『源氏物語』冷泉朝の養女入内 : 弘徽殿女御と斎 宮女御
著者名(日) 倉田 実
雑誌名 大妻国文
巻 36
ページ 23‑40
発行年 2005‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001355/
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﹁ 源 氏 物 語 ﹂ 冷泉朝の養女入内
ーーー弘徽殿女御と斎宮女御||
,6
、
局
田
実
はじめに
﹁湾標﹂巻で︑朱雀帝から譲位されて即位した冷泉帝は︑時に十一歳であったが︑その年のうちに十二歳の弘徽殿女御が
入内し︑さらに翌々年の﹁絵合﹂巻になって︑二十二歳の斎宮女御︵梅査女御︒後の秋好中宮︶も入内する運びとなって
いる︒この二人の女御は︑いずれも養女としての入内であった︒本稿では︑この養女入内という点について︑いささか言
及 し
て い
き た
い ︒
平 安
時 代
の 史
実 に
お い
て ︑
養 女
入 内
の 嘱
矢 は
︑ 敦
康 親
王 女
で 頼
通 養
女 と
な っ
て い
た 源
子 が
後 朱
雀 天
皇 に
入 内
し た
例 で
あ っ
た ︒
これ以前に︑後朱雀帝の東宮時代に︑道長女嬉子が兄頼通の養女として参入していた例もあるが︑いずれも﹁源氏物語﹂
成立以後のことであった︒したがって︑弘徽殿女御と斎宮女御における養女入内は︑時代を先取りした﹃源氏物語﹂の創
造 に
な る
︒
すぐれた文学作品は︑新たな時代の到来を予言したり︑先取りしたりすることが認められるが︑それができた理由は不
﹃ 源
氏 物
語 ﹂
冷 泉
朝 の
養 女
入 内
一 一
四
可知の領域に属していよう︒﹁源氏物語﹂がなぜ養女入内を先取りできたかを問うことは︑この意味で愚問になる︒考える
べきは︑養女入内がどのような物語展開から要請されていたかであろう︒こうした観点で︑以下︑養女入内が図られた意
味 を
考 え
て い
く こ
と に
し た
い ︒
な お
︑ 史
実 や
﹃ 栄
花 物
語 ﹂
﹃ 源
氏 物
語 ﹂
﹁ 夜
の 寝
覚 ﹄
﹃ 狭
衣 物
語 ﹂
な ど
に 見
ら れ
る 養
子 縁
組 ︑
及 び
養 女
入 内
な ど
に つ
い て
は ︑
拙著﹁王朝摂関期の養女たち﹄︵翰林書房︑二
O 四 O
年 一
一 月
︶
で少なからず言及している︒併せて参照願えれば幸いであ
る
弘徽殿女御
冷泉帝が︑﹁湾標﹂巻で即位し︑そのもとに最初に入内したのが弘徽殿女御であった︒即位は︑光源氏二十九歳の二月二
十余日︑入内は同年の八月になり︑間もなく女御の宣旨が下ったようで︑﹁弘徽殿女御﹂と呼称されている︒
﹁樗標﹂巻は︑流離の境遇から復権した光源氏が︑秘密の我が子︑冷泉帝の即位にともない︑その輔弼の臣として︑栄華
への道を切り開いていく第一段階を語っている︒光源氏は大納言から内大臣に昇進し︑さらに幼帝の摂政につくと目され
ていた︒しかし︑﹁さゃうの事しげき職にはたへずなむ﹂︵新全集に拠る︒以下同じ︒湾標巻・二八二頁︶との理由で辞退
し︑六十三歳の致仕の大臣︵左大臣︶が返り咲いて︑摂政太政大臣となっている︒台閣の首班はこの摂政太政大臣で︑左
右大臣を超えて内大臣の光源氏が次席のような位置につき︑﹁世の中の事︑ただ︑なかばを分けて︑太政大臣︑この大臣の
御 ま
ま な
り ﹂
︵ 湾
標 巻
・ 三
O 一頁︶という政権状況になっていた︒こうした状況でにわかに活気づいたのが︑太政大臣嫡男
の 宰
相 中
将 ︵
昔 の
頭 中
将 ︶
で あ
っ た
︒
︵致仕の大臣は︶太政大臣になりたまふ︒御年も六十三にぞなりたまふ︒世の中すさまじきにより︑かつは龍りゐたま
ひしを︑とり返しはなやぎたまへば︑御子どもなど︑沈むやうにものしたまへるを︑みな浮かびたまふ︒とりわきて 宰相中将︑権中納言になりたまふ︒かの四の君の御腹の姫君十二になりたまふを︑内裏に参らせむとかしづきたまふ︒
︵ 濡 標 巻 ・ 二 八 三 頁 ︶
権中納言に昇進した宰相中将は︑早々に﹁四の君の御腹の姫君﹂の入内を考えている︒宰相︵参議︶は正四位下だが︑
