一、序
王維が裴
とともに、
川 の景
を詠じた「
この「 川集」。 川集」を、王維の他の韻文作品から際立たせている
以は、二十首
作であること、そして二十首それぞれに裴 同詠が付けられていることである。
と信仰に 川の地で詩畫の創作 んだ王維にとって、この作品は特別な感が
られたものにちがいない。一方裴 め は、まさにこの「
しかしながら、この裴 もまた格別の作品と言えるだろう。 によって己が詩名を文學史に留めているわけで、彼にとって 川集」
同詠を
維詩の 讀して感ずることは、王 倣に る。同一の「詩語」を多用したり、同一乃至は 始している作品が極めて多いということであ
似の事柄を 詠ったりすることが多い。このような
言える裴 倣に墮した稚拙とも あろうか。本稿では、今までやや等閑 の詩を、なぜ王維は自らの詩と組み合わせたので
裴 されてきた感のある 同詠について考察してみたい。
二、裴
同詠における王維詩の
倣
まず、裴
同詠が王維の詩をどのように
確 倣しているのか、
しておきたい。以下、裴
同詠の王詩
倣例を
體 見ていくことにする。なお、・・ に の の詩句の ・承・轉・結はそ 王維:仄徑蔭宮槐・ 、、 「宮槐陌」 (1)同一の詩語を用いる例 在を示す。
・裴
:門 宮槐
・陌
・
「 川集」に關する二三の問題(上)
裴
同詠はなぜ稚拙か
田
一
「臨湖亭」王維:當軒
對樽酒・轉・裴
:當軒
・彌滉漾
「南 ・
王維:北 」
・承・裴
:波殊
「宮槐陌」で、王維が「仄徑宮槐 漫・結・ るにもかかわらず、裴 に蔭はる」と詠んでい おほ
は る窓の方を向く)」を、裴 んでいる。また、「臨湖亭」では王詩の「當軒(軒に當た 句に詩題の「宮槐陌」を詠みこ がそのまま用いており、「南
では王維が「 」
」と詠うと、すかさず「
裴 漫」と詠っている。
同詠には、別の景
王維:吹簫凌極浦 ある。 を詠った王詩の詩語を用いる例も
・(「欹湖」
裴 ・)
: 聲喧極浦
(「欒家
」・
「極浦」は『楚辭』「九歌・湘君」に「 ・)
陽兮極浦、
江兮揚靈( 大
陽の極浦を
めば、大江に
と見える。この 」たはりて靈を揚かす) かがや
で用いる詩語である。 きみぎわを表す詩語「極浦」は王維が好ん に王詩における用例を
坎坎 げる。
鼓、魚山之下。吹洞簫、
極浦
(「魚山 。 女祠歌
幾 曲」) 兮極浦
、
徘徊兮
暉。(「雙
鵠歌
別」) 惆悵極浦
外、迢遞孤
出。(「和使君五
西樓 高 思歸」) 眺 日、極浦
映
山。(「登河北
日ごろから王維に學んでいた裴 樓作」) は、「欒家
同一ないしは(2) ろうか。 いて、王維の好む詩語を知らず識らずのうちに用いたのであ 」同詠にお
「孟 似の事柄・題材を詠う例
王維:新家 」
孟
裴 來復爲誰、空悲昔人有。 、古木余衰柳。
:結廬
古
下、時登古
古 上。
非疇昔、今人自來
。 句では、兩とも古
り、また後 の址に家を建てたことを詠ってお
!部分ではいずれも、古
址に立って時
に想いをはせている。ただ、王維は後 "の流れ と爲す、空しく悲しむ昔人の有」と去來今の重 !で、「來は復た誰
#$な感懷を
%べているのに對して、裴
は單純な事實を
る。これについては、入谷仙介 %べるのみであ
&士の『王維
指摘があるので詳 '究』に同樣の (1)
王維:偶寄一 「漆園」 %しない。
(官、婆娑數枝樹。・轉・結・ 中國詩文論叢第二十三集
裴
:今日漆園
、 同 兩詩とも、漆園における氣ままなひとときを、 叟樂。・轉・結・
王維:空山 「鹿柴」 方にたとえている。 子の生き
不見人、但聞人語
。・
裴 ・承・
:日夕見山
、便爲獨
客。・ 配から詠い いずれも、「空山」「山」と、ひとけの無い寂しい山の氣 ・承・
こす點で共
している。裴
承句で、 字まで王維の眞似をして使うという徹底ぶり。ただ、王維が はさらに「見」の 裴 覺から聽覺へと感覺の集中を移行させているが、
は「便ち獨
の客と爲る」と詠い、
板な展開に
ている。王維の詩に、「獨 わっ 客」は一つ、「獨
素是獨 れぞれ用例がある。 (2) 」は二つ、そ 客
、
冠
(「同廬拾 彌敦。
游 韋給事東山別業二十韻給事首春休沐維已陪 乎是行亦預聞命會無車馬不果斯
興來 」)
獨 、
事空自知。(「
南別業」)
山景氣佳、獨
『 惆悵。(「留別崔興宗」) 子』在宥篇に「出入六合、
乎九州、獨
(六合に出入し、九州に獨有 獨來、是謂 び、獨
獨來するを、是れ獨有と謂 」とあり、また謝靈ふ)
の「入 子崗是
「且申獨 源第三谷」に 意、乘 弄潺湲(且らく獨
の意を申べ、
」とある。潺湲を弄ぶ) に乘じて 子や謝靈
のあたりをふまえて用いているのであろう。「同廬拾 を好んでいた王維は、こ
事東山別業二十韻」は王維が右拾 韋給 時代の作である。よって 川集同詠制作時に、裴
くはあるまい。なお裴 がこの詩を學んでいた可能性も低
「いても獨 は「鹿柴」以外に、「金屑泉」にお 事 汲(獨
「木 を用いていることを付記しておく。 に汲むを事とす)」とこの詩語 王維:秋山斂余照、飛鳥 柴」
逐
侶。〈
裴 ・承〉
:
日時、鳥聲
亂溪水。〈
王維:倒影 「柳浪」 ・承〉
入
!〈承〉裴
