社会学研究科年報 2018 №25
沖縄農業のなかの抵抗主体
――石垣島名蔵・嵩田地域におけるパイナップル生産の事例から――
Resistant Subject in Okinawan Agriculture:Through the Case of Pineapple Production in Nagura and Takeda Areas, Ishigaki Island
廣本 由香 HIROMOTO Yuka
Okinawan agriculture is related to weather conditions of typhoons and drought, and problematic soil properties distributed broadly. After pacific front of World War Ⅱ, Okinawan agriculture relied on monoculture because of the negative soil. As a result, a yield of pineapple increased, while quality of cultivation techniques decreased. So, this paper focuses on the case of a few farmers in Nagura and Takeda areas, Ishigaki Island. The farmers created to their own method to demonstrate their independence after close-down canning factories, through a process of overcoming the severe natural and social conditions.
キーワード:沖縄農業(Okinawan agriculture)、パイナップル(pineapple)、抵抗
(resistance)、自然的・社会的条件(natural and social conditions)、モノ カルチャー(monoculture)
1.厳しい自然的・社会的条件を乗り越える沖縄農業
戦後、沖縄は本土とは異なる政治・軍事的環境、社会・経済的環境のもとにおかれた。
米軍による本土の占領支配が1952年で解除されたことにくらべ、沖縄は1972 年まで27 年間も全面占領された。本土の間接占領より20年も長かった。こうした米軍統治期の沖縄 農業政策を「ノー政」と、沖縄の農業・地域経済学者である来間泰男(1998)は捉える。
復帰以前の琉球政府では、農地改革や食糧管理法による生産者価格支持などの政策はとら れることなく、農業への政策的介入が限定的なものであったからである。
しかし、例外的にサトウキビとパイナップル(以下、パイン)は、琉球政府と日本政府 による保護政策や特恵措置のもとで、日本経済の復興も絡んで本土市場向けに生産拡大を 遂げた。いずれも工場搬入後の加工過程を前提とするモノカルチュアル農業であった。復 帰後もこうした経済構造上、不安定な単一農作構造の変化はみられなかった。モノカルチ ュアル農業が全くマイナスであるとは必ずしもいえないが、構造的特質から「主体性を伸 ばす、確立させていく環境が、沖縄においては徹底的に欠けていたのではないか」(1)とい われるように、農家の主体性の問題は長いあいだ指摘されてきた。
また、沖縄におけるモノカルチュアル農業への依存は、沖縄を頻繁に襲う台風や干ばつ などの気象条件への対策にくわえ、沖縄に分布する土壌性質上の問題が深く関与している。
沖縄に広く分布する赤土はマージと呼ばれ、酸性土壌の国頭マージとアルカリ性土壌の島
尻マージに分類される。パインが栽培される国頭マージは、国頭礫層と呼ばれる洪積世堆 積物、千枚岩、花崗岩、安山岩、砂岩などに由来する土壌である。下層土が緻密で透水性・
通気性が悪く、傾斜地に分布するため浸食を受けやすいうえ、国頭マージは有機物含量が 低く、養分が少ないことが、物理性・理化学性からして農地として大きな欠点とされてき た(2)。さらに、こうした性質は栽培できる作物の種類がきわめて制限されるので、分布す る地域は「不毛地帯」(池原 1972: 90)とみなされていた。
