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John Clare--農民詩人の知への意志

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John Clare‑‑農民詩人の知への意志

著者 金津 和美

雑誌名 同志社大学英語英文学研究

号 77

ページ 45‑66

発行年 2004‑03‑01

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004610

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John Clare―農民詩人の知への意志

金 津 和 美

I am-yet what I am, none cares or knows;

My friends forsake me like a memory lost:––

I am the self-consumer of my woes:––

They rise and vanish in oblivion’s host, Like shadows in love-frenzied stifled throes:––

And yet I am, and live––like vapours tost (ll.1-6)

John Clare (1793−1864)は,イングランド南東部 Northborough の小村 Helpston の情景を描いた農民詩人である。しかし,処女詩集 Poems Descriptive of Rural Life and Scenery (1820) を出版し,詩人としての成功と名声を誇る短い数年を

経て,彼が行き着いたのは,故郷から遠く離れた Epping の狂人保護院 High

Beach Asylum であった。上に引用した詩 “I Am” は,Clare が1841年に収容

され,そこで人生を終えることになった二つ目の保護院 Northampton General Lunatic Asylum で執筆されたものである。この詩に描かれているのは,詩人 の夢に破れ,世に捨てられ,自らの存在の虚無にただ茫然自失としてなすす べのない詩人の姿である。

 狂人として世間から隔離された後も,Clare は保護院の中で取り憑かれたよ うに詩作を続けたが,その作品はロマン主義時代に誕生した農民詩人の痛ま しい運命を象徴するものとして,批評家の間で高く評価されている。その最 も典型的な例として,Harold Bloom は同時代の巨匠の作品との類似性を指摘 して,Clare の晩年の詩にロマン主義詩の系譜における正典的な地位を認めて

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いる。Bloom は “Clare’s dialectic begins as Wordsworth's, passes into a creative opposition resembling that in Coleridge’s Dejection: An Ode, and climaxes, in a handful of great poems, remarkably close to Blake’s” (Bloom 434-35) と述べ,

Wordsworth からColeridge を経て Blake へと向う,Clare の弁証法的詩的成 長の頂点を代表する作品の一つとして “I Am” を挙げている。この詩におい て,子供時代に一体となり,完全な自由を可能としていた自然への喪失感が,

自然による人間の永遠性への否定という苦悩へと転化され,Blake風な終末

ヴィジョン

論的風景として描き出されていると言う。そして,この喪失され,回帰が夢

ヴィジョン

見られる自然の終末論的風景の創造こそが,Clare がロマン主義詩人として完 成された契機であるとするのである。

 しかし,ここ数十年間においてClare再評価の傾向が著しい中で,多くの ロマン派研究者はClare をロマン主義的伝統の主流に位置付けることに懐疑 的である。そのような批評の初期のものとして,L. J. Swingle は “Minor Romantics” としての Clare の重要性を認めながら,Clare の詩的価値をロマ ン主義的伝統との類似性の強い晩年の作品ではなく,むしろそれとは異なる 独自性を持つ初期作品の中に求めるべきであると主張している (Swingle 274)。

さらに,特に最近,このように初期作品に注目することで,Clare の“Minor Romantics”として,あるいは農民詩人としての社会的・文化的立場の複雑さ という問題に批判が向けられているということは重要である。例えば Elizabeth K. Helsinger は,処女詩集出版後の十年間の作品に焦点をあて,農 民詩人としての Clare が直面した困難を “this predicament––finding a political voice outside a middle-class rhetoric, in the absence of an audience for a political poetry of rural labor” (Helsinger 159)と述べている。つまり,ロマン主義的伝 統に属する文学者としての市民権を得ようという野心を抱きながらも,彼自 身の経験が決してその伝統に属するものではなかったという現実から生じる,

苦悩と葛藤の軌跡を初期作品の中に読み取るのだ。Helsinger はその Clare論 を,冒頭に引用した詩と同時期,同主題である “I only know I am” という句

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が繰り返されるソネットに言及することで締め括っている。しかし,このも う一つの “I Am” 詩が取り上げられるのは,それが Clare の詩的創造の最高 峰にあるからではない。それは初期作品に読み取られる Clare の運命への予 言 , ロ マ ン 主 義 的 伝 統 の 中 で 自 ら の 声 を 獲 得 す る こ と が あ た わ ず ,

アイデンティティー

自己同一性の破綻という狂気に導かれていく運命の予言が,いまや現実のも のになったことの裏付けとして示されているのである。

 Clare の詩が興味深いのは,それが一つの線状に連なる支配的な正典として のロマン主義的伝統のイメージを相対化するからである。ロマン主義的伝統 の内部でもあり,外部でもあるという “Minor Romantics” としてClare への 評価は,ロマン主義的伝統の内部と外部の境界がどこにあるのか,あるいは,

