• 検索結果がありません。

「夏本紀」と九州(下)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "「夏本紀」と九州(下)"

Copied!
18
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

﹁夏本 紀﹂と 九州一下一

高   橋 庸   郎

は じめ に

本稿は︑﹃阪南論集・人文・自然科学編﹂第二十五巻・第三号

﹃﹁夏本紀﹂と九州︵上︶﹂につづくものである︒

   1︑豫 州

 ﹁本紀﹂に︑﹁荊河は惟れ豫州なり︒伊︑錐︑漉︑澗既に河に入

り︑榮播は既に都たり︒荷澤を導びきて︑明都に被むる﹂とある︒

﹁集解﹂に︑﹁孔安國日く︑西南は荊山に至り︑北は河水を距つ﹂と          ● する︒九州のうちで荊に係わりのあるのはこの他に荊州であるが︑

孔注にある如く荊山の南は荊州であり︑北が豫州である︒河に係わ

りを持つものは洗州である︒洗州の条には︑﹁済︑河維れ洗州なり﹂

とあって︑これは鄭注によると︑濟と河に狭まれた地域であるとす

るから︑即ち河の南と東の極く狭い所を指している︒これに対して

この豫州は河から荊山の問を言うというのであるから︑中流部の河 から中流部の江へかけての相当広大な域内を指している︒﹁正義﹂ に︑﹁括地志に云く︑荊山は嚢州荊山縣西八十里に在り︑韓子に云 く︑†和は玉瑛を楚の荊山に得と︑印ち此れなり︒河は洛州の北の 河なり﹂という︒裏州とは嚢陽︵嚢焚市︶附近であろう︒韓子とは

﹃韓非子﹂のことでその﹁和氏第十三﹂には︑﹁楚人和氏︑玉瑛を

楚の山中に得︑奉じて之を腐王に猷ず︒玉人日く︑石なり︑王和を

以て認と爲し︑其の左足を別る︒腐王莞ずるに及びて︑武王印位

す︒和又た其の撲を奉じて之を武王に献ず︒武王玉人を使て之を相

しむ︒又た日く︑石なり︒王又た和を以つて証と爲し︑其の右足を

則る︒武王藁じ︑文王印位す︒和乃ち其の瑛を抱きて楚山の下に巽

き︑三旦二夜にして︑沼轟きて之に縫ぐに血を以つてす︒王之を聞

き︑人をして其の故を問わしめ︑日く︑天下の別られる者多し︑子

巽んぞ之を突きて悲しむやと︑和日く︑吾別りを悲しむに非ざるな

り︑夫れ賓玉にして之に題するに石を以つてし︑貞士なるに之を名

づけるに証を以つてす︑此れ吾の悲しむ所以なり︒王乃ち玉人を使

して其の瑛を理めしめ費を得︑遂に命じて日く︑和氏の壁と﹂とい

       九

Page:1

無断転載禁止。 

(2)

う興味深い説話が載せられている︒ここには﹁楚山中﹂或いは﹁楚

山﹂とは出ているが︑この楚山が荊山であるとはどこにも書かれて

いない︒﹃括地誌﹂は今は侠して伝わらないが︑唐の貞観十二年︑

魏王泰が講徳言︑顧胤等に命じて編集させたものである︒当時彼等

が見た﹃韓非ヱ︒﹂には﹁荊山﹂と書かれていたのであろうか︒﹃塾

文類聚・山部・荊山﹂には︑﹁韓子日く︑†和王を楚山中に得て腐

王に献ず︒王玉人をして之を相しむ︒日く︑石なり︒其の左足を則

る︒和其の瑛を抱いて︑荊山之下に巽すること三日︑泣轟して之に

纏ぐに血を以つてす﹂とあって︑前の方は﹁楚山中﹂とあり︑後文

では﹁荊山下﹂となっている︒また﹃白孔六帖・五・刑山﹂には

﹁韓子日く︑†和荊山の中より得︑將に楚王に献ぜんとす︒王工人

をして之を相しむ︒日く︑石なり︒王怒りて其の左足を別る︒和玉

を抱き荊山の下に坐すこと三日︑泣き轟くして之に纏ぐに血を以つ

てす﹂とあって前︑後とも楚山ではなく荊山となっている︒﹃韓非

子﹂の松皐圓の注には︑﹁文選七啓の注に瑛玉と作り︑盧謹傳の注

には︑楚人†和瑛玉を剰山の中に得と︑作る﹂とある︒盧謹は書の

人であるから六朝から唐に至る間にこの楚山を荊山と解することが

定着したのであろう︒楚に存する山は荊山ばかりではない筈である

がそれがいつの問にか荊山となってしまうのはこうした解釈家達の

解が本文に紛れ込み︑それが本文であるかのように引用されるよう

になるからであろう︒この﹃史記﹂の注に用いられた﹁括地志﹂は

そのあたりの事情の変化を表わしていて輿味深い︒﹁洛州北河﹂と

は洛州の北堺をなしている部分の黄河ということであろう︒伊︑        一〇 雛︑濾︑澗について﹁集解﹂は︑ ﹁孔安國日く︑伊は陸揮山より出 ず︒洛は上洛山より出ず︒澗は潤池山より出ず︒漉は河南山より出 ず︒四水合流して河に入る﹂とある︒伊水は熊耳山の南に源を発し て北東に向って流れ︑同じく熊耳山の西から流れ出す洛水が熊耳山 の北側を廻り込んでこれも北東へ流れるのと洛陽あたりで合流し︑ 更に河水の南︑三門峡東三十キロ辺りの溺池︑谷陽谷の東のはずれ から流れ出した澗水︑及び孟津のすぐ西から南へ直進する濾水とも 合流して黄河へ流れ込むのである︒これらの河川はすべて黄河のす ぐ南をほぼ黄河に平行して流れる川であり︑豫州全体から見れば北 境堺にヘバりついたような地域で︑豫州は中部︑南部にまだまだ准 水へ流れ込む頴水や汝水︑漏水などを擁しているのにかかわらず︑ ここには何故か提示されていない︒﹁索隠﹂には︑﹁伊水は弘農盧氏 縣の東より出ず︒洛水は弘農上洛縣家領山より出ず︒漉水は河南穀 城縣轡亭の北より出ず︒澗水は弘農新安縣の東より出ず︒皆河に入 る﹂とある︒そして﹁正義﹂には︑﹁括地志に日く﹂として︑﹁伊水 は號州盧氏縣東澄山より出で︑東北へ流れて洛に入る︒洛水は商州 洛南縣家頷山より出で︑東流して洛州郭内を纏て︑又た東して伊水 と合す︒濾水は洛州新安縣の東よりで南流して洛州の郭内に至り︑ 南して洛に入る︒澗水は源︑洛州新安縣の東︑白石山より出で︑東 北して穀水と合流し︑洛州の郭内を経て︑東流して洛に入るなり﹂ とある︒﹁集解﹂は劉宋の斐囲の撰になるのであるが︑そこにとら れた孔安国の注はもともと﹁窩書・禺貢﹂に付されたものである︒

司馬遷は﹃吏記﹂に﹁萬貢篇﹂をほぼそのままとっており一切注釈

Page:2

無断転載禁止。 

(3)

