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藤原俊成の書状及び仮名消息の研究

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(1)

藤原俊成の書状及び仮名消息の研究

著者 田村 悦子

雑誌名 美術研究

号 197

ページ 14‑40

発行年 1958‑03‑31

URL http://doi.org/10.18953/00006939

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止

http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

j

百 究

h u

Hυhd 

252 

藤原俊成の書紋及び俄名消息の研究

藤原俊成は周知の如

く ︑千載集撰進の院宣を拝した︑十二世紀末葉

付 に於ける文事史上著名な歌人である︒その生涯(二一一一一一巳は平安末

から鎌倉初めに跨った政治様相の愛動期に嘗っていて︑この時代は 文皐上の樽換期でもあって︑俊成はこうした時代背景の中で︑古今 集以来の惇統的卒安歌壇に封して︑幽玄鰻の新歌風を興し︑中世の 歌壇を統一して︑新時代の文事推進に力を毒している︒そしてその 歌事は定家によって大成され︑後世二篠家歌皐の組として崇められ

伺 る等

︑文皐上

の業績については 既

に世に高く評債されており

︑今更

こと新しく述べる迄もないであろう︒

首時の書道界を見渡すと︑政治様相の獲動や文皐上の愛縛と同じ

ように ︑

書道史においても愛動期に嘗っ

い て

︑従来と は書

風を異

に し

︑素

れてきている︒平安中期に完

成された道風︑行成の品格高

い優腕端麗な書風は段々なくなり︑口聞が落ち露骨な力張った書風が

』 院

好まれるようになった︒嘗時は︑忠通の法性寺流が時代の好備にあ

っ て

一 般

に流行している︒そして更にこの法性寺流から所謂雅経

風 の

一 一

阪 が

じたばかりでなく

︑行成を組

と仰ぐ世尊寺流でさえこ

の流儀の影響をうけている︒この法性寺流は忠通から乗貫・良経へ

と 痔

え ら

れ ︑

良経からは後京極様とよばれ鎌倉中期迄の書道の中核

をなすに至っている︒

こ の

様な時代

の趨勢の下にあって

俊成若書きといわれる筆蹟

は ︑高雅優麗な風

が薄らいだ粗野な趣の加わった法性寺流の亜流で

あるが

︑晩年の筆

にかかる書 状消息 になると これには法性寺流と

は別に全く俊成濁特の風をなしている︒

筆法は優美から全然離れ て︑枯枝の人の目を突きさす様なとげとげしいもので︑嘗時として は全く自由な表現をしている︒その奇抜な書形には彼の性格のはげ

し さ

個性の強さと

いったものを感じさせずにはおかない︒俊成は

この時代にあって書道界の大宗に捲きこまれず︑彼濁特の筆法をと

っている︒勿論︑俊成の書は︑書そのものの債値からいって︑到底

(3)

一平安時代の諸名家には及ばないが︑ その書は嘗時の時勢を反映する 特異性を持つものとして︑叉時代が要求する動向の一つの縮園とし

て︑書道繁遷の一断面を示していると言えるであろう︒その意味で

従来の批評及び観賞とは別の見方があってよいのではないかと思

う ︒

そ れ

故 ︑

この時代の書道の性格をとらえる一方法として︑俊成

の書を考察したいと考えた︒俊成筆と停稽されている古筆切・書状

‑記録類は数十種にも及んでおり︑ その書の特異性によって一見わ

かり易い様に思われているが︑ これ等の中には思いの外異筆が交つ

ているようである︒それ故︑此等の筆蹟群を整理して︑何れが異の

俊成かと︑俊成筆蹟を決定する震に︑先ず︑確賓なる資料とするこ

とのできる自筆書紋・消息を取り上げて︑

その成果によって俊成筆

蹟の整理・展開を考えてみたいと思う︒

従来︑俊成書吠・消息として紹介されているものは

宝田欣﹁法勝寺三十講云々 四月廿九日付

額 慶

三月六日付稗阿ヘ略稿︑あした/

左 少 排 宛

﹂ / づ の 歌 入 書 状

︑ 村 山 長 奉 氏 減

R刀vト

文 庫 減

宝 田

山 肌

﹁ 先

日 所

ニ A

F 申候一之云々

消息﹁あの御ふみたままり云々(略稿︑八十にあ)

y v

﹂ /まるまでの消息

消息﹁まことにこの春よりの云々(略稿︑九十げよ ﹂ / み ち 候 の 消 息 ︑

住 友 寛

一 氏 賊 保 阪 潤 治 氏 減

の四黙であるが︑今同の調査の結果次の十数黙を加える事ができる︒

書紋﹁八憐殿御所云々

十一月二日付稗阿

猪 熊 信 男 氏 減 藤原俊成の書吠及び候名消息の研究

書以﹁明日春日詣云々

正月廿六日付稗阿

丹 後 守 宛

氏 蹴 某 書朕﹁罷出之後云々

七月廿八日付樟阿

左 少 将 宛

岩 崎 孝 子 氏 誠 書紋﹁越部下保云々

八月十三日付韓阿

左 少 将 宛

; 蓄 蔵 千.

( 傑

消息﹁かくとも候はねば云々﹂

( 錯 ⁝ 一 入 山 町 一 一 )

闘 戸 松 下 軒 買 立 目 録

( 昭

和 一

0

・ 一

二 ﹀

西 本 願 寺 第 一 同 買 立

目録(大正二・三﹀

東 京 国 立 博 物 館 保 管

消息﹁はるのしきし云々﹂

消息断簡﹁きのふの御ふみ云々﹂

書以断簡﹁高陽院とのより云々﹂

書 以

﹁ 今 朝 以 ニ 左 中 耕 二 玄 々 二 日 俊 成 ﹂ 付

氏 戴 某 某

氏 戴

消息﹁さうしのかけをひの一五々﹂

里 見 忠 三 郎 氏 戴

徳 川 家 責 立 目 録 ( 昭 和 二

・ 四

消息﹁このはるは云々﹂

その他責立目録に

名古屋伊藤家

年不詳二月十三日

ト ヨ

ヨ 山

某 家

計 川 大 正 六 消 息

書紋

松 樺 家

大 正

等を翠げる事ができる ︒

松 浦 伯 家

昭和二・十 書吠

以上︑此迄護表されているものと併せ約二十貼近くの惇俊成書吠

‑消息があり案外その数が多い︒併し此等を調査すると年時推定可

能︑或は不可能なもの︑叉は亜流︑或は異筆とすべきもの︑ 明らか

に贋作のもの等があり︑叉同じく俊成であり乍ら別人の俊成の筆蹟

も見出されるなど興味深いものもある︒叉従来知られているものの

中にもその通行の解説には私の納得のゆかないもの︑或は尤もらし

い付託がつけられているように思われるものがあり︑ これ叉案外に

私の考えと開きがあることがわかった︒或は私の浅皐による誤かも

知れない怖れを内心もってはいるが

一 つ

の 私

案 を

ここに提示さ

せて頂きたいと思う︒それ故この小論の中に世間周知のものをも併

2 5 3  

一 五

(4)

術 研

十 究

九 百

七 挽

せて解説する事を諒とされたい ︒ そして叙述の都合上︑ 私の今岡の

調査の結果にそって︑年代順剣明

による 逐次解説を行って︑ その全

般に亙る展望

にすすみたいと思う︒

消 息

﹁かくとも候

は ね

ば 云

々 ﹂

( 崎 一 側 一 人 献 一 向 ) 水 鳥 の 歌 入 俵 名 消 息

閥 戸

松 下 軒 賀 立 目 録

( 昭

0

・ 一 二 )

先 ず 第 ト ま

﹁ か

く と

も候はねば云

しー

の 昭 和

0

・ 一

一 一 齢 古 で 藤 原 俊 成 筆

行われた関戸

松下軒費立目

録収載の寂名

挿圃 1 . 

