学校経営 : 及川平治のリーダーシップを中心に
著者 橋本 美保
雑誌名 東京学芸大学紀要. 総合教育科学系
巻 72
ページ 13‑22
発行年 2021‑02‑26
その他の言語のタイ トル
The Curriculum Reform and School Management at the Elementary School attached to Akashi
Women's Normal School : Focusing on Heiji Oikawa's Leadership
URL http://hdl.handle.net/2309/166793
* 東京学芸大学 教育学講座 学校教育学分野(184‑8501 東京都小金井市貫井北町 4‑1‑1)
明石女子師範学校附属小学校のカリキュラム改革と学校経営
―― 及川平治のリーダーシップを中心に ――
橋 本 美 保 * 学校教育学分野
(2020 年 9 月 29 日受理)
1.はじめに
1.1 問題関心と研究の意図
現在,「カリキュラム・マネジメント」という言葉 を用いて議論されている「主体的・対話的で深い学 び」の実現や,評価を導入した
PDCA
サイクルの実施 のためには,教師の実践改革へのモチベーションや力 量をどのように形成していくのかが課題となっている。2015(平成 27)年に出された中央教育審議会の答申
「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上に ついて」では,主体的に学ぶ教員の育成のために協働 的な学校組織で校内研修を充実させることが求められ ており,それを担う校長のリーダーシップが強調され るようになった。しかし,こうした問題は今日だけの ことではなく,近代以降日本の教育改革が叫ばれる度 にくりかえし論じられてきた。とりわけ,大正新教育 期の教育界では「学校経営」や「学級経営」という言 葉が流行し,その主体としての校長や教師の力量形成 がさかんに論じられていた1 )。
学校経営・学級経営の原語である
“school management”
や “classroom management” は,近代教育制度が輸入 された明治期の日本に流入していた。特に,
“school
management”
という言葉は,明治初期という早い時期に西洋教育書を通じた啓蒙的経営論と一緒に輸入され,
「学校管理」と翻訳されて用いられた。この「学校管 理」という用語は,教育制度が確立した明治後期にな ると,規律による学校教育の統制という経営概念で用 いられるようになった。その背景には,シュタイン
(Stein, Lorenz von)の行政学に代表されるドイツ的教 育行政学の影響があり,学校運営に当たって教育法規
の適用や解釈,あるいは教育法規から導かれた規則や 基準を確立して学校を統制することがマネジメントで あるという経営観が普及していたといわれる2 )。明治 後期に師範学校で用いられた「学校管理法」の教科書 には,法規主義と呼ばれるこうした経営観が色濃く表 れている。
一方で,明治後期の教育雑誌には,「教育経営」や
「学校経営」という用語が頻繁に見られるようになる。
このことは,当時の教育界において「学校管理」とは 違う意味合いで「学校経営」という言葉が用いられる ようになったことを意味している。「学校管理」を教 師の業務として課す行政的な発想に対して,主観的・
理想的な側面から「学校経営」の概念を提起し,その 具現化に取り組んだのは,「実際家」たちであった3 )。 大正期に入り,欧米の新教育情報(ドルトン・プラ ン,プロジェクト・メソッド,社会共同体学校,労作 学校など)の流入によって,近代的な学校経営やカリ キュラム経営の考え方がもたらされると,「実際家」
たちはそれぞれの実践課題に応じて必要な情報を選択 し,それぞれの立場・境遇に合うようにアレンジして 学校改革を試みるようになった。大正新教育期の「学 校経営」概念は多様であり,その取り組みには教科の 枠組みを超えたカリキュラム改造,評価の視点を取り 入れた児童研究,教師の能力形成を意図した研究態勢 の整備,ミドルリーダーやスクールリーダーのための リーダーシップ論など,現在議論されている教育改革 のエッセンスが内包されている。
当時,海外から導入されたカリキュラムの概念と研 究方法を基盤としながら学校改革を試みた実践校は,
地方の公立学校を含めて膨大な数に上る。ただし,実 東京学芸大学紀要 総合教育科学系 72: 13 ‑ 22,2021.
