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デュラスの「二度目の旅」

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(1)

デュラスの「二度目の旅」

―『サヴァンナ・ベイ』の方へ―

藤 井 恭 子

あなたは忘却の果てを見ることはないだろう。どれほど忘却しようとも。

モーリス・ブランショ1)

1 紅茶とマドレーヌ

1982

年の夏,マルグリット・デュラスは死にかけていた。2) アルコール 中毒の症状が進み,手足が震えて,若い伴侶の介助なしには,もはや歩行 も執筆もできない。内臓の細胞は致命的な破壊の瀬戸際にあった。そして 脳も。不眠,恐怖,抑鬱,意欲低下,記憶障害,感情失禁―ボードレー ル風に言うなら,要するにデュラスの頭上には「痴呆の翼」が羽ばたいて いた。ついに本人も周囲の勧告を受け入れざるをえず,秋には入院と決ま る。

68

歳の作家は,自分は病院で死ぬに違いないと言い,頭上の翼を払 いのけながら―それは,ひっきりなしに飲みながら,ということになる のだが―口述を続け,入院前に戯曲『サヴァンナ・ベイ』を脱稿した。

上演時には

83

歳になる女優マドレーヌ・ルノーのために。3)

…というような作家の実生活をむやみに引き合いに出すのは,何よりも 作品そのものを読みこもうとする読者として,あまり感心した手口ではあ るまい。しかし『サヴァンナ・ベイ』に関しては,この事情を踏まえてお いた方が,少なくとも読解の興趣は深まる。作品を貫く尋常ならざる切迫 感の所以が腑に落ちて,デュラスという作家の,書くことにおけるしたた かさ,というより業の深さに,心底驚嘆することになるだろうから。作家 の心身にこのとき初めて深刻に迫っていた痴呆と老齢とは,この作品にお けるまさに切札となった。実際に「痴呆の翼」を知る作家と老齢を知る女 優という組み合せがなければ,この切札は案出されることも,効力を発揮 することもなかったに違いない。

(2)

デュラスは変奏の作家である。多作だが,その作品は終生ほとんどいつ も同じ主題,同じ物語,同じ背景をめぐる執拗な変奏だった。多くの場合,

個々の変奏相互の境界は不分明で,読者は自分がいまデュラスのどの作品 のなかにいるのかを識別するいとまもなく,際限もない巻物のような「い つものデュラス世界」に巻き取られているといった具合だ。しかし時折,

他の変奏群とは明らかに調性を異にし,それゆえ特異な音色を響かせて,

デュラスの活動全体に重要なアクセントを与える変奏に出会うことがあ る。たとえば『モデラート・カンタービレ』,『アンデスマ氏の午後』,『イ ギリス人の恋人』,『船舶ナイト号』。そして『サヴァンナ・ベイ』。

『サヴァンナ・ベイ』で舞台にかけられるのは,記憶の彼方から過去の 物語を手繰り寄せていく二人の人物の,緊迫した対話である。自分を決定 的に魅惑し呪縛しているその物語を掘り起こせば,二人は自分が誰である のか,あるいは誰でないのか,誰であった(なかった)のか,誰でありた かった(あることができなかった)のかを知ることになるだろう。二人は いずれも,程度の差こそあれ,それを自ら暴くことをなかば切望し,なか ば恐れている。したがって,それは探りたい,探らずにはいられない記憶 であると同時に,忘却と沈黙の奥に封印しておきたい記憶なのだ。二人の 間で,時に傷つけ合い時に情愛のこもった抱擁をかわして続けられる対話 が記憶や偽の記憶を引き出し,ひとつの失われた物語を復元あるいは創作 していく。読者=観客は,物語とともに,二人の対話者のアイデンティテ ィが復元あるいは創作されていく過程に立ち会うのである。

ちょうど『ヒロシマ・モナムール』や『かくも長き不在』や『モデラー ト・カンタービレ』や『船舶ナイト号』や『アガタ』,そのほか数々のデ ュラス作品と同じように。そう,基本構造をみる限り,読者が『サヴァン ナ・ベイ』で出会うのは,またしてもあの主題・あの物語である。ここに は決定的な原光景の記憶に憑かれたものの恍惚と狂気があり,それはあま りにも決定的に取り憑いているので,忘却することが,あるいは想起する ことができない。憑かれたものは,自分のなかに深々と棲みついたまま宙 吊りになっているその記憶を追慕し恐れながら,物語として再現し追体験 しようと格闘する―またしても。つまりこの作品もまた,ごく初期から 一貫してデュラスの作品のライトモチーフであった,記憶と忘却という問 題の一変奏なのだし,物語の背景である,海に続くあの河口も,あの真夏 の暑熱も,登場するあの小柄な

10

代の少女も,失った女の名を叫び泣く あの男も,やはりなじみ深い「デュラス世界」の空間と住人である。

(3)

にもかかわらず『サヴァンナ・ベイ』の響きは,デュラスの変奏群のな かでも際立って耳新しい。それは,「老齢」という,デュラスとしてはま ったく新しい調性をもつためなのである。常に

10

代の少女としての自己 に固着し,「老い?そんなものには興味がない」4) と言い放ってきたこの 作家が,老齢の人間に自己を投影したのも,老齢をここまで意識的・戦略 的に作品に取り込んだのも,これがほとんど最初で最後だろう。語られる のは相変わらず,年若い少女の,死の願望を秘めた性愛や妊娠や水死では ある。しかしここでは,それは痴呆が進行している老女の,衰えゆく記憶 のなかに閉じ込められた物語として提示される。再現すべき決定的な物語

―神話と言ってもよい―は,いまや老女の,まもなく永遠に失われる 記憶のなかにしかない。この物語に執着するもう一人の登場人物,「若い 女」(「彼女は『若い女』。名前はもたないだろう。」

p. 11

)は,必死になっ て老女の記憶を刺激し,思い出させ語らせ,物語の復元を急ぐ。自分が誰 であるのかを突きとめようとしている,この名前のない女は,自分の出生 と水死した少女の物語のあいだに深いかかわりがあると推測しており,彼 女のアイデンティティ獲得は老女の記憶ひとつにかかっているからだ。水 死した少女の物語は老女の記憶の表層に不意に浮かび出て,また不意に消 えてしまう。これを素早く掬いあげるのが若い女の役割である。

