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狩人は声も立てずにわらう : Natty Bumppoの饒舌 と沈黙

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(1)

と沈黙

著者 林 以知郎

雑誌名 同志社大学英語英文学研究

号 101

ページ 39‑61

発行年 2020‑03

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/00027611

(2)

―Natty Bumppoの饒舌と沈黙

林   以知郎

はじめに 皮脚絆連作の中心に居るのはNatty Bumppoなのか

 Wayne FranklinによるJames Fenimore Cooper伝上巻が刊行されてより十年 の歳月を隔て、待ち望まれてきた下巻が上梓され伝記の完成をみたことは、

洞察に満ちてはいるが不完全なJames Grossmanの伝記にこの70年間頼らざる を得ない状況に甘んじていたCooper研究者にとって、時代文脈感覚の深化と 評伝という批評ジャンルの有効性を再確認させる転機をもたらしたといえ る。1ミズーリ協定成立の年から1850年の妥協に至る30年の時間幅の間で変 容していったこのロマンス作家による思想的身置きや民主主義社会観、変動 していく出版様態とともに変転していった職業作家としての経済事情、また 新しい作家世代の登場とともに変化していった読者の側からの期待の地平な ど、ロマンス執筆の営みを支える基盤の部分が揺れ動いていった時代文脈と 毀誉褒貶に満ちた作家の生の軌跡を、千五百ページにおよぶFranklinの伝記 は克明に描き出してくれる。

 そのような研究動向の発展的契機にあって、Cooper研究者にとって確 かめてみたい疑問がひとつある。すなわち、1822年から23年にかけてThe Pioneers執筆を進める過程で、さらにこの辺境開拓地ロマンスを第一作とし て皮脚絆物語群を連作化していく過程において、CooperがNatty Bumppoを ロマンスの中心的人物として造型することに意識的になったのはいつの時 点であったのか、という問いである。アメリカのアダム的無垢のヒーロー

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創出、というD.H. Lawrenceに代表される神話論的解釈に慣れ親しんできた 読者にとっては、ロマンスにNattyの姿が書き込まれたその時から、この無 垢なる狩人の造型をロマンス空間の中心に据えようとする意図が作家の中 に胚胎していた、と考えてみたい思いにとらわれるであろう。しかしなが ら、Franklinの伝記と、さらにその先駆的業績を提供したJames Franklin Beard 編の日記・書簡集をつぶさに読み込んでみても、Nattyにロマンス群を結ぶ ヒーローとしての造型を帯びさせようとCooperが選択した時期については、

明確な形をとってうかがい知ることは出来ない。Bumppoが当初、ロマン スの「周辺的」人物として配置されていたであろうことについて、Franklin は次のように類推している。“[Cooper] wrote The Pioneers (1823) as a fictional exploration of his now-lost boyhood home, Cooperstown, and introduced the figure of Natty Bumppo into it almost inadvertently—not as the intended hero but as a ‘low’

character probably meant to provide little more than a bit of local color” (xxvi)。2

「深く注意を払わないで描きこまれてしまった」Nattyが当初から連作ロマン スの名祖的ヒーローであったのか、という問いに然りと答えることに一抹の ためらいを感じざるを得ない事情を裏書きするかのように、連作初期三作の 題名そのものはNattyを直接指示してはいない。この狩人を直接に指示する 題名をロマンスが帯びるのは後期二作、すなわちThe Prairieにおいて死期を 迎えたNattyが「蘇る」The PathfinderおよびThe Deerslayerに至ってからであ る。ロマンス・ヒーローとしてのNattyの出現と作家によるその認知は、こ ちらの思惑をはぐらかすかのように、Cooperの執筆過程の中で遅延されてい く印象を受ける。狩人の身体が確固とした輪郭とヒーローとしての存在感を 伴ってロマンス空間の中心に立ち現れてくる瞬間が遅延されていくこのもど かしさの感覚と同質のものを、Richard Mortonは連作を追うごとにNattyの外 貌の記述が省略され、ヒーローの描写が希薄化していく現象に感じ取ってい

る(“The Double Chronology”)。強靭な体躯と戦士の技法を付与され冒険ロ

マンスのヒーローとして焦点化されているはずのNatty Bumppoの身体の在り

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ようは、実はロマンス第一作の立ち上がりから連作化に至る過程において、

不安定に揺れ動き、読む者の意識の視野に明確な形象を容易に形作りはしな いのである。一定の社会状況のうちに存在することを拒否することで当の社 会と世界をラジカルに批判・否定する人物像にTerence Martinは「非在の人物」

(“negative character”)という名称を与え、その逆説的な属性をこう説明す る。“Americans have long found a series of compelling negatives the surest way of claiming identity…. [T]o be sure of what they were, Americans … acquired a habit of asserting what they are not, both nationally and personally” (230)。 Martinが「否 定の契機においてこそ獲得されるアイデンティティ」という表現で捉えてい る逆説的な存在の在りようは、ロマンスの中心に定位されることに抗うかの ように揺れ動くNatty Bumppoのヒーロー像についても重ね合わせることが出 来るのではないか。

