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明治国家創成期の内政と外政 : 対朝鮮政策と内政と の関連を中心に

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

明治国家創成期の内政と外政 : 対朝鮮政策と内政と の関連を中心に

諸, 洪一

九州大学文学研究科史学専攻

https://doi.org/10.11501/3122889

出版情報:Kyushu University, 1996, 博士(文学), 課程博士 バージョン:

権利関係:

(2)

第三節 大久保利通の帰国と明治六年政変

大久保は、 岩倉使節団の構想、から「約定書」の締結に至るまでの全過程に深く 関与していた。 そして、 米国との単独条約改正交渉のため伊藤と共に一時帰同し、

岩倉使節団の全日程を狂わせる原因をつくった張本人でもあった。 時限的効力し か持たない「約定書」を機能不全に陥れ、 明治六年の定額をめぐる留守政府の 混乱を引き起こした責任は、 大久保自ら招いた条約改正交渉失敗に負うところ少 なくなかった。 明治六年の井上大蔵省と各省との対立は、 明治四年の大久保洋行 参入問題をめぐる混乱とも無縁ではなかった。 明治四年の大久保洋行参入のため の条件は、 西郷の大蔵省御用掛就任と「約定書」の締結であったが、 明治五年末 以降になると、 二つの条件はいずれも機能しなくなっていた。 したがって、 留守 政府の混乱を収拾するためには、 明治四年の大久保洋行参入以前の状態にするこ と、 即ち大久保が洋行を中止して帰国することが、 真っ先に求められたのである。

三条は、 岩倉使節団帰国の予定日であった明治五年九月を前後して起こり始めた 大蔵省と各省との対立を機にして、 木戸 ・ 大久保だけでも帰国させるよう全権大 使岩倉に懇願したが、 両人はなかなか応じようとしなかった。 明治五年一一月の 井上大蔵大輔の引き箆り、 西郷の帰鹿などで政府がほとんど瓦解の危機に瀕する と、 三条はとうとう「勅旨」をもって両人の帰国を促したのである。 帰国を余儀 なくされた大久保は、 明治六年三月二八日、 倍林を発して帰国の途についた。 大

久保は、 帰国途中の四月一目、 在欧中の外務大輔寺島宗則に書簡を宛てて、 自ら

の帰国の事について次のように述べている。

「小子におひても半途にして帰朝の事は甚以遺憾至極に存候初発より被差出 候御趣意におひても貫徹致兼E一己の所存に於ても両断の決定にてたとひ少 々の事有之候ても敢て不顧の底意、の処既に本邦も各国公使へ外務卿より打合 せ有之候上弥御治定にて御!懸念、有之たる事にて彼是勘考の上断然、帰朝に相決

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し申候木戸子には是非魯西亜迄参り候上帰朝其帰途所々巡覧いたし一二月後 れて帰る筈に談合の上取究申候〈中略)仮令小子一人帰朝候ても何も目的も 無之故黙々として一同の帰朝を待より外致方無御座候願くは温泉にでもいた し度希望にて候」く39)

最初より「少々之事Jを顧みることなく、 全ての洋行日程を果たすつもりであ った大久保は、 途中の三条の帰国命令を「遺憾」としていた。 そのうえ、 一人で 帰国しても何も「目的」はなかったので、 ただ「黙々」と使節団一同の帰国を待 つつもりであった。 未だ太政官「潤色」の気配を関知せず、 大蔵卿として留守政 府の混乱を収拾することを求められていただけに、 帰国しでも特になすことはな かった。 大久保の本来の目的は、 「初発」の「趣意」、 即ち「約定書」にも定め られている「大使帰国の上大に改正する」ことを全うすることであった。 したが って、 「半途にして帰朝の事Jは「遺憾」であり、 「初発」の「趣意」を全うす るためにも、 使節団「一同」の帰国を待たなければならなかった。

ところが、 五月二七日に帰国した大久保の前に待っていたのは、 太政官「潤色J によって大きく様変わりしていた留守政府であった。 大久保の帰国によって期待 されていた留守政府の混乱の収拾は、 大隈の主導ですでになされていた。 さらに、

大久保が復職すべき大蔵省には、 大限が大蔵省事務総裁となって省務を管掌して いた。 大久保の失望は推測に難くないが、 それよりも大久保の帰国をむりやり促 して、 大久保の帰国の最中に太政官「潤色」をただ見守るだけであった三条は

大久保になんらかの弁明をしなければならなか った。 大久保の帰国を間近に控え

ていた五月一八日の大隈宛て三条書簡は、 太政官「潤色J体制の問題点、を次のょ っに述べている。

「使節の帰朝迄は不得止事件の外は総て変革改正も不致と申旨趣篤と不相定 節は今後章程議定其外の事にも余程差響不少其度毎に激論相生候ては不可然

と存候間右の処は能々同僚中議定有之度と存候乍併右の如く相成候は 、必ら

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す内閣は無用に属するとの議論に至り動もすれは内閣中に瓦解も難計殆苦慮 仕候」く40>

三条は、 「使節の帰朝」までは「変革改正」をしないとの「旨趣」、 即ち「約 定書Jの趣旨が「相定」らず、 大変革を遂げてしまったことを、 この段階になっ

て改めて心配し始めた。 太政官「潤色」もすでに終了し、 「約定書」は影さえな

くなっていたこの段階で、 三条は大限に改めて「約定書」のことを思い起こさせ たのである。 三条が想像している「内閣は無用に属するとの議論」は、 「約定書」

を無視して大変革を成し遂げた留守政府に対する岩倉使節団側の言い分であろう。

予想される使節団側の苦情を考慮せざるを得なかった三条は、 「約定書」の!不 相定」ことをめぐる岩倉使節団と留守政府との対立による内閣「瓦解Jのことを、

「殆苦慮Jしていたのである。 このような三条の想像は、 留守政府を預かる太政

大臣として太政官「潤色」を認めてしまったことや、 自らの強引な帰国命令によ って「半途帰朝」の最中であった大久保のことを、 意識せざる得なかったからで あろう。 留守政府に引きずられてきた三条は、 使節団の帰国を控えて、 両政治勢 力の板挟みになっていた。 しかし、 そもそも「皇国の柱石」たる薩長の政治勢力 を政治基盤としていた三条は、 留守政府の西郷、 使節団側の岩倉 ・ 木戸 ・ 大久保 などに重きをおいていた。 したがってこの段階になって、 せめて三条が努められ ることとは、 現在の政治状況を少しでも太政官「潤色J以前の原状に取り戻して おくこであった。 大久保帰国後の六月一八日、 三条は大隈に次のように述べてい

る。

「同人(井上)義奉職中失誤も有之候得共従前の功も又不砂義且は其材能も 非常有用の物に候得は格別の訳を以て此節奥州辺土木の御用被相命候様足下 井陸奥前島等より書面に為し権限相成候ては如何哉(中略)過日来談合仕候 大久保の義拝命固辞致居候得共猶推て申聞置候間参議の処は定て御請可巾と 存候乍井大蔵の事務に相掛候義は当時井上も免職相成事故於大久保も万得難

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相立所詮御請難仕内情に御座候尤於足下も当惑の情実は如何にも推察仕候事 に候得は総裁の処は被免様有之度存候」く41>

三条は、 大久保の参議就任を働きかける一方、 井上の救済と大限の大蔵事務総 裁免職などを求め、 少しでも原状回復に近づけるよう努めた。 また、 留守中の変 革が「素り本意に無之」、 「矢張姑息之処置」であったことを、 改めて強調する 有様であった。 しかし大久保は、 三条のこのような活動には一切構わず、 政治活 動を止めたまま「黙々」と使節団一同の帰国を待つば、かりであった。 1"大使帰国 の上大に改正する」目的のためにも、 またその基礎となる体制作りのためにも、

大久保は出仕を拒んで沈黙しつづけた。 したがって、 三条の働きかけが、 一切功 を奏せなかったのはいうまでもなく、 太政官「潤色」による正院中心休制もなん ら問題はなかった。

