カスティリオーネの『宮廷人』におけるパラゴーネ
著者 清瀬 みさを
雑誌名 人文學
号 195
ページ 1‑37
発行年 2015‑03‑15
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014101
カ ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
清 瀬
み さ を
は じ め に 一
︑ ウ ル ビ ー ノ 宮 廷 と カ ス テ ィ リ オ ー ネ 二
︑ 宮 廷 の 肖 像 フ ェ デ リ ー コ
・ ダ
・ モ ン テ フ ェ ル ト ロ 三
︑﹁ ウ ル ビ ー ノ 宮 廷 の 肖 像 画
﹂ グ イ ド ヴ ァ ル ド
・ ダ
・ モ ン テ フ ェ ル ト ロ 四
︑ 線 と 色 彩 の パ ラ ゴ ー ネ 五
︑ 絵 画
・ 彫 刻 の パ ラ ゴ ー ネ お わ り に
は じ め に 周
知の ごと く小 都市 ウル ビー ノは
︑ほ とん どイ タリ ア半 島の なか ほど のと ころ でア ドリ ア海 に接 し︑ アペ ニン 山脈 の最 端に 位置 して いる
︒こ の都 市は 山に かこ まれ
︑山 並み も他 の土 地で みら れる よう に美 しい もの では ない が︑ 天 候に は 大 い に恵 ま れ︑ 周 辺の 土 地 はき わ め て 肥沃 で
︑作 物 も豊 か で あ る︒ 従っ て 空 気 が 健 康 に よ い う え
― 1 ― カ
ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
に︑ 人間 の生 活に とっ て必 要な もの はす べて そな わり あり あま るほ どで ある
︒し かし
︑こ の都 市に 恵ま れた 数々 の幸 のう ちで 最大 と思 われ るの は︑ この 都市 がは るか 昔か らつ ねに 最良 の君 主の 統治 をう けて きた とい う事 実で ある
・・
・統 治時 代 に は イ タ リ ア の
︵希 望︶ の光 であ った フェ デリ ーコ 公の 栄光 にみ ちた 想い 出こ そそ の な に にも ま さ る証 し に ほか な ら な いの だ
︵図 1︑ 図2
︶・
・・ 賞 讃す べ き 多数 の事 績の ひと つは
︑多 くの 人の 意見 によ れば イタ リア 中で もっ とも 美し いと いわ れる 宮殿 をウ ルビ ーノ のけ わし い山 間の 地に 建て られ たこ とで あっ た︒ しか も宮 殿に 必要 なも のは なに ひと つ欠 かさ ずそ なえ られ たの で︑ 単な る宮 殿と いう より 宮殿 の形 をし た都 市の 趣き があ った ほど であ る・
・・
⑴
こ れ は
︑イ タ リ ア・ ル ネ サ ン ス 期 の 外 交 官 そ し て 文 筆 家
・バ ル ダ ッ サ ー レ・ カ ス テ ィ リ オ ー ネ︵Baldassare
Castiglione,1478−1529
︶︵ 図 3︶ が︑ 著作
﹃宮 廷人
﹄Illibrodelcortegiano,Venezia,1528
の舞 台と なっ たウ ルビ ーノ
図
1
ピエロ・デッラ・フランチェスカ《フェデリ ーコ・ダ・モンテフェルトロ公夫妻の肖像》表面1465−1474
年 板・テンペラ、各パネル47×33 cm.
フィレンツェ、ウフィツィ美術館
図
2
ピエロ・デッラ・フランチェスカ《フェデリ ーコ・ダ・モンテフェルトロ公夫妻の肖像》裏面カ ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
― 2 ―
公国 とそ の過 ぎし 日の 栄光 を紹 介す る一 節で ある
︒ウ ルビ ーノ 公国 は︑ ミラ ノの よう にイ タリ ア国 内外 の政 権紛 争の 要衝 とな る大 国で はな いが
︑マ ント ヴァ とと もに 小国 家で あり つつ も英 邁な 教養 人君 主に よる 統治 下に 栄え
︑ル ネサ ンス 期人 文主 義の 中心 的宮 廷と して 名を 残す
︒
﹃宮 廷人
﹄は
︑一 五二 八年 にヴ ェネ ツィ アの アル ド ゥ ス印 刷 所 から 初 版 が刊 行 さ れ た︒ この 書 は︑ 出 版と 同 時 に評 判と なり
︑一 五四 七年 まで にア ルド ゥス から 五版 を重 ねた のみ なら ず︑ ただ ちに ヨー ロッ パの 各国 語に 翻訳
・出 版さ れた
︒一 五三 四年 には スペ イン 語︑ 一五 三七 年に フラ ンス 語︑ 翌年 にラ テン 語︑ 一五 六〇 年に ドイ ツ語
︑そ して その 翌年 に英 語版 が出 版さ れて いる
︒ 内 容は
︑カ ステ ィ リ オ ーネ が
﹁イ タ リア 中 で も っと も 美 しい
﹂⑵
と形 容 す る公 爵 宮 殿PalazzoDucale
に集 う 紳 士十 九名 と四 名の 貴婦 人︑ 合計 二十 三名 の宮 廷人 たち が︑ 四夜 にわ たり 宮廷 人に ふさ わし い教 養や 作法
︑社 交術 など の理 想を 論じ 合う と い う内 容 で あ る︒ 伯爵 家 に 生ま れ た 貴族
⑶
であ る一 級の 教養 人が 執筆 した この 書は
︑長 らく ヨー ロッ パ︑ とり わけ イギ リス にお いて 教養 人の 模範 を示 す指 南書 とし て仰 がれ た︒ そし て︑ 近代 のル ネサ ンス 人文 主義 研究 は︑ この 書を 言語
︑文 学︑ 思想 の研 究対 象と する よう にな った
︒ こ の書 にお ける 美術 につ いて の言 及は ごく 僅か にす ぎな
図
3
ラファエッロ《カスティリオーネ の肖像》1514−15年 画布・油彩82×67 cm.
パリ、ルーヴル美術館― 3 ― カ
ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
い が︑ イタ リ ア 十 五世 紀 か ら十 六 世 紀半 ば の ト ピッ ク で ある パ ラ ゴ ー ネ︵Paragone
絵 画
・彫 刻 の 優 劣 比 較 論 争
︶と いう 点で 注目 すべ き内 容を 含む
︒本 論の 目的 は︑ 世紀 半ば に発 表さ れた ベネ デッ ト・ ヴァ ルキ
︵BenedettoVarchi,1502
/1503−1565
︶ の講 演録
⑷
︑そ して ヴァ ザー リ︵GiorgioVasari,1511−1574
︶の
﹃美 術家 列伝
﹄第 二版 序文
⑸
によ っ て決 着を 見る
﹁素 描を 根源 とす る絵 画・ 彫刻 の同 根性
﹂と いう 思想 をカ ステ ィリ オー ネの
﹃宮 廷人
﹄献 辞と 夜会 第一 日目 の談 論の 中に 検証 する こと であ る︒ 一
︑ ウル ビ ー ノ宮 廷 と カス テ ィ リオ ー ネ カ
ステ ィリ オー ネは
︑一 五一 四年 頃か ら故 郷の 俗語
︵ロ ンバ ルデ ィア 語︶ で﹃ 宮廷 人﹄ の執 筆を 開始 し︑ 一五 一八 年頃 には 草稿 を完 成し てい る︒ そし てヴ ィセ ウ司 教・ ミケ ル・ デ・ シル ヴァ
︵DonMicheldeSylva,late15th.−1556
︶⑹
への 献辞 を添 えて 一五 二八 年に 上梓 した
︒ グイ
ドヴ ァル ド・ ダ・ モン テフ ェル トロ の宮 廷 カ ステ ィリ オー ネは 一五
〇四 年︑ 二十 五歳 でウ ルビ ーノ 公グ イド ヴァ ルド
・ダ
・モ ンテ フェ ルト ロ︵Guidobaldoda
Montefeltro,1472−1508
︶︵ 図4
︑図 5︶ の宮 廷に 出仕 した
︒グ イド ヴァ ル ド公 は フ ェ デリ ー コ・ ダ・ モ ンテ フ ェ ルト ロ︵FedericodaMontefeltro,1422−1482
︶公
⑺
の嫡 男で ある
︒グ イド ヴァ ルド は︑ 文武 両道 でイ タリ ア国 内外 に名 を馳 せた 英君 フェ デリ ーコ の薫 陶を 受け
︑君 主に ふさ わし い教 養と 人格
︑洗 練さ れた 趣味 を身 につ けた
︒し かし
︑病 弱で
カ ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
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あっ たた めに 剛毅 な父 フェ デリ ーコ とは 同じ よう に傭 兵 隊 長 と し て 外 貨 を 稼 ぎ
︑領 民 と 自 ら の 経 済 を 潤 わ せ︑ 力強 く国 家運 営に あた るこ とは 叶わ なか った
︒病 身の グイ ドヴ ァル ドに 代わ って 女主 人と して 宮廷 を支 えた のは
︑公 妃エ リザ ベッ タ︵ElisabettaGonzaga,1471
−1526
︶で あ った
︒エ リ ザ ベッ タ は
︑マ ン ト ヴ ァ 候 フ ェデ リー コ一 世︵FedericoIGonzaga,1444−1484
︶の 息女 で一 四八 八年 にグ イド ヴァ ルド に嫁 いだ
︒カ ステ ィリ オ ーネ と は 母方
⑻
の 親 族に あ た る︒ エリ ザ ベ ッタ は︑ ウル ビー ノと 並ん で北 イタ リア 人文 主義 を代 表す る 宮廷 で 育 ま れ︑ グイ ド ヴ ァル ド に ふさ わ し い 知 性︑ 教養
︑美 的趣 味︑ 人格 とも に申 し分 ない 女性 であ った が︑ 夫妻 は子 供に も恵 まれ なか った
︒そ して
︑厳 しい 国際 的政 治状 況の なか で︑ 弱体 化し た公 国を 維持 する こと すら 困難 な時 期に カス ティ リオ ーネ は外 交官 とし て仕 えて いた
︒ し かし
︑グ イド ヴァ ルド 夫妻 には
︑父 君フ ェデ リー
図
4
ラファエッロ《グイドヴァルド・ダ・モンテフェルトロの肖像》1506 年頃 板・油彩
68.6×50.8 cm.
