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大正新教育期富士尋常小学校のカリキュラム改革と学校経営 ―公立小学校長のリーダーシップと教師の協働―

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カリキュラム研究 第 29 号 2020 年 3 月. ─ 15 ─. 15−27頁. 1.はじめに (1)問題関心と研究の意図 今日,教科横断的な教育課程の編成や,評価を導入した PDCA サイクルの実施,「主体的・対話的で. 深い学び」の実現,「チーム学校」のあり方などに関する議論がさかんに行われている。現在「カリキュ ラム・マネジメント」という用語のもとで語られるこうした課題は,新学習指導要領やそれをめぐる議 論の中でも提示されているが,それを実現させるためには,教師の力量や実践改革へのモチベーション をどのように形成していくのかが問題となるだろう。2015年に出された中央教育審議会の答申「これか らの学校教育を担う教員の資質能力の向上について」では,主体的に学ぶ教員の育成のために協働的な 学校組織で校内研修を充実させることが求められており,それを担う校長のリーダーシップが強調され るようになった。しかし,こうした問題は今日だけのことではなく,近代以降日本の教育改革が叫ばれ る度にくりかえし論じられてきた。. とりわけ,本稿で注目する大正新教育期(1917~1932年頃)には「学校経営」や「学級経営」という 言葉が流行し,その主体としての校長や教師の力量形成がさかんに論じられていた (1)。近年,「カリキュ ラムを基盤とする学校経営」の重要性が提唱されているが (2),この発想が日本に導入され,実践改革に 適用されたのは大正新教育期である。カリキュラムの概念と研究方法が受容されたこの時期に,それを 基盤としながら学校改革を試みた実践校は膨大な数に上る。実践主体に注目したカリキュラム開発と学 校改革の実態を明らかにすることは,教師の成長のプロセスを実証的に解明することに資すると考えら れる。. (2)本稿の課題と方法 本稿においては,大正新教育期に全校を挙げてカリキュラム改革に取り組んだ公立小学校の事例とし. て,旧東京市浅草区の富士尋常小学校(以下,富士小と略記)に注目する。同校の訓導たちによるカリ キュラム開発は彼らを成長させたと考えられ,それを支えた条件(環境)について考察するために,同 校の学校経営の特質に迫りたい。そのためには,同校が公立小学校であることに注目した新しいアプロー. 大正新教育期富士尋常小学校のカリキュラム改革と学校経営. ―公立小学校長のリーダーシップと教師の協働―. 橋 本 美 保 (東京学芸大学). 1.はじめに (1)問題関心と研究の意図 (2)本稿の課題と方法 2.校長上沼久之丞の着任と学校経営のモデル (1)上沼の思想的転機 (2)着任時の学校経営観と改革のモデル. 3.カリキュラム改革にみる教師の協働 (1)改革の概要 (2)実践研究のリーダーと研究態勢の組織化 (3)共同研究の態勢 4.富士小の学校経営とその特質 5.おわりに. 〔研 究 論 文〕. 大正新教育期富士尋常小学校のカリキュラム改革と学校経営. ─ 16 ─. チが必要であろう。なぜなら,師範学校附属小学校や私立学校の場合のように,著名な指導者の思想や 理論を分析することでその学校の教育理念や実践の特質を説明するという方法では,この事例の独自性 が看過されてしまうからである。新教育を本格的に導入することが困難であった公立小学校でありなが ら,それに挑んだ富士小を取り上げる意味は,改革の主体である訓導たちが同校の学校経営やカリキュ ラム開発に自主的に取り組むようになった「プロセス」を見ることにあると考えている。. 筆者はこれまでに,校長上沼久之丞がドクロリー教育法を紹介した経緯を明らかにしたうえで,富士 小のカリキュラム改革における上沼の役割を再検討する必要性を提起した (3)。