戦後の日本総合商社の性格
その他のタイトル Survey of "Japanese Full‑Service Wholesaler"
after the War
著者 柏尾 昌哉
雑誌名 關西大學商學論集
巻 9
号 3
ページ 185‑208
発行年 1964‑08‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/00021595
185
第 一 節 財 閥 系 総 合 商 社 の 成 立
戦後の日本総合商社の性格
明治初期における問屋商業資本の二重性格
先進資本主義国に六七十年の遅れをもって出発した日本資本主義は︑その故に︑明治維新以後︑急速に政府事業
をおこし︑勧業政策を強行するなどして︑上からの近代産業の移入発展を企図したのである︒そして︑これらの実
施過程において︑それまでに曲りながらもかなりの資本蓄積をおこなっていた問屋商業資本が︑その資金的源泉と
して大きい役割を演じたのである︒だが︑この問屋商業資本は︑一方においては︑いわゆる資金的源泉の立場にお
いて幼稚未成熟な産業資本や弱小生産体に対して強い独自性を保持して特殊な利潤を収得するとともに︑他方にお
いては︑資本主義の発達が軌道に乗るにつれて︑信用制度の整備にともなう銀行資本への部分的転化︑あるいは︑
各種産業の発達に対応しつつ産業資本への部分的転化︑へとぬけ目なく前進していたことは注目されねばならない︒
例えば︑国庫金取扱いとその運用の特権を得ていた三井が︑一八七六年︵明治九年︶に本格的銀行業へと三井銀
行を設立し︑回漕問屋の三菱が︑台湾遠征︑西南の役と相次ぐ二つの戦乱を契機に︑官船︑官金の払下げを通じて
本格的海運業へ進出したことなどはこの適例といえよう︒更に︑この傾向は︑一八八
0年︵明治一三年︶以降のい
戦 後
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社 の
性 格
︵ 柏
尾 ︶
柏
尾
昌
哉
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︵ 柏
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わゆる官業払下げによって一般的なものとなった︒この官業払下げは︑農民の租税負担によって建設された堪大な
産業施設が︑ほとんど無償に近い条件で︑三井︑三菱︑古河︑久原などの少数の特権的問屋商人の手に払下げられ
たことは衆知の通りである︒具体的には︑三井が三池鉱山︑新町屑絲紡績︑富岡製絲を︑三菱が高島鉱山︑佐藤鉱
山︑生野鉱山︑長崎造船を︑古河が足尾鉱山︑院内鉱山︑阿仁鉱山を︑久原が小坂鉱山を︑川崎が兵庫造船を︑と
いう具合に払下げがおこなわれたのである︒
ともあれ︑明治初期の段階では︑一応︑相対的に資本蓄積の進んだ問屋商業資本が︑市場の主導的地位を保持し︑
一般的には未成熟な産業資本よりむしろ優越した地位に立って︑いわゆる流通過程の独自性はいうまでもなく︑生
産過程への発言力すらある程度保有していたといえよう︒これは︑あたかもヨーロッパにおけるマニュファクチュ
アの一般的生成期に見られる問屋商業資本の立場と軌を一にしているように見えるが︑日本の場合には︑問屋商業
資本が半封建的な政治機構との結びつきの上で活動しているという点で更に強力であったといえよう︒しかし︑一
方において︑このような前期性を強く残しながらも︑他面において︑この前期性を極度に利用しつつ発達する資本
主義生産に対応して︑産業資本への部分的転化を実施していることは︑
性格として充分留意されねばならない︒
産業資本主義段階における二重性格の維持 日本資本主義発生期の問屋商業資本の二重
遅れて出発した日本資本主義も︑日清の役を終り日露の役を迎えるころになると︑産業資本の基礎が確立し︑い
わゆる産業資本主義段階を迎えるわけである︒こうなると︑産業資本に対応する近代的商業資本の出現が要請され︑
従来の問屋商業資本はなんらかの形で変貌して行かなければならなくなる︒というのは︑相対的に資本蓄積におい
187
方向が実証しているといえよう︒ の問屋商業資本に対してどのような変移をもたらしたであろうか︒ って逆転されるようになると︑資本の利益闘争での主体的立場を失なうことになるからである︒ て勝っていた問屋商業資本の地位は︑産業資本の急速な集中集積の進行によって弱化し︑更に進んで産業資本によ
ところで︑商業資本であって︑直接に生産を支配し︑あるいは優越した資本力によって独自的流通過程の支配権
を 保
持 す
る ︑
