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『 お も ろ さ う し 』「 ふ し 名 」 考

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(1)

『おもろさうし』「ふし名」考三五

一、はじめに

  一五五四首(安仁屋本)のオモロが入る『おもろさうし』には、一三七三首に「ふし名」が記されている。これは、紛れもなくオモロが歌謡として謡われていた証拠だと思われる。しかし、一九一二年(明治四十五)の八月、沖縄師範学校をその年の三月に卒業した山内盛彬が、最後のおもろ主取、安仁屋真苅翁から採譜したオモロは、「五曲六種(首)」でしかなかった。採譜した「五曲六種」は、「あおりやへがふし」(第二十二―一五○八の第一節に相当)、「おしかけふし」(第二十二―一五○九の第一節に相当)、「かぐらふし」(第二十二―一五一七の第一節に相当)、「あかずめづらしやがふし」(第二十二―一五五○

一五四六の第一節に相当)、「しよりゑとふし」(第二十二―一五五四に相当)である (注。これらは、いずれも第二十二「みおやだいりおもろ御 さうし」にあるオモロで、しかもそれぞれの「みおやだいり」(御親内裏で王府の公事をいう)でおもろ主取によって謡われる冒頭に位置するオモロになっている。「あおりやへがふし」は「稲の穂祭之時おもろ」の一番歌、「おしかけふし」はその二番歌、「かぐらふし」は「稲の大祭之時おもろ」の一番歌、「あかずめづらしやがふし」は「唐船すらおるし又御茶飯之時」のオモロと「雨乞の時おもろ」、「しよりゑとふし」は「御冠船之御時おもろ」である。第二十二に入る「唐船すらおるし又御茶飯之時」「雨乞の時おもろ」「御冠船之御時おもろ」は、一首しか記されていないのでなんともいえないが、「稲の穂祭之時おもろ」は九首(他に「うらおそいおもろのふし」「くにおそいきみのふし」「おちいてはいとかずおもろのふし」等がある)、「稲の大祭之時おもろ」は十二首(他に「てがねまるふし」「かみしも天とよみがふし」「きみがなしふし」等がある)があるが、その冒頭部分の「ふし」しか

『おもろさうし』 「ふし名」考

島   村   幸   一

(2)

立正大学大学院紀要 三十二号三六採譜されていない。これを考えると、最後のおもろ主取が伝えていたオモロは、山内が採譜した「五曲六種」のウタでしかなかったと推測される。現に山内自身も「五曲六ふしが主取の唱う全曲であり、又私の採譜総数である」と記している (注

  すなわち、第二十二にある一五二九から一五四五の「知念久高行幸之御時おもろ」(十七首)は、摂政向象賢(羽地按司朝秀)の「知念玉城久高行幸」停止の仕置(『羽地仕置』一六七三年)後、謡われなくなった可能性が高い。それを裏付けるのは、『琉球国由来記』(一七一三年)巻二「官爵位階職之事」に記されるおもろ主取の「職」(「九二 御唄」)には、「知念久高行幸」に際してオモロが謡われることが記されてはおらず、記されているのは稲の穂祭りと大祭、渡唐船にかかわる儀礼(「渡唐衆御茶飯」「唐船洲 新下」)と雨乞い(「知念斎場

・ 玉城

雨粒

乞御嶽 ・ 雨

  は、『おもろさうし』再編纂(一七一○年)以降、新たに謡われたオモ家譜序』、『球陽』巻四)。その湛氏数明親雲上の子「一世宣存恩納親 本のみに入っていることでも知れる。つまりは、第二十二―一五五四り「家来赤頭職」を賜り「神歌頭」になったという人物である(『湛姓 りゑとふし」)は尚家本にはなく、おもろ主取のテクストである安仁屋謡うことで海を穏やかにして、国王の乗る船を海難から救った功によ が新しいことは、「御冠船之御時おもろ」第二十二―一五五四(「しよ~一五六六年)に尚清王の久高島行幸に随い、帰島する折「神歌」を 山伝信録』)をした場面で新たに謡われだしたものと推定される。これしかし、安仁屋家以前にも、湛氏数明親雲上は「嘉靖年間」(一五二二   使徐葆光)の歓待儀礼(中秋宴)でおもろ主取が「神歌ノ祝頌」(『中村安仁屋親雲上」の名が記されていることによって明らかである。   し、「しよりゑとふし」も一七一九年の中国の冊封使節(正使海宝、副め」られた『おもろさうし』の奥書に「おもろ主取宜野湾間切大山 六種」のうち、「しよりゑとふし」を除いた「ふし」と対応する。しかさうし』再編纂時のおもろ主取であったことは、今日伝わる「書き改 之御嶽」)である。これらは、山内が伝える「五曲ろ主取が伝えてきたオモロである。安仁屋家のおもろ主取が『おもろ ・ 弁 (注 も、山内が採譜した「ふし」はある時期から安仁屋家に固定したおも うとする直前の第二十二の一部のオモロを伝えているのである。しか   いずれにしても、山内が採譜した「五曲六種」のオモロは、滅びよ 考える上で重要である。 しか謡わなくなったのか。この問題は、第二十二のオモロのあり方を 相当に早い時期から安仁屋おもろ主取は、山内が伝えるようなオモロ ロを伝えた最後のおもろ主取が就任する直前期だったのか、あるいは がいつの時期から謡われなくなったかということである。山内にオモ の穂祭之時おもろ」「稲の大祭之時おもろ」で、外のオモロ(「ふし」) 祭りと大祭のオモロは、三首のオモロしか伝えていない。問題は「稲 モロが謡われた場面のオモロと対応しているのである。ただし稲の穂 ロである。結局は山内が伝えた「五曲六種」のオモロは、近世期にオ (注