若い女 それは光の速さでやってくる。光の速さで消えてしまう。言 葉がもう間に合わなくなるわ。

(p. 26)

果たして二人は「間に合う」のか?そして引き出される記憶の,どこが 真実でどこが妄想なのか?どこが錯誤でどこが嘘なのか?老女と若い女が 物語の再現として繰り広げる対話のなかで,痴呆性の妄想や錯誤から,ま たは記憶を引き出すためのテクニックとして,二人は刻々といろいろな人 物になる。二人はいま誰になっているのか?誰の言葉を口にしているの か?二人が抱擁しあうとき,それは誰が誰を抱擁しているのか?あるいは 二人は「素」の自分に戻っているのか?そもそも二人に「素」の自分なる ものはあるのか?結局二人は誰なのか?―舞台には,矢継ぎ早にたたみ かけられた疑問符が充満する。この静かな対話劇にこれほどのスピード感 とサスペンスをもたらし,緩やかで散漫な反復に傾きがちな中・後期のデ ュラス作品のなかでは珍しい,引き緊まった印象を与えている要因は明ら かだろう。ここでは老齢こそが,ドラマにスピードとスリルとサスペンス

(4)

を供給し続ける動力装置なのである。

混乱し欠落し消失に向かう記憶。そこから手繰り寄せられる物語は,曖 昧で空白が多く,その真実性を保証するものは何もない。むしろ語れば語 るほど,物語は虚構性を強め,作中いたるところで,「もうわからなくな ってしまった」という言葉がこだまする。老女は若い女に言う。

あなた,毎日あの物語を聞きたがるのね。

[…]

何度も何度も繰り返して,毎日間違ってしまうのよ。日付も… 人も

… 場所も…。

(p. 30)

物語は語られるそばから疑わしくなり,取り消され,修正され,新しい 記憶を付け加えられる。それは終わりのないパリンプセストである。こう して異本は無限に増殖していく。そもそも,このようなパリンプセスト,

このような執拗な異本づくりこそ,デュラスの文学活動の本質ではなかっ たろうか?5) 同じ物語を「何度も何度も繰り返して」異本を生み出し続け ながら,この作家は終生夢みていたのではなかったか,反復がしだいに虚 実の境を無化し,やがて物語と語り手の生とが相互浸透する,記号と実質 との限りなく中間的な領域を招来することを?したがって,老女の言葉は こう続くのだ。

それもあなたの望みなんでしょ?

(loc. cit.)

デュラスが夢み続けた領域は,かつて一顧だにしたこともなかった老齢 というもののなかに,思いがけない姿を現すことになる。そこでは,老女 の「絶え間なく失われ埋もれていく,きれぎれの記憶」

(p. 11)

を核として,

記憶と物語の数限りない異本が堆積していく。それは虚の層も実の層もな いまぜの,分厚いパリンプセストである。こうして記憶の窮乏と豊饒,衰 退と繁茂はあざやかに逆転する。個人にとって,世界とは記憶の集積にほ かならない。とすれば,記憶の異本を生み続ける老女は,まさに分厚く豊 饒な記憶の層からなる世界の中心なのである。

彼女が着座すると照明が当てられる。彼女,世界の中心。

(p. 9)

(5)

もしわたしが死んだら,そのときは全世界も死ぬのよ…。

(p. 22)

デュラスは前書きに,老女の役は「老齢の光輝

la splendeur de l’âge

に 達した女優以外が演じてはならない。戯曲『サヴァンナ・ベイ』は,この 光 輝 ゆ え に 構 想 さ れ , 書 か れ た 。」

(p. 8)

と 記 し て い る 。 こ の 「 光 輝

splendeur

」は,デュラス的人物の原型の一人,決定的な原光景の記憶に

憑かれた少女ロル・

V

・シュタインの「恍惚

ravissement

」に直接連なる と思われるし,また時にはかつて有吉佐和子が用いた意味での「恍惚」を も含んでいよう。しかし無論,そのいずれにもまして「光輝」は,物語の 語り手がまとう記憶の層の豊饒と豪奢をこそ意味しているはずである。

この戯曲の登場人物は老若二人の女,場所は海辺の別荘か老人施設のよ うな建物の広いホール。6) 若い女は毎日老女を訪問し,記憶の衰えた老女 から自分の出生にまつわる物語を引き出そうとしているらしい。若い女は 老女の記憶の産婆であり,老女も若い女のアイデンティティの産婆である。

前述のように若い女には名前がないが,老女は作者によってはっきりと名 ざされている―マドレーヌと。しかし劇中でこの名が呼ばれることは一 度もない。観客は老女の名を,ただプログラムに書かれた役名として知る だけである。実際に劇中では,二人の女のアイデンティティは同じくらい 不確実で,老女は「もう自分が誰であるのか,誰であったのかを知らない」

(p. 7)

のだ。ではなぜ彼女はマドレーヌなのか?

もちろん,第一にそれはこの役がマドレーヌ・ルノーのために書かれ,

彼女以外にこれを演じられる女優が考えられなかったからだろう。この役 は,マドレーヌ・ルノー本人の,誰もが知るふたつの属性を借用し,最大 限に活用することで成立する。高齢であること,そして生涯に無数の舞台 で無数の役を演じてきた女優であること。一方,劇中の老女について作者 の前書きが与える情報は三つあり,それはマドレーヌという名前であるこ と,高齢であること,舞台女優だったことである。そして女優という職業 は,老女が自分について明言できる唯一の事実ということになっている。

つまり,実在の老女優マドレーヌ・ルノーと劇中の老女優マドレーヌの境 界は意図的にぼかされている。したがって,マドレーヌ・ルノーが舞台に 登場するとき,そこにはすでに演者の実と演じられる作中人物の虚がまじ りあった「限りなく中間的な領域」が準備されていることになる。なぜマ ドレーヌか,のもうひとつの理由,それはこの作品が何よりも記憶のドラ マだということにある。マドレーヌのなかには,多層の記憶と物語が封じ

(6)

込められており,若い女はその記憶をよみがえらせ,失われた物語を言葉 によって復元しようとする。

若い女 わたしを見てください。毎日会いに来ているでしょう。

マドレーヌ ああ,そう,そうだったわ…。二人でトランプしたり物 語をお話ししたりするのね…?

