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大字報 : 中国の手書きコミュニケーション・メデ ィア

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大字報 : 中国の手書きコミュニケーション・メデ ィア

その他のタイトル Ta‑zu Pao (Big Character Poster) : Handwriting Communication Medium in China

著者 足立 利雄

雑誌名 関西大学社会学部紀要

巻 8

号 2

ページ 1‑35

発行年 1977‑03‑28

URL http://hdl.handle.net/10112/00023120

(2)

ー中国の手書きコミュニケーション・メディアー

発 想

「大いに見解をのべ,大胆に意見を発表し,大弁論をおこない,大字報をはることは,人民大 衆が創造した社会主義革命の新しい形式である。国家は人民大衆がこの形式を運用することを保 障し,…•••」 1) ーこれは 1975年 1 月 17 日に公布された中国新憲法の第 13条である。

プロレタリア文化大革命は, '66525日に北京大学において婦元梓女史(哲学科講師)た ちが陸平学長を弾劾した大字報をはったのを発端として始まった。これがいわゆる紅衛兵大字報 1号であり, 61日に北京放送によって全国に伝えられた。そして同年85日に毛沢東が 自ら「司令部を砲撃せよ」(私の1枚の大字報) と題して発表した大字報2)はプロ文革の展開に 衝撃的な影響を与えたといわれる。

大字報は大学,工場,農村,各級機関にひろがり,壁という壁,街路上にまで書かれ,プロ文 革中の主要なコミュニケーション・メディアとなり,日本をふくむ外国新聞,通信特派員たちの 記事のほとんどが街頭にはられた大字報を取材源としたことによっても世界に知れ渡った。

しかしながら,これは新聞,放送などのマス・コミが劉少奇たち実権派によって支配されてい る情勢のなかで,毛沢東たちおよび造反派がやむなく利用した手段であり,いわば非常時の一過 性のコミュニケーション・メディアにすぎないという見方もあった。たとえばビエール・ルパッ プは,その著「新聞の危機」3)のなかで「中国プロレタリア文化革命の発生と発展は, 情報手段 の分野でも真の爆発を伴うことになった」といい,報道の民主化の実験として壁新聞(大字報)

を評価しながら「中国文化革命が実現した民主的情報の実験は,この社会運動の一時的,例外的 性格に,まさにその第2の限界を内蔵していた。権力の伝統的な形態が崩潰した結果可能となっ たこの驚くべき示威行動のうち,精神面はともかくとして,今日なお残っているものは何一つと してない。中国の報道を再び支配しているのは4, 5種の共産党機関紙であり,流されるのは中

1)中華人民共和国憲法,総網第1章第13条「大鳴,大放,大弁論, 大字報, 是人民群衆創造的社会主義革

命的新形式。国家保障人民群衆運用這種形式•…••」。印刷活宇の都合上,中国の簡略文字は日本の漢字を用 いた。

2)'6685日「砲打司令部」(我的一張大字報)一光明日報'6785日付で公表された。

3) Pierre LepapeLaPresse(1972)「新聞の危機」勝岡宣訳,サイマル出版会, p.175 177 

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関西大学「社会学部紀要』第8巻第2

央権力の意思を正確に反映して仕立てられた,貧しい情報だけである」と述べている。ここには 中国のマス・コミに対する認識不足とともに,社会主義一そのモデルとしてのソ連の表現,言論 の自由についての彼の見解が,そのまま中国に対する先入観となっている。

筆者がこのルパップの文章を読んだ'741月には「批林整風」から「批林批孔」へと発展し た運動の先頭を切って,大学,工場,農村において大字報がはり出されていることが伝えられて いた。このことから大字報が決してプロ文革にともなう一時的なメディアではないことを確認す るとともに,このメディアの発生(とくに,壁新聞といわずなぜ大字報というのか)と歴史,そ の形式とルールなどについて大きな関心をもつことになった。

そしてやがて冒頭に記したように, '751月には大字報は憲法によって保障されるに至った のである。中国の旧憲法がソ連現行のいわゆるスターリン憲法を範としているのに対して,新憲 法はむしろソ連の旧憲法いわゆるレーニン憲法に類似している。その性格を一言でいえば,過渡 期の憲法であり,変革のための憲法である。新憲法が前文でうたっている「継続革命」を遂行す るための基本法である。既成の秩序,体制を保守,維持するための法ではない。したがって,ソ 連をふくめた諸外国の憲法の常識をこえたものであることは当然であり,第13条もまたその特質 を明かに示している。

'752月から展開された「プロレタリア独裁理論の学習」運動, 9月から開始された「農業は 大塞に学ぶ」運動につづいて起った教育革命においても,大字報は先駆的な役割を果した。清華 大学の2人の教員が毛沢東に送った書簡はプロ文革後の教育の欠陥を批判したものだが,これに ついて毛沢東は清華大学に対して大弁論を行うことを指示した。同年10月末,清華大学ではたち まち大字報がはられ,賛否の論争が巻き起った。このなかから「右傾醗案」(右からの巻き返し)

