建築空間と装飾画 : 大阪市中央公会堂貴賓室にお ける松岡壽の課題
著者 清瀬 みさを
雑誌名 人文學
号 198
ページ 21‑71
発行年 2016‑11‑30
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015575
建 築 空 間 と 装 飾 画
│
│ 大阪 市 中 央公 会 堂 貴賓 室 に おけ る 松 岡壽 の 課 題│
│
清 瀬
み さ を
は じ め に 一 大 阪 市 中 央 公 会 堂 の 建 設 二 中 央 公 会 堂 の 建 築 と 装 飾 長 野 宇 平 治 三 貴 賓 室 揮 毫 嘱 託 松 岡 壽 四
﹁ 貴 賓 室 壁 画
﹂﹁ 雄 渾 な る 大 作
﹂ 五 貴 賓 室 装 飾 画 の 図 像 解 釈 お わ り に
は じ め に 新公
会堂 貴賓 室の 壁画 崇高 な点 から 天井 画に 諾册 両尊 の日 本建 国を 描き
― 21 ― 建
築 空 間 と 装 飾 画
更に 大阪 の過 去と 将来 を祝 福 した 大
正七
︵一 九一 八︶ 年十 月二 十 二日 付の
﹃大 阪毎 日新 聞﹄ 朝刊 第 十一 面に
︑こ のよ うな 見出 しで 始 ま る 記 事 が 掲 載 さ れ た⑴
︒﹁ 新 公 会堂
﹂す なわ ち現
・大 阪市 中央 公 会堂
︵図 1︶ が︑ この 一月 後に 竣 工式 を予 定し
︑す でに 内部 の装 飾 もほ ぼ完 成し てい るこ とを 伝え
︑﹁ 館 内諸 装飾 中最 も人 目を 惹く 階 上貴 賓 室⑵
︵ 図2
︶の 壁 画 を 描い た 洋 画家 松 岡 壽﹂ が前 日に 来阪 して 館を 訪ね たお りの 談話 を以 下に 紹介 して いる
︒ 昨
年の 初秋 公 会堂 の壁 画を 描く に就 いて 先ず 材料 を何 れに 求む べき かに 苦心 し三 上︑ 黒板 諸博 士の 意見 も聞 き尚 ほ古 事記 旧事 記等 に就 いて 種々 調べ た結 果人 間の 事業 とし て何 が一 番尊 いか と云 う点 から
﹁建 国﹂ を思 い立 ち まし た 是 が 即 ち貴 賓 室 の天 井 画 で伊 弉 諾
︑伊 弉 册の 両 神 が国 常 立 命 から 天 の 瓊矛 を 授 かる 所 を 描 い た の で す︒ 夫れ から 入口 の扉 の上 には 難波 の都 に因 んで 仁徳 天皇 が煙 立つ 民の 竈を 臠︵ みそ なわ
︶し てお 喜び にな った
図
1
大阪市中央公会堂正面外観 岡田信一郎 原案、大正七年図
2
竣工当初の大阪市中央公会堂貴賓室 公 会堂事務所編『大阪市公会堂竣成記念』大正7
年 所載建 築 空 間 と 装 飾 画
― 22 ―
﹃ 高津 の宮
﹄を 選び まし たが それ だけ では 現在 及び 将来 の 大 阪を 表 象 する に 十 分で な い か らそ こ で 左右 両 側 の壁 に﹁ 商業 の神
﹂と
﹁工 業の 神﹂ を象 って 太古 の気 分の うち に商 工業 の盛 んな 今の 大阪 を祝 福し たの です
︒苦 心と 云っ ては 題材 を見 つけ るま での 苦心 で現 場に 臨ん でか らは 約二 箇月 位の 労作 でし た︒ こ
の 談 話 は︑ 画家
・松 岡 壽︵ 文 久二
﹇一 八 六 一
﹈〜 昭 和 十 九
﹇一 九 四 四
﹈年
︶が
︑五 十 代 半 ば の 円 熟 期 に 手 が け︑ 生 涯の 代 表 作 とな る 壁 画の 主 題 と制 作 意 図 を伝 え る︒ す なわ ち
︑国 史 の 専門 家 の 意見 を 参 考に し て 古 事 記
︑旧 事 記
︵ 先代 旧事 本紀
︶等 の史 書に 主題 を求 め︑ 天井 画に 伊弉 諾尊
・伊 弉冉 尊に よる 建国 神話
︽天 地開 闢︾
︵図 3︶ を︑ そし 図
3
天井画《天地開闢》大阪市中央公会堂貴 賓室図
4
西櫛形壁《仁徳天皇》大阪市中央公会堂 貴賓室図
5
北壁面《商神素戔嗚尊》大阪市中央公会 堂貴賓室― 23 ― 建
築 空 間 と 装 飾 画
て入 り口 上に は大 阪繁 栄の 神話 的原 点で ある 高 津 の 宮 の
︽仁 徳 天 皇
︾︵ 図 4︶ を︑ 両 壁 面 に は この 都市 の特 質を 象徴 する 商工 業の 神︽ 商神 素 戔 嗚 尊
︾︑
︽ 工 神 太 玉 命︾
︵ 図5
︑6
︶お よ び 櫛 形 壁︽ エ ビ カ ツ ラ
︾︵ 図7
︶を 描 き
︑主 題 選 択 には 苦心 した が︑ 制作 自体 は二 ヶ月 であ った こ とで ある
︒ 松 岡は
︑幼 少の 頃か ら西 洋画 を志 し︑ 川上 冬 崖︵ 文 政 十 一
﹇一 八 二 八
﹈〜 明 治 十 四
﹇一 八 八 一﹈ 年︶ の 洋 画 塾
︑そ し て 明 治 九
︵一 八 七 六
︶ 年に 西洋 美術 の教 育機 関で ある 工部 美術 学校 の 一 期 生 と し て イ タ リ ア 人 画 家
・フ ォ ン タ ネ ー ジ︵
Antonio F ontanesi, 1818-1882
︶ の 薫 陶 を 受 け た︒ そ し て 明 治 十 三
︵ 一八 八
〇
︶年 か ら八 年 間 のイ タ リ ア留 学
︑と り わ けロ ー マ 王 立 美 術 学 校
Regio Istituto di Belle Arti in Roma
で 古 典 主義 的絵 画理 念と 技法 を修 め︑ ヨー ロッ パの 美術 史に 通暁 した 画家 とし て明 治二 十一
︵一 八八 八︶ 年︑ 二十 六歳 で帰 国し た︒ 美術 界に おけ る国 粋主 義の 荒波 に曝 され なが ら︑ 終生 東京 を 活動 の 場 とし て 西 洋 画の 振 興・ 教 育⑶
に 尽 くし た画 家で ある
︒ こ の中 央公 会堂 の貴 賓室 に装 飾画 を施 す構 想が 何時
︑誰 によ って 成さ れた のか
︑ま た関 西に 地縁 もな かっ たは ずの
図
7
南北壁面《エビカツラ》大阪市中央公会堂貴 賓室図
6
南壁面《工神太玉命》大阪市中央公会堂 貴賓室建 築 空 間 と 装 飾 画
― 24 ―
洋画 家・ 松岡 に何 時︑ 誰が 制作 依頼 をし たの か︑ とい う成 立事 情を 確定 する 記録 や史 料は 知ら れて いな い︒ 小論 の目 的は
︑ひ とつ に中 央公 会堂 建設 関連 史料
︑松 岡の 日記 等を 手が かり に成 立事 情を 解明 する こと
︒つ いで
︑松 岡に よる 絵画 説明 書︑ 現存 する 下絵
・素 描類 を検 証し つつ 日本 近代 建築 の室 内に 日本 神話 を題 材と する 歴史 画を 描き
︑ど のよ うに
﹁大 阪の 過去 と将 来を 祝福 した
﹂の かを 考察 する こと
︒そ れら の考 察を 通じ て︑ 従来 看過 され てき た貴 賓室 の建 築的 枠組 み︑ 大正 中期 の大 阪と いう 時代 背景 の中 にこ の壁 画群 の総 合的 な図 像構 成を 読み 解き たい
︒ 一
大阪 市 中 央公 会 堂 の建 設 中之
島近 代の 都市 景観 形成 小 論で 論じ る松 岡作 品は
︑独 立し た単 品の 絵画 作品 では なく 建築 空間 の装 飾画 であ る︒ 建築 と相 互補 完し てそ の部 屋の 意味 を視 覚化 し︑ 芸術 的価 値を 付与 する 目的 を担 う︒ 松岡 作品 は︑ 中央 公会 堂を 印象 づけ る正 面玄 関上 部大 アー チの 内部 に設 えら れた 貴賓 室内 を﹁ 大阪 の過 去と 将来 を祝 福﹂ して 飾る 目的 で制 作さ れた 壁画 群で ある
