拙著『イギリス史10講』をめぐる註釈の連載を続ける。これまでの連載分は2020年度に上 ・ 中 ・ 下の1 ・ 下の2まで、誤植などもそのままの PDF で立正大学学術リポジトリに登載さ れて自由に読めるようになった(1)。本稿で「本書」とは『イギリス史10講』(岩波新書、2013)
のこと、説明なしに「何ページ」と示す場合は本書のページのことで、多少の修正の加わっ た第13刷(2020)による。
この間のわたしが折々に読書し考えたこと/論点については、各年初の『みすず』1 ・ 2 月合併号「読書アンケート」にしたためてきた。これは、あちこちしているとはいえ、本書 に書いたことにも直接間接にかかわるコメントで、時々の模索と発見の軌跡である。紀要連 載のほうは「読書アンケート」よりは心柱のはっきりした「註釈」だが、それにしても経過 的な性格は否めない。繰りかえしや不足を補正して、いずれ一書にまとめたい。なお2020年 には「註釈『イギリス史10講』(下の2)」とともに、「ECCO から見えるディジタル史料の 宇宙」『歴史学研究』1000号、「天皇像の歴史を考える:コメント」『史学雑誌』129編10号が あり、旧著『近世ヨーロッパ』(山川出版社、2018)も補正を加えて第2刷が出た。
3.個別的な議論と根拠(承前)
第8講 大変貌のヴィクトリア時代
19世紀は変化の世紀である(2)。人口の長期の傾向については不完全ながらすでに本書(p. 150)
にイングランド人口グラフを示していた。本稿の図1にはヨーロッパの地域別人口推計(1500
-2000)を示す(3)。19世紀にいずれの地域でも人口は増加しているが、1800年と1900年の間に 2倍以上になったのはドイツ地域とブリテン諸島であって、ラテン地域では相対的に増加が にぶい。さらに1700年と1900年の200年間の増加率をみると、ドイツ地域で約3.8倍、ブリテ ン諸島では約4.5倍である。これは経済成長とも相関しているだろう。こうして近世における あのフランスの圧倒的な存在感は、1900年までに少なくとも人口において独 ・ 英に並び越さ れてしまう。またイギリスの財政規模、とくに国債償還についてみても、19世紀は印象的な カーヴを描く(4)。
註釈『イギリス史10講』(下の3)
―または柴田史学との対話―
近 藤 和 彦
立正大学大学院紀要 37号
1713年ユトレヒト条約、1763年パリ条約で確保した領土がベースにあってこそなのだが、
(1783年パリ条約で北米13植民地を失ったことはむしろ転じて福となし)1788年にオーストラ リア(Botany Bay)、ナポレオン戦争 ・ ヴィーン会議後はかつてのオランダ領ケープ、セイ ロン、(バタフィアの代わりに)シンガポールを確保した。インド支配もこの時代から強ま り、19世紀にイギリスの統治権のおよぶ版図はめざましく拡大して五大陸、五大洋に広がっ たのである。
すでに他でも唱えてきたことだが、「大英帝国」とは明治~昭和の日本人の複コ ン プ レ ッ ク ス
合感情の交 じった表現であり、英語 the British Empire には「大」という含意はないので、これは忌避 しよう(本書 p. 7(5))。本国の政治権力の司令権 ・ 統治権(imperium)がおよんだ範囲 ・ 版図 を帝国(empire)と称するなら(6)、たしかにその広大さと豊かさは19世紀から1947年まで圧倒 的である。
「帝国」が好きな執筆者も読者も少なくない。しばしばその語義 ・ 定義はなおざりである。
たとえば『歴史学事典』全16巻(弘文堂)は野心的な企画で、多くの項目は情報とインスピ レーションに満ちていて、2つの巻で「帝国」という項を立てているが、その内容はいただ けない。第7巻(1999)では「帝国とは字義通りには皇帝を頂点とする国家である。しかし 皇帝そのものの定義も困難であるし、皇帝の称号を用いない君主の君臨する帝国も存在した。
およそ帝国を概念として定義することは不可能であろう」(下村由一(7))と始まり、以下おもに 住民の支配が人的か領域的かを軸に議論される。これでは不十分だという編集委員の判断で あろうか、第12巻(2005)であらためて「国王ではなく、皇帝が支配する君主国家というの が、帝国の第1の定義である。……しかし[第2に]たんに広大な領域をもち、通常、その 内部に支配的な地域と従属的な地域を含む国家を帝国ということもある。……第3の定義は
……政治的統合は欠いていても、地球上の広い範囲にわたって、経済的 ・ 文化的ヘゲモニー を確立している場合、これを帝国と見なすこともある」(川北稔(8))として、おもに近現代の帝 国主義および世界システムを論じる。どちらの項目も弱いのは、ローマ以来の国制史および
図1 ヨーロッパの地域別人口推計
概念史の成果を考慮していないからだろう(9)。
