日本生命の戦後の相互会社化
藤本談話のオーラルヒストリー分析を中心に
黒 木 達 雄
■アブストラクト
第二次世界大戦終戦後の財務危機に瀕した生保各社の経営再建が金融機関 再建整備法によって進もうとしていた矢先,日本生命が突如として金融機関 再建整備法によらない相互会社形態の第二会社設立に踏み切った。これが13 社の一挙相互会社化という世界の保険業史上稀にみる現象の発端となったわ けだが,本稿では日本生命が相互会社化に踏み切った理由の解明を試みた。
相互会社化に関しGHQとの交渉役を務めた藤本正雄の談話記録が明かす その理由とは,経営再建を賭けた小口契約切換え運動の成功には第二会社の 早期設立が必須だったこと,弘世家の社長承継を公職追放令や労働組合の影 響下実現するには相互会社形態の第二会社設立が最も有効だったこと,であ った。
相互会社化の解明は,今後,戦後の相互会社経営をめぐる従来の学説にも 一石を投じることとなろう。
■キーワード
相互会社化,日本生命,藤本正雄
Ⅰ.はじめに
第二次世界大戦終戦直後の1947年度に突如発生したわが国生保会社の相互
会(香川大学)報告によ
*平成26年10月19日の日本保険学会全国大 26年12月26日原稿
る。
/平成 受領。
会社化現象は,国崎(1983)が 一三社が一挙に相互会社化したことは,世 界生命保険業史でも稀有で,おそらく最初で最後の出来事 と評したよう に,わが国の生命保険業史に大きなメルクマールを刻むものである。しかし ながら,こうした未曾有の現象であった相互会社化の理由について,わが国 保険研究者による研究蓄積は不十分なまま終戦から早70年が経とうとしてい る。このことは,相互会社経営の形骸化理由解明を主たるテーマに展開して きたわが国の相互会社研究にも一つの疑問を提起する。すなわち,今日,形 骸化の理由として学界の定説となっている経営者支配説的な捉え方は,果た してわが国生保相互会社が辿った歴史を忠実かつ十分に反映したものなのか という疑問である。戦後の相互会社化の解明が不十分なまま,戦後の相互会 社経営形骸化の理由を解明することはそもそも困難なのではないか。ここに 筆者が戦後の相互会社化を研究する第一の意義を見出すのである。
戦後の相互会社化に関する筆者の研究としては,日本保険学会平成24年度 全国大会で報告し,保険学雑誌第624号(平成26年3月)に所収された拙稿
財閥系生保の戦後の相互会社化―GHQ指導説の検証― がすでにあるが,
本稿では,業界最大手で相互会社化の先陣を切った非財閥系の日本生命を対 象とする考察を,後述する藤本談話を中心に行うこととする 。
Ⅱ.藤本正雄について
藤本談話に入る前に,まず藤本正雄の経歴を確認しておく 。
藤本正雄(1908‑1993)は,1929年に神戸高商(現・神戸大学)卒業と同 時に日本生命へ入社し,1931年〜33年の米国ペンシルバニア大学院留学と欧 米生保会社視察(弘世助太郎社長に随行)から帰国した後は本社の指導課長,
業務課長,企画課長を歴任した。終戦と同時に上海(海軍)から復員したが,
1) 国崎(1983)37頁。
2) 終戦直後における生保各社の財務危機状況および相互会社化の主要先行研究 については黒木(2014)を参照されたい。
3) 日産生命80年史 298頁および藤本談話を主に参照。
1945年9月から1946年12月まで大阪で進駐軍(米軍)に将校として勤務して いる。これは,終戦により大阪の日本生命本店新館ビルが西日本を管轄する 米軍第98師団司令部によって接収 される際,日本生命経営陣の指示を受け た藤本が同司令部と折衝して本店新館ビルの一部は接収を免れたが,司令部 側が出した条件の一つとしてビル所有者である日本生命等との連絡役に藤本 を将校待遇で抱え込んだためである。
1年4ケ月に及ぶ進駐軍勤務を終えた藤本は,1947年1月に業務部長とし て日本生命に復帰すると,直ちに保険計理人の大館義雄 と第二会社の早期 設立で意気投合し,経営陣の承諾を得てGHQとの交渉など第二会社の早期 設立に奔走した。同年5月の第二会社設立後は,営業責任者として小口契約 切換え運動や農協との提携推進により保険販売の立て直しに成功し,第二会 社の経営を軌道に乗せることに貢献した。1950年に取締役に就任したが,
1951年にいわゆる 日生事件 (企業保険の販売が融資を見返りに行われ,
保険募集の取締に関する法律に違反した容疑―後にこの容疑は晴れた―で日 本生命が大阪地方検察庁の捜査を受けた事件 )が起こり取締役を引責辞任,
同年日産生命に取締役として入社し,後に同社の社長(1967‑76年),会長
(1976‑87年)に就任している。
Ⅲ.藤本談話とは
本稿において藤本談話とは,1976年開催の鼎談会での藤本発言を指す。
