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雑誌名 情報研究 : 関西大学総合情報学部紀要

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(1)

戦後日本における科学技術行政機構の成立 : 科学 技術庁の設立もしくは科学技術省構想の挫折

その他のタイトル The Establishment of Science and Technology Administrative System in the Post‑War Japan : The Birth of the Science and Technology Agency or the Demise of the Proposal to Establish Ministry of Science and Technology

著者 岡本 哲和

雑誌名 情報研究 : 関西大学総合情報学部紀要

巻 6

ページ 1‑29

発行年 1996‑12‑10

URL http://hdl.handle.net/10112/1120

(2)

関西大学総合情報学部紀要「情報研究」第

6

号 ,

1996

戦後 H 本における科学技術行政機構の成立

一科学技術庁の設立もしくは科学技術省構想の挫折ー

岡 本 哲 和

The Establishment of Science and Technology Administrative System 

i n  

the Post‑

War 

Japan  ‑ The Birth of the Science and Technology Agency or the Demise of  the Proposal to Establish Ministry of Science and Technology 

Tetsukazu OKAMOTO 

Abstract 

Why are science and technology policy bureaucracies created?  A "functional approach" 

suggests that a functional need for new bureaucracies which is taken up by domestic groups who  can change the state apparatus, causes their establishment. On the other hand, an "international  factor‑led approach"  suggests that the activities of international organizations prompt the adop‑ tion by states across the international system. Both approaches, however, suffer from certain  shortcomings as approaches to predicting different configurations of science and technology bu‑ reaucracies. With a process‑tracing approach, I examine the political process regarding the estab‑ lishment of Japan's Science and Technology Agency to show the reason why the Science and  Technology Agency has become one of the  "weakest"  among Japanese ministries and agen‑ cies. It follows from the analysis of the political interaction among various actors that the proposal  to establish a strong ministry of science and technology was defeated by the coalition of the exist‑ ing ministries, especially the MITI and ex‑bureaucrat legislators. There had been, however, some  possibility of the Science and Technology Agency being vested with broader authority to direct  and coordinate Japan's science and technology policy because of the support by some legislators  and business. 

I suggest that this finding can offer the key to an understanding of features of Japan's sci‑ ence and technology policy, which have been marked by the initiative of the private sector, the  dominance of civil technology over military technology, and the harmony between the  Government and the private sector. 

(3)

1 問題の所在

戦後日本の科学技術体制は、 「産業本位」 「経済中心」 「官産協調」の3つのキーワードによ って特徴づけられる。科学史家の吉岡斉は、それを理念型としての「ジャパニーズ.モデル」

と呼び、 「国家本位」 「軍事中心」 「官産独立」を基本的特徴とする「アメリカン.モデル」と 対置している(1)。

第1のキーワードである「産業本位」とは、研究費総額に占める政府負担率が低いことを意 味する。日本において、その割合は1971年度から1984年度までは2割台にとどまっていたし、

1985年からは1割台後半となっている。一方、アメリカを含め、イギリスやフランスなどの先

進国では、その割合は50パーセント程度となっている(2)。

第2のキーワードの「経済中心」は「軍事中心」と対置されるものであり、研究費総額に占 める国防関係費の割合が低いことを指している。日本の場合、第2次大戦の影響、あるいは憲 法上の拘束などの理由もあって、研究費総額における国防研究費の割合は、戦後を通じて約1 パーセントの水準を維持してきた。

第3のキーワードである「官産協調」とは、補助金交付や税制優遇措置などの様々な施策を

用いて、政府が産業界における技術開発を支援していくやり方を意味する◎吉岡がその典型例 として通産省による産業政策を挙げていることからも明らかなように、この概念はチャーマー

ズ.ジョンソンによる「発展志向型国家」の考えに依拠するものであるといってよい(3)。

以上のような特徴を持つとされるジャパニーズ.モデル自体、その有効性が検討の対象とな ることは言うまでもない。特に、第3の特徴である「官産協調」については、ジョンソンの産 業政策論に批判的な視点からの研究が蓄積されてきており、その適用性に対して批判的な見解

が提出されている(4)。

だが、本稿における関心は、ジャパニーズ.モデル自体の当否を綿密に検証することにある のではない。ここにおいては、比較的客観的な数字によって表されている「産業本位」及び

「経済中心」という二つの特徴をも含めて、ひとまずジャパニーズ.モデルが一定の有効性を

(1)吉岡斉「科学文明の暴走過程」 (海鳴社、 1991年)、 123‑127ページ。

(2) 『平成7年版科学技術白書』 (大蔵省印刷局、 1995年)、390‑391ページ。ただし、人文・社会科

学を除く。もっとも吉岡は、国家が研究開発上のイニシアティブをとることは直接的な資金の投 入以外によっても可能であるとし、 「産業主導」と「産業本位」とは区別される必要があると論

じている。吉岡・前掲書、 128ページ。

(3)チャーマーズ・ジョンソン著/矢野俊比古監訳「通産省と日本の奇跡」 (TBSブリタニカ、 1982年)

20‑‑25ページ。

(4)Cf・Samuels,RichardJ.,TWeB"si"ess〃幼g〃 "eseSオα蛇:E"e棚ノM"戒鯲"Q"@ γα""eα"d

脇s加γjcal〃叩 ""e,CornellUniversityPress,1987;Okimoto,Daniell.,Be"""MITIα"d肋e M"戒餓ノ α"gsg伽伽s師α』んノ"んγH妙乃c〃0J",Sn曲rdUmversityPress,1989.

(4)

持つことを認める。その上で問題としたいのは、 「いつ」そして「なぜ」ジャパニーズ.モデ ルが成立したのか、 ということである。前者の問いに対しては、統計整備上の問題から確定的 な回答を与えることは困難である。ただ、この問題に関し、吉岡斉は総理府が1953年から実施

した「研究機関基本統計調査」と、 1960年にそれが改められた「科学技術研究調査」とを比較 して、後者が前者とは違って中小規模の企業をも調査対象としていること、そして前者から後 者への変更を機として企業などの研究開発投資が全体の研究費に占める比率が40パーセント台 から60パーセント台へと一挙に跳ね上がっていることに注目する。そしてそこから、 1950年代 の比較的早い時期に日本の研究投資パターンが「産主官従」となっていたとの推測を行なって

いるo (5)

それでは、後者の問い、すなわち、 「なぜ」ジャパニーズ.モデルが成立したのかという問 いに対してはどのような回答が与えられるのか。この問題については、これまで充分な説明が

与えられることはなかった。筆者の関心は、政治学的なアプローチによってこれに対する体系

的.理論的な説明を与えることにある。そのための一つの試みとして、本稿においては従来の 政治学及び行政学では研究対象としてあまり取り上げられてこなかった科学技術庁に焦点を合

わせる。

ジャパニーズ・モデルにおいては、主役はあくまで通産省であって、科学技術庁は脇役に過 ぎないとぎれてきた。ナショナルプロジェクト方式の運用などを通じて通産省が行なってきた、

