三匹獅子舞の分布
著者 笹原 亮二
雑誌名 国立民族学博物館研究報告
巻 26
号 2
ページ 171‑236
発行年 2001‑10‑22
URL http://doi.org/10.15021/00004061
笹原 三匹獅子舞の分布
三 匹 獅 子 舞 の 分 布
笹 原 亮 二*
The Distribution of Sanbiki Shishimai
Ryoji Sasahara
全 国 各 地 に は獅 子舞 が 分布 して い て,日 本 で 最 も数 が 多 い 民 俗 芸能 とい われ て い る。 日本 の 獅 子舞 は,2人 以 上 の 演 者 で1匹 の 獅 子 を 演 じ る二 人立 の獅 子 舞 と,1人 で1匹 の獅 子 を演 じる一 人立 の 獅 子 舞 に 分 類 され る。 両 者 の違 い は 単 に形 態 の面 に 止 ま らず,二 人立 は 古 代 に 成 立 した 外 来 の 舞 楽 ・伎 楽 系統,一
人立 は 中世 末 か ら近世 初 期 に か け て 成 立 した 風 流 系 統 とい うよ うに,芸 能 史 的 に 異 な る系 統 に属 して い る。
一 人立 の獅 子舞 の ひ とつ に,三 匹 獅 子舞 と呼 ぼ れ る民 俗 芸 能 が あ る。 三 匹 獅 子 舞 は,頭 上 に 獅 子頭 を 戴 き,腹 部 に 太 鼓 を 付 け て1人 で1匹 の 獅 子 を演 じる 演 者 が,3人 一 組 とな って獅 子舞 を 演 じ る もの で あ る。 三 匹 獅 子 舞 は広 域 的 か つ 大 量 な 分布 が認 め られ る。 分布 は,東 日本 に お い て は,静 岡,関 東 甲信 越, 岩 手 を 除 く東 北地 方,北 海 道 と1都1道15県 に 及 び,ほ ぼ 全域 に お い て分 布 が
見 られ,そ の数 は1,400ヶ 所 以 上 に の ぼ る。 一 方,西 日本 に お い て は,江 戸 時 代 に埼 玉 県川 越 か ら伝 来 した と され る福井 県 小 浜 市 に 数 ヵ所 見 られ る の み で あ
る。
三 匹 獅 子 舞 の分 布 の特 徴 と して は,分 布 が 見 られ た 東 日本 に お い て ま ん べ ん な く存 在 して い る の で は な く,粗 密 の ば らつ きが 見 られ,地 域 的 な偏 りが顕 著 で あ る こ と,芸 態 ・呼称 ・上 演形 態 な ど,様 々な 面 に お い て 多 様 性 が 認 め られ る こ と,比 較 的 狭 い地 域 ご とに 独 特 の 類 型 が存 在 す る こ とが 上 げ られ る。
こ う した分 布 の 状 況 か らは,分 布 の 偏 りや 同 じ風 流 系 の 一 人 立 獅 子 舞 で あ る 鹿 踊 との分 布 の棲 み分 け,各 地域 独 特 の上 演 形 態 が 生 じた理 由,東 日本 に お け る2匹 一 組 や4匹 一 組 の一 人立 獅 子 舞 な ど,三 匹 獅 子舞 類 似 の 芸 能 と三 匹獅 子 舞 の 関係,西 日本 に お け る一 人立 の 獅 子 が 登 場 す る芸 能 と三 匹 獅 子舞 との 関係
とい った,新 た な問 題 の 所 在 が 看 取 で きる 。
遺 存 して い る文 書記 録 や道 具類 に よれ ぽ,三 匹 獅 子舞 は 中世 末 か ら江 戸初 期
*国 立 民族学博物館民族文化研究部
Key Words : lion dance, Sanbiki Shishimai, distribution, folk performing arts キ ー ワ ー ド:獅 子 舞,三 匹 獅 子 舞,分 布,民 俗 芸 能
国立民族学博物館研究報告 26巻2号 に か け て姿 を 見せ 始 め,時 代 の経 過 と とも に増 加 し,18世 紀 に は現 在 の分 布 域 ほ ぼ 全域 に お い て所 在 を確 認 す る こ とが で き る よ うに な る。 こ の よ うに,三 匹 獅 子舞 の分 布 の現 状 が歴 史的 に形 成 され て きた も の で あ る とす れ ぽ,前 述 の諸 問題 の検 討 は,単 に分 布 と い う視 角 か ら のみ では な く,歴 史的 文 脈 を踏 ま え て 行 う必 要 が あ ろ う。
There are a lot of lion dances in Japan. The lion dance is one of the most popular Japanese folk performing arts. Japanese lion dances are classified into two types. One is Futaridachi Shishimai and the other is Hitoridachi Shishimai. Futaridachi means that one lion is played by two or more than two performers, and Hitoridachi means that one lion is played by a single performer. The difference between the two types is not only form but also history.
Sanbiki Shishimai is one of the Hitoridachi Shishimai. In Sanbiki Shishimai, a group of three performers dance together, each performer playing one lion, putting a lion mask on his head and a drum on his breast. More than 1,400 Sanbiki Shishimai are distributed over a wide area. The range extends from Hokkaido to Shizuoka, the whole East Japan area. On the other hand, in West Japan they can be seen only at a few places.
The distribution has some characteristics. Sanbiki Shishimai are seen in most prefectures of East Japan, but not over the whole area of each prefecture. They are oddly distributed. They have variety in some aspects, such as form, name, performing technique and so on.
Many local types can be seen in each area.
Some problems can be found in the distribution. For example, what is the cause of the odd distribution? What is the relation between Sanbiki Shishimai and other lion dances? Why can many local types be seen in each area?
Old documents and records tell that Sanbiki Shishimai appeared from the end of the Medieval Period to the beginning of the Edo Period, increased as time passed, and its range spread from Hokkaido to Shizuoka in the nineteenth century. In consideration of Sanbiki Shishimai' s history, it is necessary that the above-mentioned problems be discussed from the viewpoints of both distribution and history.
