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明鶉胡⇔;︑とがあり︑三四年になってようや

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(1)

長野県富士見村大平区教育関係史料三︶

   1学 校 教 育 編1

川 向 秀 武

 学校教育に関連する史料についても︑収集上の制約から︑系統的に明らかにすることは︑きわめて困難なものとなっ

ている︒ 本史料にみられる特徴的なものとしては︑就学奨励にかんするものと︑通学区にからむいくたびかの紛争とをあげる

ことができる︒そのほか︑断片的にではあるが︑教育費にかんするもの︑補習教育としての裁縫科へのとりくみ︑地域

を単位とした教育懇談会︵大正五年︶の記録などがある︒

 なお割愛した主なものとしては︑第一に﹁富士見村小学校付属農業補習学校﹂︵明治三十三年制定︶がある︒これに関

連して︑同年十二月十日付入学奨励村長通達及び十二月十六日同再通達がなされているものの︑実際に開校した形跡は

認められず︑社会教育史料に示すとおり︑具体的に展開しはじめたのは大正六年をまたなければならなかったようであ

る︒第二に︑学校行事としての運動会の記録︵①明治三十六年十月天長節余興運動会︑②大正六年十月天長節運動会︑③大正十

二年五月十六日富士見小学校記念大運動会︶があげられる︒      7       エ また教員の移動を示す記録も存在するが︑氏名・人員・資格︵訓導・補助など︶などが不明確であるため︑割愛せざ ー

(2)

るをえなかった︒その任期がきわめて短いものであったこと︑病気退職が多い事実は︑隠しようもない事実としてあら      18われている︒以下四つに分けて整理をし︑解説を加えた︒      −

一 就学関係にかんするもの

 就学届と猶予願 史料︵1︶と︵2︶にあきらかなように毎年一月になると︑役場から通知があり︑届出をしなけれ

ばならなかったことがわかる︒就学可能な者は届書を提出するだけでよかったが︑猶予を願いでなければならなかった

者は︑役場に出頭する義務を負わされていた︒なお就学猶予の条件については︑この段階では︑必らずしも明らかでは

ない︒ 三一年一月︑三二年一月における就学届様式も全く変更を加えられていない︒しかし︑三六年には︑﹁追々別紙就学

者中二若シ白痴︑疲癩︑疾病︑不具者︑有之候ババ学校医ノ診断書ヲ添へ直二免除願︑又ハ猶予願致ス様父兄ノ者二御

注意下サレ度候也﹂と﹁診断書﹂を必要とする旨を明記している︒

 さらに明治四十一年一月十五日学第二号によれば︑﹁猶予又ハ免除等其筋ノ許可ヲ受ケル義二付﹂となっており︑形

式的とはいえ規制がしだいにきびしくなってきていたことを示していた︒なお猶予又は免除の注意事項として明記して

あるのは︑三六年のさいは︑疾病︵障害を含む︶に限定され︑四一年には﹁疾病其他ノ事故﹂︑四二年には﹁寄留亦ハ

疾病其他事故﹂となっている︒四五年になると史料︵3︶のように﹁貧困﹂も明記され︑﹁家産・地価﹂などについて

も書き入れることにされている︒さらに史料︵4︶︵6︶のとおり︑猶予と免除の区分を明らかにするとともに︑指示

事項を明確にし︑それ以降の形式をととのえたものと思われる︒﹁診断書﹂・﹁申立書﹂などの書類の添付を必須要件と

したことは︑猶予または免除についての責任を親権者に転嫁する以外の何ものでもなかった︒

(3)

   史料︵5︶は︑おそらく区長の連署をもって届出たであろう就学猶予願が︑郡役所より却下されたことを示し︑﹁貧

  困﹂を理由にした申請に︑クレームをつけはじめていたことがわかる︒しかし何らの対策をたてることもせず︑上級機

  関の権威によりかかり就学を強要するものでしかなかった︒

   不就学対策と貧児対策 就学督促を強化することにおいて︑富士見村もけっして例外ではなかった︒断片的な本史料

  のなかからも︑その一端をうかがうことができる︒

   まず最初に見られるのは︑明治三十一年十二月二一日村長から︑﹁総代へ談示ノ件﹂のなかの一つに﹁今般就学督責

  規則ヲ郡内一般励行スルニ付兼テ毎戸へ触示シロリコト︒来ル四日必ス就学セシムヘキ様毎戸へ説示スルコト﹂とある︒

  県レベルでの規則の施行にともなう措置であろう︒

   ついで史料︵7︶であるが︑これは明治三十四年一月二八日の議会において﹁決議﹂されたものである︒﹁有志﹂と

② はいっても﹁五戸一名ノ割合ヲ以テ有志ヲ募集﹂し︑役場に報告を義務づけていた︒本会が︑具体的にどのような機能

料 を果したのかを明らかにするものは︑見つかっていない︒騙史料︵8・9・m・n︶は︑いずれも大正三年から四年にかけて不就学.貧困児童対策を余髪くされていた状況を

輔浮きぼりにしている︒第三親享どもたちの扇窮Lなる状況がもはや放置できないものであった・﹂と︑第二にそれ

平 と関連して働かねばならない児童が増加していたことを示す︒猷就学状況と高等小学校卒業後の進路笙表は・富士見小学校所蔵の史料などのなかから・判明するかぎりにおいて

計作成したものである︒

縣富士見村は︑禦山神戸︑栗生︑大平︑木間︑若宮︑松目︑花場︑横吹︑とちの木︑休戸の頚区から構成されている︒四長 明治六年・神戸の瑞雲寺に博我学校が創立されたとき神戸・栗生︑大平地区を対象としていた︒翌七年には︑そのほか ー

(4)