:映池
同一色〈
「欒家 〉
王維:淺淺 "」
裴石溜瀉〈承〉
:
"聲
喧極浦〈
いずれの詩においても王維が詠んだ題材(すなわち「木 〉
柴」では
日と鳥、「柳浪」では池の水面に映る影、「欒家
水 "」では のだろうかと思われるほどである。 #をそのまま詠じている。他に詠むべき題材は無かった)
「
川集」に關する二三の問題(上)(
$田)
17
(3)同一ないしは
王維:湖上一 「欹湖」 似の表現・發想を用いる例
廻首、山
裴 卷白雲。・轉・結・ :艤舟一 長嘯、四面來
王維:木末 「辛夷塢」 風。・轉・結・ 裴 、山中發紅萼・・承・
:況有辛夷
、色與
「欹湖」では、「一(ひとたび)」という共 亂・轉・結・
舟の上での行動を詠い、結句では兩 の表現を用いて 有樣を とも、その時の自然の 寫する。「辛夷塢」では、兩詩ともモクレンの
を の に喩えるという發想において共
「北 する。
王維:逶 」
南川水、明滅
裴 林端。・轉・結・ : 王維は「逶 欲采樵去、扁舟出菰蒲。・轉・結・ たり南川の水、明滅す
て流れる 林の端」と、くねっ 水が 々とした林のかなたに見え隱れする
詠う。すると裴 樣子を
は、すかさず「
コモの生えた水ぎわからひょっこり 菰蒲を出づ」と、たきぎを刈りにゆく小舟が、マし、扁舟 に樵を采りに去かんと欲 つねゆ
顏を出した
兩詩の後 樣子を詠う。
部分は、
覺 な面白さや對象の一
の動きを捉 えるという表現方法において共
「竹里 している。
王維:深林人不知 」
、明
裴 來相照・轉・結・
:出入惟山鳥
、幽深無世人
ず」の單純な言い換えである。また、竹里 裴詩の「幽深にして世人無し」は、王詩の「深林人知ら ・轉・結・
を訪れるのは人
以外のもの(王詩では「明
るという發想・表現の だけであ」、裴詩では「山鳥」)
似が見られ、ここでも裴
發想を が王詩の
(4)「 倣していることは明らかである。
川集」以外の王維の詩句を
王維:澗 倣した例 襲人衣
、山
映石壁(「
田山石門
裴 舍」)
:雲光 履跡、山
拂人衣
(「
「雲光 子崗」・轉・結・)
履跡」は「山
映石壁」を、「山
拂人衣」は「澗
王詩では 襲人衣」を、それぞれ踏まえて作られたものと考えられる。
光が石の壁を照らしているが、裴詩では雲
の 漏れ出る陽光が足跡を照らしっている。また王詩では谷川 から
の香りが衣
!に染み
"むさまを、裴詩では山の
が衣 (の氣)
人の衣 !を蔽うさまを、それぞれ詠っているが、自然の植物が
!に
#ぼす作用に
$眼している點で一
この同詠では、王維が %する。 (3)
子崗から見た
&景や
子崗を散策 中國詩文論叢第二十三集
する心 を詠んでいるのに對して、裴
は家に 回想を詠じている。珍しく王詩の鸚鵡 ってからの は しになっていないの 王維:隨意春 目すべき點であろう。
歇、王孫自可留
裴 )(「山居秋瞑」
:堤春
合、王孫自留翫
王維の「隨意春 (「辛夷塢」)
の「王孫 歇、王孫自可留」は『楚辭』「招隱士」
兮不歸、春
生兮萋萋(王孫
びて歸らず、春
生じて萋萋たり)」をふまえていよう。では裴
の「堤春
「留」氣になるのは、の字である。裴 樣に『楚辭』「招隱士」をふまえたものとも考えられようが、 合し、王孫自ら留まり翫ぶ」はどうか。勿論、王維と同
の「自可留」を の「自留翫」は王維 倣したものかもしれぬ。とするならば、裴 は王維を
して『楚辭』の句を取り入れていることになる。
三、裴
同詠に對する
價
本稿ではこれまで裴
同詠を 査して、裴詩は王詩の
に 倣
始しているものであると確
できた。さらに、その
倣
の
度合は
常な
ものではない
、と客
に 法に譬えれば、臨書ではなく雙鉤填 斷されよう。書 ではなぜ裴 のようなものである。
は、これほどまでに王維の詩をなぞらねばなら なかったのだろうか。それは、少なくとも
「
勿論、 ていたからだと言わざるを得ない。 作時において、自己の創意に據る作品を生み出す能力に缺け 川集」同詠制 どの作品を創ることができるのであれば、それはそれで立 倣と言っても、王維の詩風を眞似て、眞を亂すほ
な詩人と言えるだろう。だが、殘念ながら裴
同詠は表面
な單純
倣に
わっている。
人はこの「
うに 王詩」をどのよ 南宋・馬端臨の『文獻 價していたのであろうか。
考』卷二三一には「嘗與裴
各二十 同賦
句。集中又有與
書。……(中略)……余
人有飄然獨 讀之。使 之興。
(嘗て裴 詩亦佳。然它無聞於世。蓋亦高人也 と同に各おの二十の ともおの
句を賦す。集中に又た
の書有り。……(中略)……余 に與ふる に之を讀む。人をして飄然獨 つね
興有らしむ。 の
。」とある。蓋し亦た高人なり) の詩亦た佳なり。然れども它世に聞こゆる無し。
目すべきは、「
它無聞於世」の部分である。裴 詩亦佳。然 ているのに、世(どうしたものか) の詩も王維と同樣よくでき と、「思うに、裴 でいる。直後の「蓋亦高人」をその疑念と關係付けて考える で騷がれない、と訝しん 人であったので(その作品は俗耳に入りにくいので)あろう」 もまた王維と同樣に高(世俗を超越した)
「
川集」に關する二三の問題(上)(田)
19