笹原 三匹獅子舞 の分布
1 は じめ に 2 三 匹 獅 子 舞 の 概 要 3 各地 の分 布
3.1北 海 道 の 三 匹獅 子 舞 3.2青 森 県 の 三 匹獅 子 舞 3.3秋 田県 の 三 匹獅 子舞 3.4 山 形 県 の 三 匹獅 子 舞 3.5福 島 県 の 三 匹獅 子 舞 3.6宮 城 県 の 三 匹獅 子 舞 3.7 茨 城 県 の 三 匹獅 子 舞 3.8 栃 木 県 の 三 匹獅 子 舞 3。9 群 馬 県 の三 匹獅 子 舞
3.10 埼 玉 県 の三 匹 獅 子 舞 3.11千 葉 県 の三 匹 獅 子舞 3.12 東 京 都 の三 匹 獅 子舞 3,13 神 奈 川 県 の三 匹 獅 子舞 3.14 山梨 県 の三 匹 獅 子舞 3.15 長 野 県 の三 匹 獅 子舞 3.16 新 潟 県 の三 匹 獅 子舞 3,17 そ の他 の地 域 4 分 布 の 特 徴 5 獅 子 舞 の 歴 史 6 分 布 を巡 る諸 問題 7 お わ りに
1 は じめ に
日本 の各 地 には,つ く りもの の獅 子 頭 を 被 って 舞 や踊 を演 じる民 俗芸 能,獅 子 舞 が 伝 わ っ て い る。 獅 子 舞 は北 海 道 か ら九 州 沖 縄 に か け て 日本 中 に分 布 して い て,最 も広 い分 布 と数 を 誇 る民 俗 芸 能 で あ る(西 角 井1979:189)。 日本 の 獅 子 舞 に は 様 々な 形 態 が あ る。 本 田安 次 に よれ ば,そ れ らは1匹 の 獅 子 を2人 以 上 の 演者 で演 じる二 人 立 の獅 子 舞 と,1人 で 演 じる一 人 立 の獅 子 舞 に 分 類 され る。 両 者 の違 い は単 に形 態 上 に 止 ま らず,二 人 立 は 伎 楽 ・舞 楽 系,一 人 立 は 風 流 系 とい う芸 能 史 的 に異 な る系 統 に 属 す る。 二 人 立 の 獅 子 舞 は神 輿 の渡 御 や 御 神 幸 に 供奉 した り,田 楽 や 神 楽 の 中 で上 演 さ れ た りしてい る。 そ れ に対 して一 人 立 の 獅 子 舞 は,頭 上 に獅 子 頭 を装 着 して獅 子 に 扮 した複 数 の演 者 が 一組 に な って舞 うもの で,頭 は獅 子 に限 らず,鹿 ・猪 ・龍 な どの 場 合 もあ り,社 寺 の 祭 や盆 な どに上 演 され て い る(本 田1957:3‑4)。
一 人 立 の風 流 系 の獅 子 舞 の 中 に,三 匹 獅 子 舞 と呼 ば れ て い る一 群 の民 俗 芸能 が あ る。
三 匹 獅 子 舞 の 最 大 の特 徴 はそ の分 布 状 況 に あ る。 三 匹 獅 子 舞 は 東 日本 に お いて 広域 的 か つ 大 量 に 分 布 が認 め られ,東 日本 の 代 表 的 な 民俗 芸 能 とされ て きた。 しか し,分 布 の実 態 につ い ては,所 在 地 が800ヶ 所 以上 と も(山 路1986:51)1,000ヶ 所 以 上 と も いわ れ て(畠 山1997:14)は っ き りせ ず,極 め て不 十 分 な把 握 に と ど ま って い る。
三 匹 獅 子 舞 を 適 正 に理 解 す るた め に は,ま ず は,各 地 方 に どの よ うな 内容 の もの が ど の程 度 存 在 す るか とい った基 本 的 な情 報 を 集成 し,全 体 的 な 分 布 の様 相 を 明 らか に す る こ とが 必 要 とな る。 そ こで本 稿 で は,三 匹獅 子 舞 の分 布 に つ い て可 能 な限 り精確 な 把 握 を 試 み て み た い。
国立民族学博物館研究報告 26巻2号
2 三匹獅子舞 の概要
三 匹 獅 子 舞 とは,一 人 の 演 者 が 獅 子頭 を被 り,腹 部 に輻 鼓 風 の太 鼓 を 抱 い て1匹 の 獅 子 役 を演 じ,そ れ が3匹 一 組 とな って獅 子 舞 を演 じる とい うもの で あ る。 芸態 的 に は,2匹 の雄 と1匹 の 雌 が,腹 部 の 太鼓 を 叩 きな が ら,難 子 方 の 演 奏 す る笛 や歌 や彫 に 合 わせ て舞 うとい うもの で あ る。3匹 の獅 子 以外 に道 化 役 や 天 狗 な ど様hな 役 が加 わ った り,花 笠 を 被 った 鰺 摺 りが 登場 した り,舞 の構 成 や 演 出は 場 所 に よ って様 々に 違 い が あ る。 三 匹 獅 子 舞 が上 演 され る機 会 は,社 寺 の祭 のほ か,盆 ・雨 乞 い ・彼 岸 な
ど さま ざ ま で,時 期 も比較 的 夏場 が 多 い もの の,ほ とん ど一 年 中 に 渡 って い る。
三 匹 獅 子 舞 は 前 述 の よ うに,関 東 地 方 を 中心 に,甲 信 越 ・東 北 ・北 海道 の東 日本 各 地 に彩 しい数 が 分 布 して い るの に対 して,西 日本 には 若 干 の例 外 を 除 くとほ とん ど見 られ な い と い う,著 しい 分布 の偏 りが認 め られ る。 こ う した 分 布 状 況 は 従 来 か ら研 究 者 の関 心 を 集 め て きた。本 田安 次 は,風 流 系 統 の 獅 子舞 の東 日本 へ の分 布 と対 照 的 に, 西 日本 のほ ぼ 全 域 に 風流 踊 の一 派 の太 鼓 踊 が 分 布 して い る とい う両 者 の棲 み分 け に注 目す る。 太 鼓 踊 は 花笠 を被 った演 者 が腹 部 に抱 いた 太 鼓 を 叩 きな が ら,難 子 方 が演 奏 す る笛 や 鰺 や 歌 に 合 わ せ て踊 る とい う もの で,三 匹 獅 子 舞 とは,演 者 の被 り物 と人 数 を除 け ば よ く似 て い て,同 系 統 の芸 能 と考 え られ る。 両 者 を 比 べ る と,歌 の詞 章 は似 て い る もの の,太 鼓踊 の ほ うに一 段 古 い詩 の形 式 や 内 容 が 見 られ,ま た,獅 子 が 太 鼓 を叩 く必 然 性 が な い こ とな どを考 え る と,三 匹 獅 子 舞 よ りも太 鼓 踊 が 古 い と判 断 され る。 従 って,中 世 に近 畿 地 方 で大 流 行 した 風 流 踊 の一 派 で あ る太 鼓踊 が,中 世 末 期 か ら近 世 初 期 に か け て風 流 の趣 向 と して獅 子 頭 を 被 る よ うに な って 三匹 獅 子 舞 の原 型 が 成 立 し,そ れ が東 日本 に伝 わ って爆 発 的 に流 行 し,各 地 で 行 わ れ る よ うに な っ て現 在 見 られ る よ うな分 布 状 況 が形 成 され た と して い る(本 田1957)。 こ う した分 布 状 況 に 基 づ く三 匹 獅 子舞 成 立 の経 緯 に関 す る見 解 は,山 路 興 造 に よ って も支 持 され て い る(山 路1986)。
三 匹 獅 子舞 の 全 体的 な分 布 に関 しては,既 に 本 田安 次 が 東 日本 各地 の300ヶ 所 以 上 の 事 例 を 収 集 して概 括 を行 って い る(本 田1970)。 しか し,本 田 は3匹 以上 の ものを 含 む 風 流獅 子舞 全 体 を扱 って い る こ とに 加 え て,各 地 方 の 状 況 が,調 査 が 進 ん で30年 前 よ りも大分 明 らか に な った こ ともあ り,本 田 の成 果 が 十 分 とは いえ な くな って い る。
また,古 野 清 人 も三 匹 獅 子 舞 に 関 して広 域 的 に 多量 の事 例 を収 集 して 論 じて い るが(古 野1973),論 述 に地 域 に よっ て粗 密 の ぼ らつ きが あ り,全 体 的 な分 布 を把 握 す るに は
笹原 三匹獅子舞の分布
十 分 な もの とは な って いな い 。 本 稿 で は,三 匹獅 子舞 の全 体 的 な分 布 の 様 相 の把 握 を 試 み,実 数 す ら定 か では な い 現 在 の 認識 を,少 しで も実態 に近 づ け る こ とを 目指 した い。