中納言は従三位相当であり︑﹁権中納言﹂は︑后妃の父の身分としてまず最低限の水準をクリアーできたということになろ うか︒しかし︑この身分には問題がありそうである︒ちなみに藤氏に限り︑父が中納言以下の身分で后妃となった例を宇
︵
2
︶多天皇から一条天皇までの間で探してみると次のようになる︒
宇多天皇
参議 醍醐天皇
参議 中納言 伊予介 参議 村上天皇
中納言
参議
わずかな事例しかなく︑
有実女 菅根女淑姫 兼輔女桑子 連永女鮮子 伊衡女 朝成女惰子 有相次
更衣か
更衣
更衣
更衣
更衣 史
衣 いずれも系図類﹁本朝皇胤紹運録﹂や﹁尊卑八刀脈﹂︑または︑﹃後撰集﹄﹃拾遺集﹄などの家集で
更衣
存在が確認できるだけで︑后妃となった次第は不明である︒また︑父親の官位は極官である︒伊予介連永女鮮子の場合な どは︑宮廷女房の身分で事後的に更衣となった可能性もあろう︒いずれにしても︑中納言以下の身分では︑后妃になるこ とはできても︑女御となるのは困難であった事情は指摘できよう︒中納言の位では︑后妃の父として問題があったのであ る︒なお︑入内した時点での父親たちの官位等については︑別に整理したい︒右は︑ほんの目安のつもりであり︑師輔が
﹃ 源 氏 物 語 ﹂ 冷 泉 朝 の 養 女 入 内
五
̲ L
ノ、
権中納言の時︑安子を村上天皇の春宮時代に参入させた事例なども考慮すべきであるが︑今回は余裕がない︒
さて︑物語においても権中納言が父であった場合︑入内は可能でも︑女御となることは同じく困難であったことになる︒
しかし︑それでもなお︑権中納言は︑父の任摂政太政大臣と自身の昇進がかなった段階で︑女の入内をこころざしている︒
入内した経緯は︑次のように簡潔である︒
権中納言の御むすめ︑その年の八月に参らせたまふ︒祖父殿ゐたちて︑儀式などいとあらまほし︒︵涛標巻・=
δ
一 頁 ︶
物語は︑権中納言の女の入内に際して︑﹁祖父殿﹂︑すなわち摂政太政大臣が自ら後見し︑儀式も申し分なく行なわれた と語っている︒実父の身分に対する懸念は語られることなく︑祖父摂政太政大臣の全面的な後見があったことで︑何事も なく入内は可能となっていた︒これは︑祖父が摂政太政大臣であれば︑十分であったというわけではないであろう︒この 入内が可能であったのは︑権中納言の実女としてではなく︑祖父の養女として入内したことを意味していよう︒右の段で は︑養子縁組のことは前面に出ていないが︑﹁湾標﹂巻の終わりで次のように種明かしされていた︒
権中納言の御むすめは︑弘徽殿女御と聞こゆ︒大殿の御子にて︑ いとよそほしうもてかしづきたまふ︒上もよき御遊
ぴがたきに思いたり︒
︵ 濡
標 巻
一 ・
一 一
一 一
一 頁
︶ 権中納言の女は︑先に確認したように︑八月に入内し︑間もなく宣旨が下ったようで弘徽殿女御となっていた︒史実で は︑境遇的に女御ではなく更衣相当となるが︑そうならなかったのは︑﹁大殿の御子﹂としての入内であったからになる︒
すなわち︑大殿摂政太政大臣の養女であったから︑女御になれていた︒入内時には︑養子縁組のことは明確でなかったが︑
ここにきて改めて養女入内であったことを提示したわけである︒﹁大殿の御子にて
Lは︑養子縁組されたことなのであり︑
このことが明示されない限り︑なぜ女御となったのかが︑入内時の語りだけでは暖昧なのであった︒﹁大殿の御子にて﹂は︑
どうしても必要な語りなのである︒
この﹁大殿の御子にて﹂に関して︑士口注は概ね養子縁組の意と解していた︵以下︑士口註の引用は︑﹁源氏物語古住集成﹂
に 拠
る ︶
﹁弄花抄﹄|||中納言の女をおほち大臣の御子になしたまふ也︒ ︒
﹃一葉抄﹄|||中納言の女をおほちおと︑の御子になし給也︒
﹃孟津抄﹄|||孫ながら摂政の猶子にして也︒
﹃ 細
流 抄
﹄
1 1
1 i
孫子を猶子にし給と也︒
これらの見解でいいわけであったが︑新注になって︑官一長は異見を提示していた︒
﹃玉の小櫛﹄||これは権中納言は︑大殿の御子にて︑御むすめの女御を︑もてかしづき給ふ︑といふことなるを︑弄
花・細流に︑御子といふを︑女御のことと見られたるはたがへり︒
︵ ﹁
本 居
宣 長
全 集
﹂ に
拠 る
︶
宣長は︑弘徽殿女御ではなく︑権中納言が﹁大殿の御子﹂だとして︑文脈をたどろうとしていた︒しかし︑すでに父子
関係は提示済みであり︑改めてその関係を語る必要はなかったろう︒﹁御子にて﹂は︑養子縁組を示す当代の慣用句だった
