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現代の子ども・青年の発達における「幼なさ」

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(1)

現代の子ども・青年の発達における「幼なさ」

の諸相について

坂 元 忠 芳

     1.はじめに

一「幼なさ」の今日的問題性一

 近年,子ども及び青年の発達をめぐって,その「幼な さゴ1)(幼稚性)とみられる事実を指摘する声が高い.

 1) ここで「幼なさ」(幼稚性)というのは,とりあえず,

  一般にイソファソティリゼーショソ(infantilization)

  といわ飯る事実を指す.それは,「幼児性」(幼年期におけ   る「幼なさ」)と「少年性」(又は「少女性」)(少年期にお   ける「子どもらしさ」)の両者をふくんでいる. しかし,

  のちに本論で展開するように,現代の「幼なさ」は「少年   性」のいわば「喪失」にも似た現象として,つまり,「幼   児性」と「大人性」との分極化として,あらわれているこ   とが問題だと思われる.

 手足やその他のからだの動きの「ぎこちなさ」.極端 な「やさしさ」と 「素直さ」.感情表現の過剰性と衝動 性.甘え,自己中心性,ナルシシズムの残存,v現実逃 避.自立への不安と恐怖など.その表現は,時に対応 し,矛盾して,さまざまであり,それらがあらわれる段 階も,いわぽ少年期から,思春期,青年期にいたるま で,幅広い範囲にわたっている.また,それらの原因 や,それらにたいする数育的・治療的対応,そしてその 可否についての議論もいくつかの点ではじまっている1).

 1)教育的対応では,例えぽ「幼なさ」をさまざまな面での    「発達疎外」としてまずおさえ,それらにたいする働らき   かけのあり方がさぐられている.しかしそのなかで,思春   期にあらわれる「幼なさ」を精神分析学でいう一種の「退   行」や,ある意味での幼児期の「反復」としてとらえる見   方」や,今日の大人社会とそこでの支配的価値にたいする   一種の「抵抗」の意識的・無意識的表現としてみる見方が   出されている(r現代社会における発達と教育研究報告集』

  第一集,1984年3月,日本教育学会「現代社会における発   達と教育」:研究委員会).9また治療こ的対応では,「幼な   さ」を発達における一種の「症候群」としてとらえるいく   つかの著作が醗訳・出版され,そうした観点から治療の実   際も紹介されはじめている.(ダン・カイリー『ピーター・

  パンシンドロームなぜ,彼らは大人になれないのか』小此   木啓吾訳,祥伝社,1984年.Dan Kiley, The Peter   Pan Syndrome, men who have never grown up,

  1983.ダン・カイリー『ウエンディ・ジレンマ 愛の罵,,

から抜け出すために』小此木啓吾監訳,尾島恵子訳,祥伝 社,1984年.Dan Kiley, The Wendy Dilemma, 1984.

コレヅト・ダウリソグ『シソデレラ・コンプレックス 自 立にとまどう女の告白』木村治美訳,三笠書房,1982年,

Colette Dowling, The Cinderella Complex, women s hidden fear of indepe ndence, 1981.木村治美,木村 駿rピーター・パンとシンデレラ』広済堂出版,1984年.

など)

 なお,現代における「幼なさ」を人類の「退行的進化」

としてとらえる「マンチャイルド論」(ダビヅド・ジョナ ス,ドリス・クライソ『マン,チャイルド 人間幼稚化の 構造』竹内靖雄訳,竹内書店新社,1984年David Jonas and Doris Klein, Man−child, a study of the infantilization of man,1970.)や現代の「幼なさ」を むしろ「人類進化の知恵」としてとらえかえそうとする論

(福島章『幼児化の時代 子どもっぼくて,なぜわるい!』

光文社,1982年)も出されており,この問題をめぐって,

教育学の立場から綜合的な解明が要求されてきている.

 ところで,はじめに注意しておかねぽならないのは,

このような「幼なさ」の指摘とはうらはらに,最近,子 ども及び青年のなかに,はやくから「大人っぽさ」(「大 人性」)があらわれ,いわゆる「大人びた」子どもの問題 性一「子ども時代」の「喪失現象」や子どもが「子ど

も時代」を充分に過すことなく,「大人」になっていく ことへの危惧が表明され,その原因と,それらにたいす るさまざまな対抗手段の探求が行われはじめていること

である1).

 1)例えば,アメリカでの最近の著作で翻訳されたものに   は,マリー・ウインr子ども時代を失った子どもたち』平賀   悦子訳,サイマル出版会,1984年,(Marie Winn, Child・

  ren without Childhood,1981)やニール・ポストマソ    r子どもはもういない 教育と文化への警告』小柴一訳,

  新樹社,1985年(Neil Postman, The disapPearance   of childhood,1982)がある. とくに後者は,いわゆる    「社会構造」としての「子ども期」が16世紀に出現し,そ   れが現代の映像文化のもとでの「大人一子ども」の出現に   よって消滅しつつあること,またそれに対して,どうする   かをいくつかの間題として提出している.なお拙著r小学   生の心とからだ一「子どもらしさ」を育てる』(岩波書店,

  1984年)も,「子どもらしさ」の「喪失」ともみられる現   象を,主として少年期の「能動性」の観点から解明しよう

一1 一

(2)

とした一つの試みである,

 ここで,現代の子ども及び青年をとらえている「大人        ひ っぽさ」の本質が何であるかが,あらためて問われなけ

ればならないが,いずれにしても,重要なことは子ども 及び青年における「幼なさ」の指摘がその「大人っぼ さ」の指摘といわぽ,うらはらになされていることであ ろう.そしてこの点に,今目の我が国における子ども及 び青年の発達をめぐる一つの特徴的な問題が出されてい ると考えられるのである.

 実は,本稿を展開するなかで,以上のことは次第に明 らかになっていく筈であるが,この問題は,人間の発達 段階性というものを,ひろく,その自然史と社会史のな かで,もういちど根本的に把えなおすことを意味し,そ の解明は,未来の人間のあり方を,現代において把えか えすという,大きな問題のそれに位置つくものであろ う.そして,このことは,今日の教育実践の基本的構造 を,教育学の立場から,もういちどみすえなおすという 作業にもつながるものであろう.

 その場合,小論では,この課題を,主として,現代日 本における,子ども及び青年の「同一化」作用の危機と 教育実践という観点からとらえなおしてみたいが,それ はさしあたって,次のような仮定にたってのことである.

 一口にいえぽ,現代における「幼なさ」にせよ「大人 ぼさ」にせよ,それらは子ども及び青年の発達における ある種の両極的な現象としてあらわれているのではない か,ということ,しかも,この現象が彼ら一人ひとりの 内部における,ある性質のするどい「分極化」としてあ らわれているのではないかということ.このことは,こ うした仮定にたって立論を展開しようとする私たち大人 の主体と何か無関係の形で,現象しているのではなく,

大人自身のなかに,実は内在化し,自己の生き方を深い ところで実存的に規定しつつあるものとして直観される ものである.一少くとも私にはそのように感じられ る.そして,私は,このことを必然化させている今目の 日本の現実状況とその変革の課題として,この問題をと らえ返さなけれぽ,その本質はみえてこないのではない か,と思えるのである.

