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カの朝鮮「国連軍」参加と朝鮮「国連軍後方司令部

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(1)

カの朝鮮「国連軍」参加と朝鮮「国連軍後方司令部

著者 高林 敏之

雑誌名 PRIME = プライム 

巻 41

ページ 37‑48

発行年 2018‑03‑31

その他のタイトル Japan and the Korean War as a Colonialistic Conflict: The UN Command‑Rear and the

Participation of African States in the UN Command

URL http://hdl.handle.net/10723/00003378

(2)

国際シンポジウムの記録:朝鮮戦争をいかに克服するか―「朝鮮国連軍」を問い直す

植民地主義的戦争としての朝鮮戦争と日本

―アフリカの朝鮮「国連軍」参加と朝鮮「国連軍後方司令部」

高 林 敏 之

(早稲田大学非常勤講師)

はじめに

本稿では、いわゆる朝鮮「国連軍」を語る際に あまり注目されることのない米国以外の参戦国、

特にアフリカからの参戦国に焦点を当てる。それ により、「国連軍」の主力である米国を見ている だけでは 見えにくい、朝鮮戦争のもつ「植民地主 義」的な側面を浮き彫りにしたい。

また、日本社会で意識されることの乏しい「国 連 軍 後 方 司 令 部(United Nations Command- Rear)」についても取り上げる。これにより、日 本は―日本社会において一般的にイメージされて い る よ う な

朝 鮮 民 主 主 義 人 民 共 和 国

(Democratic Peopleʼs Republic of Korea: DPRK)

から核・ミサイル・拉致などの脅威に一方的にさ らされている存在なのではなく、朝鮮「国連軍」

との密接な関係を通じてDPRKに対する戦争体制 の一翼を担う存在であるという現実を再確認す る。それは旧植民地国に対する旧宗主国の軍事的 敵対関係であるにとどまらず、沖縄や南アフリカ との植民地主義的な関係とも深い関連性をもって いる。

1.反共軍事同盟の拡大としての朝鮮「国連軍」

朝鮮半島の分断は、1990年に再統一されたドイ ツの分断と異なり、「東西冷戦」の産物であるの

みならず、むしろ「南北問題」を反映するもの―

すなわち植民地主義の歴史の残滓―であると評さ れることがある

( 1 )

その分断に起因する朝鮮戦争もまた、東西冷戦 と南北問題という二つの側面を内包している。朝 鮮「国連軍」の構成にも、それは反映されている。

朝鮮「国連軍」が、国連憲章に定められた集団 安全保障のための正規の国連軍ではなく、当時の 国連を支配していた米国の主導により編成され、

設立時には国連の外にいたDPRKを敵とする「反 共の多国籍軍」であることは衆知の通りである。

その参加国(参戦国16ヵ国、医療班派遣国 5 ヵ国)

( 2 )

の多数は北大西洋条約機構(NATO)加盟国

をはじめとする西側軍事同盟国であった。

うち、ギリシアは第 2 次大戦後の内戦(1946−

49年)において、米英の軍事支援を受けた反共の 王国軍が共産主義レジスタンスを打ち破ったばか りであった。朝鮮戦争開戦時に軍トップの国防参 謀総長であった(在任1950−51年)

( 3 )

パパゴス 

(Alexandros Papagos) 陸軍元帥は、1935年に王 党派軍幹部の重鎮として王政復古クーデタを主導 し、1940−41年にはファシスト・イタリアおよび ナチス・ドイツの侵略に対する戦いを陸軍最高司 令官として指揮(のちドイツ軍の捕虜として強制 収容所に囚われ、1945年に米軍により解放され る)、1949年に再び陸軍最高司令官として共産主

(3)

義レジスタンスの武力鎮圧を果たした人物であ る。「英雄」である彼は多党乱立により混迷する 政局の収拾を期待されて朝鮮戦争中の1951年に退 役し政界入り、保守勢力を束ねた新党ギリシア集

( 4 )

を率いて1952年の総選挙で大勝、首相に昇

り詰める(在任1952−55年)。やがてギリシア軍 は1967年に軍事クーデタを起こし、1974年まで 7 年間に及ぶ反共軍事独裁体制を敷き、ついには非 同盟路線をとる(ギリシア系)キプロスの大統領 マカリオス大主教(Makarios Ⅲ)の放逐を狙って、

1974年 7 月に同国で軍事クーデタを引き起こすに 至る

( 5 )

またトルコは、開戦前月の1950年 5 月総選挙にお いてイスラーム主義志向を有する保守派の民主党が、

ケマル・アタテュルク (Mustafa Kemal Atatürk) 

率いる共和革命以来同国を支配してきた共和人民 党を破って政権を獲得したばかりであり、それま での中立政策を放棄しNATOに加盟することを 念頭に置いて参戦を決断したものであった

( 6 )

このトルコ軍は1960年に初めての軍事クーデタで 民主党政権を打倒して以後、1980年の軍事クーデ タを含めて 4 度にわたり政治に介入したほか、

1974年にはキプロスのクーデタ事件に乗じて軍事 介入し、今日に至るも保護国「北キプロス・トル コ共和国」(国際社会は未承認)を擁してキプロ ス北部を占領し続けている。