フィ レンツェ、ウフィツィ美術館 図5
ラファエッロ《エリザベッタ・ゴンザーガの肖像》1506年頃 板
・油彩
52.5×37.3 cm.
フィレンツ ェ、ウフィツィ美術館― 5 ― カ
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﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
コが 一代 で築 いた 美し い宮 殿︑ それ を満 たす 十五 世紀 後半 イタ リア を代 表す る美 術家 たち の作 品︑ 宮廷 文化 の輝 かし い伝 統が 遺さ れて いた
︒そ のよ うな 状況 の中 では いき おい フェ デリ ーコ 時代 の創 造的 な活 力が 失わ れた 分だ け宮 廷の 趣味 は知 的に 洗練 され
︑ピ エト ロ・ ベン ボ︵PietroBembo,1470−1547
︶や ピ エト ロ・ アレ ティ ーノ
︵PietroAretino,1492
−1556
︶と いっ た文 筆家 や思 想家 を中 心と する 教養 人を 惹き つけ てな お余 りあ る場 であ った
︒
﹃ 宮廷 人﹄ の枠 組み こ の書 は︑ 一五
〇七 年春 の四 夜︑ 場所 はド ゥカ ーレ 宮殿 夜会 の間 に設 定さ れて いる
︒こ の年 はグ イド ヴァ ルド 公が 他界 する 前年 であ り︑ 小 論冒 頭に 引い たウ ルビ ーノ 公フ ェデ リー コ・ ダ・ モン テフ ェル トロ の栄 光に みち た想 い出la
gloriosamemoriadelducaFederico
⑼
が︑ 遥か な記 憶と して 輝い てい た時 代で ある
︒ 内 容は
︑ボ ッカ ッチ オ︵GiovanniBoccaccio,1313−1375
︶ の﹃ デカ メロ ン﹄Decameron,1348−1353
⑽
に 倣い
︑一 夜ご とに 独立 した 主題 で構 成さ れて いる
︒た だし
︑﹃ デ カメ ロ ン﹄ の よう に 登 場人 物 た ちの 語 る 一 話ご と に 独立 し た 枠組 みで 艶笑 譚を 収録 した 小話 集で はな い︒ 第一 夜に
︑夜 会 の 愉 しみ に 宮 廷人 の 条 件を 論 じ る こと が 決 定し
︑一 夜 毎 に︑ 宮廷 人の 条件 とな る素 養や 作法 など のテ ーマ を設 定し
︑そ の理 想を 論じ 合う とい う内 容で ある
︒第 一夜 は︑ 貴族 の生 まれ
︑武 人と して のた しな み︑ 宮廷 人に ふさ わし い身 なり や立 ち居 振る 舞い
︑言 語か ら文 学論 争へ と展 開す る︒ 第二 夜で は︑ 宮廷 人の 社交 に必 要な ダン ス︑ 音楽 のた しな み︑ 服装
︑友 人︑ 機知 につ いて 論じ られ
︑第 三夜 には 婦人 の理 想︑ 第四 夜で は宮 廷人 の主 従関 係︑ 政治 が論 の主 題と なり
︑四 夜の 締め くく りに 詩人 ピエ トロ
・ベ ンボ がプ ラト ン的 な愛 につ いて の自 説を 披露 する
︒一 夜毎 にさ まざ まな 談論 のテ ーマ が設 定さ れて いる が︑ 大枠 では 宮廷 人に ふさ わし
カ ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
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い作 法や 教養 を論 じつ つ多 角的 に宮 廷人 の理 想を 探求 する とい う内 容で ある
︒ 技と
は見 えな い真 のわ ざと 優雅 全 編を 通じ て繰 り返 し︑ あら ゆる 主題 につ いて 宮廷 人の 優雅 さに 不可 欠の
﹁さ り げ な さ﹂sprezzatura
を 論 じる
︒宮 廷 人は 万 事 に おい て 優 雅で な け れば な ら な い︒ カス テ ィ リオ ー ネ は 第一 の 書 十二 に お いて
︑こ の 夜 の 談論 の 課 題 を
﹁ 完全 な宮 廷人 の姿 をこ とば でか たど る﹂formarconparoleunperfettoCortegiano
⑾
こと と設 定し た︒formare
とい う語 は︑ 単に 描線 で輪 郭を なぞ る︑ ある いは 平面 を彩 ると いう ので はな く︑ 内的 に充 実し た輪 郭を 立体 的に かた どり
︑造 形す ると いう 意味 合い であ る︒ この 語の 選択 には 宮廷 人の 理想 の姿 を身 なり や振 る舞 い︑ 武術
︑と いっ たよ うに 多角 的な 観点 から 立体 的に 浮き 彫り にす る︑ とい う意 味合 いが 込め られ てい ると 解釈 され る︒ そ の優 雅さ に至 る必 須条 件が
﹁さ り げな さ
﹂で あ る︒
﹁ その さ り げな さ
﹂と は﹁ 技 とは 見 え な い真 の 技﹂veraarte,
chenonappareesserarte
⑿
︑ つま りわ ざと らし さや
︑苦 労し た努 力の あと など を見 せる と野 暮に なる
︒そ れゆ え﹁ 技と は見 えな い真 の技
﹂を
︑さ らに ひた 隠す こと に徹 す る な らば
︑﹁ さ り げな い
﹂気 品 を感 じ さ せ 優雅 に 至 ると い う ので ある
︒ カ ステ ィリ オー ネは
︑第 一の 書二 十八 章に おい て︑ 音楽 のさ りげ なさ につ いて 論じ たあ と︑ 宮廷 人の 素養 だけ では なく
︑絵 画に おけ る﹁ さり げな さ﹂sprezzatura
を語 る︒
・・
・ま た絵 画に つい ても しば しば みら れる ので すが
︑ま るで なん の気 負い もな く︑ なん の技 を用 いる こと もな く︑ 手が ひと りで に画 家の 意志 に従 って
︑そ の目 標に 進む かの よう にみ える 仕方 で︑ 描か れた たく まざ る線 一本
― 7 ― カ
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﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
で︑ やす やす と運 ばれ た筆 のさ ばき ひと つで
︑明 らか にそ の画 工の 優秀 さが 読み 取ら れま す・
・・
...Spessoancornellapitturaunalineasolanonstentata,unsolcolpodipenellotiratofacilement,dimodochepaiache
lamano,senzaesserguidatadastudiood’artealcuna,vadapersèstessaalsuoterminesecondolaintenziondelpittore,
scoprechiaramentelaeccellenzadell’artefice...