若い女 そう…お紅茶をいただいて…いろんなことをして…。

(上演台本,p. 97)

二人は舞台上で紅茶を飲む。紅茶と想起と物語は,二人の毎日の儀式に なっているのだ。紅茶とマドレーヌ。それは記憶と物語を起動させる鍵で ある。マドレーヌとともに紅茶を飲むとき,人は豊饒な記憶の世界にいざ なわれ,それを言葉によって再構築することを夢みる。

失われた時を求めて。

『サヴァンナ・ベイ』は,もうひとつの『失われた時を求めて』である。

2 消え去ったサヴァンナ・ベイ

失われた時の追求にあたって,『サヴァンナ・ベイ』でプルーストのプ チット・マドレーヌの役割を果たしているのは,香りではなく歌である。

劇はエディット・ピアフが歌う「愛の言葉」7) で開始される。マドレーヌ が聞き入っているうちに若い女が登場し,歌声はマドレーヌに聞かせるた めに彼女がかけているレコードだとわかる。マドレーヌは若い女が何者な のかも状況も理解できず怯えているが,歌を聞くうちに記憶の奥で何かが 微かに動きはじめる。マドレーヌは若い女の顔に手を触れながら,問いか ける。

マドレーヌ あなたはわたしの小さい娘なの?

若い女 かもしれません。

マドレーヌ (探る)わたしの小さい娘?… わたしの娘?…

若い女 ええ,そうかもしれません。

マドレーヌ (探る)本当にそうなの?

若い女 ええ。本当にそう。

(p. 13)

原文では,「わたしの小さい娘」は,

82

年の初版でも

83

年の新版でも

(7)

ma petite fille

と表記されているが,もちろんこの語は観客には「わたし の孫娘」

ma petite-fille

と区別がつかない。8) 若い女はマドレーヌの娘か もしれないし孫娘かもしれない。ただの「小さい女の子」にすぎないのか もしれない。この名前のない女は,マドレーヌの妄想や錯誤に会わせて誰 にでもなるのだから。9) いずれにしても,マドレーヌは若い女の顔に触れ 頭を撫でて,彼女が深く執着するひとつの面影を探し求める。(「[…]彼 女は《不在の三人目の女》を愛撫し続ける。」

p. 14

,「彼女は目を閉じ,虚 空を愛撫する。」上演台本

p. 97

。)しかし彼女はすぐに,若い女が自分の求 める「三人目の女」ではないことをさとる。

この「不在の三人目の女」こそが,この作品でサヴァンナ・ベイと呼ば れるあの少女,二人の物語の―そしてデュラスの数々の作品の―主人 公である。二人は,この少女の不在,消え去ったこの少女を見出せないと いう共通の悲哀のうちに,強く結びついている。二人の対話そのものが,

不在の少女の姿をなぞる,虚空の愛撫なのだ。遠い昔,少女が悲劇的な死 をとげたこと,若い女の出生はその事件とかかわり,若い女は少女の娘,

マドレーヌは少女の母であったらしいことが示唆されるとはいえ,「ここ では確実なものは何ひとつない[…]。一人の女はあまりに若くて記憶が ない。もう一人の女はあまりに老いて,その過去と自分の芝居との区別が つかない。」

(p. 31)

つまり,ビーゼンボスが指摘するように,10)『サヴァンナ・ベイ』は

「死んだ女・忘却する女・知ることができない若い女の三人が体現する,

ひとつの不在」を中核として成立する作品であり,「知の欠落をめぐって なされる

jeu

(演技/遊戯/賭け)」である。このとき,マドレーヌの唯 一の確実なアイデンティティである女優という職業が,老齢と同様,きわ めて大きな意味をもつことになる。

女優であるということ,それは肉体を物語に譲り渡した者であるという ことだ。女優の肉体にはありとあらゆる他者が宿る。女優は誰でもあり,

誰でもない。デュラスが作家として物語の異本を作り続けるように,女優 にとってはその時々の自分の肉体そのものが物語の異本なのだ。マドレー ヌはかつてそれを着てさまざまな役を演じた舞台衣装をつけ,鏡の前でポ ーズをとるが,このときマドレーヌは老齢であることのみならず,さらに 女優であることによっても,異本を増殖させる「光輝」に満ちた存在とな る。女優のシンボルともいえる衣装と鏡は,異本すなわち虚の増殖装置に ほかならない。

(8)

作者の指示によって,マドレーヌが覗き込む鏡は観客の目には見えず,

ただマドレーヌを照らし出す反射光だけが鏡の存在を暗示するようになっ ている。ここで観客ははっきりと視覚的に了解することになるのだが,マ ドレーヌの肉体は,消え去った少女や目に見えない鏡という,不在のもの が発する光を受けることによって初めて存在する。マドレーヌの肉体その ものが,実体ではなく,反射光を浴びて像を結び変幻する虚の反映なので ある。女優であるという,彼女の唯一の確実なアイデンティティが語るの は,彼女が虚の存在―他者の記憶と物語の膨大な層の集成であって,自 分自身の確実なアイデンティティをもたないという逆説だけだ。こうして,

