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太平洋戦争下の朝鮮における抒情詩の姿(上)

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太平洋戦争下の朝鮮における抒情詩の姿(上)

熊 木   勉

1.

 植民地という厳しい状況下におかれた朝鮮において 1940 年代前半期はとりわけ過酷な時代で あった。

 大陸における戦況の硬直状態の中、1940 年代に入ると日本国内にあっては東亜運命共同体が高々 と掲げられ、強力な政治体制の確立をめざした第二次近衛内閣が発足、さらに大政翼賛会が結成さ れることとなる。この過程で、強力な国内体制を築くために新体制運動が提唱され、朝鮮において も国民総力連盟の総裁であった南総督のもと、国民総訓練と生産力拡充の認識とともに、それは大々 的に標榜されることとなった。もとより「国体明徴」「内鮮一体」による皇民化政策は、南総督就 任の当初よりすでに朝鮮において重点的に強調されたが、新体制という徹底した「革新」運動によっ て意識改革はより熾烈をきわめ、1941 年に開戦を迎える中でその嵐は極限に達し、さらには強制 連行の大規模な実施や

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徴兵制の実施などへと至ることとなるのである。

 文壇もこうした動きと無縁ではありえなかった。『東亜日報』『朝鮮日報』の廃刊、あるいは『人 文評論』『文章』など各雑誌の廃刊に伴う文学の場の大幅の縮小や、日本語による創作への圧力、

また体制に沿ったような形でしか文学の自由が望めぬ表現の限界といったものが文人には課せられ ていた。

 この時代の文学は、おもに外的には戦時下としてもっとも過酷であった暗澹たる時代の様相とい う側面と、内的にはその中で空白でしかありえぬとされる文学のあり方にかかわる側面の二つの角 度から、通常、「暗黒」期として規定されてきた

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。その空白を埋めるとされるものが所謂「親日」

文学である

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。この時期の詩文学は、張徳順が「国民詩・決戦詩・諦念の詩」と要約したように「親日」

詩がその主要な軸を構成しており

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、尹東柱や李陸史といった「抵抗」詩人による詩作や沈黙を守っ た詩人がそれに対立する存在として意識されてきたと言えよう。

 しかし、この時期においても抒情を色濃く映し出した作品が全く存在しなかったわけではない。

この時期の抒情詩については、かろうじて呉世栄が次のように述べているのが印象的である

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…しかし、ここでもう一つ敷衍するとすれば、1940 年代暗黒期がたとえ反民族文学の潮流に 巻き込まれていたとしても、一方ではごく少数ではあるが純粋文学ないし民族文学活動も命脈 を継いでいたという事実である。明らかに 1940 年代はそれなりの民族文学を有していた。

 1940 年代暗黒期の純粋文学については異論がありえよう。それは 1940 年代暗黒期における

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詩壇の普遍的な傾向が「国民詩」の創作にあったとするとき、例外的に書かれた何篇かの詩が 果たして時代の意識を代弁したものと見られるかという疑問と、民族が弾圧され母国語が抹殺 される時代において文学の純粋性というものが果たして意味を持つものであるか、あるいはよ り極端に、文学の純粋性を志向する行為そのものが日帝に対する無言の野合を意味するのでは ないかという見解である。

 ここにもうかがわれるように、とりわけ末期に近づくほどにこの時代の文学において基調をなし たのは時局的な作品であったことは疑いない。また、1942 年ごろ、具体的には『国民文学』創刊 および太平洋戦争の開戦あたりを境として、時局的な作品であれ、一般の作品であれ、日本語によ る「国語詩」が作品のかなりの部分を占めるようになったことも確かであろう。文人には民衆に対 する「文章報国」の任務が負わされており、それは文人の存在そのものの危機的な状況を意味する ものにほかならなかった。文人は、筆を折るか、「時局」の要請に沿った文学を生産せねばならぬ 立場に置かれねばならなかったのである。

 しかし、当時の抒情詩が果たして「何篇か」に過ぎないものだったのか、あるいはその純粋性が 意味をなさぬものであったと規定すべきかどうかについては、あらためて再考を要するものと思わ れる。

 また、たとえ作品の数に限界があり、その文学性の高さが必ずしも一様に高いものとは言えなかっ たとしても、この時期の抒情詩の存在を単に「例外」としてのみとらえるのではなく、実際に発表 された作品としていったんはそのままに確認する作業を経るべきではないかとの疑念も生じる。さ らに、「国語詩」の存在も、それがいかに痛ましい時代の負の産物であったにしても、朝鮮の文学 史からそれを完全に切り離すことができるかどうかは疑問であり、この時期を生きた文学者の足跡 の一部分としていったんは目を向ける必要を否定することはできないものと思われる。

 本稿では、もっとも厳しい時代であった太平洋戦争下の詩作品を対象として、これまで文学史に おいてほとんど言及されることのなかった一般の抒情詩についてその姿を確認してみることにして みたい

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。それは、「空白」ともされるこの時期の文学に対するより幅広い視角の手がかりともなり うるはずであり、ひいては尹東柱や李陸史の詩の文学史における意味を考える上での一つの参考と もなりうるものと思われる次第である。まずは、この時代の文学がいかなる状況にあったかを確認 しておくことにしよう。

2.

 崔載瑞が自ら身をもって体験した朝鮮文壇の「転換」について次のように記していることは、

1940 年代前半期における朝鮮文学の置かれた状況を部分的にはうかがわせるように思われる。

 この四五年来、私は朝鮮文壇の激しい転換をば身を以て体験せねばならなかつた。殊に雑誌

「国民文学」が発刊されてからは、私はその小さい梃子とならねばならなかつた。

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 その転換と云ふのは、意識的には、昭和十五年秋の新体制運動と共に始まり、翌十六年春に 断行された文芸雑誌の統合とそれに引続く「国民文学」の発刊に依って運動の基礎を与へられ、

十六年十二月八日、畏くも宣戦の大詔を奉戴するに及んで世界観的な自覚を深め、最後に十七 年五月の徴兵制実施発表に依って、いよいよ自己の性格を最後的に決定したのである

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 こうした流れは崔載瑞個人にとどまるものではなく、朝鮮における文学者それぞれに創作の方向 を決定づけさせる契機として意識されたものと思われる。

 もちろん、朝鮮文壇の変革はこの時期になって突然にはじまったものではない。その前提として 1930 年代よりすでに内鮮一体の実現を目指して皇民化政策が展開されたし、朝鮮文壇において戦 争文学の要請がひときわ高まることに伴い、金東仁、朴英煕、林学洙が皇軍慰問作家団として中国 北部に派遣されたのは 1939 年のことである

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。同じ年には朝鮮文人協会も結成された。さらに、の ちに文壇と深く関係することとなる国民総力朝鮮聯盟の前身である国民精神総動員朝鮮聯盟が発足 したのは、それに先立つ 1938 年のことであった。

 新体制運動は、こうした状況のもと、太平洋戦争を控えた 1940 年代における朝鮮文壇の意識的 な転換点として、文壇に大きな影響を与えたと言えるであろう。

 この新体制運動における朝鮮の文人のありかたについて、毎日新報社説は「いまや再び高度国防 国家の新体制運動が開始され、國際風雲はまさに端睨を許さず、一億一心で国民各自が私を滅して 身をささげ、職分において奉公すべき日が来た。朝鮮の文人もこれに一層発奮して、新体制の前線 に配置されねばならない」とする。そして皇国臣民として、また新体制の一翼として、啓蒙時期に 置かれた朝鮮の民衆の蒙を啓して精神を徹底させることなくしては国民総力の発揮は期待できぬと し、「この職分に対する第一義的な兵士が誰であるかというと、それはすなわち文人である」