産業科学技術に対する保護育成策の成果はこれまでいたるところで喧伝されてきた。その一方 で、科学技術庁が対象としてきた主な研究開発分野は、比較的新しい分野であったがゆえに通 産省の管轄が及んでいなかった原子力や宇宙開発、そして航空技術などに限定されていたし、

さらに大学における研究は所掌範囲の外に置かれてきた。また、科学技術行政における調整機

能にしても、科学技術庁がそれを充分に果たしてきたとは言い難い。 (6)

それでは、なぜ科学技術庁は脇役の座に甘んじなければならなかったのか。もし、科学技術 庁が産業科学技術の育成において大きな役割を果たし、 さらには科学技術政策全体に対しても 強力な調整機能を発揮し得たならば、理念型としてのジャパニーズ.モデルは成立していなか ったかもしれない。この意味で、脇役としての科学技術庁の存在は、ジャパニーズ.モデルの 成立事情に一定の影響を与えたと考えられる。

実は、科学技術庁が主役となる可能性は、確かにある時点までは存在していたのである。だ が、実際にはそうはならなかった。本稿はその理由の一端を、科学技術庁の設置問題の時点に まで遡って明らかにしようとするものである。

問題となるのは、なぜ「弱い」科学技術庁が設置されたのか、 という点である。これに関し、

(5)吉岡・前掲書、 146ページ。

(6)総合研究開発機構『科学技術政策に係わる文献調査j (総合研究開発機構、 1979年)、 166ページ。

(5)

科学技術政策機関(7)の設置要因についての既存の説明を以下に取り上げ、それらの日本のケ

ースへの適用可能性について検討しておきたい。

まず第1に挙げられるのは、古典的組織理論の考えに基づいた「機能説」である。機能説

は科学技術政策機関の設置の要因を、政策需要への政府の対応に求める。産業構造や人口動 態の変動などの環境変化は新たな政策需要を産み出す。既存の組織によってはそのような政 策需要を満たすことが困難である場合には、それへの対応を図るために新組織が設置される

ことになる。この見方に従うとすれば、科学技術庁の設置は戦後における我が国の科学技術

振興及び経済復興の必要性とそれを可能にするための一元的行政の不在への一つの対応とし

て説明されうる。 (8)

もっとも、すべての機能説に基づく説明が以上のような見方をとっているわけではない。そ

の多くは、環境変化等が生じさせる新たなニーズの発生に伴って特定のアクターの要求が顕在

化し、それを媒介として科学技術政策機関が設置されるとの立場をとる。すなわち、機能的要 請を組織の設置の充分条件としてではなく必要条件として位置付けることによって、一定のニ ーズの存在を直接的に科学技術政策機関の設置と結びつけるような単純な見方に一定の修正を 加えているのである。特に、科学技術政策機関の設置において顕在化しやすいのは、次のよう

なアクターからの要求であろう。 (9)

第1は、科学者集団(scientifccommunity)である。第2次大戦を契機として各国の政府は 科学技術の有用性に対する認識を深め、それへの積極的な関わりを保っていこうとした('0)。

一方、科学者集団の側も自らの意見・主張を政策に反映させるための公的組織の設置を要求す

るようになる。 ('1)

第2は、国防セクターである。ここでいう国防セクターには、軍関係者及び国防産業が含ま

(7)UNESCOは「科学政策組織(sciencepolicyorganizations)」を「その中心となる政策形成機能が

国家レベルにおいての科学技術活動の計画化、組織化、そして調整である組織」と定義づけてい る。たとえば、多くの国において「科学技術省」、 「国家研究会議(NationalResearchCouncil)」、

「科学アカデミー」と呼ばれている組織がそれに該当する。ただし、経済領域における特定のセ クターや限定された科学技術分野(原子力や農学など)のみを対象とする組織はそこには含まれ ていない。UNESCO,Wり"dD"ec加がqfNa"0"αノScjg"cg〃"Cy‑Mα〃"gBo"es,Scie"ceん"Cy

S畑"esα"dDoc""@e"たSeries,VOl.59(UNESCO,1984) ,p.viii.ただし引用は、Finnemore,Martha,

@@hternationalOrganizationsasT℃achersofNonns:theUnitedNationsEducational,Scientifc,and CulmralOrganizationsandSciencePolicy'' ,I"姥γ"α伽"αjO増α"jza伽",Vol.47,No.4,Aummn, 1993,p.595.によった。

(8)このような見方をとるものとして、たとえば、八木俊道「統治機構と行政組織編成(下)」 「季刊 行政管理研究」73号、 1996年3月、 8ページ参照。

(9)以下の記述は、Finnemore,op.cit.を参考にした。

(10)この問題に関しては、たとえば、岡本哲和「戦時アメリカの科学技術政策と原爆開発計画」 「関 西大学法学論集』第35巻、第6号、 1986年3月、を参照のこと。

(11)Dickson,David.,伽gⅣb〃ん附紘qfScie"",Pantheon,1984,p.25.

(6)

れる。既述のように第2次大戦は科学の有用性を政府に認識させたが、それは主として軍事面

に関わるものであった('2)。政府の側は科学技術の発展が自国の安全保障の向上に結びつくと

の考えに基づいて、科学技術への支援を行なうようになる。このような状況においては、国防 セクターはより積極的な政府の科学技術に対するサポートとその組織化を期待して、政府に科 学技術政策機関の設置を要求する。

第3は、企業である。科学技術が経済の発展と密接な関係を持つことは言うまでもない。そ のことに対する政府の認識も戦後において高まってきた。産業構造の高度化が進み科学技術の

重要性が増していく状況の中で、企業は民間が行なうにはリスクが高いと見なされるような種 類の研究開発投資や人材育成などの科学技術の基盤整備において、政府が一定の役割を果たす ことを期待するようになる。それゆえ、企業はより効率的で体系だった科学技術への支援を可

能にするような科学技術政策機関の設置を政府に求めていくことになる。

科学技術政策機関の設置を、以上のような諸アクターからの要求を媒介とする機能的要請の 帰結として捉えるのが機能説の見方である。この見方は、 日本における科学技術庁の設置を適 切に説明できるのか。確かに、ニーズの充足に動機付けられた政府行動が一定の役割を果たす であろうことは認めざるを得ないだろうし、ニーズの在り方を適切に捉え得るならば、そこか ら設置される組織の性質の違いを説明することも可能なように思われる。だが、機能説には次 のような問題点が含まれていることにも留意せねばならない。機能説全体に目を向ければ、 ま ず、機能を充足するための政府の能力の評価に対しての疑問が投げかけられよう。政府は、予 算や政治的圧力などの制約条件の下で活動を行なっているのが通常である。それらは政府の機 能充足行動を時には妨げる作用を及ぼす。その場合には、当初の意図と結果との乖離が生じる ことになる。科学技術庁の場合、科学技術振興のための一元的調整機関の必要性を設置の要因 と見なすならば、後に見るように実際に設置された科学技術庁がそのような機能を充分に果た すものと成り得なかったことが説明できないのである。さらに、機能的な要請が充分条件では なく必要条件であると譲歩したとしても、機能説からだけでは具体的にどのようなタイプの組 織が設置きれて、どのような様式によって科学技術政策の調整が図られるのかを充分に説明す

