東西文化交流における香港の役割
龍 家 勇 一 郎
四
五
六目 次 は し が き
東西交通の要衝としての香港の地位と役割 西洋文化を東洋に広める際の香港の歴史的役割 香港を通じて中国文化の西欧文化への影響 香港を通じて西欧文化の中国文化への影響 結 語
一 は し が き
ミ東洋の真珠 といわれる不思議な魅力をもつ香港,自由港として世界の商品があふれ る街,香港は,買物の天国として,あまりにも有名である。
1842年,阿片戦争によって香港島が中国から英国に割譲されて以来,1860年の九龍市街 の割譲,更に1899年の新界の租借を経て,英国は香港を東洋の拠点として,発展させてき
た。
かっては,東支那海が海賊の巣窟であったといわれる香港も,今では東西交通の海路及 び空路の重要な拠点として,、また,世界貿易の中継点として,人口(約350万)を超える 大都市として繁栄している。
しかし,一般にあまり知られていることが少ないのは,東西文化交流における香港の役 割であり,更に,その貢献であり,中国における新しい文化運動への影響である。
中国文化と西洋文化の融含に関して,香港の果たした役割を注目しないで,中国の近代 化や新文化運動を語ることはできない。
本稿は香港のもつ,この役割に注目した香港大学の中国学部の羅香林(Lo Hsiang・lin)
氏の著作の中から,うかがい得たものを中心として,東西文化交流における香港の役割を 〔註1〕
述べてみたい。
〔註1〕The role of Hong Kong in the Cultural interchange between East and West Book1. Book2.(by Lo Hsiang・1in)
二 東西交通の要衝としての香港の役割
中国文化と西洋文化の交流における香港の役割を論及する前に,香港の地位と役割を,
諸外国と中国との交通のなかにおいて,理解しておく必要がある。
しかし,九龍半島や新しい領土は,唐や宋朝以来,中国と外部世界との交流において知 られている。例えば新しい領土のうち唐門湾, (Tun Men湾)一現在ではキャッスル,
ピーク湾(Castle Peak湾)一を考えてみよう。唐,宋時代以後,広東の外港として利用 された。中国や外国の航行中の船舶が,当地に寄港したり,投錨したり,台風の猛威から 船の避難場として使われた。
何故ならば,キャッスル,ピーク湾(Castle Peak Bay)は陸路や海路で,広東に直結 していて,ランタオ島(Lantao)に保護されている。しかも,その南部に位置している香 港島は,その湾の入口を見張っている監視人のように立っているからである。外国船が広 東に上る前の寄港する港として,そして中国船が航海を続ける前の寄港する港として,香港
は貢献したのである。
なお武宗(正徳帝)の統治の聞(明王朝の1馴4年から1521年の間の皇帝)に,東洋に来 て貿易を行ったポルトガル人は,最初主要基地としてキャッスル,ピーク湾(Castle Peak Bay)の開発を考えた。それがマカオ(Macao)を占領し,貿易の中心地として開発した 後では,その開発を止めた。それから,キャッスル湾は,近隣…において海賊行為が行われ
るようになるにつれて,中国と外国との交流における重要性が失われていったのである。
それが1841年見学の21年目の統治の年に,香港島は英国に割譲された。英国は有能な統 治下に香港(正しくは香港島)及び九龍半島は繁栄し,人口も多くなり,極東における海 運の中心地となった。後に九龍,広東鉄道の建設によって,香港と広東とは結ばれ,中国 の外国への南出口として役立っている。
現在,近代的空港があり,香港はヨーロッパやアメリカと密接に結ばれており,わが国 から中国に入国するルートの玄関にもなっていて,アジアの西ベルリンともいわれ,香港
は中国の覗き窓であり,又この窓は中国が西側陣営に向けて開らけている窓であり,日々 世界における重要性を増している。
かって香港の総督であったセシル,クレメンチイ卿(Sir Cecil Clementi)は1935年の 末頃,香港について,つぎのように語っている。ミ香港は中国の地図の上で,一点に過ぎ
ない。しかし,それに拘らず,海洋に基づく通商により世界的に重要な場所である。なお,
その上に,その商業的重要性は,最も大で,安全であるという根拠によっている。何故な らば,自然は香港に最も,すばらしい港としての極めて貴重な宝を与えたのである。現在 香港は世界で,最も大きな通商の中心地の一つであるという結果にみられるように,英国
の先見の明は,この自然の人類への豊富な送り物の中に潜んでいる可能性を開発して来た のであった。 と。
1842年以来,中国に伝導や貿易のために来た西欧の人々は,最初に香港に立寄ったもの であった。また外国に向かって行こうと企図した中国の人々も亦,最初香港に立寄るので
あった。
