中心にして
著者 清水 やすし
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 48
ページ 105‑119
発行年 1996‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011217
本論では、日清戦争・日露戦争を挟んだ時期について、婦人雑誌『女鑑』を中心にして、当時の女性をとりまく「家」意識を探っていく。『女鑑』を選んだ理由は、まず一八九一年から一九○九年までの長期間発行され続けていることである。そして、当時の上中流階層の女性に少なく(1)ない影響を与》えていたことや、政府の女子教育方針である(2)「良妻賢母」を先取りしていたと一一一一コわれていることである。にもかかわらず、従来は「国粋的婦人啓蒙誌の代表(3)(4)格」「国体に添った復古的儒教的思潮を基調とする」という評価で、今まで正面切って取り上げられることがなかったことも理由の一つである。はたして、こうした一面的な はじめに
日清・日露期の「家」意識(清水)
日清・日露期の「家」意識
じよかんl婦人雑誌『女鑑』を中心にしてI
婦人雑誌『女鑑』は一八九一年八月八日に創刊された。その後、通算三五六号を発行し、一九○九年三月一日を最後に以後発行が確認されていない。(表l参照)誌面構成は、時期により多少の違いや名称の変更はあるが、以下のようである。まず社説として「女鑑」欄があり、ついで「論説」欄で女子教育や女子問題について論じている。その後、「史談」欄では読み物として、歴史上の女性について、著名な女性から、名もなき庶民までが取り上げられている。「家政」欄では、家庭内での裁縫、料理等の日常生活から生け花・茶に至る技法や知識が紹介され 評価が妥当であるかについても検討してみる。
婦人雑誌『女鑑』とは
水やすし 情
一○五
表1 「女鑑」全356号発行形態一覧表
[
編集発行人 法政史学第四十八号し」
…
犀
※11895(明治28)年4月この月のみ発行が月1回
※21900(明治33)年10月5日214号より発売元が静思館に変更。発行社は変わらず。
1902(明治35)年1月1日244号で,発売元を国光社に戻す。
※31902(明治35)年12月20日267号で,号数表記の通算号数はここまで。
翌数の1903(明治36)年1月1日発行分より第13年1号などと表記。
※41906(明治39)4月この月のみ臨時増刊で発行が2回
※5以後の発行は確認できず。この号が最終号と推定されている。
○六
通算 発行年月日 号数 編集発行人 刊行 発行社
1
5 6
37 38
132 133
246 247
293 294
321 322
■●
349 350
356
1891(明治24).8.8
1891(明治24).12.5 1892(明治25).1.5
1893(明治26).4.20 1893(明治26).5.5
1897(明治30).5.10 1897(明治30).5.20
1902(明治35).2.5 1902(明治35).2.20
1904(明治37).1.15 1904(明治37).2.11
1906(明治39).4.15 1906(明治39).5.1
1908(明治41).8.1 1908(明治41).9.1 1909(明治42).3.1
1号
5号 6号
37号 38号
132号 133号
246号 247号
※3
第14年2号 第14年3号
第16年5号 第16年6号
第18年8号 第18年9号 第19年3号
西沢之助
編集人 山根勇蔵 発行人
)||崎直衛 )||崎直衛
渡辺素一
国光社 (橋本忠次郎)
中lll愛氷 (良平)
※5
月1回
月2回
※1
月1回
※4
国光社
※2
女子新聞社