このような状況の中で、 七月 に入ると、 板坦の釜山への派兵説、 西郷の朝鮮遺 使論、 副島帰国後の征台論などの外征論が、 留守政府の最大の政治的争点として 登場してきた。 そして八月には、 板垣の派兵論と副島の征台論は、 西郷の朝鮮遺 使論・ 「暴殺論」に収束され、 八月一七日には、 西郷の朝鮮遣使論をめぐる閣議 が開かれる段取りとなっていた。 大久保は、 在欧留学中の同藩出身の村田新八 ・ 大山巌に宛てた八月一五日の書簡で、 このような国内の政治状況を次のように伝 えている。

「当方之形光は迫々御伝聞も可有之、 実に致様もな き次第に立至、 小子帰朝 いたし候ても所謂蚊背負山之類にて不知所作、 今日迄荏碍一同手の揃を待居 候仮令有為之志ありといへとも、 此際に臨み蜘妹之巻き合をやったとて寸誌 もなし、 E又愚存も有之、 泰然、として傍観仕候、 国家の事一時の憤発力にて 暴挙いたし、 愉快を唱へる様なることにて決て可成訳なし、 尤其時世と人情 の差異に関係するは無論なるへし、 詳細の情実は禿麿の所及にあらず、 宜く 新聞紙を関して亮察し玉へ(中略)

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0当今光景にては人馬共に倦果、 不可思議の情態に相成候、 追々役者も揃ひ、

秋風白雲の節に至り候は 、、 元気も復し可見の開場も可有之候J <42>

この書簡は、 大久保帰国後の圏内情勢と自らの政治的立場、 そして今後の同内 情勢のビジョ ンなどを述べたものである。 太政官「潤色」による留守政府を日の 前にした帰国後の大久保の政治的立場は、 「所謂蚊背負山之類」であり、 「一同 手の揃いを待」つしかなかった。 大久保は、 三条の要請に応じて参議列に加わ て、 仮令太政官「潤色」の是非をめぐる議論と対立に飛び込んでも、 それは「蜘 妹之捲キ合」にしかならず、 「寸益」もないと判断した。 したがって、 大久保は

「愚存」を秘めて使節団一同の帰国まで「泰然、と傍観」する他はなかったのであ

る。

ところで、 大久保が伝えている「国家の事一時の奮発力にて暴挙いたし愉快を 唱」えるとは、 なにを指しているのであろうか。 先行研究は、 二日後の西郷の朝 鮮遣使論閣議を控えている段階であったことから、 「暴挙」とは西郷の朝鮮遣使 論・ 「暴殺論」であるとしてきた。 これに対して、 毛利敏彦氏は、 「暴挙Jとは 汚職事件に絡んでいた井上に対する江藤司法省の追及を指しており、 「大久保の 頭のなかは、 司法省への不満でいっぱいになっていた」としているく43>0 何れも 確証は得られない。

しかし、 前述したように、 三条の強引な帰国命令に従った大久保を待っていた

のは、 「約定書」による留守政府の枠組みが崩壊され、 太政官「潤色Jによって 留守政府が大変革を遂げている状況であった。 井上を辞職に追い込んで、 このよ

うな状況を生み出した一つの重要な原因に、 江藤司法省の改革を挙げられよう。

しかし大久保が、 江藤の「暴挙」だけに狙いを定めていたとするならば、 留守政 府の状況は、 必ずしも「所謂蚊背負山之類」でもなければ、 「一同手の揃いJを 待たなければならない理由も、 説得力に欠けているように思われる。 í一時の奮 発力」にて「愉快を唱」えたのは、 副島のマリア ・ ルズ号事件解決から始まった

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日清条約の批准、 征台論の提唱がそうであり、 司法、 文部、 工部省の急進的な改 革もそうである。 また、 このような状況に推されて、 「約定書」をほごにし、 新 参議の任命、 太政官職制事務章程の「潤色」を成し遂げた大隈の決断は、 大久保 にとっては、 まさに「暴挙」に他ならなかったのであろう。 しかも この害簡が、

朝鮮遣使論閣議を二日後に控えていた(しかも翌日は閣議を後目に関西旅行に出 た)タイミングの面から考えると、 この段階までは紛れもない「暴殺論」として 理解されていた西郷の朝鮮遣使論に触発されて、 書かれた可能性も大であると思 われる。 このような留守政府の諸々の改革 ・ 変革による「当今の光景」こそ、 「 人馬共ニ捲果不可思議ノ情態」であり、 この「情態」を打開するためには「追々 役者モ揃」う「秋風白雲ノ節」を待たなければならなかったのであろう。

八月一六日、 閣議の前日に、 大久保は忽然と関西旅行に出かけた。 高IJ島の征ム 論、 板垣の派兵論を収束した西郷の朝鮮遣使論に対しては、 岩倉使節団側の立場 を気遣う三条の他に、 正院での積極的な反対はなか った。 西郷の朝鮮遣使論は、

「潤色」後の新内閣によって支持され、 新内閣の朝鮮政策として閣議決定される 見込みとなっていた。 すでに西郷の朝鮮遣使論を阻止できるすべを持たなか った 大久保は、 三条の参議就任要請を拒否し、 閣議に全く関わらないことによって、

閣議決定の効力を半減しよう としたわけである。 岩倉使節団側の主要メンバーで あった大久保の閣議前日の関西旅行は、 新内閣だけによる閣議決定の権威と意義 を著しく損ねる政治的行為であり、 大久保の「愚存Jの一角を表したも のといえ ょう。

一七日の朝鮮遣使論閣議は、 西郷の朝鮮派遣を反対なしで決定した。 しかし

西郷の「暴殺論」を即開戦論と憂慮した三条は、 岩倉使節問帰国後の政府全体の 合意を得ょうとした結果、 「勅旨」は「西郷を使節として朝鮮国に差遣するの事 li、 宜く岩倉か帰朝の日を待ち、 岩倉と之を熟議して以て奏すべし、 而る後に

映之を裁断せん」とありく44>、 閣議決定は留保されたo I只使節の御帰り迄御待

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ちJすべきだという、 西郷が「何分安心いたし兼ね」ていたことが現実となった

のであるく45)。 したがって、 「勅旨」発令後の西郷は、 反対派の格好の口実にな りかねない「暴殺論」のイメージを、 できるだけもみ消さなければならなかった

(詳細については、 第五節を参照)。

西郷が、 朝鮮遣使論の「暴殺論」的イメージを払拭するため働きかけている最 中の九月一三目、 欧米視察を終えた岩倉使節団は一年一0ヶ月ぶりに帰国した。

大久保も関西から帰京したので、 「役者」は揃ったわけである。 帰京した大久保

は、 まず三条の参議就任要請を再三拒否し続けた。 r役者」は揃ったが、 大久保 は、 まだ「秋風白雲の節」とは判断していなかったからであろう。 対米条約改正

交渉失敗以来険悪になっていた木戸との関係は、 依然修復されておらず、 なによ りも最終決定権者である太政大臣三条は、 西郷の朝鮮遣使論の閣議決定を有効と 考えていた。 r潤色」後の新内閣を素直に認めるわけにはいかなかった大久保は、

必ずしも西郷の朝鮮遣使論そのものに反対ではなかったが、 最大の政治的争点と なっていた朝鮮遣使論が新内閣の対外政策として遂行されることは、 防がなけれ ばならなかった。 なぜなら、 新内閣による朝鮮遣使論の決定と遂行は、 即ち新内 閣と太政官「潤色」をも認める結果となり、 以降の政局のリーダーシ ッ プは新内 閣にとられる結果になりかねなかったからである。 しかも新内閣は、 西郷以外の 五人の参議全てが土佐 ・ 肥前出身の参議だったのである。 大久保の閣議入りと閣 議での朝鮮遣使論をめぐる対立が確実になっている以上、 閣議の行方を決定する 太政大臣三条の支持を確保しておくことは、 大久保にとって不可欠であった。 一

条は、 八月一七日の閣議決定を留保する「勅旨」を引き出した最大の功労者であ ったが、 暖昧な態度と優柔不断さは、 西郷の「赫々たる名声」に押されがちであ

った。 このような閣議決定の鍵を握る三条を、 如何に味方に引き付けるかが、 大 久保の「愚存」の一角だったのであり、 そのためにも三条の再三の参議就任要請 をむやみに引き受けるわけにはいかなかったのである。

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さて、 太政大臣三条は八月一七日の閣議決定と一九日の「勅旨」をどのように