ことを見逃していたことになる︒弘徽殿女御は︑父権中納言の女としてではなく︑祖父摂政太政大臣の御子として︑すな
わち養女として入内し︑女御となっていたのである︒
養子縁組のことに関して︑新全集は︑﹁祖父の養女としたのは︑太政大臣という臣下最高の地位によって格式を与え︑後
宮での存在を重からしめようとする意図による﹂としていたが︑実際は︑格式云々以前の問題であった︒祖父の養女とな
ることは︑ひとえに実父が権中納言という身分の低さであったからに他ならない︒
冷泉朝において︑こうして養女入内が果たされていた︒前例のない事態を物語は案出したわけであった︒これは︑この
後︑権中納言が光源氏と対抗していく一大勢力となる事態を見越しての措置であったと言えよう︒権中納言を藤氏の代表
格として語っていくためにも︑光源氏ともども冷泉朝後宮に足場を作る必要があった︒しかし︑権中納言の身分では︑そ
れは困難であった︒宰相中将からいきなり大納言になったとしても︑すでに物語の現実として︑その女は更衣にしかなれ
﹁ 源
氏 物
語 ﹄
冷 泉
朝 の
養 女
入 内
七
} \
ない︒桐壷更衣の父は︑按察の大納言であったことをすでに語っている︒これまでの物語展開からして︑光源氏の内大臣
に対応するのは︑中納言が相当なのであろう︒しかし︑それでは女が女御になれない︒そこで採られた措置が祖父との養
子縁組なのであった︒権中納言は︑父の威光を傘に着て︑後宮に足場を作ったことになる︒
当時の養子縁組は︑実親関係と縁を切るという発想がなかったので︑権中納言は実父としてこの先弘徽殿女御の後見に
努めることができる︒その実際は﹁絵ム口﹂巻で明白である︒また︑祖父は︑実孫ながら︑子として扱い︑その世話にいそ
しむこともできる︒これは仕合わせなことに属する︒どちらにとっても都合のよかった措置なのであり︑こうした入内時
における養子縁組という便法は︑この先史実でも定着することになる︒とにかく︑弘徽殿女御が養女として入内したのは︑
確かなのであった︒
斎宮女御
﹁ 絵
合
L
巻になって︑六条御息所の遺児前斎宮も冷泉朝で入内を果たしており︑このケ i スも養女入内と言えそうだが︑
やや説明が必要のようである︒結論的要点を先に述べておくと︑前斎宮は光源氏の養女となったが︑それは表向きにされ
ず︑前坊と六条御息所の遺児で︑桐士宮院御子と同列と見なされ︑藤査中宮の裁量采配によって入内し︑その後に養女であっ
たことが公表されたという段取りになる︒前斎宮が光源氏の養女になっていたことを︑ 一部の人々は知っていたと思われ
るが︑それは公然とはなっていなかったのである︒だから︑世間の人々は︑両親のいない子女の入内と見ていたことにな
る︒名目︵遺児︶と実質︵養女︶がずれていたのであり︑簡単に養女入内とは言えないわけであった︒しかし︑結果的に
は︑養女入内になったのは確かなので︑斎宮女御の場合も便宜に養女入内としておきたい︒以下︑この節では︑こうした
段取りになっていたことを整理していく︒
まず︑養女になったことである︒病により出家した六条御息所を光源氏が見舞に訪れた折︑前斎宮後見が依頼されてい
て︑これが養子縁組を意味していた︒
︵前斎宮が︶心細くてとまりたまはむを︑必ず事にふれて数まへきこえたまへ︒また見ゆづる人もなく︑たぐひなき御
あ り さ ま に な む ︒
︵ 浮
標 巻
・ 一
一 一
一
O 頁 ︶
六条御息所の言葉の一節であり︑﹁事にふれて数まへきこえたまへ﹂が︑養子縁組依頼の言葉となる︒﹁数まふ﹂は︑数
の内に入れる意が本義で︑そこから︑仲間に入れる︑人並みに扱う意にもなり︑ここの場合は︑子どもの後見依頼にとど
まらず︑養子縁組を意味することになる︒﹁数まへきこえたまへ﹂は︑子の数の内に入れてほしい︑養女として世話をして
ほしいの意に働くのであった︒
六条御息所には死期が近づいており︑この言葉は遺言でもあった︒したがって︑養子縁組は六条御息所によって遺言さ
れたことになる︒遺言になることは光源氏も了解するところであり︑﹁かかる御遺言の列に思しけるも︑いとどあはれにな
む﹂︵浮標巻・三一三頁︶と応じていた︒遺言を受ける近親者の﹁列﹂に加えられたと思うと︑しみじみとすると言うので
あ る
