[研究ノート] 18世紀イギリス沿岸石炭流通と輸送
その他のタイトル [Notes] British Coastal Coal Trade and Transport in the Eighteenth Century
著者 梶本 元信
雑誌名 關西大學經済論集
巻 35
号 2
ページ 331‑352
発行年 1985‑06‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/14384
研究ノート
1 8
世紀イギリス沿岸石炭流通と輸送—目次—- はじめに
I
石炭流通と輸送I I
石炭価格に影響する諸要因m
石炭船の収益性は じ め に
梶 本 元 信
1 8
世紀にイギリスの海外通商活動がめざましく発展したのは周知のことであるが,この 時期に沿岸海運がイギリスの輸送の中で無視しがたい重要性をもっていたことは案外知ら れていない。1 8
世紀中葉に沿岸船はイギリス商船全体の約3 7 9
るを占め,1 7 8 0
年には47%
に もなったI)
。 しかも沿岸通商は外国や植民地との貿易よりも短距離で,いっそう頻繁で効 率的な航海が行われていたのを考慮に入れれば,イギリス船による輸送全体の中に占める 沿岸輸送の割合は外国貿易船による輸送の割合よりもはるかに大きかったであろう。しか も当時の沿岸船の貨物の中で圧倒的重要性をもっていたのが石炭であり,工業化開始期に 沿岸船のうちの約40%
が石炭輸送に従事していたのである丸沿岸石炭輸送の発展は木材不足と密接に関連していた。イギリスではすでにエリザベス 朝時代から木材不足が問題になり,特に都市での家庭用,工業用燃料としての石炭の重要 性が高まった。石炭を燃料として金属工業,造船業,ガラス工業,製塩業などの産業が発 展し,それとともに技術や組織も改善された。
J . U . Nef
がこの発展を「初期産業革命」1) Armstrong, J . ,
&B a g w e l l , P . S . , ' C o a s t a l Shipping'in A l d c r o f t , D . H . ,
&Freeman, M . , e d s . , T r a n s p o r t i n t h e I n d u s t r i a l R e v o l u t i o n , Manchester U . P . , 1 9 8 3 p . 1 5 5 .
2) Armstrong & B a g w e l l , o p . c i t . , p . 1 5 5 .
3 3 2
闊西大學『経清論集」第3 5
巻第2
号( 1 9 8 5
年6
月) 第1表石炭の年平均生産量と地域別比率(単位:
1 , 0 0 0
トン,カッコ内1 0 0
分率)地 城
I 155160
年I 168170
年I 178190
年ダラムとノーザンバーランド
6 5 ( 3 1 ) 1 , 2 2 5 ( 4 1 ) 3 , 0 0 0 ( 2 9 )
スコットランド4 0 ( 1 9 ) 4 7 5 ( 1 6 ) 1 , 6 0 0 ( 1 5 )
ウエールズ2 0 ( 1 0 ) 2 0 0 ( 7 ) 8 0 0 ( 8 )
ミドランド6 5 ( 3 1 ) 8 5 0 ( 2 9 ) 4 , 0 0 0 ( 3 9 )
カンバーランド6 ( 3 ) 1 0 0 ( 3 ) 500 ( 5 )
キングスウッドチェーズ6 ( 3 ) 叫 ( 3 ) 1 4 0
サマーセット' : } ( S J
1 4 0
ディーンの森2 5 7 } ( 1 ) 9 0 ( 4 )
デヴォンとアイルランド
2 5
ムロ 計
2 1 0 ( 1 0 0 ) I 2 . 9 8 2 c 1 0 0 ) I 1 0 . 2 9 5 c 1 0 0 )
(典拠)
B u x t o n , N . K . , T h e E c o n o m i c D e v e l o p 加呵。 i f t h e B r i t i s h C o a l I n ‑ d u s t r y , B . T . B a t s f o r d 1 9 7 8 p . 1 2 .
( e a r l y ・ i n d u s t r i a l r e v o l u t i o n )
と名づけた3)
ことは周知のとおりである。こうした石炭 需要の増大がその生産と流通に大きなインパクトを与えたことは疑いない。1 6
世紀中葉から18
世紀末にかけてのイギリスの石炭生産の中心地はノーザンバーランド およびダラム地方であった。1 8
世紀末にミドラン ドに首位を奪われるまでのイギリス最大 の炭田地帯は北東地方にあった(第1
表)。生産された石炭の大半は国内で消費されてお り,その一部は駄馬や馬車で輸送されたし,1 8
世紀末期には特にランカシャーやミドラン ド地方を中心に運河が重要な輸送手段として登場し,石炭生産に刺激を与えるとともに,沿岸船の競争相手にもなった。しかし1
8
世紀全体を通じて沿岸輸送が確固たる地位を保持 していたのである。イングランド北東地方で採掘された石炭の大半はタイン川,ウエア川を下り,ニューカ スルやサンダーランドから南部, 特にロンドンヘ輸送されていた(第2表)。第 3表から も明らかなように173031年にニューカスルで船積みされた石炭のBO%近くがロンドン向 けであった。沿岸船による石炭輸送全体に占めるロンドンヘの輸送の割合は産業革命の進 行につれて低下し,
1 7 8 0
年代初期に45 53彩であったのが,181229
年には35 39彩とな3) N e f , J . U . , T ,
加R i s eo f t h e B r i t i s h C o a l I n d u s t r y I I v o l s . G . R o u t l e d g e &
・ S o n s . 1 9 3 2 .
1 7 8
第
2
表 タイン川,ウエア川地域からの石炭輸送(単位:
1 , 0 0 0
トン)年 タイン川流域 ウエア川流域
1 7 0 0 5 4 3 1 1 1 1 7 1 0 4 4 5 1 7 5 1 7 2 2 6 6 7
1 7 3 0 7 3 4 1 7 4 0 8 4 8
1 7 5 0 7 6 3 4 2 9 1 7 6 0 7 5 5 4 7 7 1 7 7 0 9 8 6 5 6 4 1 7 8 0 9 7 0 5 9 6 1 7 9 0 1 , 0 8 1 7 5 0 1 8 0 0 1 , 6 3 8 8 5 3
(典拠)
B u x t o n , o p . c i t . , p . 1 4 .