ている。「学園」欄では高等女学校に関する話題や、教科内容に関わる講義などが載せられている。また「漫録」欄、「文林」欄では、和歌や小説などが載せられており、皇族や華族、著名な文学者のものもある。「教の庭」欄は読者からの作品投稿欄である。こうした文芸欄が雑誌『女鑑』の頁のおよそ半分を占めている。「女鑑』の一八年に及ぶ期間を通じて、論説関係だけでも二五○名以上が執筆している。それらの多くは男性によって行われているが、唯一例外なのが、三輪田真佐子である。女子教育に力を注いで、後に三輪田学園を創設した三輪田は創刊初期から頻繁に連載の論説を書いている。そ(5)れ、bは後に単行本として出版されている。女性執筆者も後半になると次第に増え、下田歌子、嘉悦孝子、矢嶋揖子など女子教育界での著名な人々が次々と論説を書くようになった。さて、当時の雑誌の発行部数を知ることは、非常に難しいが、創刊翌年に「大いに読者の注目する所となりて、数千淑女の手に上り、其の声価はにわかに旧来の同類書を凌(6)駕するに至る」、一一年後に「発行部数はいやまして、已(7)に一万余部の多きに達しぬ」という記事がある。もちろん、雑誌特有の水増し的な表現があるだろうから、にわか
日清・日露期の「家」意識(清水) に信用することは出来ないが、ある程度の傾向はつかめるのではないだろうか。この時期の婦人雑誌の多くが短い期間で廃刊になったことを考えると、|定程度の発行部数が確保できていたことが予想される。また一九○四年に発行回数の変更を検討した際には、読者に意見を求めて、その投票により決定した。その時には、「月一回説一八○五人、月二回説一六八一一人」の合計三四八七人の読者からの(8)投書が寄せられている。こうしたことから、この時点での読者数はかなりの数であると思われる。さらに、次の調査は重要である。一八九七年六月末日に東京府高等女学校校長心得の岩谷英太郎が全校生徒三六一人を対象にした「常に家庭に於いて愛読せる新聞雑誌」調(9)査によると、雑誌の部において『女鑑』が一一四で一位である。ちなみに、九二の『少年世界』、六四の『太陽』がそれに続き、新聞の部では『万朝報』が六八で一位である。全生徒のほぼ三分の一にあたる家庭で『女鑑」が読まれていたことがわかる。この調査は、当時の東京で、子女を高等女学校に通わせていた上中流家庭でかなり広く『女鑑』が愛読されていた一つの例証となるであろう。また記事の内容として、教員検定試験問題をかなりのスペースを割いて載せていたり、全国の高等女学校の卒業生
一○七
法政史学第四十八号
(、)名簿を掲載していることから、高等女学校の年代の女子やその家庭が中心的な購買層であることがわかる。|時設けられた読者投書欄である「落葉篭」の投書から判断すると、女学生を中心に、高等女学校入学前もしくは結婚年齢期の女性がその大部分を占めている。このような『女鑑』も、編集発行人が中川愛氷に変わってからわずか七号発行しただけで廃刊になってしまった。中嶌邦氏は復刻版の解説で「日露戦争後の民衆の時代に対応できず、廃刊に追い込まれていったのであろう」と述べているが、そうした面の他に、発行所の問題も大きいであろう。尋常小学校・高等小学校・中学校の教科書から、様々な書籍までを総合的に出版していた国光社から、週刊新聞を一時期発行したものの短期間で廃刊に追い込まれたという中川が経営する女子新聞社への発行所の移行は廃刊(u)への一歩となってしまったようである。
鹿鳴館に代表される欧化主義とそれを受けた欧化主義的な女子教育に対する反動として『女鑑』は発刊された。その第一号には「発刊の趣旨」として長文が掲げられている。執筆者の署名はないが、発刊時の編集発行人であった 一一『女鑑』発刊の趣旨 一○八
(皿)西沢之助の執筆ではないかと推定されている。この文章の中でも、明治維新後の世の推移や欧化主義を記した後で、欧化思想によって日本古来の女徳が廃れていくことを次のように嘆いている。「日本女子の特有なる貞操、節烈、優雅、温柔の美徳青史に輝き、千歳に芳はしきもの、今果して何れの処にあるか。唯巧言利口、徒に表面を修飾して、才名を街はんとするの風盛にして、日本女子の真相なる美徳は、其の敗頽年一年より甚だしきを見るあるのこと。已漸く傍訓の新聞紙を読み得れば、家嘔の迂遠を畷ひ、僅に一片の修行の證書を有すれば、其の夫を蔑にす、而して又女権の拡張を唱ふる者の如きに至りて(川)は、吾人一一一一口ふ所を知らざるなり」ここでは、欧化思想と共に女性が学問をすることが、これまでの社会や「家」の中での関係を急速に変化させることになると嘆いている。この文脈では女性の学問を否定的に捉えている。しかし、だからといってそれを全面否定しているわけではない。それは続く次の文章で明らかにな→CO「女子教育の本旨は、其の淑徳を啓発して、男子の功業を扶くるに足るべき、良妻たらしむるにあり。健全