に対する反撃がうまれ,これが「走資派批判」へと発展し全国にひろがったが,この場合にも大 字報は大衆の間の主要なコミュニケーション・メディアであった。筆者が中国を訪問した'76 3月下旬から4月初旬には,マス・コミに先がけてすでに部小平の名が批判の対象として各地の 大字報に現われていた。 '76年10月の王洪文, 張春橋,江青,挑文元たちの陰謀事件の摘発につ

いても同じことがいえるだろう。

中国において大字報という,紙と筆と墨,絵具によって創出された素朴なメディアは,時とし て新聞,放送,出版などよりも有効かつ強力なマス・コミュニケーション・メディアとして機能 するのである。このことは,中国社会あるいは中国のマス・コミの後進性を示すものというより は,まさに中国社会主義体制の特質をこそ示すものではないだろうか。またさらに,マス・コミ の発達した先進国(ソ連をふくめて)においてあらゆる情報が,体制権力に対する批判までもマ ス・コミによって供与され,大衆はつねに受け手であり,マス・メディアヘの自由な直接参加が ほとんど絶望的な状態のなかで,表現,言論の自由がいわば体制権力の統制,管理,操作のもと におかれつつあるとき,大字報を新鮮な人民のメディア(それはマス・コミに対するカウンター

•メディアでもある)として研究する魅力を筆者は感じた。これが本稿の発想である。

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I 起 源 と 発 生

①  壁報,糠報,黒板報

大字報は一般には壁新聞ー中国語の壁報,籠(増)報一の一種として理解されている1)。大字 報はもちろん壁報,塙報と同じ形式をとったものであり,現に中国においても大字報を埴報と呼 ぶ場合もある。が,壁新聞がすべて大字報でもなければ,単に大きな字で書かれているという理 由だけで大字報と呼ぶわけではない。「大字報」が出現し,定着したことには重要な意味がある。

そのことについては後述するとして,ここではまず原型としての埴報,壁報,黒板報がどのよう にしてうまれたかについて説明しよう。

しかし近代中国のあらゆる文献を閲読することは至難である。たとえば太平天国革命において 煽動,宣伝のための文章が壁新聞の形式をとってはられたことは十分に推測される。筆者は南京 の太平天国歴史博物館において埴頭詩(壁に書いた詩),布告などの1部を見ることができた。

またおそらくは国民革命の時期についても同じようなことがいえるだろう。が,ここでは大字報 研究の意図から,それを主として中国共産党の,入手し得る文献に限定した。

壁報の文字を最初に発見したのは, 192912月の閾西古田会議における毛沢東の中国共産党紅 軍第4軍第9次代表大会決議案2)においてである。

四 紅 軍 宣 伝 工 作 問 題 紅軍宣伝工作的現状

(2)  宣伝技術的欽点

壁報出得恨少,政治簡報内容太簡暑,又出得根少,字又太小看不清。

宣伝技術の欠点を述べるなかで,壁報の数が少なく,政治簡報の内容が大へん簡暑で,数も少 ないし,字も小さすぎて読みにくい,といっている。また改正すべき路線の項s)で壁報は大衆に 対する宣伝の重要な方法の1つである。軍および縦隊は1単位ごとに 1つの壁報をもち,政治部 宣伝科の責任のもとに,名前はひとしく「時事簡報」と呼ぶ。内容は1'国際国内政治消息2' 遊撃地区大衆の闘争状況3'紅軍の工作状況とする。毎週少なくとも 1回は出し,印刷ではなく すぺて大きな紙に書き,できるだけ枚数を多くすること。政治簡報の編集については下の各項に 注意すべし。 1'速くする 2'内容をもっと豊富に3,字をもう少し大きく,きれいに。

この紅軍第4軍の「壁報」は宣伝,教育,広報のためのものであり,文字通り壁「新聞」であ

この古田会議決議案よりも,今日の大字報の性格をもつものとして「艤報」が出てくるのが毛

1)壁と埴はほとんど同意に使われる。通常は力ベのことを埴壁という。

2)毛沢東集,毛沢東文献資料研究会編,北望社 (1971),2p.105  3) p.108 

‑ 3 ‑

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関西大学『社会学部紀要」第8巻第2

沢東の「農民運動と農村調査」4,)のなかのオ浚郷(福建省)の調査,長岡郷(江西省)の調査,

である。オ漢郷調査の日付は'33年,長岡郷調査の日付は'33年12月15日となっている。 この報告 の序言において,毛沢東は'27年の北伐戦争から'34年中央ソビエト区を放棄するまでの期間に調 査を行ったとしており,長岡,才漢の調査は中央ソビエト区で発行されていた「闘争報」に発表 されたと記しているところからみて,これらの日付はおそらく調査の日付ではなく発表の日付で はないかと思われる。