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と論 ずるのである。つまり、文人は皇国臣民としての民衆へ徹底した啓蒙を行う奉公を目的とした「兵 士」であるというわけである。

 この運動のもとで文学に要請されたのは、高度国防国家建設を目的とした国家意識と国民意識に 根ざした創作であったが、現実には文学の新体制は「国益にならぬ作家及び作品の大清掃を意味し た」

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とも言うべきものであった。

 こうした中、朝鮮語の文学という側面から文芸専門誌として最後の砦とも言うべき『文章』『人 文評論』が廃刊されたのは 1941 年 4 月のことである。『文章』『人文評論』はきびしい用紙不足の 中でも多くの作品を掲載し近代朝鮮文学においてきわめて貴重な足跡を残した存在であっただけ に、その廃刊は朝鮮語による文学の場を決定的に縮小へと導くものであったと言える。これらの雑 誌のあとに文学を専門的に背負ったのが『国民文学』(1941 年 11 月創刊)である。『国民文学』は この時期の朝鮮文壇において国策の中心点と言うべきもので、しかもそれは二回の「諺文版」を除 いては、すべて日本語で構成されたものであった。この創刊の意味は「当面の理由は云ふまでもな く用紙節約にあつたが、当局としてはこの際雑誌統制に依り朝鮮文壇の革新を一気に解決したい意 図を有してゐられたであらうことは容易に推測され得るであらう」というものであった

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。『国民

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文学』創刊号には次のように記されている。

 本誌「国民文学」は朝鮮文壇の革新を図るべく新しき意図と構想の下に生れ出た。新しき構 想とは何か?第一に重大な岐路に立つ朝鮮文学の中へ国民的情熱を吹込むことに依って再出発 せしめること、第二に稍々もすれば埋没されさうな芸術的価値を国民的良心に於いて守護する こと、そして最後にこの狂乱怒涛の時代にあって常に変りなく進歩の味方となること。

 要するに「国民文学」は国民と芸術と進歩に献げられたものである。この栄えある躍進の時 代にあって本誌は微力ながら国民と文学のために献心の努力を払うであらう

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 そして、当局との間に取りまとめられた編集要綱が、「国体観念の明徴」「国民意識の昂揚」「国 民士気の振興」「国策への協力」「指導的文化理論の樹立」「内鮮文化の綜合」「国民文化の建設」な どの七項目であった

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 その後、太平洋戦争の開戦を迎え、さらに徴兵制実施の発表がなされる中で、朝鮮の文人たちは 一層厳しい状況へと追い込まれることになる。もとより太平洋戦争への戦争の拡大は、朝鮮をより 強固に総動員体制の中に組み込むことなくしては遂行しえぬものであった

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。その中で文人たちは 詩朗読会や講演会などに動員されただけでなく、「文章報国」として戦争を歌うなり国策に沿った 限られた自由の中で文学を試みるよりほかはない状況へと置かれていくこととなるのである。

 もちろん、そうした中で文人たちの葛藤が全くなかったわけではない。たとえば原稿が集まらず に休刊となった 1941 年 12 月号『国民文学』(諺文号)において「文人達の動揺や彷徨が意外にも 深刻であることを発見した。国民文学とはそんなに融通の利かないものであらうか(1942 年 1 月号、

編集後記)」とのことばが見えることや、四ヵ月後に「昨年十二月八日以来智識階級の思想が一変 したと云はれる。慥かにあの日以来、智識人の物の見方、考へ方は昔日のそれではない。然らば智 識人は今日真に新しい物の見方や考へ方を把握しているかと云ふに、そこまでは行つていないと云 ふのが実情であろう。智識人の彷徨や模索はまだまだ深刻である(1942 年 4 月号、巻頭言)」との 見方が示されたことはその戸惑いを部分的にはうかがわせるように見える。

 それに対し、「大東亜戦争は文化創造戦」であり、文学は新しい価値創造に邁進すべきとするの が「国民文学」側の論理であった

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。しかし、中堅の文人たちを中心として多くの文人たちは筆を 置き沈黙を選ぶこととなるのである。

 一方、戦況がいっそう激しさを増す中で叫ばれたのが決戦期の文学であった。この決戦期の文学 について、朝鮮文人報国会理事長の辛島驍は「戦ひつつある意識」を絶対的条件としてはっきりと 自覚すべきであり、朝鮮文人報国会に対してその活動の焦点を「戦ふ文学」に置かねばならぬとす る

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。また、朱耀翰は今や多くの詩人が剣を筆に持ち替えて戦争目的に情熱と誇りを捧げていると し、強い文学、凛たる文学、最も大衆の琴線を鳴らし得る文学が詩の領域で広く求められているとし た

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 しかし、ここにおいても必ずしも常に当局が意図のままに作品を得ることができたわけではな

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かった。こうした作品の「不作」に対し、その血路を切り開くものとして見出されたのが「仕奉精 神」あるいは「まつろう文学」であった。ここに至って朝鮮文学は自意識をほぼ喪失することとな り、その苦難の「転換」はある意味で終着点へと行き着くこととなったとも言えるだろう。

 以上のような状況のもと、文壇では日本の地方文学としての朝鮮文学が強調されるとともに、国 語(日本語)による表現こそが内地文壇に呼びかけうる真実たる国民文学の姿であるとされ、朝鮮 における国語詩壇の確立が要望されることとなる

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 しかし、「国語」創作の問題は、民族の自我を厳しく脅かすものにほかならず、その内容までも 含めて、この時期の文人にとってきわめて本質的な問題であったと言わねばならなかった。「特殊 性をもつた半島文化も、日本文化建設への協力の下に於て、始めて日本の国民文化たり得るのであ る。文学も音楽も美術も、内鮮一体の皇国臣民意識の下に於て、始めて日本文化として出発し得る のである。この出発点の重大さを忘れてはならない。在来の半島文化は尠くとも固有の日本文化で はない。然し、この協力が行はれるときは、日本文化はそれだけ内包を増し、豊かな内容を持つた ことになる。これは日本文化の進歩である。東亜共栄圏の建設にあたつて必要な文化内容の充実を 果すことになるのである。(引用者:中略)図書などは国語文化の建設に寄与する必要があり、生 活も国語生活への必然的な発展をしなければならないのである」

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。こうした要望に、大方の中堅 どころが沈黙を選択したことは当然であったといえる。

 この時期において、朝鮮の文人にもっとも緊急かつ深刻に意識されたのは、国策に沿うべき言語 と文学という二つの問題であった。1943 年の次のような座談会

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にもそうした状況の一端はうか がえそうである。

杉本…国語で書かうといふ気持は動いてゐるのですね。

金村…それはもう…特に若い人たちは覚悟ができてゐますよ。

崔 …私の言ふのは、中堅のことですよ。国語詩壇を確立するにはやはり中堅が動かなければなら ない。

金村…単なる国語と朝鮮語の問題でなく、やはり思想的なものが絡んでゐるんぢゃないですか、朝 鮮語でも新しい国民詩を書いてゐるといふこともあるが、休んでゐる人が多い。

崔 …多いですね。

金村…さういう人たちはやはり国語の問題、文学に対する考へ方、この二つで迷ってゐるのぢゃな いか…

杉本…ただ、どうしても国語では発表できないという人もあるでせうね。程度の問題でせうが。

 朝鮮の文人たちにとって、日本語を使った創作ということが心的にも言語的にも大きな負担で あったことは言うまでもない。「内地語で書く書かないは、作家の一個人に関することであつて、