消息である︒

文中﹁水鳥の

一 五々﹂ の歌が

書き込まれて

一 六

いるので

﹁水鳥の歌入消息﹂と名稽が付せられている︒本消息は宛

名は切断され︑ 年時の銘記もない(挿園 1

﹀ ︒

2 7

箔 ) ( 得

︿ 昨 日 ) ( 文 )

﹁かくとも候はねば︑いまま﹂でえ申候はざりつるに︑﹂きのふの御ふみ

︿ 似 ) ( 便 ) ( 今 日

﹀ ( 機 )

︿ 室 )

も又ほかの﹂たよりと申候しかば︑﹂けふはかまへて御むろへ﹂申候はん

( 使

﹀ ( 求

﹀ ( 去 年

﹀ 太 子

︿ 太 泰 ) ハ 室

とて︑っかひも

L ﹂とめ﹂などして︑﹂こそたいしに侯し﹂をり︑御むろ

( 何 某 ) ( 法 橋

﹀ ( 使

よりは︑なにの﹂ほけうとかや︑みめなどよく﹂候し人︑御っかひにてわ

ハ 訪 ) ハ 婚 )

ざと

︑﹂はる

¥とはせおはしまして﹂候しかば︑うれしさにあや﹂し

( 渡 ) ( 呼 入 ) ( か カ

﹀ ( 定 カ )

き﹂ねどころによびいれ申て︑﹂かしこまり申候しを︑﹂その人口一口し

(ミセケチ)

ヘ以下返/

候はん﹂戸し書﹂ずるとみて﹂申候けるにや︑﹂それへもすなわち﹂か

( 品 川

﹀ ハ 見 馴 )

く候なり︑﹂よと

ah

もにみなれはせまし﹂水とりのたっそらもなき﹂やど

( 花 ) ( 片

?

﹀ ( 葉

? )

│ l ( 房

tA

思はば

︑﹂御﹂はな﹂びらの﹂はでよく候へ︑﹂女房ごなどの﹂はなび

ハ 薄 様

﹀ ( 残 )

らうすやうなど﹂よく候はん︑﹂御のこし﹂候はざらんも﹂わろく候は

ん︑﹂あなかしこノ¥﹄

本消息は現在所在未詳で私は未見の作品であるが真筆のように思

わ れ

︑ 諸先生方の鑑定も等しく俊成自筆であろうとの御意見である ので採りあげてみる︒文中にある﹁よと

L もにみなれはせましみづ

どりのたっそらもなきゃどとおもはば﹂

の俊成の歌は︑彼の自撰歌

集﹁長秋詠藻﹂にのり︑ それには次の詞書が付せられている︒

﹁故左の大臣の仁和寺の徳大寺の堂に︑ 上西門院前粛院と申し L

時の女房 あまたわたりて︑歌ども詠み置かれたりけるを︑後に見出でて︑其の返事 せよと大炊御門右大臣右大将時のありしかば︑書きそへつ

L 遣しける歌ど も

(績圃歌大観本加)

と あ

っ て

︑ この詞書の後に女房らの歌七首とそれぞれに俊成の返歌

が一首ずつ七首のっており︑

この水鳥の歌はその六番目の女房の歌

(5)

﹁見る人の立つ空もなき宿なれば汀の驚も住馴れにけり﹂の返歌で

ある︒詞書の内

容の大炊御門右大臣とは徳大寺公能の事で︑

﹁ 故

左 の大臣の仁和寺の徳大寺の堂﹂とは

︑公能の父貫能の建立した堂︑

的ち徳大寺の事である

上西門院が前祷院と申

LL

時とは︑大治二

年二歳で賀茂祷院となられた女院が七歳で祷院を退下した天承二年 六月廿九日より︑後に女院が三二歳で入内された保元二年八月十四 日迄の聞の事をさす

︒そこで この詞書の内容を考えると︑ 上西門院

が入内する 前 の未だ

前橋院

と申し上げていた折に仕えていた

女房達

が仁和寺の徳大寺の御堂に集って歌を詠じた︒その

時の歌

が貫 能の

死後見出され︑

その子公能よりそれ等の歌にそれぞれ返歌をせよと 俊成に仰せがあったので書き添へた歌という意であろう︒すると此

等の返歌した時期とは

︑ 一父右大臣公能が﹁右大将時﹂とあれば ︑保元

一万年九月より永暦元年七月の問 ︑

そして﹁故﹂左大臣とあれば賞能 亮の保元二年九月

二 日以降となる︒卸ち保一万二年九月以降永麿元年

七月迄の聞となり︑俊成四四歳より四七歳の聞に返歌したものとな

ろ う

そこでこの消息の文中に ﹁且つそれへもすなわちかく候 ︒

也 ﹂

あって︑長秋詠藻のそれと同歌が書き

込まれて いる彪から ︑ この手

紙はその返歌をした嘗時の事情を物語っている︒印ち俊成は求めら

れた返歌は一括して使のみめ美しい法橋某に渡し︑ その人から定め

て各女房の万にも返歌を届けてくれるものとしていた所︑届いてな

い様子なので貴

女の分の返歌

は﹁よとともに・

L

という歌ですよ

藤原俊成の書紋及び仮名消息の研究

の は

文 中

︑ と︑書き込んだものではないであろうか︒そして歌を法橋に渡した

﹁こぞ﹂とあれば本消息は次年の春にでも七人の女房の

中の一人に宛てたものと考えられる︒卸ち本消息は長秋詠藻に出る 詞書の内容を裏付ける資料という事ができるであろう︒すると本消

書状﹁法勝寺三十議云々

﹃ 法

勝 寺

三 十

講 之

︑ 卿 相 ﹂ 結 番 之 由

︑ 謹 以

承 候

︑ 但

﹂ 自

ニ 去

三 月

下 句

比 日

14l'

種 々

所 努

﹂ 更

費 ︑

ν

今不

ν

ニ 出

仕 一

候 ︑

﹂ 者

︑ 於

ニ 朔

日 ‑

者 ︑

先 難

ν

口 ︑

(令カ)

攻 々

日 己

後 ︑

相 扶

可 一

一 参

h

﹂ 候

︑ 以

ニ 此

陸 一

ν

然之様︑可下口こ披露一子

i4

四月廿九日付 額 鹿 ﹂

息は俊成四五歳から四

3 0   x52.  7cm 

七歳の聞の春の消息と

な ろ

う か

法 勝 寺 三 十 議 書 放 京 都 陽 明 文 庫 戴

俊成筆蹟について従 来は︑次の法勝寺三十 議書吠をもって年次剣

明中 の最も早いものと

されていたが︑本消息 の出現によって更に若

い年齢のものが分り ︑

藤 原 俊 成 筆

これによって四十歳代

の筆蹟考察の緒口が出

挿園

2

来たといってよく︑頗

る貴重な資料となる︒

京都

陽 明 文 庫 減

255 

(6)

