• 検索結果がありません。

皮錫瑞『経学歴史』訳註(三)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "皮錫瑞『経学歴史』訳註(三)"

Copied!
17
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)Title. 皮錫瑞『経学歴史』訳註(三). Author(s). 宮本, 勝. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 43(2): *21-36. Issue Date. 1993-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4265. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . しん. ひしゃくすい. 平成 五年三月. 皮錫端 『 経学歴史』訳注日. 北海道教育大学紀要 ( 第 一部A)第四十三巻 第 二号. 凡例 1 清 ・皮 錫 瑞 『 経学歴史』の訳注 であ る。底本 は中華書局出版 (一. 九五九年 --一 月第 一版 )周予同注訳本を用 いた。 2 注 は、多 く周 予同 の 「 注訳」に依 ったが、詳細 は周 予同 に譲 り、 本注 は、本文 の文義疎通 に必要 なも のにとど めた。 3 原文 は章 ごと に更 に数節 に分れ ていて、各節 の見出 しは ついて いな い。本訳注 では、便宜上 、 これ に番 号を付 し て小見出 しを つ け た。. 4 本文中 に小活字 を用 いて訳出 したのは、皮錫瑞 の自注 であ る。. ちようわん おうぞう. 5 本文中 に ( ) で補足し てある のは、訳者 によるもの であ る。. 三 経学昌明時代 1.漢 ・武帝時 の経学 に ついて 史記』 儒林伝 に次 のよう に いう。 『 今 上陛 下 ( 漢 ・武帝)が 即位 すると、 遺 精 ・王戚 など の儒 注 一) (. 学 に明 る い学者 が おり、主上もまた儒学 に関 心を寄 せ ていた。 みことのり. そ こ で 詔 によ って方 正 ・賢良 な人 材 お よび 文 学 ( 学問) の. こ ぶせい. 宮. 本. る. 勝. しんばいこう. 土 を招致 した。 この後 、詩 を説 いた学者 に、魯 には申培 公 がお せい えんこせい えん かんたいふ り、斉 には較 固生 が お り、燕 には韓太博 ( 韓嬰)が いた。尚書 せいなん を説 いた のは、済南 の伏生 ( 伏勝)よ りはじま った。礼 を説 い しせん たのは、魯 の高堂生 よ りは じま った。易を説 いた のは、雷川 ( 山 東省)の田生 ( 田何)よりはじま った。春秋を説 いたのは、斉 ・. 魯 では、胡母生 よ りはじま り、 麹 では、董 仲 野 よりはじま っ た。. 儒林伝 は続 いて詩 に ついて、申公 の伝 に いう。. 申 公 は魯 の人 であ る。ー:・ 彼 はただ詩 の訓 ( 読みかた)を教 注二) ^ 授 しただ け で、細 かな注釈 をせず 、疑わ し い部 分 にはし いて解 釈 を加 えなか った。ー:・ 弟 子 の中 で博士とな った者 は十余人 、. ・ ・ ::大夫 ・郎中 ・掌故 ( 故実慣例を掌る太常の属官)の官 に つい た者 は百人以上も いた。彼 らの詩 の解釈 はそれ ぞれ異な って い えんこせい. た け れ ど も 、 そ の多 く は申 公 の説 に も と づ い て い た 。. ま た、顛固生 の伝 に いう。. 戟 固生 は斉 の人 であ る。詩を修得 した こと によ って、景帝 の 時 に博士 とな った。ーー斉 で詩 を説 く学者 は、 みな較固生 の説. に も と づ い て い た 。 詩 に通 じ て い る こと で、 高 位 を 占 め た 斉 の. ニ ー.

(3) . . 勝. 宮 本. かんえい. 、. 諸人 は、 みな彼 の弟 子 であ った。 ま た 、 韓 嬰 の 伝 に いう 。. 彼 は詩 1・ 韓生 は燕 の人 である。文帝 の時 に博士とな った。:・ 注三) ^ ふえん 韓詩外伝』 数 方言を 韓詩内伝』 および 『 の旨意を敷宿 し て、 『 、 作 った。 その内容 は斉 ・魯 の詩 説と いささか異 な って いたが 主旨 にお いては同 一であ った。 ::1燕 ・超 の地方 で詩 を説 く者. ニニ. 、 古 これ によ ると、尚書 は、伏生 の学 があ っただけ であ り 孔氏 の 『 い の であ る 。. ( 注七). 文尚書」 に言及 し ては いるが、孔安 国が伝を作 ったとは い って いな 礼 に ついて、高堂生 の伝 に いう。. 諸学者 は多 く礼 に ついて説 いたが、魯 の高堂生 が最も すぐれ. て いた。礼 の根本 をたず ね てみると、礼 の経典 は孔 子 の時代 に. 、 も具備 しておらず 、秦 の焚書 に遭 って、書籍 はますま す散逸 し. 儀礼」十七篇)が残 って いるだ 現在 の 『 土礼』 ( 現在 では ただ 『. は 、 韓 生 の説 に よ った 。 注四) (. 、 毛 これ によ ると、詩 は、魯 ・斉 ・韓 の三家詩 があ っただ け で 『. あ る は な か った の で. 春秋 に ついて、董 仲 符 の伝 に いう。. の 易 は な か った の であ る 。. 注九v {. ようか. 易を説く者 は楊何 の家 法 にもとづ いている。 …:・ 、 これ によ ると、易 は、 ただ楊 何 の学があ っただけ で 費氏 の古文. 山東省)の楊何 に伝えた。 を子仲と いう者 に伝 え、子仲 は富川 (. しせん. 六代 目 に斉 の人 、田何 、字 を子荘 と いう者 に伝 え られ て、…:・ 山東省)の王同 、字 た。 そし て漢朝 には いると、田何 は東武 (. 、 ::・ 次 々と伝授 さ れ 魯 の 商 濯が孔 子 か ら易 を授 け られ て ・. 易 に ついて、田何 の伝 に いう。. 礼b. 今の 『 周 周官』 ( 儀礼』 があ っただ け で、 『 これ によると、礼 は、 『. ざらい. け であ る。高堂生 は この礼 を よく説 いた。. 詩」 はなか ったのであ る。. ( 注五). 書 に ついて、伏生 の伝 に いう。 しん せいなん 山東省)の人 であ る。もと秦 の博 士 であ った。 伏生 は、済南 ( 、 文帝 の時 、尚書 に精通 し て いる学者を天 下 に求 めたが なかな か見 いだ せなか った。時 たま伏生 が尚書 に通 じ て いる ことを聞 、 き、彼を 召そうとしたが、 この時 、伏生 は九十余歳 の老齢 で 参 上 も かなわ ぬと あ って、太 常 に詔 し て掌 故 の 朝 錯 を伏生 の ふんしよ 、 もと に つかわし、尚書 を受 けさせた。 これよ り先 秦 の焚書 の 、 、 時 に、伏生 は尚書を壁中 に塗 り こめ て隠 したが そ の後 兵乱 、 が大 いに起 こり、流亡 の世 と な った。漢が天下を平定 し てから 、 伏生 は壁中 の尚書 を求 めたが、数十篇 は失 われ 二十 九篇だ け 。 が手 に入 った。 そ こで、 これを斉 ・魯 の地方 で教授 した 学 に 、 志 す者 は これ によ って尚書 を説 く ことが できるよう になり 山. 董仲都 は広川 の人 であ る。春秋 の学 を修得 した こと によ って 景帝 の時 に博士 にな った。 :::漠 が興 ってから今 に至 るま で五 。 世 の間 では、ひと り童仲野だ けが春秋 に通暁 し て いたと いえる. 東 ( 函谷関以東) の学 者 たち は みな尚書 を取 り上 げ て教 え るよ 古文尚書』 があ り、 う にな ったの であ る。:::孔氏 の家 には 『. ま た、胡母生 の伝 にいう。 。 胡 母生 は斉 の人 であ る。景帝 の時 、博 士 にな った ー :斉 で. こ ぶせい. 彼 が伝 えた のは公羊 氏 の説 であ る。. くよう. 、 孔安国は、今文 で対 照 して これを読 み それ によ って尚書 の家 注六) { 散逸した尚書)十余篇を 得 た。 思 う 学を起 こし、新 たに逸書 ( 。 に尚書 の学 は、 これからま すます複雑 にな ったの であ る.

