ベトナム・チル集団の葬礼の変容と母方交差イトコ 婚
著者名(日) 本多 守
雑誌名 白山人類学
号 10
ページ 69‑97
発行年 2007‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1060/00002371/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止
ベトナム・チル集団の葬礼の変容と母方交差イトコ婚
本 多
守*CUItural Change and Matrilateral Cross Cousin Maniage among the Cil in Vietnam
HONDA Mamoru*
This paper explores some aspects of continuity in the social structure in an ethnic group in Vietnam 加mthe French colonial period until the present. The content of this paper is based on my participant observation of theα↓group of the Coんo in Lam Dong Province for 3 months in 2005.
The Cil society constructs kinship groupings,roles, and relationships by tracing descent exc1usively through the matrilinea1血e.
The Cil s hfe was strongly mfluenced by the VN war and the Social Revolution. In the 1960s,by the Strategic Hamlet Program, most of the ethIUc groups in Lam Dong Provmce inclu(hng the O乞1,were converged on Strategic Hamlets. Smce that time, the Cit has converted to Protestantism. After the Social Revolution in 1975,by the settlement policy for ethnic groups, theα↓were gathered and lived in New Economic Zones until now. Through the settlement policy, they were obliged to change their cultivate method from slush−and−bum to dry−field fam血g for planting coffee tree or crops.
Though the Cil s society was already changed deeply and tends to be seemed not to keep their culture before the French colonial period any more. But if we observe carefully, in fact, they keep some customs on some aspects of marriage or funeral even now.
For example, in their f皿eral, they follow Protestantism and the process is controlled by priests. But those priests belong to each descent group of the deceased and that spouse. This election follows to Matrilineal Principles. Secondly, if the deceased being husband who could fomed property and his daughter remains, she(ego)would be obliged to marry to son of father s sister(Ego s cross cousins). If ego don t have a first cousin, ego have to choose a partner who belongs to the father s descent group. As this result of this marriage, the mother s descent group can get married to a partner who is talent of father s descent group continuousiy. On the other hand, father s descent group also can get property which the deceased remained by the means of marriage. According to Cit s custom of marriage, the bride s descent group has to give much property to bridegroom s descent group as compensation for losing a labor that w血have to live with his bride. Even now, this matrnateral cross cousin marriage is functioning as system of reconstructing marriage alliance. As the result, social structure of theα↓ doesn t have changed greatly even now.
*東洋大学大学院社会学研究科;Graduate School of Sociology, Toyo University,5−28−20, Hakusan, Bunkyo,
Tokyo,112−8606/ hon_mamo41@hotmail.com
キーワード:チル集団,出自集団,葬礼,交換,母方交差イトコ,婚姻連帯
Keywords:The Cil, Descent Group, Funeral, Exchange, Matrilateral Cross Cousin, Marriage Alliance
は じ め に
ベトナム戦争から現在まで,ベトナムの少数民族を取り巻く環境は激変した。特にベトナム 共和国政府の支配下に居住していた民族,そのうちでも移動しながら焼畑をしていた人々は,
ベトナム共和国政府の戦略村政策(1962−65)1)のために集住,定住を余儀iなくされた。さらに 革命後は,定耕定居政策によって焼畑農業を禁止され,今ではお茶やコーヒーなど商品作物を 作っている。宗教面では,フランス植民地期からカトリック,1930年ごろからはプロテスタ ントと,二つの宗教の影響を受け,多くの者が改宗した。しかしこのような激変の中でも,詳 細に観察していくと,いまだに残る彼ら特有の文化を見出すことができる。
本稿では,チル集団2)の葬礼を取り上げ,その中から不変のものを提示する。その上で筆 者が本誌9号で明らかにした婚姻の変容[本多2006:19−39]と比較分析し,さらに一つの死 から生まれる新たな婚姻 母方交差イトコ婚 が連帯の再構築の役割を果たしていること を明らかにする。
チル集団も,既述したようにベトナム共和国政府に居住していた他の民族と変わらず,