ギリシアとトルコは、いずれも朝鮮戦争中の 1952年にNATO加盟を果たしている。

フィリピンは1950年代前半まで続いた共産党系 ゲリラとの内戦の只中にあった。フィリピン軍は のちにマルコス(Ferdinand Edralin Marcos)大 統領(在任1965−86年)による戒厳令体制の支柱 となる。また朝鮮戦争参戦時のタイ首相は、第 2 次大戦中に一時対日協力政策をとり、1947年の軍 事クーデタにより独裁者として返り咲いたピブー ンソンクラーム(Plaek Phibunsongkhram)陸軍 元帥(在任1938−44年、48−57年)であった。タ

イ軍は以後、今日に至るまで幾度も軍事クーデタ を起こし軍事独裁政権を樹立している。両国は 1954年の東南アジア条約機構(SEATO)創設に 加わった。

米州機構(OAS)に加盟する中南米諸国から 唯一参戦したコロンビアでは、朝鮮戦争中の1951 年に「国連軍」コロンビア大隊を査閲したロハス・

ピニージャ(Gustavo Rojas Pinilla)将軍

( 7 )

1953年に軍事クーデタを起こし、同国史上数少な い軍事独裁者となる(大統領在任1953−57年)。

彼を倒したのも軍事クーデタだった。

このように、冷戦下における反共軍事同盟の拡 大と朝鮮戦争は密接に関連していた。韓国政府自 身も参戦諸国の動機を「自らの国をめぐり増大す る共産主義者の脅威について憂慮し」「共産主義 者の北朝鮮による韓国に対する侵略を共産主義者 による将来の攻撃やサボタージュの始まりである と見なしていた」と説明している

( 8 )

。かかる認 識は「自由守護平和博物館」(東豆川市・逍遥山)

のような施設における展示説明にも反映されてい る。同時に上にあげた国々では、朝鮮戦争に参加 した軍が政治に深く関与する抑圧的機構として成 長したという事実も、特記されるべきであろう。

2.朝鮮「国連軍」の植民地主義的側面を体現す るエチオピアの参戦

一方で、当時はまだ大半が植民地支配下にあっ たアフリカから参戦した南アフリカ連邦(1961年 に共和国へ移行)やエチオピア帝国の参戦は、「植 民地における民族自決運動抑圧」の一環としての 朝鮮戦争という側面を反映していた(前節で言及 したフィリピンなどの参戦も一定程度そうした側 面を持つ)。

エチオピアは欧州列強による植民地化を免れ、

むしろ周辺民族(オロモ、ソマリなど)を征服し て領土を拡大した「アフリカ内帝国」ではあった が、アフリカ地域総体は植民地化された世界であ

(4)

り、エチオピア自体も1936−41年にファシスト・

イタリアによる占領の憂き目を見た。その意味で 同国も「南」の側に属する国であった。イタリア による侵略に際し国際連盟からの支援を得られず 亡命を余儀なくされた皇帝ハイレ=セラシエ 1 世 

(Haile Selassie I :在位1930−74年)にとって、「共 産主義者の侵略」に対する朝鮮「国連軍」への参 加は、エチオピアが長く唱導してきた「集団的安 全保障」の理想を具現化するための貢献であると 考えられていた

( 9 )

このエチオピアは1951年 5 月から、エチオピア 軍最精鋭の皇帝親衛隊より選抜された「カグ ニュー大隊(Kagnew Battalion)」

(10)

と称される 陸軍部隊を派遣し、延べ3,518名が253回の戦闘に 参加、死者122名、負傷者536名を出したとされる。

停戦後も1965年 3 月の撤退まで停戦監視任務にあ たった

(11)

。エチオピア軍の主戦場に位置する春 川市には、1968年に建立されたエチオピア軍の参 戦記念碑と、2007年に開館された参戦記念館が存 在する

(12)

。それは―皇帝の理想にもかかわらず

―同じ植民地化された世界であったアジア(朝鮮)

人とアフリカ(エチオピア)人が、「共産主義に よる朝鮮統一」を阻止するための戦争により殺し 合いをさせられた悲劇の象徴であり、朝鮮植民地 支配の克服としての統一を阻止するべく植民地世 界の帝国を動員したという意味で、朝鮮戦争の植 民地主義的性格を体現するものであった。

皮肉にも、朝鮮戦争で実戦経験を積んだ皇帝親 衛隊は1960年のクーデタ未遂事件において中心的 役割を果たし

(13)

、ついに1974年には軍による「革 命」によって帝政が打倒されるに至った。革命後 に成立した「マルクス・レーニン主義」を標榜す る軍事独裁政権(1974−91年)は1975年 6 月に DPRKと国交を樹立、同年11月18日に国連総会に おいて採択された朝鮮「国連軍」司令部解体決議

