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中国社会における「孝」概念の変遷
改革開放までの「孝」概念の変化を中心に
李露沁
1. はじめに
中国は,4000年以上にもおよぶ長い歴史を持つ国である.そのうち,紀元前 221年から 1911年のおよそ2000年間は封建社会であった.長期間におよぶ封建社会を経た現在の中国 社会においては,春秋時代(紀元前 770~紀元前 476 年)に生まれた儒家思想がいまなお 人々の意識に強い影響を与えている.とくに,漢代(紀元前202~220年)以降の封建社会 の支配的思想であった「三綱五常」の影響は大きい.「三綱」は君主と臣,父親と息子,夫 と妻の関係を指し,前者と後者の上下関係を示している.「五常」は仁,義,礼,智,信と いう5つの道徳の内容を指す1.この「三綱五常」の思想に基づいて封建社会の秩序は成り 立ち,現在に至るまで庶民の生活の隅々まで強い影響を与えている.李(2013)は,現代の 中国人は儒家思想に強調されている他者に対する愛,年配者の尊重,信用の重視などの品性 を受け継ぎ,それらは中国人の価値観と行動様式を構築していると述べている.すなわち,
現代中国は「三綱」に含まれる厳しい等級制度は廃止したものの,道徳規範としての「五常」
を維持していると考えられる.2014年9月24日,習近平国家主席は「記念孔子誕辰2565 周年国際学術研討会暨国際儒学連合会第五届会員大会開幕会」に出席し,中華文化に対する 儒家思想の重要な貢献を肯定した2.このことからも中国社会における儒家思想の強い影響 力を伺い知ることができるだろう.
では,儒家思想は中国家族のあり方にどのような影響を与えているのだろうか.親子関係 に注目すると,前述した「三綱五常」は父親と息子,夫と妻において上下関係を示している が,「三綱五常」に加え,家族関係に影響を及ぼすのは「孝」という概念である.「孝」とい う考え方は,儒家の家族のあり方に関する論説の中心と言っても過言ではなく,儒家思想に おける「孝」概念の家族に対する影響力について,多くの研究者が論証している.たとえば,
何(2013)は,儒家思想の「孝」概念は扶養,尊敬,服従,祭祀に関する規定を通じて封建 時代の親子関係を安定させると分析している.呂(2010)は,儒家思想における「孝」概念 のもとで,家族の中の夫婦関係,親子関係,兄弟関係,嫁姑関係が体系的に成り立ち,家族
1 定義は『新華辞典』による.劉(2011)は,「三綱五常」が漢代に生まれてから様々な波乱 を経験していたが,宋代以降,封建社会の価値観のコア及び政治倫理の原則になったと論じ ている.魏・彭(2014)は宋代の朱熹の論点を用い,「三綱五常」の思想をすべての社会関 係の調和を維持する装置と評価している.
2「 新 華 網 」2014 年 9 月 24 日 報 道 に よ る (2019 年 10 月 23 日 取 得 , http://www.xinhuanet.com/politics/2014-09/24/c_1112612018.htm).
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倫理を構築すると述べている.喩(2015)は「孝」概念に基づく統治,つまり「孝治」の社 会的雰囲気において老親扶養は責任を超え,人間の品格に結びついたので,年配者の生活が 保障されていたと指摘している.つまり,世代間関係と男女の間の序列化などの規定を通じ て儒家思想の「孝」概念は中国家族のあり方を描き出していると言える.それゆえ,中国家 族を論じる際に「孝」概念はきわめて重要である.
では現代においてはどうであろうか.中国人がしばしば利用する電子辞書「百度百科」に おいて,「孝」概念は「両親に対する各種の義務を指す.扶養,尊重,見送りの義務が含ま れる」3という定義がなされている.
本稿の目的は,封建時代から改革開放が始まるまでの「孝」概念の変遷を明らかにするこ とである.そこで,第2節では,儒家思想の大家の「孝」概念に対する解釈をまとめる.第 3節では,儒家思想の「孝」概念が中国の社会に広がってきた過程に着目する.第4節では,
伝統的な文化に対する反省の声が高まっていた民国時代における「孝」概念の変化を描き出 す.第5節では,「文化大革命」における「孝」概念の変化について探究し,最後に第6節 で,2000年以上に渡り「孝」概念がいかに変化したのかについてまとめる.
2. 儒家思想における「孝」概念
儒家思想は家族のあり方についていかに説明しているのか.有名な儒家思想の代表者の 論説から見てみよう.白(2019)は『論語』4の中の「子どもが生まれてから3年の間,親が 子どもを胸に抱き,可愛がる」5,「子どもが病気になる時に親は心配してくれる」6,「親孝 行をする者は物質的に豊かな生活を親に捧げる.それは犬馬もできることであるので,親に 対する尊敬の気持ちがないと,犬馬との区別はない」7という孔子の話を用い,儒家思想の 中の「孝」概念が親世代の養育義務と子世代の扶養義務を強調することを論じている.「孝」
は愛の表現の一つでもある.孔子の「孝」概念は家族愛に基づいて構築されるものであり,
家族愛から引き出されるのは「仁」,つまり,他者に対する愛である.徐(1980),吴(2003), 白(2019)などの多くの儒家思想の研究者は孔子思想の中核を「仁」であると主張する.孟 子は孔子の「仁」の考え方を受け継ぎ,家族以外の人に対する仁愛を主張する.彼の名言,
「自分の親と子どもに気を遣うように社会の年長者と子どもを扱う」8は広く知られている.
吴(2003)は「孟子は親に対する『孝』と君主に対する『忠』を関連付けるものの,『孝』
を優先させる」と述べている.また,孟子は「不孝」について,「『不孝』というのは3種類 あり,その中でも跡継ぎのないのは最も許されないものである」9と論じる.つまり,孟子
3 百度百科, 2013,「孝道文化」(2019年10月19日取得,https://baike.baidu.com/).