︒室 内装 飾画 に要 請さ れた 課題 と建 築的 条件 を理 解す るた めに
︑こ の章 では
︑そ の場 とな った 中央 公会 堂に つい て︑ 立地
︑建 設経 緯︑ 歴史 的︑ 文化 的な 位置 付け を概 観し てお きた い⑷
︒ 小 論冒 頭の 新聞 記事 は︑
﹁ 公会 堂﹂ の新 旧交 替に 際 し てな さ れ た報 道 で あっ た
︒大 阪 市 中央 公 会 堂は
︑そ の 建 設の ため に他 所に 移設 され た大 阪公 会堂
⑸
と区 別す るた めに
﹁新 公会 堂
﹂と 表 現さ れ て い る︒ 中央 公 会 堂は
︑ま た 一 般に
﹁ 中之 島 公 会 堂﹂ とも 呼 ば れる
︒パ リ の シテ 島 に も たと え ら れる 中 之 島は
︑水 都 の 大 動脈 で あ る 淀 川 を 堂 島 川︵ 北︶
― 25 ― 建
築 空 間 と 装 飾 画
およ び土 佐堀 川︵ 南︶ で分 岐す る中 州で あり
︑中 央公 会堂 は︑ 上流 に鋒 を向 け﹁ 山崎 の端
﹂と 呼ば れる 東端 部を 立地 とす る︒ つま り京 都と 大阪 湾を 結ぶ 大航 路の
︑い わば 水都 の玄 関に あた る︒ 中 之島 は︑ 江戸 初 期に 商 人
・淀 屋 常安
︵永 禄 三﹇ 一 五六
〇
?﹈
〜元 和 八﹇ 一 六 二二
﹈年
︶が 開 発 して 以 来︑ 諸 藩の 蔵屋 敷が 立ち 並び 全国 各地 から の物 流が 集積 す る 商 業の 中 心 地で あ っ た︒ なか で も 東 端の 上 中 之島 は
︑加 賀︑ 水 戸︑ 仙台
︑唐 津︑ 松山 とい った 雄藩 の蔵 屋敷 が 占 め てい た
︒し か し︑
﹁天 下 の 台所
﹂と 呼 ば れ たこ の 地 は︑ 維新 後 に 官公 庁⑹
を 設置 する ため の公 用地 とし て新 政府 に接 収さ れ︑ かつ て の 面影 を 失 っ た︒ しか し
︑明 治 十二
︵一 八 七 九︶ 年に 京都 より 豊国 神社 が分 祀さ れる とと もに
︑周 辺に 茶店 や料 亭︑ ホテ ルが 建ち 並ぶ につ れ行 楽客 が賑 やか に集 うよ うに なり
︑明 治二 十四
︵ 一八 九一
︶年 に大 阪最 初の 公園 とし て再 整備 が始 まっ た︒ 中 之島 が近 代都 市景 観を 構築 する 契機 は︑ 明治 三十 六年 に辰 野・ 片 岡 設 計 事 務 所⑺
設 計 の 日 本 銀 行 大 阪 支 店︵ 図8
︶︑ 翌 年 に 野 口 孫 市︵ 明 治二
﹇一 八 六 九﹈
〜 大正 四
﹇一 九 一 五
﹈年
︶に よ る 大 阪 図 書 館︵ 現・ 大 阪府 立 中 之 島図 書 館︶
︵ 図9
︶が 白 御影 石 貼 り の 壁 体 と 円蓋
︑列 柱玄 関を 特色 とす る堂 々た る西 洋古 典系 建築 の姿 を立 ち上 げ たと き で あ る︒ 引き 続 き︑ 大 正七 年 に 中 央 公 会 堂
︵図 1︶
︑そ の 三年 後に は片 岡安
︵明 治九
〜昭 和二 十一 年︶ 設計 にな る旧
・大 阪市 庁舎
︵図 儗︶ が完 成し た︒ そし て︑ 昭和 十︵ 一九 三五
︶年 に日 銀大
図
8
日銀大阪支店 辰野金吾・葛西萬司・長野宇 平治設計(明治36
年)と鉄橋(明治44
年竣工)時 代の淀屋橋 建築学会編『明治大正建築写真聚覧』昭和
11
年 所載建 築 空 間 と 装 飾 画
― 26 ―
阪支 店お よび 旧大 阪市 庁舎 と両 岸を 渡し てい た大 江橋
︵北
︶と 淀屋 橋︵ 南︶ を架 け替 え︑ 御堂 筋と 一直 線に 結ぶ 淀屋 橋・ 大江 橋︵ 大澤 三之 助 原案
︶︵ 図 儘︶ が 新築 竣 工 した
︒中 央 公 会堂
︑旧
・大 阪 市 庁 舎︑ そし て 淀 屋橋 は
︑い ず れも が世 間の 耳目 を集 めた 設計 競技 を経 て建 造さ れた
︒ 掉 尾を 飾る 淀屋 橋の 設計 競技 は︑ 大阪 市第 一次 都市 計画 の最 初の 大事 業と して
︑周 囲の 建築 物や 背景
︑道 路と 調和 す る都 市 美 の 構築 を 意 図し て 実 施さ れ た も ので あ る⑻
︒ 建 築家
・武 田 五 一︵ 明 治五
﹇一 八 七 二﹈
〜昭 和 十 三
﹇一 九 三 八﹈ 年︶ が監 修し た淀 屋橋 の竣 工を もっ てこ の地 に水 脈と 建築 物に よる 大阪 近代 の中 核的 都市 景観 が形 成さ れた
︒中
図
9
竣工当初の大阪図府立中之島図書館 野口孫 市設計(明治37
年) 建築学会編『明治大正建築写 真聚覧』昭和11
年 所載図
10
旧・大阪市庁舎 片岡安実施設計(大正10
年)建築学会編『明治大正建築写真聚覧』昭和11
年 所載図
11
淀屋橋 昭和10
年 土佐堀川 南詰下流側 より見た― 27 ― 建
築 空 間 と 装 飾 画
之島 図書 館と 中央 公会 堂は
︑景 観上 のラ ンド マー クで ある とと もに
︑民 間の 個人 によ る寄 付金 によ り建 造さ れた もの であ るた めに
︑﹁ 官
﹂に 頼ら ない
﹁民
﹂の 歴史 と伝 統を も つ 大阪 な ら では の 知 的・ 文化 的 象 徴 とし て の 意義 を も つこ とを 特筆 して おか ねば なら ない であ ろう
︒ 中央
公会 堂建 設の 経緯 こ れら の建 造物 のう ちで
︑日 銀大 阪支 店︑ 中之 島図 書館
︑旧
・大 阪市 庁舎 が︑ 淀屋 橋と とも に円 蓋や 塔屋 を備 えた 白御 影石 貼り の堂 々た る古 典様 式で ある のに 対し
︑中 央公 会堂 はひ とり 色鮮 やか な赤 煉瓦 の壁 体と 正面 部二 層を 貫く 白い 柱列
︑そ して 最上 部の 大ア ーチ が華 やか に異 彩を 放っ てい た︒ 中 央公 会 堂 は︑ 内国 博 覧 会 の会 場 を 転用 し た 旧・ 大阪 公 会 堂 に替 わ る 市民 の た めの 文 化 施 設と し て 新築 さ れ た⑼
︒ 事の 発端 は︑ 明治 四十 四︵ 一九 一一
︶年 三月
︑株 式仲 買人
・岩 本栄 之助
︵明 治十
〜大 正五
﹇一 九一 六﹈ 年︶ が地 元の 大阪 市に 金百 万円 を寄 付す るこ とを 発表 した こと に遡 る︒ 岩本 は若 くし て株 取引 で巨 万の 富を 蓄え
︑明 治四 十二
︵一 九〇 九︶ 年に 渋沢 栄一
︵天 保十 一﹇ 一八 四
〇﹈
〜 昭 和六
﹇一 九 三 一﹈ 年︶ を団 長 と する 渡 米 実 業団 の 一 員と し て 海を 渡っ た︒ アメ リカ で見 聞し た富 豪に よる 公共
・慈 善事 業へ のメ セナ 活動 に感 銘し
︑公 益に 帰す るた めに 大阪 市に 寄付 を思 い立 った ので ある
︒ 市 は財 団法 人公 会堂 建設 事務 所を 設置 し︑ 旧・ 大阪 公会 堂お よび 豊国 神 社を 移 設⑽
す る 形 で 現在 地 が 建設 予 定 地に 定め られ た︒ 建築 顧問 に 斯 界 の大 御 所・ 辰 野金 吾
︵安 政 元﹇ 一八 五 四﹈
〜 大 正八
﹇一 九 一 九﹈ 年︶ を迎 え
︑大 正 元年 に一 等三 千円
︑二 等千 五百 円︑ 三等 千円 とす る懸 賞競 技設 計が 実施 さ れ た⑾
︒ 中央 公 会 堂 の懸 賞 設 計競 技 は︑ 同 時並
建 築 空 間 と 装 飾 画
― 28 ―
行し て行 われ た旧
