南アジア研究 第29号 008書評・中村 沙絵「石井美保『環世界の人類学―南インドにおける野生・近代・神霊祭祀―』」
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(2) 南アジア研究第29号(2017年). 捉えようとする。これは後述するように、呪術・宗教現象を近代合理性 の転倒した姿、あるいは近代合理性へ容易に翻訳できないラディカルな 他性として異化してきたともいえる従来の人類学の議論に反省をせまる ものである。その意味で本書は「人類学は「他者の現実」をどのように 扱うべきか」という古くからの問題に新たな切り口から取り組んだ、優 れた理論的著作でもある。 本書は二部構成からなる。 序章での理論的整理をふまえ、第一部「野生=神霊の力と人間」では、 調査地でのブータ祭祀の全容が描かれる。第一章「水田と山野、神霊の 土地」で主な調査地ペラールの社会構成や人と自然との関係性を、第二 章「ペラールの大社と神霊たち」で村の大社、神霊祭祀との関わりで位 階的に序列化された家系の儀礼的役割と慣習的制度を、そして第三章 パール. 「パールダナ」で中心的な神霊たちの起源と家系との関係を詠った口承 ダ ナ. 伝統を詳述した上で、第四章「神霊の大祭」では村の中心に位置する大 社で執り行われる大祭の内容が紹介される。続いて、物質=コードの複 パーソン. 合物としての人のネットワーク(第五章「 「やりとりのネットワーク」 と野生の力の流通」 )や、パースペクティヴの交換(第六章「憑依の経 験とパースペクティヴの戯れ」 )をめぐる議論を参照しながら、祭祀に おける人間と神霊との関係性について理論的考察がなされる。 一般にブータと呼ばれる神霊は、非業の死を遂げた神話的な英雄、野 生のトラやイノシシなど野生動物などの霊であるとされる。豊饒性と危 シャクティ. 険に満ちたブータの 力 は集落を取囲む広大な山野に満ち、農地や家屋 敷の間を通り抜ける。この地に代々暮らし耕作権をもつ人々も、究極的 には土地の主たるブータから耕作地や居住地を借り受けた存在である。 だから彼らは、この野生の力の変換物である収穫物を神霊に捧げ(返還 し) 、家庭や村の安寧を祈る。 本書で主に扱われるのは尊称でダイワと呼ばれる、村の中心的な四人 のブータが祀られる大祭である。大祭では地域の有力な土地保有層のバ ンタが祭主と司祭をつとめ、バンタを中心とする特定の家系が序列に応 じて神霊に供物を献上し、これに対して託宣と祝福をえる。それは一見 すると神話の再演を通した社会的秩序・権力関係の確認・強化とも読め るが、著者によればこうした機能主義的な解釈は十分ではない。なぜな ら、まず儀礼の中心には、神霊のパースペクティヴを自己のそれと戯れ 186.
(3) 書評. 石井美保『環世界の人類学. 南インドにおける野生・近代・神霊祭祀. 』. させる技法を身につけた憑坐(バンタのつとめるムッカールディの他、 ダリットであるパンパダが踊り手・憑坐として重要な役割を果たす)が いる。そしてこの憑坐との関わりを通して、祭主を含む村人たちは自ら の過誤をときに糾弾・警告する神霊のパースペクティヴを間接的に引き 受け、自らのふるまいを変えていくからである。このように憑依儀礼は、 ア デ イ カーラ. 祭祀の中心を担う人々の権利と責任を単に追認するものではなく、むし ろそれがかりそめのものであることを人々に感受させ、その更新に駆り 立てるものとして考察される。 第二部「制度的変容と新たな環世界の生成」では、近代法制度施行と 大規模開発という地域社会に大きな変容をもたらした出来事の影響と 人々の対応を、人間と土地・自然、神霊との関わりに焦点をあてて記 述・分析している。第七章「大社をめぐる抗争と神霊のエイジェン シー」では、大社/寺社の管財権をめぐる二つの(1930年、2000年代以 降)争議の検討から、近代法制度を用いて自らの権益維持・拡大をねら う人々が、同時に神霊のエイジェンシーに従い、その立場や進退を見極 めようと試行錯誤する様子が描かれる。