的なものを付け加えるというような事はしていない︒孔安国と司馬

遷はほぽ同時代に生きた人物であるが︑その意味からは孔安国の注

こそが漢代の地理認識を反映しているのである︒注はその注釈者達

が生きた時代の人々に理解されるべくかかれたものである︒こうし

た地理的な位置関係についての注釈には︑注釈態度といったものが

二種程あると考えられる︒その一は︑その同時代の人々にその同時

代と同等の時限で理解させようという態度と︑その二は︑その同時

代の人々に少しでも古い時代に湖りながらその原典の認識により近

づけて理解させようという態度である︒いまこの項に於ける﹁索

隠﹂と﹁正義﹂を較べて見ると︑﹁正義﹂は﹃括地志﹂を多く引用

する︒﹃括地志﹂はあくまで地理書であって﹃史記﹂理解の為の注

釈書ではない︒これは前掲の其の一の態度である︒例えば洛水につ

いて﹃括地志﹄は︑﹁出商州洛南縣家領山﹂とする︒商州は唐代の

よび方であってそれ以前はないように恩われる︒しかしそれに対し

て﹁素隠﹂は︑﹁出弘農上洛家領山﹂とする︒弘農という呼び方は

晴代まではよく用いられているがその後はあまり文献にもあらわれ

ない︒しかも弘農は漢代からの古い名称である︒﹁索隠﹂が弘農を

用いるのは前掲の態度の後者︑その二ということになろう︒以降︑

﹁集解﹂﹁素隠﹂﹁正義﹂をこうした態度の違いを念頭において読む

とそれぞれの理解が整理されてスムーズに収る︒榮播について﹁集

解﹂は︑﹁孔安國日く︑榮は澤名なり︒波水已に遇都と成る﹂とあ

る︒榮は現在の鄭州市の西約二十五キロの所にある榮陽のあたりに

あったのであろう︒このあたりは黄河が多くの中州を作っていた所 で︑漿沢もそうした黄河の傍流よりつくられた流れのよどみの一つ であったのであろう︒﹁索隠﹂には︑﹁古文倫書は螢波に作る︑此及び 今文並に螢播と云う︒播は是れ水の播溶するの義なり︑榮はこれ澤 名なり︒故に左傳に云く︑秋は衛と榮澤に戦う﹂播は︑チラス︑バ ラマク︑タネヲマクなどの意味であるが︑ここでは水の浴れる所︑ 溢れ出す所の意であるとするのである︒しかし本来は黄河から溢れ 出た水が小さな水たまりをたくさんつくり︑それ等全体をひっくる めて榮播と言ったものなのであろう︒しかしこうした水たまりはあ まり恒久性のあるものではなく︑﹁素隠﹂は更に加えて︑﹁鄭玄云 く︑今塞ぎて平地と爲る︒螢陽の人猶お其の虜を榮播と爲すと謂 う﹂と言っている︒鄭玄は後漢末の人であるから︑その頃は已に榮 という沢はなくなっていたらしい︒勿論現在この名の沢は存在しな い︒﹁道荷澤︑被明都﹂について﹁集解﹂は︑﹁荷澤は胡陵に在り︒ 明都は澤の名なり︑河の東北に在り︑水流決して之を覆被す﹂とあ る︒胡陵は現在山東省と江蘇省の北東の省堺にある南陽湖︑昭陽 湖︑微山湖の三湖が連って一つの湖になっている西岸の中程にあっ た所で現在の浦県に近い湖岸である︒よってここはもう恐らく豫州 ではなく︑衰州に属するのではないかと恩われる︒故に胡陵という のは孔安国の錯覚であろう︒﹁素隠﹂には︑﹁荷澤は濟陰定陶縣の東 に在り︑明都は音孟錯︒孟猪澤は梁國唯陽縣の東北に在り︒爾雅︑ 左傳に之を孟諸と謂う︒今文亦た然りと爲す︒唯だ周穫のみ望諸と 構す︒皆此の地の一名なり﹂とある︒現在も山東省の西南の隈に荷

澤という澤地はないもののその地名は残っている︒そしてそこは現

      一一

Page:3

無断転載禁止。 

(4)

在も残る定陶の地の北二十キロぐらいの所である︒しかしこのあた

りも衰州の地域内に入るのではなかろうか︒明都とは孟猪でありま

た孟諸とも呼ばれ望諸も同じ澤を指しているという︒猪については

﹃尚書・萬貢﹂の徐州の条に︑﹁大野既猪﹂とあり︑孔氏の注に︑

﹁馬云く︑水の停る所にして深き者を錯と日う﹂とある︒明都は今

の河南省の東部︑山東省の堺に近い所にある商丘市の北東十五キロ

ぐらいの所にあった澤である︒これも現在はもう存在しない︒現在

謂う所の廃黄河の流域に出来た澤だったのであろう︒﹃爾雅・緯地﹄

に十藪についての記述がある︒﹁魯に大野有り︒督に大陸有り︒秦

に楊跨有り︒宋に孟諸有り︒楚に雲夢有り︑呉越の間に具厘有り︒

齊に海隅有り︑燕に昭余那有り︒鄭に圃田有り︒周に焦護有り﹂と

ある︒この孟諸について郭瑛の注は︑﹁今梁國唯陽縣の東北に有り﹂

とする︒﹁索隠﹂の記述と同じである︒唐代にはまだ明都は存在し

ていたのである︒

 ﹃爾雅・騨地﹂は豫州について︑﹁河南を豫州と日う﹂とし︑郭

瑛は︑﹁南河自り漢に至る﹂と注する︒漢とは漢江のことであろう︒

漢江は上流は上維あたりに源を発してはじめは丹水という名を持ち

後均縣あたりで酒水と合流し︑そのあたりから漢江と呼ばれ嚢陽を

経て南流し雲夢の澤中を経て武漢に至るのである︒しかしこのあた

りはもともと荊州の地とされており豫州はそれより北東に当る地域

であろうと思われる︒

 ﹃呂覧﹂には︑﹁河︑漢の間を豫州と爲す︒周なり﹂とある︒﹃爾

雅﹄に於ける郭瑛の注とほぽ同じである︒ただ周は後の西安︑宗        一二 周︑及び後の錐陽︑成周を中心とした国であるから豫州は正確には もう少し東にづれていると考えた方がよいかもしれない︒﹁呂覧﹄ についての高誘の注は︑﹁河は北に在り︑漢は南に在り︑故に之を 間と日う﹂と極めておおらかである︒  ﹃周薩﹄には︑﹁河南を豫州と日う︒其の山鎭を華山と日い︑其 の澤藪を圃田と日う︒其の川は榮維︑其の浸するは波淺﹂とある︒ その鄭氏注には︑﹁華山は華陰に在り︒圃田は中牟に在り︒榮は禿 水なり︑東垣より出でて河に入る︒決して漿と爲る︒榮は漿陽に在 り︒波は讃みて播と爲す︒禺貢に日く︑榮播既に都︒春秋傳に日 く︑楚子除して梁瑳に道びき︑軍を螢して随に臨む︒則ち涯は剰州 に属す宜し︒此に在るは非なり﹂とある︒華山は現在陳西省内で︑ 山西省︑河通省との省さかいに近い滝関︑華陰の南方約十五キロの 所にある︒中牟は鄭州の東約三十キロ附近にある︒圃田は前掲﹃爾 雅﹂の十藪の一つに︑﹁鄭に圃田有り﹂とあるそれである︒その郭 瑛の注には︑﹁今漿陽中牟縣の西︑圃田澤是れなり﹂とあるが郭瑛 は六朝督の人であるからその頃まだ圃田は存在したであろうがいま はない︒﹃尚書・宙閂貢﹄では螢を澤の名とするが︑﹃周礎﹂では川の 名とする︒前に挙げた後漢末の鄭玄の注には︑榮について︑﹁今塞爲 平地﹂とあった︒いま同じ鄭氏の注に︑﹁榮︑禿水也︒出東垣︒入 干河︒決爲榮︒榮在螢陽﹂とあるがこれは矛盾している︒恐らく

﹁平地﹂というのは湿地帯で全く水がなくなった状態ではなかった

のであろう︒それが鄭氏をして更に﹁決爲漿︑榮在榮陽﹂と言わし

めたのであろう︒鄭氏がいまここに言う褒水とは︑前の流州の項に

Page:4

無断転載禁止。 

(5)