・大 阪市 庁舎 のそ れが 広く 一般 に開 かれ た公 募形 式で あ っ たの に 対 し て⑿
︑ 予め 指 名 され た 建 築家 十 三 名⒀
が 設 計 案 を 提 出 し 互 選 す ると い う 異 例 の 競 技 形 式 で あ っ た
︒し か も 設 計 案 応 募 者︑ か つ 審 査 員 は︑ 全員 が西 洋建 築の 様式 に習 熟す る辰 野の 後輩 や弟 子に あた る︒ 競技 規 定に おい て特 記す べき は審 査 後に 提 出 図案 を 広 く 世に 示 す こと
⒁
︑そ し て 東側 つま り淀 川の 上流 に向 けて 正面 を構 える とい う条 件で ある
︒そ の他 は 建設 予定 地︑ 構造
︑ホ ール の規 模︑ 建築 工費 七十 万円 の予 算な どい った 実 務的 な要 件の みが 記さ れて い た⒂
︒ 大阪 と い う商 業 都 市 で市 民 の ため に 建 てら れる 初め ての 恒久 的な 公会 堂に ふさ わし く︑ しか も既 存の 日銀 大阪 支 店︑ 中之 島図 書館 のよ うな 官公 庁建 築と の区 別が 必要 であ るこ とが 辰野 と 審査 員兼 応募 者た ちに は自 明の 共通 認識 であ った と考 えて よい ので はな い か︒ 審 査の 結果
︑大 正 元年 十 一 月 に岡 田 信 一郎
︵明 治 十 六﹇ 一八 八 三
﹈〜 昭 和七
﹇一 九 三 二﹈ 年︶ 案︵ 図儙
︶が 一 等最 優秀 案に 選ば れた
︒岡 田は
︑審 査後 に収 録さ れた 談話 にお いて
︑中 之島 とい う立 地に 適切 であ るこ と︑ すで に審 査結 果の 図案 が公 表さ れて いた 旧・ 大阪 市役 所に は塔 屋が ある こと も意 識し
︑商 業都 市で ある 大阪 市の 公会 堂に は記 念建 造物 的壮 大さ
︑官 庁的 厳格 さは ふさ わし くな いた めに
︑進 歩的
・商 業的 で あ るこ と を 心 がけ た と 述べ て い る⒃
︒ 建築 顧 問・ 辰野 お よ び 工事 監 督・ 片 岡安 が 実 施設 計 を 行 い清 水 組︵ 現・ 清 水建 設
︶が 施 工 を 請 け 負 い
︑大 正 二 年 春 に 着
図
12
大阪市公会堂新築設計透視図 岡田信一郎 案 東西美術出版社『美術新報』第12
巻 第3
号 大正2
年 所載― 29 ― 建
築 空 間 と 装 飾 画
工︑ 大 正七 年 十 一 月に 落 成 した
︵図 1︶⒄
︒ 鉄骨 煉 瓦 造 地上 三 階︑ 地 下一 階
︑建 築 面 積・ 二 一 六 四 平 米︑ 延 床 面 積・ 八四 二五 平米
︑総 工費 百十 二万 余円
︑﹁ 復 興式 準パ ラデ ィア ン様 式﹂
︵ネ オ・ ルネ サン ス様 式︶ の大 建築 であ った
︒ 中央
公会 堂の 存続
修 復・ 再生 工事 と貴 賓室 装飾 画の 再評 価 し かし
︑こ の大 阪近 代の ラン ドマ ーク であ る中 央公 会堂 も老 朽化 と時 代の 流れ の中 で解 体か 保存 とい う議 論が 俎上 に上 がる よう にな った
︒同 じ頃 に立 ち上 がっ た旧
・大 阪市 庁舎 は大 阪市 が昭 和四 十三
︵一 九六 八︶ 年に 建て 替え の方 針を 決定 し︑ 同五 十七
︵一 九八 十二
︶年 から 解体 され て姿 を消 した
︒中 央公 会堂 につ いて は市 民や 専門 家か ら保 存を 求め る要 望が 強く
︑市 は︑ 平成 元年 から 複数 の委 員会 を設 置し
︑修 復・ 再生 工事 の技 術的 側面 に加 え︑ 修復 後の 利用 方針
︑歴 史的 価値 など を多 角的 に検 討し
︑平 成十 一年 か ら 十 四年 八 月 にか け て 大規 模 な 修 復・ 再生 工 事 を実 施 し た︒ 貴賓 室の 装飾 一切 も見 事に 修復 され
︑絵 画も 美し く蘇 った
︒ こ の修 復・ 保存 工事 が決 定さ れて 後の 平成 八年 に松 岡の 遺族 より 貴賓 室壁 画お よび 棟飾 り彫 刻の 下絵
・素 描類 約六 十点 が建 設予 定の 大阪 市立 近代 美術 館︵ 現・ 大阪 新美 術館 建設 準備 室︶ に寄 贈さ れた
︒平 成十 一年 には
︑大 阪市 立博 物館
︵現
・大 阪歴 史博 物館
︶に おい てそ れら の下 絵・ 素描 類の 特別 展が 開 催 され た⒅
︒そ の よ うな 流 れ の中 で 松 岡の 貴賓 室装 飾画 が調 査・ 復元 され
︑下 絵・ 素描 類が 公に 展示 され たこ とが
︑松 岡作 品の 相次 ぐ専 門研 究と 再評 価の 契機 を提 供し たと 思わ れる
⒆
︒そ して 中央 公会 堂は 修復
・再 生工 事完 成後 の平 成十 四 年 十二 月 に 国 の重 要 文 化財 に 指 定さ れた
︒重 要文 化財 指定 の理 由と して
﹁・
・・ ネオ
・ル ネッ サン スを 基調 にバ ロッ ク的 な躍 動感 を加 味し た意 匠で
︑我 が国 にお ける 様式 建築 の習 熟の 過程 をよ く示 して いる
︒我 が国 の煉 瓦を 主体 とし て建 築の 到達 点を 飾る 建築 のひ とつ
建 築 空 間 と 装 飾 画
― 30 ―
とし ての 価値 があ る︒
﹂ と記 され てい る︒ 二
中央 公 会 堂の 建 築 と装 飾 長野 宇 平 治 辰野
金吾 とフ レス コ画 中 央公 会堂 の設 計競 技は 建築 設計 案を 問う もの であ った
︒建 築顧 問の 辰野 は︑ 審査 後の
﹁大 阪市 公会 堂指 名競 技に 就 いて の 理 想﹂ に おい て
︑室 内 装 飾 に つ い て の 説 明 は 不 要 と 云 う⒇
︒ ま た︑ 同 年 の
﹁大 阪 公 会 堂 設 計 図 案 講 評
﹂で も︑ 建築 仕様 書に は建 築上 必須 のこ との み簡 潔明 瞭に 示せ ばよ く︑ 室内 装 飾 や細 部 は 必 要な い と 云う
︒建 築 と 装飾 の 一体 的 構 想 は中 央 公 会堂 建 設 計画 段 階 で 示さ れ る こと は な か った の で ある
︒従 っ て 公会 堂 設 計 事務 所 が 作成 し た
﹃ 大阪 市公 会堂 建築 工事 仕様 書﹄ にも 装飾 に関 する 記載 は皆 無で ある
︒ そ の辰 野は
︑自 身が 工部 大学 校に おい てイ ギリ ス 人建 築 家・ コ ンド ル
︵
Josiah Conder, 1852-1920
︶ 最 初の 学 生 とし て 西洋 流 の 美 学や 美 術 史を 含 め た建 築 家 教 育を 受 け︑ 明 治中 期 に は イギ リ ス 留学 中 に イタ リ ア を 訪ね て 歴 史的 建 造 物︑ その 装飾
︑美 術作 品に つい ての 見聞 を重 ね︑ ロー マで は松 岡と 知遇 を得 て共 にフ ァル ネー ゼ宮 もし くは ファ ルネ ジー ナ荘 を悉 に観 察し てい る
︒ 辰 野が 留学 生活 を送 った ヨー ロッ パに おい ては
︑キ リス ト教 の聖 堂建 築︑ 官公 庁舎
︑宮 殿︑ 邸宅 にせ よ︑ その 建築 物が 内包 する 思想 や歴 史︑ 依頼 者本 人や その 家族 への 礼賛 など のメ ッセ ージ を一 貫し た図 像体 系で 構成 する 長く 豊饒 な伝 統が ある
︒ま た︑ キリ スト 教の 聖堂 建築 につ いて は︑ ほと んど の場 合︑ 教会 側が 決定 した 神学 的プ ログ ラム に沿
