はじめに
ジャン=リュク・ナンシー あるいは非概念的思考
一一一哲学と翻訳のためのノート I)
津 田 直
ジャック・デリダなきあと,フランス思想界の第一人者として活躍する ジャン=リュク・ナンシーは,心臓移植手術という大きな試棟から奇跡的 に生還したとは思えぬほど活発な思索を続け,年に 1冊以上のベースで 新たな著書を出版している.ナンシーの思索の対象は,はじめは共同体,
身体,自由,主体といったいわば古典的なテーマであったが,近年では映 像,世界,意味,「キリスト教の脱構築J,ダンスへと幅を広げてきてい る.このところ邦訳も数多く出ているが,邦訳からその思想の核心を理解 するのはなかなか難しい.それはナンシーの思考が,彼が用いるフランス 語,そして彼がしばしばそれと対話するドイツ語という言語の精神と密接 に結びついているためである.〈翻訳〉はナンシーにとってけっして周辺 的な問題ではない.彼の最初期の重要な仕事のひとつは,僚友フィリッ プ・ラクー=ラバルトとともに行ったドイツ・ロマン主義の文学理論に関 する清新な翻訳・紹介・研究『文学的絶対j(1978)であったしへその後 の多くの論考においても翻訳というテーマは桧に楊に見られる.その意味 で,翻訳はナンシー思想を理解するうえで避けて通ることのできない重要 な問題構成をなしていると言えよう.
哲学のテクストを翻訳するという営為はどのような意味をもつのだろう か,また哲学において翻訳はどのような位置を占めるのだろうか.本稿 は,そのような問題を考えるための準備作業として,ナンシーのテクスト をとおして翻訳に関して考察するものである.
1.ナンシーのテクス卜を翻訳する際の困難
ナンシーのテクストを翻訳するのはかなり手強い.だがその手強さは何 に由来するのだろうか.ナンシーに固有な困難を『自由の経験jを例に考 えてみたい31. この本が扱う主題とそれをめぐる議論がひじように複雑で 1う
あるのみならず,ヘーゲル,ハイデガー,アーレント,デリダ,パタイ ユ,プランショなどの著作が明に暗に参照され,プラトンから現代にいた る西洋哲学に隠する深い知識,さらに丙洋丈明に関する幅広い教義が要求 されるといった問題は,翻訳作業の現場ではもちろん大きな問題である が,ここでは副次的な問題にすぎない.そのような事態はナンシーのみに 限った話ではなく,多くの碩学の思想家に共通な問題だと言えよう.ナン シーのテクストに国有な困難はまず言葉の多義牲という装いのもとに現れ る.専門語であるかないかにかかわらず,ひとつの単語はその可能なかぎ りの振幅のうちで多義性をもってテクストのなかで用いられる.これらの 語は,最初は非常に明瞭な言葉として現れるのだが,じつはそれが予期せ ぬ意味を含んでおり,また他の思いがけない語と連関することが明らかに なる.こうして最初の自明性は困惑に取って代わられることになる.訳者 はひとつの語に相当する日本語の訳語を見出すのに苦労することになる が , そ れ は がnerosite,fond, corpsといったいかにも多義的な言葉ばか りでなく,さほど多義的とは思われない libeneや libreという言葉にま で及ぶ.かくしてナンシーの訳者はしばしば突拍子もない訳語を用いた
り,二重ハイフンで複数の訳語を並置したり,造語に頼ることになる.
とはいえ,このような事態もナンシーの著作にのみ国有なものではな く,たとえばジヤツク・デリダの著作の翻試においても訳者が直面する困 難であろうへもちろん,それらのテクストが暖昧(乱mbigu)だとか晦渋 (obscur)だと言おうとしているわけではない.それどころか少なくとも ナンシーに関して言えば,そのテクストはあくまで明瞭なのだ.ただ,こ の明瞭さ,透明性が,語が字む多義性のために必ずしも自動的には訳文で は伝わらないのである.
