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豊後日田における商人資本の性格について
原
田敏
丸
は し が き 近世封建肚會の基本的矛盾の一は混晶流通の嚢蓬によって、更にはそれを媒介として蓄積された商人資本の磯展によっ て展開された。その末期に湿ては農村にも商人贋の拾頭が若干見られる地方もあるが、然し蚕体として見た場合、徳川時 代の商人は封建領主の居城を中心とした城下町叉はその近隣に蝟集して成長した。この点に近世商人の一つの特徴を見出 すことができるのであるが、その獲展の契機も近世の封建制そのものの申に認めることができる。それは豊臣秀吉による 天正十六年の刀狩令及び天正十九年の身分韓換を禁じた掟を劃期とする兵農分離の原則である。農民は武器を上牧されて 武士たる事を欝なくなり、ここに武士身分と農民身分が夫々固定する事になった。かくて中世の大名は個別的小ま地領有 武士團を支配していたが、近世の大名の從えた封建家臣團は城下町に集住せしめられて浩費郡市を形成するに至った。彼 等は最初は領内に知行地を分與された場合もあったが、次第に扶持米取即ち俸緑生活者となった。このことは近世の魯封 制度と壷飾つ、て武士自らが直接生産より離れたばかりでなく農民との聞のつながりを登く消失せしめた。即ち農民によっ て代表される直接生産者と、封建家臣團によって代表される消費者との分離が身分的にも、封建的土地重心に於ても、將 豊後日田における商人資庵の性格について 三七豊後日田における商人資本の性格⋮について 三八 叉現實の生活の場所に於ても就會体制として確立されてきたわけである。而も一方に純至上階級となった武士が城下に集 められ、それだけに從來以上の高度の農業生産力が必要となったのであるから、この爾者間の商品流通の媒介者として商 人暦が封建献會の内部に而も城下町の商人として一つの就會階級を彩成し得る基礎を得た。石敷近世の場合は特に鎖國に よって外國貿易を欠除したために、このような國内的契機がその爽展を可能ならしめた主たる要因として考えられるので ある。 こうして本坑近世封建体制そのものの中に、成立細謹の本質的契機を持ち得た近世の商人資本は近世の封建的政治機構 に寄生する事によって著しく爽廉し得た。そして封建的政治機構を支えている封建槽力は商人資本が封建的政治機構の蓮 馨のために有用である限り彼等商人資本の三七に細し保護干渉を加えた。然し商人資本は一面に於てかかる封建的政治機 構への寄生的性格を持ち乍ら、他面封建的経濟機構に偉してはこれを切崩して行くという非封建的性格をも併せ持ってい る。封建飛會における商人資本は多かれ少かれこの裏面の性格を持っているといえる。その狽溺は夫々の庫入資本によっ て異るし、叉時期によっても異る。商入資本のこの爾面の性格の如何はその封建飛禽の構造に左右されると共に、その商 人資本の本質的な一面を示すものであり、その焚展の仕方を決定する並な要因でもある。ここでは特殊な一事例であり、 この問題に封ずる史料が不充分な爲、その一側面を窺うに過ぎないのであるが、幕府郡代の支配下にある豊後國日田幕領 の地方的な商入資本の性格について、具体的に考察してみょう。 二 商人資本の封建的性格 九州地方の幕領は主に豊前・豊後・筑前・肥後・日向等の尚且に散在していたが、これらの管轄は豊後國日田にあった 日田代官︵費暦年聞より郡代︶に屯していた。從って日田にはその代官の役所を中心として私領における城下町に相貢する
● ● 都邑が獲達した。即ち豆田・隈の爾町である。元亨この爾町もその起源を辿れば夫々封建領主の居城を左心に成立したも のであった。豆田町については﹃日田歴史﹄によれば慶長六年﹁玖珠日田一万石﹂に封ぜられた小川早書が月隈の地に城 ① を築き,これを丸山城と名付け、﹁此時友田村ヨリ小許ノ入家ヲ移シ、城ノ南方二三マシム、之ヲ丸山町ト云フ﹂とある。 この丸山町がその後元和年間に至って豆田町と改名したのである。また隈町については同じく﹃日田歴史﹄に、 ﹁文緑三 年代官宮木長次郎來リテ、 地ヲ日ノ隈山二相シ、 其ノ頂上二亀翁山沿光寺ト云騨寺アリシヲ、 へ’ノ隈町天満⋮宮ノ傍二移 ② シ、其ノ男臼城ヲ築キテ五二居ル、此ノ時田島村ヨリ人家ヲ移シテ、城下二心マシメ隈町ト號ク﹂と記されている。この ように近世初期,における豆田・隈爾町の成立事情に於て既に封建領主との楚腰淺からぬことがわかる。その後日田郡が徳 川氏の直轄領邸ち所謂旧領となって、幕府の代官が月隈に ,︹第一表︺ 元文四年豆田町職業分化表 ︵軍位 軒︶ 役所を開設したことによって、この豆田町と隈町とは一般 主 業 者 延從事 象業者 職 業 二業のみの証に蒙業有︷計 姦
其手商手農
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一他稼業業業
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三三 憂 奏 呂︵ δ 昌二Z
一力六」〇七
五〇 六三 一一O
看 = ∼ 億考 便宜上各軒別の乱頭に揚げられた家策を害骸戸の主業ピ見徹して集計し需。 豊後日田における商人資本の性格について に豆隈爾町と併稻され、私領における城下町に相野する都 邑、いわば陣屋町として成長した。 徳川時代を通じてこの爾町は主として商業都市として獲 写したものの如く、徳川中期元文四年における豆田町﹁軒 別渡世家業書上帳﹂︵廣瀬家文書葛N︶によって當時の職業分 化の状態を表示すれば第一表の如くである。 即ち豆田町の総戸数二二〇軒の中孚数に近い九六軒は商 業を主として家業となせるものであった。 この繭町に生成した商人暦の中特に亘大な一本を形成し 三九豊後日田に診ける商人資本の性格について 四〇 得た者は郡代の御用達、ここでは掛屋として所謂磁器・掛屋の機能を果した諸商人である。即ち千原︵丸屋︶・廣瀬︵博多 屋︶爾家をはじめとして手嶋︵伊豫屋︶・草野︵升屋︶・山田︵扇屋︶・森・俵屋等がある。彼等一群の掛屋商人が掛屋の機能 を充分に爽評したのは徳川中期以降であると思われるが、千原家は慶長年譜筑後より豆田に移り來り、そこで領主より賜 ③ わった若干の土地を基本として牛地主的な農業を螢み、傍ら醤油・油等の製造販費を象ねたものらしい。更に元緑十五年 の千原家丈書中には當時同家が酒造販資をも象螢したことを示す酒⋮場質入証文がある。一方廣瀬家についても同家二世源 兵衛は前掲の豆田町元文四年﹁軒別渡世家業書上帳﹂によると、