以下,北 海 道 か ら都 道 県 毎 に,三 匹獅 子舞 の分 布 状 況,呼 称 や 芸 態 な どの特 徴,問 題 点 な どにつ い て見 て い くこ とに す る。 主 た る資 料 とす る の は,こ れ まで に 発表 され た論 考 や報 告 な どの先 行 研 究 の 成 果 で あ る。 三 匹 獅 子 舞 の定 義 に 関 して は,基 本 的 に は獅 子 が3匹 一 組 に な って 舞 って い る もの と し,獅 子 頭 の形 状 や 太 鼓 の 有無,獅 子 以 外 の役 の有 無 な ど,そ れ 以 外 の 点 に 関 して は原 則 的 に は問 わ な い こ とに す る。
3各 地 の分布
3.1北 海 道 の三 匹 獅 子 舞
北 海 道 には,三 匹 獅 子 舞 が,道 南 の江 差 町 ・厚 沢 部 町 の 厚 沢部 川 流 域 を 中心 に13カ 所 に分 布 して い る1)。三 匹 獅 子 舞 は,鹿 子 舞 あ るい は 鹿 子 踊 と呼 ぼ れ て い る。 また, 道 央 の 中富 良野 町 に は,昭 和3年(1928)に 青 森 県 百 沢 か ら教 授 を受 け て始 ま った 津 軽 獅 子 舞 が 行 わ れ て い る(川 嶋1985:48)。
鹿 子 は雄 が2匹,雌 が1匹 で,雄 の1匹 は シ ラサ ギ と呼 ぼ れ て い る。 シ ラサ ギ は 老 齢 の鹿 子 であ る と もい わ れ て い る。 鹿 子 役 は 幕 が 付 い た 鹿 子頭 を被 り,太 鼓 は 付 け な い。鹿 子 の ほ か に,仮 面 を 被 った オ カ シ コあ るい は メ ン コ と呼 ぼ れ る道 化 役 が加 わ る。
唯 子 方 は ヤ ン コ ・笛 吹 き ・太 鼓 叩 き ・簾 摺 りか ら構 成 され る。 ヤ ン コは 上 演 中 に歌 を 歌 った り,鹿 子舞 を 招待 した家 や 鹿 子 を 誉 め る ヤ ソ コホ メを行 った りす る。そ の ほか, 警 護 棒 持 ち ・燈 篭 持 ち ・傘 持 ち な どが 加 わ る。 か つ て は 旧盆 か ら秋 祭 頃 まで,集 落 内 の社 寺 や 墓 地,招 待 され た家 々を巡 っ て演 じられ て い た。 舞 の 内容 は,ボ ッ コ ミ(庭 入 り)・ 山立 て ・橋 がか り ・ヤ ン コホ メ ・山 が か り ・ガ ガ ト リ(雌 鹿 子 争 い)な どか
ら構 成 され る(渋 谷1965)。 以上 の特 徴 は,道 南 各 地 の鹿 子 舞 に ほ ぼ共 通 に 見 られ る。
由来 に関 す る伝 承 と して は,延 宝6年(1678)に 松 前 藩 が厚 沢 部 桧 山 を 解 放 して 以 降,本 州 の山 師 が 労働 者 を連 れ て入 山 した が,そ の 中 に は津 軽 か らの 人 々が 多 く,そ
う した 人 々が鹿 子 舞 を もた ら した とされ る(厚 沢部 町1981:392)。 そ の ほか,元 禄 の 中頃 に 桧 山 奉 行 青 山 某 が創 始 し,宝 永 元 年(1704)松 前 藩 主 の御 前 に奉 納 して以 降, 年 々の行 事 とな った とい う江 差 町 豊 川 町(北 海道 教育 委 員会1966:49),文 化年 間 に 陸 奥 福 島か ら教 授 を 受 け て始 ま った とす る厚 沢部 町上 里,約200年 程 前 に 旅 人 が江 差
国立民族学 博物 館研究報告 26巻2号 の笹 山 神 社 参 拝 の 帰 りに3匹 の 鹿 を 見 て 創 始 し,松 前 の殿 様 の奥 方 の 病 気平 癒 に効 験 が あ った とい う乙 部 町 豊 浜 な ど,独 自の 由 来 を伝 え る と ころ も あ る。 鹿 子舞 を他 所 か ら教 授 され る こ とを 鹿 子 分 け とい って い るが,厚 沢 部 町 当路 は 明治30年(1897)に 江 差 町 柳 崎 か ら,厚 沢部 町 舘 は 明 治34年(1901)に 同町 土 橋 か ら,乙 部 村 姫 川 は昭 和25 年(1950)に 厚 沢部 町赤 沼 か ら(北 海 道 教 育 委 員 会1966:39),そ れ ぞれ 鹿 子 分 け さ れ て 始 ま った と伝 え て い る。
記 録 類 と して は,江 指 町 に残 るr文 化 年 中 旧 記 抜 書 』 に,文 化5年(1808),土 橋 や 泊 の鹿 子舞 が江 差 市 中 で の上 演 を巡 っ て争 いを 起 こ した とい う記載 が あ り,文 化14 年(1817)に 著 され たr北 夷 談 』 に は,7月 盆 中に 厚 沢部 の 村hか ら江 差 へ 手 作 りの 獅 子 頭 を 被 っ て踊 りに 来 る と記 され て い て(厚 沢 部 町1981:390‑391),こ の地 方 で 19世 紀 初 頭 に鹿 子 舞 が行 わ れ て いた こ とが わ か る。
江戸 期 の桧 山地 方 に おけ る開 発 の歴 史 や 鹿 子舞 の分 布 状 況,芸 態 の津 軽 地 方 との 共 通 性 な どを考xる と,鹿 子 舞 は 江 戸 期 に 津軽 地 方 か ら移 入 され て始 ま った と考 え られ る。 鹿 子 舞 は,山 岳 信 仰 や 修 験 と密接 に 関係 す る神 事 と して創 始 され,行 わ れ て きた とい う指 摘 が あ るが(江 差 町1997:937‑939),そ れ が正 しい とす れ ぽ,そ の点 で も 津 軽 地 方 と共 通 す る。 しか し,そ の一 方 で,ヤ ン コホ メが 登 場 す る こ と,鹿 子 役 が太 鼓 を 付 け な い こ と と い っ た 津 軽 の 三 匹 獅 子 舞 との 明 確 な 相 違 点 も見 られ る(渋 谷 1965:57‑58)。 津軽 地 方 の三 匹 獅 子 舞 との関 係 につ いて は,更 に 詳 細 な比 較 検 討 が必 要 で あ ろ う。
また,江 差 町 に2ヵ 所,上 ノ国町 に1ヵ 所,5匹 編 成 の 鹿 子 舞 が 分布 して い る。 こ れ らは,雌 鹿 争 い を舞 の主 題 と して い る な ど,こ の 地 方 の3匹 の鹿 子舞 と共 通 点 が あ るが,舞 の全 体 的 な構 成 や 銅 拍 子 の 使 用(渋 谷1965:44)と い った相 違 点 も認 め ら れ る(宮 下1991:157)。5匹 の 鹿 子 舞 が 行 わ れ て い るの は 旧南 部 領 の大 畑 出 身 の 人 々が働 い て い た地 域 で あ り,3匹 の 鹿 子 舞 と5匹 の鹿 子舞 は,津 軽 領 と南 部 領 とい う 演 者 の 出身 地 の違 い に起 因 す る と も考xら れ る(北 海 道1966:48)。
3.2 青 森 県 の三 匹 獅 子 舞
青 森 県 内 で は,旧 津 軽 藩 領 に休 止 ・廃 絶 を 含 め て100ヵ 所 以 上 の 所 在 が 確 認 され る2)。三 匹 獅 子 舞 は 獅 子 踊 あ るい は 獅 子 舞 と呼 ぼ れ て い て3),岩 木 山 を 中 心 と した 山 間 部 の 東 通 りに 分 布 す る もの は熊 獅 子,平 野 の新 田地 帯 の西 通 りに 分 布す る ものは 鹿 獅 子 と呼 ぼ れ て 区 別 され て い る。
獅 子 は,弘 前 市 松 森 町 と岩 木 町 葛 原 の5匹 を 除 く と,雄 獅 子 ・中 獅 子 ・雌 獅 子 の3
笹原 三匹獅子舞の分布
匹 で構 成 され る。 多 くは腹 部 に太 鼓 を 付 け るが,付 け ない と ころ も若 干 見 られ る。 獅 子 の ほか に,オ カ シ ・オ カ(ガ)シ コ と呼 ばれ る猿 の よ うな面 を被 った 道 化役 と,手 平 鉦 ・太 鼓 ・笛 か らな る難 子 方 が 加 わ る。
舞 手 は,現 在 は 地域 内 に住 む 希 望 者 な ら誰 で も務 め る こ とが で きる。 獅 子踊 の演 者 は獅 子 連 中 と呼 ば れ て い て,特 定 の 寺 社 に属 して い るわ け で は な く,任 意 の 人 々か ら な る集 団 で あ る。 若 者組 との関 係 も見 られず,年 齢 も特 に 問 われ ない 。 彼 らは獅 子 踊 に 止 ま らず,ね ぶ た 嘩子 や岩 木 山登 山 嘘 子 も受 け持 って い て,芸 能 を 通 じて地 域 に欠 か せ な い存 在 とな って い る。