ることは困難となる。

また、機能的要請が特定のアクターからの要求に媒介されるとの上に示した見方についても、

科学技術庁の設置過程を子細に検討してみれば、それをそのまま適用することに問題が含まれ ていることは明らかとなる。後述するように、 日本学術会議に代表される日本の科学者集団に おいては、新たな科学技術行政機関の設置に対して消極的な意見が大勢を占めていたし、彼ら が政治過程で果たした役割も大きなものではなかった。国防面での要請にしても、それが少な くとも日本の場合には大きな影響を及ぼさなかったことは明白である。確かに初期の段階にお いて、一部の政治家の行動からは新設の科学技術行政機関を軍事研究復活の足がかりにしよう

(12)Cf'IYrman,John. (ed.),7WcMI"〃,伽z"0"qfH妙兜c""0J咽j,Ballinger,1984

(7)

とする意図が伺えた('3)。しかしながら、科学技術庁設置のケースにおいては、憲法上の拘束

や財政均衡主義の立場をとる大蔵省の軍事研究支出膨張への警戒感、そして吉田ドクトリンに 典型的に示されているように、政府が軍備増強に対して−経済発展などと比して一比較的に低

い優先順位を与えていたことなどの諸要因の働きによって、軍事面での要請が政府において問

題とされることはほとんどなかったのである。経済発展からの要請に関しては、科学技術庁の 設置過程において、それが一定の影響を及ぼしたことは否定できない。後に見るように、科学 技術庁の設置を推進したアクターー特に財界及び一部の政治家一の主たる目的の一つが経済の 振興にあったことは明白である。だが、この問題に関しても当初の意図と結果との乖離が生じ

ていることに注意せねばならない。すなわち、出来上がった科学技術庁が経済発展のイニシア ティブをとることは制度面から見ても困難であったし、その後の活動から見ても、同庁が実際

に経済発展に対して少なからぬ貢献をなし得たとは言いがたい。周知のように、 日本において

は、そのような役割は主に通産省によって担われることになったのである。

以上のような国内における政策需要の発生に科学技術行政機関の設置要因を求めようとする 機能説に対して、M・ファインモアはその要因を国外に求める。ここで、国外からの要因、す なわち国際要因としてまず考えられるのは、ライバル国の軍備増強もしくは(経済的)ライ バル国におけるイノベーションの成功であろう。ある国が軍事技術の開発に乗り出すのは、敵 国の軍備増強から受け取る脅威の認知によってであるとする、いわゆるリチャードソン・モデ

ル流の行為一反応モデルは、その最も一般的な例であるといえるかもしれない('4)。それとと

もに、 1957年のいわゆるスプートニク・ショックなどの単発的な事件もそこに含めることが可 能である。実際、スプートニク・ショックが、アメリカをはじめとする多くの国の科学技術政 策の方向に大きな影響を及ぼしたことはよく知られている。

もっとも、これらの国際要因への政府の対応として科学技術政策機関の設置を捉えるとする ならば、そのような見方と機能説との違いは、政策需要の発生源を国内に求めるのか、それと も国外に求めるのかという点だけに過ぎなくなる。この場合、国際要因による説明は機能説に 還元されて、その独自性を主張することは困難となる。

この点に関し、フアインモアは国内レベルにおける機能的要請への還元を出来る限り退けて、

「純粋に」国外から与えられた(supplied)要因を見いだそうと試みる。そこでファインモア

が注目するのは、国際機関が果たす役割である。彼女は特に国連教育文化機関(UNESCO)

を取り上げ、それによる科学プログラムの推進と加盟国に対する指導が各国における科学技術

政策機関の設置を促したとの議論を展開する。UNESCOがそのような活動に積極的に取り組 み始めたのは1950年代の初頭である。その結果として、各国の科学技術政策機関の約7割が

(13)本稿第2章参照。

(14)Buzan,Barry.,A"I""0"c伽〃〃Sか〃egicS〃〃es:M""αが碗c〃0ノOgy""dI"teγ"α伽"αI

他地加"s,MacnllanPress,1987,pp.76‑93.

(8)

1955年から1975年の間の時期に設立されている('5)。日本のケースを見れば、UNESCOへの加

入は1951年、科学技術庁の設置は1956年であり、両者の間の何らかの関連性を伺わせる事実は 存在している。

だが、たとえUNESCOの活動と各国における科学技術政策機関の設置件数との間に有意な 相関が見いだせたとしても、その結果だけから各国における科学技術政策機関の設置を促した 要因を導くことは出来ない。そこにおいては、いわゆるecologicalfallacyの問題が生じてくる (16)。UNESCOの果たした役割を重視するにしても、やはり国内の政治過程に注目する必要が

ある。

また、フアインモアはUNESCOが加盟各国に対して指導した規範の内容として、科学技術 政策機関は研究実施機関を所有してはならないこと、そして、科学技術政策機関は政府の高次

のレベルへのアクセスを持たねばならないことの二つを挙げる('7)。前者に注目すると、 日本

のケースでは、新設される科学技術政策機関力珊究実施機関を「持つかどうか」ではなく、む

しろ、 「どのような」研究実施機関を持つかということが最初から問題とされた。実際に設置 された科学技術庁も、 2つの付属研究機関を所有することから出発している。このことからし ても、ファインモアの理論は科学技術庁設置のケースを充分に説明できないのである。

このように以上の説明はそれぞれ問題を含んでいるし、また、なぜ「弱い」科学技術庁が設 置されたのかを充分に説明することもできない。そこで、本稿における以下の分析においては、

一般的なprocesstracingの手法を用いて科学技術庁設置に至るまでの政治過程を通時的に分析 し、その問いに一定の回答を与えることを試みる。

本稿の第一の目的は、様々な選好を有する諸アクターが科学技術庁の設置をめぐって繰り広 げる政治的相互作用の様態を明らかにすることにある。次章以降においては、 1952年から1956 年の科学技術庁設置法成立までの期間を三つに区分し、それぞれの時期区分における政治過程

についての分析を行なう。

そして第二の目的は、その政治的相互作用の帰結が「弱い」科学技術庁の設置を導いたこと

を明らかにすることである。

ジャパニーズ.モデルに代表される戦後日本の科学技術政策の特質は、どのような要因によ って形成されてきたのか。その問題を解明するのが我々にとっての関心である。本稿はそのた めの予備的作業の一つとして位置付けられている。

(15)Finnemore,op.cit.,p.576.

(16) もっとも、このような分析方法が一定の有効性を持ちうることも指摘されている。CfKing, Galy.,RobertO・Keohane,SidneyVerba,Des"j"g"c刎伽"jが馳彪"噸cI"た"" 伽Q"α"伽伽 Rese"℃",PrincetonUniversityPress,1994,pp.3031.また、ファインモア自身も、いくつかの国の個

別ケースを取り上げることによって、この問題点を回避しようとしている。Hnnemore,op・cit.,pp 587L591.