というのは,彼等も亦,当地で定期船の到着を待ったり,彼等が目的地に出航する前に 香港で,西洋語や他のもろもろの事柄を学んだ。例えば,ロンドン宣教師教会の中国事務 所は,マラッカ(Malacca)から香港に1843年に移され,又ロバート。モリソン(Robert Morrison)によって創設されたアングロ,チャイニーズ大学(Anglo−Chinese College)
は同年,マラッカから香港に移された。アメリカから1.J. Robert, J。:L. Shuckの二 人の伝導師がやって来ている。又John Fryerは1861年東洋に来た。そして香港で教師 となった。後に北京のT ung Wen大学(同文館大学)で,英語を教え,更に西洋の作 品の翻訳者として著名になっている。
アメリカ合衆国へ勉強させるために,少年達を選抜し,派遣するように満州政府に嘆願 した永鴻(Yung Hung)さえ,香港に来て,すでに英語を少しでも学んだものの中から 選抜したほどである。広東人であるOu:Fe ng・chihはドイツに渡り,東洋語の講習会で 広東語を教えた。
これらのことは,すべては香港が中国と西洋の間の,文化交流における,重大な役割を 果たしているごとを示している。
三西洋文化を東洋に広める際の香港の歴史的役割
1842年以前の,中国王朝の時代から,少i数の中国人が香港地方に住んでいた。彼等は漁 業を営み耕作をしたり,あるいは,他の職業に従事していた。自然に中国の祭,音楽や諸 慣習が,当地に比較的に保存されていた。香港が繁栄するにつれて,広東省や福建省から 来た産業資本家や商人は,当:地に定住し,家を建て子供達を養育した。彼等は中国本土か
らやって来た文人や彼等の息子や兄弟達の家庭教師を招待した。あるいは文官試験のため の教養を与えるため,あるいは,彼等の研究を増進させるため,中国本土に再派遣した。
彼等はよく戻って来て,香港で家族達と一緒に生活した。
中国本土から招待された家庭教師,文官になるため,あるいは研究を続けるために送り 返された子供や兄弟達によって,当地における中国人社会は,自然に中国文明との大きな 接触を,もたらした。このように中国文化の精神は,容易に当地に根をおろしたのであっ た。このことは,何故中国文化が香港において容易に展開し,かつ広まったかという理由 の一つなのである。
また,香港は中国と境界を接しており,その行政は正直で,能率的であり,そしてその
社会は平和で秩序正しいものである。香港に必要だったものは,香港の発展を前進させる
ためのより多くの人々による力であった。中国において,時々発生した内戦によって,紛
争地域に住んでいた人々は,家族とともに香港に移って来た。ある人は,自分の貴重な書
物や絵画を,当地で安全に保存するために送った。このことは,香港の中国人に,それら
を研究レたり,鑑賞したり,する機会を与えた,当地に避難する学者達は,よく一緒に集
まったり,彼等の詩を一緒に食事しながら読んだ。これらのことは,文学的ふん囲気を拡 大させることに役立った。
多くの国内の内戦を経験した人々は,、自ら学問や純文学に従事しようと決意した。この ことは,何故に中国文化が香港で容易に発展し,広まることができたかという第二の理由 である。
中国に渡来し,繁栄した西洋文化は,当地に長く根ぎしていた中国文化とは,互に合流 し,その合流点を形成しはじめた。香港を中心にして,この合流は広範囲の影響力をもっ た。このように,中国と西洋における文化交流における香港の役割は,顕著になった。
これに反し,香港自身は,この交流を当然のこととみなレたり,あるいは,そのことを 見落しているかも知れない。しかし香港が中国や他の国々に広めた影響は非常に大きかっ た。それ故,学問や文化に関する香港の貢献を理解するためには,われわれは,中国と西 洋との文化交流の歴史において,香港が演じた役割を見逃すわけには行かないのである。
四 香港を通じて中国文化の西欧文化への影響
1841年香港が英国に割譲以来,多くの学者,伝導師が英国その他西欧の国々から中国に やって来た。最初に来たRobert Morrison(Morrisoll Education Society、School の創立者)を始め,William Milne, James Legge, W。 H:. Me曲urst等である。就中 James Leggeが最も若かった。そして後で,最もすぐれた業績を残している。
平和条約が署名されて以来,西洋から商品や貴重の物資が大量に香港を通じてその販路 を見出した。中国人と外国人はうまく調和の中に生活し,外観は大変明るいものであった。
西洋の学者達は,中国に関する異った題目の書物を収集するために,唯も,中国人の文化 人を雇用し,その手助とした。例えば,Rev. Wm, Muir燈a とRev. E. C. Bridgman は地理に関する書物を収集した。Joseph Edkinsは工学に関する書物を, A。 Wylieは 天文学と数学の書物を,Dr. B. Hobsonは医学, D. J. Mcgowen璽は電気, W. A. P.