(4) . 皮錫瑞 『経学歴劇 訳注日. かきゆう. 春秋 を説 く者 は、多く胡母生 から学を受 けた。公孫弘もま た彼 の学 を受 けたのであ る。暇 丘 ( 山東省)の江生 は 『 穀 梁 春秋」 を修 めた。公孫弘が登用 され てから、春秋 の諸説を いろ いろ比. 注 一○) (. 較 したの であ るが、結局、董仲野が採用 され た。 これによると、春秋 は、 ただ 『 公羊春秋』 の童 ・胡 の二家があ っ ただ け であ り、司馬遷 は 『 穀梁 春秋』 に多少 ふれ ては いるが、 『 左 氏 伝 」 に つ い て は 何 も い って い な い の で あ る 。 しゆらい このよう に、司馬遷 の当時 にお いては、まだ 『 毛詩』 『 左 周礼」 『. 氏伝」 など の古文家 はなか ったよう であ る。経学 は漢 の武帝 に至 っ て、はじめ て昌明時代を迎 えた の であり、漢 ・武帝時 の経学 こそ最 も 純 正 であ った 。. そう 有うおうりん. 2.漢 ・武帝 の明経取士 に ついて. かんえい. 宋 ・王応麟 『 困学紀聞』 に次 のよう に いう。 てきほ 注 一一) ( 後 漢 の諺 繭 は いう、「 文帝 が始 め て 一経博 士を 置 い た」 (羅 漢書』程 甫伝)と。 これを漢 の歴史 に照 ら し てみると、文帝 の 時 に申公 ・韓嬰は詩 に通じ て いる こと で博士とな ったが、五経 のなか で学官 に立 てられ ていたものは、詩 だ け であ った。景帝 えん- -せい. は戟 固生を博士 と したが、詩 以外 の経 は学官 に立 てなか った。 武帝 は建 元 五年 ( 前 一三六年) の春 に、 は じめ て五経博 士を置. よう. いた のであ る。 『 漢書』 儒林伝 の賛 に いう、 「 武帝 は五経博士を ようか 〈 立 てた。書 では欧陽生 、礼 では后倉 、易 では楊何、春秋 では公 羊氏」 と。五経博士を立 てた のに、四経 だ けを取 り上げ ている のは、文帝 の時 に詩 が す でに立 てられ て いた ので、 それを加 え て五経とするのであろう。 ( 巻八経説) とうちゆうじよ こ ぶせい しかし、 『 史記』儒林伝 によると、義 仲 符 ・胡 母生 は いず れも春. . 秋を修得 した こと によ って景帝 の時 に博士とな っていたの であ るか ら、景帝 はす でに春秋 の博 士を も学官 に立 てていたわ け で、詩 一経 だけ ではなか った。ただ武帝 の時 にな って、 はじめ て五経博士 が備. わ った の であ る。これは経学隆 昌途上 の盛挙 と いえ る。ただ、『 史 記』 には これを明確 には記載 し てな いが、次 のよう に述 べて いる。. 武安侯 綴蛾 が丞相 と な ると・黄老 ( 道家) .刑名 ( 法家)そ. の他諸子百家 の言説をしりぞけ、学識 のあ る儒者 百人 を 召 し出 し たが、中 でも公孫弘 は春秋 に通 じ ている こと で、平 民 か ら天 へいしんこう 子 の三公 の位 にま で登り、平津侯 に封ぜ られた。 かく て天下 の 学者 は こぞ ってこの風潮 になび いたのである。公孫弘 は学 官 に 任ぜ られると、儒学 の道が ふさが り滞 っている のを嘆 いて、天 子 に次 のように請願し た、「 博士官 のために弟子五十人を 置 き、. ……郡 ・国 ・県 ・道 ・邑 に学 問を好 み、長上を敬 い、政教 を つ つし み、郷 里 の俗 に従 う者 があ れば 、・ ::・ 太常 ( 故実慣例を掌 る官) のもと に送 り、博士 の弟 子と同様 に学業 を受 けられ るよ. う にする。 一年 た ったらみな試験を行 い、よく 一経以上 に通暁 したも のは、文学 ( 郡 ・国の博士官) ・掌 故 ( 太常の属官) の欠 員を補 う。特 に優秀 で郎中 に取り立 ててよ いも のは太常 が そ の. 名簿を奏上 す る。も し抜群 の秀才がおれば、 その姓名を奏 上 す. る」 と。( 儒林伝) これ は、漢 代 にお け る明経取士 ( 経学に通暁する人材を選挙する科 挙法) の盛典 であ り、ま た、後世 の明経取士 の聴矢 でもあ る。史家 ひび は これ に ついて、 「これ以後 、公卿大夫士吏 に文 学 の土が彬ん彬んと し て輩 出 するよ う にな った」 (『 史記」及び 漢 書」儒林伝 に見える)と 評 し て いる。. これ に対 し て、方壱 ( 満の人)は、 いにしえ学問 で官位 に就 いた. 二三.

(5) . 勝 本 宮. 、 公孫弘が )利禄を以 て儒術を興 そうと し てから 者 はなか ったが、 ( 注- … ^ 。 儒学 の小道 が通じ、大道が滅 ん でしま ったと批判 し て いる 思 う に、方氏 の持論 はすぐれ ては いるが、実 は三代以降 も はや師 きざよく そくはく へ が尊 ば れず 、漢 の武帝 が束宗 ・壁 玉 を贈 り、安車 瓢馬を した てて 史記」儒林伝に見える)も、す でに極 め 申公 を迎 え たと いう佳話 (『 、 て稀 な こと に属 し てしま い、経学を興隆 しようと するならば 利禄 、また勢 いの趨. 。 を 以 て し な け れ ば 、 ど う し よ う に も な ら な く な って い た の であ る. せい かん. 古今 の人材 登用 の方法が ここに至 って 一変 した のも く と こ ろ であ った 。. りゆうさん. 3.十 四博 士分立 に ついて. ろ. 前 一四01 一三二年)に起 こ っ 劉 欲 は、先師 は みな武帝建 元年 間 ( 。建 元年 間 に 太常博士に移すの書」) 漢書」劉散伝 「 たと い って いる (『 。漢 五経博士を立 ててから、博士 たちは それ ぞれ の家法 で教授 した 『 書」 儒林 伝 の賛 には、書 ・礼 ・易 ・春秋 の四経 はそれぞれ 一家 しか. ししゆう もうき. 挙げ て いな い。 ただ詩 は漢初 にお いてす でに魯 ・斉 ・韓 三家 に分 か えんこせい かんえい 。 れ、申 公 ・戟 固生 ・韓嬰が漢初 す でにみな博士とな って いた この 、 三人 は異 な った地 に生 まれ、異 な った師 に学 んだ のであ るから 詩 、 が魯 ・斉 ・韓 三家 に分け て立 てられた のは、けだし当然 分立 しな け れ ば な ら な い いわ れ が あ った の で あ る 。. 、 そ の後 、五経博 士 は十 四 に分 かれ た。 即ち 易 は施 鰯 ・孟喜 ・ りようぎゆうが けい漂う 夏 侯勝) ・ 梁 丘 賀 ・京 房 の四博 士を立 て、書 は欧 陽生 ・大夏 侯 ( だい 、 夏侯建)の三博士を 、詩 は魯 ・斉 ・韓 の三博士を 礼 は大 小夏侯 ( げんほうそ しようたい たい 戴聖) の 二博 士 を、 春 秋 は厳 彰祖 ・顔安 楽 の 戴 ( 戴徳) ・小 戴 ( 注 一三) { 。 二博士を それぞれ立 てた。合わせ て十 四になる 、 詩 は、魯 .斉 .韓 .毛」とあ って 後漢書」儒林伝 には、「 一方、『 ・. 二四. 漢書」芸文志の誤り)に、 十 四 でなく、十五 になる。と ころが儒林伝 (『 、自 ト商 より 伝え ト り伝 、 商) ら子 夏 ( ( )よ し、 子夏 自ら が存 存在 在し 学が に毛 公の の学 っき らに 毛公 さら さ はっ と 「 「 は きり りと 、 られたと称 する。河間献 王が それを好 んだが まだ学官 に立 てられ しん. こえんぷ. 毛詩」 は漢代 には学官 に なか った」 と い っている。 これ によると 『. 後 漢書』 日知 録』 が (『 立 てられ な か った の であ り、清 ・顧炎武 『 えんじ 巻二十六)は た い へん 毛」 の 一字 を宿 字 と し た校 訂 ( 儒林 伝 の)「 かんひと. 正確 である。. 漢人 は、経を治 める のに各 々家法 を守 り、博士 は教授 する のに専 ら 一家を宗 と した。諸学派 のなか で、ただ魯 ・斉 ・韓 の三家詩 はも. ともと師を異 にし ている ので、 それぞれ学官 に立 てられ る いわれが あ る。. すいもう. 注 一四) {. 、 これ に対 して施慨 ・孟喜 ・梁丘賀 は同 じく田王孫 を師 と し 大 ・ 、 小夏侯 は共 に張生 の系統 で、張生と欧陽生 とは共 に伏生 を師と し ・夏侯建 もま た夏侯始昌 の系 統 であ り、戴徳 ・戴聖 は共 に后. 。 を師 とし、厳彰祖 ・顔安楽 は共 に畦孟を師 と し て いる これらは. 。 これ ら. 、 いず れも師を同 じくし学を共 にして いる のであるが これを細 分 し. て門 を 立 て る と は 、 い か な る意 図 に も と づ く の で あ ろ う か. は み な 分 立 す る いわ れ の な いも の であ る 。. 4.博士官分立 の不当性 に ついて かんひと 、 漢人 は、最 も師法を重 んじた。師法伝授 の際 には 一字 と いえど. 。. くよう. も改 め る こと を し な か った し、師 説 に背 いた場合 には用 いられ な 、 か った。師法 は厳 しく守 られた のであ る。だが 博士 を学官 に分立. ようか. さ せ た こ と に つ い て は 、 理 解 でき な いも の が あ る. 、 漢初 は、書 は欧 陽生 、礼 は后倉 、易 は楊何 春 秋 は公羊氏が それ 、 ぞれ立 てられ て いただ け で、お のお の遣経を墨守 し て 異説を ま じ.

