目 次 は じ め に
Ⅰ テキストの構造
1
.先行研究について2
.四つのユニットⅡ 中国当代文学における反ユートピアのテキスト
1
.『白銀時代』
2
.『受 活』
3
.『盛世:中国、二〇一三年』
4
.『火星照耀美国』Ⅲ 構造機能とテキストの特色
1
.ユートピアの提示2
.ユートピアの施行3
.ユートピアの変質反ユートピアのテキスト構造
―中国当代文学の四作品を中心に―
朱 力
*要 旨
反ユートピア文学は最初に西洋で誕生し、現在は世界的な文学潮流となっている。異なる文化的背 景の下、多様な創作や言説が存在する。歴史的、政治的な理由で、中国当代の反ユートピア文学の形 成はかなり遅かった。その作品は、当代中国文学史の中に点在的に分布し、ほとんど継承性や連続性 が見えない。とはいえ、中国当代の反ユートピア作品にまったく共通点がないというわけでもない。
本論文は、主にフォルマリズムと構造主義の理論に基づいて、反ユートピアのテキスト構造、すなわ ち「ユートピアの提示」、「ユートピアの施行」、「ユートピアの変質」、「ユートピアの閉鎖」、四つの構 造ユニットを提示する。この構造モデルを用いて、中国当代の反ユートピア文学の中の四作品、すな わち『白銀時代』、『受活』、『盛世:中国、二〇一三年』、『火星照耀美国』の四つのテキストを考察し、
反ユートピアのテキストには、同じ構造が共有されていることを確認した。また、テキスト構造の各 ユニットの機能に分析を加え、各テキストの特異性、および中国当代の反ユートピア文学に見られる
「現実性」と「輪廻」式の表現が形成された理由を明らかにした。
* シュ リキ 文学研究科中国言語文化専攻博 士課程後期課程
2020年10月15日 査読審査終了
4
.ユートピアの閉鎖 お わ り には じ め に
反ユートピア作品は、今日でもよく書かれ、最 も生命力がある文学ジャンルの一つであると考え られる。小説から映画まで、表現力と批評力に富 む作品が続々と登場している。
実は、反ユートピア文学は比較的新しいジャン ルであり、世界文学史に占める位置は決して大き いとは言えない。その歴史はわずか百年余りで、
まだ始まったばかりだと言えよう。
反ユートピア文学の出現は比較的遅く、一般に
19世紀後半から20世紀初頭に形成されたと考えら
れている。反ユートピア文学の元祖については、昔から様々な説があり、現在でも統一した答えが
存在しない。しかし、「反ユートピア」について は、間違いなく「反ユートピア三部作」の方がよ り有名で、世間に広く知れ渡っている。「反ユート ピア三部作」とは、エヴゲーニイ・ザミャーチン の『われら』(1925)、オルダス・ハクスリーの『す ばらしい新世界』(1932)、ジョージ・オーウェル の『1984年』(1948)のことである。これらの作品 は広く読まれ、世界中の読者に深く継続的な影響 を与えている。さらに、三部作によって、反ユー トピアという文学ジャンルの形式が確立したと言 ってもいいだろう。
反ユートピア文学について述べる前に、「ユート ピア」と「反ユートピア」の定義について、簡単 に説明しておきたい。本論文で使用する「ユート ピア」は、特に説明しない限り、「伝統的ユートピ ア」ではなく「現代的ユートピア」を意味する。
「現代的ユートピア」に対応するテキストの特徴 は、一定程度宗教を排除し、現実と人間を重視し、
具体的なシステムの設計を示し、内容的に未来を 目指すことである。したがって、「反ユートピア」
は「現代的ユートピア」を批判・反省するテキス トになる1)。このような概念によって定義された テキストに共通する形式と構造には、反ユートピ ア文学の伝統が明らかに反映されていると思われ る。
同時に、指摘しなければならないのは、反ユー トピア文学は確かにある程度規格化、類型化され た文学ジャンルであるということだ。反ユートピ ア作品が、それぞれの時代の異なる形の「ユート ピア」に対して行っている批判と警告こそ、その 偉大な伝統を構成し、持続させる核心である。し かし、伝統の継承によって、テキストの構造と物 語のプロットが類似し、さらに人物像も類型化し てしまう。これは間違いなく反ユートピア文学創 作の桎梏になり、小説の文学性はある程度損なわ れてしまう。致命的なものではないが、これは反 ユートピア文学の限界ではないか。しかし、逆に 言えば、ある意味ではこれも反ユートピア文学の
特徴であり、魅力的なところと言えるだろう。
上述した反ユートピア文学の規格化、類型化と いう性格を踏まえて、本論文ではフォルマリズム と構造主義の理論に基づいて、テキスト分析を展 開する。テキスト構造を考察した上で、その構造 の機能を分析していく。研究対象については、中 国当代2)文学を中心とする。具体的には、以下の 四作を取り上げる。王小波の『白銀時代』3)、閻連 科の『受活』4)、陳冠中の『盛世:中国、二〇一三 年』5)、韓松の『火星照耀美国』6)である。もちろ ん、当代中国文学史上には、上記の四つの作品以 外にも、反ユートピア文学作品が存在する。例え ば、劉維佳の短編小説『高塔下的小鎮』(1998)、
馬伯庸の『寂静之城』(2005)、格非の「江南三部 作」(2004-2011)など。しかし、本論文が取り上 げる四つの作品は、内容と題材がそれぞれ異なり、
当代中国の反ユートピア文学の多様性を反映でき ると思われる。中国当代文学史上、反ユートピア 文学が誕生してからまだ非常に日が浅いため、四 つのテキストの創作時期は比較的集中している。
それにもかかわらず、テキストが批判した「ユー トピア」とその具体的な表現方法、また反映され た社会問題および作者の注目点などは大きな変化 がある。取り上げた四つのテキストの分析を通じ て、この多次元的な変化を、より明確に示すこと ができると考えている。そこで、各テキストの長 さも含めて検討した結果、上記の四つを代表的作 品として選んだ。
本論文の第Ⅰ章では、先行研究をまとめ、簡単 に内容を説明する。先行研究と構造主義の理論に 基づいて、反ユートピアのテキストに共通する構 造のモデルを提示することを試みたい。反ユート ピアのテキストは「ユートピア」をめぐって、物 語が展開する。具体的に言うと、その構造は以下 の四つのユニットで構成されている。つまり「ユ ートピアの提示」、「ユートピアの施行」、「ユート ピアの変質」、「ユートピアの閉鎖」である。各ユ ニットを詳しく説明しながら、『1984年』を手がか
りにして、このモデルの実行可能性を証明する。
第Ⅱ章は、前述のテキスト構造のモデルを切り口 にして、中国当代文学の中の代表的な反ユートピ ア作品四篇を取り上げ、それぞれ分析する。その テキスト構造を考察し、明らかにした上で、作中 の言葉を使い、比較のための図表を作成する。最 後の第Ⅲ章では、テキスト構造の各ユニットの機 能を述べる。また、構造上の特徴に注目し、各テ キストの特異性、および中国当代の反ユートピア 文学のいくつかの共通項を指摘する。
本論文は、主にフォルマリズムと構造主義の理 論に基づいて、中国当代の反ユートピア文学の中 の四作品を対象として、総合的に考察を行う。反 ユートピアのテキスト構造を明確化し、さらに各 テキストの特異性、および中国当代の反ユートピ ア文学のいくつかの共通項を明らかにすることを 目指している。