忠勇なる児孫を養成すべき、賢母たらしむるに在り。技芸智巧の如きは、枝葉のみ、根幹にあらざるなり。其の末を重くして、其の本を忘る。これ女徳の敗壊、(川)くう曰に至れる所以なり」女性の学問の目的は、あくまでも良妻賢母養成のためのものなのである。それ以外の選択肢は用意されていない。したがって、その目的を離れたところにある学問であれば、それはかえって有害になるのである。その弊害が社会に芽生えていることを『女鑑』は憂えている。しかし、良妻賢母の目的のもとにあれば、女性の学問は望ましく、そして必要なことなのである。良妻賢母をめざした方向で女子教育が行われるように社会や女性を啓蒙していくことが『女鑑』の発刊の目的であった。さらに長くなるが、創刊号に載せられた論説の一部を掲げてみる。「それ女子の職守は、多端にして一ならすといへとも、これを約して二となすことを得くし。|は夫に奉事することにして、|は子女を教養することこれなり。……而して夫婦は相集まりて家をなす所以は、実に夫、外事を治め、婦、内事を治るに因るなり。夫、外事を治む、故に其の職守大なり。婦、内事を治む、
日清・日露期の「家」意識(清水) 故にその職守小なり。職守の小なるもの、職守の大な(旧)るものに奉事するは、天下の常理なり」これによっても、良妻賢母が如何なるものであるかが明瞭に示されている。そしてなぜ男女の役割分担が必要であり、正当であるかを説明している。こうした女性を「家」にとじ込めた形での良妻賢母こそが『女鑑』の描く理想の姿であった。しかし、論説は次のように続けている。「近来二つの謬見僻説ありて、将に大いに女徳を壊敗せんとするの勢あり。一は男女同権の僻説にして、|(旧)は女子独立の謬見なりとす。」ここでは、欧化思想の中で男女平等などが日本に輸入された結果として、『女鑑』の理想を真っ向から否定する主張があることを厳しく批判している。こうした「発刊の趣旨」に基づく編集方針は、その後も続いていくことになる。創刊から九年後の一九○○年でも「世に、女鑑は、女大学主義の雑誌よといひなさぬ。女大(Ⅳ)学主義とて、強に、すつべきにはあ、bい」という開き直りとも言えるような書き方で、それまでの編集方針を頑なに擁護している。
一○九
『女鑑』は良妻賢母こそ女性の規範であると主張した。これは、当時の女子教育界では欧化主義に対する反動として、世論をリードする意見であった。またその後の政府の女子教育方針を先取りする主張でもあった。そして、その思想は『女鑑』誌上で、繰り返し主張されている。例えば「人の妻たる職分の最も重きところは、能く、内事を整理して家事百般の処置を定め、其の良人をして、専、外事に心を用いて、少しも、内顧の患なからしむるに(旧)あり」というのがその典型である。また「抑、女子の職は、仰ぎて父母に事へ、入りて夫を助け、下りて児子を養(旧)育するもの」というものもある。そして「家」外での女性の活動を否定して、「家」内での働きこそ女子の本務であるとした。「女子は其の社会の一女として活動するよりは、寧ろ多く家庭の一女子として活動せざる可からず:…・其の妻は温かき感情の手を以て、此(其の夫)を歓迎すべ(卯)き義務を担へり」という主張は、良妻賢母思想として女子の活動場所を「家」内に制限するということを表している。そうした良妻賢母思想を実現する女性には、教育が求め 三良妻賢母思想 法政史学第四十八号