(決議3390(XXX)B)にも賛成したのである。エ チオピアの国旗が板門店から撤去されたのは、帝

春川市のエチオピア軍参戦記念碑と参戦記念館(2008年 4 月筆者撮影)

政を倒したエチオピアによる朝鮮戦争否定の証で あった

(14)

3. 朝鮮「国連軍」と南アフリカ・アパルトヘイ ト体制

南アフリカ連邦は1950年10月から1953年10月ま での 3 年間にわたり、朝鮮「国連軍」に空軍の 1 個戦闘飛行大隊、延べ826人を派兵し、34−37名 が戦死している。南ア空軍大隊の主たる任務は DPRK軍の補給ルートに対する妨害であるが(す

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べての戦闘出撃の約61.45%)、戦況の膠着ととも に地上軍への接近支援のための出撃も増えていっ た(同27.69%)。 3 年間で 1 万2,067回出撃、平壌 や沙里院などへの空爆に参加し、戦車44両、橋梁 152本、高射砲陣地147箇所、各種軍事施設 1 万 920箇所を破壊したとされる。空爆ではナパーム 弾も使用された

(15)

。軍事基地の街としても知ら れる平澤市に建立されている南ア軍参戦記念碑 は、空爆の光景を誇らしげに描き出している。

 

平澤市の南アフリカ軍参戦記念碑と、その側面に描かれた空爆 シーンのレリーフ(2007年11月筆者撮影)

南アの朝鮮「国連軍」参加は少々複雑な経緯を たどった。第 2 次ボーア戦争(1899−1902年)に よりオランダ系白人(アフリカーナーを自称)の 2 共和国が取り潰され英国の植民地とされた南ア

は、1910年に英帝国の自治領(Dominion)とし て事実上独立してから1994年まで、土着化した白 人入植者による少数支配政権が続いてきた。

1948年にアフリカーナーのナショナリズムを強 く標榜する国民党が総選挙に勝利して政権を獲 得、アフリカ人をはじめ他人種を法制度的に完全 隔離するアパルトヘイト(人種隔離)政策を本格 的に開始していた。もともと反英志向の強かった 国民党政権はコモンウェルス(英連邦)軍の一員 として参戦することに否定的であり、むしろアフ リカにおける「共産主義の脅威」もといアフリカ 人による反植民地解放闘争に対抗するための米国 との軍事同盟関係の強化を志向していた。これに アパルトヘイトに対する西側諸国からの批判を抑 え、かつ新たな戦闘機を安価に調達することへの 強い期待も加わって、米空軍指揮下で朝鮮「国連 軍」に参加することを決断したものである

(16)

もっとも、アフリカ大陸における反白人支配感 情の隆盛をこそ差し迫った脅威だと見なしていた 国民党政権は当初、遠隔地である朝鮮半島での参 戦には消極的であった。1950年 7 月20日の特別閣 議の段階では「国連軍」への直接の軍事的参加は 実際的でも現実的でもないと判断されていた。逡 巡の末に「国連軍」への医薬品および食糧の補給 を国連に申し出たものの、米国から直接の軍事支 援を求められた結果、同年 8 月 4 日の閣議でよう やく派兵に応じたのであった。マラン(Daniel  François Malan)首相による1951年 1 月26日の議 会での発言にあるように「侵略的共産主義が初め てその頭をもたげた時、我々はそれと戦うために 反共諸国の側に立った。我々は我々自身の防御の ためにそれら反共諸国を必要としている」という 判断が決め手となったものである

(17)

。ただし国 連事務総長による陸軍部隊派兵の要請は無視し、

空軍飛行大隊の派遣にとどめた

(18)

このように南アの参戦目的は、アフリカ人の反 アパルトヘイト抵抗闘争に対抗するため、「反共」

(6)

の名のもとに米国をはじめとする西側諸国の支援 をとりつけることであった。この南ア白人入植者 独裁体制の白人軍が、米軍占領下の南部単独選挙 により樹立された韓国の軍事的同盟者として、朝 鮮人の頭上に爆弾の雨を降らせたのである。また 参戦の見返りとして1952年に更新されたジェット 戦闘機は1970年代まで、南部アフリカ地域の新興 アフリカ諸国や反植民地解放戦争に直面した南ア 空軍の攻撃戦力の屋台骨となった

(19)

。朝鮮戦争 の植民地主義的性格を、これほど象徴する歴史的 事実はないであろう。

このアパルトヘイト南アとの同盟関係は、韓国 軍のベトナム戦争参戦に比肩しうる韓国現代史の 暗部であり、アフリカがDPRKにとって(威信財 建造や軍事支援の要求、一党独裁時代の政治的モ デルとしてのみにとどまらず)最も緊密な友好関 係をもつ地域であり続けた要因のひとつである

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1975年11月18日に国連総会において採択された朝 鮮「国連軍」司令部解体決議(決議3390(XXX)B)

に賛成した54ヵ国のうち、実に30ヵ国がアフリカ 諸国であった事実

(21)