― 31 ― 建
築 空 間 と 装 飾 画
っ て美 術 家 が 制作 を し た︒ そし て 聖 俗と も に 建 物の 外 面︑ 内 部に お い て は部 屋 の 機能 や 格︑ 室 内の 場 所 に よ っ て 天 井︑ 壁︑ 柱︑ 床 がそ れ ら 主 題の 展 開 する 場 と なる こ と は 辰野 も 知 って い た は ずで あ る
︒ま た
︑帰 国 後 の 明 治 二 十 五
︵ 一八 九 二
︶年 に は明 治 美 術会 の 会 合で 建 築 装 飾と し て のフ レ ス コ画 技 法 と それ が 適 用さ れ る 天井
︑壁 面 な ど の 場︑ そし て技 法に つい て論 じて もい る
︒ 旧・
東宮 御所 の装 飾画 ま た日 本の 伝統 建築 内の 空間 装飾 画と して は︑ 禅宗 寺院 法堂 の天 井円 相に 描か れた 龍︑ 神社 仏閣 の花 天井
︑近 世書 院建 築の 天井
︑壁 面を 覆う 障壁 画な どが 存在 した
︒そ れら は明 確に 建築 空間 の意 味と 連動 した 体系 的な 図像 構成 をも って 描か れて きた
︒そ れに 対し て︑ 日本 近代 の西 洋建 築内 部空 間の 装飾 は︑ 控え めな 装飾 文様 や天 井の 照明 飾り をは じめ とす る部 分的 な漆 喰装 飾︑ ステ ンド グラ ス︑ など にと どま って いた
︒建 築内 部空 間の 天井 およ び壁 面を 絵画 表現 で装 飾し た記 念碑 的な 事例 とし ては
︑宮 内省 匠の 片山 東熊
︵嘉 永六
﹇一 八五 四
﹈│ 大 正 六 年︶ 設計 に な り明 治 四 十二 年に 竣工 した 旧・ 東宮 御所
︵迎 賓館 赤坂 離宮
︶の 館内 装飾 が挙 げら れる
︒ そ こで は︑ 黒田 清輝
︵慶 応二
﹇一 八六 六﹈
〜 大正 十三 年︶
︑浅 井忠
︵安 政三
﹇一 八五 六﹈
〜 明治 四十
﹇一 九〇 七﹈ 年︶ を筆 頭に
︑洋 画家
︑染 色家
︑七 宝工 芸家 の第 一人 者が 総 力 を 挙げ て 日 本神 話
︑花 鳥 風月 を 題 材 に室 内 装 飾を 行 っ た︒ ただ し︑ 画布 に油 彩で 描か れた
﹁朝 日の 間﹂ や﹃ 羽衣 の間
﹄を はじ めと する 天井 画群 は日 本人 画家 の手 にな るも ので はな く︑ フラ ンス に制 作依 頼を して 輸入 され たも ので あっ た
︒ この 宮殿 装 飾 画は
︑日 本 人 美 術家 た ち にと っ て 別格 の檜 舞台 であ り︑ 以降 洋風 建築 内部 装飾 の手 本と なっ た こ の 後︑ 明 治四 十 四 年 竣工
︑横 川 民 輔︵ 元治 元
〜昭 和 二十
建 築 空 間 と 装 飾 画
― 32 ―
年︶ 設計 にな る帝 国劇 場の 劇場
︑食 堂な どに 洋画 家・ 和田 英作
︵明 治七
〜昭 和三 十四
﹇一 九五 九﹈ 年︶ およ び岡 田三 郎助
︵明 治二
〜昭 和十 四年
︶ら が天 井画
︑壁 画を 描い てい るが
︑い ずれ も現 存し ない
︒ 辰 野は 留学 中の イタ リア 訪問 を機 に造 詣を 深め たフ レス コ画 につ いて 美術 家た ちを 相手 に啓 蒙し てい る︒ また 明治 期に おけ る西 洋建 築・ 装飾 の集 大成 とも いう べき 旧・ 東宮 御所 や帝 国劇 場の 完成 は直 近の 同じ 東京 にお ける 画期 的な 出来 事で あっ た︒ さら に︑ 自身 の設 計に なる 中央 停車 場︵ 現・ 東京 駅︑ 大正 三﹇ 一九 一四
﹈年
︶に も黒 田清 輝・ 和田 英作 によ る油 彩壁 画装 飾が 施さ れて いた
︒ に も か か わら ず
︑設 計 段階 で 辰 野に は 中 央 公会 堂 に 建物 に 付 加的 な 価 値 を与 え る 装飾 画 を 発案 す る こ とは な か っ た︒ とこ ろが
︑大 正七 年十 一月 に公 会堂 設計 事務 所が 刊行 した
﹃大 阪市 公会 堂竣 成記 念﹄ 誌に 寄せ た﹁ 公会 堂建 設に 関 する 概 要
﹂中 に 辰野 は 装 飾に つ い ては
︑た だ 松 岡 の制 作 に つい て の み 触れ
﹁・
・・ 貴 賓室 天 井 に 雄 渾 な る 大 作 を 僅 々三 箇 月 内 外に 完 成﹂ し たこ と を 特筆 し 労 を ねぎ ら う 言 葉 を 添 え て い る
︒ こ の 記 念 誌 に は 貴 賓 室 全 体 の 写 真 二 葉︑ 天井 画部 分の 写真 一葉 が掲 載さ れて いる
︒そ のこ とか らも
︑松 岡の 貴賓 室装 飾画 が中 央公 会堂 造営 にお いて 特筆 す べき 事 業 と なっ た こ とが 理 解 され る
︒で は
︑辰 野 は︑ どの よ う にし て 中 央 公会 堂 に おけ る 装 飾画 の 価 値 に 思 い 至 り︑ 実施 を考 える よう にな った ので あろ うか
︒ 長野
宇平 治 中 央公 会堂 にお ける 装飾 画の 成立 に関 して
︑設 計競 技審 査後 に応 募者 た ちが 語 っ た前 述 の 談 話記 録 中に 注 目 すべ き発 言が 認め られ る︒
― 33 ― 建
築 空 間 と 装 飾 画
一 等当 選の 岡田 は︑ 国内 の西 洋建 築に おい ては 内部 の装 飾が 疎か であ るこ と︑ 公会 堂の 性質 から 穏健 な装 飾が 必要 であ ると 述べ
︑自 らの 提出 断面 図面 にお いて ネオ
・ル ネサ ンス 様式 の花 綱飾 り や 天井 漆 喰 装 飾の 意 匠 を描 き こ んで いる
︒ そ して
︑二 等当 選の 長野 宇平 治が 以下 のよ うに 主張 して いる
︒ 東京
なり 大阪 なり で公 会堂 が出 来れ ば︑ 其の 市民 の何 かの 公の 場合 に使 うの だか ら︑ 一つ 市を 代表 する 意味 にな って 来る
︑す ると 会堂 の中 には 市の 歴史 を表 はす とか
︑市 の繁 栄を 示す とか の美 術的 の彫 刻や
︑壁 画等 を加 えて よい 訳で ある
・・
・ さ
ら に 経 費が な く とも 彫 刻・ 絵 画を 制 作 す る方 法 と し て
︑ 西洋 の教 会堂 のよ うに 寄付 を募 る具 体案 を語 り︑ それ が﹁ 日 本の 美術 家の 腕を 揮う 様な 機会
﹂で ある と述 べて いる
︒ こ こで
︑中 央公 会堂 建設 をめ ぐる 建築 家の なか で︑ 少な く とも 岡田 と長 野の 二名 が内 部装 飾の 必要 性を 論じ
︑そ のひ と り︑ 長野 が大 阪の アイ デン ティ ティ を象 徴す る歴 史画 によ る 装 飾 の 必 要 性 を 述 べ て い た こ と を 特 筆 し て お か ね ば な ら な い︒ 小論 冒頭 に引 用し た画 家・ 松岡 の課 題︑ つま り貴 賓室 装
図
13
メルクリウスとミネルヴァ神 像屋根飾り(小) 紙、鉛筆24.0×20.0 cm
大阪新美術館建設準備室所蔵建 築 空 間 と 装 飾 画
― 34 ―
飾画 にお ける 大阪 の歴 史︑ その 繁栄 の祝 福︑ さら には 松岡 下絵 にな る正 面玄 関棟 飾り のメ ルク リウ スと ミネ ルヴ ァ彫 像︵ 図儚
︶に よっ て大 阪の 商と 知を 象徴 する とい う課 題の 萌芽 がこ こに ある ので はな いか
︒ 辰 野が 生涯 の課 題と した 三大 事業 は日 銀本 店︵ 明治 二十 九年