 狩人の身体がその輪郭を揺るがせ、希薄にさせていく、この奇妙に不安定 な感覚を、まずは次節においてFenimore Cooper自身の身振る舞いにみとって みよう。作家のたたずまいが醸し出す不連続性の感覚は、Nattyに特有な仕 草である「声なきわらい」として視覚化されるはずである。続く節において、

狩人のこの「声なきわらい」という不可解な仕草を「解読されるべき謎」と してプロットがいかに駆動されていくかについて、The Pioneersを中心に読 み解いてみたい。狩人の「声なきわらい」として表象されるNatty Bumppoの

「謎」を結節点とすることで、声を立てずにわらう不機嫌な狩人の姿にアン テベラム期冒険ロマンスのヒーローに固有の主体の在りかたを探ってみるこ とが本論の目的とするところである。

1.Cooperの/Nattyの奇妙な振る舞い

 James Fenimore Cooperは6フィートを越える身の丈と200ポンドにおよぶ巨 躯に恵まれた偉丈夫であった。FranklinのCooper伝から、同世代人であった

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Washington Irvingの言葉を引いてみる。“[I]t seems but the other day that I saw him at our common literary resort at Putnam's, in full vigour of mind and body, a very ‘castle of a man,’ and apparently destined to outlive me, who am several years his senior” ( 505)。 Cooper逝去を悼んで開催された追悼式において座長を務 めたIrvingの言葉であるが、Cooperを「城塞のごとき御仁」と喩えることで、

その偉丈夫ぶりとともに、五十数点に至る著作を書き連ねたこの作家の文学 的饒舌さにもまた、Irvingは思いを馳せていたのであろう。紹介したIrvingの 弔辞に織り込まれたCooper評は、ふたりの作家たちの最後となった出会いの 回想として語られている。Cooperを含んだ合衆国海軍人脈の群像伝を著した

Philip McFarlandは、ふたりの出会いを次のように再現している。Cooper逝去

に数か月先立つ1851年初頭、場所は両作家それぞれの作品群の再版刊行を手 掛けていた出版者George P. Putnamのニューヨーク、パーク・プレイスにあ る社屋で両作家は顔を合わせる。先に社屋にあってPutnamと談笑していた

Irvingの背は戸口に向けられており、遅れて来訪したCooperの姿にIrvingは気

づかない。Cooperはといえば、先客に声をかけることもなく佇んでいる。場 を気遣ったPutnamが、Cooperの来訪にIrvingの注意を向けると、一瞬の間が あってCooperは手を差し出し、Irvingを相手に急きこむように小一時間の歓 談にふけった後に、親しく別れを交わした。数か月の後、その折の回想を Irvingは弔辞に織り込むこととなった(251)。

 ふたりの看板作家の間で気を揉んだPutnamの報告が伝えるCooperの振る舞 いは、確かに奇妙である。先客Irvingの姿を見やることを拒むような身振る 舞いの滞りはおそらく、Cooperが先輩作家に対して終生抱き続けたわだかま りの感情のあらわれであったのかもしれない(Grossmann 245; Franklin 135- 36)。そしてその後に何事もなかったかのように闊達な語りが取り戻される。

当惑を覚えながらPutnamが目にしたものは、饒舌ぶりと沈黙、停滞が不連続 に接しあっていく、Cooperの振る舞いの不可解さであっただろう。Putnamが 抱いたであろう当惑の思いを、Cooperのヒーローを前にした読者の姿と重ね

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合わせてみることは出来ないだろうか。訴訟に明け暮れ、敵を相手にしたと

きのCooperが見せる、ときに周囲をうんざりさせるような過剰な饒舌ぶりが

そのまま、Natty Bumppoに受け継がれていることは、Nattyのときに場所をわ きまえない多弁に付き合ったことのある読み手には実感されることだろう。

Mark Twainが「冒険物語の芸術を統制している規則」第五項の違反として揶 揄の標的にした、静寂が求められる場面の空気をわきまえないNattyの長広 舌である(182)。そのNattyの饒舌が、時としてふっと途切れることがある。

The Pioneers冒頭の鹿撃ちの場面で、Elizabeth Templeの目を通して私たちは 多弁な狩人Natty Bumppoの姿に初めて接することとなるが、その直後に、あ の「声なきわらい」がその表情に浮かぶ。

[H]ere Natty stretched out his long neck, and straightened his body, as he opened his mouth, which exposed a single tusk of yellow bone, while his eyes, his face, even his whole frame, seemed to laugh, although no sound was emitted, except a kind of thick hissing, as he inhaled his breath in quavers. (27)

Nattyの不可思議な身振る舞いが連作ロマンスにおいて描かれる最初の場面 であるので、村山淳彦の訳を引いておきたい。「ここでナッティは長い首を 伸ばすように体を立てると、口を開けた。その口から、黄ばんだ牙のような 歯が一本むき出しになった。そのあいだ、目も、顔も、体全体さえも、笑っ ているように見えるのだが、出てくる笑い声といえば、息を吸うときにヒュー ヒューと鳴る一種不明瞭な震音だけである」(村山 41-42)。ニューヨーク 州立大学版全集中のThe PioneersのジャケットにあしらわれているTompkins

Mattesonの挿絵によってその表情を確かめてみるならば、確かに笑いの表情

が浮かんでいる。3

 皮脚絆連作を通してNattyのトレードマークとなる「声なきわらい」から なんらかの意味合いを読み取ろうとした研究者は、ほぼいないと言ってよい。

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この仕草への数少ない言及を求めてみるならば、50年以上前にDarrel Abelが The Nascence of American Literatureの中で述べているくだりだろうか。

Americans cherish the Leather-Stocking Tales because they constitute the American epic....Natty Bumppo was an epic hero because he embodied his country’s idea of its virtues.... He has epic mannerisms and moods: his significant silent laugh, his superstition, and his spells of sententiousness.