獅 子 踊 は,春 か ら初 夏 にか け て獅 子 お こ しの儀 礼 を 行 い,夏 の間,各 地 の祭 や 祝 事 の 際 に舞 った り,家 々や 地 域 内 の辻 な どを悪 魔 祓 い に舞 って歩 い た り,盆に墓 地 で舞 っ た りして,秋 に 獅 子 納 め を行 うのが 一 般 的 で あ る。
獅 子 踊 の 内 容 は,庭 踊 ・追込 踊 ・橋 渡(橋 か け踊)・ 山(掛 け)踊 ・注 連 縄 踊 ・雌 獅子 争 い の踊 ・和 楽 踊 ・暇 乞 い の踊 な どの演 目か ら構 成 され て い る。 木 の枝 を何 本 か 立 て た 山 と呼 ば れ る作 りもの を舞 場 に 据 え,そ の前 に 莚 を橋 に見 立 て て敷 き,獅 子 が 橋 を渡 って 山の 中 に 分 け 入 る とい う演 出 が仕 組 まれ て い る。 近 年 は 錘 に 代 わ って作 り
もの の橋 が 用 い られ る よ うに な った 。舞 場 で演 じられ る演 目のほ か,門 ぽ め ・家 方 ぽ め ・ごは んぽ め な ど,家 々を巡 る際 に 演 じ られ る演 目が あ る。
由来 に関 す る伝 承 と して は,弘 前 市 松森 町 の獅 子 踊 を総 本 家 と し,そ こか ら伝 来 し た とす る と ころ が 多 い 。 松 森 町 の 獅 子 踊 は 津 軽 藩4代 藩 主 信 政 の 時(韮656‑1710)に 始 ま った とされ(弘 前 市 教 育 委 員 会1985:59),そ れ 以後,藩 主 公 認 の 獅子 踊 と して 現在 も権 威 を 保 って い る。 西 通 りの 獅 子踊 に は,信 政 の時 代,新 田開 発 に伴 い信 政 の 命 で,菰 槌(福 士)勘 左 衛 門 とい う神 楽 師 が伝 えて 始 ま った とい う話 が伝 え られ てい
る。
東 通 りの獅 子 踊 で は信 政 や 新 田開 発 に 関す る伝 承 は 見 られ ず,各 地 独 自の も のが 見 られ る。 平 賀 町 広船 に は,獅 子 踊 を 山 の神 信 仰 と関 係 付 けた 由来 が 伝 わ って い る(神 田1974:135‑136)。 記紀 神 話 に 因 ん だ 内 容 や 南部 地 方 の 八 ツ鹿 踊 との 関 係 で 始 ま っ た とす る ところ もあ る。 また,マ タギ との関 係 も深 い。 獅 子 踊 は マ タギ の村 に よ く見
られ,か つ て は マ タギ が舞 手 を 務 め て い た とい う(木 村1974)。
獅 子 踊 に 関 す る記 録 と して は,津 軽 藩 のr本 藩 歴世 日記 』天 和2年(1682)の 項 に, 8月15日 の 八 幡宮 祭 礼 で御 輿 の渡 御 に 練 り物 と して 加わ った と記 され た の を 最 古 と し て,そ れ 以 降,各 地 に上 演 を伝 え る文 書 が 少 な か らず 残 るが,菅 江 真 澄 の 『外浜 奇 勝 』 に おけ る,寛 政8年(1796)に 岩 崎村 大 間越 で獅 子(鹿)踊 を 見た 際 の 記述 の よ うに,
国立民族学博物館研究報告 26巻2号 芸 態 や 歌 詞 ま で記 され た もの は 少 な い(笹 森1996:14)。
そ の ほか,由 来 ・舞 い 方 ・歌 の 詞 章 な どが記 され た巻 物 も各 地 に 伝 わ って い る。 巻 物 に は,津 軽 氏 との 結 び付 きを強 調 して いた り,菰槌 勘 左 衛 門 の署 名 が あ った りとい っ た,共 通 した 内容 が 見 られ,獅 子 踊 の伝 播 交 流 や 系 統 を知 る手 掛 か りとな って い る(弘 前 市 教 育 委 員 会1985:15‑16)。 由 来 書 は,獅 子 踊 の受 容 や 伝 承 に お け る修 験 者 の関 与 とい った信 仰 的 背 景 を 示 す もの と して も注 目され る(神 田1974a:131‑139)。
前述 した熊 獅 子 と鹿 獅 子 の 区 分 に 関 して は,熊 獅 子 は熊 野 信 仰 と関 係 が深 く,角 は 枝 分 かれ の な い短 角 で幕 は 紺 地,踊 り方 は跳 躍 せ ず に舞 うよ うに 踊 るの に対 して,鹿 獅 子 は春 日信 仰 と関 係 が 深 く,角 が 枝 分 かれ し,幕 は 白地 で踊 り方 は跳 躍 を専 ら とす
る とい った違 いが あ る とされ る。 現 地 の 演者 た ち の 間 では,こ うした 区分 に 当 て はめ て 自分 た ち の獅 子 踊 を 説 明す る傾 向 が 認 め られ る が,実 際 の芸 態 に お い て は こ う した 違 いが 必 ず し も 明確 に認 め られ るわ け で は な い。 両 者 の区 分 は か つ て行 わ れ て い な か った と い う指 摘 が あ る こ と(笹 森1996:14)も 考 慮 す る と,こ うした 区 分 が 生 ま れ,受 容 され た 時 期 や 経 緯,こ の地 方 の獅 子 踊 の 実態 把 握 に お け る有 効 性 に 関 して は, 改 め て検 討 が必 要 で あ ろ う4)。
青森 県域 で は,5匹 以 上 の 舞 手 が 登場 す る鹿 踊 は,旧 南 部 領 の三 沢市 岡三 沢 と名 川 町 剣 吉(青 森 県教 育 委 員 会1996:66,141‑143)に 見 られ るの み で あ る。 しか し,平 賀 町広 船 で は,現 行 は 三 匹 獅 子 舞 で あ るが,八 ツ股 鹿 子 踊 と も称 して い て,岩 手 県 の 南 部 地 方 か ら伝 来 した と伝tら れ て い る(平 賀 町 連 合 獅 子 踊 保 存 会1986:21‑22)。
また,弘 前 市 松 森 町 では,男 獅 子 ・仲獅 子 ・女 獅 子 のほ か に2匹 の番 獅 子 の合 計5匹 が 登場 し,岩 崎 町 葛 原 も 同様 に5匹 で あ る。 弘 前 市 鬼 沢 で は,現 行 は三 匹 獅 子 舞 で あ
るが,同 所 に 伝 わ る寛 文 元 年(1661)のr鬼 沢 獅 子 踊 奥 義 秘 伝 巻 物(写)』 に は,行 道 中 の5匹 の獅 子 が 描 か れ て い る(弘 前 市 教 育 委 員 会1985:53,57)。 これ らの こ と は,こ の地 方 の獅 子 踊 と鹿 踊 の 関 係 を,単 に地 域 的 な 棲 み分 け とい う分 布 の 問 題 と し て だ け で は な く,歴 史 的 関 係 を考 慮 して理 解 す る必 要 性 を示 唆 して い る よ うに 思 わ れ
る。
3.3 秋 田 県 の三 匹 獅 子 舞
秋 田 県域 の三 匹 獅 子 舞 は,中 断 や 廃 絶 を含 め る と,100ヵ 所 を遙 か に超 え る所 在 を 確 認 す る こ とが で き る5)。分 布 は 旧 南部 藩 領 の鹿 角市 と鹿 角 郡 を除 い た ほぼ 全 域 に認 め られ,特 に,大 館 市 を 中 心 と した北 秋 田郡,能 代 市 を 中心 と した 山 本 郡,角 館 町 を 中心 と した仙 北 郡 に 集 中 して い る。 三 匹 獅 子 舞 は,獅 子舞 あ る いは サ サ ラ と呼 ばれ て
笹原 三匹獅子舞の分布
い る。 南部 や 仙北 郡 で は ほ とん ど がサ サ ラ と呼 ば れ,山 本 郡 と南 秋 田郡 北 部 で もサ サ ラ とい う呼 称 が使 用 され て い る。 北 秋 田郡 と 由利 郡 で は 獅 子踊 と呼ぶ と ころ も若 干 見 られ る(秋 田 県 教 育委 員会1993:97‑98)6)。
3匹 の 獅 子 は,雄 獅 子 ・中獅 子(中 立)と 呼 ぼ れ る2匹 の雄 と1匹 の雌 獅 子 か ら構 成 され て い る。 そ れ ぞれ の呼 称 につ い ては,西 木 村 戸 沢 や 西根 の よ うに雄 の2匹 を 一 番 獅 子 ・二 番 獅 子 と呼 ぶ と こ ろや(佐 藤1960:2,10),角 館 町 白 岩 の よ うに3匹 を 獅 子 頭 や 角 の 色 に 因 ん で黒 獅 子 ・青 獅 子 ・赤 獅 子 と呼 ん で い る と ころ もあ る(白 岩 若 者 会1985:6)。 獅 子 頭 は,竹 で編 ん だ篭 に和 紙 を 貼 った 張 子 に漆 で着 色 して 作 る と こ ろが 多 い 。 本 庄 市 日役 で は大 般 若 の お札 を 張 り合 わ せ て 作 られ て い る(秋 田県 教 育 委 員 会1963:176,189)。 そ の ほか,西 木 村 戸 沢 の よ うに 木彫 の もの も見 られ る。