ところで,問題をもう少し詳しく考察してみると,語の多義性と見えた ものがたんなる語のレベルでの多義性ではなく,丈 phraseや 丈 章 paragrapheにも見られ,多義性という現象がじつはナンシーの思考の独 特の歩みと密接に関わっていることがわかる.『自由の経験』からひとつ generositeという語の例を挙げてみよう.
generositeというフランス語は仏和辞典を引けば 1)気前の良さ 2)寛 大,寛容,雅量,高潔,無私,無欲3)(複数で)贈り物,施し物4)[古] 高貴,高;且雄々しき,勇敢を意味すると記されているラ\哲学用語とし てすぐに思い浮かぶのは,デカルト f情念論jの「高遜の精神」であろう か.それでは,この語を「高蓮の精神」ないしは「寛大き」と訳せばよい 16
ジャン=リユク・ナンシーあるいは非概念的思~
のだろうか.だが,ナンシーのテクストの文脈ではこのような訳語が相応 しくないことはすぐにわかる.順を追ってみてみよう.
初出は第一章の初めである.
我身が存在それ自体を,放棄=放任された実存の存在を,あるいは世界一 内一存在の存在を,ひとつの「自由」として考えないのならば(もしくは,お そらく自由そのものよりさらに根源的な liberaliceあるいは generosiceとし て考えないならば),我キは自由をひとつの純粋な「理念」や「権利」と考え ざるをえなくなってしまう6>.(EL 14/13)
ナンシーの主張は自由が理念ではありえないということなのだが,
で generositeは自由より根源的なものとして liberaliteと同列に扱われ ている.liberaliteは文章語的な色合いが強いが,意味的には generosite
と同様で,気前のよさ,(複数で)贈り物を意味し,ほぽ同義語と言える だろう.ただ,語源的に見れば liberaliteはラテン語の liberaliltas(自由 人であること)に由来し, generositeがgenerosus(高貴な血筋)に由来 するのとは微妙に温度差はある.いずれにしても, liberalもgenereux
もともにギリシャ語のeleutherios(自由人,自由人に相応しい)の訳語と して用いられてきたことを考えればへここではたんなる寛大さではな く,「自由であること」という訳語が相応しいようにも思われる.だがそ れだけでは,アリストテレスの場合にも見られる,「気前よく与える」と いう意味が見えなくなってしまう.ここでは細部に立ち入る余裕はない が,その後の展開を追えば,ナンシーがデカルト以来(あるいはその以前 から)自由意志 librearbitreの問題と結びつけられすぎていた自由とい う言葉を贈与 donという問題構成と接続するために, generositeという 語を召還したことがわかる.それはまた,ナンシーの思想の鍵語である partageと liberteをつなぐためでもある.したがって,ここでは generositeとはなによりも自由が根源的に秘める「贈与性」を示すので あり,そのために「贈与」を合意する訳語を採用する必要が出てくる.し かしまた,そのように限ってしまうと,他の連闘が今度は見失われてしま
うという短所があることは否めない.
この小さな例からわかることは,ナンシーのテクストにおいては一つの 語の訳語は他のテクストとの関連でひじように流動的であるということ だ.先に他の思想家への参照が多いという事実は副次的な問題であるとし
17
たが,翻訳の実践の場面ではそれは大きな困難を引き起こす.というの も,ひとつの請はしばしばある哲学者の術語として呼び起こされるのだ が,その後かなり異なる意味のほうへとヲ|っ張られ,訳語の修正を迫られ ることになるからである.またある時は,その語の縁語によって論が展開 することもある.だとすれば,ナンシーにおいてはひとつの語は概念とし て機能するよりは,記号signeとして機能していると言えないだろうか.
『自由の経験』という著作は自由をめぐる考察ではあるが,著者のスタ ンスは自由を「論じるJという構えからはほど遠い.全 14章は「序論」
「本論」「結論Jとし、う結構をとっていない.そもそも,最初になんらかの 前提なり,概念規定なり,堅固な出発点としての公理や公準が示され,そ れが展開され,結論にいたるというようなものではまるでないのだ.とい うのも,ナンシー自身が強調しているように,「論jtraiteとは「認識や 思考の統一体全体を披涯するものであるJ8)が,およそ自由ほどこのよう な知や観念から遠いものはないからである.その理由は,自由が概念でも 観念でもなく,なによりも経験だからだとナンシーは考える.自由とは獲 得されるべきなんらかの価値などではなく,独自の経験であり,この経験 は思考することと密接に関わっているというのが,このテクストが繰り返 し述べることだ.
