• 検索結果がありません。

51-62★3和文論文3佐々木.indd

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "51-62★3和文論文3佐々木.indd"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

アルベール・カミュ作品における孤独と連帯

佐 々 木 匠

はじめに

 アルベール・カミュは、自分の作品の行程をいくつかの段階に分け、そ れを「系列(cycle)」と呼び、系列ごとに小説、戯曲、エッセイを執筆する 計画を立てた。第一の系列である不条理の次に、第二の系列として反抗が 据えられたが、その反抗に伴って生じるものと見なされたのが連帯である。

それゆえ、カミュ作品

―とりわけ、反抗の系列に属する作品―には、

連帯の思想が色濃く反映されているはずだ。だが、カミュ作品における連 帯とはどのような状態を指すのであろうか。連帯が成り立つためには他者 の存在が不可欠である。しかし、『手帖』には、「悲劇は一人きりだという ことにあるのではなく、そうなれないことにある1)」というメモを初め、作 品の執筆に専念するために、ときにカミュが一人きりの状態を望んでいた ことを示す記述がいくつも見られる。そして、彼の作品内でも、多くの登 場人物たちが監獄や閉鎖された町、あるいは、扉や窓の鍵を閉め切った部 屋といった、他者から切り離された閉ざされた空間で自己と対峙している。

さらに、そうした登場人物たちにとって他者の声は、多くの場合、閉ざさ れた空間の向こう側から遠くに聞こえるばかりで、その声は彼らと他者の 絆を深めるどころか、むしろ彼らの孤立した状況を浮き彫りにしてしまう2)。 これら全ての要素が連帯を阻んでいるように思われる。カミュも、彼の作

───────────

1)Albert Camus, Carnets, dans Œuvres complètes, tome IV [1957-1959], Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », 2008, pp. 1143-1144. 以下、カミュの著作からの 引用は、全て新しいプレイヤッド版の全集(全四巻、2006-2008)を使用し、「Carnets, IV, pp. 1143-1144」というように作品名、全集の巻数、該当ページの順で示す。

2)カミュ作品における声の問題については、拙稿「語り合うことの不可能 性―アルベール・カミュ作品における他者の存在―」(WASEDA RILAS JOURNAL、早稲田大学総合人文科学研究センター、nº 5、2017、pp. 135-144)を 参照されたい。

(2)

品の登場人物も、自分たちと他者の間にある溝を容易に埋めることができ ないのであり、エマニュエル・レヴィナスの言葉を借りるならば、彼らに とって「絶対的に『他なるもの』、それが『他者』なのである3)」。

 本稿では、芸術のために孤独を必要としたカミュにとって、連帯がどの ようなものであったかを、カミュ作品における連帯と孤独の関係に注目し ながら検討する。

I.先行研究における連帯と孤独の関係

 まずは、連帯と孤独がこれまでのカミュ研究においてどのように扱われ てきたかを確認するところから始めよう。一般的に、「連帯(solidarité)」は、

孤独が解消された状態、あるいは、孤独と対極の状態であると考えられて いるはずである。事実、これまでのカミュ研究でも、連帯と孤独の関係は 多くの場合そのように扱われてきた。

 たとえば、長年カミュ研究を牽引してきたレイモン・ゲ=クロズィエ は、連帯と孤独の関係をカミュ作品における「二律背反4)」と見なし、両者 の対立がカミュの創作活動や政治的な姿勢にも影響を与えたと指摘してい る。ここで強調したいのは、カミュの作品や思想を論じる上で、連帯と孤 独の対比が自明のこととして扱われている点だ。連帯と孤独の関係をこの ように捉える研究は他にもあり、カミュ作品における正義や自由について 考察したジョセフ・エルメは、シーシュポスとカミュを重ね、両者がいず れも絶対的な孤独のなかにいると指摘した上で、こう書いている。「カミュ が、『シーシュポスの神話』において、もっぱら単数形しか用いないのは驚 くことではない。事実、そこを占めているのは、「私 (je)」、「彼(il)」、「人

(on)」、「人間(l’homme)」という語であり、「人間たち(les hommes)」とい う複数の形はほとんど問題にならないし、まして、彼らの間の連帯を表す

「私たち(nous)」という語はなおさら問題にならない5)。」『シーシュポスの 3)Emmanuel Lévinas, Totalité et Infini : Essai sur l’extériorité, Librairie générale

française, coll. « Le Livre de Poche : Biblio essais », 15e édition, 2014, p. 28.