を想起するべきである。

南アでは1994年の全国民一人一票制による総選 挙でアパルトヘイト体制が最終的に終焉し、アフ リカ民族会議(ANC)政権が成立した。ANC政 権は1998年 8 月にDPRKと国交を樹立する(韓国 とは白人政権末期の1992年12月に国交樹立)。釜 山市にある「国連軍」戦没者の墓地UN記念公園 や、戦争記念館、自由守護平和博物館等では、白 人軍人の参戦を示す展示や慰霊碑と、現在の民主 南アの国旗が併存する矛盾した光景が見られる。

自由守護平和博物館の南ア軍関係の展示(2008年 4 月筆者撮影)

朝鮮戦争に参戦した南アフリカ空軍軍人の集合写真(釜山・UN記念公園の記念館にて2016年 8 月筆者撮影)

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UN記念公園に翻る現在の南アとエチオピアの国旗(2016年 8 月 筆者撮影)

2016年 7 月末に、マイケル・ミュラー(Michal  Muller)元南ア空軍司令官が訪韓し、国立ソウル 顕忠院での朝鮮戦争戦死者追悼行事に参加したこ とが報じられた

(22)

。ミュラー退役将軍は朝鮮戦争 への参加を出世の足掛かりとし、後に南ア空軍司 令官(在任1979−84年)まで昇り詰めた人物であ る。

彼が空軍司令官を務めたのは、アパルトヘイト 体制による周辺アフリカ諸国への「不安定化工作」

と呼ばれる軍事攻撃が頂点に達していた時期であ る。こ の 時 期、強 硬 派 の ボータ(Pieter Willem  Botha :1978−84年首相、84−89年大統領)政権 のもとで、南ア空軍はレソト、アンゴラ、モザン ビーク、占領下ナミビアなどへの軍事攻撃に関与 した。

人種主義体制の白人空軍将校が朝鮮からアフリ カへと殺戮を繰り広げ、老いて韓国から勲章を受 ける姿は、朝鮮戦争を通じた韓国・南ア関係の負 の歴史が、韓国においていまだに清算されていな い現実の象徴である。

4.朝鮮「国連軍」を通じた日本とアパルトヘイ ト体制の軍事同盟

しかし、朝鮮戦争を通じたアパルトヘイト南ア との軍事同盟関係は韓国だけの問題ではない。

南ア空軍が朝鮮「国連軍」に合流したのは、そ の後方出撃拠点である日本であった。1950年 9 月

26日にダーバンを出港した南ア空軍部隊は 6 週間 後に横浜港へ入港し、11月16日に先遣隊が釜山入 りするまで米軍ジョンソン空軍基地(現在の入間 基地)に宿泊し訓練を受けた

(23)

。東京には南ア 空軍連絡本部が設置され、連絡将校は事実上の極 東外交首席代表として、第 2 次世界大戦に際し断 交した南アと日本との外交関係の再開を画する存 在となったほか、日韓両国において南アの産業・

観光を促進しアパルトヘイト政府を売り込む役割 も期待された

(24)

。停戦後の1954年 2 月に日本と 朝鮮「国連軍」参加諸国との間で締約された「国 連軍地位協定」には南ア政府も調印しており、「国 連軍」司令部、57年 7 月以降は「国連軍後方司令 部」を通じて、日本とアパルトヘイト南アは一定 の軍事同盟関係にあったと言える。これは日本の アフリカ研究者や平和運動関係者においてさえ、

ほとんど認識されていない問題である。

日本と南ア白人入植者政権との関係は南ア連邦 が成立した1910年にまで遡る。同年ケープタウン に名誉領事が任命され、1918年には正式な領事館 をケープタウンに開設し、1937年には大使級外交 関係を樹立した。第 1 次世界大戦で主要戦勝 5 大 国のひとつとなり国際連盟の常任理事国にもなる と、その威信を背景にして1930年に、アジア人移 民を排斥する「移民法」の例外として日本人を処 ソウル顕忠院の顕忠塔で焼香するミュラー元南ア空軍司令 官(『コリアネット』チョン・ハン記者撮影)

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遇する「名誉白人」待遇を認めさせた。白人入植 者支配体制から「白人並み」の「植民地帝国」と して認められたのである。 

日本は南アとの間に、第 2 次大戦前には「羊毛 輸入・繊維製品輸出」を、戦後は「鉱物資源輸入・

重工業製品輸出」を軸とした経済関係を発展させ、

1987−88年には南アにとって世界第1位の貿易 パートナーとなり、アフリカ諸国をはじめとする 国際社会から厳しい非難を浴びることになる。第 1 次大戦期から1990年の独立まで南アの占領下に あったナミビアからも国連ナミビア理事会の布告 を無視してウランの違法輸入を続け、原子力発電 の開発に投入した

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朝鮮「国連軍」を通じた日本と南ア白人入植者 支配体制との軍事同盟は、両者の長い歴史的関係 の当然の帰結であったと言えるのである。しかし 1991年のアパルトヘイト根幹法「人口登録法」の 廃止とともに「名誉白人」待遇が静かに消滅し日 本社会で忘れ去られたのと同様に、朝鮮「国連軍」