と言っているようにもとれる。しかし、
體 南宋の劉須溪はその『 られていない。 には何も觸れ
王右丞集』で、裴
の「孟
同詠を「未爲不佳、相去甚 」 ひ去ること甚だ (未だ佳ならずと爲さざれど、相
(一鍋の盡一鍋羹羹を壞し盡くす)」と あつもの 。」とし、「椒園」同詠については「壞し)
一方、王維を している。
崇した
の王士
は、
らない作品を自作とあわせるはずがない、という思い 大なる王維がつま
らか、『 みか
人 首 句
』凡例において「
王裴
工力悉敵。劉須溪有意抑裴、謬論也( 川唱和、
の王・裴の
と劉 。」工・力悉く敵ふ。劉須溪意有りて裴を抑ふるは、謬論なり) ことごとつりあ 川唱和、
いま試みに を否定している。
人の詩から三
を んで げたが、
裴詩への言 人の
の多くは
體性を缺いており、
最 批の範圍を越えていないようである。 然とした印象 の王維
究家の價はどうであろうか。入谷
維 士『王
究』第十三章「
川」では、「裴
のでは裴 たる力量が缺けていた」ため、「王維とまともに比較された には一本立ちの詩人 が氣の毒」であるとする。そして「裴
は「フィクション性の未熟さ」であり、「 の幼稚さ」
川集」のいくつ かの作品では、「王維の作が
く幻想であるのに對し、裴
の作は現實
にふくらませることができなかったために、現實 」で、「イマジネーションを王維のように豐富
王・裴の優劣を詳細に檢討した論文に、師長泰「 與えるに至った」と指摘している。 な印象を 筆を多用し、裴詩は實寫に「王詩は 博鮒師氏はがある。」熟比裴五王、・川集蝙・博做无 (4) 做有盡
!って」おり、「王維は
"
#な想像の助けを借りて、景物の
裴 の境界を明らかに示すことに長じていた」とする。そして、 $韻を表現し、・・ 同詠には見られない、王維の「
川集」の
"
#特
「實を結びつける %は、
"
#表現技法を
する。この分析結果は、入谷 &用した」點であると
士の指摘とほぼ一
入谷 'している。
士や師長泰氏の指摘するように、裴
の詩は
"
#
想像力を缺いた、現實をそのまま
てよいだろう。どう見ても王士 (寫するような作品と言っ では、裴 悉く敵ふ」ような代物ではないのである。 の言う、王維の作と「工力
の同詠には、
色も個性も見られないのであろうか。 く取柄がないのであろうか。特 中國詩文論叢第二十三集
四、裴
同詠の特色について
ここで「
川集」裴
「北 考えてみたい。 同詠にみられる特色や個性について
王維:北 」
湖水北
、雜樹映朱
・
裴 ・承・
:南山北
下
・、結宇臨欹湖
・承・
句では、兩
とも北
「 の地理況を詠う。ただ、王維が 川集」において地理
況を詠うのはこの「北
みである。一方、裴 」詩の は他の同詠においても、景物・景
の位置關係や地理況を 地 文杏 明することがある。
王維文杏栽爲梁文杏栽ちて梁と爲し香
結爲宇香
去作人 不知棟裏雲知らず棟裏の雲 結んで宇と爲す 雨去って人
裴 の雨と作るかを
迢迢
文杏
迢迢たり文杏
躋攀
南嶺與北湖南嶺と北湖と 日已屡躋り攀ぼること日に已に屡しばなり しば
看又廻
に看又た廻
裴 す
同詠の「迢迢」「躋攀」という詩語によって、文杏
が高い場
維の「不知棟裏雲、去作人 に建てられたものとわかる。そこではじめて、王
杏 ではない、より確かなものとなるわけである。さらには、文 雨」という表現も、決して誇張
が南嶺と北湖の
に存在するという位置關係も
位置關係への言 明する。
の中で、
筋を ので 寫した表現も見られる に 門 げておきたい。
宮槐陌、是向欹湖
一逕 )(「宮槐陌」
山路
、行歌
岑(「斤竹嶺」)
聲喧極浦、沿
向南津
(「欒家
さて、 」)
川 で身
や限られた心友・
友と んだ王維ではあるが、「 !を樂し 三 川集」の各詩を作るにあたって、第 (不特定多數の鑑賞
と推測される。また、廣壯な )の存在は、當然念頭にあったもの も、 川であるから、當時であって の
"況に知悉している人
そこで必 は少なかったであろう。
#となってくるのは、いわば
案 る。裴 役の存在であ の 案
によって、「
よりスムーズに 川集」を味讀する我々は、
を 王・裴の詩を仔細に比較檢討していくと、裴 $むことができるわけである。
が王維の詩
「
川集」に關する二三の問題(上)(
田)
21
の 容を、補足ないしは
見られる。裴 明しているように思われる部分が の詩によって、王維の詩の抽象
な部分が
然とする場合もある。「茱萸
結實紅且 」で王維はこう詠う。
實を結んで紅にして且つ
復如更開復たの更に開くがごとし山中儻留客山中儻し客を留めんとすれば置此茱萸杯此の茱萸の杯を置かん茱萸が色とりどりの實をつけ、まるでが
であることを いたかのよう ふれていない。一方、裴 寫するが、茱萸の生えている岸邊の樣子には
は 布 飄香亂椒桂飄香椒桂亂れ のように詠う。
檀欒
を布きて檀欒に
森沈 雲日雖廻照雲日廻照すと雖も はる 自
森沈として
ほ自から
茱萸 し
く には茱萸だけでなく竹も生えているようであり、深 った邊りでは、日が射しても
仄徑蔭宮槐仄徑宮槐に蔭はれ 「宮槐陌」で王維は る。 い樣子がこの詩からわか 幽陰多