いわば前期的機能をもつものが問屋商業資本ということになっているが︑産業資本主義の確立は︑こ 一般的には︑産業資本の要請に対応する方向への順応態勢を準備しつつも︑なお日本産業構造の特殊な機構に基
づいてその前期性を維持し続けて行ったということができようか︒これは︑当時の代表的な問屋商業資本の二つの 第一に︑近代資本主義の急速な発展の裏には︑旭大な数の半封建的農漁民の残留と中小零細企業の残存という日
本特有の産業構造が強く維持され︑これが︑問屋商業資本の機能発揮の場を充分提供していたということである︒
なる程︑それは︑消費資料や二次製品生産の分野であったが︑これらの中小零細生産を︑大工業とあるいは消費者 と結合するという機能は︑当時においては︑
なお極わめて重要であったといわねばなるまい︒ここでは︑商業資本 の独自性の下に充分な収奪の余地が残されていたといえよう︒だから︑問屋商業資本は︑産業資本主義段階になる と︑近代的産業資本への優位性こそ失なったものの︑なお︑主力を堪大な数の中小零細生産からの問屋的収奪の方 向へ結集させることによって︑その機能を維持することができたのである︒それ故︑産業資本の要請に従って近代 化への対応を準備しつつも︑問屋的性格から脱却しきれなかったのである︒
とができよう︒既に述べたように︑
第二は︑産業資本への本格的転進と銀行資本機能充実にともなう産業資本との結合強化という面で特徴ずけるこ
日本の官営払下工業や移入工業は︑問屋商業資本がその資金源となったのであ
戦 後
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尾 ︶
るが︑これらの工業では早くからカルテル︑
も独占価格の出現従って独占利潤の形成を示すものであって︑問屋商業資本が︑特権的立場を利用して本格的に産
業資本へ転化する要因をなすとともに︑産業における資本主義的結合の成立は︑﹁自由競争の止揚⁝⁝もっとも発
展した部面の産業資本内部でうまれるこの傾向は︑銀行資本の利害によって促進される﹂とあるように︑﹁カルテ
図
ル化は︑すでに産業と銀行資本との内面的なむすびつきを示しているものである﹂から︑銀行資本への本格的転化
とそれによる他産業との結びつきに努力するのは当然のなりゆきといえよう︒
独占資本主義段階における財閥系諸産業の結合点としての総合商社
産業資本主義が確立し成熟して︑それが独占資本主義段階へ移行して来ると︑さすがに強力な前期性を保持し続
けて来た日本の商業資本も︑問屋性という基本的性格を変更せざるを得ない立場に立たされる︒
というのは︑独占資本主義段階突入後は︑産業資本の集中集積はいよいよ巨大化し︑重工業が軽工業を上廻る発
展を見せ︑中小企業が独立性を喪失して大工業の下請化するなど︑産業資本を主体とした独占資本主義体制の支配
力が︑直接間接経済機構のすべての面におよんで来るからである︒すなわち︑独占の進行にともなう﹁独占的結合
は︑商業の独自性を止揚する傾向をたどる﹂ものであるし︑重工業の比率増大は︑いうまでもなく大生産対大生産
の直接取引増加を意味し︑究極的には商業資本の活動分野を相対的に縮少するものであるし︑中小企業の大工業へ
の下請化は︑問屋商業資本のこれら生産体への独自的支配の余地を甚だしくせばめて来るものであった︒
こ う
し て
︑
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︵ 柏
尾 ︶
一般的にはその問屋的性格が トラストなどの独占的市場支配の形態が現われている︒これは︑'早く
日本の場合も︑第一次ョーロッパ大戦を転機として︑問屋商業資本は︑
第一線から後退し︑産業資本の副次的存在としての近代的商業資本として再生せざるを得なくなったのである︒第
四
189
一次ョーロッパ大戦が転機であるというのは︑
す る
か ︑
完全にくつがえされ︑ ﹁戦時プームに際して極端な思惑︵スペキュレーション︶に走った
各種問屋は︑戦後の反動恐慌(‑九二
0年・大正九年⁝⁝筆者︶によっていずれも店大な負債を負い︑多くは倒産
または産業資本︑銀行の救済によってかろうじて倒産は免れたものの︑それ以後産業資本に対する地位は
まったくその支配下に服さざるをえなくなった﹂という事情もあったことは否定できないが︑
日本においてもそのような時機が熟しつつあったということである︒ 本質的には大なり小なり︑
五
ところで︑このように副次的地位に落ちた商業資本も︑独占資本主義段階では︑商業資本そのものの内部におい
て︑資本の集中集積およびそれにともなう弱小商社の整理と大商社の一層の巨大化が現われて来ざるを得ない︒す