考備

科等高 業卒女ー男

籍在女ー男

科常尋 業卒女−男

籍在女−男

齢学女−男

②       ②②  ⑤⑤ ①①②③②③①①①④①④④⑤

一 一 一 一 一 一 ︻ 一 一 一〇1一 一一一一一一一一一一一148一5一 一 一 一 一 一 一 一 一 一〇23201一 一 一 一 一 一 一 一 一 一27991916

1

一一一一一一一615一1218一8

一 一 一 一 一 一 一3047一1024一12

  1⊥      −← −

  1⊥      −⊥  1  1⊥  1  1  1⊥  1  1⊥

47 V9

黷T5一68一89272132138829        ー ウ臼 2 2 ウ匂 2 9臼

70 O2

黷V4 一94一78475236318440  1     1222222    11112222333

      木間学校︵木間︑若宮︑松目︑花場︶

       20

      瀬沢学校︵落合村に建立されていたが︑−      横吹︑とちの木︑休戸地からも通学︶      ができている︒のちに十九年富士見村      と落合村とが合せて一学区となったた      め︑神戸︑木間両校とも廃校となって      蔦木学校富士見支校となった︒二二年製      には一村一学区に復し全村は統一され鶏︶ることになっ菱三ハ年に村内に紛

欝噸竃ったた寡校ーるなど

明鶉胡⇔;︑とがあり︑三四年になってようや

劉穂場くm地区のすべてが︑富士見村立学校

㌶畑箒に収容されることになる・そして一村

出誌沿見計史

縫欝纏った︒そのうえ︑本校と分教場との統

麿ぽぽ慶.が三四年までめまぐるしく行なわ

       れたため︑学齢児童の数は︑検証して

(5)

  路   進   生   業   卒   校   学   割   高 ー 見口 士

料階史調昧諏輔猿駆第

規猷

顯賄

劃陛

範校

師学等校

高女

学ず

範校

師学

一一1一一1424411一一1一1一一1一一1一一一一一一一一一一212一213

 11212 212

一一1一一1一一1一

一21一一一一−一一

1一一一一一2112

32一13一2111

  かからなくてはならない︒  第二表は︑富士見高等小学校の﹁卒業生徒名簿﹂にみられる第一  回から第十回までの卒業生の進路をまとめたものである︒なお第一  回の在籍︵四月調査︶は次のとおりであったが︑学期末には男八二  名︑女一〇名に減少していた︒︵﹃沿革史資料﹄による︶

︒       1年   2年   3年   4年   計

し   男  39  25  25  10  99

詐  女 巧 6 ・ ・ 田

簿名 史料1生       \撲 来ル四月百・リ就学三キ児童裂記名ノ通最調及御送致候

搬奎ノ書式二拠リ来ル廿吾迄届書呈出候様各父兄へ御通知相成度

筆  此段及通牒候也見       明治廿九年一月廿日       富士見村役場

陪        大平惣代御中

﹁      − 言ロ      2 一取       

(6)

就 学 届      22富士見村番地平民        −

 何誰何男女︵弟妹︶

     何   誰

        生年月日

右之者本年四月百ヨリ富責鷺小学校へ就学為致度候間此段及御届候也

    明治廿九年一月

何   誰

富士見村長 矢沢正雄殿

史料 2

一〇九号

 左二記名之者本年三月光一日迄就学猶予願済之者二有之候処尚又来学年二於テモ同様猶予出願之望二候ババ来ル廿五

日迄二印形携帯当役場へ申出候様左記父兄へ御通知相成度此段通牒候也

     明治廿九年一月廿日       富士見村役場

       大平惣代御中

(7)

史料 3

学第二号

       明治四十五年一月二十四日      富士見村長 樋口長兵衛

         大平区長殿

   左記ノ者本年四月一日尋常小学校へ入学スベキ者二付キ至急保護者へ御通知相成度猶左記之通リ夫々御取扱ノ上一件

  書類ハ本月二十九日限リ当役場へ御差出有之度此段及通知候也

  一︑別紙就学届へ捺印セシメ役場へ差出スコト

  ニ︑調査洩ノ者︵自明治三十八年四月二日生 至明治三十九年四月一日生︶寄留者等有之候ババ前項ノ書面へ追記捺印

 ②  セシメラレタシ

酬 三︑貧困病気等ノ為メ就学ノ猶予免除ヲ受度向有之候ババ別紙願書へ記入捺印セシメ差出スコト蹴    就学猶予免除願

児童氏名 生年月日

明治 年 月 日 一保護者氏名続旦讃病墾ノ蒜屹

家屋地価 備   考

猶予免除ノ区別ヲ記ス

(8)

富士見村長 樋口長兵衛殿

史料 4

学第二号 本年四月一日入学セシムベキ児童別紙之通二付至急各保護者へ通告之上左記之通御取扱本月三十日限リ御取纒当役場

へ提出有之度此段及照会候也

     大正二年一月二十日      富士見村役場

       区長殿

      記

一 別紙記載の就学届へ各保護者ヲシテ捺印セシメ且其職業ヲ記入セシムルコト

ニ 寄留者等ニシテ調査漏ノ者アルヲ発見セラレタル場合ハ別二届書ヲ作製セシムルコト

三 児童癒癩白痴又ハ不具廃疾ノ為メ就学ノ免除ヲ申立テントスルモノハ学校医ノ証明書ヲ添付セシムベシ

四 児童病弱又ハ発育不完全ノ為メ就学ノ猶予ヲ申立テソトスル者亦前項二同シ

五 保護者貧窮ノ為メ就学ノ猶予ヲ申立テントスルモノアルトキハ区長ハ其事実ヲ調査シ事情止ムヲ得サルモノト認メ

 タル者二限リ其申立書二連署セラルルコト

六 学令ハ明治三十九年四月二日生ヨリ明治四十年四月一日生迄トス

七 学校医は○○○○ナリ

(9)