理解していたのであろうか。 西郷の朝鮮遣使論に対する三条の理解は、 九月 ー五 日の木戸宛て三条の書簡で窺うことができる。

「台湾朝鮮の義は大使も帰朝相成候上は猶遂評議候事に付高諭の通り熟思可 仕候初朝鮮使節の義先頃足下へも申入候処西郷参議を使節に可遣との事は足 下にも承知無之哉に伝聞仕候間左候は 、全拙者より申入候処疎漏にて徹底不 致事と存候間尚為念申入候抑朝鮮使節の義は緩急)1慎序は可有之候得共到底使 節不差遣候ては不相済事と見込候得は使節被遣候義は不侠論事に可有之就て は西郷参議段々懇願も有之候間同人へ被仰付候ても可然尤使節差遣され候は

、其手順も得失可有之事に付予め大使帰朝前にも見込候処は取調置大使帰朝 の上篤と遂評議弥御決議相成候は 、 可然との評論にて西郷参議にも其の次第 は申関候事に候間此段為念申入候J <46>

三条は、 八月一七日の朝鮮遣使論閣議は決定済みであり、 依然として有効とし ていた。 したがって、 三条が理解していた一九日の「勅旨」は、 決定済みの朝鮮 遣使論に対して、 岩倉使節団側の追認を得なければならなかったので、 使節団の 帰国までしばらく留保したという意味に過ぎなか った。 三条は、 朝鮮遺使論はす でに決定済みであることを、 使節団側の一人である木戸に「為念申入」れ、 その 追認を求めたのである。

三条は、 再閣議を控えていた-0月になっても、 朝鮮遣使論が決定済みである との理解には変わりはなか った。 RlJち、 三条は、 朝鮮遣使後の開戦をも見込んだ 議案の作成にかかっていた。

,-0月四日

へルリの日本に来るや其目的を条陳して政府に出せる書を見るに実に詳細 を尽せり使節を外国に遣す宜能目的を具陳すへきなり

使節を遣す之目的趣意

一191-

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使節を遺る之趣意唯国辱を雪き義務を尽す迄に有るか使節を遣すに別の深

意有て然る欺

使節を遣すは遂に朝鮮を我有と為すの遠略に出る敗戦を期する欺不期欺 得止は戦の意敗、 朝鮮を我有と為さすんは不可なる之論如何、 朝鮮と戦を 為すの利害如何(一方有利無害の論あれは一方有害無理の説あり双方を照 して議すへし利害は勝敗の義に非す)戦を為す上の目的(をびやかして1[.

むか略取を期するか)

右等の趣意は詳細に書して議案に供すへき也

今度の使節既三四度の使節なり又屈辱を受け不可辱命的て死を期すへきな り

使節をして死を期せしむ政府戦を期せすんは不可有

使節を派するの事は巳に決す論なきなり唯使節を遣すに付ては戦に移るに 付其利害を論決する極めて大事なり此論不決は使節は境を出る事不出来な り知何となれは此節の使節是迄の如き使節に非す死を期するの使節なり使 節殺されて後始て戦を決するに非す己に必死の使節を派出すれは其派出す

る日に戦を決っせすんは有へからす

国不振使節身を殺して始て可振とならは使節一身の略にして政府の略に非 す

前段の議案は西郷より差 出して可なり西郷不能 は其趣意、を聞き他人に命し

て筆をとらせて可なり

史官にでも西郷方に遣し議論を聞かしめて可なり

如此大事は書付に不致ては種々間違意外の誤を遺す也必らす書に記し三職

の調印をなし

御璽をあらせられて始て不発の廟算となるへきなり 右の勅旨を遵奉して違ふ事莫らしむへきなり」く47>

(11)

三条は、 西郷の朝鮮遣使論を決定済みと理解し、 「異論なき」ことと断言して

いる。 三条は、 西郷の朝鮮派遣は「必至の使節」であり、 仮に「をびやかしJで 済む位の軍事行動であっても、 政府としては開戦の覚悟を決めて置かなければ士、

らないと考えていた。 開戦を前提とする三条の議論は、 岩倉使節団側の主要メン バーが西郷の朝鮮遣使論に異議を唱えないだろうとの誤算があったからであった。

何れにしても三条は、 西郷の朝鮮遺使論はすでに決定済みであり、 「勅旨jによ る留保は、 岩倉使節団側の追認を得て政府全体の合意、のもとで使節派遣を推進す るつもりであった。

閣議決定と「勅旨」に関する三条のこのような理解は、 岩倉 ・ 大久保などの使 節団側にも大同小異のことが伝えられたのであろう。 大久保が、 このような三条 の参議就任要請に応じるのは、 朝鮮遺使論への追認に他ならず、 そのことは新内 閣のリーダーシ ップを認める結果にもなりかねなかったのである。 したがって大 久保は、 西郷の思惑には反対でなかったとしても、 新内閣がイニシ ャチプを握っ ている朝鮮遣使論を阻止しなければならなかった。 大久保以外の全ての参議に支 持・黙認されている朝鮮遣使論を、 大久保一人(木戸は臥病中)で阻止又は延期 するためには、 三条を味方につける他はなかった。 大久保は、 意思決定定足数も 決っておらず、 内閣での議論の優劣が必ずしも太政大臣の閣議決定権を拘束しな い不明確な意思決定方式を、 熟知していたのであろう。 大久保は伊藤と共に、 一 条に影響を与えうる岩倉を通じて、 朝鮮遣使論を阻止 ・ 延期するための説得工作 を続けた。 伊藤は、 木戸、 大久保、 三条、 岩倉など維新の元勲の問を仲裁のため 葬走し、 薩長の「役者Jの「手の揃い」を図った。 九月二七日の岩倉宛て伊藤 簡は次のようである。

「早速木戸へ罷越尚又熟議仕候処同人に於ても大久保拝命の儀第一着と相 心得居候趣に御座候勿論昨日も申上候通両公御降問被下候得は同人の勘考 は可申上筈に約定仕置候に付何時御越被下候ても更に差支無之候乍去同ノ

(12)

今只臥病罷在候体にて一両月間出動仕候儀はとても相叶申間敷と奉存候然、

して大久保も参議拝命不仕時は即今重大切迫の事件数々有之候央に何人と 併力輿謀して夫々御処分可相成哉必境両公及両氏合一意衷一徹に出候様と 申事にて先日以来御苦慮と奉存候然るに一人は病気一人は奉命難相成事情 に御座候へは乍恐両公の御担当尋常の事にては危急多難の際御救済難相成 様奉存候私愚考にてはぜひ大久保拝命無之ては更に其詮有之問敷奉存候乍 併此上は両公の御勘考次第にて何とも何申上今日の事其憂必しも政休制度 にあらすして必境其人を御用ひ被成と否とに可育之己に申上候通両公及両

氏の合力ならでは何事も前途の方向は橡め難定候Jく48>

「木戸派」の一員でありながら、 洋行後の失態によ って大久保に近づいてい っ た伊藤は、 帰国後の留守政府の変転ぶりに臨んで、 再び薩長の「合力Jを図った。

臥病中の 木戸も、 大久保の参議就任を「第一着」として了承しており、 伊藤にお いても「両公〈三条 ・ 岩倉)及両氏(木戸 ・ 大久保)之合力」を、 現状を打開で きる唯一の方法と考えていた。 特に伊藤は、 帰国後の留守政府の有様を現状復帰 させるために必要なことは、 「政体制度」の改革ではなく、 「其人を御用ひ被成 と否と」にかかっていることを明言したわけである。 要するに、 伊藤においては 陸長の「合力」こそが重要だったのである。 このような伊藤の「両公及両氏之ム 力Jの画策には、 樺太先決論を唱えていた黒田も同意していた。

「別紙伊藤氏所存篤と拝誠実に至誠の処置奉感侃候尚此末乍恐両氏合ーの儀 奉伏葉候両公配慮実に一方ならす恐縮の至りに御座候」く49>

伊藤と黒田は木戸と大久保の合力に尽力し、 さらには「両公Jの取り込みのた め種々画策した。

大久保が参議就任要請を受諾したのは、 伊藤 ・ 黒田の仲裁によって「両公及両 氏Jの協調ラインが成立した-0月一0日のことであった。 一二日に最初の閣議 が予定されていたので、 二目前のぎりぎりのところまで三条 ・ 岩倉を追い込んで

-194-

(13)