老齢でしかも女優であるというとき,マドレーヌの「知の欠落」と「光輝」

は,ともに自乗され,作品全体の構造がマドレーヌの上にミニアチュール 的に反復・強調されていることになる。

若い女は,マドレーヌの記憶を「わたしの小さい娘」に導く「愛の言葉」

の歌詞を少しずつ口ずさんでは,マドレーヌに繰り返させる。マドレーヌ は漠然とした抵抗を示しながらも,求められた通りに繰り返す。

こんなに好きになれるなんて

こんなに好きになれるなんて すごい 何度でも 何度でも叫びたい

だってこんなに人を愛したことはなかったもの これは君に誓ってもいい

しかし歌詞が次の部分に到ると,マドレーヌは激しく動揺する。

もしも君が行ってしまったら ぼくを棄てて行ってしまったら きっとぼくは死んでしまう

恋しさに ぼくは死んでしまうだろう モナムール モナムール

マドレーヌは「歌詞の激しさに凍りつき,呆然として」

(p. 16)

,繰り返 しを拒む。若い女に促されるとふたたび拒むが,やがて諦めて,苦しげに その部分を口にする。しかし二度とは繰り返せない。若い女は次のストロ ーフに移り,マドレーヌも従う。次のストローフでは,そんな美しい愛の

(9)

言葉をささやいた男が実は死にはしなかったこと,逆に男の方が自分を棄 てて何も言わずに行ってしまったことが歌われる。マドレーヌは「突然,

記憶に打たれたように」

(p. 18)

このストローフを二度繰り返し,取り乱す。

若い女はこの様子を冷静に観察している。明らかに,この歌の「恋に死ぬ

mourir d’amour

」「モナムール

mon amour

」「わたしを棄てて行ってし まう

partir et me quitter

」という部分が,マドレーヌに強く訴えること を知っているのだ。おそらくこれもまた,物語への前奏曲として,二人の 毎日の儀式になっているのだろう。

歌にたちこめる死と愛と喪失の香りに刺激されて,想起と物語が始まる。

おぼろな記憶からきれぎれに立ち上がってくるその物語は,若い女が求め る出生の真実なのかもしれないし,かつて女優マドレーヌが演じた芝居の 断片なのかもしれない。いずれにせよ,若い女とマドレーヌは,こもごも にひとつの物語を語る。毎日同じ物語を語り合ってきたために,若い女は 物語の大筋をすでに知っている。若い女の語り口はマドレーヌのそれと区 別しがたく,マドレーヌの記憶や言葉が滞ると,先回りしたり後を引き取 ったりして物語をまとめることもする。11)この物語はあたかも一人で語ら れたかのようであり,二人の女は,物語の語り手である同一人物のなかに 共棲するふたつの人格のようでもある。

物語はおおよそ次のようなものである。

ある盛夏の一日,黒い水着を着た

16

歳の少女が,マグラ河口の沖合の 海中に見え隠れする,大きな白い石の上にいる。少女を見かけて魅せられ た若い男が近づく。二人は突発的な激しい恋に落ちる。少女は妊娠し,女 の子が生れた直後に産褥を出て入水自殺する。生き残った男は三日三晩泣 きながら少女を呼び求めるが,遺体は発見されず,男も消息を断つ。

この単純な骨組に,さまざまな場面や会話がつけ加えられ,異本が作ら れ,演じられる。マドレーヌと若い女は,少女と男の対話を再現する。こ のとき物語は,原書では数頁にわたって

(pp. 43-47)

条件法過去で語られて いるが,この語り口は,同じように条件法過去の叙述を多用している

1977

年の『トラック』12)を思わせる。デュラスは『トラック』の巻頭に,

グレヴィスの文法書から,条件法の用法解説の一部を引いて掲げている。

条件法を一つの法とみなすのは慣習によるものであり,実際には条 件法は直説法の一時制(仮定的未来)と考えることも可能である。

本来の意味における条件法は,仮定された,もしくは条件に基づく

(10)

事象の結果として起るとみなされる,不確実な,あるいは非現実の事 象を表す。[…]

ある意味では,虚構の場における出来事を言葉にする純然たる想像 の世界(特に,子供が遊びを提案する時使用する前奏曲的条件法)を 表すために[も条件法が用いられる]。

モーリス・グレヴィス『正用文法』アティエ刊

(『トラック』p. 7)

条件法で語られる世界では,すべては「不確実な,あるいは非現実の事 象」となる。それは,「純然たる想像の世界」であり,さらには,お互い の役を決めてする子供の「ごっこ遊び」の世界でさえある。二人は「…で あっただろう」「…だったかもしれない」物語のなかで,サヴァンナと愛 人の役を演じる。子供が遊びのなかで猫と鼠を,母と子を,王子と王女を 演じるように。あるいは,女優が芝居のなかでそうするように。

この物語には二つの主題がある。第一の主題は,少女と男の,死の願望 と表裏一体となった神話的な愛である。それはその絶対的排他性ゆえに,

言い換えれば他者を完全に疎外し,いきなりその存在を無に帰する圧倒的 な暴力であるがゆえに,疎外された側をなお強く魅惑し呪縛している。上 演台本では,マドレーヌは,自分の娘である少女と男が白い石で語らう様 子を暗い家の中から窺っていたと語る

(p. 115)

が,娘の性愛への母の魅入 られたような執着―『アガタ』にもみられる―は,通常の母親が行う 娘の監視とはおよそかけ離れている。自分が決して入りこめず,一方的に 自分を遺棄して完成する他者の愛へのマゾヒスティックな執着13)はデュラ ス特有のものだが,ここから第二の主題が導き出される。それは遺棄され るものの恍惚と苦悩である。マドレーヌが強い反応を示した歌詞がはっき り示しているように。そして若い女もまた,その恍惚と苦悩を抱いてい る。

若い女[…]小さい娘の存在なんかでは,死を食い止めることはで きなかったのですね。

(p. 59)

デュラスにおいては,神話的な愛から疎外され遺棄されたものは,その 愛を物語として追体験することで,自分を遺棄したものと同一化したいと いう強烈な願望を抱く。つまり,彼らはみずからアイデンティティの混乱

(11)

