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リベラル民主主義社会における教育の平等

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リベラル民主主義社会における教育の平等

‑ガットマン理論の批判的検討一

鵜 海 未祐子

はじめに

本稿は,現代リベラル民主主義の論者として位置づけられるエイミ一・ガットマンによる一連の民 主主義理論の文脈の中でも特に,教育の平等‑の言及を取りあげ,その意義と課題を検討するもので ある。なぜガットマンの理論を取りあげるのかといえば,それは以下の理由による。

一つは,ガットマン理論の思想的位置づけが現代リベラリズムに括られることに由来する。現代思 想をめぐっては,今もなお思潮としてのリベラリズムが中心で影響力を持ちつつ,だからこそ矢面に

立つという構図が見受けられる。特にロールズ以降,個人の平等な自由の保障を福祉国家の文脈で達 成しようとする現代リベラリズムは,個人の自由を徹底的に重視するリバタリアニズムや逆に個人の 自由よりも共同体の価値を重視するコミュニタリアニズム,さらには平等という価値に何よりも重き を置くイガリタリアニズムなど各方面からの批判を受けてきた。その中で,ガットマン自身は,古典 的リベラリズムから現代リベラリズムまで平等性が程度問題をめぐって揺れ動きつつきたえ直されて きたことを内在的に指摘する数少ない論者の内の一人である。内在的というのだから,ガットマンは リベラリズムの脱構築を現在進行形で展開し続けている。とりわけ,ミルやロックに代表される古典 的リベラリズムにも,ロールズやドウオーキンに代表される現代リベラリズムに通ずる平等観念が潜 在していたとガットマンは指摘する。そのうえで,永遠のテーマと一般に言われる「自由と平等の関 係性」を現代リベラリズムのもう一歩先に見る。つまりこうである。例えばガットマンは,ロールズ 以降,財の分配/再分配の文脈で語られる物質的平等が,民主主義社会でのすべての人の政治的・社 会的平等との相互作用の内に発展してゆくと見る。それは財の分配/再分配の文脈という配分的枠組 みに民主主義的要素をより反映させる試みに通じる。その際に一般に自由論として読み解かれてきた リベラリズムの議論が, 2つの平等解釈をめぐって緊張関係をはらみつつ発展,展開してきたことを 指摘し,両者の統合を民主主義の立場から改めてはかろうとする。後のほうでまた詳しく取り上げる が, 2つの平等解釈とは,まず権利や財の分配の文脈で語られる平等であり,つぎに権利や財の分配 に関する取り決めへの実際の参加という文脈で語られる平等である。じっさい両者の文脈はどちらか 一方のみで語られることが多い。例えば物質的平等が果たせないのを社会的平等や政治的平等で補う というような具合にである(1)だから両者の緊張関係が存在してきたし,今もまだその関係性が論 理的に(完全に)緩和された訳ではない。 2つの平等解釈をめぐる緊張関係をふまえてもなお,ガッ

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116       リベラル民主主義社会における教育の平等(鵜海)

トマンの統合理論に一筋の光を見出すのは,ガットマン理論が,将来の政治的・社会的平等を実質的 に保障するために,すべての子どもたちに分配されるべき(とされる)教育財の中に政治能力という 民主主義的要素を取り入れる見解による。つまりガットマンによる2つの平等解釈の統合は,共通項

を取り出し両方の文脈を橋渡しさせる格好になっており,その意味で両方の文脈における平等の深度 を強めることに変わりはないからである。こうしたことからガットマンの理論は,自由の側面ばかり が強調されがちであったリベラリズムの立場から平等原理の可能性により積極的に挑戦する新しくも 示唆深い議論なのである。

こうした一連のガットマンによる平等理論は,ある平等原理がどのような意味で平等なのか,また だからこそ一方では不平等となりえるのか,さらには誰にとっての平等/不平等を意味するのか,な どの実際における平等/不平等‑の両視点に沿ったものである。その意味では,ガットマンの扱う平 等理論は,従来の当為的な性格を持つ(すべきである)ものというよりは, (である)などの事実説 明的な性格の強い現代平等理論の特徴を備えており,批判的検討に耐えうるといえるだろう(2)。

二つは,政治哲学者であるガットマンは自らのリベラル民主主義理論を教育論にまで敷宿してお

t

り,それに対して今いちど教育学の立場からも応答することで,実践哲学としての教育の平等理論に 深みを持たせたいと考えるからである。ガットマンの教育論は, 『Democratic Education』 (1987年) においてより鮮明になっている。ガットマン自身も言及しているが,民主主義と教育の関係性に改め て挑むその議論は,デューイの影響を多分に受けたものである。それが意味するのは,民主主義と教 育の関係性を真正面から取り上げる大枠としての方法上の共通点に終始されない。そのような大枠は いうまでもなく,内実として繰り広げられる平等理論の正当性をあらかじめ外在的に措定されたリベ ラル民主主義社会像に委ねていくような制限つきの平等理論に仕立てあげてゆく(3)。ただ彼の方で また触れるが,ガットマンもまた,超越的な原理を押し付けるような厳密な基礎付け主義とは距離を 置いており,その立論は弁証法的である。つまり,実際において共有されている常識や教育認識など の長所と短所を止揚してゆく(4)。だからリベラル民主主義もまた常識の範時で考えられる限り分析 対象とされるのであって,絶対的に正しい主義として理論に反映されるわけではない。リベラル民主 主義社会はそういう意味でガットマンの議論において暫定的な仮説である(5)。それも含めて,ガッ