史料 5

学第六一号

       学齢児童就学督促ノ件

       大正四年六月十三日      富士見村役場

         三井○○殿

      就学スヘキ児童名 三井○○

   前記児童二対シ就学猶予認可之義ヲ本郡長二申請ノ処猶予資格無之旨ヲ以テ不認可ト相成申候二付テハ直二保護者二

  於テ就学方取扱フ可ク候万一尚止ムヲ得サル事情有之候場合ハ来ル本月廿日迄二其事由ヲ当役場へ申出可ク候而シテ何

② 等ノ申出モ無ク又就学ヲモ為サザル向ハ翌二十一日限リ郡長へ其段申報可致候

酬 特二及通達候也

醐史料6

平 学第一号

酬  本年四月一日入学スヘキ児童別紙ノ通リニ付至急各保護者へ通告ノ上左記之通リ御取扱本月弐拾五日限リ御取纒メ当

計役場へ提出相成度此段及照会候也

酬      大正四年一月八日       富士見村役場    5      長       1         大平区長殿

(10)

         記       26

一、

ハ紙記載ノ就学届へ保護者ヲシテ各其職業ヲ記入スルコト      ー

二︑寄留者等ニシテ調査漏ノモノアルヲ発見セラレタル場合ハ別二届書ヲ作製セシムル事

三︑児童癒減白痴又ハ不具発病ノ為メ就学ノ免除ヲ申立ントスルモノハ学齢医ノ証明書ヲ添付セシムヘシ

四︑児童病弱又ハ発育不完全ノ為メ就学ノ猶予ヲ申立ントスルモノ又前項二同シ

五︑保護者貧窮ノ為メ就学ノ猶予ヲ申立ントスルモノアルトキハ区長ハ其事実ヲ調査シ事情止ムヲ得サルモノト認メタ

 ルモノニ限リ其申立書二連署セラル・コト

六︑学齢ハ明治四拾壱年四月二日生ヨリ明治四拾弐年四月一日生迄トス

史料 7

      富士見村保護会規則

第一条 本会ハ富士見村保護会ト称シ有志者ヲ以テ組織ス 但シ男女ヲ問ハズ

第二条 本会事務所ハ本村役場内二置ク

第三条本会ノ目的ハ貧困ナル学齢児童ノ学資ヲ助ケ併セテ一般学齢児童ノ就学ヲ奨励スルニアリ

第四条前条ノ目的ヲ達センガ為メ毎年二回農隙二︵二月・九月︶於テ会同ヲナシ左ノ事業ヲナス

 但シ開会ノ期日ハ会長ノ定ムル所ニヨル

 一︑△云務ヲ一報生ロス

 ニ︑学齢児童就学奨励ノ研究

(11)

  第五条 本会員ノ祝賀式及卒業式等ニハ出席スヘキ義務アル者トス

  第六条 本会ニハ左ノ役員ヲ置ク

   一︑会長 一名 会務ヲ綜理ス

   ニ︑副会長一名 会長ノ職務ヲ代理ス

   三︑幹事若干名 会長ノ指揮ヲ受ケテ庶務ヲ分掌ス

   四︑評議員若干名 会長ノ招集エ応シ会務ヲ議決ス

  第七条 本会役員ハ凡テ名誉職トス会員中ヨリ選出ス

  第八条 本会一切ノ経費ハ会員ノ寄附セル金若クハ物品ヲ以テ之レニ充ツ

  第九条 本会ノ規則ハ会員三分ノニ以上ノ賛成ヲ得ルニアラザル加除訂正スルコトヲ得ズ

  史料 8

昧号外.

輔本月廿六日区長会三御相談申置候学齢児土里奨励会補助二必要有之候条学齢児童保護者困窮ナル者ヲ戸数拾戸二竺

報人宛ノ割合ヲ以テ御貴区戸数二応シ極々困窮ナル者ヨリ順二御取調至急役場へ御通知相成度此段及御照会候也但シ御

縣    各区長殿      η 離  大正三年六月二+八日       富士見村役場 村 取調儀ハ極必蜜

長      1

(12)

史料9      28      1

学第七九号

 製糸工場三雇ハル︑不就学児童調査ノ為メ左記ノ注意事項了知ノ上本月廿日限御差出相成度此段及移牒候也

     大正三年八月十四日      富士見村役場

       各区長殿

      記

一、

宦寢w齢児童中︵寄留ノ手続ヲナサぐル者ハ取調ヲ用セズ︶工場三雇ハルルモノニ付取調ルモノトス

ニ︑学齢児童ガ現三雇傭セラル・工場名︑工場所在地︑工場持主︑又ハ代表者氏名記入ノコト

三︑他府県ノ工場三雇ハルル者及機業場三雇ハルル者モ調査ノコト

 御多忙ノ節ニハ候ヘドモ期日相違無有無ニカカワラズ御通知相成度此段申添候

史料 10

学第一一四号

 来ル本月二十六日学齢児童永欠席督励ノ件二付御協議願度有之度候条同日午后一時二万障御繰合必ス当役場へ御来集

相成度此段及御通知候也

追テ本年度ハ切迫及候二付来年度御尽力

御方二可成御出頭願度申添候

(13)

大正三年十二月二十三日      富士見村役場

  各区長殿

史料 11

  学第三一号

   貴部内尋常小学校欠席児童二対シ左記二依リ就学セサル者二付御取調来ル三月一日迄二当役場必ス御申出相成度此段

  及照会候也︒追テ本件ハ至急ヲ要スルコトニ付△⊥日迄二御申出無之時ハ出席スルコトト見倣依ヲ申添候

       大正四年二月二十一日      富士見村役場

         各区長殿

② 一︑病気貧窮等二依リ免除猶予相当ト認ムル者

酬二︑寄留ノ手続ヲナサス他府県他町村二居住シ居ルモノ︵子守丁稚奉公ノ者︶

鯛−        二 通学区域にかんする学校事件について

平  富士見村においては︑いくたびか通学区域をめぐっての紛争がもちあがっている︒

酬  史料に即してみるならば︑まず明治二十六年に田用水の不足に伴ない︑﹁沢入川の分水に争いを発し﹂︵﹃冨士見村誌﹄

計続篇︶︑三+年六月に和解が成立するまで︑原ノ茶屋︵神戸・栗生・大平・松目︶と︑西ノ窪︵若宮・木ノ間︶と︑机酬︵花場・休戸・護・芋木︶の三つの学校に分れていた・       9