践主体に注目したカリキュラム開発と学校改革の「プ ロセス」の解明は緒に就いたばかりである。「実際家」
たちが「カリキュラム」や「学校経営」といった新し い概念を形成して,彼らの実践を相対化していった
「プロセス」を明らかにすることが教師の成長の契機 や条件(環境)を実証的に解明することに資すると考 えられるが,そのためには「実際家」に注目した事例 研究の蓄積が必要であろう。
1.2 本稿の目的と方法
本稿においては,大正新教育期に全校を挙げて実践 改革に取り組んだ事例として,明石女子師範学校附属 小学校(以下,明石附小)を取り上げる。同校では,主 事の及川平治が受容した欧米の新教育情報に基づいて,
独自のカリキュラム開発を試みていたことが知られて いる。訓導たちによるカリキュラム開発は彼らを成長 させたと考えられ,それを支えた環境(諸条件)につい て考察するために,同校の学校経営に注目する。
及川平治(1875 1939)は,1907(明治 40)年 10 月 から 1936(昭和 11)年 3 月まで明石附小の主事として 在任した。周知のように及川は,「分団式動的教育法」
や「生活単位のカリキュラム」による教授法・カリキュラ ム改革を提唱し,明石附小における実践改革を主導し た人物である。及川は尋常師範学校を卒業後,初任地 で担任した複式学級において自習を強要される児童の 苦痛を知って以来,「個に応じた教育」の探究を終生自 らの実践課題としていた。すでに拙稿において考証し たように,彼のカリキュラム論の基底には,ベルクソ ン(
Bergson, Henri
)の生命思想と,デューイ(Dewey, John)やドクロリー(Decroly, Jean-Ovide)の生活教育
論があった4 )。欧米の新教育情報を受容して形成され た及川のカリキュラム論は明石附小の訓導たちによっ て具現化されていくが5 ),それには訓導たちの自己改 革が必須であったと考えられる。そこで,本稿では,訓導たちに実践改革を志向させ た及川のリーダーシップのあり方に迫るために,以下 の手順で考察を進める。まず彼の教師論を概観する。
及川がどのような教師を理想とし,訓導たちにどのよ うな成長を期待していたのかを把握する。次に,及川 の学校経営観と明石附小における教員研修の態勢に注 目し,明石附小のカリキュラム改革がどのような研究 環境の下で行われていたのかを明らかにする。さらに,
同校の訓導たちが及川の学校経営をどのように評価し ていたのかを検討したうえで,奈良女子高等師範学校 附属小学校主事木下竹次との比較を交えて及川のリー ダーシップの特質について考察したい。
2.及川平治の教師論と教師の修養
1922(大正 11)年に及川が発表した「動的教育よ り見たる教師論」6 )によれば,教師は「子供の検診者 であり,指導者であり,霊化者」(以下,句読点は引 用者の判断によって付けた)である。教師は,「子供 の要求を検診して動機の喚起を企て,子供の現在の活 動振を見てより善き活動を暗示し,子供は[が]常に 現状に満足せざるやうに向上の光を点」(以下,[ ] 内は引用者)ずる存在,いわば学びのコーディネー ター,ファシリテーターだと捉えられている。それゆ え,「自分を0 0 0子供に適応」するべきであり,「自分0 0に子 供を適応させてはならぬ」(傍点原文のまま)と教師 を戒めている。そして教師が行う教育活動は,「瞬間 毎に独創を要し,その活動に全我を没頭して計画した ときにのみ始めて成功」する「芸術」に喩えられる。
なぜなら,及川は「芸術家が自己と対象の生命とを一 致させ彼我の区別を撤して一如となる如く教師と子供 の生命とが一体とならなくては輔導が出来ない」と考 えていたからである。それゆえ,教師には慣例による 活動は許されず,その特徴は「危機のマスター」と表 現される。及川が「危機のマスター」という言葉に込 めた教師の役割とは,子どもの問題(要求)に寄り 添って,子どもがその問題を解決できるように支援す ることなのである。
こうした教師になるために,及川は二方面の修養が 必要だと説いている7 )。第一に,哲学的方面の修養で ある。及川は発生的研究や機能的見地に基づく「動観 哲学」を奨励する一方で,「他人の哲学を批判なしに 採用して之に教育事実を強いることは危険である」と 指摘している。「リツケルトやコーヘンやベルグソン やゼームスやヂェウエーやラッセルの哲学は吾の哲学 観を組織する資料に過ぎ」ず,教師が自身の「哲学思 想を養ふ」ことを求めている。もう一つは科学的方面 の修養である。及川は,「教育効果の科学的測定法に ついて熟練」したうえで,科学的に根拠のある教育方 法を採用すべきだという。そのために,「発生的心理 学,機能的心理学,社会機能学,生物学特に優種学,
優境学,法律学経済学,実験教育学等を研究する」こ とを推奨している。
このように及川は,哲学と科学の両方が教師に必要 であるとしたが,それは「哲学そのもの,科学そのも の」を学ぶことではない。及川が教師に望んでいたの は,教養として哲学や科学を学ぶことではなく,自分 の教育課題と結びつけて教師自身が哲学的考察や科学 的方法を行えるようになることであったと考えられる。
こうした及川の教師論は,1930 年代に教師の「職務 としてのレサーチ」を中心とする彼の学級経営論に発 展していくこととなった8 )。
彼は,「学級経営」を「実際家」ならではの研究領域 であると考えており9 ),その活動を支える「修養」の 重要性を説き続けた。教職を離れた晩年,及川は学級 経営に必要な教師の「テクニック」について論じる中 で,いかなる問題であろうとその根本的解決には「哲 学すること」と「科学を利用すること」の二つが必要 であると述べている10)。そして,教師が学級経営のテ クニックを習得するために必要な学問として,カリ キュラム構成学,教育測定学,教育的リサーチ,発生 心理学,教育的社会学と並んで「生命哲学」を挙げて いる。教師が「哲学することができなければ人生の帰 趨,教育的価値を論ずることはできない」からであり,