トマンの平等理論を検討の対象とするのは,次の理由による。それは,リベラリズムの影響を陰に陽 に受ける(てきた)アングロ・サクソン社会以外に生きる人々にとっても,避けては通れない一つの 平等理論の可能性であることには変わりがないからである。以上がガットマンを取り上げる諸々の理 由である。

このような問題意識のもと,本稿は次のような段取りで進められる。まず1)ガットマン理論の背 景をなすリベラル民主主義社会とりわけ審議民主主義社会とはどのような社会であるのか,またその 存在根拠は何であるのかに関して再確認をとる。続いて2)リベラル民主主義社会における2つの平 等の解釈はどのようにして統合されるのかという疑問に沿って検討作業を進める。最後に3) 2つの 平等の解釈を統合したリベラルな平等論が教育の平等理論‑と援用される帰結として,より教育の平

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等の内実に照らし合わせて,その意義と問題点を指摘する。

1.ガットマン理論に見る審議民主主義と教育の平等との関係性

ガットマンの『民主教育論』は,リベラル民主主義社会とりわけ審議民主主義社会の到来を予期し て組み立てられている。すなわち,民主教育論の妥当性あるいは実際への適用可能性は,ガットマン

の理想とする審議民主主義社会像によって規定されるものである。じっさいこのことは,ガットマン 自身が「『民主教育論』は相互補完的な民主主義の概念を必要とする」(6)と述べていることからもわ かる。ただ相互補完的であるというのは,民主教育論が外在的にアプリオリに借走された実体を伴う

ものではなく,民主主義という成長を内に含む動的な概念と相互作用的に発展してゆく特性を持つこ とを合意する。言い換えれば,ガットマンの民主教育論は常に批判的に再検討され改善されていく余 地を持つ点において民主主義的である。

それでは,なぜガットマンは民主主義とりわけ審議民主主義(7)に期待を寄せるのか。ガットマン は次のように言う。 「われわれは,ただわれわれの意見の不一致を調整し,またそれらを民主的に議 論することによって,集団的な生活を豊かにする公正な方法を見つけ出すように最善の努力を行う ことができる。」(8)要するに,審議民主主義に期待されるのは,それが価値の多元化や対立の進行す る現代社会の状況を乗り越えるべく,個人の差異や自由を尊重しながらも,どこかで調整しあいなが ら共存を図ってゆくことである。ガットマンにとっては,審議民主主義こそ,道徳閏な不一致を始 め多様な自由の共存を試みるために有効な戦略とされるのである。そういった意味で審議民主主義は 個人の自由を平等に保障してゆく道筋に光をあててゆく議論である。このことは次のようなガットマ

ンによる審議民主主義の原理に関する言及によってさらに明確化される。 「審議民主主義の指導原則 は,自由で平等な諸個人の相互性である。つまり国民とその責任ある代表者は,彼らを集団的に拘 束する法の正当化に対して相互に責任を負う。相互正当化が進行する過程において,国民とその責任 ある代表者が相互拘束的な法を擁護する道徳的な理由を提供するかぎり,その民主主義は審議的であ る」(9)。審議民主主義は自由で平等な諸個人の相互性を成り立たせるために,社会の仕組みの正当化 を普遍的に求めてゆく。そして社会の仕組みの根幹となるものが何なのかといえば,まさしく個人の 自由を平等に分配するための合理的に正当化可能な財の分配/再分配をめぐる原理となる。こうした 経緯から,審議民主主義社会を背景に持つガットマンの一連の著作はいずれも,財の分配/再分配を めぐる平等問題とりわけ教育における平等‑の言及に触れざるをえなくなる。つまりどういうことか もう少し丁寧に説明すれば,ガットマン理論には,他の政治哲学一般の理論よりも一層,教育に対す る言及が必然的に多くなるということである。例えば,ガットマンがよく引き合いに出すロールズ理 論と比較してみればわかりやすい。

ロールズ理論の要旨を平等という観点から一言で述べるなら,個々人の多様な善き生の構想を実現 するために財の,とりわけ基本財と呼ばれる普遍財の分配が,正当な手続きを踏まえてなされること を重要視する理論である。そのようなロールズの理論では,政治哲学一般の理論に見られるように,

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118       リベラル民主主義社会における教育の平等(鵜海)