2. 「幼なさ」の現象形態

 ところで,「幼なさ」の現象は,まず,身体,情動,

認識,さらには,自己意識などの面での「幼児性」の一一 種の「残存」状態としてとらえることができよう.手足 やその他のからだの動きの「不器用さ」や「ぎこちな さ」についていえぽ,小学校の中・高学年になっても,

それらがまとまった感じでなく,ぼらばらになっている とか,まるで赤ん坊のような動きをいつまでも保ってお

り,手にまるで指が「技のようについた」子ども1)

が少からずみられるといわれる.極端な「やさしさ」と

「素直さ」,およびそれらの「喪失」にたいする情動と感情 の「過剰性」と「衝動性」についていえば,同じ時期に,

受動的な愛情関係にいつまでもひたっていたいという欲 求がきわめて強く,それとうらはらに,そういう関係か        に らはずされて,ある抵抗的な関係の中に入ると,どうし ていいか分らず,例えば,学習課題ができなくて泣いて しまったり,ささいなことでけんかになって,幼児のよう に泣きつづけたり,気になることを級友から言われただ けで,すぐにも涙がでてくるというような子ども2)が多 くなっているといわれる.また,耐性と責任感の稀薄さ についていえぽ,教師が何かなおすべきことを注意して も,きき入れないで,すく物をほうり投げたり,食って かかったりする子どもや,集団で決めたことなど,全く 意に介さないで,勝手にふるまう,いわゆる「わがまま な」子どもが多くなっているといわれる.

 1) 目沢史子(江東区南砂西小)第34次東京都教研集会「能   力・発達・学習と評価」分科会での報告参照.

 2) 斎藤憲夫(葛飾区明白小)「9〜10歳の課題をふまえた  学級づくり一rもうひとりの自分を育てる』」同上分科会.

 また,甘えや自己中心性,ナルシシズムの残存1)につ いても,いつまでも,べたべたと教師や親にくっついて いたがったり,自分中心の観点からしか考えたり,話し をすることができないような子どもが多くなっていると いわれる.

 1) ここでは,後にみるように,二次的ナルシシズムでは   なく,一次的ナルシシズムを問題にしている,(クリストフ   ァ・ラッシュ『ナルシシズムの時代』石川弘義訳,ナソメ   社,1981年,66ページ参照Christopher Lasch, The   Cultuer of Narcissism−American Life in An Age   of Diminishing Expectations,1979.)

 たしかに以上の例は,いずれも,小学校の中学年から 高学年,さらには中学校での子どもたちの「幼なさ」の,

ある今日的状態をあらわす姿であろう.だが,よく注意 して分析してみると,そこには,たんに幼児期にみられ る,ある性質の残存性とか,「育ちそびれ」とかとだけは見 られないモメソトが含まれていることに気づかされる.

 例えば,子どもの体や手足の「ぎこちなさ」にして

も,何か他者との交流をひどくさまたげられていて,体

と心がこわぼっているためにおこっているようなところ

がみられ,単純に幼児性の残存だとみなされないような

2

(3)

ところ,むしろ,或る場合には,大人びた機械人形のよ うな,おかしげなところもみられるように思われるので ある.感情の「過剰性」や「衝動性」についても同じ で,そのことは,最近よく話しに出される,小学生の

「泣く子」の増加1)についてみても感じられるところであ

る.

 1) 例えぽ,教育科学研究会第23回大会・第3分科会「能力   ・発達・学習」での討議でこのことが出されている.柳生   浩「発達の筋道と教育実践の課題を求める」(『教育』1984   年11月増刊,52ページ)

 例えば,4年生の受け持ちのクラスで,「泣き虫」と いわれる数人の子どもたちについて,斎藤憲夫氏が報告 したものを見ると,たしかに彼らの幾人かは,予防注射 がこわいといってその直前から泣き出して,それに何人 もの女子が「もらい泣き」してしまったとか,また,自 分の思っていることが人前で言えなかったり,要求がと おらなかったりすると,すぐ,「いじけ」て涙ぐみ,さ らに,まわりからそれを指摘されて,すぐにも泣き出し てしまう,というように,一見ひどく「幼ない」ものが 感じられる.

 1) 斎藤憲夫,前掲報告書,及び,研究集会当日(1984.11.

  10)の発言より.

 しかし,これらの例でさえ,少しつっこんでみていけ ぽ,たんなる「育ちそびれ」とみるのとは少し違った見 方も可能になってくるのではないかと思われる.つま

り,今日の学校体制のなかで,子どもどうしの,心から の共感関係が成立しにくくなっている状況を考えあわせ ると,子どもたちは,あらゆる場面で他者と感情的に同 化したいという強い要求をもち,それがさまたげられる 程度にしたがって,多かれ少かれ,幼児的な感情にもど って,現実に適応せざるをえないところに追いこまれて いるのではないかと想像されるのである.

 このように想定してみると,一見幼児的な振るまいが しばしぽ見られるといっても,そこには,同時に,はや くから,現実の疎外された人間関係にたいする強い拒否 の姿勢が見えかくれしているのではあるまいか.したが

って,ここで,こうした拒否の姿勢と幼児性のあらわれ との関連をもう少し,子どものおかれている全体的状況 との関連で,微細にみてみる必要があるのではないかと 思われるのである.

 すなわち,「幼なさ」のあらわれを,「幼児性」とは一 見するどく対立するかに見える,もう一つの状態からみ てみると,その本質がいま少しよくみえてくるのではな いか,と思われるのである.というのは,同じ「幼な

さ」といっても,さきの「泣く子」にみられるような感 情過敏や感情過剰とは,一見反対の現象,いってみれ ぽ,人間関係に全く気づかいをみせない,けろっとした無 関心や,他者感覚の欠如としてあらわれる,ある種の感 情欠落性が,他方で,いま,子どもたちのなかに多くあ らわれているといわれるのである.これは,「幼児性」

というよりも,ある種の「大人性」一大人社会のいわ ぽ防衛的な無関心的日常性にいちはやく子どもがとらえ

られ,「子どもらしさ」を失っているともみられる現象 だろうが,このような状態もまた,見方によっては,

「幼なさ」の現代的あらわれとみられないこともないの

である.

 つまり,これまで「幼なさ」のあらわれとみられてき たことがらが,たんに,「幼児性」の残存としてだけで なく,一種の「大人性」の現象としてもあらわれている ところに,今日の重要な特徴があるとも考えられるので

ある.

 このように仮定してみると,「幼なさ」のあらわれが,

実は,本来の意味での「幼児性」としてだけではなく,

「子どもらしさ」1)の欠如として,ある大人っぽさの形で 現象してきているところに,もう少し注目する必要があ るといえるだろう.

 1)chilidish,又はinfantilのことをさす.

