Kyushu University Institutional Repository
アンドレ・ジッドの小説美学 :『若い作家への助 言』解題
小坂, 美樹
大阪大学 : 非常勤講師
https://doi.org/10.15017/2556319
出版情報:Stella. 38, pp.265-278, 2019-12-18. 九州大学フランス語フランス文学研究会 バージョン:
権利関係:
アンドレ・ジッドの小説美学
──『若い作家への助言』解題──
小 坂 美 樹
ジッド研究の泰斗クロード・マルタンは,1993 年の来日時におこなった講演 のなかでジッドの「未刊作品」について次のように語っている──
完成した原稿はきわめて性急に出版したい質たちであったし,死後出版にかかわるであろ う者たちへの強い不信感もあったため,ジッドは引き出しに重要なものは何も残しま せんでした。1951 年〔没年〕以降,いくつかの短いテクストが見つかっていますが,
その大半は資料的・伝記的な意味はあるものの,真に文学的な価値は高くありません。
しかし 2 つの例外があります。そのひとつは,1956 年『新フランス評論』において公 にされた『若い作家への助言(Conseils au jeune écrivain)』。ここにはジッドの文学 観と文学倫理が端的にまとめられているのです。 1)
引き出しに残っていたこのテクストは,公表から 36 年を経てようやく 1992 年,
プロヴェルブ社より小冊子『若い作家への助言』として『文学における影響に ついて』(1900 年ブリュッセルでの講演)とともに収められた 2)。その序文でド ミニック・ノゲーズは,遺稿と講演録という性質の異なるテクストを「影響」
という語のもとに併録したと述べている 3)。『文学における影響について』は ジッドが受けた影響について,一方の『若い作家への助言』はジッドが与える 影響についてということであろう。
影響とはジッドにとって,外からの力によって自分を変える(あるいは変え られる)ものではなく,自分の内にあるものを目覚めさせる自己発見の契機で あった。『若い作家への助言』はジッドの小説美学を示すのみでなく,その独自 の影響観からも重要なテクストと考えるが,おそらくはその短さと未完成の体 裁ゆえに,十分に読まれてきたとは言い難い。『新フランス評論』ではテクスト のみが提示され,またプロヴェルブ版でもノゲーズによる註は 3 カ所にとどま
る。そこで小論ではこのテクストについて,作家の日記や書簡などを参照しな がら可能な範囲で解題・解釈を試みたい。なお『若い作家への助言』は『新フ ランス評論』誌掲載からわずか 3 カ月後,新庄嘉章により日本語に翻訳されて いる 4)。そのためテクストの全訳はおこなわず,新庄訳で(理由は定かではな いが)省略されている部分,そして若干解釈の異なる部分を中心に訳出する。
日記のなかの『若い作家への助言』
ジッドの日記は『若い作家への助言』(以下『助言』と略記)について 2 度言 及している。初めは 1911 年の断章から──
「若い文学者への助言」
賛辞に対しても,非難に対しても,無関心でいることを君に勧めることはできない。
私自身そのようなことができたためしはないし,そもそも無関心でありたいとも思わ ない。優しくされれば感激し,噛みつかれればなおいっそう震えるのは結構だ。それ におそらく,非難に対してすぐに反論しないというのは,それなりに有益でもあるだ ろう。しかし……。
(敵による教育)
重要なのは,毒されないようにすること。というのも,憎しみは心をだめにするか ら,等。 5)
若い「作家(écrivain)」ではなく「文学者(littérateur)」とあり,タイトルは 公表されたテクストと幾分か異なるものの,『助言』でも称賛と批判に対する作 家の心構えについて展開されている。すなわちジッドのなかでは,かなり早い 時期から『助言』が着想されていたことが分かる。1911 年といえばジッドは 40 歳を少し越えたところ。彼の創作活動の頂点を『贋金つかい』とするならば,