第
3
表 ニューカスルからの沿岸石炭輸送仕 向 先 1ー 数 量 II 仕 向 先 I 数 量 ロ ン ド ン
2 1 7 , 1 0 2
サ ン ド ウ ィ ッ チ2 , 3 0 2
キ ン グ ス リ ン1 3 , 4 0 3
ウ 工 Jレ ス1 , 8 3 5
グ レ ー ト ヤ ー マ ス1 2 , 6 5 7
ス 力 バ ラ1 , 1 8 2
ノ Jレ
3 , 2 6 4
リ ミ ン 卜 ン1 , 1 0 5
サ ザ ン プ ト ン
3 , 2 2 7
工 グ ゼ 夕1 , 0 8 3
イ プ ス ウ ィ ッ チ3 , 1 8 9
他ボ ツ マ ス
3 , 0 6 0
ムロ 計 ヽ2 8 0 , 3 5 3
ロ チ ェ ス タ ー2 , 7 4 2 I
ロ ン ド ン の 割 合7 7 . 5
形(典拠)
W i l l a n , T . S . , T ,
加E n g l i s hC o a s t i n g T r a d e 1600‑1750, Manchester U . P . 1 9 3 8 , p . 2 1 0 .
ここで示された数字は1 7 3 0
年のクリスマスから1 7 3 1
年のクリスマスまでのもので,単位はニューカルスチョールドロンで示されて いる。
り,ロンドン以外の外港への輸送シェアが増加した化しかしながら
1 8
世紀全体を通じて ロンドンがイギリス最大の石炭市場であったことは疑いない。以上のように沿岸石炭輸送は
1 8
世紀のイギリス輸送史の中できわめて大きな重要性を占 めていたにもかかわらず,その研究が必ずしも進んでいるとは言えない。実際,当時の沿4) Armstrong & B a g w e l l , o p . c i t . , p . 1 5 5 .
3 3 4
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年6
月)岸石炭船の数やトン数についての組織だった統計さえみられないのが現状である。ようや く最近になり,
Hausn{an
とV i l l e
により1 8
世紀の沿岸石炭船の収益性に関する研究が 発表された。本稿の主たる目的の1
つも彼等の研究を紹介し,若干の検討を加える点にあ るが,その前に「シーコール」の流通と輸送を概観し,さらに当時の石炭価格に影響を与 えていた諸要因を考察しておこう。I
石 炭 流 通 と 輸 送エリザベス朝時代における石炭流通は比較的単純であり,炭鉱主の手を離れた石炭は商 人船主によって沿岸輸送され,ロンドンに着いた石炭は木材商人によって一般消費者に販 売されていた
I J
。 しかしその後の石炭取引の増大につれて中間商人の数も増加し,1 7
世紀 後半になると第1
図のような流通組織が発展した。図で示されているのは主要な中間商人 であり,.実際にはこれよりももっと多くの者がこの流通と輸送に関与していたのである。1 8
世紀になると中間商人の機能はさらに分化していった。以下,北東部からロンドンヘの 第1図1
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l i e F i s h L i g r r w r r d o
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o l / 0 0
ヽ1 1
0 0
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¥ C I I I I I
(典拠)
N e f , J . U . ,
T. 加R i s e o f t
加B r i t i s h C o a l I n d u s t r y , v o l . I I p . 8 7 .
1) N e f , J . U . , o p . c i t . v o l . I I . p p . 8 48 5 .
石炭流通とその輸送を辿っていこう。
まず最初にあらわれる中間商人がフィッターである。彼等は初期にはファクターと呼ば れ,炭鉱主の単なる被雇用者にすぎなかったが,
1 6 5 0
年頃になるとファクターとフィッタ ーの語は交互に使用されるようになり, 「1 7 0 3
年には「フィッター』という語だけが使用 されるようになった」2)
。 この名称の変化とともに彼等の機能も変化した。石炭取引上で の彼等の責任は増加したし,また彼等はキールを所有し,キールメンを雇用し,そして彼 等に賃金を支払う雇用者になったのである丸.
ここで若干ふれておく必要があるのがH o s t m e n ' sCompany
についてである。ホスト メンというのは中世にあっては外国商人に対するホストの意味であり,その特権により商 品の売買を独占していた。特にニューカスルのホストメンは,その特産物である石炭の取 引を独占していたのである。彼等は絶対王政時代に国王からチャーターを獲得し,石炭取 引ばかりでなく,ニューカスル市政の支配者にもなったのである0
。H o s t m e n ' s Company
の当初のメンバーは主要な炭鉱主に限られていたが, 石炭需要 の増加につれてこの組合に加入しない炭鉱主の数が増加し,彼等の中には組合のメンバー を経ずに船長に石炭を販売する者も出て来た。他方,組合の内部構成にも大きな変化が生 じ,大鉱山主に代わってフィッターがメンバーの中心を占めるようになったのである丸さて,北東地方の炭鉱から採掘された石炭は馬車で河岸まで運ばれ,いったん倉庫に収 容され,そこからキール
( k e e l )
と呼ばれる川船で川を下り,河口で大型石炭船に積み替 えられるのが普通であった。 キールは比較的吃水の浅い川船で,puy
と呼ばれるオール をもち,ほとんどの場合1
つの縦帆を有していた。その長さは約40
フィート,幅は約19
フ ィートで川船としてはかなり大型であった。キールは貨物の盤を測るのに使用されていた ため,その積載力は法律で定められていた。すなわち,1 6 3 5
年以後,各キールは8
ニュー2) A s h t o n , T . S . , & S y k e s , J . , The C o a l I n d u s t r y of t
加E i g h t e e n t h C e n t u r y ,
M a n c h e s t e r U . P . 1 9 2 9 . p . 1 9 5 .
3) S m i t h , R . , Sea C o a l For L o n d o n ‑ H i s t o r y of t
加C o a lF a c t o r s i n t
加London M a r k e t , Longmans, Green and C o . 1 9 6 1 , p p . 1 51 6 .
4) S w e e z y , P . M . , M o n o p o l y and C o m p e t i t i o n i n t
加E n g l i s hC o a l T r a d e 1550‑
1850, Harvard U . P . 1 9 3 8 , p p . 38.