1976年の鼎談会とは,㈳共済保険研究会が法人設立15周年記念事業として
4) 東京では第一生命館がGHQに,明治生命ビルが連合国の対日理事会に接収 された。
5) 大館義雄(1906‑1949):1930年東京帝国大学卒業,日本生命入社。1933‑35 年米国ミシガン大学留学。戦前から主計部門を担当し,終戦後は主計部長,保 険計理人(東京駐在)。利源別配当方式を日本に導入した実績や,終戦後の生 保業界復興に貢献したアクチュアリーとして有名だが,第二会社設立後まもな く病を得て逝去。
6) 日本生命七十年史 214頁。
企画したもので,出席者は藤本正雄(日産生命取締役会長),宮城孝治(共 栄火災取締役相談役),黒川泰一(東京医療生協理事長,元全共連常務理事)
の3名,進行役は坂井幸二郎(共済保険研究会常務理事)が務めている。鼎 談会の議事録は, 共済と保険 第18巻第4号(1976年4月)に 農協対日 本 生 命 の 協 約 前 後 ― 藤 本 正 雄 氏 が 語 る そ の 頃 (以 下 共 済 と 保 険
(1976) )の表題で所収されたが,藤本が語った日本生命の相互会社化の核 心部分は掲載されなかった。未掲載部分が陽の目を見たのは,鼎談会の進行 役を務めた坂井が1999年に, 共済と保険 の連載コラム 時言月評 (以下 坂井(1999a),(1999b) )でその内容を当時の録音テープから明らかにし たことによる。なお,鼎談会録音テープは現在も残されており 鼎談会の全 内容を確認することができるが,本稿で藤本談話という場合は,便宜上,上 記の 共済と保険 の掲載記事から確認できる藤本正雄の発言内容を指すも のとする。
Ⅳ.藤本談話による日本生命の相互会社化
日本生命の相互会社化に関する主な疑問点は次の2つに集約できる。第1 の疑問点は 金融機関再建整備法による旧会社の整理完了を待たずに第二会 社の早期設立に踏み切ったのはなぜか ,第2の疑問点は 第二会社の企業 形態として相互会社を選択したのはなぜか ,である。
⑴ 第二会社を早期設立した理由
まず,第1の疑問点から藤本談話を手掛かりとして解明を試みることとす る。
藤本談話による結論を先に言えば,日本生命が第二会社の早期設立を決断 7) 坂井氏所有の鼎談会録音テープから筆者が許可を得てダビングしたCDの複 写版は,生命保険協会図書室(東京)および日本生命図書館(大阪)にて試聴 可。また,日本保険学会平成26年度全国大会で筆者が研究報告した際,会場で 録音テープを一部再生したが,当該部分をテープ起こししたものを本稿末尾に 補足資料として掲載した。
した理由は大きく2つあった。小口契約切換え運動により保険販売を早期に 立て直し,インフレ進行下の経営再建を図ることと,公職追放令の制約を受 けずに創業家出身の常務・弘世現を社長に就任させることである。以下にそ の詳細について見てみることとしよう。
① 小口契約切換え運動 による経営再建
終戦直後の経済的混乱とインフレの進行により,日本生命のみならず生命 保険各社の保険販売は極度の不振を余儀なくされた。また,生保各社にとっ て戦前から保有する大量の小口契約は,費差損拡大の原因となって経営を圧 迫した。
こうした状況下,日本生命が経営再建を期して当時立てた戦略が 小口契 約切換え運動 であったと藤本は語っている 。小口契約切換え運動とは,
既契約を解約させて解約返戻金を新契約保険料に充当し,保険金額が既契約 の10倍以上の新契約へ切換えを勧奨するいわゆる乗換契約である 。ここで,
新契約の加入先が旧契約と同じ日本生命保険株式会社のままでは,金融機関 再建整備法による再建処理の行方次第で会社がどうなるか分からないとの不 安から契約者が契約切換えに応じない恐れがあった。そこで新契約の加入先 として第二会社の設立を急いだのである。
実際,日本生命は1947年5月に第二会社を設立後,小口契約切換え運動を 積極的に推進し,それまで不振に喘いでいた保険販売は急速な伸展を遂げた。
1945年度は23億円,1946年度は40億円に過ぎなかった新契約高が1947年度は 350億円へと急増しており,経営再建のきっかけとなったのである。
②弘世家による経営権の承継
藤本談話によれば,第二会社の早期設立に踏み切ったもう一つの理由は,
8) 共済と保険(1976) 23‑26頁。
9) 乗換契約は戦前の 保険募集取締規則 では禁止されていたが,当時の大蔵 省は特別に容認し,1947年9月からは特別新契約として期限付きで制度化した。
公職追放令の制約を受けずに創業家出身の常務・弘世現を社長に就任させる ことにあった。
この点につき藤本は, 当時ぼくは,弘世さんは何も言っていないが,ぼ くと大館は,どうしても社長には弘世さんになって頂きたいという気持ちだ ったのです。というのは,弘世さんのお父さんにぼくも大館も非常に世話に なってまして,…(中略)しかし,弘世さんに社長になって頂く上で一番の 問題は追放令です。 と語っている 。