従来の研究では,上沼の 著作に依拠して彼の教育論が分析され,それが訓導たちによって様々に具現化されたと描かれてきたが, そのような構図は実践的指導者として校長を位置づける見方による。当時の公立小学校における学校経 営が,管理者である学校長を中心とした権威主義的なものであったことは容易に想像されるが,それゆ えに訓導たちの共同研究の成果もほとんどの場合学校長の名前で公表されている。富士小のカリキュラ ム改革に関するこれまでの研究では,上沼が強力なリーダーシップを有していたことや,訓導個人に注 目した実践の特質については言及されてきたが,そのリーダーシップの内実や訓導たちの力量形成の過 程については十分に考察されていない (4)。本稿では,カリキュラム改革と教師の成長を関連付ける視点 から,職員たちの「関係」に注目しつつ,彼らの意識や研究態勢の変化を明らかにし,同校の学校経営 の特質について考察したい。. 2.校長上沼久之丞の着任と学校経営のモデル (1)上沼の思想的転機 上沼久之丞(1881-1961)は,1881(明治14)年6月25日長野県下伊那郡下市田に生まれた (5)。17歳の. 時に上京して東京府師範学校に入学,卒業と同時に同校附属小学校の訓導となる。3年後に東京市浅草 区福井尋常小学校の主席訓導に抜擢され,1908年4月に26歳の若さで同校校長に就任した。校長となっ た上沼は,福井尋常小学校で約4年,浅草区千束尋常小学校で約10年,浅草区富士尋常小学校で21年の間 その責を果たし,この後1943(昭和18)年6月に依願退職するまでの35年間公立小学校長の職にあった。. 上沼校長の下で,富士小では1930年から本格的な改革に着手して,表現教育,低学年教育,合科教育, 郷土教育などの単元開発を行っている。従来,富士小のカリキュラム改革は,上沼の欧米教育視察(1926- 1927)が契機となったと言われているが,上沼にとって最も大きな思想的転機は富士小に赴任する前の千 束小学校時代にあった (6)。師範学校卒業直後の上沼は真面目に師範型を遵守する訓導であったが,それ への抵抗感から次第に指導の改善を模索するようになっていた。千束小学校長に着任してからは,外部 講師を招いて図画授業の改善を図ったが,3年経っても効果はなかったという。その時上沼は,訓導た ちが授業改善の必要性を認識していないのに無理に指導を変えさせようとしたことを反省し,意欲のあ る訓導から少しくらいの失敗は覚悟の上でやらせてみることにした。1921(大正10)年10月,画手本の 使用をやめて自由画教育を始めたいと申し出たのが杉本茂晴訓導であった。上沼から許可を得た杉本は, 好きな場所で好きな物を自由に描く「写生学習」を始め,山本鼎を招いて指導を請うた。同時に,杉本 は野口雨情らと童謡教育の研究を始め,それを詩の全般学習,綴方教育へと応用していっただけでなく, さらに体操,国史,地理など他教科の授業改善に拡張していった。こうした杉本の自己改革と児童の変 化を目の当たりにした上沼は,「従来教へられて来た又教へて来た私の教育観に大改造を加へねばならな くなつた。私に取つては思想的に一転期をなして,従来の教育観及び方法には偏知画一的の欠点のある ことを自覚して,各科の教育方法を改善し,教育観を改造して国語図画体操につき全校的に実施計画 中」 (7)に富士小に転任することとなる。. カリキュラム研究 第 29 号 2020 年 3 月. ─ 17 ─. (2)着任時の学校経営観と改革のモデル 千束小学校での失敗と杉本の成長する姿に学び,「各職員の自主的研究を尊重しなければならない」と. 考えるに至った上沼は,「学校経営は校長一人が為すべきものではなく,各職員をしてそれに参加せしめ ねばならない」,校長と職員が「教へられ,教へることによつて」「共に学校を経営すること」が理想だ とする経営観を持つようになったという (8)。