を通じた両者の同盟関係も注目を浴びることはな かった。対DPRK制裁の名のもと2016年に「朝鮮」

アパルトヘイト的施策(「朝鮮籍」をDPRK国籍 と実質的に同視した韓国籍との分離集計・公表、

朝鮮学校への補助金支給の見直しを求める地方自 治体への文部科学大臣通知、「朝鮮籍」者に対す る再入国権剥奪の脅しを含むDPRKに渡航しない 旨の「誓約書」要求)が矢継ぎ早に打ち出された という現状において、この歴史は改めて顧みられ なければならない。

5.朝鮮「国連軍後方司令部」と米・日・朝鮮「国 連軍」の軍事的一体化

「北朝鮮脅威論」が声高に叫ばれる日本社会に おいてしばしば無視(あるいは忘却)されている のは、朝鮮戦争が今も終戦していないという事実 であり、日本はその後方基地として朝鮮「国連軍」

体制の一翼を担うDPRKの「敵国」であるという

現実である。

朝鮮戦争は1953年 7 月に、朝鮮「国連軍」と DPRK・中華人民共和国との間で停戦協定が締結 されて以来、今日までおよそ64年もの長きにわた り「停戦」が続いている。ゆえに朝鮮「国連軍」

は在韓米軍・米韓連合軍司令官が司令官を兼任す る形で現在も存続している。それを後方から支え、

停戦崩壊の事態に備えているのが日本に置かれて いる「国連軍後方司令部」である。

だが、この司令部の存在は日本社会においてほ とんど意識されていないと言ってよい。金斗昇は その理由を「基本的に国連軍司令部体制が国連安 保理決議に基づいて創設された後、今日に至るま で朝鮮半島の平和と安定のために果たしてきた役 割に対する関心及び理解不足に起因するところが 大きい。また朝鮮半島有事の際に国連軍が日本国4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 内の国連軍司令部後方基地を拠点として自動的に4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 関与することになるという構造4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4に対する認識不足 もその大きな原因となっている」(傍点筆者)と 指摘する

(26)

。前段はともかくとして、後段が日 本の平和運動においてさえ充分に議論・認識され てこなかったことは、重大な欠陥であると言える だろう。

前述の通り、1954年 2 月に「国連軍地位協定」

が日本政府と朝鮮「国連軍」参加諸国との間で締 約され(「国連軍」側の締約国は、米国、英国、

カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南 アフリカ、フランス、フィリピン、イタリア。の ちにタイとトルコも加入し11ヵ国)、これに基づ き57年 7 月に朝鮮「国連軍後方司令部」が開設さ れた。同司令部には現在 4 名が常駐し、8 ヵ国(英 国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、

フランス、フィリピン、タイ、トルコ)の駐在武 官が朝鮮「国連軍」連絡将校として在京各国大使 館に常駐している

(27)

「国連軍後方司令部」は開設以来、在日米陸軍 司令部のあるキャンプ座間に置かれていたが、

(9)

2007年に在日米軍司令部・在日米空軍司令部の置 かれる横田飛行場に移転された。横田飛行場には 日米軍事一体化政策の一環として2012年 3 月に航 空自衛隊航空総隊司令部などが移転された。つま り、横田飛行場を拠点として、在日米軍、自衛隊、

朝鮮「国連軍」の三位一体化が進められていると いうわけである。

そもそも、米国は1975年国連総会における「国 連軍」司令部解体決議の採択が日本国内の在日米 軍による基地使用問題にもたらす影響を深刻に受 け止め、「国連軍」司令部の解体に備えて日本政 府と協力して有事法制の整備に着手したと指摘さ れているが

(28)

、現状はさらに進んで、日米軍事 同盟強化を通じて自衛隊を直接的に朝鮮「国連軍」

に結びつける段階に達しているわけである。

その状況は沖縄の問題とも無縁ではない。

朝鮮「国連軍」は、「国連軍地位協定」第 5 条 に基づいて 7 ヵ所の在日米軍施設・区域(キャン プ座間、横須賀海軍施設、佐世保海軍施設、横田 飛行場、嘉手納飛行場、普天間飛行場、ホワイト ビーチ地区)を使用することができ、「合同会議」

の合意により利用可能施設を変更し増やすことも 可能である。この合同会議は「日本国政府を代表 する者一人及びこの協定のその他の当事者を代表 する者一人の二人の代表者で組織し、各代表者は、

一人又は二人以上の代理及び職員団を有するもの とする」「合同会議は、いずれか一方の代表者の 要請があったときはいつでも会合することができ るように組織するものとする」(第20条第 2 項)

と規定されている。要するに日本政府を代表する 全権を委任された高級官僚と「国連軍」後方司令 官が必要に応じて随時協議し、朝鮮「国連軍」の 利用可能な施設を指定・変更することが可能とい う、柔軟な制度設計になっている

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現行 7 ヵ所の「国連軍」利用可能施設のうち 3 ヵ所が沖縄に存在すること、現在辺野古沖への

