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貿易と利潤率にかんするノート: 名和統一氏の見解 について

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貿易と利潤率にかんするノート: 名和統一氏の見解 について

著者 柴田 固弘

雑誌名 金沢大学経済論集 = The Economic Review of Kanazawa University

巻 14

ページ 33‑84

発行年 1977‑03‑31

URL http://hdl.handle.net/2297/37127

(2)

− 3 3 −

︵○J︶

マルクスは﹃資本論﹄のなかで︑貿易のあげる高い利潤は一般的利潤率を引き上げると言う︒かれがそこで一般的

利潤率を引き上げる貿易資本の高い利潤と言うとき︑かれはこれを︑輸出品を国内で売るよりも外国で高く売ること

によって手に入る輸出超過利潤として考えているのか︑それとも輸入品を低廉に外国で入手してこれを自国で売って

平均利潤を上回る超過利潤を手に入れると考えているのか︑いずれなのであろうか︒

かれは︑貿易資本のあげる高い利潤は﹁自国の商品を競争相手の諸国より安く売ってもなおその価値より高く売

る﹂ことにより入手されると言い︑このことにより利潤率が引き上げられると言うのであるから︑それは輸出超過利 このノートは貿易と利潤率にかんする名和統一氏の見解を記録するものであり︑機会を改めて氏の見解を検討する

さいの準備のためのものである︒

はじめに︑名和氏の見解を記録するさいの私の観点を明らかにしておきたい︒ 研究ノート

貿易と利潤率にかんするノート

じめ l名和統一氏の見解についてI

柴田固弘

(3)

− 3 4 −

潤として入手され︑これが利潤率を引き上げると見ている︑と一応は考えられる︒

︵ワ︶

しかしそうではないのであろう︒かれはあとのほうで︑リカードを批判して︑﹁このような外観は︑貨幣形態から

離れて見れば︑すぐに消えてしまう﹂と言い︑また︑﹁より少ない労働と引き換えにより多くの労働を取り返す﹂と

言っている︒これから見ると︑︒かれの言分は︑輸出品が高く売れなくなっているときには輸入品が安く手に入るよう

になっているのであって︑いずれにせよ労働として見れば︑増加しているのだ︑と言うのであろう︒そうであれば︑

かれは輸出面と輸入面とをべつくつのものとして見ているのではなくてふたつをひとまとめのものとして考えている

と見なければならないであろう︒こうして見ると︑マルクスの言う貿易資本のあげる高い利潤は︑輸出超過利潤か輸

入超過利潤かそのどちらかであるというわけのものではなくて︑どちらをも含むものつまり貿易のあげる高い利潤と

マルクスは︑﹃剰余価値学説史﹄のなかでも貿易部門のあげる高い利潤が一般的利潤率を引き上げると言う︒この

場合︑かれはこのことを別のふたつの場合になぞらえている︒私はここに︑貿易のあげる高い利潤が一般的利潤率を とはできる︒ 私はいま︑貿易のあげる高い利潤が一般的利潤率を引き上げる︑とマルクスが言うとき︑かれは輸出面での出来事

と輸入面での出来事とをべつくつに切りはなしてはいないで︑両者をひとまとめにしていることに注目するわけであ

るが︑何故そのようなことに注目するのか︒私はそれが貿易と利潤率の関係を見ていくうえで非常に大切だと思うか

らである︒私がそれを大切だと思う理由は︑貿易のあげる高い利潤が一般的利潤率を引き上げるとして︑いったいそ

れはどんな仕方で引き上げるのか︑そのメカニズムを追求するにつれて︑自ら明らかになるであろう︒

マルクスは︑貿易のあげる高い利潤が一般的利潤率を引き上げるとは言うが︑しかしそれがどんな仕方でなされる

かについてはとくに述べてはいない︒しかしながら︑おそらくかれが念頭に置いていると思われる仕方を推測するこ いうことなのであろう︒

(4)

− 3 5 −

引き上げるメカニズムについてのきわめて重要な示唆があるように思う︒かれがなぞらえている別のふたつの場合と

いうのはこうである︒ひとつは特殊な産業部門で絶対的剰余価値率が引き上げられる場合である︒ ︑︑︑︑︑︑ ︑︑︑︑ ﹁しかし︑一般的利潤率が確立されており︑したがってまた費用価格が確立されている場合でさえも︑特殊な諸産 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ ︑︑︑ 業部門で労働時間がより長くて絶対的剰余価値の率が上がるために︑その部門の利潤率が上がるということはありう

︑︑︑.︑︑

る︒労働者の競争がこれを均等化することはできないということは︑国家の干渉がこれを証明している︒この部門で

は市場価格が自然価格よりも高く上がるということなしに︑この特殊な産業部門の利潤率が上がるであろう︒もちろ

ん諸資本の競争は︑この超過利潤の全部がこの特殊な産業部門の資本家に帰属しないように作用することができる

し︑また結局のところはそのように作用するであろう︒これらの資本家は彼らの商品をその﹁自然価格﹂よりも低く

下げざるをえないであろう︒そうでなければ︑他の産業部門がその価格を多少とも引き上げるであろう︵いずれにせ

よ︑実際には引き上げないとしても︑というのは︑引き上げたところでそれはこれらの商品の価値低下によって無効

にされうるからであるが︑その場合でも︑その産業部門自身における労働の生産力の発展が要求する程度まで︑価格

︵句④︶

が下がるということはないであろう︶︒利潤率の一般的水準は上がり︑費用価格は変動するであろう︒﹂

マルクスはここで︑特殊な産業部門で絶対的剰余価値率が引き上げられれば︑諸資本の競争により︑生産価格は変

動して︑利潤率が平準化するが︑その結果︑一般的利潤率の水準は引き上げられる︑と言うのである︒かれはつぎに

もうひとつの場合を挙げる︒

﹁さらに︑蓄積された労働に比べて︑不釣合いに大量の生きている労働が充用され︑したがって資本の構成が平均

利潤率を規定する平均的構成よりもはるかに低いところの新しい産業部門が出現するとすれば︑需要供給の関係が︑

︑︑︑︑ ︑︑︑︑︑ この新しい産業部門で︑その生産物を︑その費用価格よりも高く︑ほぼその現実の価値どおりに︑売ることを可能に ︑︑︑︑︑ するととはありうる︒競争がこれを均等化するとすれば︑その場合︑それが可能なのはただ利潤率の一般的水準を引

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− 3 6 −

このような場合にはリカードはいつも次のようなきまり文句で切り抜ける︒すなわち︑しかし従来の産業部門で

は︑それにもかかわらず充用労働量は同じままであり︑同様に労賃もそうなのである︑と︒ところが一般的利潤率を

規定しているものは︑あれやこれやの産業部門ではなく資本が自由に移動しうるすべての産業部門での︑支払労働お

よび前貸資本にたいする不払労働の割合なのである︒この割合は︑9/脚においては同じままであるかもしれない おりである︒︶ ︑︑︑︑︑︑ き上げることによってのみである︒なぜなら︑その資本は総じてより多くの量の不払剰余労働を実現し︑動かすのだ ︑︑︑︑︑︑︑︑︑ からである︒はじめのほうの場合に︑需要供給の関係は︑リカードが考えているように商品がその価値よりも高く売 ︑︑︑︑︑︑︑︑ られるように作用するというのではなく︑ほぼその価値どおりに︑その費用価格よりも高く︑売られるように作用す

