお見通しが立たない。少な くとも未解決の問題は極めて大きく、そ れらに関する予測ならびにその時期につ いては、目下のところ不可能である43。
さらに経済政策専門委員会と経済構造専門 委員会のメンバーからなるワーキンググルー プが設置され、環境政策について検討がなさ れる予定である。党としては、それゆえに党 内において一致して異論なく受け入れられる 内容のみを、党の環境政策とし、その政策を もって選挙戦に望む。そして最後に、環境政 策に関する議論は、連邦議会選挙後に行うべ きである、という要請がグルールに対してな された44。
この返信は、グルールが立案した環境政策
はCDU/CSU内の少数派の意見に過ぎず、と
りわけ原子力産業と利害関係が強い議員達の 反発により、党の方針としては採用しないと
39 Gruhl: Überleben ist alles, S. 182f.
40 この書簡の写しはビーデンコップにも送付された。
41 この委員会は、グルールが属していた環境問題小委員会の上部委員会であった。
42 Gruhl: Überleben ist alles, S. 182f.
43 CDU-Unterausschuß für Umweltvorsorge: Umweltvorsorge 1976, S. 11; Kempf: Herbert Gruhl, S. 126.
44 Gruhl: Überleben ist alles, S. 182f.
いうことを通告したものであった。グルール は、この回答に対し「CDUが今回の連邦議 会選挙において、環境問題についてメッセー ジを発信する意図がないということは、私に とっては驚くべきことである。我が党指導部 は、有権者がこの問題をどれほど重要視して いるのかという点を、明らかに認識していな い」と反論しながら、他方で産業界がCDU に与える影響力の強さを痛感したと回想して いる45。
こうした党中央からの冷遇にも関わらず、
ニーダーザクセン党支部においては、ベスト セラー書『収奪された地球』の著者としてす でに揺るぎない地位を獲得しており46、党支 部内では圧倒的な支持を得て、1976年10月 の連邦議会選挙で三選を果たす。
しかしながらCDU内部では、選挙後、グ ルールの影響力を排除する措置がさらに進 められる。コールは、グルールの党内での 組織的な拠り所となっていた環境問題小委 員会をエネルギーおよび環境専門委員会
(Bundesfachausschuß für Energie und Umwelt)
に改組することを決定する。この委員会は州 の党支部からそれぞれ2名、総数16名の委 員によって構成されることになっていたが、
その圧倒的多数は、主としてエネルギー問題 に携わってきた議員であった。ベルリン、ハ ンブルク、バーデン・ヴュルテムベルクから 各1名、そしてニーダーザクセン代表のグ ルールの計4名のみがこれまで環境問題に 主に取り組んできた議員であった。また委員
の互選による委員長選出において、原子力産 業とも関連の深い化学系企業から議員に転身 したばかりであったハインツ・リーゼンフー バー(Heinz Riesenhuber)が選ばれた。さら に副委員長選においてもグルールは選出され ず、やはり産業界系の議員であるルードヴィ ヒ・ゲルシュタイン(Ludwig Gerstein)が選 出された47。
新たな環境政党へ
グルールはこの時点で党内において完全に 孤立しているという感覚を持っていたと回想 しているが48、同時に著作の予想外のドイツ 社会における反響に刺激され、新たな政党を 結成することを通して、自らの環境に対する 理念を政治的に実現する道を模索し始めるよ うになる。例えば後にヘッセンにおける緑の 党の結党に際して中心的な役割を演じたカー ル・カーシュゲンス(Karl Kerschgens)は、
既存の政党が大量消費・廃棄社会という危機 に対して何ら解決策を持ち合わせていないこ と。それゆえにグルールが新たな政党を結成 するべきであることを提案していた49。この 提案に対して、グルールは著作の反響で様子 を見たいと態度を保留しつつも、新党結成を 明確に否定してはいない50。そうは言いつつ も、1977年一杯はCDU党員として自らの構 想する環境政策を実現する可能性を完全には 捨て去ってはいなかったようであり、例えば 後述する新党「緑のリスト・環境保護(Grüne Liste Umweltschutz: GLU)」から立候補の要
45 1979年5月19日付けコール宛書簡。Kempf: Herbert Gruhl, S. 127.