実際,公職追放令には,追放された者の三親等内親族が同一会社の同一地 位を継承することを一定期間(10年)禁じる規定があった。このため,経済 パージにより公職追放された前社長・成瀬達の実弟 である弘世現が同じ 会社の後継社長に就任することは困難となったのである。そこで,金融機関 再建整備法に基づかない第二会社を早期設立することにより,公職追放令の 制約を免れる途を求めたのである 。
仮に,金融機関再建整備法による新旧勘定の整理が完了し,公職追放令が 適用される旧会社が再建・存続 してしまうと,弘世家の社長承継への道が 閉ざされてしまう恐れがあったのである。
結果からみれば,弘世現は旧会社整理完了後の1948年6月に第二会社・日 本生命保険相互会社の社長に就任している。1947年5月に第二会社を設立し て約1年間は社長を置かず,弘世現,国崎裕の両常務が社長業務を代行した が,これは当時第二会社と併存し,多数の保有契約を抱え整理中だった旧会
10) 坂井(1999a)33頁。
11) 成瀬達は愛知・犬山城主の分家筋にあたる成瀬隆蔵の長男,弘世現は成瀬隆 蔵の六男だが,弘世助太郎の四女・芳子と結婚し弘世家の婿養子となった。
12) 共済と保険 (1976) 22頁,坂井 (1999a) 34頁。なお,坂井 (1999a) 34頁 にある 再建整備法によれば新会社なら は 再建整備法によらない新会社な ら の誤記である旨,鼎談会録音テープの内容から指摘しておく。
13) 第二次金融制度調査会は1947年2月,新旧勘定の整理により旧勘定の資本金 が全額切り捨てとなる金融機関には第二会社の設立を認める旨の答申を出して いるが,金融機関再建整備法による第二会社では旧会社の承継企業とみなされ,
公職追放令を免れない可能性はあったであろう。
社での役職(常務)とのバランスを考慮したものであろう。
⑵ 相互会社の選択理由
①第二会社の会社組織に対するGHQの見解
次に,日本生命の相互会社化に関する2つ目の疑問点である, 第二会社 の企業形態として相互会社を選択したのはなぜか について,引き続き藤本 談話から解明を試みることとする。
生命保険業界では1947年に入ると,金融機関再建整備法の第二会社方式に よる会社再建案を業界ベースで検討すべく,生命保険各社から労使代表が参 加する生命保険再建会議の準備が生命保険協会を中心に進められていたが,
日本生命は既に第二会社の早期設立に動いていた。当時の状況を藤本は,
その頃日本生命ではもう新会社でやることに決めていた。ただ新会社につ いて,株式でやるか相互にするかでは意見がわかれた。ぼくは大館君と相談 して相互会社説だった。会社の中では株式説もかなり有力だったのです と説明している。
第二会社の企業形態をめぐって社内の意見が分かれるなか,藤本正雄は GHQを訪問し,第二会社の企業形態によって弘世社長就任に公職追放令上 の問題が生じないか事前に見解を求めた。その時のGHQの見解は,第二会 社を株式会社として設立する場合,株式を旧会社の株主に従来通り割り当て たのでは,旧会社の株主の影響力が第二会社に引き継がれ,第二会社といえ ども事実上は旧会社のつくり直しである。その第二会社の社長に公職追放さ れた旧会社社長の実弟が就任するということは,明文上は同一会社(に限っ てのことである)となっていても三親等以内の親族による公職承継を禁止し た公職追放令の趣旨に照らして懸念がある。ただし,第二会社の株式を従業 員に割り当てるか,もしくは公募とするなら問題はない。また,相互会社と して第二会社を設立する場合も問題はない,という内容であったという 。
14) 坂井(1999a)33頁。
15) 坂井(1999a)34頁。
藤本が語ったGHQの見解について事実関係を確認してみる。まず,
GHQの見解で示された株式の従業員への割り当てや公募は,当時の企業再 建整備ではよく見られた経済民主化を企図した株式分配方法であった 。た とえば,生命保険の第二会社で唯一の株式会社であった平和生命の例をみる と,株式は旧株主,従業員,保険契約者に1/3ずつ割り当てられた 。また,
生命保険中央会を改組し株式会社として設立された協栄生命の例では,株式 割り当ての優先順位は旧株主(生命保険各社),協栄生命の役職員,一般公 開の順とされたが,独占禁止法の関係で生命保険会社が同業者の株式を取得 できなくなったため全株式が役職員に割り当てられた 。