Martinは法学に関する書物を収集した。これらの努力は中国に対し,西洋文化の伝達の ためになされたもので,西洋に中国の古典の真髄を紹介したものは何もなかったのである。
James Leggeはその困難を恐れず十三の古典の研究に献身した唯一人の人であった。
1858年彼は四書(大学,中庸,論語,孟子),五経(書経,易経等)を英語に翻訳し,そ してそれらを七巻一組として原本を出版した。この不滅の作品は広く読まれ,当然のこと ながら英国の知識人たちに大きい影響を与えた。以前大英博物館の東洋主任であったLio nel Gilesは, かって,つぎのようなことをいった。ミ英国の読者大衆はJames Legge
に感謝せぎるを得ない。なぜならば,彼のおかげで,みんなは儒教の古典を読む機会を得 たからである と。
彼がこのような立派な業績を残したのは,長く香港に生活し,申国語に通じ,中国の学
問の研究に熱心だったためである。彼は1815年にスコットラン智に生れ,1829年Aberde enの学校に入学,1837年:Highburg神学校の生徒であった頃,東洋行きを決意し,1840 年,彼は妻とどもにマラッカに向かった。 そこでAnglo−Chinese大学の校長になった。
1843年彼はその大学を香港に移した。この学校はAnglo・Chinese神学校と改名したけれ ども,校長が同じであったので,一般にAnglo−Chinese大学と呼ばれた。1845年一時,
英国に帰ったが,1848年再び香港に戻った。そして中国の文化を西洋に理解させるには,
中国古典の西洋語への翻訳が一番緊急に必要事であると知り,その研究を始めたのであっ た。James:Le99eは1843年,香港に移って以来,良き牧師,勤勉な学者,教育者,公徳 心に富んだ市民,香港に配置された英国軍隊の精神的忠告者,それに彼の牧師として罪人 や貧乏人を訪問する人として知られた。彼はその仕事に情熱と実際的な勤勉性を持った人 であった。1845年彼が健康をいやすため英国にもどった時,更に1867年彼の両親に会いに 英国にもどった時を除いて,殆んど30年近く香港ですごしていた。
彼の中国の学問の研究,それに中国古典の翻訳の不朽の貢献のため,彼はフランス大学 においてJulien賞を授与され,1871年エデンバラ大学三百年祭を行い, Ja血es:Le99e は名誉法学博士の称号を受けた。1876年,オックスフォード大学に中国語の教授のポスト ができたので,61才でオックスフォード大学の教授に就任している。1897年彼はオックス フォード大学で死去した。82才であった。1928年国際東洋会議がオックスフォードで開か れた時,英国,フランス,アメリカ,イタリー及び他の諸国の代表者は,James:Legge の墓を訪問し,花環をささげた。実にJames Leggeは中国文化を西欧諸国に紹介し貢献
した第一者といえる。
第二にとりあげられる中国文化の西欧文化への影響として,文官登用試験制度がある。
香港が英国へ割譲されるずっと以前から,英国や西欧諸国の知識人の間には,中国の競争 学問試験制度が知られていた。フランスではFrancois Ouesnayが彼の著書 Discours sur I economie Politique の中で中国の競争試験の方法を西欧へ紹介しようと考えた。
又:Ferdin and Brunetiereの信念では,フランスの教育は,競争学問試験制度という中 国の原則に基いていると考えているし,競争試験によって選ばれた人々を職員とする,文 官のフランスの概念は,その起源を中国に求めている。
英国において17〜18世紀の時代に,すでに中国の試験制度は知識人の間に強く印象づけ られていた。そしてそれを採用することを・しきりに勧める雑誌もあっπ。中国に住んで いた英国人Robert Inglisは1835年7月,次のようなことを書いている。ミイギリス東イ
ンド会社(the British East India ComPany)は文官の採用にその原理を採用した。こ の中国人の発明が印度において発展したことは,火薬や印刷の発明と同時に,欧州の国家 組織の変革に大いに貢献する働きをするように運命づけた。 と。
1836年にHugh Murrayは all Historical and Descriptive Account of China の