残される子どもを案じて︑近親者などに遺言という形で養子縁組を要請することは︑他の物語でも認められるところで ︒
ある︒後代の物語では︑例えば﹃夜の寝覚﹄において︑老関白は前妻との聞に儲けていた三人の姫君の後見を︑遺言によっ
て寝覚の君に託したようであった︒この部分は中間欠巻部分でのことになるが︑改作本﹁夜寝覚物証巴では︑﹁さるべき様
にもてなしたまへ﹂︵﹁鎌倉時代物語集成﹂に拠る︶とされており︑これは︑養女としてほしい意であった︒大君も同じく
遺言によって所生の子を寝覚の君に託していた︒遺言は︑養子縁組を要請する手立てなのでもあった︒
当時の養親子関係は別居もあり得たが︑前斎宮の場合には︑後に光源氏の邸宅二条院に移居することになる︒しかし︑
それはまだ先であり︑六条御息所が死去しても︑前斎宮は︑﹁かの六条の古宮をいとよく修理しつくろひたりければ︑みや
﹃ 源
氏 物
語 ﹂
冷 泉
朝 の
養 女
入 内
九
。
び か
に て
住 み
た ま
ひ け
り ﹂
︵ 湾
襟 巻
・ 一
二
O 九頁︶とされていた﹁六条の古宮﹂邸に引き続き住んでいる︒これは︑六条御息
所が死去しても︑まだ養子縁組を公然としないことを意味しているが︑実質的に光源氏が遺言によって養親の立場になっ
たことは確かである︒光源氏は前斎宮の女房たちに︑﹁御乳母たちだに︑心にまかせたること︑ひき出だし仕うまつるな﹂
︵浮標巻・二二八頁︶と指示しており︑その様子を語り手は︑﹁親がり申したまへば﹂としていた︒遺一言によって︑六条御
息所死去後に︑養親子関係が機能し出したと見て間違いない︒しかし︑それは内々のことであった︒
光源氏が︑養子縁組をすぐさま公然としなかったのは︑すでに入内させるつもりであったからである︒光源氏は︑六条
御息所死去の時点で︑すでに入内に想到していた︒
上 ︵
冷 泉
帝 ︶
のいますこしもの思し知る齢にならせたまひなば︑内裏住みせさせたてまつりで︑さうざうしきに︑か
しづきぐさにこそと思しなる︒
︵ 涛
標 巻
・ 一
二 一
六 頁
︶
明石姫君が誕生しているとは言え︑まだ明石の地にいるので︑世話をすべき女子は光源氏に不在である︒そこで︑前斎
宮を養女にして幼帝のもとに入内させて後宮に足場を設け︑﹁かしづきぐさ﹂にしようと念じている︒後に玉撃を迎えよう
とした時は︑﹁すき者どもの心尽くさするくさはひ﹂︵玉霊巻・
一 一
一 一
一 頁
︶ に
し よ
う と
思 っ
て お
り ︑
こ こ
に 二
人 の
養 女
の 光
源氏における位相の違いがあろう︵なお︑玉撃は光源氏の実女を擬装されて六条院入りしている︶︒前斎宮に関しては︑養
女にすることと入内させることが︑抱き合わせになっていることになる︒続いて︑入内案が取り沙汰される次第を焦点化
し て
い き
た い
* ︒
*
*
前斎宮の入内に想到しても︑実際のところ︑養女にして即座に実行することは︑権勢主義・ご都合主義との批判もあり
得ょう︒こうした批判は避けなくてはならない︒それに︑服喪中でもあるので︑すぐの入内はあり得ない︒そして︑新た
な問題が生じて︑入内のことに陰影がもたらされることになる︒すなわち︑朱雀院の前斎宮に寄せる思いが︑伝えられた
からである︒この事態によって︑入内を図ることは︑朱雀院の意向を損なうことになるので︑さらなる困難となる︒朱雀
院の意向をどうするか︑このことを基点として物語は進行していく︒
朱雀院の意向を無視して︑入内させることには︑思案・戦略が必要となろう︒そこで︑光源氏はひそかに藤査と談合す
る次第となっている︒
藤壷と対面した光源氏は︑六条御息所とのいきさつを説明したうえで︑遺児前斎宮の入内案を次のように打診している︒
内裏にもさこそ大人びさせたまへど︑ いときなき御齢におはしますを︑すこしものの心知る人はさぶらはれでもよく
やと思ひたまふるを︑御定めに︒
︵ 浮
標 巻
・ 三
二
O 頁 ︶
冷泉帝はまだ﹁いときなき御齢﹂である︒だから后妃に﹁すこしものの心知る人﹂がいるのは好都合だと光源氏は一言う
わけである︒これは︑入内を強行する際の表向きの理由を示唆しているとすべきであろう︒誰もが納得できる理由だから
である︒そして︑先走って言えば︑この理由に藤査も語り手も同調することになる︒﹁需標﹂巻の末には︑藤査の﹁大人し
き 御
後 見
は ︑