このような土壌の特殊性からも、戦後沖縄では単一作物を主体にし、モノカルチュアル 農業に依存したかたちでパインの生産拡大が推進された一方で、作物に対する栽培技術の 粗放化をまねいた一面があった。モノカルチュアル農業に規定される生産意識は、農業の 主体性を奪う構造の問題にもかかわっていた。
本稿では、沖縄の厳しい自然的・社会的条件を乗り越え、農家としての主体性を発揮し て自らの農業を創出する事例として、石垣島の名蔵・嵩田地域における少数のパイン生産 の実践を取り上げる。
次章では、事例地である石垣島の中央部に位置する名蔵・嵩田地域の地理的・歴史的概 要を説明していこう。
2.名蔵・嵩田地域の赤土地帯
(1)不毛な赤土地帯
八重山諸島は、琉球列島の最南端に位置する。八重山の島々は、耕作地の狭い隆起石灰 岩で形成された「低い島」と山と川と田がある「高い島」に分けられる(千葉 1972; 安渓
1988; 藤井 2010)。「高い島」の石垣島では、沖縄最高峰の於茂登山系からなる水文環境を
基盤として水田稲作が行われてきた。だが、同時にこうした水田稲作ができる「高い島」
はマラリアの有病地を擁していた。なかでも於茂登山系の南麓に位置する名蔵は「マラリ アに打ち勝つ近代科学の力さえあれば、確かに富を産する“約束の地”」(三木 1980: 145)
とされた。
名蔵は、地元の言葉で「ノーラ」という。ノーラとは、野原や平野のことをさす(三木
1980: 145)。於茂登山系や嵩田山(茶山)に水源をもつ名蔵川は西流して名蔵湾につなが
る。於茂登山系と名蔵湾をつなぐ名蔵川流域や名蔵平野の東部域では、古くから白水、ト ウレー原、大田、浦田原などと呼ばれた水田地帯が開発されてきた。ただし、「空間構造は 社会構造が射影された見取り図」(若林 2003: 198)であるように、戦前期から戦後の名蔵 地域でこれらの水田を所有するのは古くから石垣・登野城・大川・新川の四カ字と呼ばれ る市街地に住む人びとであった(名蔵入植50周年記念事業期成会編 1999: 29)(3)。
一方で、名蔵地域の東側や嵩田地域には谷が入り組んだ波状台地が広がり、一帯に分布 する名蔵礫層に由来する酸性土壌赤土は、固い礫を多く含んでいるため、長らく農作業に とって大きな障害とされてきた(大城・浜川 1980: 40)。そのため、この一帯では入植者 や移民を中心に甘藷やサトウキビ、パインなどが栽培されてきた。
(2)甘藷の自給的農業
名蔵村は、創立年代こそ不明だが、1647年の『宮古八重山両島絵図長』に「那蔵村」と
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記載されていることから、石垣島では比較的古い部落とされる。マラリアの有病地を擁し た名蔵村は、人口補充のために幾度と寄百姓が実施されたが、マラリアの蔓延や明和の大 津波などの自然災害によって1916年には廃村となった(牧野 1972; 三木 1980)(4)。
戦後も、廃村の歴史とさほど変わらない過酷な自然条件のもとで移民が入植した。名蔵 地域には、宮古島や沖縄本島、台湾などから農業開拓を目的にした「自由移民」の人びと が入った。とくに終戦後の宮古島では、本土や台湾からの引揚げで食糧難と住宅難になり、
島は失業者で溢れた。「低い島」の宮古島には、人びとが食べていくだけの耕作地が残って いなかった。そのため「オモト霊峰の命の泉に頼る外はない」(5)と、人びとは生活の場を 求めて石垣島に渡った。
自由移民は、琉球政府による計画移民とは異なり、頼るべき行政措置もままならないう ちに行われた。政府は、自由移民には土地を貸してくれなかったため、人びとは「木を切 り出して暮らしを支え、また土地をもっている人の下男として働」くなどして、困窮した 生活を送った(名蔵入植50周年記念事業期成会編集 1999: 29)。
自由移民として入ってきた人びとは酸性土壌赤土で栽培できる甘藷の自給的農業や、と きに開墾作業の「人夫」で現金収入を得て暮らした。なかには資産や水牛などを持った比 較的に余裕がある人びともいたが、多くは裸一貫で移住してきた人ばかりであった。
3.缶詰加工に依存するモノカルチュアル農業
(1)パイン缶詰産業の急成長
戦後、琉球政府によって、パインが暴風や台風に比較的強い作物であることにくわえ、
サトウキビに適していない酸性土壌地帯や山地の傾斜地でも栽培が可能であることから重 要作物として評価された(池原 1972)。
1951年に日琉通商貿易が開始されるとともに、早くも1953 年には琉球政府によって「パ インアップル増産計画」を立てられた。1954年に本土政府と琉球政府によってパイン缶詰 が関税免除の「西南諸島物資」に指定された。さらに本土市場での需要の高まりを受けて、