からの参議就任受諾であった。 大久保の受諾は、 いうまでもなく、 三条および山

倉の協力を取り付けたからのことであった。 当日、 三条 ・ 岩倉に出した大久保の 参議就任「請書」は次のようである。

「御書面拝読仕候今般小臣就進退御旨趣相伺候処確定の御目的詳細被示開 判然了得仕候此上は御旨趣を遵奉し惟命惟従不顧議劣砕身可仕候(乃御請此

に候」く50>

「御書面」とは、 前日の九日、 三条 ・ 岩倉がそれぞれ大久保に出した「書取」

・ 「御約定一紙」のことであった。 その内容は、 三条 ・ 岩倉共に閣議に当たって 大久保の使節派遣延期論の方針を確認する との誓約であった。 この「御書面」の 誓約通り、 三条 ・ 岩倉が西郷の朝鮮権使論に反対(延期)論を堅持すれば、 大久 保の目的は達成されるはずであった。 した がって、 大久保は、 即時朝鮮遺使論を 支持しない「両公」の「御旨趣ヲ遵奉シ惟命惟従Jうだけで、 これからの閣議決 定の行方は、 すべて「両公」の意思如何にかかっていることを、 強くアピールし たのである。

しかし、 最後まで跨路していた三条に対して大久保は一三目、 三条に書簡を宛 て、 朝鮮遣使論の再閣議の性格を次のように述べている。

「明日は惣体の 御熟評有之候御条理欺と愚考仕候兎も角使節と留守中政府 と御熟議可有之と申 迄御延引 被成候御旨趣と申 訳に候得は然の事

に奉存候J <51>

大久保は明日の閣議が、 「使節と留守中政府との熟議」であることを明確に表

した。 閣議の議題は紛れもない西郷の朝鮮遣使論であったが、 大久保が狙いを定 めたのは、 西郷ではなくあくまでも「留守中政府」だったのである。 大久保は 大変革を遂げた「留守中政府」を追い落とすために「今日迄御延引J していたこ とを明らかにした。 しかし、 この「留守中政府」と熟議 ・ 談判するためには、

ずと留守政府が持ち出した最大の政治的争点、であった西郷の朝鮮遣使論を阻止又

-195-

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は延期させなければならなかったのである。

大久保の使節派遣延期論は、 日時 ・ 宛名を欠く「征鵠論に関する意見書」の中 に、 七カ条が述べられているが、 概略してみると次のようである。

「今般朝鮮遣使の議あり未た俄に行ふへからすせし者は其宜く鑑み厚く度る へき者あるを以なり故に其旨趣を左に掲く

(一、 内政未備 ・ 農民一撲。 二、 財政の不足。 三、 殖産興業 ・ 富国強兵 四、 赤字貿易。 五、 外交的不利。 六、 外債の過多。 七、 条約改正)Jく52>

大久保は、 西郷の朝鮮遣使論を即ち「征勝論」として受け止め(あるいは印象 づけ)、 「俄に朝鮮の役を起こす可からす」との理由を、 内政 ・ 外交の全般にわ たって述べている。 特に、 第三条の「諸業を起し富強の道を計る」殖産興業と富 国強兵の二大方針は、 明治国家の進むべき方向を明確に示したものとして、 外遊 経験者ならではの思想、であたと言えよう。 これは大久保の朝鮮遺使論反対 ・ 延期 のための理屈に止どまらず、 以降の明治政府の内政 ・ 外交の重要政策として位置 づけられていくのである。

しかし、 内治政整備 ・ 殖産興業 ・ 富国強兵を軸とする大久保の主張は、 西郷の 朝鮮遣使論を抑えるには「力不足」であった。 -0月一五日に開かれた閣議で、

西郷の朝鮮遣使論に対立したのは、 実に大久保ただ一人であった。 三条 ・ 岩倉は 大久保支持の誓約があったにも関わらず、 西郷の「赫々たる名声Jに押されて 朝鮮遣使論は閣議決定された(後述)。

大久保が対立 ・ 排除しようとしたのは、 西郷の朝鮮遣使論そのものではなく、

西郷の朝鮮遣使論を留守政府の目玉政策として位置づけ、 太政官「潤色」以来の 政府のリーダーシ ッ プの掌握を試みる政治勢力であった。 それは、 薩長中心の岩 倉使節団の思惑を反映した「約定書」による留守政府の枠組みを解体し、 自ら留 守政府の枠組をっくり直し、 主導権を握ろうとする土 ・ 肥中心の新内閣であり その新内閣への不信が、 西郷との対立を余儀なくさせたのである。

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第四節 明治六年政変と木戸孝允の動向

幕末内紛の過程で少なくない指導者を失った長州藩出身の維新官僚は、 維新後 にも大村益次郎、 広沢真臣などを相次いで暗殺され、 木戸孝允を始め井上磐、 伊 藤博文、 山県有朋などが、 長州を代表していた。 維新の元勲木戸は、 長州出身者 を中心とする自派官僚を、 主として大蔵省と民部省に勢力を扶殖し、 明治三年に は民蔵合省と大隈の参議推薦をめぐって、 小大蔵省主義(民蔵分離)を主張する 大久保と対立していた。 民蔵合省と大隈の参議就任はならなかったが、 民部省と 大蔵省を牛耳っていたのは、 大隈、 井上、 伊藤らいわゆる「木戸派」官僚であっ た。 廃藩置県後の民蔵合省の際に、 大久保は不得手とする大蔵卿就任を余儀なく されたが、 大蔵省の実権を握るようになったのは大蔵大楠井上であった。 しかも その後の大久保の洋行参入のため様々な条件( r血盟」→「約定書J)を引き出 した井上は、 「一国の政務の四分通り」を司る大蔵省を預かつて、 「飛鳥も落l

るくらいの勢いであった。 このような「木戸派J官僚の活躍について、 明治四年 一一月一二日の野村宗七宛て五代友厚書簡は、 「大和尚(西郷隆盛)は所持の山 林其樹木当時役に不立、 大隈、 木戸の林は、 山林中に良材あって助ける故に、 日 々盛りと云へり」といっているく53>0

「山林中に良材」で形成された「木戸派」には、 井上の他に大蔵省の「良材」

の一人であった伊藤がいた。 伊藤は、 岩倉使節団の洋行において、 一躍特命全権 自IJ使に抜擢された。 過去二回の洋行経験を買われてのこととはいえ、 一介の租税 頑(工部大輔の役職は副使就任のための格上げであった)から木戸に並ぶ全権副 使の資格を獲得したのは、 実に破格的であったといえよう。 このように、 いわゆ る「木戸派」官僚は、 薩摩の維新官僚群と共に維新政府の両翼を担当し、 重要な ポストを占めていたのである。

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しかし、 このような「木戸派」の地位も、 洋行後の留守政府の変転過程と無縁 ではいられなかった。 留守政府の変転のきっかけとなった対米単独条約改正交渉 は、 他ならぬ伊藤の建言によるものであり、 大久保と共に帰国して失態を演じた のも伊藤であった。 米国での岩倉使節団に対する熱烈な歓待を、 条約改正の好機 と思い込んだ伊藤は、 岩倉に米国との単独条約改正交渉に臨むことを建言したの である。 米国駐在弁務使森有礼と共に外国事情に詳しかった伊藤の建言に、 功を 急ごうとする使節団は、 条約改正交渉のための全権委任状を求めて、 二月一二日、

大久保 ・ 伊藤の両副使を帰国させるようになった。 米国との単独条約改正が不可 能であることを認識したのは、 両副使帰国後間もない時で、 二月一八日の『木戸

日記』は、 このような状況を次のように記している。

「条約一条を集議せり此度俄に大久保伊藤帰朝して条約改正の勅許を乞わん とす今此挙動反顧いたし候に余等伊藤或は森弁務使等の粗外国事情に通せし に託し勿率其言に随ひ天皇陛下の勅旨を再三熟慮謹案せさるを悔ゆ実に余等 のー罪也(中略)今日の事己に一着を失す彼の欲するものは尽く与へ我欲す るものは未ーも得る能はす此聞の苦心旦其遺憾なる只管呑涙而己」く54>