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『おもろさうし』「ふし名」考三七 雲上」(一五六一~一六三八年)は「万暦三十七年」(一六○九年)に「御唄役」になって、尚寧王に随って薩摩に行っている (注。また、宣存の兄弟「一世  平安名親雲上」、同じく「一世  伊良皆親雲上」は「万暦年間」(一五七三~一六一九年)に「御唄勢頭」、「二世  恩納親雲上宣安」は「万暦四十五年」(一六一七年)に「御唄勢頭」、「二世  池原御唄親雲上」は「天啓年間」(一六二一~一六二七年)に「御唄勢頭」にそれぞれなっている(『湛姓家譜』)。また、『章姓家譜』にも「中地親雲上」は「万暦年間」(一五七三~一六一九年)に「御唄勢頭部」、その甥「玉寄親雲上」は「尚豊王時」(一六二一~一六四○年)に「御唄勢頭部」、『武姓家譜』にも「野国親雲上宗清」は「万暦十五年間」(一五八七年)に「初めて御唄勢頭部」になったという記事がある (注。このように家譜等の記事には、安仁屋家以前のおもろ主取(御唄勢頭)等がいたことが記されている。  現在僅かに伝えられているオモロの「ふし」は、安仁屋家が伝えたオモロの「ふし」であって、それがたとえば、神女が謡っていたオモロの「ふし」やあるいは他の男性歌唱者が謡っていた「ふし」と、どのような関係にあるのかがまったく分からないのである。つまりは、『おもろさうし』の「ふし名」研究は、肝腎の「ふし」のひとつひとつの実態がほとんど分からない中で研究をしなくてはならない状況にあり、後述するように「ふし名」の根本が分かっていない。  これまでの「ふし名」にかかわる主な研究は、前述した山内盛彬の 研究の外に、山内が伝えたオモロを報告した『沖縄市文化財調査報告 第五集  王府おもろ (注』、勝れた琉球歌謡研究を発表した世礼国男「琉球音楽歌謡史論」に入る「五、おもろの節名 (注」、仲原善忠の『おもろのふし名索引』(沖縄文化協会、一九五一年刊)に入った「ふし名索引」と「あとがき」に記された研究、同『おもろ新釈』(琉球文教図書、一九五七年刊)の「解説」に入る「六  おもろのふしと型 (注」、池宮正治「おもろのふし名ノート」(『琉球大学法文学部紀要  国文学論集』琉球大学法文学部、一九七七年刊)、同『おもろさうし  ふし名索引』(ひるぎ社、一九七九年刊) (注

(注、拙論「『おもろさうし』の「ふし名」について」(『沖縄文化研究』第十号、法政大学沖縄文化研究所、一九八三年刊)等がある。外に、おもろ主取を論じた末次智「おもろ主取論」(同『琉球宮廷歌謡論  首里城の時空から』森話社、二○一二年刊)がある。特に池宮正治『おもろさうし  ふし名索引』によって「ふし名」の全貌がみえてきたが、逆にみえてきた分だけなぞが深まったといってよい。

  本稿は、三十年以上も前に書いた旧稿「『おもろさうし』の「ふし名」について」を新たな知見を入れて全面的に書き直した論である。年数を経た割には大きく研究が進んでいないが、『おもろさうし』研究には「ふし名」の解明が不可欠であることから、敢えてまとめた。

(4)

立正大学大学院紀要 三十二号三八

二、 「ふし名」のなぞ

(ⅰ)「間接命名」という名付け

  「ふ し名」の大きななぞのひとつは、仲原善忠が「ふし名の大部分」の命名法だとする「間接命名」の存在である(『おもろ新釈』)。「間接命名」の「ふし名」は、例えば第八―四六四の「ふし名」は「かねのてだみこしがふし」であるが、これは、第八―四六七の冒頭部分「一阿 の子 が  金 かねのてだ御 こし  差 しよわ遣 り  世添 わる御 こし」を出所としている。ところが、第八―四六七の「ふし名」は「あかいんこがふねたてばがふし」であり、これは第八―四六四の冒頭部分「一阿 の子 が  船 ふね  発 てば  国 くにのちやら  と声 こいちへ  御 み顔 かう  拝 おがま」を出所としている。すなわち、世礼国男の「琉球音楽歌謡史論」によれば、第八―四六四と第八―四六七とは相互に「ふし名」が出入りする「同一節」と理解される関係にあり、第八―四六四の「かねのてだみこしがふし」と第八―四六七の「あかいんこがふねたてばがふし」とは、同じ節(曲節)というように考えられている。さらに、第八―四六四は、Aグループ第二―七○

・ 第十五

―一○五二「あかいんこがふねたてばがふし」、第四―一七一「あかいんこがふねたてがふし」、第八―四七○「あかいんこがふねたてふし」、第八―四三七

―四六二 ふねたてふし」、第八―四五九「うちいてはふねたてばがふし」、第八 三八「あかのこが ・ 四

・ 第十六

―一一四五

・ 第二十

―一三七二

・ 一三七三「ふねた

てばがふし」の「ふし名」の出所であり、表記は少しずつ異なるがこれらは同じ節である。また、Aグループにあった第八―四五九は、Bグループ第十五―一○八二「あかのおゑつきねはのおゑつき月てだのやにてゝかゞちよわれがふし」、第八―四五七「月てだのやにてゝかゞちよわれがふし」、第十六―一一六三「月てだのてゝかゞちよわれがふし」の「ふし名」の出所になっていて、これらも表記は異なるが同じ節であり、さらには、AグループとBグループの「ふし名」に加えて、前述した第八―四六四の「かねのてだみこしがふし」も加わって、これらは同じ「ふし名」グループで同じ節(曲節)だと理解されている(〈図〉参照)。

8―467

8―464 8―437

8―438

8―462 16―1145 20―1372 20―1373

15―1082 8―459 16―1163

8―457 2―70

15―1052

4―171 8―470

*→は、出所となったオモロとその「ふし 名」が付されたオモロとを表す。例え ば、 8― 464 → 2― 70 は、2― 70 の「ふし名」が8― 464からでているこ とを示している。

〈図〉◦あかいんこがふねたてばがふし  2―

70・8―

467・ 15― 1052〔出所8―   ◦あかいんこがふねたてがふし4― 464〕

171〔出所8―

464〕

(5)

『おもろさうし』「ふし名」考三九 ◦あかいんこがふねたてふし  8―

470〔出所8―

  ◦あかのこがふねたてふし8― 464〕 437・ 438〔出所8―

  ◦うちいてはふねたてばがふし8― 464〕 459〔出所8―

  ◦ふねたてばがふし8― 464〕 462・ 16― 1145・ 20― 1372・ 1373〔出所8―

  ◦かねのてだみこしがふし8― 464〕 464〔出所8―

  ◦月てだのやにてゝかゞちよわれがふし8― 467〕 457〔出所8―

  ◦月てだのてゝかゞちよわれがふし 459〕 16― 1163〔出所8―

 ◦あかのおゑつきねはのおゑつき月てだのやにてゝかゞちよわれがふし 459〕 15― 1082〔出所8―

459〕

  つまりは、第八―四六四の「ふし名」「かねのてだみこしがふし」は、「あかいんこがふねたてばがふし」系の「ふし名」、「あかのおゑつきねはのおゑつき月てだのやにてゝかゞちよわれがふし」系の「ふし名」と同一の節だと考えられているのである。Bグループの「ふし名」には「あかのおゑつきねはのおゑつき月てだのやにてゝかゞちよわれがふし」を短縮した「月てたのてゝかゞちよわれがふし」があり、これが同じ節だとすることも分かりやすいものではないが、前述したように「かねのてだみこしがふし」「あかいんこがふねたてばがふし」系の「ふし名」、「あかのおゑつきねはのおゑつき月てだのやにてゝかゞちよわれがふし」系の「ふし名」とが同一の節だとすることは、さらに分かりにくい。このことは、第八―四六四は第八―四六七以下、十二首のオモロの出所になっていて本歌的なオモロに位置するにもかかわらず、これには第八―四六七を出所とする「ふし名」が付けられていて、本歌的なオモロになっていないということでもある。しかし、 多くのオモロの「ふし名」は、このような「間接命名」といわれる「ふし名」である。(ⅱ)歌形および音数から窺われる問題  オモロは、多く対語

