• 検索結果がありません。

清末 中国 にお け る西 洋近 代 産 業 導入 に貢 献 した外 国人

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "清末 中国 にお け る西 洋近 代 産 業 導入 に貢 献 した外 国人"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

清末 中国 にお け る西 洋近 代 産 業 導入 に貢 献 した外 国人

田 育 誠

目 次

は じめ に

一 、 イ ギ リ ス 人 ハ リデ ィ ・マ ッ カ ー トニ ー(HallidayMacartney,中 国 名 馬 格 里)と 蘇 州 洋 砲 局 ・金 陵(南 京)機 器 製 造 局

二 、 中 華 系 ア メ リカ 人 容 閨 と(上 海)江 南 製 造 局(総 局)

三 、 フ ラ ン ス 人 プ ロ ス ペ ・M・ ジ ケ ー ル(ProsperMarieGique1,中 国 名 日 意 格)と 福 州 船 政 局

四 、 ドイ ツ 人 グ ス タ フ ・フ ォ ン ・デ ー ト リ ン グ(GustavvonDetring,中 国 名 徳 確 琳)と 西 洋 近 代 産 業 導 入

五 、 清 末 中 国 へ の 西 洋 近 代 産 業 導 入 過 程 に お け る マ ッ カ ー トニ ー な ど 四 者 の 類 似 性

結 び

は じ め に

19世 紀 後 半 清 末 中国 が西 洋 技 術 を導 入 す る過 程 にお い て は,概 ね 三 つ の グル ー プ に分 類 で き る人 々が 参 与 して い た とい うこ とが で き る。

第 一 の グル ー プ は,清 朝 政府 首 脳 部 の 一 部 高 級 官 僚,即 ち洋 務 運 動 の リー ダ ー た ち で あ り,そ の 中 で特 に有 名 な のが 曾 国藩,李 鴻 章,左 宗 業 な どで あ る。 彼 らは率 先 して 西 洋 技 術 の導 入 を 図 る と と も に,中 国最 先 端 の 近代 企 業

清末中国における西洋近代産業導入に貢献した外 国人69

(2)

の 設 立 に 努 め た が,そ の 主 要 な も の は 軍 需 工 場 と造 船 所 で あ る。 彼 ら は 太 平 天 国 の 騒 乱 の 中 で,西 洋 式 銃 や 大 砲,蒸 気 戦 艦 の 威 力 に 初 め て 触 れ,中 国 の 武 器 装 備 の 改 良 の 必 要 性 を 強 く感 じた が,西 洋 列 強 との 二 度 に わ た る 阿 片 戦 争 に 敗 れ て,西 洋 式 兵 器 の 製 造 と 西 洋 式 軍 需 工 場 の 建 設 を 急 が な けれ ば な ら な い こ と を 更 に 痛 感 し た 。 そ う した こ と か ら,彼 らは,強 大 な 政 治 力 と潤 沢 な 資 金 力 に よ り これ らの 事 業 を 強 力 に推 進 して い っ た 。 第 二 の グル ー プ は, 西 洋 技 術 導 入 に 直 接 貢 献 し た 技 術 者 た ち で,そ の 中 に は 中 国 人 も い れ ば 外 国 人 も存 在 した 。 外 国 人 技 術 者 の 数 は 相 対 的 に は 少 な い が,彼 ら は 初 期 段 階 に お い て 高 い 技 術 を 必 要 とす る 仕 事 を 担 当 し,ま た 経 験 の 乏 しい 中 国 人 労 働 者 の 指 導 を 行 うな ど重 要 な 役 割 を 果 た して い る。 第 三 の グル ー プ は,第 一 ・第 ニ グ ル ー プ の 中 間 に お い て 力 を発 揮 し た 人 々 で あ る。 彼 ら は,し ば し ば 清 朝 政 府 顧 問,設 計 士,情 報 管 理 者,軍 艦 や 機 器 類 な どの 購i入 担 当 者,企 業 経 営 者 等,様 々 な 役 割 を 同 時 に 請 け 負 っ て お り,経 験 しな い 仕 事 は ほ と ん どな い とい う状 況 で あ っ た 。 彼 ら は 清 朝 政 府 首 脳 部,西 洋 諸 国 の 軍 艦 ・機 器 等 の 購i 入 交 渉 相 手,西 洋 人 技 師,中 国 人 の 見 習 い,現 場 の 労 働 者 な ど を 相 互 に 結 び っ け る 重 要 な 働 き を 果 た した 。 彼 らの 存 在 に よ り始 め て 西 洋 技 術 の 導 入 が 行 わ れ,各 種 の 洋 務 企 業 が 設 立 され て そ の 後 の 進 展 が 図 られ た とい っ て も過 言 で は な い1)。

こ の 第 三 の グル ー プ の 人 々 が,ま さに 本 稿 の 中 心 人 物 で あ る。 これ らの 人 々 は,才 能 に 富 み,高 い 志 を 備 え た 人 た ち で あ り,そ う した 資 質 を 備 え た 人 た ち で あ っ て 始 め て,中 国 が 西 洋 技 術 を 導 入 す る に 際 して の 「中 間 人 」 と し て の 役 割 を 果 た す こ と が で き た と い え よ う。 以 下,そ う した 中 間 人 の 代 表 と も い うべ き,イ ギ リス 人 ハ リデ ィ ・マ ッ カ ー トニ ー(HallidayMacartney,中

国 名 馬 格 里),中 華 系 ア メ リカ 人 容 閨,フ ラ ン ス 人 プ ロ ス ペ ・M・ ジ ケ ー ル (ProsperMarieGiquel,中 国 名 日意 格)及 び ドイ ツ 人 グ ス タ フ ・フ ォ ン ・ デ ー ト リ ン グ(GustavvonDetring,中 国 名 徳 催 琳)の 四 名 に つ い て 彼 ら の 事 跡 を 検 討 して い く こ と とす る。

70国 際 経営論集No.282004

(3)

1.イ ギ リ ス 人 ハ リデ ィ ・マ ッ カ ー トニ ー(HallidayMacartney,

中 国 名 馬 格 里,1833年 〜1906年)と 蘇 州 洋 砲 局 ・金 陵 (南 京)機 器 製 造 局

マ ッカ..̲...トニ ー は,1858年 にイ ギ リス の エ デ ィ ンバ ラ大 学 医 学 部 の 学 位 を取 得 した 後,イ ギ リス 軍 の 軍 医 に な っ た 。1860年 の 初 め,彼 の 所 属 部 隊 は 第 二 次 阿 片 戦争 で 中国 に派 遣 され,ま ず 北京 を 占領 し,次 い で 広 州 に 進 駐 した。 彼 は,勤 務 の 合 間 を 中 国語 の 学 習 に費 や した 。彼 は清 朝 政府 か ら の 強力 な誘 い を受 けて,軍 医 を辞 職 し清 朝 政 府 の た めに働 く こ と と した 。 彼 は イ ギ リス軍 内部 で の信 頼 も厚 く,彼 が 辞 職 す る こ とにつ い て反 対 は な か っ た 。彼 は表 向 き は 中英 混 合 軍 「常 勝 軍iの 秘 書 で あ った が,実 質 は清 朝 政 府 洋 務 派 首 領 李 鴻 章 の 秘 書 で あ っ た。 そ の 当 時 中国 は西 洋 製 武 器 購 入 の た め に 毎 年 多 額 の金 額 を費 や して い た で,マ ッカ ー トニ ー は 中 国 が 自国 で武 器 を製 造 す る こ とを提 案 した 。 マ ッカ ー トニ ー は後 に,そ の と きの こ とを,「 私 は まず は じめに,李 鴻 章 に対 して 弾 薬購 入 費 用 が 過 大 で あ る こ とを指 摘 した。

私 は彼 に対 して 西 洋 諸 国 は 自国 の大 規 模 な弾 薬 工場 を所 有 して い るの で,中 国 も こ う した 工 場 を持 つ べ きで あ る と提 言 した 。 李 鴻 章 は 私 の提 案 の意 味 合 い は 十分 に認 識 した が,当 時 の 中 国 の技 術 力 で は 実現 で き な い の で は な い か と危 ぐ して い た の で,私 は様 々 な方 法 を用 い て 説 明 し工 場 建 設 を進 め る よ う 説 得 した。 そ の説 得 の過 程 で次 の よ うな 出来 事 が あ っ た 。 私 は大 砲 の砲 弾 を 製 造 して 李 鴻 章 に提 出 して い た が,李 鴻 章 はイ ギ リス の ス ダ フ リー将 軍 が 見 学 に訪 れ た とき,そ れ らの砲 弾 を将 軍 に 示 して そ の 出 来 具 合 に つ い て 意 見 を 求 めた こ とが あ っ た。 将 軍 の答 えは砲 弾 の レベ ル は 非 常 に優 れ て い るで あ っ た。 そ の 後,私 は李 鴻 章 か ら50名 の 労働 者 を雇 い 入れ る こ と を命 ぜ られ, 上海 郊 外 松 江 の あ る寺 院 を 工場 と して,一 台 の機 械 も一 炉 の溶 鉱 炉 も無 い状 況 か ら弾 薬 製 造 に取 り掛 か っ た 。」 と述 べ て い る。1863年12.月,李 鴻 章 が 太 平 天 国 軍 に蘇 州 を奪 われ た た め,そ の影 響 で マ ッカー トニ ー の 工 場 も 移 転 せ ざ る を 得 な くな っ た が,こ の 出 来 事 が 中 国 近 代 最 初 の 国 立 軍 需 会 社