られていた。「女子たるものは、後来の国の母にして、将然の教育者なり、故に少なくも母となり教育者となる資格を備へざるべからず。其の資格を備ふるには、普通高等の(別)教えを受くるべきなり」とされたのである。「婚嫁して、家を治め、子女を教育するにあたりても、教育を受けたも(犯)のと、受けざりしものとは、その間大に差異あるべし」と、無学で無知な妻や母では十分な対応ができないというのである。そして女子を学校に入れるのは、「良妻賢母となりて、(羽)未生の幸福を得せしめむこそ、主なる目的」であることが強調されている。また「勉めて、才知を貯へ善道を知りおかずば、他日美くしき妻とも、賢き母ともなること難かる(肌)べし」と、そのために女子は幼少の頃か、b励まなくてな》bないのであった。また、結婚した場合も、「家内の不和を来すものは、其責主として一家の細君にあり。舅姑頑なるも、なんぞ、子の子たる心を以て事へざる。。:…家庭は畢寛、細君の心次(あ)第にて治まりもすれば、また乱れもするなり」とい.つように、良妻賢母の立場から、夫だけでなく舅姑に仕えることも要求されて、「家」での女性の役割は大きいとされた。もちろん、これは家長としての役割の大きさではなく、
 ̄
○
「家」全体に奉仕するという立場からの責任の重さであった。そして、こうした良妻賢母思想には「先づ、能く家を整め、子女の教育に注意し、夫をして家事に心を労することなく、専ら、其の力を職業に注ぐことを得せしめるにあ(妬)ろ」として、近代社〈玄に普遍的な「夫は外、妻は内」という性別役割分担思想が見られるのである。さらに「良妻にあらざれば、能く一家の平和を保つべからず、賢母にあらざれば、能く俊秀英傑を出だすべからず、国のもとは家なり、其のもとを治むるものは女子な(〃)り」と一一一三うように、良妻賢母思想に基づく女性の働きは、「家」を媒介としながらも、国家や社会に対する結びつきを持つとも指摘されている。こうした主張は、近代国家として初の大規模な対外戦争である日清戦争を経験した後には、さらに明らかになっていった。例えば、「女子教育を隆にし、以て、盛に、良妻、賢母を養成するにあらずば、(羽)いかでか次期に、多数の忠良なる国民を得べき」や「親をして満足せしめ、夫をして内に嫌焉たる所なからしめ、能く子を教育して、国の為賢良なる子女を養成するは、女子(油)の功績にあらずや」という記述が見られる。間接的なが蕾bもこうした女性と国家とを結びつけていく傾向は、より大規模な日露戦争を迎えて、いよいよ大きくなっていった。
日清・日露期の「家」意識(清水) 『女鑑」創刊以来の編集方針も、こうした時代の中で変化を余儀なくされていった。『女鑑』の変化について、入江寿賀子氏は「明治三○年代後半(’一一一年一号以降)には、時代の趨勢を汲んで間口を拡げ、社説で……女性の新しい生き方を論じ、「論説」でも:…・女子の自立、職業、(釦)生活改良、男女交際論等を模索する聿研が続いている」と述べている。しかし、以下に述べるような事実から、この変化の時期は、|三年第一号(一九○三年一月)以降ではなく、もう一年早く一九○二年からであると考えるべきであろう。まず、一九○二年一月一日発行の第二四四号で、「女鑑改良のしらせ」が巻頭に掲げられている。そこでは、これまでの成果を踏まえて「ここに於いていよいよ女鑑の本文を尽さまく来る一月下旬の発行すなはち第二百四十五号より新たに諸大家の寄稿を請ひよきが上にもよきを旨として」と次号からの誌面改良を宣言している。そしてこれ こうして「家」にとじ込められていた良妻賢母思想も、次第に社会や国家と結びつけられていくようになっていった。
四発刊の趣旨からの変化
は、単なる執筆者の拡充ではないことが次の号を見ると明らかになる。編集発行人が川崎直衛から渡辺素一に代わるのが二四七号であるが、実質的な変更がすでに行われていたという可能性もある。とにかく、その第二四五号の巻頭の「女鑑の将来」を見てみよう。「今日に在りては、和魂即ち、日本的徳性と、洋才即ち、欧米的知能を具備ふるにあらざれば、男女に限らず、国家要用の器と為すを得ず」「たとへば、女子教育の如き、七去三従の旧き主義を現時に応用せんとするは、……其の不当なること謂ふに及ばざれど、さればとて、極端なる急進説を、今逮に家庭に学校に実施したらんには、……如何なる状態に立至るべき乎、略(別)想像するに難からざるくし」ここには、時代の変化に対応しようという姿勢がはっきりと打ち出されている。同時期の巌本善治の『女学雑誌」(犯)の「一二従の教。これ亦結構の事である。」という記述と比べて見ると、どちらが「進歩的」な雑誌であったかが分からないほどである。もちろん、『女鑑』の編集方針の時代に対応した変化は、創刊以来の「良妻賢母」路線を捨てたものでない。そ 法政史学第四十八号