 すなわち,一方では,「幼児的」な受身の愛情関係に たゆたいつつ,しかし,他者への日常的気づかいのくり かえしのなかで,自己の感情を表現し,他者と共感しよ うとしてはたせないいらだちが,きわめて大人びてみえ る感情過敏性や感情過剰性として,共存し,他方では,

そのような状況下では,日常生活をひと時も過していけ ないが故に,他者への気づかいを全く示さない,大人び た防衛的無関心性や感情遮断性が,さきの幼児的な受身 の感情と交りあって,ある「幼なさ」の現象としてあら われているのではあるまいか.

 ところで,これらの現象は,きわめて自然に考えれ ぽ,少年期における「子どもらしさ」が,「幼児性」と

「大人性」 とに,いわぽ分断・分極化されて,実体を喪 失しつつある姿であるとも考えられよう.それは,今日 の子ども及び青年の発達における少年期の喪失の進行と

もいってよい状況であろう.

 だが,この状態をもう少し見ていくと,そうした事態 の奥に,より本質的な現代的問題が深刻に横たわってい ることが想定されてくる。

 まず,第一に,現代の「幼なさ」のあらわれは,一面

では,極端な「やさしさ」や「素直さ」など,受身的な

(4)

愛情関係への持続したたゆたいへの欲求として,純粋性 を帯びた,ある退行欲求として,あらわれていること.

 しかし,第二に,それば,さきにみたように,そうし た愛情関係がやぶられる状況のなかでは,感情過敏性や 感情過剰性として,子どもの幼児期への退行欲求の疎外

・おしとどめとして,あらわれていること.

 さらに第三に,それは一見,大人めいた防衛的無関心 性や感情欠如性として,さまざまな葛藤にみちた思春期 や青年期への子どもの移行欲求,総じて大人への前進欲 求の疎外・おしとどめとしてあらわれていること.

 第一の側面は,すでにみたように,子どものなかの幼 児性の残存が,幼児性を喪失させる状況のなかに投げ入 れられることによって,はやくから幼児期への退行欲求 と強く結びについている事態を示していると見られよ う.第二の側面はこれに反して,他老への気づかいのな かで,子どもが不安定な感情の動揺,とりわけ,他者へ の羨望,不信,憎悪などの感情へと投げこまれ,大人社 会における敵対的競争関係のなかであじわう葛藤ときわ めて似かよった感情をすでに経験し,そうした感情葛藤 から逃れて,幼児期の自然一体性へと退行することがで きない,いらだちを示していると見られよう.そして,第 三の側面は,そのような感情葛藤から逃避して,一見,大 人っぽい無関心さのなかに自己を閉じ込めつつ,気づか いに満ちた人間関係にまきこまれることから,無意識に 自己を防衛しようとする,あるたゆたい一第一のたゆ たいとは異なる方向の一を示していると見られよう.

こうして,強い退行欲求と,退行できないいらだち.退 行できないいらだちと前進しようとしない,または,前 進できないたゆたい.これらが,するどい矛盾構造とな って,今日の子ども及び青年の「幼なさ」のあらわれの 全体を形づくっていること,しかもそれらの各々が,多 かれ少かれ一人の人間の内部に共存しているに違いない

こと.そのように想定されるのである.

 だが,同時に,ここで,私たちは,さらに重要な特徴 に気づかされないわけにはいかない.それは,こうした 現象の各々が,きわめて緊張にみちた両極的あらわれを 示し,それらが分裂しているにもかかわらず,そうした 分極化が,互いに引きあっていて,徹底的に分裂しえな いという事実である.もちろん,この分極化は,より病 理的な状況の進行のなかでは,さまざまな神経症的症候 群をあらわさざるをえないけれども,「幼なさ」が,あ る「宙づり」の状態を示している限りでは,完全な分極 化が不可能でもあるということ,一このこともまた,

今日の子ども及び青年のおかれている現実を示している ように思われる.

 以上やや抽象的に仮定を述べてきたけれども。この分 極化の状態は,くりかえすことになるが,「少年期」のい わぽ「喪失の進行」を意味しているといってもよいよう に思われよう.だがそうはいっても,それは,明らかに たんなる「幼年期」の停滞と持続なのではないことも事 実である.それは,「幼年期」にとどまりたいという欲 求と同時に,「幼年期」をすでにはなれて,年令は「少 年期」から,ある場合には「思春期」に入っているにも かかわらず,その発達が疎外された「幼児性」と,同じ く疎外された「大人性」とに分裂させられ,それへのい わぽ「宙づり」を示している姿とみられよう.

 それは,従来の共同体的関係における多かれ少かれ自 然的一体性から,市民社会的関係における諸矛盾の深化 のもとでの人工的分裂性への「飛びこえ」がつくりだし た,現代日本の,一とりわけ「高度成長」期以後に特 有のするどい社会矛盾の表現とみられる現象なのではあ るまいか.そして「少年期」の喪失とは,いわぽ,そう した分極化を橋架させる,とりあえずは中間的段階の喪 失の進行としてあらわれているけれども,本質的には,

そうした「宙づり」の状態がつくりだしている現実のな かから,ぎりぎり新しい関係の創造への探究の努力方向 をその「転倒」した姿において,象徴的に示している姿 でもあるのではないか.

 この仮定はやや唐突にすぎるとみられるかも知れない が,このように考えると,「少年期」のあり方は,たん に人生の発達段階の一定の過渡期としての意味をもって いるのにとどまらない姿,おそらく,ある意味で,自然 的共同体的関係から,新らしい社会的関係への「渡り行 き」の未来の状態をかいま見せていて,したがって,その       ネガ

「喪失」の進行状態は,そのような可能性を,いわば否 定的な姿で示しているとみられるものではあるまいか.

テイヴ

つまり,少年期の構造は,つきつめていくと,この「渡 り行き」の中間的形態が,未来の社会のある構i造の原型        ヨネカテイヴ

的要素を示していて,その喪失進行の否定的な形態の,

全発達段階へのひろがりが,未来のある社会構造をその

「転倒」において発達のアスペクトからかいまみせてい るものとして,とらえられるのではあるまいか.誤解を おそれずにいえぽ,かがやかしい少年期の世界のなかに,

未来の社会がかすかにさきどりされているようにみえて いる,そのような世界の,現代における見えかくれ,そ して,そのような世界の幕開けと幕引きとしての「幼な さ」の現代的あらわれ一これらが「幼なさ」のいわば,

発達段階性の現代的本質のあらわれなのではないか.少 くなくともそのように感受されるのである.

 だから,さきにみた「幼なさ」のあらわれのうち,手

一4

(5)

足やその他のからだの動きの「不器用さ」や,受動的な 受情関係への感情表現である極端な「素直さ」や「やさ しさ」は,明らかに,子ども及び青年が「幼年期」にいつ までもとどまっていたいという願いを強く示していると しても,それらが,身体や感情の表現の過剰性や過敏性

;衝動性をうらがわにもっている場合には,すでに,幼年 期から少年期に渡りえない矛盾の激化が示されており,

耐性と責任感の稀薄さ,著しい退行願望,甘えや自己中 心性,ナルシシズムの残存,現実逃避,自立への不安と 恐怖などは,従来いわれてきた少年期へと充分に渡り行 けないまま,さらに思春期や青年期一総じて,これま での意味での「大人」へと渡り行きやらぬするどい矛盾 が示されているとみてよいのではないか.