なわち︑産業資本の一層の集中集積は︑その結果︑商品生産を飛躍的に増大させて商品取引単位を巨大化するから︑
これに対応するために︑商業資本もその単位を巨大化して行かなければならない︒これは︑同時に流通費の節約を
意味し︑商人排除の目的を果すことになり︑独占資本の要請にも沿うものであった︒特に︑独占が強化されて来る
と︑それぞれの独占的生産体は︑独占利潤を確保し維持して行くために︑強力な商社の存在を要望するようになっ
て来る︒こうして︑商社各層の頂点に立ったのが︑いわゆる財閥系総合商社なのである︒
ところで︑独占資本主義段階突入後︑商業資本内部において集中集積を強行してあらゆる商社階層の頂点に位置
するようになった財閥系総合商社が日本特有の独特の性格をもつものであったことは特に注目しておかねばならな
ぃ︒この財閥系総合商社のもつ日本的特殊性は次の四つの面において観察することができよう︒
︱つは︑それが︑単なる資本主義社会における商業資本としての性格のほかに歴史的条件に由来するホールディ
ング・カンパニーとしての性格を保持しているという点である︒大体︑財閥系総合商社といえども︑それが問屋的
性質を後退させて単なる商業資本として機能する以上︑その地位は︑産業資本に対して副次的なものに転落するほ
戦 後
の 日
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社 の
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︵ 柏
尾 ︶
( 表 1) 上位貿易商社貿易取扱集中度
1938年(昭
12)1943年(昭
18)平均 企 業 名 輸 実 蹟 出 入
1企中業集
1度 集 累 中 積 度
( 形 )
(%) 1.三井物産
1,010 18.3 18.3 2.三菱商事 568 10.3 28.6 3.東洋棉花
358 6.5 35.1 4.日綿実業
273 4.9 40.1 5.江 商
219 4.0 44.0 6.岩井産業 118 2.1 46.1 7.兼 松
106 1.9 48.0 8.安 宅
73 1.3 49.3 9.日 商
65 1.2 50.5‑0.
内外通商
65 1.2 51.7上位計
10社 I
2,6551 51.71 51.7その他 I
2,8541 48.31 100.0総 計
I 5,509 100.0I
100.0公正取引委員会事務局経済部調査課
「日本産業集中の実態」
P.264より引用
戦 後
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性 格
︵ 柏
︶ 尾
︵ 表
1)で︑三井︑三菱の総合商社が︑全国平
ずである︒しかし︑ここに財閥系という言葉があるのは︑単に産業資本に奉仕する商業資本とか系列下にある商業 資本とかいうような意味のほかに︑それが︑財閥そのものの必須の構成部分をなしているということを意味してい るのである︒既に述べたように︑これら総合商社の原初は︑ことごとく有力な問屋商業資本であったから︑日本資 本主義の発展とともに︑それ自身ある部分を産業資本や銀行資本へ絶えず転化を実施して来ている︒だから︑いう ならば︑総合商社は︑有力な財閥系諸生産体の生みの親である︒産業資本や銀行資本へ転化した分家の方が︑商業 資本でとどまった本家の方より大きく発展したということである︒しかし︑親類関係は︑人的資本的関係を通じて 強力に維持されている︒財閥生成のこのような歴史的条件によって︑財閥系総合商社は︑単に商業資本として機能 するほかに︑ホールディング・カンパニーとして財閥諸会社の結合部に位置し︑財閥系諸会社の本家として参謀本
部的機能をあわせもつようになったのである︒
三井物産や三菱商事などが︑単なる商業資本と しての機能しか果していない専門商社と性格を
異にする所以である︒
二つは︑総合商社は︑自己の財閥系諸企業の 商業部門を独占していわゆる商業資本としての
機能を果すかたわら︑財閥の代表として外国貿
易部門へ努力を結集して行ったという点である︒
均のそれぞれ一八・三形︑
10
・ 三
% を
占 め
︑
︐
ノ191
戦 後
の 日
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社 の
性 格
︵ 柏
尾 ︶
つつあった財閥系諸銀行は︑ うことができよう︒
( 表
2)昭和初期の五大銀行への集中比率
予 金 貸 出 有価証券
1926
年 ( 昭
1) 23.7% 20.5彩