(17) FYnnemore,op.cit、,p.586.

(9)

2

自由党による「科学技術庁設置要領案」

科学技術庁設置以前の段階における代表的な科学技術政策に関わる組織としては、 日本学術 会議と科学技術行政協議会(以下、SrACと略記する)の2つが挙げられる。

1949年1月20日に、学術体制刷新委員会の答申に基づいて発足した日本学術会議は「我が国

科学者の代表機関」であり、 「科学に関する重要事項を審議してその実現に努力し、併せて研

究の連絡、促進を図り、その能率を向上.発展させること」 ('8)をその任務とする。日本学術

会議法によれば、同会議は科学の振興に関する方策、科学を行政に反映させる方策などについ て政府に勧告することが出来る(第5条)。また、科学技術行政に関する事項について、政府 は同会議に諮問することが出来る(第4条)。これら二つの条文に従えば、同会議は科学者 (もしくは専門家)によって構成された科学技術政策に携わる諮問機関としての性格を持つも

のと考えられる('9)。たとえば、アメリカにおいては全米科学アカデミーや大統領科学諮問委

員会などが同種の組織として挙げられる。だが、アメリカにおけるそれらが政府に対して比較 的強い影響を与えることが出来たのに対し、 日本学術会議は科学技術政策において大きな役割 を果たすことは出来ず、政府との関係も疎遠であった。その主たる理由は、同会議と政府・文

部省との意見対立、そして、同会議と保守政党とのイデオロギー的対立に求められる(20)◎

一方、SrACは「日本学術会議への政府の諮問、同会よりの答申または勧告を行政に反映さ せるための措置、政府が行うべき科学技術に関する国際的事業の実施の方法ならびに各行政 機関相互の間の科学技術に関する行政の連絡調整に必要な措置について審議する」 (科学技術 行政協議会法) ことを目的として、 日本学術会議の発足と同時に総理府内に設置された。そ の会長は総理大臣であり、副会長は国務大臣のうちから総理大臣が指名する。委員は、関係 行政機関の官吏(原則として事務次官)及び総理大臣が任命する学識経験者とされている。

また、関係行政機関の官吏及び学識経験者に割り当てられる20名以内の幹事をおくことにな

っていた(21)。

SrACについては、 1949年の設立当初からそれが単なる審議機関に過ぎず、必要な科学技術 政策を実施することは出来ないとの批判が財界及び政界から出されていた。後に触れる1954年

(18) 日本科学史学会編『日本科学技術史大系第5巻・通史5』 (第一法規出版、 1964年)、 59ページ。

(19) 日本学術会議については、CfKondo,Jiro., $@'IYleActivitiesoftheScienceCouncilofJapan'' ,m Golden,WilliamT. (ed.) ,Wりγ"""eScie"ceα"。 c〃"0ノ0邸ノAd"jceto#"eHMestLe"gノsQf

Go"elw"@e"な,PergamonPress,1991,pp、277‑284.

(20)たとえば、自民党の日本学術会議に対する見解の代表的なものとして、中山太郎『脱石油時代の

科学戦略』 (サイマル出版社、 1980年)、 133‑138ページ。

(21)科学技術政策史研究会編集・科学技術庁科学技術政策研究所監修『日本の科学技術政策史」 (未 踏科学技術協会、 1991年)、 55ページ。

(10)

に提出された「科学技術庁設置法案」についての審議において参考人として招致された茅誠司 (当時SrACの委員の一人) もまた、 STAC及び日本学術会議は設立の趣旨に沿うた活動をして いないのが実状であると述べている(22)。

新たな科学技術行政機関の設置問題がアジェンダに載せられることになった背景には、これ ら二つの組織に対する不満あるいは批判が存在した。

科学技術庁設置に関する初期の段階において、いわゆる政策企業家の役割を果たした一人が

自由党代議士の前田正男である。前田は山梨高等工業学校(旧制)機械科の出身であり、科学

技術の振興とそのための体制の確立を自らの政治課題としていた。彼はまた、 1950年3月ll日 に衆議院において議決された「科学技術振興に関する決議案」を推進した中心人物の一人であ

り、本会議での提案理由説明者でもある(23)。

前田は、占領状態を脱した日本において、科学技術行政機構が未整備であることに不満を抱

いていた。これに関し、前田の問題意識を端的に示しているのが、 『日本産業協議会月報』

1952年5月号に掲載された論文「科学技術行政機構の確立」である(24)。同論文の中で、前田

は当時の科学技術政策の問題として、以下の問題点を指摘している。第1は、grACが単なる 審議機関であることから各省庁の連絡調整以上の機能を果たすことは望み得ず、必要な科学技 術政策の実施が困難になることである。第2は、日本の科学技術予算が充分でないことである。

前田はアメリカの科学技術予算を比較の対象として挙げ、国家予算に占める科学技術予算の割 合が我が国においてきわめて低いことを問題にする。具体的な数字を挙げれば、 1949年度の科

(22)昭和29年3月3日の内閣委員会議録による茅の発言の趣旨は以下の通りである。STACは政府と 学術会議の中間にあるものであり、学術会議はそれを通じて政府に勧告を行ない、政府はそれを 通じて学術会議に諮問を行なう。政府が学術会議に対して諮問を行なう事項は学術会議法の第4 条によって規定されており、科学に関する研究、試験などの助成、その他科学の振興を図るため の交付金や補助金の配分となっている。だが、実際においては、政府は学術会議に対して諮問を 行なうことはほとんどない。それゆえ、STACの活動は活発ではなく、技術的な細かな問題はさ ておき、国策的な科学の振興についてはほとんど役割を果たしていない。また、grACにおける 審議状況自体も低調であり。委員としての各省の次官が出席することはほとんどなく、多くは代 理人が出席している。また、文部大臣もほとんど出席することはない。 『松前重義その政治活 動2』 (東海大学出版会、 1988年) 342‑344ページ。

その一方で、SI3ACについては、それが強力な権限を持ち得ていたとの意見もある。たとえば、

SrrACの次長及び局長を務めた鈴江康平は、GHQがSTACのバックにいたこともあり、同組織が 非常に強力な権限を持っていたと述べている。 (「SrrACで「イエス」と言わないとGHQが行政に

対して「うん」と言わないんですよ。」)鈴江によれば、研究者の渡航費の計上や研究機材の輸入、

また技術導入などはSrrAcによってきわめてスムースに行なわれたとされる。鈴江康平「活気の

あった内閣技術院」 『松前重義その政治活動2』 (東海大学出版会、 1988年)付録。SI3ACは組

織上審議機関であったが、その活動期間がGHQの影響が強く残る時期であったため、設置法に 明文化されていない機能を果たすことになったとも考えられる。 (『日本の科学技術政策史』、 55 ページ。) しかし、占領政策の終了とともにSIYACは後ろ盾を失い、その影響力を急速に低下させ