・ 対句によって展開する連続部(対句部)とい われるパートと囃子に由来し各節に繰り返される反復部(繰返部)といわれる二つのパートから一節が構成される歌謡である ((

(注。オモロに連続部と反復部という二つのパートがあると思われるのは、例えば第九「色 いろ〳〵のこねりおもろ御双紙」のオモロに付く「舞の手」(躍りの手)が、ほとんど反復部に付いていることからも知れる (注

(注。「舞の手」の基本は、各節に繰り返される同じ歌詞(すなわち、反復部)に付けられる躍りの動作を記していると理解される。オモロの「ふし名」の理解が難しいのは、例えば同じ「あおりやへがふし」が付くオモロが、以下あげるように歌形が異なるオモロや連続部、あるいは反復部の音数が大きく異なるオモロにみられることである (注

(注

〈例一〉第十二―七四○(第四―一五○)あおりやへがふし一聞 きこ大君 ぎみぎや   さしふ  降 れ直 なおちへ   按 おそいしよ  十 もゝすゑ  末 すへ  勝 まさて  ちよわれ

(6)

立正大学大学院紀要 三十二号四〇又鳴 む精 だかが   むつき  降 れ相 て(以下省略)

〈例二〉第五―二五六あおりやへがふし一あかわりぎや  おもろ   あかわりぎや  せるむ   思 おもひ子 ぐわす  十 ひやくよ  ちよわれ又今 日の良 かる日 に   今 日のきやがる日 に(以下省略)

〈例三〉第四―一九三あおりやへふし一聞 きこへ差 さすかさが   世 ほう  歓 あまへ又鳴 む差 さすかさが   〈例

三〉は対語が二節に跨っているタイプの歌形で、連続部「聞 きこへ差 さす

かさが/鳴 む差 さすかさが」が一節で八音ずつのオモロ、反復部「世 ほう  歓 あま へ」が七音程度のオモロだと考えられる。一方、〈例一〉は〈例三〉と同じく対語が二節に跨っているタイプの歌形で、一節の連続部が「聞 きこ

大君 ぎみぎや  さしふ  降 れ直 なおちへ/鳴 む精 だかが  むつき  降 れ相

て」であり、連続部が十六音であると考えられるオモロ、反復部は「按 司襲いしよ  十 百末  末 すへ  勝 まさて  ちよわれ」で、二十音程のオモロである。これは、〈例三〉と比べると連続部では二倍の音数になり、反復部では三倍程の音数になる。あるいは、連続部と反復部を合わせた音数の差は、二倍半というようになる。これを、同じ「ふし」で謡うということは可能なのか。また、〈例二〉は一節の中に対語があるタイプの歌形で、〈例三〉とは異なるタイプの歌形のオモロである。歌形と「ふし」は必ずしも関連しないというのならば問題はないが、それにしても〈例二〉の連続部「あかわりぎや  おもろ/あかわりぎや  せるむ」「今 の良 かる日 に/今 のきやかる日 に」は、それぞれ十六音程、反復部は「思 おもひ子 ぐわす  十 ひやくさよ  ちよわれ」で十三音程の音数である。これも、〈例三〉の音数とは二倍程のひらきがある。これを同じ「ふし」で謡うには、どのような曲節、あるいは歌唱が想定できるのか。   前述した山内盛彬が伝えたとする「五曲六種」のオモロは、いずれも詞章の「間に詰め込まれた意味のない挿入語」を多く入れた歌唱になっており、少し聴いただけでは詞章の意味が取れないウタである (注

(注。このような歌唱が、袋中が記す『琉球神道記』第五に記される「唱ハ御 唄ナリ。竺土ノ唄ノ如シ」という記事 (注

(注や、前述した『琉球国由来記』

(7)

『おもろさうし』「ふし名」考四一 巻二「九二  御唄」に記される「言葉少、情尽タリ。謡長詠也」という記事と繋がるのか不明である。袋中の記事は「所所ノ拝 オガミバヤニ遊給フ」「キンマモン」が謡う「御 モリ」をいったもので、神女が謡う「御

モリ」を記した記事。これは、『使琉球録』が「大明一統志」から引く「尸婦は女君と名づけ、(途中、省略)王宮中に入りて以て遊戯す。一唱百和、音声哀惨なり」と繋がる記述になると理解される (注

(注。『琉球神道記』の「竺土ノ唄ノ如シ」は、梵唄(声明)を意味していると思われるが、よくは分からない。『琉球国由来記』の「言葉少、情尽タリ。謡イ長詠ア也」は、おもろ主取の「御唄」の様であるが、山内が伝える「五曲六種」のオモロの謡われ方と重なるか。しかし、「大明一統志」の「一唱百和」という謡い方とは異なるかもしれない (注

(注。「五曲六種」のオモロは、独唱するかたちでなければ謡いにくいウタではないのか。それに対して、神女のオモロは「一唱百和」が可能なウタであるということになる。問題は、現在伝わる「五曲六種」が、少なくとも第二十二に記されたオモロや『琉球国由来記』に記されたオモロに近いウタなのかそうでないのか、あるいは『琉球神道記』に記されたような神女が謡うオモロと、『琉球国由来記』が記すおもろ主取が謡うオモロとが、同質のウタなのかそうでないのかも、不明なのである。そんな中で、前述したごとく同じ「ふし」で謡うと理解されるオモロの詞章の音数が、二倍あるいは二倍半程ひらいているという問題をどのように理解するかを、考えなくてはならないのである。   ただし、以下みるように、多くのオモロでは対句が二節に跨るものから対句が一節内にあるものに転換するケース〈例四〉やその逆のケース〈例五〉は、連続部の音数がほぼ同じ範囲で起こっている。このようなことを考えると、オモロの歌唱は元来は多くの琉球歌謡で謡われる挿入句が入らない拍節的な謡い方であったという推測ができるのではないかと思われる (注

(注

〈例四〉第十二―六九四おしかけがふし一聞 きこ大君 ぎみぎや   末 すへ  選 ゑらびやり  降 れわちへ   按 あんおそいしゆ  君 きみぎやせぢ  持 ちよわれ又鳴 む精 だかが   真   願 ねがて  降 れわちへ又いけな君 ぎみ  揃 そろへて

  成 り子 きよがみ神  集 あとへて(以下省略)

〈例五〉第十一―五五九くめのきみはへがふし一おぼつ  居 て  見 れば

(8)

立正大学大学院紀要 三十二号四二   さりよこ  為 ちへ  見 れば   綾 あやみやの  珍 めづらしや又中地 あやみやに   ゑんげらへ  有 りる又中地 せ庭 みや