清末 中国における西洋近代産業導入に貢献した外国人71

(4)

「蘇 州 洋 砲 局 」 を誕 生 させ る きっ か け とな っ た。 移 転 の 途 中,マ ッカー トニー は 西 洋 の最 新 の 軍 事機 器 が 中 国 に入 って き た との 情 報 を得 た の で,李 鴻 章 に 対 しそ れ らの機 器 を購 入 す る よ う提 言 し,李 鴻 章 は この 提 案 を受 け入 れ た。

機 器 類 が輸 入 され,そ れ らが 箱 に入 った ま ま の状 態 で 工 場 内 にバ ラバ ラ に放 置 され てい る の を見 て,李 鴻 章 は こん な 無 用 の もの に 多 額 の 金 を支 払 っ て し ま っ た と嘲 弄 した。 マ ッカ ー トニー は 直 ち に機 器 類 の組 立 て に か か り準備 が 整 うと,李 鴻 章 に記 念 式典 の テ ー プ カ ッ トを依 頼 した。 テ ー プカ ッ トの後, 李 鴻 章 が 工場 内 を視 察 して い る とす べ て の 機 器 類 が い っせ い に動 き出 した。

こ うした こ とも あ っ て,李 鴻 章 は マ ッカ ー トニ ー を高 く評 価 す る よ うに な っ た2)。

1865年,李 鴻 章 は両江 総 督 に任 ぜ られ 南京 に赴任 し,そ れ に伴 っ て マ ッ カ ー トニ ー と軍 需 工 場 も南 京 に移 転 した。 李 鴻 章 は 翌年 に は,捻 軍 鎮 圧 の た め北 方 に去 っ た。 離 任 直 前,李 鴻 章 は マ ッカ ー トニ ー と 中国 人 の責 任 者 の 二 名 を外 国 との交 渉 担 当 に任 命 した が,こ の任 命 は李 鴻 章 の幕 僚 と して の マ ッ カ ー トニ ー の 生 涯 の うちの頂 点 とい え るか も知 れ な い。 マ ッカ ー トニ ー の 工 場 は ます ま す盛 業 し,新 しい 会社 は 「金 陵機器 製 造 局 」 と命 名 され た 。 マ ッ カ ー トニー は頭 が 切 れ る うえに,経 営 能 力 に も長 けて い た。 外 国 か ら材 料 や 機 器 類 を購 入 す る際 に も商 人 た ちか ら騙 され る こ とは な く,ま た外 国 人 技 術 者 や 中 国人 労働 者 た ち も仕 事 の 手 を抜 く こ とは で きず 懸 命 に働 か な け れ ば な らな か っ た。 マ ッカ ー トニー は,西 洋 軍 事 工業 の最 新 の 発 達 に追 いつ くた め に 全精 力 を費 や し,最 新 で 複 雑 な機 器 類 の 導 入 を繰 返 し図 り,さ らに そ れ ら を利 用 して さ らに複 雑 な機 器 類 を製 造 して い っ た。 彼 の働 き に よ り中 国 各 地 に こ う した 軍 需 工場 が建 設 され,中 国 の近 代 産 業 化 に大 い に貢 献 した とい う こ とが で き る 〔図1〕。1874年6月,マ ッカー トニ ー は7カ 月 間 の 欧州 視 察 を実 施 した。 金 陵機 器 製 造 局 で 使 用 す る最新 の 設備 ・機 械 の購 入 契 約 を 果 して 中 国に戻 り,彼 は直 ち に天=津に赴 き李鴻 章 に対 して今 回 の視 察 と設 備 ・ 機 械 購 入 に 関す る報 告 を行 っ た。 そ の 後,李 鴻 章 は マ ッカ ー トニ ー に対 して

72国 際経営論集No.282004

(5)

徐 々 に不 満 を持 ち始 め る よ うに な っ て い っ た。 す な わ ち,マ ッカ ー トニ ー が 部 下 の 外 国 人技 術 者 た ち に誠 心 誠 意 中国 人 労 働 者 を指 導 させ て い た な らば,

中国 人 労 働 者 の技 術 は もっ と向上 して いた の で は な い か とか,外 国人 技 術 者 と同 じよ うに数 年 前 か ら働 い て い る 中国 人 労働 者 の技 術 が 一 向 に 向上 せ ず, 現 在 も外 国 人 技 術 者 に 依 存 して い る こ とな どで あ る3)。1875年1.月,

金 陵機 器 製 造 局 で製 造 した大 砲 が 軍 事 演 習 中爆 発 し数 名 の 兵 士 が爆 死す る と い う事 故 が起 こっ た 。 事 故 の五 週 間 後,李 鴻 章 はマ ッカ ー トニ.̲.̲を解 任 した が,そ の とき,清 朝 政府 は初 代 駐 英 公 使 に郭 嵩煮 を 派遣 す る こ とと して い た の で,李 鴻 章 は マ ッカ ー トニ ー を郭 崇 蚕 の英 文 担 当秘 書 と して推 薦 した。1

876年,マ ッカ ー トニ ー は郭 嵩 蕪 と とも に 中国 を離 れ た。 そ の 後約30年 間,ロ ン ドンの 中国 大 使 館 に勤 務 し,そ の 間 か な りの強 い 影 響 力 を持 っ 地 位

に在 職 した 。1885年 に は,イ ギ リス 王 室 か ら 「サ ー(sir)」 の称 号 を授 与 され た。

2.中 華 系 ア メ リ カ 人 容 閤(1828年 〜1912年)と(上 海) 江 南 製 造 局(総 局)

容 閨 は 広 東省 香 山(現 在 の 珠 海 市)の 出 身 で あ る。 広 東 省 は 中 国 で最 初 に 西 洋 の影 響 を受 け た とこ ろで あ る。 容 閨 は1841年 マ カ オ の教 会 学 校 に入 り西 洋 式 教 育 を受 けた。1847年,彼 の 先 生 のひ と りで あ る ア メ リカ 人 宣 教 師 サ ミュエ ル ・ブ ラ ウン(中 国名 塞 纒 爾 ・布 朗)が 帰 国 の際,彼 を ア メ リ

カ に 同行 した 。 そ の 後,彼 はエ ー ル 大 学 に 入 学 し,1854年 に卒 業 した。

彼 は ア メ リカ の大 学 の 学 位 を取 得 した 最 初 の 中 国人 留 学 生 とい え る。 彼 はア メ リカ の 国籍 を取 得 した が,彼 の理 想 は 中国 が 近 代 産 業 を導 入 して発 展 す る こ とで あ り,自 分 が 手助 け して 中 国 人 が 西 洋 式 教 育 を受 け られ る よ うな シ ス テ ム づ く りを実 現 した い と考 え て い た。 彼 は 自伝 の 中 で 「次 世 代 の 中 国人 は 私 の 受 け た西 洋 式 教 育 の 良い と こ ろ を享 受 す べ き で あ る。 そ して 西 洋 式教 育 を受 け る こ とに よ って,中 国 は変 貌 して 近 代 文 明 を持 つ 強 大 な国 に な るか も

清末中国における西洋近代産業導入に貢献した外国人73

(6)

しれ な い。 これ らを実 現 す る こ とが私 の 遠 大 な夢 で あ る。」 と述 べ て い る。

1855年,彼 は 中国 に帰 国 した。 そ の 後10年 間,彼 は 中国 のた め に尽 す 機 会 をず っ と探 っ て い た が,自 分 の理 想 を実 現 す る こ との で き る知 り合 い に や っ とめ ぐ り合 うこ とが で き た。1863年,容 閨上 海 で 李 善 蘭,張 斯 貴s 華 丁芳,徐 寿 と友 人 に な り,そ の 後 彼 らの推 薦 で 南 京 にお い て 曾 国 藩 に会 う 機 会 を得 た。 曾 国 藩 は 当 時建 設 計 画 中 の あ る機 器 工 場 に導 入 す る外 国 製 機 器 購 入 交 渉 に派 遣 す る適 当 な人 物 を物 色 中 で あ った。 容 闊 は西 洋 の 言 語 と仕 事 に っ い て熟 知 し,上 海 にお い て既 にい くつ か の仕 事 をや り遂 げ て お り,そ の

うえ祖 国 に奉 仕 した い とい う強 い願 望 を持 つ 人物 の ひ と りで あ った の で,曾 国藩 か ら命 じられ て 西 洋 科 学 書 籍 の翻 訳 や 蒸 気 船 の 実験 に従 事 して い る李 善 蘭 た ちか ら推 薦 を 受 けた の で あ る。 最初 の 会 見 の 二週 間 後 曾 国藩 は容 閨 を再 度 招 い た。 容 閨 は会 見 前 に友 人 た ち か ら曾 国 藩 総 督 大 臣 の 意 向 を あ らか じめ 聞 い て い た。 曾 国 藩 の 質 問 は,「 中 国 で 現 在 最 も重 要 な こ とは何 だ と思 い ま す か?」 で あ っ た。 容 閨 は本 音 で は 西 洋 に 中 国人 留 学 生 を派 遣 して 学 習 させ る計 画 を提 言 した か っ た が,そ れ は言 うこ とは で き な か っ た。 彼 は あ らか じ め考 え て い た よ うに,「 機 器 工 場 を建 設 す る こ とで あ る。」 と冷 静 に答 え た。