いとうれしかベいこと﹂との仰せが語られ︑末尾は﹁すこし大人びて︑添ひさぶらはむ御後見は︑必ずある
べきことなりけり﹂︵樗標巻・二一一一一一頁︶と閉じられていた︒幼帝後見を至要のこととして︑年上の前斎宮入内が推進され
る の
で あ
る ︒
表向きの理由は当然のこととして︑入内を図ろうとする真の理由は︑別の次元でも考えられよう︒すなわち︑光源氏の
秘密の子冷泉帝に︑同じく光源氏の養女がその后妃になれば︑万全の強みになるからである︒時と場合に応じて︑光源氏
は前斎宮によって冷泉帝を︑言葉は悪いが︑遠隔操作もできるわけである︒年若い帝が︑年上の后妃の意見に従うことは
あり得ょう︒まして︑冷泉帝は﹁いときなき御齢﹂であった︒幼帝の地位の安泰を至上の命とする段階において︑その后
妃に養女がなることは︑政道の違犯を防止する手立てになり得るのである︒そして︑このことによって︑光源氏は︑帝と
その后妃の親になるという未曾有の立場になれるのであり︑内々に養女した前斎宮を入内させることは︑光源氏における
﹃ 源
氏 物
語 ﹄
冷 泉
朝 の
養 女
入 内
一
盤石の方策なのである︒
そして︑光源氏の養女の入内は︑藤士宮にとっても最善策であった︒藤査の答えは︑
かの御遺言をかこちて知らず顔に参らせたてまつりたまへかし︒
︵ 滞
標 巻
・ 一
一 一
一 一
O 頁 ︶
であった︒これまでの研究史は︑この発言などから︑政治的に変貌成長した藤査像を読み取ってきたが︑それは妥当であっ
た︒我が子冷泉帝を補佐する后妃に︑隠された実父の養女がなれば︑それに越したことはないのである︒物語は︑
一 方
で
藤査の兄︑式部卿宮中の君が入内する意向であることを語っているが︑冷泉帝后妃の父としては︑光源氏の方が優ってい
るのである︒この点で光源氏の思惑と一致するのであり︑即座にこうした策を提示するわけである︒だから︑我が子を思
うゆえに︑政治的に成長した藤壷像が造型されることになる︒
しかし︑藤壷像を確認するだけでなく︑こうした強行策を指示できる背景は︑押さえておく必要があろう︒なぜ︑藤壷
は︑朱雀院の意向を無視して︑前斎宮を冷泉帝に入内させることができるかである︒それは︑幼帝の実母として︑その后
妃を選任できるからであったが︑もう一つ理由があったようである︒すなわち︑前斎宮を亡き桐査院が︑﹁斎宮をもこの皇
女たちの列になむ思﹂うとしていたからだと思われる︒このことは﹁葵﹂巻ですでに一不されていたが︑﹁浮標﹂巻でも確認
さ れ
て い
た ︒
故院の御子たちあまたものしたまへど︑親しく睦び思ほすもをさをさなきを︑上の同じ御子たちの中に数まへきこえ
たまひしかば︑さこそは頼みきこえはべらめ︒
︵ 濡
標 巻
・ 一
二 一
一 一
一 頁
︶
先に見た六条御息所の遺言に対して︑光源氏が答えた一節である︒光源氏は前斎宮を養女に迎えることに対して︑﹁上の
同じ御子たちの中に数まへきこえたまひしかば﹂ということで承引していた︒亡き父桐壷院が︑自身の子の内に入れてい
たので︑兄妹同然だから嬉しいことだとしたわけであった︒こうした発言から︑桐壷院の意向が︑人々に周知のものであっ
たとみて間違いあるまい︒だから︑桐査院中宮としての藤査は︑その意向を受けて︑前斎宮の処遇に関与できることにな
ろう︒桐査院が前斎宮を言わば養女格として待遇していたことが︑根拠となるわけであった︒前斎宮の処遇を談合できる
人として︑藤壷は第一の人なのである︒光源氏も︑このことを了解していたのであり︑だから藤査の裁量を願ったことに
な る
藤壷の裁量を受け︑その立場を了解したうえで︑光源氏は実際的方策を次のように提案し︑その後を思案している︒ ︒
﹁さらば御気色ありて数まへさせたまはば︑もよほしばかりの言を添ふるになしはべらむ︒とざまかうざまに思ひたま
へ残すことなきに︑かくまでさばかりの心構へもまねびはべるに︑世人ゃいかにとこそ︑障りはベれ﹂など聞こえた
まて︑後には︑げに知らぬやうにてここに渡したてまつりてむ︑と思す︒
︵ 湾
標 巻
・ 一
二 一
一 一
頁 ︶
前斎宮の入内は︑藤査の発案裁量で実現することとし︑光源氏は前斎宮の説得だけしましょうとしている︒﹁世人ゃいか
にとこそ︑偉りはべれ﹂とある世間への障りがその理由となろうが︑その内実として︑新全集は︑﹁源氏と前斎宮に特別な