そのような境界がそもそも存在するのかという疑問に我々の目を向けさせる。

ロマン主義的伝統を上から支配する知=権力としてのみ考えるのならば,

“Minor Romantics” という語は,名辞上矛盾している。つまり,それは支配す る主体であり,かつ支配される客体でもある二重の存在ということなのだか ら。しかし,Clare の詩が,彼がまさにこのような言説上の支配者/被支配者 としての矛盾を生きたのだということを表明するのであれば,我々はロマン 主義的な知=権力のあり方がもつイメージを他に求めなければならないとい うことになる。そして,おそらくそれはFoucault が言う「無数の力関係であ り,それらが行使される領域に内在的で,かつそれらの組織の構成要素でも あるような」(フーコー,『性の歴史』119)権力のイメージなのだ。そこで 本論では,Foucault のモデルにしたがって,ロマン主義的知=権力がそこか ら生じてくるような無数の抵抗点のひとつとして Clare の詩を検証する。特 に,Clare が経験した “Minor Romantics” としての苦悩と呼応する,彼が生き たもう一つのより現実的な矛盾と葛藤に焦点をあてる。つまり,農村/都市 文化との相克における農民詩人としての存在の難しさを問い,Clare の詩的言 説に結び付けられる知=権力の仕組を明らかにすることを試みるのだ。農村 と都市という二つの文化の間にあり,その対立と共謀によって生み出された

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農民詩人。彼が抱く「知への意志」(フーコー,『性の歴史』20)を明るみに 出すことで,その存在を貫いて働くロマン主義的知=権力の戦略的メカニズ ムが照らし出されてくることを期待するのである。

 Clare の詩がいかに農村文化に深く根差していたかということは,バラッド 歌手であった父を持ち,また自らもバイオリン弾き(fiddler) としてHelpston の小村における民衆文化の一端を担っていたことからも伺える。Clare が収 集 し た 数 多 く の 流 行 歌 や 民 謡 は ,1 8 世 紀 後 期 〜 1 9 世 紀 初 期 の Northamptonshire において失われていた伝統の姿を明らかにし,民衆文化史 的にも貴重な資料として George Deacon によって編纂されているほどである。

さらに,農業資本主義が侵入する以前の慣習を基軸とした農村社会秩序のあ り方を解明する試みにおいて,E. P. Thompson は Clare の詩を “the evidence of a tormented customary consciousness” (Thompson 181) として言及している。

Thompson は囲い込み以前の Helpston の風景を描いた詩 “The Mores” の一節:

Unbounded freedom ruled the wandering scene Nor fence of ownership crept in between To hide the prospect of the following eye Its only bondage was the circling sky.... (ll.7-10)

を引用し,Clare にとって慣習によって守られた共有地に関わる農村労働者の 権利=自由は,決して無法状態でなく, “the circling sky” を境界として持つ ような独自の秩序体系であったと述べている。そして,Clare を囲い込みに よって導入される新しい法秩序とは対立する,無形の口承伝統や慣習意識に 基づく文化価値を再生し,体現する詩人とするのである。

 Clare が体現する農村の慣習文化の一側面は,その詩に描かれる農村労働者 の姿にも顕著である。例えば “A Sunday with Shepherds and Herdboys” におい て,

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The shepherds and the herding swains Keep their sabbath on the plains They know no difference in its cares Save that all toil has ceasd but theirs (ll.1-4)

と,休息日にもかかわらず,仕事(“toil”)に勤しむ羊飼いや牛追いが描かれ ている。しかしながら,彼らの仕事とは,産業化社会の規範において労働と 定義付けられるものとは相反するものなのである。

Thus the shepherd as he lyes

Where the heath’s furze-swellings rise Dreams o’er the scene in visions sweet

Stretching from his hawthorn seat And passes many an hour away Thus musing on the sabbath day And from the fields they’ll often steal The green peas for a Sunday meal (ll.47-54)

というように,羊飼いは森や谷間の奥に身を横たえ,夢想を楽しみながら時 を費やす。そして,時折,食事のために野から豆を「盗む」(“steal”)のだが,

生産主義的労働規律においては禁忌とされる「盗む」という行為が,この羊 飼いの労働の場では正当な権利として行われるのだ。牛追いについても同様 に,“Leaving to chance their sheep and cows / To thread the brakes and forest boughs” (ll.107-08) と家畜を好きにまかせて,自分たちは栗鼠を驚かし,枝で 穴熊の巣を突ついてみたり,兎を追いかけたりして,森の中を駆け回ること に夢中になる。つまり,彼らが従事する仕事もまた,“The herdboys anxious after play / Find sports to pass the time away” (ll.94-95) というように,森の中で の遊びに興じることなのである。仕事/遊び,労働/余暇の区別は,産業化 社会の発達とともに,その労働倫理を支える原則として生じたものである。