その完成よりおよそ 15 年も前からジッドは次世代へ思いをはせているのであ る。ただし年代については留保が必要である。というも,1911 年の断章は日記 のなかでも時期確定が最も難しいもののひとつで,同年の断章と分類された記 述には,それ以降に書かれたものもありうるとされているからだ 6)。『助言』の 各断章の執筆年代を正確に特定するのは難しいが,内容によっては推測できる 箇所もあるので,解題を進めながら提示する。
次にジッドの日記に『助言』が現れるのは 1916 年 2 月 1 日。第 1 次世界大戦 のさなか,ボシュエの『キリスト教の玄義についての神への高揚』を手にした
ものの,その内容について否定的な感想を記した後,ジッドは自作執筆への強 い願望を語る──
瞑想あるいは精神の高揚についての本を書きたいと強く思う。つまり『地の糧』と対 をなすような本,また今準備中の『若い作家への助言』に所々混じり合うような本だ。
ぜひとも書きたい……。 7)
大戦が始まると,ジッドは主にベルギーからの難民救済に奔走した。持てる 時間も気力もすべて人道支援に費やし,創作への余力はほとんどなかったが,
1916 年に入ると,「仏白の家(Le Foyer Franco-Belge)」での活動からは少し ずつ手を引き始め,自分の時間を持とうとしていた。また戦争により多くの死 を経験し,それにともなう周囲(特にアンリ・ゲオン)のカトリシズム回帰の なかで,ジッド自身も宗教的な混乱と迷いに直面していた。心の平安を求めて 福音書を読み込み,瞑想に努めた当時の記録は後に『汝もまた……?』として 発表される。この『汝もまた……?』が,上に引用した「瞑想あるいは精神の 高揚についての本」ということになるが,それと「所々混じり合う」とされた
『助言』には宗教的な要素はほとんど読み取れない。しかし『助言』のテクスト に関係する日記の記述などを参照することで,『助言』の宗教的要素についても 順に確認する。
解題―作家の「仕メ チ エ事」
『助言』は長さの異なる 16 の断章から成り,『新フランス評論』でもプロヴェ ルブ版でも,テクストは断章の区切りが分かるように配置されている。各断章 を検討するにあたり,便宜上,順に断章 1,断章 2 のように数えてゆく。
まず『助言』冒頭(断章 1)でジッドは,これから著すものを「概論(traité)」
と規定する。初期作品の題あるいは副題でしばしば用いられたこの語は,必ず しも厳密なジャンル区分を示すものではないが,彼自身それを「若い時の作 品」 8) と呼んでいることから,若い作家への助言は,自らの若い頃の作品形式 がふさわしいと考えたのであろう。ジッドはさらに「概論ではあるが,これを ひとつの芸術作品と見なすのは嬉しい」[17]と言う。たしかに,たとえば『ナ ルシス論』のように,初期の「~論」は文学作品として成立していた。しかし 一方の『助言』は断片の集まりにとどまり,作品としての統一に乏しい。出版
に向けて体裁を整える前の状態で放置されたと考えざるをえないが,その理由 については全体を読んだ後に検討しよう。
ジャンル指定とともに,ジッドは『助言』では作家としての「仕事(métier)」
を扱うと述べる。短い断章 1 のなかで「メチエの問題(questions de métier)」
という表現が 2 度繰り返される。ジッドの読者であれば即座に,『贋金つかいの 日記』が「わが友ジャック・ド・ラクルテルとメチエの問題に興味をもつ者た ち」 9) に奉げられていることを思い出すであろう。メチエの問題としてラ・ブ リュイエールから「本を作るのはひとつのメチエである」が引用され,『助言』
が「よき職人への称賛」[17]であることを示す。
断章 2 はジッド自身の思い出──まずはクローデル,次に母親とのそれ──
が語られる。極東(ここでは中国)からフランスへ戻ってきたクローデルが「浪 費(gaspillage)の多さにショックを受けた」こと。また母親からは「グラスの なかのシードルを飲み干してから食卓を離れなさい。食べられる分より多くの パンをとらないように」[17-18]と繰り返し言われたこと。いずれの思い出も 文学とは無関係に見える。しかし,1905 年 12 月 18 日の日記に書き留められた クローデルの言葉は以下のようなものである──
ポール・クローデルが何年か東洋で過ごしてから,近代文明のなかに戻ってきたと き,とりわけショックを受けたのは,濫費であり浪費であった。