合理的存在としての人間は,議論の前提・始発点にあらかじめ据え置かれている。また想定されてい る合理的存在としての人間は,見方を変えれば,自己の属性や社会的地位や選好など諸々の個人的・

集団的差異を取り払われた抽象的存在である。ロールズは原初状態という思考仮説を置くことから始 め,そこで抽象化された合理的な個々人は,全員一致の原則にたどり着くとされるのだが,自分がど の立場に属していても不利にならぬよう,マキシミンルールを遵守しているので,結果として導出さ

れた正義の原理は,合理的な人間なら誰しもがたどり着く結論とされる(10)。

これに対して,ガットマンは,合理的ではあっても,道徳的価値観の異なる人々からなる社会を想 定し,そうした差異を踏まえたうえで,財の分配がより効果的になされるための条件を,手続き以前 の人々の合理的な判断能力の育成にまで遡って理論化する。どのような意味で効果的であるのかとい

えば, 1)個々人がそれぞれに構想する善き生への見込みと照らし合わせて実際に分配された財を使 いこなせる能力を持つといった点において,さらには2)それと関連して分配される財それ自体の取 り決めに多様な価値観が反映するように実際に討議の場に参加してゆく能力を持つといった点におい てである。つまり,ロールズ理論では,均一な合理的人間による財の分配原理の導出過程における公 正な合意に力点が置かれるのに対して,ガットマン理論では,道徳的不一致を伴う合理的人間が,多 様な財の分配原理を導出する取り決めに参加するための,能力の育成に重点が置かれる(ll)。そうで

あるから,ガットマンは政治哲学の立場から,特に『民主教育論』という教育に焦点化された著作を 書き上げている(12)

2.ガットマンの教育論〜教育財をめぐる現実的視点〜

このように政治・経済領域にまで踏み込んだ理想とされる社会像と照らし合わせながら,適合する 教育理論を抽出してゆくような議論においては,教育に内在する論理に終始してしまう議論からは導 きだせない実現に向けての理論の徹底化が見られる。例えば教育の平等に関する議論では,教育の権 利を唱えるのみならず,教育の権利を拡張していくためにはどのような平等な仕組みが必要となるの かという問題にまで踏み込んでゆく。たとえば他の社会的財との兼ね合いのうちに教育財を特定し分 配/再分配のあり方を探求してゆく現実的視点が不可欠となる。それも教育財の場合,ただ単に他の 財との間で同等の比較考量を通じてその内実の特定と分配/再分配される範囲が決められるというの

ではなく,教育財の特殊な事情が汲み取られる必要がある。

例えばウオルツアーに倣えば,教育財の特殊な事情に関してこう説明できる。教育財は教育とい う1つの独立した領域においてその分配の効用が完結される類の財とはその性質を異にするものであ る。むしろ教育財は,将来において他の領域をまたいで,個々人が欲求するようなあらゆる財との交 換財として普遍的に機能する(13)。教育財が交換財であるとはどういうことかといえば,教育によっ て得られた広い意味での能力あるいは学歴などの指標は,将来の生活設計や生涯にわたる職業の選択 に多くの影響を与えるということである。言い換えれば,私たちはお金を好きな物や機会や時間や場 所と交換できるように,能力もまた他の多くの機会と交換することができる。そしてさらに広い視野

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から,例えば分配/再分配された教育財のみならず,教育のあり方それ自体が社会の財の分配におい てどのような役割を持つものなのかに関して言及しているのは宮寺である。富寺によれば,教育は社 会の財の分配をめぐって「公正さを見極める視点」であり,また「他の様々な財の分配が公正になさ れていくための前提に関わる規定要因」でもあるという(14)。教育が,感性や理性などを始めとする 広い意味での能力の育成に関わる営みである限り,教育財の公正な分配が意味することは大きい。つ まり,教育財の分配の公正さは,ひるがえって社会における財の分配/再分配の公正さを裏付ける条 件である。またそうであるから,教育は社会における正しさや善さなどを規定していく要因でもある。

それが教育の平等理論の精微化が求められるゆえんである。

そして教育の平等問題は分配/再分配の問題を中心としてあらゆる論点を含むことがわかる。例え ば, 1)何が普遍的に分配される教育財となりえるのか,また2)またその決定に関して誰あるいは どこに権力を分配してゆくのが公正であるのか,あるいは3)どのような特殊な教育財が誰にどれく らい分配されることがどのように正当化されるのか,などの問題である。

話を元に戻すと,政治哲学に軸をおくガットマンは,審議民主主義社会に照らし合わせながら,そ の実現と進展の可能性を教育の分配/再分配のあり方やその程度に委ねる論者の一人として位置づけ ることができる。教育の分配/再分配をめぐる問題は押し広げて言えば教育上の平等問題として捉え

