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  2014年は メンデルブドウが日本へもたらされ て 1 0 0 年 目 に あ た っ て い た( 図

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  2014年は メンデルブドウが日本へもたらされ て 1 0 0 年 目 に あ た っ て い た( 図

1・

書 い た [ も、少し広い範囲の人々に知ってもらおうと記事を   た。また、そのかかわりで『生物の科学 遺伝』に の つ な が り を 再 認 識 し て も ら お う と 記 事 を 寄 稿 し れの部内報にその経緯を伝えて、メンデルと日本と 人日本メンデル協会の代表でもあったので、それぞ 石川植物園の後援会会長であり、また、公益財団法 たが、その時点で私はこのブドウを育成している小 年目であるからといって特別な行事は催されなかっ

1

)。 1 0 0 する運びとなった。

1-1

]。 こ れ ら が き っ か け と な り、 本 書 を 執 筆   そこで、私がなぜメンデルブドウにかかわりを持 つようになったか、また、メンデルブドウとは何で あるか、さらに、その背景として横たわるメンデル ブドウが被った出来事を知っていただくことで、メ

図 1・1 小石川植物園のメンデルブドウ

(撮影:長田)

(2)

1章 メンデルブドウ 100 年

ンデルの実像に迫ろうと努めることを、本書の始まりとしたい。実は、それらの出来事は世界的 な事件を背景としている。

 

1  

なぜメンデルブドウにかかわるようになったか?

  1999年6月に、ヨーロッパ分子生物学研究機構(

ME

え て 行 わ れ て お り、 そ の 年 の 会 は チ ェ コ 共 和 国 の 首 都 プ ラ ハ で、 演するようにというものであった。メンバーの会は、その頃はヨーロッパの各地で毎年場所を変 シエーツ・メンバーに選任されたことを伝えてくださるもので、新メンバーはメンバーの会で講

OB

)より手紙を頂いた。私がアソ

あり、参加を要請されていたので、私はそれを済ませてプラハへ向かうこととなった。 どその時、日本とハンガリーの二国間セミナーがハンガリーのセゲトにある生物科学センターで

Jeff Schell

種 学 研 究 所 の シ ェ ル( ) 教 授 が 大 い に 働 い て く だ さ っ た と い う こ と で あ っ た。 ち ょ う の案内を頂いた。後から知ったことであるが、この選任には、友人のマックス・プランク植物育

Vclav Pacesá

会を主催するチェコ科学アカデミー副総裁のパーチェス( )教授からも詳細な日程

10

月 に あ る と の こ と で あ っ た。

  当時、併任で東京大学大学院理学系研究科小石川植物園園長でもあったので、植物園でプラハ へ行く旨を伝えると、主任技官の下園文雄さんから、プラハへ行くのであれば足を延ばしてブル

(3)

ノまで行って、送り返したメンデルブドウが無事根付いているかどうか確かめてほしいと依頼さ れた。というのは、 ブルノから要請があり、メンデルブドウを送り返したのであるが、根付かな かったということで再度送ったからであった。なぜ送り返すことになったかは後で触れる。

  EMBOの関連の会が終了後、ブルノへ向かうこととした。主催者に聞くと、鉄道もあるが時 間もかかるのでバスがよかろうとのことだったので、プラハ・フローレンスのバスターミナルか らバスに乗りブルノへ向かった。バスは幹線道路E50を南下したが、中部ヨーロッパにありふ れ た ト ウ ヒ、 マ ツ、 シ ラ カ バ、 ブ ナ の 林 の 緩 や か な 勾 配 を の ぼ っ て い く と、 や が て 平 坦 に な り、 今度は緩やかな下りで、2時間余の行程でブルノへ着いた。

  実は後から知ったことであるが、この緩やかな上りと下りは峠を越えるもので、この峠は北部 のボヘミアと南部のモラビアを分ける山地であり、ブドウの成育に適しているのは南部のみであ るということであった。