木戸は、 両副使の帰国は使節団の「一罪」であり、 「一着を失Jした明かな失

態であることを認めざるを得なかった。 木戸は、 伊藤などに雷同してしまったこ とを自責しながら、 伊藤の建言を「才子の一時求名の節」と、 不信感を露にした。

一方、 全権委任状は大久保 ・ 伊藤に交付されたが、 特定国との条約改正を認めな かったので、 両人のめんつを立てるためのものに過ぎなかった。 しかも、 両副使 が四ヶ月余りの旅程を費やして再びワシ ントンに帰着(六月一七日)した時は すでに交渉は打ち切られている状態であった。 いたずらに四ヶ月間の足止めを食

bった木戸は、 その怒りを伊藤にぶつけるしかなかった。 長川出身維新官僚の筆 頭木戸の怒りを買った伊藤は、 次第に同じ立場に立たされていた大久保に接近す

るようになり、 大久保と木戸の対立をさらに深める原因となった。 このような大

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久保・ 木戸の関係は、 欧米視察の間尾を引いて、 三条の帰国命令に臨んでも、 木 戸は大久保に遅れて二ヶ月後の七月二三日に帰国したのである。

木戸を待っていた国内の政治状況は、 大久保が帰国したときの状況とほとんど 変わらなかったが、 太政官「潤色」と井上の破綻は、 大久保より一際重い失望感 を木戸に与えたのであろう。 帰国早々の七月二八日の『木戸日記』は、 このよう な状況を次のように記している。

「井上に至る一昨年来の事情を聞得す(中略)十字過井上に帰り一泊せり留 守中の形情紛伝細綾不能尽筆頭為天下後世只不堪長歎」く55>

木戸が井上より「間得」した「留守中の形情紛伝」の件々は、 明治六年の定額 をめぐる司法省との対立、 太政官「潤色J、 そして井上の辞職に至るまでの経緯 などが挙げられよう。 その中でも、 井上大蔵省と対立を極めたのは江藤司法省で あったが、 井上を最も憤激させたのは、 大隈の新参議「人選」の措置であり、 太 政官職制事務章程の「潤色」であった。 太政官「潤色」によって井上は辞職し 新内閣に留まった「木戸派」は一人もいなかった。 í木戸派J官僚は、 三大急務

(軍事、 財政、 外交)を担当する各省大柄クラス以上の官僚のなかで、 汚職事件 で薩摩近衛兵の厳しい追及を受けていた陸軍卿山県だけであった。 財政と外交は

| 大蔵省事務総裁大隈と外務卿副島が担当しており、 何れも肥前出身の官僚であっ

た。 薩摩と共に、 維新政府の両翼を担当していた洋行前の長州の面影は、 留守政 府にはなくなっていた。 木戸が井上より聞得して「為天下後世只不堪長歎Jした のは、 司法省の改革と井上の汚職追及だけでなく、 留守政府の枠組みを根本的に 作り替えてしまった太政官「潤色」のことであったろう。

このような木戸の政治的立場をさらに直撃したのは、 小野組転籍事件をめぐる 京都府と京都裁判所の争いであったo 木戸の「盟友Jであり、 京阪におけるI木 戸派Jの一人であった京都府参事横村正直を巻き込んだこの事件に対して、 木戸 li至大な関心を払い、 深く関与していった。 この事件は、 太政官「潤色j後の政

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治状況を反映し、 明治六年政変における対立構造とも重なって同時進行しながら、

その影響をもろに受けた事件であった。 I愚存」をもって西郷の朝鮮遺使論を阻 止・延期するため画策していた大久保に対して、 木戸はさしたる手立てもなく、

積極的lこ反対することもなかった。 その代わり木戸は、 政変の対立構造とも竜犬、

って進行していた同事件を通して、 横村の救済と反対派の追い落しのため、 病に 床で種々画策したのである。 したがって、 この事件との関わりを通して、 帰国後 の木戸の政治的立場や政変への政治過程をかいま見ることができょう。 小野組転 籍事件は近代日本最初の行政訴訟であっただけに、 法制史の側面からの研究業績 が多いく56>0 本章では、 主として司法省と地方官( I木戸派」官僚)との対立を 通して木戸の政治的立場と政変との関わりを見てみたい。 以下、 小野組転籍事件 が、 中央の政治闘争にまで至る経過を概観しておきたい。

小野組は、 近世以来の豪商として、 維新戦争に際しては官軍に投資し、 維新後 三井組 ・ 島田組と共に政府の為替方として活躍した大政商であった。 すでに、 東 京遷都と共に本拠地を東京に移していた三井組とは、 ;峨烈に競争している関係で あった。 小野組においても、 政治経済の中心地となっていた東京と、 欧米諸国と の貿易の拠点になっていた太平洋沿岸都市への本拠地移動問題は、 不可欠となっ てきたのである。 太政官「潤色Jの二日後の五月四円、 小野組の幹部小野善日)Jら 三人は、 京都府庁に、 「商業為便宜摂州神戸江転籍」を願い出たく57>0

小野組の転籍理由は専ら「商業の便宜」のためであったが、 その背景には、 京 都府庁と小野組との深刻な車L際が存在していた。 京都府の知事は公卿の長谷信篤、

参事は長州出身の横村正直であったが、 府庁の実務を司っていたのは参事の横村

であった。 木戸の「盟友」でもあった横村は、 「木戸派」の政治資金源ともいわ れ、 三井組の面倒をみていた井上とは各地の鉱山の利益を共に図っていた京阪の

「木戸派Jの一人であった。 したがって、 小野組にとっては、 競争関係にあった ミ井組と密着して、 莫大な寄付金の廉出を強要していた横村の横暴から逃れるた

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めに、 転籍は不 可欠であった58>0

しかし横村は、 転籍届の具備書類の再三の修正提出を命じ て 転籍を妨害し、 /J 野善右衛門等を府庁に呼び出して転籍の理由を尋問し、 転籍中止を勧告脅迫する 有 様であった。 再三の 転籍 願いにも関わらず 簡 単にその趣 旨を黙れてしま

た小野組は、 幹部会議を開き司法省布達四六号を根拠にしてく59>、 五月二七日、

京都府知 ・ 参事を相手とって、 去年開設したばかりの京都裁判所に訴訟を提起す るに至った。 ここで、 原告の 小野組と被告の京都府との近代日本最初の行政訴訟 が始まったのである。

京都裁判所長北畠治房(大和藩士出身)は、 維新前には過激援夷派団体の天訴 組のメンバーとして、 井上 ・ 三井組と対立していたもう一つの大政商五大友厚の 推薦によって、 大限が抜擢した者であった。 小野組の訴訟に接した北畠は訴状の 受理を決定して、 京都府庁に転籍拒否理由の答弁書を求めて裁判所への出頭を命

じたが、 府庁側はこれに応じようとはしなかったく60>。 したがって、 北畠裁判長 は、 出頭を拒む府庁側の欠席裁判で、 「至急送籍」するよう判決を言い渡したく6 1>。 この判決をもって、 小野組の転籍をめぐる裁判は一応決着をつけたのである。

しかし府庁側は、 京都裁判所の判決にも承伏しなかったく62>。 新設されたばか りの裁判所は、 判決を執行できる強制力を整備していない状態であったので、 判 決はもとより裁判所の存在意味さえ疑わしいことになった。 府庁側の判決黙殺は 府庁と裁判所の確執となり、 ひいては「潤色」された留守政府の権力のありかた にも触れる重大な挑戦に他ならなかった。 府庁側に承伏の意思がないことを確認 した北畠裁判長は、 その旨を司法大輔福岡孝弟に報告しく63>、 政府の政治的判断 を待つこととなったのである。 七月一二目、 司法省六等出仕早川勇は京都府の対 応に対して太政官に伺いを出したところ、 太政官は即時「口供結案を待つに及ば ず各人民現行犯罪の例を以て立所に罪を科すべし」と指令したく64>0 このよう十 指 令が 江藤 又新 内 閣評議によって下されたとはいうまでもなかろう。 木 戸

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不在の新内閣による断固たる処分だったのである。 北畠裁判長は、 正院の明確な 政治的判断が下ると、 違式令の罪を問うため知参事の即時裁判所出頭を命じ<65>

これを拒否する京都府知 ・ 参事に有罪判決を言い渡したく66)。

しかし、 府庁側はこの判決にも承伏しなかったので、 執行の強制力を持たなカ った北畠裁判長は、 「監倉ニ拘留スルヲ得ルノ権ヲ嘗裁判所へ暫ク御委任lする ことを司法省に上申したく67>0 これに対して司法大柄福岡は、 八月十日太政官に