られる。次節においては,先に述べた論点の中でも特に1)の問題,すなわち,ガットマンの議論に おいては何が普遍的に分配される教育財と特定されるのかに関して再検討を加えてゆく。というの も,個々人の自由を保障するための平等の仕組みをめぐる現代リベラリズムの議論においては,何ら かの普遍財を分配することで社会を統合してゆくという文脈に平等の仕組みを見て取ることが出来る からである。その際に分析対象としては,ガットマンの著作の中でもとりわけ平等について深く言及 する『LiberalEquality,』と『Democratic Education』を取り上げる。

3.ガットマン理論における教育の平等をめぐる理論的変遷

『LiberalEquality』 (1980年)において,ガットマンが取り組んだテーマを手短に述べればこうで ある。それは専ら自由の尊重という側面のみが表立って強調されてきたリベラリズムに対する一般的 な解釈をいったん脇に置き,リベラリズムの文脈に潜在していた自由を保障する条件としての平等に 光をなげかけ顕在化してゆくことである。つまり,自由という価値を機軸におきつつもそれを実質的 に個々人に保障してゆくためにはさけては通れない,平等な条件‑の言及を議論,展開してゆき,独

自の平等理論へと着地してゆく。より具体的にまとめるとこうである。

まずガットマンは,現代リベラリズムの中で平等の問題に取り組んだロールズを引き合いに出しな がら,特に政治的自由に関わる,自由の公正な(平等な)価値‑のロールズによる言及をなぞってゆ く。ロールズの議論では,先にも述べたように,原初状態において抽象的な各人は自らの利益を合理 的に熟慮し,誰もが同じように考える(有名な)正義の2原理を導出する。ガットマンは,ロール ズが敢えて人々から差異を取り払い,論理的には受け入れられる正義の原理を平等理論に導きいれた

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リベラル民主主義社会における教育の平等(鵜海)

ことをひとまず評価する。というのも,ロールズによる極めて論理的な思考実験の中で合理的である (とされる)均一な個人の想定に,政治的取り決めの場面における権力の不均等によるすべての人の 公正な政治的自由の権利の蹟潤を回避しようとするロールズの目論見(15)をガットマンは見て取るか らである。このような政治的自由の公正な価値の擁護は,政治参加の重要性を説いたミルにも通じる ことである,とガットマンは指摘する。しかもミルには,ロールズ理論における先に述べたような合 理的選択理論が一般に無視している大切な論点が含まれているOそれは一つに政治参加に対する教育 的価値のことであり,あと一つに個々人の善き生の諸構想に裏付けられた政治参加の可能性のことで ある。もちろんガットマンも指摘するとおり,ロールズは,共通善をめぐって形成される諸集団から なる社会のあり方にも言及しており,その意味では上に述べたような政治的価値に対する擁護が全く なされてない訳ではない(16)しかし実際のところ,ロールズにおいては政治的価値,とりわけ政治 参加への積極的な視点が弱いのである(17)。

例えば,ガットマンはロールズ理論における「参加」の価値付けの程度に着目し,次のように解釈 している。ガットマンによれば,ロールズの『正義論』における「参加」 (participation)の価値は, 権力の押し付けからの保護の意味合いとして消極的に語られるもので,強い意味での,すなわち意思 決定の過程を共有したいと願う市民の政治的育成や,自らや社会にとっての善き生を築いてゆきたい と願う市民にとっての積極的な意味合いを付与されたものではないとされる。一方で比較対象として 取り上げられるミルの理論においては,参加‑の能力の育成をはじめ参加という価値を積極的に強調

している。しかし残念なことにミルの理論では,すべての人に政治的自由が必ずしも平等に保障され ているわけではない。ミルはロールズも指摘するように,教育を受けた有能な一部の人間が政治的取 り決めに参加することが,教育を受けていない人間にとっての良き生活にも配慮する結果となると考 えた(18)しかし実際にはそれが結果として,ミルの強調する政治的市民育成と政治的自由の両立の 困難を露呈することとなる。こうしたことから,ガットマンは,ミルによる参加という価値への強調 と配分問題への消極性と,ロールズによる配分問題への強調と参加という価値への消極性とを,両者 の理論を統合することで,補強してゆこうとする(19)すなわちそれは,ミルの政治参加への価値付 けの強みを,ロールズの再分配の文脈に組み込んでゆくことである。どういうように組み込んだのか といえば,政治参加への能力を育む機会を,教育の分配/再分配の文脈に置く。それも,すべての人々 の将来における政治的自由を実質的に保障してゆくために,政治参加‑の能力を教育財として普遍的 に分配してゆく。これを主題としたのが,ガットマンの続く主著, 『民主教育論』である。

ガットマンは, 『民主教育論』の第5章「初等教育の配分」の中で,教育の機会の平等に関する解 釈を3つの解釈に分類し再検討したうえで,民主的な基準を明確化する。その中でも特に先述に関連 するのは,学力達成度の平等を教育の普遍財としてきた平等化解釈‑の批判である。次では平等化解 釈への批判にとりわけ着目して,ガットマンによって提示された普遍的な教育財の中身の変更を指摘 することとする。