自由の経験とは,自由が経験之主主ということの経験である.それは経験の 経験である.しかし,経験の経験とは,経験それ自体以外のなにものでもな いへ(EL114ー11ラ/1ラ1)
つまり,自由が概念なり観念ではなく,経験にほかならないかぎり,自 由という問題に取り組むにあたってはそれを論じるのではなく,自由とい う経験そのものをテクストを通して浮き上がらせるのでなければ意味がな い.言い換えれば,自由という概念 conceptの規定をいくらしても,あ るいは自由という概念の系譜学を辿ってみても,それだけでは自由という 問題の核心には触れることができないのである.このような自由の特異な 位置がナンシーに独自なスタイルを強いることになると考えることができ る.つまり,自由の概念を探るのではなく,自由 liberteという言葉が織
りなす意味連関のネットワークを紡裡することで,自由そのものへと迫ろ うとすることである.
『自由の経験Jの最後に置かれた第 14章「断章」では,様々なテクス 18
ンヤン=リユケ ナ ン シ ー あ る い はJド担E念的思与一
トの引用,アフォリズム的な簡潔な丈,本文につけた長大な注釈,あるい は大作のための素描とも見える長めの文章などが,断章形式で連ねられて いる.これらの断章fragmentは,それまでの長く級密な議論への反歌の ようにも見えるが,そこでナンシーは次のように述べてさえいる.
私は人びとから言われた.あなたは「自由」という語のいかなる意味論も提 案していない.確かにそのとおりだ.この語のさまざまな意味は私にとってき して重要ではないのだ(しかしその戦略的定位は非常に重要だ) . ボ ン (EL 197 /264)
だとすれば,ナンシーにおいては,ある語の意味内包であるような概念 はさほど重要でないとさえ言えるのではなかろうか.
2.哲 学 と 翻 訳
長い間,哲学の翻訳は概念の移し替えの問題として考えられてきたし,
現在でも(少なくとも日本においては)そのように考えている人は少なく ないだろう.別の言い方をすれば,哲学書の翻訳に際して,訳者はある単 語がどのような概念へと送り届けられているのかということにまずは注目 し,その概念に適すると思われる訳語を選定することから作業を始める.
既存の訳語が相応しくないと思われる場合には新造語を編み出すことも辞 さない.こうして,意味の移し替えに何よりも腐心することになる.この ために,ひとつの単語はその意味内包によって幾通りかに訳されることも ありうる.典型的な例として,ここではドイツ語の transzendantal,英 仏語の transcendantalを挙げることができるだろう 1ぺ九鬼周造はそれ まで用いられていた「先験的」に対して「超越論的Jという訳語を提唱 し,それが現在かなり普及している.しかし,カント哲学の場合は「経験 に先立つJという含意を考慮した「先験的Jとし寸訳語はそれはそれで非 常にわかりやすい訳語であると言えようし,これはまさに意味内包を重視
した訳の一例と言えるだろう II)•
九鬼は「先験的」に代えて「超越論的」を提唱した理由を『西洋近世哲 学史稿jで説明している叫が,興味深いのはその提案の理由の重要な部 分 が カ ン ト と フ ッ サ ー ル ・ ハ イ デ ッ ガ ー に 共 通 に 用 い ら れ て い る transzendantalの連続性を保持したいという意図と絡んで、いることであ る.つまり, transzendantalはフッサールにおいてはとうてい「先験的」
と訳すことができない.だとすれば,概念を訳語に封じ込めるような「先
19
験的」ではなく,逐語的である「超越論的」のほうがよいであろうという ことになるのだ(この逐語性にはハイデッガー的な立場が透けて見える).
だとすれば,哲学用語の翻訳に関しでも,文のレベルではなく単語のレベ ルでの逐語訳と意訳とでも呼べるものがあると言えよう.だがし3ずれの場 合も,訳者は程度の差こそあれ〈同じ概念〉を備えていると考える訳語,
いわば原語の影武者のごときものを見出そうと務めているのだ.