中で,又1838年には,C・T・Downingが The Fan・Qui in China の中で,中国の試
験方式に対して感嘆を表わしている。W。 H. Medhurstは彼の作品China:Its State and prospects(1838年)の中で,中国の学問試験の制度それ自身は正に賞賛すべきであ
り,まねる価値がある,と述べている。
Thomas Taylor Meadowsは彼の著書 Desultory:Notes on the Goverment and People of China(1847) の中で,英国が文官試験の方式を採用することを勧めている。
1853年にEarl Granvilleは上院で文官登用試験を支持して,小さいTartar王朝が中 国の広大な帝国を200年間も統治した主な理由の一つは,その統治者がすべての政府の役 職を競争するよう公開することによって,中国の全ての住民の才能を獲得したからである 〔註1〕
といっている。
ニケ月もたたないうちに,彼は上院で,この問題で,この間題に触れ,つぎのようにい っている。ミ私は少し前に中国の試験制度は貧しい家庭の息子たちが,高い官職に昇進す ることができるようにした事を述べた。私はちょうど中国から帰ってきたばかりのBowni ng博士と話し合ったが,彼も私が言った事に完全に賛成しました。そして中国の人民は 自分達の学者を深く尊敬しているともいった。又写は満州人が非常に長い間,中国の帝位 を占めることが出来たということは,その王朝に対する人民の支持を勝ち得た試験制度を 適用したためであると信じているのである。 (英国国会計議事録の議会討議より)
1853年にインド政府はインドの文官の職員を自由競争にしょうとするMacaulayの提案 を大幅に取り入れた。ミィンドの文官に関する報告 として一般に知られているMacaul ayの提案は中国の学問試験の原則と同じ考えを多く含んでいる。何故ならば東インド会社 の業務を管理する1832年の管理会議の書記官をしていたからである。その後門はインドの 最高会議の構成員に任命され,その年にインドに向って出航した。そして三ケ年インドに 滞在した。彼が東インド会社に関係していたことと,インドに三ケ年滞在していたという ことは,疑いもなく彼が中国の学問試験制度についての多くの論議を知る機会を彼に多く 与えたからである。
1855年目ギリスでは,正規の議事進行規則に従った議会が,全部門における下級職の志 望者へ行う試験の管理を任せた三人置委員からなる文官委員会を設置した。かくしてイギ リスの公開競争試験による募集制度が始まった。1870年の正規の手続きによる議会は全文 官に対して公開競争試験を義務づけた。
アメリカ合衆国においてはPendleton法として知られている文官法 (Civil Service Act)が1883年公布されている。以後文官は公開競争試験によって行われている。
最後に英国の文官試験制度に貢献したBow−ning博士のことにふれておこう。Bowni ng博士は1849年春に広東省の広東領事として極東にやって来た。時の香港総督だった George Bonham卿が1852年休暇で帰国したときに,彼は香港に来た。そして貿易に関す
る全権委員兼監督者代理となった。9 P853年にBonham卿が香港に帰ってくると同時に彼
は医学の分野で働くために退官し,英国に帰った。ロンドンで彼はEarl GranviUeと共
に中国国内の情勢と中国の学問試験について話し合ったことは当然である。
Bowningは広東と香港における職務期間中に中国語を勉強し,それに熟達した。彼は 中国の小説を英語に翻訳し,それをThe Flowery Scrollという題をつけて出版した。
彼は中国語が非常に上手だったので,彼がどのくらい中国の学問試験制度が中国における 満州王朝を安全にし,引き延ばすことができたということを認識できたことは何の不思議 ではない。
〔註1〕英国国会議事録の議会の討議(CxXVIII1853年6月13日)P38より
五香港を通じて西欧文化の中国文化への影響
第一にあげられることは,香港が福音書を広めるところのキリスト教の基地となったこ とである。1842年置香港が英国に割譲されて以後,ロンドン宣教師協会(五〇ndon Missio・
