沖永良部島におけるサトウキビ栽培の歴史と農業用水利用 : 島嶼ESDのための農地と水利用の系譜
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(2) 釧路論集 -北海道教育大学釧路校研究紀要-第48号(平成28年度) Kushiro Ronshu, - Journal of Hokkaido University of Education at Kushiro - No.48(2016):89-96. 沖永良部島におけるサトウキビ栽培の歴史と農業用水利用 ―島嶼ESDのための農地と水利用の系譜— 野 村 卓 北海道教育大学釧路校. The history of the sugarcane cultivation and use of agriculture water in Okinoerabu Island -The genealogy for farmland and the supply of water for islands ESDNOMURA Takashi Hokkaido University of Education , Kushiro Campus. ●[要旨:島嶼部における水利用に着目した持続的利用に関する研究を、主な調査地として沖永良部島から概観 した。特に、奄美群島は薩摩藩の琉球・奄美統治の過程で、水稲からサトウキビ(甘蔗)栽培へ強制的に転 換させられた歴史を持つ。しかし、沖永良部島は平坦地が広がり、他の奄美群島が受けた強制転換の歴史と は違う背景があった。それでも人口密度が高く、日々の生活は困難を極めた。その過程を奄美統治から明治 期、大正期、戦前期、アメリカによる奄美統治期、復帰から現在までの過程を整理した。そこから、沖永良 部島では①サトウキビ栽培に対する商業的生産の位置づけと②生産調整による水田転換の歴史を個別に扱う 必要性と、③これら自給的生産と商業的生産に対応した島民の努力の過程を明らかにした。今後、沖永良部 島の持続可能な水利用を考えていく時、農業技術的、環境配慮的対応のみならず島民の努力過程を再評価し た持続性の検討をする必要があることを明らかにした。]. 1 はじめに. 稲栽培は農業経営としては存在せず、水田は田芋生産や水 稲の栽培体験事業のための存在になっており、畑作が中心. ―奄美統治の歴史とサトウキビ栽培― 島嶼部における水の持続的な利用(島嶼ESD)は、自立. となった農業の現状を歴史的経緯の中で明らかにし、これ. 的生産体制を確立するための自然開発(二次的自然)を人. に基づいて沖永良部島における持続的な水利用の可能性を. 口変動や社会政策などの諸条件の中で如何にバランスを. 検討する必要があると考える。. とるかが厳密に問われ、これは単なる未来志向の話題では. 奄美群島の薩摩藩統治は実に400年以上の年月を重ねて. なく、過去から現在までの変遷を踏まえて捉える必要があ. いる。それ以前は琉球の統治下にあったわけだが、原口に. る。特に、奄美群島における水利用は、琉球王朝による支. よれば1609年に島津家久が幕府の許可を得て、琉球に出兵. 配・影響から薩摩藩による奄美・琉球統治の過程において. したことから薩摩藩統治が始まる。これは島津家と徳川家. 自給的食料生産から黒糖などの専売商品生産に強制的に転. の領土拡張の利害が一致したためとされている(原口泉ほ. 換させられ、水稲栽培が制限された事例(歴史)が多く散. か、1999)。奄美大島への侵攻は、 「征球の役」 「笠利の戦い」. 見されている。このような中で、元木・萩原・野村が関わっ. 等と言われている(田畑勇弘、1962)。奄美大島侵攻を皮. てきた沖永良部島における持続的な水利用に関しても、琉. 切りに、徳之島、沖永良部島へと、次ぎ次ぎと支配下に入. 球・奄美統治から現在までの農業生産の変遷を整理してお. れられたのである。同時に、薩摩藩は奄美群島を統治しな. く必要がある(萩原・元木・野村、2015など) 。島嶼部特. がらも、本土との差別化を図り、これは琉球にまで及ぶこ. 有の環境制限要因がある以上、自給的食料生産としての水. とになる。大江によれば、「奄美の領地化は砂糖の収奪の. 田利用—水稲栽培の歴史と専売商品生産としての畑作利. みが目的であった」とし、奄美大島は道ノ嶋と命名された. 用—サトウキビ(甘蔗)栽培の歴史を明らかにし、その関. という。これは薩摩藩が琉球及び琉球支配下の奄美諸島が. 連を整理する必要がある。これは、現在沖永良部島には水. 中国に対して独立しているように見せかけるためであった. - 89 -.