一方,第二会社を相互会社として設立する場合には公職追放令の規定を準 用しないというGHQの見解は,後に弘世現の社長就任が実現した日本生命 に限らず,朝日生命や明治生命の実例によっても裏付けられる。朝日生命で は,旧会社・帝国生命保険株式会社の常務だった藤川博が1947年5月28日に 公職追放該当者の指定を受けたが,同年7月1日に第二会社・帝国生命保険 相互会社(翌8月に朝日生命保険相互会社へ社名変更)の設立と同時に常務 に就任している 。また,明治生命では,旧会社・明治生命保険株式会社の 社長であった牧野亀治郎が1947年7月9日に第二会社・明治生命保険相互会 社の発足と同時に社長に就任したが,その翌日に公職追放該当者の指定を受 け,第二会社設立後も兼務していた旧会社の社長は辞任したものの,第二会 社の社長はそのまま継続した。 明治生命七十年史 は 明治生命保険相互
16) 事業会社対象の企業再建整備法に基づく再建計画において,第二会社の株式 を割り当てる基準は,旧会社の特別損失を負担した旧株主(旧会社の持株数比 例で割り当て)を原則優先としたが,旧株主の応募額が新株発行額に満たない 場合は,第二会社の従業員,次に会社が所在する都道府県の住民,最後に一般 公衆へと割り当てられた〔竹前・中村(1999)34‑38頁〕。
17) 実業の世界(1948) 31頁。
18) 協栄生命史稿 101‑102頁。
19) 内閣府内にある公職資格訴願審査委員会に対して藤川博の追放解除の訴願が 行なわれ,藤川博は1948年5月に公職追放を解除された( 朝日生命 十年史 127‑128頁)。
会社社長の職には影響がなかった と説明している 。
②労働組合運動の影響
藤本談話によれば,藤本からの帰社報告でGHQの見解を認識した日本生 命の経営陣は,第二会社の企業形態として相互会社を選択する決断を下した という。その決め手となったのは,経営陣が労働組合を警戒していたことに あった。第二会社を株式会社として設立する場合,GHQが提示した株式の 割り当て方法では,従業員すなわち労働組合側が相当数の株式を保有する可 能性があり,労働組合から取締役を出すなど労働組合による経営介入が強ま ることを経営陣は危惧したのである 。第二会社の企業形態として株式と相 互のいずれを選択するか,その分水嶺となったのは当時の労働組合運動だっ たのである。
経営陣が労働組合に対して警戒心を抱いていたことは,1946年4月4日に 突入し7月10日に終結をみた生命保険業界初の労働争議(いわゆる 日生争 議 )を考えれば明らかであろう 。国崎(1983)には,課長会が本店従業 員組合に合流するに至ってからは,特定の常務や部長など経営幹部の排斥を 経営側に申し出るなど,組合の要求が経営管理の領域に及ぶほどエスカレー トしていったと,当時の労働組合運動が待遇改善にとどまらず経営介入の様 相も呈していたことが記されている 。
また,日本生命労働組合発行の 日生労組20年史 にも,組合が最後まで 固執してきた 人事問題については,6月28日に,常務取締役一名が辞任,
他の一名が監査役に転任し,7月1日の組織の大改正にともなう人事異動に おいては,幹部追放の対象であった財務部長,経理部長,人事部長の三部長 が各々調査役に名古屋支店長は参与になり,第一線からひき下がることによ 20) 牧野亀治郎も1948年5月に公職追放を解除された( 明治生命七十年史 98‑
99頁)。
21) 坂井(1999b)28頁。
22) 日本生命七十年史 157‑158頁。
23) 国崎(1983)18‑21頁。
って落着することとなった。ほぼ組合が要求していた線で収束されることに なったわけである と記されており,日生争議により経営側が当時受けた 傷の大きさを伺い知ることができる。
⑶ オーラルヒストリーとしての藤本談話の信憑性評価
続いて,藤本談話の信憑性評価をオーラルヒストリーの観点から行う。
まず,藤本談話には,年月の経過による記憶の劣化からか,数値面での誤 り(支部数など)が所々に散見される点は指摘しておく必要がある。
また,藤本が1955年に開催された業界誌インシュアランス主催の座談会で 語った内容では,第二会社の組織についてGHQで最初に相談したのはマク リーン(ロイストンの前任の保険監督官)だったが ,1976年の藤本談話に 登場するのは終始ロイストンである 。実際,藤本が当時GHQで第二会社 の設立交渉をしていた相手は大半がロイストンであったはずだが,前任者の マクリーンが応対する場面もあったようである 。いずれも年月の経過によ る記憶の劣化によるものと考えられるが,話全体の構成に影響するものでは ない。
以上のように,藤本談話には幾つかの気になる点が認められたものの,そ れらは藤本談話の信憑性を損なうまでには至らない。さらに,本稿でこれま で検証したように,藤本談話の内容には,金融機関再建整備法,公職追放令,
労働組合運動など当時の日本生命を取り巻いた諸状況に照らし合わせても,