「オ漢郷の調査」の文化教育の項5)には 上オ浚

識字黒板ー6つ,道路に立てられている。

壁新聞(膳報)ー4カ所,各村に 1つづつあり,昼間学校の内外に立てられている。

記事は学生および教員のものが多く,大衆のものは10%にすぎない。

下才漢

識字黒板ー5つ,壁新聞ー5カ所

また「長岡郷の調査」の文化運動の項6)には

識字黒板ー 1つの村に 1つずつ,路傍の壁に釘でうちつけてある。 この黒板には絵と字が書か 2日あるいは3日おきに書きかえられる。

全郷にクラプが4つあり, 1つの村に1つずつである。各クラプの下には「体育」「壁新聞」「夜 会」等ひじように多くの委員会がある。

各村には 1つの壁新聞があり,レーニン小学校におかれている。 10の記事のうち,小学校の生徒 が書くものが 8つをしめており,大衆の書くものは 2つである。

才漢郷ソビエトの代表選挙について書いている部分'1)には,次の記述がある。

候補者の名簿は,下才漢では160余名(そのうち当選する定員は91名)であったが, その160 名の名前を全部書きこんだものを1つの村で1枚ずつはり出した。大衆が各候補者の名前の下に 自分の意見を註記していたものがひじょうに多かった。註記は2字のもの, 5, 6字のもの, 10 余字のもの等があり,子供たちもまたよく書き入れた。註記には「好い」「悪い」といった字が 多かった。また「同意」とか「消極的」とかいった註記もあった。ある 1人の名前の下には「官 僚」という 2字が書きこまれていた。壁新聞で批判されたものが20余人もあった。批判されるも のは,いずれも自分の生活をはかることだけに一生けんめいになり,大衆の利益を考えず,仕事 のしぶりに消極的な点があらわれていたものである。詩や歌を書きいれたものもあった。なかに は紙業問題に対する郷ソビエトの解決方法が当を得ていないことを批判したものも 3つほどあっ 4)中国研究所資料部発行('507月)。香港新民主出版社発行(、487月)の「農民運動興農村調査」を

底本とする。

5) p.224  6) p.186  7) p.205 

(6)

た。一一

紅軍および郷ソビエトにおいて,紙や印刷資材が不足していたことは推測できる。壁新聞ある いは黒板は,何よりもまずそのための代替手段であっただろう。また当時の中国民衆(文盲率は 全体として90%以上といわれる)s)に対する識字運動と関連したものでもあったことは, いずれ も文化教育あるいは文化運動の項のなかで報告され,識字黒板と膳報が並列されているのをみて もわかる。

しかしそれらが,単に宣伝,教育,広報のためだけではなく,大衆の意見,批判を発表するた めのメディアとしてあり,郷ソビエトの代表選挙候補者に対するものであるだけでなく,いわば ソビエト権力の政策に対するものでもあったという点は注目される。毛沢東はそれを肯定的な書 き方で報告している。

このような壁報,埴報は当然のことながら延安および各解放区においてもひきつがれていっ '425月の「延安の文学,芸術座談会における講話」のなかで毛沢東は壁新聞(原文では埴 報)9)にふれているが,小プルジョア知識人が労働者,農民,兵士の「感情, かれらの形象, れらの芽ばえつつある文学,芸術(壁新聞,壁画,民謡,民話など)を愛さない」と批判し10)

また「われわれの文学専門家は大衆の壁新聞に目をむけ,軍隊や農村における報告文学に目をむ けるぺきである」11)といっている。壁新聞のなかに現われる労農兵の詩,散文,絵画など人民大 衆の作品の芸術的な価値を理解し,そこから人民大衆を知り,人民大衆に学ぶべきことを説いて いるのである。

中華人民共和国成立の直後の'4910月に上海で再版された「新名詞辞典」12)の社会之部には

〔壁報〕学校,工場,公共場所の壁にはる一種の筆写した新聞紙。特種な問題を中心にして発 表する論説および報告。解放区においても盛んにおこなわれている。

C黒板報〕解放区での一種特別な新聞紙。解放区の各部落に普遍している。・・・編集に参加する 者は大半が小学教員,郷の文書係,農民と労働者などで,投稿から出版にいたるまで純粋に大衆 の手で行われ…内容の主要なものは各解放区の消息およびその村や区の消息で,毎期,数篇の文 章約2,300字である。黒板報の周囲には多くの労農通信員が団結しており, 陳甘寧辺区のある村 の黒板報には, 30名の通信員がおり,全村は180戸ばかりだが,平均して6戸ごとに 1人の通信 員がいる。一と記されている。

解放区において壁報,黒板報が主要なコミュニケーション・メディアの1つであったことは,

この記述からも十分にうかがわれる。

8)中共第7回全国代表大会政治報告('454月2日)毛沢東選集,外文出版社第3p.364には「文盲は 全人口の80彩をしめる」とある。

9)毛沢東選集(原文)第3 p.814  10)毛沢東選集,外文出版社第3p.105  11)同上, p.114 

12)胡済濤,陶汗天編著,何満子校訂,上海春明書店。

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関西大学「社会学部紀要」第8巻第2

ただしここでいわれているように壁報と黒板報の性格と役割がはっきり分れているかどうかは 疑問である。 とともに,大衆の批判,提案のためのメディアなのかどうかについては不明であ る。おそらくはそういった面は目立ったものではなかったといえるだろう。毛沢東は'571013 日の「最高国務会議での講話」13)のなかで「延安でのあの整風にも大字報はあったが,当時われ われはあえてそれを推し進めようとはしなかった。おそらく幾分恐れる気持があったのだろう」