彼は言った──「何ということだろう! アッシジの聖フランチェスコは小道の泥の なかに踏みつけられた羊皮紙の一片を見つけると,うやうやしくそれを拾いあげ,手 に取り,泥を払いきれいにした。なぜなら聖人はそこに文字が書かれているのを見た からだ。──神聖なものである文字を見たからだ。──ところが我々ときたら! 今日 我々の文字の扱い方はどうだ! あの膨大な量の紙がその日のためだけに印刷され,翌 日には屑籠に投げ捨てられていると考えると,本当に悲しい……我々はもはや他人の 文字に敬意をはらわないだけではなく,自身の書いたものさえ尊重しないのだ……」 10)
クローデルの嘆きは,ここでいう浪費が生活上のものではなく,文学的さらに は宗教的なものであることを伝える。『助言』では,クローデルの話を当時の文 脈から切り離し,単に「無駄遣いをしない」という意味で引用することで,ジッ ドはクローデルと母親の言葉を並べる。たしかに,母親の教えには文学的要素 は一切ない。しかしここはまさにジッド文学を説明するものとして,マルタン が重要性を指摘している箇所である 11)。ジッドは,母親による倹約の教えがあ
まりにも深く内面化されているため,それは日常のふるまいを越え,作家とし ての文体にまで影響を及ぼしていると自己分析する──
おそらくこの倹約の精神のいくばくかが私のなかに残っているがゆえに,私は今でも
〔芸術において〕節度を強く求めるのであろう。芸術作品とは,その全体において無償 であってほしいと思う。しかし意味のない冗漫さは一切許容できない。自分の思考を厳 密に表すのに必要な分量以上のインクがペン先に残っているのであれば,私はそれを完 成とは決して認めない。芸術においては,有用でないものはすべて有害なのだ。[18]
上記の訳文中「ペン先」の原語は,プロヴェルブ版では
« stylo »
であるが,『新 フランス評論』では« style »
となっている。新庄訳はそれゆえ「文体」と訳し ているが,文脈からここは« stylo »
が正しかろう 12)。そして最後の一文につい ては,類似した言い回しが日記に見られる──「芸術作品においては……無益 なものはすべて有害なのだ」 13)。次の断章 3 は,ジャーナリズム批判である。ジッドにとって,ジャーナリズ ムとは,新聞や雑誌に特有の物の書き方を意味し,「文学においては,明日より も今日のことに興味を持つ」[18]ものである。一日のためだけに印刷される大 量の紙(とそこに書かれた文字)に憤るクローデルの言葉こそまさに,ジッド のいうジャーナリズムなのだ。そうしたジャーナリズムに対し,完成された芸 術作品は「はじめはさほど素晴らしくは見えない」[17]。それは今日よりも明 日に,より美しく,より精神的で,より快く,より確固たるものとなるからだ。
ジャーナリズム批判は『助言』を貫くテーマのひとつであり,他の断章でも繰 り返される。また他所においてもジャーナリズムの否定はさまざまな場で繰り 返される。たとえば 1921 年の日記の断章から──
今日はよくても,明日には興味が減ずるあらゆるものを私は「ジャーナリズム」と呼 ぶ。どれほどの偉大な芸術家たちが,控訴審で初めて勝訴するのか! 14)
続いては 1948 年 1 月 19 日の日記──
かつて私は次のように書いた──「明日よりも今日のことに興味を持つようなものを ジャーナリズムと呼ぶ」。 15)
1948 年の日記の記述は『助言』と一字一句同じである。これはジッドがジャー
ナリズムに対して否定的な判断を変えなかったことを裏づけると同時に,晩年 になっても,かつて準備を進めていた『助言』の原稿を手元に置き参照してい たことを示す。
断章 4 からは調子が変わり本当の意味での助言となる。ここまでは「私(je)」
の話であったが,ここからジッドは直接,「若い作家(tu)」へ語りかける──
攻撃に反論する? それは痒みのようなもので,ついやりたくなるものだがお勧めは しない。もし攻撃が不当なものであれば,読者がそうと分かるようにすればよい,そ してまずはキケローの言葉を 16),それからカンブロンヌの一言を口にすればよいのだ。
もし,攻撃が正当で,敵の矢が的を射たものであるのならば,君がどれほど頑張って も,矢はますます傷に深く刺さるばかりだ。それに,君自身の弱みや脆さが明らかに なるばかりであろう。さらに悪いことがある。ブレモン神父がスーデーに反論したと きに明らかになったのは,彼が間違っていること以上に,彼の性格の欠陥と意味のな い短気だった。