  むかげらへ  有 りる(以下省略)

  実は、オモロには一首だけ「ふし名」が二つ記されるものがある。

〈例六〉第十一―六四八かねぐすくのろのふし一こいしのが  国 くに  生 け〳〵し   島 しまつれ  国 くにつれ  見 物又まぢらずが  国 くに  生 け〳〵し又与 ばるの  国 くに  生 け〳〵し又轟 とゞろききの  国 くに  生 け〳〵し(以下省略)

  〈例

六〉の反復部「島 しまつれ  国 くにつれ  見 物」の右傍らに「くまからうらおそいふし」(ここから「うらおそいふし」)とあって、第一節の反 復部から「うらおそいふし」にかわるとある。反復部を持たない一部のオモロは別として、「ふし名」をとりあえず連続部と反復部の音曲と考えると、〈例六〉は通常は「かねぐすくのろのふし」で連続部、反復部を謡うが、これに限っては連続部を「かねぐすくのろのふし」で謡い、反復部を「うらおそいふし」で謡うということを示したものと解釈される。または、第一節の反復部以下が「かねぐすくのろのふし」から「うらおそいふし」にかわることを示したものと理解するならば、第一節目の連続部は「かねぐすくのろのふし」で謡うが、それをこのオモロでは途中で中断して、第一節目の反復部以下を「うらおそいふし」で謡うということなのか。「ふし」が連続部と反復部の音曲だとすれば、第一節目の反復部から第二節目については、相当変則的な謡い方になると思われるが、それは可能なのか。あるいは、「ふし」は元々連続部だけの音曲を示すものであって、反復部は「ふし」の範囲ではないとすれば、〈例六〉は特に反復部を「うらおそいふし」という「ふし」で謡う特殊なオモロであることを示しているのか、様々に解釈される。山内が伝えたオモロは、連続部と反復部の音楽的な境がないように思われるが、〈例六〉に記される「ふし名」が二つ存在するオモロはなにを意味するのか、これも明確な答えが示せない (注

(注

(ⅲ)「ふし名」が付けられた時期

  『おもろさうし』は、その扉書きから第一が「嘉靖十年」(一五三

(9)

『おもろさうし』「ふし名」考四三 一)、第二が「万暦四十一年」(一六一三年)、第三以下が「天啓三年」(一六二三)に編纂されたと考えられる。しかし、正確には第十一、第十四、第十七、第二十二には編纂年が記されておらず、しかも第二十二に入る四十七首(安仁屋本)は、二首を除いて他巻と重複したオモロになっていて、少なくとも第二十二については、第一から第二十一まで揃った状態でなければ編纂できなかったと考えられる。編纂年が記されていない第十一、第十四、第十七、および第二十二の編纂は、本格的な編纂年であった第三回目に編纂された可能性が高いと思われるが、今のところそれを確定できる資料はない。『おもろさうし』の編纂は、なお不確定な問題を抱えているが、「ふし名」についていえば、第一(四十一首)と第二(四十七首)のオモロに付く「ふし名」の中には、編纂がそれら以降とされる第三以下のオモロを出所とする「ふし名」が存在するのである。第一の用例一七「あおりやへくもりやあんじがふし」  出所第十―五一九二二「きこへ大ぎみみてづからいのてがふし」  出所第七―三五二二三「よかきげらへがふし」  出所第十二―六七二

以下、二九 十五―一○八五 ・ 第

・ 三二

・ 三三

・ 三七

・ 四○の「ふし名」

(旧稿「『おもろさうし』の「ふし名」について」参照)。 第二の用例五四

・ 六四「くに中のしよりもりぐすくがふし」

  出所第八―四○九五五「しよりま人がふし」  出所第十―五二五五六「たいらこしらへがふし」  出所第十―五四○以下、六○

・ 六一

・ 七○

・ 七三の「ふし名」

(旧稿参照)。

  これらが存在する事実は、第一と第二の『おもろさうし』の扉書きの年紀に問題があるのか、オモロの詞章と「ふし名」の成立が同時期ではないことを意味しているのか。琉球国の最初の正史『中山世鑑』(一六五○年)には四首のオモロ(第十二―六九四

九五 ・ 六

三三 ・ 七

・ 七三四)が記載されているが、そのうち第十二―六九五に当たるオモロの記載の冒頭は「嘉靖二十四年八月十九日つちのとのとりのへのとらの時にきこゑ大ぎみのみ御まへよりもゝがほうごとの時に給しかぐらとよでのふし 注注

(注」というもので、これは第十二―六九五の「ふし名」「かぐらとよでがふし」と一致する。実は、『中山世鑑』が記載する「嘉靖二十四年八月十九日」以下の記事は、『おもろさうし』では第十二―六九四にある詞書きになっており、また他に三首のオモロには第十二―六九四に「おしかけがふし」、七三三に「あふりやへがふし」、七三四に「きみがなしふし」が付いている。『中山世鑑』には、なぜかこれらに「ふし名」の記載がないことが少々気になる。しかし、前述したように『中山世鑑』が記す第十二―六九五に当たるオモロには、第十

(10)

立正大学大学院紀要 三十二号四四二―六九五と一致する「ふし名」が記されている。これによって、『おもろさうし』には一六五○年には「ふし名」が付いていたと判断される。

  さらに、「ふし名」には出所が不明な「ふし名」がみられる。

①第二―六八「御さけやらはがふし」②第二―八三「あんのつのけたちてだやれはがふし」③第七―三六九「とかしきのかねつがふし」、第十三―七七四「これはとかしきのかねつがふし」、第二十一―一四三九「うちいぢへはとかしきのかねつがふし」④第七―三八○「しやこのおやがふし」⑤第七―三八四「あぢおそいがみしよわちやるきやうちやくがふし」以下、⑮までの出所不明の「ふし名」がある(旧稿参照)。

  「ふ

し名」は小字に書かれており、本文よりは書写の際の異同が大きいことが予想される。したがって、「ふし名」の表記が変化してしまい、出所が不明になってしまうことが想定されるが、それにしてもここで示した多くの「ふし名」は、現在の『おもろさうし』では出所が比定できない。この出所不明の「ふし名」の存在は、「ふし名」が『おもろさうし』「書き改め」(一七一○年)以前の『おもろさうし』によって付されたものと理解される。現在の『おもろさうし』は、「康煕四十 八年己丑十一月二十日」(一七○九年)の「王城回禄」による「神歌御双紙焼失」によって、「翌年庚寅六月三日」までに「古御双紙等」を「漸探索」して「如旧本」「清書」して「二十二冊」としたものである(『向姓家譜(内間家)』 注(