 もしそうだとすれば,「幼なさ」は,思うに,もとに 止まりたいという状態と同時に,二重の意味で,そこに いたりえないという状態のあらわれのからみ合いとみら

れよう,

 それぽ,今日の「幼なさ」が,情動のナイーヴな自然 性を保持しようとする受動性と結びつきながら,他方で,

その自然性を矛盾にみちた市民社会的関係のとり結びに 能動的に転化できないまま,いらだちとたゆたい(不安定 とつかの間の安定)の間をゆれ動いている姿を示してい よう.けれども,それは,実は,子ども及び青年の問題にと どまらず,自然的状態から矛盾にみちた市民的状態への 現代的道行きをするどく切断されて生きざるを得ない今       り

日の大人自身の問題でもおそらくあるのではないか.つ まり,そこでは,今日の情勢がもたらす諸矛盾の,子ど も及び青年と大人への発達の反映のまさに同一性がかく されているように思われる1).それは,今日,すでにさ まざまな形でいわれている症候群一ピーターパソ・シ ソドローム,シンデレラ・コンプレックス,アパシー・シ ソドロームなどが,一部の大人をとらえている姿をおお かたは集約しているものだろう.それは,これらの症候 群の共通した特徴のうちに,「幼なさ」の深い浸透や,

幼年がえりへの強い願望・ノスタルジー,またそのこと が不可能による感情過敏・過剰性や現実適応のための能 動的活動への忌避,さらには,それへの防衛的な無関心・

無感動性などが,ひろくみられることからも推察される だろう.これらの事実は,今日の大人が,地域共同体の 崩壊と市民社会のするどい矛盾をもたらした「高度成長」

期以後の子どもの成人化の姿としてだけでなく,それ 以前に少年期を過した世代の成人(おそらく40代以上)

のある姿一極端な場合には病理的傾向となってあらわ れる一としてもおさえられるものだろう.

 1) この点でさきに挙げたニール・ポストマンが,今日では

一方の極に「幼児期」,他方の極に「ε年期⊥その距いだ には「大人一子ども期」ともよんでいいものざもると述べ ているのは大たんな図式だカ

(膏行ま昌}碁㌻, 148一く一シ)

  」ニヒ/三「1白t7もミこ爵寸 1こ r・旨 し よ う ,

 もしそうだとすれば,「幼なさ」は,我が国:こおける

「高度成長」期以後の社会的矛盾の深化のなかで,二つの 面で,子どもをも大人をもとらえている姿だと想定され よう,すなわち,一方で,従来の共同体における自然的一 体性の,ほとんど類例のない速度での崩壊が,子どもの なかにも大人のなかにも,きわめて強烈な自然的一体性 にたいする防衛本能のあらわれとしての「幼なさ」への たゆたいをつくりだしているということ,他方で,市民 社会的関係の矛盾の深化一あらゆる社会関係の「物 化」=「物象化」の傾向による,自然的一体性から市民社 会的分裂への「渡り行き」の中間的過渡的形態一従来 の「少年期」の姿にもっとも典型的に示されていた一 の激烈な喪失の進行が,子どもと大人のなかに「幼年 性」と「大人性」への「同一化」1乍用の分極化をもたらし,

さらにその分断不可能性を示す「雷ずり」状態をもつく りだしているということ.だから,「幼なさ」は,本来,

インファソテイリゼーショソとして,社会史のなかで近 代以後,子どもが大人の社会労働から解放されて,自由 な創造活動一一一一遊びと学習に象徴される一に「子ども 時代」をとおして,したがえるようになったこと,しか も,それが,大人世界への抵抗として,また,そのよう な性格の大人世界への延長として,進化的な意味をもつ 現象だとしても,今日では,それは我が国:こおける「高 度成長」期以後の子ども及び大人の「同一化」作用の危機 を象徴的に示すものとして,危機的構造をもつにいたっ ていること.イソファンティリゼーションを可能にして         きた社会的条件が,ラディカルな意味での「創造的進化」

としてのインファンティリゼーションを困難かつ不可能 にしつつある状況.したがって,くりかえすが,インフ ァンテイリゼーションが,「幼児性」と「大人性」へと 分極化させられ,しかもそれが,一種の「宙づり」状態

としてあらわれているということ.一これが,現代の 子ども及び青年をとらえている「幼なさ」の本質なので はあるまいか.

 ところで,このような「幼なさ」の性格把握は,はじ めにあげた多様な「幼なさ」の諸相を,どこまで構造的 にとらえることを可能とするのだろうか.そして,それ は,今日の教育実践の構造的把握にどのような本質的転 換をせまるのだろうか.

 このことを,さきの,自然的一体性から今FIの市民社

(6)

会的関係性への「渡り行き」の矛盾のもっともするどく あらわれる思春期の「幼なさ」の現象に沿っていま少し みてみよう.

3.思春期にみられる「幼なさ」の   同一性と教育実践の課題

 現代日本の子どもたちが,小学校の高学年から,中学 生にいたる過程で示しているさまざまな形の「幼なさ」

は,最初に示しておいた事例の後半部分一とりわけ,

著しい退行願望,甘えや自己中心性,ナルシシズムの残 存,自立への不安と恐怖などとして,まずはとらえられ るものだろう.そのことは,部分的にではあるが,今日 理論的にも指摘されている(例えば,村瀬孝雄r中学生 の心とからだ一思春期の危機をさぐる一子どもと教 育を考える10』岩波書店,1984年で著者は思春期におけ る「甘え」についてふれている).

 だが,これらの現象を,思春期における「幼なさ」の 反復についての,精神分析学によるいわば古典的理解1)

をこえて,今日の社会的・教育的状況のなかでとらえる ならば,どのような特徴が浮かび上ってくるのであろう か.私はそこにいくつかの重要な特徴を指摘することが できるように思える.

 1) フロイド『性と愛情の心理』安田徳太郎,安田一郎訳,

  角川文庫,(Freud, Drei Abhandlungen zur Sexualthe−

  orie,1905)120ページ.およびA.フロイド『自我と防   衛』外林大作,訳誠信書房.(Anna Freud, Das Ich   und Abwehrmechanismen,1936.)213〜4ページ参照  第一に,一般に思春期における「幼なさ」の残存とみ

られていた事実が,登校拒否などの病理的状態のなか で,第一の「分離一個体化」の過程をも充分経過してい ないような極端な「幼なさ」としてあらわれていること

である1).

 1) 横湯園子「登校拒否の子どもたちについて」, 田中孝彦   「横湯報告についてのコメント」r現代社会における発達と   教育研究報告集第一集』1984年,「現代社会における発達と   教育」研究委員会.

 第二に,「幼なさ」の分極化=「宙づり」状態と見られ る事実が安定一不安定のいくつかの分化した姿としてあ らわれているとみられること.すなわち,比較的に安定 した「幼なさ」の無意識的表出から不安定な「幼なさ」

の潜在的表現へ,さらに,それの顕在的表現,さらに,

それの退行・消滅的表現への移行がみられることである.