Ⅰ テキストの構造
1
.先行研究について中国国内において、構造主義や物語論などの理 論を用いて、反ユートピア作品を分析する研究は たくさんある。しかし、その大半は、作品のスタ イルや物語の叙述法などを論じている。主にテキ ストを、「カーニバル性」、「異化」、「アイロニー」
などの視点から分析している。研究の範囲を「テ キスト構造」に限定すれば、論文の本数はかなり 少なくなる。さらに、「中国当代文学」にまで絞る と、ほとんどないという状況である。一方、日本 において、反ユートピア文学は研究対象として注 目されていない。近年、一般読者の間で、SF小説 はわりと人気があり、反ユートピア作品は
SF
小 説のサブジャンルとして、読まれている。しかし、研究にはあまり取り上げられず、論文は非常に少 ない。特に、反ユートピア作品のテキスト構造に 関する研究は、まったくないという状況である。
本章で取り上げる三つの論文は、いずれも中国の 先行研究で、西洋の反ユートピア作品を中心に論
じている。これを理論上の参考としたい。
姚建花は修士論文の「反烏托邦『文本』的叙述 機制」7)の第二章で、「全体主義を省みることを主 題とする反ユートピアの『テキスト』」を対象とし て、これらのテキストは「どのような叙述構造に よって、ユートピアから反ユートピアに転換した か」ということを考察した。これらのテキストは 常に「攻撃のターゲットとして『完璧』なユート ピア社会を設定し」、次に「ユートピアの原則の極 まり、冒険行為の失敗、アイロニーという三つの 要素で、『テキスト』の中のユートピア社会を反ユ ートピアに逆転させる」と述べる。そして三つの 要素について、さらに分析を加えている。例えば、
「冒険行為」は、「身体的冒険」と「観念的冒険」
に分類できる。つまり、行動あるいは思考によっ て、「完璧」な設計に対して質疑し、反抗するの だ。先に述べた「アイロニー」について、姚建花 は「叙述姿勢」だとしている。テキスト構造の一 環というより、叙述上の策略やスタイルのような ものに近いと言うのだ。この部分の論述は、啓発 的な指摘であるが、問題点も存在する。姚建花は 数多くのテキストを引用し、その構造を論証して いる。しかし、提示したテキスト構造はやや複雑 で曖昧であり、すべてのテキストに通用させるこ とはできないと思われる。
殷艶芳の「反烏托邦三部曲的叙事結構模式分 析」8)は、グレマスの理論9)に基づいて、「行為項モ デル」を用いて反ユートピア三部作の登場人物の 関係を分析した。さらに、「意味の四角形」を用い てテキストの構造を明らかにし、反ユートピア文 学における「人道」と「反人道」の二項対立を指 摘する。また、「反逆―破滅」という明確なテキス ト構造を提示し、三部作の構造を要約している。
具体的には、「反逆者の反抗意識の目覚め」、「反逆 者の反抗行動」、「反逆者の直接対抗」、および「反 逆者の滅亡」という四つのユニットに分けられる。
殷艶芳が提案したこの「反逆―破滅」というモデ ルは、確かに三部作のテキストに適用される。し
かし、明らかな欠陥も存在する。すなわち、この モデルは完全に「反逆者」の視野に限定され、テ キストの全体的な構造を無視したということであ る。
趙柔柔は「反烏托邦的誕生」10)で、「反ユートピ ア」の命名、およびその伝統の形成と発展の苦境 について、議論を展開する。第三章では、反ユー トピア文学のテキスト構造を簡単に説明しながら、
「安定―動揺―閉鎖」というモデルを提示した。そ して、以下のように分析を加えている。反ユート ピア三部作のテキストは「動的な『社会進化』の プロセスを示している。つまり、閉鎖的で安定し た社会が一度疑問視され、挑戦される。しかし、
最後に反抗が弾圧され、秩序が回復し、より安定 した閉鎖的な社会に『進化』していく」。趙柔柔に よって提起されたテキスト構造は非常に簡潔で、
明確で、示唆に富む。しかし、「テキストの構造」
の分析はこの論文の主題ではなかったので、三部 作のテキストを一言でまとめてモデルの論拠とし ただけで、残念ながらそれ以上の分析を展開しな かった。
以下、この三つの先行研究、および関連する文 学理論11)を参照しながら、反ユートピアのテキス トに通用できる構造のモデルを提示することを試 みたい。
2
.四つのユニット歴史上の反ユートピア小説は、人物像、プロッ ト、題材などが、もちろんそれぞれ異なる。しか し、「はじめに」の部分で述べたように、「反ユー トピア」という文学ジャンルの伝統を構成する中 核は、「ユートピア」に対する批判・反省である。
反ユートピア文学はユートピア文学に基づいて形 成され、「ユートピア」をめぐって、発展し続けて きた。形式について言えば、ユートピアを踏まえ て物語を展開する。そして、内容について言えば、
ユートピアの中核―「完璧」な「想像」
―特
に「完璧」に対する批判・反省を中心とする12)。そのため、反ユートピアのテキスト構造を分析す るには、「ユートピア・完璧」を手がかりとし、議 論を展開していくことになる。
この考えに基づいて、また先にまとめた先行研 究と関連する理論を参考にして、反ユートピアの テキスト構造を四つのユニットに分けることがで きる。また、反ユートピア三部作相互の継承性、
類似性を配慮して13)、本章では創作時期は一番遅 いが、最もよく知られ、影響力も大きい『一九八 四年』のテキストを例として、この構造モデルを 説明し、検証することにしたい。
姚建花が指摘したように、反ユートピアのテキ ストは、「つねに一つの『完璧』を宣言したユート ピア社会を叙述の『標的』として」14)、物語を始め る。確かに、現代的ユートピアはいつも人類社会 を対象として、想像と構築が広がっていく。その ため、反ユートピア三部作の三つの物語は、19世 紀のユートピアに関する想像や実践などに応じて、
同じく「完璧」に見える社会を設定し、総合的な 反省と批判を行う。しかし、反ユートピア文学の 発展に伴い、反省はますます深まり、批判対象も 多元化してきた。多くの反ユートピア小説は、社 会の全体像を構築せず、一つのことに焦点を当て る。全面的な思考ではなく、一つの「点」に絞り、
具体的に描いていく。そのため、「ユートピア」を
「社会」などの決まった形に限定せず、より柔軟で 包括的な方法を採用する必要があると思われる。
そこで、反ユートピアのテキスト構造の最初のユ ニットを、「ユートピアの提示」と命名したい。こ のユニットで、ほとんどの反ユートピアのテキス トは、ある矛盾に対する完璧な解決方法として、
非常に誘惑性と欺瞞性がある「ユートピア」を提 示する。とはいえ、反ユートピア文学が確立して 知れ渡っている場合、この誘惑性や欺瞞性は、す ぐに読者に見破られてしまう。『一九八四年』を例 に挙げよう。あの有名なスローガンによって、こ のテキストが提示した「ユートピア」が分かるだ ろう。すなわち、「戦争は平和なり、自由は隷従な
り、無知は力なり」15)で、このスローガンは、オセ アニアの宣伝文句でもある。明らかに、「平和」、
「自由」、「力」は、このユートピアが作り上げた、
あるいは約束した「完璧」である。『一九八四年』