特段の齟齬は見当たらない。オーラルヒストリーの性格として,直接の当事 者であっても発言者の記憶違いや思い込み,または作為による事実相違の可 能性を完全に排除することはできないものの,藤本談話の信憑性は相当に高 い水準にあると現状では評価できよう。
24) 日生労組二十年史 38頁。
25) 生保の戦後十年史 40‑41頁。
26) 坂井(1999a)34頁および坂井(1999b)28頁。
27) 日本生命百年史 下巻26頁。
最後に,上述した藤本談話の信憑性評価は,あくまで藤本正雄が直接の当 事者として関与した日本生命の相互会社化に関する発言だけを対象とし,藤 本談話の中に登場する他生保の相互会社化に関する発言は対象外である旨付 言しておく。
Ⅴ.他資料にみる日本生命の相互会社化
⑴ 先行研究:米山(1997)
ここで,日本生命の相互会社化について分析した稀少な先行研究である米 山(1997)を取り上げて考察を行う。米山(1997)は,日本生命が相互会社 方式による第二会社設立の先鞭をつけた理由として,①日生争議により旧経 営陣が退陣することによって,従業員参加型の経営に変化し,相互会社方式 による第二会社設立に抵抗が無くなっていたこと,②第二会社の設立は,会 社存続のために必要な法的手段であるばかりでなく,生命保険販売にとって 重要な戦略的決断であったこと,の2点を挙げている 。
上記①については,経営陣の労働組合に対する警戒心が相互会社選択の理 由であったとする藤本談話と全く相容れないものである。そこで,日生争議 終結後から第二会社設立申請までの間に,果たして米山(1997)がいう 従 業員参加型経営 に日本生命が変化していたのかどうか確認してみよう。前 述の通り,日生争議終結は1946年7月10日であり,そこから約7ケ月後の 1947年2月12日に日本生命は大蔵省保険課に第二会社設立計画の内伺いを提 出している。この間に起きた労使関連の動きを 日生労組20年史 から確認 してみると,まず天竜寺事件なるものが発生している。支部長給与を内勤待 遇から能率給に改正しようとする会社側の動きに対して反発した支部長達が,
京都・天竜寺に全国から集結し,会社側と11月10日から3日間に及ぶ協議を 経て会社案を撤回させた事件である。
また,1946年12月7日には日本生命従業員組合連合会が正式に発足し,本 店従業員組合と全国各地に散らばる従業員組合との連携強化が進む一方,同
28) 米山(1997)55頁。
年12月15日には同連合会と会社との間で,経営協議会の設置や幹部人事(部 課長,店社長,次長等)の組合同意を謳った労働協約が初めて締結されてい る。
こうした動きをみれば,米山(1997)がいう 従業員参加型経営 とは労 働組合側の視点であり,一方の藤本談話に出てくる労働組合への警戒心とは 経営者側の視点であるといえる。第二会社の組織選択において事実上の決定 権を有していたのは経営者側である以上,藤本談話の方に信憑性があると言 えよう。
⑵ 社史研究: 日本生命百年史
続いて,日本生命が編纂・発行した社史において,戦後の相互会社化はど のように語られているのだろうか。日本生命の社史の中で質・量ともに最も 評価が高いとされる 日本生命百年史 を取り上げてみると,以下のように 概ね整理することができる 。
①第二会社の早期設立理由
a. 昭和21年半ばから再建方法を検討する各種委員会が社内で開かれ議論 を重ねていた。
b. 旧勘定への政府補償が不可避と予想され,かつ,費差損の解消が急務 とされるなか, 完了日の明確でない再建整備法にのっとる第二会社 設立を泰然と待っているわけにはいかなかった。
②相互会社の選択理由
c. 旧会社創業時は,保険業法で相互会社を認めておらず,やむなく株式 会社組織を採用した。今回の第二会社設立にあたっては, 本来のあ るべき姿に立ち返り ,相互会社にすべしとなった。
d. 大株主側の経済的苦境による出資困難
29) 日本生命百年史 下巻21‑26頁。
まず,①について見解を述べる。占領下という非常事態において,GHQ の意向を踏まえた金融機関再建整備法に基づく経営再建の枠組みからひとり 逸脱するということは,当時としては相当に大胆かつリスクの高い経営判断 を伴うものであったと考えられるが,①の内容はそうした経営判断に値する 切迫感が足りない。金融機関再建整備法による経営再建プロセスに乗ってし まっては弘世現への社長承継が途絶えるといった,藤本談話にある緊迫感が 弱いのである。社内での再建策議論や莫大な費差損の状況などは他生保にも 見られた事象であり,早期設立に踏み切る必然性が今一つ釈然としないので ある。