「移設」をめぐる日本政府と沖縄との対立の焦点 となっている普天間飛行場が含まれていることに 留意したい。在日米軍の再編問題と朝鮮「国連軍」

との密接な関連を示す一例であり、辺野古新基地 問題は朝鮮「国連軍」と不可分の問題なのである。

集団的自衛権と国連の安全保障活動に対する積 横田飛行場に司令部を置く航空自衛隊航空総隊のホームページのトップ写真。国連旗、米国旗、日の丸が 並んで掲揚されている。

(10)

極的な協力を制度化し、地理的制限なき海外軍事 展開を可能にする「安保法制」が成立した今、朝 鮮半島の旧植民地宗主国である日本と朝鮮「国連 軍」との軍事的一体化の進行が、旧植民地である DPRKとの緊張を高めることは必至である。それ はDPRK側にさらなる核兵器・ミサイル開発を促 す要因になることだろう。そして、かかるプロセ スの一環として、「琉球処分」により強制併合し た歴史をもつ琉球/沖縄に対する日本政府の抑圧 が強化されている現状は、朝鮮戦争の植民地主義 的性格をさらに補強するものである。

むすびに代えて

日本とDPRKとの間に国交がないことは衆知の ことだが、そもそも日本が今もDPRKを国家承認 していない事実は意外に知られていない。外務省 のホームページにおいて《北朝鮮》は国ではなく 台湾やパレスチナと同じ「地域」として分類され、

正式国名すら表記されていないのである。欧州連 合(EU)加盟国のほとんどを含む約160ヵ国およ びEUと外交関係を有し、1991年以来の国連加盟 国でもあるDPRKを承認すらしていない現状は、

外交的に極めて異常だと言ってよい。

日本は南太平洋の小島嶼国クック諸島を2011年 に、ニウエを2015年に国家承認し国交を樹立した。

太平洋島嶼重視の姿勢を示す政策の一環として評 価はできる。しかし、この両国はニュージーラン ドの自由連合国で、外交と防衛の最終的責任を ニュージーランドに委ね、国連にも加盟していな い(ただし外交では一定の独立性を有し、国連傘 下の専門機関や太平洋島嶼フォーラムには加盟)。

さらに、両国民は全員がニュージーランドの市民 権を併有し、クック諸島国民の約85%、ニウエ国 民の約95%がニュージーランドに居住している。

このため両国の主権国家性は広く疑問視され、実 際にクック諸島と国交を有する国は44ヵ国、ニウ

エと国交を有する国は20ヵ国にとどまっている

(本稿執筆時点)。それでも日本は国家承認し国交 を樹立したわけである。

この事実に照らした時、日本がDPRKを国家承 認すらしていない事実の異常性はさらに際立つ。

DPRKの旧植民地宗主国だった日本は、国際社会の 一般的趨勢に反して形式的な国家承認すらDPRK に与えず、DPRKと軍事的に対峙する朝鮮「国連 軍」の後方司令部を置き、米軍再編に連動して日 本と朝鮮「国連軍」との軍事的一体化を推進して いるのである。さらに「朝鮮籍」や朝鮮学校をそ の歴史的背景に関わりなくDPRKと等号で結ばれ た「敵性国民」カテゴリーとして位置づけるアパ ルトヘイト的政策すら強化しつつある。

日本は客観的に見てDPRKの「敵」として歴史 的に振る舞ってきた。しかし日本人はその自覚に 乏しいまま「北朝鮮脅威論」に呑みこまれている。

朝鮮「国連軍」への認識の欠如は、植民地主義の 歴史を清算できない現状と表裏一体である。

( 1 )  例えば、高演義『〈民族〉であること―第 三世界としての在日朝鮮人』社会評論社、

1998年、90−91頁

( 2 )  参戦国は米国、英国、フランス、カナダ、

オーストラリア、ニュージーランド、オラ ンダ、ベルギー、ルクセンブルク、トルコ、

ギリシア、コロンビア、タイ、フィリピン、

南アフリカ、エチオピア。医療班派遣国は スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、

イタリア、インド。このうち、米、英、フ ランス、カナダ、オランダ、ベルギー、ル クセンブルク、デンマーク、ノルウェー、

イタリアの10ヵ国が開戦当時からのNATO 加盟国で、トルコとギリシアは戦中の1952 年にNATOに加盟した。オーストラリア とニュージーランドは戦中の1951年に米国

(11)

とANZUS条約を締結。フィリピンとタイ は東南アジア条約機構(SEATO:1954〜

77年)の加盟国となった。

( 3 )  ギリシア国防参謀本部公式サイトの国防参 謀総長一覧による。【http://www.geetha.

mil.gr/en/leadership-en/chiefs-of-defence.

html】(2017年 9 月10日閲覧)

( 4 )  ギリシア集会は、1955年のパパゴスの死後 に後継首相となり、1995年までに首相を 4 度14年、大統領を 2 期10年務めたカラマン リ ス(Konstantinos Karamanlis) の 指 導 下で国民急進同盟(1955−67年)、新民主 主義(1974年−)へと継承され、ギリシア の中道右派政治潮流を代表する政党として 今日に至っている。