1959年には「パインアップル産業振興法」が施行され、産業育成政策や奨励補助金政策が 講じられた。これらの法政策の整備や強力な産業推進によって、パイン生産の増産体制が 敷かれた。
八重山の石垣島や西表島でもパインによるプランテーション的な開発が急速に進めら れた。石垣島の名蔵・嵩田地域でパイン生産を続けてきた平安名寛行氏(90代)によれば
「パインは多くつくらないとお金が儲からないから。人の何倍もつくった」(2015年3月 15日、聞き取り調査)と、農家のあいだでも大量生産が目指された。当時のパイン栽培方 法は単位面積に多くの苗を植え、短期間に単収をあげて、収量が落ちたら苗を植え替える
「密植短期栽培」であった(渡辺 1961: 159)。名蔵・嵩田地域だけでなく、同じく厳しい 自然的・社会的条件下の北部の開拓集落でも「村挙げて」(6)パインの作付けが受け入れら れた。
こうした農家以外にも、島の至るところで商人や公務員、教員までもがパイン生産を始 めたため、パインの耕作面積や生産量が急増した。さらに地元企業だけでなく、大手商社 や食品会社出資の缶詰工場も次々に島内に建設された。八重山では1950年代後半から「パ
インブーム」と呼ばれる爆発的な成長を示した。このような「パインブーム」は「日本の 法によってつくられ、日本の企業によって支配された」(水田 2010: 71)と指摘されるよ うに、政策誘導の性格が強かった。
(2)大量生産と原料確保が招く「大根パイン」
産業育成政策や奨励補助金政策を背景に、八重山では最盛期の1960年に缶詰工場が10 工場にまで増加していた。ただ、製造コストを抑えるという観点から缶詰工場は「一島一 工場」程度が適当であると早くから指摘されていたように、各工場で原料争奪戦が生じた
(新井・永田 2013: 121)。
1960年には未熟果パインを缶詰にして「大根パイン」という悪評まで立った(7)。当時の 生産体制を、パインの大量生産者として工場に表彰されたこともある寛行氏は次のように 語った。
パイン工場の人は要領をつくして、農家にお金をかして、農地を拡張させたり、パ インを大量生産になるようにお金を貸してあげるんだよ。その代わり、パインを多く 卸させて、儲ける。大量の人は台湾旅行をさせる。大量生産のなかのひとり、うちは。
たいしたもんだろ。いまは歳とってこんなにしてるけど。(2015年3月17日、聞き取 り調査)
工場のなかには、原料を確保するために生産量が多い農家に対して慰安旅行やボーナス の支給、運搬車の手配などの高待遇を行ったところもあった。こうした原料確保のための 反収向上について、当時からパイン生産をしている石垣貴雄氏(仮名・80代)は「パイン をつくらないといけないという村八分的な雰囲気があった。工場・農協・行政による『パ インブーム』に踊らされた。借金を抱えた農家もいる」(2015年9月15日、聞き取り調査)
と話した。
石垣氏が語るように、八重山社会を覆った「パインブーム」が去った後は、工場の原料 買取価格の低迷が続いた。農民組合を中心に原料価格の交渉は続けられていたものの、農 家の多くは「パインでは食っていけなかった」(50代男性、2016年9月15、聞き取り調査)
と、生産から離れる人びとも次第に増えていった。
(3)加工を前提にする「緑熟」パイン
缶詰工場の原料確保のために農家には生産拡大が求められた。さらに言えば、原料価格 の低迷が続く状況では、農家が現金収入を増やすためには反収を向上させるしかなかった。
このような量産体制で生産されてきたパインの品質は決して高いものではなく、農家の あいだで必ずしも「おいしい」といえる品質ではなかった。寛行氏の長男である平安名貞 市氏(50代)は、子どものころにパインを食べて、口の中が痺れたり、舌から血が出たり した経験が何度もあったという。それでも食べるものがなかったときは水を飲んで痺れを 和らげ、パインでお腹を満たした。当時のパインは酸度の高い品種だったことにくわえ、
熟度が高いものは加工に不向きなため、未熟果に近い状態で収穫されていたためだ。
さらに原料を目的として生産されていたパインは、窒素肥料を多く与えることで果実を
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肥大化させていたが、こうした窒素過多は果実を大きくする反面、果汁量が増えることで 味が薄くなった。窒素過多によって果皮は緑のままで果肉だけが熟す「緑熟」も招きやす くした。緑熟は、果肉と果皮の生育スピードがそろわないことで生じる障害である。