さ らに彼 は曾 国 藩 た ち に,中 国 は専 門的機 器 で は な く,何 で もつ く りだ せ る 汎 用機 器 を購 入 す べ き で あ る と提 言 した 。 容 閨 は 後 に 「私 は彼 らにま ず 母 体 の 工 場 を建 設 し,さ らに母 体 工場 を基 幹 と して他 の新 しい 工場 を建 設 す べ き で あ る。 そ して 新 しい 工場 で新 しい機 器 を製 造 し,さ らに新 しい製 品 を作 り 出 して い く。 つ ま り購 入 す る機 器 は 軍 事 用 機 器 の み な らず,何 で も造 りだ せ

る機 器 で な くて は な らない と提 言 した。」 と述 べ て い るの。 二 度 目の接 見 後 の1868年,曾 国 藩 は容 閨 に対 して 国外 にお い て外 国機 器購 入 交 渉 を お こ な う権 限 を与 え た。 曾 国 藩 は機 器 に 関 す る知 識 が 乏 しか っ た の で,容 閉 に対 して い か な る 国 の,い か な る種 類 の機 器 の購 入 もお こな え る権 限 を与 え た の で あ る。 容 閉 は ア メ リカ ・マ サ チ ュ ー セ ッツ州 の ボー一トナ ン機 器 会 社 と機 器 購 入 契 約 を締 結 し,使 命 を果 た して帰 国 した。 容 閉 の購 入 した機 器 は有 名 な

74国 際経営論集No.282004

(7)

江 南 製 造 局(総 局)の 基 幹 設 備 とな った 。 こ う した 功績 に よ り彼 は曾 国藩 の 推 薦 を 受 け て,「 五 品 候 補 同 知 」 の 階級 を授 与 され た 〔図2〕。 そ の後,容 閉 は 上 海 で上 海 道 台 丁 日昌 とた ま た ま 知 り合 う機 会 を得 た。 丁 日昌 は後 に江 蘇 巡撫 に就 任 す る人 物 で あ るが,か れ は曾 国藩 や李 鴻 章 と も良 い 関係 に あ り,

さ らに 「改 革 開放 者 」 と して も知名 度 が 高 か った 。 そ こで容 闇 は留 学 生 派 遣 計 画 を含 め て 四項 目の提 案 を行 っ た。 す な わ ち,留 学 生 を派 遣 す る こ と,汽 船 会 社 を設 立 す る こ と,鉱 山 を 開採 す る こ とそ して外 国 人 宣 教 師 の特 権 を制 限 す る こ とで あ る。 丁 日昌 は容 閉 の 提 案 書 を曾 国藩 に 提 出 し,曾 国藩 は そ れ を 朝 廷 に上 申 した。 朝 廷 は そ の件 に 関 して 直 ち に裁 可 した。 清 朝 政 府 は 小 学 生 の 中 か ら優 秀 な120名 を選 び ア メ リカ に留 学 させ る こ とを決 定 した。 容 開 は 引 率 監 督 者 二 名 の うち の ひ と りに任 命 され た5}。1871年,留 学 の た め の 準備 作 業 が 開 始 され た。1872年,留 学 生 の 第 一 グル ー プ が 容 関 の 第 二 の 故郷,ア メ リカ に 出発 した。1872年 か ら1878年 にか け て,彼

は留 学 生 の 監 督 者 の ほ か,い くつ か の重 要 な任 務 を果 た して い る。 容 閨 の 自 伝 に よれ ば,彼 は ア メ リカ の ガ トリン グ社 と契約 し,当 時 の最 新 鋭 の武 器, 機 関 砲 を 中国 に輸 入 して い る。 容 閨 は 自伝 の 中 で,「 中国 が最 新 の教 育 を受

け た 人材 を擁 す る だ けで な く,最 新 鋭 の武 器 を所 有 す る こ とが で き る よ うに な る こ と を私 は切 実 に願 っ て い る。」 と述 べ て い る。 他 の資 料 に よ る と,容 閉 は李 鴻 章 に対 して 水 雷艇 な どい くつ か の ア メ リカ製 の 軍 事 工 業 製 品 を推 薦 す る ほ か,鉄 甲戦 艦 に 関 す る情 報 を提 供 して い る6)。1878年 か ら18

81年 に か け て容 閨 は 中 国駐 在 副 公 使 とい う重 要 な任 務 を 果 た して い る。1 883年 春,彼 は ア メ リカ に帰 国 し,そ の 後12年 間,彼 は 家 族 と と もに コ ネ テ ィ カ ッ ト州 で 静 か な生 活 を送 った。1894年,日 清 戦 争 の 勃 発 に 際 し て,彼 は洋 務 運 動 の新 しい 指 導 者 で あ る張 之 洞 に対 して 二 項 目の 提 案 を行 っ た。 張 之 洞 は そ の うち のひ とつ を採 用 す る こ と と し,容 閨 に 対 してそ の 実施 を命 じた。 命 令 の 内 容 は 中 国 の 防衛 強化 策 と対 日強 化 策 で あ り,そ の た め に 容 閨 自身 が イ ギ リス に赴 き西 洋 各 国 か ら多 額 の借 款 を お こな うとい うもの で

清末 中国における西洋近代産業導入 に貢献した外国人75

(8)

あ っ た 。 この計 画 に つ い て は,清 朝 政 府 内 の 李 鴻 章 を リー ダ ー とす る一 部 の 官 僚 た ちが 反 対 した た め,部 分 的 に は達 成 す る こ とが で きた が,全 体 と して は不 十 分 な 結 果 に終 わ った。 ロ ン ドンに お け る使 命 を終 え,容 閨 は 張 之 洞 の 招 き で 中 国 に戻 っ た 。 容 閨 は後 に,「 今 回 の 会 見 を通 じて 私 の 立 場 は李 鴻 章 側 か ら張 之 洞 側 に 変 わ っ た。」 と述 べ て い る。 しか しな が ら,容 閨 と張 之 洞 の 会 見 は あま り良 い結 果 を齎 さなか った。 容 閨 は さ らに数 年 間 中 国 に滞 在 し, い くつ か の 改革 案 を提 出 した が,ど れ も あ ま り良 い結 果 を齎 さな か っ た。 彼 は,ア メ リカ に帰 国 し最 後 の10年 間 を過 ご した 後,1912年 に 亡 くな っ た。 著 書 に著 名 な 「西 学東 漸 記 」(1909年)が あ る。

3.フ ラ ン ス 人 プ ロ ス ペ ・M・ ジ ケ ー ル(ProsperMarieGiquell 中 国 名 日 意 格,1835年 〜1886年)と 福 州 船 政 局

ジ ケ ー ル は,1857年 英 仏 連 合 軍 の 一 員 と して 中 国 に 渡 り,第 二 次 阿 片 戦 争 に 参 加 した 。 彼 は フ ラ ン ス海 軍 学 院 を 卒 業 し,当 時 海 軍 の尉 官 で あ っ た 。 英 仏 連 合 軍 は,1858年1月 に 広 州 を 占 領,そ の 後 「英 仏 中 三 方 委 員 会 」

を組 織 し,広 州 の 管 理 を 請 け 負 っ た 。 ジ ケ.̲̲..ルは 委 員 会 の 助 手 と して 派 遣 さ れ,1861年10月,英 仏 連 合 軍 が 撤 退 す る ま で そ の 職 務 を 担 当 した 。 こ の 時 期 に 彼 は 中 国 語 を 学 び,中 国 人 や イ ギ リ ス 人 と 交 わ り多 く の 経 験 を 積 ん だ 。 英 仏 連 合 軍 撤 退 の 際,彼 は そ の ま ま 中 国 に 留 ま る こ と を願 い 出 て 認 め ら れ た 。 彼 の 活 躍 の チ ャ ン ス は 直 ぐ に 与 え られ た 。 ジ ケ ー ル は 中 国 語 と英 語 を 話 す こ と が で き た の で,総 税 務 司H・ ネ ル ソ ン ・レイ(HoratioNelsonLay,

イ ギ リス 人,中 国 名 李 泰 国)の 紹 介 で,清 朝 政 府 の 税 関 に 職 を 得 た 。 と こ ろ で,当 時 の 中 国 税 関 は き わ め て 特 殊 な 状 況 に あ り,清 朝 政 府 の 機 関 で あ りな が ら そ の 業 務 に つ い て は 始 め か ら西 洋 人,特 に イ ギ リス 人 が コ ン トロー ル し て お り,主 要 な 業 務 に つ い て は 西 洋 人 雇 員 が 充 て られ て い た 。 関 税 が 急 速 に 清 朝 政 府 の 財 政 収 入 の 主 要 な 財 源 の ひ とつ に な る に した が っ て,彼 らの 活 動

76国 際経 営論集No.282004

(9)

は清 朝 政府 に とっ て も きわ め て重 要 な もの とな っ て い った。 一 方,イ ギ リス 本 国政 府 も彼 らが 中国語 と税 関事 務 を 熟 知 して い る とい うこ とか ら彼 らを貴 重 な 人 材 と して認 め て い た 。 ジ ケー ル は1861年,H・ ネル ソ ン ・レイ か ら寧 波 税 関 に派 遣 され,そ の 後 上 海,漢 口税 関 長 を歴 任 す る こ と とな るが, 寧 波 税 関 に着任 した矢 先,寧 波 は太 平 天 国 軍 に よっ て 占領 され,彼 はや む な