︑︑

るだけである︒だから︑均等化がひき起こしうるのは︑利潤率が従来の水準にもどされるということではなく︑新し

︑︑︑

︵ロ名︶

い水準が確立されるということである︒﹂

マルクスは︑ここでは︑資本構成が平均を下回る新産業部門の出現した場合を挙げている︒この場合にも︑競争に

よる利潤率の平準化の結果は︑一般的利潤率の水準そのものが引き上げられることになる︑と言うのである︒

このように︑マルクスはう特殊の部門で絶対的剰余価値率が引き上げられた場合︑平均構成を下回る新産業部門の

出現した場合︑いずれの場合にも一般的利潤率は引き上げられる︑と言うのであるが︑貿易部門が高い利潤をあげる

場合も︑これらふたつの場合と異なるところはない︑と言う︒

︑︑.︑︑︑

﹁たとえば植民地貿易も同様である︒植民地では︑奴隷制や自然の豊かさのために︑労働の価値は古い国々よりも

低い︵あるいはまた実際上または法律上土地所有制度が発達していないためにも︑そうである︶︒母国の資本が任意

にこの新しい産業部門に移動しうるとすれば︑その資本は確かにこの産業部門の独自な超過利潤を引き下げるであろ

うが︑しかし︑それは利潤の一般的水準を引き上げるであろう︵これはA・スミスがまったく正しく指摘していると

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− 3 7 −

が︑しかし︑それが1/Ⅲにおいて変動するとすれば︑川/畑・における一般的利潤率も変動せざるをえないのであ

る︒与えられた大きさの資本によって動かされる不払労働の量が増大するたびに︑競争がもたらしうる結果は︑等量

の資本が︑この増大した剰余労働のなかから等しい配当を︑すなわち等しい取り分を得るということだけであって︑

前貸総資本に比べて剰余労働が増大したにもかかわらず︑各個別資本の得る取り分は元のままで︑剰余労働のなかの

︵5︶

従来の取り分まで引き下げられるというようなことではないのである︒﹂

マルクスは︑貿易部門が超過利潤をあげることは︑すなわち一国の剰余価値量の増加することである︑この増加し

た剰余価値は競争によってその国の資本全体に配分されることになるわけだから︑一般的利潤率が引き上げられるこ

とにならないわけがない︑と言うのである︒貿易部門のあげる高い利潤は︑一国の剰余価値量が投下資本に比べて増

加するという意味で︑特殊の部門で絶対的剰余価値率が引き上げられる場合や︑平均構成を下回る新産業部門の出現

する場合と同様に一般的利潤率を引き上げる︑と考えるわけである︒

いま︑﹃学説史﹄のなかで︑マルクスが貿易のあげる高い利潤が一般的利潤率を引き上げると言うとき︑どのよう

な言い方をしているかを見たわけであるが︑そのかぎりでは︑かれは︑どのような仕方で貿易のあげる高い利潤が一

般的利潤率を引き上げるか︑ということについては述べていない︒しかし︑ここには︑かれが念頭に置いているであ

ろうと思われる仕方を推測する材料がある︒すなわち︑かれが︑貿易部門のあげる高い利潤を︑他のふたつの場合つ

まり特殊の部門で絶対的剰余価値率が引き上げられた場合と平均構成を下回る新産業部門の出現した場合になぞらえ

ているということ︑そのこと自体が︑かれが念頭に置いていると思われる仕方を暗示していると思う︒というのは︑

マルクスが貿易部門のあげる高い利潤をそのようになぞらえるということは︑利潤率の平準化のメカニズムとして

も︑これら三つの場合に同じものが作用していると考えていると見てもよいだろうからである︒

そこで︑マルクスは利潤率の平準化のメカニズムとしてどんなものを考えているのか︒かれは︑競争I資本移動に

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− 3 8 −

よって利潤率の平準化を説く︒これを生産価格の成立︑平均利潤率の形成の説明のところで見てみるとこういうこと

である︒有機的構成が平均構成よりも高い部面の個別的利潤率は平均構成よりも低い部面のそれにくらべて低いわけ

であるから︑資本はこの部面から去って︑個別的利潤率の高い部面すなわち有機的構成が平均構成よりも低い部面へ

移ってゆく︒資本の去っていった有機的構成の高い部面では供給が減少して価格は価値以上になり︑他方︑資本の入

り込んできた有機的構成の低い部面では供給が増加して︑価格は価値以下となる︒こうして︑価値が生産価格へ転化

するとともに平均利潤率が形成される︒

これは利潤率の平準化の一応の説明にすぎない︒少し立ち入ると︑すぐに疑問が生ずる︒販売価格と費用価格の差

が利潤額であるが︑この利潤額を費用価格︵投下資本︶で除した商が利潤率なのであるから︑個別的利潤率の差異に

もとづいて資本移動が起り︑そこから生ずる需給関係の変化から︑販売価格の騰落がひきおこされるとしても︑その

とき費用価格の動きがどうなるかを見なければ︑利潤率がどうなるかを言うことはできないのではないか︑という疑

販売価格が騰落しても︑それとちょうど同じ率で費用価格が増減するならば︑利潤率は変化しないはずであるか

ら︑こうした場合には個別的利潤率の差異はいつまでも残ったままであるだろう︒かりに︑資本が流入してくる部門

の費用価格を形成するものがすべてやはりこの部門自身の生産物だけから成り立っている︑また︑資本が流出する部

門の費用価格を形成するものが︑すべてやはりこの部門自身の生産物だけから成り立っている︑というような場合を

想定するならば︑いま言ったように︑販売価格の騰落につれてそれとちょうど同じ率で費用価格が増減することにな

るわけであるから︑利潤率の平準化という現象が生じえないわけである︒

しかし︑そのように想定することは現実的ではないであろう︒現実的には︑資本の流出していく部門の費用価格

は︑この部門自身の生産物と資本の流入してくる部門の生産物との組合せから成り立つ︑また︑資本の流入してくる 問である︒

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− 3 9 −

利潤率の平準化がいま見たような仕方で実現するものであるとするならば︑貿易のあげる高い利潤が一般的利潤率

を引き上げると言うことはできるけれども︑輸出超過利潤がそれ自体として一般的利潤率を引き上げるとは言えない

ことになる︒というのはこういうことである︒輸出部門が超過利潤をあげているというので︑その他の部門から︑輸

出部門へ資本が流入してくれば輸出品の価格は下落するであろう︒しかし︑輸出品は外国市場で販売されるのである

から︑その価格が下落するとしても︑それはこの国の費用価格には影響しない︒いま輸入品の存在を度外視しておく

とすると︑内需部門の費用価格を形成するものは︑やはり内需部門の生産物だけから成り立つわけだから︑資本の流

出していった内需部門で販売価格が騰貴するときには︑内需部門の費用価格も販売価格の騰貴するのとちょうど同じ

率で増加することとなり︑そのために︑利潤率は変化しない︒つまり︑特別に高い利潤をあげている部門が輸出部門

である場合には︑それ自体として見るときには︑内需部門の利潤率を引き上げるメカ一ズムが存在しない︒

そこで︑輸入品の存在を考慮に入れてくるとどうなるであろうか︒輸出部門の拡大に応じて︑輸入も増加し︑輸入 あろう︒ 部門の費用価格は︑この部門自身の生産物と資本の流出していく部門の生産物との組合せから成り立つ︑と想定すべ きであろう︒そうすれば︑資本の流出していく部門でも︑資本の流入してくる部門でも︑費用価格は︑価格の騰貴し たものと価格の下落したものとの組合せから成り立つことになるわけであるから︑増減は相殺されると見てよいであ