ていったとみるのが妥当であろう。

(11)

学技術振興予算は41億9800万円、 1951年度のそれは83億4700万円で、一般会計予算に占める割 合はそれぞれ0.56パーセントと1.27パーセント、また、国民所得に占める割合は0.14パーセン トと0.18パーセントになっている。一方、アメリカの1951年度の科学研究振興予算は14億ドル、

国家予算に占める割合は3.5パーセント、そして国民所得に占める割合は0.56パーセントとなっ ている(25)o

さらに前田は、経済振興と結びついた形で科学技術政策を形成する機関が日本には欠けてい

ることを指摘し、総理府の外局として科学技術庁を設置することを提案した。

SIACは上述のようにあくまで審議機関であり、自らイニシアティブをとって科学技術政策

の策定に当たることは困難である。また、 日本学術会議は政府に批判的であることから、前田

は新たな科学技術に関わる制度の確立を目指そうとした(26)。前田が構想していたのは、 きわ

めて強い権限を有し、科学技術政策の一元的調整を可能にするような組織である。この点に関 して注目すべきは、前田が1950年から1951年頃約3ケ月間アメリカに滞在し、議会、各種委員

会、科学アカデミーなどを訪問していることである。その時に彼は、 トルーマン大統領の特別 スタッフであり、戦後アメリカの科学技術政策の在り方に関する「ステイールマン報告」

(1947年)の作成で知られるジョン.R・ステイールマンと、科学技術行政庁についての意見

交換を行なった。第2次大戦の遺産を引き継ぐ形で組織化されたアメリカの科学技術体制を目 の当たりにしたことだけでなく、その時のステイールマンとの議論が前田の科学技術庁構想に

影響を与えたことは充分考えられ得る(27)。ステイールマン報告においては、大統領に直接責

任を持つ各省間委員会(InterdepartmentalCommittee)を設けて、複数の政府機関で行なわれ

る科学技術活動を調整すべきとの勧告がなきれている(28)。前田の科学技術庁構想は、この各

「日本科学技術史大系第5巻・通史5」、406ページ。なお、この決議の内容は、旧本経済の自主 的再建のため、産業合理化、貿易の振興を強力に推進せねばならぬが、これがためには、科学技 術の振興と、これが応用工業化を積極的に実施せねばならない。政府は、かかる現状にかんがみ、

科学技術振興に対し、速やかに左記要綱について適切なる措置を講ずることを要望する。

一、科学技術関係の国家予算を増額するとともに、設備改良等への長期資金の融資等に特別措 置を講ずること。

二、科学教育を振興すると共に、研究費の増額交付、研究者の待遇改善を図り、 もって科学知 識の普及に努めること。

三、科学技術の応用工業化のため特殊金融公庫を設けること。

四、科学技術関係各機関を能率的かつ総合的に運営するため、制度施設の改善整備を行うこと。」

といったものであった。大淀昇一『宮本武之輔と科学技術行政』 (東海大学出版会、1989年)、

520ページ。

同論文は、 「日本科学技術史大系第5巻・通史5」、413‑416ページに収録されている。

同上書、414ページ。

同上書、406ページ。

前田の「科学技術行政機構の確立」においても、ステイールマン報告の内容が簡単に紹介されて いる。

(23)

jjjj 塑妬茄師 くくくく

(12)

省間委員会のような、ある程度強い権限を持った調整機関を内閣レベルで設置しようとするも

のに他ならない(29)。実際、前田はアメリカでの経験から科学技術行政一元化の必要性を痛感

するようになったと回顧し、自らの科学技術庁設置構想はそれを機として具体的な形を取るよ うになったと後に述べている(釦)。

1952年2月になって、 自由党は「科学技術庁設置要領案」を党の科学技術振興特別委員会

(委員長星島代議士)でとりまとめた。この時に中心的な役割を果たしたのは当時衆議院経済

安定委員会委員長であった前田である。この案は1952年3月に自由党の政務調査会の承認を得

た(31)。当時の吉田内閣は行政改革を断行中であり、情勢としては新たな行政機関の設置は困

難であったが、同月には自由党の行政整理特別委員会で同案は承認きれ、のちに総務会でも承 認されることとなった。

自由党は1952年の3月に科学技術庁設置を政府に申し入れ、要領案を提出した。その文書の

内容には、 「科学技術庁設置要領案」 「科学技術庁設置要領案経過」 「科学技術庁の急設を要す

べき理由目次」 「科学技術庁設置法(案)」が含まれている。この要領案が「前田私案」とも 呼ばれていたことからも明らかなように、その基本的な考え方は、前田の論文「科学技術行政

機構の確立」の中の「科学技術庁設置要領案」の内容に基づいている(認)。

その内容には、科学技術庁の主要な任務として、科学技術の基本的施策の総合企画、関係各 行政機関の事務の総合調整、そして科学技術費の査定調整の3つが挙げられている。組織とし ては、国務大臣たる長官、政務次官、次長、科学技術官の他、官房、企画部、調整部、調査普 及部の四つの部をおくことになっていた。また、SrACは従来通り総理府の付属機関として存 続させ、その事務局を科学技術庁に置くとされていた。

前田はまた、個人的に日本学術会議会長及び副会長を訪ねて、自由党案について述べた自己 の論文を示して検討するように求める行動を起こしている。前田の提案には、科学技術庁の付 属機関として科学技術情報所と中央科学技術特別研究所をおくことが含まれていた。前田はこ の時に部外秘情報として、この中央科学技術特別研究所では、原子力、ジェット機、レーダー、

化学兵器などの研究を推進すると説明したことが伝えられている(調)。先述のように、前田自

(28)米国大統領科学委員会著/日本学術振興会訳編『米国における科学と公共政策(第1巻国家計画)

−ステイールマン報告(一)』 (コロナ社、 1949年)、 107‑109ページ。

(29)ただし、前田の構想した科学技術庁が経済振興をその主要目的としていたのに対して、ステイー ルマン報告で重点が置かれていたのは基礎科学の振興である。これに関し、CfSmUl,BmceLR, A"@g戒α〃艶je"ceルノ"S"ceWb"dW"γⅡ,'IYleBrookingslnstitution,1990,p.85

(30)前田正男「科学技術庁発足10周年に当たって想う」「科学技術庁十年史」 (大蔵省印刷局、 1966年)、

所収、 32‑33ページ。

(31) 『日本科学技術史大系第5巻・通史5』、 406ページ。

(32)中山茂・後藤邦夫・吉岡斉責任編集『通史日本の科学技術2 :自立期1952‑1959j (学陽書房、

1955年) 136ページ。また、 「松前重義その政治活動2』 (東海大学出版会、 1988年) 325ペー

ジ。

(13)

身は必ずしも日本学術会議に好意的ではなかった。それにもかかわらず前田がまず日本学術会 議への働きかけを行なった理由は、この段階においては、科学技術庁設置のためには科学者集