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4.民主教育論における教育の平等〜普遍財の検討〜

4‑1普遍財としての学力をめぐる教育達成度のできる限りの平等への批判

ガットマンの平等化解釈に関する主張の要点は,教育達成の平等化という理想を制度に反映する際 に,教育達成の比較的に高い子ども達に対する教育が,財政的にも制度的にもおざなりにされること が問題であるということである。つまり,教育達成の低い子ども達に手厚い教育の制度的な補償を用 意することは,裏を返せば,教育達成の高い子ども達に即した教育を排除することによって,績らを 抑圧してしまうことと意味を同じくする。なぜなら,教育機会を補償するための限りある予算を,す べての子どもたちの教育達成の平等のために‑頭打ちの平等のために一教育達成の低い子どもたちに

より多く分配することが予想されるからである。

そのように考えるガットマンにとって,一部の子どもたちを差別し教育的成長を抑圧するような教 育機会の平等が何よりも耐え難いのは,それが子供たちの教育結果の多様性 ^variety)を育てようと する契機を奪ってしまうからである。つまり,教育達成度とは往々にして学力達成度として同定され, それは教育現場を学力という一元的な尺度で覆われた競争システム‑と化かしてしまう恐れがあるか らである。ガットマンは次のように述べている。 「ある子供は,学校が教えることを学ぶのに堪能で あるよりも,友情を育むことや面白く遊ぶことにきわめて堪能(関心がある)である。子どもたちの そうした多様性は,他の人と同様に自分たちの生活を豊かにもし面白くもする。」(20)

ここにおいて多様性の内の一つとして比較的に挙げられているのは,学力をめぐる教育達成度ある いは友情作りや遊びの上手さである。教育達成度とある種の人間性が二者択一的な才能として書かれ ていること自体にも問題がないわけではない。しかしそれ以上に問題なのはここでのガットマンによ る教育結果の多様性の把握の仕方である。ここには2つの問題が残される。ひとつは,多様性という 概念がその内に含まれる差異と差違などを意味する観念の区別がなされずに用いられている問題であ

る(21)。もう‑つは,そのことから生じる教育の平等をめぐるアポリアの放置である。

まず最初の問題として挙げた多様性の内に含まれる2つの観念の違いに着日してみる。差違は「尺 度自体の違い」を意味し,多様性とも言い換えることができる。一方,差異は「同じ尺度上の遠い」

を意味し,競争の上なら勝者と敗者の区別を生み出す違いのことである。これは格差とも言われる。

ガットマンは,最も不利な立場にある子どもたちの生活機会を最も有利な立場にある子どもたちのそ れにまで高めることを目的とする平等化解釈に関して,次のように述べる。平等化解釈は平等を深刻 に捉えすぎているのであって,それは子どもたちの教育達成における差違を解消しようという点で間 違っている。というのも,子どもたちの教育結果としての違いは,彼等の生れ落ち育った環境の文化 的特性や自然的特性などの属性をも反映するものであって,その意味では違い自体,一種の多様性と

して正統性を持ちうるものとして考えられるからである。

しかし一方で,平等化解釈における有利/不利の分類に着目してみれば,それはガットマンの言う 教育達成の差違よりは,教育達成における何らかの共通尺度上の差異や格差を意味するものであるの

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122       リベラル民主主義社会における教育の平等(鵜海)

かもしれない。というのも,何らかの尺度に照らし合わせてはじめて有利/不利の判断,分類は可能 になるからである。もし仮にそうだとしたら,ガットマンは教育達成の差異や格差を隠蔽して,それ を多様性として捉えていることにもなる。

もちろん,ガットマンは学力をめぐる教育達成を多様性のうちの才能の一つと見なす点において, 教育達成の意味する範囲を広げている。けれどもし学力をめぐる教育達成が今後も重要な教育達成に おける共通の尺度として捉えられる可能性が一方であるならば,それは,一般に捉えられるところの 教育達成の格差を隠蔽することにもなるのである。つまりガットマンは,有利/不利という共通尺度 から生じる格差に沿って補償を求める最大化解釈を,共通尺度を前提としない多様性を均す解釈とし

て捉えている点において,教育達成の格差という問題に対して真撃でない。多様性という概念の意味 する2つの観念の内,片方だけを取り上げるガットマンのいう多様性は,あまりに一面的に過ぎない かと危倶されるのである。それは多様性の内の格差問題という差異問題に蓋をかぶせ,差違問題とし

て捉えることによって,現に存在する格差を隠蔽するものとなる。このような教育達成において顕在 化する格差を隠蔽し,差違に基づく多様性としてのみ取り扱う(ある意味では取り違える)ことは, 教育の平等をめぐるアポリア,つまりそれがどのように正当化されるのかに関する考察の放棄につな がってゆく。これが先に述べたもう一つの問題である。ガットマンは先の引用文の後にこう続けてい