の独特なところは、ユートピアの構築と脱構築が 同時に行われていることだ。つまり、「平和」、「自 由」、「力」のようなすばらしい構想を提示すると 同時に、「戦争」、「隷従」、「無知」を用いて、諷刺 を加え、解消してしまう。
「ユートピアの提示」というユニットが完成した ら、反ユートピアのテキストは通常、提示したユ ートピアの展開を続ける。要するに、ユートピア を実現、また維持するための具体的な手段や方法 などを述べるのである。このユニットを「ユート ピアの施行」と名付けることにしたい。かなり激 しい、あらゆる手段を使い、極端な場合は、ブラ ックユーモアや、またマジック的な表現もある。
一方、プロットの展開においては、安定的に前に 進んでいく傾向が見える。『一九八四年』で言え ば、主に主人公ウィンストンの視点から、オセア ニアの各政府部門と一般民衆の生活を紹介する部 分に当たる。例えば、法律と秩序を維持するとい う「愛情省」は、実は反体制の思想を持つ人々を 徹底的に拷問し洗脳することを担当している。ま た、「二分間憎悪」は、いわゆる党の叛徒や敵に対 して、ありったけの憎悪を見せることによって、
党および「ビッグ・ブラザー」に対する忠誠心を 高めるものである。
次は、第三のユニット、一般的には小説のクラ イマックスでもある。このユニットを「ユートピ アの変質」と名付けたい。前のユニットで、ユー トピアに対する極端な表現があったので、必然的 に現実との矛盾が生じてしまう。表面的にユート ピアはそのまま維持されているように見えるが、
実はすでに変質し、ディストピアとなっている。
具体的には、このユートピアの下で、抑圧されて いる人々の痛苦や反抗として表現される。ただ、
強調しなければならないのは、先に述べたように、
反ユートピア小説の読者は、通常このユートピア の「改悪」を予知しているということだ。つまり、
読者は小説を読む前に、すでにユートピアに対し て、警戒心を持っている。しかし、ここで提示し た「変質」は、小説中の登場人物の視点を基準と している。殷艶芳の指摘を借りて言えば、「反逆者 の反抗意識が目覚める」のであり、彼らの目に映 るのは、嘘ばかりの荒唐無稽な世界である。また、
姚建花が述べたように、「反抗」は「身体的」な反 抗と「観念的」な反抗に分けられる。例えば、最 初ウィンストンはただ日記で体制に対する疑問や 不満を訴え、あるいは無意識的に「ビッグ・ブラ ザーをやっつけろ」16)と書いただけだった。その 後、ジュリアとの密会をはじめ、さらに反政府地 下組織の「ブラザー同盟」への参加を試みること になる。しかし実際には、「変質」が必ず「反逆 者」を生み出すわけではなく、「変質」も必ず「反 抗」を手段とするわけでもない。「変質」は「非反 抗者」の痛苦や疎外などとして表現されることも ある。例えば、『一九八四年』の中で、民衆が洗脳 されて、「二重思考」に慣れてしまうこと、子供た ちが「思考警察」のふりをして自発的に親を監視 し告発することなども、側面からユートピアの変 質を描いた例となるだろう。
最後のユニットは、小説の結末に当たる。先ほ ど整理した先行研究を再び確認しよう。三つの先 行研究は、物語の結末における反ユートピア文学 の共通点を鋭く指摘している。姚建花のいわゆる
「冒険行為の失敗」、殷艶芳のいわゆる「反逆者の 滅亡」、また趙柔柔のいわゆる「閉鎖」、いずれも 反ユートピア文学の宿命的な悲劇の結末を述べて いる。これは決して偶然ではない。反ユートピア 三部作だけではなく、この「悲劇」はすべての反 ユートピア作品の中で何度も繰り返し描かれてい ると思われる。反逆者は必ず失敗を迎え、人間は 必ず苦痛に苛まれ、「ユートピア」の嘘と暴力はい つまでも終わらない。このように、テキストで閉 鎖的な空間を作り出すのは、反ユートピア文学の
最大の特徴と考えられる。したがって、最後のユ ニットは、「閉鎖」という言葉を援用し、「ユート ピアの閉鎖」と名付けたい。前述したように、こ のユニットで、テキストは通常ユートピアの受け 手の妥協や犠牲、反逆者の失敗、また文明の壊滅 などの悲劇的な結末を描き、「閉鎖」的な空間を示 す。例えば、『一九八四年』の中で、ウィンストン は「二足す二は五である」ことを認め、ジュリア の愛情を裏切り、最終的に「自分に対して勝利を 収め」、心から「『ビッグ・ブラザー』を愛してい た」17)。
以上で、反ユートピアのテキスト構造を明らか にした。そのテキストは「ユートピア」をめぐっ て、「ユートピアの提示」、「ユートピアの施行」、
「ユートピアの変質」、「ユートピアの閉鎖」という 四つのユニットに分けられる。以下、これを「提 示」、「施行」、「変質」、「閉鎖」と略称する。四つ のユニットからなる構造は比較的安定しているが、
各テキストにおいて、それぞれの長さは異なる。
また、ユニットが重なって出現することもあるし、
順番が入れ替わることもある。これは、各テキス トの叙述法と関係があり、具体的に分析しなけれ ばならない。次の章では、中国当代文学の四作品 を取り上げ、それぞれに分析を加えることで、さ らに説明を深めたい。
Ⅱ 中国当代文学における反ユートピアのテキスト 反ユートピア三部作はすべて20世紀の前半に生 まれ、明らかな継承性と連続性を示し、たくさん の類似したところがある。例えば、同じく先進的 な技術を持ち、極めて暗い政治状況の全体主義の 社会を小説の舞台としている。主人公は男性で、
社会に対する違和感から、一連の抵抗活動を展開 する。また、男性主人公がある女性と恋に落ちた ことが、彼らが抵抗を決意するきっかけとなる。
このような類似した設定はたくさん挙げられる。
さらに、テキストの構造も一致している。これに ついては、第
1
章で整理した先行研究、および先に述べた四つのユニットによって、説明できるだ ろう。
一方、三部作を代表とする西洋の反ユートピア 文学と比べ、中国当代における反ユートピア文学 は、明らかに正反対の性格を示している。中国当 代の反ユートピア作品には、ほとんど継承性や連 続性が見えない。当代中国文学史の中に、点在的 に分布していると思われる。ある反ユートピア作 品は、その作者のたくさんの作品の中で、かなり 異質な存在である場合もある。また、作品のスタ イルは主に各作家の作風によるものであり、相違 が大きいと言えよう。西洋で形成された反ユート ピア文学の歴史に基づかなければ、この作品群を
「反ユートピア」という名目でまとめることは難し い。とはいえ、中国当代の反ユートピア作品にま ったく共通点がないというわけでもない。これら の作品をテキスト構造から分析することは、その 異同を解明する一つの道であろう。以下、『白銀』、
『受活』、『盛世』、『火星』、この四つのテキストを 取り上げ、先に述べた「提示」、「施行」、「変質」、
「閉鎖」という構造モデルに基づいて分析してい く。
1
.『白銀時代』『白銀』は反ユートピア文学の急先鋒である。初 めてこのジャンルを中国当代文学史に書き込んだ 一作である、と言ってもいいだろう。それ以前に も、ある程度「反ユートピアの要素」を持ってい る作品は存在する。例えば、老舎の『猫城記』