富士小に転じてからは,訓導たちに教育改造の必要性は説 いても強要はせず,できる者が得意なところから始めることを奨励した。. 1922年6月富士小に着任した上沼が,具体的な改革のモデルにしたのは,奈良女子高等師範学校附属 小学校(以下,奈良女高師附小と略記)であった。その端緒は,1922年10月に保護者有志の寄付を得て,. 「教育内容及設備の研究の為」坂本鼎三ほか職員5名を関西に派遣したことにある (9)。彼らの視察報告を 聞いた上沼は,同年12月に同校が開催した第3回冬期講習会に妻ひさと共に参加した (10)。この時,彼ら は「奈良の学習法によつて幼学年より自主学習実施の確信を得た」といい (11),翌年には,判明分だけで も上沼を含む6人が同校を訪れている。. こうして奈良女高師附小をモデルに始まった教授法研究は,富士小のカリキュラム改革だけでなく, 後に詳しく論じるように学校経営全般にも大きな影響を与えることになる。昭和に入ると富士小では, 公開研究会に木下竹次を始め奈良女高師附小の訓導たちを招いて指導を受けるようになり,同校の学校 改革は,世間から「富士の奈良式」とか「奈良の東京出張」と揶揄されるほど (12),その類似が顕著と なった。次節では,まず,奈良女高師附小の影響を受けて始まったカリキュラム改革の過程で,訓導た ちがどのようにして自身の実践を変えていったのかをみよう。. 3.カリキュラム改革にみる教師の協働 (1)改革の概要 富士小では,1923年に上沼が提唱した「文化創造主義学級経営法」の下で実践改革に着手した。富士. 小が上沼校長のリーダーシップの下で授業改革を進め,東京市の新教育実践校の中心的存在となったこ と,各種の校内研究会,公開研究会などを開催したことや海外の新教育情報の研究を行っていたことを 指摘した鈴木そよ子は,同校を公立小学校における先進的な事例であると位置づけている (13)。その後の 研究では,同校のカリキュラム改革が,ドクロリー教育法など欧米新教育情報の影響を受けて社会性や 表現を重視したものであったことが指摘され,数名の訓導たちが個別に開発した単元内容,および同校 の「低学年合科教育」の特徴などが明らかにされてきた (14)。こうした先行研究では,校長が「実践を牽 引した」として上沼の実践的指導力を評価し,訓導たちを指導する場として校内・校外における研究発 表会が開催され,盛会であったことを紹介しているが,実際に訓導たちが何をどのように学んでいたの かは明らかにされていない。先述の筆者の調査によれば,強力なリーダーシップで改革を主導したとさ れる上沼校長は,改革を扇動はしたが,その内容や方途を明示しておらず,実践改革の理論的・実践的 支柱であったとは言い難い。それでは,訓導たちはどうやって新しい理念を共有し,カリキュラムを開 発する力量を形成していたのだろうか。以下では,当時の実践研究のリーダーと研究態勢の組織化のプ ロセスを,訓導たちの関係に注目しながら概観したい。ただし,訓導が自身の実践改革の最中に他の訓 導との関係を記した文献はほとんど現存しないため,後年の回想等の中から反省的な記述を取り出すこ とを試みた。. 大正新教育期富士尋常小学校のカリキュラム改革と学校経営. ─ 18 ─. (2)実践研究のリーダーと研究態勢の組織化 ①坂本鼎三による「学習法」の導入と生活題材への着目. 上沼の着任直後から富士小の実践研究を主導したのは,主席訓導の坂本鼎三(1904.9~1927.3在職,後 新堀小学校長・精華小学校長)であった。坂本は,1904年6月に静岡県で本科正教員免許を取得し,同 年9月に富士小に着任した (15)。1922年,5名の職員と関西に派遣されて奈良女高師附小を視察した坂本 は,「学習法」の有効性を上沼に報告するとともに,そのスタイルを自身の実践に導入した。当時同僚で あった小林茂(1906.3~1924.2 在職,後柳北小学校長)は,「坂本君と共に奈良の附属小学校を参観して 大なる暗示を受けたり,パーカースト女史の本を読んだり,手当たり次第に新教育の本を読み始めた」 (16). と新教育に着手した頃の様子を語っている。