・*&).‑㌔

子どもたちのそうした多様性は,他の人と同様に自分たちの生活を豊かにもし面白くもする。

競争が普遍的ではなく,それ自体不当なものである学力達成のための素質(文化的あるいは遺伝 的に創られたものであるかは別にして)によって,競争が部分的に制限される環境において,一 定の子どもたちは報いのある生活を生きるであろう。競争が完全に充満し,多様性をはぎ取られ た社会は,子どもたちにとっても親にとっても,そして教師にとってすら,生きる上で望ましい 場所ではない(22)。

ここでも先の見解をより一層強めるかたちで,従来において普遍財の対象とされてきた教育達成度 が才能の一つに還元されているO ガットマンが教育達成度を多様性や価値の一つとして数えるのは, 学力という単一的な基準によって人々の優劣が決められてしまう社会や学校は,多様性を包含する

(とされる)リベラル民主主義社会像にとって不適切だからである。ここにはリベラル民主主義社会 においてはあらゆる才能ないし価値の多様性が社会的に守り育てられるべきであるとするガットマン らリベラルデモクラシー論者の措く社会像を,その背景に見ることができる(23)。

こうしたことから,ガットマンは競争それ自体が制限されている,つまり教育達成を測る尺度が限 定されすぎているような前提それ自体にも批判的である。だから,あらゆる才能・能力の開花を目指 す(保障する)という意味で教育達成の差異/差違が積極的に認められていくような教育機会及び社 会を目指してもいる。この点に関して宮寺による次の指摘は,ガットマンによるリベラル民主主義社 会での教育上の普遍財として何が適切であるのかに関して,ともに学力の違いを必ずしも是正しない

という点で一致する。官寺は次のように示唆する。

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《教育のなか≫で考える人には残酷に響くかもしれないが, 《社会全体のなか≫ではすべての子 どもが同一の学習水準を達成する必要はない。学習の達成の分散が相殺され,総体として一定の 水準がたもたれていれば,教育はシステムとして社会的に責任をはたしたことになる。人材の開 発は,適度に分散した達成群が常に供給されることによって,はじめて社会の分業システムにリ ンクしていくことができる。それが『教育は社会のなかでなされている』というときの真意であ る(24)。

けっきょく学力をめぐる教育達成度の不平等は,社会における人材開発という観点からみれば,必 ずしも是正される必要はないとされる。例えば,賃金格差を労働のインセンティブと見なしてゆく資 本主義社会において,賃金格差の一つの指標となる能力格差は必要悪とされるかもしれない。けれど もそのような(ある段階において測られる暫定的な)結果としての能力格差を認めることが,教育に おける普遍財の分配をめぐる公正さの問題を放置することを意味するわけではないだろう。

4‑2 能力の育成に関わる教育の平等とアポリア

仮に,学力が,子どもたちの異なった知的・文化的・情緒的性向や属性を反映するものであったと しても,普遍財として分配されないことが正当化されるには,やはり困難な問題が残される。それは 学力が,内的/外的などの要因を反映するものであったとしても,一つの才能として捉えられること に伴う問題である。 「ある程度の学力の平等」(25)が普遍的に目指されるのではなく言教育達成の格差」

がその人の才能と見なされることは,皮肉なことに,自己責任に関わる問題と同定されることになる。

つまり,もしかしたら教育的には不適切な環境の影響を受けた結果としての学力であったとしても, それも才能(偶然)として自己責任の問題,つまりは保障対象外に帰せられてしまうのである。

一方で,これまで「ある程度の学力の平等」を目指して普遍財としての学力の分配が正当化されて きたのは,外的要因を多く被りやすい学力の特徴にある。もし子どもたちの育つ環境が学力の低さと 関連が認められるのなら,その環境を社会的に是正してゆくことが公正とみなされる。というのち, 学力の低さが,その子どもの自己責任の枠には収まりきれない問題だからである。そういう意味で は,教育達成度と環境要因の強い相関性は,何を普遍的な教育財として分配してゆくのかを考える際 には,おざなりにはできない大切な要素である。

そしてガットマンの議論,とくに教育の機会均等を民主主義的に解釈した文脈(26)において打ち出 される教育の普遍財は, 「民主的な意思決定に参加するための合理的な機会」および「そのような機 会を実質的に支える政治的能力の育成」であるとされる。しかしガットマンの議論において,教育の 普遍財が,学力から政治能力へと重点が移されても,やはり先の問題はつきまとう。どういうことか 再見すれば,能力に関わる平等問題を扱う際に,結果と外的・内的要因のいわゆる因果関係をめぐっ て保障範囲の線引きの困難はいぜん残される。この間題は不平等に関わる別の問題も惹起する。例え ばガットマンが政治能力を普遍財として,最低限のある基準点までの平等を目指すとした途端に, 「あ る程度の学力の平等」が果たせられぬままである問題とのつながりが予見されてくる。するとガット マンの理論において「ある程度の学力の平等」の価値は放棄され,その不平等が多様性のうちに還元