関係でもあるように世人が噂するのではないか︑と危倶する﹂としている︒確かにこのことも含まれていようが︑さらに
言えば︑先に指摘したご都合主義との批判や朱雀院の意向無視などが噂されることも含まれよう︒だから︑こうした役回
りとなる方策を提案したことになる︒
この方策は︑後に実現の運びとなり︑これによって︑藤壷と光源氏の共同戦線が引かれたことになる︒光源氏は︑世間
的には弟となる冷泉帝への入内なので︑世間の思惑を気にせずに奉仕できる︒奉仕は当然のこととして︑ひとまず藤査の
威光に拠って︑光源氏は陰に隠れようとしたのである︒権中納言は︑女の入内に際して父の威光が必要であったが︑光源
氏も藤壷の威光を必要としたのである︒両者とも︑まだ物事を専断する実力が備わっていないのである︒
光源氏は︑さらに入内がかなった後︑前斎宮を﹁知らぬやうにてここに渡したてまつりでむ﹂と思案している︒﹁ここに
えている︒﹁六条の古宮﹂ではなく︑ 渡し﹂とは︑前斎宮を二条院に退出させようというのであり︑その﹁渡し﹂でもって養子縁組のことを公然化しようと考
二条院に退出させることは︑そこが里第と認識される︒そして︑それは養子縁組され
﹃ 源
氏 物
語 ﹄
冷 泉
朝 の
養 女
入 内
一 一 一
一
四
たことの公表となる︒入内時には藤査の陰に隠れて事を運び︑事が成就したあかつきにすべてを明かそうというわけであっ
た︒取りあえず表には立たないのであり︑内大臣として復権したばかりの光源氏は︑こうした点で政治性を発揮すること
に な
る ︒
こうした方策に対して︑士口注は概ね妥当な解釈をしていた︒
﹃一葉抄﹄|||はじめは入道の宮の御心むけのやうにして︑後にはうしろみまいらせんの御心也︒
﹃眠江入楚﹂|ーさらば︑おもてむき薄雲より此事を仰せいだされよ︒そのうへのもよほす事をば︑源のそへ侍らんと
也︒おもてむきしらぬ分にしたきの心也︒
この両者を併せた理解が妥当であろう︒﹁はじめは入道の宮の御心むけ﹂︑すなわち入内は藤壷の発案裁量とし︑入内に
際して︑源氏自身は﹁もよほす事をば:・そへ侍らん
︵ 儀
式 に
奉 仕
し ま
し ょ
う ︶
﹂ ︑
そ し
て ︑
入 内
後 は
︑ つ
つ し
ろ み
ま い
ら せ
ん
︵養女としてお世話しましょうどということになる︒こうしたいのは︑源氏が﹁おもてむきしらぬ分にしたきの心﹂があ
るからであり︑その理由は︑先に﹁世人﹂の噂を偉った内容となろう︒
古注は正鵠を射ていたわけだが︑ 一点だけ見逃していたかも知れない︒こうした方策によって︑光源氏は養子縁組の公
然化を︑延引せざるを得なかったことであった︒したがって︑養女入内は隠蔽されるのであり︑この点は︑さらに﹁絵合﹂
巻でも確認されることになる︒
表向き養女入内はなくなっても︑前斎宮をゆくゆくは自邸に退出させるつもりなので︑その意向は︑早々に紫の上に伝
えられている︒右の引用部は︑次のように続いていた︒
女君にも︑﹁しかなん思ふ︒語らひきこえて過ぐいたまはむに︑ いとよきほどなるあはひならむ﹂と︑聞こえ知らせた
まへば︑うれしきことに思して︑御わたりの事をいそぎたまふ︒
︵ 湾
標 巻
・ 三
一 一
一 頁
︶
﹁しかなん思ふ﹂は︑﹁前斎宮を養女として入内させる﹂︵新全集︶意ではなく︑光源氏の意図としては︑﹁前斎宮を入内
させ︑養女として自邸に迎えたい﹂となろう︒しかし︑実際は︑臨化されて言われたのであろう︒紫の上は︑語らいの相
手ができると知らされて︑この提案を嬉しく受け容れている︒このあたりに関して︑﹃孟津抄﹄は︑﹁紫上の猶子に斎のな
り給なれば也﹂としていたが︑誤読であった︒当時は︑夫婦で養子女を迎えるのではなく︑個人で迎えるものであった︒
前斎宮の場合は︑入内に想到してもいるので︑光源氏が迎えるのである︒紫の上が養女として迎えるのであれば︑光源氏
は前斎宮にかかわれる度合は低くなる︒光源氏は紫の上と同居していて︑そこに養女を迎えようとしたので伝えたのであ
り︑子供のいない紫の上は︑話し相手ができると思い︑嬉しかったのである︒
だから紫の上は︑﹁御わたりの事﹂の準備にとりかかっている︒この﹁御わたり﹂は︑﹁六条の古宮﹂から二条院に移居
することであり︑その移居は︑養子縁組を意味している︒紫の上は︑夫が迎えようとする養女と親しみたいのであり︑そ
語 提
要 ﹄