29.7%1927
年 ( 同
2) 30.8% 23.9% 28.5飴
1928年 ( 同
3) 32.9% 24.6% 40.0%1929
年 ( 同
4) 33.9% 27.0% 40.9彩
1930年 ( 同
5) 36.9彩
28.8彩
40.5%1931
年 ( 同
6) 38.3% 29.6彩
44.0%当時の五大銀行は,三井,三菱,住友,安田,第一を さす。
高橋亀吉「日本金融論 J
P.128および揖西光速他「日本資本主義の発達J
P.152の数字より引用
;
[
七
東 綿
︑ 日綿などの専門商社を大きく引きはなしているのはこの実状を物語 っている︒そして︑総合商社のこのような独占的外国貿易部門への強力な 進出が︑国家的支援の下におこなわれたということも忘れてはならない︒
担当するという近代的性質を具えているとともに︑他面で︑
ホールディン
グ・カンパニーという前期的性質をもつ新旧混合体であるという点である︒
この前期性の部分は︑本質的には半封建的な日本資本主義の産業構造自 日本の全般的危機の根源としての農業危機におびやかされ続ける湛大な
数の農家︑漁業危機に直面する零細漁家︑下請にも入れない中小生産や零 細生産︑これらに対して︑総合商社は︑網の目のように張りめぐらせた代 理店を通じて流通過程による支配態勢を固め︑収奪の機構を完備していっ たのである︒これは︑総合商社の底に流れる半封建的な前期的な部分とい 最後は︑これら財閥系総合商社が︑財閥系諸企業の結合部としての機能を更に完全にするために︑同系の銀行と
特に密着し金融資本としての統合を企図していたということである︒既に︑銀行業界において独占的地位を確立し
一九二七年︵昭和二年︶の金融恐慌を契機にその独占的地位を確固たるものにし︑他
一 っ
は ︑
総 合
商 社
が ︑
一 面
で ︑
コンツェルンとしての財閥の商業部門を
注
固
人資本たる予金は巨大銀行へ集中するようになった︒そして︑この巨大化し独占化した銀行資本が︑金融資本とし
1 6 1
て産業資本に転化され財閥の発展に大きく寄与するようになったのである︒ただし︑日本の財閥系総合商社はへ単 m にこれら金融資本の生成によって﹁最低の零落を体験する﹂商業資本ではなくて︑半封建的な前期性によって︑こ
れら金融資本と一体の関係につながっていたという点において極わめて特徴的であった︒
H i l f e r d i n g "
D a s F i n a n z K a p i t a l ' `
︵ 林
要 訳
﹁ 金
融 資
本 論
﹂ ︶
﹁ 同
右 ﹂
三 四
六 頁
﹁ 同
右 ﹂
三 四
六 頁
小 林
義 雄
編 ﹁
企 業
系 列
の 実
態 ー
独 占
資 本
の 相
互 提
携 と
支 配
強 化
ー ﹂
揖 西 光 速 他 ﹁ 日 本 に お け る 資 本 主 義 の 発 達 ﹂ 一 五 ︱ │ ︱ 五 二 頁
﹁ 前
掲 書
﹂ ︳
︱ ‑
七 三
頁 参
照
﹁ 同
右 ﹂
三 七
頁 戦 争 突 入 と 敗 戦 後 の 解 体
財閥系総合商社の成熟
﹁日本において国家独占資本主義への移行の劃期は一九三六年︵昭︱‑︶すなわちニ・ニ六と準戦時体制によっ
I l l
て彩られた年であるとみられる﹂のであるが︑これは︑大恐慌以後の日本資本主義を植民地への軍事的侵略へと方
1 2 1
向づける基点となった︒ギルト的性格に象徴される前期性を内包した日本の財閥系総合商社も︑財閥系諸産業の結
合点としてひたすらに植民地侵略への方向へ努力を結集したことはいうまでもない︒即ち︑この段階においては︑
国家独占資本主義的戦時統制諸法律が現われて来るのであるが︑これは︑国内的には︑すべての中小零細生産者を
( 1 ) ( 2 ) ( 3 ) ( 4 ) ( 5 ) ( 6 ) ( 7 )
第二節
戦 後
の 日
本 総
合 商
社 の
性 格
︵ 柏
尾 ︶
一 七
九 頁
1 0 六 頁
八
193
( 表
3)植民地農業・工業品のシェーレ指数
独占資本へ奉仕させる体制を整備することを意味し︑対外的には︑軍需産業の発展を主軸とした植民地掠奪の形態 を固めて行くことを意味していた︒そして︑総合商社は︑国内的には︑中小零細生産者や商業者を支配系列化して 独占資本へ直結する役割を演じるとともに︑対外的には︑軍事力を背景にしての植民地農業からの徹底的収奪と︑
同じく軍事力をともなった掠奪的貿易の主役を浪じたのである︒
戦 後 の 日 本 総 合 商 社 の 性 格
( 柏 尾
)
I
穀 類 l 衣 料 品 I 燃 料
1928
年 ( 昭