  あ ら か じ め 連 絡 を 取 っ て い た マ サ リ ク 大 学 の 遺 伝 学 担 当 の レ リ コ ヴ ァ(

Jirina Relichova

) 教 授はちょうど講義があるということで、 ご主人の工科大学教授が迎えに来てくださった。そして、 ホテルへ行き、翌日はレリコヴァ教授の案内でトラム(路面電車)に乗って、やや郊外にあたる セント・トーマス修道院の中にある メンデル博物館を見学し、市内の施設も見学した。メンデル が 1 8 6 5 年 に、 最 初 に エ ン ド ウ の 交 配 の 実 験 結 果 の 講 演 を 行 っ た ヤ ン ス カ 通 り(

Jánská

、 旧

(4)

1章 メンデルブドウ 100 年

名ヨハンネス通り

Johannesgasse

) にある建物を見学し、 そ の ほ か の か か わ り の あ る 場 所 も 訪 れ た。 不 完 全 性 定 理 を発見したゲーデル(

Kurt Gödel

)の生家も、そこへの 通りであるペカーシュカ通り(

Pekar>ská

、 旧名ベッカー ガ セ

Bäckergasse

) に あ っ た。 そ の 午 後 は メ ン デ ル 農 林 大 学 を 見 学 し、 さ ら に 附 属 植 物 園 へ 行 き、 メ ン デ ル ブ ド ウ を 見 る こ と が で き た が、 送 っ た 4 株 と も 元 気 に 成 育 し て お り( 図

1・

道院へも移して植えるということで、 目的は達成された。

2

)、 大 き く な れ ば 元 々 成 育 し て い た 修   こ れ が メ ン デ ル ブ ド ウ に か か わ る 最 初 の 出 来 事 で あ り、 そ れ か ら 様 々 な 出 来 事 が 重 畳 し て 続 く の で あ っ た。 し か し、 メ ン デ ル ブ ド ウ と は 何 か、 誰 で も 疑 問 に 思 う こ とであろうと思うので、まずそこから始める。

図 1・2 ブルノへ送り返したメンデルブドウ

(撮影:長田。1999 年秋)

(5)

  メンデルに関する著書は多くあり、メンデルの生涯については様々に述べられているので、当 初、この本ではそれらについては特に書かなくてもよいのではと考えていた。ところが、それら を読み進んでいくうちに、生涯について邦書であらわされたものは、多分に神格化されたメンデ ル像が多いように思われてきた。突然ひらめいて、エンドウで交配実験を行って遺伝法則の発見 に至ったと述べているものもあり、それは正さなければならない。そのためにはメンデルの置か れていた環境を正確に理解する必要があり、科学史的検証も必要である。そこで、本章ではそれ らの批判も考慮して、できるだけベールを脱いだメンデルの実像に迫るよう努めて描写すること を心掛けた。また、彼の活動していた環境は、今日ではチェコ共和国に属するが、当時はハプス ブルクの オーストリア帝国であり、また、後に オーストリア・ハンガリー二重帝国となり、その 状況は彼に様々な影響を与えている。それらの変化もできるだけ取り込んで描写するように努め た。

 

1  

メンデルの故郷

  メンデルは、 チェコ ・ シレジア (当時は、 オーストリア ・ シレジア) の ヒンツェーチェ (

Hync›ice

、 当 時 は ハ イ ン ツ ェ ン ド ル フ

Heizendorf

) で、 1 8 2 2 年 7 月

22

日 に、 農 業 を 営 む ア ン ト ン・ メ

(6)

2章 メンデルの肖像

ンデルの長男として生まれたが、その時の洗礼名 はヨハンであった。シレジアは、 オーストリア (現 在 は チ ェ コ 共 和 国 )、 ド イ ツ、 ポ ー ラ ン ド に ま た がり、歴史的にその境界は時代によって移動した 地域であり、政治的にもそれぞれの時代において 緊張がもたらされているが、その場所が石炭など 地下資源の豊かであることがその背景にある(図 2

1) 。 オ ー ス ト リ ア・ シ レ ジ ア は、 チ ェ コ に おいては、 ズデーテンランドに属し、第二次世界 大戦への序章となるような時期には人々の注視を 集 め た 場 所 で あ り、 「 鉤 十 字 」 を 掲 げ る ナ チ ス が 進駐した場所でもある。