長       12   和解をもって落着したかに見えたにもかかわらず︑史料︵12︶が示すように︑再び学校の位置をめぐって争いがおき

(14)

ている︒あきらかに郡長−村長ー耕地惣代︵区長︶1住民の間において︑矛盾が露呈していたことがわかる︒       30 なお史料︵12︶の意見書にさきだって︑三十二年十二月には各惣代から学校事件についての意見書が提出されていた ー

ものとみられ︑芋木耕地惣代からは︑村当局のあり方に不満の意をあらわし︑意見書の取消しを要求する記録が添付さ

れている︒

 一村一校制度の確立をめざす動きは︑地域住民の側の要求としてよりも︑行政当局が強く望んでいたものということ

ができよう︒それは︑教育諸条件の整備・統一化︑また教育費の削減への配慮︑さらに村民の﹁協同一致﹂をめざす立

場などから提起され︑以後常に大きな課題となっている︒

 ところが︑その実現はきわめてむずかしく︑逆に大正元年には︑御射山神戸尋常小学校の校舎起工中に︑村長が小学

校の統一案に調印したことから︑住民の怒りをかい︑村内が大きく二派に分れて対立した︒そのため大正元年四月十八

日に就任したばかりの村長が︑十月二十二日に辞任を余儀なくされているほどである︒

 史料︵13︶︵14︶︵15︶は︑大正二年になってはじめて正式に︑一村一校制が成立する過程を示している︒しかしなが

ら︑これでもすっかり解決したわけではなかった︒史料︵16︶及び︵17︶にも明らかなように︑統一の実現には︑いさ

さか距離があったことがわかる︒

 大正八年に全村一致をもって校地を決定したものの︑十二年及び十三年となお通学区域にからんだ事件もおきていた

ことも見逃せない︒記録によれば一村一校が具体的に実現するのは︑大正十四年を待たなくてはならなかった︒

史料 12

本村学校ハ多年村治紛乱ノ中二徒過セシモ明治三十年度前諏訪嶋郡長閣下ノ指定二基キ漸ク平和ノ緒二就キタルモ明

(15)

  治三十一年三月九日前村長矢沢正雄村招令ヲ採集シ本村教育ノ進歩ヲ計ルト擬シ前郡長ノ指定アルニモ拘バラス在来ノ

  高等科ヲ廃シ金沢ト村組合高等小学ヲ御射山神戸二設置シ御射山神戸栗生耕地ノ尋常三四学年ノ生徒ヲ尋常本校二出校

  セシムル事トナスニ決議セシニ就キ其際四耕地︵栗生・大平・松目・とちの木︶ハ其決議ノ失当ナル事ヲ忌︑︑︑屡々郡長

  及ヒ本県迄歎願致シタルニ法理上処置セバ不得止耐忍致居候所又俣現村長ハ前年来ノ事情ヲモ忘知シナリ尚学校二対ス

  ル村会ノ決議アルニモ拘ラズ私壇ヲ以テ本校ヲ廃シ御射山神戸ナル両村組合高等小学校へ併置セント欲シ各部落総代ヲ

  集合セシメ一村二三学舎アルハ教育ノ前進及ヒ経費ノ多額ヲ説明シ本村一校ハ素ヨリ善良ナル策ト承知スル差向キ難出

  来ト思惟ス因テ先ッニ校トナスニ付テハ如何ナル方法ヲ以テ為ニスヤ各意見書ヲ可差出其意見書照合ノ上総代会ヲ開キ

  協和主義ヲ以テ村内ノ公益ヲ謀ヘシトシ各総代二意見書ヲ差出サシメタリ然ルニ総代集合シタル事ナク又協議シタルニ

  モ非ラズ専横ニモ之ヲ纒束シ尚村長自カラ意見ヲ付シ郡衙二進達シタルハ各総代ヲ欺クノ甚シキ至ル依之観之村長ハ村

② 治上ヲモ顧ミズ本校ヲ廃セントスル意旨二外ナラズ回顧スルハ昨三十二年郡長閣下ノ配慮ヲ以テ三学舎二対スル学級編

料 成上本校ヲ維持スルニ至ル於郡長閣下被申聞候ニモ若シ本校ヲ廃セント企テ村会ニテ決議スルモ監督官庁ハ官庁誓ツテ離之ヲ許サズ其確言ヲ承リ漸ク人民安心ノ緒二就キタリシモ図フズ今夏村長総代立.覚書ヲ奇貨トシ自己ノ志望ヲ達セ

輔シガ為メ已デニ破言セラルモノノミヲ採リ栗生耕地ヨリ差出タル音心見書中ノ如ク校数ヲ減シ位置ヲト三村豆トシテ

報全力ヲ注キ以テ決行スルトキハ随テ経窒減却シ教育上発達スル等ノ善良ナルモノヲ否トシテ郡衙へ申達セザルハ専壇

株ノ所置ト三ザルヲ得ズロロ実二人民一寿ス叢扱上不信切テ服従スル能三依之先二差出タル意量ヲ取消シ更二従

計来ノ素却説本村将来ノ善後策ヲ講セン欲セバ先ッ従来ノ蕪情ヲ脱シ村治警ヲ塵村豆ト三和協力シテ人民二隔

酬意ナカラ〆ン事島ムニアリ然ラザレバ了・状能茎変シ自然学区二別レ廿六年ノ如キ情態ヲ見ルニ至フソコトヲ恐田長 ル依テ教育上ノ進歩及ヒ経費ノ節減ノ方法ヲ計リ協正同力シテ一村一致ノ自治ヲ行ヒ一村一校トナサンコト希望堪ヘザ ー