1929年に谷岡市太郎(1924.10~1946.3 在職,旧姓寺垣)が 「坂本氏が首席として上沼氏を助け,奈良の学習法を取り入れたのが,今日の発展の基礎をなした中心勢 力であったと思ふ」 (17)と振り返っているように,坂本による学習法の導入が同校のカリキュラム研究の 基礎を築くことになった。 「各科に渡り研鑽深」いと讃えられた坂本が (18),特に力を入れていたのが修身の授業であった。彼は,. 子どもの日誌を用いた題材中心の修身の授業を創案し,これを「日誌による修身教育」と名付けた。坂 本の「日誌による修身教育」は,教科書の例話を扱う前に,児童自身の道徳的生活の反省を促すことか ら始まる。「先づ現実生活中から道徳的事実を見付け,これに道徳的判断をさせ,教科書の例話を例証的 に取扱」うことで,「教科書の徳目が生活化され個別化され実行に移され」るため,「児童も学校の修身 と家庭の行儀との二重生活の解脱を自覚するに至った」という (19)。上沼は「この学級の出現は我が校に とつて歓喜の創作であった。…[中略]…君[坂本:引用者註]はこの学級の発展によつて創造教育の鍵を 握り各教科の自発的学習指導の骨[子]を体得した」と評している。着任以来校長を忠実に補佐する坂本 に対して,上沼は絶対的な信頼を寄せており,同校の修身教育の指導方針作りを坂本に任せていた (20)。 坂本が作成した修身科の学習指導方針では,「直ちに」児童の道徳的生活を「向上進展」させることが目 標とされ,「児童の生活経験」が主な教材であり,教科書は「之を補ふ」ものと記されている (21)。. 坂本が試みた題材中心の修身教育は,着任したばかりの谷岡市太郎や奈良靖規(1925.4 ~1936.8 在 職)に伝えられた。谷岡も奈良も新教育の実践に憧れて上京した若い訓導であったから,すぐに題材中 心の単元作りに関心を寄せたとみられる。当初は坂本が個別に助言を与えていたようであるが,1925(大 正14)年度から校内に指導法の研究会ができ,有志による検討会が行われるようになった。こうした研 究会を通して訓導たちの中には坂本に倣った単元作りを試みる者が現れた。上沼によれば,「即ち谷岡訓 導の生活題目を中心として各児の道徳的反省から指導した研究が生れ,ついで奈良訓導の反省実行比較 による工夫が生れて実行を重視する点に躍進し」たという (22)。研究会の「実験記録」を整理した『生活 創造の修身教育』によると,1931年までの「指導研究」の題目は〈図1〉のようであった (23)。. 〈図1〉修身科「指導研究」の題目 訓導 14年度 15年度 2年度 3年度 4年度 5年度 6年度. 坂本 親切にすべきこと(2年) 転任 ― ― ― ― ―. 谷岡 倹約・友達・ 鉛筆の削り場 (各3年). 選挙ポスター (4年). 冬の注意・火の 用心 (各5年) 緊縮 (6年). おべんきょうの 時(2年). 奈良 観音様・自分の もの・お小遣 (各3年). 夜遊・緊縮 (4年). 僕のくせ・ あだな (各5年) お手伝 (6年). 勝俣 ガクカウノオドウグ(1年). カリキュラム研究 第 29 号 2020 年 3 月. ─ 19 ─. 坂本の転出後に着任した訓導たちにも「日誌による修身教育」は広まっている。たとえば,上ノ坊仁 (1928.3~1931.3在職)は,富士小に着任後「生活」を中心にした修身教育の実践に取り組み始め,2 年間「日誌中心の修身教育」を実践している (24)。上ノ坊の授業は,児童の「生活記録」である日誌を用 いて児童自身に「新しい素材(経験)」を選ばせて反省(自己批判)を促すことから始まる。それを児童 と教師が「共同反省,共同批判」することによって「より高い価値構成」を経験させた後,再び自己批 判に至らせることを企図している。