そもそも歴史的に皇帝の在不在と empire(imperium)の在不在とは一対一対応しない。こ の点は早くからローマ史家の吉村忠典が指摘してきたことで、アウグストゥスよりもカエサ ルよりも前の共和政治の全盛期から、属州を総督が統治するローマ帝国(imperium Romanum, Roman empire)は存在したのである(10)。それと同様にイギリス(ブリテン)は歴史的に一度 も皇帝を推戴したことはないが、British Empire すなわちブリテンの司令権 ・ 統治権のおよ ぶ範囲 ・ 版図は存在した。1876年の法律によりヴィクトリア女王が戴冠したのは Empress of India(インド女帝)の冠であって、イギリス(ブリテン)皇帝のそれではない。多くの高校 教科書で、また歴史学研究会編『世界史年表(11)』でさえ、1877年1月1日に「ヴィクトリア女 王がインド皇帝即位宣言をし、インド帝国の成立」としている。その日に式典が挙行された のはそのとおりだが、「宣言」は前年5月1日の proclamation による(12)。インド統治について いえば、法制的にムガル帝国の解体後、1858-1947年が一つの時代をなすのであって、1876 ・ 7年はただディズレーリ政権の政治的思惑(プラス女王のナイーヴな感性)以外に時代を画 する意味はない。ましてや1877年から「帝国主義時代」に入るかのように語るのは根拠がな い。世界史の大きな変化はむしろ1884-5年の前後からとみるべきだろう。
こうした問題を経済史家は「公式帝国」と「非公式帝国」の区別、また「第一次帝国」か ら「第二次帝国」への移行といった表現で凌いできた。経済史における研究成果と国制史 ・ 語学研究における成果とが、対話も相互乗り入れもなく別々の小宇宙を形成して終始してき た結果であろう。
そこまで確認したうえで言うのだが、これ以前の - 18世紀までの - けっして静謐とはい えないが、それにしてもゆったりと変化した前近代(伝統的で身分的な社会)に慣れ親しん だ者であれば、19世紀のような激動の100年間を一つの時代として叙述すること自体に抵抗を 覚えるかもしれない。だが、いま21世紀の - 想定外のことが次から次に起こる - 世界に生 きるわたしたちであれば、19世紀を振り返って「大変貌の時代」ととらえるのは、ロマン派 の音楽の総ス コ ア譜を分析するのに似ていなくもない。疾風怒濤から異文化の舞踏、妖艶にゆれる 半音階まで、合理的に分析し理解することは可能なのである。
なお18世紀後半から以後の時期を広くとって鞍の時代(Sattelzeit)と呼び、それ以前の中 世的なものの連続から、山脈の稜線が「鞍部」をなすように近代へと変化するととらえる R.
コゼレックの見解も(13)、一定の説得力がある。ちなみに旧『岩波講座 世界歴史』(1968-70)
は革命でなく啓蒙を境に第14 ・ 15 ・ 16巻の「近代世界の形成」と第17巻以降の「近代世界の 展開」に分けていたが、この時代区分にも通じるものがある。おそらくは編集会議で柴田の 主張があったと想定される。とはいえ、このころはまだ「近世」という時代区分は提案され
立正大学大学院紀要 37号
なかった(14)。
第1節 ステイツマンは豹変する
[「大変貌」そして「福音伝道主義」について] 第8講の第1節はイギリス近代の政治社 会を理解するための要かなめとなる部分である。その最初の6ぺージ(pp. 201-6)を費やして、近 代のイシューを列挙し、どうとらえるかを少数の研究者 ・ 文献に圧縮して言及し、ピット、
バーク、そして1806年に過労死したピットを後継する Pittites まで述べて、イギリス近代の 課題とそれらに取り組むステイツマンたちの備えもっていた歴史的資産について予告した。
簡潔すぎたかもしれないが、著者としてはかなりの年月をかけて考えまとめ、前後の叙述に も反映しているところである。標準的で今も最初に読むに値する書物としてブリッグズの The Age of Improvement(1959); Victorian Cities(1963)など19世紀/ヴィクトリア時代連作が ある(15)。また修正主義の1980年代にあえてイギリス史の「大いなる蒼穹」を呈示し、19世紀前 半の改革の時代をブルジョワ的「文化革命」として議論したコリガンとセイヤの共著があっ た(1985年、ワープロ共作をうたう初期の企てでもあった(16))。後年にはもう少し慎重に展開さ れたハーリングやドーントンの議論を知ることになる(後出)。