を望むのだ。マドレーヌを動揺させ,その後も二人の女によって始終繰り 返される「モナムール,モナムール

mon amour, mon amour

」というリ フレインに,デュラスは格別の愛着を抱いているようで,『ヒロシマ・モ ナムール』でも『モデラート・カンタービレ』でも『アンデスマ氏の午後』

でも,歌や台詞としてこのリフレインが印象的に使われている。しかしこ れらのどの作品のなかでも,このリフレインを切実に繰り返すものや,じ っと聞き入るもの自身は,決して神話的な愛の主人公ではない―『ヒロ シマ・モナムール』の女主人公さえも,過去に経験したつかのまの神話的 時間から,今や決定的に切り離されている―。彼らは神話的な愛から疎 外され遺棄されたものであり,神話的な愛を「私の愛

mon amour

」と呼 ぶことのできないまがいものの主人公である。それを痛切に自覚しながら なお,他者の神話が本物の「私の愛」としてわが身に再現されることを夢 みるとき,彼らは「モナムール,モナムール」と繰り返さずにはいられな いのだ。これら遺棄されたもの―真にデュラス的な人物―にとって,

愛はつねに先在する神話的な愛の後追い,つまり「二度目の愛」であり,

遺棄されたものの苦悩をふたたび生き直すことである。

[…]苦悩が苦悩への解決として立ちあらわれてくる,二度目の愛と して。

(p. 70)

マドレーヌ 客席は真暗ね。(間)客席に語りかけるのよ[…]。 若い女 苦悩がどんなに長いかを。(間)どんなに変化するかを。

(間)どんなに変転するかを。(間)二度目の旅。(間)

別の岸。(間)二度目の愛。

マドレーヌ 二度目の愛。(上演台本,p. 127)

「二度目の旅」「別の岸」「二度目の愛」とは,異本づくりとしての語り にほかなるまい。マドレーヌと若い女もまた,消え去って神話と化したサ ヴァンナ・ベイの異本としての自己像をつくり上げようとする。たとえば 前出の舞台衣装や鏡と同様に,異本を増殖させアイデンティティを混乱さ せる装置として,デュラスはこの作品でも写真14)を取り上げている。若い 女がサヴァンナらしい若い女の写真の話をする。

若い女 わたし,夏休みの写真を見ました。若い女がひとり写っ

(12)

ていたわ。

マドレーヌ 夏休みの写真にはいつだって若い女がつきものだったわ よ。

若い女 夏休みの写真にわたしが写っていたんです… 金髪の背 の 高い男の人の右にいる若い女…

(pp. 56-57)

若い女は,自分が写真の女とそっくりであることを,自分のアイデンテ ィティ獲得の根拠にしようとしている。しかし写真の女が自分の母である と主張することは,とりもなおさず写真の女は自分であると言うことにも なってしまう。彼女のアイデンティティの証明は,それを混乱させること と等しくなる。こうして役名の「若い女」と,サヴァンナをさす一般名詞 の「若い女」の区別は曖昧になり,若い女の異本が増殖する。写真のなか の若い女,それを見ている若い女,誰でもあって誰ともいえない,夏休み の写真にはつきものの若い女。しかも「若い女」の写真はほかにもある。

それはまた別の若い女が写っている舞台写真である。マドレーヌは言う。

マドレーヌ どんなことだってありうるのよ。ほら,それはわたしだ ったの。ほんとうによく似ていること… 年月日なんて どうでもいいじゃない。

(p. 57)

「若い女」はみんな似ている。誰が誰の異本であるのか,もはや区別は つかない。こうして,マドレーヌ,サヴァンナ・ベイ,名のない若い女は 異本の増殖のなかに融けあい,とらえがたくアイデンティティを確定しが たい,ひとりの若い女となる。忘却する女,死んだ女,知ることができな い女。あるいは,語る女,語られる女,語らせる女。三人の女は三人とも サヴァンナ・ベイである。前書きはこう言う。

サヴァンナ・ベイ,それはあなただ。

(p. 7)

この前書きはマドレーヌへの語りかけという形で書かれているが,ここ で「あなた」と呼ばれているのは,決してマドレーヌひとりではないだろ う。マドレーヌは「若い女」でもあるし,また他の誰でもあるのだから。

三人のサヴァンナ・ベイは,デュラスと名乗って物語を書くひとりの女か もしれないし,物語を読み物語世界に巻き取られていく,また別の女かも

(13)

しれない。サヴァンナ・ベイは遍在し,しかもどこにもいない。

3 見出されない時―土地の名,名

『サヴァンナ・ベイ』の中核は消え去った少女である。そして,少女に まつわる神話的な場所は,彼女と若い男が出会い言葉を交わす,マグラ河 口の沖合の大きな白い石ということになる。マドレーヌにとって確実な記 憶も,自分が女優であったという以外にはこの石のことだけである。

わたしはほとんど何にも確信がもてない。(間)白い石のことは,あ れは確かよ。

(p. 32)

わたしはいろいろなものを演じていると思われたかもしれないけれ ど,ほんとうは,ただあれだけを演じていた。何を通してであろうと,

わたしは「白い石」を演じていたの。わたしはいつでもあそこに帰っ ていった。

(p. 36)

白い石が,マドレーヌが明言できるただ二つの事実の一方であるならば,

もう一方の,女優であることの意味と同様,マグラ河口のこの石の意味も 考えてみねばならないだろう。

あたかも老女優の記憶が過去に演じた役や訪れた場所の雑多なパッチワ ークになっていることと照応するように,『サヴァンナ・ベイ』にはデュ ラスの過去の作品のモチーフや場所のパッチワークがみられるが,15)マグ ラ河口は

1952

年の『ジブラルタルの水夫』に表れるイタリアの寒村の浜 辺である。『ジブラルタルの水夫』では,やはり過去の神話的な愛の主人 公といえる消え去った水夫を捜索する航海が,この河口から始まる。世界 中を航行する消え去った水夫は,さまよえるオランダ人や幽霊水夫の伝説 を連想させる。同様に,河口の白い石の上にいて,瞬時にひとを魅惑し,