( 5 )  このクーデタは、1960年キプロス独立時の 保障条約による「保障国」のひとつである トルコが、トルコ系キプロス人保護の名目 により大規模軍事介入する事態を招き、ギ リシア軍事政権も崩壊し民政移管に至った。

( 6 )  イルテル・エルトゥールル(佐原徹哉訳)

『現代トルコの政治と経済―共和国の85年 史(1923〜2008年)』世界書院、2011年、

117−118頁

( 7 )  ロハスによる朝鮮「国連軍」コロンビア大 隊訪問の写真は戦争記念館(ソウル)や自 由守護平和博物館などで見ることができる。

( 8 )  

Ministry of Patriots & Veterans Affairs,  Republic of Korea, 2012, p.50 国家報勲処 の発行したこの書では、トルコやギリシア の参戦動機を「アジアにおける共産主義者 の拡張に対する国連の集団的行動に加わる ことによって米国とのより強固な絆を期待 し、米国からの将来の増大する軍事支援を

希望していた」と説明している。またフィ リピンとタイの参戦動機についても、ベト ナムにおける共産主義者の影響力拡大、お よびフィリピンにおける共産主義反乱軍に よる活動の急増という文脈で説明している

., p.50)。

( 9 )   ., pp.53-58

(10)   ., p.59 

(11)  エチオピア韓国戦参戦記念館(春川市)、

戦争記念館、自由守護平和博物館等の展示 解 説 に よ る。 戦 闘 の 詳 細 に つ い て は、

., Part 4を参照のこと。

(12)   ., pp.159-160

(13)  このクーデタ未遂事件をうけて退役させら れた朝鮮戦争参戦兵士もいる。BBCによ るエチオピア参戦退役兵のインタヴューを 参照のこと:“An  Ethiopian  Hero  of  the  Korean War”, BBC, 25 September 2012

【http://www.bbc.com/news/magazine-  19639459】(2017年 9 月27日閲覧)

(14)  メ ン ギ ス トゥ(Mengistu Haile Mariam)

大佐率いるこの独裁政権はエチオピアによ る朝鮮戦争参戦に言及することすらタブー 視 し( , p.154)、

参戦退役兵らの戦績も一転して評価されな くなったという(城島徹「朝鮮戦争」、岡 倉登志編著『エチオピアを知るための50章』

明石書店、2007年、324−326頁)。1991年 にこのメンギストゥ独裁政権を打倒したエ チオピア人民革命民主戦線(EPRDF)政 権は南北朝鮮に対する等距離外交を採用 し、韓国との関係を改善した。エチオピア の首都アディスアベバ市と春川市は2004年 5 月に姉妹都市協定を締結、2006年 2 月に はアディスアベバに朝鮮戦争参戦記念碑お よ び 記 念 ク ラ ブ が( ., pp.156-157)、

2007年 3 月には春川にエチオピア韓国戦参

(12)

戦記念館が開設された。

(15)  南アフリカ軍参戦記念碑の由来説明文や、

戦争記念館、自由守護平和博物館の展示解 説、およびMoore, D. M., “The South African  Air  Force  in  Korea:  An  Assessment”,  , Vol.6 No.3, June  1984, pp.3-8による。

(16)  国民党政権は、NATOの延長として、南 アや米国、アフリカに関係する西側諸国の 参加する「アフリカ防衛機構」の形成を模 索していたという。Van der Waag-Cowling,  N. M., “South Africa and the Korean War,  the  Politics  of  Involvement”, 

,  Vol.44  No.1,  2016,  pp.228-229,  pp.233-234

(17)  Moore,  “op.cit.”,  pp.1-2;  Van  der  Waag- Cowling, “op.cit.”, pp.226-227 後者による と、第 2 次大戦時に活躍した多くの高級将 校が親英的なスマッツ前政権の支持者であ ることを理由に国民党政権によってパージ されたことも、参戦が困難と考えられた理 由のひとつであるとされる。

(18)  Van  der  Waag-Cowling,  “op.cit.”,  p.229  ただし、1951年半ばに編成された朝鮮「国 連軍」のコモンウェルス師団(英、オース トラリア、ニュージーランド、カナダ軍お よびインド医療班)に、南アは英国の説得 をうけて極秘裏に小規模な陸軍将校団を派 遣していた(“Ibid”, pp.231-232)。UN記念 公園の英連邦軍合同慰霊碑には南ア空軍戦 死者の名も刻まれている。

