加役方人足寄場について(1)
著者 丸山 忠綱
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 7
ページ 1‑18
発行年 1955‑06
URL http://doi.org/10.15002/00010647
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︑ は し が き
一一︑人足寄場設立当時の社会情勢
三︑人足寄場設立の事情
四︑無宿の収容(以上本号)
五︑設備及び掛役人
六︑手業及び待遇
七︑教誠方法
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石門心学の採用 八︑釈放及び爾後の措置九︑ 罰 則 十
︑ 経 費
十一
︑
人足の実例
十二︑常州上郷村寄場︑函館寄場
十一二︑寄場制度の変遷及び終鷲
十 四
︑ ま と め 時K新聞に浮浪者狩込みの記事が出て来て︑敗戦後の厳しい現実がわれわれの胸をうっ︒そうしてそれは為政者の無策
をあざわらう
が如
くである︒勿論政府が全く何もしないと言うのではないが︑十分な効果がらがっているとは見えない︒
住むに家なく︑働くに職なき人kは古くからあった︒叉︑住むに家なく︑働く意志に乏し
い人
kも古︿から存在した︒
班回収授制の行われた古止目から︑今日上野駅地下道に至る迄︑殆んどいつの時代にも社会の枠からはみ出した人は少く なかった︒江戸時代後期におけるこうした人遣の収容施設として有名なものに︑期役方人足寄場︑一般に言う人足寄場が
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意釦(意次の子
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の殿中刃傷の如きこれを反映しこもコであっこへ
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一般社会においても行詰りの反映として叉驚くべき博英の流行を舟ていたことも注目されなければならない(硝唯一記)︒
そうして一部の政治権力に寄生し︑経済的には甘い汁を吸って肥った﹁札差Lや遊女屋の亭主達が一︐通﹂と称して社会機構の枠の中で武士に抑圧されている悲惑をゆがんだ形ではき出していた時代でもあった︒
また人足寄場の設山一直前後は天災地変の多い時であった︒寛政二年(友)
より十年前は即ち安永九年(包
)に当るo
この
年七且に関東に洪水あり︑翌弔へ明元年(主)正月に江戸に大火あり︑天明三年
( 主 )
には七月浅間山の大噴火あり︑
また
この
三年から五年に亙り三ヶ年を通じて全国殊に奥羽地方は惨陪たる大飢僅に顎われている︒疫病もまたこれに乗じて暴威をふるったのである︒
天明五年
( 主
九月には琉球にも飢僅あり︑幕府はこれを救一阻せしめている︒この年も奥羽の山野には餓享が至る処に)
見られた︒六年(訂)正月には江戸に大火あり︑湯島の大成殿も焼失の憂目を見た︒七月には関東陸奥に大雨降り洪水お
こり︑江戸は殊にその被害甚大であったo
七年
( 長
もやはり諸国飢謹であり︑五門月には米価騰貴によって大坂の飢民が蜂起し︑近隣の諸国も騒擾した︒これに)
呼応して十日程遅れて江戸でも飢民が蜂起しているo
八年
(包)には京都に大火あり︑埜孝次び二条城もその災にか﹀っ
た︒この翌年は即ち寛政元年(年
)である︒この年九且には幕府は大名の囲米の制度を定めたo主として備荒貯蓄の意味
であ
った
︒
以上は人足寄場設置の寛政二年に至る前九筒年聞の災異及︑ひそれに関係ある事柄の主なるものをひろってみたに過ぎない︒天災は勿論入力を以てたやすく左右しうべきものではないでやめろう︒また国力が盛んで国民の意気旺盛である時にはそれはある程度まで克服せられて︑災禍は大きく表面にうかんで来ない性質のもので+めると言える︒だが事実上
この
一大
明