(注)。これが、現在伝わる『尚家本おもろさうし』と沖縄戦で行方不明になった『安仁屋本おもろさうし』であるが、「書き改め」後の『おもろさうし』は「如旧本」復元されていないのではないかという指摘が、早くに世礼国男が「久米島おもろに就いて」(『南島』第二輯、南島発行所、一九四二年)において、「康煕度の編輯が果たして天啓度原本の巻次に復活してゐるかは疑問である」と述べている。また、嘉手苅千鶴子も「『おもろさうし』書き改めと『混効験集』編纂について」(『おもろと琉歌の世界』森話社、二○○三年刊)で、『混効験集』が引く『おもろさうし』を示す名称が「おもろ御双紙」や「神歌御双紙」「神歌御さうし」などというように様々あって、それが現在の『おもろさうし』の表題とは違うことから、巻の順序も含めて「書き改め」前後の『おもろさうし』に違いがあることを推測している。『混効験集』の編纂は、「書き改め」以前から行われていた事業であることは、これに関係する編纂者の家譜から知れるところである。さらには、『混効験集』が『おもろさうし』にあるとする「またいらのたゝみ」(坤巻「器財門」)や「まぐ米」(坤巻「飲食門」)なども、現在の『おもろさうし』にはみえない語である。これも「書き改め」以前の『おもろさうし』に、散逸があったことを窺わせる証拠になると

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『おもろさうし』「ふし名」考四五 思われる。『おもろさうし』にある多くの重複オモロの存在、特に第十一「首里ゑとのおもろ御双 さう」と第二十一「久 の二間切おもろ御双 さう

」とが多く重複する問題は、これらが実質は久米島関連のオモロであることを考えると、第十一は復元できなかったのではないかと想像される 注注

(注。すなわち、「ふし名」の出所が不明なものの多くは、「王城回禄」による「神歌御双紙焼失」で復元できなかったオモロを出所としているのではないかと考えられる。このことは「ふし名」の成立が、『おもろさうし』「書き改め」以前であったことを物語る。

  もうひとつ、「ふし名」がオモロの詞章より後に付いたことを窺わせる問題がある。それは、「ふし名」とその出所の表記に異同がある問題で、それに一定の傾向が存在する。二者に異同が目立つのは、格助詞〈が〉が「ふし名」の出所では口蓋化したかたちの「ぎや」になっているにもかかわらず、「ふし名」では「が」と書き換えられる傾向があることである。

① 第一―一二  大きみが 0いくさせぢみおやせがふし〔出所第一―一〇=第三―一二八  きこゑ大きみぎや 00いくさせぢみおやせ〕②第三―一○五  大ぬしが 0てんとゞろがふし〔出所第十―五一一  大ぬしぎや 00天とゞろ〕③第三―一三○  きこゑ大きみが 0いくさしぢがふし〔出所第一―一〇=第三―一二八  きこゑ大きみぎや 00いくさせぢ〕 ④第四―一五八  きこゑ大君が 0みやがのひやしがふし〔出所第三―一一七=第十二―六五三  きこゑ大きみぎや 00みやがのひやし〕⑤第五―二三九  きこへ大きみが 0おれてあすびやうれはがふし〔出所第三―一一六=第十二―六五二  きこへ大きみぎや 00おれてあすびよわれば〕以下、⑭までの用例がある(旧稿参照)。

  用例は、十五例(⑭に二例ある)があげられるが、その逆の例は一例があるだけである。

第二十一―一四六二  うちいぢへはおわもりぎや 00けおのきみがふし〔出所第十三―七九六  おわもりが 0けおのきみ〕

  オモロの「ふし名」には「―がふし」、その口蓋化した「―ぎやふし」、「―のふし」と助詞がない「―ふし」がある。そのうち最も多いのが「―がふし」で八○○余りだが、口蓋化した「―ぎやふし」はわずかに第一―二九、第十―五一五、第十五―一○六一、第二十二―一五三一の四例に過ぎない。「ふし名」の出所にある格助詞「ぎや」を「ふし名」が「が」に変える現象は、「ふし名」の「―がふし」というかたちが圧倒的に多い問題とも連動する現象である。「ふし名」における格助詞〈が〉が口蓋化したかたちで表記されない傾向は、規範的な

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立正大学大学院紀要 三十二号四六意識に基づく表記であるとも考えられるが、「ふし名」の表記の中に特に著しい規範的な表記がみられないことを考えると、むしろこれは口蓋化の環境(原則、i母音に〈が〉が接続する)にあっても、現代の首里方言では口蓋化しない現象に通じているとも考えられる 注注

(注。少なくとも、「ふし名」の表記と出所の表記との間には格助詞〈が〉の表記に一定の異同があり、オモロの詞章の表記と「ふし名」の表記とは同じ時期のものではないことが窺われる。そして、その表記が現代の首里方言に繋がることを考えると、「ふし名」の表記はオモロの詞章よりも新しい変化を反映した可能性が考えられる。このような例は外にも、浦添の表記がオモロの詞章では「うらおそい」「うらおそへ」だけであるのに対して、「ふし名」の表記は「うらおそい」「うらおそへ」「おらおそい」「おらおそへ」の外に第十九―一三一三「うらそいおもろのふし」、第十六―一一四一「おらそいふし」等という新しい音変化が窺える表記がある。あるいは、現在の伝承に登場する赤犬子(「阿 いん」)は、オモロ歌唱者の始祖が謡われている第八においては多くが「阿

のおゑ付 き」「阿 の子 」(他巻に「阿 ん子 」「阿 んおゑ付 き」がある)という表記であり、「阿 いん」の表記は第八―四六二の一例しかでない。しかし「ふし名」の表記は、出所が第八―四六四「阿 の子

が  船 ふね  発 てば」という表記であるにもかかわらず、「ふし名」は第八―四六七「あかいんこがふねたてばがふし」等となる例がある(「二、(ⅰ)「間接命名」という名付け」の冒頭部分参照)。これも、「ふし名」 の表記が現在の伝承に近い表記になっており、本文と「ふし名」の表記の記載時期が異なることを物語る。  以上幾つかの点から、「ふし名」の成立は『おもろさうし』「書き改め」(一七一○年)以前、さらに『中山世鑑』(一六五○年)以前であり、本格的な『おもろさうし』の編纂時である第三回目の編纂年「天啓三年」(一六二三)と考えるのが、とりあえず妥当なところかと思われるが、俄にそのように判断してよいかは分からない。それは、第三回目の編纂年の際に「ふし名」が付けられたということになれば、オモロの詞章と「ふし名」の表記とのずれをどう理解すればよいかという問題を抱えることになる。ひとつの考え方は、第三回目の編纂の内実は、既に記されているオモロがあり、あるいは各巻になる双紙が既に存在していて、それに「ふし名」を付けるなどの一定の体裁を施して『おもろさうし』として編纂したというものである。そのような理解の仕方は、ひとつの有効な考え方ではないのか。つまり、第三回目の編纂年である「天啓三年」(一六二三)は、島津侵攻から十四年を経た年である。この時期はオモロが既に衰退期に入っていると想像される。島津は琉球侵攻後、すぐに琉球国の占領政策である「掟十五ヶ条」(一六一一年)を示すが、そのひとつは「女房衆江知行被遣間敷之事」というもので、国王のヲナリ神を形成する「女房衆」(女官