美 謹 所

2

口す こ 〉 究

七 車 見 術

第 百 九 十

之 航

四月廿九日

国矧贋﹄

本書吠(挿園 2 ﹀は︑平信範自筆の兵範記仁安三年夏各紙背文書の

一紙で︑伎に増訂陽明世停に紹介されている︒内容は法勝寺で行わ

れる法勝寺三十議に卿相として結番すべき事については︑自分は承 知したが︑折悪く三月下旬以来病み績きで出仕できない状態にあ

る︒来る一日の三十議始めに参仕するのは難く 三日以後なら何と

か押して出仕致そう︒この趣をハ後白河上皇に)言上して頂きたい旨

を︑宛所を闘くが︑首時蔵人頭である信範に依頼した書吠であろ

う︒俊成の奮名頼度の署名がある︒

法勝寺とは後白河上皇の御父鳥羽天皇の御願によって建立

議とは本来例年五月に三十日聞を限って行われる宗教行事である︒

卿相の結番の卿相とは普通三位以上の公卿をいうのであって︑俊成 が三位となって公卿の資格を得たのは仁安元年八月廿七日五三歳で あり︑蓄名穎貨を俊成と改名したのは同二年十二月廿四日であるか ら

この三十議は仁安元年秋より同二年冬の関の事となり︑ その間 行われた三十議とは︑仁安二年五月一日より十日間に亙って後白河

上皇によって行わしめられたそれを指す他ない︒従って本消息は後 白河上皇へのとりなしを依頼する潟︑仁安二年四月廿九日にしたた

められたもので︑ 俊成額贋時代の五四歳の筆となる︒

本書紋は此

迄︑年衣の確定されている初出のものとされていたが前述の消息の

出現によって第二となったが︑然し頼度署名のものとして現存唯一

f ¥ .  

の資料であり︑俊成筆蹟研究にとって甚だ貴重である︒

2 5 6  

書紋﹁八篠殿御所云々 十‑月二日付稗阿﹂

香 1 1 1  

猪熊信男氏蔵

第三は猪熊氏裁の﹁八篠殿御所云々﹂ の書吠である(園版 W

﹀ ︒

園の猪熊先生の彪に未設表の俊成書紋がある筈である︑ その書朕は

品川年程前に見せていただいた事があるから照曾してみるようにと︑

高柳光毒先生より御示教を得たので︑猪熊先生に照曾したい庭︑同先

生は品川年も昔の事をよく憶えていてくれたと大愛喜ばれ︑ 昭和三十

年六月︑その書肢の篤異と﹁うつし﹂とを迭って下さったもので︑

全く感謝に堪えない次第である︒街且つ所蔵者の猪熊先生が未設表

のものの公開を私にゆるして下さった事は︑ まことに望外の喜びで

ある︒叉︑御手紙によると本書吠は︑古一砿寺公卿奮家等の古文書を

あずかった京都の若林書屈が大正初年庖仕舞いの際の費立の時に猪

熊先生が手に入れられたものであるとのこと︑ 恐らく本書紋も京都

の公卿家にでも停えられたものであろう︒

﹃八憐殿御所築垣事︑可 ν 令‑こ念築一之由︑各皆所 ν 令ニ下知一候﹂也︑其中 多事御庄所課沙﹂汰者

1

先日付ニ御所垣長丸こ︑皆令一一沙汰一給之由︑令 ν

申候き︑﹂但件沙汰人公長柳一周二﹂不審事日自然令一一遅々‑候﹂欺之由︑所一一

承 及 一 候 也 ︑ 重 可 一 一 一 ﹂ 令 ニ 相 等 承 一 候 也 ︑ 恐 々 謹 言

十 一 月 二 日 韓 阿

制 ﹁八篠殿の御所の築垣工事について︑急ぎ築くよう皆に

内 容

は ︑

下知した︒ところで其の中美濃園多塾庄負携の分については︑御所

仰 の垣の長丸に言付けて皆命令をした ' と申した︒併しこの所課の沙汰

人公長の方では何か不審の事があって︑ その矯自然に人夫を出すこ

(7)

藤原俊成の書紋及び蝦名消息の研究

とが遅れているの

3 0 . 3   x  7 0 .  6cm 

だというように承

った︒詳細は重ね

て尋ねてみよう﹂

村 山 長 母 氏 蔵

と い

︑ つ

の で

・ め

て︑本書吠は八傑

殿の御所の築垣工

兵 庫

事について督促を

受けたのに封する

陳縛吠で︑多分八

あ し た づ の 歌 入 書 欣

篠院の院司にでも

宛てたものか︒署 名は法名標阿 ︒ 年

次の記載はなく十

一月二日のみ︒併

し︑入篠殿の築垣

藤 原 俊 成 筆

工事について︑

葉文治二年正月五 ω 同 日︑同二月十六日

挿圃 3

の傑の雨記事の記

録 に

よ る

と ︑

八 傑

院の御所が地震に よって破壊︑後修理も出来難く︑げ入その篤行幸の方遠の御所に嘗る

同 事もできなかったとある ︒ この地震とは玉葉元暦二年七月九日︑五ロ

HW 

妻鏡文治元年七月十九日の篠とかその他山塊記︑万丈記︑愚管抄等

に記録される元暦二年七月九日の大地震である ︒ この魚︑御所・祉

寺・邸宅等が倒壊傾危墜死する者多く︑皇居に於いては七月十一日 破損の吠を法皇自ら尋ねられ︑ 八月十四日文治と改元している ︒ 徐 震は頻々として入・九月は殊に多く其等の記事は十二月に及び︑入

国 心の動揺甚しく叉破損した併像を薪にしたりする有様で︑ この京都 の状態から察するに︑ 入篠殿の築垣もこの大地震で壊され︑翌年二 月に及びなお修理できなかったという事情もうなずける︒その篤玉

葉の記事にある様に︑

入篠殿が方遠の行幸の場所の候補に二同も上 り乍ら貫施できなかった情況もうなずけよう︒本書吠に﹁念ぎ築か

せよ﹂とあり︑然も修理できず︑

その理由として修理人夫の方に何 等かの支障を侍えており︑而もこの書紋は十一月二日であるところ から元暦二年七月の大地震の魚︑翌年二月になってもなお修理でき ずにいるという聞の事情を物語る資料といえよう︒本書吠文治元年 十一月二日俊成七二歳の筆となろう

四 書状﹁あしたづの歌入

三月六日付 左少耕宛

韓 阿

兵 庫 村 山 長 奉 氏 減

第 四

は ︑

﹁あしたづの歌人﹂書紋である︒古文書時代鑑に採録さ

れ︑古くより頗る有名なものである(挿園 3) ︒

﹃先日所一三♂申候一之拾遺定家﹂仙籍事︑尚此旨可 ν 然

之 様

︑ ﹂ 可 下 令 ニ 申 入 一

給ム之由存候也︑﹂且年少之輩︑各如一一戯謹一事﹂候︑

257  強不

ν

ν

二 年

月 一

(8)