︵︽︒︶

ろう︒こうして︑費用価格は不変のままに販売価格だけが騰落することにより︑利潤量の増減とともに利潤率が上下

することになり︑利潤率の平準化が実現するわけである︒

このようなものが︑マルクスの考えている利潤率の平準化のメカニズムがあるとするならば︑かれが貿易のあげる

高い利潤を特殊の部門で絶対的剰余価値率の引き上げられた場合や平均構成を下回る新産業部門の出現した場合にな

ぞらえるときには︑利潤率の平準化のメカニズムとしては︑やはり︑このようなメカ一一ズムを念頭に置いているので

(9)

− 4 0 −

品が低廉化するならば︑そのときには︑内需部門の費用価格を形成するものがこの部門自身の生産物と輸入品との組

合せから成り立つかぎり︑内需部門の費用価格は変化しない︒なぜなら︑内需部門の販売価格が騰貴することによ

り︑この部門の費用価格のうち︑内需品から成り立つ部分は増加するけれども︑輸入品から成り立つ部分は輸入品の

低廉化により減少するから︑費用価格全体としては増減が相殺されるからである︒こうして︑内需品の販売価格は騰

貴し︑その費用価格は不変であることにより︑利潤率は引き上げられる︒

ところで︑いま見たところでは︑輸出の増加に対応して輸入増加I輸入品の低廉化が生ずるものとしており︑その

ために費用価格は不変であると見ることができたわけである︒ところが︑輸出国で輸出部門は平均利潤しかあげてい

ない状況のところで︑輸出部門に生産性の引き上げが行われたという変化が生じたならばどうなるかというように考

えてみるとどうであろうか︒このときには︑輸出部門に超過利潤が発生し︑そのために輸出増加が生ずるが︑しかし

だからといってこれに対応してすぐに輸入増加の動機が生ずるわけではないから︑いま見たようなわけにはいかない

であろう︒このときにはまず︑輸出部門へ向う内需部門からの資本流出により︑内需品の価格がある程度騰貴した段

階で︑輸入品が相対的に低廉化するために︑輸入拡大の動機が生まれ︑そこで輸入増加が行われることになるであろ

う︒こうして相対的に低廉化した輸入品の増加はこの国の費用価格の増加を打ち消す方向に作用するであろう︒しか

しここで考えてみなくてはならないのは︑この作用は︑この国の費用価格の増加を完全に相殺しきることができるで

あろうかどうかということである︒それはできないであろう︒なぜなら︑輸入品は相対的に低廉化するのであって︑

絶対的に低廉化するわけではないからである︒したがって︑その作用は︑費用価格の増加をある程度打ち消すという

こういうわけであるから︑こうした場合には︑費用価格の増加が打ち消されるかぎりで一般的利潤率が引き上げら

れることになる︒つまり出来事としては一般的利潤率の引き上げと物価の騰貴とふたつのことがならんで起るわけで にとどまるにちがいない︒

(10)

− 4 1 −

坐︽︸ブ③︒

( 1 )

貿易に投ぜられた資本が比較的高い利潤率をあげることができるのは︑ここではまず第一に︑生産条件の劣っている他の諸国

が生産する商品との競争が行なわれ︑したがって先進国のほうは自国の商品を競争相手の諸国より安く売ってもなおその価値よ

り高く売るのだからである︒この場合には先進国の労働が比重の大きい労働として実現されるかぎりでは︑利潤率は高くなる︒

というのは︑質的により高級な労働として支払われない労働がそのような労働として売られるからである︒同じ関係は︑商品が

そこに送られ︑またそこから商品が買われる国にたいしても生ずることがありうる︒すなわち︑この国は︑自分が受け取るより

も多くの対象化された労働を現物で与えるが︑それでもなおその商品を自国で生産できるよりも安く手に入れるという関係であ

る︒それは︑ちょうど︑新しい発明が普及する前にそれを利用する工場主が︑競争相手よりも安く売っていながらそれでも自分

の商品の個別的価値よりも高く売っているようなものである︒すなわち︑この工場主は自分が充用する労働の特別に高い生産力

を剰余労働として実現し︑こうして超過利潤を実現するのである︒他方︑植民地などに投下された資本について言えば︑それが

より高い利潤率をあげることができるのは︑植民地などでは一般に発展度が低いために利潤率が高く︑また奴隷や苦力などを使

用するので労働の搾取度も高いからである︒ところで︑このように︑ある種の部門に投ぜられた資本が生みだして本国に送り返

す高い利潤率は︑なぜ本国で︑独占に妨げられないかぎり︑一般的利潤率の平均化に参加してそれだけ一般的利潤率を高くする

ことにならないのか︑そのわけはわかっていない︒ことに︑そのような資本充用部門が自由競争の諸法則のもとにある場合にど

うしてそうならないのかは︑わかっていない︒これにたいしてリカードが考えつくのは︑なかでも次のようなことである︒外国

で比較的高い価格が実現され︑その代金で外国で商品が買われて帰り荷として本国に送られる︒そこでこれらの商品が国内で売

られるのだから︑このようなことは︑せいぜい︑この恵まれた生産部面が他の部面以上にあげる一時的な特別利益になりうるだ

けだ︑というのである︒このような外観は︑貨幣形態から離れて見れば︑すぐに消えてしまう︒この恵まれた国は︑より少ない

労働と引き換えにより多くの労働を取り返すのである︒といっても︑この差額︑この剰余は︑労働と資本とのあいだの交換では

一般にそうであるように︑ある階級のふところに取りこまれてしまうのであるが︒だから︑利潤率がより高いのは一般に植民地 た︑こと﹀ 題である︒ ﹁もう一つの問題lそれはその特殊性のためにもともとわれわれの研究の限界の外にあるのだがlは︑貿易に投ぜられ

ことに植民地貿易に投ぜられた資本があげる比較的高い利潤率によって︑一般的利潤率は高くされるであろうか?という問

(11)