このような翻訳行為の本質は何かといえば,それはあるテクス卜を前に してもっぱらその志味内包intentionないしはシニフィエsignifieのみを 問題にし,テクスチャ− textureなりシニフイアン signifiantを捨象する ということであろう(逐語訳の場合はある程度シニフイアンに寄り添おう としている).ところが,ナンシーの哲学的営みは既に述べたように,概 念を規定してそのうえに構築物を立てるとし寸作業ではなく,概念を分解 する作業である.いや,より精確に言えば,ひとつの語の意味の境界をか ぎるのではなく,その結界を解きほぐし,自由な地平を解き放つことにあ る.かくして,語や文章は可能ないくつもの解釈の聞を揺れ動き,それが 翻訳者の不幸のもととなる.一員でいえば,ナンシーのテクストに関して は,概念を移し替えるという作業では翻訳作業はとうてい不十分なのであ る.
『自由の緩験Jに即して言えば,ナンシーは自由を問題にしながら,自 由という概念を捨てる身振りから思考を始めるとも言えよう.そしてこの ような所作によって,自由という語がそれまで包蔵していたように息われ る概念の特権性は確かに失われるのだが,それでいながら意味論的な根は 保たれ,もしこう言ってよければ,凝縮され,新たに思考の本質的な目的 となった目的のために使用されることになる.その意味で,ナンシーがハ イデガーに関して述べていることは,必要な修正を加えたうえで,彼自身 にもあてはまるように思われる.
20
ハイデガー自身,「自由」という語の意味論的核ないしはインデックスを保 ちながら,自由のためにひとつの空間を準備しようとしたのだが,そのさい,
従来の哲学的規定における「自由」は,聞けや自由な空気の導入ではなく,か えって自由を閉塞させ,埋め隠すようなものとハイデガーには思われた,と結 論づけねばなるまい日>.(EL 63/80 81)
こう見てくると,翻訳者が直面する問題の姿が先ほどよりは少し明らか
ジャン=リユク・ナンシーあるいは非概念的思与
に現れてくるだろう.ここでの問題は,訳者が多少とも規定されたなんら かの概念の相関物であるような訳語に頼ってしまえば,テクストを裏切る ことになりかねないということなのだ.つまり,哲学テクストを前にしな がら,それがあたかも文学テクストであるように,きらに言えば,詩であ るかのように,その内容ではなく,物質性を翻訳しなければならない14).
この意味で,ナンシーはテクストという意味違関の迷宮を初僅する私た ちに,新たな風景を見せてくれるガイドにも似ている.私たちにすでにで きあがった教えを説くのではなく,道連れとして,思考することそのもの を示唆するのである.
このようなナンシーの思考の歩みは,やや唐突かも知れないが,芭蕉が 連歌の句のつけかたに関して述べたことと比較できるかもしれない.連歌 において,句のつなげ方が重要であることはよく知られているとおりだ が,一本の歌仙の展開は必ずしも論理的な展開ではないし,物語という筋 によるものでもない.じっさい,匂のつなげ方に関して芭蕉は意味づけだ けでなく,物づけ,匂いづけの重要性も述べているiう).つまり,−"'.:)の句 と次の句は,意味論理だけでなく,事物や香り響きによってつながること ができるL,積極的にこのような非意味的つながりを求めるべきなのであ る.同様に,ナンシーのテクストにおいても,通常の哲学のテクストとは 異なり導きの糸となっているのは意味論理だけでなく,統辞的な論理や連 辞的な論理,さらには範列的な論理の場合もあるのだ16).
しかし誤解を避けるためにつけ加えて述べれば,ここで問題になって いるのは,けっしてレトリックの問題ではなく,むしろスタイルの問題で あると言うべきだろう.ナンシー自身,ニーチェ以来「哲学は自らの
フォルム スタイル
「形式jつまりみずからの「様式」の欠如に苦しみ,それを希求してい る117)と述べているが,たしかに現在われわれが直面している多くの喫緊 の問題(それは生命倫理であり,生存権の問題であり,環境問題などだ)
に関しては,かつてのような論述,つまり,序論・本論・結論といったよ
スタイル
うな形式はふさわしくなくなってきている.そして,様式が,音響的=装 飾的な事柄などではけっしでなく,「実践の問題であり,それゆえ,思考 と思想家のエートスの問題である」凶のだとすれば,ナンシーの思想が提 起しているのは,「哲学する」ことの新たな様式の創出であると言っても 過言ではないだろう.つまり,概念なり観念ではなく,シーニュを通して 思考を展開することである.しかし,このような思考の歩みを翻訳するの は非常に難しい.といろのも,すでに述べたように,概念がなんらかの意 21
昧内包を包摂するものであるのに対し,ここで言うシーニュは逆に「開 け」のうちで投げ出され=放棄されているからである.