・ 君々)

の「知行」を取りあげることを示している。その結果として、『中山世譜』(一七二五年)第一の割注にオモロの有力な担い手である「君々」が、

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『おもろさうし』「ふし名」考四七 「康煕之初」(「康煕」は一六六二年からはじまる)には「数職」があるだけだという記事が記されることになる 注注

(注。「君々」は島津侵攻直後から、抑圧されたと考えられる。

  もうひとつの理解は、『中山世鑑』の第十二―六九五に相当するオモロの「かぐらとよでのふし」の記載を検討し直すことである。つまり、『中山世鑑』の「ふし名」の記載は後世に書き込まれた可能性を探ってみるということである。これは、他の三首のオモロに「ふし名」が記されていながらそれがないことと合わせて、検討する余地がある。我々が目にできる『中山世鑑』は、編纂時の原本ではないのである。『中山世鑑』に付けられた「ふし名」が確定できなければ、「ふし名」が付された時期は、第三回目の編纂から「書き改め」の直前まで範囲が広がる。

  世礼国男は「琉球音楽歌謡史論」(第二十一回)の中で、「音曲歌謡の名称に、何々節と称へることは近世(徳川時代)以降のことで」、「明暦の頃から流行した投節に至って初めて固定名称となり、それからマガキ節、□節、山□土手節(途中省略)等が起り、寛保以後に起った俗謡からは、ホンニサ節、ドン〳〵節、サノサ節(途中省略)といふ様に、何々節と呼ばれるのが普通になつた」と、記している。オモロの「ふし名」が「天啓三年」(一六二三)の編纂で付けられたとすると、投節が流行ったという「明暦の頃」(明暦は一六五五年から一六五八年)とは比較的近い時期といえるが、「寛保以後に起った俗謡」(寛 保は一七四一から一七四四年)を考えると、百年以上の隔たりがあり相当に遠い。また、世礼が記す「明暦の頃から流行した投節に至って初めて固定名称となり」についても、なにによっているのかが不明だが(よく引かれる高野辰之『日本歌謡史』にはみえない)、藤田徳太朗は「投節といふ名称の中には、諸種の流行歌曲が入つてゐるが、元禄時代の投節と云へば、大体、ある一定の流行歌曲をさすやうになつてゐた」(『日本歌謡の研究』厚生閣、一九四○年刊)と記している。藤田にしたがえば、音曲の「固定名称」が成立した「投節」は「元禄時代」(一六八八から一七○三年)ということになり、オモロと日本歌謡との間の「ふし」は時間的な隔たりは大きい。そうなると、オモロの「ふし名」が曲節(音曲)を示しているということについても、検討する余地がでてくる。しかし、その前提となるオモロの「ふし名」がついた時期がいつなのかもはっきりとは確定できない。  オモロの本文(詞章)と「ふし名」が付けられた時期とがずれていることは、それ自体分かりにくい大問題である。ただ、本格的な『おもろさうし』の編纂が行われた第三回目の編纂時に「ふし名」が付けられたとすると、オモロの本文に「ふし名」が付くことは『おもろさうし』が『おもろさうし』として成立する上で、重要な問題になる。オモロと「ふし名」の表記のずれは、『おもろさうし』の成立、あるいは編纂を考える際の鍵を握る問題である。

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立正大学大学院紀要 三十二号四八

三、 「ふし名」から僅かにみえること

  オモロの「ふし名」はなぞが多いが、若干だが分かっていることを以下に述べる。ひとつは、「間接命名」によらない(ⅰ)「しよりゑとのふし」、(ⅱ)「あおりやへふし」「きみがなしのふし」、(ⅲ)「うらおそいおもろのふし」についてである。これらは比較的多くのオモロに付いている。それと、もうひとつは「間接命名」で付いたと考えられる「ふし名グループ」、(ⅳ)「かぐらとよでがふし」、「くめのきみはいがふし」をとりあげる。

(ⅰ)「しよりゑとのふし」

  「し よりゑとのふし」(「しよりゑとふし」「首里ゑとのふし」)は「しよりゑと」という詞章がオモロ本文にはみられないことから、前述した出所不明の「ふし名」のひとつということになるが、「しよりゑとのふし」(九十二首)は、第十三「船ゑとのおもろ御双 さう」のみに集中してでる特異な「ふし名」である 注注

(注。しかも、第十三―七六二の詞書きは、「正徳十二年十一月廿五丁 ひのとの酉 とりの日 にせぢ新 あらとみ真 南蛮に御使 つかい召 され候時におぎやか思 い天の御み手 づから召 され候ゑと 00」(正徳十二年〔一五一七〕十一月廿五丁の酉の日に、せぢ新とみ〔船名〕を真南蛮〔東南アジア〕に派遣されました時に、おぎやか思い天〔尚真王〕が自ら謡われましたゑと)というもので、第十三―七六二は「しよりゑと のふし」で謡われる。同じく、七六三の詞書きも「(前半省略)天継 ぎの按 あんおそい加 〔尚清王〕天の御み事〔ご命令〕にゑと 00つくり申候」とあり、この後に国王の命令で作った四人の「大親 い」の名が記されているが、七六三の「ふし名」も「しよりゑとのふし」である。つまり、詞書きにある「ゑと」は「しよりゑとのふし」と呼応しており、詞書きの「ゑと」は「しよりゑとのふし」で謡われるオモロを指していると考えられる。  「し

よりゑとのふし」を考える時にヒントになるのが、第十三のオモロに関連しないという点で唯一の例外になる第二十二―一五五四の存在ではないか。前述したように、一五五四は「書き改め」以降におもろ主取のテクストである安仁屋本に入ったオモロで、これには「御冠船之御時おもろ」という詞書きが記されており、おもろ主取が中国の冊封使節の歓待儀礼(中秋宴)で謡ったオモロである。一五五四は第十二―六六三と重複するオモロだが、六六三は「たくしたらなつけがふし」であり「ふし名」が違う。それにもかかわらず、一五五四の「ふし名」が「しよりゑとのふし」であるのは、琉球の海外渡航、中国や東南アジア、あるいは道の島といわれる奄美や鹿児島、日本に赴く航海儀礼で謡われたオモロの「ふし名」の多くが「しよりゑとのふし」であるという認識があったのではないか。例えば、具体的に渡航する場所が謡われるオモロである第十三―七六一「一首 しよ  おわる  てだ子 が  唐 たうの道 みち  開 けわちへ」、七六四「又唐 たう  出 でゝ  走 り居 れば 