(3) 野 村 卓 砂糖百樽以上生産せしこともありと云う。. と指摘する(大江修造、2010) 。 薩摩藩の奄美統治の特徴は間接統治であり、まず奄美大 島に代官所を開設し、随時、喜界島、徳之島、沖永良部島. 文化文政期は1804年〜 1829年にあたり、北三島の砂糖. (与論島は沖永良部島代官所配下)へと代官所が開設され. 惣買入制(1830年)の前段階の時期であり、董尾子と手々. ていった。これによって、薩摩藩に侵攻されながらも琉球. 知名盛平が徳之島に渡り、砂糖製法を習得し、沖永良部島. 統治時代の制度が温存されていくことになるのである。. に伝承させたとされている。但し、これは二人が独自に習. そのような中で、 専売用の商品作物であるサトウキビ(甘. 得しに渡航したのか、習得を命じられたのかは定かでない. 蔗)と自給用の農産物を生産する体制等は島々によって違. としている。. いが見られた。. このようなサトウキビ伝承を受けて、『鹿児島県史料薩. このような歴史的な背景を念頭に置きながら、沖永良部. 摩藩法令史料集二』には、「島津家歴代制度」に「運賃」. 島における持続的な水利用(主として農業用水)のあり方. に関する項目があり、享和三年(1803年)に沖永良部島か. を整理するために、サトウキビ栽培と水稲栽培の関わりを. ら大島で積替えた砂糖が届いたと記載がある。これには但. 中心に整理する。. し書きがあり、酉年(1801年)には代官が自分用に積み込 んだ砂糖の運賃を「半運賃」とする証文を、「相対運賃」. 2 沖永良部におけるサトウキビ栽培の始まり. に変更する旨の記載がある。. 先田によれば、藩政時代の奄美諸島は沖永良部島を含め. 更に「輿論在鹿児島役人公文綴」には、1800年頃まで沖. て、薩摩藩が砂糖の買入専売を行う収奪の地であったと指. 永良部島では稲作が行われてきたが、何らかの理由で百姓. 摘する(先田光演、 2009) 。皆村も砂糖惣買入制によって、. の生活が困窮し、黍栽培を行うと潤うと考え、作付け転換. 大阪での独占的販売は天保年間でも約240万両にも上った. を申請したところ、許可されたと記載されている。これに. と指摘する(皆村武一、1988) 。特に、天保年間の薩摩藩. は、砂糖は徳之島の代米(一斤三合三勺換カ)に一合増し. の年収は12 〜 18万両程度なのに対し、既に500万両の借金. で買入、年貢米と差し引きで上納されていた。補足的なこ. があり調所広郷により無利子で年2万両の250年返済とい. とを記せば、この文書はそもそも与論島の島役人沖永良部. う実質的な借金の棚上げを行いながら、財政再建の柱とし. 島のサトウキビの生産が開始されたことを承知の上で、与. て奄美の砂糖(黒糖)に目をつけたのである。このため、. 論島では製糖期が稲作と重なったり、砂糖製造道具の買入. 奄美諸島のサトウキビ生産を推進するため、1745年に換糖. ができないため、稲作に専念し、黍作を断るためのもので. 上納令が発布される。これは年貢を米で納めるのではな. あった。. く、砂糖で納める制度である。米と砂糖の交換比率は砂糖. 先田は、この文書から与論島に当時在任していた島役. 1斤=米3合であり、農民にとっては利益が高く、これに. 人は山本源七郎であり、「運賃」に関する史料を参考に、. よって田畑の比率が逆転し、水田が減少していく契機に. 1801年から遡ること2〜3年前(1798年〜 1799年頃)に沖永. なったとされる(大江修造、2010) 。. 良部島でサトウキビ(甘蔗)栽培が始まったのではないか. 1777年には第一次黒糖専売制度、1818年には第二次専売. と推察する。. 制度、1830年には第三次専売制度と、専売制度の徹底が図 られて行くことになる。. 3 沖永良部における砂糖政策と生産高. これらがなぜ収奪といわれるのか。それは松下によれ. (1)薩摩藩による砂糖政策と製糖. ば、「砂糖の値段の極端に低い評価と、大阪からの積み下. 先田によれば薩摩藩による砂糖黍の専売は元禄期には既. し諸品の不当な高値にある」 (松下史郎)とし、 坂口は「島. に始まっている。. 民商売の交易を禁じ、諸税の余りの砂糖を悉く諸品に易え. 1695年には、黍検者なる役人が喜界島と奄美大島に派遣. て、年貢と同じく上に奉る是れ人君民の利を貪るに似たり. された記録が残っており、北三島では第一次定式買入制. 恥ずべき仁に非ずや」と指摘する(坂口徳太郎、1921)。. (1713年頃〜 1777年)、第一次惣買入制(1777年〜 1787. その上で、収奪政策の強化が①通貨使用の禁止、②砂糖黍. 年)、第二次定式買入制(1787年〜 1830年)、第二次惣買. 栽培の強制(稲作の禁止)③造船の禁止、④島民の階級分. 入制(1830年〜明治5年)と間断なく、砂糖の買入専売の. 化によって図られたとする(大江修造、2010) 。. 歴史であったことがわかる。. そのような収奪の歴史の中で、沖永良部島ではいつから. これにより、北三島の島民の生活は困窮を極めた。しか. サトウキビ栽培が始まったのか。先田によれば、伝承とし. し、沖永良部島および与論島の砂糖政策の展開は遅れ、沖. て操担頸編「沖永良部島沿革誌私稿」に、以下の記述があ. 永良部島で嘉永期(1853年)、与論島で安政期(1857年). るという。. に入ってからであった。この時期は、島津斉彬公による富 国強兵、殖産興業の時期に重なり、近代化における資金的. 文化、文政の頃、和泊の董尾子、手々知名盛平、甘蔗苗. 担保を藩内及び琉球統治において徹底したことを物語って. を徳之島より需め、挿植製法伝習、董尾子は後年に至り、. いる。. - 90 -.