獅 子 役 は ほ とん どの と ころ で腹 部 に付 け た 太 鼓 を 叩 きな が ら舞 うが,藤 里 町 藤 琴 の よ うに 付 け な い と ころ もあ る。 難 子 方 は,笛 吹 き ・鉦 ・大 太 鼓 ・歌 うた いか ら構 成 さ れ て い る。 北 部 で は 太鼓 を付 け て い て も実 際 は あ ま り叩 か ず,演 奏 はiv:子方 の大 太 鼓 が 受 け 持 って い る。
舞 手 を 務 め るの は,多 くの場 合 地 域 の若 者 組 で,角 館 町 白岩 の よ うに務 め る のが 一 種 の 成 人 儀 礼 とな って い る と ころ も あ る(秋 田県 民 俗 芸 能協 会1980:91)。 また,大 館 市 鉄 砲 町 の よ うに,棒 使 い ・奴 踊 ・獅 子 な どの 諸 役 を務 め る演者 が 年 齢 に応 じて決
ま っ て い る場 合 や(秋 田県 教 育 委 員 会1963:138‑139),角 館 町 下 川 原 の よ うに 長 男 のみ が 務 め る とい う制 限 が あ る場 合 も 見 られ る(秋 田県 民 俗 芸能‑協会1980:89)。 能 代 市 道 地 で は,か つ て踊 手 は士 族 に限 られ て いた(秋 田県 教 育委 員会1963:147)。
獅 子 役 の ほ か に,カ ッキ リコ ・ジ ャ ッ ジ ャ カ ・オ ン ジな ど と呼 ば れ る滑 稽 な 面 を 被 った 道 化 役 が 登 場 す る。 道 化 役 が演 奏 す るサ サ ラは 竹 片 や 木 の小 板 を紐 で繋 いだ ビ
ンザ サ ラが 多 い が,横 手 市 金 沢 の よ うに 摺 り1の 場 合 も あ る(金 沢 郷 土 史 研 究 会 1961)。 そ の ほか,オ ー セ ・唐 神 な ど と呼 ばれ る頭 部 が 肥 大 した 福 禄 寿 風 の 面 を被 り, 大 き な唐 団 扇 を 持 った役,花 笠 を 被 った 役 や,烏 の面 を被 った 役 が 出 る と ころ もあ る。
多 くのサ サ ラは そ れ の み単 独 で上 演 され るの では な く,ほ か の 異 な る芸 能 と一 緒 に行 わ れ て い る。 一 緒 に 演 じられ る の は,棒 使 い ・奴 踊 ・駒 踊 ・扇 舞 ・万 歳 ・曲芸 ・番 楽 系 の狂 言 な どの ほ か,子 阿仁 村 大 林 や 森 吉 町 前 田な ど,二 人立 の獅 子 舞 が 行 わ れ る と
ころ もあ る。 因 み に,奴 踊 で踊 手 が持 つ 両 端 に 房 の 付 い た竹 筒 もサ サ ラ と呼 ば れ て い る。 これ らの 演 者 に 更 に,高 燈 篭 ・纏 ・毛 槍 ・鋏 箱 な どが 加 わ って行 道 が 行 わ れ,総 勢 が50人 を 超 え る大 掛 か りな上 演 に な る場 合 も見 られ る。 そ れ らは,サ サ ラを含 む 様
々な芸 能 の 総 称 と して,合 川 町 上 杉 で は大 名 行 列 踊,藤 里 町藤 琴 で は豊 年 踊 な ど と呼
国立民族学博物館研究報告 26巻2号 ぽ れ て い る。
サ サ ラは 祖 霊 の 供養 や豊 作 祈 願 と して行 わ れ て い る。 上 演 の 時期 は盆 や そ の前 後 が 最 も多 い 。 そ の ほ か 各地 の神 社 の祭 で も行 わ れ て い る。 上 演 の場 所 は,社 寺 の境 内 ・ 墓 地 ・地 域 内 の 家 々な どで,実 際 の上 演 は,宿 か ら行 列 を作 って社 寺 な ど の舞 庭 に 練
り込 み,棒 術 や 奴 踊 な どに続 い て ササ ラが 演 じられ る とい う形 式 で行 わ れ る。 雌 獅 子 を 巡 って2匹 の雄 獅 子 が 争 う筋立 て が演 じ られ る とこ ろが 多 い 。
由来 に 関 す る伝 承 と して は,慶 長7年(1602)の 佐 竹 氏 の 水戸 か ら秋 田へ の 転 封 の 際 に,道 中 の慰 安 ・道 中 の先 達 と して 行 わ れ た,あ るい は随 伴 して きた 家 臣 が 伝 え た とい うよ うに,佐 竹 氏 に伴 い伝 来 した とす る と ころ が 多 い。 佐 竹 氏 関 連 以 外 の 伝 承 も 若 干 見 られ る。 本荘 市 日役 で は,慶 長14年(1609)に 山形 の最 上 義 光 の 家 臣 楯 岡 豊 前 守 が 当地 を領 有 した時 に もた ら され た,あ るい は元 和8年(1622)に 常 陸 国 か ら六 郷 兵 庫 政 乗 が 入 部 した際 に伝 来 した とい わ れ て い る(秋 田 県 教 育 委 員 会1993:193)。
大 曲 市 四 ッ屋 や仙 北 町 堀 見 内 では,戦 国期,本 堂 城 の攻 略 の際 に,獅 子 の 仮 装 を した の で 城 内 へ の進 入 が 容 易 に な って攻 略 で きた こ とに 由来 す る と され(秋 田県1978:
673),西 木村 戸 沢 や 小 山 田 では,岩 手 県雫 石 か らや って きた 戸 沢 氏 との 関 係 で伝 わ っ た と され て い る(西 木 村 郷 土 芸 能 保 存振 興 会1960:2,7)。
中 仙 町長 野 で は,佐 竹 氏 移 封 以 前 か ら獅 子 舞 が あ った が,移 封 後 は 水 戸 か ら伝 わ っ た サ サ ラ の 影 響 を 受 け て 格 調 が 高 くな っ た とい わ れ て い る(秋 田 県 民 俗 芸 能 協 会 1980:133)。 武 藤 鉄 城 も戸 沢 とそ の 周 囲 の サ サ ラに関 して,近 世 以 前 に 元 々系 統 の異 な る芸 能 が存 在 して いた と こ ろに,佐 竹 氏移 封 と と もに 常 州 系 統 の サ サ ラが伝 来 し, 習 合 して現 在 の も のが 形 成 され た の で は な いか と述 べ て い る(武 藤1933)。
記 録 類 と しては,秋 田藩 士 が記 したr梅 津 政 景 日記 』 に は,寛 永4年(1627)7月 14日 の条 に 「城 中 にて 編 木 あ り」 と記 され て い る のが 古 い 部 類 に 入 る。 ま た,こ の地 方 で は,由 来 や 歌 の詞 章 な どが記 され た巻 物 類 が 伝 わ って い る と ころ が多 い。 西 木 村 戸 沢 の 巻 物 は慶 長 年 間(1596‑1615)の 書 写 と され る7)。中仙 町 東 中 野 の 巻 物 に は 元 和9年(1623)と 記 され て い る。 ほ か に も17世 紀 の 年 号 が 記 され た巻 物 が 各地 に 見 ら れ る。
巻 物 に記 され た 由来 に は,仏 事 と して の起 源 を 説 く中 仙 町東 長 野 ・太 田町 国 見 な ど のr盆 の 獅 子 踊 由 来 』,謡 曲 「自然 居 士 」 と似 た 内 容 が 記 され た 中仙 町 長 野 ・角 館 町 白岩 な どの 『獅 子 王 之 事 』,天 竺 の 王 と鹿 との 異 類 婚 に 発 す る と説 く西 木 村 戸 沢 ・小 山 田 のrさ さ らの 本 地 』(秋 田 県 教 育 委 員 会1993:65‑66)な ど,幾 つ か 類 型 が 存 在 して い る。 巻 物 に は,こ うした サ サ ラの起 源 に 加 え て 水 戸 か ら伝 来 した 経 緯 が 記 され
笹原 三匹獅子舞の分布 た もの も多 い。
由 来 書 は,江 戸 期 以 降 か ら昭 和 に至 る まで 各 地 で 書写 され て きた 。1ヵ 所 の 獅 子 舞 が 内 容 の 異 な る 由来 書 を複 数 所 有 して い る場 合 も見 られ る。 それ は,政 治 体 制 や 社 会 状 況 の 変 化 に伴 い,内 容 的 に有 効 で な くな った 従 来 の 由来 書 に代 わ って新 た な 由来 書 を 作 成 した結 果 で あ る とい う(秋 田県 教 育 委 員 会1993:43)。