と述懐している。このことについてはさらに次項でとりあげるが,解放区における壁報,埴報の 伝統がのちにうまれた大字報の素地になったことは否めない。

が,壁報については,これが中共解放区だけに存在したのではなく,解放区外にも存在したと いう事実を見逃がせない。前掲の「新名詞辞典」には(生活壁報)と(民主朧)についての記述

14,)がある。

それによると生活壁報は,浙江大学の費輩教授が創ったものと伝えられ,対日抗戦末期に後方 の各大学で盛んに行われ,勝利後もそれがひろがった。内容は生活の検討,学内政治と国事につ いての批判と建議,学生との連絡と活動の意見討議で,ほとんどは匿名あるいは仮名で自由に意 見を発表するが,文責は自ら負うべきものとされている。また生活壁報は民主のために奮闘する ものである故に民主堡塁の名がある,と説明されている。

民主謄は,生活壁報をはる朧壁のことで,抗戦末期に西南聯大と中央大学にあった,としてい

この「生活壁報」をふくめて,壁報が日中戦争の末期から内戦の間に,解放区外の各大学にか なりひろがっていたことは, '45102日に西南聯大に「反内戦」の壁報がはられた15)とか,

重慶の学生が出版,言論,集会の自由がないことを訴え,壁報を出すにも訓導処に登記し原稿の 審査を受けなければならないといっており16)また '47年の36日に北京大学の学生が上海の同 窓からの手紙で台湾の 2•28事件の真相を知り, これを壁報としてはった17)などという事例か

ら見ても,十分に推測される。

これらの壁報が解放区の壁報の影響(手段として,あるいは思想的に)を受けたものかどうか は明かではない。が,批判,抵抗のためのコミュニケーション・メディアとして存在していたこ とは確かであり, これが後に述べるように'57年の百家争鳴の時期に右派がはり出した大字報の 直接の原型となったのではないかと思われる。

ともあれ,壁報,黒板報は解放後の中国においても中国共産党の宣伝,教育,広報の伝統的な メディアとしてうけつがれ,全国の行政機関,学校,工場,農村にまで普及し,新聞,放送など

13)毛沢東思想万歳,東京大学近代中国史研究会訳, '7412月三一書房,上巻p.175 (同名の原本,現代評 論社復写版p.126)ー以後の「思想万歳」からの引用は読者の便も考え,この訳書によらせていただく。

14)新名詞辞典p.31,  32 

15)昆明血案塞録,周報第15期,民国341215日,屡門,周報社 p.9  16)周報第21, 2甥月合刊,民国35126p.42 

17)率名編,台湾的ニ・ニ八事件,香港七十年代雑誌社'7510月再版p.93 

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マス・コミの補助的なメディアないしコミュニティ・ペーバーとしての役割をもっていたこと は,多数の訪問者によっても実見されており,文献による実証の必要もないだろう。そしてこの 壁報をはる慣行が,やがて出現する大字報の伝播と定着を容易にする大きな原因となったことは いうまでもない。

③  大字報の出現

筆者の閲読した文献のなかで, 「大字報」の用語が時期として最初に使われているのは,香港 合作書店の「侶様改造」のなかの「羅常培教授的思想転変」の文中1)である。この冊子 (104 は張治中,凋友蘭,費孝通たちがいかに自から思想改造を行ったかについて書いているもので,

北京大学の羅教授の項の冒頭に「北大大字報頃刊載羅常培教授的一篇談話・・・」とある。北京大学 の大字報に羅教授の自己改造についての談話が出されたというわけである。この冊子の出版され た時期は記されていないが,内容,体裁,定価などから推定して'5051年とみられる。

また,北京の50年代出版社の同音字典2)104頁の中段に大字報の文字が見られる。 この字典 '552月発行となっている。

これらのことから類推すれば,少くとも中国の解放直後にはすでに「大字報」は存在したとい えるだろう。しかしながらそれが単に大きな字で書かれた壁新聞という意味のものなのか,ある いは'57519日以降のような批判,暴露, 弾劾,提案のためのメディアとしての性格を持っ たもの(後述)なのかは不明である。

毛沢東が「大字報」について最初にふれ, しかも詳細な意見を述ぺているのは'5778 の「上海市の各界人士の会議での講話」である。

「われわれの革命は,制度の面では,すでに基本的に改革された。まっ先に経済的土台,すな わち生産手段の所有制についてであり,第2が上部構造,すなわち権力機構,イデオロギーなど についてであった。これらはすべて基本的に改められたが,討論はくりひろげなかった。今回は 新聞を通じて,座談会を通じて,大会を通じて,大字報を通じて討論をくりひろげる。大字報は すばらしいものであるから,私は伝えていかなければならないと思う」「たとえば, 工場内の整 風は,大字報を使うのがよく,多ければ多いほどよいと思う。もしも 1万枚なら 1等だし, 5000 枚なら 2等で, 2000枚だけなら 3等だ。もしもまばらに数枚あるだけなら,ぉちついて待つのみ