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124       リベラル民主主義社会における教育の平等(鵜海)

される一方で,なぜ政治能力のある程度の平等が達成されうるとわれわれは期待することができるの かという疑問が生じてくる。両方の能力ともに,形成された能力の出処とそこから導かれる保障範囲 の確定困難性を抱えているかぎり,ある程度までの平等を目指すことは,不確実性の上に教育の平 等を唱えることになるのである。それどころか,学力も政治能力もその間には相関関係があると考 えられるので,学力格差を多様性のうちに還元する試みは,両方の能力の共倒れを導くことも考えら れる(27)。普遍財としての政治能力の平等は,能力育成と保障をめぐるアポリアを放置したまま, 「あ る程度の学力の平等」という価値と取り替えられる。それは「古いワインを新しい瓶に入れ替え」(28;

たような平等理論であるとも言える。つまり,この場合の古いワインとは,どの程度まで,どの根拠 をもって教育達成の平等を保障すべきなのか,という問いの放置とそこから導かれる能力格差の問題 であり,新しい瓶とは,普遍財としての政治能力の平等のことである。

おわりに

本稿で取り上げたガットマンによる教育の平等理論は,学力という一元的な尺度をはずし,代わり に政治能力の育成に関わる普遍財の分配を強調する。これは一見すると,保障される能力の範囲を広 げたかに見える。しかもある程度の政治能力の平等をなしえれば,ある特定の権威から投げ出された 価値‑の同化ではなく,自らが選ぶ価値を他者との協議のうちに洗練させたうえで,多様な価値に裏 付けられた実質的な物質的,社会的平等の可能性を拡張してゆくことが可能となる。この点において 確かにガットマンは程度問題としての平等を深化させた。けれどもその一方で,ガットマンの「ある 程度の政治的能力の平等」が「ある程度の学力の平等」と取り替えられる形で進められるならば,特 定の普遍財の分配に教育の平等問題を焦点化してゆくことは,能力の育成‑の多面的なアプローチを 狭めてしまう点において,結果として能力格差の問題を放置し,拡大してしまう課題が残されるので ある。

このような能力格差の是正をめぐる論理的アポリアを今後どのように開拓してゆくのかは今後の課 題であるとしても,本稿を終えるにあたって,教育の平等理論の独自性をふまえた方向性だけでも簡 単に紹介して結びとする。それは,能力なるものが幅広い概念であること,また幅広い文脈から構成

されるものであること,から要求される教育独自の平等理論の向きである。

この点に関して,例えばリンチとベイカーによる教育における「状態の平等」 (equalityofcondi‑

tion)理論は参考になる(29)というのも,ある特定の普遍財の分配に特化した教育の平等理論を打ち 立てるのではなく,能力があらゆる方向から構築される特徴をふまえ,複数の普遍財の分配を踏まえ た上での包括的な人間の福利状態からアプローチする理論だからである。例えば本稿に関係する範囲 で述べるとするならば, 「状態の平等」理論においては「ある程度の学力の平等」と「政治能力の平 等」の両方を普遍財として分配してゆくことが求められている。こうした複数の文脈からなる平等理 論は,能力格差の保障をめぐっての先にのべたようなアポリアを乗り越える道筋を用意してくれるだ ろう。というのも,多面的な能力の構成に慎重な多様なアプローチは,能力それ自体の格差が生じる

(11)

原因に直接的に関わってゆくからである。

注(1)キムリッカ, W 『新版現代政治理論』千葉異 岡崎晴輝 日本経済評論社, 2005年, 417頁。

(2) Williams, B. ̀The Idea ofEquality', Philosophy, Politics and Society, Series II, eds., Laslett, P. and Runciman, W.G., Basil Blackwell, 1962, p. 110.

(3)例えば,スプリングはガットマンの民主教育論が,非抑圧と非差別という民主主義的価値に規定されてい る点に関して,権威主義的な議論であると批判している。 (スプリング『頭のなかの歯車二権威・自由・文化 の教育思想史』,加賀 松浦訳,晃洋書房1998年 30頁)先行文献として(生洋繁樹「民主主義の包括, 排除の力学一多文化的状況における民主教育の逆説について」日本デューイ学会紀要 47 2006年)にも同

様の指摘あり。審議民主主義の中心的価値(討議や尊重など)を重んじない人々や集団に対しての理論の正 当化という課題は残されたままである。この点に関しては,松下丈宏「宗教的多元社会アメリカ合衆国にお ける公教育の正当性問題に関する一考察『市民的寛容』の強制を巡って」 『教育学研究』第71巻,第1号, 2004年3月。窪田英二「価値多元社会と教育における公正の問題」 『教育学研究』第64巻,第3号, 1997年 9月。を参考にした。

(4) Gutmann, Democratic Education, Princeton University Press, 1987, p. 21. (訳書, 29頁。) ,先行文献として加 賀裕郎「5現代の民主主義と教育」 『アメリカ教育哲学の動向』杉浦宏編晃洋書房, 1995年 p.147にも同 様の指摘あり。

(5)加賀裕朗「民主主義の非基礎主義的正当化」日本デューイ学会紀要1993年(34) p.111.