噌酒頭司仕協
源
兵 徳㊥
となっている。酒頭司は酒杜司であって、一般には酒造勢働者の謂であるが、ここでは恐らく販費をも象ねたものであろ う。かくて廣瀬家は當時既に酒造販費を螢んでいたことがわかる。これら商業経誉と掛屋役を命ぜられたのと何れが先で 何れが後であるかについては不明であるが、何れにしても日田の商入の中で特に大きな資本を蓄積し得たものは掛屋衆で ④ あったことは間違いない。このことは一般に財産の大小に比例して徴せられた上納金額にも表われている。五七元年豆田 町の﹁上納金御講書﹂︵廣瀬家文書ホN︶によると、総上納金諾約六千爾の中五千百爾は草野・廣瀬・丸屋・手丸の四掛屋商 人から出ている。以て他の町人に比して掛屋商人の繁榮を知るに足る。 それでは何故に御用達掛屋を命ぜられた商人はかくの如く資産を積み得たのであろうか。その理由は主として年貢銀上 納に係っている。即ち彼等掛屋購入達の致富の根櫨は年貢銀上納という封建的政治機構に寄生したものである。年貢銀上 納に關する掛屋商人の資産蓄積は直接的及び聞接的の二に分って親察され得る。先ず直接的には年貢銀の髪洗賃による牧 入である。明治元年四月蕾日田御役所附の役人より從來の申逡事項を書記して日田縣へ引纏がれた﹁辰四月申邊書﹂︵廣瀬 家文豊︶によると、﹁御年貢銀取立濫悪納當日掛屋心落關え罷野村々より致持参候を及掛改取立來申事﹂とあって、掛屋が ● 6年貢銀を一々掛改めていたことが明らかである。その手製料たる掛改賃については同じく﹁申斗星﹂に、 ﹁掛改賃之儀出 張陣屋附先年は年々に有之候得共近年一統日田陣屋軽羅様取極限堂貫目に粒銀三匁つ、に而云々﹂と記されていて、年買 銀萱貫目について銀三分宛の割合であったことがわかる。常将領は山間の盆地で水田少く、商業的農業による貨幣牧入に ⑤ よって年貢銀納を許されている地域もかなり暑く、且叉畑方は一般に石代銀納を認められていた︵﹁申醍醐﹂︶。その爲年貢 銀総額も毎年相當額に達し忙ものと思われ、慶慮二年で銀﹁四千式幽囚拾製品﹂余に達した︵同上︶。從って掛改賃も毎年 銀魚貫威百匁以上になった。尤も幕末にはこの掛改悟の下渡が円滑に行われす、明治四年には文久二年より慶慮三年迄六 年聞の黒印賃下渡を要求して、奮掛屋連中から日田縣御役所宛願書が提出されている。これによると右年間の﹁御年貢銀 井上金掛改賃﹂は﹁合金七百三拾三爾気百五拾七文七分﹂とある︵千原家文書﹁願署井諸書物控﹂︶o 次に年貢銀上納は間接的にも彼等商人に利した。何故ならばこの地方は土地が狭陥で田畑乏しく、その爲年貢米は隣端 にての買替納を余儀なくされており、この事情が極端な南部山聞地帯では年貢銀納となっていた程である。從って貨幣を ⑥ 獲得する必要に迫られて古來多くの産物を産出した。寛政九年森春樹の著した﹁日田郡志﹂上巻にはその産物品目を、 がんひ 紙 類 杉原、廣形、牛紙、申折, 題紙、 ” 此外いろく有、 栖隅草類 庄手村の内、日の隈尤名琵也、乙尾煙草は、 馬原村の内より出す、大山煙草は、大山筋より出る、 苧、葛粉、蕨粉b天瓜粉、百合粉、茶、竹の皮、木綿縞類、蠣、漆、蜜、鶏卵b地黄、 ︵以下略︶ 等と傳え、叉隈町の農家に生れた農政學者大営永常はその著﹁廣釜論難考し︵弘化元年成稿︶に各品目の数量を詳紬に次の 豊後日田にむける商人資本の性格について 四一
豊後日出における商人資本の性格について 四二 如く記している。 豊後國は由の多き方の國にして、昔より地頭の御世話ありし事なけれども、日出︸郡にで年買地にあらざる不毛の地より上り高一ケ も ね も 年をならし武萬五六千両飴もあがる也、先づ日田郡斗りの礒物を左に記す也。 山野井畑の畔に出來の分 、 一紙 類 凡四千五百丸 但一両六拾EH ・ 代凡銀五百貫目 此金八千三百三拾両壼歩ト五匁 一楮皮 凡三千抱 但一抱五貫目 代凡銀六拾貫目 此金千両 但一郡にての出來高凡戴萬三千抱の丙気萬抱は紙に漉立て、残bの三干 抱也。 此分他國へ出し候。 . 一材 木 凡三千艘 但筏数 代凡銀武百五拾貫H 此金四千百六拾六両二歩二朱トニ匁五分 一竹 凡五百艘 但筏数 代凡銀拾貫目 此金百六拾六両武分二朱トニ匁五分 一櫨實 代凡銀式百七拾貫目 此金四千五百両 一椎 茸 百 箱 但叫箱拾貫H入 代凡銀百貫目 此金千六百六拾六両威歩二朱トニ匁五分
一葛揚 干 俵 但四斗入 代凡銀四十貫HR 此金六百六拾六両威歩r二朱トニ匁五分 き くらび 一木茸 拾 箱 代凡銀拾五貫目 此金戴百五拾両 一蕨 粉 百五拾俵 但四斗入 代凡銀七貫目 此金百拾三両ト四匁 一五倍子 八千斤 但唐目 代凡銀拾貫目 此金百六拾六両二歩二朱トご耳垂分 一秩苓 五千斤 代凡銀五貫目 此金八拾三両壼歩ト五匁
雇蜜 .四千斤
代凡銀四貫目 此金六拾六両武歩二朱ト武匁八分 噌生漆 代凡銀六貫目 此金百両 一竹皮 四萬貫目 代凡銀五拾貫目 此金八百三拾三両ト壼匁二分五厘 一山蘂種子 凡三百石 野山等をやき、その後に蒔て生だる菜種子也。 代凡銀武拾四貫目 一年 魚 あゆの魚 凡三千荷 豊後日田における商人資本の性格について . 四三豊後日田における商人資本の性格について 代凡銀三拾五貫目 此金五百八拾三両壼歩卜五匁 但仲秋梁にて取牧候分なり。 此外三四月よ・9九月霧猟候分は、 其分限不知⋮。此分凡三四千荷も可有之か。
此代銀享三頁拾七吾麗羅算頚矯
此外二 檬欄 串柿 桑白皮 干筍 厚朴 煩硝 鶏卵 和藥種品々 此品≧大坂其外他領江出し費梯ひ申候。就中玉子は凡銀 五七貫目可腐之候。 此金百拾六両煎分戴朱ト武心双五分 左之三口は畑之御年貢地より上り候分一煙草罐 細雑所
代凡銀百貫目 h苧 凡三千五百貫日 代四拾貫目編 くb讃額杁