Cooper did not, like Joel Barlow or Timothy Dwight, consciously write an epic, nor did his readers realize that they were reading one; but the Leather- Stocking tales are the American epic nevertheless, because they are an implicit idealization of our national adventure. (375 強調は筆者による)

Abel自身はいわゆる神話批評学派にくみする批評家ではないが、皮脚絆連 作を“American epic”と呼び、Nattyを“epic hero”と位置付けることで、ここで のAbelがD. H. Lawrenceに始まり、というよりも正確にはProgressive学派退 潮後の時期にアメリカ固有の「有用なる過去」を求めてLawrenceの『古典ア メリカ文学研究』を「再発見」した批評家たち、Lionel Trilling, Henry Nash Smith、さらにはLeslie Fiedlerなどの流れに連なる立場で論じていることは 明らかであろう(Axelrad 67-70)。新大陸アメリカを旧大陸に対置された再 生と願望充足の場と捉え、荒れ野での困難を前にした不屈の精神と自己信 頼、束縛からの自由をフロンティアズ・マンに体現させる、神話批評の構図 である。そのAbelにとってNattyの「声なきわらい」は“epic mannerisms”、す なわち叙事詩の英雄に民衆が求める「様式化された仕草・身振り」として説 明される。このAbelの論理に説明がなされきれていないものたりなさ、すな

わちNattyをその「様式化された」たたずまいから「叙事詩的英雄」と捉え、

その英雄に期待される「様式性」として「声なきわらい」を捉え返す論理 に、循環論法的なものたりなさを感じるのは筆者だけではあるまい。Joseph

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Cambellを例に出すまでもなく、神話を類型と様式に還元する営みにはもの たりなさ、面白くなさ、がつきまとう。

 Natty Bumppoのヒーロー像を神話批評的類型化から解き放って捉えなおす ためには、狩人の饒舌に忍び込む「声なきわらい」を、こちらを当惑させる その奇妙さ、不可解さそのものから考え始めてみるところに、ひとつの可能 性を見いだせるかもしれない。ほぼ同時代、1835年にHawthorneがWakefield に帯びさせたあの“crafty smile”、不可解で解釈に抗うあの「小狡そうな笑い」

が頭にこびりつくこととなったWakefield夫人のごとくに、Cooperの読み手も また、Nattyの「声なきわらい」という撞着のイメージを帯びた仕草を読み 解いてみることでその不可解さからいささかでも解放されたい、と願わない であろうか。

2.「声なきわらい」の両義性

 Nattyのトレードマークとなるこの仕草がはらむ「不可解さ」について、

Sandra M. Gustafsonは次のように述べている。“Natty Bumppo greets every odd and unfamiliar feature of courtroom procedure with his trademark silent laugh. His language and demeanor resist the formal codes of speech and process ....” (168)。 Gustafsonが言及しているのはThe Pioneersでの法廷場面であるが、Nattyの仕 草はこう描写されている。“By this time the irritated feelings of Natty had found vent; and he rested on the bar for a moment, in a musing posture, when he lifted his face, with his silent laugh,....” (366)。狩人の本能的な衝動からTemple判事が定 めた禁漁期に鹿を殺したNattyがTempletonの法廷で裁かれることとなる、よ く知られた挿話である。私利私欲と曲解に満ちた法廷術語の反復にこらえる ことが出来なくなったNattyは、被告席から「顔を上げ、あの声なき笑いに むせる」。ここで、GustafsonがNattyの仕草にともなう不可解さを「言語コー ド」からの逸脱と捉えていることは示唆的である。抗議の言葉を発しようと

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するその直前で振る舞いが滞ったその時にNattyが帯びる「声なきわらい」は、

言葉による伝達を停止しながら、しかし語られざるなにものかを表情として うちに湛えているという意味で、仕草・表情に語らせる映像言語性を帯びて いるといえる。

 映画・映像メディアの表層性と精神分析が覗き込んだ深層性の間に切り 結ばれる相補的な関係からアメリカ文化を解読して見せたのはMichael T.

GilmoreのSurface and Depthであるが、そのGilmoreがCooperのロマンスにみ とった「可視化の文法」(“a grammar of visibility” 58)をこの法廷の場面に適 用してみることが出来るかもしれない。Gilmoreは分析の基本概念とする「可

読性」(“legibility”)なる用語がはらむ、「表層へ/深層へ」という二方向性を

以下のように定式化している。

Yet ironies attend the choice of “legibility.” They cluster around the uses of literature and other modes of mediated representation to cushion intrusiveness.... [T]extuality’s distancing can incite exhibitionism. Still, that distancing can also provide a sanctuary from exposure that in some ways is analogous to the quarantined confessionalism of the analyst’s couch. So legibility, as used in this study, carries a third, seemingly contradictory, connotation: it can act as a brake on its own rush toward making known.