、 京都府知 ・ 参事を「速に捕縛せしめ狂妄の罪を糾弾」すべくく68>、 「今日中御 裁可」を求めたが、 太政官の即時回答は出なかった。 I今日中御裁可」を求めた 捕縛問題は、 二O日が過ぎた八月三O日になって、 「裁判請書の次第一応推問之 上猶不都合之儀有之候は、糾弾之儀は可為伺之通事、 但捕縛の儀は可見合事」と の判断が、 下されたのであるく69>0 I現行犯罪の例」をもってする断固たる処置 を、 即時下した七月の状況とは違って、 今度の回答は、 「一応推問Jの手続きが 挟まれるなど、 暖昧な判断であることが窺えよう。 木戸の帰国を境にして、 今ま での新内閣による一方的な事件処理方針に、 歯止めがかけられるようになったの である。 木戸帰国後の八月になって、 京都府と京都裁判所の確執は、 断固たる処 置を求める新内閣と、 これを逆転させようとする「木戸派Jとの政治闘争の様相 を帯び始めたのである。

このような政治闘争は、 太政官「潤色」に至る政治状況と無縁ではなかった。

太政官「潤色」が迫ったとき、 政府内の支持を期待できなかった井上は大阪に出 向き、 京阪の地方官を召集して、 「司法の権再奪ひ返Jすため種々画策する一万 自らの参議就任を企てたのである。 井上とは太�\パイプを持っていた横村は、 �・

然井上のために画策し、 司法省の末端機関であった裁判所をないがしろにしたの であろう。 井上の辞職によって、 「司法の権再奪ひ返」すことは出来なかったが 政府非難を止まない井上同然、 横村も「潤色J後の新内閣を認めるわけにはいか ず、 裁判所を無視し続けていたのである。 このように、 太政官「潤色JによるiE

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院中心体制は、 使節団側の追認を得られない限り、 決して安定していたとはいえ ないものであった。 正院の指令による裁判所の判決をも黙殺し続けた横村の強硬 姿勢は、 このような背景から理解すべきであろう。 留守政府の大蔵省と司法省の 確執が、 太政官「潤色Jという政治的変動によって決着したように、 京都府庁と 京都裁判所の確執も、 その背後にいた政治勢力同士の闘争の結果を待たなければ ならなかったのである。

木戸が同事件に本格的に関与し始めるのは、 福岡司法大輔が、 京都府知 ・ 参事 を「捕縛せしめ狂妄の罪を札弾」すべく太政大臣に上申した八月-0日以降であ った。 八月一九日の木戸日記は、 次のように記している。

「京都府権典事木村源蔵来話京府と京都裁判所との訴訟云々にて裁判所々賢 不都合にして政府の主意も亦人民を保護せさるに似たりJ <70>

上京禁止令のため、 自ら木戸に働きかけられなかった槙村は、 府庁の職員を代 理に遣わして種々画策し、 いうまでもなく木戸の支持をを得た。 また、 司法省へ の巻き返し策と事件の政治的解決を図る根村は、 太政官の上京禁止令をも無視し て上京を強行した模様で、 八月二十日の木戸日記には、 「夜横村京都府参事来話 河瀬権令も亦来話」と記しているく71>。 木戸は、 同事件について賛同を得られる

と思われる大隈へ「一書Jを送り、 司法省への巻き返し策を働きかけた。 このよ うな働きかけは、 幕末以来の同伴者関係であった三条にも行われたのであろうの 木戸の存在は、 三条に充分影響していたように思われる。

司法省側に有利に展開していた同事件の推移は、 木戸の帰国と事件への積俺的 な関与によって、 双方何れも一歩も譲れない政治闘争を繰り広げるようになった。

深刻な政治闘争の様相を帯び始めると、 両政治勢力の板挟みになった三条は、 仲 裁に立たざるを得なかった。 八月以降と推定される大隈宛の三条書簡は、 同事件 の解決方案にについて次のように意見を述べている。

「内々陳述候今日評議有之候京都府知参(事)処分の儀司法口口口口[]に而

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は於正院も伺之通御処置無之而は不相叶勢とも心配仕候乍併知参事免職及率し 問等之事に至候而は甚不安事情にも存候得共何とか程能取計方も無之哉と存 候兎角京都府之方不条理と被存候得共横村之性質承知之通之人物故誠頑問に も陥り遂に如此事にも立至り候敗と存候就而は足下より山尾に命じ横村にPP:

解相成従京都府条理に伏し候筋に相成候事は難致哉左候は 、穏妥なる事に而 相済可申と存候左も無く弥強情口募遂に司法之処分に残り候而は意外之混難 にも至り井上之如き事情に相成候而は余程奇妙なるものに成候半と頗帯慮仕

候」く72>

「正院」即ち新内閣は、 司法省の「伺之通」の措置を求めており、 三条も基本 的には「京都府之方不条理」と判断していた。 しかし、 「横村之性質承知之通之 人物」であることから、 「井上之如き事情」になることを「余程奇妙」なことと 苦慮していた三条は、 「程能」解決するよう大隈に依頼したの である。 三条の脳 裏には、 太政官「潤色」の際の井上辞職のことが強烈に残っており、 太政大臣と して責任感を感じざるを得なかったのであろう。 このような三条の「程能取計方J 依頼によって、 前述した三O日の「一応推問」を挟んだ唆昧な太政官指令が出さ れたのである。 í一応推問」は、 京都府の判決矩否に対する再審理に他ならず、

前例のない裁判の形式や手続きも新設しなければならなかった。

その問、 岩倉使節団が帰国すると、 司法省は先手を打って、 九月一五日、 臨時 裁判所の設置を提案したく73>0 この提案は、 「潤色」された正院事務章程の「凡

そ裁判上重大の訟獄あれは内閣議官其事を審議し或は臨時裁判所に出席して之を 監視する事あるへし」との規定に基づいたものであったく74>0 三条の「程能取計 方」とも符合する臨時裁判所設置案は、 即時太政官の裁可を得た。 しかし、 太政 官「潤色Jに不満であった木戸にとっては、 臨時裁判所も結局は司法省の管轄な のであり、 司法省の「伺之通御処置」を期待する新内閣に「監視」される裁判に は、 賛同し難かったであろう。 九月二十日の伊藤宛の木戸書簡は、 臨時裁判所に

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ついて次のように述べている。

「子時京都裁判所京都府との訴訟種々取もつれ候故先達而臨時裁判所被差立 候に付双方いづれが公正に帰着候哉之辺御吟味有之候事と相考候処全臨時裁 判処京都府裁判処へ荷担偏頗之処致に渉り只管威権を以暴に圧倒いたさんと 而己相企正院もまた裁判処へ偏頗あるに似たり依而過日其辺之事大限参議へ も及一論置候得共更に其後公け之処致も無之大隈も実に近来如何之考案哉と 甚不審に相考へ申候現に先達而は鍋島人之明らかに罪科有之候ものを同氏之 周旋と欺に而却而抜擢に預り候様之事も有之出間皆不服如此次第に而は裁判j 処の如きものは御廃しに相成候方為天下為人民にも相成可申旧幕之暴政にに 而も如此暴威を以身分ある官員を取扱候事は無之と奉存候昨今格別御繁多と

は奉存候へ共大限へー御忠告被下度」く75 >

司法省の提案による臨時裁判所が、 京都裁判所に「荷担偏頗」するのは推測に 難くないが、 木戸は、 その「監視Jに当たる正院も京都裁判所に「荷担偏頗Jし ていると批判している。 また、 「木戸派」として目されていた大限も、 「甚不審J

な人物となっており、 横村事件に関しては、 必ずしも木戸を支持してはいなかっ た。 木戸が、 維新戦争時の「鍋島人」の「罪科」まで思い起こしているのは、 木 戸の不満が、 江藤一人に限らないことを物語っているものといえよう。 I木戸派j を追及しつづける江藤、 西郷の朝鮮遣使論にテ コ入れをしていた副島、 学制改革 の大木、 太政官「潤色」の中心人物の大隈などは、 何れも井上ら「木戸派Jの利 益に反する佐賀出身の正院の中心メンバーであった。 木戸は、 このような正院の