︶︑ 中 央停 車場
︵現
・東 京駅 大 正三 年︶
︑帝 国議 事堂
︵ 国会 議事 堂︶ を設 計す るこ とで あっ た︒ 弟子 の長 野は 明 治 三十 年 に 日銀 技 師 とな り
︑大 阪 支 店建 築 に おい て は 臨時 建 築部 技 師 長 を勤 め
︑以 降 全国 の 支 店設 計 に 腕 を揮 っ た︒ 辰 野の 配 下 に 働い た 腹 心の 弟 子 のひ と り で あ っ た
︒論 者 は︑ その よう な辰 野と 長野 の関 係性 を鑑 みて
︑長 野に よる 貴賓 室装 飾画 の発 案が 辰野 に建 言さ れ︑ 実現 に向 かっ た可 能性 を指 摘し てお きた い︒ 三
貴賓 室 揮 毫嘱 託 松岡 壽 論
者は
︑中 央公 会堂 に装 飾画 の必 要性 を訴 え︑ コン セプ トや 経費 捻出 の具 体的 提案 をし た可 能性 のあ る人 物と して 長野 宇平 治を 挙げ た︒ 次ぎ に︑ 誰が 何時
︑貴 賓室 装飾 画を 松岡 に依 頼し たの かと いう 問題 を検 討し てみ たい
︒ 公 会堂 建設 に関 する 公的 記録 にお いて
︑松 岡の 名前 が初 めて 現れ るの は大 正七 年十 一月 に公 会堂 設計 事務 所が 刊行 した
﹃大 阪市 公会 堂竣 成記 念﹄ 中﹁ 設計 及監 督者
﹂の 項目 に﹁ 貴賓 室揮 毫嘱 託 松岡 壽﹂ と して であ った
︒ 一 方︑ 松岡 の側 にお いて も︑ 自身 の揮 毫控 えに 大正 六年 九月 に画 題を 選定 して 素描
・下 絵に 着手 し︑ 同七 年五 月十 二日 現場 揮毫 に取 りか かり 七月 十九 日に 完成 した こと
︑天 井︑ 各壁 画の 画題 と寸 法︑ 制作 経費 合計 千五 百四 十九 円五 十六 銭を 支出 し︑ 揮毫 料が 一万 円で あっ たこ とが 記録 され てい るの みで ある
︒
― 35 ― 建
築 空 間 と 装 飾 画
貴 賓室 装飾 画の 先行 研究 にお いて は辰 野を 松岡 への 依頼 者と する 森仁 史 氏 の見 解 が 広 く受 け 入 れら れ て きた
︒森 氏の 根拠 は︑ 松岡 と辰 野が イタ リア で知 り合 って 以来 の生 涯に 渡る 親密 な交 友関 係で ある
︒洋 画は 維新 後の 欧化 政策 の一 環で 推進 され たが
︑松 岡が 帰国 した 明治 二十 年代 には 国粋 主義 的な 洋 画 排斥 が 席 捲 し松 岡 も 苦渋 を 嘗 めた
︒工 部 大学 校 の 教 授職 に 就 いて い た 辰野 は
︑苦 境 に あっ た 松 岡が 洋 画 振 興の た め に設 立 し た明 治 美 術 会の 賛 助 会員 に な り︑ また 同じ く明 治美 術学 校の 校長 も引 き受 ける とと もに
︑松 岡に 工部 大学 校の 絵画 講師 を嘱 託す るな ど支 援を 欠か さな かっ た︒ その よう な両 者の 強い 結び つき から 辰野 が依 頼者 とす るこ とに 不自 然さ はな い
︒ し かし
︑橋 爪節 也氏 は︑ 公会 堂建 築事 務所 では 揮毫 者と して 横山 大観
︵明 治元
〜昭 和三 十三 年︶ も候 補に 挙が って い た が
︑工 事 監 督 の 片 岡 安 が
﹁画 家 の 選 定 は 建 築 家 の 権 限﹂ と 強 く 松 岡 を 推 し た こ と が 受 け 入 れ ら れ た と し て い る
︒ 片岡 は︑ 工部 大学 校で 松岡 に絵 画の 指導 を受 けた 関係 にあ たる
︒ま た
︑辰 野 は数 あ る 弟 子の う ち でも 片 岡 を抜 擢し て大 阪で 設計 事務 所を 運営 した 片腕 にあ たる
︒橋 爪氏 の指 摘も 総合 する なら ば︑ 弟子 であ り工 事監 督を 任せ てい た片 岡が 辰野 の盟 友で ある 松岡 を推 した とき に︑ 建築 顧問 とし ての 権限 をも つ辰 野が 我が 意を 得た り︑ と賛 同し たと 考え るの が自 然で はな かろ うか
︒ 松岡
への 揮毫 依嘱 貴 賓室 装飾 画の 揮毫 を辰 野が 松岡 に依 嘱し たと して
︑次 ぎに 依嘱 をし た時 期の 検討 に移 りた い︒ 松 岡が 揮毫 控え に画 題選 定を 大正 六年 九月 と記 して いる こと から
︑正 式な 揮 毫 依嘱 の 時 期 はそ れ 以 前に 遡 ら ねば なら ない
︒論 者は その 時期 につ いて
︑松 岡の 日記 に着 目す る︒ 大正 五年 は多 忙で あっ たの であ ろう か頻 繁に 人と 会っ
建 築 空 間 と 装 飾 画
― 36 ―
たこ とが 記さ れて いる が︑ 辰野 の名 は四 度確 認さ れる
︒片 岡の 名は 認め られ ない
︒ 大 正五 年十 一月 二十 一日 の日 記に は︑ 辰野 から 築地 精養 軒に 招待 され たこ と︑ 四日 後の 二十 五日 にそ の返 礼と して 辰野 の自 宅に 挨拶 をし に訪 ねた 記述 があ る
︒ 精養 軒は
︑日 記中
︑大 臣か ら の 招待 を 受 け たり
︑あ ら た まっ た 会 合を 開い たり
︑誰 かを 招待 する 場と なっ た料 亭と 位置 付け られ る︒ 画題 選定 の時 期か ら逆 算し て︑ 精養 軒で 辰野 が正 式に 依嘱 をし
︑松 岡が その 場で 快諾 して 返礼 に辰 野自 宅を 訪ね た︑ ある いは 辰野 の打 診に 対し て四 日後 に承 諾の 返答 をす るた めに 訪ね たと 考え るこ とが でき るの では ない か︒ ある いは これ 以前 に辰 野に よっ て貴 賓室 装飾 画に 関す る正 式な 依嘱 がな され
︑日 記の 日付 に最 終的 な打 ち合 わせ 等が なさ れた 可能 性も 考え られ よう
︒し かし
︑こ の時 期に 揮毫 受託 した と仮 定す るな らば
︑主 題を 決定 した 大正 六年 九月 まで の十 ヶ月 が小 論冒 頭談 話の 言に ある よう に︑ 古事 記や 旧事 記に あた り︑ 専門 家に 相談 しつ つ主 題選 択に 苦慮
・模 索し た期 間と 考え ると 時間 的に 妥当 では なか ろう か︒ 論 者は さら に一 歩踏 み込 んで
︑長 野に よる 大阪 のア イデ ンテ ィテ ィを 象徴
・称 揚す ると いう 発案 が松 岡に 伝わ って いた 可能 性も 考え たい
︒辰 野・ 松岡 の会 合に 先立 つ六 月十 二日 夕刻
︑そ して 八月 七日 の夕 刻の 二度 にわ たっ て長 野は 松岡 を自 宅に 訪ね てい る︒ 長野 が両 親の ペン 肖像 画を 松岡 に依 頼す る用 件で あっ たが
︑論 者は 両者 の間 に辰 野の 意向 を受 けた 揮毫 の打 診や 主題 につ いて 何ら かの やり とり があ った 可能 性も 示唆 して おき たい
︒
― 37 ― 建
築 空 間 と 装 飾 画
四
﹁ 貴賓 室 壁 画﹂
﹁ 雄 渾な る 大 作﹂ 貴賓
室の 建築 空間 と装 飾概 要 こ こで 松岡 作品 を論 じる にあ たり
︑貴 賓室 の建 築的 条件
︑そ して 松岡 作品 以外 の装 飾を 概観 して おき たい
︒ 建築
的条 件と 装飾 貴 賓室 は︑ 先に 触れ たよ うに
︑中 之島 東端 で淀 川の 上流
︑東 向き に建 つ公 会堂 三階 の大 アー チの 内側 に設 えら れて いる
︒南 北十 六・ 三六 メー トル