(xi 強調は筆者による)

Gilmoreが“ironies”という言葉を用いて着目しているのは、対象を限りなく可

視化しようとする近代的な衝動が内包する相反しあう指向、すなわち「語り 知らしめ」(“making known”)、みずからを透明化・表層化しようとする衝動と、

その衝動を「抑止」し(“act as a brake”)、深層に呑み込もうとする心的規制、

という異なったベクトルを帯びた方向性である。

 さて、法廷のNattyが言葉を介した抗議を断念し、「声なきわらい」とと

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もに心のうちに呑み込まねばならなかったこと、いうならば「Nattyの秘 密」とは何であったのか。プロットの上ではそれは、開拓地のはずれに自分 が住まう小屋に匿われたEffingham少佐の存在である。Nattyの顔に張り付い た「声なきわらい」は、この仕草・表情を介してモンタージュに似た仕方 で、二つの内部空間的イメージを喚起するだろう。ひとつは秘密の存在を 秘匿した、小屋のうちに穿たれた空間であるし、加えて、その秘密をたく し込んだNattyの心裡、いまの批評用語に転じてみるならば、Twainがその平 板さをなじったCooperのロマンスにもかろうじてみてとれるNattyの内面性 (interiority)でもある。Nattyの「声なきわらい」を交差軸として、ふたつの秘 密を湛えた内部空間が並置される、というこの構図において際立ってくる のは、Cooperのロマンスを支配している覆い隠し、包み込む、containmentの イメージであろう。冒険ロマンスとしての皮脚絆物語が舞台とするのは、一 般に考えられているように果てなく広がる森林や大草原といった「無限に開 かれた空間」であるよりは、むしろ身を潜め隠れこむ場、すなわち茂み、割 れ目、洞穴、建造物といった「包み込む」イメージを帯びたトポスであるこ とに、今後のCooper批評はもっと注意を払っていくべきかと思われる。たと えばそれは、Nattyの小屋に始まり、The Last of the MohicansのGlensの滝の洞 窟、The PrairieにおけるInezを隠匿する幌馬車の覆い、The Pathfinderにおい てMabelがひとり立てこもるトーチカ、さらにはThe DeerslayerにおけるTom

Hutterの「城」と「箱舟」へと連鎖して、Cooperの偏愛する「包み込まれた

空間」の詩学を形作っていく。

 無限に広がる外部から逃れるように身を潜めるものを包み込むcontainment の空間相は、さきほどのNattyの内面性にみたように、ロマンスのヒーロー の内面的な属性にも転じていく。閉塞した空間に身を隠し、暴かれることを 怖れる不安をうちに湛えたヒーロー像を軸として読み返してみるならば、建

築空間とprivacyの概念を軸にアンテベラム文学を論じたMilette Shamirが示唆

しているように、冒険ロマンスにおけるヒーロー像を捉える新しい視座が見

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えてくるかもしれない。

Traditional American studies found in antebellum literature a drama of liberated, unbounded masculinity played against the backdrop of the frontier, the wilderness, or the vastness of the ocean .... This interpretation of American literature could not account for the imagining of masculinity as closely linked to enclosed, interior, private spaces,... or for the fact that these writers’ works often revolve around anxieties of intrusion, penetration, and borderlessness rather than express a will to break open or flee. (15)

Shamirが提示している、「閉ざされ、内奥にある、私的な空間」に身を潜め「外

からの侵入、貫通、さらに外に広がる無限の広がり」を怖れる男性性、と いう不安の情動を、新歴史主義的な切り口からThe Pioneersの解読をしてみ

せたJeffrey Inskoにならって、19世紀アメリカの歴史文脈に置きなおしてみ

ることも可能となるかもしれない。The Pioneersの結末近く、小屋の中に隠 匿されたものを暴こうと押しかけた自警団を前にして、ライフルを手に小屋 の戸口に立つNattyは叫びを発する。“I troubled no man; why can’t the law leave

me to myself ?” (336)。「どうして法はおれを放っておいてくれないのか?」

というNattyの懇願にも似た叫びを論の冒頭に引いてInskoが指摘しているよ うに、法であっても家父長的権力であっても立ち入ることを拒むNattyが権 利として守り抜こうとするのは、このロマンス出版の5年後にNoah Webster の辞書がprivacyの項目に与えている定義と相通じている。“Privacy: [a] state of being in retirement from the company or observation of others, secrecy” (Insko 665)。「他人に煩わされたり覗き込まれたりすることから離脱している状態、

秘密、隠遁」。愛国法下の現代アメリカを射程においてCooperのロマンスの 新歴史主義的再読を試みるInskoが跡付けているように、privacyの権利をめ ぐる思想的模索は建国期以降の法・文化状況において、相反する二方向に向

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かう展開をたどることとなる。Inskoから引用しておく。

Now we have seen two antithetical conceptions of privacy: the right to conceal one’s conduct, thoughts, feelings, and beliefs; and the right to disclose that same conduct, those same thoughts, feelings, and beliefs.