上ノ坊は,「この共同批判に就いて,私は本校奈良氏に教へられ,奈 良氏の所謂中心題材に就いて深い考慮を掃つて行きたいと思つてゐる」と述べ,とりわけ共同批判の際 の「中心問題(奈良氏の名づくる)」を教師と児童の相談によって選定することに重要性を認め,苦心し ている。このように,「学習法」や題材中心の修身教育は坂本から谷岡・奈良へ,さらに上ノ坊らへと伝 えられて訓導たちに広まっていった。. ②奈良靖規による「教科書なし」の単元開発 坂本が1927年に転出した後,その立場を実質的に継承して指導的役割を果たしていたのは奈良靖規. (1897-1985)である。奈良は1917年に秋田県師範学校を卒業し,同県の小学校訓導時代にベルクソンや クロポトキン,西田幾多郎の書に触れて,生命の哲学や相互扶助の社会理論などを学んでいた (25)。1919 年以降,自由主義教育運動に傾倒して,図画・手工と音楽を統合した「表現科」を構想し,その実践形 態を模索するようになった (26)。この頃の奈良は,生命を互いに相連関して全体をなす自然の一部とみて, 生命本質の発現をめざす芸術を中心とした表現活動の必要性を説いており,そこにはすでに合科的な発 想が認められる。富士小着任後は,奈良女高師附小の実践情報に加え,ドクロリー教育法やロシアのコ ンプレックス・システムなど海外の新教育情報を参考にして自身の実践改革に取り組んでおり,彼の実 践の特徴については鈴木の研究に詳しい (27)。. 奈良の実践の第一の特徴は,低学年における「教科書なしの学習」である。たとえば,1926年度の新 入生に実践した「観音様学習」は,児童を浅草公園に連れ出して行う校外学習であった。奈良は児童に 観察させたことを記載させ,それを表現することへと活動を導いていく。授業は,独自学習から相互学 習に進み,作品を素材にディスカッションを行うという展開で,鈴木はこの試みが合科学習に発展し,. 「Textbook Method に対置して Notebook Method と自覚」するに至ったと指摘している (28)。後年,奈良は 「私は低学年教育で生活の中に学習材を発見したが,この発想は坂本氏の示唆による」 (29)と述べており, 坂本の題材中心学習のアイデアが修身の授業だけでなく,低学年合科学習における単元開発にも応用さ れていた。富士小の「合科学習研究経過」によれば,奈良が始めた「観音様学習」は低学年の担任たち に試みられ,1929年に今井ハル(3年),1930年に小柳美(1年),1931年に中川一雄(1年)らの研究 発表の題材に取り上げられて検討された後,同校の「合科学習題材配当表」に採用されて第1学年の11 月の題材に掲げられている (30)。. 第二の特徴として挙げられるのが,中高学年における「中心題材学習」である。奈良は,低学年の「教 科書なしの学習」からの連続性に注意しつつ,中高学年の教科学習における指導法を工夫し,修身,算 数,地理,理科を中心に「中心題材学習」を考案した。そこでは,児童が学習の題材を生活の中からみ つけて決定し,「反省→実行→比較」という学習過程の各段階で独自学習から相互学習へという学習形態 を繰り返す。「学習法」を基礎にしたこのような単元は,奈良女高師附小では「題材中心学習」と呼ばれ ていた。後年,奈良は,「中心題材学習」は,富士小ですでに実践されていた題材中心学習とドクロリー の「興味の中心」から学んだものであると述べ,特に「生活の中に学習材,カリキュラムをみつけると いう発想も坂本訓導の修身教育の実践に負うところが大きい」と回顧している (31)。奈良の「中心題材学. 大正新教育期富士尋常小学校のカリキュラム改革と学校経営. ─ 20 ─. 習」では,単元の展開方法と分科への移行モデルとしてプロジェクト・メソッドやドクロリー・メソッ ドが参考にされており,その呼称や学習過程の説明の仕方は独特のものであったが,単元の構成原理は坂 本を通じて伝えられた奈良女高師附小の実践理論(「学習法」と「題材中心学習」)が基礎となっていた。. こうして,坂本が始めた修身教育における題材中心学習の試みは,奈良によって低学年合科学習や中 学年以降の教科学習における「中心題材学習」に発展し,やがて合科学習に関心を持つ訓導たちの題材 選択の研究に取り入れられた。