代凡銀百威拾霞目 一二口〆二百六拾貫臼 此金四工一一二百三拾威両萱歩卜五匁 合千六百四拾七貫目 此金気萬七千四百五拾両 四四、 、 も 、、 、 、、 、、⑦ 右者年々一郡之内より出候産物也︵傍点筆者、以下同じ︶。 大字七戸は産物慣格縛額を二万五六千爾余、叉は二万七千四百五十両と計算している。ところが﹁千原日記﹂によると安 も し も も カ セ も も 政三年十二月九日の記事に﹁一体當地塁儀は諸母物他國へ萱出シ細分凡七万両内外も円田御座云々﹂と記されている。大 藏永常の計算は明記がないので聯か憶側にすぎるかもしれないが、領内における買幽々格、 ﹁千原日記﹂の記載を領外へ ⑧ の移出慣格であるとすればこの両史料の成立年代の間にはさほど物債水準の隔りがないようであるから、その聞にこれら 諸産物を取扱う商人の莫大な利潤を大凡推察することができる。 さて然らばこのように多量に産出される諸産物が具体的には如何にして年貢銀上納に役立つたか、弘化四年五月の豆 田・隈爾町より日田御役所宛の願書についてみよう。 豊後國日田郡之儀御年貢米は江戸長崎江御積廻御年貢銀は大坂御金藏納被仰付米金共於庭屋後彿無御座協威右は山熱海邊遠之所柄二 も も し し も ロ も も も も も カ カ セ も む も も もコリ も も し も も も も カ 而御高∂入線多無蓋重科高免労青米は買替納不労願所而はド方夫品等年々不足仕又御年貢銀之方は諸置物近國江直面代金取入上納可 わ も む も も も セ も セ も も ロ も し も し カ ね へ ち も も カ も も も も も も も 仕庭村方手限諸産物費痛酷來兼怖面付豆田隈両町二而引請渡世仕來若取計不行屈節は米金共不融通二而御上賄方差支相成殊更不熟 カ も も も し ち も も も も も も わ も も も も も も も 等之年弱二は蓮邊不辮利之場所柄F方一統如何檬之難澁可相成も藤縄御座は筑前筑後豊前等之國≧一一而年々買替納奉願爽産物は楮苧 し も も も も も ね も も も も ゐ も お も る も も セ コ ね も ね も あ も 煙草葛竹皮諸芸類日田玖珠両郡5理智近國汀費梯代聖上入御年貢銀上納取計來時二寄書物相捌象腕節は正金銀取合近誓書貸出村玄江 は両町汐融通坂計御上納向差支無理様出精仕両町之者共は右交易柳之利潤ヲ以渡世仕來砺云々︵以ド下掲廣瀬家文書oo轟︶ これによると彼等商人蓬は領内二郎で産する諸産物即ち楮・苧・煙草・葛・竹皮・諸紙類を買集め、これを近國へ費彿 い、その代銀で以て御年貢米の買替納や、御年貢銀上納をして支障なからしめている。そして爾町の商人はこの商品取引 により取得する利潤によって渡世して來た、との趣旨が述べられている。右の外同じ弘化四年五月の別の願書にも、 も む も も も ね も も も も も も も む も ね も へ も カ カ 御支配所村ζ之儀材木筆紙漆黒竹皮其外土地息産物多量一一付隣境之船津井御私領御城F町場等江蓮邊仕貸監事年之御年貢上納銀井夫 豊後日田における商人資本の性格について 四五
豊後H田における商人資本の性格について 四六 鍍等二出家偽云々︵千原家文書﹁願書井諸善物控﹂︶ と記されてい惹ように、近國の船津や城下町等での費捌も行われたことは確かであるが、然し天保十三年四月の願書によ ると、 ・ ね む も も へ も 當御連配所御年貢銀之親元地邊鄙之場所柄二而正金銀佛底目付村ζ澄諸淺物市申へ母語御年貢銀上納仕市中正面離物類大坂表へ爲差 も 登代銀之儀は年≧大坂表へ世銀御差立之節書替御願奉申ヒ前ζ汐御上甲羅内鴛替手形上納仕來親旧︵同上︶ とあって、諸産物は農村から一旦豆田・隈爾町商人に萱呪われ、更に彼等の手によって大坂へ途られた。その際それらの 費梯代銀による現銀梯込を約束して、年貢銀は爲替手形によって上納されたのである。そして近國における販費よりも寧 ろ大坂表での費捌・換銀の方が重要であったことは次の史料に窺われる。 乍恐以雷付奉願上候 御年貢銀納之儀大坂長崎之内藤れ之万村爲二砺哉以書付一筆申上旨被仰書雄藩砺全体當郡之儀は別而産物多分之所柄日歯村ζ汐諸謹. お も も セ も カ む ヘ カ カ も も も カ き も も も り も セ も 物委両町向ζ江持出講年≧初納二納御講遡差立之館は産物見合二黒前金貸渡三納御講御取立細節差引勘定仕妬得は過牛は御上納二李 も セ も も セ も セ も し も も セ あ り も コ も も も も カ も さ も も り も 足仕怖而編年之向江は翌年之産物日麗日落前金貸渡或は御掛屋沙取替遣砺両も有之男爵容物代金を奉書年貢銀上納相仕舞先前汐之仕 察二而右事物町方江仕入仕怖分は全大坂表江爲差登其代金取Fシ方之俄は御年貢銀爲御登之内御掛屋江申早臥替取組是迄歎百年來無 も カ も モ も ね も む わ も ヒ わ も セ リ へ も セ も も も カ も も セ む も も 異儀相綾罷在官庭㍉去露里年貢銀十一月爲御登之分難壁長崎表へ相納屋様被仰付二付町方金子携底二而不融通二御座偽間已前之通天坂 納二被仰付被F置怖本塁御支配中.追々御内願奉申上面得共其癖二押捲偽内御交代相成常四月御軍御差立凌は上更﹁統大二差支協儀ニ カ も し カ も へ も ヒ し し も む へ も 御座怖就而は前細紐申上伸通當地産物之儀は多分大坂表江言置登鵬替二而御壷申受懸樋いたし來怖分長崎納二定り妬而は金.+⋮彿隆二 ち ぬ も も も セ へ も り も ヘ へ も も も し む こ も も も ミ し し も も カ 相成産物仕入曲筆呉見込を以成丈激減怖方一一絹成前金取替怖義は難出叢話成行忽ち村ζ御上趣向ζ差支百姓︸統之難澁二相成協上は 則郡町・悪乱之基と相成協は顯然仕協義昌御座偽間殊更於両町は常時九分通りは蓬物取撞生活醤蝦義二而前文之通産物捌方則蝉利二相 纏い得は忽ち渡世向差支必至困窮之亥第二奉存妬尤於郡中は納入用器柑滅共上皆金納出題相場間際繋金多く有之妬﹁一付長崎納之方郡
も り も も も た リ カ む も も セ ら も も も 方爲筋との説も御座帖得共夫は只目前一時之儀二而長崎書論儀は兼而八氣不宜庭柄二而此先一統何標之難母方相成も難無難澁至植之 次第二叢氷ク長崎面構相成怖俄は於両町は大二差支三主表寒雷基と一統甚心痛仕協義二御座弱齢何卒新規之野鳥取止被F置先前之通 大坂納骨被仰付静居奉願上嶋格別御慈悲之御沙汰を以願之通瀬瀬付被F置恥ハ、両町唱統御救之王難有仕合奉存題詠之此段両町蓮印 以書付奉願上妬 以上 元治元子年五月 ・ ︵千原家文書﹁願書拝諸書物控﹂︶ 即ち長崎表よりも大坂表での責捌の方が容易軸有利であったが故に↓御年貢銀の長崎納に反塾して從來の如き大坂帝制を 維持せんことを乞うたのである。この願書にも見る如く年貢銀の初音二化に於てはその年できてくる産物を担保として年 貢銀の前貸をしたり、翌年の産物による返濟を期待して前金貸渡をする等、恰かも農民に封ずる問屋制支配に類似した形 態を見ることができるQかくして日田の商人達、就中掛屋商人達は年貢銀面のために農民が生産した商品の取引によって 大きな利益を得ていたことは明らかである。 