「ベルグソンの哲学などは是非学ぶがよい」と紹介して いる。彼は,生涯,教育実践を向上させる理論を求め 続け,同時に実践知を理論化する努力を惜しまなかっ た。それは,常に目の前に解決しなければならない問 題があったからである。彼は「元来哲学といふものは 自分に内心から切つて来る問題があつて之を解決せず に置けないところから徹底的に解決した企てであ る」11)と考えていた。及川が自らの実践課題に引きつ けてデューイやベルクソンの著作を理解し,具現化し ようとしたときにこそ,彼らの言葉は「哲学」となっ て教育者としての及川の生を支えていたのである。及 川は自身の哲学について以下のように語っている12)。
私は,人間性を素直に育てる哲学に基きたい。自然 の理性のと喧嘩の哲学を欲しない。生き生きした生 活をより善くする哲学を欲する。説明の便宜だけを 考へた干からびた夢の哲学を望まない。人類が共同 して価値をつくる哲学を望む。階級思想から生れた 哲学は好まない。過去が支配の標準となる哲学は 嫌ひだ。将来が現代を拡大する哲学を喜ぶものだ。
(くの字点は開いた)
及川はこのような哲学が「教育学の基礎」であり,
「将来の哲学は「生の実験哲学」に統一されるものと 思ふ」として,自身の実践哲学を「生の実験哲学」と 表現している13)。
及川の考える教育学研究においては,自身のような
「実際家」はその創造的なプロセスの一部である「実 験」を担う存在である。及川は,日々立ち現れる問題 に向かい合い,葛藤し,解決の方途を摸索する現場の 教師にこそ,「生の実験哲学」の意味が理解されるこ
とを願っていた。彼は,自身の実践課題の解決に向け て哲学する己の姿を見せることで,理論を実際化する だけでなく,実際を理論化することが「実際家」の使 命であること,そして「実際家」としての教師が,自 身の実践哲学を形成し続ける必要があることを訴えて いたのである。
3.及川の学校経営観と職員研修の組織化
3.1 及川の学級・学校経営観
大正新教育運動を主導した明石附小のカリスマ的指 導者として有名な及川であるが,彼は生涯を通じてま とまった「学校経営論」を著していない。このことは,
同じく強力なリーダーシップで実践改革を牽引したと いわれる奈良女子高等師範学校附属小学校(以下,奈 良女高師附小)の主事木下竹次とは異なっている。木 下は 1923(大正 12)年に「学校進動の原理」(学校経 営論)14)を発表して,合理的な経営の原則をたてて,
それに基づく学校改革を断行していた。一方の及川は,
「学校経営論」を著すことはなかったが,独自の考え 方で明石附小の学校経営を行っていた。ここでは,ま ず及川の「学校経営」という言葉の用い方から,彼の
「学校経営観」を見ていくことにしよう。
及川が「学校経営」という言葉を用いるのは,ほと んどの場合,学級経営について論じている時である。
及川は,1925 〜 1926 年の欧米教育視察で学んだ教育 調査の方法を取り入れて明石附小のカリキュラム改造 に着手した頃から,教師によるカリキュラム開発と学 級経営について論じ始めた。1928(昭和 3 )年の「学 級経営の実際」という論説において,及川は「カリキ ユラムとは児童の生活を分析して教材に到達する活動 を組立てたものである。教材とは児童の経験の生長を 予想し,望ましき智識習慣態度理想をいふ」と定義し,
「学級経営の根本問題」として「其の学級児童の性質 要求の研究,其の研究に基いてカリキユラムを構成す ること」を最初にあげている15)。こうしたカリキュラ ム開発を核とする学級経営の内容と方法は,「職務と してのレサーチ」を中心とする学級経営論へと展開し た。そこでは,郷土の欠陥分析などの実情調査によっ て教育目標を設定したり,個性調査を実施して子ども の状態を把握することが学級経営に必要な教師の技量 とされている16)。ここでも及川が重視していたのは,
教師が自身の教育理念を実現するために,科学的に根 拠のある方法を採ることによってカリキュラムを開発 することであった。それは,彼が児童の学校生活にお ける全ての経験を「カリキュラム」と捉え直し,それ 橋本: 明石女子師範学校附属小学校のカリキュラム改革と学校経営
を子どもの要求に応じた望ましいものに再構成するこ とが教師の役割であると考えていたからである。及川 にとって理想の教師は,リサーチによって「教育目標 の決定,児童の経験,学習成果」を把握できる教師,
すなわち,目標を設定し,計画を立て,実行し,評価 を行うという,カリキュラム・マネジメント能力を有 する学級経営の主体なのであった。
及川が「学校経営」という言葉を用いるのは,ほと んどの場合,こうした「学級経営」との関係を説明す る場面においてである。及川は,日本の学校において,
「学校の経営方針が学級経営に表はれず,学級経営が教 案に表はれず,言はゞ学校方針から教案まで具体化し た系統なく,地に足を置かざる空理方針」が多く見ら れることを批判し,学校経営と学級経営の方針を一貫 させることを主張している17)。彼は,学級経営と同様,
学校経営案は,「社会,郷土,学校,児童の実情を科学 的にレサーチ」したうえで,現場の教師たちによって 作成されるべきであると考えていた。そのために,教 師は学者が提示した理論に盲従せず,目の前の子ども や環境についての「レサーチとレサーチに基くカリキ ユラム構成法とを知る必要がある」と説いたのであ る18)。注目すべきことは,及川が,「学校,学級経営は カリキユラム構成である」19)と断言していることであ る。それは,彼にとって,「学校経営とは児童の成長に 好都合な児童経験の継続を計画すること」20)だったか らである。及川には,組織の経済効率や職員の作業効 率よりも,子どもにとっての真の「有効経験」(学び)
を組織することが重要であった。そこには,学校の目 的が児童一人ひとりの成長を支援することにあり,そ のためのカリキュラム実践を行うことが学級・学校経 営であるという,及川の教育的効率への志向が窺える。
3.2 職員研修の態勢
及川の学校経営観は,彼の教育的効率への志向を反 映したものであったとみられるが,それはどのような 形で訓導たちに共有されていったのだろうか。ここで は,明石附小の研究環境についてみよう。