n・ary Society)のような文化的機関がやって来た。又,アングロ・チャイニーズ単科大 学(Anglo Chinese Coilege)モリソン教育協会の神学校(Mori・son Education Soci ety s School)のような学校が設立された。欧州や米国からも他の宣教師団体や著名な学 者も香港にやって来た。最も注目すべき人はWilliam Lockhart博士, B. Hobson博士,
Roberts Morison及びその息子John Morison等である。彼等は皆ロンドン宣教師協会 に属し,しばらくマカオに住んでいた。翌年G843)前述したJames:Leggeがアングロ
・チャイニーズ大学と共にやって来た。又,W。 H:. Medhurst博士も香港に来て,大学 の世話をした。その後Medhurst博士は上海に走ったのでロンドン宣教師協会は, John Chalmers師を香港に送った。このようにロンドン宣教師協会は中国人の信者の後援も得 て確実に成長していった。初期の時代,ロンドン宣教師協会の宣教師の大部分は,中国語 で著書やパンフレットを書いた。それらは,中国人学者の援助によるものであるが,例え ば,Hobson博士は1852年,中国語で「心理学及び解剖学概論」を書いた。 Medhurst博 士は「Medhurst s Three Word Canon 」 を作った。又John Chalmersは 「Hsia Zrh Kuan Chen 」 という名の雑誌を編集したり,著書も出している。
その後ドイツからもGiitzlaff師,バラルメン,バーゼル宣教師教会から, Genaheス エーデン人Theodore Hamburyが香港に来て説教し,アメリカからもJ,:L Shuck師 等多くの宣教師が来即したgShuck師は後にMedhurst博士と共に中国語の賛美歌さえ 作った0で有名である。彼等は福音書の説教のために中国語の聖書と中国語で書かれた宗 教小冊子が必要であった。政府役人や西欧の商人,実業家も最初は通訳に頼っていたが,
彼ら自身中国語を学ぶ必要があることがわかった。1822年,Ma−rshm孤によって翻訳さ
れた最初の中国語の聖書が発行された。翌年には,MorrisonとMilneの共著の,申国
語の聖書が発行された。1840年には,ドイツ人K:.G伽zlaffと W。 H:.Medhurstとに
よって,第二番目の中国語の聖書が出版されている。これらは香港で翻訳されたものでは
ないが,香港でなされた翻訳文学の模範となった。このように香港は西洋文化が東洋へ普 及されるところの重要な拠点となった。
第二に西欧文化を香港を通じて中国文化へ影響を与えた貢献者は永鴻 (Yung宜ung)
である。彼はアメリカ合衆国で教育を受け進歩している社会のあらゆる面を自分自身の目 で見た。彼は民主主義のスムーズな活動を目撃した。しかし彼の心は,自分の国に戻った 時,彼の目の前には満州政権の堕落と無力さのみが浮かんでいた。彼はこれらの,すべて を救済するための使命を負っていると自負した。今や彼は大学の教育も受けていたし,知 識もかなり修得していた。その上,民主政治の精神を把握していた。
彼が中国に帰国すると中国に於ける外国思想と新しい教育観を振興するためにつくした。
又彼はアメリカ含衆国で受けたのと同じ程度の教育を,中国の新しい世代が,うけること ができるようにしょうと考えていた。西洋の重要な学問の援助によって,中国は文明化し,
富み,そして強力になり,その上中国の学問や文化に染まった西洋文明はそれ自身,豊か に,しかも成熟するであろうというのが彼の信念でもあった。
永鴻(Yung Hung)は道光帝の8年目の統治の年1828年に生れ,1912年中華民国成立 の最初の年に死んだ。その間Yung Hungはマカオで英語を勉強し,後にモリソン教育 協会学校(Morrison Education Society s SchooI)の生徒になった。時の校長はS. R Brown師であり,彼はすばらしい成績を収めたので,大変Brown校長に尊敬され,他 の二人の生徒と共にBrown校長が病気のため帰国するとき,1846年一緒にアメリカ合衆 国に向って香港を離れた。1850年彼はManson学士院を卒業し,更にNew:H:avenにあ