(4) 沖永良部島におけるサトウキビ栽培の歴史と農業用水利用 このような状況の中で、 「沖永良部島代官系図」によれ. 黍749町歩9反とあり、黍作付け割合は44.5%に上った。. ば、文政期の1819年に沖永良部島にサトウキビ作付けの指. この作付面積から、砂糖が1,478,952斤生産されており、1. 示のため郡奉行一行が来島する。砂糖黍差付方として郡奉. 町歩当たり1,993斤の単位面積あたりの収量であった。. 行、横目、蔵方目附、地方検者、郡方書役が2年間滞在し、. 先田の取りまとめたサトウキビの作付面積と砂糖生産高. サトウキビの植え付け指導や砂糖製造の技術指導を行っ. (1863年、1864年データ)によれば、当時の北三島の黍作. た。先田は、このため官命によって、董尾子と手々知名盛. 付け割合は80 〜 90%以上(奄美大島:94.1%、徳之島:. 平を徳之島に派遣したのではないかと推察する。ここから. 84.8%)であり、北三島に比べれば、沖永良部の作付け比. 沖永良部のサトウキビ生産および製糖が本格的に実施され. 率は低いが、それでも先田は「残り六割の土地で十分な食. ることになる。. 糧が生産できたであろうか」と指摘している。特に北三島. 一方、砂糖の惣買入制が導入されたことによって、商人. の黍作付面積率を見て、「想像を絶する高さであり、島民. の砂糖交易が禁止された。この砂糖商人に対する代替地が. の生命さえもが危ぶまれるほどの割合であるが、山の斜面. 必要になった。 「調所笑左衛門履歴概要」によれば、以下. などに焼畑を作って食料を得ていたのであろうか」と指摘. のように沖永良部島で生産された砂糖は諸人交易が許され. し、薩摩藩の歴代藩主としては名君と言われる斉彬公でさ. た。. えも、奄美群島の島民の生活を収奪することによって、そ の政治・経済力を発揮していたことを示すものであり、激. (前略)亦砂糖之価格低くなりたる年、外に産物を殖さ. 動期の闇の姿を明らかにしたものと言える。樋口は、 「島. んと需むれども、俄に良産なき時、沖之永良部之一島を諸. 津藩の酷烈極まる糖業政策により、奄美諸島の糖業は徳川. 人交易を停め、三島に同じせんと云ひしが尤もなり。去り. 時代、著しく発展したが、糖業がかく発達し、産糖額が増. ながら残らず利を納しては下々立難しと(以下略). 加したのは、主として甘蔗作付反別の強制的拡張、島民労 働に対する極度の監視圧制の結果に他ならなかった」と指. これが嘉永期(1853年)になると沖永良部島の砂糖も惣. 摘する。この負の支配に積み重ねにより、「農民生活の極. 買入制になった。これには沖永良部島民に対する徳政令的. 度の窮乏の結果、幕末の頃には既に停滞、減退の傾向」に. な意味合いがあったと、先田は指摘する。なぜなら、「沖. なっていた。. 永良部島代官系図」には、諸人交易によって砂糖と物品の. (2)明治期の砂糖政策と精糖業. 交易を進めるために、商人が島民に対し不用なものまで押. 明治期に入ると、物納としての砂糖上納が石代金納にな. し売りし、島の使役も多かったことから農地が荒廃したと. る。これは全国一律に金納となり、その税収は富国強兵、. 記載されている。更に島役人登用にも贈収賄が絡み、これ. 殖産興業へ振り向けられていくことになる。そのような中. らが藩庁にも届くことになった。操担頸編「沖永良部島沿. で、明治6年には大蔵省より「砂糖勝手売買」の令がださ. 革誌私稿」によれば、この事態に六名の官吏が派遣され、. れることになり、ようやく島民が自由に砂糖を売買できる. 調査が実施され、不正糾弾、使役軽減、耕作専念、負債免. ようになった(鹿児島県庁、大正9年)。しかし、取引に. 除を実施した。これに対して島民は「無上の幸せで有難く. 不慣れな島民に配慮して、以下の注意と支援をおこなって. 合掌奉った」と記載されている。同じく、 「沖永良部島沿. いる。. 革誌私稿」には、惣買入制が導入された翌年の1854年に砂 糖生産が100万斤を超えたと記載されている。これを米に. (前略)直接商人との勝手売買を許すに至れり然るに未. 換算し直すと、当時1斤4合の替米であったことから、. だ當て取引に慣れざる島民は動もすれば奸商奸策に陥るの. 4,680石に相当した。. 虜あるに依り當時の在藩及島吏等大に之を憂慮して深く商. 「斉彬公史料」によれば、斉彬公は沖永良部産の砂糖に. 議を し五ヶ年間の期限を以て鹿児島商人と一手売買の契. 関心を寄せ、惣買入制を指示し、調査の結果7,000両の利. 約をなし(以下省略). 益があったと記載されている。ここから大阪の商人に対す る負債返金などが支払われ、それでも1,000両程の残金が. 一方、サトウキビの製糖技術の程度としては『知名町誌』. あったと記載されている。これら残金は手綱方の支払いや. によると明治30年以前までは木製の畜力による三つ車式で. 三役籠代、肥料に使用する干鰯製造などの資金になったの. 圧搾歩留まりは30 〜 40%程度であった。この木製畜力圧. である。. 搾法は、樋口によれば島津藩による「極度の圧制と窮乏の. その後の生産高は「沖永良部島代官系図」によれば、. 結果、漸次労働の気力を失いつつあった上に、砂糖と交換. 1862年、1867年と産糖増大により褒美を貰った旨の記録が. の形で、藩庁から鉄輪車等の製糖器具を極めて高価に売付. 残されるほどの生産量であり、特に1867年は空前の豊作年. けられるので、島民は拠所なく木製車を使用したために、. であった。. 甘蔗の搾汁能率等も極めて低かった」と指摘している。. 幕末期の沖永良部における砂糖生産の状況について、当. 砂糖の自由な売買が導入されても、中央市場の黒糖相場. 時の大蔵省の『南嶋雑集』によれば、 耕地面積1,681町歩中、. 等には無関心で、販売知識も持ち合わせなかったことか. - 91 -.