述ぺた如く沸水のことであり︑それはまた濟水のことである︒この

濟水は大野の澤を湖って鄭州市のあたりにまで到る︒榮陽はその北

西三十五キロのあたりであるからその附近に濟水の渓流した結果出

来た榮澤があってもおかしくはない︒しかしいま﹃周穫﹄の鄭氏注

にその名が見える東垣というのは河水を北に越え︑更に大陸の沢も

北に越えた現在の石家荘の附近である︒そこは濟水とも螢陽とも全

くかけ離れた地である︒そしてこの辺りは︑榮水に当ると思われ流

れは︑庫池河︑滋水など以外にはない︒しかしその庫池河︑滋水も

合流してそのまま東流し︑勃海へ注ぐのであって︑河へは入らない

のである︒よってこの東垣というのは鄭氏の錯誤であろう︒維とは

洛水のことである︒また鄭氏の注は︑瑳は剰州に属すものであり豫

州に入れるのは非であるとしている︒しかし涯は瑳水のことであ

り︑鄭氏が指摘するように剤州南陽郡にあり︑それは︑鄭氏が引用

する﹃左伝﹂にもその名が出る随縣を流れるのである︒所謂豫州に

は瑳と呼ばれる流れは存在しないのである︒宋毛晃﹃禺貢指南﹂に

は︑﹁河南は其の氣著しく密なり︑蕨の性安じて箭たり︒故に豫と

日う︒豫は箭なり﹂とある︒また︑﹁澤名に日く︑豫州は九州の中

に在り︑京師の東︑常に安豫なり︒秦は三川郡と爲し︑漢は河南郡

と爲し︑後魏は司州を置いて︑又た豫州に改む︒﹂とある︒また︑

﹁督地理志に︑豫州は按ずるに禺貢は荊河の地と爲す︒豫は静な

り︒言は中和の氣性理なるを稟け︑安野なり︒春秋元命萄に云く︑

鉤鈴星は別れて豫州の地の堺となる︒西は華山より東は准に至る︒

北は濟より南は剤山を界とす﹂とある︒豫は﹃説文﹂に︑﹁象の大 なる者なり︒貫侍中の説は︑物を害せざる﹂とあり︑静について

﹃説文﹂は︑﹁伸なり﹂とする︒﹃易﹂の豫について馬融の注には︑

﹁楽なり﹂と見えるし︑﹃爾雅・稗話﹂には︑﹁豫は寧緩︑康柔にし

て安すきなり﹂とある所から豫が箭と通ずとされたのであろう︒

 全体的に整理してみるとこの豫州は最も畿域に近い所でありなが

らその区劃は最も暖昧である︒北は河を堺とするが︑それも説解に

よっては河を越えて北方に堺を設定しているものもあれば︑濟を堺

とするものもある︒また東は大野沢︑梁山にまで至るようであるが

その所は衰州と重っている︒西は殆ど明確な堺は提示されていな

い︒また南は剰山ということになっているが︑豫州についての解説

には︑河にそった沿岸については詳しいが南の剤山附近についての

記載は全くといっていいほどない︒それはその時々の勢力の伸縮に

したがって︑それぞれの州域もその都度伸縮して考えられていたか

らであろう︒その意味からは辺境の地よりも中央に近い所の方が一

層その地域の確定は困難であったと言えるかもしれない︒

   8 禦 州

 ﹁本紀﹂に︑﹁華の陽黒水惟れ梁州︑波︑幡既に薮たり︒沽︑淳

既に道びかれ︑察︑蒙旅平し︑和夷は績に底る﹂とある︒﹁集解﹂

に︑﹁孔安國日く︑東は華山の南に擦り︑西は黒水に距つ﹂とある︒

即ち梁州とは華山の南から黒水に至る東西に広がった地域というこ

とである︒﹁正義﹂に︑﹁括地志に云く︑黒水の源は梁州城固縣の西

北太山より出ず﹂とある︒華山は演関の南西二十キロにある︒城固

       ニニ

Page:5

無断転載禁止。 

(6)

は現在陳西省の南西部漢中の北東約二十五キロの所にある︒黒水と

はいま黒河と呼ばれている流れであろうか︒秦嶺山脈の西端がその

水源である︒太一山︑或いは太白山と呼ばれているのがこの﹃括地

志﹂にいう所の太山であろう︒﹁汝︑幡﹂について﹁集解﹂は︑﹁鄭

玄日く︑地理志に︑眠山は蜀郡湖氏道に在り︒幡家山は漢陽の西に

在りと﹂︒この部分﹃尚書・禺貢﹂には波ではなく﹁眠﹂となって

いるのである︒眠山はは現在甘粛省と四川省との堺に横たわる山脈

で︑その南︑百キロあたりにある松藩か揃氏道附近である︒この眠

山の南に源を発する河川が眠江と呼ばれ︑これは長江へつながる川

である︒漢陽は現在貴州省北西の威寧舞族回族苗族自治県のあたり

であろう︒しかしこのあたりに幡家山というのはない︒幡家山は西

の西安三百キロあたり︑現在の天水市の南にあるが︑ここにいうの

は恐らくそれではあるまい︒﹁索隠﹂には︑﹁汝は一に眠に作る︒又

た蚊に作る︒岐山は封輝書に一に漬山と云い︑蜀都揃氏道の西の徴

に在り︑江水の出る所なり︒幡家山は髄西西縣に在り︑漢水出ずる

所なり﹂とある︒岐山というのは恐らく現在の四川省茂波先族自治

県のあたりで︑いまの九項山がそれに当るのではなかろうか︒成都

から北約百キロである︒蚊は一に眠に作るとする所から或いはこれ

が眠山かもしれない︒ただそうすると茂波先族自治県からは少し離

れすぎている︒しかし﹁在蜀都揃氏道西徴﹂という表現には合う︒

﹁正義﹂には︑﹁括地志云く︑眠山は眠州溶樂縣の南一里に在り︑

連蘇として蜀二千里に至り︑皆眠山と名づく︒幡家山は梁州金牛縣

の東二十八里に在り﹂とある︒そもそも﹁萬貢﹂に蝦とあるのを        一四

﹃吏記﹄には波とあるのは何故であろうか︑単なる音通による通假

なのか︑或いは伝世過程で鋤振なのか︒司馬遷の見た﹁萬貢﹂は

波となっていたのであろうか︑或いは眠となっていたのを波と改め

たのであろうか︒﹁索隠﹂に言う﹁一作眠︑又作岐﹂とは﹁萬貢﹂

のことなのか︑或いは﹃史記﹂の一書という意味なのかいづれも定

かではない︒強いて一つの可能性を探るとすれば眠山以外に蚊山と

称する山があったのではないかという事である︒眠山は余りに広範

囲に亘る為にその一番南東部分の山塊を波︑或は岐と呼んだのかも

しれない︒それが眠と並んで通称されるようになったのであろう︒

故に﹁茂波先族﹂や﹁波川﹂という地名で今も残る所以であろう︒

﹁宙円貢﹂には︑﹁眠山は江を導びき︑東に別れて泊となり︑又た東

して濃に至り︑九江を過ぎりて東陵に至り︑東して蓮に北して歴に

舎し︑東して中江と爲り︑海に入る﹂とある︒いまその流れをその

まま地理的にたどることは出来ないがほぽ揃水の流れをたどってい

るようである︒また幡家について﹁禺貢﹂は︑﹁幡家より濠を導び

き︑東流して漢と爲り︑又た東して濾浪の水と爲り︑三渡を過ぎて

大別に至り︑南して江に入り︑東して歴に入り澤となり彰姦と爲り︑

東して北江と爲り海に入る﹂とある︒漢水は漢中郡で褒水︑酒水︑漢

水が合流するのであるが︑そのうち漢水の源と︑西漢水との間にあ

る山が幡家といわれるものであろう︒黒水について﹁禺貢﹂は︑﹁弱

水を導びき黒水を導びき︑三危に至り︑南海に入る﹂とある︒しか

しこの黒水は南海に入るという︒つまりこれは﹁黒水惟梁州﹂の黒

水とは異るようである︒固城の北を流れる黒水は南海には入らず︑

Page:6

無断転載禁止。 

(7)