「大字報に階級性がないのは,言語に階級性がないのと同じだ。・・・プロレクリアートが大字報 を使うこともできるし,ブルジョアジーも大字報を使うことができる。われわれは多勢の人はプ ロレクリアートの側に立つと信じている。だから,大字報という道具は,プロレクリアートに有 利であって,プルジョアジーに全く不利である。ある時期に,天地がまっ暗になり,日月の光が

1) 「忠様改造」合作書店(香港干諾道中65号)価格H.K.弗1.20p.  59  2)中国文字改革委員会中国大辞典編纂処編

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なくなって,あたかもプルジョアジーに有利であるかのようになった。いわゆる時期とは, 2 間か, 3週間であり,ほんのわずかな間だけだ」3)

この談話の内容を理解するためには,当時の情勢について多少の説明が必要になる。

'5652日,最高国務会議において,毛沢東は学術研究について百家争鳴の政策をとること を提唱し, つづいて同月26日陸定ー中共宣伝部長によって党の見解として「百花斉放,百家争 鳴」政策が発表され, 6月の全国人民代表大会において共産党と民主諸党派の「長期共存,相互 監督」の政策とともに放鳴政策が公認された。放鳴政策の直接のねらいは,学術論争を活発にし て科学水準を引きあげ,教条主義,主観主義を排し,文芸部門では伝統文化の継承,発展,再評 価とともに,作品の題材の拡大豊富化などであった。

'569月の中共第8回全国代表大会においては,人民民主主義独裁がプロレタリア独裁の一形 式であると定義するとともに,社会主義に移行したのちも矛盾はあること,また党内における主 観主義,官僚主義,セクト主義の3つの誤りを克服することが強調された。これにつづいて'57 2月,拡大最高国務会議において毛沢東は「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」の 報告を行い,討議ののち中共中央宣伝部は党内外の600余人による全国宣伝工作者会議を開いた。

人民内部の矛盾処理についての毛沢東報告は,加筆されて6月18日に全国の新聞に発表されるま で公表されなかったが,会議出席者によって各機関に伝達され,人民日報は41日以降,この 問題について一連の社説をかかげた。

社会主義社会には資本主義社会におけるプルジョアジーとプロレタリアートのような敵対的矛 盾はないが,中国の現段階では労働者階級内部の矛盾,農民階級内部の矛盾,知識分子内部の矛 盾,労働者と農民の2つの階級の間の矛盾,労働者,農民,知識分子の間の矛盾,労働者階級お よびその他の動労人民と民族プルジョアジーの間の矛盾,民族プルジョアジー内部の矛盾があり,

また人民政府と人民大衆の間,国家および集団利益と個人利益の間,民主主義と中央集権主義の 間,指導者と被指導者の間,一部官吏の大衆に対する官僚主義からうまれる矛盾などがある,と 毛沢東は指摘した。そしてこれらの人民内部の矛盾の処理は敵味方の矛盾の処理の方法とはちが って,団結の願いから出発し,批判,闘争を通じて矛盾を解決し,新しい基礎のうえに団結する という方法をとるべきであり,そのためには指導する側の主観主義,官僚主義,セクト主義(三 悪)を克服しなければならない,というものである。

ここから党の整風運動が始まり,同年427日に中央委員会から「整風連動に関する指示」が 全党に発せられた。この整風運動は順序として県級以上,軍の団級以上の党組織および大きな工 場,鉱山,大学,専門学校の党組織から開始し,指導的幹部の思想作風の点検から開始されるこ とが掲示され, 58日から中共統一戦線部は民主諸党派幹部,工商業界との座談会を連日のよ うに開き,中共に対する批判をそのまま人民日報その他の新聞に掲載しはじめた。百花斉放,百

3)思想万才p.161162 

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家争鳴が党の整風運動とともに学術文芸の分野のみならず全面的に展開されたわけである。

この時から,一般に知られている「大字報」が出現したのである。

筆者の資料によれば,大字報は北京大学に最初にはられたことになる。まずR・マックファー クアーの著書4)および論文5)のなかに引用されている '575月26日付光明日報の記事がその根 拠である。一一

北京大学― 民主の壁 「5月19日以前には 鳴放 は教師に限られていたが,そののち学生も 参加した。彼らは学内の食堂の前に"DemocraticWall"をつくり largcharacternewspapers 

(大字報)の手段によって 三悪 に対する多くの意見を表明した。・・・北京大学の学生たちの大 字報はおどろくべき量であり,バラエティに富んでいる。そのなかには長文の論文,短いエッセ ィ,いろいろな散文,詩,漫画,連載小説がある。・・・賛成,反対の意見がくり返されて議論がす すめられ・・・問題をめぐって討論会が開かれ・・・学生たちは 民主の壁 を開放し大字報を出したこ とが学業を妨げるものではなく,五・四運動の時代の北京大学の民主的伝統を継いだものである と 考 え て い た 。 一