(5) 野 村 卓 ら、商人に安く売払い、金銭の前借りも増え、農民の負債. 肥料の製造及び施肥の事、②蔗苗の正條植及耕作法の事、. は膨れあがっていった。結局、島津藩から商人へ納付し. ③中耕除草及害虫駆除予防の事、④製糖舎構造及糖用器具. ただけのことであり、商人に対する不当圧迫を排除するた. 器械を改良し砂糖品位を増進する事、⑤製糖法改良の事、. め、喜界島では暴動も惹起された。. ⑥模範共同製糖場建設奨励の事、⑦勤倹貯蓄の美風を養成. 明治20年には、大阪商人の阿部彦太郎が大島郡に来島し. する事、⑧砂糖共同販売即ち取引方法を改善する事、⑨前. てきたのを機に、これ以前から大島郡に入っていた砂糖商. 各項の外普通農事の改良及副業の発達を計る事などが挙げ. 人が一団となり、南島興産商社を設立し、双方で苛烈な競. られている。. 争になる。 島民も二派に別れたものの、 阿部の来島により、. これらのことから、明治期になり自由な砂糖の売買の制. 従来の貸借法が一変し、大島軍の砂糖取引における一大変. 度が導入されても、農業経営の甘さや市場見通しに対する. 革になった。しかし、明治24年には双方の商社が共倒れと. 無知などから、商人に搾取され、貧困に喘ぎ、訴訟や暴動. なり、これにより従来の砂糖目当の前借法が導入され、農. などを経ながらも、幕末からの砂糖の減退傾向は明治20年. 民の借金は深刻なものとなっていった。さらに、安価な洋. 頃まで継続し、明治30年頃に持ち直し始め、明治40年に入. 糖の輸入により、中央市場の糖価は下落し、島民は甘蔗栽. る前に回復傾向にいたるというのが実態であった。また、. 培から水稲栽培へ転換するものも現れた。. 当時栽培されていた主要なサトウキビは、“島ウジ”と呼. このように、 人心は不穏を極め、 訴訟が多発しながらも、. ばれる在来種であった(和泊町、1984年)。. 製糖技術は向上し始める。明治30年以降は鉄製の畜力に. このようにサトウキビ栽培が奨励されていたこともあ. よる三つ車式に進歩し、これに伴い圧縮歩留まりは50 〜. り、沖永良部島において、水稲栽培に関する技術改良はあ. 60%に向上した(知名町誌編纂委員会、1982) 。大島郡の. まり進まなかったようである。和泊町史にも、明治期の大. 砂糖生産と取引が正常化したのは、内地の機械制製糖糖業. 島郡内での米生産量は1年のうち8か月程度であり、さら. と台湾の新式製糖業の発達とその普及により、島内に製糖. に人口増加が米不足に拍車をかけたことが記述されている. 小屋が設置され、家族もしくは親族共同で製糖作業に従事. (和泊町、1984年)。. できるようになった明治37年以降のことである。. (3)大正期から太平洋戦争前までの砂糖政策と水稲生産. 表1 明治期の沖永良部島の黒糖生産量の推移 明治元年 1,740,347. 明治5年 903,193. 明治10年 1,578,892. 明治15年 1,305,375. 明治21年 688,840. (単位:斤) 明治25年 1,966,928. 明治30年 1,450,047. 出典)樋口弘「日本糖業史」第三編第一章第一部の資料から沖永良部島の生産量の み抜粋. 振興の実態 ①大正期の砂糖政策と水稲の生産振興 サトウキビの優良系統として、明治期に沖縄から読谷山 種が導入されていたが、普及したのは大正期になってから. しかし、家族もしくは親族共同の製糖作業となると規模. だと考えられている。一方で、沖永良部島の砂糖政策は島. が小さく、1つの製糖小屋で60kg(100斤)〜 120kg(200. 津藩の奄美統治時からサトウキビ(甘蔗)栽培と水稲栽培. 斤)程度の製糖能力しかなかった。畜力製糖機の推移とし. の両立が図られてきた。しかし、沖永良部島は平坦地の多. ては、知名町では畜力製糖小屋が明治39年頃666 ヶ所、明. く農業に適した島であったとしても、島そのものの限界と. 治41年頃701 ヶ所、明治43年頃445 ヶ所と、製糖小屋の数. して島外への農地拡大は不可能である。農業に適していた. は、家族や親族の事情により変化した。また明治25年に. ことから人口密度も高く、農地開拓の限界のため、水稲作. は、サトウキビの優良系統として沖縄より読谷山(ゆんた. は二期作が広がって行くことになる。これが普及するのは. んじゃ)種蔗苗を導入し、製糖量の向上のための品種選定. 大正末期とされている(知名町誌、1982年)。それまでは. が行われるようになったとされている。. 年一回の一期作が中心で、栽培品種としてモトニ、ゴトワ. また、製糖した黒糖の検査制度も導入されるようにな. セ(五斗早生)、ヒラチジコ(徳之島ジコ、盛高ジコ)が. り、明治20年に大島郡糖業組合を設立し、組合規制が行な. 栽培されていたという(和泊町、1984年)。これによれば、. われた。. モトニは最も古い品種とされ、神に供える餅や酒米として. 明治31年には郡村農会が成立し、それまでの農事集談会. 用いられていたようである。これに対してジコは粳米であ. が廃止された。明治34年に大島郡砂糖同業組合が設置さ. り、大正期には作付けの9割を占めていたとされる。これ. れ、沖永良部島には明治36年に郡農会が開設されている。. らは晩生種であり、脱粒性が高かったようである。残念な. 明治39年には大島郡販売組合が設置され、大島糖の販売改. がらこれら在来種は失われ、国や県の原種にも保存されて. 善がはかられた。. いない。水稲の二期作の試みは、大正4年に瀬名の瀬川重. また、サトウキビ(甘蔗)の栽培技術及び製糖技術向上. 光氏によって白ジコを使った株出(マタビヤ)法や、大正. のため、明治35年から農事巡回講話及び督励を行うため. 9年に美野入間氏による赤ジコによる二期作が初めとされ. に、農事巡回講師11名、糖業教授22名が奄美諸島を出張し. る。これらジコは長粒のインディカ米であった。大正11年. てまわるようになった。沖永良部島及び与論島には1名の. には二期作の収量安定のために下脚格子が導入された(和. 巡回講師が配置された。. 泊町、1984年)。. この巡回講師の指導は多岐にわたり、①肥料小屋設備、. 大正13年には、二期作が和泊皆川で47.5反、和泊古里で. - 92 -.