(1932)は、中国最初の反ユートピア小説であると 言われたことがある18)。確かに、『猫城記』はアイ ロニーあるいはブラックユーモアの手法で、一つ の想像上の社会を描いた。火星にある「猫城」が 当時の中国社会のメタファーであることは、誰で も分かるだろう。しかし、テキストの中に、「猫 城」を完璧な「ユートピア」と示している表現は どこにも見当たらない。もちろん、『猫城記』は反 ユートピア三部作と類似したところがあるが、ど
ちらかと言えば、やはり『ガリヴァー旅行記』に より近いだろう。一方、『白銀』は間違いなく、本 格的な反ユートピア作品である。ただ、創作には、
まだ未熟で粗雑なところがある。『白銀』と同系列 の作品19)には、『一九八四年』の模倣がしばしば見 られる。例えば、「ニュースピーク」の使用や、
「101号室」の拷問の再現など。『一九八四年』の用 語やプロットからの簡単な模倣、またテーマの重 複はある程度、小説の読みごたえを損なうと言え よう。『白銀』の独自の特徴としては、主人公の設 定が挙げられる。四つの中編小説の主人公はすべ てアーティストで、全体主義システムの下で制限 を受け、抑圧されていた。
ところが、テキスト構造から見ると、『白銀』は 上述した構造モデルに当て嵌まる。テキストの最 初の一行目で、『白銀』は一つの「謎」を投げかけ た。すなわち、「将来、世界は銀です」20)という一 文である。そして、第四章で、この謎が解けた。
「だれもが知っているように、銀は熱を最もよく伝 えますから、同じ銀の塊で、ある部分が他の部分 より熱いなんてことはありえません。」21)これは理 科系だった作者の「ユートピア」に対する天才的 な発想であると言えよう。つまり、銀の物理的な 性質を利用し、「天下大同」というユートピアのメ タファーとして表現している。以上が「提示」の ユニットになる。その後、『白銀』は従来の小説と 異なり、「天下大同」の社会を展開せず、この発想 を文学の領域に移植した。「僕」は「著作会社」で 働き、すでに発表された自分の小説を改作するこ とを繰り返している。しかし、会社に提出すると、
「現実生活から遊離している」という理由で認めら れない。このように、作品を否認する行為は、「小 説を銃殺にする」と呼ばれている。結局、最終的 に認められた小説は、いつもすでに発表された小 説とほぼ同じになってしまう。さらに、「著作会 社」は従業員のプライベートの生活に干渉し、夫 婦生活を任務として扱う。「会社」の仕組みに関す る描写が、「施行」のユニットを構成していると考
えられる。「僕」は常に現実世界から遊離し、想像 上の小説の世界に夢中になった。ある日、「僕」は 想像上の世界で拷問を受ける。しかし、「僕」はこ の存在しない世界の中で苦しんで死に至るとして も、「白銀世界で迷って死ぬよりもずっといい」22)
と信じている。また、一人の同僚は「本当の小説 が書きたい」という考えを持った。これは、この ユートピアの徹底的な「変質」を宣告するものだ と思われる。だが、「僕」は「本当に小説を書きた いというのならば、どうしても生活の外に出なけ ればならない」23)ことを知っていた。つまり「創 作会社」が決めた「生活」を打ち破ることである。
しかし、「僕」は「肝が小さい。過ちを犯すのが恐 ろしい」24)ので、同僚にそれを言わなかった。「僕」
は妥協するしかない。「僕」自身は小説のおかげ で、まだ生きられるかもしれないが、同僚は「白 銀時代で迷って」しまう。「僕」はそれを冷たい目 で傍観していた。このようにして、ユートピアの
「閉鎖」が完成する。
2
.『受 活』『受活』の特徴は二重のテキスト構造にある。『受 活』は、ほとんど障害者で構成された受活村を中 心として展開していく。本文は、時間順に、柳鷹 雀を主人公として受活村の現在を語る。一方、注 釈に当たる「くどい話」では、茅枝婆を主人公と して受活村の過去を述べる。二つの部分が、二つ のユートピアに対応していると考えられる。前者 は「ポスト毛沢東時代(あるいは改革開放時代)
の発展ユートピア」、後者は「毛沢東時代の革命ユ ートピア」をそれぞれ反映している25)。そのため、
『受活』の構造を分析する時には、二つの部分を 別々に説明すべきだと思われる。
歴史の順番で、先に茅枝婆の部分を分析しよう。
もともと、受活村は誰にも知られず、どんな組織 の管理も受けていない、世界の外側にある「桃源 郷」であった。紅軍の最年少兵士だった茅枝は偶 然この村にたどり着いた。彼女の指導を受け、受
活村は「入社」を始めた。すなわち、「農業合作化 運動」に参加することである。それによって、自 然状態にあった受活村は社会秩序に組み込まれた。
まさに作品のタイトルが示しているように、そこ に描かれたユートピアは、人々に「天国のような 暮らし」26)をさせることである。しかし、人物によ って目に映る「天国」は違う。茅枝婆が望んだ「天 国のような暮らし」は、「子供たちに食べきれない ほど食べさせて、着られないほどたくさんの服を 着せてやる」27)生活である。このユートピアを実現 させるために、茅枝婆は「入社」(あるいは「入 世」)という手段を使った。これは、「提示」と「施 行」のユニットを構成する。しかし、予想に反し て、「鉄災」28)、「大災年」29)、「黒災、紅災」30)とい う一連の悪夢に次々に襲われた。受活村の人々は 尽きることない苦難に陥り、昔のようなのんびり した生活は完全に失われてしまう。ユートピアの 美しい夢は、地獄のような光景に変わった。一連 の政治事件がもたらした破壊と痛苦は、第三のユ ニットの「変質」である。こうして、ユートピア の夢が砕け散り、「退社」は茅枝婆の唯一の望みに なった。結局、茅枝婆は「退社」を認めた文書を 受け取ってすぐ、息を引き取った。
次に、本文の部分を分析していく。本文では県 長である柳鷹雀の物語が語られる。同じく「天国 のような暮らし」を求めるが、柳鷹雀が望んだの は「使いきれないほどのカネを手に入れ」31)ること であった。これは、本文の「提示」のユニットに 当たる。そして、受活村の人々は柳鷹雀に従い、
「絶技団」を組織し、公演して回り、「購レ債」を 集めた。「購レ債」とは、レーニンの遺体を購入す るための債券である。柳鷹雀はレーニンの遺体を 購入し、「レーニン記念堂」を建設し、当地の観光 業を発展させることを図った。これは、ユートピ アを「施行」する手段となる。「絶技団」は村人の 奇形な体を展示し、尊厳を売り払うことで金を稼 いだ。ところが、稼いだ金は奪われ、ユートピア は再び水泡に帰し、災難に変わってしまう。これ
は、第三のユニットの「変質」を構成する。結局、
柳鷹雀の荒唐無稽な計画は上層部から停止命令が 出る。彼自身も事故に遭い、両足を失い、受活村 に隠れ住むことになった。
受活村は一つのユートピアから出たばかりで、
また次のユートピアに入ってしまう。しかし、結 末を見ると、二つの物語はどちらも施行者の失敗 によって、ユートピアの終焉が宣告される。最後 は、受活村が「退社」することも認められ、よう やく平静な日々が送れる「桃源郷」の時代に戻る。
これでは、「ユートピアの閉鎖」にならないのでは ないか。反ユートピアは現代的ユートピアに対す る批判と反省であり、「桃源郷」式の伝統的ユート ピアは、反ユートピアの解消にならない。それは さておき、受活村は本当に時間を取り戻し、過去 に㴑れるのだろうか。