苔幽陰
應門但 苔多し
應門但だ
畏有山 するは 來山
と詠んだ。後 の來る有るを畏れしならん 部分では、門番が山寺の
侶の來訪を
って 除をしている樣子が詠われている。一方、裴
同詠の後
二句。秋來山雨多秋來山雨多く
無人
人の
この二句を讀んで初めて、門番があわてて ふ無し
き ばならぬほど、雨を含んだ夥しい めなけれ 積もっている樣子をイメージできるのである。王維と裴 が手付かずのまま散り
詩が美しく の
入谷 きあうのを我々はここに感ずることができよう。
士は『王維
究』において「裴
に存在するのか」という疑問について、兩 の同詠は何のため せることによって、 の詩を組み合わ 川 の現實を生かしたまま理想
というねらいがあったと考え、それは、「 する とも眞摯な友 !家としてのもっ
"と、最高度の
#$さの それが、はじめから兩 %&」であるとする。
些か疑問であるが、結果 によって企圖されたものなのかは、
まれたことは に幻想と現實が融合する詩集が生
'いない。 中國詩文論叢第二十三集
王維が抽象
・ 念 裴 世界を詠う傾向にあるのに對して、
は 川の景
のありさまを、より
體
・個別
傾向にあるといえよう。 に詠う
である。そして、その傾向は、 の師長泰氏言うところの「實寫」
というより、當時の裴 らくは意圖したものである このように、裴 はなかろうか。 の創作水準のしからしむるところで の「
川集」同詠には、結果
に
詩と相呼應し補完 王維の
役 王維の を果たすような佳作もある。しかし、
倣に 始しているものの、
「 拙な印象を受ける作品が多いことも事實である。では、この 倣しきれていない、稚 川集」同詠に見られる
見られる特 倣性・補完性は、他の作品にも なのであろうか。裴
あろうか。 の詩はどれも稚拙なので
五、 「
川集」以外の裴
同詠の文學
水準
に、王維の作品に裴
や他の人々の同詠が
ていき、「 う作例をみ 川集」同詠にみられる裴詩の特
かを考察したい。まず、「 が表れている げる。この詩は、王維が王昌齡・弟王縉・裴 龍寺曇壁上人兄院集」をとりあ
を
上人の山院に參詣した折の作品である。 って曇壁 高處敞招堤高處招堤敞く しょうだいひろ 王維
空 有倪
空
下聽秦 坐して看る坐看南陌騎南陌の騎 ぞ倪つこと有らん なんわか
下りて聽く秦
の
渺渺孤烟
渺渺として孤烟
り 樹齊
として
樹齊し 山 井外
山
井の外 日五陵西
心空安可 眼界今無染眼界今染無し 日五陵の西 心は空なれば安 いづくんぞ
ふべけん
同詠王縉林中空寂舍林中空寂の舍階下
南山階下
廻看六合 高臥一牀上高臥す一牀の上 南山
廻看す六合の
雲幾處滅
飛鳥何時 雲幾處か滅ゆる き
飛鳥何れの時か
問義天人接義を問へば天人接し る
「
川集」に關する二三の問題(上)(田)
23
無心世界閑心を無にすれば世界閑なり誰知大隱客誰か知らん大隱の客の兄弟自 攀兄弟自ら
ひ攀づるを よ
同詠王昌齡本來
淨
本來
淨の
竹樹引幽陰竹樹幽陰を引く簷外含山
簷外山
人 を含み
出世心人
圓 世心を出づ
無有象圓
象有ること無く
境不能
靈 天香自然會天香自然に會し 何妨友弟深何ぞ友弟の深きを妨げん 眞是我兄法眞に是れ我が兄の法 境す能はず 識鐘
靈
鐘 に識る
同詠裴
靈境信爲
靈境信 まことに
自然 法堂出塵氛法堂塵氛を出づ たり 高
自然高
を
し 向下看
雲下に向かひて
逶 雲を看る
峰岫列逶
林端 參差として參差閭井分閭井分かる として峰岫列なり つら
見林端
えん
ちよう見 あらはれ風末疎鐘聞風末疎鐘聞こゆ我師久禪寂我が師久しく禪寂し在世超人群世に在りて人群を超えたり
まず、三人の同詠について
も、大筋で王維の詩の流れをふまえる。王維が 單に見ていきたい。各詩人と
寺院の 頭の二句で 聞く秦 えば第三・四句で、王維が「坐して見る南陌の騎、下りて 境を詠うと、他の詩人たちもそれに倣っている。例 の 」と俗界を見下ろすと、裴
は「自然高
を
し、下に向かいて
縉も「高臥す一牀の上、迴看す六合の 雲を看る」と下方を見下ろす。王
たりを見回している。第五句~第八句では、王維と裴 」と山院からあ
が
景
寫をするが、王昌齡は第五~第八句で「圓
」「
といった佛 境」
五・六句で 用語を用いながら上人を稱えている。王縉は第 王昌齡も王縉も佛 景を詠い、第七・八句では曇壁上人を稱える。
思想に基づいて、この四句を詠んでいる。 中國詩文論叢第二十三集
末二句で、王維は己の心境・境地を詠う。これは、王維の佛 詩によく見られる特
會し、靈 である。王昌齡の「天香自然に (5)
鐘 詠じているのであろう。裴 に識る」も、山院で自らが感得したものを
を用いて上人を禮贊して締め括っている。 は心境を詠わず、「禪寂」の語
である。「誰知大隱 目すべきは王縉 あなたでも、おわかりではなかったでしょう、市井に隱れ 客、兄弟自攀」さしもの優れた
む「大隱」の我々兄弟が、あなたの
を てこようとは。兄王維が、市井に って、こうして登っ いながら三界から超越している「維 んで俗衣を身にまとって ていることから、特に「大隱」の語を用いたのであろう。 (6) 詰」を目指して修行し
經『