朝鮮文学が朝鮮語で書かれねばならないことは厳然とした真理であらう。朝鮮といふ現実社会の中 に住すで、そこから情熱や動機を感じて筆を取る場合、自分のてっとり早い言葉で、又自分の言葉

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しか分からない多数の読者のために書くといふことに対して、何を不思議がることがあらうか(金 史良)」

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との見方の一方で、そうした考えとはうらはらに、以後、「国語」による創作への圧迫は 一層強まるばかりであった。さらに「文学に対する考へ方」とあるような文学のありかたに対する 文人としての苦痛も彼らに重くのしかかったものであったことは疑いない。文人たちにはこうした 言語と文学の危機にあって筆を折るにしても許された形での創作を行うにしても否定的でしかあり えない選択の交差があるのみであり、そこにはつねに文学精神にかかわるある種の絶望感があった ものと考えられる。

 それでは、こうした「国語」化の波の中で細々とその存在をかろうじて維持していた朝鮮語の抒 情詩はいかなる姿で命脈をつないでいたのだろうか。次項ではこの時期における朝鮮語による一般 の抒情詩の傾向をいくつかの作品を対象として確認してみることにする。

3.

 1930 年代末から 1940 年代初頭の詩壇の状況は、技巧主義に対する批判や伝統志向的な評論が多 く提出された頃であって、実作においてもおもに東洋・古典志向、抒情への傾向が顕著であった。

しかし、国策に沿うべき時代的な要請の強まりと『文章』『人文評論』の廃刊は、作品の水準低下 を決定的なものにした。詩壇にあっては「国民詩」の確立がうたわれ、検閲などによる表現の限界 や文人たちの絶筆により、作品の不振はさらに拍車がかけられることとなる。そして作品の質的な 低下と国民文学への転換は、言い換えると当時の文壇の「空白」をも意味することともなったので ある。

 そうした中、朝鮮語詩の存在がありえたとしても、もちろんそれは日本の側からの積極的な容認 があったということではなかった。一般における日本語解読の困難から、国策の宣伝のためにも、

ある程度のハングル使用を認める必要があったに過ぎないという背景が前提にはなろう

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。  ただ、これらの朝鮮語詩のすべてが時局に準じたものというわけではない。筆者の主観ではある が、これらのうち大体半分以上は一般の抒情詩であったように思われる。また、時局的な題材をと りながらも抒情をそこに色濃く反映させている作品も一部では存在するのである。

 ともあれ、一般の抒情詩であれ、時局的な題材をとった抒情詩であれ、抒情こそが詩人としての 最後の一線であったとすれば、限定的ではあっても当時の文人として許容されうる範囲内での情緒 と感情が、この時代の詩には示されていたとも思えなくもない。

 太平洋戦争開戦後に発表された朝鮮語詩(所謂国民詩も含む)は、おもに『毎日新報』『春秋』『新 時代』『三千里(大東亜)』『朝光』『国民文学』などで確認することができる。あくまで大まかな目 安であるが、筆者の調査によれば、1941 年 12 月 8 日から解放までに朝鮮語詩は『毎日新報』に約 110 篇、 『春秋』に約 40 編、 『新時代』に約 100 篇、 『三千里(大東亜)』に 5 篇、 『朝光』に約 190 篇(う ち投稿作品が 6 割程度)、『国民文学』に 4 篇の作品が見える

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 ほかに、詩集としては金東煥『海裳花』(1942.5)、 『戦争詩集、戦勝歌』

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(1942.5)、 朴八陽編『満 州詩人集』(1942.9)、金朝奎編『在満朝鮮詩人集』(1942.10)、李康洙『南窓集』(1943.3)、権煥『自

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(7)

画像』(1943.8)、車元興『田園』(1944.3)、権煥『倫理』(1944.12)、朴一淵『朴一淵詩抄』

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(1944)、

盧天命『窓辺』(1945.2)などがある。

 このうち、『毎日新報』は総督府の機関紙であっただけに、太平洋戦争開戦後に掲載された詩は 多くの作品が時局的な色彩を帯びている。ここには李光洙・金龍済・盧天命などの名が見えるが、

新人として李春人の作品が比較的多いのが目に付く。李春人は一・二篇は国策に近いといえなくも ない内容の作品も存在するが、ほぼ一貫して一般の純粋詩を創作している。彼の残した詩集『南窓 集』は、この時期の数少ない抒情詩集のひとつとして興味深くはあるだろう

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 雑誌としては、大体において『新時代』 『三千里』に比較的、時局的なものに取材した作品が多い。 『春 秋』は他の媒体に比べて一般の抒情詩が多いほうであり、どちらかというと作品の精度も高いと言 える。『朝光』は 1944 年末までコンスタントに朝鮮語の詩作品を掲載しており、その継続性におい て注目できそうである。

 ただし、『朝光』で 1942 年の夏以降において詩の中心となっているのは投稿作品であり、掲載さ れた作品そのものも水準が必ずしも一定して高いものとは言えなかった。投稿者の中で解放後に活 躍した形跡のある詩人もいないようだ。

 この『朝光』への投稿は、どちらかというと国策に沿ったものより抒情的、とりわけ憂鬱かつ感 傷的な傾向が強かったようで、 「作品が優秀であつても内容が憂鬱であつたり、感傷に傾いていたり、

退廃的であつたり、回顧的なものは掲載しません。建設的で明朗なものを送つて下さい」(1943.7)

との呼びかけがなされたりもした。しかし、こうした呼びかけにもかかわらず、相変わらず紙面か ら抒情的な作品は大きくは減らなかったのである

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 では、この時期の朝鮮語の抒情詩の傾向として、どのような特徴をあげることができるのであろ うか。それについては、小説からの見方ではあるがすでに次のような先行の言及があるのが参考に なりそうである。

たとえ国民文学という題目を「時局」の要請として受け入れるにせよ、個々の作家にとって はその枠内でいかにして可能な迂回策を探り出すかが問題であったようである。すでにこの段 階では不安・煩悶・退廃等の矛盾を正面から扱うことは許されておらず、いきおい対立者の存 在しない肯定的な価値観の提出が求められていたせいもあって、この迂回の方向は信念のある 生活とか郷土に対する執着ないしは郷愁、あるいは過去の歴史に題材を求めて民族志向を示す ことによって表された。いずれも表面的には「時局」の要求に正面からは対決せず、それを受 け入れる姿勢を採っているのが特色であるが、さらに進めて言えば、この対決の回避の背後に ひそかに確立された自我の存在をうかがうことのできるものがほとんど見当たらぬことは、こ の回避の姿勢が案外と安易なものであることを示唆しているようでもある

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 ここに言及されたように、現実の矛盾を正面から扱うことができず、対立者の存在しない肯定的 な価値観として提出された文学のありようは、この時期の詩にも共通する部分であり、小説分野に

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とどまるものではなかった。現実へと立ち向かう自我を正面から文学として扱うには文人たちはあ まりに無力でしかなかった。とすれば、詩は民族としての未来への意思や希望へと向かうことなく、

その志向は過去や古典への回帰、郷愁、外部との断絶、それに伴う鬱屈した自我といった傾向を示 すことは必ずしも想像に難くない。皇国臣民としての現実賛美、義務や戦勝祈願などをおもに扱っ た所謂国民詩とは対照的に、一般の抒情詩はそのように閉ざされた自我、あるいは過去・伝統・故 郷への憧憬にも似た感情を、比較的色濃く映し出すこととなるのである。

 ただし、こうした姿勢を「安易」と規定しうるかどうかはあらためて検討が必要であろう。それ については筆者は立場を同じくしない。

 では、より具体的に各詩人の作品において抒情がいかなる形であらわれているかをいくつかの作 品を通じて見てみることにしよう。この時期において、文学性の高さから比較的存在感を感じられ る詩人として呉章煥と徐廷柱がいる。以下に引用するのは呉章煥の詩である。

 塔이 있다 .