4)Cf. Raymond Gay-Crosier, « André Gide et Albert Camus : Rencontres », in Études littéraires, vol. 2, nº 3, 1969, p. 339:「同胞たちと向き合う芸術家の問題は、カミュ 作品では例の二律背反「連帯-孤独」に行き着いたが、その二律背反は、部分的に、

彼の晩年のかたくなな沈黙の原因となっている。」

5)Joseph Hermet, À la rencontre d’Albert Camus : le dur chemin de la liberté, Beauchesne, coll. « Beauchesne essais », 1990, p. 111.

───────────

(3)

神話』(1942)でのカミュの文体が、当時の彼が感じていた「一連の孤独、

追放、絶望を伴う不条理6)」といったものの影響を受けていると指摘するエ ルメは、カミュの思想における不条理から反抗への、そして、孤独から連 帯への移行を考察するにあたり、孤独と連帯が互いに対立しているという 前提で考察を進めるのである。さらに、カミュ作品における幸福について 分析を行ったピエール・グエン=ヴァン=フィは以下のように書いている。

「カミュの幸福と不幸の観念は、関係と別離の観念、連帯と孤独(非-関係 という意味で)の観念、調和と不和の観念と混ざり合っている7)。」グエン

=ヴァン=フィによれば、連帯と孤独の二項対立は、他の二項対立と結び つくことで強調される。つまり、ここでは、連帯が登場人物たちの幸福に 結びつき、孤独が彼らが直面する不条理や不幸に結びつくと指摘されてい るのである。

 こうして多くの研究者が、連帯と孤独が対極にあるという考えを疑わな い。カミュの作品名を借りるならば、彼らは、連帯と孤独が「裏と表」の関 係にある、という暗黙の前提に立っているのである。しかし、「もし孤独が 存在するならば、それは私の知らないことだが、ときに、楽園を夢見るよう に、孤独を夢見る権利が確かにあるだろう8)」と書くカミュにとって、孤独 は必ずしも不幸にばかり結びついていたわけではない。むしろ、この引用に 見られる「楽園」や「夢見る」といった表現からは、彼が孤独をある種の幸 福な状態と見なしていたように思われる。それならば、カミュが本当に連帯 を孤独の対極の状態として考えていたかを検討する必要がある。連帯と孤独 の関係性を「裏と表」以外の構図で表すことはできないだろうか。

II.連帯という思想の背景

 カミュ作品における連帯と孤独の関係を考察するにあたり、連帯がどの ような経緯で彼の思想にあらわれたかを押さえておきたい。ブリジット・

センディグが、「「連帯(solidarité)」と「連帯の(solidaire)」という語は、

『時事論集

I』と『時事論集 II』に収められる戦後の作品にあらわれる

9)」と 6)Ibid., p. 115.

7)Pierre Nguyen-Van-Huy, La Métaphysique du bonheur chez Albert Camus, la Baconnière, coll. « Langages », 1968, p. 9.

8)L’Envers et l’Endroit, I, p. 36.

9)Brigitte Sändig, « SOLIDARITÉ », in Dictionnaire Albert Camus, Robert Laffont, coll. « Bouquins », 2009, p. 848.