後年,奈良は自身の低学年教育研究の到達点として,合科学習の「まと め」となる「学級プロジェクト」を考案したことを振り返っている (32)。1年生5月の「端午の節句」や 6月の「売買ごっこ」,12月の「年の暮れ」などの単元で展開された「大きな共同作業によるダイナミッ クな活動」は他の訓導にも影響を与えており,中でも着任直後から奈良の教育思想に共鳴した小林節蔵 が積極的に取り入れたという (33)。小林は奈良が退職した後,その後継者として同校の生活題材の単元開 発を主導していく。. ③谷岡市太郎を中心とした「合科学習基準案」の作成 奈良のほかにも,坂本から指導を受けてミドルリーダーに成長した訓導に谷岡市太郎(1896-1971)が. いる。谷岡は,坂本や奈良が始めた「生活の中に題材を発見する」発想を用いて,修身の「生活単元」 作りを始め,やがて合科学習のカリキュラム開発の中心となった人物である。谷岡は1916年に鳥取県師 範学校を卒業後,同県の小学校訓導をしていたが,1922年に上京して早稲田大学専門部政治経済科に入 学し,3年後に中途退学している (34)。この間,東京府北豊島郡の小学校に職を得て,1924年10月に富士 小に転任した。富士小に着任直後は算数の「自由作題」に取り組んでいたが,1926年5月に東京市視学 合同視察の実地指導会で「友だち」を題材にした修身の授業を行った頃から,日誌と題材を中心にした 修身の授業作りを始めた。1928年に編集された校内の研究紀要『実際の理論化』創刊号には,谷岡が実 践した「日誌による修身教育」の反省や日誌の記述が紹介されている。児童の日誌から生活に即した修 身の題材を発見させるという題材選択の方法は,坂本に倣ったものであり,目の前の子ども研究から,. 「子供の一挙手一頭足,子供のひいた一本の線にも子供の精神が宿つて居る事に気がつく様に」なったと いう (35)。日々の単元作りの方途について悩み苦しんだとき,師範学校時代から学んできた教育学や哲学 の理論が直接その解決法を与えるのではなく,子どもたちと共にする体験を通して「生活とは天上にあ るのではなく,ほん[の]手近な足の下にあるのだと自覚するに至つた」という。こうして,坂本に倣って はじめた題材中心の単元作りは,谷岡に子どもの生活を観察し,子どもから学ぶ視点を獲得させていた。. 富士小の「合科学習研究経過」によれば,1926年に奈良が研究会で発表した「観音堂」と「校庭」と いう単元が本格的な合科学習の嚆矢とされている (36)。それまでは,国語と唱歌,図画と手工といったい くつかの教科を合わせた授業の試みがなされていたが,1926年からは,当時低学年を担任した奈良をは じめ12名の訓導によって子どもの生活を題材にした新しい単元開発が始まった。1929年以降,尋常3年 生を対象とした合科学習として,今井ハルの「観音様」,大副公生の「桃の節句」,高橋瑳熊の「春」と いう単元が研究会で発表されており,取り組みは中学年にも及んでいる。1930年に1年生を担任した谷 岡は,合科研究会の中心的人物となり,「教科改造案の基準」作りに着手した。それは,各訓導が開発し た単元には,「児童自選の題材や教児共選の題材」があり,これらを「連絡統一」し,「一貫する基準と も云ふべき論拠と予定案の必要に迫られた」ことや,国定教科書との関係や取り扱い方法を明示するこ とが必要になったからであった (37)。具体的には,当時の低学年担当教師たちが奈良や谷岡に倣って合科 を試み始めたところ,児童による自由選題の題材では不安を感じるという声が出て,単元の連続性や教 科書との関係について目安となる学年別細目の必要性が認識されるようになったのだという (38)。. カリキュラム研究 第 29 号 2020 年 3 月. ─ 21 ─. 