だとすれば,ナンシーを忠実に訳するとは何を意味するのだろうか.こ こではただ断定的に,ナンシーのテクストを訳す際の忠実さとは,アント ワーヌ・ベルマンが指摘する意味での lettreへの忠実さであるべきであ り,意味内容への忠実さではありえない,とだけ述べることに留めた
、
、
翻訳者の使命が「同じことを別様に言うこと」にあるのだとすれば,そ こでの課題である「向じ」とは何であり,「別様にj とは一体何なのかと いうことが問題になってくる.ナンシーのテクストに関して言えば,それ は概念 conceptなり,意味内容 significationの同一性ではなく,意味 sensの同一性ということになるであろう.ただ,すぐに付け加えていわ なければならないのは,ここでいう意味とは概念の内容なり内包ではない ということだ.ここで言う意味 sensとは,ナンシーが「意味の意味は,
言葉でも概念でもシニフイアンでもシニフイエでもなく,送り返しであ り,隔たりである」山と説明する意味合いにおいてである.
2002年にパリの国際哲学コレージュでおこなわれたナンシーに関する 国際シンポジウムが, Sensen tous sens「あらゆる方向=意味[全感覚 で]の意味=方向」と題されていることに見られるように, sensはまぎ れもなくナンシー思想におけるキーワードの一つであるが,そのシンポジ ウムの捧尾をかざるデリダとの対談でナンシーは sensについて,「意味 や,意味の意味,それはどんな共同体のうちでも,どんな世界のうちでも 常に戻ってくる呼びかけであり,定住や計算ゃ支配などに抵抗することの 呼びかけである」21)と補足説明している.
「翻訳可能」対「翻訳不可能」とし寸安易な三項分割に陥ることは避け ねばならないとしても,ここで用いられている sensという言葉ほど,日 本語への翻訳が難しいと恩われる単語もない.フランス語の sensは辞書
を引けば,おおむね次のような意味が列記されている.
A I I)感覚,知覚(五感) 2) (複数で)官能噌性欲 3) (直感的な)認識能 力,センス II 1)意味 2)意義
B 方向
Aはラテン語の sensusに由来し,知覚する sentirと関係した言葉.−
22
ジャン=リュク・ナンシーあるいはJI相正念的思)!;
方の Bはドイツ語の Sinnと同語源でゲルマン語由来だとされるが,日 常的にもそれらの意味は混然一体となって用いられるし,ナンシーは意図 的にこの多義性のうちで論を展開する.ところで sensという言葉の翻訳 不可能性は,この語が意味と方向というこつのことを同時に示すためであ る以上に, sensが五感や肉感性を意味することから明らかなように,そ れが肉体性と密接に関連しているためだと思われる.日本語の「意味」
は, 1)ある概念や表現の内容, 2)他の事物との関係でもつ価値を表すが,
それらが想起するものは知的なものないしは観念的なものであって, sens という語がもっ肉体的な,さらには肉感的な側面を思い起こすことがな い.だが,ナンシーにおいてはまさにこの感覚的なものこそ重要な要素と なっている山.
Sensに関しては, 1993年に刊行された Lesens du monde (『世界の意 味』とここでも仮に訳しておこう)に収められ諸論考を詳しく読解する必 要があるが,ここではその余裕はない.最後にナンシーが翻訳および翻訳 不可能性の問題について明示的に言及している論考," D un Wink divin ≫ (「神の Winkについて」と仮に訳しておりに一言だけ触れて,
このノートをひとまず終えることにしよう山.この論考はハイデツガーの
『哲学への寄与論考Jの一文を引用したデリダの『信と知Jの一節を出発 点として, Winkというドイツ語の翻訳不可能性をめぐって行われた考察 である凶.問題の一文は,『哲学への寄与論考Jの VII2ラ6「最後の神J
の冒頭αDerletzte Gott I Seine Wesung hat er im Wink, dem Anfall und Ausbleib der Ankunft sowohl als auch der Flucht der gewesenden Gotter und ihrer verborgenen Verwandlung Jう).これをデリダは『知
と信Jの44節の後半,レヴイナスの「神は未来である」という言葉の後 で次のように引用する.≪ Le dernier dieu : il trouve son deploiement essentiel dans le signe (im Wink), lirruption et labsence davent (dem A ψ H und Ausb,/必 derh 仰が) , aussi bien que la fuite des dieux passes et leur seerをtemetamorphose ) )261. デリダの引用文はクルティー
ヌによる仏訳を少々変更したものだが, Winkがsigneと訳されているこ とを受け,ナンシーは Winkを仮に dindαilと訳しながらも,最終的 にはWinkが翻訳不可能であることを巡って自説を展開する.