明石附小は創設以来,ほかの多くの師範学校附属小 学校と同様に教科担任制をとっており,訓導たちは自 分が専門とする教科の研究会に所属した。明石女子師 範学校同窓会誌『心の玉』に掲載された 1914 年の「附 属近況たより」には,各教科研究会がさかんに催され ている様子が報告されている。同校では,「毎週,火 水木金の四日は本校学科担任,附属教科研究委員の協 議打合わせの定日となし,月曜日は,訓導,保姆全部 の研究会に宛て」られているという21)。1912 年に附
属幼稚園主任が廃止されてからは,及川が幼稚園主任 と附小の主事を兼務するようになったため,このころ の職員会議は合同で行われており,各教科別研究会と 並んで「保育研究会」が組織されていた。
1920 年代になると,学校内外にさまざまな研究会 が組織され,保姆や訓導たちが研鑽を積んだ記録が散 見される。1923 年 6 月に刊行された『心の玉』20 周 年記念号には,「附属小学校幼稚園職員の研究状況」
について,以下のような記述がある22)。
昨年より毎週一回哲学研究を始め,ベルグソン,
カント,新カント派哲学の大要を終へ,目下は動観 哲学及科学の研究に没頭してゐる。実際教育の研究 としては毎週各訓導の相互研究(主に実地授業)を してゐる。幼稚園では一週少く[と]も二回以上研 究会を開いてゐる。
1914 年頃に日本に紹介されたベルクソンの哲学が 文壇で大流行したことは知られているが,教育界にお いてもオイケンやベルクソン,新カント派の哲学が師 範学校生や青年教師たちの間で盛んに論じられていた。
そうした中で,及川も 1912 年頃からベルクソン哲学 を受容して自身の動的教育学を形成した23)。『動的教 育論』が刊行された 1923 年前後には,明石附小の訓 導や幼稚園の保姆たちも及川と一緒に哲学研究に励ん でいたことがわかる。
1924 年の職員会議録によると,毎週金曜日に職員会 が開かれて及川が講話を行ったほか,毎週 1 回は訓導 が研究授業を行い,毎月 1 回は訓導による研究発表会 がもたれていた。1928 年頃からは,職員会は週に 2 日 開かれるようになった24)。1930 年の「附属校園だより」
によれば,週 2 回の職員会で及川の講義は「大抵三時 間程位つゞ」き,「あたりが暗くなつてもう筆記が出来 なくなつた頃はじめて講義がおは」25)ったという。
1931 年 5 月の「主事日誌」から,職員の会議に関 する記録をみよう26)。
5/1 金 研究授業 書方及図画 阪本訓導 5/5 火 職員会 午后三時ヨリ五時マデ
校務ノ打合
5/8 金 訓導ノ研究授業 中沢訓導 国史 職員会 中沢氏授業ニツキ意見交換
主事ノ講話アツサインメント 5/12 火 職員会 保護者ノ予算ノ件
5/19 火 職員研 究会 アツサインメントニ就テ主 事ノ話
5/22 金 職員ノ実地授業研究 尋常二年和久訓導 5/26 火 職員研 究会 主事ノ話 アツサインメン
トニ就テ
5/29 金 職員ノ実地授業研究 尋常一年前川訓導
(以下,下線引用者)
欧米教育視察から帰国後にカリキュラム改造を提唱す るようになった及川は,1929 年から明石附小におい て「カリキュラム改造全国講習会」を開催していた。
1931 年には,各種の講習会や講演会への出席などの 出張で多忙であったにもかかわらず,職員会には毎週 参加していたようである。上記の記録によれば,この 月には 3 回連続で,「アツサインメント」についての 主事講話を行って,自身のカリキュラム研究の成果を 訓導や保姆たちに説明していた。このころ同校の附属 校園では,保姆と低学年担任訓導による「幼稚園及低 学年研究会」が開かれて,幼稚園と小学校を同一の原 理で貫く幼小連携カリキュラムの開発が始まってお り27),幼稚園から小学校高学年までの連続した生活単 元開発が進められていた。
4.訓導たちからみた学校経営
附小の校務や研修の中で受けた及川の指導を,訓導 たちはどのように受け止めていたのだろうか。以下で は,訓導たちの回想を三つの時期に分けて分析するこ とにより,彼らが及川の学校経営をどのように評価し ていたのかを明らかにしよう。
4.1 及川の着任直後―明治末期
どのような学校でも,新任の管理職と教員の教育観 が最初から一致していることはほとんどないだろう。
明石附小においても,及川の着任直後は「一般訓導の 教育観は必ずしも及川主事の唱道された教育観と全部 合致しておったとはいえない」28)状況であった。と ころが,訓導たちはすぐに及川の教育観を理解しよう と懸命になったという。明治末期に在職していた福井 周次(1910.3 〜 1915.3 在職)は,「主事にも実地授 業を願い,又訓導も相互に研究授業をして互に意見を 交換し」29)あった当時の様子を,以下のように振り 返っている30)。
及川先生もまた例の美ぜんをひねりつつ毎週一回訓 導の指導講話をされた。…[中略]…今日なお実際 家に研究されているカリキュラムの構成原理等すべ ての当時の教育界を風びしておった教育思潮を,面
白くユーモアたっぷりに聞く者を飽かす事なく,
じゅんじゅんとして長時間にわたり講述された。そ の後は茶話会に移り質疑応答でなかなか研究意欲が 盛んであった。
こうした議論の中で及川は,「絶えざる刺激を与えて よく訓導を研究へと導」いたとされている31)。 福井と同じ頃に着任し,分団式動的教授法の後継者 として有名になった永良郡事(1911.4 〜 1926.7 在職)
は,「先生は付属の職員に対し支配的ではなかった」,
職員に対し「教育の根幹についてはじゅんじゅんと説 明して下さったが,これが具体化については,各訓導 保姆の研究に任された面が多かった」と回想してい る32)。主事講話の様子は「講義に非ずして率直に学説 を紹介し,職員に問題を提供し,職員自身の研究にま つといった輔導振り」であった。永良は,こうした
「学究的な態度に如何に刺激されたか,実に筆舌に尽 しがたい」としながら,及川の学校経営を以下のよう に評価している33)。
由来付属という世界は,若い議論好きの訓導が大部 分を占めたところであった。主事と名のつく方は,
いわゆる統率に一苦労あったことと思う。しかし及 川先生の場合は,先生御自身に統率といったような 意識はなかったように思う。職員が先生より無意識 の感化を受け,又常に先生の学究的態度に触れ,期 せずして職員室は和やかな研究の花園と化したよう に思われる。明付の特色はまさしくここにあった。