由 来 書 は,秘 巻 と され て いて 内容 を 見 る こ とが で きな い場 合 が 多 い が,そ の一 方 で, 人 々に 存 在 が顕 示 され て い た。 大 田村 国 見で は 巻物 は代 々の師 匠 が 受 け 継 ぎ,踊 る際 に は,い つ ど こで も神 の依 り代 と して祀 り,供 物 を供 え て礼 拝 してか ら始 め る こ とに な って い る(秋 田県1978=675)。 角 館 町 白岩 や 中仙 町 東 長 野 の よ うに,行 道 の 際 に 巻物 を三 宝 に載 せ て捧 げ 持 つ とこ ろ もあ る。 仙 北 町堀 見内 で は,巻 物 と獅 子 が 行 列 し た 付 近 の 田畑 は豊 作 に な り,伝 染 病 が 家 々に 入 らな い といわ れ て い る(秋 田県 教 育 委 員 会1963:157)。 角 館 町 白岩 で は,巻 物 は代 々後 見 役 が 保 管 して い て,交 代 の 時 に は 神 餅 を供 え て 拝 した後,行 列 を 作 っ て道 中 楽 を 奏 しな が ら新 しい後 見 役 の も とに 送 った とい う(白 岩 若 者 会1980:2)。 巻 物 が上 演 の 際 に 衆 目に晒 され,そ の存 在 と 価値 が 強調 され て き た こ とは,巻 物 の 書 写 が 盛 ん に 行 われ て流 通 して きた こ と と無 関 係 で は な い と思 わ れ る。
こ の地 方 の サ サ ラの 特 徴 に は 地 域 毎 の違 い と して把 握 す る こ とが 可 能 な も の が 多 い。 獅 子 頭 の形 状 は,仙 北 地 方 で は 比 較 的 大 きい の に対 し,北 部 では 小 型 に な って い る し,西 木 村 の各 地 では 頭 頂 に 鏡 が 付 い て い る。獅 子 が抱 え る太 鼓 も,頭 と同 様 に 仙 北地 方 の ものは 大 き く,北 部 に 行 くと小 さ くな り,持 た な い もの も 出て くる。 北 部 や 仙北 地 方 のサ サ ラはほ か の芸 能 と組 み 合 わ され て大 規 模 な上 演 が 行 わ れ て い るが,県 央 や 由利 地 方 では 単 独 で行 わ れ て い る。 組 み 合 わ され る芸 能 も,駒 踊 は 北 部 で しか 見
られ な い。 サ サ ラ の行 列 は ほ ぼ 全 域 で 行 わ れ て い るが,北 部 では ブ ッ コ ミ,仙 北 地 方 で は ナ デ ワタ リ(畦 渡 り),由 利 地 方 で は 小路 わ た りと異 な る名 前 で呼 ばれ て い る。
由 来 書 の 内容 に も地 域 的 な差 が 見 られ る。
鹿 踊 に類 す る も の と しては,横 手 市 関 口の5匹 の麟 麟 が 出 る関 ロサ サ ラが あ る。 桓 武天 皇 の時 代 に 山形 県 の左 沢 か ら習 得 して始 め られ,佐 竹 氏 移 封 後 は 佐 竹 氏 の 命 を 受 け て続 け られ て きた と され る。 隣 接 す る山形 県北 部 は三 匹 獅 子 舞 で は な く5匹 以 上 の 鹿 踊 が分 布 して い る地 域 であ るが,5匹 以上 の獅 子 踊 は関 口 しか 見 られ な い 。 隣 接 す る他 県域 との関 係 と い うこ とで は,そ の ほ か,北 部 で はニ ツ井 町 切 石 な ど若 干 の と こ ろ で 津軽 の獅 子 踊 に 見 られ る山 立 て の演 出 が 行 われ て い る こ とや(秋 田県 民 俗 芸 能 協 会1980:69),西 木 村 戸 沢 や 小 山 田で岩 手 県雫 石 か ら伝 わ った とす る伝 承 が あ る程 度
国立民族学博物館研究報告 26巻2号 で,全 体 的 に は 他 県 域 との 交 流 の形 跡 は希 薄 で あ る。 この こ とは,こ の地 方 に おけ る サ サ ラが,芸 態 な どに 多様 性 を生 じつ つ も,基 本 的 に は 佐 竹 藩 の 領 内統 治 と深 い関 係 に あ った こ とを 示 して い る の で は な いだ ろ うか8)。
3.4 山 形 県 の 三 匹 獅 子 舞
山形 県 域 の 三 匹 獅 子舞 は,中 断や 廃 絶 を含 め る と,30ヵ 所 程 の 所在 を確 認 す る こ と が で きる9)。分 布 は 米 沢 市 を 中心 と した 旧 米 沢 藩 領 の 置 賜 地 方 に 集 中 して い て,そ れ 以 外 で は 西 村 山 郡 に2ヵ 所 見 られ る のみ で あ る。 三 匹 獅 子 舞 は ほ とん どの と ころ で獅 子 踊 と呼 ぼ れ て い るが,川 西 町 小松 の よ うに豊 年 踊 と呼 ぶ と ころ もあ る。
3匹 の 獅 子 は雄 獅 子 ・雌 獅 子 ・ トモ(友 ・伴 ・供)獅 子 と呼 ばれ て い る。 トモ獅 子 は 中 獅 子 や 子 獅 子 と呼 ばれ る場 合 もあ る。 獅 子 頭 は,張 子 に 着 色 した もの,木 彫 り, 布 を 張 り合 わ せ て 着 色 した もの が あ る。 川 西 町 小 松 の 獅 子 頭 は 寺 社 の祈 疇 札 を漆 で 固 め て 作 った もの で,梵 字 固 め と呼ぼ れ て い る(川 西 町1983:768)。
獅 子 役 は 腹部 に 太 鼓 を付 け る と ころ と付 け ない と ころ が あ る。ほ とん どの と ころ で, 3匹 の 獅 子 役 以 外 に,花 笠 を 被 り太 鼓 を 腹 部 に 付 け た 女 装 の 踊 手 が 複 数 名 加 わ り,獅 子 と一 緒 に 踊 る。 彼 らは太 鼓 ぶ ち ・踊 子 ・親 太 鼓 ・花 吸 い な ど と呼ぼ れ て い る。
舞 手 を 務 め るの は地 域 の若 者 と して い る と こ ろが ほ とん どで あ る。 役 が 年 齢 に 応 じ て 変 わ って い くと ころ もあ り,長 井 市 五 十 川 で は 最 初 は 太 鼓 ぶ ち を務 め,青 年 に な っ て か ら獅 子 役 を務 め る こ とに な っ て い る(山 形 県 教 育 委 員 会1955:10)。
獅 子 役 の ほ か に,メ ンス リ ・サ ンバ と呼 ば れ る ヒ ョ ッ トコな どの面 を被 った 彫 摺 り 役 が 加 わ る と ころ もあ る。簾 摺 りは,川 西 町 小 松 や 米 沢市 綱 木 な ど,現 在 は 出 な くな っ た と こ ろ もあ る。
獅 子 踊 は 盆 に 行 われ る と ころが 多い 。そ の ほ か,風 祭 や 作 祭 や 神 社 の祭 に行 わ れ る。
盆 の 場 合 は 寺 院 の境 内 や各 家 々を巡 って 行 わ れ る。 祭 の場 合 は神 社 の境 内や 地 域 内 の 決 ま った 場 所 で上 演 され る。 米 沢 市 綱 木 で は,地 域 内 の 家 々全 戸 を巡 るの で,一 日が か りとな り,大 勢 の踊 手 が交 代 しなが ら上 演 を 行 って い る(米 沢 市1990:651)。
上 演 は,盆 の場 合,宿 か ら行 道 して きて 社 寺 で 踊 った後,各 家 々に 赴 くとい うか た ちで 行 わ れ る。 上 演 の 内 容 に つ い て は,花 吹(舞)・ 狂 い(獅 子)な どの 曲 目,歌 の 詞 章,上 演 中 に行 われ る誉 め 言 葉 と返 し言 葉 の 応 酬,纏 と呼 ばれ る燈 篭 の 随 行 な ど, 全 体 に 共 通 して い る 点 が あ る一 方 で,米 沢 市 梓 山 の梵 天舞,米 沢 市 綱 木 の 関 東肥 鋏 舞 や 角 田中 村 踊,長 井 市 域 や 川 西 町 小 松 の 火 の 輪 く ぐ りな ど,地 域 的 に 偏 りが あ る演 目 や 演 出 も見 られ る。
笹原 三匹獅子舞の分布
獅 子 踊 の 由来 に つ い て は,天 正10年(1582),信 州 上 田城 主 真 田 昌幸 が越 後 の 上 杉 家 に 人 質 に 出 した次 男 の幸 村 を慰 め るた め に 毎 年 獅 子 踊 を遣 わ し,そ れ を越 後 の農 民 が 覚 え て 演 じ る よ うに な り,そ れ が 更 に,上 杉 氏 が 米 沢 に 転封 され た際 に付 い て きた 越 後 の 農 民 に よ って 伝 え られ た と い う話 が伝 わ って い る(長 井 市1985:686‑687)。