研 究

百 九 十 七 3 0   x  75.2αn  鋭

敗 ︑ 而 ﹂

己 及 ニ

年一春叉属二三春こ

了 ︑ 愁

緒難

ν

抑 候 者 東京大事史料編纂所戴

也 ︑

あしたづのくも ﹂

ぢまよひ﹂し年

暮 て

かすみを﹂さへ

やへだてはつベ

揚 本

え ﹂

︑ ﹂

v

堪 一 一

夜鶴之思﹁

濁 伴

‑ 一

春 ﹂

鷲 之

鳴 一

者 也

︑ 且

垂 ニ

芳 察

一 ﹂

ν

然 様 御 奏 聞 所 ‑ 一 日

瓜 幾 こ 候 也

︑ 恐 位 春

謹 言

月六日 ﹂

緯阿申文﹂

藤 原 俊 成 筆

謹 上

左 少 排

民 文

挿 圃 4.

内容は侍従(献儲)

定家 が

後白河法皇

御怒を蒙 り ︑殿上 の

簡を削 られた事につ 二 O

い て

︑何分年少の輩の聞のこ とでいはば 遊戯の如き ものであるから

く諸責をうける迄もないことと思われるのに

︑既 に年も代り春も

岡 三月になった︒悲しい事であるとて

︑俊成

が 親 として子を思う切々

の情を﹁あしたづの云々﹂ の歌に 托

し て

︑ その昇殿の速やかに許さ

れるようにと ︑左少緋 (定長﹀にそのとりなし方を依 頼 言上したもの

である︒定家

仙籍の事

とは玉葉文治元年十一月廿五日の篠に記載さ

れている如く

︑藤原雅行

と殿 上 で争ったのが災して除籍された事を

同 指す ︒

筒 ︑

成撰千載集雑歌

の中に ︑ この﹁あしたづの歌﹂が 牧 録

その詞書に定 長 に 宛て たとしるされ

︑叉定家

の罪のゆるされ

MW  

た 事

を 一

蹴 っ

た 定

長 の 返歌 もついている︒ぬ

同 定

は俊 成 の妻丹波守矯

さ れ

︑ 忠朝臣女がその先夫藤原光房との間の子で︑文治元年十二月廿九日

より同二年十二月 十四日ま

で 左

少緋の任

にあった ︒ 卸ち本書状は文

治二年三月六 日左少排藤 原定長に宛てたもの ︑ 俊成七三歳の筆とな

る ︒

小 川

︑定家

が再び昇殿を許された 日時 は明らかでないが ︑ 玉葉文

治二年三月十六日の僚によると︑掻政粂賞奔賀の属従の前駈殿上人 中に定家の名が列ねているによって︑少なくとも十六日以前である 事がしられる︒定家は俊

成 のこの書 吠 によっ て許さ れ ︑ 且つそれも

歌の功徳によるとあって︑ 千載集に﹁この道の御あはれびむかしの

聖代にもことならずとなむときの人申し侍りける﹂と附加えている

のは嘗時の評 判 もわかつ て興味深 い︒この書 吠 は ︑ その文といい ︑

その事 情 といい

︑俊成書紋中

の白眉とされているものである︒

書吠﹁明日春日詣云々

正月廿六日付 丹後守宛

稗 阿

(9)

第五は﹁春日詣﹂ の書吠である(挿闘 4)

︒本書吠は戦後初めて出 現した新出資料で︑箱書に龍安寺とあり︑

もと同寺にあったもので

あろうか︒本書吠は二片に切断︑

俳書抄寓の料紙の一部にされてい たが今はもとに戻され一幅の掛幅となっている︒紙背には安然の諸

阿閣梨異言密教部類惣録二巻容下の一部が記載されている︒向︑原 本は現在所在不明の魚︑挿園としては史料の揚本を用いた︒

﹃ 明 日 春 日 詣 少 将 馬 ﹂ 閥 如 事 候 之 問

︑ 今 度 無 ニ ﹂ 御 供 奉 一 御 馬 二 疋 徒 ﹂ 候 由

額臼 只今承及事候︑﹂其中黒毛候なる︑﹂明旦京出許令一一申﹂請一候乎︑或

人日来行二田舎こ馬を相病候之施︑昨日始﹂上洛︑未ニ尋常罷成こ候ける

問 ︑

俄 相

違 失

ニ 東

﹂ 西

一 候

也 ︑

若 可

‑ 一

借 預

一 者

﹂ 今

日 引

給 且

見 給

︑ 明

﹂ 日

京 出

巳 後

即 可

ニ 返

﹂ 上

一 候

者 也

︑ 他

事 期

ニ 後

信 ご

恐 々

謹 言

正月廿六日

事 翠

↓川 ︐

WRHV' 

丹 後 守 殿

本書肢は丹後守宛︑正月廿六日付稗阿と署名︑年次の記載はない︒

俊 成 出 家 ︑

穆阿と競した安元二年九月以降の正月廿七日に行われた 春日詣を調べると︑文治四年正月廿七日撮政粂賓が氏長者となって

後の初めての春日詣を行っており(玉葉・百錬抄・愚管抄等)︑

その折 には後白河法皇も行列を御覧になられたという華々しい行事のこと がある︒他に正月廿七日春日詣の記事は史賓に見受けられない︒す ると本書吠文治四年正月廿六日俊成七五歳の筆となろう︒文中の少

HW

終には俊成の子成家を︑宛所の丹後守には玉葉文治二年三月十六日 の係︑同三年九月十入日の篠及び田中文書文治二年四月二日の係等

日 によって藤原長経と推定した︒

藤 原 俊 成 の 書 紋 及 び 蝦 名 消 息 の 研 究

本書欣の内容は文治四年正月廿七日の春日詣の京出の震に子息成 家少将の馬の補充方を丹後守長経に依頼したものである︒卸ち︑

日の春日詣に成家の馬が関知したが︑貴所では此度供奉の馬二疋不

用になったと聞くから︑

その二匹の中︑黒毛の方を明旦京出の行列 にだけ借用したい︒買は自分も人を田舎にやり馬を頼んでおり︑

そ の馬が昨日上洛したが︑一尋常でなく役に立たぬ︒議定が狂って途方 にくれている︒もし黒毛の馬を借用できるなら今日こちらに来て見 せて頂きたい

明日京出の後すぐにお返しする︒他事は後信を期す

というのである︒

~

J 、

書状﹁罷出之後云々

七月廿八日付

左 少 将 宛

」阿 東 京

岩 崎 孝 子 氏 蔵

七 書紋﹁越部下保云々

八月十三日付

左 少 将 宛

嘗 戴 稗

」阿

( 傑

第六は岩崎氏蔵書吠(聞版

V 1

︑ )

第 七 は 下 篠 氏 奮 蔵 の 書 吠 で あ る

( 園

版 V

2 )