4 儒家思想における代表的な作品の一つであり,孔子と彼の弟子の対話と行為の記録である.
5 原文は「子生三年,然後免於懐」であり,『論語・陽貨篇』の中の記述である.
6 原文は「父母為其疾之憂」であり,『論語・陽貨篇』の中の記述である.
7 原文は「今之孝者,是谓能养.至于犬马,皆能有养;不敬,何以别乎」であり,『論語・為 政』の中の言葉である.
8 原文は「老吾老以及人之老,幼吾幼以及人之幼」であり,『孟子·梁惠王上』の中の言葉で ある.
9 原文は「不孝有三,无后为大」であり,『孟子离娄上』の中の言葉である.
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は家族の生殖機能を非常に重視している.性善説の孟子と異なり,性悪説の荀子は,「孝」
概念を更に掘り下げる.荀子によると,「孝」は単なる親,君主を尊敬する気持ちだけでは ない.親,君主が誤る時に何も言わず服従するのは愚かな「孝」でしかない.
また,「封建時代における儒家思想の支配的地位を打ち立てる」(李2010: 24)漢代の董仲 舒は,「三綱」と「五常」の概念を打ち出し,家族ないし国の秩序を規定した.李(2010)
によると,董仲舒は「三綱」と「五常」を天道として位置付け,神学の立場から「三綱」と
「五常」の正当性を強調した.そのため,董仲舒による「孝」概念は親子関係と夫婦関係を 等級制度として定義し,男尊女卑と皇権は覆せない天道であると説明している.しかも,董 仲舒による「孝」概念の最も特徴的なところは,「孝」と「忠」の混同である.前述したよ うに儒家思想における「孝」概念は,家族の血縁関係に基づいて構築されるものので,血縁 関係のない集団には成り立たないはずである.にもかかわらず,当時の統治者たちは,君臣 の関係を父子関係に類比し,「三綱五常」などの論説に支えられる「孝」概念を秩序化する ことを通じて,政権の正当性を確保しようとした.さらに『孝経』を取り上げ説明しよう.
『孝経』というのは秦漢代の間に完成された「孝」概念に基づく倫理思想を述べる儒家思想 の著作である.漢代から封建時代の統治者に非常に重視されていたので,封建時代の「孝」
概念に対する理解はほぼ『孝経』を土台とする.加地は「家族という社会関係における道徳 である孝の中身である敬を媒介にして,孝を中心とする家族道徳の上に,長上者と幼者とい う一般的な社会関係(非血縁の他者との関係)における道徳(悌)を置くことを可能とし,
さらにその上に,君と臣という政治的な社会関係における道徳(忠)を置くことを可能とし ているのである」と述べている(加地 2007: 150).
この「孝」概念に基づく統治方法,すなわち「孝治」が漢代以降の政権に受け継がれてき たので,それ以降の「孝」概念はあまり変化せず,「忠孝」という言葉は現代でも使われて いる.
以上のように,家族愛から生まれた「孝」概念は漢代,すなわち紀元前に完成しており,
様々な儒家の思想者に定義し直されてきた.こうして,儒家思想において「孝」概念が定着 してきた過程を通して,中国家族においては家族関係の等級制度のもとで扶養,養育,生殖 などの機能を担うというあり方が定着してきた.このような儒家思想における「孝」概念は いかに中国家族に浸透していったかについて,次節で説明する.
3. 「孝」概念の広がり
儒家思想が中国の主流な思想になるのは漢代の頃である.徐(1983),李(2010),郭(2011) など多くの研究者はこの点を論証した.徐(1983)は漢代の統治者は『孝経』10の内容を捏 造し,「忠」と「孝」を意図的に混同させたと批判的に捉えている.李(2010)は漢武帝が 董仲舒の意見を採用し,儒家思想を統治の道具として活用していたと述べている.また,郭
(2011)は,董仲舒が思想の多様化は国の安定にとって不利なことと考え,秩序に服従する ことを強調する儒家思想を通じて国民のイデオロギーを統一しようとしたと述べている.
10 「孝」概念に基づく倫理思想を述べる儒家思想の著作である.秦漢代の間に完成され,作
者は不明である.
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解釈はさまざまであるが,封建時代における「孝」概念の広がりは漢代から始まったとある 点はすべて同じである.
(1)官学・私学教育による広がり
「士農工商」という職業序列化の背景のもとで,官僚の社会的地位はきわめて高かった.
趙(2012)が「『孝経』は皇太子,貴族が受けた教育の中の主要な教科書であると同時に,
官学と私学においても『孝経』を使っていた.出世の入場券は教育を通じて『孝』概念と結 びついていた」と述べている(趙2012: 32).漢代は官僚が人材を推薦する「察挙制度」11を 採用していたので,人材選抜において官僚の家族や知人は特権を持つことになり,出世する 人はほぼ官僚の親族であった.そのため,教育を通じて上流階層において「孝」概念の影響 力は強かった.他方,庶民階層における「孝」概念の受け止め方は複雑であった.官学と私 学の中の学生の身分から探究しよう.郭(2011)は『漢書』に記載される官学と私学の授業 状況について,「西漢において『太学』12の在学生の 65.7%庶民階層の人が占め,東漢には
69.4%にのぼった.漢代の教育制度は大いに公平であったかに見えるが,『太学』に通う庶
民階層はあくまで大地主などお金持ちの子どもである.授業の内容は官学と若干相違する ものの,『論語』と『孝経』を中心とするところは同じである」とまとめている(郭 2011:
43-44,84).つまり,私学を通じて「孝」概念が民間に浸透する道は切り開かれていた.た
だし,庶民の中で私学に通う人数は正確に把握できないので,民間の教育を通じて「孝」概 念を受容する可能性について時代背景から見ていく.漢代以降唐代までの間の,三国時代
(220~265年),西晋(265~304年)と隋朝(581~618年)は各々50年に満たない短命の王 朝であり,それ以外の五胡十六国と魏晋南北朝が分裂したものである.すなわち,東漢末か ら唐代までの間,多くの庶民は不安定な生活を送っていた.このような背景のもとで私学に 通う人を庶民の多数派と考えるのは違和感があるだろう.