箋 王右丞詩集』では、「謂右丞(右丞を謂ふ)」と 慢ともとられかねない表現である。後に宰相にまで榮 自分も「大隱」であると自任しているとも解釋でき、やや傲 して、「大隱」を王維に限定する。だが、兄王維とともに
ことになる人 する 三 の、矜持の高さを窺わせるものである。
の詠みぶりを見ると、いずれも王詩の展開を
王昌齡は佛 がらも、それぞれの個性が反映された作品であると言える。 倣しな
その詩に人柄が滲み出ており、ひとつの風格を備えている。 用語を多用している點が指摘できよう。王縉は さて
に、裴
たい。この同詠には、明らかに王維の影 同詠を、詩語や表現方法の點から考えてみ
が を受けている表現
められる。まず、
頭二句「靈境
信爲
、法堂出塵
は、王維 氛」
年の作「桃源行」の「不疑靈境
聞見、塵
思 心未盡
縣(靈境の聞見し
きを疑はざるも、塵心未だ盡きずして
縣を思ふ)」を想
させる。王維の「桃源行」は、原
年十九」と記されている(時に年十九なり) に「時 裴 書きであるから、
がその詩句を
倣した可能性は低くない。
に、第五~第七句「逶
峰岫列~林端
見」は、王維の「
!川集」北
"の「逶
南川水、明滅
#林端
(逶
川の水、明滅す たり南
#」との林の端)
$似性を
にこの作品が「 %く感じさせる。假
!川集」以後のものであるとするならば、
のような推測も
&り立つであろう。裴
は「逶
と詠じたところで、王維の「北 峰岫列……」
"」の一
て「林端 'を思い出し、續け 見(
くにある〔
が また、第八句「風末疎鐘聞」は王維流の表現である。王維 が林の端にちらりと見える)」と詠んだのではないかと。 (壁の上に建てめぐらした垣〕
!川で詠んだと思われる三首に「疎鐘(
に く鐘)」の を聞く
唯有白雲外、疎鐘 )寫が見られる。
聞夜猿
「
!川集」に關する二三の問題(上)(
*田)
25
(「酬 部蘇員外
谷口疎鐘 田別業不見留之作」)
(「歸動、漁樵稍欲稀
川作」) 燈坐高
、秋雨聞疎鐘
(「黎拾
裴 見 王維が この三首は、その制作年代をはっきりと特定できないが、 秋雨對雨之作」) 川の地で「疎鐘」を聞くことを好んで
第九句の「禪寂」は佛 ことは確かである。 寫している
「坐禪」と同義である。『無量義經』 用語で、靜かに瞑想すること。
行品に「其心禪寂
在三昧(其の心は禪寂にして、常に三昧に在り)」、『維 、常
品に「一心禪寂 經』方便
、攝
亂意(一心禪寂して、
もろもろの亂意を攝 をさむ)」とそれぞれ見える。「禪寂」の語も、王維 愛染日已 る。 年の作に一例あ 、禪寂
この裴 日已固(「偶然作」其三) (7)
同詠の中で佛
る。王維の影 用語はこの「禪寂」一語のみであ を多分に受けた身であれば、佛
の
いても 義につ
おいて、佛 陶を受けていた可能性が高い。しかし、この同詠に
思想に根ざした
一つの疑問點として 容があまり見られないのは、
意しておく必
末句の上人を稱える「在世超人群(人 があろう。
界にありながらも 「人 」という表現は、王昌齡の(その心は)人から超越している)
の心を 出世心(この山院は人の世にあるけれど、ここに來ると名利 」とする心地がする)
「 をふまえているのだろう。 似した表現であり、昌齡の句 龍寺」詩の裴
同詠では、王維の
また王維好みの詩語を用いている箇 同行した王昌齡の詩句を言い換えたりする表現が見られた。 作をふまえたり、
ここで も見受けられた。ただ
目すべきは、「
川集」同詠とは
の單純な なり、王維の詩
倣・なぞりがく
見られ
ない
「ことであろう。
川集」同詠に見られる單純な
かり影をひそめている。「 倣や補完性は、ここではすっ 同じ人物による作品とも思われぬほどである。この 川集」同詠と比較してみると、
た差 !然とし
は、詩人の
"しい か。とすると、この詩は「 #$の跡と見てよいのではあるまい 川集」以後の作と看做すのが
%
當ではないだろうか。
&に王維が弟王縉・盧象・裴
とともに
ねた折の作品と三人の同詠を見てみることにする。 弟の崔興宗を訪
與盧員外象
崔處士興宗林亭 中國詩文論叢第二十三集
盧員外象と崔處士興宗の林亭に
る王維
樹重陰蓋四鄰
樹重陰四鄰を蓋ひ
苔日厚自無塵
白眼看他世上人白眼看他す世上の人 科頭箕踞長松下科頭箕踞す長松の下 苔日びに厚く自から塵無し
同詠盧象映竹時聞轉轆轤竹に映じて時に轆轤の轉ずるを聞き當窓只見
蜘蛛窓に當りて只だ蜘蛛の
するを見る
人非病常高臥
人病に非ずして常に高臥す
堵蒙籠一老儒
堵蒙籠す一老儒
同詠王縉身名不問十年余身名問はざること十年の余老大誰能更讀書老大誰か能く更に書を讀まん林中獨
鄰家酒林中獨り
門外時聞長車門外時に聞く長の車 む鄰家の酒
同詠裴
喬柯門裏自
陰喬柯門裏自から陰を
し 榮寵從來非我心榮寵從來我が心に非ず 逍遙且喜從吾事逍遙且喜吾が事に從ひ しやき 散髮窓中曽不簪散髮窓中曽て簪せず
三人の同詠いずれも王維の詩に倣って對句が用いられている。王維の詩と王縉同詠は後對格、盧象同詠は
て裴 對格、そし
同詠は 俗世や俗利に超然として自由に生きる 對格の詩である。王維以下みな、崔處士の、
を稱えた
ことで共 容である
している。