︒ この二書吠は早くより知られ︑

共に俊成所領越部圧に 関するものである事はわかっていたが︑園版として筆蹟の紹介も砂 く

これ迄解説もされていない︒

̲ . ̲  

J

﹃ 抑

公 景

不 便

之 故

︑ 先

今 年

﹂ 許

ハ 無

愛 し

て ︑

所 ユ

F 申

候 也

︑ 然

而 方

々 皆

々 も

無 一

一 承

引 一

敗 ︑

其 僚

は ﹂

叉 ﹂

ν 所

一 一

申 及

こ 事 敗

︑ ﹂ 御 沙 汰 之 間 叉

﹂ 旦 左 右

﹂ こ

t

ろ み

計 ﹂

給 敗

︑ ﹂

ν

ニ 強

申 一

事 也

相構尋﹂常可 ν 致

一 一

沙 汰

一 由

罷 出

之 後

五 憐 六 角 如 ν

﹂ 電 詣 廻 て

只 今

所 三

呂 田

判 断

﹂ 三

憐 一

也 ︑

﹂ 抑

部庄日来三分に﹂配分了︑先令 ν 進コ覧五憐こ之慮︑上保令

v

v

給 了

︑ ﹂

其故︑三方之中上保ハ頗﹂薄田多云々︑の其替令 v 入

こ 九

町 二

五 々

の 等

分也云々︑而難 ν ﹂

馬 一

一 薄

田 一

柳 被

v

‑ 一

能 分

引 の

v

﹂被

ν 留

也 云

々 ︑

2 5 9  

其 後

(10)

十 七 究

第 百

只今右少将﹂に其旨令

ν

之 属

︑ 又 不

v

及 一 一 左 右 こ 任 一 ゑ 第 一 中 保 賜 了 云 々

︑ ﹂

いかさま﹂にも事切了紳 の叉所

v

残之下保進斗覧之日﹂誠如

v

扇 引 佐 野 敗 ︑

妙︑入道﹂不

v

一 一 旦 暮

‑ 之 故 ︑ 以 ニ 早 速 一 局

ν

事﹂者也︑但此上畠緋雑物等﹂

問 事

昨今遁令

ν

ニ 沙 汰 忌 々 ﹂ 随 一 一 到 来 一 可 ニ 進 寛 一 也

先﹂田註文所

vAF

念 進

一 也

︑ 謹

言 ﹂

七月廿八日

料i 河(祐押) 左 少 将 殿

』ョ

﹁越部下保繕園井分﹂文等献

v

之︑入選も所努及一こ数月刊其にさへ咳気

v

是︑﹂此事いつとなく事不

v

切︑﹂極不便事也︑の妊可

ν

ν

事由﹂所

ν

也︑五憐へも其由令

ν

申 ﹂

了 ︑ 筒 無 ニ 承 引 一 者 ︑ 不

ν

可ニ申及﹁﹂今二方をだ

に と て

ν

ν

﹂ 也

︑ 此上境をも如

v

聞 を

も 方

々 ﹂

沙 汰

人 等

下 向

し て

︑ 無局委細﹂可

v

ν

也 ︑

﹂くわしく候らん返事は︑

﹂ 如

ニ 高

倉 一

に で

も 可

v

ν

仰也︑﹂五僚御返事難

ν

ニ 到

来 九

ν

﹂ 可 九 何 事 也

昨 日

以 ‑

一 忠

弘 一

細﹂申承了︑謹

口 吾 一

﹂ 八月十 三 日 阿(花押﹀

縛 左 少 将 殿

巴=

雨書朕は共に御子左家の所領播磨園越部庄(師一報)の慮分に関する

も の

で あ

る ︒

前者﹁六﹂は越部庄を三分して三人の子女に輿えようとし︑その

同 五僚の上は上保を手許にとどめる 注文をまず五篠の上に見せた慮︑

こ と

に な

り ︑

その次第は︑上保はやせ田が多い局局︑他から九町を入

れれば等分になる ︒ さすればやせ田ではあるが徐分を加えたによっ

て上保を望んだのである ︒ その後叉右少将にいった慮︑彼はとやか

くいはず中保を望んだのでそうしたい︒ よって残った下保の分を見

せる次第である︒扇引きのようなきめ方であるが不悪諒承して欲し

い︒自分は既に老齢旦暮をしらぬ命であるので急ぎ事を決めたい︒

なお畠からの年貢については追って︑

注文の沙汰がある筈ゆえ到来

に従って見せるが先ず田の注文をお見せする︒そして返し書に︑

か く配分し了ると公景がふびんの魚︑今年はこのまま公景に沙汰させ るようにいつである︒併しこのことについては皆の賛成を得ておら

ぬから強いてとはいはぬが︑ という意のものであろうか︒

次いで書状﹁七﹂は越部下保の給園姐びに分文等を差上げる

︒ 自

分は病数ヶ月の長きに及び︑ その上咳もひどい︒そこで所領慮分の

事が決定しなくては甚だ気がかりである︒

よって在︑げて決定した

い︒五篠の上へはその由を申したがなお承引しない︒それで他の二

方だけでも決めたいとこの給周囲・分文をあげる次第である︒この上

は境のことも畠のようなことも︑方々沙汰人等が下向して委細注文

を作製するであろう︒くわしい返事法高倉にでもしてほしい︒

五 { 康

の上からの返事は未だこないが待っておられぬ ︒ 昨日忠弘を以って

仔細承った︒ーという意であろうか︒

此等二つの書状は御子左家所領越部圧を三分したい相談の手紙

で︑共に配分に預る三人のうちの一人左少将にあてたものである︒

左少将・右少将・五傑とは誰か︒左少将は定家︑右少将は七歳上の

向田

五傑尼

兄 の

成 家

五篠とは明月記によると定家より十四歳上の姉︑

上を指しこの三人に配分しようとするのである

叉文中六角とは高松院新大納言で六角に住み六角の尼と呼ばれ定

(11)

家より十二歳上の姉である︒高倉とは明月記に高倉への往復の記事 が移しく散見するので︑徐程近い関係の人と察せられるが︑確定で きる資料がない︒明月記建仁三年正月廿一日の篠高倉尼死亡の記事

これは定家の乳母であるがこの人と書欣の高倉と同人かは剣

明しない︒公景・忠弘は共に俊成・定家の家人であろう︒ あ

り ︑

さて本書紋の財産分配授奥に関する三者は︑俊成の数多い子女の

うちの同腹(限畑叫ん)の子ばかりであるのと︑年齢順に分け前あるのも

ただ六角尼のみはここでは分け前に預からず相談を受けて

面 白

く ︑

いるようである︒

本書肢は何年のものか

内容から七月の日付の方が八月付より前 で

恐らくは周年と察せらる︒稗阿法援の安一万二年九月以降︑成家

右 少

将 (

忠 一

一 町

田 一

村 一

計 )

定家左少将(献日立紅巳問

l

)