︑東 西十
・九 メー トル
︑天 井高 七
・三 五メ ート ルと 南北 に長 い部 屋で 南北 の壁 寄り にそ れぞ れ二 本 の円 柱が 立つ
︒扉 は南 北壁 面の 西端 に一 面ず つ︑ 西面 に三 面の 扉 があ り︑ 中央 扉が 大き く設 えら れて いる
︒採 光は
︑建 築家 にと っ ても 画家 にと って も命 であ る︒ とこ ろが
︑こ こで は東 面に 位置 す る大 アー チ窓 から 外光 が入 るの みで あり
︑し かも ステ ンド グラ ス がは めら れて いる
︒ 室 内装 飾は 四種 類で 構成 され てい る︒ それ らは
︑東 面大 アー チ 窓 のス テ ン ド グラ ス
︵図 儛︶
︑西 お よ び南 北 三 面 の蛇 腹 平 部 の 円
図
14
木内真太郎作 ステンドグラス建 築 空 間 と 装 飾 画
― 38 ―
形装 飾文 様︑ そし て松 岡に よる 天井 画と 西壁 面︑ 東西 壁面 の三 連画 およ び櫛 形 壁三 面装 飾文 様画
︑壁 装飾 刺繍 十四 面か らな る︒ ここ で︑ 松岡 の天 井画
・壁 画 以外 の室 内装 飾に つい て概 観す る
︒ ス テ ン ド グラ ス は 木 内 真 太 郎
︵明 治 十 三
〜昭 和 四 十 三 年︶ 作 に な り︑ 大 阪 市章 の澪 標と 鳳凰 が主 題と なっ てい る︒ 半径 五・
〇一 メー トル の半 円形 大ア ー チは
︑中 柱二 本で 三分 割さ れ︑ 中央 区画 上部 に同 心円 で構 成さ れた 主要 モチ ー フが 配置 さ れ て いる
︵図 儜︶
︒ この 区 画 は縦 横 三 本の 鉛 枠 が グリ ッ ド 線と な り 十 六個 の 方 眼 を形 成 し てい る
︒そ の 中 心 に 方 眼 四 個 分 の 正 方 形 に 正 円 が 内 接 し︑ 四隅 は明 治二 十七 年に 制定 され た大 阪市 章の 澪標 が配 され
︑さ らに 直径 が 半分 の正 円が 中心 に置 かれ てい る︒ 中心 の円 は赤 地に 透明 なレ ンズ 状の 平凸 硝 子が 取り 囲み
︑八 本の 鉛枠 が放 射す る光 のよ うに 外の 円を 分割 して いる
︒こ の 外側 の円 は左 右か ら鳳 凰に 抱か れて いる
︒中 央部 分の 下段 は 透明
・無 地の 硝子 を通 して 窓外 の景 色が 遠望 され る︒ 柱両 側 およ びア ーチ 内側 は水 滴の よう な平 凸硝 子を 囲む 幾何 学的 な 連続 模様 の帯 に隈 取ら れて いる
︒ ア ーチ 窓の ステ ンド グラ ス中 央部 は鳳 凰と 中心 の円 縁取 り 部分 に僅 かな 色彩 があ るほ かは 透明 であ り室 内に 無地 の板 硝
図
15
図14
部分 図16
壁刺繍鳳凰― 39 ― 建
築 空 間 と 装 飾 画
子に 準じ る採 光を 可能 にし てい る︒ 連続 紋様 の帯 部分 のみ が青
︑緑
︑紫
︑赤 とい った ステ ンド グラ スら しく 華や かな 色彩 であ るが
︑随 所に はめ こま れた 平凸 硝子 がこ ぼれ 落ち る水 滴の よう に複 雑な 光の 反射 効果 をも たら して いる
︒ 壁 刺繍 十四 面は
︑す べて 渋い 伝統 色に 先染 めし た絹 糸に よる 駒繍 技法 で描 かれ てい る︒ 意匠 は︑ すべ て花 咲く 桐の 枝を くわ えた 一羽 もし くは 番の 鳳凰 で飛 翔︑ 雲に 乗る など のヴ ァリ エー ショ ンが ある
︵図 儝︶
︒ 蛇 腹の 円形 装飾 は二 五種 類で 南北 と西 に三 十八 個が 配さ れ︑ いず れも が天 平風 の紋 様で ある
︒ 以 上の 装飾 意匠 はす べて 伝統 的な 吉祥 図像 であ り︑ とり わけ 東面 のス テン ドグ ラス は旭 日を 思わ せる 円を 澪標 の市 章︑ 鳳凰 が抱 く意 匠で 大阪 の繁 栄を 寿ぐ 図像 内容 とな って いる
︒
﹁ 雄渾 なる 大作
﹂ 貴 賓 室 内 部 に は︑ 松 岡 作 品 の 他 に︑ そ れ ぞ れ が 意 匠 を 凝 ら し︑ 技術 の限 りを 尽く した ステ ンド グラ ス︑ 壁刺 繍︑ 蛇腹 の円 形装 飾画 施さ れて いる こと を確 認し てき た︒ しか し︑ 小論 冒頭 の新 聞記 事が
︑﹁ 館 内諸 装飾 中最 も人 目を 惹く 階上 貴賓 室壁 画﹂ と賞 讃し
︑辰 野が 装飾 につ いて 唯一 触れ
﹁雄 渾な る大 作﹂ と絶 賛し た松 岡作 品の 考察 に入 りた い︒
図
17
貴賓室内装飾画配置図建 築 空 間 と 装 飾 画
― 40 ―
松 岡は
︑こ れら の絵 画群 制作 にあ たり
︑下 絵・ 素描 を完 備し たの ちに 現 場 に入 り
︑天 井
︑壁 面 と も に 漆 喰 地 に 直 張 り し た 麻 布 画 布 に 油 彩 で 描 い た︒ それ ぞれ の室 内で の位 置は 配置 図︵ 図儞
︶に 示す
︒ 作 品 解 釈 の手 が か りと な る のは
︑ま ず
︑﹃ 大 阪 市公 会 堂 竣成 記 念﹄ に 収 録さ れた
﹁絵 画 及神 像
﹂に 記 され た 項 目 であ る
︒画 題︑ 寸 法︑ 画題 の 内 容 説明 か ら な る︒ 更に
︑﹃ 公 会 堂絵 画 説 明書
﹄と 題 し
︑大 正 七 年 七 月 松 岡 壽誌 と 結 ば れた 活 版 印 刷 仮 製 本 の 小 冊 子 が 存 在 す る
︒﹃ 竣 成 記 念﹄ 誌 には 欠け てい た北 壁面 の商 神素 戔嗚 尊お よび 南壁 面の 工神 太玉 命に つい て の画 題説 明︑ 末尾 に﹁ 附言
﹂を 加え た内 容で
︑大 正七 年七 月 松岡 壽誌 と 末尾 に 記さ れ て い るこ と か ら松 岡 の 私家 本 と 見 なさ れ て いる
︒ま た
︑﹃ 竣 成 記念
﹄誌 中 の 画 題説 明 と 文言 に 多 少の 異 同 が あ る︒ 附言 には 主題 選定
︑制 作上 の工 夫や 苦慮 した こと など 四項 目が 記さ れて いる
︒ こ れら の松 岡に よる 絵画 説明 書の 順に 従い
︑ま た現 存す る約 六十 点の 下絵
・素 描類 に主 題構 想や 図像 細部 のモ チー フ︑ 造形 的な 着想 源な どを 検証 しつ つそ れぞ れの 作品 の図 像内 容を 検討 した い︒
図
18
《天地開闢全図》下絵紙、鉛筆・水彩61.2×60.4 cm
大阪新美術館建設準備室所蔵図
19
《天地開闢》伊弉冉尊・伊 弉冉尊 紙、鉛筆11.0×28.8 cm
大阪新美術館建設準備室所蔵― 41 ― 建
築 空 間 と 装 飾 画
図
20-3
《天 地 開 闢》方 眼 入 国 常 立命紙、鉛筆、墨、赤インク36.4
×30.0 cm 大阪新美術館建設準備室 所蔵
図
20-4
《天地開闢》伊弉冉尊衣襞 紙、鉛筆衣襞紙、鉛筆47.8×41.2 cm
大阪新美術館建設準備室所蔵図
20-1
《天地開闢》国常立命 紙、鉛筆
47.1×40.5 cm
大阪新美術館建設準備室所蔵 図
20-2
《天地開闢》国常立命 紙、鉛筆
47.6×39.5 cm
大阪新美術館建設準備室所蔵
建 築 空 間 と 装 飾 画
― 42 ―
五 貴賓 室 装 飾画 の 図 像解 釈 下絵
・素 描 現 存 す る 下絵
・素 描 類 はす べ て 洋紙 を 用 い︑ 大 半は 鉛 筆︑ 筆︑ ペ ンの 線 描 であ る が