⒀
わ ざを 感じ させ ない
︑さ りげ なさ によ って 優雅 さを 感じ させ る︑ とい う優 雅さ の事 例を 同時 代の 美術 家に 求め るな らば
︑ま ずも って ラフ ァエ ッロ が挙 げら れる だろ う︒ カス ティ リオ ーネ の﹃ 宮廷 人﹄ 中に はプ リニ ウス を出 典と する 古典 の美 術家 たち が頻 繁に 登場 する が︑ ラフ ァエ ッロ は︑ わず かに 四度 名前 が登 場す るに すぎ ない
︒そ れは
︑グ イド ヴァ ルド が不 在の 夜会 とい うこ の書 の設 定自 体と 相通 じる よう に思 われ る︒ ラフ ァエ ッロ の名 は︑ 第一 の書 の絵 画・ 彫 刻の 優 劣 比 較論 争 の なか で
︑彫 刻 家の 口 を か りて 論 者 カッ ラ ー ラ 伯爵 の
﹁お 気 に入 り
﹂と 言 わせ て い る に す ぎ な い⒁
︒ あか らさ まに ラフ ァエ ッロ を賞 讃す るの では なく
︑グ イド ヴァ ルド 公 と 同じ く
︑そ の 場 には 不 在 のま ま に 絵画 優位 論の 象徴 とし て存 在を ほの めか すに とど まる
︒ フ ェ デリ ー コ の 宮廷 画 家 たち は
︑ウ ッ チェ ッ ロ︵PaoloUccello,1397−1475
︶ も ピ エロ
・デ ッ ラ・ フ ラン チ ェ スカ
︵PierodellaFrancesca,1412−1492
︶も
︑ま たマ ント ヴァ の宮 廷画 家マ ンテ ーニ ャ︵AndreaMantegna,1431−1506
︶︵ 図 6︶ にし ても
︑遠 近法 や短 縮法 の技 巧が 過剰 ある いは
︑そ れを 探求 しす ぎる ため に不 自然 さを 感じ させ るき らい があ る︒ 十五 世紀 後半 の美 術は
︑世 紀前 半に 始ま った 幾何 学的 遠近 法︑ 解剖 学︑ 人体 比例 の実 験的 な探 求に 熱中 する 余り に︑ 本物 らし い自 然ら しさ を獲 得す るた めの 技で あっ たは ずが
︑本 末転 倒に なり がち であ った
︒ 十 六世 紀初 頭の 最盛 期ル ネサ ンス は︑ それ らの 技 や 学 知を 自 明 のも の と して
︑そ こ か ら﹁ 技 とは 見 え ない 真 の 技﹂
カ ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
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を 隠 す さ り げ な さ を 獲 得 し
︑上 品 さ
︑優 雅 さ を 感 じ さ せ る の で あ る⒂
︒例 え ば︑ ミ ケ ラ ン ジ ェ ロ
︵Michelangelo
Buonarroti,1475−1564
︶ のヴ ァテ ィカ ンの
︽ピ エタ
︾︵ 図7
︶は
︑息 を引 き取 った 成人 男子 のキ リス トを 聖母 の膝 に横 たえ るた めに
︑聖 母の 下半 身が 現実 の人 間に はあ りえ ない ほど 巨大 に造 られ てい る︒ しか し︑ その 不自 然さ を感 じさ せな い巧 みに よっ て︑ 実に 優美 な印 象を 与え る︒ そし て
︑ラ フ ァエ ッ ロ︵RaffaelloSanti,1483−1520
︶に よ る︽ カス ティ リオ ーネ の肖 像︾
︵ 図3
︶は
︑モ デル であ るカ ステ ィ リ オー ネ 自 身の 優 雅 さと ラ フ ァ エッ ロ の 持ち 味 で ある
﹁技 と は見 え な い 真の 技
﹂に よ って
︑優 雅 さ と上 品 さ を 獲得 し て いる
﹁さ り げ な さ﹂ の好 例 と して こ こ に 示 し て お き た
図
6
マンテーニャ《死せるキリスト》1490年頃 板・テンペラ68×81 cm.
ミラノ、ブレラ美術館図
7
ミケランジェロ《ピエタ》1499年 大理 石彫刻 像高174 cm.
ヴァティカン、サン・ピ エトロ大聖堂― 9 ― カ
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﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
い︒
二
︑ 宮廷 の 肖 像 執筆
の背 景 カ ステ ィリ オー ネが この 書を 執筆 した のは
︑一 五一 四年 頃か らの およ そ五 年間
︑グ イド ヴァ ルド 公が 他界 し︑ 公の 甥フ ラン チェ スコ
・マ リア
・デ ッラ
・ロ ーベ レが 公爵 家を 継承 して いた 時代 にあ たる
︒カ ステ ィリ オー ネは その まま 新領 主に 仕え た︒ フラ ンチ ェス コ公 は︑ 教皇 ユリ ウス 二世
︵JuliusII,GiulianodellaRovere,1443−1513
︶の 甥で ある ため に︑ 公国 はつ かの 間の 安堵 をえ てい た︒ しか し︑ 一五 一六 年︑ 教皇 ユリ ウス 二世 の他 界後 間も なく
︑後 任の 座に おさ まっ たメ ディ チ家 出身 の教 皇レ オ十 世︵LeoX,Giovannide’Medici,1475−1521
︶ によ って ウル ビー ノ公 フラ ンチ ェス コは 破門 の上 で公 国追 放に 処せ られ た︒ そし て教 皇は
︑自 身の 甥ロ レン ツォ
︵LorenzoIIde’Medici,1492−1519
︶ をウ ルビ ーノ 公に すげ 替え た︒ フラ ンチ ェス コが ウル ビー ノに 帰還 する のは
︑ロ レン ツォ が一 五一 九年
︑次 いで 一五 二一 年に 教皇 レオ が没 して から のこ とで あっ た︒ カ ス テ ィ リオ ー ネ は︑ 献辞 中 に 述べ る よ う に︑ この 書 は かつ て 自 身が 仕 え た ウル ビ ー ノ宮 廷 の 昔日 の 想 い 出 を 語 り︑ 君主 夫妻 の遺 徳を 偲び
︑そ の宮 廷文 化の 輝き を後 世に 伝え るこ とを 目的 とし た︒ 英君 ウル ビー ノ公 グイ ドヴ ァル ドも
︑美 貌と 教養 で人 々か ら敬 愛さ れた 公妃 エリ ザベ ッタ
・ゴ ンザ ーガ も︑ 深い 友情 を結 んだ 宮廷 人の 多く が他 界し てし まい
︑し かも
︑﹁ 彼 らの 生涯 につ いて の情 報﹂notiziainvitaloro
を もた ない
︵読 者の
︶た めに
︑力 及ば ずな がら
カ ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
― 10 ―
自 分が こ の 書 の執 筆 を 思い 立 っ たと 言 う⒃
︒つ ま り︑
﹁伝 記
﹂vite は 言 う に お よ ば ず
︑notizia
す な わ ち 情 報
︑あ る い は資 料す ら望 めな い︑ とい うこ とで あろ うか
︒ こ の宮 廷は
︑ベ ンボ やア レテ ィー ノ︑ アリ オス ト︵AlfonzsoAriosto,1475?−1525
︶ らが 集う 文学 の中 心と して 知ら れた が︑ 彼ら は君 主の 立派 な伝 記の ひと つ残 さな かっ たの か︒ その 宮廷 文化 は洗 練さ れた 趣味 と教 養で 知ら れた にも かか わら ず︑ 公国 とも ども 落日 を迎 え︑ カス ティ リオ ーネ 自身 もウ ルビ ーノ から 離れ て過 ごさ ざる をえ ない 身の 上で ある
︒そ のた めに 自分 の記 憶が 色褪 せな いう ちに
︑と いう 一層 の焦 燥感 と使 命感 があ った ので はな いか
︒ イタ
リア の光
フ ェデ リー コの 想い 出
﹃宮 廷人
﹄執 筆と いう 彼の 使命 感を 刺激 した の は︑ グ イド ヴ ァ ルド の 父 君ウ ル ビ ー ノ公 フ ェ デリ ー コ・ ダ・ モ ンテ フェ ルト ロと その 宮廷 文化 の輝 きと の落 差も あろ う︒ 近代 にお いて
︑ル ネサ ンス とい う時 代概 念を 定着 させ たブ ルク ハル ト︵CarlJacobChristophBurckhardt,1818−1897
︶ は︑ その 著﹃ イタ リア
・ル ネサ ンス の文 化﹄ の第 一章
﹁芸 術作 品と して の国 家﹂derStadtalsKunstwek
にお いて
︑ウ ルビ ーノ 公国 を︑ よく 計算 され
︑組 織化 され た﹁ 芸術 作品
﹂の 典型 と位 置付 け︑ その 宮廷 もま た﹁ あら ゆる 意味 にお いて 芸術 作品
﹂で ある
⒄
と評 価し た︒ フ ェデ リー コは
︑庶 出と は言 え十 三世 紀よ り領 主と して ウル ビー ノを 治め る伯 爵家 に生 まれ た︒ 他国 の戦 争を 請け 負 う傭 兵 隊 長condottiere
と して 歴 戦 無敗 の 武 将貴 族 で あ り︑ また 自 国 と領 民 を 守る 君 主 と して の 政 治力