Thompson は,この新しい労働規律の誕生にしたがって生じた時間意識の変

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化を指摘し, “Time is now currency” (Thompson 359) というような時計に象徴 される均質で無機質な近代的時間意識に反する,それ以前のより自然な時間 意識について述べている。産業化以前の社会では,仕事が時間によって管理 され,分節化されるのではなく,特定の自然の営みに費やされる時が時間の 基準となるような,“task-orientation” (Thompson 358) な時間意識が存在して いたというのだ。そして,もしそうであるならば,Clare が描く羊飼いと牛追 いの世界こそ,産業主義が侵入する以前の “task-orientation” な時間が流れる 世界なのだといえるのではないだろうか。彼らの世界の外では,

When ne’er a farmer’s on the lurch Safe nodding o’er their books a-church Or on their benches by the door

Telling their market profits o’er (ll.55-58)

というように,農夫は教会で労働から分化された余暇を貪り,あるいは,そ の余暇をも金銭的価値を生む時間へと転化しようと企んでいる。しかし一方,

羊飼いや牛追いたちの仕事は, “Fields are their church and house and all / Till night returns their homeward track / When soon morn’s suns recall them back” (ll.6- 8) と,朝に日が昇り,夜に日が沈むという自然の時間とともにあるのだ。し たがって,それゆえに “For them the church bells vainly call” (l.5)と,近代的 時間を象徴する時計と等しい教会の鐘の音も,彼らの耳には無為にしか響か ないのである。

 しかし,Clare の詩が,囲い込み以前の農村共同体における農村文化的価値 を謳い,体現するものであると認められる一方で,その農民詩人としての存 在そのものが,都市文化の産物に他ならないと指摘する批評家がいる。例え ば John Lucus は“Poems Descriptive is editorialised to market Clare as a ‘peasant poet’” (Lucus 140)と,Clare を世に送り出した出版者 John Taylor と James Augustus Hessey の重要性を強調する。そして,農民詩人Clare が,いかにこ のような出版者たちの都市出版文化における戦略的意図にしたがって作り出

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されたのか,彼が一つの流行として政治的・社会的力によって生産される過 程を明らかにしている。また,Roger Sales も同様に,Clare の文人としての 人生に焦点をあてる伝記において, “The peasant-poet may have been invented in the earlier eighteenth century, but the particularly campy, kitschy ways in which Clare was constructed and marketed are also part of this specifically Regency identity”

アイデンティティー

(Sales 131-32)1と,農民詩人としての Clare の自己同一性の存立基盤を,当時,

首都ロンドンを中心に花開いた放縦で享楽的な摂政期文化に限定して位置付 けている。

 ここで Clare が農民詩人として作り出された,当時の出版文化の状況につ いて述べておくことは有益であろう。Clare の詩を考察するにおいて特に重要 なのは,出版者 Taylor との関わりである。Taylor は,John Keats を世に送り 出すことで最初の業績を果たした出版者である。 しかし,この事業は Blackwood’s Magazine の酷評を呼び,それは Keats の詩人としての名声にとっ

て致命的であっただけでなく,絶望した詩人の生命そのものを奪うことに なった。Keats の悲劇の後,Taylor はその雪辱を果たすかのように,詩人の 命を押し潰した文壇の軋轢の中に自ら身を投じることになる。すなわち,

1821年4月に Robert Baldwin からLondon Magazine を買い受け,その数ヶ 月前にBlackwood’s Magazine の John Christie との決闘の末に死んだ John Scott に代って,1825年まで編集長を務めたのだ。

 しかしながら,文芸雑誌としての London Magazine の売り上げは決して芳 しいものではなかった。そして,その失敗の理由は London Magazine の脱政 治的な編集方針にあったと思われる。すでに創刊時において,その趣意書に ついて Horatio Smith は最初の編集長 Scott に対して,

How little you say in the Prospectus about Politics! What are they like, for it will not do in the times that are coming to be neutral or lukewarm, and I trust the London Magazine will leave to the Quarterly Review a full monopoly of political baseness and personal scandal (Quoto. Chilcott, A Publisher and

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His Circle 156)

と,London Magazine の政治的に中立で中途半端な態度に警鐘を鳴らしてい る。主要文芸誌が,それぞれ異なる政党の機関誌であり,文筆上の争いが,

そのまま政党上の争いと等しい当時の文壇において,London Magazine のよ うな政党性のない雑誌は,その好奇心に訴える読者を見出すことが難しかっ たのだ。しかしながら,Keats の死という傷ましいかたちで文壇上の政争に 敗れた Taylor が,London Magazine の脱政治的な編集方針を引き継いで,文 壇と政党抗争との分離を試みたということは十分に考えられる。むしろ,そ の脱政治性は,政治から切り離された中立で公正な読者を作り出すことで,

主要文芸誌の読者であり,かつ政党政治の支持者でもある体制権力の基盤に 対して,抵抗ともなり,脅威ともなる大衆市民層を構築するという意図に基 づいていたとも考えられるのだ。しかし,いずれにせよ London Magazine は,