団の支持を取り付けることが重要であると認識していたからであると推測される。

日本学術会議は学術体制委員会でこの問題を取り上げて、第5部(工学部門) と第6部(農 学部門)で議論を行なった。第5部では自ら科学技術の振興を行なわずに企画及び調整のみを

担当する経済審議庁と同様の科学技術審議庁ならば賛成であるとの意見が表明された。また、

第6部では既存のSInCの強化がまず必要であると主張された(狐)。結局、 日本学術会議全体と しての具体的な結論は出されることはなかった(35)。この後、 日本学術会議は科学技術庁の設

置に至るまでの過程において、主要なアクターとなることはなかったのである。

これに対し、科学技術庁設置と自由党の動きに対して積極的に反対の姿勢を示したのは民主 主義科学者協会である。民主主義科学者協会は、 1952年のサンフランシスコ講和条約と日米安 全保障条約の発効によって科学技術の面でも日本の対米従属が進むとの懸念を表明していた。

その思考の延長から、科学技術庁の設置が日本の科学の軍事的再編を促して一層のアメリカへ

の従属を促進すると批判したのであった(調)。

自由党の「科学技術庁設置要領案」は内閣においても検討されることになり、閣議での説明 は木村行政管理庁長官が行なった。しかしながら、多くの閣僚は同案に対して消極的な姿勢を 示した。その時に出された結論は、 「科学技術振興のための必要を認めるが、行政整理の際で あるから実施に関しては研究すること」といったものであった。当時の政府は予算と行政機構 の縮小を重視しており、新たな組織を設置して体系的に科学技術活動を推進していくことにつ

いては、政府全体の積極的なバックアップを得ることは困難だったのである。(37)

だが、自由党の科学技術庁設置要望は、その年の終わり頃に再び強くなっていく。1952年12

月22日に政務調査会、24日に総務会で了承されて、再び自由党は政府に要望を申し入れた。そ

れにもかかわらず、科学技術庁の設置は政府によって見送られることになった(犯)。

これらの自由党の科学技術庁設置構想は、吉田内閣による第2次行政改革の実施中の時期で

あったために実現しなかったとの見方がなされている(39)。吉田の第2次改革は、第1次改革

と比較して大した成果を上げ得なかったとされる。その理由としては、GHQの強い後押しが

なかったこと、そして吉田政権の基盤が揺らぎ始めていたことなどが指摘されている(40)。自

由党の側としても、強硬に科学技術庁の設置を主張して、吉田内閣をそれ以上の困難に直面さ

廣重徹『戦後日本の科学者運動』 (中央公論社、 1960年)86ページ。

鈴江康平「科学技術庁が誕生するまで」 「学術月報」第9巻第3号、 1956年6月、 153ページ。

「日本科学技術史大系第5巻・通史5j、 406ページ。

同上書、406ページ。

「日本の科学技術政策』、66ページ。

鈴江康平「科学技術庁が誕生するまで」、 153ページ。

「松前重義その政治活動2」、325ページ。

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(14)

せることは回避したかった。それとともに、この段階では科学技術庁設置に対して、経済界が 熱心な姿勢を示していなかったこと、 さらには自由党以外の政党も熱心でなかったことにも留

意しておくべきであろう (41)。

3 1954年「科学技術庁設置法案」の提出

上に見たように、1952年までの段階において、科学技術庁の設置は自由党主導で進められた。

だが、 1953年に入って、その動きは超党派的なものへと広がっていく。その動きの中で、前田 正男とともに政策企業家としての役割を果たしたもう一人は右派社会党の松前重義であった。

「科学技術の振興と政治に科学を」のスローガンを掲げて1952年10月に初当選した松前は技術

者出身であり、終戦直後には逓信院の総裁を務めたこともある。当選後の松前は前田との相談 を重ね、科学技術の振興のためには科学技術行政官庁を設置する必要があるとの点で意見の一

致を見た(42)。

この二人を中心とした科学技術庁設置の動きが、超党派的なものへと広がっていったことを 示すのが、 1953年7月21日の科学技術振興議員連盟の発足である。科学技術振興議員連盟は八 木秀次(右派社会党)を代表として、衆議院の福井勇(自由党)、松前重義(右派社会党)参 議院の海野三郎(左派社会党)三浦達夫(緑風会)を中心に設立準備が進められてきた。所属 議員は216名にのぼり、その中には国会の旧科学議員クラブ所属者、医者や技官などを中心と する自然科学系出身議員が多く含まれていた。このことは、科学技術庁設置へとつながる動き

の背後に、すでに一定の勢力が国会において形成されていたことを示している(43)。

その科学技術振興議員連盟の主導によって、 1953年8月7日の第17国会において「科学・技 術振興決議」が採択された。その決議の主な内容としては、 (1)科学技術行政機構の強化(2)

科学研究予算の拡大(3)科学技術教育の振興(4)科学技術者の優遇(5)研究成果の実用化のた めの国庫補助及び金融措置の実施、が挙げられる。同決議案は全員一致で可決されることにな

った(44)。

この決議に関して注目すべきことは、民間の技術者の組織である日本科学技術者連盟や、技

大山耕輔「行政機構における占領改革・再改革の成果と政策過程」日本政治学会編『年俸政治学

1991戦後国家の形成と経済発展一占領以後一』岩波書店、 1992年、 111ページ。

『『経済団体連合会30年史』には、経団連は1952年以来総合的な科学技術官庁の設置に努力してき

た、との記述が見受けられる。 (経済団体連合会『『経済団体連合会30年史」」1978年、 182ページ。)

だが実際には、経団連が特に熱心に科学技術庁の設置を訴えるようになったのは1954年頃からの

ことである。

『松前重義その政治活動2』、326ページ。

『日本科学技術史大系第5巻・通史5』、406‑407ページ。

同上書、 416‑417ページ所収。

(40) (41)

(42)

(43)

(44)

(15)

官の全国組織である官庁技術者懇談会などが協力してその実現に努力したことである。これら

2つの組織は、科学技術庁の設置にも熱心であった。

科学技術者連盟は民間の科学技術者の集まりであり、政府と財界が主導して進めた「生産性 向上運動」にも1948年頃から積極的に参加していた。その後日本科学技術者連盟は上層部の技

術者の組織としての性格を明確にしていき、 「エンジニアクラブ」を開設している(45)。この時

点で、科学技術庁の設置を求める運動が、国会内に留まらずに民間の科学技術者をも巻き込む

形で展開され始めていったことには注目すべきであろう (46)。

また、官庁技術者懇談会とは、運輸省、通産省、農林省、建設省の技官を中心に構成された

組織であり、 1952年12月ll日に発足した。その前身は、官庁技術者による戦前の「日本工人倶

楽部」 (1920年に発足。 1937年に発展解消されて「日本技術協会」となる。)である(47)。ちな みに、松前は日本技術協会の副会長を務めたことがある(48)。このような技官の組織が科学技