5)
この点に関してはNef
とSweezy
の間で論争がある。Nef
は石炭商人の重要性を 強調し,Sweezy
は炭鉱主の支配的地位を重視しているように思われる。N e f , o p .
c i t . , v o l . I I p . 1 3 2 ; S w e e z y , o p . c i t . , p p . 1 71 9 , 23 4;
吉村朔夫「イギリス炭 鉱労働史の研究」ミネルヴァ書房,1 9 7 4 ,34 39
ページ。3 3 6
隅西大學『純渭論集』第3 5
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号( 1 9 8 5
年6
月)カスルチョールドロン(約
2 1 .1
トン)の石炭積載力をもつことを要求され,1 6 8 5
年以後 は,これとほとんど同量の1 6
ロンドンチョールドロンと規定された凡この川船を操船したのがキールメンである。彼等の多くはスコットランド出身の季節労 働者であり,キールの所有者であるフィッターに年契約で雇用されていた。
1 8
世紀初期に は約1 , 6 0 0
人のキールメンがいたといわれており,1
隻のキールには1
人の船長( s k i p ‑ p e r ) , 2 3
人のシャベラー,そして1
人の少年が乗っているのが普通であった凡キールで川を下った石炭は河口でより大型の沿岸石炭船に積み替えられた。それらの石 炭船は初期には一般の貨物船と変わらなかったが,
1 8
世紀頃にはバルキカーゴの輸送に滴 するように頑丈になり,装備も少人数で扱えるように改良された。石炭船の数は1 6 9 9
年に は約1 , 4 0 0
隻,1 7 0 2
年,' 1 , 2 7 7
隻1 7 3 0
年,1 , 0 0 0
隻以上,そして1 7 8 9
年,1 , 3 0 0
隻以上とS J ,
1 8
世紀を通じてほとんど増加していないようである。しかしその平均輸送力は,1 6 0 6
年に7 3
トンであったのが,1 6 3 8
年に1 3 8
トン,1 7 0 0
年代初期,2 4 8
トン,1 7 3 0
年代,3 0 0
トン余り,そして
1 9
世紀初期には5 0 0
トン9 )
以上に増加している。第
4
表 石 炭 船 の 母 港(1702 4
年)港 名 船舶数 積(チ載ョール能ドロン)力 港 名 船舶数 積(チ載ョール能ドロン)力
口
ン ド ン1 6 8 1 1 , 2 3 0
ヘイスチングス3 3 1 , 1 1 2
ヤ ー マ ス2 1 1 1 3 , 2 7 2
ノ Jレ2 8 9 8 7
ウ ィ ト ビ ー9 8 6 , 3 8 5
リ ン7 4 3 , 3 9 7
イプスウィッチ4 0 5 , 7 7 4
マ ー ゲ ッ ト2 4 1 , 0 0 1
ラ ム ス ゲ ー ト4 2 2 , 1 4 7
ス カ ー バ ラ5 4 2 , 6 1 3
ニ ュ ー カ ス ル 715 , 5 6 7
ス ト ッ ク ト ン2 7 7 0 8
ブリドリントン4 8 1 , 3 7 4
サンダーランド3 2 1 , 8 5 5
ブ ラ イ ト ン5 6 1 . 5 2 7
ウ エ ル ス3 4 8 2 0
コルチェスター2 5 1 , 2 2 7 ム
ロ 計1 , 2 7 7 6 8 , 2 1 9
(典拠)
W e s t e r f i e l d , R . , M
磁d l e m e ni n E n g l i s h B u s i n e s s . Yale U . P . 1 9 1 5 r e p . David & C h a r l e s 1 9 6 8 p . 2 2 9 .
6) F i n c h , R . , C o a l s from N e w c a s t l e , The S t o r y of t h e North E a s t C o a l Trade i n t h e Days of S a i l , Terence D a l t o n , 1 9 7 3 , p . 2 5 .
7) I b i d . , p . 2 3 .
8) Ashton & S y k e s , o p . c i t . , p . 2 0 0 .
9) W i l l a n , T . S . , The E n g l i s h C o a s t i n g Trade 1600‑1750, Manchester U. P . 1 9 3 8 , p p . 1112; Ashton & S y k e s , o p . c i t . , p . 1 9 9 .
1 8 2
石炭船の母港は北部よりも主として南部諸港にあった。
D .D e f o e
によれば,1 7
世紀末 まではイプスウィッチがニューカスルーロンドン間に使用された大型石炭船の最大の母港 であったが,1 8
世紀初期にはヤーマスやロンドンがそれにとって代わった。その原因とし てD e f o e
は,3
次にわたる英蘭戦争においてこれらの都市の商人がその戦利品であるオ ランダ船を多数購入したことをあげている10)。しかし,R . D a v i s
によればオランダから の戦利品の供給は一時的なものにすぎなかった。彼はむしろ北東部の海運・造船業の発展 に注目している。1 8
世紀になると,ウィットビー,ニューカスル,スカーバラなど北東部 諸都市に造船業が発展し,造船業者達は石炭輸送に特に適した新タイプの船を建造したの である。D a v i s
はまた, 石炭生産の伸びの鈍化と関連して,北部の石炭商人,キールメン,炭鉱業者達がその利潤の一部を船舶に投資したど主張する
11)
。彼等は他の港に登録さ れた船のシェアを所有したり,船長への信用供与を通じて海運金融に関与していたのであ る。船舶の所有はさまざまな職業の人々に分散していた。それは単に炭鉱業者や商人,船長 のように石炭取引に直接関係している者ばかりでなく,店主,宿屋の主人,職人など,ゎ ずかの貨幣を投資するあらゆる人々を含んでおり,石炭取引とは縁の薄いイーストアング リアの農村のジェントリーさえ含んでいた
1 2 )
。船舶は共同で所有するのが一般的であり,10 15
人,時にはそれ以上の者が1
隻の石炭船の共同所有者であった。例えば,2 0 0
トン のLambtonAnne
号の場合,1 7 1 9
年に1 7
人の所有者を有していた1 3 )
。他方,数隻の船 を1
人で所有できるほどの大商人でさえ,危険分散のために多数の船舶の一部に投資する のが常であった。例えば,ロンドンの石炭商人B e n j a m i n eHorne
は1 7 3 0
年に友人達と 共に40
隻以上の船の持分所有者であった14)0
石炭船の船長はこの取引で基軸的な役割を演じた。彼等は単に航海の専門家であるばか りでなく,商人的機能も果していた。彼等は「関税や灯台維持のための寄付金を支払うこ とを要求され,また船員に賃金を支払わねばならず,帰航のためのバラストを購入しなけ
1 0 ) D e f o e , D . , A T o u r t h r o u g h t h e W h o l e I s l a n d of G r e a t B r i t a i n , J . M. Dent &
S o n s . 1 9 6 2 , v o l I , p p . 4041.
1 1 ) D a v i s , R . , The R i s e of t h e E n g l i s h S h i p p i n g I n d u s t r y , David & C h a r l e s . 1 9 6 2 . p p . 9293.
1 2 ) I b i d . , p . 9 2 .
1 3 ) F i n c h , o p . c i t . , p . 4 9 .
1 4 ) S m i t h , o p . c i t : , p . 1 9 .