(19)  ただし、戦闘機の更新は南ア空軍大隊撤退 の圧力をかけることによって、ようやく実 現されたものであった。  

  “Ibid”, pp.230-231

(20)  アフリカ諸国とDPRKとの関係に関する概 論として、拙稿「朝鮮民主主義人民共和国

の対アフリカ関係に関する試論

―『国際親

善展覧館』の展示を手がかりにして」『ア フリカ研究』第76号、2010年 3 月、31−38 頁を参照のこと。

(21)  採決の記録(A/PV. 2409)によると、決 議3390(XXX)Bに賛成したアフリカ諸国 は、アルジェリア、ボツワナ、ブルンジ、

カーボ=ベルデ、チャド、コモロ、コンゴ、

ダオメ(現ベニン)、エジプト、赤道ギニア、

エチオピア、ガーナ、ギニア、ギニア=ビ サウ、リビア、マダガスカル、マリ、モー リタニア、モザンビーク、ナイジェリア、

ルワンダ、サントメ・プリンシペ、セネガ ル、ソマリア、スーダン、トーゴ、ウガン ダ、カメルーン、タンザニア、ザンビアの 30ヵ国。なお、アフリカ諸国のうち反対は 中央アフリカ、ガボン、コート=ディヴォ ワール、レソト、リベリア、マラウイ、ス ワジランドの 7 ヵ国で、いずれも当時のア フリカを代表する親西側・反共政権であっ た。棄権はケニア、モーリシャス、モロッ コ、ニジェール、シエラ=レオネ、チュニ ジア、ザイール(現コンゴ民主共和国)の 7 ヵ国、欠席はガンビア、オート=ヴォル タ(現ブルキナ=ファソ)の 2 ヵ国。この 決議は、いわゆる祖国統一三大原則に基づ く朝鮮半島の独立かつ平和的な再統一を奨 励し、「朝鮮に存在する現行の停戦状態が 維持される限り永続的平和は期待され得な い」として、停戦協定の平和協定への転換、

「国連軍」司令部の解体と韓国に駐留する 全外国軍の撤退を求めるなど、DPRK側の 主張に極めて近い内容である。これに先立 つ非同盟運動外相会議でDPRKが非同盟運 動への加盟を正式に認められたことが大い に影響している。

    なお、同時に採択された米国側の決議

(13)

3390(XXX)Aは、停戦協定の正当性を強 調し、その内容を維持する代替案を前提と して「国連軍」司令部の解体を認める内容 であったが、この決議に賛成したアフリカ 諸国は賛成59ヵ国中わずか 9 ヵ国(中央ア フリカ、ガボン、コート=ディヴォワール、

レソト、リベリア、マラウイ、モーリシャ ス、モロッコ、スワジランド)のみであっ た。棄権はチャド、ケニア、ニジェール、

シエラ=レオネ、チュニジア、ウガンダ、

ザイールの 7 ヵ国、欠席はガンビア、オー ト=ヴォルタの 2 ヵ国、残り28ヵ国が反対 であった。

    総合すると、A決議に反対または棄権し B決議に賛成した30ヵ国がDPRK支持、A 決議に賛成しB決議に反対または棄権した 9 ヵ国が米国側支持、双方とも棄権または 欠席した 7 ヵ国が中立の立場をとったこと になる。アフリカ諸国の65%がDPRKの立 場を支持したことになる。

(22)  チョン・ハン(イ・ジンヒョン訳)「韓国 を訪れた韓国戦争参戦者」『コリアネット』

2016年 7 月26日【http://m.korea.net/

japanese/NewsFocus/Society/view? 

articleId=138882&page=1】(2017年 9 月 17日閲覧)

(23)  Moore, “op.cit.”, p.2

(24)  Van der Waag-Cowling, “op.cit.”, p.230

(25)  南ア白人入植者支配体制と日本との歴史的 関係については、森川純の『南アフリカと 日本―関係の歴史・構造・課題』同文舘、

1988年など一連の著作に詳しい。なお、森 川は第 1 次世界大戦後のヴェルサイユ講和 会議におけるドイツ植民地再分割の議論に あたって、日本と南アがそれぞれ隣接する 南洋群島(ミクロネシア)と南西アフリカ

(ナミビア)を、事実上の併合であるC式

委任統治領とするべく協力した事実を指摘 している(『前掲書』63−74頁)

(26)  金斗昇「国連軍司令部体制と日米韓関係−

いわゆる朝鮮半島有事に焦点を合わせて」

『立教法学』第86号、2012年、288頁

(27)  「朝鮮国連軍地位協定」日本外務省ホーム ページ【http://www.mofa.go.jp/mofaj/

na/fa/page23̲001541.html】(2017年 9 月 20日閲覧)。なお、米軍の横田飛行場公式 サイトに収められている「国連軍後方司令 部」のファクトシートによると、南アフリ カとイタリアは現在、地位協定の締約国に 含まれていないため、連絡将校も置かれて いない【http://www.yokota.af.mil/Portals/ 

44/Documents/Units/AFD-150924-004.

pdf】(2017年 9 月29日閲覧)。

(28)  金斗昇「前掲論文」、289頁 

(29)  「朝鮮国連軍地位協定」(日本外務省ホーム ページ)および「日本国における国際連合 の軍隊の地位に関する協定」全文(データ ベース『世界と日本』政策研究大学院大学・

東京大学東洋文化研究所)【http://www.

ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/

texts/JPUS/19540219.T1J.html】(2017年 9 月 8 日閲覧)を参照のこと。

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