片足猿(またの名は猿跳び)は受活村の若い村 民である。彼は昔からひたすら柳鷹雀に従い、「絶 技団」に積極的に参加し、幹部になろうとしてい た。人々がみな金を奪われて村に帰ってきた時、
彼は偶然柳鷹雀の「敬仰堂」を見つけ、隠されて いた黄金を着服した。柳鷹雀が県長を辞め、事故 に遭ったことを聞いて、村人は驚いて、無言でお 互いに顔を見合わせたが、「片足猿だけは喜色満面 だった」32)。彼は待ち続けた出世の機会をようやく 迎えることができた。片足猿の金と権力への欲望 は、彼が茅枝婆と柳鷹雀の後継者として、新しい
「夢追い人」になる宿命にあることを示している。
小説の最後に描かれているように、受活村は「変 わったところはないようでいて、実際にはどこか が元とは違っていた」33)。ユートピアの輪廻がす でに始まり、昔の受活村は完全に消えてしまった のである。
3
.『盛世:中国、二〇一三年』『盛世』は一見すると平坦で、時間軸に沿って老 陳の視点で物語が展開していく。小説の中には、
金持ちの実業家、高級官僚、反体制派、「精神病患
者」など、様々な人物が登場する。老陳はまるで 観察者のように、すでに「盛世期」に入った「中 国社会」を語っている。『盛世』は『白銀』と同じ く、テキストの最初のところで、一つの「謎」が 示される。「一か月がどこかに行ってしまった」34)。
『盛世』は、この消えた一か月が、人々に与えた影 響を描く。老陳などの数人は、この消えた一か月 の真相をずっと探っている。しかし、『白銀』と異 なり、『盛世』は最後に、高級官僚である何東生の 口から、ようやく答えが明かされる。いわゆる「氷 火盛世計画」である。「氷火盛世計画」は2011年に 実行されたが、老陳の物語は2013年から始まり、
時間に沿って展開していく。このように、『盛世』
は物語の叙述において、後説法を用いて、先にユ ートピアの「変質」を述べ、そして最後にユート ピアがどのように「施行」されたかが明かされる。
分かりやすく説明するため、テキスト構造の順 番で分析していこう。テキストの初めのところで、
老陳は「みな誠実な喜びを顔に浮かべた」のを目 にして、「今やまさに名実ともに『太平盛世』の時 代になったのだ」35)と心から感じる。小説のタイト ルが示すように、「盛世」こそ、このテキストが
「提示」したユートピアであり、第一のユニットに 当たる。そして、最後の何東生の告白によって、
中国はどのように空前の世界的な経済危機を乗り 越えて、逆に繁栄し、「盛世」の時代が導かれたの かを明らかにした。一連の経済面、政治面での方 策の他、中国は一週間の無政府状態、また三週間 の「厳打」36)を経て、「天下大乱」後の「天下大治」
を達成した。また、飲用水に化学薬品を加え、民 衆を「ライハイハイ」37)の状態にさせ、「和諧社 会」38)を実現した。以上は、第二のユニットユート ピアの「施行」である。続いて、より不思議なこ とに、ほとんどの人は無政府状態と「厳打」のこ とを忘れてしまい、まるで何も起こっていないか のようだった。しかしながら、極めて少ない人た ちは、その一か月のことをしっかりと覚えている。
彼らは「和諧社会」の中で、まるで精神病にかか
った異質者のように、鬱々としていた。これらの 人々から見ると、ユートピア的な「和諧社会」は すでに「変質」してしまったと言えよう。最後に、
彼らは何東生を拉致するというかなり極端な方法 で、ついに探し続けた答えを手に入れたが、物語 は急にここで終わった。老陳たちは、以前のよう に庶民の「普通の生活を続け」、一方何東生は「昇 格と金儲けを続け」39)る。何も変わらず、昔のまま で、テキストはまるで「何も起こっていない」よ うに、ユートピアの「閉鎖」を完成した。
4
.『火星照耀美国』『火星』は四作の中で、唯一の本格的な
SF
小説 である。小説が設定する時間は、創作された時間 から、最も遠く離れている。物語は2066年から始 まり、主人公である唐龍が、2066年のまた60年後 に回想する形で展開していく。『火星』の断片化し たテキストは、顕著な特徴の一つで、この小説の 理解や構造の分析を困難にしている。例えば、『火 星』は一つの大きなユートピア、つまり世界全体 を管理している人工超知能システムであるアルマ ンドの崩壊を背景にして、二つの小さなユートピ アを描いている。つまり、「烏托村」と「光明城」40)である。しかし、これらは『火星』が言及する多 くの問題と同様、数ページしか触れられず、具体 的に展開しない。すべては主人公が長い旅の中で、
経験したことの一つにすぎない。一方で、断片化 という書き方によって、小説の内容は拡大したと 思われる。テキストは百科事典のように、人類の 文明に隠れたたくさんの危機を提示している。に もかかわらず、一見混乱しているように見える『火 星』のテキストは、ユートピアをめぐって展開す るメインストーリーが存在する。テキスト構造の 分析を通して、この問題が明らかになるだろう。
2066年、中国は世界の超大国になり、一方アメ リカは衰退して、内憂外患の状態に陥り、崩壊寸 前の危機に直面している。16歳の少年である唐龍 の目から見ると、中国は一つの「夢幻社会」41)であ
る。「全知全能のスーパー指導者」42)であるアルマ ンドのおかげで繁栄した中国こそ、『火星』が「提 示」するユートピアである。言うまでもなく、ア ルマンドは、このユートピアを「施行」する具体 的な手段となる。アルマンドの「至れり尽くせり の庇護」の下で、「人生の意味を考える必要がな く」、「すべては予定通りに行われ」、「これこそ幸 せな人生である」43)。ところが、アルマンドは意外 にも崩壊してしまった。すると、不安定なアメリ カは完全な混乱に陥る。唐龍は偶然アメリカを訪 れ、すべてを経験し、亡命の旅を始めた。途中で、
彼は色々な人と知り合い、様々な奇妙なことに出 会い、文明の崩壊を目撃した。唐龍の目に映った アルマンドを失ったアメリカは、まるで鏡に映っ た中国の像である。このように、彼は自文化中心 主義者の殻を破り、人類の文明を反省するように なった。以上は、「変質」のユニットに当たる。唐 龍は苦労してようやく中国に戻った。中国は幸い にも難を免れたが、アルマンドはもう回復できな い。ここまで読むと、アルマンドに依拠したユー トピアはすでに崩壊し、テキストは開放的な結末 を示したのではないかと思われる。しかし、よく 読むと、そうではない。
テキストの最後のところで、人々は「『福地!福 地!』と二つの音節を繰り返し」、熱狂的に「福 地」(幸福の地)の実現を望んでいる44)。また、テ キストの初めのところで、60年後の唐龍が語る最 初の言葉は、「六十年後、世界は一つの福地になっ
た」45)である。しかし、彼は一種の危機に瀕した言 語を使い、自分の「殻」の中で横たわり、この物 語を語りながら死を待っていた。まったく幸福に 見えない。16歳の唐龍にせよ、
76歳の唐龍にせよ、
彼が見た世界は、いつも完璧なユートピアであっ た。このように、『火星』は独特な形で、ユートピ アの「閉鎖」を完成した。本当に開放的な部分は、
「福地」を実現する方法のところであろうが、『火 星』は非常に曖昧なヒントしか与えてくれない。