(6) . 皮錫瑞 『経学歴刺 訳注日. えず 、す べて法 にかな っていた。. わゆ る 「 大道 多岐 にし て道 を亡 う」 (「 列子」説符篇)も の ではな か ろ う か。. も とづ いた」 ( 儒林伝)とあ り、 易を学 官 に立 てる のは、楊 何 だ け. 書 は伏生 よ り伝えられ、彼 が欧陽生 に伝授 したの であ るから、欧 陽生 を立 てるだけ で充分 であ った。 ( と ころが後 に博 士官 に立 てら れた)大 ・小 二夏侯 は張生 の系統 で、したが って同じく伏生 にもと. たの であるから、 三人 の学問が同じならば、どうし てさら に門を分. ^ 注二二). りようきゆうが. で充 分 であ った。施 悌 ・孟喜 ・梁 丘 賀 はとも に田王孫 に師 事 し. ししゆう もうき. ( 史 記』 には 「 易 の場合 も同様 で)『 易 を説 く者 は楊何 の家 法 に. づ 〈 こと になる。だから、もし彼 ら の学 問が ( 欧陽生 と)同じなら ば、 わざ わざ 分立 する必要 はな いし、ま た同 じ でなければ 、師説 に. ける のであろうか。学 問が同じ でなければ必ず師 説 に背 いているの. 注 一五) {. 背 い た も の で あ る か ら 、 な お さ ら 分 立 す べ き で は な い。 試 み に 、 書. であ る 。. げいぽう. し な が ら 、 後 に ま た 博 士 に立 て ら れ た と す る の は 、 一体 ど う いう こ. { 注二三). だ から、孟喜が師説を改 めたため に用 いられなか ったと明 らか に. さんろく. に関 する 二 つの例を挙げ て証明し てみよう。 しゆんてん たいろく そ の 一、(『 尚書」 舜 典篇 の)「 大麓」 の語 に ついて、伏生 の 『 尚. ぅていこく. と であ ろうか。京房は易を焦 延寿 から受 け、 孟喜 の学統を受 け て い. ( 注一 七). 書大 伝』 は 「 大麓 の野」 と解釈 し、 これは明 らかに 「 山麓」 の意 で 注 一六v ^ あ る。 『 史 記』 ( 五帝本紀 )は ( 同 じく)「 山 林」 と解釈 し、 これ は. な い。要 するに、 これらはみな学官 に立 つべからざ るも のを立 てた. ( 注二五). た のに、宣帝 はさ ら に穀 梁 春 秋、 梁 丘 易、大 ・小夏侯 尚書. む かし、博士官 は、書 が欧陽 、春秋が公羊 、易が施 ・孟 であ っ. 太常博士 に移 すの書」 に次 のよう にいう。 劉 散の 「. りゆう嵩ん. ( 礼 の)大 ・小 二戴 、( 春秋 の)厳 彰祖 ・顔安 楽 などが学官 に分. げんほうそ. 立 す べ き で は な い こと も ま た 同 じ く 明 ら か で あ ろ う 。. であ る )「 世 王」 は、 ほとんど術数 に近 いも ので問題 になら 飛伏」 「. 京氏 の易 は現在 もなおその大略が存 し ている。しかし、彼 の ( 易説 注二六) (. 施鰯 ・孟書 ・梁丘賀 の易 は現在 、考証 する ことが できな い。 ただ. こと であ ろ う か 。 理 解 に苦 し む と こ ろ であ る 。. る が 、 後 に ま た 博 士 に立 て ら れ た と す る の は 、 これ も ま た ど う い う. ( 注二四). ると称 したが、孟氏 の弟 子たちがそれを絶対 に認 めなか った。 と こ. 欧陽生 の説を用 いている。と ころが 『 漢書」千定国伝 は 「 大録」 ( 統 ^ 注 一八) べ治める)と解釈 し、大夏侯 の説を用 いて いる。大 夏 侯 は明 ら か に 師説 に背 いて いる。 こうこう もうー ー う そ の 二、 (『 尚書』 康譜篤 の)「 孟侯」 の語 に ついて。伏 生 の 『 尚 { 注一 九) 書大伝』 は これを 「 侯を迎 ふるも の」 と解釈 する。また、 『 白虎 通」 ちようへい ( 注二○) 朝 購篇 でも、伏生 の説を採用 して いる。 と ころ が 『 漢 書」 地 理志 には、「 周公が弟 の康叔 を封 じ 『 孟侯」 と号 せしめた」 とあ り、 こ. も の な の であ る 。. 小夏侯 は大 要侯 の従 子 ( おい) で、大夏侯 に学を受け た にも かか ざつば〈 わらず 、大夏侯 の学説を 「 雑駁 で論破 される こと必定」 と批判 し て お り、他方 、大夏侯もま た小夏侯 の学説を 「 大道を破砕 す るも の」. 5.古文経 の博士官 増置運動 に ついて. { 注二;. れは小夏侯 の説を採用し ている。. 。 と批判 し ている (「 漢書」夏侯建伝) かく のごとく小夏侯 は大夏侯に 異を立 て、大夏侯もま た欧陽生 に 異を立て ている のであ る。師 の伝 えた学を守 らな いも のは、法 を定 め て厳禁 す べきな のに、 かえ って博士を学官 に分立 させた のは、 い. 二五.

(7) . . 勝. 宮 本. を増置 した。主張 は互 いに異 な って いたが、 それ でも併 置 した. 今度 は費氏が怨望 した。左氏春秋も これ になら って学官 に設置. は理 にかな った処 置を為 し得 なか った。かくし て京氏 が立 つと、. 近頃、有司が京氏易を博士 に立 てよと請願 したが、官吏 たち. 二六. の であ る 。 誤 って廃 す る よ り 、 む し ろ 誤 って立 て る方 が よ いと. { 注二八) えんぽう. 漢書」巻三十六劉欲伝) いう主旨 から であろう。 (「 『 漢書』儒林 伝 の賛 に いう。 宣帝 の世 に至 って、新 たに大 ・小夏 られ て いただ け であ った。・. 高氏、郷氏 、爽氏 など の奇異 な経説が それぞれ学官設 置を要求. 、 あ る。だ から、今 も し左氏春秋 、費氏 易が学官 に立 てられると. ( 注三○). される ことを求 めた。京氏易 ・費氏 易が世 に行 われ て いるから すう し きょう し ( 注二九) には、次 は高氏易 の番 であ る。 春 秋 に は ま た 郷 氏 ・爽 氏 が. 侯尚書 、大 ・小戴礼 、施 ・孟 ・梁丘易、穀梁春秋を立 てた。元. 後漢書」庖升伝) する であ ろう。 (『 、 苑 氏 の説 によ って、漢 代、争 って学 官 設 置 を 請 う者 が 非 常 に 。 狭 睡 な考 えを持 ち、 お のお の私心を懐 いて いた ことが分 か る 一. 初め書 では欧陽、礼 では后、易 では楊 、春秋 では公羊 が立 て. 帝 の世 に至 ると、また京氏易を立 てた。平帝 の時 にはさらに左. 家を増置すれば 、他 の家 は怨望 する。深慮あ る者 はあ らかじめその. 、 てた のは、王非 ・劉 欲 の徒 が行 な ったこと で 特 に論ず るま でもな. 逸礼」 『 古文尚書』を学官に立 毛詩』 『 左氏春秋』 「 平帝の時に、『. 氏春秋 、毛詩 、逸礼 、古文尚書を立 てた。 このよう に遺失 を網. たいれい. 虚 妄 の説 が存 ず る にし ても ) そ の 中 羅 し 、 併 存 せ し め た の は、 (. 漢代 、博士を立 てた経緯 に関 する この二 つの叙述 はほとんど同 じ つが ししゆう もうき りようきゆ‐ で、 ただ施 鱗 、孟喜、 梁 丘 賀 の順 序 が多少 、前 後 し て いるだ け. 、 い。 だ か ら 、 光 武 帝 の世 に 、 そ れ ら を み な 廃 止 し て し ま い こ れ ら. 。 萌 兆 を絶 つべき で、軽 々にそ の端 緒を開 いては いけな いのであ る. に は 正 し い説 が あ る はず だ か ら であ る 。. であ る。劉 欲は古文 の諸経 を立 てようと した ので、博士を増置 した. 数経 は漢代を通 じ てふたたび学官 に立 てられなか ったのであ る。. おうもう. ことを例 とし て挙 げ た のであ る。 しかしなが ら、相 互 の主張が相 反. 士 は官 に備 わ って待機 して いるだ け で、栄進 する者 は いなか った」. 法家)の学 を好 み、博 文帝 は刑名 ( 書」 の儒林伝 には、 いず れも 「. 漢 史記」 及び 『 だが、 この ことば には疑 わし い点 がある。 即ち 『. 。 三経 に列 するのは、超氏 の ことば に啓発 せられた のかも知 れな い. 、 の)四経 は学官 に立 てられて いた こと になる。後世 この四経を十. 爾雅」 孟子」 『 論語』 『 孝 経」 『 の ことば の通 りならば 、湊初 す でに (『. 爾雅』を十三経と称するが、強氏 孟子」 『 論語」『 孝経』 『 伝及び 『. 孟子」 『 爾雅」 の博 孝 経」 『 論語』 『 は遊学 の路 を広 めようと し て 『 さんらい 士を みな置 いた」 と いう。思う に、宋以後 、易 ・書 ・詩 ・三礼 ・三. 文帝 孟子題辞」 に、「 『 孟子 章 句」 の)「 後漢の人)の ( 超 岐 (. ( 注三一). し て い る の に 、 ど う し て併 置 し て よ い であ ろ う か 。 ま た す で に そ の 。 誤 り に気 が つけ ば 、 ど う し て立 て る 必 要 が あ ろ う か い った い誤 っ { 注二七). 。 て立 て る よ り は 、 む し ろ 誤 って廃 す る 方 が よ い の であ る だ か ら こ. 。 そ諸博士 は、劉欲 の強弁飾説 に取りあわなか ったのである. 、 さて、博士 たち は宣帝 ・元帝 の世 に増 置し た時 には あ え て争 わ ず 、 ただ劉款 が増置を提唱 した時 に、 はじめ て力争 し て譲 らなか っ 、. た。思うに、 これは諸家が同 じく今文 に属し ていて 学説 には多少 、 の相違があ った にし ても、古文 と の相違 に比 すれば さほど の こと ではなか ったから であろう。しかし、事を未然 に防 ぐと いう点 から すれば 、博士 たち はその時 す でに深慮 に欠 け ていた。 はんしよう 後漢の経今文学者)は次 のよう に いう。 苑升 (.