− 4 2 −

③マルクス﹃剰余価値学説史﹄l全集妬︵1︶五八七ページ︒

④同書五八七五八八ページ︒ ⑥同書五八八五八九ページ︒

㈹﹁しかし︑区別は次の点にある︒すなわち︑たとえば資本Bの生産物の価格がその価値からかたよる︑というのは︑Bで実現

される剰余価値はBの生産物の価格でつけ加えられる利潤より大きいことも小さいこともありうるからであるが︑このことのほ

かに︑同じ事情がまた︑資本Bの不変部分をなしていると同時に間接には労働者の生活手段として資本Bの可変部分をなしてい

る諸商品にもあてはまるということである︒不変部分について言えば︑この部分そのものが費用価格・プラス・剰余価値に等し

く︑したがって今では費用価格・プラス・利潤に等しく︑そしてこの利潤はまたそれによって代位される剰余価値よりも大きいこ

とも小さいこともありうる︒可変資本について言えば︑平均的な一日の労賃は︑つねに︑必要生活手段を生産するために労働者

が労働しなければならない時間の価値生産物に等しい︒しかし︑この時間数そのものもまた︑必要生活手段の生産価格がその価

値からかたよることによって︑変造されている︒とはいえ︑このようなことは︑つねに︑剰余価値としてはいるものが一方の商

品で多すぎるだけ他方の商品では少なすぎるということで︑したがってまた諸商品の生産価格に含まれている価値からの諸偏差

も相殺されるということで︑解消してしまう︒およそ資本主義的生産全体では︑つねに︑ただ非常に複雑な近似的な仕方での

み︑ただ永久の諸変動のけっして固定されない平均としてのみ︑一般的な法則は支配的な傾向として貫かれるのである﹂︒︵マル

クス﹃資本論﹄Ⅲ⑧全集妬③二○四二○五ページ︒︶ では利潤率がより高いからだというかぎりでは︑それは植民地の恵まれた自然条件のもとでは低い商品価格と両立できるであろ う︒平均化は行なわれるが︑しかし︑リカードの考えるように旧水準への平均化ではないのである︒﹂︵マルクス﹃資本論﹄Ⅲ③ 全集筋③二九八二九九ページ︒︶

③別稿︵﹁貿易と利潤率について﹂﹃金沢大学経済学会経済論集﹄第十・十一合併号︑﹁貿易利潤と一般的利潤率l箸侈品部

門と生産価格﹂﹃金沢大学法文学部論集経済学篇躯﹄では︑マルクスは輸出超過利潤それ自体が一般的利潤率を引き上げると考

えている︑と見たけれども︑そうではなくて︑かれは高い貿易利潤が一般的利潤率を引き上げると考えている︑と見る方が正し

いであろう︒

(12)

− 4 3 −

名和氏が貿易と利潤率との関係をどのように捉えておられるか︑﹁はじめに﹂述べた観点から見てみよう︒

名和氏はつぎのように言われる︒

﹁先進資本主義国と後進国︑あるひは母国とその植民地との外国貿易︑前者の工業生産物と後者の農業生産物との

交換で︑国際間における諸商品価格のヒラキはその大部分が︑先進国あるひは母国によって収納されるところであ

る︑その国の資本が世界商業機構の事実上の支配者︑独占者たることによってである︒富国は貧国を搾取する︑それ

によって貧国が利益をうける場合でもさうである︒それによって先進国は超過利潤︵習罵s8津︶を取得する︒そ

れは利潤率低下傾向に反対に作用する︒勿論この利益はその国のプロレタリアートによって殆んど何ら享受されると

︵1︽︶

ころではないが︒﹂

︵2︶

名和氏はここで︑マルクスが﹃資本論﹄で述べていることを念頭に置いておられるわけであろう︒氏は先進国が超

過利潤を取得すると言われるのであって︑それが輸出超過利潤であると限定しておられるわけではなくて︑輸入面に

生ずる超過利潤をも念頭に置いておられるものと思われる︒つまり貿易部門の超過利潤として見ておられると思われ

る︒ここに述べられているかぎりでは︑名和氏は貿易と利潤率の関係を正しく捉えておられる︒

名和氏は︑別の個所で﹃資本論﹄ならびに﹃剰余価値学説史﹄でマルクスが貿易と利潤率について述べているとこ

ろを紹介されたうえで︑つぎのように言われる︒

﹁かくて外国貿易が余剰利潤を生じ︑利潤率を増進せしめるのは︑

︑︑

第一に先進国がその工業製品の輸出において︑︵自国内では︶質的により高いものとして支払われない労働がかか

るものとして売られる︑その国の労働がより高い特別の比重をもつ労働として実現されるからであり︑

(一)

(13)

− 4 4 −

を︑私なりに得た︑

たい︒/ 第二に貿易相手国︑後進国および植民地から低廉な土地生産物原料および食料が取得されるからである︒すなわ

︵画︾︶

ち︑不変資本諸要素の低廉化と可変資本が転態さるべき生活資料の低廉化とによる︒﹂

名和氏は︑貿易が一般的利潤率を引き上げるのは︑第一に輸出面における輸出超過利潤︑第二に︑輸入面における

輸入品の低廉化として捉えておられる︒つまり︑名和氏は超過利潤が︑輸出面と輸入面との両者にそれぞれ生ずるこ

とを指摘しておられる︒このかぎりでは︑名和氏は貿易と利潤率の関係を正しく捉えておられる︒

このように︑名和氏は貿易のあげる超過利潤が輸出面と輸入面の両方に関係していることは正しく認めておられる

けれども︑しかしそれがどのようなメカニズムで一般的利潤率を引き上げるのか︑このことについては全く触れては

おられない︒だから︑名和氏が貿易と利潤率の関係を正しく捉えているとはいっても︑それはマルクスの意見をその

ままくりかえしただけにすぎないのである︒

もっとも︑名和氏は貿易のあげる高い利潤がどのようなメカニズムで実現するのかについて研究の必要のあること

を︑最近になって認めておられる︒

﹁貿易における超過利潤実現の問題は︑国際貿易における不等労働量交換︑不等価交換︑したがって国際的に価値

の一方的移転の根源をなす問題として第三巻第一四章第五節のマルクスの文章は極めて重要であり︑そのメカニズム

︵4︶

についてもっと突込んだ追求の必要を感じているが︑⁝⁝⁝︒﹂

名和氏は貿易における超過利潤実現のメカニズムについて突込んだ追求の必要を感じておられるが︑私も同感であ

る︒﹁はじめに﹂述べた観点は私なりに追求した結果のつもりである︒そこで︑従来名和氏が主張してこられた議論

を︑私なりに得た︑貿易のあげる高い利潤の実現するメカニズムの観点から検討するとどうなるか︑これを試みてみ

名和氏は︑機会あるごとに︑くりかえし︑同様の趣旨のことを主張しておられる︒

(14)