称賛は精神を緩め,より少ない努力で済ますようにしてしまうこと,一方,しっか りと根拠のある攻撃は君を強くするということを覚えておきたまえ。攻撃に対しては,
君の作品でもって防御し,それ以上は放っておきたまえ。もし君の作品が攻撃に耐え られないのであれば,君があれこれと作品を守るために言葉をつくしたところで救い ようはないだろう。それよりむしろ,より攻撃に耐えられるような新しい作品に取り かかりなさい。[18-19]
称賛と批判という作品への両極端の反応について,両者とも経験済みのジッド がどちらに重きをおいているかは明白である。先に日記で『若い文学者への助 言』として記された「敵による教育」とも重なっている。
ジッドはキケローやカンブロンヌの名前の後に同時代人の例を挙げる。ブレ モンとスーデーについては,「純粋詩論争」,特にブレモンの『純粋詩』の一章
「ポール・スーデー氏あるいは理性詩の殉教者(« M. Paul Souday ou le martyr de la Poésie-Raison
»)」を指すと思われる
17)。ジッドは 1926 年 7 月 14 日の日 記でこの論争について,主にヴァレリーとの関係を記した後,「ブレモンへの返 答において,スーデーは金言を吐いたと認めねばならない」 18)と結んでいる。ジッドがスーデーのどの表現を気に入ったのか,また『助言』にあるブレモン の反論のどこが具体的に問題なのかは不明だが,少なくともこの断章が 1926 年 以降に書かれたことは確実である。
断章 5 もまた,同時代と思われる人物が悪い例として登場する。「他者の芸術
〔あるいは技術〕に入り込みすぎるのは,興味深いことではあるが,本当に役立 つとは思えない」[19-20]と述べて,ジッドは「才能豊かな小説家(W夫人)」
[20]の話をひく。彼女は若い頃,あらゆる傑作小説を子細に研究した結果,自 分で書き始める時には作家としての技術的な能力も秘訣もすっか出来上がって いたというのだ。ジッドは彼女のやり方について「しかし,それは他人の仕メ チ エ事 である」と否定する。
この部分のみから「W夫人」を特定することはできないが,『助言』を準備中 と記した日記が 1916 年である点を考慮すると,当時ジッドとともに戦争難民の 救済事業にかかわり,資金面でも貢献したアメリカ人小説家イーディス・ウォー トン(1862-1937)を指すと推測される。人道支援にたずさわるなか,新大陸と 旧大陸の小説家が文学談義を交わしたことはジッドの日記や両者による書簡な どが伝えている 19)。ただしジッドはウォートンを同業者としてはあまり評価し ていなかったようだ。彼女は文学者よりはむしろ(難民救済の)協力者,ある いは(アメリカ文学への)仲介,紹介者と位置づけられている。また,ジッド が彼女の作品のいくつかを読んだことは確かであるにもかかわらず,それらに ついての言及も一切ない。こうした事実は,「他人の仕事」をする「W夫人」を ウォートンと同定する裏づけとなるのではあるまいか 20)。
この後,比較的長い断章 6 が続く。新庄訳ではこの断章全体が省略されてい るが,今日のみに拘泥するジャーナリズムを批判するとともに,作品の明日の 生命について実例を挙げており興味深い──
もし君に自信があり,己の力を恃むのであれば,──それでも,何と! 私にはまだ つけ加えることがあるのだが──もし君が生活のために「仕事から得る利益」を必要 としないのであれば,(後悔することになるかもしれないが)新聞とジャーナリストに は背を向けるようにお勧めする。
新聞というものは,明日よりも今日,大衆を惹きつけるものでもって彼らの気を紛 らわせているのだ。一体どうして君がそのような者たちと分かりあえるだろうか,君 は……それでも謙虚でありたまえ。キーツ,ニーチェ,ボードレールあるいはスタン ダールとして 50 年後によみがえるには,自分の時代に無視されているだけでは不十分 だ。でも,そうした芸術家たちの栄光を羨むのはよい。成功よりも,彼らが見ていた 栄光の幻影を羨むのは構わない。
いつの日か,物思いにふけるひとりの若者が,私がそうありえたような若者が,私 の『アミンタス』あるいは何か別の本,つまり私の考えが最も音楽的にあらわれてい