4) 100.0 100.0 100.0 1929年 ( 同
5) 97.5 96.0 98.0 1930年 ( 同
6) 72.0 70.3 100.6 1931年 ( 同
7) 45.8 59.3 89.4 1932年 ( 同
8) 65.6 69.0 95.0 1933年 ( 同
9) 70.0 80.3 95.3井上・宇佐美「危機における日本資本主義の構造」
P.77
より引用
九
例えば︑当時の植民地における農産物価格がいかに不当に低下させられた
かは︵表
3)
の統計が実証している︒このような安い農産物を集中するため に︑総合商社は︑植民地全域に独自の商業組織を張りめぐらしたのである︒
蓬来米を三井物産が︑鮮米は三菱商事が独占し︑内地向け移出をおこなって︑
戦争経済を推進し︑かつみずからは危大な利潤を手に入れたのである︒
貿易面における総合商社の植民地収奪は更に徹底していた︒低賃金を基軸 とした半植民地的輸出とそれに対応する重工業生産物の輸入で特徴づけられ ていた日本貿易の構造は︑国家独占資本主義への本格的突入により︑米英貿
︵ 表
4)に示されるように︑
易から植民地掠奪貿易へと転換したのである︒
日本の輸出は︑主力を急速に植民地へのおし売り的方向へ指向し︑従来の貿 易尻の赤字は急速に黒字へ転じて行った︒国家と癒着した財閥系総合商社が︑
戦時体制の強化および戦争突入にともなって急速に利潤を増大させて行った
ことは︵表
5)
の三井︑三菱の売上高の激増からも充分観察できよう︒この
売上高激増の主要な部分が軍事的占領地域の物資取扱いで形成されていたこ
( 表
4)日本本土と円地域との貿易
(単位
100万円)
I
輸 出 : 輸 入
貿易尻 再クヲロッ
1全対す軽出るー形に円クプロッ全対す輸入る形 に
1937
年 ( 昭1
3) 791 25 438 12 +353 1938年 ( 同1
4) 1,157 43 564 21 +593 1939年 ( 同1
5) 1,747 49 683 23 +1,064 1940年 ( 同
16) 1,867 51 855 25 +1,012 1941年 ( 同1
7) 1,656 62 756 26 + 900 J.B.コーヘン・大内訳「戦時戦後の日本経済」上巻P
.22より引用
( 表
5)三井物産・三菱商事売上高推移
(単位
100万円)
三井物産 l 三菱商事
1(
9昭
3612年)
1,797 883 1937年
3) 2,345 1,162( 同1
1
(
9同
3814年)
2,392 1,403 1(
9同
3915年)
2,913 1,745 1(
9同
4016年)
3,750 2,011 19417年 )
3,970 2,421( 同1
19428
年)
3,530 1,989( 同
11
(
9同
4j19年 )
4,520 2,598持株会社整理委員会「日本の財閥とその 解体」
P.541‑2および産業経済研究会
「日本の産業と独占資本」 下巻
P..355よ り引用作製
とはいうまでもない︒ 戦後の日本総合商社の性格︵柏尾︶
1 0
195
(1 )
三井本社
資本金五億円︑三井同族所有六三八万株︑その他公開三六一万株︑子会社数六八社︑子会社に対する株式投
(3 )
( 2
)
(1 )
こ れ
は ︑
敗戦と財閥系総合商社の解体
軍需生産と植民地収奪の上にうち立てられた日本の国家独占資本主義は︑敗戦によってこの二本の柱を失なった︒
日本経済の全面的崩壊を意味した︒従属性と侵略性とで代表される日本資本主義は︑ここに侵略性を失墜
し従属性一本柱となった︒その性格を決定づけるものが︑
⑪
三井︑三菱に対する一九四七年︵昭和二二年︶の解体指令の徹底さは次のようであった︒
解散以前の一
0年間に両者の役員・顧問・相談役・外国および内地の支店長︑部課長であったものは︑
( a )
それらの者が集まって新しい会社をつくることは許されない︒
(b )
それらの者二人以上が一会社に雇
われ︑あるいは顧問となることを許さない︒新しく会社をつくった場合にも同じような制限が加わえられる︒
これらの役職員以外の従業員でも︑
今後いかなる会社も三井物産や三菱商事という名称ならびにこれと類似の商号を用いることを許さない︒
これは︑次いで住友︑安田︑浅野など一六のホールディング・カンパニーにおよんだ︒解体対象となった主
資額八億三千万円︒
戦 後
の 日
本 総
合 商
社 の
性 格
︵ 柏
尾 ︶
要な財閥は次のようである︒ 則として禁止する︒ 財閥の要に位置していた総合商社に向けられたのも当然であった︒ いわゆる財閥解体であった︒そして︑財閥解体の焦点が︑