︑外 交 的 手 腕に 優れ てい た︒ その 一方 で︑ 寸暇 を惜 しみ 書物 に親 しむ 教養 人︑ そし て傭 兵隊 長と して 獲得 した 財を もっ て領 国を 潤わ せ︑ 国内 外の 垂涎 の的 とな った 貴重 な写 本の 蒐集 家︑ さら には 文芸 に造 詣の 深い 善き 保護 者と して 誉れ 高く
︑宮
― 11 ― カ
ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
廷は 知的 で洗 練さ れた 文化 的セ ンタ ーの 様相 を呈 して いた
︒宮 殿に は家 族と 使用 人の 他に 国内 外か ら集 まっ てき た教 養人 や美 術家 を併 せて 五百 人も の人 間を 擁し たと 言う
︒ 冒 頭に 引い た一 文の 中で カス ティ リオ ーネ が﹁ イタ リア の光
﹂lumedelleItalia
と呼 んだ ウル ビー ノ公 の肖 像は
︑直 接に フェ デリ ーコ を知 る人 物が 記し た伝 記に よっ て︑ また 宮廷 画家 たち に描 かせ た肖 像画 や祭 壇画 によ って 活写 され てそ の似 姿を 残し た︒ また フェ デリ ーコ の栄 光に みち た想 い出lagloriosamemoriadelducaFederico
⒅
は
︑公 が一 代で 築い た宮 廷文 化︑ ドゥ カー レ宮 殿︑ 宮廷 美術 家た ち が 宮 殿を 満 た した 美 術・ 工 芸作 品 や 彩 飾写 本
︑当 代 一の 図 書 館︑ 公に 献呈 され た文 筆家 の著 作の 数々 によ って 燦然 とし た輝 きを 放っ てい た︒ 文 筆に よる 伝記 につ いて 言う なら ば︑ 公の 典籍 蒐集 役を 担っ たフ ィレ ンツ ェの 書籍 商ヴ ェス パシ アー ノ・ ダ・ ビス ティ ッチ
︵VespasianodaBisticci,1421−1498
︶に よる 伝記 が︑ 文武 両道 の英 邁な 君主 とし ての フェ デリ ーコ の人
︑教 養︑ 事績
︑宮 廷の 文化 のイ メー ジを 後世 に定 着さ せた
⒆
︒宮 廷画 家た ちは 彩管 を 振 るっ て フ ェ デリ ー コ とそ の 家 族の 肖像 を残 した
︒ウ ルビ ーノ 宮廷 絵画
︑そ して 十五 世紀 後半 のル ネサ ンス 絵画 を代 表す るピ エロ によ る︿ ウル ビー ノ公 爵 夫妻 二 連 肖 像画
﹀⒇
︵図 1︑ 図2
︶は フ ェデ リ ー コ夫 妻 の 似 姿と 美 徳 によ っ て 領国 を 治 め る君 主 の イメ ー ジ を記 念 する
︒同 じく ピエ ロ・ デッ ラ・ フラ ンチ ェ スカ の
︿モ ン テ フェ ル ト ロ祭 壇 画﹀
︵ 図8
︶は 甲 冑 姿で 聖 母 子に 跪 く 信仰 心篤 いフ ェデ リー コ像 を︑ スペ イン 人画 家ペ ドロ
・ベ ルゲ ーテ
︵PedroBerruguete,c.1450−1504
︶が 描い た書 斎の フェ デリ ーコ 像
︵ 図9
︶は
︑幼 いグ イド ヴァ ルド を伴 い︑ 甲冑 に豪 華な マン ト を 羽織 り 端 然 と書 物 に 向か う 教 養人
︑そ して 家庭 の父 親の 姿を 示す
︒ま たフ ラン ドル 人の ユス トゥ ス・ ファ ン・ ヘン ト︵JustusvanGent/JoosvanWassenhove
/GiustodaGuanto,c.1410−c.1480
︶ は︑ 宮廷 内の 一室 でフ ェデ リー コが グイ ドヴ ァル ドと 並び
︑臣 下を 従え て老 学者
カ ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
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図
8
ピエロ・デッラ・フランチェスカ《モンテフェルトロ祭壇画》1472年頃 板・テンペラ
248×150 cm.
ミラノ、ブ レラ美術館図
10
ユストゥス・ファン・ヘント《講義を聴くフェデ リーコとグイドヴァルド》1480年頃 板・油彩130×
211.8 cm.
英国王室コレクション 図9
ベルゲーテ《嫡男グイドバル ドを伴うフェデリーコ・ダ・モンテ フェルトロ》1480−81年頃 板・油彩
134×77 cm.
ウルビーノ、ドゥカーレ宮殿
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﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
の講 義に 傾聴 する 情景
︵図 10︶ を描 き︑ この 宮廷 にお ける 教養 形成 の 一 面を 知 ら せ る
︒ これ ら の 伝記 や 絵 画は
︑不 在と なっ て久 しい フェ デリ ーコ と宮 廷文 化そ のも のを 象徴 し︑ その 生き た記 憶を 現代 にま で伝 える
︒ そ して カス ティ リオ ーネ が﹁ イタ リア 中で もっ とも 美 し い とい わ れ る宮 殿
﹂﹁ 宮 殿と い う よ り宮 殿 の 形を し た 都市 の趣 きが あっ た﹂pesseralazzopidinformacittàunamapalazzounnonareva
と形 容し
︑ブ ルク ハル トが
﹁あ らゆ る意 味で 芸 術作 品
﹂ と 形 容 した 宮 殿 は︑ 堀 も穿 た ず 直接 街 路 と 広場 に 面 して い る︒ 当 時の 領 主 の 館に 一 般 的な 防 衛 に徹 した 城館 とは 異な る開 放的 な造 りで ある
︒と りわ け建 築に 造詣 が深 かっ た 公 自ら の 肝 い りの 宮 殿 であ る が
︑ こ れは 現在 国立 マル ケ美 術館 と機 能を 転じ てウ ルビ ーノ 文化 を伝 えて いる
︒ フ ェデ リー コに とっ て最 も重 要な 宮殿 内の 私的 な空 間で ある 小さ な書 斎studiolo
の 内 部 は︑ 壁 面 が 木 象 嵌︵ タ ル シ
アtarsia
︶ 装 飾 画
︵図 11︶ で被 われ
︑上 壁は 古今 の賢 人二 十八 名の 油彩 肖像 画で 埋め 尽く され てい る︒ とり わけ この 木象 嵌画 は︑ 一点 消失 法の 幾何 学的 遠近 法を 用い
︑部 屋の 中心 から 見る と統 一的 な錯 視的 空間 を作 り出 して いる
︒十 五世 紀半 ばか らお よそ 一世 紀の 間︑ イタ リア で流 行し た錯 視効 果を 特色 とす る木 象嵌 画の 代表 作に 挙げ られ る︒ ピエ ロが 直接 に下 絵を 描い たか どう かは 別に して
︑フ ェデ リー コの 宮廷 には 幾何 学的 遠近 法の 研究 に生 涯を 捧げ たピ エロ
︑そ して ウッ チェ ッロ がい たか らこ そ実 現し た仮 想空 間に 他な らな い︒
図
11
フェデリーコの書斎1473−76
年 ウ ル ビ ーノ、国立マルケ美術館カ ス テ ィ リ オ ー ネ の
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﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
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壁 上部 は︑ フェ デリ ーコ の教 養か ら選 ばれ た古 今二 十八 賢 人の 油 彩 肖像 画 で 飾ら れ て いた が
︑中 に フェ デリ ーコ の少 年時 代の 恩師 ヴィ ット リー ノ・ ダ・ フェ ル ト レ
︵VittorinodaFeltre,1373/1378−1446
︶︵ 図 12︶
が含 ま れ てい る こ と を特 筆 し てお き た い︒ そし て︑ フェ デリ ーコ が最 も情 熱を かけ
︑経 済を 賭し て蒐 集し た蔵 書は
︑ウ ルビ ーノ を離 れて しま った が︑ 現在 ヴァ ティ カン 図書 館の 中核 とな って いる
︒ 三
︑﹁ ウル ビ ー ノ宮 廷 の 肖像 画
﹂ グ イ ド ヴァ ル ド
﹁ ウル ビー ノ宮 廷の 肖像 画﹂ こ のよ うに
︑カ ステ ィリ オー ネが 過ご した ウル ビー ノの 宮廷 には
︑グ イド ヴァ ルド の父 君フ ェデ リー コの 栄光 が燦 然と 輝い てい た︒ フェ デリ ーコ の輝 きが 強け れば 強い ほど
︑グ イド ヴァ ルド 夫妻 と宮 廷を 後世 に伝 える 記念 のひ とつ もな いこ とが 惜し まれ
︑そ れが カス ティ リオ ーネ を駆 り立 てた と考 えら れる
︒ カ ス テ ィ リオ ー ネ は︑ 先に 触 れ た献 辞 中 に︑ 自 分の 筆 を ミケ ラ ン ジェ ロ や ラ ファ エ ッ ロな ら ぬ 一介 の 絵 描 き の 手 に︑ そし てこ の書 を絵 画に たと えて 言う
︒﹁ ウ ルビ ーノ 宮廷 の肖 像画
﹂unritrattodipitturadellaCorted’Urbino
を 世に
図
12
ユストゥス・ファン・ヘント《ヴィットリーノ・フェルトレの肖 像》1474年 頃 板・油 彩
94.3×
63.2 cm.