(8) . 皮錫端『経学歴劇 訳注日. 逸書 十六篇 は そ の篤目が馬融 ・鄭 玄 の伝 の中 に見え るだ け で、. じようげん. と 記 載 さ れ て いる 。 「 官 に備 わ って い た」 と い う か ら に は 、 ど う し. 師 説 は途絶 え て いる。馬融 ・鄭玄 はもと も と杜林 ( 後漢初期 の経古. とりん. てさら に増置 する必要があ ろう か。 五経 が学官 に立 てられ ていな い. 文学者)の系統 を引 き、彼 ら の伝 え たも のが、劉 欲 の いう孔壁 の古. ぁんし. 相 互 に発明し、 これ によ って章句 や義 理が備 わ った」 とあるが 、 こ. が、劉欲 が左氏伝を修得 し てからは、伝 の文 を引 いて経を解釈 し、. 「 初 め左氏伝 は古字古語が多 く、学者 は訓話を伝 え るだ け であ った. ない別系統 の書 と同 じ である ことを示 し て いる。 『 漢書』 劉欲 伝 に、. な いが、 この こと は 『 要 子春秋」 『 呂氏春 秋」 など 、聖経 と関係 の. 注三四) {. 史記」 では、 「 『 左氏春秋」 と称 し、「 春秋左氏伝」 と は称 し て い. とは明白 である。. いるの であ るから、 「 経典釈文」 序録が後出 の説 で、漢人末見 の説 であ る こ. 伝 に見 る べき人 が いな いと は いえ な い。 し かし、箱升 が このよう に言 って. 園誼 に至 ったと あ る。伝授 の次 第 がも し このよう に明白 であれば、師 徒相. かき. 経典釈文」序録 には、左丘明が伝を作 って曾申 に授 け、相伝え て 張 蒼 ・ 「. そうしん. に関 し ても見 る べき人が いな い。 (「 後漢書」苑升伝). 左氏 は孔子 でなく左丘明を祖と する に過ぎず 、また師徒相 伝. 語が挙 げ られる。. 左氏 は春 秋 の伝 ではな い」 と いう証拠 と し ては、箔 升 の次 の 「. 鄭玄 のそれと符号 せず 、偽作 なる ことは明白 であ る。. { 注三三v. のに、どうして (試製 巴 『 孝経」『 孟子」『 爾雅」などの)伝や記 ( 経. 文 か否か、不明 であ る。偽孔安 国 『 古文尚書」は、その篇目が馬融 ・. かんひと. えつ. はんしよう. 書の注解) にま で及ぶわけがあ ろうか。漢人 は本来 このよう な説 を 出 し て いな い の であ る 。. ただ、劉欲 の 「 太常博士 に移 すの書」 に、文帝 の時 に諸 子 の伝説 を学官 に立 てたと いう語があ るが、超氏 の説 は劉敵 の この語 に本づ いた も の であ って 、 恐 ら く 実 録 で は な いだ ろ う 。. 6.前漢経師 の古文不信 に ついて りゆうぎん. 劉 散は 「 太常博士 に移 す の書」 でまた次 のよう に いう。 ろ. 魯 の共王 は、逸礼 三十九篇 ・書十六篇 の古文経を得 た。::: 左丘 明 の修めた春秋も古文 旧書 であ った。 続 け て述 べるには、博士 たちが、 尚書 はす でに完備 し、左氏 は春秋 の伝 ではな いと の口実 で、 この古文 の三学を却けた。 こ の こと を 劉 款 は 非 難 し て いる 。 し か し 、 考 え て み る に 、 こ れ こ そ. 前漢経師 が古文を信じなか った明証 なの であ る。. えつと. 漢 のとき、「 尚書 はす でに完備 し」 て いた証拠 としては、王充 夏鯛 衡」 の次 の文 が挙 げられる。. れ に拠 れば 、劉欲以前 には左氏 の伝文 はもともと経を解釈 し たも の ではなか った。だ から博士 たち は、「 左氏 は春秋 の伝 ではな い」 と. 一説 に、尚 書 二十九篇 は 日斗 と 「日」は「 北」 字の誤りであろう 七宿 と に法 ったも のである。 四、七 の二十 八篇、 これ に斗 を加. み な し た の であ る 。. 劉欲 の顔 入 と断定 したが、 これ は 『 史記」 や 『 漢書」 の説 にも と. { 注三二). え て、 二十九篇となる。 ( 正説篇) 尚書 は百篇あり、その序 は 『 史記」 に散見 するが、伏生 が伝 えだ かんひと のは 二十九篇だけ で、漢人 は これ で充分だと考 えていた。だから斗. づ く推論 であ る。. ざんにゅう. ^ 注三五). 近頃、 劉 逢禄 ( 清朝の経今文学者)は、左 氏 の凡例 ・書法 を 全 て. りゆうほうろく. と二十 八宿 に配当 する説が生 じた の であ る。. 二七.

(9) . . 勝. 宮 本. 。 漢書」芸文志 (の尚書 の項 の叙 ) に次 のよう に いう と ころ で、 『. 孝経」を得た 論語」『 礼記」 『 古文尚書』及び 「 魯の共王は 『 が、 みな古文 の書物 であ った。 尚書」 だけ 逸礼」 「 これ によると、共 王が得 た孔壁 の古文 には、 『 孝経」 も含 まれ て いた こと になる。 論甑巴 『 礼記」 「 でなく、他 に 「. 孝経古孔氏 一 論語古二十 一篇」「 尚書古文経四十六巻」「 このうち 「 。 篇」 は、芸文志 に明確 に著 録 されて いる 、 礼古経五十六篇、 と ころが、芸文志 の礼 の項 にお いては ただ 「 儀礼」であろう 記 百 三十 経七十篇 、十七篇に改めるべきで、現在の 「 礼 礼 記」を挙げ て いな い。しかも、現在 の 『 一篇」を挙げ るのみ で、「 注三六) ^ き 。 - 記』 の書物 にし ても、ま た今文 ・古文 の区別が な いのであ る とす 礼 礼 記」と い っているのは、「 ると、芸文志 (の尚書 の項 の叙 )で 「 記」 とを指 す の であ ろう。 古経」 と 「 ざらい 、 古文 では某 に作 儀礼』 には今文 ・古文 の区別があ り 鄭玄が 「 「. かんたん. 。 り、今文 では某 に つくる」 と注 して いる のが それ であ る 経典釈文」 魯論」を校訂 した ことは 『 古論語」によ って 「 鄭玄 が 「 。 魯 は某を読 み某 と為 す。今 は古 に従 う」 とあ る に見え、「 説文』 を上奏 孝経古孔氏」 は、許慎 が か つて子 の沖 に命 じ て 『 「 。桓謬 ( 新論』 後漢の人)の 「 説文一序) させた時 に併 せて献上 した (「 孝 経」 と 四百余字 が異 な ると し て 古孝 経」 のうち現在 の 『 では、「 愛 。 ぃる施 す 文孝進 が亡侠 し ている の で考検 する ことが できな ぃ 注三八) そう { ずい りゅうげん 古文孝 経」 を偽作 し、唐 ・宋 の人 は多 く この書 に 晴 の 劉 舷 は、 『. 。. 惑 わされた。浅薄 な人 はただ古文 の二字 を見 ただ け で驚嘆 し てしま い、あえ て論議 しようと しな い。 これは前漢 の経師 が みな古文を信 用 し な か った こと を 知 ら な いか ら であ る. 二八. 注三九) ^. 7.今古文説対立 の現出 に ついて 、 両漢 の経学 には、今文 ・古文 の区別があ る。今文 ・古文 の区別 は 注四○) き へい ^. びょう. 、 、 本来 は文字 の違 いを指 し て いた。今文 は 現在 の いわゆる隷書 で. せつもん. { 注四三). 、 世 に伝えられ ている寮平石経 及び 孔 子 廟 の漢 碑 など を いい 古 文 注四二) { 注四一) ちゅうしょ{ 、 及 は、現在 の いわゆ る 箱 書 で、世 に伝 えられ て いる岐 陽石鼓文. かいしよ. び 『 説文」 記載 の古文 などを いう。隷書 は、漢代 に使 用 され ていた. ので、当時 、今文と呼ば れた。それは今 の人 が楢書をよく知 って い. てんしょ. 、 る よ う な も の であ った 。 箱 書 は 漢 代 す で に使 用 さ れ て い な か った. の で、当時 、古文 と呼ば れ た。 それは今 の人が家書 や隷書 を読 めな いよ う な も の であ った 。. 、 思 う に 、 文 字 と いう も の は 世 の人 が み な よ く 知 って い て こ そ は. 後 じめてそれ によ って生徒 を教え る ことが でき るも の であ る。許 慎 (. 漢の人)は、孔 子が六経 を 写定 す る際 に、 みな古文 を用 いたと い っ 。 そうだと す れば 、孔氏 と伏生 とが所蔵 し て い 説文一序) ている (「 。 た書物もま たき っと古文 で書 かれ て いた にちが いな い 漢初 これを. 取 り出 し て生徒 に教 えた時 には、生徒 の学 習を慮 って必ず 通行体 の. 今文 に改 めたはず であ る。だ から漢代 、学官 に立 てられた十 四博士 注四四) ( 、 はす べて今文家 であ った。 ただ、古文派 の起 こる前 であ ったから. 孔 史 記」儒林 伝 には「 特 に今文 と いう名を言 わなか ったま でである。『. 古文尚書」 があ り、孔安 国 は今文 でこれを読 んだ」 と 氏 の家 には 『 ろ. せい かん. い って いるけれども、 これは尚書 の古文 ・今文 の文字 に ついての言. 史 記」 公羊春秋」 に ついては、 『 であ って、魯 ・斉 ・韓 の三家詩 、 「 りゆう舎ん. は特 に今文家 とは い って いな い。. 左氏春秋』 毛詩」 「 周礼」『 古文尚書」 『 劉 散に至 ってはじめて 「. かき. など の古文経 の博士官 を増 置 した。学官 に立 てれば 必ず 説解を しは. じめるも のであ る。 かくし て後漢 の衛宏 、質蓮 、馬融 などが次 々と.