The former considers privacy a matter of protecting one’s home and one’s self from outside intrusions, while the latter construes privacy as a matter of safeguarding, even promoting, liberty of expression and autonomy of personhood. (664 強調は筆者による)

所有権への浸食を拒否する、「外から守る」privacyに発しながら、やがてみ ずからが選ぶ主体の在り方を「外に向かって」発信する自由としてのprivacy へ、という史的展開、守りぬくべき私的領域の確保から発しながら、やがて は自己表現を妨げられることのない個(self)の選びとり、「カミング・アウ ト」へ、というInskoの精緻な論議をその結論部分のみ取り出してみるならば、

privacyの概念は史的展開の中に分光されたその両義性ゆえに、「隠しながら、

ほのめかす」という、先ほどのGilmoreの指摘にみた二方向性を帯びた“irony”

と同質の、両義的身振る舞いをはらみこむこととなる。“More important for my purposes, this moment also reveals the novel’s formal investment in the very system of concealment and disclosure, discretion and intimation, that is its subject

(674 強調は筆者による)。 そして、「声なきわらい」という本来オクシモロ

ン的な仕草が、言葉による伝達を断念しながら、同時に語られるべきものを 痕跡としてほのめかす、「隠しながら、見せる」という両義性を帯びている ことは言うまでもない。

 Nattyの「声なきわらい」が「声なき」沈黙として包み込み、かつ「わら い」の仕草としてほのめかしてもいる、そのような「Nattyの秘密」とは、

Effingham少佐の秘匿というプロット上の設えを越えて、狩人の主体の在り

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ようにかかわるものなのではないだろうか。Cooperのロマンスにおける「隠 しこむ空間」の偏在を論じたのはDavid Callahanの論考、“Who Hides in the Work of James Fenimore Cooper”「Cooper作品に隠れているのは誰なのか」で あるが、このタイトルを擬して、「狩人の声なきわらいに隠されているのは なになのか」と問いを立ててみることで、「声なきわらい」が「隠しながら、

ほのめかす」Nattyの姿とはいかなる主体のありかたであるのか、考察を進 めてみたい。

3.声なきわらいと「Nattyの秘密」

 The Pioneersにロラン・バルトの解釈のコードを適用してみるならば、解 かれるべき謎としてプロットを駆動していく「小屋に隠されているのは誰 なのか」というコードに並置されているのが、いまひとつのコードである

「Nattyの謎」だとといえるだろう。その「Nattyの秘密」がネイティブ・ア

メリカンにかかわる類のものだ、という噂はTempletonの村人たちの間で 幾度となく口にのぼる。一例だけ挙げれば、The Pioneersの9章において、

OliverがNattyの小屋に住んでいることについて尋ねたTempleの問いに対し て、村の住民はほのめかす。“That Mister Bump-ho has a handy turn with him, in taking off a scalp; and there’s them, in this here village, who say he larnt the trade by working in Christian-men”(112)。Nattyがキリスト教徒を対象に「頭皮剥ぎ」を 習い覚えた、との村の俚言を比喩的に読むことで、ネイティブ・アメリカン の文化と白人文化を仲介する「文化的両義性」をBumppoにみとることは皮 脚絆連作をめぐる定番的な解釈といえるが(Murray 487)、この解釈文脈の

上でNattyの「声なきわらい」にネイティブ・アメリカン言語との接点を見

るのはDavid Simpsonである。アメリカ英語をめぐる秀逸な政治文化論を著 したSimpsonは、Nattyが語る言葉の言語的属性(“linguistic personality”)にネ イティブ・アメリカンの言語様態に体現されていた「無垢なる言語」をみと

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る。“[S]o too is [Natty’s] famous silent laugh an image of the state of pre-linguistic innocence that Cooper would in one of his voices like to re-establish, turning the historical clock back to a time before the fury and the mire of political strife”(206)。

モラヴィア派宣教師John Heckewelderの北米インディアン文化誌に多くを依 拠したCooperの言語観に、Simpsonは「極小化された言語使用によって意味 伝達を達しうる効率性と、饒舌と晦渋による曖昧化を排する廉直さ」とい う「無垢なる言語」との接点をみとっている。“This cult of silence, or minimal articulation, is valorized in particular ways,....Natty Bumppo of course shares this priority, and ‛the silent laugh’ for which he was remarkable ‛sounds’throughout the Leatherstocking tales” (206)。Nattyの「声なきわらい」に重ね合わされている のは、ネイティブ・アメリカンの言葉に「あるべき至上の言語様態」をみと る「沈黙の言語崇拝」(“cult of silence”)であった。

 Simpsonがいう「沈黙の言語崇拝」は、先ほどの法廷場面がまさにそうで あるように、意図的な晦渋と曖昧化に堕してしまったジャクソン時代のアメ リカ言語に向けて発信された「エレミヤの嘆き」と言い換えられるであろう。

そして、あるべき至高の言語の様態をネイティブ・アメリカン言語に仮託し ながら、最終的には白人言語の中心性確認へと回収していく、という言語イ デオロギーに、Philip J. Deloriaの言う“Playing Indian”、白人文化中心主義を 前提した「インディアンごっこ」のひとつの様態をみとることは難しくはな いであろう。“Disguise readily calls the notion of fixed identity into question.... At the same time, however, wearing a mask also makes one self-conscious of a real 'me'

underneath” (7)。イギリス軍の軍服にモカシンを履くというハイブリッドな

イメージを帯びた老少佐の芝居がかった出現によってEffinghamとTemple両 家の和解と継承が確認されて終わる、というThe Pioneersの「機械仕掛けの神」