───────────

(4)

指摘しているとおり、連帯は初め、第二次世界大戦中から戦後に書かれた 社会的・政治的な文章に用いられ、小説や戯曲、エッセイにも反映された。

つまり、戦争中の経験がカミュの連帯という思想に少なからず影響を与え たと考えることができるのだ。では、具体的にどのような経験がカミュの 連帯という思想をはぐくんだのかを見てみよう。

 第二次世界大戦中にカミュが書いた『ドイツ人の友への手紙』(1943-1944)

では、「連帯(solidarité)」や「連帯の(solidaire)」という語はまだ一度も用 いられていない。しかし、すでにこのテクストにそれらの源泉を見ること ができる。というのも、カミュは「私たち(nous)」という語でヨーロッパ の人々を、「あなた(たち)(vous)」という語でナチスに属する人々をそれ ぞれ指し、区別するのである。カミュが「私たち」という語で表した人々 のつながりは、連帯の思想の礎になったものと考えられる。彼は最終第四 の手紙にこう書く。「しかし、私たちは少なくとも、あなたたちが閉じこめ ようとしたあの孤独から、人間を救い出すことに貢献するだろう10)。」カ ミュがここで、「私たち」という集団について述べながら、人間の「孤独」

に言及していることは注目に値する。戦争による多くの死や別離を前に、

カミュとヨーロッパの人々は、皆、等しく孤独を味わった。つまり、カミュ によれば、孤独の体験を共有する人々によって「私たち」というつながり は作られるのだ。それはちょうど、第二次世界大戦中に執筆が始められ、

1947

年に発表された『ペスト』で描かれることになる、大量の死者を前に オランの住民が保険隊を組織し病原菌に立ち向かおうとする姿勢と重なる。

こうした、孤独の体験の後に生まれる連帯、あるいは、孤独の体験のさな かに生まれる連帯という構図こそ、カミュが考えていた孤独と連帯の関係 なのではないか。それならば、孤独と連帯は必ずしも対極にあるものでは ないはずだ。

 孤独のなかで連帯が生まれるとカミュが考えていたことを裏付けるよう な彼の自伝的要素は他にもあり、たとえば、彼は肺結核を再発して、1942 年

8

月に療養のためやむなく渡仏した。南仏のル・パヌリエという小さな 町に滞在したカミュは、妻フランシーヌが先に帰国した後、当初の予定で はその年の年末までにアルジェリアに帰国する予定であった。しかし、同 年

11

月の連合軍の北アフリカ上陸とドイツによるフランス南部地域の占

───────────

10)Lettres à un ami allemand, II, p. 29.

(5)

領が原因で、彼は一年三ヶ月ほどその地にとどまることを余儀なくされ た。「114 44

11

4 44。ねずみ取りにかかったようだ4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 411)」と『手帖』に書いた カミュにとって、慣れない場所での一人きりの生活と家族との長期的な別 離は全く予期していなかった事態であり、その状況はカミュに他者との絆 の重要性を再確認させたようだ。カミュが感じていた深い孤独は、その時 期に執筆中・構想中だった作品に反映され、『誤解』(1944)は、「当時の私

[カミュ]が悩まされていた[…]ある種の閉所恐怖症12)」の影響を強く受 け、また『ペスト』には、「追加の登場人物。引き離された人、追放者13)」 が新たに考案された。加えて、同じく『ペスト』に関して、カミュは、「そ の結果、別離は一般的となる4 4 4 4 4 4 4 4 4。皆が孤独に追いやられる。したがって別離 の主題をこの小説の大きな主題とすること14)」と『手帖』に書き、初稿で は取り上げていなかった別離や追放という主題を作品の中心に据えていく。

この小説は反抗の系列として最初に発表された作品である。オランの住民 がペスト菌に立ち向かう姿に反抗や連帯という思想を見ることができるが、

その作品の「大きな主題」にカミュの孤独の経験が生かされていることは、

カミュ作品における連帯と孤独の関係性を象徴しているように思われる。

 さらに、カミュは

1951

年、第二次世界大戦中にアンドレ・ジッドと過ご した日々を振り返り、「戦争は、たいていの人々に孤独の終わりをもたらす ものであるが、彼[ジッド]にとっては、私にとってそうであったように、

真の孤独だけをもたらすものであったことを知らないわけではなかった。

初めて、このラジオの受信機の周りに集まり、私たちは時代を前に連帯し ていたのだった15)」と書いている。この引用からも、孤独の後の、あるい は、孤独のさなかの連帯という構図を見ることができる。このときカミュ は、すでにル・パヌリエからパリに移り、レジスタンス活動に参加してい た。むろんその最大の理由は、正義感や、何らかの行動を起こさなければ ならないという強い思いに駆られたからであろう。しかし、戦争が彼にとっ

───────────

11)Carnets, II, p. 966.