3 3 8
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巻第2
号( 1 9 8 5
年6
月)ればならなかった。さらに彼等は船の修理費や保険費を保留しておかねばならず,ロンド ン市場で彼等に代わって:石炭を販売する代理人に手数料を支払わねばならなかった」
1 5 )
。 この最後の機能はエリザベス朝時代には船長自らの仕事であったが,後にクリンプやファ クターと呼ばれる代理人の仕事となった。一般に大商人が所有する船の場合,時代が下る につれて船長の責任は軽減されていった。ロンドンに着いた石炭船は当初は波止場に横づけされ,石炭を直接陸揚げしていたが,
後に絆の使用が一般的になった
1 6 )
。これらの孵の所有者はライターメンと呼ばれている。また,
1 7
世紀中頃までは船長が石炭を直接卸売業者に販売していたが,やがてクリンプ,クリンパー,・ コールブローカーなどの名称で呼ばれる代理人が船長の仕事を代行するよう になった。彼等の主な仕事は船長に代わって通関手続を行い,荷役労働者を手配し,そし て市場で石炭を販売することであった
17)
。18
世紀になるとこれらの機能はさらに分化し,通関手続や石炭の販売はコールファクターの仕事となり,荷役労働者の手配はアンダーテ イカーの仕事となった。
R .Smith
によれば,ロンドンでコールファクターという語が最 初に現われたのは1 7 1 1
年であり1 8 ) ,
彼等は一定の手数料(通常販売価格の%%)と見返り に複誰なサービスを提供していたのである。著名なファクターとしてはB .H o r n e ,
JG i b s o n , W. Ward, J . Merryman, J . Hurston
などがあげられる。例えばBenjamin Horne
は1 7 1 9
年にファクターとしての事業を開始したクエーカー教徒であり,後に彼は 多数の石炭船の共同所有者になったばかりでなく,北部の炭鉱にも出資する大商人になっ たのである1 9 )
。また,J . G i b s o n
は1 7 4 3
年にロンドンでの石炭取引の約%に関与してい たと言われている2 0 )
。実際に荷揚げの仕事を行うのがコールヒーバー
( c o a l ‑ h e a v e r s )
と呼ばれる労働者で ある。彼等の多くはアイルランド出身で,当初1
人の親方( f o r e m a n )
を中心に1
組15 1 7
人で構成され, 船倉内の石炭をシャベルを用いて石炭検量者( c o a l ‑ m e t e r )
の監視の 下で木製の測量用大おけ( c o a l ‑ v a t )
の中に入れ,測量した石炭を絆に積み込んでいた。1 5 ) Ashton & S y k e s , o p . c i t . , p . 2 0 0 . 1 6 ) S m i t h , o p . c i t . , p . 2 1 .
1 7 ) " I b i d . , p . 5 0 f f . 1 8 ) I b i d . , p . 6 6 .
1 9 ) F r a s e r ‑ S t e p h e n , E . , Two C e n t u r i e s i n t h e London C o a l T r a d e , The S t o r y of C h a r r i n g t o n s , P r i v a t e l y P r i n t e d . 1 9 5 2 . p p . 915.
2 0 ) I b i d . , p . 1 3 .
1 8 4
1 7 5 8
年にはウィッピング( w h i p p i n g )
と呼ばれる滑車で吊り上げる方法が考案されたこ とにより,荷揚労働者数も9 11
人に削減された。荷揚作業は普通6 8
日かかり,石炭 船は8 12
日ロンドンに停泊した後,潮流に乗り一団となって,・ロンドンを出港していっ た2 1 )
。荷揚労働者を斡旋する手配師,ァンダーテイカー( u n d e r t a k e r s )
の多くは居酒屋 の主人であり,彼等は安物の酒を高価に労働者に販売し,その料金を割引いて賃金を支払 うなど,種々の欺賄を働いた。1 7 5 8
年以後,政府は荷揚労働者の労働条件改善のためにさ まざまな対策を講じて来たが,1 8 4 3
年まではほとんど何の効果も得られなかったのであ る2 2 )
。陸揚げされた石炭は石炭市場でファクターから卸売商人に販売される。もともと種々の 特権をもった木材商人
( w o o d . m o n g e r s )
がロンドンでの石炭販売を引受けていたが,市 民革命を契機に特権を剥奪された木材商人に代わってライターメン( l i g h t e r m e n )
と呼 ばれる絆の所有者達が石炭取引に関心をもつようになった。・ t h eWatermen and L i g h ‑ t e r m e n ' s Company
という組合を形成した彼等はテムズ川の全ての絆を支配し,それに より石炭船からの荷揚げを独占したばかりでなく,石炭取引においても重要な役割を演ず るようになった2 3 )
。彼等の地位は石炭市場がビリングスゲートの青空市場からテムズスト リートに新しく建設された石炭取引所( C o a lExchange)
へと移転したことにより強化 された。ビリングスゲートはすでに中世から魚や石炭の市場として知られていたが,
1 7 3 0
年頃に 石炭の専門市場として整備された。この市場への出入りは自由であったが,反面,混雑が ひどく風雨に晒される青空市場であったためにしばしば取引に支障をきたした。そこで当 時の取引の中心人物であったファクタ:...や卸売商人が中心になって1 7 6 9
年にテムズストリ ートに新取引所を建設したのである。しかし今や取引所の会員以外は取引に参加できなく なり,市場はかなり閉鎖性をもつことになったのである2 4 )
。石炭取引所で売買された石炭は,さらに多くの小商人や小売商人の手を経て,最終消費
2 1 ) F i n c h , o p . c i t . , p p . 1 4 81 5 0 .
2 2 ) G e o r g e , M. D.,'The London C o a l H e a v e r s : Attempts t o R e g u l a t e W a t e r s i d e l a b o u r i n t h e E i g h t e e n t h and N i n e t e e n t h Centuries'Economic H i s t o r y v o l . 1 , 1 9 2 7 ; S m i t h , o p . c i t . , p p . 5 76 0 .
2 3 ) S m i t h , o p . c i t . , p . 3 4 f f .
2 4 ) I b i d . , p . 7 9 f f .