く税 関 を 閉 鎖せ ざ る を えな か っ た。1862年5月,清 朝 政 府 が寧 波 を奪 回 す る と,彼 は寧 波 に 戻 り税 関 業 務 を 再 開 す る と と もに,漸 江 巡 撫 左 宗 業 の要 請 に よ り寧 波 で 中仏 混 合 雇 用 軍(後 に 「常捷 軍 」 と呼 ば れ る部 隊 で あ る。)

の組 織 づ く りに着 手 した 。彼 の部 隊 は太 平 天 国 軍 を何 度 も打 ち破 った が,そ の 勝利 は,西 洋 の 大砲 や 鉄砲 な どの 先 進 装 備 と太 平 天 国 軍 の貧 弱 な 装 備 の差 に よ る もの で あ った 。 左 宗 巣 は,ジ ケ ー ル の こ う した 戦 功 に よ り 「常 捷 軍 」 の 重 要性 を認 め,1863年9月 か ら常i捷軍 と密 接 な繋 が りを持 ち始 めた が, 1864年10月 に太 平 天 国 運 動 が失 敗 を 見 る に到 っ て 常…捷軍 も解 散 す る こ と とな っ た。 この 時期 ジ ケ ー ル と左 宗 巣 は 良 好 な 関係 に あ っ た が,左 宗 巣 は 常捷 軍 の も うひ と りの 指 揮 官 で あ る,フ ラ ン ス海 軍 軍官 ダ クベ イ ユ(Paul

d'Aiguebelle,中 国名 徳 克 碑,1831年 〜1875年)と も良好 な 関係 に あ り,二 人 は左 宗 彙 が密 接 な 関係 を持 つ 数 少 な い外 国 人 で あ っ た。 左 宗 巣 は 朝 廷 へ の 上 奏 文 中 にJ「 ジ ケ ー ル とダ クベ イ ユ は 全 て の外 国 軍 官 の 中 で 最 も恭 順 で あ る。」 と記 し,ま た あ る書 簡 の 中で も 「常捷 軍 の成 功 は 二名 の リー ダ ー(ジ ケー ル とダ クベ イユ)に 負 うもの で あ り,彼 らは誠 実 で,素 直 で, 人 の意 見 を 聞 く こ とが で き,中 国 官 僚 と全 面 的 に協 力 で き る。」 と称 賛 して い る7)。1866年,左 宗 巣 は彼 らを福 州 へ 派 遣 し,「 福 州 船 政 局(福 州 造 船 所)」 建 設 の 計 画 立案 か ら建 設,実 行 ま で を行 わ せ た。 左 宗 巣 の厚 い 信 任 をバ ック に,ジ ケ ー ル とダ クベ イ ユ は,わ ず か2年 で 中 国最 初 の 近 代機 器 造 船 所 で あ る福 州 船 政 局 と福 州 船 政 局 附 属 水 師 学 堂 をつ く りあ げ た。 と ころで,

当時 の フ ラ ンス 駐 中総 領 事 と公 使 は,フ ラ ンス 政 府 は この福 州 造 船 所 建 設 に 一 切 関 わ るべ きで な い と主 張 して い た。 彼 等 は,福 州 造 船 所 建 設 計 画 は 単 な

清末中国における西洋近代産業導入に貢献した外国人77

(10)

る 「省 」 級(地 方 レベ ル)の 建 設 プ ロジ ェ ク トに過 ぎず,計 画 も しっ か り し て お らず,失 敗 す る可 能 性 が極 めて 高 い と予 測 し,フ ラ ン ス が 関 わ っ て 面 子

を失 うこ とを恐 れ て反 対 した の で あ る。 フ ラン ス外 務省 は この 見解 を支 持 し, フ ラ ンス 海 軍 も計 画 に 厳 しい疑 い の 眼 差 しを注 い で い た。 そ の後 フ ラ ンス 政 府 は調 査 を重 ね,つ い に福州 造 船 所 建 設 計 画 は清 朝 政 府 が 重 視 す る 国家 プ ロ ジ ェ ク トで あ り,一 地 方 官 僚 が 決 定す る単 な る地 方 レベ ル の 建 設 プ ロジ ェ ク トで は な い と確 信 して,ジ ケ ー ル の妨 害 を しな い こ とを決 定 した。 フ ラ ンス 政 府 は,ジ ケ ー ル が 引 き続 き この プ ロジ ェ ク トに 関 わ る こ と に同意 した の で あ る。

左 宗 業 は ジ ケ ー ル を福 州 造 船 所 の正 監 督 に任 命 し,ダ クベ イ ユ は 計 画 段 階 か ら大 き な貢 献 を した に もか か わ らず 副 監 督 に と どま った 。 ダ クベ イ ユ は 常 捷 軍 の 解 散 前 の1864年9月 に は既 に左 宗 巣 の た めに 造 船 所 に 関す る計 画 案 を練 り上 げ て い た が,ジ ケ ー ル は そ の5カ 月 後 にや っ と積 極 的 参 加 を 始 め

た ば か りで あ っ た。 ジケ ー ル が正 監督 に任 命 され た理 由の ひ とつ と して,彼 の 中国 語 の 会 話 能 力 が飛 び ぬ け て 優 れ て い た こ とが あ っ た よ うで あ る8)。一 方 ダ クベ イユ は 中国語 が通 じず,左 宗粟 との間 で十 分 な意 思 疎 通 が 図れ な か っ た よ うで あ る。 ダ クベ イ ユ は ジ ケー ル との意 見 の違 い か ら1870年3月 に 福 州 造 船 所 を離 れ た が,ジ ケ ール は1874年 の雇 用 契 約 満 了 ま で 引 き続 い て 正 監 督 を務 め た。 彼 は7年 間 の在 任 期 間 中 に,近 代 的 造 船 所 を建 設 し,

15隻 の蒸 気 船 を建 造 した 〔図3〕。 さ らに重 要 な こ と と して挙 げ られ る の は,彼 が 附 属 造 船 学 堂 にお い て設 計者 や 操 縦 士,船 長 な どの人 材 を養 成 した こ とで あ る。 彼 らは そ の後 中 国近 代 海 軍 で 専 門的 な分 野 に従 事 した 。 清 朝 政 府 の 造 船 担 当 の あ る官 僚 は 朝 廷 へ の 上奏 文 中 に 「ジ ケ ール は雇 用 契 約 の各 項 目を十 分 に履 行 して お り,そ の 業 績 は 称 賛 す べ き もの が あ る。」 と記 して い る。 ジ ケ ー ル は朝 廷 か ら多 くの 報 酬 を受 けた が,そ の ほ か に高 い 身 分 の者 に 与 え られ る帽 子 と勲 章 を賜 る と と もに,清 朝 政 府 か ら黄 馬 掛(最 高級 の 軍 事 奨 励 で あ る特 別 の 黄 色 衣 服)を 授 け られ て い る。 ジケ ー ル は福 州 造船 局 を退

78国 際経営論集No.282004

(11)

い た 後 も,依 然 と して 洋 務 派 の 官 僚 を 続 け,1877年 に は,李 鳳 苞 と と も に 中 国 国 費 留 学 生(福 州 船 政 学 堂 の 学 生 達)を 率 い て ヨー ロ ッパ へ 赴 く ほ か, 李 鴻 章 か ら命 じ られ た 西 洋 製 武 器,機 器 購 入 の 代 表 の ひ と りで も あ っ た 。

1880年,ジ ケ ー ル とマ ッ カ ー一トニ ー は 清 国 駐 在 英 仏 公 使 を 陪 っ て 清 朝 政 府 と ロ シ ア 政 府 の 友 好 関係 の 仲 立 ち の 役 割 を 果 し た 。1883年 〜188

5年 の 中 仏 戦 争 中 に は,ジ ケ ー ル は 両 国 の 正 式 顧 問 に 準 ず る 役 職 に 就 任 して い る。 彼 は,1886年6月,中 国 人 留 学 生 の 監 督 在 職 中 に 亡 く な っ て い る。

著 書 に 《福 州 船 政 局 と そ の 成 果 》(L,arsenaldeFouTcheou,sesresu

ltats)(1874年)が あ り,同 年,H.ラ ン グ(HLang)に よ っ て 英 語 に 翻 訳 され た 。 訳 名 は 《福 州 船 政 局 とそ の 成 果 一1867年 の 開 始 か ら外 国 支 配 の 終 焉 ま で 一1874年2月16日 》 で あ る。

4.ド イ ツ 人 グ ス タ フ ・フ ォ ン ・デ ー ト リ ン グ(GustavvonDet ring,中 国 名 徳 珪 琳)と 西 洋 近 代 産 業 導 入

デ ー ト リ ン グ の 青 年 時 代 に 関 す る 資 料 は き わ め て 少 な く,判 明 して い る の は,1842年 に ドイ ツ の イ リ シ で 生 ま れ,ヤ チ ン の 中 学 を 卒 業 した 後,ベ ル ギ0の ブ リ ュ ッセ ル 市 の あ る シ ル ク 会 社 で 働 い て い た と い う こ とだ け で あ

る 。 そ の 会 社 で 彼 は 清 国 税 関 の イ ギ リス 人 か ら入 関 の 誘 い を 受 け た 。186 5年4月,彼 は 税 関 の 仕 事 に 就 き,1872年 に 税 務 司 に な り,1875年