10
0
人以上集まって一会社に入り︑また一会社を創立することを原
注 ( 1 ) ( 2 ) ( 3 ) ( 4
) 浅野本社
X
X
(5
)
戦 後
の 日
本 総
合 商
社 の
性 格
︵ 柏
尾 ︶
三菱本社
五 六
頁
X
資本金二億四千万円︑岩崎一族二三
0万株︑その他関係者一万株︑金融機関六六万七千株︑その他公開一八 二万株︑子会社数二八社︑子会社に対する株式投資額五億五千八百万円︒
資本金三億円︑住友同族五
0万株︑住友銀行︑生命︑信託所有計一
0万株︑その他二
0万株︑子会社数二九
安田保善社
資本金三千万円︑出資社員安田一族九名︑子会社数二八社︑子会社に対する株式投資額九千四百万円︒
こ う
し て
︑ 資本金一千五百万円︑浅野一家五三名で全株所有︑子会社数六社︑子会社に対する株式投資額九千四百万円︒
こうして︑解体指令は︑財閥系諸産業の結合点としての三井︑三菱などの総合商社を分断し︑国際商業力を消滅
1 4 1
させたのである︒三井物産が一七
0︑三菱商事が︱二
0の小会社へ分散されたというのはこの実状を示していよう︒
日本特有の総合商社は歴史の表面から姿を消して行ったのである︒
井 上
丸 睛
・ 宇
佐 美
誠 次
郎 ﹁
危 機
に お
け る
日 本
資 本
主 義
の 構
造 ﹂
五 四
頁
﹁ 同
右 ﹂
四 八
ー 四
九 頁
参 照
産 業
経 済
研 究
会 ﹁
日 本
の 産
業 と
独 占
資 本
﹂ 下
巻
﹁同右﹂三五六頁参照
(4
)
社︑子会社に対する投資額︱一億四千五百万円︒
(3 )
住友本社
(2 )
197
第三節
戦後の財閥系総合商社の再生
代理店機能担当者としての商社
商業資本は︑本来︑産業資本の副次的補完的存在でしかない︒ただ︑戦前戦中の総合商社は︑その歴史的条件に
基づいて代理店的機能のほかに特殊の性格をもち特殊の機能を保持していたのである︒この特殊な性格も特殊な機
能も︑財閥解体を通じて一応消滅してしまった︒加わえて︑戦中戦後の国家統制を通しての農民など中小・零細生
産者からの徹底的収奪は︑これら生産者を崩壊寸前まで追込み︑問屋的収奪をおこなう余地がほとんどなくなって
しまった︒特に︑国家統制が戦後も強力に維持されたことは︑総合の性質を失なったとはいえ︑まだ力を残してい
る従来の総合商社が︑これら生産者に対して再び問屋的立場に立つことを阻止する役割を演じたのである︒
日本の復興政策は︑アメリカ占領軍の支配の下で大資本中心にそれも生産部門において重点的に強行され︑商社
はほとんど国家的援助がなかったことは衆知の通りである︒民主勢力の立遅れもあってこの過程は︑講和条約まえ
にはほぽ完了した︒そして︑このような再編産莱資本に対して︑放置された商業資本は︑資本主義経済本来の商業
資本としていわば代理店機能を担当するものとして再生して行かねばならなかったのである︒いうならば︑このと
きに至って︑初めて日本の商業資本は近代的なものへ衣換えをしたのである︒総合的性格を分断された総合商社も︑
商社が大きく伸張して来るのは当然といえよう︒戦後ほどなく︑伊藤忠︑丸紅︑東綿︑ 単なる商業資本として︑この方向へ進むよりほかはなかった︒
こうなると︑分断されて総合的性格を失なったかっての総合商社より︑昔から一貫して強力に専門化された専門
日綿︑江商の関西五綿をは
戦 後
の 日
本 総
合 商
社 の
性 格
︵ 柏
尾 ︶
( 表
6)後戦日本の貿易額 推移(単位
100万ドル)
第 一 物 産
^
︵三井物産系︶
││‑1昭 2 9
↓
一一 井木 材
3 0
1
第一通産昭↑
2 8 1
互 洋貿易 '昭←
第一物産
年 度
I額
1946
年 ( 昭2
1) i 408.9 1947年 ( 同2
2) 699.7 1948年 ( 同2
3) 942.5 1949年 ( 同2
4) 1,414.5 1950年 ( 同2
5) 1,794.3 1951年 ( 同2
6) i │ 3,349.5 1952年 ( 同2
7) 3,301.0 1953年 ( 同2
8) 3,684.4 1954年 ( 同2
8) 4,028.6 1955年 ( 同3
0) 4,482.0 1956年 ( 同3
1) 5,730.3 1957年 ( 同3
2) 7,141.6 1958年 ( 同3
3) 5,909.7 1959年 ( 同3
4) 7,055.0産業経済研究会「日本の産業 と独占資本」 下 巻
P.357より 引用
戦 後
の 日
本 総
合 商
社 の
性 格
︵ 柏