1930年代以降,戦略村に入る(1962年)過程でそのほとんどがクリスチィアン・ミッショナ リー・アンド・アライアンスに改宗し,また定耕定居政策によって焼畑を放棄し定住して商品 作物を作っている。しかし一方で,依然としてチル集団社会の特徴である母系制,そして妻方 居住の慣習を堅持している。そして婚礼では嫁側が婚姻後,妻方居住をする婿の対価として,
1)戦略村(strategic hamlet)とは以下のようなものである。「農村人口をベトコンから切り離し,社会 的,経済的,政治的改革を進めるための主な手段である。一つ一つの戦略村は約200家族で構成され る。多くの場合,バリケー・一ドや堀,無線機を装備さす。六週間の訓練を積むと戦略村の守りにつき,
ベトコンに攻撃された場合,増援部隊の到着まで持ち耐えるのがねらいである。住民たちは,戦略村 の村会議選挙を行ない,選出された村議が地方防衛の責任を負う。政府はアメリカの援助で,戦略村に,
農作物の種や肥料などを含めた経済的,社会的サービスを提供し,またベトナム軍とアメリカ軍から 選出された民間活動班が地方開発計画に従事し,医療救護や村民に役立つ技術指導をやる」[カウフマ ン1968:321]。
2)彼らの属するコホー族には,スレ,ノップ,そしてチルと呼ばれるグループがいるが,いずれもが互 いに言語が似ているグループというだけで一つの民族コホーに分類される。しかし,これらのグルー プの習慣は明らかに異なる。また,このチルという範疇に入れられる人々には,チル以外の出自集団 が多数ある。ダムロン県に居住する他民族のムノン族にも,チルという出自集団名がある。このよう にチルという名称は紛らわしく,チルという「氏」を冠とする集団だけでもないので,「氏族」と呼ぶ わけにもいかない。従って「集団」とした。
労働力を失う婿側に対し首飾りや甕,銅鍵など3)を渡し,対して,婿側は嫁側が催す婚礼の 資金の一部を負担する。
筆者は本誌9号でチル集団の婚姻の変容を検討し,激しい社会変容にもかかわらず,不変な るものを明示し,そしてその特徴として次の点を指摘した[本多2006:19−39]。第一に,嫁側 が婿の対価として婿側に渡す花婿代償,および婿側が嫁側に対し嫁側が催す婚礼の費用の一部 を負担するという,嫁側と婿側の財の交換の慣習を維持していること,第二に,チル集団の婚 礼における交換は嫁側からの交換財が婿側からの交換財よりも多いことが慣習で定められてい る,つまり不均衡な原理に基づくものであること,第三に,財の交換の原理がチル社会の社会 構造の基本原理であることである。
チル集団が行っているこのような交換の原理について,はじめて社会人類学的な観点から考 察したのはマルセル・モース(1925年)である。モースは族外婚がクラン間の女性の交換で あることを説いた。これにレヴィ=ストロースが影響を受け,婚姻という贈与交換によって 形成される社会構造を『親族の基本構造』であらわし,その中で一般交換(交差イトコ婚)に
よる循環婚のシステムを描き出した。
規定的母方交差イトコ婚については,シュナイダーとホーマンズが,感情論や系統性の問題 等でレヴィ=ストロースに反論した。彼らはマードックの資料を用いて規定的交差イトコ婚 のある社会が父系社会に多いことを指摘して,レヴィ=ストロースが検討した規定的交差イ トコ婚のある社会は,父系社会で,母系の検討が不足していることを批判している[シュナイ ダー・ホーマンズ1968:47,58−61;レヴィ=ストロース1972:354]。
この論争の中では,チル集団のような社会 規定的母方交差イトコ婚のある母系社会 の検討は,ガロ族,カオンデ族,カスカ族,シリオノ族など数えるほどに過ぎない。従って,
チル集団の社会を検討する本稿は,レヴィニストロースの交換論の再評価にもつながる。
チル集団にっいては,フランスの宣教師ジャック・デュルヌがEn Suivαnt ta Piste des Hommes sur tes Hαuts−Peαteαur du Viet−Nαm[Durnes 1955]の中で若干触れている。ただし
その記述は,詳細な調査に基づくものではない。また,チル集団は水稲耕作を行うコホー族ス レ集団と異なり生業が焼畑であり,近隣のムノン族と交流が密接だったため,ベトナム戦争以 前は,コホー族4)であるのか単独の民族として扱うべきか,あるいはムノン族として扱うべ きかで民族学者は揺れ続けていた。そしてこうした研究もベトナム戦争のため進展しなかった。
戦後は,ベトナム人によるチル集団についての研究発表がなされるようになった。しかしなが
3)本論では,この婿入りする男性を失う婿側に対し,嫁側がその対価として婿側に渡す財を花婿代償と 呼ぶ。
4)そもそもコホー族はチャム族による山岳民に対する他称であった[Brochet and Durnes 1953:57]。
ら,詳細な調査に基づく研究はいまだ公表されていない5)。
そこで本論では,比較検討のための資料としてフランスの極東学院の民族学者ジョルジュ・
コンドミナスのムノン族の一グループ「ムノン・ガル部族」についての研究を用いる。「ムノ ン・ガル部族」はチル集団と隣接するグループである。コンドミナスはサル・ルク村(現ダク ラク省)に約2年間滞在し,葬礼,他界観,婚礼,生誕儀礼,および甕や首飾りによる交換の 実態を克明に記録し,ムノン族の社会を描き出した[コンドミナス1993]。この著作には,コ ンドミナスがムノン・チル部族の中のグループとしているチル・コン・ンドォッ,チル・ッポ ーン・ジャー族等についての言及がある[コンドミナス1993:24−25]6)。これらのグループは,
現在の民族分類ではコホー族に包含されている。従って本稿では,コンドミナスの研究成果と 筆者の調査資料との比較を試みる。
チル集団は,言語学上モン・クメール系バナ語派南バナ語派東グループのコホー諸語に分 類されるコホー族の一下位集団である。チル集団を含めたコホー族の人口は121,967人(1999 年)であるが,チル集団のみの人口は公表されていない7)。フランス植民地時代以前は,2−3 の出自集団で一つの集落を形成し,婚姻も一つの集落内ですることが多く,他集落との婚姻や 交流はあまりなかったという。近年まで焼畑を生業とし,集落の人々によって選ばれたチャウ クワンと呼ばれる威信者が集落を統率していた8)。チャウクワンによる管理の範囲は婚礼,葬 礼,農事,土地など全ての面に及び,土地利用にっいては各出自集団が集落の中で各々の耕作 地を管理していたが,その士地の配分をしたのはチャウクワンである。
5)革命後から現在まで,コホー族を対象としかっチル集団にも言及している研究書は三冊出版されてい る。最初のものは,マック・ドゥウンが編集した論集[M4c Dudng ed.1983コである。編者は,1979 年に統計総局と民族学院が民族確定作業を行ったが,その際チル集団をコホー族に含めた。彼によれ ば,それは政策的な理由によるものであった[M4c Dudmg l983:31−32]。この論集では,ファン・ア ン[Phan An 1983],マック・ドゥウン[M4c Dudng 1983],マック・ドゥウンとグエン・ティ・ホア [Mqc Dudng and Nguyξn Thi Hba 1983],チャン・カーム[Trdn Cam 1983]が,チル集団に言及している。
ファン・アンは,現在コホー族に包含されている二集団,つまりチルとラットに属する出自集団の歴 史を記し,その上で両集団の婚礼と社会組織に触れている。しかし,それらに関する議論は二次的な ものに過ぎず,中心的な考察の対象はあくまで階級闘争とアメリカ塊偲政権の少数民族政策である。
マック・ドゥウンとグエン・ティ・ホアの論文は,チルとラットそれぞれの集団に固有の出自集団の 存在を明らかにした。二っめは,ブーイ・ミン・ダオが編集した論集[BOi Minh Dao ed.2003]である。
この論集は,20年間行われていなかったコホー族研究の空白を埋め,連続性を持たせた。対象はコホ ー族の全集団である。ただし,議論の内容は集団によって異なり,またチル集団については表層的な 考察しかなされていない。三つめは,ファン・ゴック・チェンが編集した論集[Phan NgOc Chi6n ed.
2005]である。本論集におけるチル集団についての記述は,経済と民族分類に関わるものにとどまっ