しかし,このような状況は「世家大族」13の勢力が崩れた後に誕生する中央集権の唐代か ら変わった.換言すれば,漢代に比して,唐代における庶民への教育の浸透は顕著であった.
唐代には『論語』と『孝経』が依然として主要な教科書であった.前述した漢代の「察挙制 度」と異なり,隋朝からの人材選抜は統一の試験,つまり,科挙制度を通じて行なわれてお り,真の人材を探すために出自にこだわらなかった.しかし,宋(2018)は唐代の入学制度 を分析し,「どのような学校がどのような学生を募集するのかについて,明確な等級制度が 備わっている.多くの入学生は官僚の子どもであるので,結局,国立学校は貴族の学校に過 ぎない」と指摘している(宋 2018: 24).しかも,宋(2018)は『新唐書』の記載を取り上 げ,713 年から 741 年までの間の地方の入学人数は合わせて 375人しかいないと述べてい る.つまり,官学を通じて教育を受けた人はごく少数派であると言える.一方,私学の場合 には異なる光景が現れる.季(2011),姚(2015),周(2015)などの研究者は,唐代の後半 において私学が官学を超え,唐代教育の主役を担ったと論じている.季(2011)は唐代の私
11 官僚の推薦を中心とする人材選抜制度である.
12 漢代の最高の教育機構.現代の大学のようなものである.
13 東漢から魏晋南北朝の間に形成された家族の形態の一つである.一般の家族形態と異な り,政治的勢力を握るところがその特徴と言われる.(徐 1992: 195)
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学を「私家授業」,「隠居山林授業」,「私塾」と「寺院授業」に分けている.周(2015)は「寺 院授業」を中心に論じ,静かな寺院は貧困層の学生にとって勉強の良い環境を提供したと述 べている.さらに,周(2015)は,唐代の寺院で勉強し科挙に合格した人数を集計した結果,
80 人が合格したとしている.浪人生と試験を目指さない単純な仏教信者を加算すると,こ の数字は更に大きくなる.前述した地方の官学と比較すると,私学の1種類としての寺院授 業がこのような成果をあげたのは,唐代における私学の影響力の強さを現している.科挙制 度の開放性の下で,私学は庶民階層にとって真の出世の道となる.それゆえ,唐代の教育制 度において出自が官学で重要視されたものの,私学の隆盛により,庶民階層の人は教育を受 けるチャンスが増加した.これを通じて「孝」概念は庶民階層に普及していくことになる.
(2)宗族と家族教育による広がり
漢代の「世家大族」では,家族規模の拡大にともない,家族内部の序列化が進んでいた.
なぜなら,人数が増えるとともに,多くの流民を吸収した「世家大族」は血縁関係を超え,
複雑な権力集団に転換したからである.権力集団には「孝」概念の秩序的役割が役に立つ.
すなわち,「世家大族」の管理層には自分の地位を維持し,家族を安定させるために,「孝」
概念を活用する動機があり,「世家大族」の権力者に「孝」概念が浸透していた.一方,そ もそも地位がない庶民にとって,主人に強いられるのは家族のルールでしかないので,「孝」
概念の広がりは上流階層にとどまった.
その後,家族形態の変化にともない,「孝」概念は体系的に家族成員に浸透するようにな った.唐代半ば以降,土地の所有権は自由に売買できるようになった.徐(1992)と胡(2018)
は,個人の土地所有権が普及するとともに,土地を失った農民たちはやむを得ず血縁関係の ある宗族14に依存することになったと論じている.したがって,宗族は絶えず拡張し,宋代
(960~1279年)にいたると家族形態の主流になった.宗族は,自身の繫栄を維持するため に宗族内部の教育を重視し始めた.胡は「宋代の儒家学者は科挙制度を家族教育と結びつけ,
家族教育の重要性を強調していた」と述べている(胡 2018: 215).徐は,宋代以降の大家族 は家族の塾を設け,7歳から15歳まで子どもをそこで勉強させていたと指摘している(徐 1992: 395).むろん,彼は大家族の規模について明確に定義していないので,この家族内の 塾が普遍的な現象であるか否かは確認できない.しかし,贾(2014)より,宋代からの家族 教育は確かに進んでいたと考えられる.贾(2014)は,『中国叢書総録』に収録される 117 部(明清代のは89部である)の「家訓」を整理し,家族教育の中の道徳教育の内容が主に
「孝」概念であると述べた.科挙への合格を目指すので,家族教育に用いられる書は儒家文 化の著作と推測できる.そのため,家族教育を通じて「孝」概念は幼少期の教育の場にまで 浸透していたといってもよいかもしれない.また,教育を受ける機会がない女性には「孝」
概念を勉強する機会も提供していた.
(3)宗教による広がり
「孝」概念の広がりを検討する際に宗教の役割を看過してはいけない.むろん,中国にお
14 定義は世界大百科事典による.女系を排除した共同祖先から分かれる男系血続のすべて を〈宗族〉といい,〈同族〉〈族党〉〈族人〉などの語も同義である.
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いては多くの宗教が存在しているが,影響力の範囲の広さを考え,仏教を取り上げたい.前 述した「寺院授業」は教育制度であり,仏教の影響力の証でもある.叢(2013)と谢(2014) は唐代を中国での仏教の最盛期と評価している.叢(2013)は,仏教の浸透のルートを上層 から下層へと考えた.宗教による「孝」概念の浸透を検証するために,まずは中国における 仏教の普及の状況を見てみよう.