両者の回想からは,訓導たちが及川の学究的態度から 実践改革に関する研究に引きこまれていったことや,
及川から「無意識の感化」を受けたことを事後的に自 覚していることが看取される。
4.2 附小視察者の最全盛期─大正期
及川の主著『分団式動的教育法』(1912)が刊行さ れると,その実際を見ようと明石附小には多くの視察 者が訪れるようになった。1916(大正 5 )年ごろには
「一ヵ月二千人以上の参観人があり,長きは六ヵ月に わたり内地留学として来る者もあ」ったという34)。こ のころの明石附小の校舎や設備は貧弱で,附属小学校 とはいえ物的な条件は整備されていなかった。谷田盛 太郎(1918.4 〜 1928.5 在職)は当時の様子を以下の ように振り返っている35)。
ぼろの校舎に参観人市をなす。学級数八,訓導九人 橋本: 明石女子師範学校附属小学校のカリキュラム改革と学校経営
という全く地方山村の小学校なみ,校舎は東西一本 で何の趣向もない二階建,老朽で危険だからとて両 側に補強工事が施されている杖つき校舎。設備等知 れたもので,形ばかりの裁縫,音楽,理科の三特別 教室はあるが,内容はお話にならぬ程貧弱なもので あった。…[中略]…
この何のへんてつ0 0 0 0もない小学校の中央入口の東側 の参観人控室だけは圧観で,…[中略]…特に門前 市をなすの盛況,これは全く先生の学説を慕い,苦 心経営のあとを見んものとて,全国各地から参集さ れたもので,…[中略]…何日か泊りがけの熱心な 人も少なくなかった。(傍点,原文のまま)
このころ在職していた訓導たちには,視察者への対 応も加わって多忙な及川が,自ら教壇に立って実地授 業を行ったことが印象深かったようである。賀集音市
(1916.4 〜 1922.5 在職)は,及川が行った実地授業 について以下のように記している36)。
先生の教育論は,自ら教壇に立たれ実証されたもの ばかりであった。教壇上の先生は,その授業は決し て上手ではない。しかし一代の教育学者が自ら子供 を前にして真剣に授業をせられるその態度は,他の 教育学者に見られない尊いものである。
お得意は幼学年の自然観察で,子供を引きつれ校 庭に出られ,…[中略]…生命現象の神秘を幼児よ り感得させる着眼は確かに卓見であったと思う。
及川の得意な授業は「幼学年の自然観察」であり,後 述するように低学年に「自然科」を設けて自ら担当し た時期もあった。
4.3 及川の欧米視察帰国後─昭和初期
及川の欧米視察帰国後に着任した訓導たちは,及川 の高邁な識見や人格に加え,教育者としての姿勢を 慕っていた。
平松正一(1927.4 〜 1941.4 在職)は,「あの卓抜革 新的な動的教育論に想像する人柄とは似もつかぬ,実 は寛厚の長者であり,寛容の大人であった」と及川を 仰ぎ,彼が施した「無言の教えこそ「無為にして化す る」の徳」であり,その姿に「進みつゝある者のみ人 をみちびく」ことを感得したと語っている37)。 また,及川の右腕となって「生活単位のカリキュラ ム」開発を推し進めた西口槌太郎は,及川の帰朝講演 を聴いて感動し,1927(昭和 2 )年に姫路師範学校附 属小学校から転任して来た。後年西口は,当時の及川
の指導の様子を詳しく語っている38)。
わたくし達附属の訓導は毎週二日ずつ必ず先生のカ リキユラムについての講義をきくことになつていた。
先生は原書によつて訳しながら話されるのである。
先生のカリキユラム論は動的教育論の必然的な発展 でその構想は実に大きく,また概念的,概説的なこ とは嫌われたから,一々具体的実践的な問題に関し ての話であつた。…[中略]…終戦後やかましくい われたカリキユラムに関する大方の問題が既に取り 上げられ,明石の地域や国情に合うように及川先生 のものとして組織化され具体化されていたことに驚 くのである。…[中略]…
先生はカリキュラム改造を説かれたが訓導にその 早急な実施を強要されなかつた。「カリキユラム改 造は難しいから,無理をしてはいけない。慣れない と失敗する危険がある。」といわれ,実に注意深く 指導された。
ここからは,及川が海外のカリキュラム研究の成果を 学び,それを明石の環境や訓導たちの目線に合わせて 解釈し咀嚼したうえで,訓導たちに提示していたこと がわかる。及川は,学校ベースのカリキュラム改造の 必要性を強く訴えながらも,自身の解釈や提案は,あ くまで実践開発のための参考資料とするように注意を 促していた。当時の単元案作りについて西口は,「及 川先生の講義をきいて各自で工夫して行くより外なか つたのであるから全く暗中模索的であつたのである。
それだけに主体的でもあつた」と述べ,この時期の試 行錯誤が「私にとつて捨てることのできない血の通つ た尊いものであつた」39)と振り返っている。
最後に,明石女子師範学校を卒業して附小の訓導に なった山本おゑい(1923.3 〜 1940.3 在職)の回想か ら及川の実地授業の様子をみよう40)。
先生は講演に読書に著述に,寸分の暇もない多忙の 中にも,常に児童に接し実地授業を通して指導して 下さった。いついかなる時でも,どんな学科でも,
突然にお願いしても喜んで即座に実地授業をして下 さった。何時間目に先生の授業だといえば,多くの 参観者は廊下はもち論教壇の前から児童の机の間ま で,ぎっしりと座り込み,先生は巡視なさる隙もな く途中で立往生されることが度々であった。
先述のように,低学年児童を校外に連れ出して自然 観察をさせることが得意であった及川は,1920 年頃
になると 1 〜 3 学年に「自然科」を設けて,その授業 を担当した。とりわけ,及川が考案した「蛙つり」の 授業は,1921 年 6 月から 1923 年 12 月までの長期間毎 週行われ,「釣竿の製作から蛙の飼育箱の工夫,冬眠 の状態と蛙の家の工夫等,観察と実験,考察」を繰り 返して学習を発展させたという41)。当時,国定の教科 課程になかった「自然科」を設けて,自らその単元開 発を行ってみせる姿は,訓導たちにとって大きな刺激 となっていた。