マックファークアー論文にはまた5月27日付文禰報の引用があり, Bulletin,University Ma‑

gazin, Broadcasting Station,  Blackboardなどが討論に動員されて, 北京大学で熱狂的な論 争が行われていることを伝えている。さらに5月27日北京発のデビッド・チップ特派員ロイター 電を引用し,北京大学の "Notice boards"に中国で初めてソ連共産党20回大会でのフルシチョ

フ演説のスターリン批判の部分が発表されたこと, '55年に作家胡風が逮捕されたことについて の質問が出され, "Manyof the posters"によって活発な応酬があったことを伝えている。

このほかマックファークアー論文の掲載された同じ書物にはR・ゴールドマンも「19575 ‑ 6月・整風運動」6)のなかで'575月19日の日曜から北京大学で運動が起ったと述べ,"Hundred of Posters"が党の知識人政策を攻撃し, 5月22日には午前11時に264枚,午後7時には317枚に ふえたと発表され,そののち日を追ってふえて寮,学舎,教室の壁が "tatzupao"  (大字報の 中国音) "Big  Letter  Papers (posters)"によっておおわれ,まさにボスター戦争になった,

といっている。また大字報はグルーフ゜や個人によって書かれ,多くは勇敢に署名しているが,な かには匿名のものもあった,と書いている。

5月26日付光明日報の記事のなかに出てくる「民主の壁」は,前項であげた「新名詞辞典」の なかの「民主膳」と同じものを指すといえる。この項の冒頭に述べたように'50‑51年に北京大学 に大字報があった (ただしその形式が'57年と同じかどうかは不明) ことをあわせて考えれば,

4) The HUNDRED FLOWERS CAMPAIGN and the chinese intellectuals by Roderick Mac Far quhar, 1960, Stevens Sons Ltd., London. 邦訳「中国の知識人」 '63年2月東京,論争社 p.8081  5) Education  and Communism in  china,  edited  by Stewart E.  Fraser, 1971, Pall Mall Press, 

London. Ideological Education ‑R.Mac Farquharp. 319321 

6)同 HigherEducationRene Goldman, p. 216217. Goldman19531958北京大学に留学し たと書いている。

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大字報の源流はやはり対日抗戦末期に各大学に現われた民主膳にあるのではないかと思われる。

さきに述べたように'5710月に毛沢東は延安時代にも大字報があったと発言しているが,同 じ講話のなかで

「革命の全時期を通じて,現在のような大放,大鳴,大論争,大討論,大字報はなかった。三 反五反運動においても大字報は使われなかったし,三査三整運動でも大字報は使わなかった。さ らにさかのぽって,延安時代をみると,少しは大字報があらわれたが,われわれの方でも別に提 唱しなかった。それはどういう理由だろうか。思うに,われわれのような連中は,当時,いささ かばかだったのかもしれないが,恐らくほかに客観的原因があったのであろう。」「あの当時みん なが声をそろえて戦争優先を叫んでおり,階級闘争はあのようにはげしかったから,その上に内 部でそんな大論争をやることはよくなかったということである。現在はちがう。そのような階級 闘争は…基本的に終結した。全国が平和になった。だからこそ…このような形式を見出したので ある。こうした革命の内容が, こうした形式を見出したのである」「現在の革命はつまり社会主 義革命であり・・・ひとたび, こうした形式がみつかると, それは極めて急速に普及し・・・」7)と述ペ ている。

ここでいう延安時代の「大字報」は,おそらく当時は大字報と呼ばれたのではないだろう。現 在までに公表された毛沢東の著作,発言のなかで「大字報」が現われたのは,前述のように'57 78日である。したがって延安時代の大字報とは,壁報のなかにある大衆の「批判」の伝統が 提示されたもののことを指す,つまり内容としての大字報という意味だと思われる。

さらに同じ講話のなかで「大字報にしろ大鳴大放にしろ,右派でも大鳴大放をやることもでき るし,大字報を出すこともできる。私は右派にお礼をいおうと思う, 『大」の字は彼らが発明し たものである。…われわれは昨年5月,この場所で百花斉放を問題にしたが,それは1つの放で あった。百家争鳴,それは1つの鳴であった。つまりあの『大」の字はついていなかったし,そ の上文学芸術での百花斉放,学術面での百家争鳴に限られており,政治には関わらなかった。の ちになって右派が政治に関わらせる必要があるといい•••さらに,大鳴,大放をやろうとした。こ のスローガンは右派も使えるし,中間派も使えるし,左派も使うことができる」s)

と説明している。

マックファークアー,ゴールドマン論文のなかでも,中共批判が大字報によって行われ,その 初期に右派が圧倒的な勢いを見せた状況が伝えられている。光明日報,文瀧報は民主党派の機関 紙であり, のちに右派の拠点として非難,攻撃をうけたが, さきの光明日報の記事が「民主の 壁」や五・四運動の伝統をもち出して来ているところにも,プルジョア民主主義的な色合いが濃 く出ているといえる。当時北京大学で「民主の壁」とか「大字報」といわれたのには,そういっ た意味がふくまれているのであり,毛沢東のいうように「大」は中共に敵対的な立場からの批判