唐代までの具体的な仏教の信者の数は分からないものの,民間の祭りや寺院の分布など の側面から仏教の影響力が分かる.「浴仏節」15と「中元節」16二つの祭りが唐代に誕生し,
現代まで民間の風習として残されていることを鑑みても,仏教の根強い影響力は明らかで あろう(謝 2014).さらに,寺院の分布を通して仏教の勢力が分かる.高(1986)は,仏教 の建物を「寺院」と「仏塔」に区別し,唐代までにこの二種類の建物は河南,江西,陕西,
南京,湖北,江苏,浙江,广東,上海,福建,山西,四川,北京,西藏などほぼ全国に分布 していたと述べている.南北を問わず多くの仏教の建物があったことから,唐代以降民間に おいて仏教信者が数多くいたことが分かる.
なぜ宗教が民間に浸透してきた過程と「孝」概念の広がりに関係があるのか.季(2011)
は仏教が帯びる世俗排除の性格は儒家思想と対立したが,親孝行を最も重要な慈善とし,人 の罪を償い,よい来世を導く行為と伝えることを通じて「孝」概念との共通点を作ったと述 べている.また,謝(2014)は仏教と儒家思想は形式的に異なるとしても,皇権を固める機 能が同じであると述べる.そのため,唐代においては仏教が上流階層の支持を得た.その後,
仏教の普及にともない,「孝」概念は民間の隅々にまで浸透した.また教育と異なり,宗教 の形で現れる「孝」概念は,庶民階層にとってより容易に受け止められたであろう.
まとめると,「孝」概念の浸透の初期の段階においては,上流階層と庶民階層の差が見ら れる.上流階層にとって,「孝」概念の価値は親子間の扶養関係を超え,社会における秩序 の維持という側面も保持していた.一方,庶民階層は秩序的「孝」概念に支配されていた.
したがって,庶民階層に浸透してきたのは「孝」概念ではなく,「孝」概念に構築された規 範である.その後,教育の普及,とくに私学と家族教育による学生の増加により,「孝」概 念はしだいに庶民階層に広がっていった.宋代以降の封建王朝は,「元」(1271~1368 年)
を除き,すべて200年以上続いている.そのため,相対的に安定した社会環境のもと,「孝」
概念は庶民階層に定着していったと考えられる.このような流れを通じて,「孝」概念は中 国家族に徹底的に浸透し,中国家族に関する研究にとって不可欠な要素になったのである.
4. 近代化と向き合う「孝」概念
先述したように,「孝」概念は中国家族の文化において最も重要な概念になった.贾(2014) は,「孝」概念は家族内の秩序,和睦を維持する役割を果たし,さらに家族内の和睦と国の 和睦を同一視する「家国一体」17の統治思想のもとで堅固な政治的支持を保っていたと評価 している.しかし,近代にいたると,アヘン戦争の敗戦による市場の開放で西洋からの資本
15 釈迦牟尼仏の誕生日のお祝いであり,祖先の祭祀を行う日でもあった.
16 由来は仏様の助けのもとで,目連が母親の亡霊を済度した話しである.
17 国を自分の家と見なす概念である.
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主義が農産業を中心とする中国に流入し始めた.海外の資本によって,多くの農民や自営業 者が破綻し,資本市場の労働力として商業に参加し始めた.人口の流動は後に土地に根ざす 宗族の勢力を弱体化させる要因と見なされる.このような背景のもとで,2000 年以上にお よぶ「孝」概念は最初の危機を迎えた.
(1)「孝」概念に対する批判
民国時代において,多くの知識人は伝統的な「孝」概念を時代に遅れ,国さらに民族の復 興を妨げるものと批判した.近代と向き合う過程において,「孝」概念に対する批判は多く 見られる.彭(2016)は「魯迅が年長者の前では,子どものプライベートはむろん,命さえ 軽視されるという『孝』概念に含まれる残酷性を鋭く指摘した.吴虞は年配者が子世代の人 の人格を尊重するべきと提言した」と論じた.また徐(1992)は,五四運動における「孝」
概念への批判の中心は,儒家思想の「孝」概念のもとで,年長者に代表される目上の人に服 従する奴隷根性が近代中国の改革を妨げているという点にあると説明している.
では,「孝」概念に対する多くの批判に対して,民国の政府はいかに対応していたのか.
李(2014)が取り上げた二つの動きを見てみよう.李(2014)は「袁世凯の北洋政府は,1912 年に『暂行新刑律補充条例』18の中で,『尊長』19が『婢幼』20を殴り,さらに殺害したとし ても無罪と規定した.また,家族の財産はすべて『尊長』に管理され,他の人による経済的 決定は無効と見なした.子どもの婚姻も祖父母,父母に決められ,年配者の同意のない婚姻 を無効にした.1914年に公布した『褒扬条例』21においては,親孝行をする者と貞潔を守る 女性に称揚の扁額を贈与する,とした」と述べている(李2014: 151).さらに李(2014)に よると蔣介石は「保甲制度」22を進めることによって,地方自治と政権の安定に結びつけ,
宗法の作用を肯定した.蔣が書いた『中国之命运』において,中国社会における各層の管理 機構が独自のルールを持つため,封建時代から君主の権力を民間の隅々まで及ばせること はできない.現在,民国政府も,民間の組織の協力を得ないと,農村まで政策が実施しにく いと主張した(2014: 151).