(16)

ルナリ詰位置二於テハ富士見村全村ノ認定スル処二任スルハ一村ノ平和ヲ保持スル為二本ノ事情御洞察アツテ正当ノ御      32処置相成度此段偏二奉願候也      1

       富士見村 芋木耕地総代

      松目耕地総代

      大平総代

     明治三十三年三月三日

       諏訪郡長平林斧吉殿

史料 13

      細川幸重案

 富士見高等小学校︑御射山尋常小学校︑木間尋常小学校ヲ廃止シテ改テ富士見尋常高等小学校ヲ設置スルコト

富士見尋常高等小学校々舎ノ位置ハ其尋常部ヲ御射山神戸木間両区之高等部ヲ松目区ノ内字原ノ茶屋二定ムルコト

富士見尋常高等小学校各尋常部ニハ尋常科六学年迄ノ教科ヲ教授シ得ベク高等部ニハ高等弐学年迄ノ教科ヲ教授シ得ベ

キ設備ヲ為スコト富士見尋常高等小学校高等部建築費トシテ大正二年度ヨリ毎年金三百円以上ヲ村税ヨリ積立ウルコト

前項積立金ノ額二寄附金ノ額ヲ合セテ建築費ノ約半額ヲ支弁シ得ルニ至ラバ校舎建築二着手スルコト

富士見尋常小学校高等部校舎建築ヲナス迄ハ高等科ノ教授ハ御射山尋常部校舎内二於テ其教授ヲナスモノトス

各尋常部二通学スベキ生徒ノ区域ハ各尋常部学級編成ノ都合ヨリ距離ノ遠近ト通学ノ便否トヲ参酌シテ郡長ノ指揮ヲ得

テ之ヲ定ム

(17)

将来其変更ヲ為ス場合アルモ又之二倣フモノトス

将来二於テ高等部各尋常部ノ校舎ノ位置其修共来年限等二関シ変更スベキ必要ヲ生ジタルトキハ村内各部落ノ熟議協定

 ヲ以テ之ヲ決定シ単二村会ノ決議ノミテ以テ之ヲ決定セザルモノトス

富士見高等小学校金沢村トノ組合解除ハ直二其手続二着手スルコト

本協定以前二於テ学校ノ件二関シ村内各部落間並二村会二於テ協約又ハ決議シタル事項二於テ本協定ト抵触スル条項ア

ルトキ之ヲ無効トス︒ ︵大正二年三月二十六日︶

史料 14

       協定書

②  本村学校問題二関シ慎重熟議ヲ遂ゲタル結果左ノ事項ヲ協定スルモノトス

料 一︑本村設置ノ御射山尋常小学校木間尋常小学校ヲ廃シ新二富士見尋常小学校ヲ設置スルモノトス昧右校地指定校全︒設備ヲ了スル迄ハ従来ノ御射山尋常小学校舎及木間尋常小学校全︑ヲ以テ仮教場二充ツルモノトス

輔二︑富士見尋常小学校舎建築工藁二充ツルガ為メ積立金ヲ設クルモノトス

平  積立金額ハ毎年度予算ノ定ムル処ニヨル但シ本年度二限リ積立金ハナサザルモノトス

離  大正弐年四月吾       諏訪郡富士見村 村  右協定平和解決ヲ告ゲタルニ付後日ヲ証スル為メ弦二署名捺印ス

長       小林重五郎  臼

(18)

折井音弥         34中山伝吉    −

小林庄三郎

史料 15

 本日十六日付諏訪郡役所達第二〇号ヲ以テ本郡長ヨリ左記之通リニ校ヲ廃シ新二富士見尋常小学校一校ノ設置ヲ指定

セラレ候此段及御通知候也

     大正弐年五月十八日       富士見村長代理 平林長次郎

       大平区長殿

      記

 諏訪郡役所達第二〇号

      富士見村

明治三十三年八月勅令等三百四拾四号小学校令第九条依リ本県知事ノ認可ヲ得テ其村設置ノ御射山尋常小学校及ビ本間

尋常小学校ノニ校ヲ廃シ新二富士見尋常小学校一校ノ設置ヲ指定ス

 但大正弐年五月二十三日限

史料 16

         富士見村立学校二関スル陳情書

(19)

  一︑現在ノ状態

   1 明治三拾壱年分校富士見村ノ南北両端一二二校ヲ有ス︒

   2 村民ノ殆ド全部ハ村一校ヲ希望シ︑極力協同一致統一二努メヲルモ︑従来ノ慣習ヲ以テ行懸リ上増築ヲ主張シ︑

     一校ヲ希望スル村民ハ之レガ犠牲タラントミロロアリ

  ニ︑村の財政状態

   1 村民ノ負担過重ナルコトハ左ノ諸例ニヨリテ知ル事ヲ得︒如何二我富士見村教育費ガ他村然カモ富士見村ト同一

     ナル事状ニアリシ境村及ビ一校ノ名称二於テ分教場二本校一ヲ有スル落合村ノ如キ︵我ガ富士見村現在ハ︑前述

     ノ如ク三校名ニシテ棟数二於テハ落合ヨリ少シ︶︑何レモ我ヨリ軽クシテ良好ナル成績ヲ得ツ・アルナリ︒試二

     数字上ノ統計ヲ求メン︒

@  2 境村︵一校二合校セル今日︶

酬  本校一︑ 分教場一縣  教育費総額 三︑二七円

教      生徒人員    四一四人平      生徒一人分当  七円五三〇

長  生徒人員 五八六人      B 酬  教育費籍 四︑七三五円       5

離  本竺︑ 分教場二 鮒  落A・村

(20)