누구의 손으로 쌓었는가 지금은 거치른 들판 봄맞어 땟

ママ

장도 푸르른 속에

묵어운 입을 담을고 限 없이 서있는  塔

나는 아노라 . 뭇 千百 사람 , 未知 와 神秘 속에서 보드라운 구름 밟고

별과 별들에게 기우리는 속삭임 .

 瞬時라도 젊은이의 가슴 무여지게하는 덧없는 바래옴 .

현기에 醉 할듯 너무나 싱싱한 풀 香 기일래 熱 한 뺨 차디찬 石面 에 부비며

塔 이여 !

으스름 그늘이 지도록 나 또한 말없이 落日을 직히려노라 .

면면한 흐름은 , 사는거조차 시내ㅅ물조차 아 또한 歳月조차 안이었어라 .

다사로운 길이어

스사로 生 하는 묵에 , 가없는 寂莫 을 누르고 거치른 들판에 흘로히 서있는 塔

아니 永劫 에 걸치어

넘칠듯한 哀愁여 ! 밑없는 諦念이어 !

( 8 )

(9)

고히 다듬는 끌과함께 자자하든 일흠과함께 슬픈이는 모도다 흙으로 갔으나

한층 더 한층 발돗음하듯

아 사나운 비바람 휘모라치는 번갯불속에 요란한 천동속에서

어둠이 모든것을 삼키는 밤깊이까지 千年 , 아니 二千年 .

塔이여 ! 너흘로 돌이어 ! 어나곳에 두팔을 젖는가 .

吳章煥「頂上 의노래 」

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 この詩でもっとも強い印象を与えるのは「塔이여 ! 너흘로 돌이어 !(塔よ!お前一人で石よ)」

という叫びである。自我の姿が希薄でしかありえなかったこの時代の文学にあってこうした叫びに 詩人の苦悩の声を聞くことは不可能なことではない。

 変わることなく石であるその冷たい石面に顔を寄せつつ石塔に共鳴する詩人の視角は、天地へと つながる石塔の詩的空間の広がりとは反対に内的志向が濃厚であり、そこには時間と状況を超越し て永劫に変わることのない姿への思いと、ある種の孤立感が映し出されているように思われる。

 また、自らの生きる重みに果てしない寂莫を押さえ込み一人立つ塔、雷の中で深い夜へと一段ず つさらに高いところへと向かう塔を見るその背後には、詩人の歴史認識の厳しさが見て取れる。そ こにあるのは、生きることとも川の流れともあるいは歳月とも異なる綿々たる「흐름(流れ)」の みであった。

 ここで石塔に映し出された哀愁と諦念は、伝統としての石塔の姿に対する詩人の思いであると同 時に、この時代における彼自身の内面をそのままに重ね合わせた感情にほかならない。こうした諦 念、あるいはそれに伴う哀しみは、彼だけでなく当時の知識人たちに常につきまとったものでもあっ たはずである。

 この詩の書かれた時代は、のちにおける呉章煥自身の規定によれば「 나사는곳 (私の生きるとこ ろ)」時代に該当する。それは解放を迎えてこそ「 우리들의 사는곳 (私たちの生きるところ)」と なるのである

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。この時代はじつに「私」だけでしかありえぬ時代であった。逆に言うと、民族と しての自意識を守るためには「私」であることだけは守らなければならぬ時代でもあった。

 呉章煥がこの時期において意識したのは、現実世界に一定の距離を置きつつ「私」を一貫して 見失わぬことであったように思われる。そして彼には可能な範囲でなりとも詩を書くことが必要で あった。解放後のことばではあるが、彼は次のように述べている。

 愛する私の地よ。朝鮮よ!行動力がない私はただ泣きさえすれば後日のために、いやもしも 後日があればその日の青春たちのために、私たちのことばと私たちの文字と、無力な訴えでは あろうが精神だけは腐らせまいと、どれほどもがき苦しんだかを知らせようとした

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 彼は自らの精神だけは腐らせまいと、後日を期して「もがき苦しむ」姿を知らしむべく朝鮮語の 詩を書いたという。実際に、彼には日本語作品や所謂親日的な作品は見当たらない。そして、彼は 次のような発言をもためらうことはなかったのである。

 私たちはいっとき筆を折られ、また自ら折りもした。しかし、この折られ、折ったことは単 なる外観上のことであり、少なくともわずかほどの誠実さがある人であればその内容こそどん なものであれ自らの燃え上がる生命力とともにその歌も続けるべきであっただろう。

 8 月 15 日以後はこの点においてももっぱら外観上でなりとも筆を折った詩人たちが再び自 らのうたを世に問い、万人の前に自らの誠実さに審判を受けるべきであっただろう。

(中略)

 新人よ出よ。すべての先輩たちが日帝の暴圧のもとでも強固に戦ったというのは真っ赤な嘘 である。そして、本当に胸からわき出て本当にうたわないでは耐えられない、そういうときに 書かれたものでなければ、この際、筆を持った人々はこの重大なる現実において貴重な紙面を 新人たちに譲歩せよ

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 筆を折るべき時代、内容がいかなるものであったにせよ、自らの燃え上がる生命力とともに詩作 を続けるべきとした見方は、彼自身の自負に基づくものであろう

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。後日について何ら予測のつか ない状況の中で、彼にとりうる精一杯の時代への抗いは詩を書くことだけであった。

 しかし、一方で発表を前提とする限り一定の制限を受けねばならなかった文学に、詩人がかなり の心的苦痛を感じたこともまた確かであったはずである。太平洋戦争下において発表された呉章煥 の作品は実のところ数編にとどまり、その後、彼は筆を置くことになるのである。

 この時期、彼の抒情の背後には、回避の姿勢としてのみでは規定しつくせぬ感情と詩作への思い が入り混じっているように思われる。そして、彼の自我が外部現実へと向かうことなく孤立した内 的志向を示していることは、さきにも触れたように、この時代における朝鮮語の抒情詩の一つの傾 向を示しているとも言えるであろう。

 徐廷柱によって次のような詩が発表されたことにも注目できるが、ここでも外部現実へと向かう 視角は望むべくもなく、時代から離れた古典的・東洋的世界への傾倒をうかがわせているのが目を 引く。

눈물 아롱 아롱

피리 불고 가는님의 밟으신길은 진달래 꽃비오는 西域三萬里 흰옷깃 염여염여 가옵신 님의 다시오진 못하는 巴蜀 三萬里

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신이나 심어줄걸 은사연의 올올이 아로색인 육날메투리 . 은장도 푸른날로 이냥 베혀서 부즐없은 이머리털 엮어 드릴걸 草籠에 불빛 지친 밤하늘 구비구비 은핫물 목이젖은 새 참아 아니 솟는가락 눈이 감겨서 제피에 취한새가 귀촉도 운다 . 그대 하늘 끝 호올로 가신님아

註 . 육날메투리는 신중에서는 으뜸인 메투리중에서도 가장 아름다운 半島 의신발이였느 니라 . 귀측도는 행용 우리들이 두견이라고도하고 솟작새라고도하고 집동새라고도하고 子 規라고도하는새는 귀 ... 촉 ... 도 ... 귀 ... 촉 ... 도 ... 그런發音으로우는것이라고 地 下에도라간 우리의 祖上들의 때부터 드러왔였느니라 .