12)Cf. « Préface à l’édition américaine de « Caligula and Three other plays » », I, p. 448:

「当時、私はやむを得ずフランス中部の山岳地帯の真ん中で暮らしていた。この 歴史的・地理的状況は、当時の私が悩まされていた、そして、この戯曲に反映 されているある種の閉所恐怖症に十分な説明を与えてくれるだろう。」

13)Carnets, II, p. 976.

14)Ibid., p. 985.

15)« Rencontres avec André Gide », III, p. 884.

(6)

て「決定的な孤独16)」であったことを考えるならば、レジスタンス活動に 参加したことさえも、孤独の経験が彼に他者とのつながりを求めさせたと 考えることができよう。

 ここまでの分析から、カミュ作品における孤独と連帯の関係を以下のよ うに言うことができる。すなわち、孤独と連帯は、必ずしも「裏と表」の ように対置されるものではなく、むしろ一つの直線上にあるものだ、と。

言葉を換えるならば、彼の作品において、連帯は、孤独と隣接しているも の、あるいは、孤独があってこそ意味が強調されるものなのだ。

 短編集『追放と王国』(1957)に収められた「ヨナ、あるいは制作する芸 術家」の主人公が書き残す言葉は、カミュ作品における孤独と連帯のこう した関係を象徴している。ヨナは画家の仕事に専念するために、家族や友 人を含めた全ての人間関係を断ち切り、屋根裏部屋を作ってそこにこもる が、結局何も描くことができない。最終的に倒れてしまうヨナは、次のよ うに一つの単語を書き残す。「ヨナは実に小さな文字で、ようやく判読でき る一語を残していたが、その語は「孤独な(solitaire)」と読むべきなのか、

「連帯の(solidaire)」と読むべきなのかわからなかった17)。」ヨナが絵の制 作に集中できないことに悩み、屋根裏部屋を自作してまで閉ざされた空間 にこもったのは、確かに、彼が連帯と孤独の間でジレンマに陥っていたか らであろう18)。だが、他方で彼が、倒れる間際に、一人きりのその屋根裏 部屋で、それまで煩わしく感じていた世界や家族との絆を確かめているこ とには注意したい。「世界はまだそこにあった、若々しく、愛すべく。[…]

子どもたちは部屋から部屋へ駆け回っている。娘が笑っている。妻のルイ ズも今は笑っているが、ずいぶん前からその笑い声を聞いていなかった。

───────────

16)Cf. Carnets, IV, p. 1091:「たいていの人たちにとって戦争は孤独の終わりであ る。しかし、私にとってそれは決定的な孤独である。」先のジッドとの思い出を 振り返るテクストは1951年11月に発表されたが、それより先の1950年にカミュ はこのメモを残している。

17)L’Exil et le Royaume, IV, p. 83.

18)こうしたジレンマに関して、オーウェン・ミラーは、『追放と王国』の登場人 物たちが、いずれも、「ある瞬間に精神的なジレンマに陥ってしまった結果、自 分に対する、あるいは、他者に対する忠実さと折り合いをつけるように強制し てくる状況と正面から向き合わなければならなくなる」(Owen J. Miller, « L’Exil et le royaume : cohérence du recueil », in Albert Camus 6 : Camus nouvelliste : L’Exil et le royaume, Lettres Modernes Minard, coll. « La Revue des Lettres Modernes », 1973, p. 36)と指摘している。

(7)

彼は彼らを愛していた! どんなに愛していたことか!19)」というふうに。

ヨナが書き残した一語が「孤独な(solitaire)」と「連帯の(solidaire)」のど ちらにも読むことができるのは、孤独と連帯が対立するのではなく、むし ろ、重なり合い、補い合っていることを示しているのではないか。孤独と 連帯はそれぞれ単独で存在しているのではなく、両者が相まって初めて成 り立つものであり、そこにこそヨナが書いた文字の意味があると考えられ るのだ。