閥 ︑

而も七・八 月付の潟︑文治六年郎ち建久元年より正治元年十二月の問︑俊成七 七歳より八六歳の聞の書吠となる︒なおその間どの年のものかとな

ると確設となる越部圧分配の資料が未出なので確定できない︒

然し俊成は美一服門院加賀の同腹の子女にのみ庄園の配分を行おう

としているのをみると︑何かそれらの子女の母に関聯するかとも思

われる︒加賀は建久四年二月間以し︑

同年六月廿七日には成家・定家 は母の喪があけて少将に復任している︒この圧園は或は加賀の遺領 であったのかもしれぬ︒文中︑老齢旦暮に迫るとか︑俊成も長患い しており︑何か配分を急いでいる様子︑何か心の動揺を感じさせる

ものがあって配分を急いだかと想像できるが︑

ーすると建久四年俊

藤 原 俊 成 の 書 紋 及 び 蝦 名 消 息 の 研 究

成八十歳の時のものとなろうか

︒ これは躍に臆測にとどまり︑

正 確 i ¥  

には明月記その他の史料の新出を後日に侠たなければならない︒

氏 減

消息﹁あの御ふみ云々﹂

第八は住友氏の ﹁あの御ふみ云々﹂

神 奈 川 住 友 寛

の消息である(挿園 5

﹀ ︒

こ れ

住 友 寛 一 氏 蔵

も早く書苑(刊ノ)にのり

諸書に紹介されて著名で あるが︑内容が案外六ケ

紳奈川

しく意味の取り方がまち ま ぬ あ ち

」自ヰ

御ふ~る て 手 み ) づ〉た

か ま

は ツ は あ( り ま号候 八 十 に あ ま る ま で の 蝦 名 消 息

へ 又 り か り ま 墓 て や に

」 〈 い 〉 候 う 候 て さ ら 、 に な っ せ う お ( ん たさ〈れ~ほ旬!

へ ( ふ き し 〉 せ

ま き ら く 」 人 い ふ ♀ 候 た ( に ら た i f て ま ち て せ ま で 5J は も

挿闘 5 . 藤 原 俊 成 筆

ば て さ や す せ と の お も 、 む わ い し 」 か し

ま手」 お ( へ 」

ふ主やえもさに ま でδ へ 重 ひ ま 事 せ と 最 も 桃 仮 い〉

り ' ‑ ' ~ごしら に ほ き か せ

﹂ さ y γ

も ︑

( 侠

﹀ ( 有 ) ハ 隊 )

︿ 程 )

っかひもありがたく﹂候ほどに︑

( 桃

﹀ ( 花 )

﹂されども

aL

のはなよりは どにおぼえ﹂けるにや︑

ハ 内 容 )

︿ 侍

まいらせ﹂さぶらはざりつるなり︑

︿ 岬 明

﹀ ( 凪 見 )

事のほかにまさり﹂てはおぼえ候ものにて︑﹂身にとりでは候なり︑﹂

(限引退し書)すをわざとに持たるだに︺弘同しく候に︑このい初く﹂候も ﹂これは

2 6 1  

(12)

美 術 研

七 島 常 究

のこそ︑まだ八十﹂にあまるまで

︑ え

みさぶら﹂はざりける

︑ を か し

く﹂候

ヘ 返 し 書 / ハ 似

﹀ ( 白 )

へ︑﹂(上段)これは﹂なににか﹂候﹂たがそでに﹂にて候へど

︑ ﹂

ろ く

( 面 白

﹀ ( 賂 )

候 ︑ ﹂おもしろくこそ﹂候へ︑﹂うれしく候﹂あなかしこノ¥﹂

本消息は文中﹁八十にあまるまで云々﹂とあるので︑ 八十歳を幾

っかこした頃 ︑

俊成建久四年八十歳から同九年八五歳頃の

間の手紙 であろう︒後述の保阪

民蔵

﹁ 九

十 に

み ち

候 ﹂

の消息を誤って九十の

賀の文といい珍重されているのに併せて︑

こ の

消息 も亦八十の 賀の

文ともいわれているが︑内容を上く讃むと八十賀などというもので

は な

い ︒

これは前文に手ずから手

紙を頂 いたことを非常に恐

縮 し

本文は﹁すまき﹂までし これから人手を介して頂きたい旨を

述 べ ︑

て贈られた﹁たがそで﹂に似た花の木の珍しい白い花を喜び︑その 名を尋ねつつ︑花の恵贈に封して深謝の意を表明した薩肢であろ う︒候名書きでもある局

︑相手

は或は 婦人

であろうか︒且つそれも

恐らく高貴な婦人に宛てたもののように思われる︒

消息﹁まことにこの春よりの云々﹂

神 奈 川

保 阪 潤 治 氏 減

第九は保阪氏蔵の﹁まことにこの春より云々﹂の消息である(挿園

もと吉田丹左衛門

氏 の蔵で早く書苑(畑ノ ) ‑日暮帖 に

上梓さ れ

これ叉著名なものである︒

て︑俊成九十歳の十一月︑

併 し

九十の賀在歌所に於て後鳥羽院より賜つ

従来の諸説は本消息をもっ

ているのに閥聯させ 九十の賀の文と呼んでいる︒ しかしそのよ 5

に内容をとる事は難い︒第一 ︑そ の書き出しに﹁まことにこの 春 よ

りの御よろこびの多さ︑ なにごともおぼしめし候ままに

‑ ・

﹂ と

二四

2 8 . 4  x 

93. 

4cm 

る は

︑宛先

の家の慶事の多き

を賀したもので ︑ 俊成自身の

ことでない︒

保 阪 潤 治 氏 難

﹃まことにこの春より﹂の御

よろこびのおほさ︑﹂なに事も

おぼしめし﹂候ままに めでた

神奈川

くおは﹂しまし候はんずる︑﹂

うれしさ申ゃるかた﹂なく候︑

﹂れよりいっ﹂しかも申たく﹂

候ながら それもさまノ¥﹂の

よろこびどものめで﹂たさにま

ぎれ候らひて︑﹂かつは御ふみ

九 十 に み ち 候 の 仮 名 消 息

をまち﹂まいらせ候つるに候︑

なに﹂事よりも御とくおぼ﹂し

めすさまに﹂候はんずる︑うれ

しく候︑﹂入選もことしはすで

に﹂九十にみち候にて候を ︑ ﹂

まことにもありがたき﹂事に候

藤 原 俊 成 筆

"^'‑

ば い み じ く

﹂ お ぼ え て は

候︑まことには﹂それもふくと

く の か た の 事

﹂ の た の し く 候 挿圃 6 .