1931年に完成した合科学習基準案や題材配当表の内容についてはすでに紹介されているが (39),これら が谷岡を中心とする低学年担任の訓導たちによって作成されたことに注目する必要がある。従来は,上 沼校長が1931年12月の第1回日本新教育大会や1932年1月の東京市校長会でこの基準案や作成経緯を発 表したため,同校のカリキュラム改革を主導したとみられてきたが,上沼は自身の発表のうち「カリキ ユラムに就ての記載は「富士の低学年合科教育」の抜萃である」と述べている (40)。『富士の低学年合科 教育』と翌年に一部改正された『富士の低学年教育』に掲載された基準案の骨子やカリキュラム改革の 経過に関する部分は,谷岡が執筆していた。彼が訓導たちの研究成果をとりまとめていたのである。後 述するように,富士小では1931年に研究部会制が発足しており,谷岡を中心とする第一研究部(合科) が奈良女高師附小の指導要項をベースに,東京女高師附小の作業題材配当表,コンプレックス・システ ムやドクロリー・メソッドを勘案して,「富士の低学年合科教育」を完成させたのであった (41)。同年11 月,谷岡は奈良女高師附小が開催した第2回学習研究会低学年研究会で「富士の低学年合科教育」につ いての報告を行っている (42)。こうした合科学習研究の過程で注目すべきことは,訓導たちの「不安や行 き詰まり」がカリキュラム研究の活性化,組織化を促進していたことである。彼らは,校長の教育理念 を具現化するためではなく,自身の実践課題の解決のために互いの経験を発表し,批評し合っていたの である。. (3)共同研究の態勢 前項でみたように,富士小のカリキュラム改革は数名のミドルリーダーが授業改善を主導し,問題意. 識を共有する訓導と一緒に試行錯誤することから始まっていた。できる者が得意な教科から始めた授業 改善であったが,取り組み始めた訓導たちは「教科書を教える」のではないが故に,どうやって題材を 選択し,どうやって授業を展開するのかという課題に直面した。そして,生活題材の単元開発に取り組 み苦悩した訓導たちは,その経験から子どもの興味や成長は動態的であることに気づき,目の前の子ど も観察の中から題材を発見する視点を獲得していた。こうした視点を共有し,それぞれの試みを批評し 合うことを広めた研究態勢をみよう。. 1920年代後半の富士小では,職員会が毎週1回,学年会及学年主任会が毎月1回開かれており,そこ では上沼校長の訓話や学年主任などの指導,訓導の研究発表が行われていた。このほかに,各訓導は「学 級経営案」を学年始めに,「学習指導予定案」を毎月始めに提出することになっていた。1928年度「学校 行事実施事項」によれば,この年の教育研究に関わる行事には以下のようなものがあった (43)。. ・指導研究…11月20日(2年),22日(3年),23日(4年),27日(5年),29日(6年), 12月5日(3,4年),10日(1,2年) ・公開指導研究会…12月 ・研究紀要「実際の理論化」発行…12月 ・教育講演(稲毛祖風氏の創造教育)…2月18~20日 ・第1学年学習指導研究(合科)山根訓導…3月4日 ・第6学年国語学習指導研究(国語)石井訓導…3月15日. 訓導の研究授業は,11月の公開指導研究会の直前にもたれる各学年ごとの指導研究会や,年度末の3 月に開かれる学習指導研究会で行われ,批評がなされた。. 同校の研究紀要や研究報告書の記述によると,本格的な研究部会制が導入されたのは1931年のことで ある (44)。詳細は不明であるが,それまで科目別に行われていた研究会を部会に編成して全校的な研究体 制を整えたという。1931年度から1933年度までの研究部会の構成は,第一部合科,第二部技能科,第三. 大正新教育期富士尋常小学校のカリキュラム改革と学校経営. ─ 22 ─. 