以上にみたような訓導たちの回想からは,及川が研 究し続ける姿をみせ,そこで掴んだ価値や理論を自ら 実証していたこと,すなわち「理論と実践の往還」を 体現する存在であったことが看取される。明石附小の カリキュラム改革における及川の役割は,理論的支柱,
かつ実践的指導者であったといえよう。
5.結び─及川の学校経営とリーダーシップの内実
及川にとって「学校経営」とは,児童一人ひとりの 学びを深めるための「カリキュラム構成」であり,
「児童の成長に好都合な児童経験の継続を計画するこ と」であった。彼は,訓導が修養(自己研修)によっ て「カリキュラム開発の主体」に成長することを願い,
それを促す方法として,自身が常に研究し続け,そこ で掴んだ価値や理論を実証して見せた。すなわち,自 らが「理論と実践の往還」を体現する存在となり,訓 導たちにモデルを提示していたのである。
大正新教育期に卓越したリーダーシップで学校改革 を主導したリーダーはほかにも見られる。たとえば,
奈良女高師附小の主事木下竹次はその代表例であり,
優れた見識と指導力で,同校を全国有数の新教育実践 校に導いた。木下の学校経営に関する先行研究によれ ば42),木下も及川同様,児童の成長を第一の目的に据 えて,訓導たちのカリキュラム開発能力・学級経営能 力を向上させようとしていた。自らも修養を怠らず,
海外の新教育情報を渉猟して自校の実践改革に適用す る理論を構築し続けた。そのうえで,自身の理論に基 づく改革の方途を明示して,職員には研修を要請した。
訓導たちによれば,木下は彼らに個別の研究テーマや 参考書を与えて作業を指示し,彼らが提出した指導案 を赤で修正するなど,厳しい指導を行ったという。木 下の学校経営は,自身が提示した「学校進動論」(学 校経営論)を実践したものであり,木下の表現を用い るならば,彼こそが学校を「進動」させる「特殊化作 用の主体」であった43)。
こうした木下のリーダーシップと比較すると,本稿
でみた及川のリーダーシップの特徴はより明らかにな る。及川は,木下のように訓導たちに「指導を与え る」のではなく,彼らを「感化」することによって同 じ目標へ向かわせていた。訓導たちが受けたという
「感化」は,「外的圧力」によってではなく内発的な意 識および態度変容が起きたことを自覚した表現であろ う44)。そのような感化作用の前提にあったものは,訓 導たちの及川に対する信奉と,及川の訓導たちへの信 頼に支えられた両者の「同行者的関係」であった。及 川の学校経営においては,経済効率や教授効率ではな く,教師自らが自律的学習者になる「経験」が重視さ れていたと考えられる。
以上にみたように,同じ「カリスマ的指導者」と評 される人物であっても,それぞれのリーダーシップの 内実は異なっている。大正新教育期における多様な学 校経営の実態を明らかにするためには,本稿で提示し たようなリーダーシップの機能に注目した事例研究を 重ねていく必要があろう。
注
1 )拙稿「学級・学校経営研究のはじまり」橋本美保・遠座 知恵編『大正新教育 学級・学校経営重要文献選』第 6 巻,
不二出版,2019 年,389 392 頁。
2 )大嶋三男「学校経営研究の歴史」細谷俊夫ほか編『現代 学校経営事典』明治図書,1961 年,21 25 頁。宮坂哲文
「日本における学級経営の歴史」『宮坂哲文著作集』第 3 巻,
明治図書,1968 年,248 267 頁。
3 )当時,自ら「実際家」(あるいは「教育実際家」,「実際教 育家」)を名乗った人たちの中には,小学校の訓導や校長 だけでなく,中学校や師範学校の教員,高等師範学校の 教授や私立学校の設置者など,多彩な顔ぶれがみられる。
彼らは,「理論家」に対抗意識を有していたとみられ,自 身は「教育実際界」の人間であることを強調している。
実際家による教育学研究の特色については,橋本美保・
遠座知恵「大正期における教育学研究の変容」(『教育学 研究』第 86 巻第 2 号,2019 年,28 40 頁)に詳しい。
4 )拙稿「及川平治における生活単元論の形成─欧米新教 育情報の影響を中心に─」(『教育学研究』第 76 巻第 3 号,2009 年,309 321 頁),同「カリキュラム─及川平 治教育思想の生命概念」(森田尚人・森田伸子編著『教育 思想史で読む現代教育』勁草書房,2013 年,202 224 頁),
同「及川平治の動的教育論─生命と生活」(橋本美保・
田中智志編著『大正新教育の思想─生命の躍動』東信堂,
2015 年,203 231 頁),など。
5 )及川の下で「生活単位のカリキュラム」開発にあたった 橋本: 明石女子師範学校附属小学校のカリキュラム改革と学校経営
西口槌太郎訓導は,後年「明師付小の歴史は,まったく 及川先生の分団式動的教育論の実践史であ」ると述べて いる(西口槌太郎「明石女子師範学校付属小学校と分団 式動的教育」『初等教育資料』第 254 号,1970 年,49 頁)。
6 )及川平治「動的教育より見たる教師論」『教育論叢』第 8 巻第 5 号,1922 年,81 88 頁。及川の教師像に関する本項 の引用は,同記事による。
7 )同上書,84 87 頁。
8 )及川平治「「レサーチ」を欠く教育の効果を疑ふ」『兵庫 教育』第 507 号,1932 年,35 36 頁。
9 )前掲,橋本・遠座「大正期における教育学研究の変容」
34 37 頁。
10)及川平治「学級経営の指針」『宮城教育』第 454 号,1937 年,3 5 頁。
11)及川平治「動的哲学と動的教育との関係」『教育研究』第 251 号,1923 年,334 345 頁。
12)同上書,341 頁。
13)同上。
14)木下竹次「学校進動の原理」(1)〜(3)『学習研究』第 2 巻第 5 7 号,1923 年。
15)及川平治「学級経営の実際」『心の玉』明石女子師範学校 校友会,第 45 号,1928 年,9 頁。
16)前掲,及川「「レサーチ」を欠く教育の効果を疑ふ」34 37 頁,同「学級経営の指針」3 8 頁。
17)及川平治「学級経営」『心の玉』第 46 号,1929 年,24 頁。
18)前掲,及川「「レサーチ」を欠く教育の効果を疑ふ」36 37 頁。
19)及川平治「カリキユラム改造の精神と方法の変化」『兵庫 教育』第 529 号,1933 年,96 頁。