に、裴 の同詠について詳しく見てゆく。「喬柯門裏自 陰、散髮窓中曽不簪」門の中には高い木の枝が
く訓讀するならば、「柯を門裏に喬くして自から陰を 簪をつけたこともない。これは對句であり、敢えて對句らし 自然と木陰ができている。崔處士は俗世を離れ、いままで冠 り、
「白眼」の語があり、崔處士を阮 髮を窓中に散じて曽て簪せず」となろう。王詩には「箕踞」 し、
よって裴 になぞらえていると解る。
は王詩をまね、『晉書』阮
そらく『後 それではし、「窓中」がピンとこない。「散髮窓中」は、お ふまえて「散髮窓中」と詠っているかに一見思われる。しか 傳の「散髮箕踞」を
書』卷四十五の袁
傳をふまえているのであろ
「
川集」に關する二三の問題(上)(
田)
27
う。袁
は、後
末に黨錮の
を け、死ぬまで土室に あなぐら
だ隱 ん
。袁 傳には
熹末、黨事將作、 のようにある。
散髮
世
不宜 、欲投迹森林。以母老
遁。乃
土室、四
於庭、不爲
、自 飮 已。旦於室中東向拜母、母思 而 、時 就 掩閉、兄弟妻子莫得見也。…(中略)…潛身十八年 。母去、便自
、
巾 、攻
郡縣、百姓
散、
誦經
不移。
相
其閭、 語不入
人就 、皆得
(熹の末、黨事將に作らんとするや、 。年五十七、卒於土室。
世を に髮を散じて て、迹を森林に投ぜんと欲す。母老いたるを以て へだ
るるを宜しとせず。乃ち土室を く遁
き、庭に四
し、
を爲らず、
より飮
を 母 るるのみ。旦に室中に於て東に向きて母を拜す。 あした
を思ひ、時に
き就きて
と十八年、 し、兄弟妻子見るを得る莫きなり。…(中略)…身を潛むるこ る。母去りて、便ち自ら掩閉 巾の
こり、攻めて郡縣を
し、百姓
散ずるも、 き 經を誦して移らず。
相ひ に入らず。 し語りて其の閭 人 に就きて
を け、皆な
く 土室に隱れ り。年五十七にして、土室に卒す。) るるを得た んだ袁
「 は、入り口のを設けずに、ただ 」から飮 まど
物を土室の中へ取り
!んだ。母が來ると(
ごしに)會い、母が歸ると自分でその
も會わなかったという。裴 を閉じ、兄弟妻子と
"同詠に「窓
詠にも「當窓 中」とあり、盧象同
只見
ているのは、崔處士を、窓しかない土室に #蜘蛛」とある。「窓」をことさらに用い
んだ袁
らえているからであろう。さらに、盧象の句「 になぞ
$堵蒙籠
儒」や王縉同詠の「老大誰能更讀書 一老
」「林中獨
また、 %鄰家酒」も
巾の亂が
きても獨り經書を誦し、土室に籠って
&
げようとしなかった袁
王詩では阮 を彷彿とさせる表現である。
'の故事をふまえるが、袁
い。裴 傳はふまえていな 不簪」と詠んだのであろう。裴詩 (8) "は、おそらく盧象の同詠を參考にして「散髮窓中曽
()の對句は、同行
裴 詠に見劣りしない整然とした印象を與える。 の同
"同詠の後
心」こうしてきままに )部分。「逍遙且喜從吾事、榮寵從來非我
したい事ができる。君(だから仕官して) *らすと、喜ばしいことに自分の
うなどとは、いまだかつて考えたことが無い。 +から寵愛を受けよ いて後 ()二句に續 )も對句。ただ、「從
と吾事」「從
重複し、「吾 來」で「從」字が
我事」に「
や未熟さを露 を對應させるといった點で、心」や
,している。しかし
對格の
たことには、意義深いものがあろう。 句を作ろうとし 中國詩文論叢第二十三集
本來、
句は流動感や余韻を表現するのに
る。 した詩型であ の流動感を阻 句の中で對句を用いると、バランスがとれすぎて、そ
じっと しかねない。ところがここでは、十年以上も
竹林の中に
かな瑕疵があるものの、この同詠もまた、「 安定感のある對句を用いて何ら問題はないわけである。わず らし續けている崔處士を詠じているので、
文學水準とは 川集」同詠の くなるものと言えるのではあるまいか。
六、 「
川集」
立時の裴
裴
は「
懸命に 川集」同詠を制作するにあたって、王維の詩を ところが、「 倣したものの、稚拙な作品を竝べるしかなかった。
龍寺」詩や「
おいては、これが同一人物の作品かと思わせるほどの飛 崔處士興宗林亭」詩の同詠に
を げたものと考えられる。人は
すれば、日々
長し
するものである。しかし、その
長の度合いも、
では大きな 年と中年
いがある。
ければ
いほど、知識を
質量は大きく 收する 度も たい裴 そこで氣になることは、それぞれの同詠を制作した時、いっ いわけである。
は何 裴 であったのか、ということである。
の生年や出自については、いまだ定
を見ない。裴
の生年を開元四年(七一六)とする
がある。例えば、
『王維 申
究上』には、「據『 (9)
詩品彙』、裴
『詩佛王維 於開元四年、卒年無考。」とある。しかし、楊文雄(七一六) 是關中人。生 究 (
』が指摘するように、 )
行の『
は裴 詩品彙』に 不明である。假にこの の生年は記されていないし、開元四年生とする根據が
に從うならば、裴
は王維より十七
も年少となる(生年六九九年
入谷仙介・伊 。の場合)
正文兩氏は、『
の洗馬裴氏の項に見える任の尉・裴回の長男 書』宰相世系表(卷七一上)
をこの裴
と考える (
。王維の作品に、裴回の !)