第八章から第十一章は、同地域 における土地制度の変遷への対応がテーマとなる。第八章「南カナラに おける土地制度の変遷」では、初期アールパ期から独立後に至るまでの 土地制度の変遷を整理し、植民地期の施策や独立後の土地改革が様々な 変化をもたらしてきたにもかかわらず、既存の土地保有制度と地主層の 権益は概ね維持されてきたことが明らかにされる。これはなぜか。たし かに、在来の土地保有制度を規定してきた母系制の近代法化過程におい て、母系親族集団(クトゥンバ)は、伝統的にそうであったような祭祀 共同体(クトゥマ)としての側面をそぎ落とされた「財の共同体」とし て措定された。そして、のちの法改正によってその財はカヴァル(家系 の下位区分) 、さらに個人へと分割され、クトゥンバは解体したかにみ えた(第九章「アリヤサンターナ制の近代法化と母系親族集団」 )。しか し、ペラールの第一位領主ムンダベットゥ・グットゥにおいては、近代 法に準拠した土地権利確定が一定程度進められた半面、伝統的な共同保 有地の分割相続の試みは不十分なまま据え置かれ、結果として祭祀共同 体としてのクトゥマは維持された(第十章「人々にとっての母系制」 )。 土地改革を背景とした土地権をめぐる地主 小作、親族内部の対立にも 拘らず、祭祀共同体としてのクトゥマが維持されてきたという事態は、 187.
(4) 南アジア研究第29号(2017年). 土地保有層の利害追求という政治経済的解釈だけでなく、 「土地の主」 たるブータの関与とその呪詛への人々の畏れという観点から読み解かれ る(第十一章「 「土地の主」としての神霊と土地改革」 )。 最後の二章は、ペラールからほど近いバジュペ周辺地域を舞台に、大 規模開発プロジェクトの影響と新たな環世界の生成を考察している。第 十二章「大規模開発の中の神霊たち」では、託宣を通して土地の保守と 祭祀の継続を命じる神霊の存在が、村をこえた多様なアクターによる反 開発運動の原動力として、あるいは人々を故地にしばりつける強制力と して、またときには領主の主導に拠らない新たな神霊祭祀のかたちを導 く存在としてエイジェンシーを発揮する様子が描かれる。第十三章「工 業プラントにおける新たな環世界の生成」は、山野を暴力的に切り崩し てつくられた経済特区における神霊祭祀の勃興をあつかう。人身事故や トラブルをきっかけにその環世界の不安定さと危機に気づいた雇用者や 技術者が、占星術や託宣をとおして表出される神霊のエイジェンシーに 応え、自律的/他律的な「人」としての態度をみにつけていくさまが描 かれる。終章「存在、パトス、環世界」では理論的見地にそって内容を 総括し、環世界の民族誌なるものの要諦を述べている。 呪術・宗教的実践は長らく、近代西欧の外部にあるものとして、人類 学の中心的なテーマであり続けてきた。人類学者は呪術・宗教現象をと おして、近代西欧にとっての他者に出逢ってきたのである。本書もまた、 「人が相手と出逢いうる仕方」 [34]について考察しているという。でも そこで主に想定されているのは、前近代人たる調査対象者ではなく、神 霊という相手である。その相手と出逢うのは、近代人たる人類学者では なく、村人たちである。人類学者は村人とともに神霊を待ち望み、環世 界の縁の向こう側を覗きこむ。神霊はある瞬間たしかに「いる」 。でもそ シャクティ. れは山野の深部に満ちる 力 の束の間の顕現としてであって、しばしば 存在論的転回後の民族誌にみられるように「存在=あるもの」としてで はない。南カナラの人々自身もまた、神霊との出逢いを通して自らの被 投性・偶有性に気づき、それに応答しようとするなかで自らのふるまい や日常的な社会関係を不断に再編していく。このように本書の課題は、 オンティック. 神霊の存在や効能を説明することでも、それに実体的な「存在=あるも の」としての地位を与えることでもなく、神霊との出逢いを通して生成 188.