だが、これらよりはるかに先んじてイギリス人のイギリス史とは異なる大きな見通しを呈 示していたのはカール ・ ポラニーであった。ポラニーに注目すべしと最初に示唆してくれた のは八木紀一郎だったか、駒場の玉野井芳郎だったか。あるいはケインブリッジにおける野 口建彦だったか、今ではつまびらかではない。そしてまたイギリス人のイギリス史ではある が、かつてのホウィグ ・ トーリ政党史や功利主義(世俗合理主義)発達史では見えてこない 信仰/世界観といった問題を見せてくれたのがヒルトンであった。
というわけで、第8講の本文の最初に名をあげたのはポラニーである(p. 201(17))。その The Great Transformation(初版は戦中の1944年(18))の邦訳書タイトルは文字どおりの『大変貌』
でなく『大転換』(東洋経済新報社、1975)となっていて、不思議である。そもそも trans- form とは形態を変える行為、変貌、変容ではないか。ちなみに S. ヒューズの The Sea Change
(初版は1974年(19))の邦訳が『大変貌 ― 社会思想の大移動 1930-1965』(みすず書房、1978)
として刊行されるのは3年後で、ポラニーの訳書はそれより前なのだから、なんの遠慮も必 要なかった。逆に、ヒューズの訳書こそ『潮目の変化:海を渡る知性』とでもするのがふさ わしい(20)。
わたしが第8講のタイトルを「大変貌0 0 0のヴィクトリア時代」としているのは、ヒューズで なくポラニーの原著タイトルからの拝借である。第二次世界大戦のさなかであったが、ポラ ニーが論じたのは19世紀の「文明」(1815-1914年、「平和の百年」とも言いかえられる)の
崩壊、その近代文明を成り立たせていた4つの制度のうち、とりわけ本稿の関連では「マー ケットの自己調整力」(自由市場)と「リベラル国家」の間の関係である(あと2つは、列強 の勢力均衡、国際金本位制(21))。18世紀末のイギリスに頻発した食糧騒擾やこれに対応した政府 の営業規制、これを浸食する個人のもうけ主義(individual gain)とそれを正当化する古典派 経済学の19世紀における完全な勝利が跡づけられる。社会人類学の知見(とりわけマリノフ スキーとトゥルンヴァルト)により、互酬関係(reciprocity)と再分配(redistribution)の うえに成り立っていた前近代社会および人類学的文化と対比しながら、これを否定し疎外し て全面展開する19世紀文明(の迷信0 0!)をきわだたせる。そのポイントは、自由主義市場は 徒手空拳で(見えざる手により)時代を征服したのではなく、政治権力によって導入された という点である。
かつて営業の自由/レセフェールにともなう摩擦や貧困を放任するのでなく、業者を規制 し弱者を保護することを政策課題としつづけたテューダ朝 ・ ステュアート朝の政治(結局は パターナリズム)は、かくして歴史的な意義をもったとポラニーは論じる。たとえば岡田与 好『イギリス初期労働立法の歴史的展開(22)』の議論に親しんだ者にとっては、反大塚史学、非 マルクス主義のポラニーからこのように人類学的に補強された、しかし基本の筋書は共通す る議論を聴くと、奇異とまでは言わないが、「こそばゆい」印象がある。さらにもう一人、E.
P. トムスンはポラニーより38歳若く、ポラニーの産業革命、19世紀論を読んだなら - orderly riot, また right to live といった語がくりかえし現れる!-、黙っていられなくなるのではな いか。彼の「モラル ・ エコノミー」論の援軍とすることも可能だろう。1930年代 ・ 40年代の イングランドで労働者教育協会(WEA)やキリスト教社会主義にもかかわったポラニーと若 きトムスンがどのような関係を切り結んだかは承知しない(ポラニーは『イングランド労働 者階級の形成』初版の翌年にカナダで77歳で死去した)。後年のトムスンが社会人類学(歴史 民族学)に積極的な論及をくりかえし、またアマーティア ・ センへの親近性を表明していた ことを考え合わせると(23)、終生ポラニーについて沈黙したのはなおさらに不思議である。
ポラニーの議論は人類学的な知見にもとづいて「自由市場」への全面移行を批判し、スピー ナムランドの賃金補助制度(保護 ・ 救貧策)やオーウェン主義(pp. 190, 237)のように反ス ミス的「政治介入」(p. 171)が変化のスピードを緩めたことを評価し推奨しているようだ。
だが、戦後~70年代 ・ 80年代の日本の時代精神からすると、これは生ぬるいヒューマニズム で非学問的な論評ととれた。1989-91年の世界の大転換以後、また21世紀の今、これを再読 すると、その議論は人類の相互依存性とエコロジを強調していて、説得力を増してきたよう に感じられる。激動の20世紀を逞しく生きたハンガリー人ポラニーは、ただ進歩的でリベラ ルな日本の読書人とはちがうスケールの歴史観 ・ 世界観を呈示していたわけだ。
立正大学大学院紀要 37号