術庁の設置に積極的であったという事実にも、注目を促しておく必要があるだろう。このこと は、設置推進派である政治家と経済界の連合が科学技術庁の設置を働きかけ、それに対して官 庁組織が一体となって既得権益を守るために抵抗するといった一般的な図式を相対化するもの である。後述するように、実際には官庁組織の内部においても、科学技術庁の設置をめぐって それを支持する技官と、反対する事務官との対立の構図が存在したのである。

1953年9月24日、科学技術振興議員連盟は科学技術庁設置についての連盟案を作成し、翌25

日に松前、苫米地義三(改進党)、志村茂治(左派社会党)の3人が「科学技術庁設置要望」

を政府に申し入れて、29年度予算で実現するように要求した(49)。この時の推進役は、前田正

男及び右派社会党の松前重義などであった。連盟案の詳細な内容は明らかでない。だが、その

審議は以前の自由党案の検討から始められており、自由党案の内容とさほど違いはないと考え

られている(釦)。

このような科学技術振興議員連盟の動きを支持したのは、技官の集まりである官庁技術者懇

談会である。自由党や科学技術振興議員連盟の動きに呼応して、官庁技術者懇談会は科学技術

庁の設置を促進していく姿勢を明らかにした。それに基づき、官庁技術者懇談会のメンバーは 各党の議員を訪ねて、科学技術庁の必要性を説得して回った。

また、経済界も、現在の科学技術行政機構では経済発展に不可欠である科学技術の振興は困

難であるとの認識から、科学技術振興議員連盟の動きを支持していた。特に財界は、経団連の

(45)同書、408司09ページ。

(46)同書、410ページ。

(47)1956年には地方公共団体及び公社の技術者をも含めて「全国官公庁技官懇談会」が発足している。

同書、413ページ。

(48) 「松前重義その政治活動2』、333ページ。

(49)同書、324ページ。

(50) 「日本科学技術史大系第5巻・通史5』、413ページ。

(16)

原安三郎や日化協の池田亀三郎を中心として、科学技術振興議員連盟のメンバーと密接に連絡 を取り合っていたと言われている(5')。

その一方で、科学技術庁の設置に反対の姿勢を示したのは官庁組織、特に事務系の官僚達で あった。官僚による反対が生じたのは、新設される科学技術庁が科学技術費の査定調整を含む 強力な調整機能を持つことによって、既存の省庁の影響力が低下することを恐れたからである。

だが、それとともに見逃されてはならないのは、事務系官僚の反対の動きの背後に、事務官と

技官との対立が存在していたことである。戦前から自らの地位の改善を要求してきた技官にと

ってみれば、科学技術庁の設置は技官に「しかるべき」地位を与えてくれる組織の誕生を意味 していた。だが、事務系官僚の側からすれば、そのような組織の設置を推進することは、自分

たちに対する技官の「反逆」の動きの一環と見なされた。1947年に建設省が設置されたときに

起こった技官運動も、まだ彼らの記憶に新しいところであっただろう (52)。また、松前が戦前

の技官の地位向上運動である技術者運動の中心人物の一人であったことも、事務系官僚の危機 感を一層強めた一因かもしれない。事務系官僚は自由党及び改進党の官僚出身議員に働きかけ て、科学技術庁の設置を阻止しようと試みた。官僚出身議員は官庁の意向を受け、行政改革の 必要性を強く訴えたり、通産省と経済企画庁の考えに沿った経済科学庁案を提案したりするな どして、科学技術振興議員連盟の動きを牽制しようとした。このような働きかけによって、科 学技術振興議員連盟の結束は徐々に崩されていく。

また、 日本学術会議は自由党や科学技術振興議員連盟などによる科学技術庁設置の動きに対 して、 1953年4月の第14回、 1953年10月の第15回総会で反対を表明している。その理由は、科 学技術庁の設置は学問の自由を奪い、政治及び軍事への科学の従属を促進するというものであ った。だが、その頃の日本学術会議は政府に対する影響力を急速に低下させていた。その一つ のきっかけは、同会議が当時の輸入黄変米問題に対して政府に批判的な態度をとったことであ る。それに対し、当時の吉田内閣は日本学術会議に強硬な姿勢をとるようになり、 日本学術会

議の所属を総理府から文部省に移管する、あるいは民間機関に格下げするなどの案を検討し

始めた(認)。これ以降、保守政党は一貫して学術会議に批判的な態度をとり続け、 日本学術会

議の影響力も弱まっていった。それゆえ、同会議は科学技術庁設置問題についても強力な反対

運動は起こし得なかったのである(別)。

さて、事務系官僚の反対や官僚出身議員の働きかけにより、科学技術庁設置法案の内閣提出

(51)

(52)

(53)

『松前重義その政治活動2」、328ページ及び342ページ。

『週刊ダイヤモンド』 1996年4月20日号、 40ページ。

このような政府の動きに対し、学術会議側は1953年10月の所属変更反対決議、同年12月の全員協 議会による移管反対の再確認、そして、 1954年1月の16回総会における学術会議法改正の際の本 会議への諮問の要求に関する決議などの対抗措置をとった。移管問題については、結果的には造 船疑獄事件の発覚により立ち消えとなった。

「日本科学技術史大系第5巻・通史5』、407‑408ページ。

(54)

(17)

は見送られることになった。また、自由党と改進党の議員を中心として、科学技術振興議員連

盟からの離反者も増え続けた。

このような状況の中で、左右社会党は議員立法によって科学技術庁の設置を目指そうとする。

松前が中心となって科学技術振興議員連盟案は修正され、 19M年2月4日に「科学技術庁設置 法案」として国会に提出される(55)。同法案は衆法第3号として受理された。法案提出者は8

名、松前を含めて、右派社会党3,左派社会党3,小会派l、日本自由1という構成であった。

そこには、自由党と改進党の議員は含まれていない。科学技術振興議員連盟案を超党派で国会

に提出しようとした前田と松前らを中心とする議員らの構想は、この段階で挫折していた。

同法案は同年2月13日には内閣委員会に付託され、 2月24日に議題となる。以下、その内容 について重要な点に触れておきたい。

科学技術庁は総理府の外局として設置され、長官は国務大臣を持って充てることになってい た。だが、松前の当初の構想は、強力な権限を持つ「科学技術省」であった。先述の科学技術 振興議員連盟案が科学技術「庁」案を採用した背景には、行政の簡素化が実施されている状況 では省案は提出しにくいと主張する自由党及び改進党の議員への松前の譲歩があったとされて

いる(弱)。今回の法案は自由党及び改進党抜きでの提出となったが、それにもかかわらず松前

を中心とする左右社会党の推進派は、法案の成立を目指して「庁」案で妥協せざるを得なかっ

た。

法案の目的については、松前は国会での法案提出説明において次のように発言している。

「科学技術に関する総合的かつ基本的な施策の企画立案、関係各行政機関の所属する科学技 術行政の総合調整、科学技術に関する試験研究、資源の総合的活用、及び防災に関する調査を 行なうとともに、科学技術振興に関する権限と責任の所在を明確にせんとするのが、この法案