ている[Nguyen Viet CuCrng 2005;Phan Nggc Chien 2005]。
6)コンドミナスの著作には,ムノン・チル部族と「チル氏族」が登場する。これらは同じ名前のため混 乱しやすいが,前者は,ムノン族の中の一グループをさし,「チル氏族」はムノンの各部族にまたがっ た「氏族」名として扱われている。
7)ラムドン省人民委員会のウェブサイト(http:〃www.lamdong.gov.vn/cdrom/dantoc/dantocldongfbai/
C21.htm)によれば,1989年の統計でコホー族は82,917人,このうちの18,000人がチル集団である。
8)革命後の定耕定居政策によって次第に移動しながらの焼畑耕作は消え,今ではほとんどみられない。
筆者の調査地は,ラムドン省内の3つの県 ダムロン県,ラクユオン県,ドゥクチョン県 である。ドゥクチョン県については拙稿を参照していただきたい[本多2006:19−39]。ラ クユオン県はチル集団が革命前から居住していた県であり,今も多くのチル集団の人々が住む。
ダムロン県は,2004年1月にラムハー県とラクユオン県の各西部が分離して成立した県であ る。チル集団の多くは,ドゥクチョン県同様,戦略村を経て定耕定居したチル集団の人々であ る9)。ただダムロン県のチル集団は,もともとは現ラクユオン県西部に居住していたが,1982 年以降現居住地に定耕定居政策に従って集住した。そこはムノン族のもともと居住していた地 域で,現在チル集団はムノン族と混住している。このチル集団の幾つかが,かつてはコンドミ ナスがムノン・チル部族と呼んだグループである。
コンドミナスがムノン・チル部族と呼んだグループは,ムノン族の文化的影響を受けている 可能性がある。本論では,資料の混合を避けるため,地域で異なる場合には注記をするか,あ るいは収集地ごとのケースを提示することにした。
調査方法としては,ベトナムで現在許可されている村外滞在型訪問調査に従った。つまり,
村外において宿泊し,朝から夕刻まで村内で,任意に各戸を訪問する形式の対面調査である。
調査票などは一切使用していない,期間は2005年から2006年3月までの間,断続的に約4 ヶ月である。調査言語としては,チル語およびベトナム語を併用した。
1他界観と葬礼
この章では,他界観と葬礼の変容を扱う。特に葬礼次第については,聞き取りと実際に参与 観察した事例をあわせて提示し,その変容を明らかにする。
1他界観
チル集団の死後の世界は,二つに分かれている。非業の死(異常死)と,普通の死を契機 とする二種類である。もし通常の死(チョット・ニアムchσt niam),例えば病死や老死であれ ば,その霊魂は死の2,3日前に地下にある死後の世界一ブラティンという管理者のいる世 界 に行く。ブラティンは罪の軽重を量るのである。霊魂が体を離れている間,体中は汗を かき,むくむのである。こうして死を迎えた後,死者の霊魂は地下の死後の世界に囚われの身 となり,地上を放浪することはない。この霊魂は自分の家族の生活をよく導き,子供を元気に すると考えられている。
非業の死(チョット・ブラティンch(rt brating)の場合,例えば,焼畑を開いている最中に木
9)地図については本多[2006:20]の図2を参照。
の下敷きになったり,虎などに襲われたりして死んだ場合,霊魂は地下にある死後の世界に行 くことが出来ず,天界との間にある世界(墓の周囲)に行く。この霊魂は家庭に不幸をもたら
す。
通常死が姻族,親族に属する多数の人が死者の埋葬に参加するのに対して,非業の死の場合 はその家族と血の繋がった兄弟姉妹のみしか参加しない。
しかしこのような霊魂に対する観念は,キリスト教に改宗した50年代後半から61年ぐら いまでには消え去り,現在では非業の死も,通常死も多くの地域では区別なく葬礼を行う10)。
そして霊魂の行方は天と考えられている。
2葬礼から埋葬まで
葬礼では,死者が夫であっても妻であっても,妻側の母方オジ,あるいは死者の息子が葬礼 の管理者となる。管理者は,死者の属する出自集団と自分の出自集団に夫の死を告げる11)。
告げられた同じ集落の人々や異なる出自集団に属する人々は米や鶏などを持ち寄る。これは 死者の出た家庭が催す葬礼での会食を助けるためのものであって,義務づけられたものではな い。現在では金銭やお茶やジュースなど飲み物のケースもある。
この間に死者,あるいは死者の配偶者の出自集団や集落のたくましい若者は,かっては樹を 切りに行って,棺桶を作った。この棺桶の製作には2,3日はかかるが,現在は市場で販売さ れている棺桶を使用するので時間はかからない。それと合わせて,棺桶の中に茶の葉をキン族 に倣って入れるようになっている。納棺の際には,死者が女性の場合は首飾り,男性の場合は 銅鍵や磁器を副葬品として棺桶の中に入れる。また,ダムロン県など一部の地域では,遺体の 上に磁器を満遍なく伏せて置く慣習もあったようである。死者を納棺したら,両足の親指を縛 る。死者をきちんとまっすぐにして埋葬しないと,残された家族の足が不自由になると考えら れるからである。あるいは手を開いた状態にする。これは死者が手に米やトウモロコシを握っ ていると,死後の世界に収穫を全て持っていってしまうと考えられているからである12)。
埋葬に際しては,夫妻のどちらかが死んだ場合であっても,妻側の兄弟姉妹およびその子供 たちが埋葬の準備(例えば埋葬地の選定,墓堀など)を全て行う。以前は,3日から5日後に はじめて埋葬に行ったが,現在では翌日には埋葬してしまう。埋葬場所は,現在は集落の近く の墓地で,婿入りした男性も女性の出自集団に割り当てられた場所である。
10)ラクユオン県ダンクノ社には,区別した葬礼が残っている事例もある。
11)夫側の出自集団が不参加のまま埋葬すれば,妻側の出自集団は,不備のまま埋葬したことに対し豚や 牛,銅鎌などで夫側の出自集団に償わなければならない。
12)コンドミナスの著作にも,理由は記されていないが,同様の慣習が記されている[コンドミナス
1993:411−416]。
墓の高さは,ある地域では5メートルもの高さに達し,その上に酒甕をのせた。また,ある 地域では1メートルに満たない高さで,遺体の頭側に酒甕を置いた。死者の使用していた衣服 は墓の近くで焼却する。そして集落の最長老が神(山の神)に祈るのである。
現在では,教会組織に属する牧師,伝道師が天の神(イエスキリスト)に祈り,賛美歌が斉 唱される。棺桶を埋める際,参列者は,改宗前の慣習と同様に:ヒを棺桶にかけるか,あるいは キリスト教に従って花を棺桶に投げるかのどちらかが選択される。
夫側の出自集団は豚鶏,金銭,服などを交換財として妻側に渡し,妻側はそれに対して,
首飾り,酒甕,磁器などの交換財で返す。この妻側から与える財と夫側から与える財の比率は,
婚礼時に比べて明確ではない。しかし双方ともこれは義務であり,回避することは許されない。
死者を埋葬するまでの間は,死者に食事(酒,ご飯,肉など)を供え13),葬礼の参加者は 夫側の持ち寄った豚,鶏,そして参加者および妻側出自集団の持ち寄った食事の材料によって 作られた料理で,死者の家族からの接待を受ける14)。
埋葬後,死者を出した家庭,例えば夫が死亡したならその妻と子供たちは7日間働きに行く ことはできない(死者の子供のうち独立した男子はこの慣習に拘束されない)。埋葬後第1日 目に墓で死者の遺品を全て夜明け前に燃やす。この時には死者に食事を持参し供え,収穫がう まくいくように,また家族が健康であるように祈る。
これが非業の死の場合は,埋葬の参列者は家族のみであり,他の者は参加しない。また7日 間,家族は外出できず,最後の日に山羊や豚を殺して食べ,その山羊や豚の血は家の様々な部 材に塗り,死者が外で死亡した場合にはその場所に塗り,死者の霊魂が家族に害をもたらしに 戻ってこないようにするのである。
埋葬後8日目の夜明け前,再度夫側,妻側が一羽の鶏を持ち寄って集まり,食事をする。そ して再度墓を訪問し,埋葬後第1日目と同様のお供えをする。この時,死者の家庭が夫側出 自集団に対し債務を負っている場合,その返済が行われる。その債務とは,夫が結婚する際に,