(5) 書評. 石井美保『環世界の人類学. 南インドにおける野生・近代・神霊祭祀. 』. 変化していく人々の生の過程をとらえることであり、その地点から私た ちの生を逆照射することであるといえよう。ヴァイツゼッカーのいうよ うに、そもそも私たちにとって「存在する」という事態が根源的な不可 知性を帯びているという前提から出発すれば、とりたてて宗教現象にお いてのみ不可知論の立場をとる必要はなくなるのだ。興味深いことに、 著者は「あとがき」で南カナラ村落部での生活世界を自身が子ども時代 をすごしたという祖父母の家と重ね合わせ、それが「自らをかたちづ くってきた身のまわりの世界のことを、ほとんど身体感覚として想起さ せるものだった[482] 」と述懐している。評者にとって本書は、自己 (近代西欧) /他者(前近代・非西欧)という根深い二項対立に縛られな い、さまざまな見地からの人類学の展開を予感させてくれるエンカレジ ングな一冊であった。 最後に、いくつかの論点を提起したい。まず、本書の大きな貢献は、 著者が「存在論的人類学」と呼ぶ一連の研究を批判的に継承し、実体的 な位相にとどまらず、不可知性と偶有性というあらゆる存在者に共通す る生の様態をも含めた記述の筋道を示した点にある。しかしその理論的 整理は民族誌的記述によって十分に裏づけられているだろうか。緻密な データにも拘らず、本書に登場する村人はなぜか匿名性を帯び、その生 活世界について. たとえば彼らは耕作地や山野に入ってどんな活動を. し、そこで何を見、聴き、感じ、それを周囲の人々とどう共有している のかといった事柄について. 読者は断片的な理解しか得られない。村. 人とともに環世界の縁の向こう側を覗きこむとはいっても、それが想像 力をかきたてる民族誌的記述によって担保されていなければ、概念的な 説明を繰り返したところで、結局「神霊との出遭い」という現象はブ ラックボックス化してしまうのではないか。 次に、本書は特定の集団や個人の観点から書かれたものではなく、神 霊の「ペーシェント」たり得た人たちと神霊との出逢いを主な記述対象 としている。それは本書の問題設定からすれば当然なことなのかもしれ ない。けれども、神霊のペーシェントたりえた人々の生のかたちに積極 的な意義を見出そうとするがために、自らの立場や権利向上のために カットゥや神霊祭祀に変更を加えようとする人々によって、神霊祭祀自 体が変容を遂げていくようなダイナミズムは深追いされない(例えば既 存体制に批判的なパンパダの憑坐の一人、ジャヤーナンダが自らのコ 189.
(6) 南アジア研究第29号(2017年). ミュニティのためにブータ祭祀をその「文化」として広める活動に言及 するも、考察では彼が慣習法の尊守をもとめたというエピソードが重視 されているように読める) 。「文化」を客観視し、それを自らのために利 用し改変を加えるといったいわゆる近代的な態度[cf. Cohn 1987]は、本 書では背景に退いている。それは結局、近代の〈外部〉に偏った記述を再 生産しているということにはならないのだろうか。 最後に、上と同様の理由から、本書のテクストは神霊と近い立場にあ る者たち(特に前半部分では神話にも登場する領主層のバンタたち)を 擁護するような効果をもち兼ねない点も懸念される。例えば「小作は神 霊からの呪詛を畏れて土地権の申請を諦めてきた」という解釈は幾らか ナイーブに聞こえ、果たして小作は神霊に対してバンタと同様の解釈や 実践をもっていたのだろうか、という問いが頭にもたげる。文化の領域 に関わる学術的なテクストは、しばしば特定の人々の政治的立場を擁 護/排除するために断片化され、利用されうる媒体である。調査地にお ける自らの立ち位置を意識し、その中でテクストを紡いでいくことは、 本書に限らず、文化一般を対象とする研究においてますます重要な課題 となっていくのではないだろうか。. 参照文献 Cohn, Bernard S., 1987, The Census, Social Structure and Objectification in South Asia, in An Anthropologist among the Historians and Other Essays, New Delhi: Oxford University Press, pp. 224-254.. なかむら さえ. 190. ●京都大学.
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