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『おもろさうし』「ふし名」考四九 唐 たうの菩 ぼう  崇 たかべて」、七八○「唐 たう  南 ばん  貢 かまへ  積 で  みおやせ」というオモロは、いずれも「しよりゑとのふし」で謡われる。これには、先に記した七六二も加えられる。また、海外への渡航を謡うウタではないが七五三「唐 たう  南 ばん  寄 り合 う  那 どまり」は「おくらつがふなやれがふし」で、この「ふし名」も世礼国男の曲節の考え方にしたがえば「しよりゑとのふし」系の「ふし名グループ」である 注注

(注。また、「吾 あん  守 まぶ

て  此 の海   渡 わたしよわれ」を反復部に持つ十五首(八一五

○四 ・ 九

九○九他、第十三にのみ用例がある)のオモロは、奄美や鹿児島、日本へ赴く航海歌であるが、三首(九二二

・ 九三三

・ 九六七)を除いて

「しよりゑとのふし」で謡われるオモロである 注注

(注。この外にも沖縄本島周辺の離島や道の島が謡われるオモロは、「しよりゑとのふし」で謡われるオモロが多い。

  「しよりゑとのふし」系の「ふし名グループ」は、

「おくらつがふなやれがふし」(第十三―七四九

(十三―七五五 五三)の外に「おくらつがふし」 ・ 七

・ 第二十二

―一五四七)、「すさべ大里がふし」(第十三―七五一)があり、これらの「ふし名」の出所は第十三の巻内にあり、重複する第二十二の用例を除くと第十三だけにでる「ふし名」である。「しよりゑとのふし」系の「ふし名グループ」は、第十三の最大の「ふし名グループ」で第十三のオモロ、二三六首のうち九十三首に付き、総数の四割近くを占める。これを考えると、「しよりゑとのふし」で謡われるオモロは、詞章と曲節の双方から第十三「船ゑとのおもろ御双 さう」を代表しており、第十三の内実のひとつを示したものと考えられる。  ここで注目されるのは、第十三には国王の久高島行幸にかかわるオモロが入っていると考えられるが 注注

(注、それらには「しよりゑとのふし」系の「ふし名」が付いていないことである。久高島行幸にかかわるオモロは、第十三―八一九から八三六の「東 あがるい方」を冒頭句(ただし、八三四は「地天鳴 む大主 ぬし」が冒頭句)とするオモロ、それに続く八三七の「国 くにかさの親 おやのろ」を冒頭句とするオモロ、さらにそれに連続する八三八から八四八の「あけしの」を冒頭句とする都合三十首が連続するオモロであるが、これらには「しよりゑとのふし」系の「ふし名」が付いていない。また、その外に「東 あがるい方」を冒頭句とする八七四、八九三

・ 八九四、

八九六

・ 八九七、

九七七から九八一、「あけしの」を冒頭句とする九七三から九七五のオモロ、都合十三首も「しよりゑとのふし」系の「ふし名」が付いていない。「しよりゑとのふし」系の「ふし名」が第十三に四割近くあるにもかかわらず、国王の久高島行幸にかかわるオモロだと思われる四十三首のオモロにこれが付いていないのは、詞章ばかりではなく曲節的な面でも、国内外の渡航にかかわる儀礼歌とは異なる曲節のオモロを謡っていたのではないかと推測される。「ふし名」は不明な点が多いが、このように「ふし名」の系統によって謡われる儀礼の場が違うという想定が可能であれば、「ふし名」はオモロを解読する有力な手がかりのひとつになる。ただ、詞書きの

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立正大学大学院紀要 三十二号五〇あるオモロとして紹介した七六三(屋良座杜のまう払いの時のオモロ)や、あるいは久高島行幸のオモロと考えられる八五二と八五四(これらは「東 あがるい方」「あけしの」を冒頭句とするオモロではないが)が、なぜ「しよりゑとのふし」が付くのかは、今のところ合理的な説明ができない。「しよりゑとのふし」系の「ふし名」が付くオモロも、さらに幾つかの性格があるはずである。その検討が今後の課題になる。

  第十三は「しよりゑとのふし」系の「ふし名」の外に、「ふし名」が第十三のみにあり、その出所も第十三にあるという巻内で完結するタイプの「ふし名」が多い 注注

(注。「しよりゑとのふし」系の「ふし名」を含めるとその数は一二六首で、第十三全体の五十三パーセントにものぼる。さらに大部分が第十三にある「はつにしやがふし」系の「ふし名」、「とまりみぢへりきうがふし」系の「ふし名」をこれに加えると、第十三の七割がこの巻独特の曲節になる 注注

(注。このような傾向は、第十三以外にはなく、第十三の際だった特徴である。第十三「船ゑとのおもろ御双 さう」は、少なくとも曲節的な側面で特徴をもった巻だといえる。

  なお、想像の域をでるものではないが、「しよりゑとのふし」の「し 0

よりゑと 0000」と、第十一の表題「首里ゑとのおもろ御双 さう」の「首里ゑ 000

0」とは、なんらかの関連があるのではないかと思われる。前述したように、第十一は表題に「首里ゑとのおもろ御双 紙」とありながら実質は久米島関連のオモロである。このことから「書き改め」に際しても、第十一は復元できなかったのではないかと想像される。ただし、 第十一の冒頭二首(五五六

・ 五五七の第一節)は第二十一とは重複し ておらず、これに「はつにしやがふし」が付いている。その詞章も五五六は、第十三で久高島行幸を謡っていると考えられるオモロと同じ「東 あがるい方の大主 ぬし」を冒頭句とするものであり、五五七の第一節もそれに準ずると考えられる「東 あがるい方に咲 く花 はな」というものである。また、「とまりみぢへりきうがふし」系の「ふし名」についても、第十一―六五○が「うちいではとまりみぢへりきよ(ふし)」であり、これも第二十一とは重複していない数少ない第十一のオモロである。その詞章も、冒頭句は「一こまかの澪 みおに  おれ  見 もん/又久 だかの澪 みお

  (おれ   見 もん)」というオモロで、久米島を謡った詞章ではなく、久高島を謡うウタである。これは偶然の一致とは思われないのである。つまりは、大部分が第十三にある「ふし名」グループの二つが、例外的に第十三以外にその「ふし名」がでるのは第十一であり、第十三と第十一の「ふし名」とは、なんらかの関連があることが窺える。しかも、それが第二十一と重複するオモロではないのは、これが僅かに残った本来の第十一のオモロであった可能性があると考えてよいのではないか。すなわち、第十三を代表する「ふし名」である「しよりゑとのふし」の「しより 000

ゑと 00」と、第十一の表題「首里ゑとのおもろ御双 さう」の「首里ゑと 0000」は、やはり関連性があると想像される。第十一は「しよりゑとのふし」にかかわるオモロを集めた巻だったかもしれない。となれば、今度は第十三「船ゑとのおもろ御双 さう」とどのように関係するかが問題になっ