の大原則のなかでの、部分的な改良・改革路線である。このことは、翌年新春号の次のメッセージからもうかがい知れる。「妻として守るべき道あり。……母として行うべき道あり。女性がその本分を全ふするは、此の道を踏みて以て、過たざるにあるや、固より諭なきゃ。吾が女鑑が発刊の初より抱負とするところは実に此にあり。今日の主張と難も又之に他ならざるなり。然りと錐も、開明進歩の今日にありて、頑癖固随の見識を以て、女子問題を解決せんとするが如きは、株を守って、兎を(羽)獲んとするの類のみ」このように改良宣言は、もちろん「発刊の趣旨」で明らかにした「良妻賢母」路線をあくまでも守った上での、時代に対応する変化であると述べている。しかし、これは『女鑑』の編集方針の西洋主義への転換であると受け取られかねなかった。事実一部ではそのようなイメージで『女鑑』は見られていたようである。それは、さらに翌年の次の記述によって分かる。「女鑑の主義方針のことなり。或者は女鑑を目するに、純粋なる日本古来の女子道を唱道して、毫も文明の何たるを解せざるものの如くに誤解し、又或人は、 一一一
日本主義より急激なる変化を為し、今は専ら西洋の主義によりて、女子問題を解決せんとする者の如く思惟するものあり」「勿論女鑑は日本在来の貞淑典麗なる女子道を重んずるものなり。されど之を重んずるが故に、之を主義として、日新の今日に於ける万事に処せんと欲するが如き守株迂遠の説を唱ふるものにあらず。……両三年来の社論其他の記事を一読せば、何人(弧)も之を詳知するに難か、bざるさころなるべし」ここでは、『女鑑』の編集方針に対して読者の間に誤解が生じていることを認めている。しかし、それに対して、「良妻賢母」の基本は些かも変わらず、時代に対応するために細部や表面的な部分での変更があるのだと言っている。そして、この三年来の誌面を読めば、それは明らかであるとしている。この「基本は良妻賢母、対応は時代に応じて」という路線で、創刊以来臨んできたこと、そして今後もそれを貫いていくことが、次のように記述されてい
る。「女鑑が創刊の初めに於いては、時勢の趨向と、社会の現状とに鑑みて、盛んに婦徳を唱道し、主として日本在来の主義を振張せんと試みたると、近ごろに至り、又た時勢の進歩と、社会の趨勢に拠りて、西洋婦
日清・日露期の「家」意識(清水) 人の学芸、知識、及び処世の方法等、採って以て我の短所を補ふくきものを選びて、読者の参考に供した(鍋)る」このように時代に応じて、読者のために変化はしているが、その基本は守っているというのが『女鑑』の立場であった。そして続けて、「議論の争ひにあらずして、.…:読者諸子に向かひて、……敢て将来の誌上に於いて、公平(卵)なる判決を仰ぐ」と、この編集方針で〈「後の誌面を作っていく覚悟を述べている。『女鑑』編集者の主観的な評価としては、創刊以来の基本的な立場は変化していないということである。しかし、客観的に見れば、その「良妻賢母」路線の変化は明かである。それは、’一一一一口で言えば、「家」内の良妻賢母から(師)「家」外をも〈己んだ良妻賢母への転換であった。この「発刊の趣旨」からの転換は、誌面を極端に一変するということではなかったが、当然誌面の内容に変化をもたらした。それを次に見ていこう。
『女鑑』の「発刊の趣旨」で語られた良妻賢母思想では、女性は「家」内で夫や子どもに尽くすという役割を負 五女子の職業について
 ̄
一 一 一