  生徒一人分当  八円〇八〇       6      13富士見村

 富士見高等小学校

  教育費総額   一︑三二一円六六〇

  生徒人員    八〇人

  生徒一人分当  一六円五二〇

 御射山尋常小学校

  教育費総額   二︑三五一円六六

  生徒人員    一九九人

  生徒一人分当  一一円八二〇

 木間尋常小学校

  教育費総額   二︑九二四円六一〇

  生徒人員    三三六人

  生徒一人分当  八円七〇五

 富士見村全体ニテハ

  教育費総額   六︑九二二円九〇〇

  生徒人員    六一五人

  生徒一人分当  一一円二五〇

(21)

    村費ノ大部分ハ即チ教育費ニシテ︑教育費ヲ除キタル純然タル村経費ハ︑臨時ノ事項ナキ限リハ殆ド一定ノモノニ

    シテ何レノ村経済モ同様ナルモノナラン︒此ノ教育費二於テ現在ノ状態ナルヲ如何ニセン︒

    一校後二於ケル経費

    児童一人分当ヨリ計出スル時ハ現在六百拾五人

    一人分当落合ノ如クニ︑教場ヲ有スル八円ヲ以テスルモ︑四千九百弐拾円ニシテ可ナレバ︑本年度ノ六千九百弐拾

    弐円九拾銭二比シテハ︑弐千円ノ差ヲ生ズルハ明ナリ︒落合ノ八円ハ祐ナルモノト思考セラルルナリ︒

    校長︑裁縫専科︑小使︑炭︑其他購入物業二於テ差ヲ生ズルハ︑数字ニヨラズトモ明カナリ︒経費ハ教育上云々ス

    ル時ハ既二此ノ如クナレドモ︑一校ハ即チ経費上教育上トノ両方面調和進歩セシムル

  三︑教育上関係利害

②  1 教育上統一ヲ欠ク事之真二大問題ニシテ︑単二教育上ノ問題二止ラズ纏テハ村治上ノ一大問題タラソ︒

料  2 両校児童ノ相反視的態度ハ︑只々学校児童トシテ通学シ居ル時二限ラズシテ︑引テハ成年ノ後二至ルベシ︒齢3一校ハ即チ名ノ如ク統一タルモノナルニ就キ︑︸別二項ヲ遺感ナク補ヒ且ツ増進セシメテ︑教育ノ統扉セテ村治糖 ノ統一ヲナζトヲ得︒

報  4 一校ハ即チ設備上ノ完成ヲ期シ得︒

長  8 一校ハ即チ衆人ナレバ︑児童ハ自然的練磨二依リ︑人物養成ヲナシ得ルコト往年落合二通学セシ時代ノ如シ   ー 酬7一校ハ即チ教授ノ研究努力ヲ増進ス︒      錦 離6豆ハ即チ藷的軽キ讐ヲ以テ比較的可良ナル統三ル警ヲ施シ得︒ 村  5 一校ハ即チ教師ノ人選ヲナシ得︒

(22)

9 一校ハ即チ児童身心ノ健康ヲ増進ス      38右調査ハ吾々青年会ノ単ナル調査物ナレドモ︑ 一校タラシメント欲スル希望ハロテ単ナルモノニハ非ラズシテ︑甚ダ ー

切ナルモノナリ︒然カモ思フニ吾々青年ノ意志希望ナルノミナラズ︑吾ガ富士見村民ノ殆ド全部ハ之レヲ痛ク希望ス

ルモノナラン︒唯々其言ハント欲スル好機会ヲ得ズ︑尚且ツ個々ナル無声ノ意志ニシテ︑団タル発言希望ハナシ得ザ

リシナラン︒此ノ処二於テ吾々青年会ハ︑吾ガ富士見村ノ現在並二将来ノ状態二鑑ミ︑率先以テ一村一校ノ実ヲ挙ゲ︑

殆ド全村民ノ意ヲ満タシ︑然カモ吾ガ富士見村ノ財政上教育上及ピ村治上根本的改革ヲナスト同時︑一村一校ノ大方

針ヲ決定シ︑永遠二村民ノ幸福ヲ増進セント欲ス︒幸二先賢各位ヨ徒二慣習二拘泥セラレズ︑吾々青年ノ意ヲ掬ミ︑

且叉村民ノ声ヲ哀トシ適当ナル御措置ヲ垂レ給ヘヨ︒

︵書類整理順にみると大正三年度にだされたものである︶

史料 17

      陳情書

 富士見小学校統一期成同志会長小川九二一謹んで村会議員並に属長各位に白

不尚撰ばれて本会を代表して謹んで一書を呈し学校問題現下の急務に対する各位の高判を仰がんと欲す︒各位が学校問

題に対して極力御尽癖あらせらるるは吾徒同人の実に感謝措く能はざる所なり︒各位が既に蔭に陽に総ての方面より知

悉せらるふ如く本問題の因つて以て村民の教育が過去に於て現在に於て或は来るべき将来に於て既に受けんとしつつあ

る属別的待遇は若し此侭に放置せんか単り教育の精神を没却するのみならず南諏の中心として発展しつふある我富士見

村の威信を損傷し是が為め牽いては村内部落的和合の上に一大障碍を来すに至らん︒今にして之が根本的の解決を講ぜ

(23)

  ずして徒らに其機を逸し禍根を将来に残すに於ては或は思はざる不祥事を惹起するやも図り知るべからず︒村を愛し民

  を撫し将来永遠の発展向上を望まんには自我を去り平痢に則り正義に服するを無上の名誉と信ずる我富士見村民は又一

  面に於ては其の如何なる境遇と如何なる部落に属するを問はず正義正論に反する不当の圧迫に服従することは絶対に肯

  ぜざるものなり︒

  醗つて学校問題紛擾の理由若くは遠由に関しては既に各位に於て認識せらるふが如く部落を離れたる︑村民個々が此理

  由を有するに非ざるは言をまたず︒果して然らんか学校問題の解決も詮ずる処は政治的及び経済的統一に依る平和的進

  歩と教育の完成を期すや柄として火を見るが如し︒

  一度眼を世界の大局に注がんか四千五百の村民今や一時を姑塗すべからざるものあり︒全く各位の断然たる処置に依る

  の外学校問題根本的の解決は望むべからず︒徹頭徹尾村民平等なる教育を当然享有すべき義務教育に就て姑息なる手段      あやま② の為めに根本の解決を徳らざらん事を希ふや切なり︒