(10) . 皮錫瑞『経学歴劇 訳注日. たいじ. 制篇とも深く関係 してお り、尚書 に関す る最古 の解釈書 と いえ る。. ( 注四八). 董仲野 の 『 春秋繁 露」 は、公羊家 の三科九旨 の説を 発明 し、 か つ天. 増補 し てこれが世 に行 われ、 遂 には古文 が今文と対蜂 するに至 った。. ^ 注四五) 許慎の 『 五経異義」 には、古文尚書の説、今文尚書夏侯氏及び欧陽. 人性命 の学 にすぐれて いる。 『 韓詩」 に ついては、 『 外伝」 が存 す る. かんし. 氏 の説、古文毛詩 の説、今文韓詩 及び魯詩 の説 、古文 周礼 の説 、今. だ け であるが、 これは詩人 の旨意を推 し述 べ、古義を よく明 ら かに. たいし. 文礼戴氏の説、古文春秋左氏の説、今文春秋公羊氏の説、古文孝経 し て いる。. こそ漢学 の真髄が 、博 にあ らず し て精 に存 する ことが認得 でき る で. 学 に志 す者は先ず 以 てこの三書 を熟読 玩味す べき であ り、 か く て. . の説、今文孝経 の説 などが見え、 みな区別 し て記述 し ている。 ここ に至れば 、字 体 の対立 のみならず説解 の対立 もまた現出 したのであ る。. りゆうさん. あろう。経書 に通 じ、世道 に役 するを志 すならば 、先ず大義微 言を 経 の学 問 は、必ず漢学 に法 るも の であ る。 しかし、漢学 もま た二. れば 、 その難易得失 はお のず から明 らか であ る。古文の学は劉散に始. の 「 文字を分析 し、言辞を煩砕 し、学者 、罷老 するも 一芸 を究 める. 求 め る べき であ る。 これを 、章 句訓話 の学 、 劉 敵 の難ず ると ころ. つに大別 される。 すなわち前漢 は今文説 で、専 ら大義徴言を明 らか くんこ にし、後漢 は古文を雑 え て、多 く章句訓話 に意を用 いた。だが、章. ま ったが、古文訓話 の流弊 は、早 くも劉欲 の譲 ると ころとな った。と す ると、. 8.今文説大義微言 の効用 に ついて. 句訓話 は学徒 の心を充 分 に満足 させ る ことが できず 、 したが って、. 後世 の破砕支離 な章 句 訓話 の学 はま た劉 散と し ても望 ま な いと ころ であ っ. きわ め て純正 なる時代 にできたも の であ るから、 『 史 記」 のな か で. 司馬遷 の 『 史記」 は、前漢 ・武帝 の時 、経学 のはじめ て隆 昌 し、. 9.古文家 の謬説 に ついて. こと すら でき ぬ」 (「 漢書」劉欲伝 「 大常博士に移すの書」)も のと較 べ. 後世 、来 儒が起 こ って義理を説 いた。 こう して漢宋 二学 が分離 した. た。. そうじゆ. の であ る 。. そのなか で前漢 の今文学だけは、義 理と訓話 の長所を兼 ね備え て いた。武 帝 か ら宣帝 へかけ ての時 代 ( 前 一四0〜四九年) に、経学 はすこぶる盛 ん で、家学 の分裂 もなく、純正 で挟雑が なか った。 そ れゆえそ の学問は精良 か っ有用だ ったの であ る。. しようでん せつかでん ぷんげんでん. じよかでん ざつかでん. はつか. ( 孔子は晩年 、易を好 み、象伝 ・繋辞 伝 ・ 易 に ついて見 ると、)「. たんでん けいじでん. 象 伝 ・説卦伝 ・文 言伝を順序を も って著 し た」 ( 孔子世家)と い っ. 経学 に言及し て いる部 分はす べて信頼 できる。. 、( 平当伝) 夏侯勝が )尚書 ・洪範篇 にもとづ いて事変 を察 し ( 漢書」 「 注四六v ( 、( 翼侯勝伝) 董 仲 野 が )春秋 によ って獄訟を決 し、 ( 王 式 が)詩 三. ているから、 それ以外 に序卦伝 や雑卦伝を も孔 子 の作とする のは正. 平当が )尚書 、謡貢篇 にしたが って黄河を治 め ( 例 えば 、( 『 漢書』. 百篇を用 いて諌書 に当 てた (「 漢書」儒林伝)のなどは、 一経を学 ん. し く な い。. かんしよ. で 一経を体得 した効用の 典型 であ る。. ま た、「 文 王 は、麦 里 に捕 われ て いたと き、易 の八卦 を重 ね て六. ふっ. 残念 なが ら当時 の書物 が ほとんど散逸 し てしま った。今、伝 わる. 十 四卦 と した」 ( 周本紀)と い って いるか ら、 八卦 を重 ね た者 を 伏. ( 注四七). も ののうち、伏生 の 『 尚書大伝」 は、古 礼 を 多 く存 し、 『 礼 記』 王. 二九.

(11) . . 勝. 宮 本. き. かう. 義 と したり神農 と したり、あ る いは夏謡 と したりするのは正 しくな. ぉうはく. 詩 三百篇 はす べて これを弦歌 し、 詔 ・ 詩 に ついて見 ると、)「 ( がしよう 孔子世家)と い って いるから、詩 を 武 の雅 鎖 の音 に合致 させ た」 ( いん棲ん 詩集伝じ ゃ、鄭 ・ 宋の人)の説 (「 淫奔者 の ことば であ るとする朱 子 (. 詩疑」巻上)は正 しく 宋の人) の論 (「 衛淫奔詩 の雑 入を説 く王柏 (. 儒 伏生 は 二十 九篇だ けを手 に いれ た」 ( 書 に ついて見 ると、)「 ( 林伝)と い って いるから、尚書 は 二十九篇以外 に経師 の伝承が なか っ. われ. 注四九} {. ( 注五0). そう じようこう. うひ - ー. 鄭玄 の説 は正 しくな い。 春秋 の筆削 にあ た っては、子夏 のよう 春秋 に ついて見 ると、)「 (. 注六三) (. 宋世家) 正考 父 は宋 の 裏 公を賛美 し て 商 鎖 を作 った」 ( ま た、 「 と い って いるから、正考 父が商鎖を周 の大師 より得 たとす る毛 公 ・. せいこうほ. 女を求 める詩 であ るとする諸説 は、みな正 しくな い。. 注六二) ^. 対 し て毛 公 ・鄭 玄以後 の、関雑 を周 の文 王 に結 び つけ て后妃 が淑. じようげん. 仁義が衰 えると鹿鳴 の詩を作 ってこれを風刺 した」 関雌 の詩 を作 り、 るし 魯詩』 にも とづ き、 ( 十二諸侯年表序)と い って いるが、 これ は 『 { 注六 ; 、 関雌 ・鹿鴫を故事 に託 した現状批判 の詩 と するも のであ り これに. 寝所)に本 づ け、 周道 がやぶれると詩人 は これを推席 ( 家)と いい、「. じんせき. 孔子世 関雌を 風 の始 めとし、鹿鴫を小雅 の始 めとす る」 ( ま た、 「. るくめい. な い。. ああ. かんしよ ふう. た の であ る 。. さんろく. えんぶん. 史 記」 の中 に、)書 の義を引 い て解釈 し て いる次 のよう ま た、 (『 たいろく. な 諸 点 を 挙 げ る こと が で き る 。 しゆんてん. 。 五帝本紀) 大麓」を山麓 と解釈 する ( 舜 典篇 の 「 ( 注五 一). 。 五帝本紀) 旋機玉衡」を北斗と解釈する ( 舜典篇の 「. き. ぎよう 。 五帝本紀) 文祖」 を 尭 の太祖 とする ( 舜典篇 の 「 径五… ぎようてん 。 五帝本紀) 丹朱」 を夷 の子 であるとする ( 莞 典篇 の 「 注五三 ^ 。 五帝本紀) 舜典篇 に見 える 「二十 二人」 のなか に彰祖を含 める ( 注五四) ^. 注五五) ^. 萎 日く、於 、予、石を 繋 ち石を捕 っ」 の八字 を街文 益 穣 篇の 「 ばん;う. と す る (夏本紀 )。. 注五六) (. 。 殿本紀) 般庚篇を次 の王 の小辛 の時 の作 とする ( 父師 ・小師 と いう )のは比干 ・箕 微 子篇 にお いて微 子が問 うた (. どよ. 孔子世家)と い って いる な高 弟 でさえ 一言 も ロを出 せな か った」 (. 春秋左伝 か ら、周公 の遣制を孔子が明 らかにしたと する杜預 の説 (「. ( 注五七). 。 税難篇を周公摂政の時の作とする ( 燕世家). 。 来世家) 子 のこと でな いとする (. ぎんとう 魯 金 膝 篤 の金 勝 の書 は、 周 公 の卒 後 に開 か れ たも のと す る ( { 注五九). 集解」序)は正しくな い。 、 孔 門七十 子 の徒 は、 そ の伝旨を 口授 され た」 と い い そ ま た、「. { 注五八) 世 家 )。 ぷんこうしめい. 。 宋世家) 文 侯之命篤を晋 の文 公 ・重 耳 に命 じた語とす る (. 注六四) しんかん ^. 申墓」 に次 のよう に いう。 後漢の人)の 『 萄 悦 (. じゅんぇつ. 伝 ) の も 正 し く な い の であ る 。. 書」萄私 左 丘明が それを孔 子から親 しく受 けたと上奏 し て いる (三日. 晋の人)が、孔 子が春 秋を作 り、 ことが分 かる。だ から、 萄 穣 (. じゆんしよう. 十二諸侯年表序)と記 し て いるか 魯 の君 子左丘明云 々」 ( のあ と で 「 ら、左丘 明 は弟 子 の列 には入 らず 、ま た、伝旨を 口授 され なか った るこう はくきん. 注六0) (. 費誓篇 を魯公 ・伯禽が周公 に代 わ って国を治 め て いた時 の作 とす 。 魯世家) る (. 史 記」 に明記 され て いて、間違 いな いも ので 以上 のこと はみな 『 おくかい. 、 あ る。後人 が尚書を臆解 し、事実 を変乱 して いるが それらはす べ て正 し く な い。.