(6) 沖永良部島におけるサトウキビ栽培の歴史と農業用水利用 25.6反、知名竿津で26反、知名赤嶺で19反になったことが. 図2 栽培面積と10a当収量. 記されている(和泊町、1984年) 。しかし、沖永良部島は 台風被害が甚大な島である。台風を避けて栽培するための 栽培時期、栽培法の開発が長い年月をかけて試行錯誤され て、二期作が普及することになるのである。 ②昭和初期(昭和元年から20年まで)の砂糖政策と水稲 の生産振興 昭和初期は戦争に明け暮れた時期である。戦争遂行のた めに国民に対しては食料増産対策が打ち出された。松原治 郎らの『奄美農村の構造と変動』によれば、奄美群島にお いて昭和10年にはサトウキビ(甘蔗)の作付面積は4,000ha 程度で、水稲の作付面積とほぼ同程度であった(松原治郎 ら、1981) 。これに対して、サツマイモ(甘藷)は8,000ha. 出典)和泊町史(民俗編)、1984 年より抜粋. 弱と倍の作付面積に拡大された。これが昭和20年にいたる. また、水稲は5,000haと増加し、サツマイモ(甘藷)は. 過程で、サトウキビ栽培は1,000haを割り込むほど減少す. 7,000haで横ばい傾向であった。水稲は太平洋戦争開戦後、. る。. 6,000ha程度まで増加している。 しかし、図2に示しているとおり、一期作を見ると、戦. 表2 和泊町における太平洋戦争期のサトウキビ生産状況 年. 昭和15年. 昭和16年. 昭和17年. 昭和18年. 昭和19年. 昭和20年. 1,585. 1,570. 1,552. 1,514. 1,382. 1,265. 栽培面積(ha). 312. 319. 299. 256. 184. 53. 生 産 量(t). 1,230. 1,424. 1,590. 701. 95. 85. 栽培農家数. 前期までは台風被害などによる低収期は散見されるが、 200kg/10a以上のレベルであったものが、戦争後半の昭和 18年から昭和20年にかけて収量が低下傾向にあることが読. 注)和泊町編「和泊町史・歴史編」、1984 年、第九章第五節糖業事情の資料から抜粋. み取れる。. 改めて、表2の和泊町のサトウキビ生産状況を見ると、. 一方、サツマイモ(甘藷)は作付面積を一時期減少させ. 栽培農家戸数は昭和15年から昭和20年までに2割ほど減少. るが、昭和20年頃には作付面積を回復させ、横ばい傾向に. の79%程度だが、栽培面積は17%、生産量は7%にまで減. なっている。これらのことから、水稲は水田が必要であ. 少する。特に、戦争の遂行が厳しくなる昭和18年からは急. り、畑地から水田への転換は容易ではない。農業用水の確. 激に減少することになる。これは軍事戦略上も南方及び沖. 保も課題となる。そもそも奄美群島においては歴史的に水. 縄に近く、離島であったことから食料事情が悪化し、食料. の確保に苦労してきた地域である。それでも食料を自給す. 増産というよりも食料自給体制を整えなければならない切. るために水田を拡大し続けたのである。水稲栽培の拡大を. 迫した状況に置かれたためと推察できる。一方で、栽培農. 図りながらも、食料自給の中心にサツマイモが位置付けら. 家戸数はさほど減少せず、微々たる面積だが栽培が行われ. れていたことは、作付面積からも容易に推察できる。特に. ていた。これは生活上必要な砂糖生産を行っていたのでは. サトウキビ(甘蔗)の作付面積は減少し、昭和10年に比べ. ないかと考えられ、これが戦後のサトウキビ栽培回復の土. 25%まで減少する。サトウキビ栽培に利用されていた畑地. 台になったと考えられる。栽培農家がそもそも減少してい. が水田に転換されたところもあったと推察されるが、安易. たら、たとえ数年の期間であったとしてもサトウキビ生産. に水田転換が図れたとは、上述したとおり考え難い。しか. や製糖量の急激な回復は難しくなるからである。. し、サトウキビがサツマイモに取って代わられたとも言え ない。サトウキビの作付面積の減少と共に、サツマイモの. 図1 和泊町の水田の分布状況. 作付面積も減少傾向になっているためで、ここからサツマ イモ以外の多様な作物栽培が必要になったと見るのが妥当 であろう。 改めて、昭和初期に作付けられていたサトウキビ(甘蔗) の主要品種は、読谷山種と共に大茎種であった。大茎種は 昭和3年頃から栽培されるようになり、昭和17年頃にはほ とんどが大茎種に切り替わったことがわかっている(和泊 町、1984)。 (4)戦後から奄美返還までの砂糖政策と水稲の生産振興 終戦後、沖縄と共に奄美諸島はアメリカの占領下に置か れ、1953年までアメリカ軍政下でサトウキビ栽培が行われ. 出典)和泊町史(民俗編)、1984 年より抜粋. たことになる。実質8年間であるが、この時期の特徴とし て、太平洋戦争前から終戦まで、食料増産体制の強化を図. - 93 -.