この石炭取引所は1 8 0 3
年の法律により,市当局の管理下に置かれ,1 8 0 5
年に自由市場として開設された。3 4 0
闊西大學「経清論集」第3 5
巻第2
号( 1 9 8 5
年6
月) 者に販売されたのである。I I
石 炭 価 格 に 影 響 す る 諸 要 因第
5
表は1 7
世紀中葉から1 8
世紀末までの石炭価格の推移を示している。この表で示され た北部価格とロンドン価格がどの時点での価格を示すかは不明であるが, しかしこの不十 分な表からも北部とロンドンでかなりの価格差がみられたことがわかるであろう。すなわ ち,1 8
世紀後半に両価格差がいくぶん縮小したとはいえ,ロンドン市場での価格は北部価 格の3 5
倍,時にはそれ以上にも達していたのである。またこの表から北部価格が比較 的安定しているのに対し,ロンドン価格の変動がかなり大きいことや,両価格がほぼ同方 向に変動していることも指摘できるであろう。またHausman
の近年の研究によれば,1 7 7 0
年からナボレオン戦争にかけて,北東部での石炭価格がロンドンチョールドロン当り9 16
シリングで比較的安定していたのに対し,ロンドンでの小売価格の変動は激し<,第
5
表石炭価格の推移(単位:ロンドンチョールドロン当り,シリング)年 I北 部 価 格 Iロンドン価格 II年 I北 部 価 格 Iロンドン価格
1 6 6 5 7 3 0 1 7 7 3 3 6 1 6 7 4 '4 2 0 1 7 7 5 4 1 1 6 9 9 5 / 4 42 44 1 7 7 8 4 0 1 7 0 3 6 ・ 4 0
以上1 7 8 1 1 1 4 4 1 7 2 9 6 / 5 3 2 1 7 8 5 3 1 1 7 3 1 5 2 3 / 6 1 7 8 6
,3 7 1 7 3 9 7 2 8 1 7 8 7 9 10 32•36 1 7 4 0 7 3 6 1 7 8 8 3 0 1 7 4 4 6 2 9 1 7 8 9 9 10 3 0 1 7 5 0 6 / 5 2 9 1 7 9 0 3 2 / 9 1 7 6 1 8 3 6 1 7 9 3 9 / 7 3 5 1 7 6 3 5 5 1 7 9 4 1 0 4 4 1 7 7 1 6/5 8 41 47 1 7 9 7
・4 3 1 7 7 2 3 1 ・ 4 1 ・ 8 4 1 8 0 0 1 4 60 70
〔注〕
Ashton, T . S . , & Sykes J . , The C o a l I n d u s t r y i n t h e E i g h t e e n t h C e n t u r y ,
Manchester U . P . 1 9 2 9 App. F .
より作成。なお原表では北部価格はニュー カスルチョールドロン当りの価格で表わされているが,ニューカスルチョール ドロン=53c w t s .
ロンドンチョールドロン=28.5 c w t s .
より,8
ニューカス ルチョールドロン=15
ロンドンチョールドロンの比率で,全てロンドンチョー ルドロンに換算した。1 7 7 0
年の約3 5
シリングからナポレオン戦争中には最高7 4
シリングにも達している1)
。 すでに前節で述べたように,ロンドンヘの石炭の沿岸輸送には数多くの中間商人が関与 しており,彼等が受取る手数料を考慮に入れれば,炭鉱で販売される坑口価格とロンドン 市場での価格に大きな開きがあったのは当然とも言えよう。しかしさらにそれに加えて,さまざまな要因が石炭価格に影響を与えていたのである。以下,それらの中で特に重要と 思われるものとして,独占形成,税金,そして自然的,人為的危険性を取りあげ,それら を個別的に考察しよう。というのは,石炭価格にはあまりにも多くの要因が作用していた ため,それらのうちのどれか
1
つを決定的と考えるにはかなりの無理があると思われるからである。
( イ
) 独占形成
北東部とロンドンとの石炭取引の
1
つの重要な特徴は,直列する独立仲介人の手を経る 1大生産地から 1大消費地への流通であり,たび重なる独占形成が大きな特徴をなしてい た点2)
にあった。北部炭鉱業者の結合に特に力点を置いたのが
P .M. Sweezy
である。彼は1 6
世紀以後,1 9
世紀に至る北部炭鉱業者の独占形成を詳しく分析しているが,その中で1 8
世紀初期のタ第
6
表Grand A l l i e s
を中心とするタイン地域主要鉱山主の生産割当( 1 7 3 3
年,単位:チョールドロン)S i r Henry L i d d e l l B a r t .
ご。::.・こ
: . b e : . . :
戸, q . ptn+A.
Lady C l a v e r l i n g e George P i t t E s q . B . R i d l e y E s q . F . Rudston E s q . Mr. White M e s s r s . Simpsons F e l l i n g
8 0 , 0 0 0 5 4 , 0 0 0 4 4 , 0 0 0 2 2 , 0 0 0 1 7 , 0 0 0 4 6 , 0 0 0 1 4 , 0 0 0 8 , 0 0 0 6 , 0 0 0 1 0 , 0 0 0 3 0 1 , 0 0 0
(典拠)
S w e e z y , P . M . , Mo
加, P o l yand C o m p e t i t i o n i n t h e E n g l i s h C o a l Trade 1550‑1850 Harvard U . P . 1 9 3 8 p . 2 5 .
1) Hausman, W. J . , ' M a r k e t Power i n t h e London C o a l Trade: The L i m i t a t i o n
o f t h e V e n d , 1 7 7 01 8 4 5 ' E x p l o r a t i o n s i n E c o n o m i c H i s t o r y . v o l . 2 1 ( 4 ) , 1 9 8 4 .
2) W e s t e r f i e l d , R . , Middlemen i n E n g l i s h B u s i n e s s , p p . 2 3 82 3 9 .