ナンシーは,翻訳が十分適切でない場合に訳者はしばしば原語を併記
(ドイツ語のWitzやWesen)したり,注をつけたりするものであること を指摘した後,翻訳の根本にあるダブルパインド,つまり,翻訳が全面的
23
な意味の可能性signi五cabiliteを目指しながら,それでも必ず
う意味の不可能性 insigni五cabiliteこそが,ある原語の間有性において翻 訳されるべきものを構成していると述べる.つまり,翻訳の存在理由は,
ある言語の翻訳不可能なものと密接に関わり,かっそれによって逆説的に 要請されているのであり,またある言語の固有性はこのような翻訳不可能 な語のうちに端的に現れているというのだ.ここでその精綴な議論を敷桁 する余裕はないので,その展開によって現れる重要なポイントだけを取り 出せば, Winkという語が何かを意味するのではなく,むしろ意味を待 機させつつ何かを引き起こす declencherという点にナンシーは注目す る.『哲学への寄与論考』でWinkという語には, ドイツ語の日常的用法 以上のいかなる負荷も与えられていない,とナンシーは言う.つまり,こ れは哲学的タームではないし,概念ではない271. Winkは明示的に何かを 告げるのとは対極にある行為,仕草であり, Winkの特徹は一義的決定 の不可能性であり,さらに,つねに自ら以外の何かへと送り届けるもので ある.つまり,ナンシーによれば Winkと言う語は,なんらかの意味を 明示することなく,それじたいひとつの「身振り」「目配せ」であるがゆ えに,通常のような意味内包による語の置き換えという翻訳作業の手をす り抜けてしまうのである.ここでも特般的なのは,ナンシーの論考がひた すら最初に提唱きれた dind' reilという言葉を軸に展開することである.
一連の主張はここでも論理的ないしは意味論的に展開されるのではなく,
統辞論的に変奏されるのだ.
まとめにかえて
ここまで触れてきた諸問題に明確な結論の方向性を出す準備はまだない が,このようなナンシーの思考の歩みが,彼のテクストのもつ力強きと関 連していると思われることは付け加えておきたい.この力はシーニュの昨 裂によって私たちに思考を{足すという点にある.ナンシーのテクストは私 たちの不意を襲い,考えることを促す.白らの方法で思考をしようと試み るすべての者に,「自分で考えよJと合図を,サインを,つまり Winkを 送るのだ.だとすれば,このサイン signeを読者にまちがいなくリレーす ることこそが〈翻訳者の使命〉だと言うべきだろう.そして,それは誤解 して解釈するという危険を官しながらのことでしか行いえないものにちが いない.
一言で言えば,翻訳の経験とは,ある境界,自己と他者との境,通過と 24
ジャンニリユク・ナンシーあるいはJ¥o二概念的思考
抵抗の場所において試練を受けることを意味する.経験 experience, 試 練 epreuve, 通 過 passage,これらもまた多義性を帯びたナンシーのキ}
ワードである.
このノートを経験に関するナンシーの一節の引用とその翻訳で閉じるこ と に し よ う . と て も 美 し い と 同 時 に , 訳 す の が 非 常 に 困 難 な 一 節 . そ し て,翻訳という経験にもあてはまる,自由に関する一節である.
(…) Iessai de soi au bord de soi, l'epreuve immediate de la limite qui
印 nsisteaussi bien dans la dechirure de l'immediatete par la limite, le p昌ssagede la limite qui ne passe rien, qui ne se depasse pas, mais qui se passe, a la fois au sens OU ( (fa arrive妙 etau sens oilαJめ;ommepasse i1ゆimentlちomme≫. (EL 11)う
自己の境界における自己の試し,境界の直接的な試練境界による直接性の亀 裂のうちにもある試練,境界の通過.だがニのパサージュは,何かを通り過ぎ たり,自らを乗り越えることだけでなく,同時に二つの意味で自己通過する.