︑十 一 点 は 水 彩 で 描 か れ て い る︒ 構図 全体 の下 絵︑ 個々 の 人物
︑モ チ ー フ の習 作 が 含ま れ る︒
︽ 天地 開 闢
︾を 例 に取 る と︑ 全 体の 構 想︵ 図償
︶や 人物 の配 置︵ 図儠
︶を 模索 し︑ 個々 の人 物に つい ては
︑モ デル を用 いて
︑ポ ーズ
︑手 や顔
︑衣 襞な どの 入念 な習 作を 重 ね︑ 方眼 上 に 人 物像 を 確 定し て い る︵ 儡︱
1〜 4︶
︒ ルネ サ ン ス 以来 の 伝 統的 な 絵 画 制作 の 過 程 が こ こ に 認 め ら れ る︒ そし て︑ 全体 の構 想も 個々 の人 物も 壁面 や天 井を 見上 げた 位置 にふ さわ しい 仰角 で描 かれ てい る︒ こ こで 説明 書に 記載 され た順 に従 い作 品の 解釈 を行 う︒ その 上で
︑あ らた めて 貴賓 室の 建築 空間 の条 件を 踏ま え作 品全 体の 図像 構成 を解 読す る︒ 以下
﹃絵 画説 明書
﹄中 の漢 字は 新字 体に 改め 寸法 につ いて は括 弧内 にメ ート ル法 換算 を併 記す る︒ 一
天井
︵ 配置 図A
︶︵ 図3
︶ 一 画面 長 四 十尺 六寸
︵一 二三 二セ ンチ メー トル
︶ 幅 三 十六 尺一 寸︵ 一〇 九三
・八 セン チメ ート ル︶ 二 画題 天 地開 闢
― 43 ― 建
築 空 間 と 装 飾 画
天 つ神
︑伊 邪那 岐︑ 伊邪 那美 ノ二 神ニ 天ノ 瓊矛 ヲ賜 ヒ︑ 之ヲ 以テ 此ノ 漂ヘ ル国 ヲ修 理固 成セ ヨト 命ジ 玉フ
︑二 神之 ニ応 ジテ 我ガ 大八 州ヲ 建設 シ玉 ヒシ 者︑ 実ニ 我ガ 大日 本帝 国ノ 基礎 ナリ
︒ 画題 ハ此 ノ神 話ヨ リ採 テ天 地開 闢ト 号ス
︑抑 モ国 ノ建 設ハ 人生 ノ事 業中 最モ 雄大 ナル 者︑ 特ニ 我ガ 帝国 ノ古 史ニ 特殊 ノ光 彩ア ル天 上ノ 古事 ヲ選 ミシ 所以 ナリ
︒ 説
明中 の後 半は
﹃絵 画説 明書
﹄に おい て追 加さ れた もの であ る︒ 古事 記︑ 日本 書紀
︑旧 事記 のい ずれ にも 出典 が求 めら れる 天地 開 闢 を 主題 と す る︒ 天井 南 北 の両 側 は 曙 光に 染 ま る雲 が 覆 い︑ 南側 に光 に包 まれ た国 常立 命が 天の 瓊矛 を構 え︑ 北側 に伊 弉諾
・伊 弉冉 両尊 が 両手 を 拡 げ 瓊矛 を 受 け 止 め よ う と し て い る
︒東 西 両 端 近 く に 鳥 が 飛 翔 す る︒ 国常 立命
︑伊 弉諾
・伊 弉冉 両尊
︑二 羽の 鳥が すべ て向 かい 会う 配置 とな って いる
︒ こ の天 井画 には 二十 点の 下絵
・素 描が 現存 する
︒水 彩下 絵︵ 図償
︶か ら天 井画
︵図 3︶ への 大き な変 更点 は︑ 国常 立命 が天 の高 みか ら伊 弉諾 尊・ 伊弉 冉尊 のほ うに 降来 る構 図か ら向 かい 会う 配置 に改 めら れた こと であ る︒ 実際 の室 内で は︑ 下絵 の場 合︑ 見上 げる 視点 の位 置が 限定 され るこ とを 避け たた めと 思わ れる
︒ま た︑ 櫛形 壁の 意匠 も鶴
︵図 償︶ から エビ カツ ラ︵ 図7
︶に 変更 され てい る︒ 天井 画の 鳥を 際立 たせ るた めの 変更 であ ろう
︒天 地開 闢の
図
21
《天 地 開 闢》鵄(鳶) 紙、水 彩・鉛 筆47.4×31.6 cm
大阪新美術館建設準備室所蔵建 築 空 間 と 装 飾 画
― 44 ―
図
22
ミ ケ ラ ン ジ ェ ロ《最 後 の審判》キリストとマリア部分 ヴァティカン、システィーナ礼 拝堂1533-41
年 祭壇画 図24
ミケランジェロ《天地創造》光と闇を分 離 す る 神 部 分
1508-12
年 ヴ ァ テ ィ カ ン、システィーナ礼拝堂天井画図
25
ミケランジェロ《天地創造》日と月と 草木を創造する神 部分1508-12
年 ヴァテ ィカン、システィーナ礼拝堂天井画図
23
《天地開闢》伊弉諾尊・伊弉冉尊部分 紙、水彩・鉛筆28.0×45.0 cm
― 45 ― 建
築 空 間 と 装 飾 画
素描 二十 点の 中に 水彩 二 点︑ 鉛筆 二点 の鳥 が含 ま れ る
︵図 儢︶
︒そ れ ら は 目の 縁の 隈取 り︑ 両翼 の 白い 斑点 とい う際 だっ た 特徴 から 鳶︵ 鵄︶ と同 定 でき る︒ つま り︑ 金鵄 勲 章の 由来 とな った 鳥で あ る︒ 神武 天皇 東征 のお り に現 れた 金鵄 が長 髄彦 の 軍勢 の目 を眩 ませ たと いう 神話 中の 吉祥 であ り︑ 曙光 に染 まる 雲上 の天 地開 闢に 一層 の瑞 祥を 加え てい る︒ 人 物造 形の 構想 段階 で特 筆に 値す るの は︑ ミケ ラン ジェ ロの シ ス テ ィ ー ナ 礼 拝 堂 の 影 響 で あ る
︒国 常 立 命︵ 図儡
︱
3
︶は
︽ 最後 の 審 判︾ の キリ ス ト︵ 図儣
︶と の
︑ま た 水 彩 で 下 半 身 の み描 かれ た伊 弉諾 尊︵ 図儤
︶は 雲の 色彩 も含 めて 天井 画の
︽光 と闇 を分 離す る神
︾︵ 図 儥︶
︑伊 弉冉 尊は
︽日 と月 と草 木を
創造 図
26-1
《天地開闢》(図3)国常立命(部分)
図
26-2
《天地開闢》(図3)伊弉諾
尊(部分)図
26-3
《天地開闢》(図3)伊弉冉
尊(部分)建 築 空 間 と 装 飾 画
― 46 ―
す る 神︾
︵ 図儦
︶と の 類 似 性 が 指 摘 で き よ う
︒し か し︑ 天井 画で は国 常立 命は より 緩 や かな 姿 勢 に︑ 伊 弉諾
・伊 弉冉 両尊 は聖 痕を 受け る聖 フラ ンシ ス コ 図像 を は じ めキ リス ト教 図像 にお いて 天を 仰ぐ 人物 の 伝 統的 な ポ ー ズに 変更 され てい る︵ 図儧
︱
1〜 3︶
︒ 二 天井 側櫛 形壁
︵配 置図 B︶
︵ 図4
︶ 一 画 面 長 三十 四 尺 一寸
︵一
〇 三 三・ 二 セン チメ ート ル︶ 幅 七尺
︵二 一二
・一 セン チメ ート ル︶ 二 画 題 仁徳 天皇 仁 徳天 皇ハ 都ヲ 浪速 ニ定 メ玉 ヘリ
︑浪 速ハ 今ノ 大阪 ナリ
︑天 皇高 殿ニ 登テ 四方 ヲ望 ミ︑ 群臣 ニ向 テ﹃ 国中 烟気 起 ラザ ル ハ 百 姓ノ 貧 シ キガ 為 メ ナラ ン
︑今 ヨ リ 以後 三 年 人民 ノ 課 役 ヲ除 カ ン﹄ ト 敕シ 玉 フ 是ニ 於 テ 百 姓 大 ニ 富 ミ︑ 烟気 多ク 起ル ニ至 テ︑ 天皇 再ビ 之ヲ 望ヨ
﹃朕 富メ リ﹄ ト喜 ビ玉 フ︒ 此 ノ史 実ハ 我ガ 国体 ノ精 華ニ シテ 君民 ノ情 猶父 子ノ 如キ モノ アリ
︑特 ニ大 阪ト 深縁 アル ヲ以 テ︑ 採テ 之ヲ 画題 トナ セリ
︑描 ク所 ハ烟 気多 ク起 ラザ ルヲ 望ミ 玉フ 所ナ リ︒ 最
後の 一文 は画 題を より はっ きり させ るた めの 加 筆 部 分で あ る︒ こ の画 題 も 天地 開 闢 と 同様 に 古 事記
︑日 本 書 紀︑
図
27
《仁徳天皇》(図4)弓人部分
紙、鉛筆48.0×30.8 cm
― 47 ― 建
築 空 間 と 装 飾 画
旧事 記に 出典 をも つ︒ 下絵
・素 描類 は鉛 筆に よる 六点 で︑ うち 五点 は壁 画中 の 人物 ひと りず つの 姿勢