"誌銘「故任縣尉裴府君
"誌銘」があることもその證左としている。伊
維はその生涯を 氏は、「王 して、血
#・地 た」とし、王維が裴 #を特に重んじた人であっ と交友した背景には地
るとする。王維と裴 #關係が存在す の深い交友關係を考えると、この
蓋然性は高いものと言わざるを得ない。假に裴 の 年(七四三)正 が、天寶二
$に三十九
ると、裴 で死去した裴回の子であるとす
は王維よりも二十
以上年少
では「 となる。
龍寺」詩同詠の制作時、裴
は何 たのか。陳鐵民『王維集校 ぐらいであっ
%』では、「
年ごろの作とする。だが裴 龍寺」詩を天寶二 が裴回の子と假定するならば、
「
川集」に關する二三の問題(上)(
&田)
29
裴 五ヶ は父の死去によって、天寶二年よりあしかけ三年(二十 )の喪に
したであろう。いくら寺院とは言え、父の
去した年に「
龍寺」を訪れたとは考え
の「經行之後、趺坐而閑。升堂梵筵、餌客香 い。王維の序文 。不而
不風而 覽、
客に餌するは香 涼(經行の後、趺坐して閑なり。堂に升れば梵筵あり、
。たずして
覽し、風ふかずして
には、知人を失った悲しみやその 涼なり)」 兒を とは って參詣する無常 く無 の心境が表現されている。他の同詠や裴
の同詠にも、 本人
悼の氣分は
傅 くない。
「王昌齡事迹考略 (
」では、江 )
たかはわからないとする。また、昌齡が龍標尉に左 天寶二年か三年の春ごろに長安にいたが、どのくらい滯在し 丞であった王昌齡は
れ以後數年の のは、最も早くて天寶二年か天寶三載の秋で、おそらくはそ された の秋であると見る。ひとまず傅
測する。「 に從って推 龍寺」詩制作時期は、裴
の父の喪があけて以 、王昌齡の龍標左
以 時に裴と推測されよう。四五~七四六) であるから、天寶四載~五載(七
、十代
ばから後
の少年である。
の、「
龍寺」裴
同詠において、佛
思想に根ざした
こで氷解する。制作時の年齡を考慮すれば、佛 容がなせ詠われないのかという疑問もこ
理に對す る。 る理解がまだ淺いであろうことは容易に推測されるからであ
集校 に「崔處士興宗林亭」詩同詠の制作時期。陳鐵民『王維
()』では、天寶八、九載(七四九~七五〇)ごろと考證する。『後
!書』袁
"傳をふまえつつ、
しい 對格の
をものしており、王維の #句
$倣も無いことから、「
さて、裴 以後の作とするのが穩當なところであろう。 龍寺」詩 の「
同詠は、「 龍寺」詩同詠および「崔處士興宗林亭」
ことはさきほど確 %川集」同詠の作詩水準を明らかに上回っている
&した 'りである。とすると、「
を、「 %川集」
のは、甚だ不自然である。とするならば、裴 龍寺」詩や「崔處士興宗林亭」詩以後の作品とする
が「
同詠を制作したのは、十代 %川集」
から
作品に ばごろとなるであろう。
()
*想像力が乏しく、稚拙で、王維の
$倣に 裴 ているのも當然であろう。 +止し
は王維の文學を
$倣しながら詩作に
方の王維は裴 ,-していた、一
に對して深い愛
.を いだ。裴
人裴回の子であるならば、王維は當然その子を應 が王維の友 ろうし、裴回 /したであ
0き後は、裴
を立 1に
2人させ、科
させようとしたであろう。「山中與裴秀才 3に登第
書」では「天機 中國詩文論叢第二十三集
明 」と襃め上げ、科
に失敗したのか不滿げな裴
「 には、
酒與君君自
……不如高臥且加餐」(「
酒與裴
」)と
ます。そして、く離れた裴
には「日日泉水頭、常
手……復歎分襟、相憶今如此、相思深不深」(「 同携 裴 」)と、
憶と感傷を
王維は、ある時期確かに裴 めつつ馳念しているのである。
と 川の景
を し、語りあったはずである。ところが、「 り、詩を賦 る人物といえば、目に見えぬ「來 川集」に登場す (未來の
川 の 有
(「孟 )」 や「人語」)
詩中の作 」である。(欹湖)」(友人)や「夫君(宮槐陌)(門番)の「應門 景人物點であり、」(こだま)(鹿柴)
と交流するのは、聲を發しない「上客(立
(臨湖亭)ぐらいのもの。ともに 」な客)
する裴
あるが、それは「辛夷塢」のみならず、「 われないのだ。「辛夷塢」に「寂無人」と(寂として人無し) はどこにも現 川集」
體を
じて言えることで、人の氣配が無いに等しい。なぜ、そのようなことが
「 こりうるのか。それは、王維が 川集」において「
川
を現實から
された幻想
世界として な
()」しようとしたからなのかもしれない。だが、もっと現實
な話として、當時の裴
は
!"のごとく十代
!
#から
#ばの少年であって、王維と二十
$以上の年齡差があっ の二人に詩人同士の交流が果たして た。王維からみれば、子供のような存在であったわけで、こ
だ疑問である。王詩において兩 %り立ったかどうか、甚 の交 に筆が 王維の「山中與裴秀才 尤もなことではないだろうか &ばないのも、
書(山中より裴秀才
の一 」に與ふるの書)
足下方 'にこうある。
(經、猥不敢相煩。輒便
)山中憩感配寺、與山
* +訖而去。北
,玄 -、 .映郭、夜登
/子岡、
與 水淪漣。
.上下、
0山火、明滅林外。深巷
春墟夜舂、復與踈鍾相 0犬、吠聲如豹、
昔、携手賦詩、 1。此時獨坐、童僕靜默。多思曩 2仄逕、臨
流也 (
(足下方に經を まさ 。 3)
(へば、猥りに敢へて相ひ煩らわさず。輒便 ならすなは
ち山中に
)きて感配寺に憩ひ、山
*と かた玄 +ひ訖はりて去る。北の くら -を ,れば、
.
郭に映じ、夜
/子岡に登れば、
水は淪漣たり。
.と與に上下すれば、
滅す。深巷の 0山の火は、林外に明 と相ひ 0犬、吠聲豹のごとく、春墟の夜舂、復た踈鍾 昔曩、手を携えて詩を賦し、仄逕を むかし 1る。此の時獨坐するに、童僕は靜默す。多く思ふは まじ
2み、
「足下方 り。) 流に臨みしことな (經」とあるので、この時、予備試驗の
4試に合
「
川集」に關する二三の問題(上)(
5田)
31
格して「秀才」と呼ばれていた裴
は、科
して經書の の本試驗を目指
「仄逕」は 中なのであろう。
らく宮槐陌、
ち欹湖に向う
川集」は「北 川集」では「仄逕宮槐陌……」と詠われている。「明滅林外」 であろう。「 の「明滅
林端」を想
「多思曩昔、携手賦詩、 させる。そして 仄逕、臨
川の 流也」とあり、かつて じみと を樂しみ、共に詩を詠じあったことを王維がしみ
憶し、また裴
な印象を與える。この表現から、「川集」 にも思い出させようとしているよう