る作品を読み込み,心打たれてほしいものだ。かつて私がキーツの « Better be… »
(など,キーツを引用すること)を読んだ時と同じ胸の鼓動を感じてほしいと思う。そ して,次のように言ってほしい──「アンドレ・ジッドよ,僕にとって君は,僕の最 も活気ある友人よりも生気に満ちている。君が故人であることを僕は残念とは思わな い。もし君が存命なら,僕は君を知ることはなかっただろう」。私はそのためになら,
今日の喝采もアカデミーの席もくれてやろう。おおキーツ,おおボードレール,おお ヴェルレーヌ,そしてその他にも,焼けつくような渇きが生きている間に癒やされる ことのなかった者たちよ。私が羨むのは,君たちの死後の栄誉だけではない,君たち が抱いていた希望と,悲痛なまでの期待だ。まず情熱と苦しみにおいて,私は君たち と同じでありたい。[20-22]
没後に桂冠を戴くことになった偉大な芸術家について,ジッドは 1934 年 9 月 19 日の日記で,この断章とほぼ同じことを言う──
若い頃,自分は生きている間にはいかなる栄光も得ることはないだろう,自分は死後 にようやく見出されるだろう,自分の真の読者はまだ生まれていないのだと思ってい た。それでも,自分の作品の価値については確信していた。私は今でもこの自信を持 ち続けているし,手っ取り早い成功など欲しいとは思わない。〔…〕アナトール・フラ ンスやバレスのような成功を妬ましく思ったことなど一度もない。ボードレール,キー ツ,ニーチェそしてレオパルディの死後の栄光こそ私が欲しかったものだ。それだけ が私にとって本当に素晴らしく,羨むに値するものと思えたのだ。 21)
上の日記と断章 6 のどちらが先に書かれたのかは確定できないが,記述の内容 としては,日記でジッドが望んだ「真の読者」は,『助言』では「物思いにふけ る若者」として生まれ,若いジッドが死後の栄光に対して抱いていた思いはそ の若者に受け継がれている。
次の断章 7 は,すでに述べられてきた称賛と非難あるいは友と敵についての 見事な格言から始まる(この一行も新庄訳にはない)──
敵は選べ,しかし友からは選ばれるように。
〔…〕真に優れた芸術家は,自分の時代から理解されなくても決して嘆きはしない。
それどころか,その無理解こそが,自作が生き延びる保証と考えるのだ。[22]
重要なのは作品の明日であり,続く断章 8 ではさらに,同時代からの束の間の
称賛には意味のないことが説かれる。ジッドは「君が書いたものを実際よりも すぐれていると思わせるようなもの」[23]を警戒せよと述べ,その具体例とし て,若者に見られる「テクストをできる限り効果的に見せようとするやり方」
に苦言を呈する──
ポール・フォールの詩(vers)が散文(prose)のように印刷されても,やはりそれは 詩,それも極めて優れた詩だ。ユゴーのアレクサンドランが次のように並べられたか らといって 22),より良いものになるとでも君は思うのか──
馬が
脚で蹴散らす 人を 人を 人また
人を[23]
ポール・フォールの名が挙げられ,文章全体から彼が主宰した雑誌『詩と散文』
が浮かびあがる仕掛けが施されているが,雑誌名そのものは記されない。ジッ ドも関与・協力したこの文芸誌が 1914 年には休刊(実質的には廃刊)したこと と関係があるとすれば,断章 8 はそれ以降に書かれたのかもしれない。
ジッド自身,テクストの配置や見せ方には細心の注意をはらっていたので,
こうした批判は一見矛盾しているようにも思えるが,本断章は次のように閉じ られている(以下の部分は新庄訳では省略されている)──
たしかに,私も『地の糧』では所々そうした好き放題をやってしまった。でも,私は それを控えめにおこなったし,あのテクストがとりわけそうしたやり方に合っていた ことは認めてもらえるだろう。[24]
ジッドが批判するのは,奇を衒った詩句の並べ方ではなく,それを若者たちが 独創的と考えていることだ。また節制を重んじる作家にとっては,何事におい ても過度な方法は有害と感じられるのであろう。
断章 9 は,「まずは健康であること。魂の不安は肉体の不安の反映である。パ スカルがもっと健康であったのなら,彼があれほど苦しみながら探し求めたあ の神をもっと自然に見つけることができたであろう」と始まる。ジッドはパス