のような結末と同様に、「沈黙の言語崇拝」もまた、翻訳行為の政治性をめ

ぐるEric Cheyfitzの刺激的な論文タイトルを引くならば、「比喩上はインディ

アン、されど実体は白人」(“Literally White, Figuratively Red”)という、白人

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言語中心主義が帯びる「擬態」でしかない(林 721-22)。

 Lawrenceによる願望充足のファンタジー(“a kind of yearning myth”)であ れ、Roy Hervey Pearceの高貴なる野蛮人像(Savagism and Civilization)であ れ、さらにはRichard Slotkinの戦士と開拓者の象徴的交換儀式(Regeneration through Violence)であれ、はたまたSimpsonがみとった「沈黙の言語崇拝」

であれ、Nattyに白人とネイティブ・アメリカンの狭間に身を置く境界人物

性をみとる解釈は、Early American Literature誌の書評でKeat Murrayが言うよ うに、現在に至るまでCooper研究動向の主流をなしてきている(486-87)。

アカデミックなレベルで共有されてきたこの“Playing Indian”の擬態に対し て、孤独な狩人のごとくに戦いを挑む研究者がいる。みずからセネカ族の血 を引くネイティブ・アメリカニスト、Barbara A. Mannであるが、Mannの主 張の核心にあるのは、Natty Bumppoとは何者であるのか、という問いを白人 中心主義への回収から解き放ち、Cooperのテキストに散りばめられている無 数のほのめかしが一点に収れんしたところに現れてくるNatty Bumppo像にこ そ焦点化すべき、という主張であるといえよう。

It is not necessary, then, to look to allegory, mythopoetry, or a thousand metaphysical mumblings to unravel the meaning of Natty Bumppo. We need only take an unflinching look at the historical and social facts of Natty’s condition as Cooper presented them in The Leather-Stocking Tales .... As a cast-off cross-blood passing for “white,” Natty necessarily lived and died alone in the only place that he could simultaneously stand and hide, those nooks and crannies of the ever-shrinking “middle ground” of European invasion. ( “Man with Cross”)

学位論文以降ごく最近の論考に至るまで、MannはNatty Bumppo像の書き換 え/あるいは直視を試みてきた。すなわち、「皮脚絆連作の中にCooperが書

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き込んだNatty Bumppoをめぐる歴史的・社会的事実を直視するならば」、狩 人の実像はこう輪郭づけられる。「1722年前後に白人の父とデラウェア族の 母との間に生まれ、ネイティブ・アメリカンのみを対象に宣教を行った教 派であるモラビア派を通してキリスト教に接触し、デラウェア集落におい て幼児期よりチンガチグックと親交を結んできた混血児である」と(“Man

with Cross”)。混血という個人史を背負いながら白人社会で生き延びるため

にNattyが身につけねばならなかったのは、「血の混じりを持たぬ」(“man

without cross”)というあまりに過度に反復される決め台詞によって自らの白

人性を擬態として帯びることで「パッシング」し続ける術であったし、自ら に流れる血を隠蔽し続けるために生涯独身者たらざるを得なかった、という MannのNatty像は、テキスト細部の綿密な検証とあいまって、ある種の説得 性をもっている。さらには、スイスに舞台をとってCooperが1833年に書いた The Headsmanをもって、Clotelに20年さかのぼる時代に書かれた最初のパッ シング小説として論じたGeoffrey Sanbornの論考も、Mannの読みを傍証して くれるかもしれない。

4.「どんな話にも両方の面があってな」

 Mannの主張に作品解釈としていかほどの信ぴょう性があるかを検証する こと、それ自体が本論の主旨とするところではない。むしろ着目すべきなの は、Mannが明かす「Nattyの秘密」と同等の説得性を帯びたNattyの出自をめ ぐるもうひとつの物語が、Oliver Edwards/Effinghamの口から語られるNattyの 来歴として並置されて、「Nattyの秘密」を明かす二つの物語が拮抗しあって いる、というCooperのロマンスの設えそのものであろう。The Pioneersの結 末近くで、Templeに対してOliverはNattyの来し方について、次のように明か している。

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“He was reared in the family of my grandfather [Major Effingham]; served him for many years during their campaigns at the west, where he became attached to the woods; and he was left here as a kind of locum tenens on the lands that old Mohegan (whose life my grandfather once saved) induced the Delawares to grant to him, when they admitted him as an honorary member of their tribe.” (421)