徐廷柱「歸蜀道」

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 蜀の杜宇が死んで、その霊魂がほととぎすに化身したという説話をモチーフとしたこの詩では、

死別した「 님 」への哀しい思いがつづられている。「 진달래 」に込められた季節感と愛情と死が、

美しく一つの世界を構築した佳作である。

 呉章煥の詩とはまた異なる情感とリズムを持ったこの作品は、民族的な情緒を巧みに生かしてお り、おもに東洋的、土着的な世界に詩想した詩集『帰蜀道』の時期の徐廷柱の特質がよく反映され ている。徐廷柱自身によると、この詩は 1936 年ごろに書かれた作品であるが

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、発表されたのは 1943 年のことである。

 こうした東洋的な伝統や土着的な世界への帰依、風流を感じさせるこなれたことば使いは、幼く して漢学を学び中央仏教専門学校でも修学した彼の関心の方向によるものでもあり、1930 年代後 半期から 1940 年代にわたる詩壇の古典・東洋志向の傾向と歩みを同じくするものでもあろう。彼 が発表したこうした抒情詩は、この詩も含めいずれも完成度は高い。

 次のような詩も、心地よいリズムと伝統的な世界観によった徐廷柱らしい情緒が濃厚であり、文 学性の高い作品であるには違いあるまい。

잠자는 동생아이 등에다 업고 감나무 그늘에 고개 숙이며 자장가 자장가 부르고 있노라면 山 나물간 어머니는 오지도 않읍네 . 동생의 흘리는땀이 등짝에 훅근하고

( 11 )

(12)

멀리가는 엿장사소리 아렴픗이 들리면 건네山 종이와서 어머니 업어간다든 이웃집 어룬의말슴도 유심히 생각하고

감낭게 피인꽃 헤여도 보면서 떨어지는 감꽃 집홰기에 뀌이며 자장가 자장가 부르고 있노라면 山 나물간 어머니는 오지도 않읍네 .

「 감꽃 」

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 子供の寂しさと小さな柿の花が美しく融合している。こうした土着的な情緒は、彼の詩の個性で あり本質にきわめて近いものであったと思われる。

 ただし、このように東洋的伝統や土着的世界を通じたことばの美への執着をうかがわせる徐廷柱 の抒情と感性は、もとよりこの時代にとりうる詩の枠組みを大きく超える性質のものではなかった とも言えるかもしれない。

 つまり、彼の文学は根本的に自然や人間との調和を目指すものであって、状況との対決を志向し えぬ性質のものであったのではないかとの考えである。

 こうした感性は、結局、彼が残すこととなった何篇かの「時局」に取材した所謂「親日」的な作 品にも関係してくることであろう。

 彼は、1943 年ごろ湖南平野大機動演習に崔載瑞と従軍記者として軍服を着て参加した最後の夜 について次のように記したことがある。

 崔載瑞はここで酒を少し飲みすぎたのかしばらく寝床で眠れずにしきりに体を動かしていた かと思うとついには私にぴったりと近づいてきて私をあたかも自分の恋人でもあるかのように 抱きしめてうっうっとむせび泣いた。彼は事務机に座っているときはとても頑強に見えるが、

それは弱い心を見せないために無理をするのであって、実は酒に酔って私にくっついて来てむ せびなくのが、これが彼の本当の姿であった。そして、そのむせび泣きは彼の親日というもの の本当の姿でもあったものと私は思う。

 大学で英文学を勉強して大学院まで行かずともそのまま大学講師になれるほどに才能のある 人物であり、(中略)そうした彼が英・米国と戦う日本と進退をともにすることにしたのだか らそれも気の毒なことであったが、それよりもより単純に避けられぬものであると踏み出した 一大東亜共栄圏人としてのよく合わない歩行が彼を泣かせたものであると思う。私もこの点は もちろん彼とほとんど同じであったが、しかし、私は彼のように泣きもしなかった。年齢は彼 よりも若かったが、諦念は彼よりもさらに強かったからではないかと思う

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( 12 )

(13)

 こうしたことばは、後年に書かれた自叙伝であるだけにいささか割り引いて考えるべき部分はあ るだろうが、避けられぬと思ったはずの自らの行動に不一致感があったというのは崔載瑞や徐廷柱 だけでなく植民地下の朝鮮において誰しもが経なければならなかった感覚でもあっただろう。それ を意識しつつも、徐廷柱は時局に沿った詩作を選択することとなるのである。そこにはどうしよう もないほどの時代への諦念があった

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。そして、その諦念を深めるほどに、調和と詩そのものの美 しさを志向する彼の感性は、一面においては戦争という外部との調和へと結びつく危険性をも含ん だ可能性があったのではないかとも思われるのである。

 こうした傾向の作品は彼にとってごく一部分に過ぎなかったにせよ、彼は時代によってもっとも 傷つき重い荷物を背負わねばならなかった詩人の一人であった。そしてこの美しいことばを駆使す る詩人を傷つけるに至らせたのが、ほかならぬ日本の植民地支配であった。

 張徳順は「暗黒」期の文学の類型を提示しつつ「文学を生産することによって罪過を負わねばな らず、文学を生産しないことによって功績を積むことになる逆説的な文学史がこの暗黒期の文学と いうものである」

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との見方を提示している。文学を生産しないことがそのまま「功績」となるか どうかには疑問が残るが、呉章煥にせよ、徐廷柱にせよ、作品数はかなり限られるにしてもいった んは文学の生産を志向した詩人であった。詩人として作品を書き発表し続けることが自己を貫く道 であると考えたということであろう。ともに時代への諦念を抱きつつ、呉章煥は抑えきれぬ詩精神 から誠実に詩を書き続けることを願い、徐廷柱は外部現実との対立を忌避しつつ自然・人間との調 和とことばの美を追求する道を選んだように見える。

 そして呉章煥はその後「絶筆」に至り、徐廷柱は親日という「罪過」を背負う限界を伴いつつも、

限界は限界として、詩は詩として、いったんは認めるとすれば、わずかな詩ではあるが過去や伝統、

土着的世界をおもに扱いつつ、彼らは一定の文学性の高さを有する独自の詩の世界を可能な範囲で 提示したと見ることが不可能ではないように思われる。

 それにしても、この時代の文人たちの前にはどうにもならぬ大きな「壁」があったようにも見える。

その「壁」が外部からではなく文人の側から設定された場合、内部世界は外部との関係を固く遮断 した自らの志操のための空間ともなりえたと言えよう。朝鮮の近代詩の形成に多大な功績のあった 樹州・卞栄魯は、次のような詩を書いている。

밖엔 비가오는지도 모른다 또는 바람마저 부는지도 모른다 - 단한간인 내房 네壁안만은 千尋물속같이 고요킬내 .

남의곡식먹는 참새같이 나면서 가난한 나인바에 이누리안 의지할곳 어대인가

( 13 )

(14)

이누리안 고마울것 무엇인가 초라한채 몸담은 이 네壁뿐을 - 바람만 뚤치않고

비만 숨이지안는다면 .

아아 이네壁의 「守護」없었든들 내이제 어대로 허매였을고 생각만하여도 놀라웁고녀 .

네 壁 이 나를 직히이매 내또한 네壁을 기리직히리라 寸步라도 네壁을 내어드디면 그네壁밖은 殊土요 異鄕이리 .