漢水となり︑長江に入って東海に入るのである︒﹁浩︑澤﹂につい

て﹁集解﹂は﹁孔安國臼く︑泊︑漕は源を此の州に讃して︑荊州に

入る﹂とする︒澤は﹁萬貢﹂では潜とする︒荊州の条であげた如

く︑鄭玄は︑﹁水は江より出で.て沽と爲り︑漢は淳と爲る﹂といっ

ているようにそれぞれ江水︑漢水の支流である︒﹁察蒙﹂について

﹁集解﹂は︑﹁孔安國日く︑繋︑蒙は二山の名なり︒山を祭るを旅

と日う︒平は治功の畢るを言うなり︒鄭玄日く︑地理志に︑察︑蒙

は漢嘉縣に在り﹂とある︒漢嘉縣は︑現在四川省成都の西南百キロ

ぐらいの所にあった︒いまはそこに耶峡山という山が横たわってい

る︒その山塊の一つが蒙山であり︑また一つが察山なのであろう︒

﹁索隠﹂には︑﹁此れ徐州の蒙に非ず︑蜀郡青衣縣に在り︒青衣は

後に改められて漢嘉と爲す︒察山は在る所を知らざるなり︒蒙は縣

の名﹂とある︒漢嘉は現在の耶峡の南西約三十キロの所にある︒鄭

玄注によれば察も蒙も漢嘉に在るというから極く近隣の山であろう

と想像される︒﹁正義﹂には︑﹁括地志に云く︑蒙山は雅州嚴道縣南

十里に在りと﹂とある︒雅州は漢嘉の近く北東五十キロの地点であ

る︒この地名には東漢以前にはない︒﹁和夷﹂について﹁集解﹂は︑

﹁馬融日く︑和夷は地名なり﹂とするが詳かではない︒

 ﹃爾雅﹄の九州には梁州という州域はない︒ ﹃呂寛﹂の九州にも

梁州という州域はない︒﹃周薩﹄の九州にも梁州という州域はない︒

﹃禺貢指南﹄には︑﹁爾雅に梁︑青無し︒幽︑螢︑徐有り︑蓋し爾

雅の九州は商の制なり︒商の時︑梁州は或いは擁に井せらるなり︒

周穫職方氏にも徐梁無く︑幽科有り︒蓋し周亦た梁を井して擁に 饒するなり︒周の西南に州を置かず︒坤維より西を以つて擁に統 じ︑南を以つて荊に統ず︒漢武帝擁を改めて涼と日い︑梁を改めて 盆と日う︒梁の東北︑擁の東南は︑華を以つて畿とす︒督太康地記 に云く︑梁とは︑西方金剛の氣彊梁なるを言うなり︒故に因りて之 に名ずく︒.秦は漢中郡と爲り︑後に其の地蜀に入り︑魏末には蜀は 分れて廣漢︑三巴︑渚陵となり︑北の七郡を以つて梁州と爲す︒梁 の武帝の大同中に復た移りて南鄭に在り︒督の地理志︑春秋元命芭 に云く︑参伐流を盆州と爲す︒盆はこれ言を爲すは随なり︒其の在 る所の地険胴なるを言うなり︒亦た日く︑彊壌にして盆大なりと︑ 故に以つて名づく︒又た日く︑梁とは︑西方金鋼の気彊梁なるを言 う︑故に因りて名づくなり﹂といづ︒しかし﹃禺貢﹂の成立は戦国 期ぐらいまで降るであろうから︑﹃周橦﹂は周の制︑﹃爾雅﹄は股の 制︑﹁萬貢﹄は段以前とは直線的にはつながらないであろう︒また

﹁梁者︑言西方金剛之氣彊梁︑故因名之﹂と言っ.ているが︑これは

つよいという意味の﹁彊梁﹂の梁より︑恐らく両地をかけわたすと

意味のはりの梁の方に関係があろう︒しかしこの記述は各時代に於

ける州域の変遷の一端を詳しく述べて輿味深い︒

 以上まとめて見るとこの梁州とはあまりはっきりとその州域を確

定出来かねる恨みがある︒﹂即ち黒水が比定出来ないというのは最大

の難点である︒更に華と言われている華山は寧ろ豫州に入る地域で

あると思われる点など不明なことが多い︒しかし梁州を設けている

本意はどうももっと西の地域を夏華の領域に取込む為であるように

思われる︒よって梁州の中心は眠山︑幡家山︑浩︑溜などの地方で

       ご耳

Page:7

無断転載禁止。 

(8)

あり︑究極的には更にもっと西方の未知の地域も包含しようという

意図がそこには働いているように思われる︒それが黒水というよう

な想像上の河水の登場にあらわれているのではなかろうか︒

   9︑姦 州

 ﹁本紀﹂に︑﹁黒水︑西河は惟れ擁州︑弱水は既に西し︑淫は漏

柄に属す︒漆︑温は既に從い︑濃水同じくする所︒荊︑岐已に旅

し︑終南︑敦物は鳥鼠に至る︒原隔は績に底して︑都野に至る︒三

危既に度し︑三苗大いに序す﹂とある︒﹁集解﹂に︑﹁孔安國日く︑

西は黒水を距て︑東は河に擦る︒龍門の河は翼州の西に在り﹂とあ

る︒前項梁州の黒水は秦嶺山脈の西端にその源を発する現在の黒河

に当るかどうか︑猶お疑問として提示したが︑ここに言う黒水がや

はり梁州に言う同じ黒水を指しているかどうかは判然としない︒も

し異るとしても︑それが何処にあるか︑それも確定し難い︒孔安国

は︑東は河に拠っており︑その河とは龍門の河であると言っている

らしい︒それに依るとすれば龍門は︑現在の山西省と陳西省の省

堺︑河東の北西十キロ附近にあるから﹁本紀﹂にある西河とは︑黄

河か蘭州で大きく北流し︑燈口で東流し︑呼和浩特の南八十キロの

托克托附近で大きく南流に転じる所から︑風陵渡でこんどは東流に

転ずる地点あたりまでの黄河を指すのであろう︒これは確かに最初

の項にあった翼州の西の堺である︒﹁索隠﹂には︑﹁地理志に︑盆

州︑演池に黒水祠有り︒鄭玄地説を引きて云く︑三危山︑黒水は其

の南より出ずと﹂とある︒盆州の潰池は現在の雲南省の省都昆明の        :ハ すぐ南撫仙湖と並んで手前にある方の湖である︒このあたりと龍門 を中心とする流域とはあまりにもかけ離れすぎている︒そこに例え 黒水祠と言われるものがあったとしてもそれはここζ言う薙州の黒 水とは全く別物であろう︒三危山はあの莫崩窟で有名な敦嬢の西五 十キロ附近である︒黒水がこの南から流れるというのであれば︑そ れが東流してそのうち黄河に合流し︑そのあたりが擁州の西の堺で あるという可能性も考えられないことはないが︑しかし︑三危山附 近の川は殆んど尻無し川でその流れも一定したものではなく︑何よ りもその流れそのものが常に存在しているという訳のものでもない らしい︒そうするとそうした不安定な流れに依拠して州堺を提示す るということはありえないとも考えられるし︑また三危山附近と龍 門黄河とは︑これもやはりあまりにも離れすぎていよう︒ここにい う黒水は或いは想像上の河水を言っているに過ぎないのかもしれな い︒当時の古代漢民族の地理認識を考えて見れば︑まだそこまでは 把握しきれてはいまい︒また﹃山海経﹂には﹁黒水は覚嵩壇の西北 の隅より出ず﹂とある︒現在︑箆蕎山と名づけられた山脈は存在す るが古代漢民族にとっての毘籍山は西王母伝説に彩られた想像上の 聖山であって現実のものではない︒この点からも黒水はどうも実在 しなかったもののようである︒弱水について﹁集解﹂は︑﹁孔安國 日く︑之を導びきて西流し︑合黎に至る︒鄭玄日く︑衆水皆な東 す︑此れ濁り西流するなり﹂とある︒現在弱水と呼ばれる流れは存 在し︑甘粛省の北端︑唖順諾ホ︑蘇古諾ホという二つの湖から流れ