やがて消え去る「黒い水着の,ひどくかぼそい」

(p. 40)

少女には,ウンデ ィーネ,ローレライ,セイレーンら,神話や伝説で語られる水に棲む乙女 の面影がある。かぼそい少女が出現し消失したマグラ河

la Magra

はイタ リア語で「痩せた女」を意味するし,少女の呼び名のサヴァンナ・ベイ自 体も河口の湾の名である以上,この少女もマグラ河口の水霊めいた伝説の 乙女なのかもしれない。デュラスにとってマグラ河口は,伝説すなわち条 件法過去の世界への入口である。それは失われた時という大洋に続き,記

(14)

憶と忘却が出会う場所なのだ。

魅惑すること,消失(遺棄)すること,伝説として想起され語られるこ との三つをその存在の原理とする人物として,ジブラルタルの水夫以上に デュラスの読者に印象深いのはアンヌ=マリ・ストレッテルだろう。物語 の中核をなす,水辺で消失した不在の三人目という意味において,アン ヌ=マリ・ストレッテルはジブラルタルの水夫の

70

年代の異本,そして サヴァンナ・ベイはアンヌ=マリ・ストレッテルの

80

年代の異本である とみてよい。河口の水死は,サヴァンナ・ベイをアンヌ=マリ・ストレッ テルに直接結びつける。この点に関しては,デュラス自身の発言がある。

「白い石は,私にとっては墓よ。『インディア・ソング』でガンジス河の湾 曲部にあったアンヌ=マリ・ストレッテルの白い墓,すでにあれも白い石 なの」(初演の舞台装置を担当したロベルト・プラトとの対談)。16)

白い石は消え去った神話的存在の「墓」であるが,この墓に何らかの遺 骸を見出すことはあるまい。墓は空ろであろう。それは不在そのものの墓 なのだから。真夏の光を受けて白く輝くこの墓は,生命の終りではなく物 語の懐胎される場としてとらえねばならない。墓である石は,反射光を投 げかけながら水面下に没したり現れたりする。サヴァンナ・ベイという少 女の肉体や,少女をめぐるマドレーヌの記憶や,マドレーヌの鏡と同じよ うに。白い墓は,それ自体は空ろでありながら,外に向かって反射光を投 げかけ,自らの異本を増殖させていく。それは物語の中核にある不在,言 い換えればパリンプセストの最初の層の空白を象徴している。平らで白い この石は,つまるところ,不在の神話をめぐる記憶だけが封じ込められた,

原初の書物のイメージであるともいえる。

この石をドイツ語で

Stein

と言い直してみると,デュラスが偏愛する固 有名詞になる。ロル・

V

・シュタイン,『破壊しに,と彼女は言う』のシ ュタイン,オーレリア・シュタイナー。そして晩年の伴侶ヤン・アンドレ アも,ヤン・アンドレア・シュタイナーという名を与えられ作品化された。

アンドレアによれば,シュタインあるいはシュタイナーは,デュラスにと ってユダヤ性の標識であり,さらにユダヤ性とはすなわち書物にほかなら ない。

彼女は,ユダヤ性とは旧約聖書,つまり書かれた書物であると言っ ていました。彼女は私について,『ヤン・アンドレア・シュタイナー』

という本を書いています。私の名前にシュタイナーというユダヤ的な

(15)

名前をつけ加えることによって,彼女は私をユダヤ人化したのです。

なぜならユダヤ人,ユダヤ性とは書物だからです。(ヤン・アンドレア のインタヴュー17)

またデュラスは,「ユダヤ人とは,行ってしまう人々。行ってしまうと き自分の生れた国を持ち去る人々。」(エリア・カザンとの対談)18) と発言し ている。

ユダヤ人に寄せるデュラスの強い関心は,さまざまな角度から検討し論 じられるべきであり,それは別の機会に譲りたい。ここでは,デュラスに とってユダヤ人が,書物つまり物語と,不在という,デュラスのエクリチ ュール観の本質をなす二つの要素の象徴であることだけを確認しておこ う。デュラスのユダヤ人,すなわちシュタインやシュタイナーら白い石に まつわる人々は,行ってしまい,さまよい,どこにもいず,どこにもいる。

彼らは生国を持ち去り持ち歩くが,その国とは物語の国の謂であろう。そ れは空白を第一の層とするパリンプセストである。デュラスのユダヤ人と は,物語の国を身に帯びて世界をさまよい,世界に空白を拡散させパリン プセストの層を積み重ね続けるすべてのものをさしている。

このような意味において,『サヴァンナ・ベイ』で「白い石のユダヤ人」

であるのは,不在の少女だけではない。女優としてあらゆる虚構を―し かし前出のように,「ほんとうはただ白い石だけを」―演じながら世界 を回ったマドレーヌもまた,ユダヤ人マドレーヌ・シュタイナーと呼ばれ てよいし,それが彼女の「光輝」にもっともふさわしい名前だろう。『サ ヴァンナ・ベイ』の終結部では,マドレーヌが体現するユダヤ人=白い石

の離散ディアスポラのイメージが,一気に拡大する。ここで語られるのは,おそらくマ

ドレーヌであろう女優が,おそらくサヴァンナの死から何年も後に,サヴ ァンナ・ベイという町で出会った男とのエピソードだ。その町はおそらく,

シャムの「熱帯の河口」

(p. 82)

にある。しかしそれは定かではない。あら ゆる土地の名が,若い女とマドレーヌの口を通してテクストに散乱してい るからだ。

だからそれは,ある時,あるカフェで,ある午後のことだった。カフ ェは辻公園に面していて,公園の中央には泉水があった。それはフラ ンスの南西部だったかもしれない国でのことだった。

あるいはヨーロッパの街角。

(16)

あるいはまた別の土地。

華南のあの小さな郡庁所在地の町々。

あるいは北京で。

カルカッタ。

ヴェルサイユ。

1920

年。

あるいはウィーンで。

あるいはパリで。

あるいはまた別の土地で。

(p. 73)