しかし、加工用の原料を生産するにあたっては、緑熟や味が問題とされることはほとん どなかった。工場に搬入するパインは、加工過程で皮は剥がされ、果肉を煮て酸を飛ばし、
砂糖シロップ漬けにされるからである。だから農家にとっても生産には糖度や酸味のバラ ンスといった味覚より、原料買取りの基準となる等級や量産が重視されていた。
4.沖縄農業のなかで抗う農家
(1)「おいしさ」の選択をするとき
沖縄におけるパイン缶詰への優遇措置は、復帰後も継続された。ところが、1971年の冷 凍パインの輸入自由化や石油ショック後の経済の冷え込みから、八重山でも缶詰工場が次 第に合併・操業停止・閉鎖に追い込まれていった。さらに1980年代の円高を受け、輸入缶 詰の国内価格が安くなったこともあり、採算がとれなくなった工場は閉鎖し、1986年には 石垣島では宮原食品1社1工場のみとなった。1990年にはGATTウルグアイ・ラウンド協 定でパイン缶詰が輸入自由化の品目に指定され、最終的に外国産の安価なパイン輸入が進 んだため、1996年に唯一操業していた同缶詰工場も閉鎖された。
こうして石垣島では農家がパイン生産を続けようとする限り、缶詰用から生果用に転換 せざるを得なくなった。農家のなかには栽培技術の違いを理由にパイン生産を離れ、他の 作物に転換した人もいた。この危機的状況を切り抜けるため、缶詰から生果へと移行した 少数の農家は栽培技術の高度化に試行錯誤した(新井・永田 2013)。
現在もパイン生産を続ける島本哲男氏(60代)は、生果への移行で直面した問題につい て次のように語った。
生果は直接、口に入るんだから、もうそこからが大変ですよ。わからなかったもの だからね。すごく大変だったよね。当初はそれ(加工用と同じパイン)を送っていた からね。おいしくない、おいしくないのクレームなんですよ。酸味の好きな人もいて、
稀においしいと言ってくれる人もいたけど、大半はおいしくないというのが一般的だ ったわけですよ。石垣のパイナップルのスタートはおいしくないから始まって。だけ ど、これじゃいけないということになって。(2014年9月6日、聞き取り調査)
農家によってこれまでに蓄積された栽培技術や知識が無用になったわけではないが、缶 詰工場がなくなった石垣島では、加工技術なくして生果として「おいしい」パイン生産に 取り組まなくてはいけなくなった。なかには加工用のパインと生果でそれほど栽培技術は 変わらないと語る農家もいるが、島本氏にとって原料を前提にしたパイン生産と直接に消 費者の口に入るパイン生産は似て非なるものであった。生果を生産することは品質に対し て農家が責任を負うということが、それまでの生産とは大きく異なったのである。それか ら、自分がつくるパインを消費者に「おいしい」と言ってもらうことが、パイン生産を続 ける1つの動機となった。
(2)「緑熟」への抗い
缶詰から生果への移行時期、JAでは、農家が試みた品質向上の努力やその成果が評価さ れず、農家がつくったパインはすべて一様に扱われていた。こうした JA の生産体制に不 満を抱き、JAを退会した農家の1人が島本氏である。こうして島本氏は「テキトーなもの をつくっては輸入ものと変わらない。一般的なものになってしまう」(2016年11月11日、
聞き取り調査)と、JAで出荷されるパインや輸入される外国産パインと差異化を図ろうと した。島本氏は濃厚で酸味と甘味のバランスのとれたパインをつくるために、栽培方法に 試行錯誤したときのことを次のように語っている。
加工用をつくるということは、いかに多く量産できるかですから。同じ耕作面積で どれだけ多くのパインをつくれるかですから。収量が変わるし、収益も全然ちがうか ら。ところが、生果になってつくるようになって、味が悪いわけだから、それが最大 のポイントだった。…(中略)…植え付けをしているときに、苗がちょっと足りなか ったから、収穫を終えた畑に苗が残っていないか見に行ったんですよ。そこにたまた ま1本の木に2つなっていたんですよ。珍しく大きかったので、その場で食べてみた ら、お菓子のようにおいしかったわけですよ。甘みと酸味のバランスが最高によくて ね。今までに食べたことのないような。その場で 30 分くらい座りこんで、どうして このパインはこんなにおいしいんだろうと。その木をずっと眺めていたら、あるヒン トが得られたわけですよ。(以前に参加した台湾研修で農家の人に聞いた)「窒素を抜 かないとおいしくならない」ということを、このときにポッと頭にひらめいたんです よ。そのときからが始まりなんですよ。いろんな試行錯誤を重ねて、5、6年かけてや っとできたんですよ。(2014年9月6日、聞き取り調査)