− 4 5 −

﹁念のためにわたくしの言葉に直して説明を加えると︑金鉱山を有しない国ではその国の輸出商品を生産する労働

の対象化が世界市場で金と交換されることによって金生産労働に代位するが︑この場合輸出商品を生産する労働が世

界市場においてこの国の国民的労働そのものを代表する︒国内では輸出商品を生産する労働も生活資料その他を生産

する労働も等しく社会的必要労働︑簡単な平均労働として通用している︒諸産業部門の同量労働時間の間に労働生産

︑︑

性発展度の差異とは無関係に︑︵ある産業部門で労働生産性の発展がより進んであり︑他の産業部門で労働の生産性

の発展が後れているといった事情とは無関係に︶労働強度の差異に基く一定の倍数関係が社会的過程によってすでに

出来上っている︒ところでこの国が先進国であって︑その輸出商品︑工業製品が︑国内ではこの産業部門が前時代に

較べて労働生産性の進歩が他の産業部門︑たとえば農業部門に較べてその進歩程度が著しくても︑この労働生産性進

︑︑

度の差異は既に計算に入らなくなっているのに︑それが世界市場に出るとその労働生産性進歩の故に強度のより大な

︑︑︑︑

る労働として評価される︒より大なる貨幣量で表現される︒而もこの輸出工業部門の労働がこのより大なる貨幣量で

表現されるだけではなく︑それはこの国の国民的労働の一定部分であり︑国民的労働の代表としての役割をなしてお

ることから︑労働生産性進度のそれ程著しくない︑相対的には遅れている他の産業部門︑農業労働も国民的労働とし

て同様の貨幣表現を受ける︑その生産物価値はこのような膨んだ価格表現を受ける︒他の後れた国︑全体としての生

産力水準は低く︑農業部門においても先進国の農業部門に較べて労働生産性程度は絶対的に低いに拘らず︑さきの先

進国の農産物価格よりも高いということが導き出されるのである︒

要するに︑先進国の国民的労働が︑一般的に︑又全体として後進国の国民的労働に較べてより大なる貨幣表現をう

ける︒その際に輸出工業の労働が国民的労働を代表し︑輸出工業労働の生産性を以てこの国民的労働全般が一定の貨

幣表現を受けるのであるが︑他の産業部門農業部門についてその労働生産性進度は輸出工業部門のそれに較べて後れ

ているに拘らず︑農業部門労働についても同様の貨幣表現がなされる︒輸出工業労働によって代表される一般的︑全

(15)

− 4 6 −

体としての国民労働の貨幣表現と︑個々の産業部門における実際の労働生産性国際比較のこの喰い違いから︑貨幣の

︑︑

相対的価値が先進国においてより小であるということが起るのである︒穀物等生活資料の価値が高いが故に︑現実

賃銀においては必ずしも高くない︑むしろ低いということが起りうるのである︒シーニョァが﹃貨幣取得の費用﹄

G淫のOo巽呉○ず冨三侭冨︒月瀞岳ご︶において説いているところと︑ここでマルクスが述べているところのも

︵P︑︶

のとの間に緊密な学説史的連繋があると推定されるのである︒﹂︵引用文第一︶

﹁金鉱山所有国における金生産労働の役割を金鉱山を所有しない国では︑輸出工業労働が代って担当する︒輸出工

業労働の単位時間の生産物がそれと交換に取得する金の一定量に従って︑国内の各種産業部門の生産物はその価格決

定を受ける○一国における輸出工業労働の生産性が他の諸国の同種産業の労働生産性に較べてどれだけ高いか︑輸出

︵虞U︶

工業労働の生産性を基準として各国の物価水準︑貨幣の相対的価値はきまり︑各国間に差異を生ずる︒﹂

﹁国内ではただ普通の労働であり︑労働生産増進のゆゑを以て高級労働として通用することの出来ない輸出産業の

労働が︑世界市場では︑労働力移動及び生産手段移動の制限により︑競争による均衡作用が遅れる︑比較的長く阻止

︑︑

されるのである︒労働生産性増進のゆゑを以て高級労働︑強度のより大なる労働として計算されるのである︒同じ労

働時間の生産物は価値において等しいものとしてこの国の輸出産業の一単位時間の生産量が以前には金生産国又は金

所有国のG量の金と交換されてゐたものが︑そして価値通りなれば今でもかく交換さるべきものが︑労働生産性増進

のゆゑに⑦+﹄⑦量の金と交換される︑即ち超過量雌を取得するのである︒

貴金属鉱山を所有しない国では輸出産業労働が貴金属生産労働に代位する︑また輸出産業労働は国内ではただ普通

の労働であり︑そして国内では諸労働の換算︑相互転換︑従って同じ労働時間の生産物がその価値において等しいと

いふ国民的価値体系が出来上ってゐる︒そして輸出産業労働を媒介とし︑基軸として諸商品の価格形成が行はれるこ

とについては述べられた︒今輸出産業労働︑国民的労働のある一部分が⑦+﹄の量の金で表現されることになれば︑

(16)

− 4 7 −

︑︑

ところでその価値以上の貨幣額の+﹄ので表示されるのは生産性のより急速に発達した工業部門の労働にと曾ま

らない︒この国の国民的労働そのものが①+﹄の量の金︑貨幣額で表現される︒蓋しその生産物が輸出されの+﹂の

の貨幣量を取得する工業部門の労働は国民的労働の可除部分であり︑国民的平均労働の一定分量に外ならぬから︒農

業部門の労働も同様にの+﹄の量の金で表示される︒農業部門の労働の生産性は工業部門のそれに較べて相対的には

後れてゐるにしても︑国内で各種産業部門の生産性に変化があっても︑それにかゞはりなく︑社会的必要労働として

通用してゐるのであるから︒かくて資本家的生産の発達した国で︑全体として生産力の進歩した国では工業生産物に

ついてはその労働生産性の絶対的にも相対的にも増進してゐる結果︑その価格は競争諸国︵後れた農業国︶と較べて 輸出産業でない国民的労働のその他の部分の労働も亦か陰る貨幣表現を受けとる︒貴金属生産国における貴金属生産 労働の増進と同様の作用を有つ︑諸商品の価格は騰貴するのである︒

輸出産業においてはとにかく労働生産性の増進があった︑それゆゑに世界市場では高級労働として計算されたので

あった︒然るに輸出産業労働のかかる計算の故に何ら労働生産性の増進のなかったこの国のその他の部門の労働まで

︵8︶

がかゞる重みをつけられた労働として世界貨幣︑金で表現されるのである︒﹂︵引用文第二︶

︑︑

﹁国内で質的により高級なものとして支払はれることのない工業労働が︑国際貿易では︑世界市場では︑生産上の

便宜の少い他の諸国で生産される同種類商品との競争において︑同一商品︑同一価格の原則によって︑その価値︵国

︑︑︑︑

民的価値︶以上に売る︒進歩した国の労働がより高級な︑特殊の比重をもった労働として実現される︒﹁より生産的

な国民が競争によってその商品の販売価格をその価値にまで引下げることを餘儀なくされない限り︑より生産的な国

︑︑

民的労働が強度のより大なるものとして計算される︒﹂もしもそれがその価値通りであればG量の金と交換され︑G

量の金で表示さるべき国民的労働が︒+﹄の量の金と交換され︑の+﹄⑦量の金で表示される︒すなはち餘剰価値

船を取得する︒

(17)