3 4 2
闊西大學「継清論集」第3 5
巻第2
号( 1 9 8 5
年6
月)イン川流城の大鉱山主の同盟, いわゆる
GrandA l l i e s
を詳論している。 これはE . W o r t h e y , H . L i d d e l l , G . Bowes
を中心に形成され, その意図は土地や使用料などの購 入によって新鉱山の開発を阻止し, さらに産出量ゃ価格を統制しようとするものであっ た。この同盟を軸とする17 3 3
年のタイン川流域の各鉱山主の生産割当量は第6表のとおり である。Sweezy
によれば,'タイン地域のほとんどの重要な炭鉱がこの中に含まれ,総 割当量3 0 1 , 0 0 0
チョールドロンは同年のロンドンヘの輸送量を上まわっていた。また,Grand A l l i e s
の3
名は総産出量の6 0
彩を支配しており,他の協定者も含めると総産出量 の%以上を支配していたという。かくしてタイン川流城の炭鉱業者の結合はこれにより頂 点に達し, 「それ以前にも以後にも, その取引がそれほど完全に少数の所有者に支配され たことはなかった」3)
と述べている。・確かにこの同盟は南部への供給量制限から生じる独占利潤の獲得という点で短期的成功 をおさめたかも知れない。 しかし
Buxton
も主張しているように, 長期的に見れば決し て成功したとは言えない。というのは同盟者達が獲得した炭鉱の多くは低能率鉱であり,1 8
世紀の技術革新により,特にウエア川流域に収益性の高い新炭鉱が開発され,これらの 新供給源からの競争が激化すると,古い炭鉱の高価で長期的なリースは同盟者達の大きな 負担になったからである4)
。彼等は低品質の混合炭の販売により顧客の信用を失ない,炭 価を引下げざるを得なかったのである叫1750 70
年頃は石炭取引の自由競争時代であり,この時期に北東部からロンドンヘの石 炭輸送は大幅に増加し,しかもウエア地城からの輸送がタイン地域のそれよりも急速に増 加した。このような状況において,1 7 7 1
年以後,タイン地城とウエア地域の両方を含めたL i m i t a t i o n o f Vend
と呼ばれる価格カルテルが形成された。 これによりタインとウエ ア両サイドの炭鉱主達は一定期間にわたってさまざまな品質の沿岸輸送炭の南部市場での 販売価格を固定することに同意した。当初タインサイドとウエアサイドの総販売量は3対 2の割合に分割されていた。しかしこの規制は決して継続的には実施されず,規制が最終 的に廃止される1 8 4 5
年までの多くの年でこの販売規制は作用しなかった丸確かにこの規 制はロンドンでの価格上昇にいくぶん貢献したであろうがn ,
しかしその影響は決して過3) S w e e z y , o p . c i t . , p . 2 6 . 4) B u x t o n , o p . c i t . , p . 3 7 . 5) S w e e z y , o p . c i t . , p . 2 8 . 6) B u x t o n , o p . c i t . , p . 3 8 .
7)
この点についてHausman
は「規制が実施されていた時には, それが行われていな大評価されるべきではない。
石炭価格に影響を与えたのは単に炭鉱主だけではなかった。北東部の石炭は長い流通過 程を経てロンドンの最終消費者に販売されたのであり,この過程でかなりの買占めや欺睛 が行なわれていたのである。例えば船長は高品位の石炭を求めて航海をおくらせることが しばしばあったし, 他方,ライターメンは「大胆にも
Watermen'sand L i g h t e r m e n ' s Company
を介さずに買手と取引を行った船長をボイコットする」8 )
ことにより, 船長と,有利に取引しようとした。彼等は時には北部の炭鉱主と結託することもあった
9)
。 また検 量人( c o a l ‑ m e t e r )
は測批に手心を加えた代価として船長から心ずけを受取るのが常習 的であったし,その他,小売業者にいたるまで自己の利益を少しでも高めようと時には非 合法な手段も用いていたのである。( 口
) 税金その他
Hausman
は1 8
世紀のロンドンヘの沿岸石炭取引に関する数量史的研究の中で,供給を 制限しようとする生産者や商人のカルテルは決して十分には作用せず,むしろ政府が課す さまざまな税金が価格の引上げに大きく作用したと主張している。というのは石炭取引に おける政府の態度は「カルテルを抑制し,競争を促進することであったが,他方,石炭取 引は政府の重要な財源であった」1 0 )
からである。それでは税金は石炭価格をどの程度引上げたであろうか。
1 8
世紀全体を通じて北東部か ら沿岸輸送された石炭には積出港と陸揚港の両方で税金が課されていた。これらの税金は 港によって異なっていたが,ロンドンでは特に重税が課されていた。例えばニューカスル からロンドンヘ海上輸送された石炭の場合,ロンドンチョールドロン当り,積出港ではリッチモンドシリングとして約
6
ペンス,さらに都市税(townd u e s )
が1
ペンス,さらに 陸揚港ロンドンでは国税が5
シリング,地方税が2
シリング,合計7
シリング7
ペンスも かったであろう場合よりも均衡価格は6 8
形上昇した。しかし均衡量に対する影響 はわずかであった」と述べ,こうした生産制限よりも税金のほうが価格に大きな影響 を与えたと主張している。Hausman,W. J . , ' C h e a p C o a l s o r L i m i t a t i o n o f t h e Vend? The London C o a l T r a d e , 1 7 7 01 8 4 5 ' J o u r n a l of E c o n o m i c H i s t o r y . v o l . XLIV, 1 9 8 4 , D o . , ' M a r k e t Power i n t h e London C o a l Trade: The L i m i t a t i o n o f t h e V e n d , 1 7 7 01 8 4 5 ' E x p l o r a t i o n s i n E c o n o m i c H i s t o r y . v o l . 2 1 , 1 9 8 4 . 8) Ashton & S y k e s , o p . c i t . , p . 2 1 9 .
9) S m i t h , o p . c i t . , p . 3 5 , 3 8 .
1 0 ) Hausman, W. J.'A Model o f t h e London C o a l Trade i n t h e E i g h t e e n t h
C e n t u r y ' Q u a r t e r l y J o u r n a l of Ec
叩o m i c s .v o l . XCIV. 1 9 8 0 , p . 2 .
344
闊西大學『経清論集」第3 5
巻第2
号( 1 9 8 5
年6
月) の税金が課されていた11¥
これは最低水準の数字であり,戦時中はさらに税額の引上げが行なわれた。実際,
1 8
世 紀から19
世紀初期にかけて,スペイン継承戦争,7
年戦争,アメリカ独立戦争,フランス 革命,ナボレオン戦争と戦争の連続であり,ナボレオン戦争中の18 0 9
年には,陸揚港の税 額はロンドンチョールドロン当り1 2
シリング6
ペンスにも達したのである。Ashton
とSykes
が述べているように, ロンドンヘ輸送された石炭に対する税金は「17 1 1
年以後,ロンドンチョードロン当り
8
シリング以下ということは1
度もなく,全時期を通じて記録 された最低価格( 1 7 2 8
年におけるチョールドロン当り2 1
シリング)を基準にすると,税金 は消費者価格の少なくとも3 7 . ) l
るの増加をひきおこした。この時期全体をみても,その割合 が3 3 1 / s %
以下ということはなかった」1 2 )
のである。また石炭の沿岸輸送にはさまざまな危険がつきまとっており,これらも価格に大きな影 響を与えた。
17 18
世紀には今日ほど十分な灯台や海図がなく・, また東部海岸には適切な 避難港が少なかった。このため嵐による船の難破は決して稀ではなく,例えば16 6 7
年の春 の嵐で30 40
隻の石炭船が難破し,1 6 7 7
年の9
月には約7 5
隻の船が難破したと言われて いる 1~)。特に冬期航海の危険性が高く,このため船乗り達は「ニューカスルからロンドン への冬期航海に出るのを強いられるくらいなら, むしろ東インドヘの冒険航海に出る9」1 4 )
ことを望んだほどであった。このため少なくとも
1 8
世紀中葉まで冬期には係船されるのが 普通であった。自然の危険に加えて, さまざまな人為的危険が存在した。戦時中は敵の攻撃を受けた り,私掠船に拿捕される恐れもあったし,時には海賊の襲撃を受けることもあった。しか し最大の脅威は皮肉にもむしろ石炭船乗組員を守ってくれるはずの自国の軍艦であった。
「東海岸の石炭運送は海軍水兵の養成所」
1 5 )
といわれ, 多くの石炭船員が水兵強募隊に連 行された。これら種々の危険性は「シーコール」の価格を引上げる要因となり,ひいては1 1 ) Ashton & S y k e s , o p . c i t . , Appendix D . p p . 2 4 7 . . . . . , 2 4 8 .