(12) . が簡略 であ る ことを強 くそし り、 『 左氏 伝」 の方 が は るかに詳 細 だ. な と 称 し て いる 。 聖 人 を 非 と し 正 道 を 無 み す る後 世 の 弊 は 、 いず れ も. 孔 子 の作 った経 は それ ぞれ 一種 に止 ま って いた。 それが古 、い 文・ ・今 今文 文に に異 異同 のあ 同の ある とこ ころ ら、 ると ろか から れも いず ずれ も自 自派 派の の経 経こ し こそ 正し そ正 びゆうせつ. いと主張 しはじめた のであ る。古文 ・今文 の先師 はそれぞれ 一. 以上 の 謬 説 にもとづ いて生 じたも のであ る。 て くようだつ - 孔穎達 の疏 (『 春秋左伝正義二 に、次 のよう に いう。. 義 に従 っていた。 それが各種 の家説が乱立 す ると、 いず れも自. ている、「 左丘明が ( 意を以 て)伝 を作 って孔 子 の経 を 説 いた. { 注六六). 先儒 のうち春秋を説 く者 は数多 いが、彼 らは 一様 に こう い っ. 思う に、今文 ・古文 とも聖経を祖述 し、孔子 の教を尊 ぶ点 では共. が、凡例 を立 てると か立 てぬとか いう新旧義例 の差別 がなか っ. 家 の説 こそ正 し いと主張 しはじめたのであ る。( 巻二時事篇) 通し、ただ文字解説が異 なるだ けであ った。と ころが その後 、古文 - くん-. しい. かぎ. 三 一. 書物と みなし てから、『 周礼」は ついに抜 きん でて古文 の大宗と な り、 今文 と対抗 するま でにな った。周公もま た ついに孔 子と対等 の位 置. ^ 注六九) しゅらい. 劉 散が 『 周官」 を、周公 が太 平 の世を な しとげ た成果 に関 す る. りゆうきん. う説 に違背 している。. 後漢の経古文学者)ら は みな周 公が交 辞を作 ったと考 え た り、 あ る ^ 注六八) いはま た韓宣子 の説 にもとづ いたりして、 「 易 は三聖 を 経 た」 と い. 志)と いわれ るのであ る。と ころが、鄭 衆 ・買透 ・馬融 (いずれも. ていしゆう. 子が辞 を続 けたのであ る。 それ故、 「 易 は三聖を経 た」 (『 漢書」芸文. 易象 に ついていえば 、伏義 が八卦を画 き、文王が 八卦を重 ね、孔. い。. この論駁 はきわめ て明解 であ って、杜預 の謬説 は論ず るま でも な. ろんはく. が最初 に績君 の義を設け た の であろう か、疑わし いと ころ であ 注六七) ^ る。( 春秋集伝纂例」巻 一 「 ). その伝例を按ず る に、主 君を殺 し て即位 したのに 「 君」 と称 するのは、主 君が無道 であ ったからだと いう。ーi然 らば 周公. あん. また、睦淳 ( 唐の人)は次 のよう にいう。. 者 は い な か った の であ る 。. これ によると、杜 預以前 にお いては、周公が凡例 を作 ったと いう. た」 と。 ( 杜預 「 集解」序). 史んえん. らいへい. 家 の曲説 が蔓延 し、正 し い訓話 の道を逸脱 す る事態 すら生ぜ しめた。 かんせんし. 左氏伝』昭公二年の伝に、「 『 韓宣子が来聴し、易 象 と魯の春秋 とを 見 て い った。 『 周 の礼 はみな魯 に残 って いる。私 はそ こで始 め て周 公 の徳 と周が天下 に王とな ったわけを 知 ったヒ とあ る。 い っ. 鷺桃」 たい、魯の 「 春秋」は・『 孟子」 のなかで晋の 「 乗」や楚の 「 と並称 さ れ て いるも の であ って、「 其 の事」 と 「 其 の文」 を有 す る ( 注六五) だけ で、「 其 の義」 を有 し ていな い。 そ の義 を有 し て いな け れば 深 く究 める必要 がな い。しかるに杜預 は この ( 韓宣 子 の) 一つの証拠 だ け にも とづ いて、 『 左伝」 の凡例 五十 はす べて周公 に始 ま る旧 い も のであ り、書 ・不書 ・先書 ・故書 ・不言 ・不称 ・書 日の類 だ けが 。 孔子 の定 めた新例 であ ると考 えた (春 秋左伝集解」序) こうなると周公 の凡例 が多 く、孔子 の凡例 が少 なく、周公 の功績 が大 きく、孔子 の功績が小 さ いと いう こと になる。 すなわち孔子が 筆削 した功績を奪 い取 って上 はそれを先君 ・周公 にささげ、周公が 書 いた 文章 の功績を飾 り立 てて下 は後聖 ・孔 子を おとしめた。 それ故 、唐代 になると、周公を先聖、孔子を先師 と定 めた。 かく たいろう し て孔子 はただ周公 のかたわらに配享 されるだ け で、太牢 の祭 の主 人 の地 位 を 占 有 す る こと も で き な く な って し ま った の であ る 。ま た 、. 劉 知幾 ( 唐の歴史学者)の 『 史通」惑経篇 ・申左篤は、『 春秋経」. 皮錫瑞『経学歴劇 訳注日.

(13) . . 勝. 。 に持 ち 上 げ ら れ 、 さ ら に は 孔 子 を 陽 が ん ば か り の勢 い で あ った. 六経)を 云 々す る者 は、 孔 子 六芸 ( しか し なが ら、太史 公 は、 「 、詩 ・ 孔子世家賛)と いい、徐防 は 「 を標準 と して適正を定 めて いる」(. 、 山西省)の人、か つて詩を申公 に受け 武帝即位 して御史大 一、 張 結ば、代 ( らんりよゥ 方 うぞう 、 山東省)の人、詩を申公 に受け 景帝 のとき太 夫とな った。王戚は、蘭 陵 ( 。 子舛 停となり・武帝即位して郎中令 に抜擢された ともに 更 証 儒林伝の 申公の伝 に見える。 疑」を術字とし 史記志疑」 に従 って 「 無伝疑」。満 ・梁 玉 縄 『 二、原文は、「. 注〉 〈. 、 の列 に配享 するよ りは、孟子 の言を信 じ 孔 子を尊 ん で謡 ・周公 の 。 、 功を継 ぐと見 る こと の 一段と すぐれたろは 論を僕 たな い. 、 孔子を尊 ぶ者 は必ず や前漢初期 の古 義 に従 うべき で 後出 の岐説 、 に惑 わされ てはならな い。杜預 の言を信 じ 孔子を おとしめ て周公. であ る 。. 、ま た、孔子 の 「そ の義 は則ち 膝文公簾下) 出 し た功績 になぞらえ ( 難婁篇下)を引 いて、孔子を舜 .謡 . 丘 ひそかに これを取 る」の語 ( 。 湯 ・文 ・武 ・周公 の後を継 ぐも のと定 めた これ によ っても群 聖 に 並 ぶほど の孔 子 の功績が、専 ら春秋 一書 によ るも のであ る こと明瞭. 、 秋制作 の功績を、謡 が洪水 を抑え 周公が夷秋を退 け て猛獣を追 い. いてき. 。 周公 の手 訂 であると いう者 は誰 も いなか ったのであ る 、 、 春秋制作 は孔子 の最大 の功績 であ り この点 孟子から両漢 の諸 、 。 儒 に至 るま で 一人 と し て異論を唱えた者 はな い 孟子は 孔 子 の春. 後漢轡」本伝)と 書 ・礼 ・楽 が定 め られ た のは孔 子 から であ る」 (『 、 いう。このよう に、六経はす べて孔 子 の手 訂 に成 る ことは明 らか で. 宮 本. る。. 三二. て訳した。 、 韓 詩 内 、「 韓内伝四巻、韓外伝六巻」が著録されているが 「 書」 」芸文志に 「 漢 漢書 三 三、 「 経 韓詩外伝」が現存するだけである。滝 ・朱鼻尊 『 伝」は唐 ・宋 の間に亡侠し、「 初 大戴礼記」注 ・ 「 盃 『 三礼義』 風俗通」 ・ 「 嚢考」 によると、『白 虎通ー ・ 「 。 通典ー に引用されている諸条は、みな内伝の文 であると いう 侠文 学記」 ・ 「 韓詩内伝 一巻、漢 ・聾嬰撰」を、清 ・ 玉函山房 輯 侠書」に、「 は、潜 ・馬国翰 「 韓詩内伝 ・醇君章句、漢燕国 ・韓嬰撰」を収めてい 漢執遺書 砂 」 に、「 王譲 『. 毛公は 超 人なり。詩を治め、 漢書ー儒林伝 に 「 四、「 毛詩」 に関する記述は、 『 、 超 後漢書」儒林伝 に 「 河間献王の博士となる」と見えるのが初めで ついで 「 ずいしよ 陪審一経籍志 毛詩」と為す」 と見える。また 『 人 ・毛 嚢 、詩を伝ふ。是を 『 訓 ト商)の所伝と云ふ。 「 漢初、超人 ・毛婆、詩を善くし、自 ら子夏 ( には 「 、 、 話伝」を作る。是を毛詩古学と為す」とあり 詩 のテキ ストは 魯 ・斉 ・韓三 毛詩ーが古文 である。 家詩が今文 であり、「 、 五、伏生が壁中 に隠した尚書はもともと古文 で書かれていたが これに本づ いて 、 今文尚書」と いう。二十九篇は次の 教授 したときは今文 に書き改めたので 「 通り。 莞 典 一・暴陶護 二 ・喪貢三 ・甘誓四 ・湯誓五 ・盤庚六 ・高宗形 日七 ・ 西伯戦繋八 ・微子九 ・泰誓十 ・牧誓十 一・洪範十二 ・金勝十三 ・大諸十四 ・酒. 翼 獣一 語十五 .梓材十七 ・召請十八 .洛請十九 .多士二十 .無逸二十 一. 二十. 二 ・多方 二十三 ・立政二十四 ・願命 二十五 ・費警 二十六 ・呂刑二十七 ・文侯之 「 二、経学流伝時代」 命二十八 ・秦誓 二十九。ただし泰誓は後 に得たものである ( 。 注五七参照) 、 古文尚書」 は、伏生 の伝えた二十九篇のほかに 次の十六篇を含ん 六、孔氏 の 『 べ きさく しゆんてん でいた。 舜 典 一・渦作 二 ・九共 三 ・大寓護 四 ・益 穫 五 ・五子之歌六 ・胤征 七 ・湯話 八 ・威有 一徳九 ・典宝十 ・伊訓十 一・藤命十 二 ・原命十三 ・武成十 増 多十六篇」と いう。 四 ・耀饗十五 ・間命十六o これを 「 ずいしよ 安国、又、五十 晴書」経籍志 に 「 古文尚書伝」 に関する記載 は、「 七、孔安国 「 五十八鰯とは今古文尚書を合したもの}と見えるのが最初 八篇 の為 に伝を作 る」 ( 古文 安国、又、詔を受けて 「 経典釈文」序録 に 「 である。また、唐 ・陸徳明 「 尚書伝ーを作る」とある。 漢書」河 周官六篇」を著録し、 この書 の出現 に ついて 「 漢書』芸文志 に 「 八、「 、 周官』:::の属なり」 献王の得る所の書は、皆、古文 先案旧書 「 間献王伝は 「 周官」が古文 である。 儀礼」が今文で、『 と述 べる。礼のテキ ストは、「.