夫の出身出自集団側に渡すことを約束された花婿代償(本多[2006:19−39]参照)が依然とし て債務として残っているケースや,夫側に生前に豚や鶏,水牛などを借りていて未だ返済して いないケースなどが該当する。
埋葬一年後,妻側は夫側を招いて亡き夫の墓を見に行く。この時,もしその墓が沈んでい れば,夫側は墓を掘り返し,亡き夫の骨を検査する15)。もし小指の骨が通常のようになけれ ば,それは寡婦が服喪期間のこの1年の間に他の男性と関係を持ったため,その悲しみで墓
13)遺体の近くに置くだけではなく,死者の口に運んで食べるまねをすることもある(一部の地域に限ら れる)。
14)ある地域の長老によれば,夫側ではなく妻側が豚一匹または水牛一頭を持ち寄る。
15)一部の地域に限られる。
図1 贈与交換と婚姻申込み
が沈んだということの証しとされ,妻側はさらに夫側に対し,牛や豚や銅鍵などで償いをする。
この慣習は,現在も残っている。ただし夫側に対する償いは,金銭(金銭で500−600万ドン,
16,000ドンが1アメリカ・ドルに相当する)によってなされる。
そして1年後の墓への訪問日に話し合いによって,夫に娘がいて,この娘と結婚するのにふ さわしい年齢の男性が夫の姉妹の息子にいれば,彼とこの娘との婚姻が約束される(以上,図
1参照)。
3参与観察した事例(ア死亡事例A区にて:2005年6月 図2参照)
この事例は2005年6月に筆者がドゥクチョン県で観察したものである。アの夫イ16)には 妻と同じ出自集団に属する前妻がいたが,結婚後直ぐに病死したため,子供はいない。さら に死者と結婚したが子供に恵まれなかった。そこでこの夫婦は戦災孤児を養女(以降養女)と した(1966年)。1973年にアの夫は先立っ。その後アは一人で養女を育てた。その後養女は B区に居住する1969年生まれの男性と結婚した(1991年)。養女夫婦はアの家(在A区)でア
と同居し,アは自分の家で死を迎えた(1935年生,2005年死去)。養女夫婦には現在4人の 子供(二男二女)がいる。
アの夫イはこの集落出身ではあるが,ただ一人の血の繋がった妹ロは,異なる県(ドンジュ オン県)へ移住してしまった。このため集落内にいるアの姻族17)はアの長兄サの娘と結婚し た妹ロの息子以外いない。
アの姻族の代表はアの夫の妹であり,その他の姻族は妹ロの息子2人である。妻側の代表は
16)イの両親は革命政権が出来るまでは非常に裕福だったが,革命後共産主義政権下で私有地制度は廃止 され,自己所有地は一切なくなってしまった。なお以下のア,イ等のカタカナは,存命中の人を指す 仮名である。K Put, Ha Je等のローマ字アルファベット表記は,死者の実名の一部である。
17)三親等内姻族のことをチル語でドゥール プロイ ソンバル(dur proi song bal,一緒の一っの腸)。三 親等内血族のことをチル語でドゥール プロイ(dur proi,一っの腸)と呼ぶ。
o婿ア
、1死者の姻族図2 妻(死者ア)側と既に先立っていた夫側の関係図
アの兄サであり,A区の教会組織の指導員であり,老 人会18)の構成員である。
アが死亡した夜,養女夫婦がアの家の近くに住むア の兄サにまず知らせた。アの兄サはA区の教会支部 に知らせた。アの兄サと教会支部,および養女夫婦が 翌日の14時より入棺式を行うことを決定し,別の県 に住むアの亡夫の妹ロへの連絡,および葬礼用の紙の 幕の作成19)を指示した。翌日,養女夫婦は棺桶,棺 桶に入れる茶葉,白い布20)などを自己資金で購入し た(写真1参照)21)。
14時,アは兄サ,および教会の牧師夫婦22),同じ 区に居住する出自集団の伝道師,同じ区の長老で老人 会に属する教会の指導員,およびアの兄サの長女でア の夫イの妹ロの息子の妻,アの姉夫婦力の娘夫婦たち,
そして養女の夫の母,姉妹などが参加して納棺された
(終了時間16時写真2参照)。この時祈祷したのは 同じ出自集団の伝道師であった。その後賛美歌を歌い,
写真1 棺桶などの領収書
写真2 キン族式の棺桶に入れられた死者 18)ベトナム赤十字社の組織する高齢者親睦団体。
19)アの姉夫婦力の四女の夫が行った。
20)かつては死者を白い布で覆う際には,その布は彼らが織ったものであったが,この葬礼では市場で購 入したものとなった。
21)棺桶1,800,000d,豚3ソダム1,000,000ドン,白布40,000ドン,蝋燭20,000ドン,十字架150,000ド ン,茶葉70,000ドン。全て養女夫婦が負担する。1ソダムは親指と人差し指を広げたときの長さを一 とする単位。一方,参列者の拠出金は約900,000ドンのため,葬式を行うと赤字となる(表1参照)。
22)この牧師の妻はアの亡夫イと同じ出自集団に属する。牧師はこの村に一人のみで,村の宗教組織の最 高位に当たる。
牧師が参列者に祝福して終了した。最後に翌日の朝8 時葬礼開始と決められた。
納棺の翌日の朝,連絡を受けた村内の死者の出白集 団に属する者,死者の亡夫と同じ出自集団に属する者,
死者の娘婿の出自集団に属する者を中心とした参列者 が各自,米やお茶,その他表1(本文末参照)に見ら れるようにさまざまなものを持って集まってきた。時 間になると,家から外の会場に棺が出され,棺の蓋が 釘と接着剤で閉じられた。葬礼の進行はA区の教会 支部が中心になって行われた。実際の進行役はA区 に居住するアと同じ出自集団に属する伝道師である。
葬礼は祈祷,讃美歌,聖書朗読,説教で構成された。
牧師は2名が参加した。1名はこの村の教会の最高位 にある牧師で式の進行を管理し,もう一名はこの村か らの移住者が多い地区を管理する牧師で,この村の牧 師が招いた。
A区には幾つかの出自集団があるが,葬礼を行う場 合,その故人の出自集団に属する教会関係者が進行役 を勤める23)という(写真3参照)。
この進行役である伝道師は,祈祷,賛美歌の選定,
聖書朗読を行うなど中心的役割を果たした。まずこの 村の牧師に招待された他地域の牧師が説教を行い,
た。次にアの姉夫婦力の娘三人が賛美歌を歌い,
写真3 牧師2名と伝道師(右)
写真4 弔辞を読む姉夫婦力の子供 (一男六女のうちの第四女)
この地区の教会支部の賛美歌斉唱が行われ さらにアの姉夫婦力の四女の夫が自分の息子 とともに賛美歌を歌った。この間,アの姉夫婦力の娘夫婦や養女夫婦の指示の下,アの姉夫婦 力の孫たちは埋葬後の会食の準備をしていた24)。そして妻側出自集団の代表としてアの姉夫 婦力の娘25)が故人の生涯,その子孫46名と故人との関係を弔辞の中で紹介した26)(写真4)。
23)婚礼の場合も同様である。
24)会食の準備をしていたのは,孫たちである。その作業を指示していたのが養女夫婦である。
25)娘の中で,人前で話すのが一番上手な者が選ばれている。アの姉夫婦力の子供一男六女中の第四女。
彼女は村の婦人会のリーダーを勤めている。
26)読まれた弔辞は次のとおり。〔〕は筆者による注釈である。「R村A区プロテスタント教会Ko Si支部。
ご主人の名前はLomu Ha N〔1973年死亡〕,ラクユオン県キルプラニョルハ社Ko Siにて1910年に 生まれた。ご主人は奥さんKon So K S〔1935年生まれ〕を婆った。家庭内ではK Siの父,母と呼 ばれていた。改宗したのは1957年7月5日。そして1959年12月30日に洗礼・瞳罪(Bap Tem)を 受けた。Ko Si教会の建設と発展をするため夫婦の家庭はとてもよい指導をし,教会を祝福し,信徒
熱、,
三㌢ぷ
写真6 埋葬に向かう葬列
写真5 B区に居住する伝道師
この弔文を作成したのは,アの兄サが指名した教会支部の書記係で,彼はアと同じ出自集団 に属しアの兄サを母方オジと呼ぶ。そして村の最高位にあり,かっA区を管理する牧師が説 教を行い,最後に,アの娘の夫の出身地であるB区に居住する伝道師が説教,祈祷した(写 真5参照)。
続いて埋葬に行く準備が始まった。先頭で十字架を担いだのはアの姉夫婦力の次女(死亡)
の夫であった。次にアのイトコの男性が花を持って続いた。棺は養女の夫が先頭になって担い だ(写真6参照)。
葬列が到着するまでに,墓地ではアの孫たち,すなわちアの兄サやアの姉の孫のうちの男子 が墓穴を掘り終えていた。墓は両親の墓の近くか,母方オジの近くと決められており,死者の