(7) 野 村 卓 るため、サトウキビ栽培が減少し続けることになる。太平. 表3 農業基盤整備の歩み. 洋戦争末期には、本土からの食糧供給も期待できず、島で 生き抜くための自給体制の確立が求められ、換金作物で あったサトウキビ栽培は減少し、自給用に栽培される程度. 区分 緊急開拓. 社会経済 終戦. まで減少したと考えるのが妥当であろう。このサトウキビ. (昭和20年〜 23年) 農地改革. 栽培の減少傾向は終戦によって止まることになる。. 食糧増産. 終戦後、日本の統治下から外れ、食料増産を続ける必要 は無くなるわけだが、アメリカ軍政下において、サトウキ. (昭和24年〜 28年) 年計画 食糧増産5ヶ. とはなかったようである。戦場化することは避けられたと. 年計画. 以外の社会経済的要因が働いたことが考えられる。それは 戦後の植民地放棄により開拓地にいた移住者の回帰や、軍. 農政転換. 緊急開拓事業実施 要領制定. 自立経済3ヶ 土地改良法制定. ビを換金作物として増産する施策や島の方針が示されるこ はいえ、復興に重点が置かれたことは推察でき、農業政策. 農業基盤整備. 緊縮財政. 特土法制定. 県営かんがい排水. (昭和29年〜 35年) 経済自立5ヶ 事業創設. に徴収されていた兵員の復員による回帰が、日本全国で発. 年計画. 生したことにより、1戸あたりの耕地面積が低下し、自給. 特定土地改良工事 特別会計制度. 作物栽培への圧力が高まったことが考えられる。しかし沖 永良部島においては、さほど人口増加には至らなかった。. 農業基盤整備事業. 大正9年に27,037人であった人口は、アメリカ軍政下の昭. に改称. 和25年(1950)には25,732人であり、1,300人ほどの減少であっ たものが、返還された後の昭和30年(1955)には26,636人 と、900人の回復程度で収まっている。. 基本法農政. 国民所得倍増 ほ場整備事業創設. (昭和36年〜 44年) 計画. 農免農道事業創設. 沖永良部島は元々奄美群島の中では人口密度が高い島で. 農業基本法制 土地改良長期計画. あったが、それでも大正9年の286人から昭和25年には272. 定. 人と14人ほど低下する程度であり、アメリカ軍政下での食. 全国総合開発 特殊農地保全整備. 料生産の状況は、戦争期間中の食料増産体制の延長であっ たと考えることができる。このことから昭和25年頃までの. 計画. サトウキビ栽培面積は微増程度で推移することになる。そ. 新全国総合開. れでも1953年頃には昭和10年時の作付面積の4,000ha程度 まで回復する(松原治郎ら、1981) 。. 策定. 事業創設. 発計画 米の生産調整 県営畑地帯総合土. (5)奄美返還後から現在までの砂糖政策. 総合農政. 奄美返還後から現在までの砂糖政策を概観していく上. (昭和45年〜 54年) 新経済社会発 地改良事業創設. で、まず重要なのは農政の変遷過程を振り返ることだろ. 展計画. う。農業基盤整備の歩みによれば、奄美群島が返還されて. 水田転換特別対策. から、食糧増産—農政転換—基本法農政—総合農政—80年. 経済社会基本 事業創設. 代農政—新農基法農政と大きく転換を果たしていく。この. 計画. 農村総合整備モデ. 石油危機. ル事業創設. 過程で注目しなければならないのは、奄美群島は返還後、 地域での食糧自給率を回復させるために増産を図るも、10 年も経たずに農政の転換期を迎え、生産調整によって再び. 臨時行政調査 土地改良施設維持. 商業的農業への転換を迫られることになったことである。. 会第一次答申 適正化事業創設. 表3によれば総合農政期の昭和54年から昭和58年度ま. 国営畑地帯水源整. で、農林水産省により地表水の開発が困難な奄美群島にお. 備事業創設. ける農業用水確保のために地質調査を行なわれた。地下ダ ムは、地下の帯水層に止水壁を設置し、さんご石灰岩の隙 間に水を貯め、ここから灌漑用水として取水するためのも のである。. 80年代農政. 農政審議会答 農業集落排水事業. (昭和55年〜 64年) 申. 創設 土地改良区育成強 化対策事業創設. 出典)鹿児島県編『鹿児島県戦後農業史・下』 平成4年発行 第六章から抜粋. - 94 -.