上 杉 氏 に まつ わ る伝 承 は そ れ 以 外 に も各 地 で 見 られ る。 長 井 市 平 山 で は,慶 長 年 間 (1596‑1615)上 杉 景 勝 の重 臣青 木丹 波 守 が越 後 か ら移 っ て きた 際 に伝 来 した と伝x, 青 木 氏 の子 孫 は代h獅 子 踊 の諸 道 具 を 預 か って い る(長 井市1985:679,694‑695)。
上 杉 景勝 が領 内 を巡 視 した 時 に,越 後 か ら付 い て きた 農 民 が獅 子 踊 を行 って い る こ と を 聞 い て 心 を 打 た れ,そ れ 以 後 保 護 奨 励 す る よ うに な った が(長 井 市1985:687), 景勝 が 出 会 った の は米 沢 市 片 子 の 獅 子 踊 で あ っ た とい う(新 野1954:157)。 川 西 町 小松 で は,財 政 が 逼 迫 した 米 沢 藩 の 政 策 で,不 作 の年 は上 演 を禁 じられ,豊 年 の 年 だ け 許 さ れ た の で,豊 年 獅 子 踊 と呼 ぶ よ うに な った とい わ れ て い る(川 西 町1983:
767)。 米 沢 市 綱 木 では,獅 子 頭 や 衣 装 を 入 れ て お く長 持 は 明 治4年(1871)に 上 杉 家 か ら贈 られ た とされ て い る(高 橋1978)。
上 杉 氏 関 係 以 外 の 伝 承 と して は,長 井 市 河 井 で は,稲 穂 を くわ えた 神 使 の 老 狐 の 出 現 を豊 年 の前 兆 と して 喜 び,踊 を 習 い 覚 え て鎮 守 に奉 納 した のが 始 ま りで,同 市 五十 川 は河 井 の獅 子 踊 を 文 政10年(1827)に 纏 南 神社 再 建 祝 に習 い覚 えて 始 ま り,同 市勧 進 代 や 平 山 もそ れ を 習 った と され て い る。 川 西 町 小 松 で は,大 同年 間(806‑810)に
当地 に配 流 され て きた 徳 一 上 人 を慰 め るた め に 始 め た とい う(川 西 町1983:765)。
米 沢 市 綱 木 で は,隠 れ 住 ん だ 平 家 の残 党 が平 家 の再 興 を祈 願 して 始 め た もの で,米 沢 市 域 の獅 子 踊 は 綱 木 が 発 祥 と して い る。
ま た,旧 米 沢藩 領 で は な い朝 日町 八 ツ沼 で は,天 文 年 間(1532‑1555)に 城 主 の命 令 で現 在 の宮 城 県 角 田方 面 か ら習 い 覚 え て 始 め た と され(朝 日町教 育 委 員 会1991:
236),同 町 大 谷 も文 化 年 間(1804‑1818)に 同 じ く角 田 か ら導 入 され た と伝 え られ て い る(明 治 大 学 経 営 学部 居駒 ゼ ミナ ー ル1992:77‑78)。
獅 子 踊 に 関 す る最 も古 い記 録 は,上 杉 氏 の 『貞 山候 治 家 記 録 』 の 天 正15年(1587) 7月24日 の 項 で,「 晩,小 十 郎 宅 へ御 出,獅 子 躍 御 覧 。 常 州 佐竹 ノ躍,当 地 ノ躍 ア リ。
奥 筋 二於 イ テ孟 蘭 盆 前 後 此 躍 ア リ。 盆 の 供 養 ナ リ ト云 フ」 と記 され て い る(米 沢 市 1990:646)。 こ こに記 され て い る の が獅 子 踊 で あ る とす る と,こ の 頃既 に 獅子 踊 が行 わ れ て い た こ とに な る。 それ 以 降 の もの と して は,米 沢 市 梓 山の 「獅 子踊 」 と記 され た 天 明3年(1783)の 豊 年 祭 の 石 塔,寛 政 年 間(1789‑1801)に 記 され た とされ るr梓 山 村 上 組 獅 子踊 本記 』(万 世 郷 土 史 編 集 委 員 会1972:20)10),文 政10年(1827)の 「獅
国立民族学博物館研 究報告 26巻2号 子踊 議 定 之 事 」(梓 山獅 子 踊保 存 会1996:76,83)が 比 較 的 古 い もの であ る。18世 紀 に 入 る と,川 西 町 小松 の天 明年 間(1781‑1789)の 獅 子 頭(川 西 町1983:765),東 大 塚 村 の文 政8年(1825)と 弘 化3年(1846)の 獅子 踊 の記 録(那 須1972:77‑78),長 井 市 五 十 川 の 文 政 年 間(1818‑1830)の 太 鼓(長 井 市1985:686)な ど,各 地 で 見 ら れ る よ うに な る。
前述 のr梓 山 村 上組 獅 子 踊 本 記 』 に は,梓 山上 組 の獅 子 踊 は,栃 木 県 今 市 の 関 東文 挟 流獅 子 踊 を 諸 国 に教xて 回 って い た 文挾 太 夫 和 泉 庄 左 衛 門 が教 授 して始 ま った もの で,中 断 した獅 子 踊 を 寛政9年(1797)に 復 活 す る際 に は 同 じ文 挟 流 の 同市 李 山 か ら 教 授 を 受 け た と記 され て い る(梓 山 上 組 獅 子 踊 保 存 会1989:17‑23)。 上 組 で は現 在
も関東 文 挾 流 と纏 に記 され,上 演 中 に 口上 で それ が 述 べ られ て い て(梓 山 獅 子 踊保 存 会1996:79),流 派 が重 要 視 され て い る こ とが窺xる 。 一 方,梓 山下 組 で は,伊 達 輝 宗 の 治世 の 天 正2年(1574),疫 病 が 流 行 した 際 に,ど こか らか異 人 が来 訪 して,春 の 彼 岸 に 獅 子 踊 を 行 うと難 を 免 れ 五 穀 成 就 に恵 ま れ る と教xた の が 始 ま りと して い る。 しか し,両 組 は文 政11年(1828)に 会津 の下 柴 村 文 挟 流 古橋 角 太 夫 か ら秘 法 を 伝 授 され た とい う異 伝 も伝 わ ってい る。 両組 に似 た 図柄 の 踊 図 が伝 わ ってい るが(米 沢 市1990:647‑651),そ れ らは 会 津 地 方 に 伝 わ る踊 図 とよ く似 て い て,梓 山 と会 津 地 方 との交 流 関 係 を 示 唆 して い る。 また,梓 山 で は太 夫 と呼 ば れ る総 元 締 め 役 が 伝 書 の 巻物 を祇 紗 に 包 ん で 奉 持 して 行 列 に 参 加 して い るが(梓 山 上 組 獅 子 踊 保 存 会1989:
9),伝 書 や 由来 書 の類 は,こ の地 方 の ほ か の獅 子 踊 では ほ とん ど見 られ な い 。 置 賜 地 区 と西 村 山郡 朝 日町 を 除 い た 山形 県 域 各 地 に は,5匹 や7匹 あ るい は そ れ 以 上 の一 人 立 の 獅 子 が 出 る獅 子(鹿)踊 が分 布 して い る。 これ らは,踊 の構 成 や 歌 の 詞 章 な ど3匹 の 獅 子 踊 と共 通 す る面 が あ る一 方 で,獅 子 頭 や 幕 の形 状 や 由来 に 関 す る伝 承 な ど,異 な る点 も多 い。 そ して 何 よ りも注 目され る のは,3匹 の獅 子 踊 は5匹 以 上 の獅 子 踊 が 分 布 して い る地 域 に は 全 く見 られ ず,両 者 が 見事 に棲 み 分 け て い る こ とで あ る。何 故 こ うした状 況 が 現 れ て い る のか は 明 らか で は な く,今 後 の検 討 課題 で あ る。
丹 野 正 は 山 形 県域 の獅 子 踊 を,置 賜 系 ・村 山系 ・最 上 系 ・田川 系 ・飽 海 系 の5系 統 に分 け,獅 子 が3匹 の もの をす べ て置 賜 系 に 分 類 して い る(丹 野1985:21)。 しか し, 丹 野 が置 賜 系 に 一 括 りした獅 子 踊 に も,太 鼓 を付 け ず 火 の輪 くぐ りを行 う置 賜 地 方 西 部 の獅 子 踊,宮 城 方面 か ら伝 来 した と され る西 村 山郡 の獅 子 踊 とい う よ うに,地 域 的 な違 いが 認 め られ た の は前 述 の通 りで あ る。 安 彦 好 重 は 置 賜 地域 の獅 子 踊 は 南 置 賜 と 東 置 賜 で は 異 な る特 徴 を 持 つ と指 摘 して い るが(安 彦1997:125),傾 聴 す べ き見 解
といxる 。
笹原 三匹獅子舞の分布