次に,②について見解を述べる。旧会社創業時の保険業法は相互会社を認 めておらず,当時はやむなく株式会社で創業したという内容は,戦前の日本 生命歴代社長が述べた創業に関する説明と矛盾している。第三代社長・弘世 助太郎は,1929年発刊の渋沢栄一他編集 明治大正史・第9巻(産業編) に所収された 我國生命保険発達史 と題する論文で,旧会社創業の経緯に 触れている。そこでは,会社の利益のみに走り易い株式会社とせず,さりと て,基礎の安定を欠き易い相互組織をとらず,両者の長所を併有する 混合 組織 として,会社に利益のあった場合は加入者にも配当せよ,との藤沢利 喜太郎・東京帝大教授の注文を,日本生命創立の趣旨から 頗る當を得た事 として承諾し,日本人対象の生命表(藤沢氏第二表)の作成を藤沢に依頼す るに至った旨が記されている 。ここで肝腎なことは,旧会社が標榜した混 合組織とは相互会社をも否定した概念であったという点である。さらに,混 合組織については第四代社長・成瀬達も論文で言及している 。これらの事 実から,旧会社創業時に本来は相互会社を望んでいたとの百年史の記述は,
根拠を欠くものと言わざるを得ない。
なお,②のd.はいわゆる旧株主層の弱体化説であり,財閥系生保の相互
30) 弘世(1929)11頁。
31) 成瀬(1938)106‑107頁。
文のとこ
本 ろの上付きが入るため強制送りします
会社化を分析した拙稿 で既に批判しているので本稿では割愛する。
Ⅵ.日本生命の相互会社化を実現可能にした背景
⑴ 第三代社長・弘世助太郎の幹部人材育成
日本生命の中興の祖と称される弘世助太郎は,1920年頃から学卒者の定期 採用を始めるとともに,将来の経営幹部候補生を欧米大学への留学や欧米保 険会社での研修に派遣し,20代のうちから本店の管理職(課長)や地方の支 店長(現在の支社長に相当)に登用,権限と責任を与えて鍛えるという大胆 な幹部人材育成を実施した。1923年に東京帝国大学経済学部を卒業し,国崎 裕,児玉巌(後の弘世巌)とともに日本生命に入社した長尾春雄は,弘世助 太郎のこうした人材育成を反映して当時の20代,30代若手幹部社員の仕事に 対する情熱や意識が非常に高かったことを述懐している 。
終戦後まもなく38歳の若さで業務部長という中枢ポストに就いた藤本正雄 と,同年代の保険計理人・大館義雄が,日本生命の相互会社化という大仕事 を立案・実現し得た要因として,彼らの卓越した能力のほかに,弘世助太郎 の特色ある幹部人材育成があったことを見落としてはならない。
⑵ 藤本正雄とロイストンの関係
GHQの意向を踏まえた金融機関再建整備法に基づく経営再建という既定 路線から外れることは,占領下という当時の状況を考えると非常に大胆な行 動であったが,それを可能にした一つの要因として以下を指摘しておく。業 界誌 インシュアランス (昭和25年9月14日号)の近畿総局長・村上常一 記者による署名記事に, 幸にロイストン氏は藤本氏がアメリカ留学中の同 窓だった。(中略)…ロイストン氏とは直ちに十年の自己となり,自然相互 の意思はよく通じた と記されている 。終戦後に進駐軍の将校として勤務
32) 黒木(2014)109‑110頁。
33) 長尾(1978)18頁。
34) 藤本の留学当時,ロイストンは大手保険会社トラベラーズ(本社:コネチカ
した経験を有し,ロイストンと旧知の間柄であった藤本が,GHQとの交渉 において,他生保の担当者に比べ遥かに有利な立場にあったことは容易に想 像できよう。金融機関再建整備法に基づく既定路線から外れるというセンシ ティブな交渉も両者の関係があればこそ可能だったと考えられるのである。
⑶ 労働組合運動めぐる GHQのスタンス
GHQは占領当初,労働組合運動を日本国民に民主主義を根付かせる手段 と捉え,ホイットニー少将が率いる民生局(GS)が中心となって積極的に 推進した。当時の労働組合の一部が過激な運動を展開し,企業経営者に脅威 を与える事例が国内で相次いだのはこうした事情による。一方,米ソの対立 が深まり,米国内で反共産的な風潮が高まる1949年頃を境に,労働組合を巡 る環境は大きく変化した。すなわち,GHQ内部で反共産主義的なウイロビ ー少将が率いる参謀第二部(G2)が次第に権力を握り,民生局が積極推進 した労働組合運動の穏健化を図る政策を遂行していったのである。
日本生命の相互会社化とは,まさにGHQの後押しを受けて労働組合運動 が非常に活発化した終戦後わずか数年間のうちに起きた事象であったことを,
認識しておく必要があろう。
Ⅶ.おわりに
日本生命の相互会社化は,既述したとおり,戦後の経営再建にとって極め て有効な施策であったことは,第二会社設立後の驚異的な業績回復をみれば 疑う余地はない。それを,弘世家による経営権承継というもう一つの重要目 的とともに実現に導いた藤本正雄と大館義雄の功績と貢献について,本来で あれば,わが国保険業史においてもっと正当な評価,認識がなされてしかる