7) 「思想万オ」上巻p.176  8) 同 , ,p. 182  183 

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を強調するためのものであった。

大字報は壁報, 埴報と同じく壁にはられ, 手法としてはその伝統をついでおり, また生活壁 報,民主埴の流れのなかからうまれたものだといえるが, '57年のこの段階から,単なる壁「新 聞」ではなく,批判や弾劾の機能をもつコミュニケーション・メディアとして立ち現われたので ある。しかもそれは北京大学から各大学へ,そしてやがて全国の工場,農村へひろがり,その間 に,毛沢東はそれを右派の意図に反してまさに逆手にとり,反右派闘争と整風運動の新しい武器 として,利用するにいたったのである。

中共の整風運動が党外からの批判や発言を積極的に受入れ,それらを人民日報にそのまま掲載 したことが,民主諸党派にプルジョア民主主義の復活への期待と幻想を与えたようである。

'562月のソ連におけるフルシチョフのスクーリン批判につづくポーランド事件,ハンガリー 事件が,民主党派の右派を刺激してきたことも事実であろう。北京大学の大字報や討論は,中共 と民主党派,商工業界との座談会における中共批判や意見が人民日報に発表されつつあった時点 で,いわばその気運に乗じた形で起った。章伯釣,羅隆基その他諸党派右派や北京大学での「百 花学社」などの団体が活発な動きを開始し,新中国ではじめてプルジョア民主主義運動の組織的 な反抗の高揚期を迎えた観があった。しかし一方では,知識人,学生のこういった言論に対する 反発が,労働者,大衆のなかからうまれていたといわれる。とくに61日に光明日報編集長儲 安平の,いわゆる「党天下論」(一切の主観主義,官僚主義,セクト主義の根源は共産党員が党の 天下という思想で政治を独占しているからだ)に対して人民日報へ抗議の手紙が殺到したという。

そして,ついに人民日報は6月 8日付「これはなにごとか」同 9日付「積極的な批判も必要だ が,正しい反批判も必要である」同10日付「労働者が話しだした」と,連日の社説でプルジョア 思想に対する反撃を開始した。いわゆる反右派闘争が開始されたわけである。

これを反映して北京,上海において各大学に拡がっていた大字報のなかに右派批判,反右派の ものが激増したことは当然である。そして情勢はたちまち逆転していった。この間の事情につい ては, 78日の「上海市の各界人士の会議での講話」のなかで,毛沢東自身が語っている。

「学生についていえば,北京大学には7000人余りいるが,教授と学生を一緒にしても,右派は 1彩か, 2彩か, 3彩にすぎない。…堅固な中核分子は1彩であり, 70数人に過ぎない。天地を くつがえすほどの騒ぎを, きまって起したのは, 最後まで50数人にすぎず・・・」「右派の中核分子 について話したが,その外に,やはり 1彩から 2彩,彼らに拍手し,彼らを支持する者がいる。

教授,助教授はいくらか情況が異なり,おおむね10彩前後が左派である。この両者は形勢が互角 であり,中間派が80彩前後を占める」「北京大学の学生党員は 5彩がつぶれ,団(註,共産主義青 年団)の中ではつぶれたのは少し多く, 10彩か,あるいはそれよりいくらか多いぐらいだろう。

これらがつぶれたのは,私に言わせればあたりまえだ。…あのようなプルジョア思想,観念論が 共産党,青年団にもぐりこんできており,名は共産主義でも,実際には,反共主義か,あるいは 動揺分子なのだ。彼らが『蜂起」したので・・・われわれが整理をやる必要もなく,彼らが自分でと

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関西大学『社会学部紀要」第8巻第2

び出して行ったのだ。…われわれが右派を包囲するや,事態はひっくりかえった。右派とつなが りはあるが決して右派ではない多くの人が,彼らをあばき出した。蜂起したのではないか?」9)

このあとに,同じ講話のなかで既述のように,大字報はすばらしいものである,という,意見 が出てくるのである。

「右派を包囲する」というのは, 6月26日に開かれた第4回人民代表大会第1日に周恩来総理 が政治活動報告のなかで,党,政府の欠陥を率直に認めるとともに,中国の国家制度に対するプ ルジョア階級右派分子の攻撃を排除することを提言し, 7月11日の同会議で陸定一党宣伝部長の

「われわれとプルジョア右派分子との根本的差異」という発言があって,これが右派への全面的 な反撃を呼び,情勢を決定的に転回させたことを示している。

しかも,大字報は, 8月に入って,工場,農村での整風運動の深化とともに全国にひろがって 行った。中国年鑑'58年版10)には次の記述がある。

「整風運動のこの目的は, 8月以降において,企業と農村を中心に顕著な成果をおさめた。そ れは,企業のなかの党組織と一般大衆が,壁新聞をつうじて意見をのべる形態を創造し,それが 大衆をひきつけ,いたるところで圧倒的に多数の大衆が『大鳴大放』に参加したからであった。