を祝福することで有名だった「K Siの父」の兄弟(1σtom)であるHa Kは教会を祝福する,信者たち を祝福する指導者であり,人々は彼のことを指導者「K Srの父」と呼ぶ。彼は1957年から2005年 の現在に至るまで教えている。1979年2月に成立したRIA区プロテスタント教会Ko Si支部は今日 2005年で26年になった。夫婦は有名で,かつ裕福であった。彼らはまだ若いときに一生懸命働いた。
地を耕し,田を耕した。そしてその土地もすでに娘,息子,婿に与えた〔実際には喪主でもある養女 に与え,養女が叔母の娘たちにいくらかを与えた〕。二人はすでに第一子,K Siのために結婚式を執 り行い,K Siはすでに男女一人ずつの子をもうけている。第二子である娘K Soはすでに結婚し3 人の娘と一人の息子を持つ。第三の娘k Bも結婚しすでに6人の娘と3人の息子を持つ。第四の娘 K Lも結婚し男女2人ずつの子を持つ。第五子K Nも結婚し一人の息子と4人の娘を持つ。第六子 K Sraも結婚し男の子がいる。〔第七子は息子〕第八子はK Rで結婚し3人の男と一人の娘を持つ。
これらの家庭には7−,嫁,婿,孫,ひ孫…この夫婦の娘とその婿は総勢16人,孫,ひ孫は30人〔15 人の女と15人の男〕。総数は46人。これらはこの夫婦が神からいただいたのであり,イエスキリス
トは,家族を,いいかえればR村A区プロテスタント教会Ko Si支部を助ける。神様,有難うござい ます。我がR村A区プロテスタント教会Ko Si支部の指導者の方々有難うございます。アーメン」。
この弔辞からもわかるように,死者にとっての子供は自分の姉夫婦の子供も含むのである。その子 供たちは母の姉=伯母を「母」(正確には「大きい母」)と呼ぶ。またR村A区はかつての集ts Ko Si であり,同時にKo・Siという教会支部になっている。
頭は東側に向けられる。
ロ ■
埋葬式の進行役は,娘の夫の出身地(B区)に居住 する伝道師である(写真7)。
棺を墓穴に入れたあと,伝道師が墓の頭側にアの姉 夫婦力の娘息子夫婦,および葬列で花を持ってきたイ トコの娘息子夫婦など,その背後に同じ区の出自集団 に属する人々を並ばせた27)。この村の最高位の牧師 が神に祈祷したあと,教会の聖歌隊と参列者が賛美歌 を歌い,故人アの娘の夫の出身地(B区)に居住する 伝道師が故人に祈りを捧げる。アの婿の母やオバたち はこの列には並ばなかった。最後に参列者が故人と別 れを告げた。その際に,各参列者が墓穴に入れたのは,
十の塊であった(写真8)。全員が十の塊を入れ終え ると,最後に伝道師,続いて他地域の牧師が祈り終了。
墓はスコップで十がかけられ,最後に1メートルも 満たない高さの盛士を作り,完成。その後,この村の 教会の最高位にある牧師が祈祷して終了した。終了後,
参列者に対して,養女夫婦が購入した豚を用いた料理 と,参列者の拠出した米で焚かれたご飯で会食の席が 設けられ,昼近くまで続いた。
埋葬翌日,慣習に従って夜明け前の朝5時ごろに墓 に向かう。夜明け前に行く理由は,次のように説明さ れた。「夜明け前は睡眠時間であると同時に墓の周り に霊魂がいる時間である。従って,霊魂に会いに行く のは夜しかない。逆に夜のうちに墓に行ったら家には 必ず夜明け前には戻ってはいけない。夜が明けてはじ めて帰ることが出来る。夜明け前に帰れば霊魂がその ままついてきてしまうからだ」。
写真7 中央が娘の夫の出身地 に居住する伝道師
写真8 上をかける参列者たち
写真9 埋葬翌日の儀礼参加者
参加者は養女夫婦,アの姉夫婦力の二女夫婦のみであった。墓のすぐそばで故人の使用して いたゴザや衣服,ベッドを焼いた(写真9)。
27)この時アの写真を持っていたのは,アの姉夫婦力の長女,三女,そしてアの養女である。その隣には,
アのイトコの息子が並んだ。
写真10 7日目の儀礼参加者
そのうちにアの姉夫婦力の四女,五女夫婦,
た末男子夫婦もやってきた。この時四女夫婦の長男(1985年生)
年生)は結婚しろとからかわれていた。これは二人の関係が規定的交差イトコ婚をする関係に あるからである。結局,墓地での儀礼終了後,アの姉夫婦力の遠方に住む六女夫婦を除いた全 ての娘息子夫婦と,アの兄サの妻の弟,アの兄サのイトコの子供,養女の夫の母などが集まっ て会食となった。
一年後,アの出白集団は慣習に従ってアの夫の妹とその息子を招き,墓を検査した。この時,
アの夫の妹は鶏,豚米,衣服をアの出自集団に渡し,アの娘養女はアの夫の妹に対して磁器
(jσlu ch(miuhan),甕(yang boh om),首飾り(nhong pra ha yang)を渡した。
以上の聞き取りと参与観察から,葬礼について以下の大きな変容があげられる。
1)他界観の変容一非業死と通常死の葬礼の区別の消滅。
2)葬礼で持ち寄る財の変容一米,鶏,酒などから金銭やお茶やジュースなど飲み物へ変化。
3)埋葬方法の変化一棺桶の製作から購入へ,副葬品(酒甕の消滅)などへ変化。
4)葬礼期間の短縮一3日から5日後の埋葬から翌日の埋葬。
5)教会組織による式の執行。
これらの変容の要因としては次の3っが挙げられる。改宗(1962年),迷信撲滅運動(1970 年代後半)と1991年に交付された閣僚評議会議定69号「宗教活動に関する規定」などの宗 教政策および経済政策(ドイモイ,1986年一)である。
まず,1)と5)については改宗が上な要因である。1)については他界観がまったく変わって しまったわけではない。埋葬後の7日間の禁忌期間は依然として存在し,その間霊魂が墓地に 存在することは多くのインフォーマントによって語られる。しかし,かつては埋葬一年後の検 査終了後は,墓は放棄され訪問することもなかったが,改宗後は毎年クリスマス前に墓を掃除
しに行くのが慣習となっている。
2)と3)については複数の要因がある。表1を参照するとわかるように,喪家の記録では贈 与財の中に酒類がまったく見られない。かって参加者は,葬礼のときにかつてはお金というも
7日目の朝5時,再度墓場に行く。禁忌明けを告げ る儀礼である。この時の参加者は養女夫婦,アの姉夫 婦力の二女夫婦,アの兄サである(写真10)。墓の清 掃をし,アの兄サが祈りを捧げて終了。アのイトコの 娘とその婿が墓地の近くに迎えに来た。そして家に帰 りアの兄サの祈りのあと,アの兄サをのぞいた男二人 が鶏一一羽,アヒルニ羽を捌いた。このうちのアヒルー 羽はアの姉夫婦力の三女夫婦のものである。
同区に居住していない,アの姉夫婦力の婚出し と末男子夫婦の長女(1997
のがなかったので,米や酒を持ってきた。しかし1957年ごろ28),改宗者が増え,飲酒を禁止 されたその者たちは酒を持ってこずにお金を持ってくるようになった。それから皆,お金があ ればお金,米があれば米,鶏があれば鶏,首飾りがあれば首飾りを持ってくるようになった。
そして会食時に酒類は消滅し,茶やジュースがそれにとって代わったのである。これは婚礼の 際にも同様であることを拙論[本多2006:19−39]のなかでも指摘した。酒類の消滅とともに 酒類を作るための甕も必要がなくなりっっある。その結果,副葬品として甕を供えることもな くなった。埋葬方法にっいては棺桶の使用が増えたのは,ドイモイという経済政策で現金収入 が増えたからである。この収入源は周辺のキン族の農家への就労,商品作物(コーヒーや柿)
の作付けによるものである。
4)の葬礼期間の短縮は,迷信撲滅運動と閣僚評議会議定69号に起因する。これらは,社会 主義政権によって全国的に進められたもので,高岡弘幸[1999:117−132]がキン族の葬送儀i 礼で指摘したように,少数民族の場合も,特に期間短縮については例外ではなかった。期間短 縮の理由は,従来の期間で消費される金銭が浪費であり,正当な経済活動を妨げるともみなさ れているからである。
変化していない点としては,次の点が挙げられよう。
1)埋葬後の禁忌期間とその期間の霊魂観。
2)1年後の儀礼の存在。
3)儀礼の執行における母系原理の重視,つまりかつての長老の役割を果たしている伝道師 を,母系原理に従って出自集団を選定基準として選んでいることである。また,葬礼は故人の
.