「Effingham少佐のもとで養育され、従軍体験を通して森の暮らしに親しみ、

デラウェア族が少佐に贈った土地に臨時代理人として残された」という、も うひとつの白い「Nattyの秘密」が、Oliver Effinghamによる意図的な虚偽や 隠蔽であるとは考え難いであろう。それとも、Nattyの混血性を知ることと なったOliverが虚構の来歴を語ることでNattyのパッシングを支援した、とま で勘ぐるならば、それはMannの説を補強する結果となるだろう。しかしな がら、Mannの解釈に傾いたとしても、Murrayも述べているように、Coraの 混血性を前景化させたThe Last of the MohicansにおいてNattyの出自について の言及が皆無なのは解せない、との反論もありえる(488)。「Natty Bumppo とは誰なのか?」という問いは、Cheyfitzの「比喩/実体、インディアン/白 人」という2対からなる文字列が形作る組み合わせを両極としてその間を揺 れ動き、互いに相殺し合い、けっして固定されたNatty像に行き着くことは 出来ない。「声なきわらい」を湛え、未決定なままに流動し続ける狩人の正 体の捉え難さを19世紀アメリカのロマンスにShamirがみとる「曖昧さと捉え 難い象徴の造型、意味の拡散」と重ねてみるならば、Natty Bumppoの生きる

場所とHawthorneやMelvilleのテキスト空間との間の距離は、そんなに隔たり

のないものなのではないか。“American romance, with its constitutive features—

ambiguity, elusive symbolism, and multiplicity of meanings—relates instead to what I will discuss in the next chapters as a non-narrative form of privacy, that way of imagining the self as harboring an incommunicable, fundamentally impenetrable,

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residue (50)”。緋文字や白鯨のごとくに、狩人の「声なきわらい」もまた、

捉えようとしても解釈をすり抜ける未決定性、「物語の言葉で語り表しえな い、伝達しえず入り込みがたい残滓を湛え続ける場」として、読み手を不可 思議なこの仕草から解放することを拒むものであるのかもしれない。

 本論は紙幅の制限もあり、「Nattyの秘密」を人種の問題という枠組みに限 定せざるをえないが、たとえば「声なきわらい」に男性性の希薄化、という イメージを読み取って枠組みをジェンダーの問題にずらしてみても、おそら く男性性と両性具有性の両極の間でNattyの主体が流動し続けていくのを目 撃することになるのではないかと思う。たとえば、先に言及したMattesonの 挿絵に戻るならば、「声なきわらい」を浮かべるNattyが杖のように寄りかか り身を支える愛用の銃の名前がKilldeerである事実ひとつとっても、Nattyの ジェンダー特性が直線的な男性性と女性性を湛えた両性具有性の合間を揺れ 動くであろうことを象徴的に示唆している。なんとなれば、皮脚絆物語の読 者にとっては最終作The Deerslayerでネイティブ・アメリカンを殺す戦士と

なるNattyの冷徹な攻撃性を思い起こさせるKilldeer(鹿殺し)は、同時にフタ

オビチドリなる北米の鳥の名でもある。射撃の一瞬にすべての動きを停止し

Killdeerと一体化してファルスのごとくに男性性を極大化させたNattyの様は、

身振る舞いの一瞬の滞り、というイメージのあり方としては、男性性を希薄 化させた「声なきわらい」と同質のものでもあるだろう。4 殺りくの死(death) と無垢なる野生の詩(poetry)、殺りく者の男性性と声なくわらう両性具有的 イメージ、これらを極としてNattyの主体は揺れ動き続ける。

 「声なきわらい」の不可解さから解放されることを願って論じ始めた本 論であったが、狩人の謎めいた仕草と表情は、Gaile McGregorが“symbolic impossibility”という言葉で言い表しているように、表象の不可能性そのもの を象徴しているのかもしれない。

There is quite a bit of evidence that Cooper (the artist, if not the man)

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was perfectly aware not only of what [Kay Seymour] House describes as “the impossibility of a Natty Bumppo in society,” but of his symbolic impossibility as well, for we need not go as far as [Robert H.]Zoellner to recognize the disturbing contradictions to Natty’s nature. (132 )

「Nattyの秘密」をそれでも垣間見ようとして、「Natty Bumppoとは誰なのか?」

とNatty自身に尋ねるならば、おそらくその答えはThe Last of the Mohicansに おけるHawkeyeの寸言であるだろう。“But every story has its two sides” (31)。「ど んな話にも両方の面があってな」―そう答える狩人の顔に、「声なきわらい」

が浮かんでいるだろうことは、想像に難くないであろう。

本稿は2016年12月17日に神戸市立外国語大学において開催された日本英文学会関西 支部第11回大会における口頭発表に加筆・修正を加えたものである。

1 Cooper伝執筆の最も初期の試みはYale大学のChaucer研究者であったThomas R.

Loundsburyが“American Men of Letters”シリーズの一巻として1882年に著したJames Fenimore Cooperにさかのぼることが出来るが、Cooper家が資料提供を拒み続けた ために不完全さを免れ得ない伝記である(Franklin xvi)。半世紀以上後に弁護士で あったJames Grossmanが刊行したCooper伝(1949)は「バランスのとれた質の高 い」(Franklin xvii)評伝であるが、Cooper家により資料管理を託されていたJames Franklin Beardによる日記・書簡集の編纂作業と重なった時期に執筆されたために

(Franklin xvii)、資料精査に限界を負わざるをえなかった。しかしながら、Natty Bumppoの造型を“negative character”の概念のもとに考察しTerence Martinによる分析 視角に萌芽的発想を用意するなど、文学的着想に満ちている点は評価されるべき であろう。歴史家Allan Taylorによるピュリッツァー賞受賞作William Cooper’s Town