出す川であり︑南流して合黎山に至っている︒そしてその川は更に

Page:8

無断転載禁止。 

(9)

南流し︑那連で左右に分れ︑右するもの即ち西流するのがいま黒河

と名づけられている︒しかし弱水はこれも実は本来箆嵩山に至る為

に渡らねばならない想像上の神秘な川である︒ただ後漢の末︑鄭玄

の時代になると︑西方についての知識も豊富になり︑その名称とそ

の実物実態も少しずつ整理されて来たことが︑その注によって解

る︒しかしその注解には黒水或いは黒河と弱水は混同されているよ

うにも見うけられる︒また﹁索隠﹂には︑﹁按ずるに︑水経に云く︑

弱水は張披㎜㎜丹縣の西北より出でて︑酒泉會水縣に至りて合黎山腹

に入る﹂とある︒ここに言う﹃水経﹄は﹃水経注﹄も含んでいるの

であろうが三国期︑或いは蒼人の撰とされている︒﹁水経﹄では弱

水は可成り明確に比定されているようではあるが︑張披という地名

は王弄以後である点から考えてみても︑この﹃水経﹂の弱水をその

まま﹁禺貢﹂の弱水と考えるのは些か騰曙される︒﹃山海経﹄に︑

﹁弱水は毘蕎壇の西南の隅より出ず﹂というのは︑黒水の所で述ぺ

た如く︑伝説の域を出るものではない︒﹃山海経﹄は秦漢の際に撰

されたものであり︑未だ西方の地理はさほど明らかにはされていな

かったであろう︒﹁淫属潟柄﹂について﹁集解﹂は︑﹁孔安國日く︑

属は逮ぷなり︒水北するを柄と日う︒浬水を治めて涌に入るを言う

なり﹂とある︒ここにはまだ地理学的説解はない︒鄭玄の注には︑

﹁地理志に︑淫水は安定の淫陽より出ず﹂とある︒安定とは現在の

西安の北西百八十キロ附近で︑淫水と泥水が合流するあたりで︑こ

の辺はまだ浬水の源ではない︒﹁索隠﹂には︑﹁沼水は首陽縣の鳥鼠

同穴山より出ず﹂とある︒潟水の源は︑現在でも潤源という地名が 残っており︑髄西の西五十キロのあたりである︒そのことを﹁正 義﹂は︑﹁括地志云く︑淫水の源は原州百泉縣の西南舞頭山の浬谷 より出ず︒沼水の源は精州の沼原縣の西七十六里︑鳥鼠山より出 ず︒今青雀山と名づく︒精に三源有り︑並に鳥鼠山より出で東流し て河に入る︒按ずるに︑浬水を理めて椙一水に至るに及ばしめ︑又た 漆︑混を理め亦た精より流し︑復た濃水を理め︑亦た同じく精に入 らしむる者なり﹂とある︒淫水の水源は︑六盤山︑腔胴山附近で今 も浬源という地名が平涼の西四十キロの所にある︒﹁禺貢﹂の後文 に︑﹁潤を鳥鼠同穴より遺びきて︑東し濃に會し︑又た東北して浬 に至り︑東は漆︑沮を過ぎりて河に入る﹂とある︒﹁精有三源﹂と は︑淫水︑精水︑濃水を指しているのであろう︒漆︑沮は小河であ り︑ここには入っていないものと思われる︒この漆︑温について

﹁正義﹂は︑﹁括地志に云く︑漆水の源は岐州普潤縣東南の妓︵漆︶

山漆漢より出でて︑東して沼に入る︒沮水は一に石川水と名づく︑

源は擁州富平縣より出で︑東して機陽縣の南に入る︒漢高帝は櫟陽

に萬年縣を置く︒十三州志に云く︑萬年縣の南に淫︑潰有り︒北に

小河有り︑印ち沮水なりと︒詩に云う︑古公那を去り漆︑沮を度る

と︑印ち此の二水なり﹂という︒漆︑沮の二水はいづれも小河であ

り︑いまはっきりとは比定出来ないが︑今岐山から流出して楊陵で

沼水に流れ込む河として漆水河があり︑また照金を源として耀縣を

経て沼南の西で椙水に合流する川として石川河の名が残っている︒

ただ櫟陽︑萬年は現在の漏南の北二十五キロあたりである︒﹃詩経﹄

に云うのは﹁大雅・文王之什・縣﹂で︑﹁縣孫瓜腿︑民之初生︑自

       一七

Page:9

無断転載禁止。 

(10)

土温漆︑古公宜父︑陶復陶穴︑未有家室﹂である︒那とは薗地のこ

とである︒ ﹁毛伝﹂に﹁自は用︑土は居なり︒温は水︑漆も水な

り﹂とある︒周文王の祖太王古公宜父が鰯にいた頃は︑秋人がしぱ

しば侵入したので︑古公は遂に民を率いて温水︑漆水のほとりに遷

り住むようになったことをうたっている︒尤も現代の注釈家高亨

は︑﹁自土沮漆﹂に︑﹁土は読みて杜と爲し︑古水の名のり︑幽地に

在り︒温は借りて但と爲なり︑往なり︒漆は古水の名︑岐山区域に

在り︒自杜担漆とは即ち繭地より岐山へ往くなり﹂と注して毛伝の

注とは少し異る︒また漕水についても︑詩の﹁文王有聲﹂に﹁豊水

の東して注ぐは︑維れ萬の績なり︒四方の同じうする牧ろ︑皇王維

れ辞とせり﹂とあり︑﹁毛伝﹂に︑﹁績は業の皇大なるなり︒嚢に云

く︑績は功︑辞は君なり︒昔し尭時洪水ありて豊水亦た氾濫し害を

爲す︒萬これを治め沼に入らしめ︑東して河に注かしむるは萬の功

なり﹂とする︒高亨は更に︑﹁豊は地名︑今陳西長安西北の濃水以

西に在り︒原と崇國の在る所なり︑文王崇を滅ぼし︑此に豊城を建

て︑並に岐より都を此に遷す﹂と注する︒即ちこの豊水は澄水のこ

とである︒豊城とは現在の西安の東五十キロにある豊鎭あたりであ

ったろう︒﹁集解﹂に︑﹁孔安國日く︑漆︑沮の水已に從いて精に入

る︒濃水は同じくする所︑精に同じなり﹂とある︒孔安國は沼水と

澄水は同じであるとする︒﹁索隠﹂には︑﹁漆︑沮二水︑漆水は右扶

風漆縣の西より出ず︒沮水は地理志に文無く︑水経は油水の北地直

路縣より出で︑東して潟翅殻醐縣を過ぎて洛に入るを以つてす︒説

文亦た漆︑沮を以つて各是れ一水の名とす︒孔安國糧り以つて一と        一八 爲し︑又云う是れ洛水と︒濃水は右扶風郭縣の東南より出で︑北は 上林苑を過ぎる﹂とある︒これによって漆︑沮︑澄については古来 多くの説あることが解る︒特に︑濃と精は同じ︑或いは濃と洛は同 じというのが目を引くが︑司馬貞の云う︑﹁濃水出右扶風郵縣東南︑ 北過上林苑﹂の濃水は︑中古には子午関に源を発して威陽近郊で沼 水に合する川が濃水と名づけられておりそれを当てたのであろう︒・ しかしその濃水はあまりに小河川であり︑孔安国以前には或いは更 に小河川であったか或いは流れをなしていなかっ.た可能性もあり︑