(8) 沖永良部島におけるサトウキビ栽培の歴史と農業用水利用 改めて、この地下ダム事業は水田維持と水稲振興のため のものではない。畑作転換後のサトウキビ(甘蔗)やサト イモ、ジャガイモなどの芋類、ユリなどの花卉栽培を安定 させるための灌漑用水である。. 表4 水田の状況(35年和泊町資料) 区分 二期作田 一期作田 休閉田. 計. 面積. 257. 237ha. 167. 20. 乾田 湿田 171. 86. 水田の水利状況. 4 奄美返還後の農業振興の変遷と農業用水 奄美諸島が本土に復帰したのは1953年であるが、戦前期 から本土と奄美の経済条件は、島々の風土や歴史を土台 に、地域格差が見られていた。 『鹿児島県戦後農業史』に よれば、復帰時の格差は極端に大きかったと言われる(鹿 児島県戦後農業史上巻、1992) 。これら地域格差解消に向. 河川. 湧水. 天水. 溜池. 揚水. 計. 受益面積. 95ha. 73. 10. 72. 7. 257. 百 分 率. 37. 29. 4. 28. 2. 100. 出典)和泊町史(民俗編)、1984 年より. けて、 1954年に「奄美群島復帰特別措置法」 (5カ年計画) が制定され、1959年には法改正が行われて10カ年計画とな. 改めて、水田から畑作への転換が沖永良部島民に聞き取. り、更に1964年には「奄美群島振興特別措置法」 (5カ年. り調査を行っても、抵抗感なく転換に対応した様子が窺え. 計画)が施行され、1969年に期間延長がなされ、地域格差. るが、それは表4からも読み取れる。. の縮小が図られた。1985年時点で、一人当たりの所得は鹿. 大正期に二期作体系が確立、普及し、戦前までは一期作. 児島県本土住民比85、全国比65まで縮小した。. が主流であったものが、奄美返還後、総合農政期の転換期. 『鹿児島県戦後農業史』によれば、奄美群島の地域格差. までに二期作面積が最も多くなる。これには少々解説が必. の大きな要因として、耕地率及び林野率の違いが大きい. 要である。乾田、湿田面積の合計は257haであり、これが. とされ、奄美大島では耕地2.8%、林野84.7%に対して、沖. 実態としての水田面積である。ここから一期作田、休閉田. 永良部島では耕地43.4%、林野10.7%であり、平坦地の多. を差し引くと70haしか残らない。これが二期作となると、. い条件が復興に有利に働いたことは容易に推察できる。. 面積的には140haにしかならないはずだが、70haの3倍近. 1987年の「市町村別統計書」によると、和泊町で耕地率. い二期作面積になっている。これらは統計上、登録されて. 50.8%、知名町で耕地率37.8%になっていた。これにおけ. いる水田面積と実際の水田面積に開きがあったのではない. る水田面積は和泊町9ha、知名町3haの計12haしかない。. かと推察される。よって、島民の印象としては、一期作水. その上で、主要作物の作付面積の変化を見てみよう。萩. 田面積の方が多いにも関わらず、年間をとおして二期作水. 原茂によると、奄美群島全体としては1954年に18,430ha. 田における水田風景を見る時期の方が長くなる。これらに. の 作 付 面 積 に お い て 水 稲5,024ha(27%) 、サトウキビ. よって二期作に対する意識が強いのではないかと推察され. 3,298ha(18%)で、水稲の作付面積の方が多い。これが1988. る。. 年には15,644haにおいて水稲113ha(0.7%) 、サトウキビ. その上で、水田から畑作への転換だが、水利状況を見る. 11,387ha(68%)になり、作付面積の7割がサトウキビと. と、河川利用が37%と最も多いが、湧水、溜池、天水、揚. いう状況になる(奄美群島の概要) 。. 水利用が63%に上る。これらにより、水不足に対して強く. 更に1960年の鹿児島県農林水産年報においても、奄美群. 意識されると考えられる。経済、社会的にも豊かになり、. 島において水田面積4,229haに対して水稲作付面積5,849ha. 自給的生産から商業的生産への転換が意識しやすくなった. と上回り、2期作が行われていたことになる(鹿児島県農. とも考えられる。. 林水産年報) 。これらをふまえて、 『鹿児島県戦後農業史』. 5 島嶼ESDを念頭に置いた農地と水利用の系譜—甘蔗. においては、奄美返還後〜 1960年頃までは水稲や芋を自. 栽培と水田の関わり−. 給用の食糧生産として家計を支える伝統的な農業が行われ. 前節までに明らかにした甘蔗と水稲の作付けの変遷を通. ていたが、換金作物の普及による商業的農業へ転換が模索. じて、沖永良部島において水田から畑作に転換されたこと. されたわけだが、この時、沖永良部島においては伝統的に. により水利用量が減少し、これによって農業用水利用が持. 栽培されてきたサトウキビ栽培とユリ栽培を拡大すること. 続的なものになったとは言えず、それよりもサトウキビ栽. によって転換が図られてきたことは、一つの特徴である。. 培が戦前からないことが明らかになった。. これに伴い、奄美群島では水田が畑地に転換され、水田作. 『鹿児島県戦後農業史』によれば、奄美諸島の農業構造. が皆無に近い状態となり、沖永良部島も同様の傾向にな. 改善において、水田の土地改良とは異なる「畑地に水を引. る。これらは1970年以降、米の生産過剰に伴う生産調整事. いた」畑地かんがい事業は、畑地の集約的利用を後押しす. 業の展開によって、土地改良が進み、畑作化が助長された. る内包的なフロンティア開発だと指摘する。このフロン. のである。. ティア事業によって奄美諸島の島々で農家の経営耕地面積 に大きな差を生み出すことになる。1960年の「農林センサ ス」によると、1戸当たりの経営耕地面積が奄美大島(龍 郷町)において43aに対して、沖永良部島(和泊町)は78a. - 95 -.