るエール大学(Yale Universi−ty)・に入学,4年間をエールで過した。1854年優秀な成績 でアメリカの大学を卒業し学位を得た最初の生徒であった。
このことは;その後彼が中国とアメリカ合衆国との間の文化交流において決定的役割を 果たした意味が理解できると思われる。彼が中国に帰ると,西洋化を唱導し,銀行を設立 し,造船会社を建設することや鉄道の敷設を計画し,銀行を設立し,度量衡の統一的基準 を決定.したり,軍隊の近代化を主唱している。しかし彼の特筆すべき業績は教育の変革の ために計画を提案し,中国における教育の変革や新しい企てに際しての進歩に大きい影響
を与えたことである。
すなわち,彼は中国の青少年を教育するために,アメリカ合衆国に派遣し,帰国後は,
国家建設のために,その教育を役立たせる人材を養成することであった。このことは中国 の近代教育の育成に関して大きい衝撃を与えるとともに,又中国で新しい文化運動を始め るに当って,Yung Hungの役割を増大せしめたのである。彼がこの目的を達成するため に,二つの障害にぶつかった。一つは才能のある少年達を選ぶことであり,他の一つは,
必要な資金を集めることであった。資金の方は,たびたひの彼の請願で,時の政府が認め,
才能ある立派な素質のある,しかも,家庭的困難の少ない少年達を選択することに努力し
た。Yung I{ungは上海に戻り試験や生徒の選抜,それに予備授業を行う委員会を設立
した。彼は最初の第一回分の定員を満たすため,若い志願者に公の試験すら行っている。
かくして,1872年第一回の生徒30名は,太平洋をわたり,アメリカ合衆国に出発している。
第二回30名は1873年5月に,第三回の30名は1874年の8月に,第四回は1875年に30名が出 発している。Yung Hungがアメリカ合衆国に派遣した政府の120名の学生のうち,84名
(70%)は広東省出身者で,21名(17.5%)は江蘇省出身者,8名(6.7%)は春江省,
4名(3.3%)は安徴省,2名(1.7%)は福建省出身者であった。
YURg H:ungがアメリカ合衆国に派遣した中国人学生の大部分は非常に優秀で勤勉であ った。アメリカの教師と教育当局は,非常に彼等を大切にした。彼等は又アメリカの友人 達にも良い影響を与えた。そして彼等の賞讃を勝ち得た。アメリカ合衆国から帰国した学 生達は,彼等がアメリカ合衆国へ行った目的は,西洋の学問を学び広めると共に,中国自 身の立派な伝統を広め,発展させることであると,みんな自覚をもっていた。中国に帰っ た彼等は一生懸命に勉強し,中国のためにその近代化に努力した。 かようにYung Hung の教育計画は,中国のために大いに貢献したのである。このことは中華民国が建設され,
臨時大統領に選ばれた孫文博士がアメリカにいる彼に手紙を書き,中国に戻って来て政府 に参加してくれるように要請した文面でよくわかるのである。手紙はつぎのように書かれ ている。
ミ親愛なるYung氏,今や革命は成功裡に終らんとしている。戦争終結も間近である。
そして私の終生の目的が実現しようとしている。太平洋の彼方で,我々の成功を,一人の 古い友達が喜んでいられるのを聞いてうれしい。アメリ㍗合衆国にあなたが・滞在してい るのは,満州政府を打倒し,我々の自由と平等を獲得しようとする偉大な目的の題望から 生れたものと思います。あなたが外国に逃れたのは,恐らくこのためでしょう。同じ疾病
に悩む人々は,お互に同情し合うものです。あなたは一人ぼっちではありません。何故な らば,我々はあまりにも,同じ試練を経験しているからです。今や中国人民は天の思出に よって,満州政府は死の入口にいます。中国人民のものである美しい山や川は,間もなく 青く陽が照った空の下に,もたらされるでしょう。私は何んと幸福でしょう。しかし,我 々は260年以上圧制に屈服して来た。教育は腐敗し,人民は暗の中にいた。この,特に破 壊が起った後なので,共和国の再建は非常な能力が必要です。私は久しく世界中に広がっ ている,あなたの名声について聞いています。又あなたの能力,知識,抜群の想像力も知 っています。それで心から歓迎をあなたにします。どうぞ戻って来て下さい。そして幼児 である民主政治を育成するため,中華民国の完全な行政を建設するため手伝って下さい。
どうぞ私の要請を心から受けて下さい。そして我々が未来にうける自由と平等のすべての 幸福をあなたに捧げるでしょう。母国はいつも,あなたの胸の中にあるに違いない。私は,