中国は画期的な技術を手に入れ、人間の脳を共有 し、「地球上の100億の人が一人になれた」46)のかも しれない。また地球外生命体が訪れ、人類の文明 を宇宙システムに組み込んだのかもしれない47)。 さらに他の可能性もあるが、知ることはできない。
ここまで、本章では、『白銀』、『受活』、『盛世』、
『火星』、四篇のテキストを前に述べた構造モデル を用いて、それぞれ分析した。そのテキスト構造 が、明らかになったので、作中の言葉を使い、内 容を要約すると、表
1
のようになる。Ⅲ 構造機能とテキストの特色
第Ⅱ章では、提示した反ユートピアの構造モデ ルを用い、『白銀』、『受活』、『盛世』、『火星』、四 篇のテキスト構造を明らかにした。同時に、具体 的な作品の分析を通して、この構造モデルの実行 可能性が改めて証明できた。以下、反ユートピア 文学がこの構造を共有する理由を説明し、各ユニ ットの機能を解明した上で、中国当代の反ユート
ユートピアの提示 ユートピアの施行 ユートピアの変質 ユートピアの閉鎖
『白銀』 将来は銀です 小説の銃殺、生活の規定 本当の小説を書けず、現実世
界から遊離する 過ちを犯すことを恐れる
『受活』 天国のような暮らし 入社 鉄災、大災年、黒災、紅災 新しい「夢追い人」の出現、
ユートピアの輪廻を提示 絶技団、レーニン記念堂 尊厳が失われ、金も奪われる
『盛世』 太平盛世 氷火盛世計画 一か月が失われる 生活は続き、何も起こらない
『火星』 夢幻社会 アルマンド アルマンドの崩壊、アメリカ の混乱
世界は一つの「福地」になっ た
(出所)筆者作成
表 1
ピア文学のいくつかの共通項を明らかにする。
1
.ユートピアの提示第Ⅱ章の表
1
を参照すると、ほとんどすべての 反ユートピアのテキストは、物語が始まったばか りのところで、一つの完璧なユートピアを提示し ていることが分かる。「ユートピアの提示」の列で 挙げた言葉は、それぞれ原作の第1
頁48)、第18
頁49)、第5
頁50)、第9
頁51)に出てくる。「白銀」、「天 国」、「盛世」、「夢幻」は、いずれも褒め言葉であ る。また、多くの場合、読者は小説を読む前に、すでにそのユートピアの存在を知っている。まさ に小説のタイトルがこの「秘密」を明かしている からだ。「白銀時代」というタイトルは、古代ギリ シア神話を想起させるだろう。「白銀時代」は「痛 苦もなく、心配もなく、死ぬまで容貌も心も子供 のままであ」52)るという幻の時代である。しかし、
ヘーシオドスによると、その後人類は悪夢のよう な「鉄の時代」53)を迎えた。「受活」は中国の北方 方言で、「楽しむ、享受する、愉快だ、痛快でたま らない」などを意味する。しかし、受活村におい ては、「苦中に楽があり、苦しい中でも楽しむとい う意味を暗に含んでいる」54)。また、「盛世」は「漢 武盛世」、「開元盛世」、「康乾盛世」55)などの歴史的 記憶を呼び起こすと同時に、明らかに晩清の鄭観 応の政論である『盛世危言』と呼応している56)。 ユートピアの下に潜む危機、また反ユートピア的 な予言は、ほんの数文字のタイトルだけで、すで にうかがい知ることができる。
このように、反ユートピア文学のテキストは、
通常最初に、ユートピアを示し、構造モデルの第 一のユニット、すなわち「提示」のユニットを構 成する。これは間違いなく、反ユートピアの特性 によるものである。前述したように、反ユートピ アは「ユートピア」を踏まえて形成され、そのテ キストはユートピアに依拠して展開していく。そ のため、反ユートピア文学はユートピアに対する 批判、諷刺、反省などを行う前に、必ず一つのユ
ートピアを提示しなければならない。ただし、反 ユートピアは、最初から最後まで一つのユートピ アを丸ごと設計することはしない。反ユートピア 文学は通常、別の作品や現実世界に既存するユー トピアを取り上げ、あるいはユートピアの匂いが する物事を鋭敏に感知して、作品の材料として取 り上げる。そして、これらのユートピアに基づい て、その特性を誇張し、さらにかなり極端な形で 再現させて、「パロディー」の作品に再構築する。
2
.ユートピアの施行先に述べた「提示」のユニットが完成すると、
反ユートピアのテキストは、続いて提示したユー トピアを具体的に描いていく。ここから、構造モ デルの第二部分である「施行」のユニットに入る。
反ユートピアが対応する「ユートピア」は、伝統 的ユートピアではなく、現代的ユートピアである。
両者の区別を一言で言うと、前者は極めて曖昧で、
すばらしい世界に対する憧れに近い。一方、後者 は比較的具体で、ある程度の実現可能性を持つ設 計を含んでいる57)。したがって、反ユートピアの テキストは必ず、すでに提示した「ユートピア」
をさらに展開しなければならない。一つのユート ピアを多元的、立体的に描いた上で、ユートピア に対する具体的で深い批判と反省が可能になる。
上述した四篇のテキストには、ユートピアを実 現する手段を詳しく説明する描写がある。唯一の 例外は、『受活』における茅枝婆の部分である。『受 活』は「入社」に対する説明は、非常に少なく、
関連する文章は
3
頁しかない58)。これは『受活』の叙述法に原因がある。茅枝婆の部分は「くどい 話」の形で語られている。「くどい話」は本文の補 足なので、紙幅に限りがある。また、確かに「入 社、退社」は、茅枝婆の部分の物語を展開させる 手がかりであるが、「農業合作化運動」に参加する ことだけで、「施行」のユニットを成り立たせるの は無理であろう。第Ⅱ章で述べたように、「入社」
の本当の意味は、外側の影響を受けていなかった
受活村が、新中国の社会体系に組み込まれること にある。つまり、『受活』に描かれたユートピアの 実態は、茅枝婆の指導の下で、受活村が参加した 一連の政治運動と考えられる。具体的には農業合 作化運動、人民公社運動、大躍進運動、文化大革 命などの事件である。これによって、『受活』は四 作品の中で、実際の歴史事件をユートピアとして 直接用いた唯一のテキストになった。つまり、茅 枝婆の部分で描かれたユートピアは、誇張的な想 像ではなく、本当の現実である。
中国の当代史に存在するユートピア運動59)は、
中国当代の反ユートピア文学の原点であると言っ てもいいだろう。中国当代の反ユートピア文学に 見える現実性という特徴も、そこに由来すると考 えられる。そして、たくさんの反ユートピアのテ キストの中で、『受活』は間違いなく、現実との距 離がより近い一作である。その結果、『受活』が示 すユートピアに対する批判は、より直接的で、強 力になった。また、『受活』が「くどい話」の形 で、農民の俗語を使用し、政治的に敏感な事件を 描いた理由もそこにあるのだろう。こういう書き 方で、民間の視点から、歴史的真実を語ることが できる。一方で、文章を意図的に曖昧化している とも考えられる。
しかし、この曖昧な表現によって、明らかに批 判力は弱まり、その有効性が損なわれてしまう。