このことは彼等商人達の多くが近隣の町村役人の地位につじていたζとによって、より旧暦容易に途行され得たと老え られる◎即ち廣瀬家は延實・寛文の交に筑前博多より豆田の地に移仕して、當初から商を業とし、且中城村の庄屋役を勤 ⑨ めていた︵同家談︶。その後暫くは史料を欠くため詳かにし得ないが、文政五年十二月再び久兵衛が中城村庄屋役を仰付ら れ、更に同十年には堀田村庄屋役を兼面した︵賢聖家交書Q8︶。降って天保年冊久兵衛は中西村を加え三ケ村の庄屋役を勤 めていた︵同上︶。かくて明治四年の﹁日田玖珠爾郡村正滑革人名記﹂︵廣瀬家文書8心︶によると、その後廣瀬三右衛門︵久 兵徳の弟︶は爾村誌年寄として中城村・堀田村の村政に参興していた。一方千原家の町村役人としての地位については廣瀬 家説明かではないが、前記﹁痛罵滑革人名記﹂によれば千原幸右衛門︵+二世︶が陣屋廻・城内・中城・堀田各論及び豆田 町の年寄を兼帯している。叉千原家交書中の﹁願書三富書物控﹂には千原幸右衛門権太郎兵衛なるものが嘉永四年より安 豊後日田における商入資本の性格について 四七
, 豊後日出における商人資本の性格について 四八 政四年まで草場村の庄屋役相勤めた、とある。右の書家のように常に掛屋商人として活動したわけではないが、屡々掛屋 連名中に現われてくる隈町の山田︵富屋︶牛四郎も竹田村組頭であった︵古後家文書、。隈町の魚屋長八は掛屋ではなかった が、寓生隈町において呉服小聞物商賞を致し、その上円田郡赤石村に産する白土を猫占的に買占め、それを韓質して利釜 を得ていた。同家に淺存せる元文五年以來の多数の質入等貸借証文によると、かなりの貨幣を蓄積せる商人であったこと が窺われるが、この魚屋長八も叉竹田村組頭であった︵同上︶。その商たる古後輿は前記﹁村正浩米人名言﹂によると庄 手・竹田爾村及び隈町の年寄を勤めていた。元來町村役人は年貢徴牧をその最も重要な職務とするもので、いわば封建楼 力の代行者である。多くの商人連がかかる封建的政治機構内の有力な地位に編威されているということは前述の如く商人 が年貢銀上納というような封建的政治機構に寄生することによって獲達する場合直接役立つたと考えられる。 このように町方商人は多く農村の諸青物を取扱う商品取引資本として活躍していたが、それが年貢米銀完納の爲に重要 な役割を果すが故に幕府郡代は彼等の取引に保護を與えお。例えばさきに引用した廣瀬立文書中の弘化四年五月の願書の 績きを左に掲げよう。 し ね も も も も も ら カ も も も も も も た も も も も セ も も も も も し も し 取引磐梯金予土滞妬儀有之節は右之趣意︵前掲豪照⋮筆者︶ヲ以御歎願申上近遡江は御廟合被成F誠二揖斐十太夫様西國筋御郡代被 し セ セ カ カ む も も カ わ も し も セ い の も め い め カ リ む り も も も め や セ セ め 爲蒙仰御勤役中は相手方愚者塵地江御召出御吟唾被成F匹一一付貸米銀等相産油儀も無御座其後朔事様三河口様塩谷標御支配之節迄は 御訴訟申上協程之儀も無御座全等威光ヲ以一統御上納無差支墨金相績仕上冥加至極難有仕合奉存候然ル威近年隣上江評議米金口ζ相 滞無里雪訴訟申上落⋮⋮へ中略︶⋮⋮依之由比恐多御願慰霊偽得共揖斐様御動役中之御振合ヲ以近國御私領村方評議米金相滞當御役所 江御願申上砧節は何卒相手方之者共御寮地江御召出濟方被仰杖下竪様癌願上偽 云々 これによって幕府の郡代が領内商人の取引及び貸米金の回牧を保護して來たことが知られる。然しある場合には上納銀の 爲ということが輪重となって一部商人の猫占的利釜が追求され領内の一般消費者が難澁することもあったので、諸産物領
外移出に謝しては郡代の干捗統制が行われた。安政七年三月隈・豆田爾町の組頭連中及び圭だつた商人蓮蓮名で日田御役 所に⋮礎出 された願書︵廣瀬家文書8轟︶には次のように記されている。 も も へ も 先年諸國一統竹林枯鑑シ大小之縮髪携庭二相成爪上其頃汐段曳廃置汀積下シ怖二丁彌塘當地及差支小前一統無限難澁仕生間去ル辰年 も も も も へ も 川下シ御停止被毛電脳檬蓮印書附を以奉願上協魑願之通御感濟被ド川下シ御停止之旨御支配申二御隠被風ド協一一鹿追ζ竹林生立可と も も も し も も む も カ も も ね も へ も も も も も も 一同難有奉寓居群籍近來竹林伐透しと型崩大竹川下仕協段及見聞誠一㎝塞驚入協次第・一御座に右之通二怖得は柱ζ竹林伐壷シ何ヶ年相 立脚而も前ζ如く竹林生立施期有御座間敷難ケ敷仕合二御座協尤右竹林有之協村方二而は他領江川下シ輝国協而は御上納昌も蓬支可 申野島申出偽向も有之既出二酸茎協得共先年は尺余物性竿竹萱本漏付代緩目百文位・一而在方堅持出協而も漸其日之小買物等仕協位二 監事濟來是を以御上納相調紫茸二は至申聞敷奉存出産は全川下シ商人共申合無謂儀申立唱統監難澁を不退自身之利欲を相計偽儀と奉 b 、 、 、 セ 、 b 、、 、 、 、 、 、 、 、 、 ユ,、 、 b 、 、 、 、 、 、 、 、 、 b 、 、 、 、 、 、 、 、 存協川下シ仕得利協者一纏回番三入出過不申両町及近在小前一統之難澁仕論者は無限儀二士濡雪歎ケ童心存恥 云々 同願書には更に炭についても同様のことが行われている旨述べられている。要するにこれは一部商人達の手で村方から他 領へ竹・愚智が移出され、彼等が領内消費者の迷惑をも顧みす濁占的な利釜を得ることを一般の町方商人達が停止せしめ んとする願書である。かかる領内産物の移出統制は文久二年の爾町の請書︵廣瀬家文書爵ひ︶によると、次に掲げるような多 くの種類の諸産物に三って實施された。 材木 淡薪竹類 竹の子 竹皮 面皮 紙類 櫨實 生蝋 茶 苧姻草山蕨 葛粉 わらひ粉 わらひ綱 玉子 椎茸 木 くらけ 銀杏 へら皮 志路縄 志ろ皮種子 油粕 胡麻 下駄類 木画し 昆若玉 郡代によるかかる産物の移出統制はこれら産物の領内斜格を引下げ、結局生産者であり同時に煙責者である農民の難澁 と、領内に於てはこれら産物の購買者として立現われる導入就中掛屋商人達の利害とを結果した。そのことは右の文久二 年の諸壼物移出統制に封して村方から異議を申立てた次の文書によって知られる。 豊後日田における商人資本の性格について 四九