 ところで,こ5 したあらわれは,思春期における「幼 なさ」の危機的構造のいっそうの深化としておさえられ るものだろうが,それらは,一人ひとりの子どもの中で

自然的一体性から今日の市民社会的関係性への「渡り行 き」の矛盾の激化を示すその生活状況一階級・階層的 刻印をもった生活史を典型的に映し出して,おそらく性 格的にあらわれているものであろう.

 第一の現実は,なによりも,自然的一体性と,そこか らの自然的分離を保持していなければならない家庭の人 間関係さえも崩壊してきていることと強く結びついた現 象一現代の子どもの発達をめぐる貧困化のもっともい ちぢるしい反映としてとらえられるものであり,第二の 現象は,家庭状況とがかわりながらも,何よりも,学校 や地域社会における市民社会的関係の矛盾の激化に基因 する「生きにくさ」とそこでの「苦しみ」の表出・表現 としての要素を多分にもったものとしてとらえられるも のだろう.

 後者についていえぽ,(1)子どもは「模倣的欲望」のせ めぎあいと「気づかい」に満ちた人間関係をスムーズに 生きるために無意識のうちに,ある幼児的な行動一例 えば,「馬鹿さわぎ」や,みんなから幼児のようにみら れることを積極的に言ったり行ったりして,周囲にうま く適応していこうとする(比較的安定した「幼なさ」の 表出).が,②そのような適応行動がとれない場合に は,「模倣的欲望」が支配する周囲にあわせるために,

一見大人びた,ファッション化した感情や行動をとるこ とによって(「大衆的スノピスム」),「幼なさ」への退 行願望を強く内面に保持しようとするように思われる

(不安定な「幼なさ」の潜在的表現).しかし,(3>そうし た状況にも適応できない場合には,幼児期への退行願望 は,強い神経症的不安感となって噴出し,人間関係の切 断のなかで,しばしば羨望,不信,にくしみ,攻撃性 と,それらとはうらはらの甘え,孤独感,自己嫌悪など の強い感情葛藤をくりかえすことになる(不安定な「幼な さ」の顕在化).(4)そして,それでも安定がえられない 場合には,子どもは,一連の退行願望一無気力,無関 心,無感動の世界へと逃走し,そこへ深くしずみ込むこ

とによって,つかの間の安定にたゆとうとする(不安定 な「幼なさ」の後退・退却・挫折的表現ユ)),

 1) これらの一応の整理は,1984年度東京都立大学学部の教   育学演習での「幼なさ」をめぐる学生諸君との討論におう   ところが大きい.

 このように,思春期における「幼なさ」の現代的諸相 は,一人ひとりの子どもの生活史と生活的基盤とをもっ てまさに性格的にあらわれているように思われる.それ

らは,なによりも,r人ひとりの子ども理解とそれへの 教育的働らきかけの構造を最終的には決定する,個々の

         ザ イ ソ

ぎりぎりの子どもの存在として立ちあらわれている.こ

一6 一

(7)

の意味で「幼なさ」の諸相の構造化は,今日の子どもの 存在にたいする,たんなる解釈をこえて,重要な教育実 践的視点を私たちに提出しているのではあるまいか.そ れは.これら諸相の分化状況が,一人ひとりの子どもの

「同一化」作用の社会的差異を示しているとしても,発 達的にみて,相互にそれらが連関していること,そし て,多かれ少かれ,子ども・青年と大人の内部に同時に 内在化していると直観されること,そうしたことのなか に,実はその根源への認識を日常的な子ども相互の共生 と共感の実現の実践的方策の土台にすえることを可能に しているのではあるまいか.そして,それは,教育実践 をそこからもういちど再構成する可能性をも示している のではあるまいか.

 だが,そのためにぽ,さきの「幼なさ」の分化の諸相 を,実践的に結びつける,より深い内的矛盾の分析と,

その分析にたった,それらの結合のための教育実践のモ メントが引き出されなけれぽならない.このことなしに は諸相の構造的認識と実践の構造化とは結びつかない.

だから,ここでは「幼なさ」の分化的状況の一般的分析 に止まらず,その身体的・情動的・認識的・自己意識的 レベルにおける矛盾の相互連関が具体的に分析されねば ならない.そうでなければ,数育学理論は,数育実践に おける困難な状況のリアリティにほとんど即することさ えできないだろう.

 ところで,それを可能にする視点は一体何だろうか.

      

結論を先どりしていえぽ,それは,「幼なさ」の現象の 一連のあらわれを.もういちど,子どもの,人とものへ の関係のなかにすえなおして,各々のレベルの矛盾を洗 い出し,そこから,個々の子どもの内面を各々のレベル       パ−スペクテイヴ で結びつける関係一その組み合わせの人間的方向性 を見出すことではないだろうか.その際,分析の徹底性 こそが,思いもかけないところで,分化・分断された,

子どもの「幼なさ」の内面に,それらを前進的に結びつ ける同一性のモメソトを見出すことになるのではないだ

ろうか.

 そこで,最後に今後の具体的分析のよすがとして以下 骨格だけになり,やや抽象的で肉付けに欠けるが試みに 五つの視点を仮説的に挙げて小論をひとまずは閉じるこ

ととしたい.

 (1)第一の「分離一個体化」の過程をも充分に経過し   ていないと見られる場合.

 子どもは,早くから母一子を中心とした家庭的人間関係 の自然的一体性から引きさかれ,商品一消費関係に投げ 入れられることによって,人にたいする受動的甘えの関

係を求めながら,ものにたいするモノローグ的・衝動的 な行動のパターン1)を,例えば,幼ないいたずら行動と してくりかえす.

 1)例えぽ,横湯園子氏のさきの報告では,職員室に入って   きていたずら行動をし,それを禁止されると,こんどはま   わりから教員室へ石を投げてその甘えの欲求を表出する登   校拒否の中学生のことが出されている.

 このような形であらわれる「幼なさ」は,発達過程に おける人にたいする関係とものにたいする関係の,最初 のするどい切断の固定化と持続であり,もの一人一子 どもの受動的関係の切断によって,その反転としての 人一もの一子どもの能動的関係へと子どもが渡ること ができないことをなによりも示している.だから,幼 ないいたずら行動は,少年期にみられるような子ども同 志のいたずら行動へとなかなか発展していかない.だ が,子どもは,他者から,直接的な身体・情動交流の関       フヱテイソシ; 係を向けられることによって,ものへの物神的な関係を 転倒して,人への能動的な関係をつくりだす可能性を示 す.そこに,彼らのいたずら行動が,たんなる幼児のそ のままではない,一見不確かないたずら遊びから現実 へ,また現実から不確かないたずら遊びへ往復していく 関係の中で,ぎりぎりそれらを教育的に再構成しうるモ メントがあらわになるのではあるまいか.このことは例 えぽ国立国府台病院付属の情緒障害児学級での横湯園子 氏の実践で,同じクラスのある女の子をいじめていた男 子中学生のグループが,そのきわめて幼ない「いじめ」

        フsテイソシユ

にふくまれていた物神的認識一例えぽ,彼女が片道 500円もかけて学園に登校していたのを見て,「大金 持」なのに何故登校拒否をするのかといじめていた一 を彼女自身の強い否認と抗議によってひっくりかえさ れ,彼女のなかにあらためて「人間」を見ることによっ て,真剣な顔つきになり,関係を改めていったという事 実にも象徴的にあらわれているように思われる.