あなたが他の方を向き,そして,私に気付かないままにあるとは思いません。軟風の中で,
この手紙を書いて炉る間にも,私はあなたの好意ある返事を期待しています と。
この手紙を読んだら,人はYung Hungの唱導と中華民国を生んだ運動と彼の関係が
理解できるのである。彼は中華民国の誕生と,孫文博士の臨時大統領に選ばれたことを聞 いた時,非常に年老いていた。それで遠くに旅行もできず,中華民国成立の最初の年(19 12年),行年84才で死去した。 しかし彼が始めた偉大な目的は彼の死後でも休止しなかっ
た。
彼が合衆国に送った生徒達は中華民国成立後も,帰国してから重要な役割をしている。
そして又中国とアメリカ合衆国との文化交流も立派に維持されたのである。
第三に香港を通じて東西文化交流に重要な役割を果たした王濤(Wang Tao)について述 べねばならない。王濤(Wang Tao)は1828年宣宗の時代に生れ,1897年光緒帝の治世の 間に死んだ。彼は18才で文官試験に合格した優才で,上海に滞在していたW.H:. Medhu rst博士,香港のJames Legge師とも交際を有し,彼等の新約聖書の中国語訳, James
:Leggeの古典の翻訳の手伝もした。又内乱に参画し,満州政府の手から逃れて香港に落着 いた人である。しかしその後James恥gge師が英国で中国古典の翻訳の仕事を手伝って くれるよう依頼され,三年間英国のスコットランドに滞在,その聞ヨーロッパ各地を旅行 する機会を得た。この英国における逗留は彼の目を開かせ,そして彼の心を拡大させたの である。
彼の最大の業績は,香港に滞在している時,外国の機構化に関する彼の仕事を通じて,
又改革によって中国を新しくする方策の唱導を通じて,中国の文化人に大きい影響を与え たことである。
彼はHuang Sheng氏と共同で,香港でThe Hsiin Huan Daily(後1こthe Recur rence Daily)を設立した。その主なる目的は年割を新しくすること及び諸方策の改革を 提唱することであった。このことは当時の世心に対して,大きい衝撃を与えた。彼はその 新聞の編集主幹となり,社説を書いた。その社説の記事は,当時比べるものがない程,豊 富な思想と知識に恵まれて書かれたものであった。
その第一の論点は国内の行政機構の改革であった。国内行政機構の改革こそ,現在の状 勢を改善するための根本問題である旨を強調した。王女(Wang Tao)の考えとしては,
国が常に外国の侵入に危険にさらされている時に,それらの国々が,われわれを凌駕した 事柄を,外国人から学ぶことである。しかし彼は現在の状態では,国内の行政機構の改革 な.しに,外国の技術や機構を採用することは不可能と考えた。外国機構化の申心は,外国 の諸方策を採用することによって更にわれわれ自身の資源によって,われわれの国力を強 大にすることにあった。
つぎに彼の第二の論点は国内の統治に関してであった。彼は国民は国家の根本であると
し,根が土の中に深く安定している時は,国家は平和で秩序が保たれている。今日中国の
人口は,日々増大し,現在3億近くである。 もし中国政府が彼等の繁栄を図り,彼等との
親密な関係を維持するならその時,中国は世界無比になろうと論じた。そして又彼は人民
の愛によって国家は危険に直面している時でも,安全にしていることができる。人民の愛
なくしては,国家は,たとえ繁栄していようとも,結局は滅亡するであろう。人民の福祉 を図り,又人民との密接な関係を維持するのは,支配者の義務であるとも論じている。そ して彼は民主政治を実践する手段として,議会の創設を提唱し,彼の時代の環境において 立憲君主政体を主唱している。
第三の彼の論点は,中国を強力にするために,それを維持する諸方策の改革についてで ある。なかでも彼は文官試験制度の改革,陸海軍の訓練方法の改革,多くの条項からなっ ている法規類集等を改正すべきことを提唱している。
つぎに第四の彼の論点としてこれら諸方策の実行に当り,タレントの重要性を強調して いることである。彼の見解によると,経国の手腕に凪いでている人が,諸方策の改革を行 うのが必要であり,更に国事の運営,外国の機構化の実行においても必要であることを唱 導している。
彼がこのように中国を強化するために中国の外国機構化,諸方策の改革を論じたのは,