ット州ハートフォード)に勤務していた。藤本はペンシルバニア大学院のほか に ハ ー ト フ ォ ー ド に 当 時 あ っ た 生 保 販 売 研 究 所(Life Insurance Sales Research Bureau)にも通って学んでおり,恐らく両者は同研究所で知己を 得たものと推測される。
べきとの感を抱かざるを得ない。
一方,金融機関再建整備法により粛々と経営再建を進めた銀行業界に目を 転じると,住友銀行と三菱銀行が増資(8億5千万,9億円)を経て新行名
(大阪銀行,千代田銀行)で戦後経営のスタートを切ったのは1948年10月で あり,日本生命の第二会社設立(1947年5月)と1年半近い時差がある。日 本生命が同じ経営再建の途を辿ったならば,この間に営業職員チャネルは更 に弱体化し,戦後の経営再建は困難を極めただろうことは想像に難くない。
また,日本生命が相互会社化の先陣を切ったことにより,相互会社選択の 理由に違いはあっても,相互会社化に追随した会社が相次いだことは,1949 年度から全社で契約者配当が再開された事実が如実に示すように,わが国生 保業界全体の早期健全性回復にも寄与した。その意味では,藤本と大館は生 保業界全体に対しても間接的貢献をしているのである。
藤本談話を通じて知る日本生命の戦後の相互会社化は,終戦直後の様々な 厳しい制約条件のなかで,経営再建と経営権の承継という2つの目標を実現 させる唯一の選択肢であったことが本稿により確認された。その一方で藤本 談話は別の視座,すなわち,日本生命の相互会社化は果たして相互会社理念 が主たる要因でもたらされたものだったのかという疑問を解く鍵も提供して いる。戦後の相互会社化と,戦後の相互会社経営形骸化の関係性については,
別の機会にあらためて論じることとしたい。
(筆者は名古屋商科大学教授)
<主要参考 献>
国崎 裕(1983) 日本生命外史 保険研究所。
黒木達雄(2014) 財閥系生保の戦後の相互会社化―GHQ指導説の検証― 保 険学雑誌 第624号,103‑122頁。
坂井幸二郎(1999a) 時言月評 保険史散策⑦―人と歴史を訪ねて― 共済と保 険 第41巻第7号,32‑34頁。
坂井幸二郎(1999b) 時言月評 保険史散策⑧―人と歴史を訪ねて― 共済と保 険 第41巻第8号,28‑30頁。
竹前栄治・中村隆英監修(1996) GHQ日本占領史 第6巻 公職追放 日本図 書センター。
竹前栄治・中村隆英監修(1999) GHQ日本占領史 第40巻 企業の財務的再編 成 日本図書センター。
長尾春雄(1978) 一生保社員の回想 第12回 インシュアランス 第2860号,
18‑19頁。
成瀬 達(1938) 我社の創業と藤澤博士 東京帝国大学理学部数学教室藤沢博士 記念会編 藤沢博士追想録 99‑115頁。
弘世 現(1988) 私の昭和生命保険史 東洋経済新報社。
弘世助太郎(1929) 我國生命保険発達史 渋沢栄一・三宅雄二郎・鎌田栄吉監修 明治大正史・第9巻(産業編) 実業之世界社,1‑39頁。
米山高生(1997) 戦後生命保険システムの変革 同文舘。
C.A.ウイロビー(2011)延禎監修・平塚柾緒編 GHQ知られざる諜報戦―新版・
ウイロビー回顧録 山川出版社。
協栄生命保険株式会社編(1963) 協栄生命史稿 。 日産生命保険相互会社編(1989) 日産生命80年史 。
日本生命保険相互会社編(1992) 日本生命百年史(上巻・下巻・資料編) 。 日本生命労働組合編(1970) 日生労組20年史 。
農協対日本生命の協約前後―藤本正雄氏が語る その頃 共済と保険 第18巻 第4号,1976年4月,18‑41頁。
外野における再建十年(座談会) 生保の戦後十年史 保険研究所インシュアラ ンス編集部,1956年,37‑79頁。
契約者奉仕の精神で貫く平和生命の新組織 実業の世界 第45巻第8号,1948 年10月号,31‑32頁。
補足資料
鼎談会 農協対日本生命の協約前後〜藤本正雄氏が語る その頃 〜
<以下は, 共済と保険 第18巻第4号(1976年4月発行)に掲載された鼎談会議 事録から日本生命の相互会社化に関する中心部分(23頁)を抜粋し,そこに坂井 幸二郎氏所有の鼎談会録音テープから藤本正雄氏が語った未掲載部分(下線部分)
を追加して,鼎談会で藤本正雄氏が実際に語った内容を再現したものである。>
相互化と 大義名分
藤本 ただ,新会社について,株式でやるか相互でやるかで意見が分かれたんで す。ぼくは大館君と相談して 相互会社 説です。会社の中では大分株式説も有 力でした。しかし,その時 相互 でやるという大義名分は生命保険事業の民主 化のためには,従来のように一にぎりの資本金を出しておけば,大きな契約高と 大きな資産をにぎれるような事業…(中略)…,そういう状態じゃいかん,やは りお客様の会社にしなければいけないというのが大義名分です。