② 「模倣的欲望」のせめぎあいと「気づかい」にみ  ちた人間関係の中で,無意識に「幼ない」行動をと  って適応していく場合.

 これまで,子どもの役割遊びのなかに典型的に保持さ れてきた,人間関係の自然的な役割交換が,勉強やスポ ーツでの競争と優劣による地位の固定一変動,また,子 どもをめぐる集団での公的役割の民主一非民主的葛藤に とってかわられ,子どもをめぐる人間関係が不安定さを 増してくることに比例して,「幼なさ」は,そのような 関係と全く分離した無邪気で純粋な,もう一人の自然的

7一

(8)

自己の相互承認による一時的安定の表現をとる.

 例えば,ミニカーや紙ピコーキをつかっての,また,

特異な服装や行動のまね,Cとによる,さらに,あだ名を つけ合ったり,「馬鹿さわぎ」をとおしての,極端に幼 ない言動はその典型的なあらわれであろう.そしてそれ は次のような内容をはらんでいよう.すなわち,子ども は,こうした言動をとおして,今日の矛盾にみちた市民 社会的関係のもとでの「同一化」作用の困難性を先のぼ しする.しかし,市民社会的関係とこうした関係との分 裂は,すでにはっきりときざしていて,子どもは,こう した言動をとりながら,明らかに,不安をおぼえ神経質 な気分を味わっている.「幼なさ」はここでは,そうし たことをかくしての,人とものへの関係の「融合」した 言動としてあらわれる.さきにみた極端な「幼なさ」の 言動につかわれる「しるし」は,すべて子ども同志の感 情の直接融合の表現である,だから,それは一見,社会 関係の「物化」=「物象化」へとつながっていく日常性の 枠の中にあるようにみえて,しかし,そこから遊離して いる事態をすでに生みだしている.それは,総じて子ど もらしい遊びの復活として表現されるが,少年期の遊び のような発展的意味一例えぽ,ミニカーをできるだけ 遠くへ走らせるとか,紙ピコーキをできるだけ長時間と ばせるとかといった一をおそらくもっていない.それ       ナンセソA は,雑然と入り乱れての,いってみれば無意味な遊びと しておこなわれる,それらのしるしは,さしあたって市 民社会的関係の矛盾と調和をたもって,安定性のなかに まだたゆたっているから,もっとも広い意味での「症候 としてのことば」一ひきさかれた「不幸な意識」の病 理的進行の「徴候」一とはなっていない.しかし,そ れらは,一見パターン化されたものにみえて,その奥に 不安や神経質をひそませているという意味で,「物化」=

「物象化」へとつながる関係の「転倒」へと発展するモ メントの前段階をすでに形づくっている.

(3) 「模倣的欲望」の支配する周囲にあわせるため  に,一見大人びたファッション化した感情や行動を  とることによって「幼なさ」への退行願望を強く内  面に保持している場合.

 ここでは「幼なさ」は外面的な行動の画一性・類型性 の底にかくされており,時に表面にあらわれても,第二 の場合のように,一時的にせよ,安定した表現をとらな いだろう.それば,内面的純粋性をたもとうして,外面 とは分裂し,そして,多くの場合,「つらさ」の感覚を ともなった不安定な「硬庫した姿勢」としてあらわれる

だろう1).

 1) 1984年度東京都立大学での私の教育学演習のなかで,例   えばある学生は,中学時代,いくども転校した学校で,た   だみんなにあわせようとして,ファヅション化した態度を   とっていた自分を当時「幼なかった」とはとらえられず,

  ただ「感情や表情が硬直していた」,もっと言えば「自ら硬   直させ麻痺させていた」という感pがすると発言してい   る.

 ここでは,「幼なさ」のいわばやわらかい「自然性」が まわりと「同一化」しようとする,かたい,機械的な身 がまえと感情の「非自然性」の下にかくされている.だ から,第二の場合よりも,内面と外面との分裂は強くなっ ている.しかし,さしあたり内面の矛盾意識は外面の行動 にとらえられていて,活発には始動していない.このこ

とを助長しているのは,社会関係の「物化」=「物象化」

へとつながる世界の画一性と類型性であり,それが,子 どもの不安定性を一時的にせよおおいかくしている.し かし,他者に外面だけであわせることは,つねに不安定 を意味しており,しかも内面でそれを嫌悪している場合,

それはいっそう増幅される.したがって,ファッショソ 化された行動は,受身で,おずおずとしたものになる.こ こでは,「模倣的欲望」の「せめぎあい」のなかで,自己 の優位性を一定の範囲内で風俗的に保とうとする「大衆 的スノビスム」は,人に「見すてられたくない」という 受動性(受苦)の感情につらぬかれて,内部に優位性意 識の稀薄さを生みだすこととなる.そして,そのことが,

「大人性」への前進をはぽむ要素となる.そこでは「幼 児性」と「大人性」との分極化と,その間の「宙づり」

の状態は,強い「自己防衛」意識や外界と他者への本質 認識の「忌避」の感覚とならんで,ある「空しさ」の感 覚をともなっている.ここでは神経質は,第二の場合と 違って,内面と外面の分裂を意識している同じ他者を感

じとれるまでになっている.だが,それは,まだ感じの 入口にとどまっていて,その感じを深め,その意味をた       の しかめるところまで進みでていない.ここでは,ものと 人への「同一化」作用の分極化は,子ども同志の関係の なかに二重化され,さらにその作用の「異化1)=求心性」

(自分を人にあわせようとする)と「同化・遠心性」(人 を自分にあわさせようとする)が,その各々の側面で対 立している.そして,子どものことぽ,しぐさ,服装,

持ちもの,趣味など,をとおしての,あらゆる「しる し」の「ファッショソ化」は,人にたいする「同一化」

作用を,すべてこのような,ものによる「同一化」作用 でおきかえる.人がものとしてあつかわれる,このよう な「同・一一・・JL化」は,すでにみたような,受動的な「気づか

8一

(9)

い」をともなった,こわぼった姿勢と感情として表現さ れるので,その奥にかくされた「幼なさ」の純粋性とす るどく対立する.象徴的にいえぽ,子どもは,自身のな かに,ものと人とを二重化した形で同時に感じとってい るかのようにみえる.それが,子どもの中に,「同一化」

における「異化・求心性」と 「同化=遠心性」の感覚の 奇妙な分裂一統一感覚を生みだす.

 1) これはVerfremdung(「異化」)の訳語としての「異   化」とは違う.なおこの点は,ラプランシュ/ポソタリス   r精神分析用語辞典』(村上仁監訳,みすず書房,1977年)

  の「同一化」の項に,シェーラーの用語として「異化的同   一化」という用例がでている(同書,344ページ).