「四壁頌」

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 ここには外部に対する徹底した拒否反応が描かれ、自閉的とも言える立場をもって自らの節操を 求めている。ここで「守護」とあるのは外的勢力、日本に対抗するものとして提示されたものと見 るのが通説である。かなりの逼迫した状況が身に迫っていた以上、当時の文人たちには何らかの内 面の「壁」が必要であったと言えるだろう。

 ただし、時代状況から判断して、表面的には逆に日本による守護をうたう自虐的な知識人の姿が この作品に示されていると見ることも、一方では自然な読み方ではあろう。検閲においてもこの詩 は日本に対して肯定的な作品として考えられた可能性が高い。

 一見肯定的な世界観を示しつつも、それとは別の内的傾向を含むと考えうるこうした手段のあり ようは、この時代における一つの迂回策としての可能性はありそうである。おもに象徴としての表 現の形をとっているため、その解釈はいかようにもとりうるものであるが、通常とは別の読み方が 必要となる作品群がこの時代には確かに存在するように思われるのである。

 こうした類型の詩の解釈は曖昧さを伴うことを避けられず、この詩も読み方は必ずしも単純では ないが、ともあれ詩人の自我が「壁」によってまったく閉ざされているということは言えるであろ う。そして、樹州はこの作品のあと、ほぼ絶筆状態に入っているのである。

 もちろん、詩においてこのように「壁」が描かれるのは必ずしもこの「暗黒」期に限ったことで はない。たとえば、1936 年に徐廷柱が東亜日報新春文芸に当選した作品が「壁」という作品であっ たこともその一例であろう。植民地時代は「壁」に暗示されるように、つねに時代と個人が厳しく 断絶された時代であったと言わねばならない。

 しかし、植民地時代末期において個の感受性と時代との断絶は、なおさらに文人たちに深刻に意 識されたものであったこともまた確かであろう。戦争は朝鮮人にとっては本質的に他人のものでし かなかったし、文学の自由もままならない中で個としての感性や志操は個の内面にしか向かうすべ

( 14 )

(15)

はなかった。「暗黒」期は、呉章煥の言うように「私」でしかありえぬ時代であった。その文学精 神は閉ざされた自我か、あるいは異質な屈折した自我の様相を示すしか方途はなかったと言える。

 この時期に『自画像』(1943.8)『倫理』(1944.12)の二冊の詩集を出版したという意味で独特な 感のある権煥の詩においても同様に「壁」がうかがわれる。

A

거울을 무서워하는 나는 아침마다 하 - 얀 壁바닥에 얼굴을 대보았다

그러나 얼굴은 영영 안보였다 . 하 - 얀 壁에는

하 - 얀 壁뿐이었다 하 - 얀 壁뿐이었다

B

어떤 꿈많은 詩人 은

『第二 의나 』 가 따라 다녔드란다 단 둘이 얼마나 심심하였으랴

나는 그러나『第三의나』…『第九의나』…『제○○의나』까지 언제나 깊은밤이면

둘러싸고 들복는다

權煥「自畵像」

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 文学が外部との対立を許されぬ時代において、こうした詩は、いささかたわいない感は免れぬに せよ、当代の知識人に感じられた閉塞感を部分的に代弁している側面もあることであろう。

 彼はのちにこの時期の作品について「これらの詩は日帝のひどい桎梏のもとで呻吟する一人の無 力者の叫び、嵯嘆、□□(判読不能)に過ぎないもの」と記している

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。無力さの中で、彼はただ 自らを喪失し、そこに「壁」を見るのみであった。

 そして、こうした傾向の一方で、彼のこの時期の詩集を読むと、詩の所々に故郷や母へと回帰す る意識が強く映し出されていることにも気づく。彼の抒情の向かう先は、やはり内的な安息を保証 する対象の希求であったようだ。

 さらに、彼が次のような作品で自己のありかたとしての意思を漠然とではあるが見せていること は、この時期の作品の中では異例であると言える。

( 15 )

(16)

박꽃같이 아름답게 살련다 흰 눈 (雪) 같이 깨끗하게 살련다 가을 湖水같이 맑게 살련다

손톱 발톨밑에 검은때 하나없이 갓 탕건에 먼지 흴흴히 털어버리고 축대 뜰에 띠끌 살살히 쓸어버리고 살련다 박꽃같이 가을 湖水 같이

봄에는 총달새

가을에는 귓도람이 우는소리 천천히 들어가며

살련다 박꽃같이 가을湖水같이

비가 오며는 참새처럼 노래하고 바람이 볼며는 톡기처럼 잠자고 달이 밝으면 나비처럼 춤추며 살련다 박꽃같이 가을湖水같이

검은 땅우에 굳굳이서 푸른 하늘 쳐다보며 읏으련다 별과함께 별과함께

앞못 물속에 흰 고기떼 뛰다 뒷산 숩속에 뭇새 우누나

살연

ママ

다 박꽃같이 아름답게 湖水같이 맑게

權煥「倫理」

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 彼の文学の中心は 1930 年代カップにおける活動であったとすべきであるが、そうした時代とは 正反対に、この時期の彼の詩は純粋さに一貫することで戦時下という厳しい時代背景とはまったく 離れた世界を見せている。どこか孤立感をうかがわせつつも、汚れなく清らかに生きようとする姿 勢には、信念をも伴っているようにも見える。純粋な心で星とともにあること、それがこの時代に 生きる彼自身の「倫理」であったのだろうか。

( 16 )

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 カップの少壮派として中央執行委員までも歴任した経歴を持つ彼の向かった先が、このような純 粋詩の選択であったことには、もちろんそれなりの背景があったはずである

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 こうした詩作の前提となるのは転向の問題であろう。彼は 1931 年のカップ第一次検挙では不起 訴処分を受けたが、1934 年 7 月にカップ第二次事件によって検挙され 1935 年 12 月に懲役 1 年 8 ヶ 月、執行猶予 3 年が言い渡されている。この執行猶予は転向を誓約することにより刑を免じられた ものであった

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。彼の文学の方向が大きく変わるのは、このあとのことである。

 ただし、彼の詩に所謂親日詩に該当するようなものが見当たらないのも事実なのである。彼は純 粋性を志向しつつ、かといって日本をそのままに受け入れたわけではなかった。そのありようもま た彼にとっての一つの「倫理」であったと言わねばなるまい。

 また、彼の場合、詩作の数と、外部現実と一貫して接点のない自意識が、この時代においてかな り突出しているようにも見える。これについては、彼が持病である肺結核に苦しんでいたことも関 係しているかもしれない。思想に挫折し、病にも苦しまなければならなかった彼にとって、この時 代における第一の希望は、まずは生きることであった。彼の心には死の恐怖があり、そうであるほ どに彼は生の美しさをうたわずにいられなかったのではないか。彼はただ純粋に生き、これからも

「明日」

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があることをひたすら願い、時代に対する無力さを自覚しつつ、ただ自らの生の証とし て抒情を書き続けることを希望したのではなかったろうか。

 したがって、この時期の彼の二冊の詩集は、彼の思想的転換の傷跡であると同時に、自らが生き た記録としての産物でもあったように思われるのである。彼がこの世を去ったのは 1954 年のこと であった。

 このように権煥が純粋を志向して自らに何らかの「倫理」を課したのとは反対に、現実との関係 においてその葛藤に何らかの合理化が図られなかった場合、詩の内的秩序が失われ、現実逃避や彷 徨、苦痛を詩にそのままに映し出すことにもなりえたであろう。次のような詩はそうした心的負担 の一部をうかがわせるように思われる。