て︑﹂それによろづもまぎ﹂な

くやうに ︑

」 て ん〉 し薪候 中 」 将 さ に て 心 お す 盈 ち ほし、、,も

せ なでつた

」 う の 候 の 」 に 事 し け は く

ん 、 侯

(13)

よく候︑﹂それはうるせくとりいり﹂げに候へば︑申ゃうも﹂候なん︑﹂

(艶ハ腕し)入遣をば河かの﹂時とはつけさせ﹂たまひて候へど︑なに﹂をか

一時一しへ﹂まいらせ候ベき︑﹂﹁型駄し)あやまりて﹂ならひ﹂ぞ﹂まいら

(老 )

せ候﹂ぬベく﹂候︑﹂たいふ﹂おいて﹂候へば︑﹂おもは﹂くに﹂おほ﹂せ

らる

ah

﹂事に﹂候なり︑﹂叉この御﹂よろ﹂こひ﹂の L ちは︑うれ﹂し﹂

と﹂だにまた﹂申﹂侯はず︑﹂それは﹂九様︑どのの﹂をり︑﹂うれ﹂し﹂かり

﹂まいらせ﹂て﹂候しかども﹂つゆ﹂うれ﹂しき﹂事も﹂なくて︑﹂ハ凶 一

﹂たまひ﹂候に﹂しかば︑これを﹂なか

f ¥

﹂申さで﹂候はん﹂とて﹂侠

なり︑﹂されば﹂なに﹂事も﹂申候﹂はぬに﹂候﹂しん中将に﹂おほせ﹂

候にけん﹂よく候︑﹂あな﹂かしこノ¥﹄

文中﹁入道も今年はすでに九十に満ち候にて候﹂とあり︑叉﹁こ

の春よりの云々﹂ とあれば俊成九十歳︑

建仁三年春過ぎ頃の消息

か︒文意をとると︑先方の家に春以来の慶事の多きを賀して︑

、 っ

し 、

で自分も九十になり︑稀有なことと心にしみじみ愚見える旨を述べ︑

その上︑内心この高齢については何か福徳の事もあろうかと心持も

幾しくしていると告げている︒そして文意を換え︑髄踏の事につい

て新中将に仰せられた事を喜び穫を述べている︒髄脳とは公任撰新

撰髄脳かとも思われるが︑俊成自筆本に新撰和歌髄脳があり︑題名

はよく似ているがこれは喜撰儀式で公任撰と異なる︒然し共に歌皐

の作法に閲するもので煩雑な内容を持つものであり︑文中の﹁うる

せく﹂といわれるのに相臆するものである︒喜撰式は和歌髄脳と呼

ばれるものであるが︑ これを俊成が新撰和歌髄脳と諜まって書いて

い る

鮎 等

か ら

この文中の髄脳が公任撰か喜撰式か何れとも俄かに

藤原俊成の書紋及び侵名消息の研究

きめ難い︒それ故これ迄の諸説のように︑特に俊成自筆新撰髄踏の 新出じた以上は公任撰新撰髄脳を指すと一方的にきめることは蹴踏 を感じる︒新中将とは先に中将になっている成家に封して︑今度新

しく建仁二年壬十月廿四日四十一歳で左中将になった定家を指す︒

髄脳の講義を俊成にでなく定家に仰せられたこと︑ 印ち子供の定家

が認められたことを喜んでいる︒そして俊成を和歌の師匠として下 さつてはいるが何を教えることがあろう︒只老年故思惑で仰せられ

ているのであろう︑ この喜びの後は とし︑次いで文は叉一縛して︑

嬉しいとばかりは申すまい︒それは九傑殿の折にも何かよい事があ るかと嬉しがっていたのに︑何一つ嬉しい事もなく過ぎたのである から嬉しいなどとは申すまい︒もう何事も申さぬと言っている︒九 傑殿の折とは粂賓の何かの慶事であろうか

︒その 時自分の万へは一繭

徳が来なかったのを言っているのであろう

裏を返せば何か来そう

なもの だとい

う事を暗々裏にいっているようにも見える︒以上のよ うに考えるとその内容が九十の賀に直結しているか疑問と言わなけ ればならない︒本消息は他家の慶事を賀して自分も九十になった喜 びを述べ︑定家に髄脳の講義をさせて下さる事を謝した一文である

と言う他ないように思われる︒文中に歌の師というのがあるから︑

誰か弟子筋に嘗る人に出した手紙であろう

︒そ して終りの文章から

慶事の多かった或る貴族の家司のような人に宛てたものではなかろ うか︒本消息は元久元年九一歳で死去したその前年にあたる最晩年

の筆蹟として貴重なるものである︒

2 6 3  

二 五

(14)

美 術 研 究

七 貌 第 百 九 十

以 上

私は俊成書紋・消息のうち員筆と思われるものをあげたが

他に東京園立博物館保管の消息一通(挿闘 7) ︑ と西本願寺第一問責

2 8 .  3  x  4 7 .   1 

CiIl 

立目録に枚載の一通が

あ る

消息断簡

﹁キ 己

東 京 同 立 博 物 館 保 管

のふの御ふみみ候き云

しー

東京闘立博物館保管

う き 『

よ d L..き

「 ヲ 7 尚 の よ 亡 ん ふ {民し哩の け ど 御 ん の ふ は の み

じ 各

1I ). 

め ざ 届 候 消

挿圃 7 . 侍 藤 原 俊 成 筆

の もの﹂かひ

λ ¥

し く

(叫we

﹀ 圏

いづく﹂の寸二

仮 き

月にて候けるにか﹂叉

/¥もよき御ざうよ﹂

うおぼく候なんと返候

﹂うれしく候﹂さてす

円一

使)

ケ リV

ぎ仮にしほども﹂御ふみ候ひし御返﹂申たくおもひ候ながら﹂つ ︐

u

口ひな

t

どさへかない﹂がたく候て又たよりを﹂もあなたにかくとも候はで﹂かっ

(嵯峨)

さかの び んにてかへる﹂人にはあらずとのみこれにも﹂(肌軒後敏

) (

M

飢 豊 富 )

そ の

L

ちはこぞの﹂としのはても﹂やがてけふまで﹂御っかひなど﹂た︑ぶ

事も候﹂はね﹂(⁝封書)門町なにも﹂たまはら﹂ず候なり﹂御あしの﹂事

二六

﹂こそ﹂返々﹂わび﹂しく﹂候なれ﹂けふ人まいらせ候なり﹂なに﹂し ﹂

同一か﹂御あし﹂なにかとも﹂き L

ざりに﹂申﹂候はんたど﹂すこし﹂れ

いならぬ﹂御事と﹂うけ﹂たまはる﹂わびしき﹂口口口

2 6 4   本消息は断簡で︑宛先年次もなく︑内容から史賓を取り出しにく

い︒漠然乍ら俊成が弟子筋に嘗る者に宛て

西 本 願 寺 第 一 同 入 札 目 録

た 手

紙 で

旦っその人は足を患って嵯峨の

方面にでも住んでいたように思われるのみ

であるから︑俊成何時頃のものに首ててよ

いか手掛りが薄い ︒ 其故︑筆篤時期未詳の

消息という他なく︑従って本消息の解明

は︑俊成筆蹟の時代的特色の検討を済まし

息 消 、

た後に倹たなければならない ︒

藤 原 俊 成 筆

西本願寺第一問責立(時一詰)に﹁はるのし

きしの云々﹂とある俵名消息がある (

挿 園

8 ﹀

この目録宵局員は小型で且つ印刷不鮮明の矯

挿岡 8 .