 つまり,ものをとおしての子どもの「同一化」作用 は,それに極力あわせようとする「異化・求心性」を強 くあらわす,その限りでは,それはきわめて強い能動性 一積極性の外観を呈する.だが,それは本質的には,深 い受動性(苦悩)につらぬかれている.ところが,これ とはちょうどうらはらに,子どもの奥にこもっている,

「自然的自己」による「同一化」への潜在的欲求は,そ のような自己を理解して,それにあわせてほしいという

「同化・遠心性」を強くもっている.だから,それは,

みたところきわめて受動的一消極的にみえて,本質はき わめて能動的一積極的である.そして,こうした奇妙な 両者の感覚は,「幼なさ」の「宙づり状態」から,子ど もが脱する内的矛盾をすでに含んでいることを示してい る.その矛盾は,一方では,現実の「模倣的欲望」の

「せめぎ合い」のなかに,自己を投げ入れ,そのなかで

「みすてられたくない」という受苦の意識をさらにはげ しい試錬にさらす道を用意している.同時に,それは現 実の生活のなかに,安定する諸関係を積極的につくりだ す文化的諸活動を教育的に組織することをとおして,そ の受動性(受苦)を能動性へと転化する,いわぽ現実の

「転倒」の道の可能性をも用意している.そうした実践 のモメントは,すでに,前者の道,すなわち,次に述べ るような事態の現実的モメントをふくんで成立するよう に思われる.

(4) 「模倣的欲望」が支配する周園に適応できず,時  には,神経症的不安感をともなう羨望,不信,にく  しみ,攻撃性と甘え,孤独,自己嫌悪などの強い感  情・行動葛藤を示す場合.

「幼なさ」はここでは,自然的一体性が不可能な関係の なかで,なおもそれを実現したいという感覚的理想主義 の傾向をとるだろう.それは自己を他者にあわせようと

する「異化:求心的同一化」と,他者を自己にあわせよ うとする「同化=遠心的同一化」とを一きよにしかも同 時に現実のなかで実現しようとする性急な態度として表 現されるだろう.だが,それは,するどい抵抗にであ い,周囲は,自己をみとめてもらいたいという子どもの 願望を裏切り,他者をみとめさせようとするその意志を 打ちくだく.子どもは「異化=求心的同一化」を拒絶さ れ,「同化=遠心的同一化」を拒否され,その結果,感 覚的理想主義と感覚的現実主義とのするどい闘争のなか になげこまれることとなるだろう.

 例えば,近年小学校の中学年頃からしきりにあらわれ ている,人間関係にたいする子どもの感情過敏性・過剰 性もここに基因していると考えられる.そこでは,市民 社会でもっとも普遍的な状況が日常的になるような様相 を呈し,あらゆるものやものごとが対比と敵対的競争の 対象となり,あらゆる「しるし」が人と人を対立させる 原因となる.そして,子どもは,そうした関係から逃れ ることをつねにせまられる.または安定がえられない場 合には,反擾し,暴力的にふるまう.公的な関係をはな れて,安定した私的世界・人間関係にとどまろうとする 最近の子どもの強い傾向と,敵対的競争関係のなかで,

「つっぽり」,暴力にまでいたる傾向とは決して無関係で はない.そこには,あらゆる病理的関係へのモメント

と,その「症候としてのことぽ」がかくされている.だ から,この矛盾の解決は,さきのような感覚的レベルだ けでは不可能である.身体・感情・認識・自己意識の各 レベルにわたる長い葛藤の道行きを経なければ,真の展 望を得ることは難しい.その見とおしは,子どもが,彼 のなかにあらわれるさまざまな「症候としてのことぽ」

を出発点として,あらゆるレベルで自己の独自性を実質 的にわがものとし,それを他者にみとめさせるような関 係を現実化する以外にはありえない.

 だが独自性はさしあたっては他者を「拒否」するとこ ろからはじまるだろう.「症候としてのことぽ」が受動 性から能動性へ転化するのは,おそらく,この「拒否」

をとおしてである.だが,他者をたんに「拒否」するだ

けでは自己を確立することはできない.自己は,その場

合,その「しるし」を他者にみとめさせることを欲求し

ている.にもかかわらず,「拒否」は,そのこととはさ

しあたって対立している.そこで子どもは「拒否」しな

がら,同時に「同意」を求める必要にせまられる.この

必要を実現するためには,お互いに「拒否」する両者

が,同時に「拒否」しつつ,「同意」する関係にいたら

ねばならない.だが,そのような「同意」はどのように

して生まれるのか.それは「拒否」する両者が,「拒否」

(10)

において,互いの「同一性」をみとめあう関係を確認す ることとしてしかあらわれない.これは分裂でもなく,

完全な無関心でもない.この場合「拒否」は分裂とも無        し

関心とも違う.教育的関係の持続は,ぎりぎりこれらと 対立している.そこでは「同意」は「拒否」する両者 が,互いに他者を自己のなかでぎりぎり「のりこえ」の 対象とすることとして成立する.だが,そうした関係に 進みでるためには,身体・感情・認識・自己意識の各レ ベルにおける発達のじくざくを互いに「価値同一性」に おいてみとめあう関係が生み出される必要がある.い や,そうした関係をつくりだすことが,さきの「のりこ

え」そのものである.つまり,ある質の関係において,

自己が「拒否」する相手が,別の質の関係において自己 を「拒否」する当の相手として現前するような関係一 そのような関係において,「拒否」ははじめて互いに「わ かる」ことを前提とした「批判」へと転化する.おそら く,そこに,身体・感情の「同一化」が,認識の「同一 化」へと転化する地点があり,ここに,さきにみた羨 望,不信,にくしみなどの身体・感情(姿勢)がいちど は「拒否」をとおして,認識のレベルへと反転されるリ アリズムの新しい萌芽が存在する.それは暴力の否定の

うえに,羨望,不信,にくしみの感情を,いちどは内面       カタルンス

へ逆行させることである.それは,すぐには「浄化」の 道をとおらないかもしれない.しかし,それは深い孤独 感をふくんで,自己を「さめたもの」とする.そのよう に「さめた」自己が相手を「批判」する地点へと進む 時,身体・感情(姿勢)は,認識のレベルへと反転す る.その過程で,子どもはさまざまな葛藤感情をふたた び経験する.羨望,不信,にくしみは,かすかな「嫉妬」

と「同情」との対態度へと移行する.