またHausman
に よ れ ば1 7 7 0
年に国税がロンドンチョールドロン当り8シリング,市税が 1 0
ペンスであった。Hauman, W. J . , ' M a r k e t Power i n t h e London C o a l T r a d e ' E x p l o r a t i o n s i n E c o n o m i c H i s t o r y . v o l . 2 1 , 1 9 8 4 .
1 2 ) Ashton & S y k e s , o p . c i t . p . 2 4 8 . 1 3 ) W i l l a n , o p . c i t . , p . 2 4 .
1 4 ) I b i d . , p . 2 5 .
1 5 ) I b i d . , p . 3 1 . ・
1 5
世紀イギリス沿岸石炭流通と輸送(梶本)運河や陸上交通発展の,さらにはそれに伴う内陸炭鉱開発の一因にもなったのである。
l l I
石炭船の収益性1 8
世紀の石炭船がどの程度の利潤をあげていたかについて,近年相次いで研究が発表さ れた。その一方は1 8
世紀前半に関するHausman
の研究であり!),他方は1 8
世紀末期に 関するV i l l e
の研究である2)
。以下,両者の研究を紹介し,最後に若干の考察を加えてお こう。( 1 ) W. J . Hausman
の研究Hausman
は航海条例体制下の植民地貿易の年平均利潤がせいぜい1 5
彩であった というR .D a v i s
の評価を論評した後, 同じく保護体制下にあった「沿岸海運はこの取 引(石炭取引)全体の中で最も競争的な局面であり,市場をコントロールしようとする船 長の試みは決して成功しなかった」3)
と述べ,植民地貿易と同様,.この分野でも過剰資本 がみられたことを強調している。沿岸石炭輸送への参入は比較的自由であり,単に新造船 のみならず,時には外国貿易や植民地貿易に使用されていた船がこの輸送に転用されたの である。17201750
年に沿岸石炭輸送に関与した船舶数にはほとんど増減がなかったが,この間に生じた船舶の大型化と既存船の効率的な使用により,
1
隻当りの積荷の平均規模 は約5 0
劣増加し,中には5 0 0
トン以上の輸送力をもつ大型船もみられたという4)
。Hausman
はC o r p o r a t i o no f London R e c o r d O f f i c e
所蔵のTheC o l l e c t o r ' s R e t u r n s of t h e Orphans'Duty
に基き,1 8
世紀前半の具体的な沿岸石炭船の航海数と平均輸送力を示す第
7
表を掲げ,1
隻当りの年間航海数を4
回強と算定している。この表との関連で注意すべき点として
Hausman
は, まず第1
にほとんどの船舶が貨 物を満載して出港した点をあげている。また, 1往復航海に約 1カ月が必要とすれば,年1 2
回の往復航海が可能になるが,冬期には航海が大幅に削減されるのが普通であったた め,実行可能な年間最大の航海数はせいぜい8 9
回であったという。そしてまたこれら の船は場合によっては穀物輸送や外国貿易にさえ転用されることもあったが,: r
大多数の1) Hausman, W. J . , ' S i z e and P r o f i t a b i l i t y o f E n g l i s h C o l l i e r s i n t h e E i g h t e e n t h
Century'B
四切e s sH i s t o r y R e v i e w ; v o l . 5 1 , 1 9 7 7 .
2) V i l l e , S . , ' N o t e : S i z e and P r o f i t a b i l i t y o f E n g l i s h C o l l i e r s i n t h e E i g h t e e n t h C e n t u r y ‑ : ‑ A R e a p p r a i s a l ' B
硲 畑s sH i s t o r y R e v i e w , v o l . 5 8 , 1 9 8 4 .
3) Hausman,'Size and P r o f i t a b i l i t y
…' p . 4 5 1 .
4) I b i d . , p p . 4 6 24 6 3 .
3 4 6
隅西大學「経清論集』第3 5
巻第2
号( 1 9 8 5
年6
月) 第1
表沿岸石炭船の航海数と輸送力船 名 と 就 航 年
虐 孟 羹 I 虐 魯 嚢
石炭輸送力(チョールドロン)
H e r r i n g ( 1 6 9 4 ‑ 1 7 2 0 )
Owners'Adventure ( 1 6 9 8 ‑ 9 9 )
Charming B e t s e y o f Yarmouth ( 1 7 5 7 ‑ 5 8 ) Crown o f Yarmouth ( 1 7 6 0 )
Diamond o f Whitby ( 1 7 5 6 ‑ 5 9 ) E x c h a n g e ' s I n c r e a s e o f S u n d e r l a n d
( 1 7 5 8 ‑ 5 9 ) F o r t i t u d e o f S c a r b r 0 ( 1 7 5 0 ‑ 5 8 )
George o f S h i e l d s ( 1 7 5 7 ‑ 6 0 ) Jn°and Sarah o f Whitby ( 1 7 5 6 ‑ 5 9 ) I n d u s t r y o f S h i e l d s ( 1 7 6 0 )
Margaret o f S u n d e r l a n d ( 1 7 5 7 ‑ 5 9 ) Newark o f S h i e l d s ( 1 9 5 6 ‑ 5 9 ) P r o v i d e n c e o f London ( 1 7 5 6 ‑ 5 8 ) Sea Adventure o f Whitby ( 1 7 5 6 ‑ 6 0 ) W i l l i a m o f Whitby ( 1 7 5 6 ‑ 5 9 ) ,
5
0 0 0 5 0 7 2 0 0 0 5 0 8 7 2 3 5 6 4 5 3 3 5 6 3 5 2 6 2
4 3 7 6 8 6 6 5 8 6 4 8 3 8 5
4 2 7 4 4 3 1 6 0 3 1 2 1 7 1 1 6 5 3 7 4 2 0 6 3 4 3 3 4 3 1 3 7 1 4 6 2 5 7 2 4 8 1 3 8
(典拠)
Hausman,. W. J . ; ' S i z e and ̲ P r o f i t a b i l i t y o f E n g l i s h C o l l i e r s i n t h e 1 8 t h C e n t u r y ' B u s i n e s s H i s t o r y R e v i e w v o l . 5 1 ( 1 9 7 7 ) p . 4 6 5 .