(1995)はCooper家二代にわたる二焦点的な設えからなる研究書であるが、Stephen Railtonによるフロイド心理学からの伝記的論考Fenimore Cooper: A Study of His Life and Imagination (1978)などの先行研究と合わせ読まれるならば、新しい分析視角を もたらしてくれるかもしれない。

2 Cooperの伝記作者の間では、父William CooperによるOtsego湖周辺地域への入植に

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先立って近辺を不法占拠していたDavid Sipmanという木こりがNatty Bumppoの造型 モデルとなった、というのが定説となっている(Taylor 53-54; Franklin 11)。ニュー ヨーク州立大学出版局版全集に添えられた挿絵IIはThe Pioneers冒頭の鹿の帰属を めぐるいさかいの場面をHenry Inmanが初版出版時にThe Port Folio誌のために描い たものであるが、Nattyの「周辺人物」性を示すかのように狩人は背景に配置され て表情の乏しいたたずまいで描かれている。

3 引用した場面に加えて、連作を通して反復される類似した場面を一例づつ列挙し ておく。

1) “Then opening wide his mouth, he indulged in unrestrained and heartfelt laughter, though in that silent and peculiar manner, which danger had so long taught him to practice.” (The Last of the Mohicans 220)

2) “The old man returned the grasp he received, and opened his mouth to the utmost in his extraordinary, silent laugh.” (The Prairie 373)

3) “Pathfinder opened his mouth, in that hearty but noiseless laugh, that nature and habit had contributed to render a peculiarity of the man.” (The Pathfinder 63)

4) “Here the hunter stopped speaking and broke out into a hearty fit of his silent and peculiar laughter.” (The Deerslayer 251)

4 Nattyが帯びる「両性具有性」についての指摘は先行批評に幾点か散見される。

Signe O. Wegenerは“the Cult of Domesticity”と感傷小説の文脈でNattyの造型を論じた Cooper論で、次のように指摘している。“Cooper’s casting of Natty in female position underscores his androgynous characteristics.... Physically, the text presents him in nearer feminine form.”(30)。 NattyがKilldeerを所有するに至った経緯は皮脚絆連作最終作

(でありながら先行する4連作への前日譚でもある)The Deerslayerにおいて紹介さ れるのだが、愛用する長銃がファルス性とともに奇妙にも両性具有的な属性を帯び ている点について、Leland S. Personは次のように述べている。“Cooper places Natty in a paradoxical position—helpless like a woman, but steeled and rigid like a caricatured phallus, as if forced to endure and then resolve the tension between gender extremes that threatens to tear his manhood apart.”(92)連作としては最後に書かれた「連作の最初 の物語」であるThe DeerslayerはJudithが愛したリボンをNattyがKilldeerの銃床に結 わえる仕草で閉じられるのだが、「まえがき」におけるCooperの要望に応えて読者 がこのロマンスを最初に読み始めることになるのであるならば、この異装と両性 具有性をたたえたイメージは連作全体の読書経験を方向づけていくように思える。

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Synopsis

The Hunter Laughs Silently:

Natty Bumppo’s Loquacity and Silence

Ichiro Hayashi

Despite the long tradition of apotheosizing James Fenimore Cooper’s Natty Bumppo as a beau ideal of frontier innocence and warrior masculinity, his “heroic” qualities are not so self-evident as myth critics have claimed.

When Cooper set out to compose the first of his Leatherstocking Tales, The Pioneers (1823), the would-be eponymous hero was originally introduced as a marginal character probably meant to add a bit of local color to this romance of a frontier settlement. Even the titles of the first three romances in the series significantly evade reference to Natty himself, while in the last two, which are titled after Natty, the once-dead-and-resurrected hunter seems to be relocated to a marginal position where his “heroic” qualities are undermined by the shift of narrative focus and Cooper’s ironical distancing from stereotyped characterization. Throughout the Leatherstocking Tales the hero’s presence, symbolical as well as corporeal, remains unsettled. A new phase of Cooper study, it seems to me, calls for the freeing of Natty from epic mannerism and the foregrounding of the fluidity and evasiveness of the hunter’s figure.

This article attempts to read Natty’s trademark, his “silent laugh,” as a gestural oxymoron in which utterance stopped short of vocalization and sullen reticence coexist. This enigmatic gesture, insinuating something to be uttered and simultaneously to be suppressed, functions as the hermetic code

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driving the plot of The Pioneers. On the level of plot development, what is kept secret is the figure of Major Effingham sheltered in the cave beneath Natty’s hut; however, more than being the cliché formula of a secret to be finally disclosed the symbolic logic of evasion and containment pervades the romance, especially the characterization of Natty Bumppo. What is evaded is the hunter’s masculinity, which, unlike the aggressive hero- figure deployed against the background of boundless wilderness, is closely linked to enclosed, interior, private spaces and anxiety-ridden interiority.

Also evaded is Natty’s racial identity, which might undermine his avowed whiteness and intimate an alternative reading of the romance as a story of a passing half-breed. With its spatial connotation, opened and closed, the hunter’s silent laugh configures the site where the nineteenth-century masculine and racial subject and its concomitant interiority overlap and crisscross.

参照

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