そうだとすると、レセフェールの古典経済学は負荷を帯び、ほとんど無理とみえたミッショ ンを引き受けながら(pp. 171-2)、いかにして19世紀の政治権力者たちの心をつかむのか。し かも、政権にあった者どもの多くは(全員ではないかも知れないが)欲で面つらの皮がつっぱっ たエゴイストでも、ましてや21世紀のネオリベラルでもなく、古典的教養と公共精神にみた された経国済民の士、ステイツマンだったという(p. 206)。ここに浮上するのが、贖罪(atone- ment)、福音伝道主義(evangelicalism)であり、ブルジョワ合理主義(効用本位の功利主 義)の「改革の時代」が到来するより前に、ピットとその後継者たちの時代が必要だったの だ。わたしは「「大変貌」とは政界の編成替えの時代であり、君ジェントルマン子 は豹変し、国ス テ イ ツ マ ン
家指導者が 輩出した」(p. 206)と書いて、ポラニーは立ち入らなかった問題、すなわち statesmen の君 子的変貌を考えた。ベンサム主義者ならぬトーリの仕事人たち(men of business)こそこの 時代の権力を執行したキーパーソンだった。
1980年秋から留学予定のケインブリッジにおける指導教員は(The British Council と大学 院委員会のはからいで)Boyd Hilton となったという通知を受けて、わたしは彼の学位論文の 改訂公刊版『穀物 ・ カネ ・ 商業』(1977(24))を渡航の荷に追加した。事前にケインブリッジ大学 に提出した研究計画書に言及したことだが、1750年代の食糧事情や労働問題をめぐるマンチェ スタからの請願を受けて法案が議会へ上程されるさいになぜか Sir Roger Newdigate という ウォーリクシャの大地主(オクスフォード大学選出議員)がしばしば動いていた。日本にい るかぎりさっぱり分からない、こうした議会政治の機微とダイナミズムを理解したかった。
ヒルトンの書物は19世紀初めのピット後継者たち(Pittites)といわゆる通俗経済学を論じ て、わたしの考えていた時期より60年ほどずれるが、問題としては重なる面があるわけで、
その書のなかに the new moral economy という節(pp. 26-30)もあった。ブルーアが去った ケインブリッジ(25)での指導教員として悪くはないかも、と受けとめた。だが、ヒルトンのテー マがポジティヴに19世紀前半のイギリス政治経済を理解するのにどれほど枢要か、という点 について当時のわたしは分かっていなかった。次の大著 The Age of Atonement (OUP, 1986)
にいたってようやく何が彼の問題なのかが、読者にもご本人にも、誤解の余地なく明らかに されたといえる。
留学中1980-82年の討論では、Dissent のなかでも Presbyterian-Unitarian が重要な働きを している、18世紀教会史は1961年に亡くなった Norman Sykes 以来よいものがないね、近藤 の原稿に出てくる18世紀ランカシャの治安判事 Thomas Percival と19世紀の福音主義のピッ ト派首相 Spencer Perceval とは関係あるのかないのかといった調子で、個別の諸点にとど まった。1985年夏に再会した折には、サッチャ長期政権のもと労働党はみじめな崩壊局面に あった。キリスト教信仰と自由経済が議論され、学界 ・ 出版界でも18世紀イングランドの政
治文化における高教会(High Church)、そして臣従拒誓者 ・ ジャコバイト(反ホウィグ、ス テュアート復古主義)が注目されていた。一方では G. ベネット(1987年に諫死(26))や J. クラー ク(27)が学界 ・ 言論界に押し出してきたし、ケインブリッジ歴史学部の人材はあいついで転出し、
代わって H. トレヴァ=ローパがもっとも古く権威的なピータハウスの学寮長として赴任し
(またヒトラー偽文書スキャンダルで信認を失い)、歴史学欽定講座教授には G. エルトンが就 いた。戦後ケインブリッジ史学の黄金時代は - 人口 ・ 家族史グループを別にして - 去った かにみえた。また他方でわたしは民衆的正統主義(popular legitimism)なるもの、むしろ民 衆の権威主義 ・ 事大主義の危うさに考えいたっていた。18世紀の民衆的/民俗的正義と(怠 慢な権力に代わっての)その代執行のパフォーマンスを表現したホーガースの油絵 ・ 銅版画 には圧倒的な迫力があった(28)。というわけで、本書のこの部分は、留学中のわが不明を恥じ、
反省とヒルトン先生への謝意を込めてしたためた。
そのヒルトンの視野は、19世紀中産階級の上層(upper middle class)から上流階級の気質