− 4 8 −

廉くありうるが︑農業生産物についてはその労働生産性が絶対的に増進してゐるにも拘らず︑相対的には後れてゐる

が故を以って後れた国よりも反ってその貨幣価格は高くなる酌︶︵引用文第三︶

名和氏の主張は︑一口で言えば︑輸出産業労働の生産性の格差は国民的労働の貨幣量表現の格差に等しい︑という

ものであろう︒輸出部門の生産性が引き上げられたにもかかわらず︑輸出品が外国で従来どおりの価格あるいはそれ

に近い価格で売れるならば︑このことはこの国の他の産業部門の生産物の販売価格に影響を及ぼし︑これを引き上げ

ることになるだろうというそのこと自体は異論のないところであるが︑名和氏の言われるのは︑単に﹁影響を及ぼ

す﹂というだけではなく︑輸出産業労働の生産性の格差と国民的労働の貨幣量表現の格差はその大きさもぴったり同

じであるというものである︒

﹁たしかにイギリスの輸出工業︑製造工業をとって︑これをポーランドやインドの同種産業部門の労働生産性と較

べてイギリスのこの部門の労働生産性は遥に高い︒仮に紡績労働をとってイギリスの紡績労働の労働生産性はインド

のそれの三倍であるとする︒この部門︑紡績労働に関する限り︑イギリス労働がインド労働に較べて三倍の重みを持

つ労働︑高級労働と見なされることは︑それ自体価値法則の命ずるところである︒

しかし紡績労働︑綿絲生産部面においてイギリスの労働が労働生産性が三倍高いがゆゑをもって︑紡績労働以外の

労働までも含めて国民労働そのものとして三倍の比重を持つ労働としてその生産物が貨幣量で表現される︒高級労働

として計算される︒インドの紡績労働はイギリスの紡績労働に較べて三分の一の比重しか持たない労働と見なされる

のはい畳として︑紡績労働以外の労働をも含めて国民労働そのものが三分の一しか比重を持たない労働と見なされ︑

諸生産物がか浸る価格付けを受けるところに不等価交換の発生地盤があるのである︒すなはち仮に農業部門をとっ

て︑労働の緊張度はイギリスの労働とインドの労働と同じであるとする︒インドの農業労働の労働生産性はイギリス

のそれに較べて三分の一だけ低い︒従ってイギリスの農業労働に較べて三分の二の比重を持つ労働として妥当する範

(18)

− 4 9 −

然るに農業生産物︵Qとする︶の一単位量を生産するのにAでは一労働日Bでは二労働日か蚤るものとする︒この

場合Q商品類についてAの労働生産性はBの二倍である︒すなはちAはQ商品の生産においてその生産性はBのQ商

品の生産性と比較しては優れてゐるが︑AにおけるP生産労働の生産性のBにおけるP生産労働の生産性との比較に 囲内であるならばそれは価値通りである︒しかるにインド労働が国民労働としてイギリスの三分の一しか比重を持た ない低級労働としてその生産物が価格付けを受けるところにイギリス農産物の高価格とインド農産物の低価格とを生 じ︵すなはち農産物の価格はインドにおいてイギリスの二分の一である︶︑その低価格を以てインドの農産物がイギリ スに輸入される時︑暗かにイギリスはより小なる労働を与へてより大なる労働を取得する訳である︒蓋しイギリスに おいても二単位労働量を必要とするところの農産物︵インドではインド労働の三単位労働量の生産物︶を一単位の労

︵q︾︶

働量を以て取得してゐるのであるからこゞで不等価交換が現実に発生してをるのである︒﹂

名和氏の主張は︑イギリスの紡績労働がインドのそれにくらべて生産性が高いので︑イギリスの国民的労働がイン

ドのそれにくらべてより多くの貨幣量で表現されるということだけにとどまらないで︑それは︑イギリスの紡績労働

がインドのそれにくらべて三倍生産性が高いなら︑イギリスの国民的労働がインドのそれにくらべて三倍多い貨幣量

で表現されるというものである︒すなわち︑それはこの場合インドの農業労働の生産性はイギリスのそれの23であ

ると想定されているから︑インドの農産物の価格はイギリスのそれの1−2であるというふうに表われるわけである︒

名和氏はおなじ主張を別の設例でつぎのように述べておられる︒

﹁工業商品︵Pとする︶の一単位量の生産において進歩せる国︵Aとする︶は一労働日︑後れた国︵Bとする︶は

十二労働日か洩るものとする︒P商品についてAの労働生産性はBの十二倍である︒この場合Bの十二労働日がAの

一労働日に相当しても︑即ちその個別的価値の1−吃しか商品価値に実現されなくても︑そのこと自体は勿論価値法則

の改変ではない︒

(19)

− 5 0 −

おけるヒラキに較べると相対的には後れてゐる︒

若しそれぞれの国におけるQ生産労働がそれぞれの国民的総労働の一環として把捉され︑国民的労働の一部分とし

て価値規定を受け︑然る後国際交換に現れるといふ媒介を経ることなしに︑国際間のか洩る限界なしに︑開放された

単一の市場社会としてAのQ生産労働とBのQ生産労働とが直接に対抗してその比重を規定されるものであれば︑そ

の場合にはBにおけるQ生産労働がその個別的価値の12を実現しうる筈であり︑それは価値通りである︒ところが

P商品が国際商品として基軸をなし︑Pを生産するそれぞれの国の労働の生産性によって︑総じてそれぞれの国民的

労働そのものの比重が規定される︵か﹄る貨幣量表現をうける︶のであるから︑Q商品においてもAの一労働日はB

の十二労働日に相当するものとして機能する︵実際にはこゞでAの一労働日はBの二労働日にしかならないのに︶︒

AのP生産労働の一労働日はA国内では︑一単位量のPを取得しうるに過ぎないのに︑Aはその生産物PをBに輸

出し︑それで以てBの生産するQを取得するが︑その量はBの国民的労働十二労働日の生産物であり︑六単位量のQ

である︒︵Bはその二労働日を以てQ一単位量を生産するから︶︒この六単位量のQはAの国民的労働︑農業労働を以

てしても六労働日を要するものである︒すなはちAの一労働日の生産物とBの十二労働日の生産物との交換は価値と

して︑そのま蚤に壹這ではないが︑価値として︑同じ性質の労働として︑一労働日と六労働日との不等労働量の交

︵︑︶

換が行はれることになるのである︒﹂

名和氏は︑進歩せる国の工業部門の生産性が後れた国の工業部門のそれにくらべて十二倍であるならば︑進歩せる

国の農業部門の生産性が後れた国の農業部門のそれにくらべて二倍のときには︑進歩せる国の農業部門の生産物の価

格は後れた国の農業部門のそれの六倍になる︑と言われる︑つまり︑工業部門の労働の生産性の格差が国民的労働の

貨幣量表現の格差とちょうど同じ大きさになる︑と言われるわけである︒

こうして見ると︑名和氏の主張の内容ははっきりしているように思われるが︑しかし決してそうではない︒肝心な

(20)