に は,煙 台 税 関 に 派 遣 され た 。1876年,李 鴻 章 は 清 国 駐 在 の イ ギ リス 公 使 トー マ ス ・ウ ェ イ ド(ThomasWade,中 国 名 妥 璃 威)と マ カ リ事 件 の 善 後 策 を 談 判 す る た め 煙 台 に赴 い た 。 清 国 税 関 の 総 税 務 司 ロ バ ー ト ・ハ ー ト(si rRobertHart,イ ギ リス 人,中 国 名 赫 徳,1835年 〜1911年)も 両 者 の 仲 裁 人 な らび に 李 鴻 章 の 顧 問 と し て 煙 台 に 赴 い た9)。 彼 は デ ー ト リ ン グ の 外 に 経 験 豊 富 な 外 国 人 税 関 職 員 二 名 を 助 手 と して 帯 同 し て い た が,四 人 の 中 で デ ー ト リ ン グ だ け が 談 判 の 全 過 程 で 重 要 な 役 割 を 果 た した 。 こ の 煙 台 に お け る デ ー ト リン グ の 働 き ぶ り は 李 鴻 章 に 強 い 印 象 を 残 し,翌 年 彼 は 李 鴻 章 直 隷 総 督 及 び 北 洋 大 臣 の 役 所 の 所 在 地 で あ る 天 津 に 派 遣 され た 。 こ こ か ら

清 末 中国における西洋 近代 産業導 入 に貢献 した外 国人79

(12)

李 鴻 章 と デ ー ト リン グ の 二 十 年 に 及 ぶ 親 密 な 関 係 が 始 ま る こ と と な る。 デ ー ト リ ン グ は1877年 か ら1908年 ま で,直 天 津 税 関 の 税 務 司 を 務 め た [図4]。 デ ー ト リ ン グ は,マ ッ カ ー トニ ー の 金 陵 製 造 局,容 閨 の ア メ リカ 留 学 生,ジ ケ ー ル の 福 州 造 船 所 の よ うに 外 国 で 具 体 的 な 指 導 を 行 う こ と は 一 度 も な くrず っ と李 鴻 章 の 側 近 と して 「参 謀 と連 絡 官 」 の 役 割 を 果 た した 。 彼 は ほ とん ど毎 日李 鴻 章 の 傍 ら に お り,発 生 す る 各 種 の 事 件 に つ い て 李 鴻 章 に 対 して 随 時 意 見 を 述 べ た 。 フ サ イ ム は,李 鴻 章 の 外 国 籍 雇 員 を 描 写 す る 中 で,「 デ ー ト リ ン グ と ウ ィ リア ム ・M・ ペ チ ッ ク(WilliamNPethic,ア メ リ カ 人,中 国 名 畢 徳 格)は 李 鴻 章 の 外 国 人 雇 員 の ト ップ を 占 め て い た10)。 李 鴻 章 指 導 部 の 外 国 籍 雇 員 は 通 常 各 種 の情 報 に つ い て は,デ ー トリン グ か ペ チ ッ ク の い ず れ か を 通 じて 伝 達 す る よ う に な っ て い た 。 こ う した 慣 行 は,李 鴻 章 が ト ップ ダ ウ ン で 決 め た こ とで も な く,ま た 彼 ら が 命 令 され て 行 う こ と で も な く,デ ー トリ ン グ とペ チ ッ ク が ほ と ん ど毎 日李 鴻 章 と接 触 し,か つ 中 国 語 を 話 す こ とが で き た こ と か ら 自然 に 生 じ て き た も の で あ る。 デ,̲.̲トリ ン グ は 商 業 ・工 業 ・企 業 に 関 す る外 国 人 の 管 理 責 任 者 で,ま た 李 鴻 章 の 外 務 事 務 の 連 絡 人 で も あ り,李 鴻 章 が 雇 い 入 れ た ヨー ロ ッ パ 人 を 掌 握 し て い た 。 ペ チ ッ

ク は,海 軍 の 外 国 籍 雇 員 や そ の 他 の 一 般 的 な 外 国 人 の 管 理 責 任 者 で あ り,李 鴻 章 が 雇 い 入 れ た ア メ リカ 人 や と き に は イ ギ リ ス 人 を 掌 握 し て い た 。」 と 述 べ て い る 。 当 時 の 多 く の 資 料 に よ る と,デ ー トリ ン グ が 李 鴻 章 に 対 して 強 い 影 響 力 を 持 っ て お り,か つ ま た 李 鴻 章 か ら も 絶 大 な 信 頼 を 寄 せ られ て い た こ と が 判 る。 ハ ー トの 死 去 に よ り1911年,職 務 を 引 き 継 い だ フ ラ ン シ ス ・ ア レ ン(FrancisAhlen,中 国 名 安 格 聯)は,「 … 李 鴻 章 の 地 位 と い うの は こ の よ うに 人 々 が 恐 れ を 抱 く も の で,結 局 デ ー ト リ ン グ だ け が 李 鴻 章 に 対 し て 李 鴻 章 に 聞 か せ に く い 彼 へ の 批 判 や 本 心 な ど を 話 す こ と が で き る 唯 一 の ひ と と な っ た 。」 と述 べ て い る。 デ ー ト リ ン グ 自 身 は 李 鴻 章 に つ い て,彼 を 「一 隻 の 舵 の な い 船 」 に 擬 え て 「李 鴻 章 が 天 津 に 赴 い た と き,私 の 役 割 は 彼 の 舵 に な る こ とで あ る と認 識 し て い た 。」 と述 べ て い る 。 デ ー ト リ ン グ が 李 鴻 章

80国 際経営論 集No,282004

(13)

の 顧 問 と して 何 故 こ の よ うな 成 功 を 収 め る こ と が で き た の か に つ い て 推 測 す る の は 難 し く な い 。 現 存 す る 資 料 に は 全 て,「 彼 は 李 鴻 章 に 対 して 極 め て 忠 実 で あ っ た 」 と記 述 され て い る 。 彼 は 性 格 ・習 慣 ・思 考 方 法 な ど に お い て 典 型 的 な ドイ ツ 人 で あ っ た が,彼 は 全 て の 事 柄 ・場 面 に お い て 清 国 側 に 立 っ た 。 彼 が 李 鴻 章 の 「お 気 に 入 り」 で あ っ た こ と に 疑 い は な く,デ ー ト リ ン グ は 李 鴻 章 に と っ て 極 め て 役 に 立 っ 人 材 で あ っ た 。 一 方,デ ー ト リン グ の こ う した 世 界 主 義 精 神 は 彼 の 同 胞 の 攻 撃 を免 れ が た く,1875年 か ら1893年 ま で ドイ ツ駐 清 公 使 を 勤 め た プ ラ ン ト(MaxvonBrandt,中 国 名 巴 蘭 徳)は, デ ー ト リ ン グ に 対 し て 「祖 国 の な い 冒 険 家 」 あ る い は 「多 年 に わ た り必 死 に な っ て 自 分 を 完 全 な 中 国 人 に 見 せ か け よ う と し て い る 」 と 述 べ て お り,そ の 他 多 くの 人 も 彼 を 批 判 して い る 。 しか しな が ら公 平 な 立 場 か ら見 て み る と,

ドイ ツ が デ ー ト リン グ の 清 国 に お け る 特 殊 な 地 位 を 利 用 して 莫 大 な 利 益 を 得 る こ とが で き た こ とは 疑 い よ うが な い 事 実 で あ る。 デ ー ト リン グ は 自分 自身 を ドイ ツ の 利 益 の 代 表 と は み な さ な か っ た が,一 方 彼 は祖 国 と の 関 係 を 軽 視 す る よ うな 愚 は 絶 対 に 犯 さ な か っ た 。 中 国 へ の ドイ ツ の 武 器 ・戦 艦 の 購 入, 借 款 や 専 門 家 の 雇 用 な ど の 場 面 で は 少 な く と も デ ー ト リン グ は 人 の 目 を ひ き つ け る役 割 を演 じ,そ の 結 果80年 代,英 仏 の 武 器 輸 出 商 は ドイ ツ の 会 社 が 特 恵 待 遇 を 得 た こ と に 不 平 を こ ぼ す 度 に 常 に デ ー ト リン グ の 名 を 出 し た 。 ま た デ ー ト リン グ はr李 鴻 章 の 顧 問 と して ドイ ツ 人 の コ ン ス タ ン チ ン ・フ ォ ン ・ ハ ネ ッ ケ ン(ConstantinvonHanneken,中 国 名 漢 納 根,1855年 〜19

25年)と い う人 物 を 推 薦 し て い る 。 ハ ネ ッ ケ ン は,1877年,「 名 誉 の た め の 決 闘 」 を 行 い,そ の た め に プ ロ シ ャ 軍 を 辞 め させ られ て し ま い,彼 の 父 は 中 国 で 職 を 探 し て も ら う よ うに 友 人 で あ る デ ー ト リ ン グ に 依 頼 して い た 。

デ ー ト リン グ は,ハ ネ ッケ ン に ドイ ツ で 二 年 間 工 業 技 術 を 学 ば せ て か ら 中 国 へ 呼 び 寄 せ た 。 興 味 深 い の は,デ ー トリ ン グ が ハ ネ ッ ケ ン を 推 薦 した 理 由 が 彼 本 人 の こ とで は な く,彼 の 父 親 に 関 す る こ とで あ っ た と い う こ と で あ る。

彼 の 父 親 は プ ロ シ ャ 陸 軍 の 中 将 で,人 々 に認 め られ た 軍 事 専 門 家 で あ り,そ 清末 中国 にお ける西洋 近代産 業導入 に貢献 した外 国人81

(14)