カルを折にふれて読んでいる。たとえば 1897-1900 年の間に書かれたとされる 日記から──
病気の効用について。
(パスカルの『病の善用を神に求める祈り』を参照すること。)
病気は不安の源。 23)
この断章は『助言』で唯一宗教的な様相を帯びている。ただしパスカルの病が 神へと向かうのに対して,ジッドのそれは文学へと向かう──
私がとりわけ敬意をはらうのは,不安を抑え込み,平安と平静を再び見いだした者だ。
そうした苦難(géhenne)を乗り越えた者のなかに残るのは,ただ一層繊細で一層豊 かな人間と人間の可能性への理解だ。苦難を描くには,そこから自分の力で抜け出し てこなければならないのだ。[25]
残る断章は,これまでに述べられたことが表現をかえて繰り返されているの で簡単にまとめよう。断章 10 では,焦ってはならないこと,時には放っておく 必要があること,作品が自らの力で生成するのを待つことが説かれる。つまり,
創作は今日ではなく明日のためにおこなうべきであり,ジャーナリズムの速度 に惑わされてはならないとジッドは語りかける。そして『地の糧』の作者らし い格言──
君の本がひとつになること,それは君の熱情がひとつになることだ。
陶酔のなかで書くのはよい。だたし,読み返す時は醒めた目でなければならない。[26]
続く断章 11 と 12 は独創性についての考察。ジッドは「本物の独創性とは,必 ずしもはっきりと目立つものではなく〔…〕すぐにそれと分かるものでもない」
[26-27],「つまらない大衆は自分たちの分からないものに拍手を送ることは決 してない」[26]のだから「成功を求めるのであれば,自分の助言は聞かなくて もよい」とすら述べる。ここで,あるサロンでの様子が描かれる──
CはJの言葉を横取りし,Jの行かないサロンで,それを我がもの顔で言いふらす。
CがJの言葉の価値を高めたのは認めなければなるまい。Cの声は明瞭,身振りは豊 か 24),態度は堂々としているのだから。[27]
イニシャルのCとJについては同定できていないが,いかにも文学サロンにあ りそうな状況である。ここから次の断章 13「サロン」へと続く。必要なのは上 手く話すことではなく,よく聞くこと,そのためには沈黙を守るのが最善であ ると述べ,サロンには「金ではないのにピカピカと光るものばかり」[28]と手 厳しい。断章 14,15 では再びジャーナリズムが否定されるが,断章 15 ではこ れに加えて,芸術的な理由であればグループを作る意味もあるが,実際にはそ うではないので,文学者たちが寄り集まることの害が説かれる。このように後 半の断章には特段新しい主張はないものの,文学界の内幕を知り尽くしたジッ ドだけに明敏にして峻烈な観察眼・批評眼が光る。
最後の断章 16 では,『メデューズ号の筏』制作時のジェリコーの名が挙げら れる。画家は,人との交際を絶ち自らを仕事にしばりつけようと,頭の片側だ け髪を刈り込めば,滑稽な姿のため外出できなくなると考えたらしい。文学の 話が続くなかでの絵画の例は唐突な印象を与えるが,ジッドは「そのような言 い訳に頼らずとも,〔仕事のために〕閉じこもったのであれば,私はもっと彼に 敬服するだろう」[32]と章を結ぶ。前からの連関を考えれば,サロンやグルー プあるいは同時代の人々との交際は控え,仕事に集中せよとの助言なのだ。
助言は届くのか
以上が『助言』の内容である。各断章の間に緩やかな繋がりがないわけでは ないが,全体としてはやはり寄せ集めであり,時系列に並んでいるわけでもな い。さりながら『助言』のテーマは明確である。文章において節制を心がける こと。称賛には気をゆるめず,批判からは学ぶこと。ジャーナリズムとは距離 をおくこと。なぜなら,真の芸術作品は明日のためにあるのだから。いずれも きわめて真っ当な助言である。これらはすべて未来の作家に向けられると同時 に,ジッド自身が常に意識していたものであることは,その作品や批評が示し ている。
『助言』に初めて言及した 1911 年の日記について,ダニエル・ムートトは,
ジッドは若い頃から次世代への助言として作家の心構えを書き溜めていたと述 べ,その原点を 1894 年の「マルセル・ドルーアンのために」とした箇条書き の記録と見ている 25)。ドルーアンは,ジッドとほぼ同じ年なので「若い」とは いえず,「死が近いと思うこと」,「あまり食べないこと」など若いジッドが列挙