﹁所同﹂を同河川の意味にとるのも肯首出来る︒﹁剰︑岐已旅﹂■に

ついて孔安国は︑﹁荊は岐の東に在り︑荊州の荊に非ざるなり﹂と

言う︒刑州の荊山はあまりにかけ離れすぎているからである︒﹁正

義﹂に︑﹁括地志に云く︑刑山は薙州富平縣に在り︑・■今掘陵原と名づ

く︒岐山は岐州岐山縣の東北十里に在り﹂とある︒岐山はいま宝鶏

市の北東約七十キロの所に有る︒﹃尚書正義﹂に︑﹁已旅祭す︑とは

水を理めるの功畢るを言うなり﹂とある︒また﹁集解﹂は︑﹁按ず

るに︑.薙州の荊山は印ち黄帝及び禺の鼎を錆する地なり︒嚢州の荊

山縣の西の剤山は印ち†和玉瑛を得るなり﹂とある︒また﹁終南︑

敦物至子鳥鼠﹂について﹁集解﹂は︑﹁鄭玄日く︑地理志に︑終南︑

敦物皆な右扶風の武功に在るなり﹂とある︒武功は西京の西五十キ

ロのあたりである︒終南山は西京に最も近く︑西京の西二十五キロ

附近である︒﹁索隠﹂には︑﹁按ずるに︑左樽の中南山を杜預は以つ

て終南山と爲す︒地理志に云く︑太一山は古文は以つて終南と爲

し︑垂山は古文は以つて敦物と爲す︒皆扶風武功縣の東に在り﹂と

Page:10

無断転載禁止。 

(11)

する︒これを裏づけるように﹁正義﹂には︑﹁括地志に云く︑終南

山は一名中南山︑一名太一山︑一名南山︑一名橘山︑一名楚山︑一

名秦山︑一名周南山︑一名地肺山︑薙州萬年縣の南五十里に在り﹂

とある︒終南山という言い方は班孟堅の﹃雨都賦﹂などに見られ︑

また張平子の﹃西京賦﹂には﹁終南太一﹂と記され︑醇綜は二山の

名と注七ている︒一山であっても見る方向による土地によってそれ

ぞれ呼び方が異る為にこのような多くの呼称を持つよ︐つになったの

であろう︒一﹁都欝﹂について﹁集解﹂︑﹁鄭玄日く︑地理志に都野は

武威に在り︑名づけて休屠︒澤と日う止﹂■とある︒武威は現在の西宇

の北百七十キロの所︑休屠澤は現在の紅崖山水ダム■のあたりであろ

う︒砂漠地帯である︒﹁原曝﹂について﹁正義﹂は︑■﹁幽州の地な

・り︑按ずるに︑原は高くして平地なり︒隔は低く下る地なり﹂とい

い︑また﹁原隔底績﹂については︑﹁溜州より功を致し︑西北は涼

州都野︑沙州三危山に至る董言うなり﹂といい︑禺の功の事跡を述

ぺたものである︒﹁三危既度﹂について﹁索隠﹂は﹁﹁鄭玄河圓及び

地説を引きて云く︑三危山は鳥鼠の西南に在り︑岐山と相い連な

る︒度舛劉伯荘は音を田各の反とし︑尚書は宅に作る﹂とする︒

三危山には既に人が住んでいるという意味である︒■﹁三危既度︑三

苗大序﹂について﹁集解﹂は︑﹁西蕎の山は已に居す可意なり︒三

苗の族大いに次序有るは萬の功なり﹂と解説七ている︒これは﹃書

・莞典﹂の︑﹁共工を幽州に流し︑駿兜を崇山に放ち︑・三苗を三危

に窟し︑鰯を羽山に極す﹂■の三危に鼠された三苗の記述を継いだも

のであるか︑或いはこの﹁萬貢﹂の記述を受けて﹁莞典﹂での記述 が生れたものである︒  ﹃爾雅﹂には︑﹁河西を雛州と日う﹂とあり︑郭注は︑﹁西河より 黒水に至る﹂とある︒この黒水があまりはっきりしないということ は前に述べた通りである︒河西は黄河の北流から東流へ移り︑次に 大きく南流するそのラインの西側ということである︒  ﹃呂覧﹂には︑﹁西方を薙州と爲す︒秦なり﹂とある︒ここに言 う西方とは︑河西のことである︒  ﹁周檀﹄には︑﹁正西を薙州と日う︒其の山鎭を嶽山と日い︑其 の澤藪を弦蒲と日う︒其の川は浬涌︑其の浸するは精洛﹂とある︒ 注に︑﹁嶽は呉嶽なり︒弦蒲は研に在るに及び︑浬は浬陽より出ず︒ 滴は幽地に在り﹂とある︒呉嶽は後の呉山であろう︒現在の宝鶏市 の北二十キロのあたりである︒弦蒲は弦蒲藪といわれ上古は沢藪で あったのが中古にはもう消滅したものである︒場所は冴水に沿った 研縣の北西三十キロぐらいである︒浬陽は現在の平涼の南西十五キ

ロにある︒翻は後に那と書かれるようになった所で浬水の上流にあ

る後の現在の林縣が那州である︒

 以上まとめてみると擁州は張平子の﹃西京賦﹄に︑﹁秦は擁に擦

して彊く︑周は豫に即きて弱し﹂の句に見られるごとぐ古来非常に

豊かな土地として知られていた︒その李善の注にも︑﹁按ずるに薙

州は豚の土惟れ黄壊︑蕨の田惟れ上上︑是れ沃土なり︒故に云く︑

秦は擁に擦りて彊しと︑高租は西に都して泰し﹂とある︒ここは土

地が肥沃であるばかりでなく︑西は屈呉山︑華家嶺︑鳥鼠山︑岐

山︑眠山︑南は秦嶺山脈を背景とした︑太白山︑首陽山︑終南山︑

       一九

Page:11

無断転載禁止。 

(12)

困山︑東は老君山︑熊耳山︑幡山︑華山︑中条山︑北は六盤山︑子

午嶺︑呂梁山︑穰王山などにスッポリと囲まれた要害の地である︒

北は割合なだらかな山地ではあるが︑その北は荒涼峨峨たる砂漢と

巖塊の果しなく連なる地形で北秋の侵入を見事に防いでいる︒こう

した恵まれた地形に与って︑ここは州域こそそう広くはないが所謂

黄河文明生誕の地となり︑中原では最も早期に安定した農業国家を

造り上げた天命授命の国︑周王朝が栄えた地である︒﹃萬貢指南﹂

はその辺の所を︑﹁李巡日く︑河西は其の氣蔽塞︑豚の性急凶︑故

に擁と日う︒擁は璽なり﹂﹁地理風俗記に日く︑漢武帝元朔三年に

薙を改め涼州と日う︒其の金行土地寒涼なるを以つての故なり︒後

漢戯帝の薙を改め涼と日うを以つて︑又た酒川河西郡を分けて擁州

と爲し︑建安十八年に至つて復た改めて涼州と爲す︒督の地理志

に︑薙州は其の四山を以つてするの地なり︑故に擁を以つて名と

す︒亦た西北の位は陽の及ばざる所にして陰陽の氣薙閥なるを謂う

なり︒輝名に日く︑擁は購なり︒東は曙︑西は漢︑南は商︑北は居

庸︑四山の擁購する所なり﹂と説明している︒要するに薙州は歴吏

的に東アジア文明の中心︑中原の最も発展した中枢の地であったこ

とは異論がない︒ 二〇

萬     貢 呂氏春秋 爾雅

︵郭婁注︶

周憩職方氏

雨河之間 雨河間 河内 ︶山壷口・梁・峻・岳 ︵自東河

1少

︵ ︶山蟹山

至西河︶

︵︶

澤揚紐︵

翼 ︶川溝

︵ ︶川清

︵︶

浸扮・瀦︵

︵濟河︶ 河濟之間 濟河間 河東

¶1少

︵自河東 ︶山岱山

︶澤雷夏 至濟︶

︵︶

︵︶ 澤犬野︵

尭 ︶川河沸

︵︶

浸慮・維︵

︵海岱︶

東方 正東

1¶4

︶山岱・喝夷

︵ ︶山折山

︵︶

澤望諸︵

青 ︶川離・漕

︵ ︶川潅・酒

︵︶

浸折・沈︵

︵海岱及准︶ 酒上 濟東

■十

︶山岱 ︵白濟東

︵︶

澤犬野︵

至海︶ 魯 徐 ︶川准・折

︵︶

原東原︵

Page:12

無断転載禁止。 

(13)