の 上 デ ー トリン グの 友 人 で もあ っ た。 この こ とは,雇 用 主 で あ る 中 国 か ら見 て極 め て重 要 な ポ イ ン トで あ っ た か らで あ る。 そ の後 ハ ネ ッケ ンが 李 鴻 章 磨 下 で 力 を発 揮 して い る とき,老 ハ ネ ッケ ンは何 度 も息 子 に替 わ って 意 見 を 出 し,デ ー トリン グ の意 見 が道 理 の通 っ た もの で あ る とい うこ とを証 明 しよ う と努 め て い る。 ハ ネ ッケ ンは 李 鴻 章 か ら旅 順 と威 海 の 両軍 港 の 防御 工 事 を監 督 す る よ う命 令 を受 け,そ れ を成 し遂 げ る こ とに よっ て 名 を揚 げ た。189

4年 彼 は 北洋 艦 隊 の二 名 の提 督 の うちの ひ と りに任 命 され 日清 戦 争(黄 海 海 戦)に 臨 ん だ11)。 デ,̲̲.トリン グ は外 国籍 で 唯 一 の清 国 総 税 務 司 ハ ー トと影 響 力 や 能 力 にお い て 比 肩 で き る人 物 で あ った 。 デ ー トリン グ は李 鴻 章 の支 持 を得,ハ ー トは時 に は総 理 衙 門 の支 持 を受 けな が ら絶 えず 清 国 外 交 事 務 の 支 配 権 をめ ぐっ て争 っ て い た。 両 者 の競 争 とね た み は激 しか った が,多 年 に わ た っ て ふ た りは一 種 の 「友好 」 関係 を維 持 し,と き に は密 接 な 仲 で さえ あ っ た 。 両者 は それ ぞ れ 相 手 よ りも優 位 な部 分 を 有 して い た が,時 に は あ る計 画 の成 功 の た め に協 力 し合 うこ と も あ っ た。 デ ー トリン グ とハ ー トは お 互 い の 十 分 な先 見性 と度 量 の豊 か さを認 め合 って い た の で,彼 らは い くつ か の プ ロ ジ ェ ク トを協 力 して 推 進 して い くこ とが で き た の で あ る。 ひ とつ の 良 い 例 と して 清 国郵 政 省 の建 設 が あ る。 ハ ー トはそ の提 唱者 で あ った が,李 鴻 章 の 十 分 な 指 示 を確 保 す るた め彼 は 自分 か ら進 ん で,デ ー トリン グ を責任 者 とす る よ うに願 い 出た 。 両者 は 一 緒 に この 計画 を推 進 しデ ー トリン グ は李 鴻 章 の影 響 力 を利 用 し,ハ ー トは総 理衙 門 の影 響 力 を利 用 した 。 デ ー トリン グ は全 精 力 を 注入 し,ま たそ の持 て る能 力 を活 用 して 全 国 的 な 近 代 の郵 政 事 業 以 外 に も鉄 鋼,電 報 軍 事 技 術 の 導 入 と発 展 に貢 献 した。 日清 戦 争 の敗 戦 に とも な い 李 鴻 章 に替 っ て哀 世凱 が 登 場 して く る。 そ の 結 果,デ ー トリン グの 事 業 展 開 に も困難 な 状 況 が 生 じて き た。 日清 戦 争 後 デ ー トリン グ は 張 翼 と緊 密 な 関 係 を結 びJ開 平炭 砿(河 北 省)の 運 営 に深 く関 わ る こ と とな る。1895年

張 翼 は デ ー トリン グ を炭 砿 の責 任 者 のひ と りに任 命 し,1900年 に は最 高 責任 者 で あ る社 長 に 昇 格 させ た12)。1908年 以 降彼 は 中 国最 大 の炭 砿 で

82国 際経営論集No.282004

(15)

あ る開 平 炭 砿 の発 展 の た め に全 力 を傾 注 した 。

5.清 末 中 国 へ の 西 洋 近 代 産 業 導 入 過 程 に お け る マ ッ カ ー トー ニ ー な ど 四 者 の 類 似 性

上述 の 四名 は概 ね19世 紀 末 中 国 の 西洋 技術 導 入 の担 い 手 で あ っ た とい うこ とが で き よ う。 彼 らの経 歴 は い くつ か の 点 で 明 らか に似 か よ っ た もの が あ り,こ れ らの 類 似 部 分 が なぜ 彼 らが成 功 し担 い手 と して の 地位 を獲 得 した か を物 語 って い る。 意 識 的 にせ よ無 意 識 に せ よ,彼 らは 皆,権 勢 の あ る地 方 官 僚や 北 京 中央 政 府 の 官 僚 との連 携 に成 功 して い る。 この 点 に お い て彼 らは 前 世 代 の シ ヤル ・フ オ ン ・ベ ル(JohannAdamSchallvonBe11,ド イ ツ人,

中国名 湯 若 望,1591年 〜1666年)や フ ァア ビー ス ト(FerdinandVe rbiest,ド イ ツ 人,中 国名 南 懐 仁,1623年 〜1688年)な ど とは 明 ら か に違 っ て い る。 彼 らイエ ズ ス 会 宣 教 師 た ち は 皆,皇 帝 の保 護 を受 け る こ と

な どに名 望 や影 響 力 の源 泉 を求 め た が,マ ッカ ー トニー や 容 閨,ジ ケ ー一ル, デ ー トリン グの 時 代 に は そ う した古 いや り方 で は も うす で に 通 用 しな くな っ

て い た。 中国 の 洋 務 運 動 に 参 与 して 中央 や 地 方 の官 僚 に な る こ とを希 望 す る 外 国 人 は 多 か っ た が そ の職 を得 る こ とは 困 難 で あ っ た。 こ う した挑 戦 性 に 富

ん だ激 烈 な競 争 環 境 を鑑 み る と,本 稿 の 四名 を代 表 とす る競 争 者 た ちは,一 体 どの よ うに して抜 きん 出 て勝 利 者 とな る こ とが で きた の で あ ろ うか。 明 ら

か に判 る こ とは彼 らの 言 語 能 力 と外 交 才 能,そ して 高度 な 技 術 知 識 と管理 能 力 で あ る。 言 うま で も な く中 国語 が 話せ る とい うこ とは マ ッカー トニ ー や ジ ケ ー ル,デ ー トリン グ の職 位 昇 進 に 大 き く作 用 した。 そ して 英 文 知識 は 容 閉 の助 け に な っ た。 本 稿 の 四名 の 生涯 に はひ とつ の 共 通す る特 徴 が あ る。 す な わ ち彼 らが洋 務 派 の リー ダ ー の 下 で 働 く場 合,あ る限 定 的 な職 責 を請 け負 っ た だ けで な く多 方 面 で カ を発 揮 しな けれ ば な らな か っ た とい う こ とで あ る。

ジ ケー ル とデ ー トリン グを例 に とる と,彼 らは ま ず左 宗 巣 の 下 で蒸 気 船 と造 船 関係 の 教 師 と顧 問 を務 め,そ の後 福 州 造 船 所 の 設 計 者,そ して 造船 所 の 部

清末中国における西洋近代産業導入に貢献した外国人83

(16)

品 調 達 員 と技 師 招 聰 者 を兼 任,造 船 の 運 営 が始 ま っ て か らは更 に 日常 管理 を 請 け負 い,同 時 に 中国 官僚 と外 国籍 雇 員 との 連 絡員 と して の役 割 も果 た した。

マ ッカ ー トニー や 容 閉 ,デ ー トリン グは 皆,類 似 の 経 歴 を持 って お り中 国 の 雇 用 主 た ち は彼 等 の提 供 す る系 統 だ っ た 業務 執 行 を頼 りに して い た 。 早 期 の 洋 務 雇 員 は 担 い 手,責 任 者 な どに就 任 す る前 に は多 かれ 少 な か れ 教 育 者 の役 目を演 じな けれ ば な らな か っ た。 イ ギ リス 人 が経 営 す る 商社 の 代 理 は上 司 に 宛 て て 「1886年 ま で,李 鴻 章 は ほ ぼ完 全 に デ ー トリン グ あ るい は 外 国商 務 代 理 に頼 っ て お り,彼 らが李 鴻 章 に対 して武 器 に 関 す る複 雑 な 内 容 を説 明 して い た。」 と報 告 して い る。 本 稿 の 四人 に は 専 門 分 野 の 訓 練 とそ れ に 関 連 した経 験 が 不 足 して い た。 ジ ケー ル とデ ー トリング は福 州 造 船 所 の建 設 に取 り掛 か る以 前 には船 を造 る とい う経 験 は まっ た くなか っ た し,マ ッカー トニ ー は軍 需 工 場 に 関 わ る以 前 は,軍 医 で あ り,容 閨 は,職 業 技 師 で は な く機 械 に 関 して 明 る くな か っ た が,彼 は この 分 野 で戦 略 や 方 策 の決 定 に 携 わ る こ とを 求 め られ た。 デ ー トリン グは 専 門の 分 野 とい う もの を持 た な か った が,全 分 野 に 関 わ ら ざ る を得 な か っ た。 最 後 に,ハ ネ ッケ ンは 陸 軍 出身 で あ った が, 海 軍 に派 遣 され 艦 隊 を率 い た。 しか しな が ら,こ うした 専 門 的知 識 あ る い は 経 験 の 不 足 は重 要 な職 務 の 執 行 に 際 して い か な る障碍 も生 じる こ とは な か っ だ3)。 結 局 これ は 「信 頼 」 とい うこ とに帰着 す る の で あ る。 清 朝 朝 廷 と官 僚 た ちが 人 選 に 当 た り最 も重 要 視 した の は 「信 頼 で き るか 否 か 」 で あ り,専 門 的 知識,技 能,経 験 な どは 二 の次 で あ っ た とい うこ とで あ る。 重 要 な 地位 を 「夷 人 専 門 家 」 あ るい は 「中 国 的夷 人 専 門 家 」 に 与 え た。 これ はす な わ ち 前 代 未 聞 の新 しい試 み だ っ た 。 しか し,人 選 の 基 準 で もっ とも重 要 な基 準 に な っ た の はや は り清 朝 とそ の 関係 者 との繋 が りの 有 無 で あ った。 なぜ な ら, 清 朝 政 府 は確 か で な い外 国代 理 人 を通 じて武 器 と戦 艦 をR入 し莫 大 な金 銭 損 出 を被 っ て い た。 事 実 政 府 の 多 くの 外 国籍 雇 員 は,本 国 の最 新 鋭 で な い武 器 や 軍艦 を高 い値 段 で 売 りっ け た り,自 分 自身 に つ い て も 同僚 の 中国 人 よ りは るか に高 額 な給 与 を受 け てお り,特 に雇 用 時 に は 「準備 」 と称 して数 カ 月 間