調査報告も出来ないが 竪九寸二分︑巾三

尺一寸三分の見事な大幅で︑書風は正しく

ば幸甚である ︒

る︒数年来行方を探しているが未だ詳にする事ができず御示教賜ら

俊成と思われるもののように見受けられ

その他の停俊成書紋になると納得のゆかないものが多い ︒ 先述の

伊藤某︑松津︑松浦各家の責立目録にあるものは一見俊成筆蹟とい

(15)

い難いので除外して︑

その他のものをここで一括して調査すると︑

本書欣は

の書状一幅である(挿岡 9 ) ︒

第一は某氏蔵﹁高揚院云々﹂

俊成筆と侍えられるものであるが

ているが筆勢弱く︑

その書風形穫は俊成の書鰻に似 圭角のある筆ゆきに俊成濁得の含みがない

︒ そ

して書紋に於ける返し書の書形式がこれ迄の俊成に掌げた書吠消息

り右上にとび︑

上漫にそって左透に及ぶ

と異る

俊成返し書は一般返し書の例と同様に︑

この本書状の返し書は︑ 一旦右下から初ま

右下返し書がなく︑右端中央よりはじまり︑各行聞を段々左下りに 左方に向ひ︑右端上や上透にはゆかない︒俊成の他の書式と全く方

藤 原 俊 成 の 書 紋 及 び 限 名 消 息 の 研 究

式 を 異 に し 到 底 同 一 人 35.7x46cm 

の書式ということはで (一〉き

﹁高陽院どの

某 氏 蔵

書状

よりの事云々﹂

由仁f Aく

減 欣

﹃高陽院どのよりの事

﹂こなたにもうけ給て 侍藤原俊成筆

さむらひぬ﹂しかるう ゑは御いであひなくて

は﹂なりたがきやうに

て(民 よ 、

り そ の の 組 う

ど へ

御 」 も に

さ♀か た地ね

挿園 9

まし﹂ますうへの事さ

の御こ L

ろになくては﹂ありがたき事候︑まして月雲の﹂外は興にまかせ

q ‑

て難題もまして﹂とみの御とき御とりあはせに侍なん﹂︑たよりあしからぬ

やうに候へかしと忠ひ﹂まいらせ候ぬ︑この外はけさんなくてハと﹂(切断

J

/ 後 続 ¥

(返し書﹀申ばかりをとめ﹂まいらせし﹂いとはやも﹂ちかき日の﹂ほども

まし﹂まさず候御事﹂なればのちの﹂きざみにも﹂けさんに人﹂申候べく 候

胃頭の ﹁高陽院どの﹂とは後鳥羽天皇の御所で︑

その御所の御殿 による稽呼である︒高陽院は元久二年権大納言公維の建立︑

造営な って上皇がこの御殿に御移徒になられたのは同年十二月二日︑震に 後 鳥 羽 院 が 高 陽 院 殿 と 呼 ば れ た の は 砂 く と も こ の 時 以 降 か ら と な

これを俊成に嘗てると俊成は元久元年十一月対日残しているの で本書状は正しく俊成残後のことになる︒それ故︑

本書欣は俊成亜

徳 川 家 買 立

流の筆か︒筆者は不詳︒

松 津 家 貰 立 息

n . ! J   息 侍藤原俊成筆

侍藤原俊成筆

挿闘 1 0

挿闘 1 1

265 

二 七

(16)

島 t

九 十 七 第 研

「一'U 

持 J

向︑文意は︑高陽院殿に於ける︑

即ち後鳥羽上皇主催の和歌曾に 出席をすすめる内容で︑文中に出る歌題による和歌御曾の記録を諸

書に首ったが未出で︑初度の和歌御曾の記事としては︑高陽院造営 の翌年の正月のものがあるが︑歌題が異るのでその時のものとも言

えない︒それ故本書欣の年次は今猶決められない︒

第 二

は 徳

川 家

( 順

4 f

鴎)にある﹁この春は云々﹂ の消息である(挿園

俊成の筆癖消え自筆と思われな

これは一見して筆先が丸く

い︒俊成書風の影響を持つものの筆蹟のようで︑ アつつし﹂かと考

え ら

れ る

〈 二 〉

昭 二

・ 四 徳 川 家 費 立 茶道清親所牧(京都義州堂刊)

﹃この春はまことの﹂御よろこびども﹂にて﹂候ひつるこそ﹂かへすノ¥ 消息﹁この春

はまことの云々﹂

も﹂めでたくうれしく﹂候へ﹂

としどろおぼ﹂しめされ﹂候御﹂ことは

﹂みなかなひ﹂候へつる御﹂こと﹂返々﹂(製門脇し)印一向にも﹂思候さま

に﹂て﹂この御所の﹂千とせ﹂の御かげ﹂にて﹂(一封書)ロさへ﹂なかけ

に﹂候﹂めでたく﹂候﹂又々﹂申候べく﹂候﹄

内容は春の慶事の多きを賀しているらしく宛先は不明︒御所の千 裁の御蔭にてとあれば︑宮中関係の女性の消息かとも思われる︒こ のような書風の消息は鎌倉初期のものに多くみられ筆者想定にまで

は ゆ

か れ

な い

︒ 猶

松 津

家 (

環 日

団 的

一 一

一 )

( 挿

園 口

﹂ 斗 ふ

本消息の返し

書の部を省略した同文のものがある︒而もそれには日付﹁八日﹂と

﹁俊成﹂と署名迄加えてある︒そして本文は字配り書形共に全く同

じで明らかに贋作である︒そしてその贋作も原物からでなく︑

ア フ

二八

っし﹂からの.贋作かと思われる節がある臼何れにしても責立目録か

らの篤員で云々することはさけなければならないが︑徳川家本も更 にもう一本の底本の存在を考えたら如何であろうか︒そしてその底

本は俊成筆でなく︑

恐らく俊成亜流の女性の筆になるもの

かと考え

‑ 目 ︑

CJ

心︑

ν 第三は ︑ ﹁これをさうしの云々﹂の消息である︿挿園 里見氏臓の

ロ ) ︒

鎌 これは第二の徳川家責立本のような疑問あるものでなく

倉初期の筆蹟と思われるが矢張り俊成自筆とは認め難い︒

¥}

消 息

﹁ こ れ を さ う し の 云 々

﹂ 京 都 里 見 忠 三 郎 氏 縦

/I¥ 

﹃これをさうしの

L

かけをひのれうに﹂まいらせばやと﹂御めのとの﹂さ

かしらして﹂かへらせ給﹂日ぬる﹂

( M

恥書)いり侯べき﹂やらん﹂とて

﹂まいら﹂せし(比飢書) 一日の御﹂ふみ

﹂のよちは﹂つね﹂にも﹂申﹂

といふけ﹂ざらんにも﹂中さ﹂ぶらばやと﹂のどかに﹂春のそらを﹂まち

候 ﹂

也 ﹄

文意は︑草子を返す際︑

かけ掩いの料を添えて贈った時につけた

消息 である︒書 風 は俊 成風 ではあるが

︑他の書状消息群

に一致しな

いため自筆とは認め難い︒

例えば︑他の自筆をみると︑春の字な

の第三重自の

横査は轡曲してしな

っているが ︑ これは異横に引きこ の様な例はない︒むしろ俊成風をよくした亜流の女性の消息とした ら如何であろうか ︒

前述の徳川家本

もであるが ︑本消息の ように俊

成消息と侍えられ

るもので ︑柔ら かい筆

致のものはすべて別人と考 えた方が穏嘗のようである

本消息に似た筆を他に求めると陽明文

庫臓停坊門局消息があるが︑

これは必ずしも一致すると言えず︑最

参照

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