  ヒ ン ツ ェ ー チ ェ 一 帯 は、 ク ー レ ン ト ヒ ェ ン (

Kuhländchen

) と 呼 ば れ て お り、 ス ラ ブ 名 に 由 来するという説もあるが、そのドイツ語の意味す るところは「牝牛の里」であり、実際牧畜が盛ん

図 2・1 チェコ・シレジア

チェコ共和国は、ボヘミアとモラビアよりなる。それぞれには紋章があり、

右上はメンデルの生地チェコ・シレジアの紋章である。

チェコ共和国 プラハ

ブルノ

モラビア

モラビア ボヘミア

ボヘミア

チェコ・シレジア

(7)

3 章 メンデルの遺伝法則

 

1  

エンドウによる実験

  メ ン デ ル は、 先 行 す る ケ ー ル ロ イ タ ー(

Joseph G. Kölreuter

) や ゲ ル ト ナ ー(

Carl F. Gärtner

) な ど の 研 究 を 参 照 し、 エ ン ド ウ(

Pisum sativum L.

) を 材 料 と し て 選 ん だ。 エ ン ド ウ は、中近東から西アジアを原産地とすると推定されているマメ科植物の作物であり、7000~ 5000年前の新石器時代の遺跡から、 オオムギ (

Hordeum vulgare

)、 エンマーコムギ (

Triticum diccoides

) や 一 粒 種 コ ム ギ(

Triticum monococcum

) な ど と 一 緒 に 出 土 す る の で、 人 類 の 食 糧 となった最も古い作物の部類に属し、タンパク質源として利用されてきた[

3-2

]。

  そのため、栽培種は多くあり、メンデルは入手できた

34

種類の種子の中から、

情報はメンデルにとって有用であり、実験遂行には大いに参考になったとメンデルの論文でも触 至っていない。また、ゲルトナーは大変多くの植物種間で交配実験を行っているので、それらの で は 分 離 傾 向 が あ る と い う 定 性 的 表 現 を し て い る が、 そ こ か ら 法 則 が 導 か れ る よ う な 段 階 に は テップである。なお、ケールロイターは、交配した第一世代は一方の親に似ていたが、第二世代 で、 自殖性のエンドウの場合、材料はほぼ純系になるわけで、実験の出発段階としては重要なス 備期間に2年間をかけて、それぞれの品種の形質が遺伝的に安定していることを確かめた。これ 料として選んだ。それらの品種について、ウィーンでの勉学から戻った1854年ころから、準

22

種類を実験材

(8)

3 章 メンデルの遺伝法則

 

2  

メンデルの法則の誕生

  これらの結果が、他の人々に認識されるのは、1900年のメンデルの法則再発見以降である が、 コ レ ン ス に よ り「 メ ン デ ル の 法 則 」 と 名 づ け ら れ た。 こ れ が 遺 伝 学 の 基 本 法 則 と な っ た が、 メンデル自身はそれらの法則について具体的に述べているわけではない。いわゆる三法則につい ては、1857年の結果からは、 優劣の法則が導かれる。また、1858年の結果からは、 分離 の 法 則 が 示 さ れ る。 そ し て、 前 記( イ ) か ら、 独 立 の 法 則 が 導 か れ る の で あ る が、 ( ウ ) は、 具 体的にどのような機構で独立の法則が成立するかについて、配偶子レベルでの説明を与えるもの である[

3-5

]。

  メ ン デ ル の 法 則 は、 現 れ た 表 現 型 で 論 議 さ れ て お り、 そ の 原 因 と な る の は 遺 伝 子 型 で あ る が、 配偶子で遺伝因子が独立に挙動するということは、原因の遺伝子を想定していると考えられるわ け で、 彼 は そ れ を エ レ メ ン ト(

element

) と 呼 ん だ。 そ の エ レ メ ン ト は、 後 に、 ヨ ハ ン セ ン(

W. Johannsen

) に よ り、 遺 伝 子(

gene

) と 名 づ け ら れ、 ベ ー テ ソ ン の 唱 え た 遺 伝 学(

genetics

) の 基 礎 と な る[

エッチングハウゼンの組み合わせ理論、レーデンバッハの分子説、さらには、ウンガーの細胞学 とを背景にすると、 2章で述べたように、 メンデルがウィーン大学で勉学中に習った、 ドップラー、

phenotypegenotype3-5

]。 ま た、 表 現 型( ) と 遺 伝 子 型( ) も 命 名 さ れ た。 以 上 の こ

(9)