84国 際経営論集No.282004

(17)

の有 給 の休 暇 を とる とい うの が 常 態 で あ っ た。 それ で は なぜ 経 験 の 乏 しい ジ ケ ー ル や ダ クベ イ ユ,マ ッカー トニ ー,容 閨,デ ー トリン グ,ハ ネ ッケ ン が 選 ば れ た の で あ ろ うか 。 洋 務 運 動 の領 袖 た ち は彼 らの そ れ ま で の経 歴 に厚 い 信 頼 を置 い た の で あ る。 当時 信 頼 は 専 門 知 識 よ りもず っ と重 要 で あ る と受 け 止 め られ て い た。 と ころ で こ こで 指 摘 しな けれ ば な らない こ とは,ジ ケ ー ル や マ ッカー トニ ー,容 閨 はみ な1870年 代,洋 務 運動 の 早 期 に雇 用 され た 人 た ち で あ り,そ の 後 洋 務 運 動 の 絶 え間 な い拡 大発 展 に伴 っ て 中国 と西 洋 各 国 との接 触 が 日増 しに深 ま っ て い き,さ らに は 清 朝 官 僚 の洋 務 運 動 の 経 験 が 積 み 重 な るに つ れ て,彼 等 は ます ま す 専 門家 を求 め る こ とに 力 を入 れ 始 め る

よ うに な っ た。 例 え ば,ハ ネ ッケ ン は雇 用 の 際,武 器 交 易 不 参 与 の保 証 や, さ らに 中国 語 の学 習 を しな けれ ば給 与 は増 額 しな い な ど を条 件 とす る契 約 書 を提 示 され サ イ ン を求 め られ て い る。 この こ とは,中 国 の 官 僚 た ち が少 な く と もす で に 「夷 人 専 門 家 」 の雇 用 に 対 して 管 理 を 始 め た こ との 表 れ で あ る。

注 目す べ き は,デ ー トリン グ の指 導 に よ り,ハ ネ ッケ ン は清 国入 国 前 に 二 年 間 工 業 技 術 を学 び,高 水 準 の知 識 を取 得 して い る こ とで あ る。 デ ー トリン グ は,ジ ケー ル や マ ッカ ー トニ ー,容 閨 た ち か ら十 年 遅 れ て雇 用 され 専 門知 識 を備 え な い ま ま,李 鴻 章 の 「武 器 技 術 に 関す る複 雑 な 内容 の解 釈 の助 言 者 」 とな っ た が,彼 は 税 関 で の 多年 の 経 験 を十 分 に 活 か す こ とが で き,李 鴻 章 の 西 洋 諸 国 と商 工 業,国 際業 務 の 処 理 を助 け るだ けの 能 力 を持 って いた 。 これ は彼 が李 鴻 章 の 顧 問 と して 力 を発 揮 した 主 要 な 領 域 で あ る。 清 国 政 府 は外 国 籍 雇 員 を使 うこ とで彼 らの本 国 とス ム ー ズ に交 渉 が進 む 点 を利 用 した が,そ の こ とに よ って 彼 らの命 運 は 政 府 の外 国製 品 に対 す る重 点 の 置 き方 の変 化 に 伴 っ て 起伏 を繰 り返 した 。 例 え ば,1880年 代 初 頭,李 鴻 章 は ドイ ツ の艦 船 と武 器 に興 味 を持 ち始 め る。 そ こで彼 は フ ラ ン ス 人 の ジケ ー ル が購 買代 理 に 関 わ らな い よ うに した 。 李 鴻 章 が デ ー トリン グ とハ ネ ッケ ン を起 用 した の は この 興 味 の変 化 と大 き く関 係 した も ので あ っ た。19世 紀 の 中 国 に お い て

「洋 務 」 とい う言 葉 は 西 洋 技 術 の 導 入 と外 交 の 処 理 とい う二 種 類 の 活 動 を 指 清末中国における西洋近代産業導入 に貢献した外国人85

(18)

して い る。 清 朝 政 府 は こ の 両者 を厳 密 に 区別 して はい な か っ た。 本 稿 中 で検 討 した 四名 が正 に 良 い 例 で あ り,清 朝 政 府 は彼 らに頼 り西 洋 技術 を導 入 し, ま た彼 らを厚 く信 頼 し外 交 を行 っ た。 清 朝 政府 の 政 治 上 の 考慮 は外 国 人 雇 員 の命 運 に重 大 な影 響 を与 え たが,他 方,彼 らの命 運 は彼 らの本 国 の政 策 の影 響 もあ る程 度 受 け る こ と とな る。 清 朝 政 府 は 外 国籍 雇 員 を本 国 か らの 技 術 導 入 とそれ らの 国 との外 交事 務 処 理 に利 用 し,西 洋 列 強 も清 朝 政府 に雇 用 され た 本 国 の 国 民 を 自 らの利 益 を推 進 す る道 具 と した。19世 紀,清 国 に お い て 活 動 した西 洋 技 術 の担 い手 の 多 くは所 属 会 社 の製 品 を売 り捌 くた だ の 商務 代 理 人 の身 分 で しか なか っ た。 しか しな が ら本 稿 中 の 四名 は これ とは別 の類 型 に 属 し,彼 らは清 朝 政府 に洋 務 専 門 家 と して雇 用 され た の で 上 述 した よ うに 彼 らは しば しば 同 時 にい くつ もの役 割 を演 じな けれ ば な らな か った 。 そ して この 四名 が 成 功 で き るか ど うか は,彼 らに 能 力 が あ る か ど うか と同時 に 三つ の異 な る利 益,す な わ ち清 国 の利 益 と彼 らの本 国 の 利 益(容 閉 の よ うな 中 国 人 の場 合 に は 彼 ら と関係 の あ る外 国 の利 益),そ して 彼 ら 自身 の利 益 に対 し て 適 切 に対 処 で き る か ど うか に か か って い た14)。 彼 らに とっ て の理 想 的 状 況 は,中 国人 が彼 らの仕 事 に対 して 十 分 に満 足 して彼 らを完 全 に信 頼 してお り,西 洋 諸 国 も同様 に満 足 して全 力 で彼 らを支 持 して くれ て い る状 態 で あ る。

そ して,双 方 が彼 らを認 め て くれ れ ば彼 ら 自身 の利 益 も 自ず か ら満 足 な 結 果 にな る の で あ る。 こ の 四名 は三 つ の利 益 を平 衡 させ る とい うこ とで あ る程 度 の成 功 を収 め た とい え よ う。 彼 らは清 国 と西 洋 諸 国双方 か ら十 分 に認 め られ, 近 代 産 業 技 術 の伝 達 者 と して評 価 され て,「 成 功 者 」 と して の 後 半 生 を送 る

こ とが で き た とい え よ う。

結 び

十 九 世紀 末 期 の 中 国 とい う歴 史 的環 境 の 中で,西 洋 諸 国 が 中 国で 帝 国 主 義 政 策 を絶 えず 推 し進 め よ う と して い る とき,ま た 中国 が急 速 に 近 代化 を推 し 進 め て い る とき,そ して西 洋 技 術 の 人材 の必 要 が 差 し迫 っ て い た とき に,上

86国 際経営論集No.282004

(19)

述 の 英 仏 独 米 か ら の 技 術 導 入 に 関 す る 四 名 の 人 材 は 中 国 の 近 代 産 業 技 術 の 始 動 と発 展 の た め に歴 史 的 積 極 的 作 用 を 果 た す こ とが で き た と い え よ う。 彼 ら に は そ れ ぞ れ 欠 点 や 問 題 点 が あ っ た か も しれ な い が,中 国 に 対 し こ れ ほ ど の 努 力 を した と い う こ と は や は り尋 常 な こ と で は な い とい わ な け れ ば な らな い 。 そ して 中 国 近 代 産 業 技 術 の 導 入 と発 展 に 大 き な 業 績 を 残 し た こ と は 事 実 で あ

り,私 た ち は 彼 らの 中 国 近 代 化 の 発 展 に 対 す る歴 史 的 貢 献 を 忘 れ て は な ら な い と思 う。

1)藍 宜 宜 稿 「19世 紀 末 期 の 中 国 に 西 洋 技 術 を も た ら し た 人 々 」 『中 国 科 技 史 料 』1997年3号 。

2)DemetrusCBoulgek・TheLifeofsirHallidayMacartney,K.C.M.G.