わされており、「家」外で女性が仕事をすることは問題外であった。しかし、日清戦争後の産業社会の発展により、中流階級の女性へも就業の機会が増えてきており、それに応じた形で、『女鑑』誌上でも女子の職業についての肯定的な主張が見られるようになった。例えば、「内事を主り、其の余力をもって、自分の地位と、天才とに応じて、或は教師を事とし、或は美術を修め(卵)んことなどを目的となすも妨なかるくし」や「男女同権といふが如きは、吾人は、もとより、可認せず。されど門外の事務、|切、女子に与らせずといふ、東洋古来の陳説…(羽)。:不当の一一一一口にして」という主張である。もちろん、良妻賢母という立場で、女性の役目の第一は「家」に注がれなければならなかった。それを前提とした上での、女子の職業である。しかし、そうであっても女性を一切「家」に押し込めていた規範からの変化である。さらに日露開戦の前年である一九○三年には、社説に次のような主張が載せられた。「独立自営の計を為すものは勿論、婦女本来の道に順ふて、他家に嫁せんとするものと錐も、尚一の職業を択びて、一家経営の資となすの覚悟あるを要するは自(㈹)明の理ならずや」 法政史学第四十八号
「(欧米女子の自助自活を評価し、日本女子を)家に在りては父母の養を受くるを以て足れりとし、嫁しては、その夫にかしづきて、ただ朝夕の世話と、子供を(似)育つるのみを以て能事とせる」「健全なる女子を作らんと欲せば、徳性を酒養して操行を重んぜしむるは、其の第一義なりと雌もまた職業の観念を与へて、婦人と錐も音に悠々内を守るのみを以て能事とすべからざるを教ゆる……一面より観察するときは、女子が或程度内に於いては男子と同じく職(咽)業に従事し得べき」ここでは、女子が「家」において良妻賢母を果たすべきという「発刊の趣旨」から隔たった主張が述べられている。女子の任務が「家」内部のみではなく、積極的に、「家」から出た働きが求められているのである。発刊の趣旨の転換がよく表れている社説である。もはや『女鑑」を儒教的で復古的な雑誌という側面だけでは評価できないであろう。そしてこれは、国家の側にとっても必要なことであった。女子にも職業をすすめるこうした主張は、日露戦争によってますます強まっていく。その理由の一つは、多くの男性が兵士として戦場に赴き、社会に女性の力が必要に
一
四
なってきたからである。また戦争の勝敗が生産力や国民経済といった国家の総合力で決まるようになってくると、女性の力はますます必要になってくる。「当今の教育ある女子諸君は、今少し働いて貰いたいです。……働けば働く丈、其力が現はるるから、其力が凡てに認められ、従って其家其社会が、改善、発達することは、申す迄もないことです。:…・女子が活眼を以て一家の事に注意し、而して或は外に向って職業を採り、或は外出の出来ぬものは内職をして克く働くならば、女子の勢力は旺然として幌起するでありませ(咽)》っ」「女子の独立力……つまり自分一己で立派に子弟を教育して行ける力が無ければなりません……女子は或る程度迄、即ち出来得る点迄は今日の男子の職務を補わ(“)なければなりません」日露戦争が女子の職業進出を進めたもう一つの理由は、夫が戦死した場合、その後の生活をどうするかということがあった。日露戦争の戦死者は日清戦争の比ではなく、軍人未亡人の問題は大きな社会問題となった。理念的にはともかく、都市においては大家族が次第に解体している中、残された寡婦の生活状況は非常に厳しいものがあった。そ
日清・日露期の「家」意識(清水) うした場合に備えなければならないという、次のような意見がよく見られるようになった。「妻として賢母良妻たる許りでなく未亡人となっても独立自営の良母なるべき資格を養成せねばならぬ…:.(そのために)大いに実用的技芸教育の奨励と改善を(帽)計らんとする」「諸君の夫、若くは父兄は何日何時如何なるものの為に奪ひ去らるるやも知るべからず、故に諸君は諸君自身の腕前、働きのよりて一家を支へ児女の教育をなし(㈹)得ざるべからず」「マサカの時には何かの職業に従ひ己れは勿論、小供の一一三人は養ってゆく技量を備へる事が必要。:…□でばかり女権を拡張しても、男女同権を叫んでも、実力のない所に権利のあるふ筈はないのでありまして、……然る可き実力を養った、事実の上に其位地を高む可べきであります。其点より云っても職業は、いよいよ(〃)必要であります」こうした中で、『女鑑」創刊時に賞賛された「女徳」についても「広い意味から云えば、女子の職業といふこと(蛆)も、また女徳の一部と見てよいのである」といった主張が見られる。また、夫に従属するのではなく、女性の自立が
一
五