46 同書は1976年の発行部数1位、1978年初頭までに20万部発行された。Gruhl: Überleben ist alles, S. 190.
47 Ebenda, S. 187-188; Kempf: Herbert Gruhl, S. 128.
48 Gruhl: Überleben ist alles, S. 189.
49 Schreiben von Karl Kerschgens an Herbert Gruhl zur Mitgliedschaft im Bund für Umwelt und Naturschutz, BUND vom 18.2.1976: AGG: A-Karl Kerschgens, Nr. 1 BUND-Mitgliedschaft 1976-1978.
50 Antwortschreiben von Herbert Gruhl an Karl Kerschgens vom 20.2.1976: AGG: A-Karl Kerschgens, Nr. 1 BUND-Mitgliedschaft 1976-1978.
請があった際にも、CDUに対する忠誠を理 由に申し出を断っていた51。
しかしながら1978年に入ると、グルール の意識は環境問題に特化した新たな政党を結 成する方向に大きく傾いていった。そこには、
1977年からドイツ各地に「環境政党」が乱 立し始めていたこと、またこうした政党が自 治体・州議会選挙において、相応の成功を収 めていたこと、そしてこうした動きに遅れを とることにより、政党政治空間における主導 権を失う可能性があること、さら次期の連邦 議会選挙(1980年)への準備期間を考えた時、
この時期に新党結成が必要であるといった考 慮が働いていた52。
こうしたグルールの動きを、メディアの側 も察知し、1978年6月13日にテレビ番組「レ ポート」は、グルールとの単独インタビュー を行う。その中で彼は新党結成とその党首へ の就任の意向について尋ねられたが、否定 しなかった。このことが、CDUの側の反発 を引き起こす53。CDUニーダーザクセン州 支部長であるヴィルフリード・ハッセルマン
(Wilfried Hasselmann)は、テレビ放送の翌日 にグルールに書簡を送り、7月1日を期限に 党からの離脱の有無を表明するように迫っ た。グルールはこの要求を無視するが、他方 ハッセルマンも州党幹部会でこの行動を非難 され、この「最後通告」では離党問題は決着 しなかった54。
他方、新党「緑の行動・未来」の結党の準 備も整い、すでにこの時点でグルールの離党 の意思は固かったが、まさにこの時点になっ てCDU執行部はグルールの慰留に乗り出し てくる。コールはグルールとの会談を申し入 れたが、グルールは前述の環境問題小委員会 の解散に際して、グルールの側からコールと の会談を申し入れたにも関わらず、無視され たことを指摘し、双方の時間の浪費を防ぐた めに、党執行部の側が本質的と考える問題を 文書化して送付することを要請した。コール はこうした文書を送付することはせず55、と もかく8月中の会談を求めた。しかしながら こうしたやり取りの間に、グルールは7月 11日に「緑の行動・未来」の結党をプレス に発表し、同時にCDUからの離党を宣言し たことによって、会談は実現しなかった56。 この後グルールは新たな環境政党を通し て、自らの理念を実現することを目指してい く。
2.バルドゥール・シュプリングマン
(Baldur Springmann 1912-2003)
グルールが、自らの著作を通して、主とし て理論面において、また環境問題について発 言し続けるメディアにおける著名人として公 共空間に影響を及ぼしてきた57。それに対し
51 Gruhl: Überleben ist alles, S. 192.
52 Ebenda, S. 197-199.
53 Kempf: Herbert Gruhl, S. 139-140.
54 Ebenda; Gruhl: Überleben ist alles, S. 194f.
55 少なくともグルールのナハラスには、その返信は収められてない。Archiv für Christlich-Demokratische Politik: 01-699 Nachlaß Gruhl, Herbert.