汚辱 의가슴을 汽車 에싫고

멀리 南北으로 千里식 달아나보다

智慧와敎養과 人格을 喪失한者 너는 빨간 혓바닥만가진 배암이다

한번 목노아 크게울구싶으나

먼저 눈물의 表情 을 侮蔑 해버리고말다 汽車가『턴넬』을지날때 폭은한暗黑속

( 17 )

(18)

그래도 다시 電燈 을 끄고싶은마음이어

눈오시는風景은 너무나 아름답고 맞나는사람마다 마음이 깨끗한데

나는 달리고 달리어도

내 傲慢한몸둥아리를 어따 處置할데없구나…

(中略)

알뭄으로 가시덤풀에 궁글러 피내이고싶으다 피흘리고싶으다

누구에게나 무릅끓고

땅에 이마를대어 절하고싶으다 . 이따금 먼 虛空을 바라다보며 두팔을 뽑내어도보나

되잖은 뚝심 꽉 눌러버리고

그대로 審判마당에까지 끌리어가고싶으다

그러나 나는 여전히 어둠속에서 불빛을 죽이고 날마다 날마다 傲慢 을 살찌우며있을뿐이러구나

(悔改하구 罪짓고)

(罪짓구 悔改하고…)

安懷南「傲慢한놈」

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 この作品にうかがわれるのは激しい悔恨の念であり、自虐的とも言えるほどの自己嫌悪である。

事情や背景が何ら示されぬまま、詩的技巧もほとんど意識されず、ほぼ「知恵も教養も人格も喪失 した」姿が切々とつづられるのみである。彼が「罪」としたことの内容は知る由もないが、時代的 状況を勘案すれば、彼自身がはからずも行わざるをえなかった対日協力を悔いたものであるとの推

( 18 )

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測は不可能ではあるまい。「(悔改 하구 罪 짓고 )(罪 짓구 悔改 하고 …)」という罪意識の反復性は、

その可能性をより高めているように思われる。実際に、彼の文には「徴兵制実施万歳」(毎日新報 , 1943.8.7.)というものも存在するのである。

 この戦争下においていかなる文学をなすべきか、あるいは筆を折るべきか、その苦悩は文人た ちにきわめて深刻な問いかけにほかならなかった。そして当時の文人にとってよほどの信念を持 つか内的合理化がなされぬ限り、日本への協力は激しい恥辱を伴うものであったと言わねばなら ない。たとえ対日協力がなされるとしてもそこには激しい悔悟のくり返しがあったとすべきであ ろう。そして、多くの文人は筆を折り故郷へと帰ったのであった。

 この詩のように激しい感情が表面的にはあらわれずとも、何らかの鬱屈した自我の影はこの時 期における一つの典型として、ほかの詩人においても別の形で見られるものであるように思われる。

 それについては、たとえば金朝奎の詩をあげることもできよう。満州において活動した詩人と しておもに知られる金朝奎はプロレタリア詩の影響を受けて詩作をはじめ、1934 年ころに思想的 な挫折を経てモダニズムに傾倒、無力な知識人としての自らに絶望し、その絶望に病んだ内面を 繊細かつ新鮮な心象で描いた詩人であった。しかし、彼は 1942 年に「南方消息」、1944 年に「貴族」

など、これまでとはまったく詩想の異なる、示された観念も意味を捉えるのが困難な不自然な詩 作を行うことになる。こうした異質な詩作の背後には金朝奎が味わわなければならなかった時代 へのさらなる絶望があったのではないかとの推測も可能ではないかと思われる。

 ともあれ「壁」に象徴されるような閉ざされた自我、あるいは鬱屈した自我の影は、ここで見 た卞栄魯、権煥、安懐南のそれぞれの詩においてある程度典型的な様相を示しているように思わ れる。厳しい状況に対して詩人の側から「壁」を設定し、外部現実と距離を置く姿勢は絶筆まで を含めてこの時代における志操を意味するものであるが、一方でそれが外部からの圧力・制約と して意識された場合、詩において自我は屈折した姿を示すかそこからの退避という形であらわれ ることとなる。さらにその「壁」に屈することで内的秩序を喪失したとき、詩は激しい混乱や以 前とはまったく異質な詩世界の提示へと至ることともなりえたのであった。

 さきの呉章煥や徐廷柱の詩においても外部現実からの距離感ということでは共通した理解が可 能な部分である。そうした現実との距離を共通して映し出しつつも、この時代に詩を発表した詩 人たちの姿は必ずしも一様ではなく、詩人それぞれの限界の中での苦悩や哀しみ、内的葛藤が、

さまざまな形で詩に映し出されることとなるのである。その評価の如何はともかくとして、それ ぞれがこの時代を生きた詩人たちの一つの精神史的な軌跡であることには違いあるまい。

 一方、1930 年代後半期に呉章煥、徐廷柱と並んで「三才」と称された詩人に李庸岳がいる。彼 もまたこの時代にわずかながら詩作を試みている。この作品は生活の中での情感を映し出してい る点で、この時期では特徴的であるように思われる。

밤마다 꿈이 많아서 나는 겁이 많어서

( 19 )

(20)

어깨가 처지는 것일까

끝까지 끝까지 웃는 낯으로

아해들은 요란스레 층층계를 내려가버렸는데 벗 없을 땐

집 한칸 있었으면 덜이나 곤하겠는데

타지않는 저녁하눌을

가벼운 병처럼 스처흐르는 시장끼 어쩌면 몹씨두 아름다워라

앞이건 뒤건 내 가차이 모올래 오시이소

논 감고 모란을 보는것이요 눈 감고

모란을 보는 것이요

李庸岳「집」

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 李庸岳自身の生活そのものを主題としており、やや分かりづらい部分もあるが、この詩には貧し さに家という安息の場を得られず、疲れ果てる彼の姿が哀切に描かれている。彼は空腹という人間 の生理に美しさを見ると同時に、目を閉じた心の中に花開かせる美の世界を語りかけるのである。

このように苦しい現実や挫折感の中でもとどまることのない抒情は、彼の詩においてほぼ一定して 見ることのできる要素であろう

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 ただし、ここでも詩人は何らかの外部対象を描くのではなく、ほぼ自らへと集中している。詩人 の視線は部屋の外へと向かうことなく、やはり閉ざされている。

 この時、李庸岳に感じられたのは、自らの無力さに伴う脱力感であり、時代・生活への絶望に起 因するであろう疲労感であった。「目を閉じる」ことでしか「牡丹」を見ることのできぬ美のあり ようは、孤立した「私」を志向するこの時代における「抒情」の姿を、象徴的にうかがわせている ように思われる。

 この作品の背景となる頃の彼の生活の断面については次のような徐廷柱の自叙伝が参考になりそ うである。

 詩人李庸岳は明太子をひと箱持ってきて「私は部屋がなくてこれを置くところがないから君 が食べるといい」と言って置いて行った。李庸岳は日本で大学に通いこの時「人文評論社」と

( 20 )

(21)

いう雑誌社で編集の仕事をしていたので、私であれば間借り暮らしをする気にさえなれば部屋 の一つくらいは維持することもできたはずであるが、私とは違って彼はいつもあるものと言え ば酒だけで、部屋も洞穴もない浮浪人で春から秋まではよく公園のベンチの世話にもなり、さ もなくば金相瑗のような友人の薬局で店が閉まるのを待って夜を明かすこともたびたびであっ た。そして、彼は生きようとするのではなく死が訪れるのを待っているようであった