豊後日出における商人資本の性格について 五〇 以書付御屈申上候 一今般両町より穀類竹並竹の子薪炭玉子油粕種子犀皮朝儀以後他國費出不仕金運取極度儀申出事由御終話相成直間村里打寄傳と申談 も へ リ ヘ へ も も も カ も ら も も ほ も し も む も り も も セ ち 候庭右品々之内差支不相成品も御座候得意當静内二おみては竹薪炭三儀は他筆思出方御差留め相成候而は難澁不少儀御座候間存寄 左二申上候 一山手村長上野村枝郷下山手石井村長畳畳尾村南北両丙河野之儀は両町江輩出候得は里言持登せ駄賃等柑掛り難愚管辮理之儀故是迄 從來致來り候千両筑江携出無差支檬仕度候両町之儀は諸産物﹁品も無之都而買入方計二付直轄何程引下ヶ下落相成総髭も難澁筋無 も も も も も む も む む も も し む カ ロ も も し を し し も し も り も も し し 之丁付他國出不仕上而も何さへ差支候儀決而有之間駁鉄露量於村々は農聞ユは諸渥物相仕立御年貢御上地銀足合理判り候間直段格 も も も も も ね ミ も も も も も わ も セ も も も し コ セ ね も ほ も 別二下落仕潮曇は御年貢御上納言仕立方差支難画歴底面併今般被仰渡出御趣意難獣五体二線下中當時回般費梯直段より威翻丈ケ引 下ケ候迄は他國一一費出方見合猶追々黒質余下落仕候盛相成候ハ、何時も他國費出無差支様御坂極被下度園圃候ハ、撃方買方持合道 理可相成義と奉存候諸産物地墨江鍵盤金銀當玉江持込候は登平方富増候義と異存候右等之儀は深ク勘堺双方持合御治定奉頼上候 ︵以下略b安心院家文書︶ かくてこれら諸毒物の領外移出統制が結局直接生窟者に封ずるものであり、これは町方への商品集貨を援助して、郡代 が町方の生産物萱買に從事している商人達の夏鳶を保護する結果となった。このことについては叉文久三年正月十六日の ﹁御廻瓶爲﹂︵千原家文書︶に、 カ も へ も も も も も も ね ち も む し も も も わ も も セ も う も め も も た い も む し も む カ も セ も わ カ も も カ セ カ し も も カ も 可成身元之もの其身之利釜を考小前江前金等貸地一手二直安く買集船積之上騰筑等窮鼠捌砺趣二相聞左協ヘハ唄三二買集利潤を得協 も も セ も もコも セ じ も ね も も も カ む も カ ヵ も い も む も も もの計多徳分付施工共小前工おみてハ更昌剰潤と申ニハ無之其上両筑江品もの費捌妬趣を以當地支配所之もの惣体二二惑いたし直段 高キ品を相互二買取不申而ハ難相成次第二成行諸人之難義不少事二塁 と歎いているのによっても知られる。即ち町方転入の中でも特に大資本を有すろ者が農民に金工の前貸をすることによっ て、諸産物を安い債格で一手に買集め、それらを領外に販費して猫占的轟音を得ていたというのである。諸産物の移出統 ●
制は前述の如く領内債格の引下を齎らすことによってこの傾向を促進したであろうことは疑ない。 以上の如き諸産物の取引によって蓄積された日田商人の資本は銀建瓶會における商人資本の多くがそうであったように 高利貸資本としても活躍するに至った。彼等商入の資本は九州諸侯に樹し、叉は領内外の農民・小商工民に卑して多量に ⑩ 貸出された。九州諸侯への所謂大名貸だけでも日田商人の貸付合計約百万両に達する。大名貸による利殖ということ自体 封建制への寄生的性格を示すものであるが、一般に最も危瞼であるとされた大名貸がここでは比較的安全に行われ、回牧 ⑪ を確保されたのはこれら九州諸侯の付目役としての役割を持っていた日田郡代の保護によるものであると稻せられること も、日田商人の封建樺力への寄生的性格を示していると老えてよい。日田商人の農民や小商工民に封ずる貸出については既 ⑫ ⑲ に遠藤正男氏の詳論がある。この場合にも銀子借用主が返濟を滞ったので日田郡代に訴え出た史料は多数現存しており、 幕府構力の商入資本に封ずる密接な保護關係を示しているのである。 以上に主として日田商人と日田郡代との關係について述べたのであるが、日田商人は更に幕領外の大名に謝しても極め て重要な寄生的關係を持っていた。一般に諸藩は幕末においてその財政窮乏を切抜ける爲に夫々國礒會所を起し、これに 商人を登用して藩の学費を蓮殺せしめた。これはいわば商人の封建官僚化と見られうるが、これまた商人資本の封建的性 格を示すものに外ならない。日田商人の中、特に廣瀬久兵衛は府内藩の建會所の経軸営を天保年間に、封馬藩田代薯の銀札 會所の経螢を弘化元年より引請けた。何れも久兵衛を主とする日田商人の資本によって急場を免れたのであって、これら ⑪ の事業は當初商人資本にとって必らすしも単なる利釜を齎らさなかった。殊に後者封馬藩田手管の場合は嘉永五年以來生 ⑯ 蝋心界をも設置して象螢していたが、銀札會所の帳尻は嘉永・安政の間絶えす日田より會所への貸越となっていた。然し 府内藩の青莚專由買おいては毎年の牧釜の約一割を御褒美として久兵衛は得ていた。その敏宇を府内藩記録中の各年﹁青莚 勘定帳﹂によって示せば第二表の如くである。 豊後日田における商人資本の性格について 五一
豊後日田における商人資本の性格について 日田商人はこのような形においても封建政治機構に寄生し、 封建的性格を見る事ができる。 ﹁第二表﹂ 府丙藩青莚專費の牧釜巾廣瀬家頂戴分 五二 莫大な利釜を得ていた事が知られるが、 ここにも商人資本の
嘉弘
永化
四ご元三
一ケ年分惣勘定利島〆高 貫 三 四四七、六〇五二五 六五四、○○○・OO 六︸二三、・七・七三・七二 四八○、八六〇・五五 腿瀬久兵衛江頂戴 被仰付唐子 貫 匁 六五・四〇〇 六一・八OO 四六・五〇〇 嘉永 安政 六 七 二 三 一ケ律†分物心勘定利n位〆7寳同 貫 匁 五四九、七六五。一六 五九四、〇三九・八日 七五〇、五八四・三〇 五四〇、〇六八・一こ 嵩 廣瀬久兵衛江頂殿 被仰付台分 貫 匁 五三・四〇〇 五七・八00 七三・五〇〇 五二・五〇〇@@@e
⑤ 小野藤太﹃日田歴史﹄二八葉ウ。 同上二七葉。 遠藤正男氏﹃日本近世商業資本護蓮史論﹄一四七頁。 掛屋役を勤めることに聴する扶持米については史料を欠くため不明であるが、恐らく索莫かは下渡されたであろう。その外大名貸や 上納金に封ずる褒美として幕府又は各藩から扶持米を頂戴している。一例を千原家について見ると、安政四年戴千九百五拾七両永饗 百五拾文の永逝により久留米藩から三+人扶持を舞領した。叉千原家は幕末に毒ける小倉藩への融通も莫大なものであったが、これ に律し嘉日二年五人扶持が給され、安政三年には更に三人扶持、文久ご年には更に五人扶持が夫々追加された︵遠藤氏前掲書 叫七 七−八二頁︶。 拙稿﹁日田幕領における都市と農村の肚裏・純真的構造に嘉する一考察﹂宮本又次教授編﹃九州経濟史研究﹄南牧 一五九!六二頁。 ’@@@@@@@@