20)及川平治「新教育的方法学の建設に就て」『教育研究』第 444 号,1936 年,88 頁。
21)明浦生「附属近況たより」『心の玉』第 21 号,1914 年,
93 94 頁。
22)及川平治「明石師範附属小学校幼稚園の沿革誌」『心の玉』
20 周年記念号,1923 年,44 頁。
23)前掲,橋本・遠座「大正期における教育学研究の変容」
35 頁。
24)「職員会議録」大正十三年四月起,明石女子師範学校附属 小学校。1924 年の『心の玉』第 41 号に掲載された「附属 小学校,幼稚園だより」には「毎週一回訓導の研究授業 を行ひ,毎月一回各訓導の研究発表会」が行われている ことや,「保姆は附属小学校教員と共に研究することにな つてゐる」という報告がある。
25)「附属校園だより」『心の玉』第 48 号,1930 年,236 頁。
26)「主事日誌」昭和六年度(明石女子師範学校附属小学校)
から関係記事を抜き出した。
27)附小と附属幼稚園による幼小連携カリキュラム開発のた めの研究態勢については,拙稿「明石女子師範学校附属幼 稚園における保育カリキュラムの開発過程─アメリカ 進歩主義の幼小連携カリキュラムの影響を中心に ─」
(『東京学芸大学紀要』総合教育科学系,第 60 集,2009 年,
39 51 頁)を参照されたい。
28)「先生のおもかげ」三先生言行録刊行会編『三人の先生』
兵庫県教育委員会事務局内三先生言行録刊行会,1955 年,
293 頁。同書を用いて及川の指導性について言及した研究 に,伊藤真治「及川平治の明石女子師範附属小学校経営
(2) ─校長として教員をどのように指導したか ─」
(『関西教育学会紀要』第 27 号,2003 年,166 170 頁)が ある。
29)同上『三人の先生』。同書には,元兵庫県明石女子師範学 校関係者による及川についての回想が収められている。
関係者の手記を編集したのは明石附小の元訓導西口槌太 郎とみられる。なお,旧職員の在職期間については,『回 顧八十年』(明玉会,1984 年)の「恩師(客員)在職一覧 表」によった。
30)同上『三人の先生』。
31)同上書,294 頁。
32)同上書,295 頁。
33)同上書,296 297 頁。
34)同上書,300 頁。
35)同上書,301 302 頁。
36)同上書,300 頁。
37)同上書,306 307 頁。
38)西口槌太郎「教育一路の旅」松本浩記『自伝的教師像』
人の教育社,1956 年,88 頁。
39)同上書,90 頁。
40)前掲『三人の先生』312 頁。
41)同上書,313 頁。
42)長岡文雄『学習法の源流─木下竹次の学校経営』(黎明 書房,1984 年),中野光『学校改革の史的原像─「大正 自由教育」の系譜をたどって』(黎明書房,2008 年,142 157 頁),など。
43)木下「学校進動の原理(三)」『学習研究』第 2 巻第 7 号,
1923 年,57 61 頁。木下は学校の各構成員が特殊化作用 の主体になることを理想としているが,とりわけ校長は それを主導すべきであると認識している。
44)訓導たちが及川から受けたような「感化」作用について,
及川が親しんでいたベルクソンの書によれば,「魅力に捉 えられること」と説明されている(アンリ・ベルクソン著,
森口美都男訳『道徳と宗教の二つの源泉』Ⅰ,中央公論 新社,2010 年,43 71 頁)。
* Tokyo Gakugei University (4‑1‑1 Nukuikita-machi, Koganei-shi, Tokyo, 184‑8501, Japan)
明石女子師範学校附属小学校のカリキュラム改革と学校経営
―― 及川平治のリーダーシップを中心に ――
The Curriculum Reform and School Management at the Elementary School attached to Akashi Women’s Normal School:
Focusing on Heiji Oikawa’s Leadership
橋 本 美 保 * HASHIMOTO Miho
学校教育学分野
Abstract
This paper aims at clarifying the characteristics of the school management which enabled the curriculum reform at the Elementary School Attached to Akashi Women’s Normal School. The school is known for the school-based curriculum development trials in the Taisho New Education period relying upon the information on progressive education that Heiji Oikawa, the school director, had brought back from the Western countries. As the curriculum development activities done by the teachers had made them into developed professionals, it is worth investigating what circumstances made it possible.
Especially the leadership of Oikawa should be focused upon as the core of the school management. Previous studies have been focusing upon Oikawa’s words and activities as well as the curriculum at the school. This paper analyzes how Oikawa’s leadership was functioning within the process of the teachers’ development.