尾 ︶
じめにして︑安宅︑岩井︑
え よ
う ︒
総合商社の再生
これら分断されたかっての総合商社は︑銀 の総合商社の力では困難である︒そこで︑ 資本界に君臨するには︑分断されたかって 点とする強力な専門商社に対抗しかつ商業 の競争は誠に激烈であった︒関西五綿を頂 に激しい競争をまきおこしたのである︒こ 日商などが︑商社グループの第一線へのし上ったのは︑この事情をうら書きしているとい
一 九
五 0 年︵昭和二五年︶の朝鮮戦争開始が︑日本の独占資本の復興を決定づけたことは既に明らかにされてい
る︒ところで︑この時機は︑同時に︑専門商社中心の段階から総合商社への移行をもたらす転機でもあった︒管理
貿易のわくを越える朝鮮戦争の特需は︑︵表
6)
にあるように貿易額を急上昇させ︑戦後主のなくなった商業資本
界における主導的地位をめぐって︑商社間
行を仲介として︑財閥解体政策の立消えに乗じ︑再び総合化を目指したのである︒これを図示すれば次のようであ
る︒そして︑このような旧総合商社復活の傾向は︑有力専門商社の総合化をも急速に進行せしめて行ったのである︒
三 菱 商 事
昭29
I I I I
東 三 東 不 京 菱 西 二 貿 商 交 商 易 事 易 事
一 四
初
¥J'iJか⇒ドエ益竪咲幽
4n恒ギ冷眸る如匡
⇒竺口念心刈中兵帽や柑奎忌芸送心楽
Cドニ俎蓄巨湮# Q 苺坦竺 彩掘以遥←
⇒ド米心゜
iJQ巨
Q憾睾辻(嵌
t‑‑‑)!;l.'‑6<'¥J謳條や抽サ心゜忌心'
1兵ば団叶(涅品
llIO叶)以削
l'QAl'痰以'迅幽蛉
’~t,l'm粟投因
Q骨戸恒#址索
...:ivIll嶽湮憾蒜
l秦測冷癖
<n酒# Q 涵宍如綜悪
⇒v1坦
tI坦足 證要
⇒ド米心
Qや伶心゜
,¥J...J¥J'iJ Q II'¥入ヽ廷式巡固製忌足企
Q却
⇒ド祁ヤ祁ヤ
,¥JQ淀測心毎
k⇒訊ヒ狛
00(表
7)戦後日本貿易業集中度推移
順
1951年(昭
26)1952年(同
27)1953年(同
28)1954年(同
29)1955年(同
30) 位企業名 l 集中度 企業名 集中度 企業名 渠中度 企業名 集中度 企業名 集中度
1伊藤忠
4.7%伊藤忠
4.6飴 第一物
5.0%三菱商
8.4%三菱商
9.2% 2日 綿
4.3%兼
松4.4%日綿
5.0%日 綿
5.5%第一物
5.9免 3東
棉4.0%日 綿
4.3%伊藤忠
I 4.5%第一物
5.3飴
丸紅5.3% 4 丸紅4.0% 東棉3.7%東
棉3.7%伊藤忠
5.2%日 綿
4.8% 5兼
松3.1飴
丸紅3.6飴 不二商
3.6飴 東
棉4.3飴 伊藤忠
4.8免6 江商3.0
完 不二商
3.3%東西交
3.6% 丸紅4.1%東
棉4.1%7
第一物
2.2%第一物
3.3%第一通
3.5%兼
松3.7%兼
松3.1免8 右山井
2.0免第一通
2.7飴
丸紅3.496第一通
3.0形
江商2.5%, 日
商1.9形
江商2.5飴 兼
松3.3% 江甜2.7%日
商2.0% 10 高島屋飯田1.3%東京貿
2.4% 江商3.0%日
商1.9形 第一通
2.0免その他
69.5免その他
65.1形 その他
61.4飴 その他
55.8飴 その他
56.3飴
I 計│ 100.0%│ 計
i
100.0刻計I 100.0%[ 計│
100.o碕
計i
100.0形
66
公正取引委員会事務局経済御調査課「日本産業集中の実態」
P.264265
から引用作製
鑑巡
Qエ怜幽
4II畔
Qギ痴(担隧)
1 fR商社の総合化をも含めて旧財閥系企業の再結合は︑金融機関を通じて従来より一層強力に遂行された︒過少な自
己資本に対する他人資本への過重依存︵表
8)
︑更には世界的技術革新テンボの異常な速度は︑大企業の金融機関へ
ます/\'産業資本家となる﹂のであり︑金融資本の の依存度をいやが上にも加重した︒
支配体制が確立して来るのである︒
中でも︑これら金融機関の中核に位置し︑金融資本の基軸となったのは︑いわゆる全国銀行特に巨大銀行であり︑
と り わ け 一 九 五 五 年 ︵ 昭 和 一 ︱
‑ 0
年︶以降は︑戦前に倍する集中集積度を示している︒これは︑戦後日本金融機関の
トップ・クラスを形成した六大銀行の資本集中度が︑金融機関再建整備法による銀行資本の集中政策以後︑戦前の
倍以上にもおよんだことからも充分納得できよう︵表
9)
︒
ところで︑このような太平洋戦争以後の金融機関の集中集積には︑戦前とは若干異った特色が見られる︒
第一には︑旧財閥系主力銀行を中心に︑金融機関の集中集積が強行された点では︑太平洋戦争以前の場合と異な