料 誰れか万難を排して起つて正義を叫ぶものぞ︑我徒同人は本村現下の情勢に鑑み満腔の誠意を以て各位の奮起を望み時昧局の大勢に猛進せられん事を期して待つのみ︒

輔 願くは各位の明察を垂れ現下の急務に処せられん事を      敬白

平      大正八年七月二十三日      富士見小学校統一期成同志会

現    三教育豊ついて 株

酬史料︵81︶は︑完全なものではないが︵晟出﹂の項目のうち︑第五款から第九款までが欠落︶︑裏村における教育9長       13  費の実態を示すものとして興味深い︒

(24)

 本史料から判明することは︑第一に村全体の予算の中に占める教育費の割合が一番多く五七・八%にものぼっている      40こと︑しかもその内容は︑人件費・維持費に集中し︑生徒経費はきわめて少ないこと︑第二に四十四年度において尋常 −

科の授業料収入の計上がみられないところから︑すでに授業料が撤廃されていたものと思われること︑第三には明治三

十二年以来形式的には金沢村との組合立で創立された高等小学校の経費のほとんどは︑富士見村で支出したものであり︑

組合立とは名目的にすぎないものであったこと︑などをあげることができる︒

 また村税収入をみると︑﹁戸別割﹂が全体の八三・七%を占めており︑大衆課税の苛酷さをうかがわせている︒

 なお授業料の実態を示す資料はきわめて乏しく︑次のものしかみることができなかった︒

︒﹁明治二十七年生徒授業料収入簿﹂︵大平地区︶⁝⁝⁝⁝六人とも三〇銭

︒明治四十一年四月

三〇銭 二名    十二銭 一名

二〇銭 一名   十銭 二名

十五銭 三名

 後者をみると︑家庭の経済状況︵基準は不明︶に照応させるがごとく︑配慮されていることがわかる︒

史料 18

 告示第一二号

(25)

   明治四十四年度歳入出予算別紙之通リ

   右告示ス

       明治四十四年四月十五日       富士見村長 樋口長兵衛

      明治四十四年度富士見村歳入出予算

      歳入

  第一款財産ヨリ生スル収入 金百拾円拾参銭

    一︑貸地料   金参拾円

    二︑貸与金利子 金六拾五円拾参銭

    三︑公債収入  金拾五円

② 第二款使用料及手数料 金弐拾八円

酬   一︑督促手数料  金壱円縣 二︑証明手数料金拾弐円輔 三︑戸籍手数料金拾五円

平 第三款雑収入 金四拾円六銭四厘

長第七款村税金七千参百弐拾九円       − 酬笙ハ款交付金舎参拾弐円      姐

聞 第五款補助金 金弐拾弐円四拾銭 村 第四款前年度操越金 金四百円

(26)

  一︑地価割   金四百五拾参円        二︑戸別割   金六千百参拾六円      14

  三︑国税営業割 金百五円

  四︑県税営業割 金四百七拾円

  五︑所得税割  金百六拾五円

   合計 金八千六拾壱円五拾九銭四厘

      歳出

第一款役場費 金千弐百八拾七円八拾銭

  一︑収入役給料 金百八円

  二︑書記給料  金参百弐拾四円

  三︑使丁給料  金九拾円

  四︑旅費    金六拾九円

  五︑報酬    金弐百九円

  六︑実費弁償  金九拾八円

  七︑雇人料   金拾弐円

  八︑文具料   金四円八拾銭

  九︑慰労手当  金九円

  十︑賄料    金弐拾円

(27)

   十一︑備品費   金九拾七円

   十二︑消耗品費  金百七拾九円

   十三︑通信費   金四拾円

   十四︑雑費    金弐円

   十五︑ 役場修繕︹費  金弐拾六円

  第二款会議費 金参拾円

    一︑議員実費弁償 金弐拾八円

    二︑議場費    金弐円

  第三款土木費 金五拾円

②   一︑道路  修繕費 金五拾円

酬 第四款教育費 金四千六百六拾弐円九拾六銭

鯨第一項木間尋常小学校費金弐千参百九拾七円九拾八銭 縮  一︑俸給 金壱千六百八円

平    二︑雑給    金九拾五円

縣  五︑学校医手当金拾円       3

離 四︑恩給基金金拾円 村    三︑旅費    金弐拾壱円

長      14     六︑慰労手当  金弐拾四円

(28)

  七︑生徒諸費  金四拾四円       44  八︑備品費   金弐百七拾壱円      −

  九︑消耗品費  金百七拾五円

  十︑賄費    金拾円九拾八銭

 十一︑通信運搬費 金弐円

 十一一︑ 校企ロ修繕⁝費  金六拾円

 十三︑雑費    金六拾七円

第二項御射山尋常小学校費 金弐千弐百拾九円九拾八銭

  一︑俸給    金千五百拾弐円

  二︑雑給    金九拾弐円

  三︑旅費    金拾七円

  四︑恩給基金  金拾円

  五︑学校医手当 金拾円

  六︑慰労手当  金弐拾壱円

  七︑生徒諸費  金弐拾五円

  八︑備品費   金百八拾円

  九︑消耗品費  金百四拾参円

  十︑賄費    金拾円九拾八銭

(29)