III.孤独から連帯へ

 孤独と連帯が相反するものでなく、重なり合うものであれば、ヨナがそ うであるように、孤独なまま他者と連帯することも可能なはずだ。1948年 に発表された「自由の証人」というテクストで、カミュは、イデオロギー の時代に生きる芸術家がどのような行動を取るべきかという問題を論じな がら、孤独と連帯の関係に言及している。「このことは、同時に、私たちの 万人に対する連帯を定義する。私たちが各人の孤独の権利を守らなければ ならないからこそ、私たちはもはや決して孤独者にはならないだろう20)」、

と。全ての芸術家は孤独である。このテクストでカミュはそうした考えに 立っているが、他方で彼は、「各人の孤独の権利」を守ることで人々の間に 連帯が生まれるのだと指摘する。この一文は、カミュの言う連帯が、いわ ば、孤独者同士のつながりであり、孤独を前提としたものであることを示 している。

 孤独と連帯のこうした関係性は、1945年に発表された「反抗に関する考 察」でも見ることができる21)。カミュはこのテクストで初めて、反抗とい う思想について具体的な見解を示したのだが、それによれば、反抗的人間 とは、「初めに『否ノン』と言う人間のことである。しかし、拒否しても放棄は しない。『諾ウイ』とも言う人間である22)。」否定と肯定の言葉を同時に言う人 間であるとするこの定義は、反抗的人間の両義性を示している。そして、

その両義性は孤独と連帯の関係にも影響を及ぼしている。なぜなら、同テ クストのなかでカミュは、まず、「反抗は[…]人間の持つ最も厳密に個人 19)L’Exil et le Royaume, IV, p. 82.

20)Actuelles Chroniques 1944-1948, II, p. 494.

21)カミュはこのテクストを推敲し、『反抗的人間』(1951)の冒頭三章に用いた。

22)« Remarque sur la révolte », III, p. 325.

───────────

(8)

的なもののなかに生じる23)」と書くのだが、それがその者の「個人的な運 命を越え、その個人の存在よりも、より遠くへと行く真理24)」に結びつく と付け加え、個人的なものであるはずの反抗が、逆説的に、個人を他者と の連帯に駆り立てると指摘するのである。整理するならば、不条理な世界 で個人は本質的には孤独である。そこで各人は反抗に目覚めるのだが、彼 らはそのとき、他の人々も自分と同じようにそれぞれの孤独と向き合いな がら反抗に目覚めるのだと理解する。カミュの連帯はこうした反抗に目覚 めた孤独な個人の間にこそ生じるものなのである25)

 カミュはこの考えを『反抗的人間』で再び取り上げている。

不条理の経験において、苦悩は個人的なものである。反抗的行動が始 まると、苦悩は集団的であることを意識し、全ての人の冒険となる。

それゆえ、異邦人性にとらえられた精神の最初の進歩は、この異邦人 性は万人と共有しているものだということを認めることであり、また、

人間の実在は、全体として、自己との、そして世界とのこの距離に悩 むものだということを認めることである。一人の人間を苦しめていた 病は、集団のペストになる。我々のものである日々の苦難のなかで、

反抗は、思考の領域における「コギト」と同一の役割を果たす。反抗 が第一の明白さとなるのだ。しかし、この明白さは個人をその孤独か ら引き上げる。反抗はすべての人間の上に最初の価値を築き上げる共 通の場なのである。我反抗する、ゆえに我らあり26)

 ここでは、反抗的行動が始まると同時に、「一人の人間を苦しめていた病 は、集団のペストになる」と指摘されている。まさしくこの一文がカミュ

───────────

23)Ibid., p. 326.

24)Ibid., pp. 326-327.