パリ、ルーヴル美術館― 15 ― カ
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送り 出す と記 した
︒け れど も︑ 巨匠 なら ぬ一 介の 絵描 きで ある 自分 には
︑曖 昧な 色彩 で真 実を 潤色 した り︑ 遠近 法を 用 い て 存 在 し な い も の を ま こ と し や か に 見 せ る こ と な く
︑主 要 な 線 を 引 く
︵線 で 描 く︶ こ と し か で き な い
︑と 言 う
︒ ウル
ビー ノ宮 廷の 申し 子 言 うま でも なく
︑ミ ケラ ンジ ェロ とラ ファ エッ ロは とも に十 六世 紀初 頭︑ 最盛 期ル ネサ ンス の頂 点を 極め た美 術家 に位 置づ けら れる
︒カ ステ ィリ オー ネは ふた りと 同世 代で あり
︑と り わけ ウ ル ビー ノ の 宮 廷画 家
・詩 人 の 子 に 生ま れ 育っ た ラ フ ァエ ッ ロ は︑ 洗練 さ れ たウ ル ビ ー ノ宮 廷 文 化の 申 し 子 であ り
︑ま た 親し く 友 情を 交 わ し た関 係 に あ た る
︒ しか し︑ ラフ ァエ ッロ は︑ 一五
〇〇 年頃 まで には ウル ビー ノを 離 れ て︑ ペル ー ジ ア での 修 業 を経 て
︑グ イ ドヴ ァル ドの 没し た一 五〇 八年 頃に ロー マに 出て 以降
︑教 皇庁 の寵 児と して 華々 しい 活躍 をし た︒ 同じ く︑ ウル ビー ノ出 身の 建築 家ブ ラマ ンテ
︵DonatoBramante,1444−1514
︶ もミ ラノ のス フォ ルツ ァ家 に仕 えた 後に
︑ヴ ァ ティ カ ン のサ ン・ ピエ トロ 大聖 堂再 建の 造営 主任 とし て設 計を 行っ た︒ ふ たり なが らに 若い うち に早 々と ウル ビー ノを 後に して ミラ ノや フィ レン ツェ とい った 経済 力と 芸術 の大 パト ロン がい る都 市を 経て
︑最 終的 には 西ヨ ーロ ッパ にお ける 聖俗 の権 力の 中心
︑そ して 芸術 の大 パト ロン とな った 教皇 庁の ロー マに 活路 を見 いだ した
︒と もに 後世 に最 盛期 ルネ サン ス美 術の 規範 とし て多 大な 影響 を及 ぼし た︒ いわ ば他 国で 花 開い た ウ ル ビー ノ 文 化の 残 照 とも 言 え る︒ ラ ファ エ ッ ロは
﹃宮 廷 人﹄ の 著 者カ ス テ ィリ オ ー ネの 肖 像 画
︵図 3︶ こそ 残し
︑こ の書 物の 記憶 とと もに 著者 を永 遠に 記念 した が︑ ブラ マン テと もに
︑故 郷ウ ルビ ーノ には 大作 を残 さな
カ ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
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かっ た︒ もは や︑ 有力 な美 術家 たち に活 躍の 場を 提供 する には
︑フ ェデ リー コの 時代 のよ うな 経済 力も 国力 も衰 えて いた から であ る︒ ラ ファ エッ ロ作 とさ れる グイ ドヴ ァル ドと エリ ザベ ッ タ の肖 像 画︵ 図4
︑図 5︑
︶ が 存 在す る
︒ふ た りな が ら に生 気に 乏し く︑ グイ ドヴ ァル ドの 宮廷 文化 は︑ 知的 に洗 練さ れて いた が︑ いか にも 創造 的活 力に は欠 けて いた こと を感 じさ せる
︒そ のよ うな 土壌 が︑
﹁ ウル ビー ノ宮 廷の 肖像 画﹂unritrattodipitturadellaCorted’Urbino
と形 容し なが ら︑ 君主 夫妻 の︑ ある いは ここ に登 場す る宮 廷人 たち の具 体的 な伝 記や ウル ビー ノ年 代記 の執 筆を 目的 とし ない
︑一 種マ ニ エリ ス ム 的 な著 作 を 構想 さ せ たの で は な いか
︒つ ま り︑ 君 主不 在 と い う状 況 を 設定 し た 上で の 架 空 の会 話 を 通 じ て︑ しか も﹁ 宮廷 人﹂ その もの の普 遍的 な理 想を 探求 する
﹁ウ ルビ ーノ 宮廷 の肖 像画
﹂と 言う
︒ピ エロ やフ ラン ドル 画家 によ るフ ェデ リー コの 肖像 画︵ 図1
︑図 2︑ 図8 10│
︶や ヴェ スパ シア ーノ によ る伝 記の よう な具 象性
︑具 体性 をも たな い︒ 一般 人に は不 向き な︑ 極め て知 的で 洗練 され た様 式に よる 理念 的な 課題 の設 定で ある
︒ 四
︑ 線と 色 彩 のパ ラ ゴ ーネ こ
こで
︑上 で触 れた
﹁ウ ルビ ーノ 宮廷 の肖 像画
﹂の たと えを
︑今 一度 検証 して みた い︒ 一介 の絵 描き であ る自 分の 手は
︑曖 昧な 色彩 で真 実を 飾る こと も︑ 遠近 法を 用い て存 在し ない もの をま こと しや かに 見せ るこ とな く︑ 主要 な線 を引 く︵ 線で 描く
︶こ とし かで きな い
...mandoviquestolibro,comeunritrattodipitturadellacorted’Urbino,nondimanodiRafaellooMichelAngelo,ma
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﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
dipittorignobile,echesolamentesappiatirarelelineeprincipali,senzaadornarlaveritàdevaghicolori,ofarparerper
artediprospettivaquellochenonè...