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﹃大分縣郷土史料集成﹄地誌篇所牧 四七四頁。 土屋喬雄氏校訂岩波文庫版 二九四一九頁。 物債の基準としての米相場については、三井高雄氏編述﹃新稿両替年代記關鍵﹄巻二号誰篇 三五九一六〇頁参照。 廣瀬正雄氏﹃贈從五位慶瀬久兵衛傳﹄一頁馨照。 遠藤氏前揚書 三四四頁。 同上書 周四四頁。 同上書 一八五一二=一頁。 千原秘文書中﹁願書井諸書物控﹂には天保戸畑以降のかかる訴訟文書が多い。﹁例をあげると天保十二年輩正月豆出町丸屋幸右衛門 は久留米藩領域後斜生葉郡延壽寺村はじめ五等星の庄屋を相手どり、銀五貫五百目の貸金の返濟について・日田郡代に次の如く願出 ている。 近頃恐多御願二手存候得対曲慈悲之御室辮を以久留米御役場江御懸鱗被下墨相手方溢者其御召出被草筆ル申十二月5當春正月迄月 壼歩式厘五毛利足相加へ元利銀合九貫六匁鞍骨五厘早速汲濟仕候檬被仰付髪下置協朝堂願上候 遠藤氏前揚書 二八四頁。拙稿﹁府内藩における青魚耳費仕法﹂大分大墨黒濟論集 三巻二号 五八頁。 作道洋太郎氏﹁封焉藩田代領における生蝋三所の脛瞥﹂大阪大墨平出學 創刊二号 八七頁。 三 商人資本の非封建的性格 前節で述べたように商入が幕府の年貢銀取立に關堅して農民の商業的農業による諸産物を前貸制度類似の形態で買集め ① た。農村ではそのための商業的農業が從來以上に行われるようになり、それだけ貨幣経濟への依存度を高めることとな る。例えば前節に於て考察したように、諸産物の領内債格の下落によって生産者たる農民が難噂するが如きである。ここ に、即ち商品取引機能の中に既に商人資本の非封建的性格を見出すことができるのである。更に叉高利貸資本としての機 豊後日田における商入資本の性格について 五三豊後畠に育る商人資本握格について 五四
能から封建領主と封建的小農民との経濟的關係を崩壌に導く性格が生する。 先ず直接農民に封ずる貸付の場合は殆んど質入の形式によるのでめるが、例えば上野村農民の隈町営屋牛四郎に封ずる 質入証丈の爲が上野村庄屋たりし安心院家の古文書中無数にあり、叉同じく隈町の金入であった古後家︵魚屋︶にも近隣諸 村農民からの質入評文が多数礎存している。それらの質地は多く流れて貸主たる商人の手に集積した。即ち千原家の持地 車回は渡里・陣屋廻・十二町・小迫・草場・羽野・用量等の各村︵千原家文書﹁小作牧畜帳﹂︶、廣瀬家のそれは堀田・申城. 十二町・田嶋・陣屋廻・友田・城内・用松等の各村︵廣瀬家文書u一ω﹁質地謹文﹂及び同Q一N﹁田畑小農帳﹂︶に亘っており、何 れも町方三十の農村である。明治三年の戸籍︵廣瀬家文書豊。。︶によると豆田町の住民は他村の田畑約七十三町歩を所持し ており事その中同年戸籍によって判明する商人蓬の他村田畑持地を表示すれば第三表の如くである︵山南下略︶o ︹第三表︺ 豆田町商人の他村田畑持地規模 ︵明治三年︶廣草千
瀬野原
田 町 反 畝 歩 一二、○、二、二〇 八、四、一一、 六 五、・七、六、 五 畑 、 、 、町二七二
、 、 、反○〇三
、 、 、畝 .=二:.=二歩 林歪8毛f”
備 考 千原家文書 廣瀬家文書ωo心 同 右 . ② ゆ この表以外の豆田町皇民持地も多くは質商や商入の手に介していた。そこで日田郡内に現存する村明細帳によって判明す る各村の出作入作關係を表示すれば第四表の如くである。︹第四表︺ 地匿別出作・入作關係 地匿別
村農邊周方町
村農部聞山
村 名城内村
渡里村
田嶋村
馬原村
綾木村
鎌手村
申言小
五
西石
馬
村童村
年 代明和元
天明八 享保ご十延享三
天明八
慶懸三
天保 九 享保十 二享三天明八
丁享三
年代不詳 年代不詳天保九
慶鷹三
総 村 高 石弓 升 合 四五〇、三 四五〇、三 一四四、四 M四四、四 一四八、一 一四八、一 七八一、﹁六六六九九一一一
五一一一一一・五五九九一三一二ニー九九
九〇八四四七三三
六六五六六ニーー
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ七一三二二二四四
二二四七一九六六
一六八一一七七七
居村百姓持高
石 斗 升 合 一五九、七 一六〇、○ 八○、 六八、 七〇、三 五二、八 一三六、六八〇
四一・八八〇
二四五
’ 七 _t一’ 山 ノ、 ノ、8
1o
’他村百姓持高
石斗升合
酒六七、一 一六七、一 八二、 七五、 七〇、七 八九、 五六六、一二 三 二 三 二〇六
一 三 ● 二 八 ご七九、四〇 九 一九六、七 二 一 ﹁五〇、 一六〇、 四二、六 五〇、八 四七、二 五、○ 一三、五四八四一三
三七七四
備琢 ︵1︶ 各村明細蝋の田作・入作馬項には﹁年々不同故委細官記候一εあり、恐らく此の歓主思りれるが、居村百姓持高に構村百姓持高を加えても縄村議に一致しない。 ︵2︶赤石材明細帳にはこのほか村中惣作にして十三石五斗四升三合の記載があろ。 この表によれば豆田・隈嗣町から遙かに遠ざかった績木村以下の山闇部農村よりも城内・渡里・田嶋等町方周邊の諸村に於 豊後日田における商人資本の性格について 五五豊後日田にむける商人資本の性格について 五六 て一般に他村百姓持高の多いことが知られる。この他村百姓持高として記載されている村高の多くが恐らくは日田商人の 手に節していたであろうと推測される。こうして町方蟻溝農村に於ては土地を喪失した所謂水呑贋が山間溶血村より遙か に多く生じた。この歌書について再び村明細帳の記載を表示することによって窺ってみよう。即ち第五表の如くである。 ︹第五表︺ 各地霞年代別階暦分化 ︵軍位 %︶
胴
地瓦年代
村 高持 水呑 天明入年代
豆田町
村 癸 高持 吾 水店繩K
慶懸三
年.豆田町
村 山 高持 君 繭呑階 村農事周方町延享三 渡里村
三ホ 看 天明 八 中城村 同 城内村 同 渡里村 巽 六鴎.慶面積 渡里村昊 圏四十 田鳩村
雪 四八 究 釜 ︵四 輯六 十農学間山 同 延 享十手村
小五馬村 七八 三 七二 犬 天明 八 績木村 九五誠慶懸三 中西村