このばあい,壁新聞には分量の制限はなかった。工場の壁という壁に意見を書いた紙がはられた だけでなく,壁の面積には制限があるので,アンペラを買ってきて壁をつくり,そこにいくらで も紙を張りつけた」

「中共の党組織は・・・労働者,農民から工場の管理や幹部のやり方に対する自由な意見がだされ ることを要請した。そうした意見は,はじめは座談会や職場代表者会議でだされていたが,その うちに, 2, 3の工場では壁新聞(中国では大字報という)に意見を書くという方法が創造され た。ひとたび, この方法が創造されると, とくに工場,鉱山では労働者たちが争って意見を書 き,たちまちにして『大鳴大放」のもっとも大衆的

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ょ様式となった」

このほか,具体的な事例として天津の第一綿紡績工場(従業員7000人)で壁新聞の「大鳴大 放」大会が行われると, 12時間以内に2000 2日目には4300枚がはられた。北京では40余の比 較的大きい国営企業で, 95日まで壁新聞は11万枚をこえ, 11万7000人の労働者が書いた。石 景山鋼鉄工場では8月24日に373 27日までに511 9月23日までに8114枚がはられた。これ らの壁新聞の内容は, 5割から 7割が生産を強めるための意見や提案で,幹部の作風に対する批 判は3割から4割のあいだとされている,と説明している。なお,こういった現象について,エ 場や農村には文化界や国家機関とちがって主要な右派分子がいないので反右派よりも,整風が中 心になった,と解説されている。

ここには,大字報が大衆の批判,相互批判,意見提出,異議申立てのコミュニケーション・メ ディアとしてひろがっていった状況が書かれている。

9) 「思想万オ」上巻 p.154 

10)中国年鑑'58年版,中国研究所編,石崎書店p.5162 

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「現在,大衆はわれわれよりも先を進んでおり,彼らは思いきって大字報をはって,われわれ を批判している」(成都会議で'5783日11)  「工場内の党・政府・労働組合と労働者との関 係,合作社の幹部と社員との関係,各級党・政府要員と下級のものとの関係,幹部と大衆との関 係,校長・教師と学生との関係は,ひとことでいえば人民内部の矛盾であり,威圧の方法によら ず説得の方法によって解決したまえ。このようにして,おもしが取りはらわれれば人民はのびの びとした気分になり,精神が解放され,思い切って大字報を書くようになる。これはレーニン主 義であり, 日和見主義ではない」「省以上の人民代表大会, 党代表大会ではすべて大字報をはっ てかまわない。わが党内には,人民内部の矛盾についての問題に疑いを抱いているものが少なく ない。…万里の長江が活々と流れるように大字報が〔はり出されれば〕, かなり多くの人びとの 脳みそからかすが排出されてしまうだろう」(漢口会議で, '58412) 

「人民大衆の創造性は客観的な存在である。対立面を設定することは,非常に重要なことだ。

…右派をやっつけた後,一部の同志が整風・改造をおろそかにしたので,また大字報と 2つの反 対運動が強調された。こうして対立面を設定し, 1億枚の大字報を出せば,やむ得ず,改めざる をえなくなるだろう」 (8全大会第2回会議で'58513) 

これらの毛沢東の言葉からうかがわれるのは,避け難い大衆の批判ー不満あるいは反抗の要素 をもふくめて一を大字報によって発散,露出させ,そのことによって大衆の志向,動向をつかも

うとする指導者としての戦略,戦術である。形として民主的であると同時に,政治技術的な意味 で,大衆の政治参加をうながす巧みな人心把握の手段として大字報が活用されていることであ

'57年のいわゆる 「放嗚政策」は毛沢東にとって誤算だったといわれる。毛沢東が予期したの は,共産党の謙虚さを示し,そのことによって民主諸党派の知識人たちをひきつけ,加えて整風 を行うことだったが,それに乗じてプルジョア右派の猛烈な反抗が起り,各地の大学にひろがっ て党組織そのものにも衝撃を与え,動揺がうまれた。それを収拾するために大字報やマス・コミ が動員されたが,「放鳴政策」そのものを誤りであると認めないために,これが右派の存在と勢力 を明かにして包囲撃滅するための策略でもあったと強弁せざるを得なくなったというのである。

もちろん,放嗚政策はその当初にいわれているように第一義的には,社会の諸矛盾と問題の所 在を明確にし,それに対して正しい処理を行うためのものであった。右派の反撃は毛沢東たちに とってあるいは意外なものであったかもしれない。しかし中国社会主義体制にとって大きな障害 となるべき要素が,これによって摘発され排除されたことも事実である。ブルジョア右派の立場 からいえば,放鳴政策は詐略であった。が,中共指導部の立場からいえば,当時の情勢のなかで 必要な革命推進のための政策であり,それが一定の成果を収めたとするのもまた当然であろう。

11)  「思想万オ」上巻p.243  12) 同 , ,p. 250 253  13) 同 , ,p. 266 267 

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参照

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『台灣省行政長官公署公報』2:51946.01.30.出版,P.11 より編集、引用。

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