    十一︑通信運搬費 金弐円

    十二︑校舎修繕費 金百参拾弐円

    十三︑庭内修繕費 金弐拾五円

    十四︑雑費    金四拾円

    第三項学事諸費 金四拾五円

     一︑委員手当 金参拾五円

     二︑学林費  金拾円

  第五款衛生費 金五拾壱円

     一︑病舎修繕費 金参円

②    二︑雑給    金八円

酬第+款財産費金弐百八拾円

縣  一︑基本財産積立金金弐百七拾円

輔 二︑部落財産統憂金拾円

平 第十一款雑支出 金四拾七円

鮒 一︑墓地火葬場費金拾五円

計    二︑雑出     金参拾弐円

酬第二款予備費書弐拾円      妬

長    一・予備費 金百弐拾円      1

(30)

    合計 金七千九百参拾七円拾九銭四厘       46      臨時費      −

第一款補助費 金百弐拾参円

   一︑村農会補助   金四拾円

   二︑衛生組合補助  金六拾弐円

   三︑就学奨励金補助 金弐拾壱円

第二款積立金 金壱円四拾銭

   一︑罹災救助積立金 金壱円四拾銭

    合計 金百弐拾四円四拾銭

    総計 金八千六拾壱円五拾九銭四厘

        明治四十四年度富士見村金沢村組合予算

      歳入

第一款雑収入 金弐百七拾弐円

   一︑不用品払代 金弐円

   二︑授業料   金弐百七拾円

第二款繰越金 金百七拾円

第三款村税  金千弐百五円

(31)

     一︑富士見村負担 金千百九拾五円      .

     二︑金沢村負担  金拾円

      合計 金千六百四拾七円

      歳出

  第一款会議費 金四円

  第二款教育費 金千六百参拾弐円

  f第一項高等小学校費 金千六百参拾弐円

     一︑俸給    金千百七拾四円

     二︑雑給    金拾九円

②    三︑旅費    金弐拾参円

酬 四︑恩給基金金拾参円縣 五︑生徒諸費金弐拾四円

教    六︑慰労手当  金拾弐円平    七︑備品費   金弐百弐拾円

計 九︑通信運響金参円 鮒 八︑消耗.翼書拾四円

獺    十︑雑費    金参拾壱円       7長       14  第三款予備費 金拾円

(32)

合計 金千六百四拾七円

四裁縫料について

 記録に見るかぎり︑明治二四年から補習科︵のちに高等科︶の教科の中に加えられているが︑﹁裁縫専修科﹂とよば

れているように専修生を対象に開設されている︒その特徴ともいうべき点をあげると次のようになる︒

 一︑時期は︑年によって流動的ではあるがほぼ農閑期に開かれている︒

 二︑当初は︑授業料を徴収していたものを︑三十五年度にみられるようにそれを廃止するとともに︑﹁日常女子の心

   得へき礼儀作法等﹂もとりあげるなどの内容的な工夫もなされたが︑受講生を集めるのに常に役場が就学督促の

   強化をはからねばならなかった︒

 三︑裁縫科担当の教師は専任ではなく︑ほとんど毎年入れかわるというようにきわめて不安定なものであった︒

 裁縫専修科が思いのほか不振であった理由としては︑教科としての魅力に乏しかったことと︑行きたくとも通学する

ことができなかった当時の女子のおかれた状況の両方に関連があると思われる︒

 ﹁沿革史﹂などから確認されたものをみると︑裁縫科担当教師は次のようにかわっている︒三二年小川うめ︑三三年

桃井わさ︵高等科︶︑三四年藤原とし︵尋常科︶︑三五年藤森志づ︒

史料 19

 今般富士見尋常高等小学校本校内二来ル十七日ヨリ裁縫科開設候条裁縫専修生志望ノ者有之候ハ・同日ヨリ出校可致

候様御部内へ無洩通知方可然御取計相成度此段及御通牒候也

(33)

明治三十二年一月十五日      富士見村長 矢沢正雄

  大平総代御中

史料 20

御射山神戸木間両学校二裁縫専修科設置授業料一月十五銭ツ・︵但シ半月以上欠席者ハ半月分ヲ減額ス︶ト規定シ来

ル十五日ヨリ開始可致候間希望者精々御勧誘之上其氏名十四日迄二当役場へ御通知有之度此段及通知候也

    明治三十二年十二月十日      富士見村役場

      大平総代御中

  史料 21

酬      大平惣代御中

鯨  十二月一日より裁縫科開始候条志望のものは出席可致様無洩御通知相成度候也

鮪     十一月三十日      富士見尋常小学校

平        大平耕地惣代御中

蹴追テ従来之裁馨垂曇子の心得へき礼儀作法等をも併竃授可致につき可成多数出席致す様御尽力相願度

蹴候也

踊史料2       珊

(34)

自今︵十一月末迄︶毎水金両日当校内二裁縫ノ教授有之候二付有志者ハ出席不苦候間此段御部内へ御示シ相成度候也       50  但授業料ヲ要セズ      ー

    明治三十五年六月 日      富士見尋常小学校

      大平区長殿

史料 23

 啓当校裁縫専修科開校之際ハ御尽力に預り奉深謝候爾来生徒之出席少なく甚だ遺憾に存候得.ハ更に生徒各自へも出席

を促し置き候処尚ほ御手数ながら御区内生徒之登校勧誘方尽力を仰ぎ度御依頼申上候

     十二月二十五日       富士見尋常小学校

       大平区長殿

なお︑史料中のかなつかいは原文どおりとし︑漢字については︑一部当用漢字に改めた︒また氏名については︑省略したものもある︒

参照

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 一六 三四〇 一九三 七五一九八一六九 六三

七圭四㍗四四七・犬 八・三 ︒        O        O        O 八〇七〇凸八四 九六︒︒﹇二六〇〇δ80叫〇六〇〇

青少年にとっての当たり前や常識が大人,特に教育的立場にある保護者や 学校の

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2 学校法人は、前項の書類及び第三十七条第三項第三号の監査報告書(第六十六条第四号において「財

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