『受活』の歴史的事件に対する紹介はかなり簡単 で、ほとんど象徴として、代表的なスローガンや 固有名詞を用いているだけだ。「貧下中農」60)、「多 快好省」61)などの言葉は、中国の当代史に詳しくな い読者、特に海外の読者にとって、間違いなく理 解が困難である62)。また歴史を簡単に処理したた め、李陀が指摘したように、「歴史の複雑さに対す る表現は不十分である」63)と言える。その結果、歴 史を二重に遮蔽してしまった。まず、これらの政 治運動に存在する、あるいはかつて存在した合理 的な部分を公正に評価することができず、中国の 革命と社会主義建設への「同情心」64)が欠けてい
る。さらに、これらの政治運動がどのようにして 少しずつ合理性を失い、最終的に痛苦の深淵に至 ったかを深く反映できなかった。しかし、『受活』
は一つの文学作品にすぎず、歴史に対する再現に は限界がある。また、このような「曖昧」な叙述 法も、一種の仕方のない選択かもしれない。文学 創作に対しても、「同情心」が必要であろう。
現実性を言えば、『盛世』は間違いなくもう一つ の注目すべきテキストである。『盛世』において は、現実とフィクションの境界線が非常に薄く、
物語の真偽を見分けにくいのである。『盛世』は近 未来を描いた作品で、2009年に出版された。作品 に描かれた世界経済危機と「氷火盛世計画」は
2011年に設定されているが、物語は2013年から始
まる。反ユートピア小説は通常、未来に関する物 語であり、マヤの終末の予言のように、明確な時 間を設定するのは不思議なことではない。時間の 設定によって、危機感を高め、警戒心を呼び起こ すことができる。しかし、『盛世』のように、作品 の創作時期の数年後に小説舞台を設定しているの は非常に珍しい。『盛世』は近未来の時間を設定し たが、現実に存在しない科学技術をほとんど使わ ず、ただ極端な状況での一連の政策を想定してい る。物語には、先進的な科学技術や壮大な人工物 が見当たらず、代わりに「スターバックス」、「南 方週末」、「三聯韜奮書店」65)などの日常的な事物が よく出てくる。登場人物間の会話もかなり分かり やすく、極めて日常的な言葉、あるいは当時の流 行語を用い、説明が必要な造語はほとんどない66)。『盛世』は昔の反ユートピア作品と異なり、「異化」
の効果を求めず、逆に日常生活に近づけ、強い現 実感を生み出そうとしている。
ところで、『盛世』のテキストには、明らかな
「破綻」も存在する。それは、「失われた一か月」
に関する解釈である。『盛世』の最後の部分で、何 東生の口から、その問題に対する答えが明かされ る。「知らない! 本当の原因はと尋ねられても、
知らないとしか答えられない。」67)『盛世』は「ラ
イハイハイ」に関する解釈のように68)、ある想像 上の科学技術によって、この「失われた一か月」
を説明できたはずだが、意図的に「破綻」を残し た。何東生はさらに説明する。「不思議だと思うこ とが起きた。つまりあの二十八日間のことを、本 当に忘れる者がどんどん増えてきた。(中略)一部 の人が無意識のうちに少年期の心の深い傷を記憶 の中から抹消するように」69)、最終的に全国的な 規模での集団的な記憶喪失が起きた。歴史を覚え ている老陳たちは異端者になり、歴史を忘れた人 たちは「太平盛世」の下で「幸せ」に暮らしてい る。『盛世』は、意図的な「破綻」で、皮肉に満ち た光景を描き、「忘却」を強烈に印象づけている。
3
.ユートピアの変質反ユートピアのテキストはユートピアの構築が 完成すると、当然ユートピアに対する批判を展開 していく。一部のテキストでは、同時に行われる こともある。つまり、「構築しながら破壊し、呈出 しながら解消する」70)という叙述法である。どのよ うな叙述の順序であろうと、反ユートピアはいつ も「最も鋭い矛」を用い、「最も堅い盾」を突いて いく。すなわち、ユートピアが標榜する「完璧」
を用いて、ユートピア自身を攻撃するということ である。反ユートピアは、ユートピアが本当に実 現できるかどうかということにこだわらず、その 代わりに別の問題を投げかけた。つまり、一つの ユートピアが約束した「完璧」が本当に実現でき た後、このユートピアはまだ真のユートピアと言 えるのか。言うまでもなく、反ユートピアのテキ ストに示されたのは否定的な答えである。さらに、
このような「完璧」に対する狂信と追求は、必然 的にユートピアをディストピアに「変質」させる ことを提示している。そのため、この「変質」の 過程、あるいは見かけ倒しの偽ユートピアを描く ことは、反ユートピアのテキストの有効な表現方 法と考えられる。したがって、「変質」のユニット は、反ユートピアの主旨を完成させる鍵となる。
ところで、『火星』において、このユニットは一 連の不整合によって、少し曖昧になっている。例 えば、『火星』は他の人工知能を題材とする作品と 異なり、アルマンドが暴走して人類に脅威を与え ることがなく、直接崩壊してしまう。そして、こ の崩壊によって、混乱に陥ったのは、アルマンド に依存していた唐龍の母国の中国ではなく、アメ リカであった。物語は主にアメリカを舞台として 展開している。一方、「夢幻社会」である中国は、
唐龍の話の中、または物語の最後の部分にしか出 てこない。
これらについて、以下のように分析できるだろ う。まず、実のところ、『火星』はアルマンドにつ いての叙述がかなり少ない。確かに、その名前は テキスト全体を貫いているが、具体的な仕組みを 説明せず、未来の先端技術のシンボルとして機能 する符号に近いものだと言えよう。『火星』が本当 に注目しているのは、アルマンドの下で、生まれ 育った唐龍の観念ではないかと思われる。つまり、
アルマンドが崩壊したにもかかわらず、アルマン ドに対する狂信と崇拝は、しっかりと唐龍の観念 に刻印されている。彼を一人の偏執的で狭隘な文 化優越論者、そして科学技術の崇拝者にさせてし まった。このような心理は、ユートピアに対する 狂信と崇拝であると理解することも可能である。
次に、『火星』は主にアメリカを舞台として物語を 展開しているが、実際のところ、アメリカと中国 は互いの鏡像となっている。さらに言えば、厳密 に現実の国家を境界線として区分し、このテキス トを理解することは、必ずしも有効ではない。『火 星』の中で、両者の国際的地位はすでに交換され、
メタファーになっている。唐龍がアメリカで経験 したことには、つねに中国のイメージが見える。
例えば、アメリカ大統領のエミリーが失脚して、
彼女は吊るし上げられ、公の場で罪に問われ、ま た唾を吐かれ、平手打ちを受けたという場面があ った71)。これは、明らかに文化大革命時期の「批 判闘争大会」のパロディーである。さらに、『火
星』は何度もアメリカと中国の類似性を提示して いる。「実際のところ、中国はアメリカと最もよく 似ている。まるで兄弟みたいだ。」72)「この二つの国 は一番息が合うのだ。」73)『火星』を読む時、常識的 な国の概念で理解していくのは、恐らく無理だろ う。そもそも、歴史上の
SF
文学の作品によく見 られるのは、全人類や宇宙などより壮大な命題で ある。特に、近年の中国のSF