こ の文 章を 単純 に︑ 文字 通り 理解 する なら ば︑ 自分 はミ ケ ラ ン ジェ ロ や ラフ ァ エ ッロ の よ う な巨 匠 で はな い の で︑ 色彩 と立 体性 を備 えた 絵を 描く こと は能 わず
︑た だ線 描し かで きな い︑ と卑 下し てい るよ うに 読め る︒ ま た︑ カス ティ リオ ーネ がド ゥカ ーレ 宮殿 で日 々目 にし てい た宮 廷画 家た ちの 絵画 作品 はど のよ うな 傾向 をも って い たで あ ろ う か︒ まず フ ェ デリ ー コ 時代 の ピ エ ロや ウ ッ チェ ッ ロ︑ と り わけ 書 斎 の 錯 視 的 な 木 象 嵌 画︵ 13図
︶な ど は
︑十 五世 紀イ タリ アの 美術 家た ちが 世紀 初頭 から 探求 し 続け てき た幾 何学 的遠 近法 の成 果と 位置 づけ るこ とが で きる
︒そ して
︑フ ェデ リー コが 書斎 壁面 上部 を飾 るた め にユ スト ゥス
・フ ァン
・ヘ ント
︑そ して ベル ゲー テら を 招聘 した 理由 は︑ フラ ンド ル画 派が 得意 とし た油 彩技 法 によ る艶 やか な色 彩と 細密 な表 現に よっ て得 られ る触 覚 的 な リ ア リ ズ ム を 要 求 し た か ら で あ っ た︒ し た が っ て
︑ウ ル ビ ー ノ の 宮 廷 は︑
﹁ 曖 昧 な 色 彩 で 真 実 を 飾 る﹂ 油 彩画 や﹁ 遠近 法を 用い て存 在し ない もの をま こと しや か に見 せる
﹂木 象嵌 画な ど高 度に 技巧 的な 画家 たち の作 品 に満 ちあ ふれ てい た︒
図
13
ベンチもその上に置かれた楽器、戸棚も立 体的に見えるが平面上の木象嵌画である。ベネデッ ト・ダ・マイヤーノ(工房)フェデリーコの書斎木 象嵌画部分 ウルビーノ、ドゥカーレ宮殿カ ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
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し かし
︑ignobile
つ まり
﹁一 介の
﹂あ るい は﹁ 卑し い﹂ 絵描 き︑ と いう 言 葉 を一 旦 伏 せ てみ る な らば
︑色 彩 は 真実 を潤 色し
︑幾 何学 的遠 近法
︵透 視図 法︶ は錯 視的 な幻 像を 偽造 する 技術 であ り︑ 線を 引く ことtirarelelinee
︑つ まり
﹁ 素 描
﹂disegno
こ そ が 真 実 あ る い は 形 相 を 捉 え る︑ と 言 い 換 え る こ と が で き る
︒そ れ は
︑ペ ト ラ ル カ
︵Francesco
Petrarca,1304−1374
︶ によ るプ リニ ウス
︵GaiusPliniusSecundus,23−79
︶ の﹃ 自然 博物 誌﹄NaturalisHistoria
研 究 を 通じ てル ネサ ンス に蘇 り
︑ 十七 世紀 の色 彩・ デッ サン 論争
をも 乗り 越え て︑ 十九 世紀 のア カ デミ ズ ム に至 る ま で︑ 西ヨ ーロ ッパ にお いて 支配 的な 権威 であ った 古典 的な 絵画 理念 に他 なら ない
︒つ まり 曖昧 に変 化し 目を 欺く 色彩 は形 相を もた ない 感覚 的・ 質量 的な もの であ り︑ 素描 は形 相で あり 絵画 の本 質に 他な らな い︑ 従っ て色 彩に 対し て素 描が 優位 であ ると いう 思想 であ る︒ こ の素 描優 位と いう 理念 は︑ イタ リア
・ル ネサ ンス にお いて リア リズ ムの 獲得 のた めの 実践 的な 美術 家た ちの 鍛錬 とも 結び つい てい た︒ すな わち
︑イ タリ ア・ ルネ サン ス美 術は 古典 古代 を理 想と し︑ それ に追 いつ き追 い越 すこ とを 目標 とし た︒ しか し︑ 絵画 作品 はま だ知 られ なか った ため に︑ 色彩 が欠 如し た白 大理 石の ロー マン
・コ ピー を絵 画の 手本 とせ ざる をえ なか った
︒白 い大 理石 の形 態を 平面 に倣 う作 業は
︑い きお いそ の輪 郭を 捉え るこ とに 終始 する
︒そ の結 果︑ 色彩 より も形 をと らえ る輪 郭線
︑素 描が 重視 され た︒ カ ステ ィリ オー ネの 時代 にお ける 素描
︵輪 郭線
︶の 絶対 的優 位と いう 美術 の現 場で の規 範を 鑑み ると
︑カ ステ ィリ オー ネのignobile
﹁卑 しい
﹂と いう 言は
︑そ のま ま謙 遜や 卑下 と受 け 取る こ と はで き な い︒ プ ラト ン が ソク ラ テ スの 口を 借り てソ フィ スト のレ トリ ック によ る潤 色を 批判 した よう に︑ 色彩 や遠 近法 によ る錯 視効 果と 言っ た装 飾性 の否 定を 読み 取る こと も可 能で はあ る︒ しか し︑ いず れ に し ても
︑カ ス テ ィリ オ ー ネの
﹁線 で な ぞ るこ と し かで き な い﹂
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ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
solamentesappiatirarelelineeprincipali
とい う言 は︑ 自己 の能 力の 限界 と権 限を 規定 する もの とし て読 み取 れる
︒そ して
︑﹁ 一 介の
﹂あ るい は﹁ 卑し い﹂ 絵描 きと は︑ パラ ド ク シカ ル な 物言 い と も解 釈 で き るか も し れな い が︑ け っし て謙 遜で もな く︑ また 修辞 的技 巧で もな く批 判的 に自 己限 定を 表明 して いる 態度 と考 えら れる
︒ こ こで
︑絵 画に おけ る線
︵素 描︶ と色 彩の 優劣 関係 の認 識は 自明 のこ とで あっ た時 代状 況︑ カス ティ リオ ーネ およ び同 時代 の教 養人 にと って のプ リニ ウス 通は 必須 であ り︑ 事実
﹃宮 廷人
﹄に はプ リニ ウス の引 用が 頻出 して いる こと から
︑こ の発 言を 今一 度角 度を 変え て検 証し 直し て み た い︒ カス テ ィ リオ ー ネ の意 図 は︑ 彼 個 人の 趣 味 は別 に し て︑ フェ デリ ーコ の宮 廷を 飾る 線遠 近法 を駆 使し て存 在し ない もの をま こと しや かに 見せ る個 々の 絵画 を批 評あ るい は批 判す るも ので はな い︒ む しろ
︑﹁ 線 でな ぞる こと しか でき ない
﹂と いう 言 は︑ プ リニ ウ ス の記 す 叙 情的 な 恋 に から め た︑ あ まり に も 有名 な絵 画の 起源 を出 典と して いる
︑と 考え るの が自 然で はな いか
︒シ ュキ オン の陶 芸家 の娘 が壁 に投 影し た恋 人の 面影 の輪 郭を なぞ った
︑そ れが 絵画 の始 まり であ る︑ とい う人 口に 膾炙 し た 逸話 で あ る
︒ ま たプ リ ニ ウス は
︑別 の 箇所 で︑ 絵画 は﹁ 人間 の影 の輪 郭を なぞ るこ とか ら始 まっ た﹂ とも 記し てい る
︒詩 人 であ っ た 教 養人 カ ス ティ リ オ ーネ であ れば こそ
︑ま た宮 廷人 に必 須 の 条 件を
﹁さ り げ なさ
﹂に よ っ て﹁ 優雅
﹂﹁ 上 品﹂ を 醸 し出 す こ とで あ る︑ と 主張 し てい る こ と と重 ね あ わせ て み ると ど う で あろ う
︒同 時 代の
︑教 養 人 で あれ ば す ぐに 出 典 の理 解 で き る逸 話 を 転 用 し︑ 出典 は明 かさ ず﹁ さり げな く﹂ 優雅 に﹁ ウル ビー ノの 宮廷 の肖 像﹂ を素 描す る︑ と形 容し たと 考え てよ いの では ない
か︒ カ
ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
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五
︑ 絵画 と 彫 刻の パ ラ ゴー ネ
﹃宮 廷人