前後は︑わが国の一位史において︑災異の多かった時期であることは見のがし得ないところである(話相ヲ訂本)︒殊に何と言っても︑天明年簡の大飢謹は最も深刻︑悲惨なものであった︒
外に眼を転ずる時五ロ人はそこに何を見るであろうか︒外国船が大洋の一一浪一波にゅりあ吋ゆりさげられつ﹀︑わが近海
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右は﹁刑務協会﹂所蔵の﹁寄場人足旧記留﹂所収の閣官諸左衛門から堀田摂津守正教へ差出した書類によって作製した︒右の写本は恐らくは幕末に数名の書役によって写されたもので︑その中に収められた文書は﹁徳川禁令考﹂﹁古事類苑﹂などに入っているものもあるが︑半は他に見られぬものである︒同史料の借覧方に多大の便宜を計られた刑務協会文化部長代理小室清氏︑法政大学法学部講師小川太郎氏に対し深甚の誠意を表する︒
表中︑*印│︿か︿の死は﹀﹁幼年之事故交之名確与不覚たしか庄左衛門与覚侯由申立候﹂とのあわれな註記がある︒
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父母共果
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右
子年十亥年正申兄長三八庄亥年て参宮亥年七中月七年中月八家前出今忘ご太閤 茂 年己 亥 亥 年 時 十 に 蒋 自 年 ( 年 年 三 二 月 郎 よ ー か よ ナ 五 八 五 六
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戸田 沼﹀
右は主殿頭へ伺之上御達申侯
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甲斐守殿へ
深川茂森町無宿養育所之儀︑今般伺之上相止申候︑依v之御達申侯
午五月とれによってみると︑その趣旨は殆んど人足寄場と変りはなかったことになる︒長谷川平蔵の献議もこれにヒシトを得たものであ
ったかと思われる︒しかし︑人足寄場と臭って僅か七年閣で廃止され︑﹁霊園に絶て其沙汰なさは著しき功用もなか﹂(鍔)
った
た
めであろう︒との養育所が失敗し︑人足寄場が成功したのは︑恐らくは創業期に事に当った人物の当否が大きく響いていたのであろ
う︒されば定信が長谷川平蔵の手腕を見込んだのは真に事宣に適っていたと言うぺきであろう︒
︿4﹀﹁徳川禁令考﹂︑後楽第一一︑附録に﹁憲法類集﹂より引用しあり︒﹁古事類苑﹂は﹁憲教類典﹂を引書とす︒
(5
﹀﹁御触書天保集成﹂
(下
﹀六
一一
一一
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一号
(6
﹀ 同 前 六 三 二 七 号
ハ7﹀﹁徳川禁令考﹂後援︑第て﹁古事類苑﹂にも収めあり︒ 合
( 8 )
向 上
( 9 )
註
( 8 )
の文
書は文政三年八月の物であり︑その中に﹁常州上郷寄場有ν之節ハ右場所江遣し侯ものも有v之候処︑当時ハ上郷寄
場相止云々﹂と見え︑叉︑﹁御仕置例類集﹂二ノこにに文化十三年八月附の︑上郷村人足寄場人足︑栄蔵事︑鉄五郎が逃走し︑捕縛
せられたが︑とれを死罪に処す
ぺき
が︑定法であるが︑﹁可ニ起返‑荒地も残少一一相成﹂り︑佃島より加勢の人足もいらず︑既住の人
足共も改心し耕作に精を出している状態であるから︑他者へのみせしめTとしての死罪は意味が少いようであるから︑佃島差戻しにし
てはとの伺書が見えている︒との議は結局通らず鉄五郎は死罪に処せられた訳であるが︑今のととろとのこつの文書が上郷村寄場廃
止の上限︑下限を定めている︒
( 叩 ) 註
( 8 )
に同
じ︒
ハロ)﹁寄場人足仕置並心得室己所収︑人足寄場へ差遣者之儀‑一付評議仕候趣申上候書付︑(徳川禁令考︑後表︑第一)同じ文書が﹁新張紙留から﹁古事類苑﹂にとられている︒ (良庇}山村信濃守
一七
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