25)カミュは「反抗に関する考察」のなかで、孤独な個人が連帯するこうした過 程を幾度かにわたって説明している。ここでは二つ例を挙げておく。「すでに見 ているように、反抗の確認は、個人を超越し、個人をその偽りの孤独から引き上 げ、一つの価値に基礎を置くような何かへと広がっていく」(ibid., pp. 325-326)、

「不条理な世界では、反抗者は依然として一つの確信を守っている。それは、同 じ冒険のなかでの人々との連帯であり、また、俗物と反抗者がどちらも搾取さ れているという事実である」(ibid., p. 333)。

26)L’Homme révolté, III, p. 79. 下線は引用者。

(9)

の考える連帯を表している。苦悩は本来個人的なものである。そのことを 改めて確認するように、カミュは自分自身との、あるいは、世界との距離 に悩む一人の人間を初めに描く。しかし、その個人の苦悩は、やがて、同 様の経験をしている他者に共有され、最終的にその個人の間に連帯が生ま れるのだ。カミュはこの一節を、先ほど見た「反抗に関する考察」の第一 章をほとんどそのまま用いて書いているのだが、そこに新たに最後の一文 を加えている。すなわち、「我反抗する、ゆえに我らあり」、と。彼はここ で、単数人称「我(je)」という個人が、複数人称で表される「我ら(nous)」

という集団を形成する過程を提示しているのであり、それは、孤独者が共 通の経験を通じて他者と結びつく過程そのものである。孤独を前提とした

「我」に対する「我ら」の複数性こそが、孤独から連帯への変化を表してい るのである。

IV.反抗の特徴から見る連帯

 カミュが提示した連帯はこうして反抗が生まれるのと同時に生じるのだ から、彼の考える連帯がどのようなものかをより深く理解するために、反 抗と連帯の関わりについても確認しておこう。ここでは特に、連帯のあり 方と直接結びつく反抗の二つの特徴、すなわち、反抗が永遠に繰り返され るものであり、かつ、相対的なものであるという特徴に焦点を絞る。

 カミュは『反抗的人間』で「反抗(révolte)」と「革命(révolution)」を 対比するのだが、それは、反抗が「統一性(unité)」を、革命が「全体性

(totalité)」を、それぞれ目指すという相違点があるからである。カミュはこ の両者の対比に対して、大きく二つの理由から、反抗と統一性の側を評価 し、革命と全体性の側を批判する。二つの理由とは、第一に、「人の歴史は 連続して起こる人間の反抗の総和でしかない27)」からだ。カミュによれば、

反抗はその性質上、革命に達することは決してない。仮に革命が起これば、

それは単に別の反抗を引き起こすだけである。それゆえ、「反抗の運動は繰

───────────

27)この引用は、反抗が革命に決して達しない理由が『反抗的人間』よりも簡 潔にまとめられている「反抗に関する考察」から引いた。Cf. « Remarque sur la révolte », III, p. 331:「歴史上、革命は決してなかったと言うことができる。なぜ なら、たった一度の革命しか起こりえず、革命の性格は決定的なものであるか らだ。[…]人の歴史は、連続して起こる人間の反抗の総和でしかない。仮に革 命が一度起こったとすれば、もはや歴史は存在しないであろう。」

(10)

り返される28)」ものでなければならないのだ。カミュが反抗と統一性の側 を評価し、革命と全体性の側を批判する二つ目の理由は、後者の革命と全 体性が、絶対的な肯定か盲目的な否定によって成り立つものであり、それ は非合理なものさえ服従させ、最後にはニヒリズムに至ってしまうからだ。

「一方[反抗・統一性]は創造的で、他方[革命・全体性]は虚無的であ る29)」と指摘するカミュは、当然、前者の反抗と統一性の側を評価する。

反抗は、こうした絶対的・盲目的な判断に基づくものではなく、相対的な ものでなければならないのである。

 反抗と同時に起こる連帯もまた、これらの特徴を持っていることを考え れば、カミュの言う連帯は次のようになる。つまり、反抗が決して革命に は至らず、常に統一性を要求し続けるのだから、連帯も、その結果よりも むしろ、個人が他者の方へ向かう運動そのものやその過程が重視される。