﹄中 に美 術に つい ての 言及 は︑ とり わけ プリ ニウ ス を 比喩 的 に 援用 し て 宮廷 人 の 素 養を 論 じ てい る 箇 所が 多々 見受 けら れる
︒し かし
︑美 術そ のも のを 論じ てい る箇 所は 第一 の書 の四 十九 章か ら五 十一 章の わず か三 章に すぎ ない
︒し かし
︑一 五二 八年 とい う出 版時 期を 考え ると 極め て注 目す べき 点が 認め られ る︒ パラ ゴー ネ︑ つま り諸 学芸 比較 論争 の流 れで 考え ると
︑十 六世 紀初 頭の イタ リア は︑ 十五 世紀 のパ ラゴ ーネ から 次ぎ の段 階に 入っ てい た︒ つま り︑ 十 五 世 紀 初 頭 の フ ィ レ ン ツ ェ 美 術 界 が 幾 何 学 的 遠 近 法 の 導 入 に よ っ て
︑実 制 作 の 成 果 を 踏 ま え た 絵 画 と 学 知
︵scienze
︶ ある い は 教 養と の パ ラゴ ー ネ が生 じ た︒ 世 紀 後 半 に ピ エ ロ お よ び レ オ ナ ル ド
︵LeonardodaVinci,1452−
1519
︶に よっ て絵 画は 学知 の地 位を 要求 し︑ 十六 世紀 にな ると
︑も はや 遠近 法や 解剖 学︑ 人体 比例 は自 明の こと とな り︑ 絵画 と彫 刻の パラ ゴー ネが 加熱 した
︒画 家レ オナ ルド と彫 刻家 ミケ ラン ジェ ロの 現実 的な 相克 も交 えた 絵画
・彫 刻の パラ ゴー ネが 美術 家の みな らず 世間 の一 大関 心事 とな った
︒ そ して
︑ラ ファ エッ ロが 一五 二〇 年︑ レオ ナル ドが 一五 一九 年に 没し た後 は︑ ミケ ラン ジェ ロひ とり が永 らえ
︑絵 画・ 彫 刻・ 建築 の 分 野 に隔 た り なく 巨 人 のよ う な 制 作を 続 け た︒ ミケ ラ ン ジ ェロ 本 人 もそ れ を 取り 巻 く 教 養 人 た ち も︑ 絵画
・彫 刻の 優劣 比較 では なく
︑そ の両 者に 共通 する 根源 の定 義を 模索 し始 めて いた
︒ヴ ァル キが 一四 四七 年に フィ レン ツェ
・ア カデ ミー で行 った パラ ゴー ネの 講演
︑そ して それ に先 立つ 美術 家た ちへ のア ンケ ート が注 目す べき 具体 的な 行動 であ った
︒カ ステ ィリ オー ネの 執筆 期か ら出 版ま での 時 期 は︑ 絵画
・彫 刻 の パ ラゴ ー ネ が美 術 界 の実
― 21 ― カ
ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
態を 踏ま えた アク チュ アル なト ピッ クで あっ た︒ また
︑ヴ ァル キは 講演 録中 の絵 画優 位派 の最 初に カス ティ リオ ーネ の﹃ 宮廷 人﹄ を挙 げて いる
︒で は︑ カス ティ リオ ーネ のパ ラゴ ーネ はど のよ うに 位置 づけ られ るの であ ろう か︒ 完全
な宮 廷人 の姿 をこ とば でか たど る
﹃宮 廷人
﹄の 第一 の書
︵第 一夜
︶︑ いつ もの よう に 夕 食 後︑ 一同 が 公 妃エ リ ザ ベッ タ の も とに 集 ま った
︒そ こ で は︑ 談話 や音 楽や ダン スが 催さ れた りす るの が常 であ った
︒こ の夜 は︑ ウル ビー ノ公 妃エ リザ ベッ タが
︑親 族そ して 親友 であ るエ ミー リア
・ピ オ︵EmiliaPio,−1528
︶を ゲー ム の司 会 役 に指 名 し た︒ そし て
︑や り が いの あ る 話題 と し て︑ 宮廷 人の 名に ふさ わし い人 にそ なわ った 挙措 振舞 と特 質 の す べて を 説 明し な が ら︑
﹁完 全 な 宮 廷人 の 姿 をこ と ば でか たど る﹂formarconparoleunperfettoCortegiano
とい うテ ーマ が決 定す る︒ 上で も論 じた よう に︑ あっ さり 素描 する ので はな く︑ 立体 的に 多角 的に かた どる
︑と いう 趣旨 であ る︒ エ ミー リア が公 妃に この テー マを 論じ るに ふさ わし い資 格を 備え た人 物の 推薦 を問 い︑ 公妃 はル ドヴ ィー コ・ ダ・ カノ ッサ
︵LudovicodaCanossa,1476−1532
︶ 伯爵 を指 名し た︒ カノ ッサ 伯爵 は︑ ヴェ ロー ナの 大貴 族で あり 優れ て教 養が 高く
︑ネ ーデ ルラ ント の人 文 主 義者 エ ラ スム ス
︵DesideriusErasmusRoterodamus,1466−1536
︶ と も親 交 が あっ た︒ カス ティ リオ ーネ とは 縁戚 関係 と友 情で 堅く 結ば れて いた 人物 であ る︒ カ ノッ サ伯 は︑ 完全 な宮 廷人 の条 件と して
︑貴 族の 出自
︑容 姿端 麗︑ 武人 とし ての 資質 と技 術︑ ダン ス︑ 音楽
︑言 語な どに つい て持 論を 披露 した 後で
﹁魂 を飾 る真 の︑ 主要 な特 質﹂ilveroeprincipaloramentodell’animo
と して 学芸 を話 題に する
︒学 芸に つい ては
︑ま ず文 学か ら始 まり
︑音 楽︑ そし て美 術へ と話 題が 移る
︒文 学論 中に は文 体︑ 様式
カ ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
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を説 明す る例 とし て同 時代 の画 家の 名を 挙げ てい る︒ 画家 レオ ナル ド︑ マン テー ニャ
︑ラ ファ エッ ロ︑ ミケ ラン ジェ ロ︑ ジョ ルジ ョー ネ︵Giorgione/GiogioBarbarellidaCastelfranco,1477−1510
︶ らは
︑そ れぞ れの 描き 方 は異 な る が︑ それ ぞれ に優 れて いる と述 べる
︒巧 みに フィ レン ツェ 派︑ 北イ タリ ア派
︑ヴ ェネ ツィ ア派 の巨 匠を 取り 上げ てい るこ とか ら︑ 美術 に対 する 見識 は確 かで ある と言 える
︒た だし
︑カ ステ ィリ オー ネは
︑全 編を 通じ て同 時代 の美 術に つい て一 切個 別的
・具 体的 な事 は語 らな い
︒ 美術
家と 教養
︑貴 族の たし なみ と絵 画 カ ノッ サ伯 は︑ プリ ニウ スを 引き
︑絵 画は 職人 芸で ある かの よう に思 われ てい るが
︑古 代に は貴 族の 子弟 のた しな みで あっ たと 絵画 を称 揚す る
︒ そこ では
︑プ リニ ウス 以来 の常 套手 段で ある 職 人 身分 で あ る 美術 家 を ラン ク ア ップ させ るた めに
︑古 典︵ プリ ニウ スの 場合 はギ リ シ ア 古典 期
︶と
﹁教 養﹂
︑ そし て 権 力者 に よ る 美術 や 美 術家 へ の 敬意 を引 き合 いに だす
︒い かに ラフ ァエ ッロ が教 皇庁 の寵 児で あり
︑ま た上 品き わま りな い絵 画を 描い たと して も︑ そし て︑ レオ ナル ドの よう にフ リー ラン サー の美 術家 が出 現し たと して も︑ また
︑美 術家 が自 らの 教養 を誇 示し
︑社 会的 評価 を望 んだ とし ても
︑こ の時 代に は美 術家 はま だれ っき とし た職 人身 分で あっ たの だ︒ それ ゆえ 宮廷 人の 理想 を探 求す る場 にふ さわ しか らぬ 美術 家を 論じ る正 統性 を得 るた め に さ りげ な く 導入 工 作 を計 っ た と 言え る の では な い か︒ カス ティ リオ ーネ は︑ 周到 に古 代ロ ーマ の著 名人 が絵 を描 いた とい う例 まで 引き
︑そ の後 さら に絵 画の 有用 性を 論じ た後
︑絵 画・ 彫刻 の優 劣比 較を 論じ る1
︒
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1
カ ス テ ィ リ オ ー ネ は 古 代 ロ ー マ の フ ァ ビ ウ ス 一 族 の 初 代 フ ァ ビ ウ ス︵Ca ius F ab ius
︶が 名 家 の 出 身 で あ り
︑ 文 学 者
︑ 法 律 家 か つ
!