実の娘の所属する出自集団の伝道師,埋葬式については故人の娘の夫の所属する出自集団の伝 道師と分担が決められている。この分担の事例は他にもある。未婚の子供の病死のケースだが,
コ ゆ .
葬礼は母の出自集団の伝道師,埋葬式は父の出自集団に所属する伝道師が行った。また,生誕
儀礼でも出生した子の出自集団,つまり母の出自集団に属する伝道師が儀礼を執行するという 原則は貫かれる。これは女性側の出自集団がまず男性側の出自集団を接待し,男性側が返礼を するという婚礼の形式と同様である。
母系原理に従えば,婚入した男性は妻側の出自集団における地位は低いが,出身の出自集団 に対しては依然として権威を持ち続ける。いわばこの葬礼のケースは,男性が自らの出身出自 集団の代表者の役割を果たしているのである。そして婚出した男性は,その妻の出自集団に編 入され妻側の出自集団の墓地に葬られる。しかし男性は同時に自分の出身の出自集団にとって は権威者であるから,その出自集団が葬礼から埋葬までの監視し,そして最後に死者に対する 敬意を表するために埋葬式を管理するのである。
28)戦争を避けて山から平地に降りてきた年である。
4)規定的交差イトコ婚の存在。参与観察の事例で四女夫婦の長男(1985年生)と末男子夫 婦の長女(1997年生)が結婚しろとからかわれていたことは,この二人が規定的交差イトコ 婚の関係にあることを示している。この4)をふまえて,次章ではまず葬礼で財を持ち寄る人々 を分析し婚礼の事例と比較するとともに,前述の変化していないもののうちでも特に,交差イ
トコ婚の存在についても検討する。
II葬礼における贈与交換
ここでは葬礼で行われる交換の具体的事例を参照しながら,すでに報告した婚礼での事例
[本多2006:19−39]と比較する。既婚男性の死亡の場合,既婚女性死亡の場合の葬礼を具体的 事例,あるいは聞き取りによる死亡を想定して得た事例で提示する。ただ各々の事例で情報量 の多少によって内容にばらつきがある。
事例11聞き取りによる既婚男性の死亡事例(イ死亡事例,想定,図3,4参照)
この事例は,ラクユオン県ダサール社で収集した。この地には,現在ドゥクチョン県に居住 するグループが住んでいた。従ってインフォーマントは,1960年代初頭にドゥクチョン県に 移住したグループと交流関係がある。
この事例は,インフォーマント自らが死亡した場合を想定したケースである。イがインフォ ーマントである図3,4についてはイの実際の血族,姻族の構成から作成した。
まず,イの子供は全て結婚し,イに母方オジはいない。イの両親はすでに死亡している。イ
妻側
○
凹
図4夫側
図3,4 イの姻族と血族関係図
が死亡するとイの長男,長女が葬礼の全てを管理し,長女の夫が実際の仕事をする。死者の遺 した金銭で棺桶を購入する。これで不足すれば長女夫婦がそれを補い,それでも足りなければ 長男が負担する(以上,図3参照)。
死者イの所属する出自集団の代表者は,この場合,イが長男だったので,生存している兄弟 のうちの最年長者である次男である。次男はイの死を確認し,イの葬礼が万事滞りなく行われ ることを監視する役割を持つ。
イの兄弟姉妹は豚,鶏金銭を,またかってオバは
衣服(Ui sran, ao,写真11)29)を葬礼に参加した際に イの長女夫婦に渡すことが義務付けられていた(義務
=d㎝gkol)。イの兄弟が提供する財は実質上,その 配偶者のものである。この財を拠出する義務も,自分 の妻がイの妻と同じ出自集団に属するのであれば,義 務を免れる(以上,図4参照)。
イの兄弟姉妹が拠出した財はイの妻イ に渡され,
その返礼としてイ が,夫妻の実子,妻側の兄弟姉妹
写真11Ui sran(サイズは約160×130 センチメートル)
(図3)の準備した首飾り,甕,磁器を夫の弟(次男)の目の前で夫の妹(長女)に渡す。夫 イの弟(次男)の監視下の元,夫の妹(長女)が,これらを受け取る権利を持つ自分の妹たち,
死んでいればその娘(図4)に分け与える。この際オバ(K Putの妹,図4参照)は受け取る 権利はない。オバの渡す財すなわち衣服は,死んだイの母の代わりとして渡す財であって,そ の性質が異なるのである。
一方,妻側で婚出している妻の兄弟,息子,あるいは妻の母方オジ(現在すでに死亡)が豚 や鶏を拠出した場合には,イ は後日それと同じものを返却しなければならない。これは,そ の財が実際にはイの出自集団のものではなく,兄弟,息子,あるいは妻の母方オジの配偶者の
ものだからである。
イのi妻であるイ も死亡した場合は,イ=イ 夫妻の長女の夫が,その財産の管理権,優先権 を持ち,もし財産が多ければ他のイニイ 夫妻の娘にも分け与えられるが,それを決定するの は長女の夫である。但しその分配は長男が監督する。この監督という仕事は本来母方オジの仕 事だが,このような相続が発生する時点では,母方オジが高齢であることが多い。そのため,
長女の夫が母方オジの代理として実行するのである。この婚出した兄を妹たちはチル語で「母 方オジの息子(la kon k6n)」と呼ぶ(図3参照)。
29)インフォーマントによれば,衣服が贈られたのは仏領期になる前の話だという。
事例2:聞き取りによる既婚男性の死亡事例(」死亡事例,事実1977年,図5参照)
この事例はダムロン県(1日ラクユオン県)で収集した。1957年生まれのインフォーマントが,
自分の結婚(1979年)の2年前に死んだ父の葬礼の事例である。従って,本事例はegoをイ ンフォーマントとして記述する。父の両親はすでに死亡している。妻側代表者はインフォーマ ントの母であり,夫側代表者はインフォーマントの父の弟,すなわち叔父である。
父の埋葬後8日目に,叔父夫婦(夫側代表),その息子夫婦,娘夫婦の3組の夫婦が夫側の 財の拠出者となり,鶏,豚,蛇,現金を準備し夫側代表を通して妻側代表である母に渡した。
夫側拠出者の中で,叔父だけが父と同じ出自集団に属する。
一方,母側出自集団は母の兄弟姉妹の夫婦たちが財の拠出者となり首飾り,磁器を準備し,
母側出自集団代表たる母に渡し,母から父側出自集団の代表である叔父に渡された。しかしこ の母の兄弟姉妹の夫婦は財の拠出者でありながら,兄弟の配偶者と姉妹の配偶者とでは役割が 異なる。すなわち,婚出した母の兄弟は自分の妻と協力して財を準備する義務(d㎝gkol)が ある。一方,姉妹の配偶者はその財の拠出については任意であり,もし姉妹に財産がなければ
ゆ ロ
援助(drom)をするだけでよいといわれる。その援助とは,葬礼での会食用の食材である米,
豚,鶏,他にお金,甕,錠である。この援助について母側出自集団の代表たる母は返礼の義務
はない。
父の子供も財を準備する義務はない。実際に三人のうち,既婚者は兄だけだったので,兄が 援助をするのみだった。未婚者の自分(弟),妹は何もする必要がなかった。一方,母側出自
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未婚であれば交換財の準備など何も義務 はない。しかし努めて父の出自集団に属す る若者と結婚しなければならない。
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図5 死者の姻族と血族関係図
集団の代表たる母は,義務を果たした自分の兄弟に対しては必ず返礼をしなくてはならない。