必要であるという「女子が男子に盲従するは忌むべき事で、……女子たるものは、何事についても、女子のとるべき道を自分で探すのを至当とする。……従ってそれが出来(い)る程に、己が力を発達せしめねばな『bい」という主張がされている。さらに自立心を養うためにも、職業を持つべきであるという考えすら出されている。「女子の職業を以て、生計の為めのみと誤想し居る問は、生計に窮せざる限りは、甘んして職業を求むるものなかる(卯)べし」とい宮つように、職業の目的が生活のためだけであってはならないと述べられている。時代は明らかに変化していた。
日清戦争から日露戦争の時期は、日本が近代国家として体制を整えていった時期であり、産業社会の発展と〈国家をあげての対外戦争に乗り出していった時期である。そうした時代の変化の中で、保守的と言われていた『女鑑』の編集方針ですら、このように転換せざるを得なかった。それは、「家」に女性を閉じこめた形での「良妻賢母」から、「家」の外で社会や国家とも関わる「良妻賢母」への おわりに 法政史学第四十八号
変化である。時代に流れの中で、女性をとりまく「家」意識も、「良妻賢母」を理想としながらも、その内実を見ると、このように変化していったのである。
注本論の『女鑑』は、中点邦監修、大空社発行二九八九年~’九九三年)の復刻版(本編七一巻と「解説・総目次・索引」一巻)を使用。以後、号数のみを書いたものは『女鑑」である。(なお、雑誌『女鑑』の社説欄である「女鑑」欄は、ここでは単に女鑑と記している。)(1)中嶌邦『女鑑』について」(復刻版「女鑑』「解説・総目次・索引」所収)(2)深谷昌志『増補良妻賢母主義の教育』黎明書房一九八一年一五六頁。なお初版発行は、’九六六年で、増補版は基本的には、補章をつけ加えた以外は初版と同じ。(3)三鬼浩子「明治婦人雑誌の軌跡」(近代女性文化史研究会編『婦人雑誌の夜明け』大空社一九八九年所収)(4)入江寿賀子弓女鑑』」(中嶌邦監修『日本の婦人雑誌解説』大空社一九八六年所収)(5)『女子の本分』国光社一八九四年『女子処世論』国光社一八九六年『女子教育要言』国光社一八九七年など(6)女鑑「歳旦の辞」第六号一八九二年一月五日(7)「女鑑改良のしらせ」第二四四号一九○二年一月一 一一ハ
日清・日露期の「家」意識(清水) 曰なお、発行部数に関しては、他にも以下のような記述がある。「号数を重ねること二十九回に及び、一回に数万部を印刷するに至れり」(女鑑「歳暮の辞」第二九号一八九二年一二月一一五日)「本号にかぎり特に数千冊を増刷」(第一一六一一一号一九○一一年一○月二○日)「新年の女鑑は、改良と拡張の実を挙ぐる為め数万部を増刊致します」(第一四年第一三号一九○四年一一一月一日)(8)第一四年第一号一九○四年一月一日(9)雑報「中等教育と新聞雑誌」第一四二号一八九七年一○月五日(なお、この記事は同年九月二○日発行の『茗渓会雑誌』の岩谷氏の論文の一部を転載したものであるとの説明がある。)(調査結果)新聞の部六八万朝報四一読売新聞一一一五朝日新聞三○日本二九都新聞二四中央新聞一一一一一報知新聞二○東京日々新聞一八時事新報一四毎日新聞一○大和新聞六世界の日本六国民新聞四秋田日々新聞四大坂朝日新聞三大坂毎日新聞三官報(以下省略)ママ 雑誌の部一一四女鑑九二少年世界六四太陽一五新声一五少国民一二家庭雑誌一二少年文集一一婦人弘道会雑誌二文芸倶楽九女学雑誌八婦女新聞七女学講義六風俗画報五新小説三婦人衛生会雑(ママ)三若桜三帝国文学(以下省略)ママ(、)女学校の卒業式の報告や、卒業生名簿は、女学校数が非常に増大するまでの時期には毎年出されていた。特に一九○一年には八回にわたって連載している。第二二八号~第一一三五号(u)『女鑑』を引き継いだ中川愛氷は女子新聞社を経営して、そこから『女鑑』を発行すると同時に、日刊の『女子新聞』を発行することを計画していたようである。『女子新聞』創刊は『女鑑』誌上での広告では、当初一九○八年一一月を予定していたが、その後翌年三月に延期された。しかし同時期の『女鑑』廃刊と同時に『女子新聞』も創刊されなかったのではないか。現時点ではその存在は確認できていない。また、中川は『女鑑』第一八年第九号の「本誌持主としての所感」で、自己の経歴として一九○二年夏