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 彼は部屋の一つもなく、生きようとするでもなしに、ただ死が訪れるのを待つようであったとい う。その彼の最後の砦は心の中に牡丹のように持ち続けた抒情であったことだろう。

 もとより彼は民族の貧しい生やその生活情緒を多く描いた詩人であった。おそらく幼少年期から の貧困や故郷・鏡城の土地とも無関係ではありえぬであろう貧しい生や流浪民へと向けられた関心 を、この時代において彼は自らの胸の深くへと内化させるよりほかはなかった。死を待つしかない ような疲労感の中で、彼は同胞への思いと故郷の記憶、詩人としての抒情をただ「牡丹」のごとく 心の中に秘めるのみであった。結局、彼は「집」の発表された 1942 年、故郷へと帰ることとなる のである。

 なお、彼は 1939 年から 1942 年までの作品を集めて、1947 年に詩集『오랑캐꽃』を発行してい る。もともとこの詩集は、故郷へと帰る前に出版しようとしたものであったが望みがかなわず、そ の後、故郷において原稿が警察に没収される経緯を経て解放後にようやく出版へとこぎつけたもの である。この詩集については、それ以前の詩集とは異なり表現の技巧に傾いており、そこには日本 の抑圧に対する回避としての転換の意味があったとの指摘がある

51

。妥当な見方であろう。

 また、この時期の彼の詩において部分的に時代を肯定するような詩句もないわけではない。それ によりこの時期の彼の詩作については「親日」性に関する議論が存在した。しかし、こうした類の 作品はいずれも一般的な国民詩とは異なり、国民意識を高らかに歌うよりは抒情性を生かしつつも 表現が漠然としていたり、象徴としての手法をとっているのが特徴である。ことばが繊細であった それまでの詩に比べて詩的緊張感も希薄なほうである。李庸岳がどうした意図からそうした表現方 式を選んだのかの問題は、必ずしも単純ではなさそうであるが、彼のこうした一連の詩も通常とは 異なる読み方が求められるということは言えるであろう。

 さらに、部屋一つ持たぬ貧しさの中で人文評論社で働いた彼としては、対日協力を何らかの形で 詩に映し出すことも避けられなかった可能性はあろう。不本意にもそれを書かねばならなかったと しても、それをせめて偽装するためには迂回的な表現の形態をもって観念的に詩を書くしかなかっ たという見方は捨てきれない。特定の詩句のみをとらえて彼の親日性を論ずるのはやや一面的であ るように思われる。

 ともあれ李庸岳の「 짐 (家)」はその哀しげな語り口がこの時代にあって特徴的であり、またそ の意味で重要な詩であるように思われるが、はじめに触れた呉章煥が次のような詩を書いているこ とも、この「暗黒」の時代を象徴的にうかがわせるように思われる。この作品もまた、この時代に おいてもっとも哀切な作品の一つであろう。

( 21 )

(22)

 羊 아 , 어린 羊 아 조히를 주마 . 어째서 너까지 動物園에 사는지

 羊아 , 어린羊아 보드라운 네 털 구름과 같구나 . 잔듸도 없는 쓸쓸한 木柵안에서

 羊아 어린羊아

너는 무엇을 생각하느냐 .

 羊아 어린羊아 조히를 주마 . 보낼곳도 없이

그냥 그리움에 내어친 편지

 羊아 어린羊아 새암물같이 맑은 눈

葡萄알모양 초롱 초롱한 눈으로 나도 좀 보아라 .

간약한 木柵 에 기대어서서   羊 아 , 어린 羊 아

나마저 무엇을 생각하느냐 .

吳章煥「羊」

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 雲のように柔らかな毛と泉のように澄んだ目を持つ幼い羊が囲われた動物園の木柵の中は、この 詩人の置かれた植民地現実でもあったはずである。ただ従順に生きるしかすべのない幼い羊に、彼 は自らの悲しみを映し出している。そしてその向こうには、植民地朝鮮に生きる同胞への彼のとめ どない愛情がある。呉章煥はこの詩の発表の後、筆を置くことになるのである。

 この作品をもって呉章煥が植民地時代の詩作を終えるにいたったことは印象深いことである

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。 さきに触れたように、彼はいかなる時代においても燃え上がる生命力で詩を書くべきと考えた詩人 であった。実際に、彼は 1943 年まで詩を発表し続けたのである。しかし、彼が解放前に最後に残

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すことになったのはこのようにあまりに哀しい歌であった。このあと、あたかも羊に送るあてのな い手紙を与えたように、彼は自らの詩を封印することとなるのである。

 もちろん、戦争の時代にこうした抒情を提出することにどれほどの意義を見出せるかは疑わしい 部分もあろう。しかし、李庸岳の「집」や呉章煥の「羊」に見られるような哀切さは、厳しい時代 状況への彼らの最後の抵抗であり、彼らの守り続けた最後の抒情でもあったものと思われる。彼ら はすべてが尽き果てて筆を折ることとなったのである。そして 1944 年を超えると、朝鮮語の抒情 詩は権煥や盧天命の詩集などを除き、ほとんどのちに再び文壇で名前を確認することのできない新 人の投稿程度しか読むことができなくなってしまうこととなる。

 しかし太平洋戦争下にここで紹介したような詩が存在したのもまた事実である。空白であるとさ れる文学史を埋めるものは親日文学だけではなく、たとえ占める割合は小さいものではあっても、

こうした詩人たちの努力でもあるだろう。

 それぞれの詩人にはそれぞれの限界が伴わなければならなかったが、いったんは実際に発表され た彼らの作品に目を向ける必要はあるものと思われる。

 もちろん、さきにも断ったようにこの時期の詩は数も限られており、作品の文学性の高さも必ず しも一様に高いとは言えないのは事実であろう。中堅のほとんどが沈黙した中ではそれはある程度 やむをえぬものでもあった。かといって、ここで言及したいずれの詩をもその抒情を無意味である と切り捨ててしまうべきかどうかは疑問である。

 これまで呉章煥論や李庸岳論、権煥論など各詩人論においてそれぞれの「暗黒」期における詩作 についての言及はなされてきたものではあるが、筆者の知る限り、この時代の抒情詩に対する共時 的な研究はほとんど存在してこなかった。検討すべき作品はごく限定的ではあろうが、あらためて きびしい状況のもと実際にいかなる抒情がこの時代に提出されたかを、より正確かつ広く整理する 必要があるように思われる。

 また、はじめに筆者はこうした部分の理解が尹東柱や李陸史の理解においても一つの参考となり うるとした。たとえば尹東柱の文学は当時の詩人たちなりのこうした創作努力や絶筆という文人と しての態度に隣り合わせに存在したものである。その時代精神がいかなる側面において彼らとは異 なるかの検討と死をも伴った尹東柱の日本体験を文学史からどう把握しうるかの両面から、尹東柱 の文学史的な位置や「抵抗」の意味は確認されるべきであろうというのが筆者の考えである。

(筆者は詩人・尹東柱を研究する過程で「尹東柱の文学に対する評価をめぐって」[『朝鮮近代文学 者と日本』、平成 11 年度〜 13 年度科学研究費基盤研究 B(1)研究成果報告書、早稲田大学大村研 究室]において、1940 年代前半期における尹東柱の文学の意味について検討を試みたことがある。

本稿はその論文における 1940 年代前半期の抒情詩に関する部分の記述を土台として大幅に書き改 め、加筆し、引き継いだものであることを明らかにしておく。本稿は「太平洋戦争下の朝鮮におけ る抒情詩の姿」上編であるが、以降、下編においてはこの時期の日本語詩について検討を試みる予 定である。)

( 23 )

参照

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