(temperament)、言葉にならない想定(unspoken assumptions)、公共の道徳感(public moral- ity)、世代のメンタリティ(mentality of generations)に向いていた。これを労働者民衆、
さらにジェンダーや家族関係にまでひろげて考察するのは、別の研究者の仕事となる。
そのうち、ニール ・ スメルサはパーソンズ社会学の継承者である。彼の比較的早期の仕事 として『産業革命における社会変動(29)』があり、産業革命期のランカシャ労働者家族における 女子どもの就労 ・ 賃金と、それにより傷ついた家父長意識 ・「男の沽こ け ん券」に分け入った。日本 では戸塚秀夫や稲上毅に影響を与えていた(30)。さらに後年のことだが、中産階級の家族につい て考察したのはダヴィドフとホールの共著で(31)、やはり社会学と歴史学にまたがり、階級 ・ 家 族 ・ ジェンダーを論じている。「社会史」隆盛中の80年代の仕事でもあり、その後の歴史学へ の影響はこちらのほうが大きい。貴族 ・ ジェントリについては枚挙に暇がない。
なお、英語の middle class について本書では可能なかぎり「ミドルクラス」や「中産階級」
「中間階級」よりも「ブルジョワ」という語を用いる。イギリス史の固有性(peculiarities)
に執着する立場(32)には与くみしないし、また教条的階級史観の立場でもない。たとえば J. コッカが そうしているように(33)、他の社会における近似階層 ・ 身分と比較し異同を分析することをうな がす観点から、そして日本の普通の読者になじむ語彙でもあり、「ブルジョワ」を選択した。
ちなみに現代日本語の「中流階級」や「中流層」では19世紀イギリスの middle class、フラ ンスの bourgeoisie、ドイツの Mittelstand のもった語感は伝わらないのではないか。これら の階級の家庭には必ず住み込みの使用人(たいてい複数)がいて、客人を泊める部屋を余裕 でもっていた。今日の日本では大卒、年収800万円+あれば「中流階級」というイメージかも しれないが、自宅に使用人はおろか、(首都圏では)客人を泊める部屋もなく、あってもふだ
立正大学大学院紀要 37号
んは物置だろう。
[ピットとバーク] さてウィリアム ・ ピット(the Younger, 1759-1806)だが、同名の 父(チャタム伯、1708-78)が大物政治家で、その次男である。父の政敵ヘンリ ・ フォクス
(1705-74)、その三男チャールズ ・ ジェイムズ ・ フォクス(1749-1806)と2代続きのライ ヴァルであった。国王ジョージ3世との関係は映画 The Madness of King George(1994年、
日本では「英国万歳!」)に、C. J. フォクスとの対照的関係は Amazing Grace(2006年、日 本では「アメイジング ・ グレイス」)にも描かれている。どちらの映画もやや劇画風だが、許 容範囲内か。
ピットは父に教育され、ケインブリッジのペンブルック学寮を卒業した秀才で、22歳で庶 民院議員。長身だが華きゃしゃ奢というので、政治漫画ではほとんどカンディンスキ作の像のように 描かれた。人前の演説は少年時から父に仕込まれて、卓越していた(p. 175 扉絵)。シェルバ ン内閣で財務大臣(23歳)、フォクス=ノース内閣の崩壊を受けて、1783年12月に首班指名。
24歳になったばかりであった! ピット政権の課題は山積していたが、内政(economical reform および急進主義への対応)とアイルランド問題、そしてインド、フランスとの関係が とくに重大であった。拙稿の論旨から枢要なのは、ピットがスミス『諸国民の富』を愛読し ていただけでなく、同年の親友として福音派の W. ウィルバフォース(1759-1833)から大 いに影響を受けていた点である。生涯独身で、精勤するステイツマンであった。図2にはデュ ポントによる1787年ころの肖像画を示す(34)。
すでに第7講の最後にイギリスの平和秩序(Pax Bri- tannica)を論じるにあたって「ローマはギリシア ・ ヘレ ニズムの精華を継承し、地中海世界を統治した。それに ならいイギリスは宗教改革と啓蒙ヨーロッパの精華を継 承し、地球世界を統治するのだろうか」(p. 195)とした ためた。これに照応して、第8講の始まり近くでは
「イパ ク ス ・ ブ リ タ ニ カ
ギリスの平和秩序の諸問題と取り組むステイツマンを 導いた」3つの要素を挙げて、そのうえで「宗教改革と 啓蒙の精華が合体して近代イギリス国家の「仕事人/実 務家たち」を支えた」(p. 206)と述べた。これはイギリ ス近代を歴史的に理解するための枢要点だと考える。い やむしろ近年の American Historical Review 誌の D.