船はロンドンヘの石炭輸送に専門化していた」
5)
と述べている。次いで
Hausman
は1 8
世紀前半に船主や中間商人達が発行したパンフレッ・ト類に基づ いて沿岸石炭船の収益性の検討に移る。そのさい,彼がまず最初に取りあげるのはP h i l ‑ a l e t h e s , A F r e e and I m p a r t i a l E n q u i r y i n t o t h e R e a s o n s of t h e . P r e s e n t E x t r a v a g a n t P r i c e of C o a l s ( 1 7 2 9 )
である。 この資料はある石炭船について船主が発行した航海費 の計算をP h i l a l e t h e s
という人物が修正したものである。論題からも明白なように,P h i l a l e t h e s
の意図はロンドンでの石炭価格が高すぎることに対して船主達を批判するこ とにあり,彼は石炭輸送費が実際より約4 0
ボンド高く評価されていたと主張している。こ の資料からHausman
は「この年( 1 7 2 9
年)の1
航海当りの利潤は2
ボンドから4 2
ボン ドの範囲であり………年間航海数を8
回とすれば,年間総利潤は16336
ボンドで,船価 を1 , 4 0 0
ポンドとすれば,1 24
彩の純益があった」6)
と算定している。5) I b i d . , p . 4 6 4 . 6) I b i d . , p . 4 6 6 .
1 9 2
Hausman
が利潤計算に使用する第2
の資料は海運業者が出したD a i l yA d v e r t i s e r
号 の航海費についての計算書をロンドンのライターメンが批判したパンフレット,The A c c o u n t of a C o a l Voyage i n
珈" D a i l yA d v e r t i s
ずExamined ( 1 7 3 8
年)である。この資料をもとに
Hausman
は独自の損益計算を行っている。 それによれば,この船は1
航海当り3 0 0
ロンドンチョールドロンの石炭を輸送し,ロンドン市場での単位当り価格 は27
シリングであったので,1
航海につき約3 9 5
ボンドの収入をあげた。他方,ニューカ スルでの石炭購入費が1 0 4
ボンド,労賃,約5 4
ボンド,雑費,2 5
ボンド,税金1 2 5
ボン ド,合計3 3 5
ボンドが1
航海に要する費用であった。 したがって,1
航海分の総収入は 約6 0
ボンドとなり,年間航海数を9
回とすれば,年間総収入は約5 4 0
ボンドとなった。こ れから減価償却費,利子,そして保険料の合計約3 0 0
ボンドを控除して,Hausman
は年 間純益を約2 4 0
ボンドと算定し,船価を2 , 0 0 0
ボンドとすれば,資本収益率は1 2
彩になる と計算している7)
。しかしこれは達成可能な最高の数字であり. 沿岸航海に伴なうさまざ まな危険性を考慮に入れて,Hausman
は「18
世紀のロンドンヘの石炭輸送に従事する 石炭船の収益性は年間6 12%
程度であった」8 )
と推定している。( 2 ) S . V i l l e
の研究V i l l e
は19 8 4
年に同じ雑誌に発表した論文でロンドン船主Henley
家の資料を用いて,1 8
世紀末期の沿岸石炭船の収益性を検討している。彼が検討の対象とするHenley
家は17751830
年の55
年間に少くとも1 2 0
隻の船を所有し,1 8 1 0
年には2 5
隻もの船を操業した 大船主であり,1 8
世紀には単なる船主ではなく石炭商人としての機能も兼ね,北東部からロンドンヘの石炭輸送で重要な地位を占めていたのである
9)
。先にふれた
Hausman
の研究では石炭船の収益性は主として, 北東部とロンドン間の 年間航海数および船舶の積載力の2
要因によって影響されていた。このうち第1
点,すな わち年間航海数をHausman
は年平均4
回強と算定したが,V i l l e
はこの数値を過少評 価であると主張する。実際,V i l l e
が示したHenley
家の資料(第8
表)によれば,年 間9 11
回の航海を行う船もあり,しかもほとんどの船が単にニューカ・スルーロンドン間 ばかりでなく,さらに遠方のボーツマスやプリマス,さらには外国へも航海していたので ある。またV i l l e
は,石炭船の多くが北東部とロンドン間の石炭輸送に専門化していた7) I b i d . , p p . 4 7 04 7 1 .
8) I b i d . , p . 4 7 3 .
9) V i l l e , o p , c i t . , p . 1 0 3 .
船 名
1785
第8
表1786 Henley
家の船舶の就航状況1787 1788 1789 1790 1191 Ann F Anna Maria Dolly 6+F 5+3P+F 4+2P+F Eagle Farmer 5+F 7 8 Freedom l+F Friendship Heart of Oak l+F 4+F 4+2P+F 7+1P Henley 4+4P+F 9+1P+F
,8+F 5+3P Holderness 5+F 6+F Nelly 5
十lP+F Pitt 7+2P ‑ 7+1P 4+2P+F 5+1P+F 4+F 4+F Pitt l+F Queen
1792
船Anne F
II 2+F 4+F 1P+F F F F Anna Maria l+F
Dolly Eagle・
3+4P+F 10 5+1P+F HF Farmer Freedom 7 4+F 5+F ・3+F HF 5+4P 3+F 3+1P+F Friendship HF 6+F l+F 10 Heart of Oak 5+2P 6+2P 4+F l+F l+F Henley 7+2P 10 . 9+1P 11 4+4P 11 5+3P 5+3P Holderness Nelly 7+1P+F a+F Pitt Pitt HF 6+F s+F HF l+lP+F 3+F l+F 2+1P+F Queen ‑ 3+F
名
1793 1794 1795 1796 1797 1798 1799 1800
(典拠)Ville. S.,'Note: Size and・Profitability of English Colliers in the Eighteenth Century‑A Reappraisal'Business History R
函ewvol. 58(1) 1984.
なお,ここで示された数字は北東部とロンドン間の年間航海数を示し,P
はボーツマ スないしプリマス,そしてF
は外国への航海を示している。348 蚕測汁憮﹁讚葦欝瀕﹂藻35:lili:ffi