突 四 この表について同年代の数字を比較して見ると、山間部諸村よりも町方三尊桜村の方が例外なく水呑暦の多いことが知ら れる。これは恐らく上述の如き町方商人暦の寄生地主化によるものと考えて差支えなかろう。これらの水異同は大部分小 作人化し、一部は日雇化したり、又は町方へ職人或は奉公人として流入したであろうが、何れにしてもとにかく封建的小 農民の無産者化を意味している。この意味で商人資本は高利貸資本化、寄生地主化の過程を通じて封建的塁壁機構を崩壌 せしめる性格を帯びて來ているといわねばならない。④ 商人資本のかかる性格は大名貸の場合一暦強く現われ、時には封建的政治機構を脅かす程にもなっている。例えば千原 家文書中には左の如き証文かある。 申 極 一 札 M米三百五拾石
@
@
@
L犠脇曲欄
唄大豆百五拾石@
@
@
サ拾硫脇脚欄
も も も も ち ぢ 右は此度金子千両致借用妬返濟方二高等村汐書面之米大豆貴殿富江相渡候節本謹文面之通申極候然ル上は牧羊相濟次第有田役所江不 カ も も カ カ も も カ も も も も る も 及御堂二御勝手二才出馬二成候此段兼尊霊村之庄屋蟹江申付習慣壁書附相添置候尤此節御相談申協金子之儀は格別割勘を以年割二而 御調達被藩候間警如何様之御仕法替又は凶年等有之言立素面白米大豆二をみてハ無逮攣翼廊候強堅申極偽画歴蓮無之輔佐下拙者共蓮 印申極哨札差出置挨庭如件 有田御代官 弘化二已年四月大 會所役
大曾所奉行
飯 松 田 卯 庄 彌 助 ㊥ 治 ㊥ 墨 ㊥ 同 豊後日田における商人資本の性格について 朝 山 五七 此 面 ㊥豊後日出における商入資本の性格について 郡 代 島 五八 内 ㊥ 同 朝 山 新 七 ㊥
丸屋幸右衛門殿
即ち森藩が金子千両借用したについて、同藩領邑田村・百出山村ニケ村の年貢たるべき米・大豆を直接島牧すべき棲利を 千原幸右衛門に與えたのである。更に叉同じく千原付文書中には次の如き請書がある。 御 請 書 之 事 一御扶持方蓼拾石 此米五拾四石也 右は今般千原雛型衛門殿江御金談爲御挨拶水々御開相成僕二諸諸留村物出村御年貢米直島御渡方響仰付何時二重も御差圖次第村役 之者差添同家江可相渡候 唄右所縁に付村役人中小前迄同家江別而懇意相交可申候 セ も め も も も も し セ も へ も も も カ も セ も へ も も も も カ カ も セ セ じ も も も へ も も セ む も し ね た も も カ も 回同家孟人夫雇之儀等申参り選一、公役差合之外は如何様にも致差繰右軸村寺内か人敏無渥滞可申出夫外壁賃銭之外過分之儀申向間 敷先方之差圖決而蓮背致闘敷候 右被仰付候條々奉畏爲念蓮印御請書指上置候傍而姐件 弱田村百姓代 安政五年午正月 貞 代 ㊥ 庄 屋 麻 生 國 亭 ㊥● 諸留村百姓代
組頭
小庄屋庄屋
甚 徳 甚 右 丘 三 衛 門 ㊥衛㊥
郎 ㊥ 帆 足 + 右 徳 門⑭森御 役所
これは森藩が安政五年正月藩財政窮乏のため千両の融通を受けた際、同藩領内の諸留村・羽田村ニケ村の年貢米を全部直 接千原家に納めしめた謬りでなく、同家で人夫等が入用の節は何時でもこの爾村より徴爽使役することを許したものであ る。これらの史料は恰かも商人が封建領主に代って直接農民の年貢・夫役を徴牧するかの如き事態が生じ忙ことを示して おり、以て如何に商人が封建的重心機構を動揺せしめるに至っていたかが知られるのである。@@@@
拙稿﹁日田幕領における都市と農村の肚會・三韓的構造に關するM老鶯﹂前揚駈詰 一五二i四頁。 同上 一四二頁。 村明細帳の出典については前揚拙稿 =二一三頁春画、以下同じ。 遠藤氏の研究によると日田商人の大名貸は次の諸藩に封してなされた︵前掲書三四四夏︶。 但し括孤内数字は幕末における貸附金の 推定額である︵輩位両︶。 日田郡代︵二窒、OOO︶ 小倉藩︵二〇セ、六〇〇︶ 秋月藩︵三六、OOO︶ 幅岡藩︵一9一、OOO︶ 久留米藩︵鬼六、OOO︶ 千束藩︵七一、囎δO︶ 森 藩︵四一、08︶ 封馬藩︵二六、OOO︶ 豊後日出にかける商人資本の性格について 五九豊後日田における商人資本の性格について 臼杵藩︵茜、80︶ 杵築藩︵七、八OO︶ 島原藩︵四、識8︶
四
む 府内藩︵死、穴OO︶ 嚴島藩︵六、きO︶ 竹田藩︵一、九8︶ す び 延岡藩︵九、六〇〇︶ 大村藩︵匙、8Q︶ 柳川藩︵六、八OO︶ 蓮池藩︵訳、四8︶ 六〇 然し上述の如き封建的経常機構に喰い入って、そこに多数の直接生産者を言えた猫自の経潮力を持とうとする商人資本 ︹第六表︺ 明治六年豆田町商工業者数 ︵輩位人︶管業種目
酢茶蠣蝋質櫛彊機提三組鍛金大
仲燭@1灯螺
造買商呼屋挽刺子張工職冶工工
主業老
罐豪毅
=鵜哺二六竃琶一匹
二 二 一輔Z
五 計 =一糞八一二八三乱一二
露 者兼 業 激三顧 者從 一 nd =一
二 nd 一★一琶四A一二〇四飛一ニー一
瞥業種目
下旗打二品髪左仕紺三下出途油
tk■綿々
@立 駄仲物取
籠 小 小 青
至幸千丁三戸官物屋打工買物費
主業者
護難犠
Aニー竃一二〇乱。
三一一 一一囎 @ 四匹■e一
一 就 計一三二三二三〇九臨
一 一 三 者兼 旧事延 山回 一一一こ二九一一軍9XL三四
三二・ニニ〇三島三ヨ:四三四匂四 の性格はその封建的政治機構への寄生的性 格に比較すると遙かに弱かった。その理由 は第一に前節.に蓮べた大名貸による商人の 農民に封ずる直接的支配形態の焚生は森藩 領以外については見られない。第二に農民 に封ずる金融によって生じた寄生地主の土 地集積規模は前揚第三表に表われた商入の 持地面積について見てもさほど大きくはな かった。第三に農民に⋮封ずる金融によって 生する農民の無産者化は直ちに彼等の賃勢 働者化を意味しなかった。水呑居と雌も全 く耕作すべき土地を持たなかったわけでは ないし、叉各村明細帳には日雇・伐稼・掘草豆担酢三巴茶菓下上金素木料楮紙古賢塩魚魚煮
腐 糖 子三盛 綿
甲魚
鋪販駄小小販子子物小寺町細類区
長蕩商費商費皇運屋屋商四切理引回類工商商屋費
揚酒猪口二 四“
一 一 輔 噌 =三一九四 四一一ヒ 一 一 一 二 一 昌 一一こニーα罵一一 一一
嵩 島 一 臨監一〇ヨ監 一 一● 一 言 一 一 ヨ 一 一 一 一 四 沢 ヨニニー八一一三一一二:ニー一一一一冠七こニ 一四一畠白小太洋銭ZF麩古葦戸荒穀糀琴線藥製麺面白手中