Taylor が 1817年に父親への手紙で “We have long entertained the Wish of establishing a ‘Quarterly Magazine’ of genuine original Writers––” (Chilcott, A Publisher and His Circle 130) と述べる野心を実現する企図だったのであり,

そして,Clare は Taylor によって,その London Magazine に託した野心を実 現するために “genuine original Writers” の一人として発見され,農民詩人と して売り出されていったのである。

 Clare を世に送り出すために, Taylor は実に周到に準備している。まず,処

パ ト ロ ン

女詩集の出版にあたって,Radstock 卿を始めとする保護者を Clare に紹介し た。当然,この The Society for the Suppression of Vice の副会長を務めたこと

パ ト ロ ン

もある保護者の趣味にしたがって,多くの詩は書き直しを求められた。出版 された Clare の詩は全て,Taylor により文法・綴り・句読点の誤りが校正さ れ,内容的に「卑俗」,または「いかがわしい」とされる部分は書き直され,

ほとんど Taylor との共作と言えるほどである。このようにして Taylor が作 り出した農民詩人Clare 像とは:

The sentiment is everywhere true, and often deep: there is no affectation

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visible: no bad taste, at least not in the serious pieces: the discontent expressed is not querulous: the despondency is not weak:––the author feels acutely the calamity of his fortune, but he preserves, in the midst of his distress, a quick eye and an open heart for the works of Providence, and an unchangeable faith in its goodness. (London Magazine I, 325)

と,London Magazine に掲載されたその処女詩集への評に見られるように,農 村の貧困と苦境を経験しながらも,それに不満を抱くことなく,厳しい境遇 をただ運命とのみ甘受し,同情は求めても,変革を求めることはない,いか なる政治的含意をも回避された農村労働者の像である。

 しかし一方で,Clare にとって詩作が,貧困に喘ぐ農村労働者としての生活 を清算し,経済的独立への道を拓く唯一の望みであったことも重要な事実で ある。実際,当時,知的上層階級の庇護を受けて,多くの農民詩人が輩出さ れていた。Robert Bloomfield を筆頭に,Hannah More の庇護を受けた Ann Yearsley,夭折の詩人 Joseph Blacket, また,Southey もJohn Jones やHenry Kirke White といった詩人を世に送り出している。しかし,こういった上層階 級による文学的保護は,決して彼らを詩人として大成させることを目的とし たものではない。むしろ,詩集の出版によって得られた収入を元手として生 活を立て直し,独立を促す慈善事業の一環として行われたのである。そして,

このような文学的慈善事業は少なからず効果をあげ,Catherine Cappe の庇護 の下に詩集を出版し,それを契機に学校教師という知的職業の地位を獲得し た Charlotte Richardson はその最も成功した例の一つであろう。

 18世紀末の農村労働者の教育水準について Raymond Williams は,読むこ とは農村労働者が社会的規範を学ぶ有効な技術として奨励されたのに対し,

書くことは彼ら自身の主張を許し,規範を脅かす常軌を逸する行為として禁 じられていたと述べている(Williams 37−38)。このような当時の農村社会 における知的向上への関心の低さは,Clare も認めるところであり,その自伝 において “while necessity is a good apology for iniquity and ignorance is more so I

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knew no better and it may be said that ignorance is one of the sweetest hopes that a poor man carries to the grave” (Autobiographical Writings 6)と述べている。死 を前にした最も罪深き者の許しを請うのにも,常套句のように “Father forgive them; they know not what they do” (Autobiographical Writings 6) と言えば事足り たと言うように,農村社会において無知は上層社会への知的隷属の証である だけでなく,厳しい現実と折り合う生活の知恵としても機能していたのだ。

しかし,それとは対照的に自伝が伝えるのは,労働の僅かの合間を見つけて 知的向上 [“my improvement” (Autobiographical Writings 3)] に励む少年 Clare の姿である:

the old table ... was now coverd with the rude begg[in]ings of scientifical requ[i]sitions, pens, ink, and paper one hour, jobbling the pen at sheep hooks and tarbottles, and another trying on a slate a knotty question in Numeration, or Pounds, Shillings, and Pence, at which times my parents triumphant anxiety was pleasingly experiencd, for my mother would often stop her wheel or look off from her work to urge with a smile of the warmest rapture in my fathers face her prophesy of my success, saying ‘shed be bound, I should one day be able to reward them with my pen, for the trouble they had taken in giveing me schooling’ (Autobiographical Writings 4)

ここで述べられているのは,知的に向上することが,すなわち社会的地位の 向上に繋がるという素朴な信念である。知の獲得,つまり,読み・書き・算 術といった “scientifical requ[i]sitions” の獲得が,農村労働による困窮した生 活から脱却し, “my pen” で生活の資を稼ぐ豊かな知的労働への活路を開く手 段であるとして,Clare の野心を掻き立てたのであり,また,たとえ束の間で あったとはいえ詩人として成功し,その満足と自負を,さらなる知への信念 として自伝で語っているのである。