(9) 野 村 卓 の差であった。これが1985年になると奄美大島(龍郷町). 操担頸編「沖永良部島沿革誌私稿」. において55aと微増しかしなかったのに対し、沖永良部島. 『沖永良部島郷土史資料』和泊町、1968年. (和泊町)は152aと倍増し、奄美大島の3倍にも格差が開. 鹿児島県編「斉彬公資料」『鹿児島県史』. いた。また、1985年には3ha以上の経営耕地面積をもつ農. 鹿児島県編「薩摩藩法令史料集」『鹿児島県史』. 家が奄美大島(龍郷町)において0.5%しかいないのに対し. 鹿児島県編「島津家歴代制度」. て、沖永良部島(和泊町)においては6.3%も存在している。. 『鹿児島県史料 薩摩藩法令史料集』. このような格差は、1965年以降の世界的な市場経済の流れ. 松下志朗編「輿論在鹿児島役人公文綴」. に伴い、農業生産構造を転換できたか否かだけではなく、. 『奄美史料集成』. 山林面積と共に、農地の転換に伴う農地面積減少率の高低. 先田光演「沖永良部島における砂糖政策」. も影響を与えており、奄美大島ではもともと少ない農地が. 『藩政時代の沖永良部島の記録』和泊町、2009年. 転換されて減少してしまえば、規模拡大は困難になる。一. 鹿児島県編『奄美大島之糖業』第1巻、第2巻、. 方、沖永良部島(和泊町)では、山林面積が少なく、農地. 大正9年. 面積が1960年に1,733haから1985年に2,090haと増加する中. 知名町編『知名町誌』、知名町誌編纂委員会、. で、規模拡大が可能になっている状況を理解する必要があ. 1982年. る。. 和泊町編『和泊町誌』和泊町誌編纂委員会、1985年. これらのことから、沖永良部島の畑作転換の歴史は、他. 鹿児島県編『鹿児島県戦後農業史』上巻・下巻. の奄美群島の歴史とは異なり、薩摩藩による強制転換の影. 鹿児島県戦後農業史編纂委員会、1992年. 響は少ないと見ることができ、これよりも昭和の生産調整. 樋口弘『日本糖業史』、内外経済社、昭和31年. によって転換が進んだといえる。沖永良部台風などによっ. (1956年). て水稲が壊滅的な打撃を受け、畑作に転換されていったよ. 松原治郎・戸谷修・蓮見音彦編. うにも思えるが、自然災害は転換の後押しをした程度が実. 『奄美農村の構造と変動』御茶ノ水書房、1981年. 態といえよう。生産調整以前にも注目すべき点がある。水. 鹿児島県編『鹿児島県農地改革史』1954年. 田開発の限界から二期作の導入は大正期になってからで. 大井浩太郎・恵原義盛『沖縄・奄美の生業1農林業』. あったが、昭和期には台湾から台中六五号の導入により、. 明玄書房、1980年. 多収が得られたことにより作付けが増えたことなど挙げら. 野村卓「沖永良部島における農業用水利用とESD展. れる。こうして見てくると、沖永良部島の農業は自給的生. 開に関する研究」『釧路論集47号』2015年. 産と商業的生産を繰り返してきたと言える。それは沖永良. 萩原豪・元木理寿・野村卓「沖永良部における湧. 部島の地理的、風土的条件に加えて、これに対峙してきた. 水池を用いたESD実践とその波及効果」. 島民の努力の結果ということができる。その上で、今後の. 日本環境学会第41回大会発表要旨、2015年. 沖永良部島における農業用水の持続的利用を考えた場合、. 萩原豪・元木理寿「沖永良部島における湧水地調. 改めて地下ダムなどの設備の充実だけではなく、島民のマ. 査プロジェクト」鹿児島大学稲盛アカデミー紀. ンパワーに対する再評価が必要なのではないだろうか。島. 要第3号、2012年. 民の減少などの要因が社会的要因に対する適応性を低下さ. 元木理寿・萩原豪「鹿児島県沖永良部島における. せ、設備的には持続的機能をもたせても活用できない状況. 水環境と生活水利用の現状」常磐大学コミュニ. に陥れば、持続的な水利用は維持できないのである。. ティ振興学部紀要第13号、2011年 萩原豪・元木理寿「鹿児島県沖永良部島における. 引用・参考文献. 水資源とエネルギー問題を中心としたESD. 原口泉ほか『鹿児島県の歴史』山川出版社、1999年. (持続可能な開発のための教育)の現状と課題」. 大江修造『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』. 鹿児島大学稲盛アカデミー紀要第2号、2011年. アスキー新書、2010年 田畑勇弘「奄美郷土研究会報」第3号、 奄美郷土研究会編、1962年 皆村武一『奄美近代経済社会論』晃洋書房、1988年 和泊町編「沖永良部島代官系図」 『沖永良部島郷土史資料』和泊町 松下史郎編「南嶋雑集」 『奄美史料集成』南方新社、 2006年 松下史郎「薩摩藩の藩政改革と奄美大島からの収奪」 坂口徳太郎『奄美大島史』大和学芸図書、1921年. - 96 -.
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