要するに,袁世凯は自らが皇帝となる夢を叶えるために,萌芽したばかりの「科学」と「民 主」の時流に逆らい,封建制度を回復しようとしたのである.彼が主宰した北洋政府のもと では,伝統的な「孝」は揺らぐことなく,さらに称賛されていた.「保甲制度」を実施する ために,宗法を民間の力を効率的に動員するための重要な手段と見なす民国時代の政府に とって,家族間の秩序を消滅させる理由は見つからない.多くの知識人が言及した,伝統的 な「孝」のデメリットを意識するか否かにかかわらず,外国の侵略と国内の分裂の問題に対 処することを優先したのである.「孝」の硬直的側面は多くの批判を浴びたものの,「孝」概
18 袁世凯の北洋政府の時期において実施された,刑法の補充条例.
19 家族の中の年上,或いは,地位が高い人.
20 家族の中の年下,或いは,地位が低い人.
21 国民の模範的な行為を褒める条例である.
22 宋代に生まれた軍事的な戸籍管理制度である.個人ではなく,家庭を管理の単位とする.
10の家庭を一つの「甲」とし,10の「甲」を一つの「保」とする.家庭の管理者は「戸長」,
「甲」の管理者は「甲長」,「保」の管理者は「保長」である.蔣介石はこうした分層管理の 仕組みで社会を安定させようとした.
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念が持つ統治的実用性のため,その支持者は少なくなかったのである.
(2)産業構造の変化がもたらした影響
「孝」概念の動きに関わるもう一つの要因と考えられるのは,産業構造の変容である.中 国経済の発展にともない,民国時代に都市部に移動する人が増えていた.また,戦場への供 給のため,武器,車,医療品,生活用品に対する需要が大きく増加していた.苏(2013)は,
1913年に30人以上の社員を持つ工場は279軒あり,1929年には2,532軒に達したと述べて いる.李(2018)は「1912年から1925年までに太原市を含め,山西省における鉱工業に従 事する人は25.3%増加した.また,1926年の太原市の就職統計データより,農業に従事する
人は1,054人で,工業に従事する人が6,496人,鉱業に従事する人が125人である.言い換
えれば,鉱工業に従事する人が農業の6倍になった」と述べている(李 2018: 48).つまり,
多くの労働者が都市部に流入し,第二次,第三次産業に従事し始めたのである.そのため,
核家族の数は増えていった.欧米諸国で生じた分業による核家族の増加と同じように,中国 における多くの家族は宗族から独立し始めた.さらに1930年の工商部の統計データによる と,江苏,浙江,安徽,山東など28省において,女性の労働者は合計37万人で,労働者総
人数の46.4%を占めているとされる(孙 2008).つまり,近代的な夫婦共働きの家族生活の
形態がしだいに普及していったのである.家計を維持する役割は,年配者から若い世代の夫 婦に移ることになり,「孝」に構築された家族秩序における年配者の絶対的な経済的支配権 は失われてゆく.そのため,この変化を皮切りに,家族の中の他の事柄においても,年配者 の発言権は弱くなった.産業構造の変化は民国の家族の生活形態の変化を導き,「孝」概念 が揺らぎ始めたのである.
(3)教育制度の影響
民国時代において,アヘン戦争」による反省の思潮および西洋文化の影響で,子どもの教 育方針は変化し始めた.国を戦争から救うために,子どもの教育方法を改革し,新しい時代 の需要に相応しい人材を養成しようとしたのである.その実践として,伝統的な家族内教育 を制度化された学校教育に変更させ,学校が家族に取って代わり,主要な教育の役割を果た す近代的な教育モデルが定められた.ここで看過してはならないのは,先進的な科学知識の 獲得を目指す近代教育制度は,伝統的な「孝」概念を揺るがせることである.封建時代にお ける教育は,先代から後代へ知識を伝える単線的な形式であるので,先人,祖先,上の世代 の地位は疑われない.学校に通う人はほぼ上流階級,あるいは大地主の子どもであり,社会 のごく少数である.周(1999)によれば,民国初頭において,西洋系の教育を受けた人は全 体のわずか3%であった.庶民の中では,知識の伝達はほぼ家族内で済む.しかし,近代の 学校教育制度はこのような形式を打破し,社会的教育資源を統合し,最新の知識を一斉に伝 える.もはや学校教育を受けるのは上流階層の特権ではない.王(2004)は,辛亥革命(1911
~1912 年)以降の臨時政府が「学校系統令」を公布し,初等教育の中の4年の初級段階を 義務教育と定め,中国初の義務教育の制度化を行ったと説明している.ゆえに,子どもは学 校,新聞,雑誌,本を通じて,上の世代の知識範囲を遥かに超えたものを習得し,祖先崇拝 から科学崇拝に転換し始めた.伝統的な「孝」概念に定められた年長者への絶対的な服従は,
知識の差から見れば,ますます理不尽になってきた.
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しかしながら,当時の状況を考えると,このような教育改革の影響力はあくまでも弱かっ た.小学校の入学率から見てみよう.呉(1955)によると,1941から1942年において,全 国の小学校入学者数はすべての学齢に達した子どもの7%にも満たない.1945 年日中戦争 が終わるまでにこの数字は上昇したものの,28%でしかない.しかも,1949 年中華人民共 和国が成立するまで,中国の識字率は20%に満たない.言い換えれば,民国時代において,
教育の普及は実現できていなかった.その主要な原因は資金投入の不足と考えられる.王
(2004)は民国の財政について,「1913から1919年までに戦争に投入した費用はすべての 支出の27%から44%に達した一方,『岁出预算上之军费限制论』の計算によれば,この時期 に政府が投入した教育の費用はきわめて少なかった.1916年には2.7%で,それ以外の時で も1%にも満たなかった.徐沧水は,『現在中国における明確な人口統計がないが,もし孫 中山の四億人で計算すれば,一人当たりの教育支出は0.015元しかない』と嘆じた」と述べ ている(王 2004: 33-4).