事例1と事例2の聞き取りから,次の原則が明らかである。
1)贈与される財には,義務(d㎝gkol)と援助(drom)という二つの性格のものがある。そ してその性格によって,財の種類が分けられる。前者の場合,贈与者は決められた財の種類,
鶏,豚蛇,現金の種類の中で財を自由に選択可能だが,後者の場合は,その財の種類は葬礼 での会食において消費されるものである。
2)夫側,妻側の出自集団で交換財拠出義務のある者は,兄弟姉妹の夫婦である。っまり,
義務のある者は故人と同世代で,血族(dur proi,三親等内)中の兄弟姉妹関係にある者に限
る。
3)夫側,妻側の出白集団で,兄弟が財を準備した場合には必ず同じもので返済しなければ ならない。これは兄弟の拠出する財は,各々の配偶者の財とみなされるからである。
4)夫側出自集団で故人の兄弟でもその配偶者が故人の妻と同じ出自集団の場合には,財の 拠出義務は消滅する。これは義務者である男性の実質上の財の拠出者はその配偶者となるから,
受贈者と重複するため,義務が相殺されるのである。
5)夫側出自集団の財の受贈者は故人の姉妹に限られる。
6)三親等内の血族でも故人の子供たち,兄弟姉妹の子(すなわち卑属)は,既婚者であっ ても援助をするのみで,未婚者にいたっては何もしない。
7)両親が死んだ場合,その財は長女の夫が財産の管理権,優先権を持つ。
上記のように,聞き取りでは明確に財産権は女性に限られている。疑問点としては,次の3 点が残る。第一に,財の授受については両出自集団の義務者の範囲が極めて限られること,第 二に,婚礼のときのようにその財の交換が不均衡なものなのか,あるいは均衡なのか原則がつ かめないこと,第三に,花婿代償のような明確な交換の意味づけもないことである。
以上の原則と疑問点を確認した上で,参与観察に基づく事例3を検討する。
事例3:参与観察による既婚女性の死亡事例
本事例は事例1や2のように夫が死亡した事例ではなく,第1章の夫に早世された既婚女性 の死亡事例である。この事例は,贈与交換の財の拠出者,および受贈者を図6,表1を用いて 検討すると同時に,それ以外の援助の拠出者についても検討する。
表1は,葬礼の当日,故人の娘婿が記録したものから筆者が作成した。表1の中の[人間 関係]では,贈る者とその故人との関係,あるいは表中の人間関係を記してある。表1の各拠 出者の延べ人数は91名。表のナンバーは記録時に書かれた順番であり,それは財を持参した
塁ム・〕
図6 表1に基づく故人との関係図
順でもある。なお,以下の丸カッコ内の数字は図および表の中の番号に対応している。
まず,財の拠出義務(dcmg kol)者を上述の原則をこの事例に当てはめると,表1の中では ごく僅かである。義務者は,夫側出自集団で夫の妹(62),妻側(死者の)出自集団で故人の 実兄(4),姉(既に死亡)のみである。死者の姉が死んでいるため,その子供たち7人のうち,
その長女(6)と長男(2)が代理となる。しかし夫側に一人しか義務者がいないため,妻側 の義務者は故人の実兄のみになった。表1の86は首飾りを拠出している。彼は早世した故人 の夫の前妻のイトコで,故人のハトコであり,義務者ではない。そして首飾りは夫側の受領資 格者もいなかったので,故人の娘夫婦に一旦受領されたが,後で返却された。
本事例は老衰による死亡のために,死者に対する義務者の多くが死に絶え,極端に支払義務 者が少なかったために交換自体がわずかだったのである。そして死者の養女夫婦が死者の全て の財産を既に生前に継承し,父の出自集団に対する債務もなかったので上記の事例を除いては 一切返礼が予定されなかった。
贈与者91名の中には村の教会組織およびその関係者等11名も含まれている。91名から 上述の義務者を除いた残りは,全て援助者となる。ここに婚礼と大きな違いがある。婚礼の場 合は,参加者は,新郎新婦の両親,あるいは母方オジ等によって決定され,招待状が必ず作成 されるので全て把握されている。しかし葬礼の場合には,援助者は各自の認識によって決まる。
従って葬礼への参加者の把握は,主催者側(死者の養女夫婦)にはできない。第二の大きな相 違点は,葬礼での贈与交換は婚礼のときほど重要ではなく,逆に援助(drom)が中心として行 われるという点である。第三の相違点は,婚礼で行われるような交換の原則,すなわち夫側の 出自集団の財1に対し,妻側は1.5以上の価値で返さなければならないという原則は消え,等 価でよいとされる。こうしてみると,婚姻での交換と葬礼での交換はまったく性質が異なるも
のであるといえる。婚姻では男性の対価としての首飾り,甕,銅鍵すなわち花婿代償であり,
それは同時に双方の出自集団が血義を結んだ証であった。しかし葬礼では象徴的な代償の意味 合いは存在せず,等価の交換に限られるのである。この点について何人かのインフォーマント は次のように答える。この夫側の出自集団からの財の提供は,たとえ等価であっても,首飾り などが必要な夫側の出自集団の一部の成員にとっては重要な交換の機会であると。これは裏を 返せば葬礼での交換は,強制的な等価の物々交換の機会であるといえよう。
筆者は,葬礼の調査以前には,婚礼の場合と同じように葬礼での贈与交換について書かれた ノートの存在を信じて疑わなかった。婚礼のノートはさまざまな公の書類,例えば土地使用権 証書や家族簿,人民証とともに大切に保管されている。しかし,葬礼のノートはほとんど存在 しない。また記録をしない理由が「重要なものではないから」と多くの人が答えたことが,象 徴的な代償の意味合いは存在しないことの傍証となるであろう。
m新たな婚姻への道
埋葬後の禁忌期間とその期間の霊魂観,1年後の儀礼が現在でも存在するのは,第1章で述 べたとおりである。この1年は配偶者の服喪期間であり,この間に死者の配偶者が異性と関 係を持てば,死者の出自集団によって罰せられる。つまりこの服喪期間中,死者側の出自集団 は死者の配偶者を拘束する。そしてかつて(戦略村以前,つまり改宗以前)は夫あるいは妻が 死んだ場合,夫が死んだ場合にはその兄弟,妻が死んだ場合には姉妹がいると,夫が妻より年 長であるという条件に反していなければ,強制的に結婚させられた。この場合の婚姻申し込み は,通常の婚礼と同様,嫁側からという原則に従って行われる。もし再婚の候補者の資格が満 たされなければ,次は世代が下がって子供の番になる。これは死者の娘が父の姉妹の息子に対
図7 母方交差イトコ婚の図
して婚姻の申し込みをするという「母方オジの足に従って」と呼ばれる形式(母方交差イトコ 婚)で行われる。母方オジは自分の娘の婚姻の対象になる甥をコモン(komon)と呼ぶ(図7 参照)。このコモンと娘との結婚は「最も美しい結婚」と呼ばれ,結婚の理想像と考えられて
いる。
そのコモンの世代でも資格を満たすものがいなければ,さらに死者の娘の子供の代,すなわ ち孫娘の代に譲られる。そしてさらにそれでも条件が満たされなければ,父と同じ出自集団に 属する男性が対象になる。この婚姻も「美しい結婚」と呼ばれる。このようにチル社会では,
レヴィ=ストロースの主張する集団間の交差イトコ婚が行われている。集団間とはすなわち出 自集団間のことであるが,これは上記のように3つの選択肢のうちの一っである。実際にこの 婚姻の事例が参与観察した事例の養女夫婦である。養女の母の妹の夫が死亡後,1991年に養 女はその夫と同じ出自集団(A)に属する男性と結婚したのである(図8参照)。この他にも 死者の夫(出自集団B)が死んでから,死者の姉の四女が死者の夫と同じ出自集団の男性と結 婚している(1981年)。