説がその理論的背景にあると読み取ることができる[

 

3-5

]。

 

3  

7個の遺伝形質

  メンデルの調べた7個の遺伝形質は、その後のエンドウでの遺伝学研究により、それぞれの遺 伝 子 に 記 号 が 付 け ら れ て い る の で、 以 下 に そ れ を 挙 げ る[

3-7

]。 ① 種 子 が 丸 で あ る か(

シワであるか(

R

)、 シ ワ

r

)は対立する形質であり、丸(

るか(

R

)が優性である。続いて、②種子が黄色であ

I

)、 緑色であるか(

i

)という形質については、 黄色(

そ こ か ら 発 芽 し、 成 長 し て 形 成 さ れ た 花 が 着 色 し て い る か(

I

)が優性である。③種皮の色と、

の色も白色であるか(

A

)、 種 皮 が 白 色 で、 形 成 さ れ る 花

a

)は、 植物体の色素形成が関係しており、 種皮に色がついている方(

が 優 性 で あ る。 ④ さ や が く び れ て い な い か(

A

V

)、 く び れ て い る か(

いない方(

v

) に つ い て は、 く び れ て

V

)が優性である。⑤さやが緑色であるか(

Gp

)、あるいは無色であるか(

緑色(

gp

)では、

Gp

)が優性である。この場合、遺伝子

P

と がつくのが腋性であるか(

p

との対応関係である可能性もある。⑥花芽

Fa

)、茎の先端につくか(

fa

)では、腋性(

こ れ に つ い て も、 遺 伝 子

Fa

)が優性である。なお、

Fa s

af

s

と が 対 応 す る 可 能 性 も あ る。 さ ら に、 ⑦ 草 丈 が 高 い か

Le

)、低いかの形質(

le

)も対立形質であり、丈が高い方(

Le

)が優性である。

(10)

 

2  

ルイセンコとヴァヴィロフ

  旧 ソ 連 邦 ア ゼ ル バ イ ジ ャ ン 共 和 国 の 農 事 試 験 場 の 技 師 と し て 働 い て い た ル イ セ ン コ は、 1926─27年に、秋播きコムギを低温処理した後に、春播くことにより相当量のコムギの収 穫が得られることを報告した。現象的には、 バーナリゼーションといい、現在では植物生理学上 の一課題として解明されつつある現象である。また、逆に春播きコムギを秋播きコムギとして利 用できることも示し、これら環境条件の変化が、後代の遺伝的性質に変化を及ぼすという実際上 の経験を基にするものであり、本来実務的農学者であった。環境条件の変化による獲得形質が遺 伝 的 に 後 代 に 伝 達 す る と い う 主 張 は、

より唱えられた学説と関連があるということで、 ネオ・ラマルキズムともよばれた。

19J. -B. Lamarck

世 紀 フ ラ ン ス の 博 物 学 者 ラ マ ル ク( ) に

  1 9 2 9 年 1 月 に レ ニ ン グ ラ ー ド( 現 在 は セ ン ト・ ぺ テ ル ス ブ ル ク ) で 開 か れ た 全 ソ 遺 伝 学・ 育種学総合科学会議では大して注目を浴びたわけではなかったが、1929年8月にその成果が 旧ソ連共産党中央機関紙『プラウダ』に掲載されたことから、関心を集めるようになった。そし て、次のレニングラードでの研究発表会では、発表に政治性を加え、正統的なメンデル・モルガ ン遺伝学(しばしば正統的メンデル遺伝学を彼らはこのようによんだが、ワイスマンを加えるこ ともある)の学説に挑んだ。

(11)

6 章 メンデルの法則を覆う影:ルイセンコ事件

  こ の 戦 術 変 化 は、 レ ニ ン グ ラ ー ド で 会 っ た プ レ ゼ ン ト(

I. I. Prezent

) と の 連 携 に よ り も た ら されたものである。 プレゼントは、もともとは法律を学び、赤軍の政治委員であったが、科学研 究の経験はなく、レニングラード大学教育学部で科学教育法に関する教鞭をとっていた。連携と いうよりは、むしろ、プレゼントは政治的抗争の術をルイセンコに習得させたというべきかもし れない。それ以後、両者は、表裏のごとく活動を共にする。すなわち、相手の攻撃に際して、科 学的結果による根拠で争うのではなくて、例えば育種の試みによって得られた結果を、ダーウィ ン(