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『おもろさうし』「ふし名」考五一 てくるが、第十は「ありきゑとのおもろ御双 さう」である。『おもろさうし』は、幾つかの「ゑと」を収録した一面を持つ歌謡集だと考えてよいのではないか。オモロの「しより」の対語の用例の基本は、「ぐすく」である。「しよりゑとのふし」は、首里地方の「ゑと」というものではなく、首里城の儀礼の場で謡われる「ゑと」に由来していると想像される。第十三「船ゑとのおもろ御双 さう」は、実際の船歌を含めたもう少し広い儀礼の場等が考えられるが、さらに様々に検討されなければならない。(ⅱ)「あおりやへがふし」と「きみがなしのふし」

  「あ

おりやへがふし」は「あおりやへふし」「あふりやへがふし」「おちいではあおりやへがふし」「きこゑあおりやへふし」等、二六○首余のオモロに付く「ふし名」である。「あおりやへがふし」は『おもろさうし』最大の「ふし名」で、第一、三、四の神女オモロに比較的多くみられるが、地方オモロにもみられ多くの巻にでる「ふし名」である。ただし、第七、九、十、十四、十九にはみられず、また第八、十三はわずかである。この「ふし名」の特徴は、「ふし名」とそれが付くオモロの冒頭の句とが一致する傾向がみられることである。例えば、第四は「煽 あおりやへ差 さすかさのおもろ御双 さう」で、第四の前半部一五二から一七二の二十一首(「ふし名」があるものは十九首)は「(聞 きこゑ)煽 あおりやへ」を冒頭句とするオモロであるが、十一首が「あおりやへふし」がつく。 また、第十二は「色 いろ〳〵の遊 あすびおもろ御双 さう」で六七九から六八八までの十首が連続して「(聞 きこゑ)煽 あおりやへ」を冒頭句とするオモロであるが、そのうち六首に「あおりやへふし」がつく。前述したようにオモロの「ふし名」は「間接命名」が一般的であり、「ふし名」はそれが付くオモロの詞章をとることを原則としていない。ところが、「(聞 きこゑ)煽 あおりやへ」を冒頭句とするオモロは「あおりやへふし」で謡われる確率が高い。これは、「あおりやへふし」が『おもろさうし』最大の「ふし名」であったにしても、例外的な数字である。これは、なにを意味しているのか。  煽りやへは、国王のヲナリである君君の序列からいうと、第二番目に位置する神女である。一方、最高神女、聞得大君にかかわる「ふし名」は案外に少なく、「きこへ大きみがおれてあすびやうれはがふし」第五―二三九、「きこへ大きみがみてづからがふし」第七―三六八、「きこへ大きみぎやさやはたけおれわちへがふし」第一―三一等、僅か十九首のオモロに付くだけである。聞得大君を冒頭句とするオモロは、第一だけでも三十五首、第三は五十五首、都合九十首であるが、その冒頭句と「ふし名」が一致するものは一例もない。しかも、「あおりやへふし」は「きこゑあおりやへがとすゑやすゑぎやめもがふし」第五―二七○の一例を除いて、神女の名だけがでる「ふし名」になっており、聞得大君にかかわる「ふし名」は「きこゑ大きみがふし」第四―一五三を除いて、いずれも神女名だけではない長い「ふし名」になっ

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立正大学大学院紀要 三十二号五二ている。つまりは、聞得大君にかかわる「ふし名」は特定の一首を出所とした「ふし名」である。同様な「ふし名」は、神女の序列が三番目の差笠にかかわる「ふし名」で、「きこへさすかさがきみ(ぎや)まぶりよわるたゝみがふし」第六―三三二、「きこへさすかさがつゝみのあぢなりがなしふうくにうちよせるがふし」第六―三二四、「きこへさすかさがよなおせがふし」第十―五二一だけであり、これも特定の一首を出所とする「ふし名」である。このような「ふし名」に対して、「あおりやへふし」は特定の一首を出所とした「ふし名」ではなく、神女、煽りやへに因む「ふし名」という理解をした方がよいと思われる。

  そこで想起されるのが、宮古島市池間島の事例である。本永清によれば、「ムラの公的な祭祀に従事する」「ツカサンマたちのグループ」の中で、「ウフツカサ」(「最高神職で、神前に供えられた香炉に線香をたて、神々へ祈願する役目の人」)に次ぐ地位にあるのが「アーグシャー」(筆者注、ウタを謡う者の意)と呼ばれる神女で、これは「神がかりを専門にする役目の人。神歌の所有者」だという 注(

(注。煽りやへが「神がかりを専門にする役目の人」であるかは別としても、「アーグシャー」に似る役割をする神女ではないか。第一の聞得大君を謡う巻は四十一首のオモロが入るが、このうち「あおりやへふし」で謡われるオモロは、二十五首である。最高神女、聞得大君を謡うオモロは、序列が下位の煽りやへに因む「ふし名」で多くを謡っているのである。 仲原の『おもろのふし名索引』は「あおりやへふし」の出所を第四―一五二、池宮の『おもろさうし  ふし名索引』は第四―一五三としつつ「特定しにくい」としているが、「あおりやへふし」は「間接命名」による「ふし名」ではなく、煽りやへ神女に因む「ふし名」だと理解してよいのではないか。  オモロには、もうひとつ「あおりやへふし」と同様の傾向をみせる「ふし名」がある。それは、「きみがなしがふし」「きみがなしのふし」「きみがなしふし」「きみがなしおもろのふし」という「ふし名」で、『おもろさうし』に六十三首あり、これも規模の大きな「ふし名」である。君加那志は、第六「首里大君精 せんきみ〳〵もゝみ揚 がり君 きみの頂 つんじ

のおもろ御双 さう」に登場する神女であるが、第六の君加那志を謡うオモロ(二九八~三三四)三十七首のうち、十五首に「きみがなしおもろのふし」「きみがなしがふし」が付く。これも、冒頭の句と「ふし名」が一致する特異な例である。しかも、君加那志を謡うオモロは、神女オモロとしては例外的に第六―三○五「下 司  真 人」、第六―三一四「たくだる下 」、第六―三二四「真 てだ」を謡う用例をみるが、神女オモロでは、男性をいう「大ころ/ころ〳〵」「いつ子 /くはら」、国王をいう「吾 がなさい子 きよわうにせ」「君 きみぎや守 まぶりよわるたゝみ」等を謡っても、「下   真 人」や「―てだ」「てだ子 」という語はでない。一方、オモロ歌唱者の始祖「おもろ音揚がり」「阿嘉犬子」を謡うオモロを集めた第八では、三九五「御 人」、四一三他「こくらの下   真

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けいさん たす ひく かける わる せいすう しょうすう ぶんすう ながさ めんせき たいせき

azuma Bumpyうるし ヒカルト

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とりひとりと同じように。 いま とお むかし みなみ うみ おお りくち いこうずい き ふか うみ そこ