した修行の方法は,『助言』とほとんど重なっていない(例外は,最後の項目
「健康であること。かつて病気を経験したこと」。これが『助言』で展開されて いたのは先述の通り)。それゆえ『助言』が書き始められたのをいつとするかは 議論のあるところだが,ここで検討したように,各断章が書かれたと推測され る時期はかなり広い範囲にわたっている。少なくとも,日記に現れた 1911 年と 1916 年以外にも,『助言』を構成する断片が書かれ,集められていたことは間 違いない。そして,1948 年(死去の 3 年前)の日記にもかつて『助言』に書い た一文についての記述があるように,ジッドは『助言』の原稿を最後まで手元 に置いていたと考えられる。その内容は作品や批評のなかに反映されているこ とから,一冊の本として刊行する必要なしと判断したのであろう。またジッド 自身,助言の効果について幾分か懐疑的だったのかもしれない。というの も,『文学における影響について』では次のように自身の経験を語っているか らだ──
私はかつて,ひとりの若い文学者に,ある主題を助言したことがあります。その主題 は,まさに彼にぴったりのものだったので,今まで彼がその主題を扱おうとしなかっ たことに驚くほどでした。一週間後,彼に会うと,困り果てているのです。どうした のかと心配になりましたが,彼は私に辛そうに言ったのです──「あなたを責めるつ もりはありません。善意から助言くださったのですから。でも,どうかお願いです。
もう助言はしないでください。僕は自力でようやくある主題にたどりつきました。で もそれはあなたが先日話してくださったものなのです。今となっては,一体どうすれ ばよいのでしょう。助言をくださったのはあなたです。自分の力だけで見つけたとは もう決して信じられないのです」 26)
助言が必ずしも相手にうまく伝わるとは限らない。『助言』の相手としてジッド が望むのは「私がそうありえたような」[21]若者なのだ。読者を選ぶこのテク ストは,作家の存命中に世に出ることはなかったが,彼の小説美学の集積であ り,その作品を理解するための手がかりを多く含む重要な証言である。そして その助言は選ばれし者には確実に届いてゆくはずだ。
1 ) Claude MARTIN, « État présent des études gidiennes »,『広島大学フランス文学研 究』第 13 号,1994 年 10 月,2 - 3 頁。マルタンがもうひとつの例外として挙げている のは Le Grincheux『気難しき人』。同講演全文の日本語訳は以下を参考にした──
クロード・マルタン『アンドレ・ジッド』(吉井亮雄訳),九州大学出版会,2003 年,
「ジッド研究の現状」,219-240 頁。
2 ) 『若い作家への助言』初出は André GIDE, « Conseils au jeune écrivain », La NRF, 1er août 1956, pp. 225-234. プロヴェルブ版の初版は 1992 年だが,小論でもちいる のは改訂第 2 版── André GIDE, Conseils au jeune écrivain, Marchainville : Pro- verbe, 1993 (2e éd. revue et corrigée). 本文中同版から引用する場合は[ ]内に ページ数を記す(ただし同一頁からの引用が続く場合には最初の引用にのみ出所を 示す)。なおプロヴェルブ版の序文,またプレイアッド版の註においても,『若い作 家への助言』は 1956 年 7 月 1 日の『新フランス評論』掲載とあるが(voir André GIDE, Journal, I (1887-1925), éd. Éric MARTY, Paris : Gallimard, coll. « Biblio- thèque de la Pléiade » », 1996, pp. 1572 et 1638),正しくは 8 月 1 日。
3 ) GIDE, Conseils au jeune écrivain, op. cit., p. 7 (« Préface » de Dominique NOGUEZ).