の準備をしたわけであった︒移居・移徒は儀式化されるからである︒しかし移居は︑入内した二年後になるので︑﹃源氏物
の︑﹁いそぎ二条院へむかゐとり︑うちかしづき給ふ也﹂も︑誤読となろう︒
﹁涛標﹂巻は︑先に示したように︑﹁すこし大人びて︑添ひさぶらはむ御後見は︑必ずあるべきことなりけり﹂というよ
うに︑前斎宮入内を庶幾する語りで閉じられていた︒そして︑それが実現するのが︑﹁絵合﹂巻になる︒続いて︑入内のこ
と に
転 じ
た い
* ︒
*
*
﹁濡標﹂巻から︑どういうわけか︑現行の年立では二年後のこととして﹁絵合﹂巻は始発し︑入内は実現している︒年立
上の問題は省略して︑まず︑﹁絵ム口﹂巻冒頭を見ておきたい︒
前斎宮の御参りのこと︑中宮の御心に入れてもよほしきこえたまふ︑こまかなる御とぶらひまで︑とりたてたる御後
見もなしと思しゃれど︑大殿は︑院に聞こしめさむことを障りたまひて︑ 二条院に渡したてまつらむことをも︑この
度は思しとまりて︑ただ知らず顔にもてなしたまへれど︑おほかたの事どもはとりもちて︑親めききこえたまふ︒
﹃ 源
氏 物
語 ﹄
冷 泉
朝 の
養 女
入 内
五
̲̲L.
ノ 、
︵ 絵
合 巻
・ 三
六 九
頁 ︶
前斎宮入内は︑﹁湾標﹂巻を受けて︑﹁中宮の御心に入れてもよほしきこえたまふ﹂とあるように︑藤査からの懲憩であ
ることをまず提示している︒この入内に対して︑光源氏は公然と表に立たないことによって︑﹁とりたてたる御後見もなし﹂
という点が心配であったが︑朱雀院への偉りを思い︑ やはり二条院からの入内を遠慮したのである︒したがって︑前斎宮
は︑これまで通り﹁六条の古宮﹂に住んでいたのであり︑二条院への移居はなかったのである︒移居していれば︑養子縁
組の公然化となる︒それでは︑あまりにあからさまになる︒しかし︑ 一通りの準備は自身が引き受けて︑﹁親めききこえた
まふ﹂のであった︒藤査との談合は︑そのまま生きていたのであった︒
入内当日の様子は︑さらに次のように語られて︑源氏の立場を明示している︒
今日になりて思しとどむべきことにしあらねば︑事どもあるべきさまにのたまひおきて︑睦ましう思す修理宰相をく はしく仕うまつるべくのたまひて︑内裏に参りたまひぬ︒うけばりたる親ざまには聞こしめされじ︑と院をつつみき こえたまひて︑御とぶらひばかりと見せたまへり︒よき女房などはもとより多かる宮なれば︑里がちなりしも参りつ
ど ひ
て ︑
いとこなく︑けはひあらまほし︒
︵ 絵
合 巻
・ 一
二 七
二
1
三 頁
︶ 源氏は事細かに指示したうえで︑修理宰相を遣わしているが︑﹁六条の古宮﹂へであろう︒出立の準備に奉仕させ︑自身 は内裏に参上している︒このあり方も︑つつけばりたる親ざま︵表立った親代わり︶﹂に見えないようにと朱雀院を嘩った からであった︒﹁六条の古宮﹂から同道して参内すれば︑それは父親の役割と見られる︒それを避けて︑﹁御とぶらひ
(
、
匂,山− 機嫌伺い︶﹂に見せかけて直接参内したのである︒前斎宮の入内は︑光源氏の養女として公然たるものではなかったのであ る︒だから︑例えば︑﹁光源氏一部詩﹄が﹁絵合﹂巻冒頭割注で︑﹁源氏とりもちて御ゃしなひむすめにしていまの御門へ
女御にたてまつりたまふ事也﹂としたのは︑正確ではないのであった︒
物語は繰り返し朱雀院の意向を付度する光源氏のありょうを語ってきた︒結局はその意向を無視して入内が敢行された
が︑それは朱雀院による院政の牽制を意味していたかも知れない︒朱雀院は︑これによって傷手をこうむったのはまちが 3 2
︑ a
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こうした次第で前斎宮の入内は実現し︑間もなく女御の宣旨が下ったようで︑早々に﹁斎宮の女御﹂︵絵合巻・一二七六頁︶
︵
3
︶とされている︒この後に展開される絵合の行事については省略するが︑斎宮女御への光源氏の後援ぶりは︑すでに養父で
あることが公然となっていることを暗示しよう︒そうすると︑入内時に親としての役割を偉っていたものの︑養親子になっ
ていたことは︑公然の秘密といった感じであったろう︒しかし︑絵合の行事などを通じて︑養親子関係は周知のものとなっ
た と
思 わ
れ る
︒