土地の名が,さらにリフレインとなって響く。「カルカッタ,サイゴン,

マンダレイ,シンガポール,ヨコハマ。」「あるいは別の土地。サイゴンで。

シンガポールで。マンダレイで。ヨコハマで。そうだったかもしれない。

そうだったかも」

(pp. 73〜74)

どこであれそれは,海に面したサヴァンナ・ベイという町だった。女優 はカフェでひとりの男が泣いているのを見る。男は

25

年前に

18

歳にも ならぬうちに水死した妻への愛に泣いていた。女優は彼に激しく魅かれる。

若い女によって「モナムール,モナムール」というリフレイン―他者の 愛への執着のテーマ―が歌われ,女優の言葉が語られる。「彼は気が狂 うほど愛していたのよ,もう二度と会えない人を。」「わたしは,彼女を,

つまりわたしではない女を奪われたという,その苦悩のなかにいる彼を愛 していたようだったわ。わたしではない女を奪われている,その彼の肉体 に,わたしはとても強い欲望を感じていた」

(p. 81)

。女優は男と言葉をか わす。女優は「サヴァンナ・ベイ」というタイトルの映画の撮影に来てい ることを語り,男は妻がサヴァンナ・ベイで死んだことを語る。マドレー ヌらしき女優は,彼がサヴァンナの愛人であることを確信する。

サヴァンナ・ベイがあるはずの土地の名が増殖する一方で,サヴァン ナ・ベイという名そのものも,増殖し,拡散し,とらえられなくなる。サ ヴァンナ・ベイは水死した少女の呼び名,どこにあるか定かならぬ,彼女 が死んだ土地の名,実在のものかどうかわからない映画のタイトル,実在 の書物の表題,そしていま上演されている戯曲の表題である。今や固有名 はアイデンティティを表示するのではなく,その混乱と消失を進めるべく 機能し,虚と実との限りなく中間的な領域を現出している。

女優と男の会話は,マドレーヌと若い女によって次のように再現される。

(17)

マドレーヌ 《サヴァンナ・ベイがシャムにあったなんて知りません でした。南イタリアにあるものとばかり思っていました わ。》

若い女 《南イタリアにもありますよ。あなたが行かれたあらゆ る土地にあるのです。》

(p. 89)

「世界の中心」である老女優が赴けば,どこであろうとそこが世界の中 心である。そして前に見た通り老女優は二重にも三重にも不在と欠落を体 現する存在であり,サヴァンナ・ベイの名は不在そのものの記号である。

したがって,彼女は世界のすべてをサヴァンナ・ベイにするのだ。サヴァ ンナ・ベイは,どこでもあって,どこでもない。誰でもあって,誰でもな い。マドレーヌの「老齢の光輝」によって,すべてが,誰もが,膨大な虚 の異本となる。

マドレーヌ 《[…]それでね,ムッシュウ,何度も繰り返している ものですから,わたし間違ってしまうのです,日付も…

人も…場所も…(間)。彼女はあらゆるところで死んだ のです。(間)あらゆるところで生れたのです。(間)あ らゆるところのサヴァンナ・ベイで死んだのです。(間)

あそこで生れたの。サヴァンナで。》(上演台本,p. 132)

サヴァンナの愛人であったはずの男のアイデンティティもまた,否定さ れる。

マドレーヌ 《それでは,ムッシュウ,あなたはマグラ河口で死んで はいなかったわけね。》

若い女 《その場所は知りません,マダム,申し訳ないのですが。

きっとよそではほかの名前になっているのでしょう。》

(p. 90)

若い女 その男はあなたに言った,彼女が愛したのはぼくではあり ませんと。(間)《ぼくではないのです,マダム,その愛を 経験したのは。申し訳ないのですが。》(上演台本,p. 132)

(18)

こうしてアイデンティティとしてのサヴァンナ・ベイは決定的に見失わ れ,失われた時は見出されない。では,この「失われた時を求めて」の意 味は,マドレーヌと若い女にとって一体何だったのだろうか?

劇の終末部には,台詞も演出も原本と上演台本の間にはっきりした相違 があるが,いずれにしても二人は,この先,劇の開始後まもなく若い娘が 予告した結末に向かうだろうということが暗示される。若い娘は,「ある 日,ある晩,わたしは永遠にあなたを置いて行ってしまうでしょう」

(p.

23)

と言い,マドレーヌは怯える。「誰かが毎晩見に来てくれるんでしょう ね…灯りをつけに…?」

(p. 24)

若い女は答える。「ええ。(間)そしていつ か,もう光もなくなってしまうでしょう。光の必要がなくなるのよ」

(loc.

cit.)

ここで暗示されているのは,マドレーヌの記憶を汲み尽くしたら,若い 女はかつてサヴァンナが行なったマドレーヌの遺棄を再現することによっ て,サヴァンナとの同一化を完成させるだろうということ,そしてマドレ ーヌは,反射光をうけて存在を成立させる,虚の反映としての生を終える だろうということだ。原本では,実際に若い女が舞台から去り,残された マドレーヌの姿が闇に沈んで劇は終る。やがてマドレーヌに必要なくなる 光とは,強烈に灼きついた神話の白い光であり,彼女の存在原理であった 神話の記憶であり,毎晩彼女の灯りをつけに来るのは,その記憶を引き出 しに来る介助者であろう。マドレーヌが内部に封じ込めていた物語を語り 尽くし,すべての役を演じ尽くし,異本という異本をつくり尽くしたとき,

その虚の肉体には死以外の何も残らない。虚構という生命の,この徹底的 な消尽と引きかえに,初めてマドレーヌは彼女の全世界をサヴァンナ・ベ イという神話に変える。こうして遺棄されたものはついに遺棄したものに 追いつき,その神話を克服するのである。

若い女は,自分が誰であるかを突き止めることができたのだろうか?上 演台本は,原本にない次のような幕切れを用意している。

若い女 生れた子供には名前もつけられなかったって,もうお話 ししたかしら?