4 ) アンドレ・ジイド『若き作家への忠告』(遺稿),新庄嘉章訳,『新潮』第 53 巻,1956 年 11 月号,82-87 頁。
5 ) Journal, I (1887-1925), op. cit., p. 688.
6 ) Voir ibid., pp. 1571 et 1322-1323.
7 ) Ibid., p. 923. ただし,ここでのタイトルは « Conseils à un jeune écrivain »。 8 ) Ibid., p. 661.
9 ) André GIDE, Journal des Faux-Monnayeurs, dans Romans et récits. Œuvres lyri- ques et dramatiques, t. II, Paris : Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », 2009, p. 519.
10) Journal, I (1887-1925), op. cit., p. 500.
11) Claude MARTIN, Gide, Paris : Éd. du Seuil, 1995, p. 16.
12) 英訳でもここは« nib » となっている。André GIDE, Advice to a Young Writer, translated from the French by John RUSSELL, London Magazine, vol. 5, May 1958, p. 11.
13) Journal, I (1887-1925), op. cit., p. 1156 (« Feuillets 1921 »).
14) Ibid, p. 1160.
15) André GIDE, Journal, II (1926-1950), éd. Martine SAGAERT, Paris : Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », 1997, p. 1057.
16) キケローの言葉についてノゲーズは,『ピリッピカ』第 2 演説アントーニウスへの反 論「我はカティリーナの剣闘士を軽蔑したが,君の剣闘士に恐れを抱くこともある まい」(『ピリッピカ──アントーニウス弾劾』(根本英世・城江良和訳),『キケロー
註
選集』第 3 巻「法廷・政治弁論 III」,岩波書店,1999 年,208 頁)と指摘するが,
確証はない。
17) Voir Henri BREMOND, La Poésie pure, Paris : Bernard Grasset, 1926.
18) Journal, II (1926-1950), op. cit., p. 8.
19) « Correspondance André Gide - Edith Wharton (1915-1923), établie, présentée et annotée par Jacques COTNAM », Bulletin des Amis d’André Gide, no 171, juillet 2011, pp. 291-332.
20) ウォートンにかんするジッドの日記(1916 年 3 月 3 日)に興味深い記述がある──
「ウォートン夫人とゴデプスキ,そしてひとりのジャーナリストに手紙を書いた。そ のジャーナリストは,私にとあるプロパガンダ委員会の名誉会員になってほしいら しいのだが,その委員会の目的は,若い作家たちの書く意欲をかきたてることらし い!〔…〕これ以上に馬鹿げたことを想像するのは難しい。一時間も無駄にして,
ようやく返事を書き終えた」(Journal, I (1887-1925), op. cit., p. 935)。この「ジャー ナリスト」とは小説家・批評家のモーリス・ヴェルヌ(Maurice Verne, 1889-1943)
のこと。以下に当該書簡の抜粋が活字化されている── Bulletin des Amis d’André Gide, no 101, janvier 1994, p. 156.
21) Journal, II (1926-1950), op. cit., pp. 476-477.
22) 日本語は新庄訳。ジッドはこの『諸世紀の伝説』からの一節を『架空会見記』でも 取りあげている。ただし,そこで問題となっているのは詩句の読み方であり,印刷 上の詩句の配置ではない。Voir André GIDE, Interviews imaginaires XV, « Métrique et prosodie III », dans Essais critiques, Paris : Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », 1999, p. 383.
23) Journal, I (1887-1925), op. cit., p. 301.
24) 原文は « son geste expressif »。この部分は『新フランス評論』初出テクストには あるが,プロヴェルブ版にはない。
25) Daniel MOUTOTE, Le Journal de Gide et les problèmes du Moi (1889-1925), Paris : PUF, 1968, p. 248. ただし同書が 1893 年の日記として挙げている記述は,プレイ アッド新版では 1894 年と訂正されている(voir Journal, I (1887-1925), op. cit., pp. 193-194 et 1410)。
26) André GIDE, De l’Influence en littérature, dans Essais critiques, op. cit., p. 411.