 Clare が抱くこの知へのゆるぎない信念こそ,新たに台頭してきた都市中心 の商業主義文化の中においてのみ可能となるものである。そして,それは特

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に19世紀初頭,文筆に携わることを専門職とする新しい知識者層として誕 生,成長していた。Paul Keen は,商業的中産階級の台頭に伴う新興知識者 層を,新たな “republic of letters” を構成する “men of letters” として,従来の 貴族・有産者を中心とする知的支配者層と対置させている。そして,

Knowledge, for those who advocated this position, became a kind of property–

a necessary precondition for engaging in debates about questions of general or civic importance in a way that corresponded to landed wealth's status as a prerequisite for political participation within civic humanism. (Keen 80-81) と述べ,土地財産を自らの知的特権の基盤として持つ有産者階級に対して,

新興知識者層は知そのものを一種の財産として持つというのである。また,

Keen は知的支配者層の言説に対抗して,新興知識者層が自らの言説を社会的 により有益なものとするため,彼らの知を正当化する方法を指摘している。

すなわち,彼らの貧困という経験を美徳として知の根拠に据え,その言説の 科学性 [“scientificity” (Keen 100)]を強調することで,知を土地という強力な 商業資本に匹敵する象徴的資本[“knowledge of the men of letters was a form of (symbolic) capital” (Keen 81)]へと転化するというのだ。このような知の有効 性を頼りとして,新興知識者層の中で権威ある座を占めようと欲したという 点で,Taylor も Clare も野心を同じくしたのであり,そして,その結果とし て創造された農民詩人という悲劇的産物も,この二人の共犯によるものなの だといえよう。しかし,もしそうであるなら,いかに Clare が失われた農村 文化の価値を謳ったとはいえ,それもまた都市文化の枠組の中で産出された 一つの知の形式に他ならないということになりはしないだろうか?

 Clareの知の形式をめぐる論考のひとつとして,John Barrell はその特徴を,

1821年以降,故郷 Helpston の情景のみに集中して詩が書かれるようになっ たことにみられる,詩人の場所意識の局地性と結び付けて考察している。

Barrellは Clare の場所意識は “the particular individuality of Helpston” (Barrell 131) を伝えるものであり,このような場所意識に基づく知の特徴を, “the

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knowledge that Clare has in Helpston he has only there––it is by its very nature incapable of being abstracted, and it is in its incapacity for being abstracted that the knowledge consists” (Barrell 131) と説明している。つまり,啓蒙主義的知に 典型的な,普遍的(“general”) で抽象的 (“abstract”) な秩序とは反対に,Clare の知は,そのような支配的知のモデルが抑圧し隠蔽する,存在の個別性 (“particularity”) や多様性(“multiplicity”) といった無秩序へと向うものだとい うのである。そして,Clare がこの事物の個別性と多様性を一つの詩的形式へ と弁証することで,独自の無秩序の美学 [“a whole aesthetic of disorder” (Barrell 152)] を発展させていったとする。

 Barrell はこのような無秩序の美学が表される,新しい詩的形式の最初の一 例として,ソネット “Emmonsails Heath in Winter” を引用している。

I love to see the old heath’s withered brake Mingle its crimpled leaves with furze and ling While the old heron from the lonely lake Starts slow and flaps his melancholly wing And oddling crow in idle motion swing On the half-rotten ash-tree’s topmost twig Beside whose trunk the gipsey makes his bed Up flies the bouncing woodcock from the brig Where a black quagmire quakes beneath the tread The fieldfare chatter in the whistling thorn And for the awe round fields and closen rove And coy bumbarrels twenty in a drove Flit down the hedgerows in the frozen plain And hang on little twigs and start again (ll.1-14)

この詩形の特徴は,冒頭の “I love to see” で始まる主節が,統語上は続く7 行を支配しているかのように見える一方で,意味的にはそうではないという

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ところにある。例えば,3行目の “While” によって導かれる従属節は,意味 の上で,主節に対して従属的な関係にあるとは思われない。枯葉に埋もれる 荒野も,湖から憂鬱に飛んでくる一羽の鷺も,個別の事物として同時に存在 しているだけなのである。Clare が描く風景が,固有でありかつ同時存在的な 事物の一覧, “a succession of images all of equal weight” (Barrell 155) であるこ とは,後半の7行にも顕著である。ここでは,もはや統語上の形式さえ捉え 難く,橋から舞い上がる山鴫,囀る鶫,野や垣を飛び交う四十雀の群れといっ た風景を構成するイメージが同列に並べられている。Barrell は,このような Clare の詩的形式を,統語法によって言語が課す秩序への抵抗であるとし,さ らには,それを囲い込み以前の風景に特徴的な循環的(“circular”) な場所意識 に帰している(Barrell 171)。それは,独立した多様な労働が同時に進行し,囲 い込みによってもたらされる労働に主従・優劣の区別をもうける線状的な秩 序に対して,反秩序と見なされる世界観なのだ。このように反秩序を表明す る知としての Clare の詩は,それゆえに,それが対立する農業資本主義の精 神と価値を排除するよう企てられたものであったとするのである。