London:JohnLane1948.1310 3)同 上 第222頁 。

4}WingYung・MyLifeinChinaandAmerica,NewYork:HenryHolean dLompany1909.131.1510

5)丁 日 昌 に 関 す る 事 跡 は 『丁 日 昌 與 自 強 運 動 』 呂 実 強 著,台 湾 中 央 研 究 院(1972年 出 版)参 照 。

6)呉 汝 倫 『李 文 忠 公(鴻 章)全 集 ・訳 署 函 稿 』 台 北 ・文 海 出 版 社,19 80年 第 二 巻51頁 。 呉 汝 倫 『李 文 忠 公(鴻 章)朋 函 稿 』 台 北 ・文 海 出 版 社,1967年 第 十 九 巻1262‑1263頁 。

7)揚 書 森 『左 文 褻 公(宗 業)全 集 ・奏 稿 』 台 北 ・文 海 出 版 社,1979 年 第 十 五 巻25頁,第 七 巻14頁 。

8)郭 鼎 儀i等 『海 防 梢 ・福 州 船 廠 』 台 北 ・台 湾 中 央 研 究 院 近 代 史 研 究 所, 1958年 第 一 巻394頁,楊 書 森 『左 文 裏 公(宗 業)全 集 ・奏 稿 』 台 北 ・ 文 海 出 版 社,1979年 第 二 十 巻64‑68頁 。

9)ロ バ ー ト ・ハ ー トは,1853年 に イ ギ リ ス の ベ ル フ ァ ス ト女 王 大 学 を 卒 業 し て 外 務 省 に入 り,翌 年 中 国 香 港 駐 中 商 務 監 督 署 の 見 習 生 と して

清 末 中国 における西洋 近代産 業導入 に貢 献した外 国人87

(20)

赴 任 し,ま も な く駐 寧 波 領 事 館 副 通 訳 に な っ た 。1859年5月,中 国 広 州 税 関 副 税 務 司 とな り,1863年9月,上 海 税 務 務 司 に任 命 され た 。 彼 は,同 年11月 に は 清 国 政 府 の 総 税 務 司(税 関 長 官)に 任 命 され た 。 彼 は 就 任 す る と直 ち に 税 関 業 務 の 発 展 の た め に機 械 や 組 織 の 大 改 革 に 取 り組 み 中 国 税 関 管 理 制 度 を確 立 した 。 彼 は,中 国 の 産 業 近 代 化 政 策 と実 施 案 に つ い て 清 国 政 府 に 提 言 を して い る。 彼 は,四 十 数 年 に わ た っ て 総 税 務 司 を 務 め た 。

10)ウ ィ リ ア ム ・N・ ペ チ ッ ク は,か つ て 米 国 駐 天 津 副 領 事 を 務 め,李 鴻 章 の 秘 書 も務 め た 。

11)ハ ネ ッケ ン は,か つ て ドイ ツ 軍 人 で あ っ た が,1879年 退 役 後 二 年 年 間 大 学 で 工 業 技 術 を 学 び,デ ー トリ ン グ の 紹 介 に よ り,中 国 に赴 い た 。 天 津 で 教 官 と な り,李 鴻 章 の 副 官 も兼 任 した 。 彼 は,旅 順 港 軍 事 防 衛 強 化 を 命 ぜ られ,砲 台 設 計 か ら建 設 ま で を 行 っ た 。 そ の 後,彼 は デ ー ト リ

ン グ の 娘 婿 とな っ て い る 。 彼 は,1917年 ま で 井 脛 炭 砿 会 社 の 経 営 に 携 わ り,1918年 中独 外 交 断 絶 に よ り一一時 ドイ ツ に 帰 国 させ られ た が,

1921年 再 度 中 国 に 戻 り,1925年 天 津 で 亡 く な っ た 。

12)張 翼 は,1892年 開 平 炭 砿 社 長 に な っ た 。1898年 直 隷 及 び 熱 河 両 省 所 属 炭 砿 の 総 責 任 者 に任 命 され た 。 開 平 炭 砿 の 歴 史 に 関 し て は,El lsworthcCarison,TheKaipingMines(1S77‐1912)Cambrid

ge,Mass,HarvardUniversity,1957参 照 。

13)こ の 種 の 例 は 多 く挙 げ られ る が,こ こ で は イ ギ リ ス 人 の メ ド ゥ ズ(TA TMeadows,中 国 名 密 妥 士)の 例 を 紹 介 す る 。 天 津 製 造 局 は メ ド ゥズ の 協 力 に よ っ て 建 設 され た 。 彼 は 軍 事 方 面 の 専 門 家 で は な い 。 彼 は イ ギ リ ス 人 で あ る が,天 津 製 造 局 建 設 に 参 与 す る 前 の 身 分 は デ ン マ ー ク駐 天 津 領 事 で あ っ た 。 天 津 製 造 局 の 創 設 者 で あ る 崇 厚 は,彼 に 製 造 局 の 設 備 購 入 と外 国 人 技 術 者 募 集 を 委 ね た 。 そ の 後 彼 は 初 代 総 責 任 者 に 任 命 され て

い る。

88国 際経営論集No.282004

(21)

14)と き に は第 四 の利 益 も考 慮 す る必 要 が あ る。 それ は,彼 らの本 国 以 外 の西 洋 諸 国 の利 益 で あ る。 デ ー トリング はイ ギ リス の利 益 を考慮 した し, ジ ケ ール はイ ギ リスや ドイ ツ の嫉 妬 が齎 す で あ ろ う影 響 や 問題 を 回避 す る た め に,福 州 船 政 局 付 属 水 師 学 堂 に フ ラ ン ス語 以 外 に,英 語 科 目を開 設 して イ ギ リス人 の海 軍 教員 を招 聰 して い る。 ま た ドイ ツ人 に福 州 船 政 局 内 で使 用 す る紙 幣 の 印刷 を任 せ て い る。

参 考 文 献

1.劉 広 京,朱 昌峻(ア メ リカ在 住)著,陳 緯 訳 『李 鴻 章 評 伝 』 上 海 古 籍 出版 社,1995年 。

2.清 ・魏 允 恭 著 『江 南製 造 局 記 』 江 南 製 造 局 出版 清 末 光 緒 三 十 一年 編 印。

3.田 育 誠 著 『中 国 と世 界 科 学 技 術 発 展 』 吉林 科 学 出版 社,1993年 。 4.田 育 誠 稿 『国 際 経 営 論 集 』 「洋 務 運 動 時 期 にお け る 中 国 近 代 技 術 産 業

の 導 入 と発 展 の研 究(一)」,神 奈 川 大 学2002年3月 。

5.孫 統 粟 編 『中 国近 代 工業 史 資 料 』 第 一 輯,科 学 出版 社,1957年 。 6.祝 慈寿 著 『中 国近 代 工 業 史 』 重 慶 出版 社,1989年 第1版 。

7.,・ 天 喩 他 著 『中華 開放 史 』湖 北 人 民 出版 社,1996年 第1版 。 8.田 育誠 稿 「清 末 に お け る李 鳳 苞 と徐 建 寅 に よ る欧 州 大型 軍 艦 導 入 に 関

す る一 考 察 」,日 本 科 学 史 学 会 年 会(東 京 工 業 大 学),2004年5月 。 9.林 慶 元 著 『福 建 船 政 局 史 稿 』 福 建 人 民 出 版 社,1986年 第1版 。 10.張 洪祥 著 『近代 中国通 商 と租 界 』 天 津 人 民 出版 社,1993年 第1。

11.林 崇 塘 著 『沈 藻 槙 與福 州 船 政 』 台 湾 ・台 北 聯 経 出版 事 業 公 司 出版, 1988年 。

12.唐 慶 華 稿 「中国 近 代 税 関貿 易 報 告 の 伝 播 と影 響 」 『厘 門 大 学 学 報 』, 2003年4号 。

清 末 中国 にお ける西洋近 代産 業導入 に貢 献 した外 国人89

(22)

1:縣

図11865年(同 治 四 年)に 創設 され た金 陵(南 京) 機 器 製造 局[南 京 聚宝 門(現 中華 門)]

図2清 末 江 南(上 海)製 造 局 図31866年 に創 設 され た

(総局)大 砲工 場 福 州船 政 局

図4清 末天津港紫竹林埠頭

90国 際 経 営 論 集No.282004

参照

関連したドキュメント

註3)関係者への取材は,始め,聞き込みによって

増えたことである。トルコ政府が 2015 年に国内で拘束した外国人戦闘員は 913 人で あったが、最も多かったのは中国人の 324 人、次いでロシア人の 99 人、 3 番目はパレ スチナ人の

このことは日本を含む世界各国でそのまま当てはまる。アメリカでは、株主代表訴訟制

 その 2 種類の会計処理方法の適用については、2001 年に公表された米国の財務会計基準 書である SFAS141「企業結合」(Statements  of  Financial 

優れている7点 普通5点 やや劣る3点 劣る1点 2 稼働率.

本章では,現在の中国における障害のある人び

オープン後 1 年間で、世界 160 ヵ国以上から約 230 万人のお客様にお越しいただき、訪日外国人割合は約

 しかし、近代に入り、個人主義や自由主義の興隆、産業の発展、国民国家の形成といった様々な要因が重なる中で、再び、民主主義という