(14) . 九、『 漢書」儒林伝に 「 費直、字は長翁、東莱の人なり。易を治む」 とあり、芸 すいしよ 文志に 「 唯、責氏の経 のみ古文と同じ」と、また 「 晴書』経籍志 に 「 漠初 に又、 東莱の賓直、易を伝ふ。其 の本は皆、古字なり。号して古文易と日ふ」と見え、 易のテキ ストは、楊何の易が今文 であり、費氏 の易が古文 である。 一○、「 左氏伝」 のテキ ストの出現に ついては諸説がある。王充 認醐衡ー案書繍 は孔氏宅 の壁中より出たものとし、許懐 「 説文解字」序は 張 蒼 ( もと案の御史、 漢初・文帝の丞相)の献上したものとし、漢 書」叫 鵠伝はもと秘府に蔵されて いたのを劉欲 によ って発見されたものとする。春秋のテキ ストは、『 公羊伝」「 穀 梁 伝」 が今文 であり、「 左氏伝」 が古文 である。ただし、『 穀梁伝」 に ついて は古文 ではないかと疑う説もある。 しん けんりゆ う = 、藩 ・乾 隆 武英殿刊本が 「五経博士」 に作 っているのは誤りである。 、 、 、 。 、 :一 方 は 萄 字 幕 霊 望 渓 と 号 す 瀞 の 城 の で 桐 人 康 無 年間の進士。引用 し ぶそうかん は、「 方望渓先生全集」 (「 四部灘刊初編」等所収 )巻 二の 「 書儒林伝後」およ 、 。 び 「 又 書 儒 林 伝 後 の 文 」 を 点 綴 要 し 約 た も の 、 、 一 、 が 四 に 分 か 三 家 れ 易 が 書 三 家 に 分 か れ が 礼 三 に 家 分 か れ、春秋公羊が二 、 、ともに 「 家に 分 か れ そ れ ぞ れ 博 士 官 に ら 立 て れ た こ は と 漢書」儒林伝に詳 。 し 述 ら れ く べ て い る 十 四 士 を 博 立 は て た の 後 漢 ・光武帝 の時 である。 、 一四、 以 上 の 師 は 承 関 係 『 漢 書 に し 」 儒 林 伝 詳 述べられている。 く 一五、伏生より二夏侯に至る書 の師承関係を、「 漢書」儒林伝 によ って整理し、 図式 で示すと次 の通りである。. 、 、 、 一六、「 尚書大伝」鹿夏 伝 に 「 奨 舜 推 し を 尊 之 を び て 尚 諸 に 腐 し、天 侯 下を大麓の野に致す」とあり、「 麓」を 「 山麓」と訓じている。 「 尚書大伝」 は 漢 ・伏勝 ( 伏生)撰と伝えられ、宋代 にはすでに完本がなく、明代 に至 って つ 、 いに亡んだ。溝代には各種 の が 嶋 本 が 出 た 陳 寿 旗 の 輯 校が完善と いわれる 、 (「 皇瀞経解続編」巻三五四 。 ー 三 五 六 お よ び 「 四 部 叢 初編」経部等所収) 刊 一七、「 史記」五帝本紀に、「菟 、 し 舜 を て 山 林 沢 に らしむ。暴風雷雨にも、 川 入 、 。烈風雷雨にも迷はず」 舜、行きて迷はず」とあり、 ら さ に 「 舜 大 麓 に 入 る 。 とあり、「 大麓」を 「 山林」 解 し と 釈 て い る 司 馬 遷 のときは、書は欧陽氏 一 家 で、伏生 の説を変えていないことが分かる。 1. . 皮錫瑞 『経学歴刺 訳注日. ぴやつ- い -つ う ちようへ. いつ ぶん しん. 一八、「 漢書ー巻七十 一千定国伝に見える元帝 の詔 に、「 方方の事は、君に大録せ - えんぶ - らる」とあり、これは、願炎武が 「 今、伝ふる所 (の 「 尚書」)に、王粛、 舜 典の 「 大麓 に納る」に注して、『 麓は録なり。舜を納れて万機 の政を大録 せしむ」 けだ と云ふ。蓋し西京 の時に此の解有り。故に詔書に之を用ふ: 王先謙 「 漢書補注」) と指摘する通り、『 尚書」 の語を引用しているのであるが、 ここでは 「 大麓」 を 「 大録」 と解釈している。 これに ついて、潜 ・陳 喬 縦 は、「 儒林伝を考ふ るに、周堪と孔覇とは倶に大翼侯勝に事ふ。:::覇は大中大夫を以 て太 子に授 く。元帝、即位するに及び、……覇は帝 の師を以 て爵を賜り褒成君と号ず。元 帝 の定国に報ず るの書 に、 「 方方 の事は、君に大録せらる」 の語有り。是れ大 要侯の説を用ふること知るべし」 (『 今文尚書経説考」 - 上 ・『 皇瀞経解続編」 巻 一〇七九所収 )と述 べている。 一九、「 尚書」周書 ・廉話踊に、「 王、若く日く、孟侯、朕が其 の弟、小子封よ」 とあり、『 尚書大伝」略説に、「 天子の太子、年十八、孟侯と日ふ。孟侯とは、 四方諸侯の来朝に於 て、郊に迎ふる者なり」とある。. ぎ. かだい. たいこう. い わ. 二0、 「白 虎通」 朝 磨篇 ( 侠文。溝 ・陳立 「 白虎通疏証」ー 「 皇清経解続編」 所収 ー 巻十二に集める)に、「 朝礼は奈何。諸侯、将 に京師 に至らんとするや、 をして命を天子に通ぜしむ。天子は、大夫を遣はして之を百里の郊 に迎 へし 、世子を遣はして之を五十里の郊に迎 へしむ。::: 「 尚書大伝」に日く、「 天 の太子、年十八、孟侯と日ふ。四方諸侯の来朝 に子て、郊 に迎ふ」と」 とあ り、「 尚書大伝」 の説を用 いている。. ていかんちゆう. まさ 空. ニ ー、「 漢書」地理志の醜 ・河内 の項 に、「 書 ( 大詰の)序に日く、「 武王、崩じ、 そひ ちゆ う 三監、畔く」と。周公、之を 課 し、尽く其 の地を以 て弟康叔を封ず。号 して もウー ー う い 孟侯と日ふ」とあり、顔師古注 に、「 孟は長なり。諸侯 の長と為るを言 ふ」 と ちん愈ようしよう ある。 これに ついて、陳 喬 縦 は、「 案ず るに、漢志は孟侯を以 て康叔 の号と げだ 為 し、義、伏生と同じからず。蓋し小翼侯の説なり。::: ( 班 )固の従祖 ・班. 伯は、鄭寛 中 に従 って小翼侯尚書を受く。固は其 の世業を修む。当 に亦 た小 夏侯の学を習ふべし」(ヌっ 文尚書経説考」十七ー 「 侯官陳氏遺書」 ・ 「 皇瀞経 解」所収)と述 べている。 ニニ、漠初、易を伝えた田何より、施 鱗 ・梁 丘 細 ・孟害、さらに後出 の京房 に至る師承関係を、『 漢書ー儒林伝によ って図式 で示せば つぎの通りである。. 三三.

(15) . . 勝. 宮 本. 露枝 は否定している。 白光 ・ *焦延寿が孟害より易を受けたと いうのは自称 で、 後注二四参照。 、 孟書、 字 は 長 卿、東海 ・蘭陵 の人なり。ーー 喜 二三、『 漢書」 儒林伝 に、「 田 師 の田生 ( 易家の陰陽災変を候するの書を得 て、詐りて 『 好んで自ら称誉す。 ‐ 、 玉孫)の且に死せんとする時、書の膝 に 枕 し、独 り害 に伝ふ」と言ふ。諸儒 、 田生は施 働 此を以 て之を耀とす。同門の 梁 丘 賀、之を疏通証明して日く 『 ずく い 、 の手中 に死す。時 に書は東海に帰る。 安 んぞ此の事を得んや」と。:::博士 欠く。衆人、書を薦むるも、上、害の師法を改むるを聞き、遂に害を用ひず」 とあるが、後、宣帝 のときに至 って施氏 ・梁丘氏易とともに学官に立 てられた 。 ( 儒林伝費) 、 漢書」儒林伝に、コ京房、易を 梁 人 ・焦延寿 に受〈・延寿 嘗て孟書に従 っ 二四、「 て易を間ふと云ふ。会々書の死するや、房、以 て延寿 の易は即ち孟氏 の学なり 、 肯 ぜず、皆、非なりと日ふ」と ともに孟書の弟子) と為すも、樫 牧 ・自生 ( 。 儒林伝費) あるが、後、元帝 のときに至 って、学官 に立 てられた ( しん ばこくかん いつぶん 玉函山房 輯 侠書」 二五、施 ・孟 ・梁 丘 易はすでに亡び、侠文は、溝 ・馬国翰 「 周易孟氏章句二巻、漢 ・孟書撰」 経編に 「 周易施氏章句 一巻、漢 ・施 鰯 撰」「. ・清 ・薫一難げ「 易 黄氏逸書考」経解に 「 「 周易梁丘氏章句 一巻・漢 ・梁丘賀撰」. 、 章句 一巻、漢 ・孟書撰」を収めている。京房易は、今、コ示氏易伝」三巻を存し しぷそうかん 四部叢刊初編」経部など に収録されている 漢醜叢書」経籍 ・ 『 呉 ・陸綴注が 『 黄 周易京章句 一巻、漢 ・京房撰」、『 玉函山房輯扶書」経編に 「 ほか、侠文は、「 、清 ・王護 「 漠魂遺書 紗 」経翼 易章句 一巻、漢 ・京房撰」 氏逸書考」経解 に 「 に「 京房易伝 一巻、漢 ・京房撰」を収めている。 飛 四、京君明易上」 に 「 易漢学」(雷王清経解続編」所収)の 「 二六、満 ・恵棟 『 伏」「 世応」 の二項があ って専ら論じている。飛伏 は、卦 の現れたものを飛と いい、 いまだ現れていないものを伏と いう。世応は、卦支 の相応関係を指すと い- っ。. 古 逸礼」『 毛詩」「 左氏春秋」及び 『 ( 劉敵)「 漢書」巻三十六 劉 欲伝 に、「 二七、「 文尚書」を立 てて皆、学官 に列せんと欲す。哀帝、欲をして五経博士と其 の義. 三四. を論ぜしむ。諸博士、或るいは置と対ふるを 肯 ぜず」とある。 二八、上注九参照。 高相は、柿の人なり。易を治む。賓公と時を同じうす。 二九、「 漢書」儒林伝 に、「 丁東 )より出づと 其 の学、亦た章句亡し。専ら陰陽炎異を説く。自ら丁将軍 ( 。 言ふ。:::是より易 に高氏の学有り。高 ・費、皆、未だ学官 に立 たす」とある 、 郷氏伝十 一巻、 爽 氏伝十 一巻」を著録し、後 の叙 に 漢書」芸文志に、「 三0、「 末世 に及び 口説流行す。故 に公羊 ・穀 梁 ・都 ・爽 の伝有 り。公羊 ・穀梁 は 「 ずいし上 、 晴 書」経 学官 に立ち、郷氏は師無く、爽氏は未だ書有 らず」 とある。また 「 、 漢初、公羊 ・穀梁 ・那氏 ・爽氏四家並び行はる。王葬 の乱 に 郷氏 籍志 に、「. 詩. 経. 欧陽生) ④欧陽尚書 ( 夏侯勝) ⑤大夏侯尚書 ( 夏侯建) ⑥小夏侯尚書 (. 申公) ①魯詩 ( え ん- - せい せいし ・ 戯固生) ②斉詩 ( かんし かんえい 韓嬰) ③韓詩 (. 家) 今文 (. 逸礼 しゆらい 周札. 孔安国) 古文尚書 (. 毛公) 毛詩 (. 家) 古文 (. は師無く、爽氏は亡ぶ」とある。 。 三 一、以上の記述 に関連して、五経の今古文 の別を表 に示すと次 の通りである. 書. 戴徳) ⑦大戴礼 ( 戴聖) ⑧小歳札 (. ろし. 礼. 左丘明) 左氏春秋 ( すうし 榔氏) 郡氏春秋 ( 十し し き上・ つ 爽氏) 爽氏春秋 (. 高氏易 谷間相). 費直) 費氏易 ( 易. 施難) ⑨施氏易 ( 孟喜) ⑲孟氏易 々 梁丘賀) ⑪ 梁 丘易 ( ⑫京氏易 公示房). 晶 謙譲鰯測 森川 春秋. 穀梁赤) 穀梁 春秋 (.