 しかし,Barrell の示唆に富む考察にもかかわらず,やはり疑問として残る のは,囲い込み以前の農村共同体の価値を経験として持つことと,その経験 を一つの知として詩的形式にまで高める行為との文化的意義の差異である。

事実,Barrell が Thomson やCowper を始めとする18世紀風景詩の伝統との 関わりを言及しているように,Clare の詩的形式は純粋に農村文化の中でのみ 発見されたものではない。それゆえに,農村詩人 Clare の知のあり方をさら に問うためには,それが対立するとされる都市商業主義文化の文脈の中に置 き直してみる必要があるであろう。したがって最後に,都市と農村という二 つの文化の間で引き裂かれ,その矛盾ゆえの苦悩に呻吟する土地=詩人の姿 を描いた詩 “The Lament of Swordy Well” を検証することで本論を締め括ろ う。

 Clare 独自の詩的形式が誕生したとみなされる “Emmonsails Heath in Winter”

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が1824〜32年にかけて執筆されたのに対し, “The Lament of Swordy Well”

は1821〜24年にかけて執筆されている。この二つの詩の執筆時期を隔てる 1824年は,Clare にとっても重要な年である。この時期,詩人としての Clare の名声には明らかに陰りがみえていた。詩集が不評だっただけではない。翌 年には Taylor は売り上げ不振のため London Magazine を売却し,また,強

パ ト ロ ン

力な保護者 Radstock 卿も世を去るのである。1824 年に Clare は三度目に London を訪れ,おそらくそこで自らの詩人としての失敗という事実と向き合 うことになったのであろう。この最後の首都訪問について自伝で

... in my last I saw so much mistey shuffling that my fa[i]th of the world shrunk to a skelton and would scar[c]e fill a nutt shell or burthen an mouse to bear it––the vastest of wisdoms hath said ‘put no confidence in men for they will deceive you’ (Autobiographical Writings 149)

と述べ,自らを受け入れなかった都市に対して,呪詛にも似た訣別を告げて いる。

 “The Lament of Swordy Well” が興味深いのは,たとえ出版されなかったと はいえ,London Magazine の全盛期にその看板詩人の一人として,時流の勢 いに後押しされて,Clare が自らの胸に潜む都市文化への不信と不満を直截に 述べた数少ない詩のひとつだからである。

I hold no hat to beg a mite Nor pick it up when thrown Nor limping leg I hold in sight But pray to keep my own Where profit gets his clutches in There’s little he will leave Gain stooping for a single pin Will stick it on his sleeve

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For passers-by I never pin No troubles to my breast

Nor carry round some names to win More money from the rest

I'm Swordy Well a piece of land That’s fell upon the town

Who worked me till I couldn’t stand And crush me now I’m down  (ll.9-24)

囲い込みにより「街の手に落ちた」(“fell upon the town”) 土地は,もはや自 らを支えることができないほど,その正体を変えられる。Swordy Well が嘆 く変化とは, “profit” や“Gain” という語に喩えられる商業資本主義の流入に よってもたらされる変化である。囲い込みに対して土地は自身を守ろうと欲 し(“pray to keep my own”),また, “I’ve scarce a nook to call my own” (l.113),

“My only tree they’ve left a stump / And nought remains my own” (ll.127-28) と

「自らの所有物」(“my own”)と称するものの喪失を嘆いている。商業資本の 流入という脅威にさらされ, “The silver springs grown naked dykes / Scarce own a bunch of rushes” (ll.57-58) と言うように,囲い込み以前の土地が持つ「所有 物」とは,泉が「迸る水の流れ」ゆえにそれと認められる,物としての存在 が価値の根拠となる財産なのである。しかし,商業資本主義の基準では,

“And should the price of grain get high––/ Lord help and keep it low––” (ll.145-46) と,物の価値は価格=記号の操作によって決定され,変動する。価値におけ る価格=記号の専制に対して,物の固有の価値を維持しようとする土地はな すすべがなく, “For gain has put me in a pound / I scarce can keep alive” (ll.151- 52) と自らの無力を訴える。そして,自らの身に起こった価値と価格,物と 名前の関係の転倒に当惑し,

And me, they turned me inside out For sand and grit and stones

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And turned my old green hills about And pickt my very bones (ll.61-64)

と嘆くのだ。Swordy Well はもはや,その存在を支える骨格ともなる “old green hills” という事物ゆえに,その名が認められ,価値を持つのではない。

“old green hills” は囲い込みによって,石や砂や砂利といった,事物としては 特徴も価値も持たないもので一様に馴らされている。今や Swordy Well が価 値を持つのはそれに与えられた価格=記号, つまり,その名 “some names to win / More money from the rest” (ll.19-20) ゆえなのである。