そして、絶対的・盲目的な判断からなる全体性が批判されているのだから、

連帯も、各個人の多様性や自由を完全に消してしまうものではない。そう ではなく、他者が持つ異邦人性や、他者との間にある隔たり、あるいは、

それぞれが感じている孤独―先に引用した「自由の証人」に書かれた言 葉を借りるならば「各人の孤独の権利」―を維持したまま、他者と結び つくことである、と。反抗の特徴から導かれる連帯も、やはり、それが孤 独を維持したまま他者とつながるものであり、孤独と連帯が重なり合い、

補い合うものであることを示しているのである。

 連帯がこうした特徴を持つとき、人々が連帯した結果、何らかの集団や 共同体が作られるとしても、それは必ずしもはっきりとした輪郭を持って はいないのではないか。この仮説を裏付けてくれるのは、『反抗的人間』に 書かれた以下の言葉だ。

したがって、彼[個人]は、まだ不明瞭な、一つの価値の名において

───────────

28)Cf. ibid., pp. 332-333:「全ての革命には、それに対立する反抗の運動を引き起 こす段階が存在する。この反抗は、革命の限界を示し、それが失敗する可能性 を告げる。[…]かくして、反抗の運動は繰り返されるものだということがわか 29)Cf. L’Homme révolté, III, p. 277:「反抗の要求は統一性であり、歴史的革命の要る。」

求は全体性である。前者は一つの諾ウ イに基づく否ノ ンから出発するのに対し、後者は 絶対的な否定から出発し、時間の果てに投げ出された一つの諾ウ イを作り出すため に全ての服従を余儀なくされる。一方は創造的で、他方は虚無的である。」

(11)

行動するのだが、少なくとも彼は、その価値が自分と全ての人たちに 共通のものであるという感情を抱いている。人は、あらゆる反抗の行 為のなかに含まれている肯定が個人からはみ出す何ものかに広がって いくのを目にする。その肯定が個人を偽りの孤独から引き上げ、その 者に行動する理由を与える限りにおいて30)

 カミュは、この一節で、「まだ不明瞭な」や「個人からはみ出す何ものか」

といった、曖昧な表現を用いて個人が他者と結びつく過程を書いている。

しかし、この曖昧さを積極的に受け容れることなしにはカミュの考える連 帯を理解することはできない31)。「不明瞭」や「個人からはみ出す何ものか」

といったこれらの表現は、他者が本質的には理解を拒む存在であることを 表しているように思われる。その事実を知った上でなお、個人は、他者と 結びつくことを目指す。カミュの連帯はこうして、個人が他者の異邦人性 を受け容れ、それでも、孤独や価値観を共有する他者とつながることなの である。

───────────

30)Ibid., p. 73.

31)こうした曖昧な表現による孤独者たちの連帯という構図は、たとえば、モー リス・ブランショの『最後の人間』(1957)の一節を想起させる。ブランショ はその作品内で、病気の療養のために施設に滞在している一人の人物を描いて いる。その人物は他者と距離を取り、孤独のなかに閉じこもっているが、同時 に、人々を結びつける。彼の周囲では、語り手を含む多くの人々が曖昧な集団 を形成するのである。「彼は私たちを引き離し、そして、危険なほど私たちの外 に出てしまうような仕方で、私たちを結びつける」(Maurice Blanchot, Le Dernier homme, Gallimard, 1957, p. 29)、あるいは、「私は、彼を閉じこめているように見 えるもの全てに苦しめられていた。そのことが私を不安にし、動揺させた。こ の動揺こそが、私を私自身から奪い去り、代わりにもっと一般的な存在、とき には「私たち」、ときにはもっと漠然としてもっと不明瞭なものをそこに導いて いた」(ibid., p. 16)、というふうに。ブランショがこの作品の着想を得た経緯を 考えるならば、カミュの絶筆となった小説の題名とのコントラスト―すなわ ち、『最後の人間』と『最初の人間』(1994)というコントラスト―は偶然で あろう。しかし、ブランショが書いた、孤独でありながら逆説的に人々を結び つける人物や、その周囲で形成される「私たち」や「もっと漠然としてもっと 不明瞭なもの」といった曖昧な言葉で形容される共同体と、カミュが提示する 連帯との間には通じるものがある。各個人が、他者の異邦人性を受け容れながら、