の目的であります。」 (57)

ここで言われる科学技術振興の目的として、基礎科学の発展よりもむしろ経済の発展に重点 が置かれていたことは、内閣委員会の審議における松前の次のような発言からも明らかであ る。

「この運用を通じまして、 日本の経済の振興に必要なる科学技術の諸々の課題を解決する使

命を、科学技術庁に与えることによって、我々はその運用を助長する立場に立って、ただいま お話の問題を解決するようにしたらばどうかという気持ちをもって、この科学技術庁設置法を

提案した次第でございます。」(記)

また、上の科学技術庁の目的についての発言では、 「総合調整」という語が用いられている。

(55)

(56)

(57)

(58)

「通史日本の科学技術2 :自立期1952‑1959』、 136ページ。

『松前重義その政治活動2』、325ページ。

「松前重義その政治活動1」 (東海大学出版会、 1988年)、328ページ。

昭和29年2月24日、内閣委員会議録第6号。その内容は、 『松前重義その政治活動2』に収録

されている。

(18)

科学技術庁設置法案の中にも、 「関係各行政機関の所管に属する科学技術に関する事項の総合 調整を行なうこと」との文言が存在した。その語の意味について、松前は「現在行なわれてお

る研究、あるいはまた行なわんとする研究の総合調整、すなわち無駄のないように重点的にお

金を使い、そしてお互いに助け合っていくような体制を作る」ことであると述べている(59)。

松前は現状として、航空に関する研究については現在まで通産省、運輸省、保安庁など複数の

省庁から研究所設置の要求が出ていること、 またガスタービンの研究が運輸省や通産省などで

重複して行なわれていることなどを例に挙げて、批判を加えている。研究の重複による資源の

浪費を防止するためには、総合調整機能を持つ機関が必要となる。松前らは、科学技術庁がこ

のような機能を果たすことを期待していたのであった(")。

同法案においては、政府と学術会議とのに連絡役にはSI,ACがあたることになっていた。そ こで想定されている科学技術政策の決定過程は、 まず日本学術会議が決定した問題をSrACに 持ち込み、そこで決定されたものを科学技術庁が実施するというものであった。また、SrAC

の事務は科学技術庁が処理することになっていた(61)。この内容においては、科学技術政策の

決定におけるSrACの権限が比較的強いものに留まっている。そこにおいて、科学技術庁は実 施機関としての役割をより多く担うことになる。これは、自由党や改進党の官僚出身議員から 代替案として出されていたSI,ACの強化案との妥協を図るための一つの方策であったとも考え

られる。

さらに、松前の法案提出説明によれば、科学技術庁の付属機関としては、資源調査所、防災 研究所、中央航空研究所、科学技術資料所が設置されることになっていた。これらについては 別途法律をもって施行するとされている。この点に関し、内閣委員会の鈴木(義)委員は松前 の法案の提出理由説明に対して次のような質問を行なっている。 「科学技術に関する試験研究 及び調査を行なうということになると、現業官庁のような印象を与える試験所、研究所を自ら 持つかのどと〈考えられますが、この点はどうですか。」これに対し、松前は、科学技術庁に 期待される役割は各省庁に分散している研究機関間の総合調整を行なうことであって、科学技 術庁は原則として直接の研究所を持たないと説明している。ただ、資源調査所や防災研究所の 設置などは、これらが扱う研究領域の重要性に鑑みた例外措置であるとされる。中央航空研究 所については、すでに通産省や運輸省など複数の省庁から設置要望が出ており、これ以上の研 究の重複を生じさせないために例外的措置として科学技術庁に設置すべきである、 と述べてい

る(62)。既存の省庁は、付属する研究所が科学技術庁へと移管されることによって、自らの権

限と機能が縮小されることを危倶していた。松前の発言には、そのような既存省庁の危 倶を払

『松前重義その政治活動2」、 340ページ。

同上書、338‑340ページ。

「日本の科学技術政策史』、333‑334ページ。

「松前重義その政治活動2』、329‑332ページ。

(59)

(60)

(61) (62)

(19)

拭しようとする意図が存在していたと考えられる。

以上のように、科学技術庁設置に対しては様々な方面から圧力が加えられ、、それを抑える

ための譲歩の必要性が生じることとなった。基礎研究は大学及び文部省の領域であり、科学技

術庁がそこに積極的に介入するということは考えていない、 との松前の法案趣旨説明における

発言も、そのような事情から引き出されたものであると考えられる(")。これらのことが、法

案の内容に一定の影響を与えたことは明らかである。研究所や大学を包括的に管轄し、強力な 調整権限を有する機関を設置して一元的な科学技術行政機構を確立しようとした一部政治家達

の当初の構想は、この段階においてかなりの修正を余儀なくされることになったのである。

内閣委員会での質疑応答においては、法案への次のような反対意見が出されている。高瀬伝

は、科学技術庁の設置が戦前の技術院を想起させるとして、その設置が研究者の自由な活動を 妨げるのではないかとの意見を述べている。

参考人として招致された当時の日本学術会議会長の茅誠司は、科学技術庁が当初から強い権

限を持つことに懸念を表明している。そのような場合には、全科学者の支持を得ることも困難

となるし、他省庁とのギャップも生じうるとの意見を述べている(")。

結局のところ、この法案は造船疑獄などの当時の政治危機の中で審議未了となった。だが、

そのような事件が発生しなかったとしても、法案の成立はきわめて困難であっただろう。その 理由としてまず挙げられるのは、同法案に対して各省からの反対意見が強く出されていたこと である。 1954年3月1日には、同法案についての各省の意見が総理大臣官房審議室によって収 集されて次官会議に提出された。そこにおいては、財政上の問題により大蔵省から、そして工

業技術院や特許庁の移管などから影響を受ける通産省から特に反対意見が表明された(65)。そ

れに加え、政府全体としては、行政組織の新設を議員立法によって行なうことへの抵抗感もあ ったと考えられる。

自由党や改進党などの他政党が、左右社会党主導の法案に対して消極的な態度をとっていた ことも重要である。これは、先述のように省庁の意向を受けた両党の事務系官僚出身議員の働 きかけに由来する。改進党は松前らの説得によって一時は賛成の立場に傾きかけたが、結局は 法案の本質と関係のない予算問題を持ち出して反対に回ることになった。自由党の場合は、独 自の科学技術庁設置法案を作成していたこともあり、法案に対して明確な反対を行って、科学 技術庁の設置自体に反対していると受け取られるような行動を起こしたくはなかった。自由党 も、そして改進党にしても、科学技術庁設置による一元的な科学技術行政機構の確立の必要性

を大筋においては認めていたのである(66)。それゆえ、科学技術庁設置法案が造船疑獄のあお

1111 闘刷闘船 くくく

同上書、366‑367ページ。

同書、352‑358ページ。

鈴江康平「科学技術庁が誕生するまで」、 154ページ。

「松前重義その政治活動2』、328‑329ページ。

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