 自らの価値がその存在そのものではなく,名=記号へと還元されていき,

それゆえに “My name will quickly be the whole / That’s left of Swordy Well”

(ll.207-08) と嘆く土地の声は,囲い込みによって土地を追われ,商業資本主 義的市場の中で自らの労働の価値を再定義せざるをえなくなった農村労働者

=詩人の声と同じである。労働者も詩人も,もはや土地がその事物としての 存在の豊かさから溢れ出す価値に,無償で与かることを仕事(“toil”)とする ことはできない。労働者が自らの労働を賃金という記号へと換算することを 余儀なくされるように,詩人も自らの存在を言葉に換え,それを資本として 詩的市場のなかで流通させていかねばならないのである。囲い込みによって,

本来の所有物(“my own”) を失った土地に許されるのは, “I own I’m poor like

many more” (l.153) と自らの窮状を表明する言葉を持つ/話す(“own”)2こと

だけなのだ。存在に満たされたかつての自分の姿,土地=詩人がそれを贖う 手段としてはもはや,金銭とは次元を異にするもう一つの記号,言葉による ほかないのである。Swordy Well という名のみ残る失われた風景の中で,

“And I am glad if e’en a song / Gives me the room to speak” (ll.43-44)と,土地=

うた

詩人が詩を求めるのはそのためなのである。

 三度の London 訪問を経て,詩人としての挫折を悟り,都市文化に失望し 訣別を誓った後も,農民詩人Clare にとって農村は,詩的言語によってしか 贖われえないものであることには変わりなかった。 “Emmonsails Heath in

(18)

Winter” に見られるように,事物の個別性や多様性を表現する独自の詩的形 式を確立したとはいえ,それは決して,商業資本主義の記号論と対立するも のとばかりは思われないのである。むしろ,この詩形は,風景を構成する事 物の価値をより適切に表す詩的表現で置き換えようという作業によって生産 された,農村生活の詩的商品化の一覧のようにも見えてしまうのだ。 Clare の 詩に見られる言語観について,Tim Chilcott は “Clare seems indeed to possess an almost primitive awareness of the force of ‘naming’, the power of words to be the things they describe” (Chilcott, ‘A Real World and Doubting Mind’ 30)と述べて いるが, “The Lament of Swordy Well” に読み取られる言語観は Chilcott が考 えるほど “primitive” なものではない。Clare にとっても,言葉はもはや事物 の存在そのものを指示することはできない。ただ,それを虚構としてでも贖 いうるがゆえに(精神的に回復する,及び,詩的商品となるという二重の意 味で),現実的な価値を持つだけなのだ。記号を媒体とする価値の流通,それ こそが商業資本主義世界の現実が依って立つ大きな虚構であり,農民詩人 Clare の知を貫く言語観も,このような虚構への信服に支えられているのであ る。

 農民詩人として Clare が農村共同体における自らの経験を描いたとしても,

それが詩作品として価値を生むのは,それを購買する読者のいる都市文化と いう市場においてである。Clare が自分の身を立てるために試みた企ては,自 らの存在そのものを資本として文学市場の中に投機することであり,農民詩 人はそのような詩的労働によって生産された商品に他ならないのだ。しかし,

資本主義の原理において,市場から見放された記号=言葉はいかなる価値=

意味も持ち得ない。本論の冒頭に引用した,狂人保護院に収容された後に Clare が書いた “I Am” 詩が伝えるのは,詩的破産に追いやられた詩人の姿で ある。題名と同じ “I am” という語が,詩の始めで繰り返される時,その響

(19)

きは貨幣に鋳造された記号を読むかのように無機質だ。本来,存在を指示す べきこの2語は,これだけでは存在という意味を生み出せないでいる。 “I am”

ダッシュ

の後に続く ― が,この文章を完結する補語の導入を打ち消すかのように,

むしろ “I” という主語の存在を否定しているようにさえ見えるのだ。そして,

次の “yet what I am, none cares or knows” という一節によって, “I am” という 語が,または詩人の存在そのものが,空虚な記号でしかありえないと確信さ れる。自分の言葉を購買し,価値=意味を与えてくれる市場を持たない詩人 は,自らその詩的資本を食い尽くす “the self-consumer of my woes” へと身を 落とすほかない。生産性の伴わない労働に身を費やす者,それは資本主義社 会においてはもはや狂人=意味を生まない空虚な記号としてしか存在しえな いのである。