光源氏は︑斎宮女御の退出で養子縁組されていたことを公然としようと念じていたが︑帝の寵愛も深まり︑退出はなか
なかできなかったようである︒二条院への退出が語られるのは︑﹁薄雲﹂巻になってからであった︒
秋のころ︑二条院にまかでたまへり︒寝殿の御しつらひ︑ いとど輝くばかりしたまひて︑今は︑むげの親劃まにもて
なして扱ひきこえたまふ︒
︵ 薄
雲 巻
・ 四
五 人
頁 ︶
斎宮女御の入内は前年の春であり︑この間に退出がなかったとは思えない︒それは省筆されたと見るべきであろうが︑
この語り方からすると退出があったとしても﹁六条の古宮﹂ へであったろう︒そして︑始めてと思われるこ条院退出にお
いて︑光源氏は︑﹁むげの親ざま﹂で︑斎宮女御へのお世話に余念がない︒それは︑ 一方で密かな恋情があるからであった
が︑とにかく斎宮女御は︑光源氏の養女として︑その地位を確保しているのは確かである︒
以上︑前斎宮が母と死に別れてから内々に光源氏の養女となり︑表向き藤壷の発案裁量として入内した経緯などを追っ
てきた︒少なくとも入内に至るまでは︑光源氏と養親子関係になっていたことは公然とされていなかった次第も確認した
ことになる︒それは︑ひとえに朱雀院の意向にかかわる光源氏の立場と思惑にかかわっていたと言えよう︒光源氏は朱雀
院政を牽制し︑冷泉王朝を盛り立てていくのである︒
﹁ 源
氏 物
語 ﹂
冷 泉
朝 の
養 女
入 内
七
J ¥
玉髪十帖への展開
弘徽殿女御と斎宮女御は︑後者に説明を要するとしても︑ともに養女入内が語られていたと見ることは可能なのであっ
た︒そして︑この二人のありょうは︑玉章十帖へと変奏されて展開するようであり︑最後にこの点に関して簡単に言及し
て お
き た
い ︒
光源氏は︑朱雀院と世間への偉りもあって︑前斎宮との養子縁組は内々のことにしていたわけだが︑同じ事情が︑玉量
の六条院入り以降でも認められるのである︒玉撃に関する詳細は前掲拙著を参照願いたいが︑玉一霊は︑光源氏の実女を擬
装されて六条院入りし︑﹁行幸﹂巻の裳着によって︑光源氏の養女であることが人々に知られるようになっていた︒光源氏
は︑正式ではないにしても養女であることを隠匿していて︑その後に養女であることを公然としていた︒前斎宮も︑養女
であることを内々のこととして︑その後に公然としていた︒養女の物語展開として類同性が認められるのであり︑この点
は︑物語が二条東院造営に拠る物語を修正拡大して︑六条院構想に発展的に変奏展開したことに見合っていよう︒養女斎
宮女御は︑養女王軍の物語に変奏展開したことになる︒ともに養女であることが当初に隠匿され︑その後に公然となると
いうありょう︑また︑言及は省略してきたが︑ともに光源氏から懸想されるということも類似している︒さらに︑斎宮女
︵
4
︶御の物語は︑雅やかな春秋優劣論へと展開し︑王室の物語は︑華麗な六条院の行事と密接であった︒これらの類向性は︑
主題性を担う人物が斎宮女御から玉量へと変奏展開したことを暗示していよう︒
そして︑﹁海標﹂﹁絵合﹂巻などで斎宮女御と競合して︑対の関係性にあった弘徽殿女御のありょうは︑近江の君に展開
して︑王室と対照化されることになる︒王室は尚侍になるが︑それを知った近江の君は︑自分もなりたかったと悔やんで
いた︒弘徽殿女御が中宮になれなかったように︑近江の君も尚侍になれなかったことになる︒そして︑近江の君の素姓は
怪しく︑果たして︑時の内大臣︵権中納言︶が実父であるかは疑わしい︒そうなれば︑養女と見ることも可能であろう︒
こ の 四 人 と も 養 女 で あ っ た 可 能 性 が あ る の で あ り
、 養 女 と し て の 関 係 性 を 図 示 す れ ば
、 次 の よ う に な ろ う
。
玉 軍 ← 御 I 斎
( (
光 光
i 原 源
氏 氏
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~系
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a、 、 キ 懸 目
侍 尚 后
』L
D な
近 徽 弘
江 君
の ← 殿 御 女
( (
侍 尚 立 后
ナ ナ
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