Chales Darwin

) の 進 化 論 に 関 連 づ け、 い ず れ の こ と も 正 統 的 遺 伝 学 と 対 蹠 的 に 置 き、 非 難 に際しては、相手を反革命者と断ずるような 言

げん

を用いた。

  この時点から、政治的抗争に化し、ルイセンコは正統的遺伝学を、ブルジョア的であり、反革 命的、機械論的・観念論的思想であると断じて、非難した。さらに、革命後食糧事情が悪化して いることから、短期間の品種改良を求めていたスターリンは、正統的遺伝学によると

かかるところを、ルイセンコは

10

年あまり

射 に よ る 成 育 阻 害 防 止 や、 植 物 の 接 木 に よ る 栄 養 雑 種 な ど も 含 ま れ て い る。 ジ ャ ガ イ モ の 場 合、 ボタージュを行っているとも非難した。なお、ルイセンコの主張した説には、ジャガイモの光照 命的・唯物論的思想であり、正統的遺伝学に超越していると主張し、また、正統的遺伝学者はサ れにより、絶大な信任を得て、 農業科学アカデミーにも地歩を得た。ルイセンコらの学説は、革

1.5

年から3年で行えると主張したことから、これを絶賛した。こ

(12)

7 章 メンデルの革新性

 

2  

メンデルの法則の再発見

  メンデルは1865年に、それまでの8 年あまりのエンドウでの交配実験の結果か ら導き出した法則性について、自然科学研 究会の例会で、2月8日と3月8日の2回 に分けて発表した(図7 ・ 1) 。1866年 には、その内容について、自然科学研究会 の紀要に論文として発表した [

別刷り 120部が各機関に配布され、その論文の

7-1

]。紀要は

40

部は研究者に送付された。

  そして、1900年になって、3人の科 学 者( 図 7 ・ 2) に よ り 独 立 に 再 発 見 さ れ る こ と と な っ た と い わ れ る が、 こ の“ 独 立”は字義どおりにはとらえられない点も ある。2000年は、メンデルの法則の再

図 7・1 メンデルが講演を行った高等実科学校の校舎 1865 年にメンデルがエンドウの交配について講演したのは この建物であるが、現在は市の施設となっている。写真の 左の入り口の左脇にパネルがあり、メンデルが講演したこ とが記されている(撮影:長田)。

(13)

発見100年で、チェコ共和国ブルノでは、それを記念した国際会議が開かれ、私も要請を受け てそれに参加したことは1章で述べたが、そのとき、ドイツ、オランダ、オーストリアの研究者 が、それぞれ再発見に関わった3人の学者の業績とその意義について述べられた。そこで知った 再発見のドラマはほぼ次のとおりである[

7-2

]。

  再 発 見 劇 の 第 一 幕 は、 1 9 0 0 年 3 月

色は雑種第二代には3対1に分離するというものであった。

VeronicaOenothera

属( ) 植 物 や ア カ バ ナ 科 マ ツ ヨ イ グ サ 属( ) 植 物 の 種 間 で 交 配 す る と、 花 の

l'Akademie des Sciences

)』 の 3 月 号 に 掲 載 さ れ た。 そ の 要 旨 は、 ゴ マ ノ ハ グ サ 科 ク ワ ガ タ ソ ウ

Comptes Rendus de

その論文を読み上げて発表し、その内容は『フランス科学アカデミー報告( に 気 づ い た の で あ っ た。 フ ラ ン ス 科 学 ア カ デ ミ ー の 会 員 で あ る ボ ニ エ は、 ア カ デ ミ ー の 例 会 で を行っていたが、そこで形質発現が統計的分布を示すことを知った。その過程で遺伝法則の存在

Julius von Sachs

したいと、ドイツ ビュルツブルク大学の植物生理学者ザックス( )の下で研究 通して生殖細胞へ移動する」というパンジェネシス説に影響を受け、植物の形質発現でそれを示 フ リ ー ス は、 も と も と ダ ー ウ ィ ン の、 「 生 殖 に 際 し て 体 の 各 部 位 に あ る ジ ェ ン ミ ュ ー ル が 血 管 を