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七
法政史学第四十八号 に『女子新聞』という週刊雑誌を発刊、二年して日刊にしたが五旬にして廃刊になったと言っている。しかし、こちらについても確認できていない。前掲の中(3)でもその存在は示されていない。(旧)注(1)と同じ。なお、三輪田学園百年史編集企画委員会編『一一一輪田学園百年史』三輪田学園一九八八年によると、西沢之助は、国粋主義の普及を目指して、一八八八年国光社を設立、雑誌『国光』『女鑑』を刊行。’八九九年良妻賢母主義を理念とする日本女学校を創立した。日本女学校は、その後帝国女子専門学校を経て、相模女子大学になる。(旧)「発刊の趣旨」第一号一八九一年八月八日(u)注(旧)と同じ。(旧)「女子教育論(ご」第一号一八九一年八月八日これも無署名だが、注(1)で西沢之助の執筆と推定されている。(旧)注(旧)と同じ。(Ⅳ)女鑑「女鑑第二百号発刊に際して」第二○○号一九○○年三月一一一日(旧)女鑑「如何にせば良妻たるを得べき」第五九号一八九四年三月一一○日(旧)女鑑「世の諸嬢に望む」第四八号一八九三年一○月五日(卯)論説水本青羅「女性と文学」第九五号一八九五年 一○月五日(Ⅲ)女鑑「母姉の責任」第二八号一八九二年一一一月一五
日(皿)論説細川潤次郎「女子教育の妨害を排す」第二九号一八九一一年一一一月二五日(別)論説三輪田真佐子「女子処世論(八)」第六九号一八九四年八月二八日(別)女鑑「少時の習性」第一八○号一八九九年五月一○
日(妬)女鑑「家庭の栞」第九七号一八九五年一一月五日(閉)論説嘉納治五郎「女子教育に就いて」第二四四号一九○二年一月一日(〃)論説岩下方平「女子の本分」第四一一一号一八九三年七月二○日(別)女鑑「吾人の希望」第一一五号一八九六年八月二○
日(別)女鑑「女子の名声」第一五八□百一八九八年六月五日(釦)注(4)と同じ。(別)女鑑「女鑑の将来」第二四五号一九○二年一月一一○
日(躯)巌本善治「古の女学の粋」(『女学雑誌』第五一七号一九○三年七月一○日所収)なお、複製版『女学雑誌」臨川書店一九八四年による。(胡)女鑑「謹みて読者に告ぐ」第一三年一号一九○一一一年
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日清・日露期の「家」意識(清水) (似)女鑑「女子職業論(中)」(青眼子稿)第 (妬)注(狐)と同じ。(洲)注(別)と同じ。(妬)論説湯本武比古「女子の技芸教育」第一九○三年三月一五日 (“)論叢嘉悦孝子「戦捷と女子商業」第一五年第六号 (蛆)論叢文部省視学官中川謙二郎「女子勢力の発揮」第 (妃)女鑑「女子職業論(下と(青眼子稿)第 (佃)女鑑「女子職業論(上)」(青眼子稿)第 (〃)小山静子『良妻賢母という規範』勁草書房一九九一年小山の一一一一口うところの第一一期から、第三期の再編された良妻賢母思想への変化である。(胡)論説三輪田真佐子「女子処世論(四)」第六一一一号一八九四年五月二○日(胡)論説横井建雄「女子の任務」第九○号一八九五年 (弧)女鑑「改良と拡張」水主青眼稿第一四年三号
七月二○日 ○四年二月
九○五年六月一日 月一日五年第一号 九○三年一一月一五日 九○三年一一月一日 九○三年一月一一○日
九○五年一月一日 年第四号 年第三号 年第二号 日
年第六号
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(別)論叢水主青眼「現代女子の一大急務」第八号一九○三年九月一五日 (伯)雑録福田太 (〃)論叢杉浦政泰「戦後女子の覚悟」第一五年第二号一九○五年二月一日(蛆)学校御園生金太郎「女子の職業教育」第一六年第八 (鮒)論叢九○五年二月一日○七年六月一日 号
九○六年七月一日 兀田作之進「女子の人格」第一五年第二号
「自ら進む力」第一七年第六号
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年第
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