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ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
絵画
・彫 刻の 優劣 比較 彫 刻家 ヨア ン・ クリ スト ーフ ォロ
・ロ マー ノ︵JoanCristoforoRomano,1465−1521
︶ は
︑絵 画・ 彫刻 とも に自 然の 芸術 的模 写l’unoel’altrasiaunaartificiosaimitaziondinatura
と いう 共通 性を 認め つつ
︑絵 画に 比し て手 間が かか り︑ 技術 が必 要で あり
︑大 理石 やブ ロン ズ彫 刻の ほう が自 然の 形づ くる 真実 に近 いchrauatanalefrioqproploelu,...
formateemisuratecomelanaturalofa
見せ かけ より も実 在す る物 のほ うが より 真実 に近 いchepiùpropingoalveronon
sial’essereche‘lparere
︑ 絵画 は人 の目 を欺 く平 面と 色彩sivedealtrochelasuperficie,eque’coloricheingannanogli
occhi
し かも たな いこ とを 根拠 に彫 刻の 優位 を主 張す る︒ カノ ッサ 伯は
︑彫 刻の 耐久 性︑ また 記 念 性︵ 記念 碑 的 彫刻 を指 す︶ とい う点 で優 れて いる こと は認 める
︒し かし 絵画 の生 命も 永い と反 論し
︑絵 画は
︑装 飾性 とい う点 で優 れて いる
︒ま た肉 体の 光沢 と大 理石 の光 沢と は種 類が 違う のでaltrolumefalacarneedaltrofailmarmo
︑大 理石 彫刻 には 光 と影 が 欠 け てい る
︑ま た 絵画 は 遠 近法 に よ る 立体 性 や 奥行 き の 表 現力
︑自 然 色 の再 現 性︑ 外 界の 総 て を 表 現 で き る︑ とい う点 で優 位で ある と主 張す る
︒ 結 局こ の談 論で は︑ カノ ッサ 伯が 絵画 優位 論を 主張 して 終わ る︒ ここ で特 筆し てお くべ き点 がふ たつ ある
︒ひ とつ に︑ 彫刻 家ロ マー ノの 口を かり て︑ 伯爵 はひ いき のラ ファ エッ ロの 絵画 があ まり にも 卓越 して いる ので
︑彫 刻は それ に 及ば な い と 言い た い のだ ろ う けれ ど
︑一 芸 術 家の 讃 美 と芸 術 の 讃 美は 別 の 問題 で あ る︑ と語 ら せ て いる こ と で あ る
︒ つま り︑ パラ ゴー ネは 芸術 批評 では なく
︑あ くま でも 芸術 論と 位置 づけ る カ ステ ィ リ オ ーネ の 姿 勢が 明 確 に指
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弁 論 家 で あ っ た に も か か わ ら ず︑ す ぐ れ た 画 家 で も あ っ た た め に 画 家
Pictor
の あ だ 名 で 呼 ば れ た こ と を 引 き 合 い に 出 し て い る
︒ 清 水 純 一
・ 岩 倉 具 忠
・ 天 野 恵 訳 前 掲 書 第 一 書 四 十 九 章 二 一 六 四
│ 一 六 七 頁 参 照 の こ と
︒︶
カ ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
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摘で きる
︒ 二 点目 は︑ カス ティ リオ ーネ のパ ラゴ ーネ がレ オナ ルド を下 敷き に使 って いる とい う点 であ る︒ カノ ッサ 伯の 絵画 優位 論の 骨子 は︑ 外界 の自 然の 表現 は彫 刻に は不 可能 であ ると いう 主張 が一 連の 論の 末尾 に位 置す るこ とま で︑ レオ ナル ドの
﹃絵 画論
﹄Librodellapittura,
への 参照 が認 めら れる
︒レ オナ ルド の﹃ 絵画 論﹄ では 冒頭 に諸 学芸 比較 論争 が配 され
︑絵 画と 文学
︑絵 画と 音楽 の後 に絵 画と 彫刻 の比 較Differenzatralapitturaelascultura
が 論じ られ る︒ レオ ナル ドの
﹃絵 画論
﹄に おけ る絵 画と 彫刻 の比 較は
︑分 量的 にも 圧倒 的に 多く
︑理 論家 かつ 実践 家の 画家 レオ ナル ドな らで はの 詳細 かつ 周到 な表 現を 用い てい る︒ カス ティ リオ ーネ に反 映さ れて いな い重 要な 点は
︑レ オナ ルド は絵 画が 彫刻 より も知 的な 労力 を要 するilpittoreconduceleoperesueconmaggiorfaticadimente.
︑と いう 精神 性を 強調 して いる こと であ る︒ レ オナ ルド の稿 本は 弟子 メル ツィ
︵FrancescoMelzi,c.1491−1568/70?
︶が 相続 した が︑ メル ツ ィ の死 後
︑散 逸 して しま い︑ とり わけ 絵画 論の 稿本 に欠 落が 多い とさ れ︑ 現存 する 稿本 もヴ ァテ ィカ ン︵Lu.36,40
︶と フラ ンス 国立 図書 館︵Ash.I.25r.24v.
︶に 分か たれ てい る︒ カス ティ リオ ーネ が一 五二 八年 に﹃ 宮廷 人﹄ を出 版し た時 には
︑レ オナ ルド は他 界︵ 一五 一九 年︶ して いた が︑ 少な くと もメ ルツ ィは 存命 中で あっ たこ とか らも
︑カ ステ ィリ オー ネが 直接 的あ るい は間 接的 にレ オナ ルド の絵 画・ 彫刻 の優 劣比 較論 争を 知る こと はで きた と考 えて よい だろ う︒ こ の優 劣比 較論 争は 絵画 の優 位と いう こと で決 着を つけ
︑そ の後 は︑ プリ ニウ スの 逸話 を比 喩的 に用 いて 宮廷 人に ふさ わし い作 法や 思想
︑愛 につ いて 論を 展開 して いる
︒
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ス テ ィ リ オ ー ネ の
﹃ 宮 廷 人
﹄ に お け る パ ラ ゴ ー ネ
素描 を基 礎と する 絵画
・彫 刻の 同根 性 ベ ネデ ット
・ヴ ァル キは 一五 五〇 年︑ 絵画
・彫 刻の 優劣 比較 論を 内容 とす る第 二講 演録 の導 入に 絵画
・彫 刻の 優劣 比較 論争 の前 史を 紹介 する
︒ま ず︑ 絵画 優位 論者 の筆 頭に カス ティ リオ ーネ を挙 げて いる
︒ヴ ァル キの 最終 的な 意図 は︑ 素描disegno
を根 源と する 絵画
・彫 刻の 同根 性を 論証 する こと であ った
︒確 かに
︑カ ス テ ィリ オ ー ネ個 人 の 見解 はは っき りと 絵画 優位 論の 立場 を表 明し てい るが
︑実 は﹃ 宮廷 人﹄ 第一 の書
︑四 十九 章に 素描 を根 源と する 絵画
・彫 刻の 同根 論が 述べ られ てい る︒
・・
・絵 画と 彫刻 とは 異な ると は言 え︑ 両者 とも 立派 な素 描と いう 共通 の根 源か ら発 して いま す︒ した がっ て彫 刻が すぐ れた もの だと すれ ば絵 画も また そう であ ると 考え られ ます
︒い え︑ むし ろ絵 画は より いっ そう 高い 芸術 的表 現が 可能 なだ けに
︑さ らに 優れ てい ると 考え られ るの です
︒
...Ebenchèdiversasialapitturadallastatuaria,purl’unael’altradaunmedesimofonte,cheèilbuondisegno,nasce.
Pero,comelestatuesonodivine,cosiancorcredersipuòchelepitturefossero:etantopiù,quantochedimaggior
artificiocapacisono.
こ の絵 画・ 彫刻 は素 描を 根源 とす るわ ざで ある
︑と いう 考え 方の 淵源 はプ リニ ウス であ った
︒先 に︑ プリ ニウ スの
﹃ 自然 博 物 誌﹄ か ら︑ 娘が 壁 に 投じ た 恋 人 の 影 を な ぞ っ た︑ そ れ が 絵 画 の 始 ま り で あ る
︑と い う 逸 話 を 紹 介 し た
︒ 実は
︑こ の逸 話に は続 きが あっ た︒ 陶工 であ った 娘の 父 が︑ 娘 が 壁に な ぞ った 線 を 粘土 で 盛 り 上げ て 浮 き彫 り に し︑ そ れを 窯 で 焼 成し て テ ラコ ッ タ︵terracotta
焼 き 物︶ の肖 像 を 制作 し た と いう の で あ る
︒つ ま り
︑逸 話 に 託 し
︑素 描 を同 一の 根源 とす る絵 画・ 彫刻 の同 根思 想が ここ に認 めら れる
︒
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﹃ 宮 廷 人
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