このような婚姻の形態の目的は,数人のインフォーマントは,債務保証のためと説明する。
一般的に債務は花婿代償の未払い分と生活のための豚や鶏,水牛などの二種類に分類される。
前者は通常死亡後8日目に返済することが義務付けられている。事実,筆者の聞き取りで,結 婚後1年を経ずに夫が死亡したケースでも,埋葬後8日目には花婿代償の残債の支払いがな
されている。つまり債務保証は,夫側の出自集団に豚や鶏,水牛などを借りているケースであ り,もう一つの理由として挙げられるのが,財産の維持である。彼らの社会では格言で「男は 売買,女は管理」といわれるように財産管理権は女性にある。従って一家庭の財産形成に貢献
[コ舶集団A 口出自集団・
者母死
*慣習法では男子が実父の出自集団出身の女性と婚姻することは禁止されていたが、革命後、恋愛結婚が増え、
この慣習法は崩れつつある。彼らによるこの婚姻の許可理由は2の実父と妻関係がたどれないほど遠いから許さ れるという。こうした変化は、循環婚システムの崩壊ともいえる。これについての検討は別稿に譲る。
図8予期される交差イトコ婚関係図
した男性が死んだ時点で,男性側の出自集団は,彼が形成した財産の恩恵,例えば婚礼での花 婿代償の支払いに困ったときの借財や,日常生活における物品の貸借の申し込みの容易性にあ ずかれなくなってしまうのである。そして聞き取りでは,男性側の出自集団はこのことを常に
「不公平である」と感じている。しかし「母方オジの足に従って」と呼ばれるシステム(母方 交差イトコ婚)によれば,Aが築いた財産がAの娘とBとの婚姻時に花婿代償として,そし てBが築いた財産はBの娘とCとの婚姻時に戻ってくるのである(図7参照)。
仮にAが生きている間にAの娘が夫の出自集団と「母方オジの足に従って」と呼ばれる形 式で結婚していれば,事例1で示したように死者の娘婿が財産の分配決定権を持つので,Bの 出自集団は安心して債務の返済を待っことが出来る。しかし,Aが死ぬまでに新たな婚姻関係 がなければ,この死亡後1年目までの話し合いがAの築いた財産の分配を直接得るための有 効な最後の機会となるため,非常に重要となるのである。
この交差イトコ婚のシステムは,恋愛結婚が増えてきたとはいえ,現在でも依然として残 っている。それを物語っているのが,第1章の参与観察の事例で指摘した,末男子夫婦の長女
(1997年生)は四女夫婦の長男(1985年生)と結婚しろと自分のオジやオバから言われていた 事例である(図8参照)30)。また,交差イトコ婚の事例は2006年12月に実際に同集落であっ
た31)。
チルの婚姻と交換財の関係について図7にもとついて説明すると以下のようになる。チル集 団の慣習においては,婚礼時には花婿代償として嫁側が婿側に婿側よりも多くの交換財を渡す ことを強要される。Aとその妻の婚姻時には, Aの婿入りした出自集団側,つまり嫁側(Aの 妻,娘側)が,Aの出自集団側により多くの交換財を贈与したが, Aの娘とBの婚姻時にも引 き続き,Aの配偶者側の出自集団が自らの財を拠出して交換財を多く渡すことになる。
Aが蓄…財していれば,Aの配偶者の出自集団は, BとAの娘が結婚し,交換財をより多く渡 すことで,Aの蓄財の贈与を行う。こうすることによって既述した婿側(A)の出自集団の不 満を解消し,一方,Aの配偶者の出自集団としては,能力のあるAの甥を婿入りさせること によって自らの出自集団を維持,発展させることができると考えるのである。しかし逆にA が何も財産を残さず死んだ場合,Aの妻側の出自集団は, Aが成すべき義務を果たさなかった
ことに対して不満を持っため,BはAの娘の第一イトコであるにもかかわらず,結婚申込み をしてもらえない可能性も出てくるのである。そしてAの娘はBと同じ出自集団内で適切な 相手を探すことになる。
30)末男子夫婦の長女が「まだ小さいのに結婚なんか出来ない」とぶつぶつ文句を言っていたが,四女夫 婦の長男はなんら違和感をおぼえておらず,「あと7年ぐらい待てばいいんだ」と真顔で言ったのが 印象的であった。
31)筆者の調査許可期間を経過して行われたので,実施状況を確認できていない。
IVチル集団と「ムノン・チル部族」
コンドミナスがムノン族の「チル部族」と呼ぶグループは,筆者がチル集団と呼ぶグループ の中に含まれる可能性がある。それは,筆者がチル集団と呼ぶグループ内にチルと呼ばれる出 自集団が,いくつもの小さな出自集団に分かれて存在し,出自集団名はコンドミナスの指摘し た「チル部族」と共通のものもあるからである。ダムロン県に居住するムノン族の「チル・ム ップ」と呼ばれる集落の長老(出身出自集団チル)は,チル集団と彼らをランビアン山に起 源を持つ同じグループとみなしている。しかし,彼らとチル集団の相違点を次のように語る。
「チル(集団)は女が婚姻申し込みをし,ムノンは男が申し込みする」と。また,婚礼につい ては,「ムノン(族)は双方が5ソダムの豚を一頭ずっ持ち寄ることができれば婚礼ができる のに対し,チル(集団)は}・分な交換財 首飾り,銅鍵,磁器,甕 がなければ婚姻が行 われない」という。ムノン族のチル・ムップ村に居住するチルの出自集団出身の長老にとって,
チル集団は起源が同じで,一部慣習が異なる人々を指しているようである。このように,同じ チルという言葉を出自集団名として持ち,人民証明書で姓として使用する人々でも,慣習や自 意識も異なるケースがある。このような相違点が地方差なのか,民族差なのか,それともエド モンド・R・リーチの言うように「『一つの部族』なる文化的実体が存在するに違いないとい
う公理」が「民族誌的虚構」[リーチ1987:331]なのかを検討するのは,今後の課題である。
次に,本稿で扱った他界観については,コンドミナスの著作の第4章で詳述されているが,
彼が記録したユ949年には存在した儀礼を執行するシャーマンは,現在はもう存在せず,記録 されているような儀礼はもうない。これは第1章で触れた迷信撲滅運動と改宗によるものであ る。特にシャーマンについては,迷信として強く禁止されてきている。
また,コンドミナスが記録している「他界での媒介者となる炭」は,危篤状態になった者の 枕元に置かれ,あの世にいる危篤者の魂とこの世にいるシャーマンとの会話を媒介する役割を 果たす[コンドミナス1993:209]。これは筆者が1998年調査したラムドン省のマー族と共通
しているが,チル集団では現在の長老に聞いても「他界での媒介者となる炭」についての記憶 にはない。
コンドミナスの著作の第4章で扱われている葬礼は「チル氏族」についてのものであるので,
埋葬方法は注8で述べたようにダムロン県に現住するチル集団と類似する点もある。しかし聞 き取りのデータと比べれば,もはや現在葬礼では,記録されたものの中で残っているものはほ とんどないと言ったほうが正確であろう。
興味深いのは,コンドミナスが残した葬礼後の財産分配についての記録である[コンドミナ ス1993:446−457]。ここで,死者(既婚男性)の管理していた財産全てにっいて,その来歴が 調べられている。描写された財産とは,死者と妻が形成し,所有していた財産だけでなく,管