マドレーヌ その子は後になって自分で自分に名前をつけたわね。

若い女 そうです。自分でサヴァンナという名前をつけたのです。

若い女 (間)炎の名前を。

マドレーヌ 海の名前を。(上演台本

p. 133)

(19)

シュナイダー19) の指摘をまつまでもないが,「海

la mer

はもちろん母

la mère

と同音の言葉である」。名前のない女は,自らに母の名前をつけ,

マドレーヌを遺棄するという一種の母殺しを遂行し,マドレーヌの次のユ ダヤ人として出発する。「別の岸」へ。彼女の名はサヴァンナ・ベイ・シ ュタイナーだ。

デュラスにとって物語とは,先行する神話を追う二度目の愛,二度目の 旅であるが,この追慕に満ちた旅は,神話を克服し,母を殺し,自分の名 前―つまりアイデンティティをつくりだす旅である。デュラスの二度目 の旅は,何よりも亡霊祓いに似ている。

1) Maurice BLANCHOT,

『ヒロシマ・モナムール』についてデュラスに書き 送った言葉。

« Les Nouvelles Littératures », 18 juin 1959 .

2) 1982

年夏のデュラスの状況については,

Yann ANDRÉA, M. D., Éd de Minuit, 1983 ; Michèle MANCEAUX, L’amie, Albin Michel, 1992 .

に詳し い。

3)

初版

Marguerite DURAS, Savannah Bay, Éd. de Minuit, 1982 . 1983

9

27

日,デュラス自身の演出によりロン=ポワン劇場で初演された。出演マ ドレーヌ・ルノー,ビュル・オジエ。同年,原本とこの時の上演台本を合巻し た

Savannah Bay, nouvelle édition augmentée, Éd. de Minuit, 1982 .

が出版 された。本稿ではテクストとしてこの版を使用し,本文中,ページ数のみ付し た引用は同書によるものとする。上演台本は原本から副次的な場面を削除する などの変更があるが,本稿では基本的には原本に依拠し,上演台本からの引用 はその旨付記する。また,本文で言及するデュラスの他の作品については著者 名を省略する。

4) MANCEAUX, op. cit., p. 104 .

5)

デュラスは同一テーマを複数の作品で反復しているほか,アンヌ=マリ・スト レッテル連作のように,同一の物語をエクリチュールと映像,あるいは小説と 戯曲といった別ジャンルに反復したり,『ラ・ミュジカ』と『ラ・ミュジカ

2

』,

『愛人』と『北の愛人』の場合のように同じジャンルで重複して作品化している。

また,ヘンリー・ジェイムズやチェーホフの戯曲の翻案も,もちろんこの『サ ヴァンナ・ベイ』の原本と上演台本も,異本づくりの一環といっていいだろう。

デュラスにおける異本づくりの意義については,

Arnaud RYKNER, Théâtres du nouveau roman, José corti, 1988 .

を参照のこと。

6)

原本と初演時の舞台装置(ロベルト・プラト)にはいくらかの相違があるが,

いずれも,数客の椅子が置かれた「大邸宅のホール」(原本)のようでもあり劇

(20)

場の舞台のようでもある広い空間で,上演台本では遠くに海が見える。この空 間は,デュラスのトゥルーヴィルの住居であり,映画『アガタ』が撮影された オテル・ド・ロッシュ・ノワールのホールを思わせる。このアパルトマンがか つては敬愛するプルーストが滞在した高級ホテルであったことを,デュラスは 自慢していた。

7) Michel RIVGAUCHE

作詞・

Charles DUMONT

作曲

« Les mots d’amour », 1960

年。

8)

上演台本では,この部分は「小さい女の子

une petite fille

」となっており,

少し後でマドレーヌが若い女を「あなたは,わたしの死んだ娘の娘だわ」

(pp.

96

97 )

と認める。

9)

対話のなかでは,

tutoiement

vouvoiement

が複雑に交錯する。それはマ ドレーヌが相手をどのように認識しているかに応じて,絶えずめまぐるしく交 替する。二人は,母と娘,祖母と孫娘,女優と衣装係,女優とロケ先で出会っ た男などに変化する。この意味では,若い娘も女優といってよく,マドレーヌ と若い娘の境界にもまた曖昧なところがある。

10) Lia van de BIEZENBOS, Fantasmes maternels dans l’œuvres de Marguerite Duras, Rodopi, Amsterdam, 1995 , p. 175 .

11)

ここに,若い伴侶にして介助者であるヤン・アンドレアと対話し,その中から 物語を引き出し,口述することで作品を生み出していた,

1980

年夏以降のデュ ラス自身の姿をみることもできよう。

12) Le Camion, suivi de Entretien avec Michelle Porte , Éd. de Minuit, 1977 . 13)

たとえば,『モデラート・カンタービレ』や『ロル・

V

・シュタインの恍惚』,

また多くの作品にみられる窃視症的傾向,『死の病』や『青い眼,黒い髪』にみ られるホモセクシュアルの男への性的関心などに表現されている。

14)

写真はデュラスにおいては常に特別な意味をもつモチーフである。『インディ ア・ソング』,『船舶ナイト号』,『愛人』を参照のこと。

15) Jean PIERROT

Margurite Duras, José Corti, 1986 .

で指摘している。

16) « Cahiers Renaud-Barrault », n° 106 , 1983 , pp. 7

8 .

17)

ヤン・アンドレア,インタヴュー『書くことは生きること』,聞き手:鈴木布 美子,通訳:福崎裕子,「ユリイカ」,

1999

7

月号,

p. 85 .

18) Les Yeux verts, « Cahiers du cinéma », n° 312 - 313 , juin 1980 ; nouv. éd., 1987 , p. 221 .

19) Ursula W. SCHNEIDER

Ars amandi

The erotic of Extremes in Thomas Mann and Marguerite Duras, Peter Lang, New York, 1995 , p.

215 .

参照

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