− 5 1 −

しかし︑考えてみるに︑かりに名和氏の主張の内容が事後的な意味でなされているとするならば︑それは自明のこ

とであってなにもとりたてて言うほどのことではないであろう︒すなわち︑輸出品について世界市場で単一の価格が

成立するとするならば︑そしてこの部門で平均利潤が得られるようになっている状態のところで見るならば︑この部

門の生産性の格差が国民的労働の貨幣量表現の格差と一致しているであろうことは自明のことである︒だから︑名和

氏の主張の意図は事後的ではなくて︑事前的な意味でなされていると思う︒それにもかかわらず名和氏の主張の内容

が事前的とも見えるし事後的とも見えるのはどうしたわけであろうか︒それは︑名和氏が︑輸出部門の生産性がたと

えば二倍に引き上げられたなら︑輸出品の供給は増加し︑輸入国の競合部門では輸入の増大に強制されて劣悪資本が

脱落し生産性の引き上げが生ずるであろう︑その結果両国でこの部門が平均利潤を得る状態に復帰したときには︑生 ところがあいまいである︒肝心なところというのは︑いまある国の輸出部門の生産性が二倍に引き上げられたとする と︑このことが自国と外国とに影響を及ぼしその結果として︑この国と外国との国民的労働の貨幣量表現の格差が従 来の二倍になる︑ということなのか︑それとも︑いまある国の輸出部門の生産性が従来の何倍かに引き上げられたと すると︑このことが自国と外国とに影響を及ぼし︑その影響が一段落したところでその結果を見てみると︑この国の 輸出部門と外国のこの部門の生産性の格差が従来の二倍になっており︑またこの国と外国との国民的労働の貨幣量表 現の格差が従来の二倍になっている︑ということなのか︑このふたつのいずれなのかということである︒前者と後者 では意味がちがう︒前者では︑原因となる輸出部門の生産性の変化の大きさが︑結果としての国民的労働の貨幣量表 現の格差の変化の大きさとぴったり同じになるということである︒これに対し後者は︑結果としてでてくる輸出部門 の生産性の格差の変化とこれまた結果としてでてくる国民的労働の貨幣量表現の格差の変化が同じ大きさであるとい うことである︒一口で言えば︑事前的な意味なのか︑それとも事後的な意味なのか︑名和氏の説明でははっきりしな

(21)

− 5 2 −

産性の格差は従来の二倍になっているとは限らず︑あるいは一・五倍程度にとどまっているかもしれない︑こういう

事情のあることを度外視されて︑輸出部門の生産性が事前的に二倍に引き上げられたなら︑事後的にも二倍に落ちつ

くと見なされているためであろう︒ともかく名和氏の主張は事前的な意味でなされているものとみなしてこれを検討

することにしよう︒

すでに見たように︑名和氏の主張は︑輸出産業労働の生産性の格差が国民的労働の貨幣量表現の格差を規定すると

いうものであるが︑それは単に輸出産業労働の生産性が国民的労働の貨幣量表現に影響を及ぼすという意味ではなく

て︑輸出産業労働の生産性の格差は国民的労働の貨幣量表現の格差に対し︑ちょうど同じ大きさになるように文字通

⑩(9)(8)(7)(6)⑤(4)(3)③(1)

名和統一﹁外国貿易と利潤率﹂木下悦二編﹃論争・国際価値論﹄一三四ページ︒

同右﹁故赤松要教授との国際価値論争を顧みて﹂﹃世界経済評論﹄昭和五○年六月号四四ページ︒

同右﹁価値論と﹃国民経済﹄﹂﹃経済評論﹄昭和二四年十一月号一三一四ページ︒

同右﹁国際間における貨幣の相対的価値の差異について﹂﹃国際経済﹄第三号五九ページ︒

同右﹃国際価値論研究﹄二一二二ページ︒

同書二三六二三七ページ︒

同書一二二一二三ページ︒

同書二四五二四六ページ︒ 名和統一﹃国嘩 目の注①参照︒ ﹃国際価値論研究﹄二五九ページ︒

( 二 )

(22)

− 5 3 −

名和氏は︑輸出産業労働の貨幣量表現と国民的労働の貨幣表現とが等しくなるということを︑ここにあげられてい

る理由から主張しておられる︒それは︑要するに︑輸出産業労働も国民的労働の一部なのだから︑一時的にはともか

く永続的には両者の貨幣量表現は等しくなる︑というものであるなら異論はない︒しかし名和氏はそういう意味で言 から︒﹂︵引用文第三より︶ り決定的影響を与えるというものである︒

名和氏は何を根拠にそれを主張されるか︒

﹁国内では輸出商品を生産する労働も生活資料その他を生産する労働も等しく社会的必要労働︑簡単な平均労働と

して通用している︒諸産業部門の同量労働時間の間に労働生産性発展度の差異とは無関係に︑︵ある産業部門で労働

の生産性の発展が後れているといった事情とは無関係に︶労働強度の差異に基く一定の倍数関係が社会的過程によっ

てすでに出来上っている︒﹂︵引用文第一より︶

﹁⁝⁝⁝︑それはこの国の国民的労働の一定部分であり︑国民的労働の代表としての役割をなしておることから︑

労働生産性進度のそれ程著しくない︑相対的には後れている他の産業部門︑農業労働も国民的労働として同様の貨幣

表現を受ける︑:⁝・⁝﹂︵引用文第一より︶

﹁⁝:⁝.︑また輸出産業労働は国内ではた宙普通の労働であり︑そして国内では諸労働の換算︑相互転換︑従って

同じ労働時間の生産物がその価値において等しいといふ国民的価値体系が出来上ってゐる︒﹂︵引用文第二より︶

﹁この国の国民的労働そのものが⑦+﹄の量の金︑貨幣額で表現される︒蓋しその生産物が輸出されの+﹄⑦の

貨幣量を取得する工業部門の労働は国民的労働の可除部分であり︑国民的平均労働の一定分量に外ならぬから︒﹂︵引

用文第三より︶

﹁農業部門の労働も同様に⑦+﹂の量の金で表示される︒⁝⁝⁝︑社会的必要労働として通用してゐるのである

(23)

− 5 4 −

われているわけではないのであろう︒たとえば︑輸出産業労働の生産性が二倍になりその結果輸出産業労働の貨幣量

表現も二倍になると︑やがてだんだん国民的労働の貨幣量表現も大きくなっていき︑ついには二倍にまでなる︑とい

うものであろう︒しかしそういうことがここに含意させてあるのなら︑それはさらに証明を要することがあるわけで

あって︑ここにあげられてある理由はそのことを証明するには不充分である︒換言すると︑名和氏の主張は︑輸出産

業労働の生産性の変化の大きさⅡ輸出産業労働の貨幣量表現の変化の大きさI国民的労働の貨幣量表現の変化の大き

さというものであるが︑ここにあげられてある理由はこの主張の全体を証明するには不充分であって︑それはこの主

張の後半の部分すなわち輸出産業労働の貨幣量表現の変化の大きさⅡ国民的労働の貨幣量表現の変化の大きさの部分

だけを証明するにすぎないものであって︑前半の部分すなわち輸出産業労働の生産性の変化の大きさI輸出産業労働

の貨幣量表現の変化の大きさを言うためには︑これはこれで証明が必要である︒

しかし︑名和氏はこのことについてはまつたく問題にしておられない︒名和氏は︑輸出産業労働の生産性の変化が

輸出産業労働の貨幣量表現の変化に等しいということを証明ぬきではじめからきめてかかっておられるようである︒

名和氏の議論のいちばんの問題点はここにあるように思う︒

﹁はじめに﹂述べておいた観点からすると︑輸出産業労働の生産性の変化が輸出産業労働の貨幣量表現の変化に等

しい︑ということはない︒そのわけはこうである︒輸出部門の生産性が引き上げられて︑その販売価格が従来どおり

あるいはそれに近い高さであるならば︑輸出部門に超過利潤が生ずるが︑そうなると︑内需部門から輸出部門へ向っ

て資本が流出するであろう︒内需部門では生産・供給が減少し︑販売価格が騰貴するであろう︒ところでこの販売価

格の騰貴がどこで落ち着くかであるが︑それは輸出部門の生産性の引き上げられた率と同じところというわけではな

いであろう︵名和氏は同じところとみなされていることになるわけであるけれども︶︒何故なら︑輸出部門には内需

部門から資本が流入してくるのであるから︑ここでは生産・供給が増加し︑輸出品の外国市場での販売価格は下落す

(24)