前述したように,何年も西洋の学者と親密な関係を保っていたこと,及び彼がJames Le ggeの手伝のため,英国及びヨーロッパを旅行したためである。又国内問題でも, Ting Tih−chang や● Yung Hung とも交友があって,外国の状況と同じ程度に中国内の事 情にも精通していたためである。
王濤(Wang Tao)こそ自分の国と人民に奉仕しようとした学者であり,近代文化にお ける過去と理在の間の橋を形造った人である。それ故彼の仕事は中国の近代化や文化的発 展を論ずるとき,無視できないのである。
第四として香港を通じて西欧文化が中国文化に影響を犀ぼした事項は,香港大学の創設 が挙げられる。香港大学は1912年創設され,香港総督Frederick Lugard卿が初代総長,
(Charles Eliot卿が初代副総長)となった。
Charles卿は才能豊かな人であり,博識で梵語とパーリ語の専門家であった。この大学 は初め医学と工学の二学部だけであったが,次の年に人文科学の学部が設けられそれが次 第に発展して50年有余を経過した今日経済学部を入れて四学部になっている。人文科学部 は中国学部と東洋研究学部を含んでおり,七ケ年計画の理在の教科課程では,学生の人数 の増加と,中国学部と東洋研究学部門を含んだ色々な学部の学問の水準を高めることを努 力しようと試みている。
この大学が香港と初国への貢献は偉大であり,影響するところも大なるものがあるσ過 去100年間に宗教,外政,文学,医学,工学,銀行業,通信業等の諸分野において,有名
になった南中国舞踏の人々は,殆んど,みんな初期教育をこの香港大学で過している。
なかでも,最も有名な出身者は,申華民国の創建者である孫文博士(Sun Yat・Sen)で ある。孫文は1892年に香港大学(医学部)を卒業している。彼は医学部の前身である医科 大学が開設された1887年に入学している。彼は知的で,勤勉で,クラスを首席で卒業して
いる。
在学中も医学の外に,農業,地理学,歴史そして古典など色々な学問に興味をも・つた。
彼は真夜中にとび起きて,良く,トーマス・リンカーンのミフランス革命 ,やチャール ズ・グリーンのミ種の起源 のような書物を読んだのであった。特に興味をもったのは,
ダービンの進化論であり,その進化論は彼を啓発した。そして数年後においてミ知識は難 く,行動は易し, という理論を思いついた。このことは,精神的に中国の文化人が,よ
り革命的な問題を準備することを意味していた。
彼はミ知識は難く,行動は易し, という彼自身の理論が正確だということを立証した,
最初の中国人で多分あるであろう。
孫文の卒業した医科大学(現在の香港大学医学部の前身)は1887年香港において,その 創立をみたのである。その目的は,面詰における医学の拡大であり,中国人の病気からの 救済であった。
その最初の創亡者のうちで・注目に値いするのは・初代医学部長Patr圭ck Manson博 士,次の医学部長James Cantlie博士,及び中国人Ho Kai博士である。彼らの任務は 中国における科学を育成し,医者を養成することであった。というのは医学は露国の人々 の全般的な健康を増進させ》科学は近代中国の建設を助けるだろうと信じていたからであ
る。
なかでも創立者の一人であるHo Kai博士は,この大学に資金を援助し,彼のイギリス 人の妻Alice Walkdenを記念して, Alice記念病院を建設した。そして,その大学の最 初の講義は,この病棟で行われた。彼は裕福な家庭に生まれた。彼は学問を喜び,そして 精励し,勉強した。故に貧しい家庭の出身者より,並はずれて謳いでていた。科学教育は,
当時の中国では行われていなかった。彼は少年の時,一人で英国に行った。そしてロンド ンの大学で学んだ。彼は医学が人間の病気を治療することができるので,最初医学を研究 し,優等の成績で卒業している。
その後屈,三年間弁護士になるために,法律を勉強し,合格している。彼は学問におい て,その理解が早かった。英国人の級友のだれも,彼を凌ぐことができなかった。彼は中 国人であったので,彼の同輩は世紀の天才 を意味しているミ世紀の人 (the Man of the Century)と彼を呼んだ程である。一,二年経過後,彼はイギリスを去り,香港に戻
った。