︷ ¶ ク

− ︷ ク

山 弗

π

¶ リ

象 垂

− 州

梁 貢

︵潅 海︶

︶ 謡彰藪・震 x 川三江 ︵

︵剤及衡陽︶

︶ 山剤・衡 X 澤雲曹 x 川江・漢・九江・浩・潜 ︵

︵剤河︶ ︶ 山剤 x 澤漿波・蒲澤・孟猪

x

川河・伊・洛・濾・潤 ︵

︵華陽黒水︶

︶ 山華・眠・幡・蒙・蒙 ︵

︶ 川黒水・沽・瘤・和 ︵ 呂氏春秋 東南 南方

河漢之間 爾雅  ︵郭蓑注︶ 江南

︵自江南

 至海︶ 漢南

︵自漢南 至 衡山之陽︶

河南

︵白南河

 至漢︶ 周檀職方氏 東南

︶ 山會稽

x

澤具厘 x 川川江 x 浸五湖 ︵ 正南

︶ 山衡山 x 澤雲夢 x 川江・漢 x 浸頴湛 ︵ 河南

︶ 山華 x 澤圃田 x 川漿雛 x 浸波灌 ︵ 貢

︵黒水西河︶

︶ 山剤・岐・終南・惇物鳥 ︵   鼠

︶ 川黒水・河・弱水・淫・ ︵  潟柄・漆・沮・澄水 呂氏春秋 西方

秦 爾一録注一 河西

︵自西河

 至黒水︶ 周穐職方氏 正西

︶ 山嶽 x 澤弦蒲 x 川浬涌 x 螂溜洛 ︵ 北方 燕 東北

︵白易水

1■︑

︶山蟹無閻

至北秋︶

︵︶

澤黎養︵

幽 ︶川河沸

︵︶

浸奮時︵

齋 ︵自岱東

1︑■少

至海︶

螢 州

井 正北 ︶ 山恒山 x 澤昭錐祀 x 川岸池嘔夷

x

浸沸易 ︵

二一

Page:13

無断転載禁止。 

(14)

二二

1       −11−︑ !1   ︑︑   1    ︑    ︑

川詠︵s 蝸 N八s

.σ撞

6

︑畿螺

碕E  面  劃州

11−−

1 −

− 圓 劃§

心〆

      漬討       則︑山

酢 輿 凶  9

 ︵勺︶

︶ 酋

.・詰

竜 斗

洲       謀     謹血.  蟄E∴o河  註昌E    削ヨ    Φ剖       崇 蓮聰詩

        欝響

 .洲  洲解§ § 前§    斗肖︵s 照般§ / /

  ⑩鵬耐 駝

通貼昌用苓壁丙片小瑚川替図

Page:14

無断転載禁止。 

(15)

一一一︑■統治と地理露蘭

 ある一つの民族が︑自分達が支配する領域を中心として︑それを

取り巻く外の世界をも包合する形で﹁世界﹂全体を把握しようと考

︐五ることは︑その民族が全体﹁世界﹂を把握する必要性に迫られて

はじめて可能である︒その場合の必要性とは即ち統治の為の必要性

ということである︒神語に於ける神の︑或いは神々の世界に対する

統治性は飽くまで天からのもの︑上からのものであり︑そこには明

確な現実的地理認識が入り込む余地はない︒しかし神話を脱却した

人問達の全体世界支配要求は包括的な地理認識要求と不可分に結び

ついてい名︒︵そしてそれはまたその民族の通史的な歴史認識の必

要性の生起とも略ぽ期を一にしているがいまここではそれについて

は述べない︶

 ﹁古事記﹄や﹃万葉集﹄には多くの地名に糧る周辺で活躍した人

々が登場するが︑彼等は日本の統治支配を前提とす名ような︑大和

民族と関係する全体世界認識の上に立って活躍した訳ではない︒し

かし﹃口H本書記﹂崇峻二年の︑﹁近江臣満を東山道使に遣して︑蝦

夷の國境を観せしむ︒完人臣隔を東海道使に遣して︑東の方海に濱

へる諸國の境を観せしむ︒阿倍臣を北陸道使K遣して︑越等の諸國

の境を観せしむ﹂の記事には政治的な世界認識への行動の崩芽を見

ることが出来る︒また最も政治的安定期であった推古期に於ける聖

徳太子の晴暢帝への書︑﹁日いずるところの天子︑書を︑日没する とてろの天子に致す﹂の文は︑聖徳太子の世界認識の語である︒こ こには極めて具体的な地理認識︑即ち太陽が昇ると没す名という現 実の現象を的確に地上に反映させた上での地理認識がある︒更にそ の認識された世界を自己の価値観の中に完全に包摂している︒この 文が非常に政治的な意味を秘めざるを得ない所以である︒揚帝がこ の信書を見て喜ばなかったのは︑﹁日出所﹂と﹁旧没所﹂ の対比の 仕方の中に太子の夜郎自大的な撤慢さを見たからザけでは力い︒そ れより寧ろ︑東夷の小国の一太子ごときの︑その世界認識の内にい まや世界に君臨すべく統一を成しとげた誇り高き漢民族の大国陪 が︑何故に完全にとり込まれ︑それなりの定まった評価と位置を与 えられてしまっているのか︑という一種の驚惜に近いおののきを覚 えたからであろう︒﹁認識の内に取り込む﹂とは即ち﹁知る﹂とい うことであり︑﹁知る﹂とはたとえ観念の中という限定はあったと しても︑即ち﹁シロシメス﹂ことであり︑﹁統治し︑支配する﹂こ とを意味するからである︒・  日本最初の地理書は︹風土記﹂であろう︒中国のそれとはだいぷ 趣が嘆るが︑それは大和朝廷の勢力執行可能地域全体に対する地方 把握意志に基いている︒その権力の執行可能範囲が大和朝廷自身の 世界であった︒それは大化の改新で蘇我氏という最有力豪族を倒 し︑任申の乱で絶対神君制ともいうべき不可侵の権力を確立し︑更 により蟄固な都城制で守られた平城京に遷都した直後︑大和王権の 最も強大で︑最も安定した時代であうた︒相い前後してもう一方で

は民族としての通史獲得の為の事業︑﹃古事記﹄H日本書紀﹄の編纂

       二三

Page:15

無断転載禁止。 

(16)