つまり,「ぞれが起こる」という意味と「人間は無限に人間を越える j という 意味で却).
註
1) 本稿は2006年4月12ロ,日仏学院においてジャン=リュック・ナンシー 氏を招いて行われたラウンド・テーブル「ナンシー,綴訳者の使命」で,司会 およびパネラーとしてフランス語で発言したものを翻訳し,大幅に加筆修正し たものであり,現在準備中のジャン=リュック・ナンシー論のための研究ノー トをなしている.もとの口頭発表ではナンシー氏への質問をいくつか含んでい た.
2) L 'Absolu litteraire, Le Seuil, 1978.
3) ここで『自由の経験』を取り上げるのは,第ーには,私自身がその翻訳作業 の際に多くの困難に遭遇したためであるが,ぞれ以上に本書が自由という翻訳 不可能な経験についての書であり,広義での翻訳が抱える問題を内包している と恩われるためである.L 'experience de la liberte, Galilee, 1988.津田直訳
『自白の経験』未来社, 2000年.以下,本書からの引用は ELの略号を用い,
原書/訳書の順でページ数を記す.
4) デリダもまた,翻訳不可能と思われるほど,フランス語という言語に寄り添 った形で思考する作家であるし,デリダの翻訳においても,読者はしばしば原
2う
語の併記や二重ハイフンや説明的な注に遭遇する.だが,後に見るようにナン シーにおいては,デリダ以上に,語の意味内容から自由な別の思考法があるよ うに思われる.
う
) ここでは,『小学館ロベール仏和大辞典』をもとにしている.以下に出てく る他のフランス語も同様.generositeという語の翻訳の難しさに関しては拙 論「gfoerosite(高遇/寛大/贈与)について:サルトルを中心にj『法政哲 学会会報』 18号, 2000年, pp.18‑28を参照していただければ幸いで、ある.
6) Si nous ne pensons pas letre lui‑meme, Ietre de lexistence abandonnee, ou encore letre de lerre‑au‑monde, comme uneぺiberte (ou peut‑etre comme une liberalite ou comme une gfoerosite plus originelles que toute liberte), nous so m m es condamnes主penserla liberte comme une ≪ Idee妙oucomme un ≪ droit》purs(…).
7) たとえばアリストテレスの『ニコマコス倫理学』のeleutheriosを].Tricot (Ethique a Nicomaque, Vrin, 1990, p. 169)は liberaliteと, ].Voilquin (Ethique a Nicomaque, Garnier Flammarion, 196,うp.9う)は gfoerosite と訳している.
8) Sur le commerce des penseesρ u livre et de la librairie), Galilee, 200,う p. 16. ≪ ( ... ) un traite ( ... ) expose lintegralite dun corps de connaissance ou de pensee ≫. さらに別の箇所では次のように言っている.
「存在を論文形式で論じるということが,存在それ自体の特異なものが,それ ゆえその学の特異なものが問われているときにはふさわしくない」 (Etre singulier pluriel, Galilee, 1996, p. 13.加藤恵介訳『複数にして単数の存在』
松鎖社, 200う年, p.18).以下本稿では既訳のあるものも文脈の関連上拙訳 を用いていることをおことわりしておく.
9) "Lexperience de la liberte est […J 1experience de ceci que la liberte
。
texperience. Elle est experience de lexperience.恥faislexperience del '
experience nest rien dautre que lexperience meme ≫.
10) 多くの術語と同様,ラテン語由来のこの言葉の基にあるのは中世哲学, 13 世紀以降から用いられた transcendensであり,それがもともとはアリストテ
レス的意味での範時ないしは存在の最高類がもっ限定性limitatioを「越え る」という意味で用いられたことは思い起こしておくべきことであろうし,そ の後の変遷についても考察すべきことは多いが,それは別の機会に譲る.
11) 岩波文庫の篠田英雄訳『純粋理性批判』では「先験的Jであったが,新しい
『カント全集』(岩波書店)では「超越論的jが用いられている.
12) 九鬼周造『西洋近世哲学史稿』『九鬼周造全集J第 7巻,岩波書店,
pp. 40‑44参照.
26