The consideration starts by analyzing Oikawa’s theory of teaching professionals to see what his ideal image of a teacher is.
Next comes the introduction of the actual teachers’ professional development done at the Attached Elementary School in relation to Oikawa’s school management views. The paper finally considers upon the characteristics of Oikawa’s leadership after analyzing the evaluation towards Oikawa’s school management retrieved from the memoirs of the teachers who were working under him.
The main findings are as follows. First, Oikawa’s image of an ideal teacher was a practitioner who could assist children’s
development by giving the most suitable judgments derived from the facts in front. Such a teacher needed the skill of
curriculum management based upon scientific fact identifying, and the continuous self-training of shaping practical
philosophy to form the basis of said skills. Secondly, the educational efficiency was esteemed in Oikawa’s school
management which prioritized children’s needed and effective learning experiences to the organizational economic
efficiency or work efficiency of the teaching staff. Oikawa’s such views on ideal teacher and school management were
shared by the teachers through various workshops and hands-on lessons, to form a school-wide attitude towards curriculum
reform. And at last, the roles of Oikawa within the school’s curriculum reform were both a theoretical pillar and a practical
leader. While Oikawa inspired teachers by practicing his theory of “fusion of theory and practice” by himself, he had
succeeded in sharing relations with the teachers as “followers” of such principle.
Department of School Education, Tokyo Gakugei University, 4-1-1 Nukuikita-machi, Koganei-shi, Tokyo 184-8501, Japan
要旨 : 本稿の目的は,明石女子師範学校附属小学校のカリキュラム改革を可能にした学校経営の特質を明ら かにすることである。同校では大正新教育期に,主事の及川平治が受容した欧米の新教育情報に基づいて,学 校ベースのカリキュラム開発を試みていたことが知られている。訓導たちによるカリキュラム開発は彼らを成 長させたと考えられ,それを支えた環境について考察するために,同校の学校経営の核となった及川のリー ダーシップのあり方に注目した。従来の研究では,実践改革の視点から,及川の言動や同校のカリキュラムが 分析されてきたが,本稿では訓導たちの成長の過程で及川のリーダーシップがどのように機能していたのかを 検討した。そのために,以下の手順で考察を進めた。まず,及川の教師論を分析して彼の理想的教師像を確認 した。次に,及川の学校経営観と明石附小における教員研修の実態を明らかにした。さらに,訓導たちの回想 から及川の学校経営に対する評価を分析したうえで,及川のリーダーシップの特質について考察した。
その結果,以下のことが明らかとなった。第一に,及川にとっての理想の教師は,目の前の事実から最適な 判断を下して,子どもの成長を支援できる教師である。そうした教師に必要なことは,科学的な調査に基づく カリキュラム・マネジメントの技量と,その基盤となる実践哲学を形成するために修養し続けることであった。
第二に,及川の学校経営では,組織の経済効率や職員の作業効率よりも,児童にとって必要かつ有効な学びが 経験されること,すなわち教育的効率が重視されていた。こうした及川の学校経営観や教師論は各種の研修会 や実地授業を通して訓導たちに共有され,全校を挙げたカリキュラム改革への志向を形成した。第三に,同校 のカリキュラム改革における及川の役割は,理論的支柱かつ実践的指導者であった。及川は「理論と実践の往 還」を自ら体現することにより訓導を感化していたが,その前提にあったものは両者の信頼に基づく「同行者 的関係」であった。
キーワード : 及川平治,明石女子師範学校附属小学校,学校経営,リーダーシップ,カリキュラム開発,
カリキュラム・マネジメント