花 笠 を被 り太 鼓 を 付 け た 役 が 登 場 し,太 鼓 を 叩 きな が ら獅 子 と一 緒 に 踊 る とい う形 式 は,こ の地 方 の獅 子 踊 に 共 通 に 見 られ る特 徴 で あ る。 こ う した 形 式 は,獅 子踊 の伝 来 以 前 に この 地 方 で 行 わ れ て い た 田 楽 系 の太 鼓 踊 と獅 子 踊 が 習 合 した結 果 と い うが (長 井 市1985:686‑687),詳 細 は 定 か で は な い。 因 み に,18世 紀 中 期 の作 とされ る 国立 歴 史 民 俗 博 物 館 所 蔵 のr四 季 耕作 図屏 風 』 に は,曲 屋 風 の民 家 の 庭 先 で 幼 い1人 の 男 児 を前 に2人 の 花 笠 を 被 った 太 鼓 打 ち を伴 って舞 う3匹 の獅 子 の 姿 が 描 か れ て い て,芸 態 的 には この 地 方 の 獅 子 踊 と極 め て よ く似 て い る。
3.5福 島 県 の三 匹 獅 子 舞
福 島県 域 の三 匹 獅 子 舞 は,中 断 や 廃 絶 を 含 め て250ヵ 所 前 後 の所 在 が認 め られ る11)。
分 布 は 太 平 洋 岸 で は 南部 の い わ き市 に分 布 が集 中 して い る。 内陸 部 で は 郡 山市 を 中心 に南 北 に 帯 状 に 分 布 し,会 津 地 方 で は会 津 若 松 市 ・喜 多 方 市 とや や 離 れ た 南部 の 田 島 町 に若 干 見 られ る。
三 匹 獅 子 舞 の 呼 称 に 関 して は,獅 子 あ る い は獅 子 舞 と呼 ぶ と ころ が 多 い12)。いわ き 地 方 では サ サ ラ と呼 ぶ と ころ もあ る。 内陸 部 の郡 山市 や 田村 郡 で は三 匹獅 子 と呼ば れ て い るが,こ の 地 域 で は,祭 の 行列 に三 匹 獅 子 舞 と とも に長 獅 子 と呼 ば れ る二 人 立 の 獅 子 が 加 わ る こ とが 多 く,両 者 を 区別 す る ため にそ う した 呼 称 が 使 用 され て い る。 会 津 地 方 で は 彼 岸 獅 子(舞)と 呼 ぼれ て い る13)。
3匹 の 獅 子 は2匹 の雄 と1匹 の雌 か ら構 成 され るが,そ れ ぞ れ の 呼称 は 各地 域 で異 な る。 い わ き地 方 で は雄(大 ・親)獅 子 ・雌 獅 子 ・中(子)あ るい は親(大)獅 子 ・ 雌 獅 子 ・子 獅 子 と呼 ぶ と ころ が 多 い。 雄2匹 を先 獅 子 ・後 獅 子 と呼 ぶ場 合 もあ る(夏 井1991:140)。 内 陸 部 で は,南 部 は 太 郎 獅 子 ・雌 獅 子 ・次 郎 獅 子 と呼 ぶ と こ ろが 多
く,北 部 で は,一 番獅 子 ・二 番 獅 子 ・三 番 獅 子,親 獅 子 ・雌 獅 子 ・子獅 子,先 獅 子 ・ 雌 獅 子 ・中獅 子 な ど と呼 ぼ れ て い る(福 島 県 教 育 委 員 会1991:158‑175)。 会 津 地 方 で は,太 夫 獅 子 ・雌 獅 子 ・雄 獅 子 と呼 ぼ れ て い る。
獅 子 頭 の 形 状 は場 所 に よ って様 々 で あ るが,大 神 楽 の 獅 子 の よ うな い わ ゆ る獅 子 型 の もの は あ ま り見 られ な い14)。構 造 は 張 子 と木 彫 が あ る。 山 口弥 一 郎 は会 津 地 方 で は 張 子 が 多 い の に対 して い わ き地 方 で は 木 彫 で あ る と指 摘 して い るが(山 口1955:
337),実 際 に は い わ き地 方 で も張 子 が 見 られ る。 船 引 町 石森 の よ うに作 り替 えた 際 に 張 子 か ら木 彫 へ変 化 した と こ ろや(船 引 町1982:662),逆 に郡 山市 岩 倉 の よ うに 木 彫 か ら張 子 に変 化 した(鹿 野1996:68)と こ ろ もあ る。 内陸 部 の 田村 郡 で は 山 鳥 の 羽 根 を 挿 した もの が 多 い とい った地 域 差 も認 め られ る。
国立民族学博物館研究報告 26巻2号 獅 子 役 は 腹 部 に 太 鼓 を 付 け て 打 ち な が ら舞 うと ころ が多 い が,太 鼓 を 付 け な い と こ ろ が 内陸 部 の福 島 市 や 伊 達 郡 内 に 分 布 して い て,そ こで は太 鼓 打 ち役 が 加 わ り,太 鼓 を打 ち な が ら獅 子 と一 緒 に舞 って い る(懸 田1991:130)。 い わ き地 方 で も田人 地 区 で は太 鼓 を 付 け な い(夏 井19911191)。 獅 子 が 太 鼓 を付 け るが 俘 を 持 た な い と ころ や,太 鼓 を 付 け ず 俘 だ け 持 つ と ころ もあ る。 獅 子 が太 鼓 を叩 か ず 太 鼓 打 ち が 出 な い こ
う した とこ ろで は,嘩 子 方 の 笛 と歌 に太 鼓 打 ち が加 わ っ て い る15)。
獅 子 の 舞 手 を 務 め るの は,い わ き地 方 と会 津 地 方 では 青 年 で あ る。 内 陸部 で は十 代 前 半 の少 年 が 舞 手 を務 め,獅 子 児(子)と 呼 ぼ れ て い て,次 郎,雌 獅 子,太 郎 と1年 毎 に 役 が 進 ん で い くと ころ が多 い。 舞 手 はか つ てほ と ん どの と ころ で長 男 に 限 られ て い た 。
獅 子 舞 に は3匹 の獅 子 以外 の役 が加 わ る と こ ろが 多 く,こ うした 役 は,い わ き地 方 で は 猿 若 ・ トウ ロ ク ・シ ッ コ獅 子,内 陸 では 岡 獅 子 ・道 六 ・サ サ ラ振 り ・鉦 切 りな ど と呼 ば れ て い る。 オ カ メや ヒ ョッ トコな どの 滑 稽 な面 を 着 け,腰 に ヒ ョウタ ンや 男 根 を 下 げ た り,箪 や扇 や 軍 配 を持 っ て,獅 子 と一 緒 に舞 った り,獅 子 の汗 を拭 い てや っ た り,道 化 た仕 種 で見 物 人 の笑 いを 誘 う。 獅 子 役 の舞 手 を経 験 した 師 匠や 先 輩 格 の人 が 務 め る こ とが多 く,上 演 中 に 獅 子 の舞 手 の世 話 を した り,動 き方 を 指 示 した りす る。
岩 代 町 で 見 られ る 岡獅 子 や サ サ ラ振 りは,獅 子 役 に な る前 の少 年 が演 じて い る(岩 代 町1982:360‑411)。 会 津 地 方 の 彼 岸 獅 子 で は 幣舞 小 僧 と呼 ば れ る子 役 が 出 て 雄 獅 子 に 絡 む(会 津 若 松 市 教 育 委 員 会1995:12)。 こ うした役 は,現 在 出 な くな る傾 向 に あ る。
獅 子舞 が行 わ れ る のは,い わ き地 方 で は7月 か ら9月 にか け て,内 陸 部 では4月 か ら11月 に か け て で,い ず れ も社 寺 の 祭 や縁 日に,社 寺 の境 内 の ほか,獅 子 宿 や 関 係 者 宅 な ど地 域 内 の決 め られ た 場 所 で 行 われ る。 そ の際 に は,地 域 内 の家 々を 巡 って 行 わ れ る場 合 もあ る。 いわ き地 方 で は そ れ を組(村)ま わ りと呼 んで い る。 か つ て は 方 々 で行 われ て い たが,現 在 ほ とん ど見 られ な い(夏 井1991:182‑183)。 会 津 地 方 では, 春 の彼 岸 に地 元 の家 々や 会 津若 松 や喜 多 方 の町 場 の家 々を 巡 って 行 わ れ る。 同 じ会 津 地 方 で も田 島町 で は 彼 岸 に は 行 われ ず,神 社 の祭 や お盆 の時 に 行 わ れ て い る(田 島 町 1977:402‑424)16)。 いわ き地 方 と内陸 部 では,本 番 直 前 の 練 習 の 総 仕 上 げ を 笠揃 い, 本 番 後 の舞 納 め を 笠 外 し と呼 ん で い る。 会 津 地 方 では 総 仕 上 げ を 足 ぞ ろ い と呼 ん で い
る。
上 演 の形 態 と して は,内 陸 の 中央 部 と会 津 地 方 では 獅 子 舞 が 単 独 で 上 演 され る が, そ れ 以 外 の地 域 で は ほ か の芸 能 と と もに上 演 され て い る。 い わ き地 方 で は棒 術,内 陸