56 Gruhl: Überleben ist alles, S. 194f.; Kempf: Herbert Gruhl, S. 139f.
57 筆者は2014年8月27日にリューネブルクにおける緑の党結成に際して中心的な役割を果たしたゲル ト・ヴィーンケ氏に対してインタヴューを行った。氏は1970年代末に各地で自生的に成立していた市 民運動が、共通してグルールの著作を題材に環境問題に対する知識を深めていた状況を指摘していた。
て、次に検討していくバルドゥール・シュプ リングマンは、グルールと並ぶ価値保守主義 者の代表と言えるが、グルールとは対照的に、
自らの生き方そのものでそれを体現してきた 人物であった58。
生い立ち
シュプリングマンは、1912年5月31日に ルール地方の工業都市ハーゲン(Hagen)の 工場主の息子として生まれる。彼この地で幼 少期を過ごすが、後年の回想によれば、この 工業集積地域の環境に対して極めてネガティ ブな印象を抱いており、この地を出て将来農 民になることを夢見ていたという59。 実際彼はアビトゥーア取得後、農業用機械 の操作の習得のための訓練を受け、その後実 際に農業に従事するようになる。縁故を頼り、
ポムメルン州ヤネヴィッツ(Groß Jannewitz
(現Nowa Wieś Lęborska))にあったオステン 伯爵(Graf von der Osten)の農場で働き始め るが、そこで知己となったマッケンゼン元帥 の推薦で、ブックスフーデ近郊のアーペンゼ ン(Apensen bei Buxhude)の農場に移った60。 本人の希望が、農民になることであったと は言え、アビトゥーアを取得した企業経営者
の息子が、農業労働者として農場で働くとい うことは、当時極めて珍しく、恐らく周囲の 勧めもあってその後大学に進学する。1933 年の冬学期にミュンスター大学に登録する が、講義そのものに対しては全く興味を持て なかったようであり、もっぱら「友との出会 い」に多くの時間を費やしていたようであっ た61。翌1934年の夏学期には、ダンチヒ大 学に移籍したが、そこでの学業への取り組 みは、本人の回想によれば「前の学期よりも さらに授業に出なくなる」という状態であっ た。後述するように、彼のダンチヒ時代の大 学生活の多くの時間は「闇国防軍(Schwarze Reichswehr)」での訓練に費やされていた62。 第4学期目である1935年の夏学期には、
さらにゲッティンゲン大学に移籍するが63、 ここで彼の人生に大きな転機が訪れる。ノイ エンハーゲン(Neuenhagen)にある知人の農 場が破産し、シュプリングマンが望むならば、
比較的安価にこの農場を譲り受けることがで きるという知らせが彼のもとに届く64。明ら かに学生生活に満足していなかった彼は、こ の話に早速飛びつき、農場取得のための様々 な手続きや農場内の建物の改築等のために、
ノイエンハーゲンとゲッティンゲンの間を頻
58 「自分の生き方そのものを人々に問いかける」と彼はインタビューの中で述べている。„Wir sind keine Knallköpfe. Spaziergänge mit Prominenten: Baldur Springmann, Altbauer auf Hof Springe, Symbolfigur der Grünen“, in: Zeit vom 8.6.1979; Mende: Nicht rechts, S. 246.
59 Mende: Nicht rechts, S. 244.また以下の史料にもシュプリングマンの経歴が短いながら記されている。
Brief von Werner Friske an Baldur Springmann von 16.3.1980: AGG: A-Gerald Häfner, Nr. 12 Interne grüne Diskussion zu Kommunisten, Sozialisten, Freisoziale Union (FSU) und Grüne Aktion Zukunft (GAZ) 1979-1984.
60 Springmann, Baldur: Bauer mit Leib und Seele Bd. 1. Das weiße Wolkenschiff, Koblenz 1995, S. 11-20, 85 und 95: „Wir sind keine Knallköpfe“ [wie Anm. 58]. オステン伯爵は、ヴィルヘルム2世の副官を務めたマッ ケンゼン(August von Mackensen)の孫であり、その関係でシュプリングマンはマッケンゼンの乗馬に しばしば随伴していた。
61 Springmann: Das weiße Wolkenschiff, S. 132f.
62 Ebenda, S. 144f.
63 Ebenda, S. 146.
64 Ebenda, S. 156f.