 その時,感情葛藤は,かつてのような過敏・過剰性を もたない.このような態度が「批判」の態度である.相 手が「批判」の対象としてあるとは,こうした感情態度 をともないながら,「拒否」が「認識」のレベルで共存 し,対立している状態である.それは「拒否」の感清が 認識の「共有」にまで,ぎりぎり客観化されていく過程で ある.だが,そのためには,子どもはある苦しみの飛躍に も似た努力を要求される.そうした努力をぬきにした,

事態の「客観的」表現は,依然として社会関係の「物化」=

「物象化」へとつながるものごととことぽの抽象態とその 優劣の平面に止まるだろう.それは,ものと人との関係の 切りさきを修復できない.それは依然として「拒否」の対 象となるだけである.このような感清的「拒否」だけで は子どもの真の関係維持は難しい.それは関係を放棄し て,暴力による分裂と完全な無関心へとふたたびかえろ

うとする.だから,関係持続は,一時的後退と前進の二 方向をはらみつつこのような傾向との不断の抵抗と闘い である,ここに「幼なさ」のこのケースの矛盾が,「治 療」と「教育」の二側面を強く要求する根拠がある.一・

時的後退は,「幼なさ」の復活による治療的要求の側面 であり,前進は,「幼なさ」にたいする試錬による教育 的要求の側面であるといえる.こうして,「幼なさ」は,

ここでは,これまでの場合と比べて,もっとも複雑な現       t

実の「転倒」の道行きの可能性を内に秘めている.

(5>最後に,一連の退行的感情一無気力・無関心・無  感動の世界へと逃走し,そこへ深く沈み込むことに  よって,つかの間の安定にたゆたっている場合

「幼なさ」は,ここでは,すでに述べてきたような「宙 づり状態」の重みにたえかねて,挫折し,もっとも消極 的で,受動的な地点へと後退・退却しているだろう.だ が,「宙づり状態」は潜在的には,なくなってはいない.

それは,これまで示されたような葛藤ののりこえに当面 したことがないとはいえないからである.「幼なさ」は 多かれ少かれ,かっての葛藤を刻印している.つまり,

「幼なさ」はかつての葛藤の主観的重さに比例して「無 気力」「無関心」「無感動」に,さまざまな色合いを与え ている.たんなる「無気力」「無関心」「無感動」はあり えない.そこには,自然的一体性の関係から今日の矛盾 にみちた市民社会的関係への渡り行きの過程で経験した さまざまな葛藤からの挫折一防衛一後退の内容と程度に 応じて,素朴で,即自的なものから,複雑で,対自的な

ものまでふくまれていよう.そして,それらは次のよう な内容をはらんでいよう.すなわち,「無気力」「無関 心」「無感動」とは,かつての葛藤ののりこえの直前の 状態へと自己を引きもどすことをおそれて,潜在的エネ ルギーを自己の外へ放出してしまう状態である.だか

ら,その色合いは,のりこえの直前の状態から自己を遠 ざける「しるし」を多くもっている.例えば,ことぽの 饒舌から沈黙の状態への移行.感情のある気づかいやつ

       ア ン ニ ユ イ

らさの状態からものうさや放心の状態への移行一こう した,ふとした移行のなかに,「無気力」「無関心」「無 感動」が,さまざまなニューアソスをふくんだエネルギ ー運動を底流にもっていることが示されている.だが,

このエネルギーを,葛藤の直前にひきもどすことは何に よって可能なのか.潜在的エネルギーの自己放出の状態 は,市民社会的状態ゐ葛藤のなかで,「同化的=遠心的 同一化」へと自己が進み出ることができない状態を示し

一10一

(11)

ている.さきの移行状態は,いずれも,現在の自己を他 者に「同一化」させようとして,それがよりいっそう大 きい葛藤へと発展する予感からの逃走状態にほかならな い.ものごとへのとりくみの断念や接続の放棄は,その 奥にかくされている人への「同化的=遠心的同一化」

の困難性への断念や放棄を内在化させている.例えば,

部活から脱落した生徒が,その原因を「根性」の欠落に よって説明するのは,事柄の表面的理由づけに過ぎな い,皆についていけなかったのは,たんにものごとへの ぱたらきかけのエネルギーが不足していたのではなく て,そのような適応状態を外から強制して,それに「同 一化」しようとする困難さに彼がたえられなかったこと を示している.

 だから,「無気力」「無関心」「無感動」のエネルギー の引き出しは,そのような状態におち入っているように みえる子ども同志が他者を自己のなかに引きつけ,「同 化=遠心的同一化」をしうる主体であることを感じるよ

う,またそのことを可能にするような,ものと人との関 係状態へと彼をうながすこと以外にはおそらくない.し かし,エネルギーの引き出しはのりこえ以前と同じ状態 を再現して,葛藤の重荷をふたたび背おわせることでは ない.そこでは,のりこえ以前の状態を「転倒」させる 状況の創出が要求されている.それは,かつて子どもが 経験した葛藤の内容と程度とにかかわって,おそらくこ れまでは述べた各ケースが要求した現実「転倒」の内容         をふくんでの教育実践の再構成を予想させる.

       ケ  の  ス

 以上,五つの場合にそくして,なお一般的なものにと どまるかも知れないが,「幼なさ」の矛盾が,現実を「転 倒」するモメントをふくんでいることを見てきた.ここ から導かれる一応の結論は,現代の教育実践が,これら のモメントを,発展させる働らきかけとして,あらゆる 場合に共通した質の再構成をそこに強く求められている

ということだろう.教育実践,なによりも,これらのモ

メントを発展させる持続性を,子どもの「幼なさ」のな かから引き出すことを,異なった働らきの「同一性」の なかに見出す展望を強く求められているといえよう.だ が実際にはこれらのモメントは,現実の教育実践のなか で見おとされ,見失われ,うやむやにされており,そして 今日の教育制度の矛盾とそれをめぐる状況がそれをいっ そう促進していると思われる.その結果,「幼なさ」の 諸相がいわぽ分断されたまま,そうした特徴をもった子 どもは現制度のもとでの選別的・管理主義的教育の「強 制的」な「同一化」作用のなかにくみ込まれ,それに適 応させられるか,又は,そうした制度にたえられなくて脱 落させられるかしているのではないか.そして,いま上 からおこなわれようとしている「教育改革」はこの分断 をいっそう促進し,ある場合にはそれを固定化さえもし ていくのではないか.思うにそれは,「幼なさ」の文字 どおりの,ゆがんだ「大人性」への移行であり,今日の矛 盾にみちた市民社会を生きぬく力の発達のいっそうのゆ がみへとつながる方向であろう.現代の教育実践は,な によりも,こうした方向をおしとどめ,幼なさの特徴を もつ,子ども及び青年のなかに現代に生きぬく力の獲得 にいたる持続性を発見することを求められている.だか ら,それは,現実世界に生きていける文化的獲得=創造 の課題としても,また,子ども・青年相互のねぽり強い,

     グイアロ−グ

真の接続的対話の創造の課題としても,「幼なさ」の 諸相のとらえなおしを要求されているといえる.そし て,このことにこたえるためにも,現代の「幼なさ」のな かに深くうずもれている人間的発達の原動力を引き出す 力量を実践者はもたねぽならないであろう.そしてそれ はまた,おそらく,実践者自身のなかにもある,「幼な さ」の人間的契機を再発見する道にもつながっていくの であろう.わたしたちは,それらをとおしてしか,現代 における「幼なさ」への働らきかけの人間的力量の機微 をわがものとすることはできないのではないか.

       (1985.6.15)

『11一

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