要するに,新しい思潮が出現したものの,教育を普及させる制度が実現できなかったので,
本や雑誌を読める人は依然として少なかった.このような背景のもとに,新聞や雑誌を通じ て国民に新しい理念を伝えることはできるわけがないだろう.教育の普及が実現できなか ったので,教育の主要な担い手は依然として家族であった.伝統的な「孝」の観念は家庭内 の教育を通じて,引き継がれていたのである.
(4)社会保障制度の影響
民国にいたるまで,扶養の役割はほぼ家族が果たしていた.中国における最初の社会保障 の思想は,戦時に海外の宗教の流入にともない生じたものである.この時期,外国の侵略と 自然災害のため,障害者,孤児,経済力のない未亡人や高齢者の数が急増していた.その際 に,西洋からきた宣教者によって,慈善の名の下に「安老院」,「孤老院」が設立され始めた.
それを皮切りに,社会的弱者の面倒を見る救済施設がしだいに現れてきた.
新しい思潮のもとに,孫中山,康有為などの有名な知識人は,社会保険制度に対する新し い考えを打ち出した.陳(2010)は,孫の考えの中核を「老者有所養,壮者有所営,幼者有 所教」(高齢者の扶養,若者の就職,子どもの教育を保障することである)と説明し,康は 各種の救済施設で社会保険制度を実現することを期待し,貧困,障害,高齢,孤児,流民に 対して,専門的な施設の必要性を強調していたと述べている.これらのことより,民国時代 における扶養問題は全て救済問題に内包されていたことがわかる.
陳(2010)は,1928年に公布された「各地方救済院規則」を取り上げ,「養老院」の救済 対象を60歳以上かつ労働力のない人と説明している.張(2011)は,1915年に制定された
「游民习艺所章程」の中では,労働力を持っているが就職に必要な知識と技能のない人に,
最低限の食糧と生活用品を提供し,新しい職業技能を育成することを図ろうとしていたと 述べている.しかし,そこから労働力を持つ高齢者はほぼ排除された.ゆえに,1943 年に 公布された「社会救济法」において,収容の対象の範囲が拡大され,高齢者に職業技能を習 得するチャンスが与えられた(陳 2010).
では,前述した各種の救済施設は実際にどの程度役に立っていたのだろうか.救済の管理 に関する汚職事件の記載から,それが推測できる.王(2012)が取り上げた1932年8月12 日の「大公報」と「四川省誌・民政誌」の記述を見てみよう.「大公報」によると,皖北の
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救済事務の管理者である全绍武は運輸局の管理者である楊数誠と結託し,麦粉を高く売り,
25万元を獲得した.「四川省誌・民政誌」の記述によれば,1939年から1942年まで,「重慶 市臨時乞丐収容所」に収容された人の死亡率は,3%から31.3%に急増した.後の政府の調 査により,その原因は院長である劉建章が収容所の生活費を横領したためであった.引きも 切らない民国政府内部の汚職事件を通じて,社会保険制度はうまく実施されなかったこと が分かる.むろん,内包される扶養政策も高齢者の保障となれなかった.老後の生活の保障 となる社会保険制度が欠如していたので,「孝」概念に基づいて構築された「長上(年長者)
本位」の家族文化は高齢者にとって非常に重要であったため,「孝」概念を支持する力は依 然として強かった.
要約すると,民国において,新しい思潮が改革の旗を掲げていたが,社会の各種制度の整 備が十分でなかったので,多数の中国人にとって,「孝」概念の支配的地位は維持されてい たのである.
5. 毛沢東時代における「孝」概念
近代と向き合う過程を「孝」概念が経験した初めての危機とするならば,毛沢東時代はさ らなる猛烈な打撃と言っても過言ではない.国民党との内戦に勝利したものの,共産党内部 の分裂が表面化していた.政治,経済,教育における路線闘争23において,毛沢東は人民の 力の恐ろしさを充分に活用し,自身の政治的利益を守っていた.本節では,毛沢東時代にお いて,「孝」概念を揺るがせた社会的要因を整理していく.
(1)政治的闘争
1958年から 1962年までに,旧ソ連の影響を受けた毛沢東は「赶英超美」,すなわち,15 年をかけてアメリカとイギリスの工業の生産力を超えようという経済計画を打ち出した.
そのために全国の力を投入し,工業の生産力の指標としての鋼を大量に生産するという「大 躍進」政策24が登場した.しかし,このような現実と背離した経済計画は,短期間のうちに 大規模な災難をもたらした.旧ソ連の技術援助を失った上に,「大躍進」政策による農産物 の急減が生じ,その結果,2,000万人を超える餓死者を出すという大惨事が,毛沢東の主張 した経済発展の路線に大きな衝撃を与えた.菅沼(1970)は毛沢東が自分の政策の誤りを反 省している最中に,劉少奇の右翼勢力が台頭したので,自分に不利な状況を抑制するために
「文化大革命」を発動したと論じている.
1)家族における階級対立
「孝」概念が「封建制度」の代表的思想として政治的攻撃に遭った際に,家族さえ階級闘 争の場になった.父母がブルジョア階級と認定されれば,子どもが自ら父母を批判し,自身 のプロレタリアの立場を示さなければならなかった.何(2013)は,ある「文化大革命」に 参加していた当事者の言葉を取り上げ,「若者たちが親や親族などを検挙する行動は毛沢東
23 共産党内部で生じた権力闘争、異なる主張をめぐる論争.
24 1958年から1961年にかけて行なわれた工業と農業の大増産を目指す政策.