「偏頗Jによる臨時裁判所に対する不満を、 「旧幕之暴政」に比輸して裁判所廃 止論まで口にする有様であった。 帰国直後には、 「経国の大論策を吐露」しなが

り、 洋行中の経験を「正規典則を建る」く76>ことに集約していた木戸であっただ けに、 裁判所撤廃を口にするのは自己矛盾であったといえよう。 このことは、 真 を返せば、 裁判所の処置とこれを支持する新内閣など、 現今の政治状況に対する

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深刻な危機意識に他ならなかった。 なお、 新内閣は、 すでに西郷の朝鮮遺使論を 支持しており、 洋行後に外征論に反対する木戸とは、 最大の争点であった外交政 策の面でも、 その差は明確に表れていた。

一方、 裁判の主導権を握ろうとする司法省は、 臨時裁判所の設置に続いて、 I 各国に於ても裁判所に陪審を備へ裁判の公なる」ことを証明する陪審制度の導入 を建言したく77>。 このような場当り的な制度の運用は、 他にも試行錯誤を繰り返 した火葬禁止令、 裸体禁止令などがあったが、 何れも西欧先進制度の無分別な導 入として批判されていた。 このような欧化主義に対して、 洋行から帰国した元司 法大輔佐々木高行は、 次のように批判している。

「帰朝して一体の光景を見るに、 大に変り、 執れも開花にしたるの思ふ口気 形容也然るに吾輩の眼より見る時は、 甚歎敷思ふ也、 如何となれば、 開花進 歩と各人の見る処は、 真の進歩の道筋にてはなく、 欧米各国の弊風を習ふた こと也、 其一二を以て言ふ時は第一著に可立大法典もなく、 頗る末流の法{

とか規則とか を二三人の僻見より一日々々改革し、 吾国の国休風俗人情も顧 みぎること、 実に狂人の仕業見る計也」く78>

佐々木は、 「可立大法典」のない日本の司法制度改革の弊害を的確に指摘して

いた。 陪審制度こそ「二三人の僻見」による「頗る末流の法律とか規則とか」に 過ぎなかったのであろう。 陪審制を建言した数日後の九月三O目、 司法省は自ら 建言した陪審制を、 「彼(欧米)我(日本)国体不同民情又異jなることを理由 に、 その取り消しを太政官に上巾するようになったのである。

しかし、 臨時裁判所と陪審制を軸として、 「程能」事件解決を図る三条は、 司 法省の陪審制撤回の要求に対して、 名称、だけを「参座市IjJに換え、 二日後の-- () 月二日、 早急に参座規則を定めて公布したく79>0

にわかに拷問規定まで採択した参座規則は、 西欧の陪審制と最高裁判所の規則 などを混入したユニークな制度であったが、 後の大審院 ・ 最高裁判所につながる

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基礎を成したものでもあった。 しかし、 閣議決定方式同然、 参座規則も有無罪判 決決定定足数は決っていなかったので、 政治的判断が判決の決め手になりがちで あった。 参座規則で選任された参座の構成は、 太政官から三人、 左院から内入、

大蔵省から二人で計九人であり、 出身別には、 土佐の三人、 佐賀の一人を除いて は、 特に藩関の色彩も目立たなかった。 何れにしても、 同事件が八月以降太政ー に舞台を移して、 政治的判断が求められた以上、 同時に進行していた最大の政治 的争点の朝鮮遣使論閣議の結果如何によって左右される可能性は大であった。

朝鮮遣使論閣議と裁判を共に三日後に控えていた-0月一一目、 伊藤宛の陸奥 宗光書簡は、 この時期の政争の焦点になっていた閣議と裁判に関する状況を、 次 のように述べている。

「云々御申越の条定而御尽力と奉恐察候。 干難万類何れも御成就相成候様拝 析、 乍不及小生輩御任用の廉も有之候へは敢て犬馬の労は所不辞也。 東馳西 奔何なり御一助に相成度事に御座候。 関は昨日病を推して大隈方へまいり巾 候。 談示中御心得の一廉にも相成候件と存候分左に陳述。

0朝鮮論は同人最初の論之通り随分不同意之容子、 併し力不足よりして因循 此に及ふものなるへし。 開拓使よりの間合え返答之儀は同人の発言誠に尊意 と符合、 故に朝来生執筆中に御座候。 不文なから出来候得は可供尊覧そうろ う。 其節は宜御指揮被下度。

0京都府と司法との論争に付彼各省の御用掛(ヂュリ一敗)を司法にて相拒 み候様子にて頗る激烈の論育之候。 此度は江藤も大に憤発、 遂に司法省長{

等辞する云々と申場合と申事に御座候。 未其顛末を不祥候へ共、 此機にて司 法丈なりとも一改革有之候ては如何。 大限も司法の不司法なるを覚悟致し候 様子に相見へ申候。

。今の大蔵卿を正院へ転任云々の事は大隈も数回己に条公にへも陳述、 併し 難被行之事情は猶尊諭の如し、 尊兄をして大蔵卿に転せしむるの論あり。 {業

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大に其不可を陳せり(此際大に弁論を費せし、 併し兼ねて之尊諭も育之、 決 して閣下と連衡せし如きの痕跡は毛頭無之候)。 遂に大隈をして其任に当た らしめんとす。 同人は随分満足の姿なり。 他の数参儀は都て四職に復せし反

は可然の論も有之{I美。 僕大に之を賛成せり。

0大隈の立論は此度の事件lこ付同人は唯政府の命を奉するは勿論なれとも、

自ら其事に携はるを欲せす云々(此際倭々の事情有之、 筆頭に難尽期拝昭候)

。 此事或は真情なるや又は遁辞なるやは推察し難き也J <80>

差出人の陸奥は、 マリアルーズ号事件の際にも、 井上の事件処理反対の立場を 支持したことがあるが、 横村事件と朝鮮遣使論閣議に際しでも、 「任用の廉」を 期待して伊藤のために働いた「木戸派」の一人であった。 伊藤は、 朝鮮遺使論閣 議を控えて、 洋行中疎遠になっていた木戸と大久保の連合と三条 ・ 岩倉との連合、

即ち「両公両氏の合力」のため東奔西走する一方、 陸奥をして閣議と裁判に関す る動向を探らせたのである。

まず、 閣議について大限は、 持論であった樺太問題先決論をもって西郷の朝鮮 遣使論には必ずしも賛成ではなかったが、 「力不足」で「因循」し、 「唯政府の 命を奉」じるだけで、 自ら深く関与することを避けていた。 朝鮮遺使論閣議を反 転させるために種々画策していた伊藤は、 大隈を大蔵卿任用を条件に西郷支持派 から分離することには成功したわけであった。 樺太先決論は大隈の他に、 開拓次 官黒田清隆が主張し、 西郷の朝鮮遣使に対する反対 ・ 延期論の重要な根拠となっ ていた。 次に、 裁判について江藤は、 各省の御用儲からなる参座の構成を不満と し、 辞職も辞さないつもりで「激突�! Jに反対していた。 岩倉使節団の帰国を境に して、 裁判の行方は必ずしも司法省主導ではなく、 徐々に京都府にも有利に傾い ていたことに対する不満であろう。 また、 「他の数参儀は都て四職に復せしめは 可然」とあるのは、 太政官「潤色」による新内閣の否認に他ならず、 閣議後の内 閣は、 「潤色」以前の太政官三院制に復帰することを示唆していた。 伊藤が岡策

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した「両公両氏の合力」は、 まさに洋行以前の薩長中心の太政官三院制体制への 復帰を試みていたのである。 木戸の司法省への不満も、 新内閣が解体され、 「潤 色J以前の原状に復帰させることによって解消されるはずであった。

-0月一四日、 朝鮮遣使論閣議と同時に開かれた裁判は、 伯仲の双方の一万的 な自己主張に一貫して、 閣議同然物別れに終わり、 一七日の裁判継続を待つこと となった。 一方、 大久保の朝鮮遣使反対 ・ 延期の断固たる意思に反して、 商郷の 辞職威嚇に屈した三条 ・ 岩倉は、 翌日西郷の朝鮮派遣を閣議決定した。 西郷を支 持し、 戦争にもなりかねない朝鮮政策を遂行するようになった新内閣の枠組みは、