(16) . 皮錫瑞『経学歴刺 訳注日. 。 ①ー⑭ の数字を付したものは、後漢 ・ 光 武 帝 の 立 て た 今 四 文 十 博 士 で あ る 。 三二、尚書の序は、孔子の作と伝えられ が、 る 後 人 の 仮 託 で あ る 『 史 記 』 には、 五帝本紀 ・夏本紀 ・殿本紀 ・ 本紀 ・秦本 周 紀 ・ 魯 世 家 ・ 晋 世 ど 家 な 多 く 見える が、例えば股本紀には、「 伊デー 1北門より入り、女 鳩 ・女房を見て 『 女鳩」 ・ 『 女房」を作る」 ( 女鳩 ・女房は段の賢臣)とある。. 醸伝の 「 三三、「 孔壁古文」とは・『 漢書」郡部 太常博士に移すの書」に・「 魯 ・共. いな い。. 王、孔子の旧宅を壊ち、以て宮を為らんと欲す。而し て 古 文 よ を 壁 中 り得たり。 逸礼三十九篇有 り。害十六篇。天漢の後、孔安国、之 献ず を と 」 あ るのを指す。 ずい しよ 馬融 ・鄭 玄 の伝に ついては、『 陪審」経籍志に、「 後藻 の杜林、『 古文尚書』を 伝 へ、同郡の賀遮、之が為 に訓を作り、馬融、伝を作る。然れども其 の伝する 所、唯だ二十九篇のみ。又、雑ふるに今文を以てし、孔 の旧本 に非ず。目余、 絶えて師説無し」とあり、また、『 経典釈文」序録に、「 今、馬 ・郷の注する所、 並びに伏生 の 諏 する所 にして、古文 に非ざ るなり。孔氏 の本、絶ゅ。是を以 て馬 ・郷 ・杜預の徒、皆、之を逸書と謂ふ」とある。 三四、『 史記』十二諸侯年表の序 に、「 魯の君子、左丘明:;:孔子の史記 に困り、 具 に其 の語を論じ、『 左氏春秋」を成す」と いい、 『 春秋左氏伝」とは称して. 見 え る。. 三五、説 は、『 左氏春秋考証』 (習王清経解』巻 一二九四 ・一一一 九五所収 )上巻 に. 体 にな った 。. 三六、『小 戴礼計 匹 (いわゆる 『 礼記』)及び 『 大戴礼記』 の二審を指す。 晴書』経籍志に 「 三七、「 桓子新論十七巻」を著録するが、今、亡ぶ。『 漢書」芸 文志 の顔師古注 に引く 『 新論」 に、「 古孝経千八百七十 一字、今、異なる者 四 いつぶん 百余字」 とある。侠文は、『 説郭」 弓 第十九 ・ 『 間経堂叢書』逸子書などに、 「 桓子新論、漢 ・桓謹撰」を収める。 ずいしよ 階書』経籍志 に、「又、『 三八、『 古文孝経」有り、・ :i・ 孔安国、之が伝を為 る。 …… 梁 の乱 に亡ぶ。:::晴に至り、秘書監王 勤 、京師 に於て訪ねて孔伝を得、 送りて舷 (劉 舷 )に至る。舷、因りて其 の得喪を序し、其 の議疏を述 べ、人 間に講ず。 漸 く朝廷に聞 こえ、後、遂 に著 して鄭氏と並立せしむ。儒者、誼 誼として、皆、舷の自ら作る所にして、孔の旧本に非ずと云ふ」とある。 三九、秦代 の正式書体は象書 で、隷書 は官吏 の使用した路体 である。『 漢書』芸 文志 ・六芸略 ・小学の叙に、「 是の時 ( 秦)始めて隷書を造る。官獄多事 にして、 萄 に省易に趨き、之を徒隷に施すに起 こる」とある。隷書は、漢代 には通行. ぎへ い. ちゆ う. だい てん. きい よう. 、建立された。『 四○、後漢 ・霊帝 の窯平四年 (一七五年) 後漢書』禁邑伝 に、「 寮 りつけい 平四年、::: ( 藷臣)奏して六経の文字を正定せんことを求む。霊帝、之を許 せんこく す。崖、乃ち自ら丹を碑に書し、工をして鍋刻せしめ、大学門外 に立 つ」とあ る。. せつもんかいじ. しようてん. 四 一、周 ・宣王の太史 ・箱 が作 ったと伝えられる書体 で、大豪ともいう。『 漢書」 、 、 、 芸 志 ・ 略 に は 文 六 芸 ・ 小 学 の 叙 史 「 橋 篇 時 の 史 の 官 学 童 に教 へし書なり。 周 せつ もん 孔氏壁中の古文と体を異にす」とあり、また、『 説文」序に、「 宣王の太史 ・橋、 大家十五篇を著すに及び、古文と或 いは異なる」とあり、これに拠ると、古文 ひしゃくずい は橋書以前に存在し、書体も異な っていたと思われ、皮 錫 瑞 の説と合わな い。 づみ つ 膜西省)出土 の 鼓 形 の石で、唐代 に発見された。狩猟のことが刻 四二、岐陽 ( しん まれており、周 ・宣王のときのものと伝えられているが、戦国 ・秦の石刻 であ る。. ずいしよ. いつ ぶん. 四三、許慎の著した字書 『 説文解字』 は、見出しの親文字が 小 豪 であるが、 一 ちゅ うぶん 部 のものにはさらに古文 ・籍 文 の字形も示されている。 四四、上注三 一参照。. せんき. しん ちんさよ うしよう. 輯 注 に、. 清 ・陳寿旗 『 五経異議疏 証 」があり、雷王清経解』巻 一二四八! 一 二五〇に収められている。 四六、『 漢書」芸文志に、「 公羊競 仲 野治獄十六篇」を著録し、王先謙 『 漢書補注」 い わ お うしよう ‐ ー うせい に、「 銭大昭日く、『 後書応 勘 伝に、故謬西の董仲野、老病にて致仕し、朝廷、 政識有る毎 に、数 々廷尉 ・張 湯を遣 し親しく願巷 に至りて得失を間はしむ。 是に於 て春秋決獄二百三十二事を作る」と」とある。 四七、上注 一六参照。 四八、「一、経学開 園 時代」 の注五三参照。 四九、上注 一六 ・一七参照。. 五○、今本 『 史記」 は 「 班瑠玉衡」 に作るが、清 ・陳 喬 縦 『 今文尚書経説考」 一上 (『 皇清経解続編」所収)によると、それは後人転写の誤りで、もとは伏 生 『 尚書大伝」と同じく 「 旋機」に作 り、北極 ( 北斗 のこと)と解釈する。『 尚 じよう げん こんてんぎ 書」 は 「 班幾玉衡」 に作り、 鄭 玄は揮天儀 ( 天体観測器)と解釈する。 しん さいてき ぎよう 五 一、溝 ・雀適 『 史記探源」巻二によると、「亮 の太祖」とは、黄帝を指 し、今 じようげん 文家の説と同じく、『 史記集解」 に引く 鄭 玄の古文説と異なると いう。 ぎようてん いんし 五二、 秀 典篇の 「 胤子朱は啓明なり」 を 『 史記」 は 「 嗣子の丹朱は開明なり」 と解釈し、『 偽孔伝』が 「 胤は国、子は爵、朱は名」と解釈するのと異なる。. 三五.

参照

関連したドキュメント

 彼の語る所によると,この商会に入社する時,経歴

 このようなパヤタスゴミ処分場の歴史について説明を受けた後,パヤタスに 住む人の家庭を訪問した。そこでは 3 畳あるかないかほどの部屋に

海なし県なので海の仕事についてよく知らなかったけど、この体験を通して海で楽しむ人のかげで、海を

巣造りから雛が生まれるころの大事な時 期は、深い雪に被われて人が入っていけ

 学部生の頃、教育実習で当時東京で唯一手話を幼児期から用いていたろう学校に配

彼らの九十パーセントが日本で生まれ育った二世三世であるということである︒このように長期間にわたって外国に

 学部生の頃、教育実習で当時東京で唯一手話を幼児期から用いていたろう学校に配

単に,南北を指す磁石くらいはあったのではないかと思