ヴァールマンとともに、信仰と啓蒙(世俗合理主義⁉) 図2 ウィリアム・ピット
(1787年ころ)
は西洋近代史の共通課題ととらえ直すべきかもしれない(35)。
1789-92年、ピットはフランスにおける革命を立憲君主制への改革と受けとめ、不干渉の 立場であった。事態は転回して1793年2月の開戦にいたるが、これは苦渋の決断で、このこ ろから国内の通信協会の急進運動、そして凶作、アイルランドの反乱により難儀は増した。
トムスンの『労働者階級の形成』でも叙述されているとおり、ピットは一急進主義者にすぎ ないセルウォルの尋問にさえ、法務大臣、内務大臣、大法官とともに同席して感情をあらわ にしていた(36)。高校世界史の語りではピットは反革命 ・ 反フランスの旗頭とされてきたが、こ れはカリカチャで、本文にしたためたとおり、ピットは(あくまで国王の信任が前提だが)
自由で有能な仕事人として諸課題に対処した(pp. 203-5)。この時代に政党(party)とは、
語源からして「部分」をなす「一味」であり、そもそも群れることを嫌うピットは党利党略 を是認できなかった。自分の政治的立場を independent Whig と自任したが、強調点はこと0 0 にそくして expedient であることにあった(37)。
政治思想史でイギリス保守主義の代表とされるエドマンド ・ バーク(1729-97)はホウィ グ党の論客だが、本書では「時効取得(prescription)のシステム(38)」としてのイングランド憲 政、古来の国制をとなえる経験主義のチャンピオンとして現れる。若きベンサム(39)の対極にあ るが、しかしバークは変化を拒否しない。北米13植民地の独立を支持し、アイルランドのカ トリックを擁護し、東インド会社の収奪を弾劾した。自然権思想でも福音伝道主義でもなく、
「古来の国制」を守る立場から、これを害する不正を糾弾し、濫用 ・ 瑕か疵しを除こうとした。名 誉革命を擁護し、また庶民院への王権の介入を排したという点でも、バークはホウィグ主流 の論客である。だが、彼は政界の怪物 C. J. フォクスと袂たもとを分かち、権力政治の渦のなかでう まく立ち回るよりも、考え論じる人だった。そこにピットと連携する可能性があったわけだ が、1795年秋にピットがフランス総裁政府との停戦交渉を考慮していると知ったバークはこ れに強烈に反対して、二人の協調の可能性は消えた。『フランス国王弑しぎゃく逆政府との和約につ いての二つの書簡』(1796)を出版して、翌年にバークは亡くなった。より resilience を備え た近代的な保守主義は次の世代に託される。それを再構築するのは、ベンサム主義とブルジョ ワ改革、アイルランド統治と革命の危機によりもまれ0 0 0鍛えられたロバート ・ ピール、その1835 年の選挙における「タムワース ・ マニフェスト」であった(pp. 209-10)。
なお、本書の要所でくりかえすバークの「過去の人、現在の人、将来の人のパートナーシッ プ」というリフレイン(pp. 205, 236, 302)はなにかの逐語訳ではない。『フランスの革命に ついての省察』(1790)の一節からの要約で、もとの文章は、国家の転覆でなく傷の治療のよ うな気持でその改良に臨むべしととなえて、こう論じていた。
. . . that he should never dream of beginning its [state’s] reformation by its subversion;
立正大学大学院紀要 37号
that he should approach to the faults of the state as the wounds of a father, with pious awe and trembling solitude. [これぞ家父長的保守主義の真骨頂といえるが、これでは終わらず]
. . . It [the state] is a partnership in all science; a partnership in all art; a partnership in every virtue, and in all perfection. . . . it becomes a partnership not only between those who are living, but between those who are living, those who are dead, and those who are to be born.(40) ([ ]およびイタリックは近藤による)
本書のこの要約リフレインに続くパラグラフは(p. 205)、「こうしたイギリス型の経験主義 の近代が、「啓蒙の長女」フランス型の理性主義の近代、すなわち単一不可分の革命的国家原 理と[この後ながらく]わたりあうことになる」と記して終えた。近現代史を通じて今日の 英仏関係、Brexit にいたるまで当てはまる2つの近代の競合である(41)。そのような2つの原理 的対立がかりに変えられない前提だとしても、ピットはながらく無用の「対フランス挑発要 因」であった「フランス王」というイギリス国王の歴史的な正式称号を取りさげ、中世から の宿題、「第一次百年戦争の戦後処理」(p. 204)を1800-1年に実現して、アミアンの和約
(1802)への条件を整えた。またアイルランド合同にともない、ローマカトリック議員の承認 が不可欠とピットは考えたが、これにジョージ3世が強く反対して妥協点は見いだせず、合 同法の施行を機に1801年2月に首相を辞した。ピットが expedient なステイツマンだという のは、そうしたことにも現れる。
(以下つづく)
註
(1) (上)http://hdl.handle.net/11266/5295 (中)http://hdl.handle.net/11266/5780
(下の1)http://doi.org/10.34386/00007700 (下の2)http://doi.org/10.34386/00007718
(2) 専門誌に Nineteenth Century Studies; Victorian Studies などがあり、後者について近藤の1970 年代の論評記事があった。「ヴィクトリア時代研究」『日本読書新聞』。19世紀論の整理として、
森田直子「歴史学における「世紀」」『19世紀学研究』1(2008);同「「19世紀学」・ ヨーロッパ ・ 歴史学 - オスターハンメル「世界の変貌:一つの19世紀史」を手がかりに」『19世紀学研究』
5(2010)。
(3) 近藤和彦『近世ヨーロッパ』(山川出版社、2018)p. 55 より引用。ただし、2000年の数値は第 2刷(2020)により修正する。典拠は Maddison;Eurostat.