らないが︑これら財閥系主力銀行と財閥系諸企業との結ぴつきが︑純粋に金融的結合へ移行して来たということは
大きな相違であろう︒即ち︑戦前の財閥には︑結合点において︑総合商社が︑
厳存して︑財閥家族の直接支配の下で諸機能を発揮するという形が見られたが︑戦後は︑ ー
戦 後
の 日
本 総
合 商
社 の
性 格
︵ 柏
尾 ︶
あるように見える︒これに対応して︑専門商社も︑総合商社化へ進もうとする動きと︑中小生産を系列下に入れる
ことによって専門商社のまま進もうとするものとが分化して来ている︒これらの事情については次項へゆずりたい︒
戦後の総合商社の再生と発展
金融機関の集中集積と総合商社
﹁ こ れ に よ っ て ︑ 銀 行 は ︑
一応ホールディング・カ ホールディング・カンパニーとして
一 六
201
財閥の特色によって若干のニュアンスは違っている︒例えば︑資本的結合といっても︑巨大な資本に恵まれた三菱
銀行は融資関係を中心にしているし︑住友銀行は株式持合の結合関係が比較的強いし︑三井銀行は依然として人的
図
結合関係の名残りが他よりも濃厚に保たれている︒'
第二には︑巨大銀行中心に金融機関が結合し系列化されて行くのは戦前戦後を通じて同じ傾向に見えているが︑ ( 表
8)戦 後
の 日
本 総
合 商
社 の
性 格
︵ 柏
尾 ︶
他 人 資 本
戦前・戦後における製造工業の資本構成比率
│ { 爵 胃
I{ 醤 嵩 I { 醤 塁
I{ 醤 讐 ;
自 己 資 本 I
66.2彩
│59.9彩
35.3彩 I
42.6%33.8% 40.1
彩
64.7彩
57.4%「三菱経済研究所」「日銀」資料より作製
( 表
9)6大銀行への資本集中度 (単立千円)
戦
1(
9昭
371年
2前 ) 戦
1(
9昭
5732年 後 ) 富 士
92,750 5,500,000菱
62,500 5,500,000和
72,200 5,000,000住 友
50,000 5,000,000第
~ ' 57,500 4,500,000井
i 60,000 4,500,000計 ( a )
394,950 30,000,000全 国 銀 行 ( b )
2,143,266 90,152,000a/b
18.4彩
33.3彩 小林義雄「企業系列の実態」
P.210より引用作製
一 七
なったのである︒もとより︑資本的結合と
いっても︑これはあくまで基本線であって︑ 独占資本の独占利潤獲得の最高の演出者と る︒こうして︑戦後の財閥系銀行は︑資本 家族によって所有されていたが︑戦後は︑ んどがホールディング・カンパニーか財閥 後退し︑これに代って財閥系銀行を中心に 財閥系諸企業が結合して典型的な金融資本 支配体制を整えて来ていることが目新しい︒ 又︑戦前の財閥系銀行の株式は︑そのほと これらが分散されて︑財閥系諸企業間の株 式持合いという結合関係に移行して来てい 的結合を通じて財閥系諸産業を結びつけ︑ ン︒ハニーが消滅し︑財閥家族の直接支配が
( 表1
0)金融機関系列関係
(1957年
3月 )
I 金 融 機 関 名 主 要 株 主 お よ び 持 株 率
三 菱 銀 行 明治生命
4.7%東京海上
3.69)る 三菱商事以下
4社
4.7%三 菱 信 託 明治生命
7.4形 東 京 海 上
1.0彩 三 菱 商 事 以 下
5社
7.2%菱
グ 東 京 海 上 明治生命
3.6%三菱銀行
3.1彩 旭 硝 子 以 下
4社
3.4%I
レ
日 新 火 災 東京海上
10.0%三菱銀行
5.0%I
プ 八 十 二 銀 行 三菱レーヨン以下
6社
5.9%昭和産業相互銀 三菱銀行
1.7%三 井 銀 行 三井生命
2.4% 大正海上
1.7%東洋高圧以下
13社
15.8%三 井 信 託 三井生命
2.1彩 大 正 海 上
1.2形 北 炭 汽 以 下
12社
12.2形 井 大 正 海 上 三井銀行
5.0形 三 井 信 託
1.0形 三 井 生 命
1.1形 三 井 船
グ 以下
12社
23.3%I
レ
太 陽 火 災 大正海上
10.0, 劣 三井銀行
4.2%三井物産
'l.3%I 三井船
1.7%プ 百 十 四 銀 行 三井船舶,三井造船計
3.9%東 京 相 互 銀 三井銀行
10.0%住 友 銀 行 住友生命
2.0形 住 友 海 上
1.5形 東 化 成 以 下
11社
17.7%住
友 住 友 信 託 住友生命
2.9形 住友金属工業以下
8社
23.1飴
グ 住 友 海 上 住友銀行
4.1形 住友信託
1.4%日本集気以下
7社
7.2%9