VriesGaston Bonnier

) が、 フ ラ ン ス の 植 物 学 者 ボ ニ エ( ) に 論 文 を 送 っ た こ と に 始 ま る。 ド・

26Hugo de

日 に、 ア ム ス テ ル ダ ム 大 学 の ド・ フ リ ー ス(

  こ の 別 刷 り は 他 の 研 究 者 に 送 ら れ た が、 そ の 中 に は ド イ ツ の コ レ ン ス(

Carl Correns

) や オ ー

(14)

8 章 メンデルの法則の日本への浸透

程の追跡を試みる。

 

2  

日本への導入

  1900年にメンデルの法則が再発見されて世に広く知られるようになって以降、最も早い日 本 で の 紹 介 に つ い て、 私 が 代 表 を 務 め て い る( 公 財 ) 日 本 メ ン デ ル 協 会 の『 メ ン デ ル 協 会 通 信 』 の初期の文献では、1903─1904年にかけて、岐阜県師範学校の教員であった臼井勝三が 『 信 濃 博 物 学 雑 誌 』 に 3 回 に 分 け て 紹 介 し た と 述 べ ら れ て い る[

ものであるという指摘がある[ なく、最も早いのはそれより一年以上前の1902年に、星野勇三が『札幌農学会報』に寄せた

8-2

]。 と こ ろ が、 こ れ は 正 し く は

8-3

]。

  こ れ は か な り 大 き な 違 い で あ り、 前 者 の 報 告 は ア メ リ カ 人 ス ピ ル マ ン(

W. J. Spillman

) の 法 則再発見を踏まえて、彼がコムギで行った交配の結果と遺伝学説の概要とそのポテンシャルを紹 介 し た、 や や 一 般 向 け の 紹 介 論 文 で あ る。 本 来、 『 信 濃 博 物 学 雑 誌 』 は 理 科 教 員 の 資 質 向 上 の た めの啓蒙雑誌であることを理解する必要がある。しかし、全体としては著名な人々の論説も散見 され、その志は高いというべきであろう。これに対し後者は、メンデルの法則が再発見され、新 しい品種改良の方法ができるであろうという期待のもとに書かれたものである。事実、札幌農学

(15)

校では、外国産の農作物を北海道でも栽培できるようにするため、在来種との交配を積極的に試 みていた。星野はそれに直接かかわり、上記メンデルの法則再発見の論文を紹介した後、アメリ カなどへの留学を経て、札幌農学校、東北帝国大学農学部を経て、北海道帝国大学へと発展して いく過程で、札幌の地で園芸作物の品種改良へ進んでいった。一方、星野に先んじて、札幌農学 校 教 員 で あ っ た 南 鷹 次 郎 は、 作 物 の 品 種 改 良 を 担 当 し、 イ ネ、 コ ム ギ、 オ オ ム ギ の 交 配 に よ る 品種改良を行っていた。

  このように必要性に駆られて育種を目的としていた人々にとって、メンデルの法則再発見の報 告と、その示すところの可能性は、研究展開への強い指針として響いたのであろう。事実、札幌 農学校、 東北帝国大学農学部、 北海道帝国大学農学部では、 その実現に向けて研究がすすめられ、 育種学は明峰正夫が担当し、育種学研究室の伝統を作った。その伝統の一端は、その流れにある イネ育種に功績のあった高橋萬右衛門教授を、1980年前後にその研究室に数度訪問した折に 知ることとなった。当時高橋教授の主宰する文部省特定研究の研究グループの班員としての数度 の集まりを通じてであった。その折、重厚な農学部の建物の玄関を入ってすぐ左側へ入り、右手 の最初の部屋が名誉教授室であり、そこに明峰教授の名前を見て伝統の雰囲気を感じることがで きた。教授室はその奥隣りであり、名誉教授室とサイズがまったく同様であることには驚いた。

  なお、 この時期、 ソテツ精子の発見者、 池野成一郎(図8 ・ 1)は、 1906年に『植物系統学』

参照

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