島本氏は「味が悪い」と思うパインから、どのように酸味と甘みのバランスが取れたパ インを生産するのかを考え続けていた。その1つの栽培技術が、以前に台湾研修のときに 聞き流していた窒素の施肥量と施肥期間の調整であった。窒素過多は量産に適した技術で あたっが、樹のバランスが崩れて「緑熟」を招いたり、肥大化して味が薄くなったりする ことがあった。だから、島本氏は栽培過程の終盤で「窒素を抜く」ということを試み始め た。
(3)「青切り」への抗い
島本氏と同様に、「あんなおいしくないパインと自分のが一緒にされたくない」(2015年 3月12日、聞き取り調査)と、JAのパイン生産部会から退会した農家の1人が平安名貞 市氏(50代)である。
名蔵・嵩田地域でパインを栽培し続けてきた父親が所有する農地の一部でパイン生産を 始めていた貞市氏は、当時石垣農協パイン生果部会長をつとめていた。農協では1990年代 から生果へ転換するにあたって、生果の出荷規格の統一やハウスパインの推進など対策が 進められていた。貞市氏は「加工用の匂いだけあればいいパインじゃなくて、生果として 売る」ために、部会のメンバーとともに生果パインの向上に努めていた。品種や栽培方法 だけでなく、消費者が好むサイズや熟度の問題まで、部会で意見を出し合っていた。
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その後1994年に石垣・大浜・竹富の3農協がJA八重山郡に統一され、最も規模が大き い旧大浜農協からパイン生果部会長が選任され、旧石垣農協から貞市氏が副部会長に選任 された。統一前の旧石垣農協パイン生果部会では農家のあいだで品質向上に向かって意見 を交わすことができていたが、JA八重山郡に統一されてからは部会のメンバーで意見を交 わすことも難しくなり、足並みが揃わなくなっていった。
さらに貞市氏は、缶詰の原料や輸入パインと変わらない「青切り」パインを生産するこ とに疑問を感じていた。ここでいう「青切り」パインとは、熟度が上がる前に収穫した青
(緑)色をしたパインのことである。追熟型のバナナとは異なり、非追熟型のパインは収 穫後に樹での成熟と同じように成熟現象は起こらない。そのため、パインは熟度をあげて から収穫することになるが、農家のあいだで「しまり」パインと呼ばれる過熟果や完熟パ インはその分だけ腐りやすくなってしまう。そのため、熟度が高い状態のパインは、収穫 後の出荷や販売の扱いがいっそう難しくなる。
だから、JA では輸送期間やそのコストを考慮して、「青い」段階で収穫して、出荷して いた。もちろん、JAのなかでも出荷規格は設けられていたが、一部の農家がどんなに品質 を向上させて熟度の高いパインをつくろうと「青切り」パインと同等に扱われてしまって いた。
こうした理由から、貞市氏は副部会長の任期満了ともに、JA八重山郡パイン生果部会を 退会した。パイン生産部会の退会後、貞市氏は島内のスーパーマーケットに細々と個人販 売していた。スーパーで営業をする貞市氏の姿を見て知人は笑っていた。それほど貞市氏 が生産部会を退会することに対しては、同じ農家だけでなく行政関係者からの風当たりも 強かった。
こうしたどん底の時期に、現在の契約・取引先の卸売業者(那覇市)から、生果として パインを卸してほしいとタイミングよく話が持ち上がった。貞市氏はこれを受け入れ、旧 石垣農協のなかから名蔵・嵩田地域の農家を誘って、生産出荷組合「石垣島パイン生果組 合名蔵」(以下、名蔵パイン組合)を組織した。
名蔵パイン組合では、貞市氏を中心に「『本物』のおいしさを消費者に届けたい」と定 期的にメンバーで勉強会が開かれた。メンバー同士で言い合いや喧嘩になることもあった が、「おいしい」パインを生産しようと栽培方法を統一した。輸送期間やコストに妥協して
「青切り」パインを消費者に送ることにならないようにメンバーで努めた。
貞市氏によれば「草がボーボーになった畑になっているパインが一番うまい」と、パイ ンは自然化で栽培された方が味が良くなるとされる。蓄積された経験にくわえ、生果をつ くるための栽培実験から、名蔵パイン組合では1年目だけ樹の成長を促すために肥料を与 え、2年目はパインそのものの味を引き出すために肥料を与えない栽培方法を取っている。