それでも他者と連帯するという構図は、カミュ作品を考察するためにも多くの 示唆を与えてくれる。

(12)

おわりに

 孤独な状況に置かれた個人は、やがて、自分と同じように孤独な状況に いる他者の存在を意識し、少しずつ彼らとのつながりを求めるようになる。

人を文字通り孤立させる孤独の特徴を、仮に、孤独の閉鎖的・抑圧的な側 面と考えるならば(ここで用いている「閉鎖的」、「抑圧的」といった言葉 には、必ずしも否定的な意味合いはない)、その者を自分と同じ状況に置か れた他者との連帯に向かわせるのは、孤独が、そうした閉鎖的・抑圧的な 側面だけではなく、別の側面も持っているからだ、すなわち、開放的・解 放的な側面を持っているからだと考えられはしないか。そうであるならば、

カミュが提示する連帯は、いわば、この閉鎖的・抑圧的側面が開放的・解 放的側面へと移行していく過程である。人は、孤独な状態に身を沈めれば 沈めるほど、他者や社会とのつながりを求めるようになる。カミュの言う 連帯はそうした状況を指しているのだ。

 ここで、病気の療養のために訪れたル・パヌリエで家族と引き離され孤 独を感じていたカミュが、『ペスト』の追加の人物として「追放者」を登場 させようと考えていたことを、あるいは、同じようにル・パヌリエで執筆 され、当時の孤独感が反映されている『誤解』の終盤で、母親に自殺され て一人残されたマルタが「これでは自分の国にいながら追放されたも同じ だ32)」と叫ぶことを思い出したい。これらの記述から、カミュ作品におい て、追放と孤独はときに重なり合うものであり、それゆえ、追放が連帯と も矛盾しないものであると推察することができる。いわば、孤独と追放は ともに連帯に結びつきうるのである。それならば、カミュ作品における孤 独と連帯の関係性は、『裏と表』(1937)よりもむしろ『追放と王国』を用 いて次のように表すべきだろう。すなわち、カミュ作品において、孤独な

「追放」者たちの「王国」こそが連帯である、と。カミュにおける孤独と連 帯はそう言い換えることができるのである。

(早稲田大学大学院博士後期課程)

───────────

32)Le Malentendu, I, p. 490.

参照

関連したドキュメント

Official Basketball Rules 2020 Basketball Equipment (FIBA 原文/日本語訳).. 第 3 章

キーワード:感染症,ストレスマネジメント,健康教育,ソーシャルネットワーキングサービス YOMODA Kenji : Concerns and stress caused by the novel coronavirus disease

問題集については P28 をご参照ください。 (P28 以外は発行されておりませんので、ご了承く ださい。)

藤田 烈 1) ,坂木晴世 2) ,高野八百子 3) ,渡邉都喜子 4) ,黒須一見 5) ,清水潤三 6) , 佐和章弘 7) ,中村ゆかり 8) ,窪田志穂 9) ,佐々木顕子 10)

無溶剤形変性エポキシ樹脂塗料 ※ 10以下、30以上 85以上 無溶剤形変性エポキシ樹脂塗料(低温用) 5以下、20以上 85以上 コンクリート塗装用エポキシ樹脂プライマー

附 箱1合 有形文化財 古文書 平成元年7月10日 青面金剛種子庚申待供養塔 有形文化財 歴史資料 平成3年7月4日 石造青面金剛立像 有形文化財

• Having a medical-related technological dependence (for example, tracheostomy, gastrostomy, or positive pressure ventilation (not related to COVID

建築物の解体工事 床面積の合計 80m 2 以上 建築物の新築・増築工事 床面積の合計 500m 2 以上 建築物の修繕・模様替(リフォーム等) 請負金額