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に代表される左翼勢力に称賛されていた.しかし,これらの行動を通じて,若者たちの観念 は大きく歪曲された.親のすべての躾は反革命的なものであり,このような反革命思想を持 つ人が自分を教育する資格はない.つまり,親の話は全部封建的な旧思想であり,毛沢東の 思想のみが新時代の正解である」と記している(何 2013: 250).皮肉なのは,党に対する忠 実な行動と見なされた「文化大革命」時期における多くの検挙運動の背後に潜んでいたのは,
第一節で検討した「忠孝」の観念であることだ.「孝」は「忠」の前提であるので,「孝」を 否定すると「忠」の置き場もなくなるだろう.「文化大革命」時期においては,このような
「忠」と「孝」の倫理関係は無視され,「孝」概念が帯びる封建的統治の道具としての側面 のみを強調し,批判していたのである.
2)宗族への批判
紅衛兵25による動乱を通じて,「孝」概念に関する制度や文化的象徴は今までにない衝撃 を受けていた.たとえば,宋代から続く宗族家族の象徴としての系図,祠堂,族畑はほぼ絶 滅された.族畑と祠堂は公有財産として没収され,それにともない宗族制度を支えてきた経 済的支柱が崩れた.王(2006)は当時の「土地改革法」26によると,祠堂は農民協会など公 的政府の仕事スペースとして使われ,「文化大革命」のピーク時において,少数の残された 祠堂も紅衛兵に破壊されたと述べている.また,彼女によると,族畑の場合,苏南20個県 において私有の768165.05アールの土地が311.22アールに急減した(王 2006).毛沢東は,
民国時代の知識人が抱いていた,宗族制度を個人と国を断絶させ,国家あるいは党の統一を 妨げると見なす考え方を引き継いだ.民国時代から毛沢東時代まで,宗族制度への批判は変 わらず厳しかった.異なる点は,毛による「文化大革命」の影響力は庶民階層にまで届いた ことである.
(2)男女平等の確立
1953 年中華人民共和国の初めての選挙法,すなわち『中華人民共和国全国人民代表大会 及各級人民代表大会選挙法」の中で民族,性別,出自,職業,宗教,学歴,財力などを問わ ず,すべての中華人民共和国の国民は有権者であるということが規定された.また,1954年 に公布された『中華人民共和国憲法」により,男女平等は法律的に確立された.男女平等と いう観念は中国社会の隅々まで浸透し,伝統的な「孝」概念はさらに衝撃を受けることにな る.
1)婚姻における自由
まずは婚姻における自由から見てみよう.1950 年に「中華人民共和国婚姻法」が公布さ れた.小野(1978)は,この婚姻法を結婚の自由,離婚の自由および未亡人の再婚の自由と いう三つの権利を保証する制度と評価した.女性の結婚,離婚,再婚に関する自主権が法律 的に保障されたのである.封建的な婚姻において個人の意思は排除され,「孝」概念のもと
25 「文化大革命」に参加していた群衆集団の成員を指している.
26 1947年に公布され,1950年から実施した法律である.地主などのブルジョア階級を倒し,
土地を農民に帰すことを目的とした.
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で,財産と家柄を重視する家族の年配者にコントロールされていた.それと異なり,婚姻法 は婚姻における個人の意思を最も強調した.つまり,青年たちは「孝」を念頭に置き,たと え本音に相反するとしても,親あるいは家族の年配者の意思にしたがい結婚,離婚する旧時 代の婚姻の定式を捨て去ることができたのである.しかも,民国時代と違い,「一夫一妻」
制度の確立により,妾は正式に禁止された.
2)教育を受ける権利
男女平等という基本国策の確立にともない,女性の社会参加も企てられた.しかし,その 前に女性の識字率を高めないとこの目標は実現しにくい.女性のみならず,先述した「百度 百科」によると、中華人民共和国が成立した時点において全国の文盲率は高く、約80%であ った27.この状況を改善するために,男女を問わず全国規模の文盲退治運動が行われていた.
能智(1959)は「あらゆる工場から農村のすみずみにいたるまで,識字班をつくり,あるい は業余学校,冬期学校(農閑期の)などをもうけて,字を知っているものはしらない者にお しえる.小学校の子どもは家で両親やお爺さんお婆さんの小先生になる.というぐあいで,
ありとあらゆる機会と方法を捕まえて文盲退治にとりくんだ」と,当時の状況を描いている
(能智 1959: 189-90).能智(1959)は,政府の発表によると1959年に文盲はほぼいなくな ったと述べている.むろん,政府が宣伝したように実際の状況が,改善されたのかどうか確 かめられないが,その後の女性の労働参加のデータを通じて,文盲退治の成果が多少は見ら れる.また,多賀(1955)は,1949年から1950年までのわずか1年の間に,小学校の数は 約30万から44万に達し,通学の児童は約2,000万人から3,700万人に増加し,就学率が著 しく増えたので女児の就学増加も目立つと述べている.
3)就職の権利
「女の能力は天の半分を支えることができる」というスローガンのもとに,毛沢東は女性 を重要な社会生産力として各々の仕事に参加させていた.中華人民共和国が成立してから,
女性の就職率はしだいに増加してきた.徐(2006)は,1952年から1978年までの女性の就 職率について,1952年の女性の就職率は11.2%であったが,「文化大革命」直前の1965年に
21.8%に達し,1978年には32.9%にのぼった,としている.徐(2006)は「1966年から1976
年までの女性就職の資料はないが,1978 年のデータから見れば,女性の就職は中華人民共 和国が成立してからのおよそ30 年の間に,増加してきたはず」とも述べている(徐 2006:
15).王(2015)によると,1959年までにおよそ90%の農村部の女性が農業生産に参加して おり,都市部に就職していた女性の数は1949年の60万人から1960年の1008.7万人に達し た.しかも,韓(2014)は1957年まで過半数の町長,あるいは副町長は女性であり,都市 部における町内会の幹部は80%以上が女性であったと述べている.徐(2006)は,計画経済 時期において,多くの女性は製錬所,運輸会社など男性的な領域に入ったので,「女子高空 带点作業班」,「三八掘進隊」などの女性による専門的な作業グループがよく見られると論じ ている.しかも,女性の生産力を保障するために,計画経済において多くの国営企業には保 育園や幼稚園が設置され,子育てにおける不安を和らげる機能を果たしていた.邸(1961)
27 百度百科, 2019,「掃盲運動」(2020年2月5日取得,https://baike.baidu.com/).