「山中與裴秀才 立は、この 書」
立以
ろう。「曩昔」がどれほど以 であると考えるのが自然であ
を言うのか
「多思」とあるので、少し以 しいところだが、
る。 のことではないものと思われ の裴
集」は裴 同詠の水準比較とあわせて考察するに、「川 の 試合格以
、おそらくは十代
のが穩當なところではあるまいか。さらに、裴 ばごろとみる 維の指 同詠は、王 のもとで作られた「
ではなぜ王維はその 。できよう 作」と見ることが(エチュード) の中に入れたのであろうか。王維が裴詩の水準を 作二十首を、同詠として「川集」
識できな いはずはない。裴
の年齡や科
受驗という當時の
え合わせれば、その疑問は解けるように思われる。王維は 況を考
年の裴
の詩
名聲を高め、ゆくゆくは科
としたのであろう。五言 に合格させよう 尤工五言詩。獨 味があってのことであろう。『冊府元龜』に「王維有俊才、 句という形式を用いたのも特に意 有りて、尤も五言詩に工なり。當時に獨 於當時、染翰之後、人皆諷誦(王維俊才
誦す)。」とあるように、當時、王維の五言詩はとりわけ し、染翰の後、人皆な諷
意とし、會 である。無名の詩人を江湖へ紹介しようとすれば、自らも得 が高く、詩を作ればたちどころに人々の口の端に上ったよう 價
「川集」に無名詩人裴 聲價の高い形式を用いるのは當然であろう。
の同詠を入れたことは、裴
引き立てようとする、王維の を
!體 るのではないか。科 行爲と看做すことができ 受驗ともなれば、事
にその詩
載される を高めておくことは、有效な手段であったろう。王維集に收 名聲 書きの「
"秦始皇
品は、宋本に見える原 #」「題友人雲母障子」の二作
$から王維十五
王維は自らの受驗經驗に基づき、十代 %の作と考えられる。
ばの裴
の作品を
&
路の人々に紹介したものと思われる。王維は裴
が自作を
'
倣することを
め、一方、裴
は王維の詩をなぞることで世 中國詩文論叢第二十三集
に出ようとしてのであろう。傳統を重んじる中國では、亞流たることは必ずしも非價値を意味しない。まして、すでに詩名の高かった王維の亞流であれば、それは充分に賞贊の對象となり得たはずである。後代、同詠を
した劉須溪も、裴 の年齡を知れば、必ずや
贊したに
いない。
七、結語
なぜ、「
川集」裴
同詠は、王詩の極度な
ているのか。なぜこれほど稚拙な詩を王維は「 倣に始し れたのか。それは、この同詠が裴 川集」に入 の
年に王維の指
で作られた の下
時期の年齡によるものであり、その文學水準をもって詩人裴 作だからであろう。作品の稚拙さは、その制作 を 王維が裴 價すべきではない。
の將來を考え、
會 ・文學
に庇 ことは、殆ど疑問の余地がない。自詠と裴 していた せ、さらに「序」までつけて「 同詠を組み合わ は、裴 川集」という體裁にしたの の詩名を高めようと意圖したからであると
よう。「 斷され 川集」の
立はその
體 が 行爲であったと見るの 當であろう。王維も
長安での名聲を 年の頃、貴顯の引き立てによって した。
らく王維は、
き裴
にかつての 自分の
王維の願いが當時どれだけ を見ていたのであろう。
る。しかし事實として、この されたかは、やや疑問であ 川同詠によってこそ、裴
は、王維の願いは充分叶えられたのだと言うべきであろう。 文學史に名を留める結果になっている。少なくともその點で は
八、
本稿では王維の詩およびそのグループの詩人の同詠について、靜嘉堂宋本『王右丞文集』を底本とし、
宜
した。 本と校勘
(1)『王維
究』創文
(2)「獨 、一九八一年 南」の「此時方獨居 も考えられようう。王維の詩友・儲光羲の詩にも「貽閻處士 」という詩語については、王維が好んでいた可能性
(3) 」を含む四例がある。
元 本外 ・趙殿
本外 ・『
「山行」詩(『 !詩』等に收載される 裴の句と !詩』では「闕題二首」其二)に、この王・
"似する「空
(4)師長泰 #濕人衣」が見える。
$『王維
究』第二輯(中國・三秦出版
九六年) 、一九
%收
「
川集」に關する二三の問題(上)(
&田)
33
(5)拙論「安禪制毒龍」考王維の佛
ついて(『中國詩文論叢』第十集、中國詩文 詩における實踐性に
(6)拙論「王維における維 一年)參照。 究會、一九九 詰 生活
官 心に((『中國詩文論叢』第七集、中國詩文 隱の思想を中
(7)陳鐵民氏は『王維集校 年)參照。 究會、一九八八 』(中 るので、王維 日あ」と未だ娶る有らず)兄弟長し、びに(小妹有娶 長、兄弟未は今措くとしても、同じ其三の詩中に「小妹日 いて、この「偶然作」を開元十五年頃の作とする。その檢討 書局、にお九九七年)一
(8)靜嘉堂本では「空中」に作り、「一本作 年の作として問題なかろう。
」と 蜀刻本では「窓中」に作る。この部分が袁 する。
(9)香 べきである。 て詠まれているとすれば、「空中」ではなく「窓中」に作る 傳をふまえ ・
( 有圖書公司、一九七一年 10)臺灣・文史哲出版
( 、一九八八年 11) (1)
の入谷仙介『王維
究』四五五ページ・伊
正文『審美詩人王維』(集
( 、一九八三年)八六ページ。
12)傅
『 代詩人叢考』(中
書局、一九六六年)
( 收。
13) (7)
( 書。
14) (1)
( 書。
15)靜嘉堂宋本では、「足下方
經
「北」の經を「維」に、
玄
」の北を「比(このごろ)」に、「復與踈鍾相
」の
「聞」に、それぞれ作る。靜嘉堂宋本のこの三字は、 を
・ 可能性が高い。 刻の 記・筆
は、深
大學中國文與傳播系から指名の執筆依
!
を受け、《文與傳播》第一輯(上
に小論年)「「 "文出版、一九九三 文では、王維が自詠と裴 #川集」集之探析」を發表した。その論
$同詠を組み合わせて「
という體裁にしたのは、年少の裴 #川集」
$の科學受驗を
れつつ、裴 %野に入 本論では、この「「 はないか、と結論づけた。 $の詩名を高めようという意圖があったからで な材料による補 #川集」集之探析」を基にして、別
&と新知見を加えた。
#川集制作時の裴
$
の年齡については
干修正した。十數年
向性に於て 心算で執筆したが、現在に至つても、當初の考えとその方 'には「試論」の
「詩論」の方も (く變わっていない。稚拙ではあるが、古い 目與傳播》第一輯の )せてご覽頂ければ幸いである。なお《文
(深Bmth.1 *.edu.cは、rerult-zuy.s/wx:/ttphn/
大學文學院學
+果)を參照されたい。 中國詩文論叢第二十三集