︑衣 襞︑ 頭部 に重 点を 置い てい る︒ 仁徳 天皇 およ び弓 人 の習 作に おい て腰 の後 ろに 手を まわ す姿 勢は 西洋 のヘ ラク レス 図像 を連 想さ せ る︵ 図儨
︶︒ 難 波の 宮と 善政 に因 む画 題で ある が︑ 加筆 され た文 章︑ 家並 みか ら上 がる 煙 がご く僅 かで あ るこ と か ら︑ す でに 民 が 活気 を 取 り戻 し た 繁 栄段 階 で はな く
︑ これ から の繁 栄を 期す る段 階を 表し てい ると 解釈 され よう
︵図 儩︶
︒ 三
天井 側櫛 形壁 画紋 様︵ 配置 図E
︶︵ 図 7︶ 榊 ハ 神ノ 象 徴 ナ リ︑
﹃エ ビ カ ツラ
﹄ハ 神 代 ヨリ ノ 植 物 トシ テ 知 ラレ タ ル 者︑ 之ニ 勾玉 ヲ配 合便 化シ テ一 ノ紋 様ヲ 作レ リ︒ こ
の壁 画紋 様に 関す る下 絵は 現存 しな い︒ 榊は 云う まで もな く古 来︑ 神の 依り 代で ある
︒エ ビカ ツラ とは 葡萄 葛つ まり 山葡 萄も しく は類 種の エビ ヅル のこ とで
︑吉 祥と され るの は︑ 伊弉 諾尊 が黄 泉降 りを して 恐ろ しい 姿に 変貌 した 伊弉 冉尊 から 逃れ るた めの 時間 稼ぎ に投 げ棄 てた 果実 であ った こと に因 む︒ 大小 三連 の櫛 形壁 内部 に紫 色の 実を 付け たエ ビヅ ルが 緑の 葉に 包ま れる 様を 紋様 化し たも ので
︑榊 と勾 玉の 紋様 がア ーチ の帯 状紋 様と なっ てい る︒
図
28
西櫛形壁《仁徳天皇》(図4)背景部分
建 築 空 間 と 装 飾 画― 48 ―
四 北側 壁画
︵配 置図 C︶ 一 画 面 長 八尺 一寸
︵二 四五
・四 セン チメ ート ル︶ 幅 九尺 一寸
︵二 七五
・七 セン チメ ート ル︶ 二 画 題 商神 素戔 嗚尊
︵図 5︶ 素
戔嗚 尊ハ 天照 大神 ノ御 弟ニ シテ 武勇 ノ誉 レ高 キ神 ナリ
︑夙 ニ朝 鮮ニ 渡リ
︑日 鮮貿 易ノ 端ヲ 開キ 玉フ
︑其 ノ鬚 髯ヲ 抜キ テ︑ 船材 ヲ作 リ︑ 之ヲ 以テ 船舶 ヲ造 リテ 朝鮮 ノ文 物ヲ 輸入 ス︑ 金銀
︑土 器︑ 其ノ 他ノ 百貨 来ル
︑是 レ此 ノ尊 ヲ我 ガ日 本ノ 商神 トナ ス所 以ナ リ︒ 北
及び 南壁 は︑ 金縁 で額 装し た三 連祭 壇画 のよ うな 形式 の壁 画で 飾ら れて いる
︒画 題に つい ての 説明 文は
︑お そら く観 者が 画題 を理 解す るた めの 加 筆 部 分 で あ ろ う
︒素 描 は 三 柱 の 神 を 鉛 筆
︑ペ ン︑ 墨で 描い た五 点が 存在 する
︒壁 画で は中 央が
図
29-1
北壁《商神素戔 嗚 尊》(図
5)中 央・素 戔 嗚 尊 大 阪
市中央公会堂貴賓室 図
29-2
北壁《商神素戔 嗚 尊》(図
5)左・大 黒 主 神 大 阪 市
中央公会堂貴賓室
― 49 ― 建
築 空 間 と 装 飾 画
長い 鬚髯 を抜 いて 船を 造ろ うと する 素戔 嗚尊 で貿 易に よっ ても たら した 品々 が傍 らに 添え られ てい る︵ 図優
︱
1︶
︒向 かっ て左 の人 物は 日本 書紀 では 素戔 嗚尊 の子
︑古 事記 では 六世 の孫 にあ たる 大黒 主神 とさ れる
︒大 黒主 神は
︑国 造り の神
︑農 業神
︑商 業神
︑医 療神 など の属 性を 持つ が︑ ここ では 素戔 嗚尊 が商 業神 と説 明さ れて いる こと
︑巾 着の よう な袋 をも つこ とか ら 商業 神 と し て現 さ れ てい る
︵図 優︱
2︶
︒ 右側 の 人 物 は日 本 書 紀︑ 旧事 本 紀 に素 戔 嗚 尊 の子 と し て 現 れ る 五 十 猛 神 で︑ 林業 神と して の属 性を 象徴 し根 回し をし た榊 に手 を添 えて いる
︒背 景の 明る い空 には 鴎が 飛翔 する
︵図 優︱
3
︶︒ 五
南側 壁画
︵ 配置 図D
︶
︵図 6︶ 一 画 面 長 八尺 一寸
︵二 四五
・四 セン チメ ート ル︶ 幅 九尺 一寸
︵二 七五
・七 セン チメ ート ル︶ 二 画 題 工神 太玉 命 太
玉命 ハ高 皇産 霊神
︑神 皇産 霊神 ノ御 子ニ シテ
︑齋 部氏 ノ遠 祖ナ リ︑ 天照 大神
︑天 窟ニ 入リ 玉ヒ
︑六 合闇 黒ト
f
図
29-3
北壁《商神素戔 嗚 尊》(図
5)中 央・五 十 猛 神 大 阪
市中央公会堂貴賓室
建 築 空 間 と 装 飾 画
― 50 ―
ナリ ケレ バ︑ 八百 万神 之ヲ 憂ヒ
︑議 ヲ凝 ラシ タ ル 末︑ 先 ヅ 太 玉 命 ヲ シ テ
︑鋳 物︑ 織 物︑ 玉 作
︑ 木 作
︑鍛 冶 ニ 長 ゼ ル 諸 神 ヲ 督 シ テ
︑大 神 ノ 宮 殿︑ 及ビ 諸弊 物ヲ 作ラ シム
︑其 ノ功 甚ダ 偉ナ リ シガ 為メ ニ︑ 此ノ 命ヲ 以テ 我ガ 日本 ノ工 神ト ナ ス 大阪 ハ商 工業 ノ繁 栄セ ル地 ナレ バ此 ノ帝 国固 有 ノ商 神ト 工神 トヲ 取テ
︑南 北 両側 ノ壁 画ト ナセ リ 画
題の 太玉 命は 天照 大神 を岩 屋 から 誘い 出す ため に勾 玉飾 り︑ 八 咫鏡 など を造 作し た工 業神 であ る
︵ 図儫
︱
1
︶︒ 人 物 や 機︑ 玉 磨 砥 石 など 六点 の習 作が ある
︒太 玉命 は 中央 に立 ち斧 を握 り︑ その 手前 には 織女 が機 を操 り︑ 左画 面で は八 咫鏡 を携 える 女性
︵図 儫︱
2
︶︑ 右画 面で は勾 玉を 研ぐ 男性 が現 され てい る︵ 図儫
︱
3︶
︒細 部の モチ ーフ で特 筆す べき は︑ 画面 左下 隅に 描か れた 露草
︵図 儫︱
4
︶︑ 太玉
図
30-1
《工 神 太 玉 命》(図6)中 央
・太玉命、機女 大阪市中央公会堂 貴賓室
図
30-2
《工 神 太 玉 命》(図6)左・八咫鏡を携える女性
大阪市中央公会堂貴賓室― 51 ― 建
築 空 間 と 装 飾 画
図
30-3
《工 神 太 玉 命》(図6)
右・勾玉を研ぐ男性 大阪市中 央公会堂貴賓室
図
30-5
《工 神 太 玉 命》(図6)中 央・太
玉命(太玉命頭上の鷽部分)大阪市中央 公会堂貴賓室図
30-4
《工神太玉命》(図6)左
・八咫鏡を携える女性図(露草 部分)大阪市中央公会堂貴賓室
建 築 空 間 と 装 飾 画
― 52 ―
命の 頭上
︑背 後 に 茂 る栃 の 枝 に鷽 の 番 が止 ま っ て いる
︵図 儫︱
5
︶点 で ある
︒栃
︵橡
︶は 古 来︑ 葉︑ 樹 皮︑ 木部
︑実 とも に薬 用︑ 染料
︑材 木︑ 食料 に供 され てき た︒ 露草 は古 くは 染料 とし て︑ その 後は 布に 下絵 を描 く際 に用 いる
﹁青 花﹂ とな った 植物 であ り︑ 染織 との 関連 が指 摘さ れよ う︒ また 鷽は 中央 公会 堂か らほ ど近 い淀 川右 岸に 位置 する 大阪 天満 宮の 鷽替 え神 事を 連想 さ せ る︒ 鷽 替え と は﹁ 鷽﹂
︵ うそ
︶を
﹁嘘
﹂と 読 み 替え
︑前 年 の 災 厄を 嘘 に 変え る と いう 神事 であ り︑ 吉祥 を添 える 意図 が指 摘で きよ う︒
図
31
施薬 紙、水 彩・鉛 筆11.0×28.8 cm
大 阪 新 美術館建設準備室所蔵図
32
海彦 紙、水 彩・鉛 筆11.0×28.8 cm
大 阪 新 美術館建設準備室所蔵図
33
大地 主 神 紙、水 彩・鉛 筆11.0×28.8 cm
大 阪新美術館建設準備室所蔵― 53 ― 建
築 空 間 と 装 飾 画