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は,山西省,山東省,福建省の例を取り上げ,保育園の営みについて,「保育園は24時間営 業するので,いつでも子どもを預け,迎えることができる.また,1958年から,子どもの服 を取り繕うこと,入浴,病気などのことは全て保育園で行われ始めた.この便利な施設があ るため,会社の90%の女性の職員は子どもを持ち,安心して仕事に参加している」と述べて いる(邸 1961: 22-3).また羅(1959)は,公共食堂や保育園などの施設を通じて,女性は 徹底的に家から解放された上に,個人は家庭という生産単位から脱出することが可能とな ったと述べている.
つまり,男女平等という政策方針の確立にともない,多くの中国女性は家から解放され,
婚姻の自由を獲得した上に,社会的生産力として積極的に仕事に参加し始めた.「孝」概念 に基づく「三綱」に含まれる夫婦間の上下関係は,女性の経済力が上昇するにつれて弱まっ ていく.集団主義,あるいは,男女を問わずすべては国の生産力と見なされていた時代には,
子育てにおいても国の力は大きく役に立っていた.子育てなどの家族機能の社会化に伴い,
「孝」概念に基づいて規定された家族成員の役割が変化し,家族関係もそれとともに変わり 始めた.
要約すると,共産党内部の政治的闘争において毛沢東に代表された左翼の勢力は,自分の 立場の正当性を強調するため,「孝」概念を含む封建的思想を激しく批判し,異議を持つ人 に「反革命」のラベリングを行った.国民の支持を求め,「文化大革命」運動を発動し,家 族における階級闘争と宗族への攻撃を起こした.また,男女平等の確立により,女性は婚姻 の自由,教育を受ける権利,就職の権利を得た.これにより従来の伝統的家族文化における 女性の「内的」属性が転覆し,老若男女を問わず,個人の役割が家族の成員から集団の成員 に転換し,家族制度は強い衝撃を受けたのである.
6.おわりに
ここで,封建時代から改革開放までの「孝」概念の変遷を整理していこう.紀元前770年 の春秋時代に生まれた儒家思想は孔子,孟子,荀子などの儒家の思想家により,その内容が 洗練されてきた.「孝治」という統治方法は漢代以降の封建時代に一貫して用いられてきた ので,「孝」の支配的地位が保障されていたといっても過言ではないほど揺るぎないものと なった.「孝」概念の広がりについては,封建時代には政治の場のみならず,庶民の生活に 浸透し,中国家族文化の中核になったことは確認された.
しかし,近代化と向き合うプロセスにおいて,「孝」概念は老朽化した時代遅れと見なさ れ,それを改善すべきか,それともやめるべきかという議論が知識人の間で生じ,これらの 論争は民国以降も続いていた.民国時期には,「孝」概念に対する批判が生じていたものの,
政治的現実,教育制度と社会保障制度の未整備,産業構造の変化による核家族の増加などの 要因により,一般国民の生活において大きな変化は起こらず,多くの知識人の主張は議論の レベルのみにとどまっていた.
「孝」概念への批判が庶民階層の内に広がるのは,毛沢東時代における男女平等の確立と,
「文化大革命」期間における紅衛兵の動乱という社会的環境の変化の下においてである.
「文化大革命」運動において「孝」概念は封建制度の産物として,今までにない激しい攻撃 を受けることになった.この10年間は,「孝」概念はほぼ失われたように見える.
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しかし,本稿の冒頭で取り上げた,習近平国家主席が儒家思想を評価している点と,「文 化大革命」が「内乱」と定義されていることから,中国は依然として儒家思想の流れをくむ 社会であると言えよう.「孝」概念については,桑原(1977)は「孝道は中国の国本で,又 その国粋である.ゆえに,中国を対象とする研究には,まずその孝道を闡明理会せなければ ならぬ」と述べている(桑原 1977: 9).また,梁(1949)は「中国の文化は孝の文化である」
と論じている(梁1949:258).
このように,「孝」概念は二度の危機を経験したものの,現代中国において,その価値が 認められていると考えられる.現代中国社会において,「孝」概念は中華文化のエッセンス として認められる一方,「一人っ子」政策のもと,年老いた親の扶養をどこまで引き受けら れるのかという問題に直面している.とくに改革開放後の中国社会は短期間の間に大きな 経済発展を成し遂げたものの,社会福祉制度は未だに不十分である.介護施設,保険制度,
介護の人材の養成は未熟であるので,年配者を扶養することにおいて家族が依然として主 要な役割を果たしている.しかも,胡湛(2015)は改革開放以降の福祉制度がほぼ個人の職 業に基づいて作られ,家族成員の間でシェアすることができないので,多くの場合には家族 が排除され,国家と個人の間の直接的な供給関係のみが保障されていると述べている.つま り,現在の政策環境下では,老親扶養は「一人っ子」世代にとってかなりの重荷となるので ある.
改革開放以降,「精神文明建設」の名のもとに「孝」概念を含む伝統的な中華文化は復活 してきたが,時代の変遷に伴い,中国家族のあり方は変化しつつある.社会的秩序の基盤と して機能していた「孝」概念は「一人っ子」世代にとって何であろうか.守るべき国本であ り文化なのか,それとも捨てられない重荷なのか.答えは未知である.現代の中国人はいか に「孝」概念を受け止めるのか,あるいは,担いきれない老親の扶養問題のために「孝」概 念を捨て去るのか,今後さらに研究を深める必要がある.
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