(6)ガットマン『民主教育論』同時代社, 2004年, 6頁。

(7) Gutraann, Thompson, Democracy and Disagreement, 1996, Gutmann, ̀Democracy', ed., Goodin, and Pettit, A ion to contemporary political philosophy, Cambridge, Mass, 1993.

(8)ガットマン同掲書, 6頁。

(9)同上書, 6頁。

(10)マキシミンルールとは,考えられる最悪の結果を避け,その最悪な結果よりは次にベターな選択肢をとる 戦略を言う(Rawls,ATheoryofJustice, Harv∬dUniversityPress, 1971. p. 152. (訳書, 118頁。))

(ll)平井もガットマン理論を政治の場への参加という結果の平等を保障する条件への言及と見なしている。 (平 井悠介「教育に対する国家関与と親の教育権限‑エイミ一・ガットマンの『討議的民主主義』理論の視点か

ら‑」筑波大学教育学系論集27 2003 46頁。)

(12)ガットマンの民主主義における教育論への言及というスタンスは,デューイの影響を受けたものである。

(Gutmann, DemocraticEducation, p. 13. (訳書17頁).)

(13) Walzer, M., Spheres ofJustice: a defense ofpluralism and equality, Basic Books, 1983.

(14)宮寺晃夫『教育の分配論』勃葦書房, 2006年, 2‑3頁。

(15) RawlsJリA theory ofJustice pp. 232‑233 (訳書181頁。) Ibid., pp. 520‑529. (訳書408‑415頁。)

(17) Gutmann, Liberal Equality, Cambridge University Press, 1980, pp. 140‑141.

(18) Rawls,J., 7Z>ォ*., pp. 232‑234, (訳書180‑182頁) 0

19) Gutmann,LiberalEquality,p. 141.先行文献として平井悠介「政治的参加と教育‑J.Rawlsの『分配的正義』

論に対するAmyGutmannの批判を中心に‑」教育学研究集録2002年(26)。

Gutmann, Democratic Education, pp. 133‑134. (訳書152頁。)

(21)原著ではdifference,訳書では差異と表記されている(Ibid.,p. 133. (訳書152頁。)) Ibid., pp. 133‑134. (訳書152‑153頁。)

m ロー)レズもまた教育財の不平等を正当化する際に次のように述べている。 「教育の価値は,経済的効率性や 社会福祉の面だけから評価されるべきではない。人々をして自分の社会の文化を享受し,その社会の出来事

(12)

126       リベラル民主主義社会における教育の平等(鵜海)

に参加できるようにし,かくて各個人に自分自身の価値‑の確固とした感覚を与える教育の役割もそれに劣 らず重要なのである(Rawls,J.,Ibid., p. 101. (訳書77頁。))

(24)富寺晃夫『リベラリズムの教育哲学』勤草書房, 2000年, 20‑21頁.

担5) 「ある程度までの学力の平等」 (ガットマンの言葉を借りれば「基準点」までの学力の平等)という見方は, 普遍的な教育理念のもとに教育の平等を模索する論者の一人であるハウによっても受け継がれている。 (ハ

ウ, K. 『教育の平等と正義』,大桃 中村 後藤,東信社, 2004年)

e6) 「教育の機会均等の民主主義的解釈は, 〜中略〜すべての教育可能な子どもたちが民主主義のプロセスに実 効的に参加するのに十分なように学習することを求めるだけだ。」 「教育の内容は,子どもたちに民主的審議 の技能を教える方向に切り替えなければならない。」 (Gutmann, DemocraticEducation, pp. 170‑171. (訳書185

H蝣\

垣力 平井もまた次のように指摘する。 「ただし,多様な価値観を包括する価値の準拠枠を導くための討議能力 を子どもに身につけさせるには,いかなる教育実践が必要かという問題や,能力の格差によって必然的に生 じる討議場面での決定の偏りをいかに扱うべきかなどの実際的な問題はさらに決定される必要がある。」 (平 井悠介「グローバル化時代の市民教育とアイデンティティ」新井,高橋編『教育哲学の再構築』,学文社, 2006年。)

w キムリッカ, W.同掲書, 463頁。

Lynch, K and Baker, J., "Equality in education‑An Equality of Condition Perspective", Theory and Research m Education sage publication, vol. 3, 2005, pp. 131‑164., Baker, J., Lynch, K., and Cantillon, S. and Walsh, J., Equality: From Theory to Action, Basingstoke: PalgraveMacmillan, 2004.

参照

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