− 5 5 −

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ ﹁世界市場こそはイギリスにとって鉱山の作用をなす︒その輸出によって貴金属が取得される商品を生産するとこ ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ ろのものがすなはち鉱夫である︒労働の一定の緊張︑資本の前貸によって彼等が取得するところの貴金属の量は正に

︵︒&︶

凡ての他の生産者の報酬が計算さる畠ところの基準を与へるものでなければならぬ﹂︵圏点名和︶とシーニョアは述

べるのである︒輸出産業労働と外国の貴金属生産労働との世界市場における結び付き︑かシる輸出産業労働の媒介を

通じて貴金属鉱山を所有しない国での諸商品の価格形成はなされるのである︒輸出産業労働が貴金属生産労働に代っ

て国内の諸労働にその基準を与へるのである︒ るであろうからである︒輸出が増加しても︑輸出品の販売価格が下落しないなら︑名和氏の言われるように︑内需部 門の価格の騰貴率は輸出部門の生産性の引き上げ率に等しくなるであろう︒

しかし︑輸出が増加しても︑輸出品の販売価格が下落しないというような想定がゆるされるだろうか︒それは供給

の増加につれて︑ちょうど同じだけ需要も増加すると想定することになるわけであるが︑名和氏は︑そのような特殊

な想定を設定しているのだということを述べてはおられないし︑したがってもちろんそうした想定をすることの根拠

なり理由なりが示されているわけではない︒しかし︑名和氏の主張は︑事実上そうした特殊の想定のうえでなされて

いることになるわけであるが︑どうしてこういうことになってくるのであろうか︒それは︑名和氏の特異な思考の過

程の産物であるように思われる︒以下その思考の過程を見よう︒

名和氏はシーニョァの議論を受け入れてつぎのように言われる︒

﹁貴金属鉱山を所有しない国︑ここでも亦貴金属が貨幣であり︑諸商品は貨幣I貴金属を価値の尺度として相互に

価格をもって交換されてゐるのであるが︑諸商品の価格は如何なる過程を通じて形成されるのであるか?こ﹄では諸

商品生産労働に基準を与へるところの貴金属生産労働を国内には見出せない︑それと直接に結び付く訳には行かない

のである︒

(25)

− 5 6 −

﹁労働の貴金属における価値︑換言すれば労賃と貴金属を輸入する費用との結び付きは多数の聴講者諸君には私自

身にとって明瞭なほど︑諸君には明瞭なものとは多分思はれないであらう︒しかしそれがはっきり理解されない人た

ちに私は次の如く追求して行くであらう︒貴金属器や貨幣を使用しはするが︑その鉱山を所有しないイギリスやフラ

ンス及びその他の諸国は貴金属器及び貨幣の年々の磨滅を補填するために︑年々一定量の貴金属を輸入しないかどう

か?彼等はこの供給を︑直接にか間接にか︑鉱山を所有する諸国から取得しないかどうか?それと交換にこの供給

︵貴金属︶がえられる諸商品を生産する労働者を傭ってゐる資本家達の平均利潤は国内における他の諸資本家達の平

均利潤と同じでないかどうか?これらの資本家達が輸入する金および銀は彼等によって彼等自身の利益のために造幣

局に送られて鋳貨とされるか︑あるひは既に鋳貨とされてをる金および銀と交換されないかどうか?かくしてえられ

たところの貨幣が利子として支払はれる必要のある部分は差引いて二つの部分に分割される︑一は利潤として資本家

達の手元に保留され︑他の部分は労賃として彼等の労働者達に与へられるといふ風に分割されないかどうか?これ等

の労働者達がその労苦は等しいに拘らず︑国内における他の労働者達に較べてあるひはより多く︑あるひはより少く

受取ったりするやうなことがありうることかどうか?そこでその労働と交換に貴金属が輸入されるところの労働者達

によってえられる労賃が同国における凡ての他の労働者達の労働を規制しないかどうか?そして価格︑あるひは換言

すれば独占の対象ではないところの凡ゆる諸商品の金および銀における価値は︑鉱山を所有しない国の場合では︑与

へられたる労働の分量︑通常利潤率及び個々の場合には既に支払はれて了った労賃の分量とその前払ひされた期間

︵とを考慮に入れて︶の結果であるものを輸出することによって取得されうる金および銀に依存しないものかどう

︵︒&︶

か?﹂とシーー言アは説明を与へてゐるのである︒そしてわれわれはシー一言アの以上の立言を次の如く︑簡潔に要

( 1 )

の①凰胃︺○口善のOo普具○ず冨旨言い旨○口の瀞己p届l届.

(26)

− 5 7 −

約することが出来るのである︒﹁金銀を生産しない国々においては︑同一の結果が廻り道をして実現されるのであっ

て︑すなわちそれは︑それらの国々で生産される諸商品l国民的平均労働のある一定部分lが︑鉱山を所有する

国々の金銀に物体化された労働時間の一定分量に対して︑直接にまたは間接に交換されることによって実現されるの

ここに引用してあるシーニョアの議論を名和氏はある解釈のもとに受入れておられるようである︒しかしここに引

用してあるシーニョアの議論は︑私には名和氏の解釈されるかたちでならば︑とても受け入れることはできない︒名

和氏はシーニョアの議論を以て︑名和氏の主張すなわち︑輸出産業労働の生産性の格差が国民的労働の貨幣量表現の

格差となる︑ということの根拠とされるわけであるから︑名和氏はシーニョアがここで︑一つには輸出産業労働の生

産性の格差が輸出産業労働の貨幣量表現の格差に等しいということ︑もう一つには︑輸出産業労働の貨幣量表現の格

差が国民的労働の貨幣量表現の格差に等しいということ︑このふたつのことを言っておると解釈しておられることに

なる︒なるほど︑シー一ヨアが︑輸出産業労働の貨幣量表現が国民的労働の貨幣量表現となるということを言ってお

ることは確かである︒しかし︑かれはそれと同時に輸出産業労働の生産性の格差が輸出産業労働の貨幣量表現の格差

に等しくなるということをも言っておると見てよいだろうか︒私はシー︸言アがそこまで言っておると断定はできな

いと思う︒その理由を説明しよう︒かりにシーニョアがそこまで言っておるとすると︑かれは輸出品の価格下落を否

定していることになるわけであるが︑なるほどかれの議論をざっと一読したかぎりでは︑かれがそんなふうに見てい

るように受け取れないこともない︒というのは︑輸出部門の生産性が引き上げられるとしよう︑そうすると従来と同

じ労働量を投じて獲得されるより多くの生産物がより多くの金銀と交換されることになる︑輸出部門の資本家はしか

し︑その金銀のうちから︑平均利潤だけを自分のポケットに入れて残りは利子を差引いてすべて労働者により多くの である﹂と︒

①のg言 認日日.○口苦のCO普呉○ず薗旨旨頤冨ご口望︾ロロ 澤画l岸如︸﹂

参照

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