文学に現れたグロ ーバル化と宇宙意識の傾向は、『火星』を理解する ことにも援用できるだろう。つまり、単なる一国 や一民族などの繁栄を強調することではなく、人 類全体として、あるいは人類中心主義を超え、よ り広い視野で人類文明を考えていくのだ。もちろ ん、これらの特徴は劉慈欣の『三体』により明白 に見えるが、『火星』に対する解読にも適用できる と思われる。『火星』はアメリカの衰退を予測した と言うより、人類文明に潜む様々な危機を提示し ていると言った方がふさわしい。そして、タイト ルとしての「火星」は、まさにこの未知の危機の 象徴であると思われる。「火星」は、ただ各章の最 後のところでしか出現せず、いつも不気味な形象 として、ずっと人類文明を照らしている。4
.ユートピアの閉鎖構造モデルの最後の「閉鎖」のユニットにおい て、なぜ反ユートピア文学のテキストはいつも閉 鎖的な空間を作り出して、物語の結末とするのだ ろうか。その答えは明白であろう。反ユートピア のテキストは、恐ろしい絶望的なディストピアを 描くにせよ、ユートピアに対する批判と反省を示 すにせよ、その最終的な目標は、人々に警告し、
未来が小説に描かれるように改悪されるのを避け ることである。ユートピアの失敗を描けば、それ が無効で価値がないことを証明できるかもしれな い。だが同時に、ユートピアの問題への心配は無 用である、と読者を油断させる恐れもある。一方、
ユートピアの存続や、その力強さを強調すれば、
あるいはあらゆるものが滅びてしまう結末を示せ
ば、読者の内心の不安を喚起させ、テキストの批 判と警告の効果を強化できるだろう。
「閉鎖」と「輪廻」の組み合わせは、反ユートピ アが東洋の土壌で生長して実を結んだ奇妙な果実 である。「輪廻」という観念が、宗教性を帯びた非 常に東洋的な発想であることは言うまでもない。
いわゆる「輪廻」は、一般的に「転生」のことを 意味しているが、同じような物事あるいは運命の
「繰り返し」も考えられる。「輪廻」式の表現は文 学作品にもよく見られる。例えば、三島由紀夫の
『豊饒の海』、莫言の『転生夢現』など。中国当代 の反ユートピア文学の中では、『受活』と「江南三 部作」が代表的な作品だと考えられる。『受活』が 表現している「輪廻」については、すでに第Ⅱ章 で分析した。ここでは『白銀』を例として、「輪 廻」的な表現について、さらに考察を進める。
『白銀』では主に「僕」が「著作会社」での生活 を語る。一見すると、「輪廻」の痕跡が見えないか もしれない。実は『白銀』のストーリーにはメタ 物語が存在する。すなわち、「僕」が「著作会社」
で繰り返して書いている『師生恋』の物語である。
もともと、『師生恋』は「僕」が大学二年生の時、
「先生」と知り合い、恋に落ちた物語である。しか し、小説が「現実離れ」しているという理由で「銃 殺」されるにもかかわらず、「僕」は「本当の小説 を書く」ため、何度もこの物語を改作することを 繰り返している。一つの改作された物語の中で、
「僕」と「先生」はエジプトのプトレマイオス朝に 出会った。そして「先生」は「ギリシャの末裔の 貴人」になり、さらに「クレオパトラ本人ですら あってもいい」74)と言う。このように、『師生恋』
の物語は「輪廻」の形を備えている。「僕」と「先 生」は、大学二年の時に、何度も繰り返して恋に 落ちた。一方、改作された物語の中で、「僕」と
「先生」はプトレマイオス朝、あるいはあらゆる時 代のあらゆる人物として生まれ変われる。さらに、
『白銀』の冒頭と結末を見れば、すでに「輪廻」の ヒントが与えられている。『白銀』の最初の一文
は、「大学二年、熱力学の授業のときに、先生が
『将来、世界は銀です』と教壇で話したことがあっ た」75)である。そして、最後の一文は、「だから大 学二年の熱力学クラスに戻り、そこでもう一度先 生に惚れ直すことにしようと思っている」76)なの だ。このようにして、閉鎖的なテキスト空間が作 り出された。「僕」は永遠に「白銀時代」の中でも だえ苦しみ、小説の世界の中を往復している。
しかし、反ユートピア文学はいつも「ユートピ アの閉鎖」で反抗の失敗あるいは希望の破滅を宣 告しているけれども、「反ユートピア」が「反希 望」だというわけではない。そもそも、「ユートピ ア」イコール「希望」という考えには賛成できな い。「ユートピア」と呼ばれるためには、「完璧」
という性格がなければならず、「完璧」の特徴を失 った「ユートピア」は、「ユートピア」と呼ぶべき ではないだろう。また、反ユートピアは決して未 来や希望に反対するものではない。まさに、劉暁 文が指摘している通りだ。「未来世界の青写真を描 くにしても、非人間的な世界を予測するにしても、
楽観的な展望にしても、悲観的な憂慮にしても、
我々はついにユートピアと反ユートピアに共通す るものを見つけた。すなわち、究極的な人類の運 命に対する関心である。」77)両者の違いを言うとす れば、反ユートピア文学は非現実的な夢を打ち破 るという否定的な物語で、より良い未来への憧れ を示しているということである。
お わ り に
以上、先行研究と関連する理論に基づいて、反 ユートピアのテキスト構造、すなわち「ユートピ アの提示」、「ユートピアの施行」、「ユートピアの 変質」、「ユートピアの閉鎖」を分析した。また、
この構造モデルを用いて、『一九八四年』、『白銀』、
『受活』、『盛世』、『火星』の五つのテキストに考察 を加えた。テキストの分析を通して、この構造モ デルは、西洋の反ユートピア小説だけでなく、当 代中国の反ユートピア小説にも適用できることが
分かった。フォルマリズムと構造主義の視点から、
反ユートピアのテキストにおける一つの共通点が 明らかになったが、テキスト構造が共有していて も、その具体的な表現手法は異なる。そのため、
反ユートピアのテキスト構造は比較的安定してい るとはいえ、各テキストの特殊性を無視してはい けない。
歴史的、政治的な理由で、中国当代の反ユート ピア文学の形成はかなり遅かった。『白銀』はその
「引き金」と言えるだろう。その後、数多くの作家 が、異なる手法で、様々な題材の反ユートピア作 品を創作している。『白銀』は、アーティストの境 遇というユニークな視点から、ユートピアの人間 性に対する抑圧を表現している。『受活』は中国の 歴史を回顧し、二重構造のテキストによって、一 つのユートピアから脱し、またもう一つのユート ピアに陥ってしまうユートピアの「輪廻」を提示 している。『盛世』は中国の現実に基づき、クレー ジーな想像力を発揮している。現実とフィクショ ンの境界線がなくなるような近未来の時空を描い ている。『火星』は、反ユートピア小説と
SF
小説 の合流であり、アメリカと中国を互いの鏡像のよ うに描き、混乱し断片化したテキストを通して、「ユートピア」の底に潜む危機を示している。四篇 のテキストは同じテキスト構造を備えているが、
それぞれに独自の特徴と注目点がある。各テキス トの独自性こそが、それぞれの作品の魅力だろう。
反ユートピア文学は最初に西洋で誕生し、現在 は世界的な文学潮流となっている。異なる文化的 背景の下、多様な創作や言説が存在する。反ユー トピア文学は海を渡り、中国に上陸した後、異彩 を放つ作品を生み出した。「現実性」と「輪廻」式 の表現は、二つの顕著な特徴と思われる。この二 つの特色の形成については、歴史、思想、および 文学の側面から分析できるだろう。まず、最も重 要な理由として挙げられるのは、中国の歴史にユ ートピア運動が絶え間なく実在したことである。
しかし、今日でも一部の歴史問題はまだタブー状