(4) もっとも簡便な一覧グラフは、金澤周作『チャリティとイギリス近代』(京都大学学術出版会、
2008)p. 6.
(5) 近藤『文明の表象 英国』(山川出版社、1998)pp. 5-6;同『イギリス史10講』p. 7.
(6) Imperium, empire について Oxford English Dictionary[OED]Online. cf. 主権、imperium、
天皇制を歴史的に再考した、近藤「主権なる概念の歴史性について」『歴史学研究』989号(2019);
同「天皇像の歴史を考える:コメント」『史学雑誌』129編10号(2020)。
(7) 加藤友康責任編集『歴史学事典』第7巻(弘文堂、1999)pp. 494-5.「帝国」のあと「帝国主 義」「帝国主義概念の形成」「帝国主義戦争」という項目も同じく下村が担当している。
(8) 黒田日出男責任編集『歴史学事典』第12巻(弘文堂、2005)pp. 480-2.[ ]は近藤による補 いを示す。
(9) 概念史のもっとも集約的な成果、Geschichtliche Grundbegriffe: historisches Lexikon zur poli- tisch-sozialen Sprache in Deutschland, 8 Bände(Klett-Cotta, 1972-97)が Imperium, Kaiser, Reich 等々の歴史的変遷を古典語 ・ フランス語 ・ 英語も含めて論述している。
(10) 吉村忠典「帝国という概念について」『史学雑誌』108編3号(1999);同『古代ローマ帝国の 研究』(岩波書店、2003)。また古典的な T. モムゼン(長谷川博隆訳)『ローマの歴史』IV(名 古屋大学出版会、2007)pp. 418-23; 551-70 でも imperator/imperium は慎重にくりかえされる。
なお J. ブライケン(村上淳一 ・ 石井紫郎訳)『ローマの共和政』(山川出版社、1984)をみると imperium Romanum は頻出のたびにルビを付して「大ローマ国家」と訳されている。
(11) 歴史学研究会編『世界史年表』(岩波書店、1994)pp. 236-7.
(12) RHS, Handbook of British Chronology, 3rd ed.(CUP, 1986), p. 47.
(13) R. Koselleck, ‘Einleitung’, Geschichtliche Grundbegriffe, Band 1(1972); George Williamson,
‘'Retracing the Sattelzeit: thoughts on the historiography of the French revolutionary and Napoleonic eras’, Central European History, vol. 51, Special Issue 1(2018).
(14) 「近世」を措定しないとどういった不都合が生じるか、cf.『近世ヨーロッパ』pp. 2-6.
(15) Miles Taylor, ed., The Age of Asa: Lord Briggs, Public Life & History in Britain since 1945
(Palgrave/Macmillan, 2015)はエイサ ・ ブリッグズ(1921-2016)の90歳誕生日と業績 ・ 人柄 を記念し討論した IHR における集会の記録。
(16) P. Corrigan & D. Sayer, The Great Arch: English State Formation as Cultural Revolution
(Blackwell, 1985). この野心作は G. E. Aylmer の前言を付し、80年代の沈鬱な学界 ・ 言論界へ の檄という意味もあった。
(17) Karl Polanyi(1886-1964)はヴィーン生まれのハンガリー人。ナチスの迫害によりイギリス
(オクスフォード、ロンドン)へ、1940/47年に合衆国に(往来した後)移住した。弟 Michael、
甥 John とともに、中欧から英 ・ 米へと大移動した20世紀の偉大な知性群の一人(本書、p. 279)。
その姓はさまざまに表記されてきたが、折衷的にポラニーとする。
(18) 手元の第2版 The Great Transformation: The Political & Economic Origins of Our Time
(Beacon Press, 1957)により引用する。第3版(2001)も出ているが、序文がスティグリッツ、
ブロックのものに替わったという以外に本質的な差異はないようだ。
(19) こちらは戦間期ヨーロッパをよく知るアメリカ人 Stuart Hughes による欧-米思想史3部作 のうちの1巻。
(20) ちなみに E. P. Thompson, The Making of the English Working Class(1963, 68, 80)では、
1790年代の労働民衆のメンタリティの決定的転換 ・ 移行(subterranean alteration in mood, atti- tudes of the inarticulate)が論じられるが、そのキータームは(ヒューズにもポラニーにも言及 せぬまま)sea-change である。1968/80年版で、p. 127. cf. pp. 85, 111, 194, 516, 662. とくに194 ぺージではこの1790年代に something like an English Revolution took place とまで述べる。
(21) Polanyi, Great Transformation, pp. 3, 29-30.
(22) 岡田与好『イギリス初期労働立法の歴史的展開』(御茶の水書房、1961)
(23) E. P. トムスン(近藤訳)「民俗学 ・ 人類学 ・ 社会史」『思想』757(1987);Thompson, Customs in Common(Merlin Press, 1991), pp. 117-8, 124, 263-6, 284-7, 298-9.