…(中略)…当時実は,これは弘世さんがおっしゃったわけではないが,僕と 大館の気持ちとしては,どうしても弘世さんに社長になってもらいたいという考 えが非常にあったんです。というのは,弘世さんのお父さんに僕も大館も非常に 世話になってまして, 催眠術入門 の日生事件のときにも書きましたが,非常に 世話になってまして,どうしてもあとは弘世さんになっていただきたいと。しか し,それになっていただく上で一番問題となったのは追放令です。弘世現さんの 実兄が成瀬達さんですね。成瀬達さんが社長をしておられたその会社を,弘世現 さんがそのまま継ぐことは,三親等内の親族が前者の占めていた地位を占めるこ とはできないというのが追放令にありますから,もちろん兄弟ですから二親等で すね。社長をしておったところでは社長を出来ない。同じ会社だったら当然出来 ない。しかし,新会社ですからね,再建整備法によっていない新会社だから出来 るはずだけど,株式会社でやった場合は,旧株主に株式を割り当てますから,前 の影響力がそのまま残っている会社です。新会社といえども,また新しい日本生 命保険株式会社を作って,株主はというと前の株主に同じ割合で割り当てる。そ うすると,影響力が残っているから,果たしてその場合,追放令を準用して弘世 さんの社長を認めない,これは追放令違反だということを言われるかもわからな い。これは僕と大館が勝手に心配したんです。会社から言われたわけではないで すけどね。
それから僕はこっそり,ロイストンの僕はアドバイザーみたいなことを事実上 やっていましたから,保険監督官のロイストンに聞いたんです。株式でやった場 合,ロイストンさんどうですか,弘世さんは社長になれますかといったら, 政治 問題は俺にはわからん,それだったら政治部に聞いてやる といって,政治部か
ら中尉が来ました。その人とロイストンと三人で 大館は???やっている
(聞き取り不能) 話し合ったんですね。そうしましたら政治の方から来た人が それは危ない と言うんですね。やはり 新会社といっても事実上前の会社の作 り直しだ と。そういう株式の割り当てをやるのであればね。 新しい全然新会社 で,その株式を公募したり,従業員にみな割り当てたりするのなら別だ と。
前の株主に渡したのでは引き継ぎだ と。 そこで兄さんの持っていた地位を占 めるというのは,明文では同一会社となっているけど,事実上前の会社の引き継 ぎだ,これは危ない と。 株式を従業員に持たせるとか,とにかくそうでない公 募するような方法を考えてみろ と。それから僕は相互会社だったらどうでしょ うかと言ったら,その中尉さん,相互会社はわからないですよね。ミューチュア ル・カンパニーと言ったんですが, ミューチュアル・カンパニーって何だ? と 言うんですね。それからロイストンがいろいろ説明して, 生命保険には相互会社 というのがあって,加入者が重役を選ぶのだ,全部投票して選ぶのだ と説明し たら,株式だって公募したり従業員に株式を割り当てたら構わないぐらいですか ら,加入者が選ぶ 実際は会社が選びますわね,ご承知のとおりで。加入者が 選んだりしてないけど,その人は政治部の人で素人ですからね。法律家です,中 尉といっても。 それなら何も問題はないから,弟さんが社長になるのはお構いな しだ となりました。
帰って会社でそういう話をしまして,僕がちょっとその筋で確かめたところに よると,相互会社であれば絶対大丈夫,株式なら公募しないといけないと言った ら, そんなの公募してやったら⎜⎜ …(中略)…非常に組合を警戒していまし たからね。公募するとなると,従業員に株を渡さなければならなくなる。そうす ると組合が相当な株数を持つ。そうなったらもう,重役なんて組合から出したり,
そういう形になってこれはえらいことだと。それなら,相互会社はお客さんなん ていうけど,理事者が実際上選べるんだから相互の方がいいという話に実際なっ た。しかし,それは内輪で,いよいよ発表するときは大義名分で, 生命保険事業 の民主化をこの際断行する と。
そこでぼくはこのことをロイストンに相談したんです。そしたら, そりゃいい,
事実アメリカのメトロポリタンだってプルデンシャルだってもとは株式会社なん だ,港を出るまではどんな危険があるかわからないから資本金が要る。港を出て 大洋に出てしまったら資本金なんかいらないんだ。もう日本生命も株式会社でス タートしてこれだけ基礎が出来,建物はあるし従業員もおるし,すでに古い管理 者 もそれだけおるんだから,ここで再出発するなら相互会社で危険なく出発す るんだから,大義名分も立派に相互会社でやった方がいい ということになり,
それで相互会社でスタートしたわけです。
35) 録音テープでは 加入者 と聞こえる。