さらに同じ地域でも圃場単位で水はけや粘質、有機物含量や養分が違うため、酸性土壌赤 土以上の土壌性質を選び取ることを試みている。
5.創出と抵抗の沖縄農業
前章までに、名蔵・嵩田地域の少数の農家による、農民としての主体性を発揮して自ら の農業を創り出す過程をみてきた。
戦後、米軍統治時代の沖縄農業は、植民地的なモノカルチュアル農業が中心におかれた。
サトウキビやパインを原料として、工場搬入後の加工が前提とされた生産体制である。こ うしたモノカルチュアル農業に依存する沖縄農業では、農家の主体性が問題視されてきた が、裏を返せば、それは沖縄農業自体が農家の主体性が発揮されにくい構造にあった。
沖縄復帰後も、沖縄におけるパイン缶詰産業への優遇措置は継続され、モノカルチャー な沖縄農業は政府支援等により延命されていた。だが、次第にグローバル市場経済に組み 込まれて、従来の優遇措置に守られた体制は維持できなくなってきていた。そのためパイ ン生産から離れる農家も続出した。
しかし、翻って考えると、パイン缶詰産業の終焉とパイン生産の危機的状況に直面して、
農家は主体的に沖縄農業に取り組めるようになったといえる。少数の農家は、名蔵・嵩田 地域に広がる酸性土壌赤土という特殊な土壌条件に向き合い、「おいしさ」にこだわること で、自らが納得する農業を創出していった。こうした試行錯誤の過程では、モノカルチュ アル農業に依存した「おいしさ」を追求せずにすむ沖縄農業と「おいしさ」を追求しなく なった農家に対する抵抗の意味もあった。ここでの抵抗は、決して既存の沖縄農業に対し て強い変革指向性があるとはいえないけれど、沖縄農業のなかで農家としての主体性をふ たたび生産者に引戻そうとする実践であった。
最後に付言すれば、本稿では農業をめぐる主体性論について議論を深めることができな かったことは課題として残っている。だが、本稿で示した研究事例は、長期的に沖縄がか かえる自己矛盾の農業構造という課題に対して、その自縄自縛の起因となった土壌条件の 欠点を利点に変えていける農業を創出することで、「農家の主体性」がもつ可能性を示すこ とにつながっただろう。
註
(1) 「[沖縄農業研究会35年のあゆみ]初期(1964年)のシンポジウムの記録」(『沖縄農業』32(2):
45-54)から喜久川宏氏(琉球農連指導部長)の講演を参照。
(2) 内閣府沖縄総合事務局農林水産部「沖縄の自然環境」を参照。
(http://ogb.go.jp/nousui/nns/c1/page3-3.htm、最終閲覧2017年8月14日)。
(3) 戦後の石垣島名蔵地域では「水田は畑の10倍ほどの値打ちがあった」(2016年7月15日、聞き
取り調査)といわれるほど、水田の経済的価値は現在と比べて高くみられていた。通常、コメ農 家以外の一般家庭で白米が食べられる機会はほとんどなかった。50 代以上の人びとのあいだで
「米なんてほとんど食べたことなかった。ときどき(食卓に)出ても、芋が混ざってるのね。量 を増すために」(2016年11月2日、聞き取り調査)といった経験が共有されているように、い かに島内で水田を所有することが貴重だったかがわかる。
(4) この廃村の20年前には、徳島県の中川虎之介によって糖業を中心とする名蔵開拓事業が行われ た。名蔵地区の土地90ヘクタール余りの開墾許可を得て進められたが、数年のうちに台風やマ ラリア被害などから失敗に終わった(三木 1980)。それから1930年代に入ると日本統治下に置 かれていた台湾から、入植者が名蔵・嵩田地域で大同拓殖株式会社パイン缶詰工場を興した。最 大の敵であったマラリアと闘いながら生産も軌道に乗り始めていたが、太平洋戦争の激化によっ て中断を余儀なくされた。入植者の多くは台湾に引き揚げた(林 1984)。
(5) 1949年9月14日付『先島新報』参照。
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(6) 1956年9月22日付『八重山毎日新聞』参照。
(7) 1961年1月1日付『八重山毎日新』参照。
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付記
本稿は、2014年~2016年度立教大学大学院社会学研究科「プロジェクト研究E―地域コミュニティ と環境研究」の成果の一部である。