(24) Boyd Hilton, Corn, Cash, Commerce: The Economic Policies of the Tory Governments 1815
立正大学大学院紀要 37号
-1830(OUP, 1977). 後になってから知ったが、ボイド ・ ヒルトン、ジョン ・ モリル、ポール ・ ラングフォドはオクスフォードにおける同期の桜であった。
(25) ジョン ・ ブルーア(近藤編)『スキャンダルと公共圏』(山川出版社、2006)、とくに pp. 19-27;
また喜安朗ほか『歴史として、記憶として』(御茶の水書房、2013)pp. 180-1.
(26) 主著は Gareth Bennett, The Tory Crisis in Church and State 1688-1730: The Career of Francis Atterbury, Bishop of Rochester(OUP, 1975). ベネットは18世紀初めのジャコバイト ・ 臣 従拒誓者を研究したばかりでなく、キャンタベリ大主教(1980-91)Robert Runcie のリベラリ ズム、エキュメニカリズム、女性任用に強く反対した国教会保守派の聖職者だった。アン女王 ・ ジョージ1世期の国教会の寛容姿勢とこれを許容しない高教会派の対立があたかも20世紀末葉 に再現したかのように、ベネットはアタベリ主教(1713-23)の役割を引き受けて、ランシ大 主教を諫め自死した。ODNB; 英米の各新聞の訃報論評がウェブで読める。
(27) 主著は Jonathan Clark, English Society, 1660-1832(CUP, 1985). 中道左派を攻撃しつづけ たサッチャ時代の寵児は、ケインブリッジ、オクスフォードから合衆国カンザスへ移り、E. バー クの編集などもしている。
(28) 近藤「1715年マンチェスタにおける〈恐るべき群衆〉」、長谷川博隆編『ヨーロッパ:国家 ・ 中 間権力 ・ 民衆』(名古屋大学出版会、1985);同「シャリヴァリ ・ 文化 ・ ホゥガース」『思想』740 号(1986).
(29) Neil Smelser, Social Change in the Industrial Revolution(U Chicago P, 1959).
(30) 戸塚秀夫『イギリス工場法成立史論』(未来社、1966)。わたしが卒業論文のテーマを捜して いたころに目を開いてくれた専門書の一つ。戸塚(1930-2017)は社会政策学における大河内 一男批判、労働運動、ニューレフト研究に携わり、晩年に「私の道標」という学問的自叙伝を ウェブ上に連載した。http://www.lcv.ne.jp/~forest55/# 稲上毅の主著は『現代英国経営事情』
(日本労働研究機構、1997)。1970年代前半、まだ院生のわたしにスメルサを共訳しようと持ち かけてくださった。
(31) L. Davidoff & C. Hall, Family Fortunes: Men and Women of the English Middle Class 1780-
1850 (Routledge, 1987); 3rd ed.(Routledge, 2019).
(32) むかし越智武臣、今井宏、浜林正夫といった方々がよく用いた表現では「アングロマニア」
である。cf. 柴田三千雄 ・ 松浦高嶺編『近代イギリス史の再検討』(御茶の水書房、1972);『イギ リス史研究』全38号(1968-85)。
(33) J. Kocka & A. Mitchell, eds, Bourgeois Society in Nineteenth-Century Europe(Berg, 1991).
(34) William Pitt the Younger, by Gainsborough Dupont, c. 1787. Wikimedia.
(35) Dror Wahrman, ‘God and the Enlightenment’, AHR, vol. 108, no. 4(2003).
(36) Thompson, The Making, pp. 20-1.
(37) こうした判断は、ODNB ; John Cannon, ed., The Oxford Companion to British History, rev.
ed.(OUP, 2002)にも共通する。
(38) 日常日本語の「時効」とは長年の経過による権利 ・ 効力の消失だろうが、法律用語では長年 異議なく経過して生じる「取得時効」と「消滅時効」がある。
(39) Jeremy Bentham(1748-1832)の最初の本は A Fragment on Government(1776)で、この ときはブラックストンの既成事実 ・ 伝統主義を論駁して utility(効用)本位をとなえ、1789年の An Introduction to the Principles of Morals & Legislation では「最大多数の最大幸福」「最大多 数の最少苦痛」をとなえた。本書 p. 207.
(40) Edmund Burke, Reflections on the Revolution in France . . .(Pelican Classics, 1969), pp. 194-5;
中野好之訳『フランス革命についての省察』(上)(岩波文庫、2000)で pp. 177-8;水田洋 ・ 水 田珠枝訳『フランス革命についての省察ほか』(中公クラシックス、2002)は p. 178 にあたる。
最近の I. Hampsher-Monk, ed., Revolutionary Writings(Cambridge Texts in the History of Political Thought, 2014)は『省察』の解釈史を思想史的に位置づける。xx-xxi, xxxix-xli, pp. 100-1.
(41) cf. 近藤「さよならの挨拶 - イギリス人とフランス人 -」『立正史学』123号(2018).