撰上が行われていた︒﹁全体世界﹂に対する地理的認識は︑こうし

たある程度整えられた環境の中でこそはじめて醸成されるものなの

であろう︒それにしてもこうした国家としての全体意志よりも百年

余り早く︑聖徳太子が個人としてその人並すぐれた才智によって︑

唐という巨大な国家を含めた世界の中での日本の位置を﹁日没する

国﹂と対置して﹁日出ずる国﹂ととらえ得たことは︑﹁推古紀﹂二

十八年の条の︑﹁是歳︑太子嶋大臣共に議りて天皇記︑国記︑臣連

伴造国造百八十部井せて公民等の本記を録す﹂と合せ考えると︑歴

史認識論的には非常に深い意味を内蔵しているということが理解出

来よう︒

四︑古代漠民族と地理認識

 ﹃呂覧・有始﹂や﹃爾雅・穣地﹄は地名の解釈記事ではあっても

地理書ではない︒﹃尚書・萬貢﹂は地理書である︒とりわけ九州につ

いての記述は︑それぞれの州域に於ける主要な山川沢藪を挙げ︑そ

の土壌の質にまで言い及ぷ外︑その土地からの貢物としての特産物

を記している︒ただ﹁禺貢﹂はその成立年代がはっきりしないか

ら︑これが中国で最古の地理書と言えるかどうかは疑問がある︒し

かしこの書は中原というそれまでの限られた範囲を大きく拡大して

中原より外の世界にまでその把握範囲を広げようという意図が感じ

られることは確かである︒地理書というものが前項に述べた如き環

境下でのみ編纂されうるものとするならぱ︑この﹁萬貢﹂も例外で        二四 はなく︑漢民族がその活躍の場を中原世界を打ち破って更に四方に 足を伸ばし︑そして幾段階かの過程を経て︑ついにここに言う九州 全体をその領域として統治されようとする時代こそが︑その成立の 時代としてふさわしいと言えるであろう︒そういう時代とは戦国末 から秦にかけての時代である︒春秋期はいまだ中原中心の時代であ る︒﹃左氏伝﹂には多くの国が入り乱れ︑戦いとかけ引きを繰り広 げてはいるが︑しかしそれ等の国々全体を統括して認識しようとす る目はまだ見受けられない︒  ﹁九州﹂という語の九は﹃易﹂から来た概念で十までの中で最も        かず 大きい陽の数︑即ち最も大いなる数概念を表わしたものであろう︒

﹃楚辞・天問﹂の︑﹁園則九重︑敦螢度之﹂の九や︑﹃爾雅・釈地﹂

の九府︑漢賦︑六朝賦詩に使われる九の字など枚挙に邊あらずであ

る︒即ち九には実質的な意味はない︒故に九州というのは︑実際に

は九という数に合わせてはいるが︑本来︑八でも九でも十でもよ

い︒結局九州とは全州︑全土︑全国と言った意味と同じなのであ

る︒即ち九は全体を指しており︑九州は全体を総体として認識して

とらえている言葉であるということに注意を払わねばならないとい

うことである︒全域統一の時代それは戦国から秦にかけて以外ある

まい︒  ﹁萬貢﹂の九州には幽州がない︒幽州とは﹃呂寛﹄に見えるよう

に北方︑燕である︒燕は周武王に仕えた召公爽の封ぜられた国であ

り︑召公夷は成王の時に三公の一人となった人物で周公旦とともに

成王を助けた周の重臣である︒そのような重要家臣を封じた国であ

Page:16

無断転載禁止。 

(17)

るから燕は大国であったはずである︒しかしついには太史公が歎く

ように︑﹁燕は外に籔猪に迫まられ︑内に齋と督︑崎姻彊國の閲に       旧ほ 措かれ︑最も弱小と爲り︑幾滅せられとすること敷たび﹂となりは

てるのである︒﹃史記・燕召公世家﹂は︑大国の政治に与かった属

家の世家としては些かその記述は貧弱である︒召公の事跡︑噌の国

を臣子之に譲った話︑喜王が趨を撃って破れた話︑太子丹が荊輌を

始皇暗殺の為に秦に送った話以外は齋替と外交上のトラブル︑など

と殆んど各王の即位記に過ぎない︒﹁十二諸侯年表﹂にも燕につい

だてけは殆んどその記載事項がない︒それは司馬遷が手にした資料

に燕に関するものが少かったからであろう︒その資料は戦国期︑秦

を通じて司馬遷にもたらされたものである︒とりわけ秦代は通吏的

歴史識認を必要としていたであろうから︑それらの資料は恐らく秦

代において蒐集蓄積されたものである︒燕は春秋期から已にあまり

隣接の舜督以外の国々とは交渉を持たなかったようであるし︑戦国

期に於ける動乱の中心である秦からは余りにも離れていた︑燕は秦

にとっては辺境の国である︒もし﹁萬貢﹂が戦国末から秦にかけて

編纂されたとしたら︑そこに幽州︑燕の記述を入れることが蹟踏さ

れたのはそうした事情によるのではなかろうか︒そして更に燕は太

吏公が﹁然るに社稜は血食されること八九百歳︑姫姓に於て獺り後

れて亡﹂んだのであるから秦域からの統治的視野にはまだ入ってい

なかったのかもしれない︒ 五︑ ﹃史肥﹄と九州

 司馬遷はこの﹁萬貢﹂を﹁夏本紀﹂にほぽそのまま取り入れてい

る︒﹃史記﹂の中で﹁夏本紀﹂が他の編に見られない古体を残し︑

特にこの九州についての記述が読解に困難をきたしている所以でも

ある︒夏禺の事績を記す﹁夏本紀﹂にこの﹁禺貢﹂を入れるという

ことは当然ではあるが︑しかし﹃史記﹄全体にとってそのことは小

さな事ではあっても︑実は大きな意味を持っている︒即ち司馬遷は

ここで九州全域を一応限定して提示することによって︑以後それぞ

れの時代に様々な人間が︑多くの情況のもとに活躍するに当って︑

その活躍の舞台を設定してみせたのである︒但しその限られた舞台

を縦横に走り跳びはねるのは漢民族である︒司馬遷が描いたのは漢

民族の歴史であるからである︒時々漢民族以外の塞外の民がこの舞

台に駆け上って来ることはあってもそれは飽くまでエキストラであ

り︑通行人にすぎない︒それでは司馬遷はこの限られた舞台の外は

全く書かなかったのかと言えば勿論そうではない︒例えぱ﹁旬奴列

傅﹂﹁南越列傳﹂﹁朝鮮列傳﹂﹁西南夷列傳﹂﹁大宛列侮﹂などが舞台

  ■   ■   ●       ●   ●   ●

からはづれている人々の記述である︒しかしこうしたはづれという

認識は︑限定された舞台の設定があってはじめて可能なのであろ

う︒つまりはづれているという意識上の認定があってこそはじめて

そのはづれものを深く観察し深く理解することが出来るというわけ

である︒通常の舞台俳優と混同視されていては必ずや見落されてし

      二五

Page:17

無断転載禁止。 

(18)

まうであろう︒

 ﹁夏本紀﹂の記述の多くは﹁五帝本紀﹂の繰り返しか︑後人の政

治理想の反映で︑この地理書としての九州についての記述以外はあ

まり意味がないと︑この拙論の冒頭に記しておいた︒つまり﹁夏本

紀﹂の中ではこの九州について記述のみが﹃史記﹂全体にとつて重

要なのである︒この九州の設定は︑﹃史記﹂という通史の中で︑神

話の時代ではなく︑しかも現実の人間の歴史が始まる以前でなけれ

ばならなかった︒即ちこの﹁夏本紀﹂という場は︑九州の設定にと

って正しく絶妙の位置と言えるであろう︒

 通吏的歴吏認識と︑包括的地理認識とは同時的に想定されるもの

である︒秦という時代はそうした点があまりはっきりと表面には出

て来てないが︑その原初的兆候は見られる︒しかしそういう意味で

の両認識の完成体現者は司馬遷その人以外考えられないであろう︒

       ︵一九九〇年十二月二十五目受理︶ 二六

Page:18

無断転載禁止。 

参照

関連したドキュメント

この事業は、障害者や高齢者、一人暮らしの市民にとって、救急時におけ る迅速な搬送を期待するもので、市民の安全・安心を守る事業であること

5世紀後半以降の日本においても同様であったこ

「文字詞」の定義というわけにはゆかないとこ ろがあるわけである。いま,仮りに上記の如く

しい昨今ではある。オコゼの美味には 心ひかれるところであるが,その猛毒には要 注意である。仄聞 そくぶん

ると,之が心室の軍一期外牧縮に依るものであ る事が明瞭である.斯様な血堅の一時的急降下 は屡々最高二面時の初期,

する愛情である。父に対しても九首目の一首だけ思いのたけを(詠っているものの、母に対しては三十一首中十三首を占めるほ

期におけ る義経の笈掛け松伝承(注2)との関係で解説している。同書及び社 伝よ れば在3)、 ①宇多須神社

Matsui 2006, Text D)が Ch/U 7214