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備肴 各戸にっき二種目以上の盤莱を黛曇している擾合は便宜上儀高官の蚕業醗を謀せられたる種目を主業、他を粂業ε 見倒して集計し#O 豊後日田における商人資本の性格について 稼・織高等の旧聞稼が記載されており、 中享保二十年の渡里村明細帳には、 ﹁作間稼之事 鍛冶山人 紺屋真人 石切萱入 就 侃鰍鎌脚外農其弓打申候 但薄染仕候 但土毫石町石臼等之類細 工仕候 右之者共水呑之内一一而御座候作間之稼 二仕候其外ハ日用伐費又ハ蔦根三等掘 申三女ハ布木綿少々仕候 と記されていて、一般に水膨屠が作間稼に 多く從高していたと考えられる。叉彼等水 ① 一層の一部は町方へ流入したが、そこには 家内手工業叉はマニュファクチュアと思われ るものもかなり存在したけれども、彼等を 三二働者として大量に受け入れるだけの産 業は喪達していなかった。明治六年の豆 田町における商工業者敏を﹁雑税取調霊口﹂ 六鴎豊後日田における商人脊︹本の性格について 六二 ︵廣瀬家文書δN︶によって表示すれば第六表の如くである。 この表によれば殆んど大部分が小商人であり、他は賃鏡稼業の職人であって、極く少数の者が蝋絞等の手工業を経螢し ているに過ぎない。そして叉徳川時代を通じて極度に廿里せる日田の商人資本は幕末維新期に於て依然として商品取引・ 高利貸か叉は極めて素朴な手工業経界に投下されていた。このことを窺うために第五表の中、徳川時代における大商人が 明治六年に如何なる事業を経螢していたかについて表示すれば左の如くである。 廣瀬︵久右衛門︶質屋・紙類・楮皮商 千原︵幸右衛門︶縷蘇・酢造・味噌商 草野︵忠右徳門︶蝋鵡淋・︵丈右衙門︶酢造・糀商・播商
手嶋︵靖三︶縷藩二彌右衛門︶酢造・糀商落雪油取商
岩尾︵宇 三︶藥種・紙類・砂糖小費・︵嘉寿衛門︶質屋 三松︵吉右衛門︶質屋・白米商 かくて水呑暦の発生は土地の所持が一部の直接耕作者の手から離れることであり、封建支配にとってその崩壊の一要因と はなってい乍ら、それだけでは決定的に重要な事去たり得なかったと見なければならない。 以上の如き理由から商人資本は封建的経濟機構に即してはその中に非封建的な要素を生み激す働きをして來ているが、 この性格は封建的政治機構への寄生的性格の強さに及ばない。さればこそ彼等日田商人は幕藩を基軸とする封建的政治機 構が倒壊するや、それと運命を共にせざるを得なかったのである。幕末風雲急を告げ幕府の威信が地に堕ちるや否や、明 治元年森・久留米・筑前・肥後・薩摩等の諸藩雫って日田郡代を騙途して日田に徽入した。それは各藩何れも日田商人に 軍資金の調蓬をなさしめんとするの意圖に出でたざのだと稽せられる。然るに結局新政府の命によって日田縣が置かれ、明治元年六目松方助左衛門︵後の正義︶が知前事として赴任した。そしてこの就任も亦﹁日田金﹂といわれた日田商人の資 ② 産を吸卑して困窮せる新政府の財政を救う任を帯びていたといわれる。果せるかな莫大な上納金を徴獲され、而も鶴幕時 代と異って新政府は彼等日田商人に特別の保護を與えなかった。即ち明治元年には、 ﹁御掛屋之儀村≧♂御上納金上掛改 セ カ セ カ た も も ね も セ ね も ね セ も セ も も ね し も も ち へ も も 可請取筈之庭正銭は不及申諸國之銀札等取集持参候を夫3相改私共請取手形ヲ以御役所御上納導出耳蝉取集峰正銭銀札は も カ も セ セ ね も し も 私共江御預ケニ相成御下知之節正金銀を以御上納仕來い儀轟御座候﹂︵干原型文書﹁願書井御書物上﹂︶というわけで從來預っ ていた上納金銀の中金四万爾を森甚左衛門・山田牛四郎・廣瀬久右衛門・千原幸右衛門等の掛屋仲問から新政府に上納せ しめられた。叉同年七月の﹁千原日記﹂には慶鷹三年から明治元年にかけて日田郡代が農兵入用として六千百八捨萱爾余 を徴牧したことが記されている。この中四千百廿里爾余は﹁爾町日田玖珠下毛郡身元宜もの♂調達金仕協分﹂で淺千九百 五拾八南余は﹁千原幸右衛門ず立替峰分﹂であった。 このような形で彼等日田商人の資産は暮雲維新期において支配灌力によって吸取られ、而も維新後は彼等の橿釜は全く 棄てて顧みられなかった。野荒時代における諸侯への貸金の一部は返還されたが、大部分は幕府の倒壌と共に帳浩にされ た。千原家文書の中﹁願書井諸書物議﹂には明治四年以降同家が奮幕領時代の久留米藩・小倉藩等に封ずる債櫻を守り抜 かんとして、一所懸命に日田縣叉は大分墨黒局に働きかけている願書が数多く存する。然しこれらの債権の多くが藩債整 理に當って刑除され、殆んど烏有に麟したであろうことは右願書に交って多くの上納金息急願の存することによって推察 し得る。かくて明治初年廣瀬家の戸主たりし七三郎が後年︵明治+九年︶父たる源兵衛によって﹁畢寛一家ノ衰弊二聡リ峰 モ全ク七三郎之愚ニシテ家政行聖霊タルニ起因仕峰﹂とか﹁戸主七三郎義性質愚昧ナルヨリ家馬陸績差土リ公私ノ負債亘 多ニシテ爲メニー家亡滅ヲ拓クノ景歌﹂︵廣瀬家文雷ωo幽︶と歎かれたのは、あながち七三郎の罪ばかりではあるまい。 かくて日田の商人資本は幕府櫻力の保護の下に、封建的政治機構に与して寄生的關係を強く持っていたが故に、彼等自 豊後日則における商入資本の性格について 六三
豊後日田における商人資本の性絡⋮について 六四 ③ 身の猫自的な力を持ち得なかった。そしてその爲に維新攣革の過程を通じて、総額二百万爾以上に蓬した貨幣資本と債灌 を消失してあえなく首落の一途を辿らねばならなかった。上述した文久二年の産物移出統制に見る如く、諸塵物の需要は 領内のみにても相姦あったであろうが、彼等商入学本が大規模な工業生産に立入って近代的産業資本に韓化し得なかった のは、長期間に亘る鎖國によってより大きな市場を持ち得なかったことが重要な原因になっていることはいうまでもな い。同時に叉維新後大規模盗近代的産業資本の成立に必要な機械と技術が導入されるまでに、封建櫻力への強い依存性と 封建的政治機構への寄生的性格の爲に、自己をすり滅らしてしまっていた点も一つの原因であったことを日田の商人につ いて特に指摘できる。 以上商人南本の封建制に古する依存的寄生的性格及び非封建的性格という爾側面について、墓領日田の商圏に關重る史 料によって老察した。そして商人資本の封建制に封ずる寄生的性格はその政治⋮機構に於て著しく、封建的政治機構の運螢 に有用である限りに於て封建重力は商人贅本を保護した。これに無し非封建的性格は封建制の経濟的機構の面に於て署し いと老えられる。日田商人の場合は封建的政治機構への寄生的性格の方が封建的経濟機構に喰込んで猫心的な経濟力を獲 得せんとする性格よりも強かった。そこに日田の商人資本が幕末維新期に於て幕府の倒壌と共に愛盛し、近代的産業資本 としての新たなる縛化嚢展をなし得なかった基本的な原因を見出そうとしたのである。 ①前揚拙稿 ﹁四六買。 . ②遠藤氏前掲書ニニ七頁。