 近代を特徴付ける知のあり方を問い,Foucault は産業化によって生じた余

プ ア ハ ウ ス

剰労働力を回収し救済する場所として《貧民院》の他に,狂人保護院の誕生 に批判の目を向けている。生産に供することのない労働力はひとつの「病気」

として,この「人間の自然本来の場によって自然発生的にもたらされる看護 のなかで無く」(フーコー,『狂気の歴史』495)なるように隔離されるのだ。

Foucault は Samuel Tuke の Quaker York Retreat を例に挙げ,そこで実践され る治療のかげで形をおびはじめる神話,「〈自然〉−〈真理〉・〈自然〉−〈理 性〉・〈自然〉−〈健康〉という三つの〈自然〉の神話」(フーコー,『狂気の

歴史』495)を指摘している。Clare が収容された狂人保護院も,Tuke の理念

を実践するために新たに開設されたものであった。その狂人保護院にあって,

近代の知が生み出した「自然」という神話的風景の一部として取り込まれ,

監禁される Clare。しかし,Clare にとってそれ以前に,これとは違った「自

ヴィジョン

然」があったと言えるだろうか。Clare が描く故郷 Helpston の風景こそが,ロ

ア リ エ ナ シ ョ ン

マン主義的「自然」の神話=知に捉えられた農民詩人の「錯乱〔=疎外〕」(フー

コー,『狂気の歴史』497)を告げているのではないだろうか。

(20)

(本稿は第120回関西コールリッジ研究会(2003年11月22日 於同志社大学)におい て発表した論考(「農民詩人John Clareにおける都市と農村」)を,大幅に加筆修正し たものである。

01 Clare を摂政期文化の産物として証明する一つの事例として,Sales は狂人保護院 に収容された Clare が抱くに至った妄想,自らを摂政期時代の英雄詩人 Lord Byron や英雄ボクサー Jack Randallその人であると信じた妄想を挙げている。規律を重ん じるヴィクトリア朝文化へと時代が移るにつれ,自らを表現する場を失った詩人は,

同じくヴィクトリア朝的徳を体現する狂人保護院に監禁され,失われた時代の英雄

ア イ デ ン テ ィ テ ィ ー

への妄想という狂気を育て,その狂気の中で失われた自己同一性を取り戻そうを 闘ったのだと言うのである。

02 See Helsinger, p.149: “own” の語に込められた二重の意味について,囲い込みによっ て意図される所有を否定するものとして指摘している。

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Synopsis

John Clare: A Peasant Poet’s Will to Knowledge

Kazumi Kanatsu

John Clare (1793-1864) is a “peasant poet,” who mostly described the landscapes of his native village, Helpston in Northamptonshire. Critics such as Harold Bloom have tried to define him as a “Minor Romantic” in relation to the Romantic tradition. The definition, however, has been recently reexamined by critics who pay more attention to his complexities as a social and cultural entity, a “peasant poet.” The aim of this paper is to help clarify Clare’s divided identity between the rural culture of Helpston, where he was born and lived as a rural labourer, and the urban culture of London, in which he was promoted as a Romantic poet. In so doing, I attempt to illuminate a context in which the Romantic tradition emerged as a discourse of knowledge and power.

First of all, an examination of “A Sunday with Shepherds and Herdboys”

shows how deeply Clare’s poetry is indebted to the rural culture of his native village. This is a poem which describes a rural community before enclosure, a scene of “customary consciousness” in E.P. Thompson’s words. The world in which shepherds and herdboys labor has its own uniqueness and legitimacy, but is obviously irrelevant to that of agrarian capitalism.

However, it is then shown that the process of making Clare a “peasant poet” illustrates his serious involvement in urban print culture. John Taylor, an editor of London Magazine, needed to market Clare as a representative

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poet for his magazine. At the same time, Clare regarded his poetical production only as a means to end his impoverished life as a rural labourer and to socially and financially better himself. The early nineteenth century was marked by the rise of a new intellectual elite. They endeavoured to define their writing as a profession and to legitimate their new status on the basis of their spiritual capital, “knowledge,” in contrast with the landed property of the aristocracy.

In order to be part of the new intellectual elite, Clare was engaged in parceling out his rural experience into a modern form of knowledge.

The argument of this paper is concluded with a reading of “The Lament of Swordy Well”, a poem written during Clare’s most successful years. By examining the syntax of Clare’s descriptive poems, John Barrell elucidates the poet’s form of knowledge whose “particularity” and “multiplicity” are closely related with his local sense of place. Nevertheless, despite the “aesthetic of disorder” which Barrell argues is designed to challenge “the spirit and values of agrarian capitalism” (Barrell 173), the semiotic which supports Clare’s form of knowledge is mainly an urban commercial one. “The Lament of Swordy Well” articulates Clare’s belief in poetic words which, as an equivalent to monetary signs, could work to repossess the lost landscape of his native village.

To sum up, this paper is an endeavour to elucidate the socio-economic and political forces which produced Clare as a “peasant poet.” The equivocal nature of his poetic identity also suggests the discursive ways in which the Romantic tradition became a culturally dominant discourse. The compulsion to describe Nature, and live up to a “Romantic” idea of what a poet should be, was a literary prison which confined the peasant poet, just as lunatic asylums did in his later years.

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