閣議決定によって追認される結果とな った。 また、 この結果は、 これまで留守政 府が施行した各種の改革や政策の正当性 ・ 継続性をも認める結果ともなったので ある。 なおこのことは、 留守政府の枠組みを崩せなかった大久保 ・ 木戸の政治的 敗北に他ならなかった。

一七日に行われた裁判は、 朝鮮遣使論閣議決定の結果をそのまま反映し、 横村 の拘留を決定するのに鴎路はなかった。 同日、 大久保と共に木戸は辞表を出し、

l 閣議と裁判は決着をつけた。 しかし、 大久保の陰謀によって閣議決定事項が覆さ れ、 二五日には西郷を始め五人の参議の辞表が受理されると、 岩倉は特命を以て 横村の拘留を解除し、 裁判の結果も政変の結果をそのまま反映するようになった のである。 また、 政変後の近衛兵の不穏な動きと司法省の反発など、 陰謀による

政変の波及効果を憂慮した太政官は、 事件の再審理を命じ、 一二月三一目、 知事 長谷に懲役百目、 参事横村に 懲役七五日(各々贈罪金四O円と三O円)を言い渡 した。 常にその時の政治情勢を反映しながら二転三転した同事件は、 政変後の政 治情勢をそのまま反映して最終的に決着されるようになったのである。

洋行から帰国した木戸を待っていた留守政府の政治状況は、 洋行前とは違った 太政官「潤色」による政治状況であったo r潤色」による新内閣に「木戸派」の 面彫はなく、 失脚した井上より聞知した留守中の紛伝に、 木戸は「不堪長歎jす

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るばかりであった。 また、 帰国間もなく政治問題化した横村事件の裁判も、 「潤 色Jされた新内閣の「偏頗」によるものと理解された。 しかし木戸は、 帰国後か ら政変に至るまで、 時の最大の政治的争点であった西郷の朝鮮遺使論については 表立った活動はしていなかった。 木戸の朝鮮遣使論に関する立場表明は、 九月二三 日の『木戸日記』でしか確認できない。

「三条公に至る談論中西郷参議より台湾出張朝鮮討伐建言云々ありE朝廷上 にも己に欲決議依て不堪深憂今万民困苦新令屡伝て民益迷去年来蜂起する数 次政府以て為常当時御方略は無急於治内政云義務無先於保護唐太人民而雷同 子世論益困人民弥損国力決て余の所不服也制有罪何必論時遅速然則当時の以 治内政第一着とす内政未整」く81 >

木戸は、 「治内政第一着」と「保護唐太人民」を名分として、 西郷の朝鮮遺使

論には決して賛成できない立場であった。 しかし、 明治期の「征斡論Jの原型を つくった張本人であった木戸は、 朝鮮遣使論の反対に積極的に乗り出すわけには いかなかったのであろう。 明治元年、 木戸は、 「速に天下の方向を一定し使節を 朝鮮に遣し彼無礼を問ひ彼若不服ときは鳴罪攻撃」すべきとく82>、 「征斡論」を 主張したが、 これは西郷の朝鮮遣使論より露骨な外征論であった。 しかも、 当時 のなんら実体のない朝鮮の「無礼Jに対して、 現在は書契を受理せず、 文書でも って「無法の国」云々としており、 明かな「無礼」を働いていたので、 「使節を 朝鮮に遣」すことは当然ともいえる状況であった。 したがって、 西郷の朝鮮遣使 論に対抗するするための内治優先論や樺太先決論は、 窮屈な名分に過ぎなかった のであろう。 なおかっ、 明治元年における木戸の「征鵠論Jに対する反対論の根 拠が、 樺太先決論に他ならなかった。 当時、 「征勝論」に反対する樺太先決論を、

「是則ーを知て十を不知之説」と片付けていた木戸の豪語ぶりから考えると、 現 今 の「無先於保護唐太人民」という西郷使節派遣反対論理とは、 全く矛盾するも どかしさを感じたのであろう。 木戸は、 大久保同然、 大変革を遂げた「留守政府

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の形情」に「不堪長歎」していたが、 このような政治状況を打開するための手段 として、 西郷の朝鮮遣使論に真正面から反対することはできなかった。 í両公及 両氏之合力」によって西郷の朝鮮遣使論の反転を企てていた大久保 ・ 伊藤の阿策 に、 積極的に加わることはできなかった木戸は、 横村事件を通して留守政府就ljJ 司法省との対立を深めていったのである。

第五節 明治六年政変と西郷隆盛

(ー)八月一七日閣議以前の朝鮮遺使論

山城屋和助事件に絡んで辞職に追い込まれていた陸軍大楠山県は、 西郷の強引 な人事によって六月八日、 陸軍卿に昇格した。 その場凌ぎの失職士族の救済策も 行き詰まり、 近衛兵の蓄積された答憤と不満を一方的に抑え続けるにも限界があ ったのであろう。 明治六年は、 樺太問題、 台湾問題、 朝鮮問題が煮詰まってきた 年でもあった。

西郷は、 ロ シアの南進にはすでに詳細な情報を収集し「一戦」も辞さない覚悟 でいたが、 この段階までは大隈 ・ 黒田の樺太開拓の主張が出されるくらいで、 緊 迫した状況とはいえず、 関心は低かった。

台湾問題は前に述べた通りであるが、 西郷は大山の台湾出兵を賛成しており、

副島の対清国談判が待たされていた。 西郷の台湾出兵論は、 七月二一日の西郷従 道宛ての書簡で窺うこと ができる。

「初台湾の模様少々相分かり候由、 就いては兵隊御繰り出し相成り候儀に候 わば、 鹿児島の兵一大隊召集いたし、 別府氏引き受けたきとの事に候問、 至 極宜しかるべきと相考え候に付き、 御方迄御申し入れ置き成らるべき旨申し 置き候処、 野生よりも相頼み呉れ候様承り候に付き、 何�御(動きFされたく

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御頼み申し上げ置き候。 いまだ副島氏罷り帰らず候わでは、 御決定の儀も出 来難き事に候え共、 前広申し置かず候わでは、 定めて諸方より願い立て候わ んと相考え候に付き、 宜敷御含み下さるべく候」く83>

西郷の台湾論は、 副島外務卿の帰国後陸軍少佐別府晋介(薩摩)に「鹿児島の 兵J一大隊をもって台湾を侵攻するものであった。 明治七年の台湾出兵が、 陸軍 中将西郷従道以下約三千六百人余りであったことに比べるとく84>、 西郷の台湾出 兵論は、 指揮官も兵力も格段に落ちる規模であった。 西郷は征台に同意はしてい たものの、 陸軍少佐と鹿児島の私兵をもってするくらいの小事件としか見なして いなかったのである。 したがって、 二回目の近衛兵の騒動を収めた後の外征に関 する西郷の最大の関心事は朝鮮問題であったといえよう。

釜山から倭館の窮状を知らせる報告と共に侮日の「伝令書Jが留守政府に伝わ ったのは、 六月のことであった。 板垣は、 この{毎日の「伝令書」と倭館の実情に 鑑み、 倭館詰めの居留民保護のため、 釜山への一大隊派兵論を唱えていた。 板上百 の釜山への派兵論は、 閣議で議論されるようになった。 しかし、 板垣の派兵論に 異議を提起したのが西郷であった。 西郷は、 派兵に先立って使節を派遣すべきだ と主張したのである。 閣議を控えていた七月二九日、 西郷は板垣に書簡を宛て使 節派遣先行論を説得し、 自ら使節に就任したい旨を伝えた。

「弥御評決相成り候わば、 兵隊を先に御遣わし相成り候儀は、 如何に御座候 やO 兵隊を御繰り込み相成候わば\必ず彼方よりは引き揚げ候織申し立て候 には相違これなく、 其節は此方より引き取らざる旨答え候わば、 此より兵端 を開き候わん、 左候わば、初めよりの御趣意、とは大いに相変じ、 戦いを醸成候 場に相当り申すべきゃと愚孝仕り候問、 断然使節を先に差し立てられ候方御 宣敷はこれある間敷や。 左候得ば、決って彼より暴挙の事は差し見得候に付き 討つべきの名も健かに相立ち候事と存じ奉り候。 兵隊を先に繰り込み候訳に 相成り候わば、 樺太の如きは、 最早魯より兵隊を以て保護を備え、 度々暴挙

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