部文科,第四部理科となっており,第一部では合科,第二部では図画,唱歌,体育,手工,映画,第三 部では修身,国語,国史,地理,第四部では算数,理科についての研究が行われている。1933年度の職 員の研究組織の一覧をみると,それぞれの部には部長が置かれ,訓導は全員いずれかの研究部に所属し ている (45)。ただし,研究活動への参加は自由であったらしく,複数の研究部会に所属して活発に活動し た者もあれば,研究活動にあまり熱心でなかった者もいた。共同研究の成果として第一部では「低学年 教育案」(1931)が,第三部では「国語研究集録」(1932)がまとめられており,こうした成果物の作成 は,「単なる委員制度による事でなく,皆が労作を共にして,そこに現はれた共同精神の象徴」とするこ とがめざされていた (46)。1934年度以降上記の研究部は廃止となり,各学年単位の研究会に加えて専科部 会が設けられて,それぞれの学年に応じた研究主題を設定して共同研究を続けたという (47)。. 以上のことから,富士小の研究態勢は,実践的リーダー,いわゆるミドルリーダーを中心とした自主 的なグループ研究から研究部会の組織化へ,そして研究部の改編へと進んでいったことがわかる。この 組織化の過程で注目すべきことは,訓導たちの疑問や不安から自然発生的に生じた教え合いの関係の中 で,カリキュラム改革の発端となる「試み」が開始されていたことである。他者との学び合いによって 自己変革(=成長)したことを自覚できるようになった訓導たちは,研究会を組織して同僚と経験を共 有し,共に修養しようとした (48)。同校では,校長が研究組織を管理して訓導全員に改革を強要するよう なリーダーシップを採らなかったことが,こうしたプロセスを生じさせたと考えられる。. 4.富士小の学校経営とその特質 前節でみたように,富士小のカリキュラム改革の特徴はそのプロセスに顕著であるが,それを支えた. 同校の学校経営はどのようなものだったのだろうか。 1933年に明文化された同校の「学校経営の方針」では,「学校教育は創造活動の能率高き精進場であ. る」と捉えられて,学校組織の要素が以下のように説明されている (49)。. 〈図2〉学校組織の要素. まず,物的要素とともに学校組織を成す人的要素について,内部関係たる「教師,児童,校医,衛生 婦,機関手,使丁」と外部関係たる「行政当局者,児童保護者」とが有機的統一的な関係を持つべきで あり,学校は「一つの社会的存在の人格的組織的[で]なければならぬ」とされている。職員の活動が「学 校経営の主要なる部位を占め」,彼らの目的活動が統一的調和的に行われると同時に,独創的に遺憾なく 発揮されるために,「希望計画票」と「学級経営録」が必要だという (50)。さらに,児童が学級活動や学 校活動に参加する機会を増やすために「学級自治会」や「学校自治会」,「創作発表会」などの場を設け ることや,訓導以外の職員にも主体的に学校経営に参加することが奨励されている。また,保護者を再 教育したり学校活動に寄与したりしてもらうために「保護者会」を組織すべきこと,学校は行政の活動 機関の一部でありつつも独自の活動を拡充する必要があると説かれている。そして,「人的要素の成員が 各自自主協調の態度によつて,能力適応の活動が各自を精進させる道場たること」,つまり,職員,児 童,保護者ら成員それぞれを自主的協同的な活動を通して成長させることが「学校経営の根本的態度で ある」 (51)と明示されている。. この「学校経営の方針」は奈良女高師附小主事木下竹次の学校経営論の影響を受けた上沼校長によっ. ⎧ ⎟ ⎨ ⎟ ⎩. 物的要素…校地,校舎,校具,資料の設備供給が重大なる役割 人的要素… 内部関係(教師,児童,校医,衛生婦,機関手,使丁) . 外部関係(行政当局者,保護者) ⎫ ⎟ ⎭. 有機的統一的関係. カリキュラム研究 第 29 号 2020 年 3 月. ─ 23 ─. て作成されたものと考えられる。既述のように,上沼は1922年の冬季講習会に妻ひさと参加したが,彼 らが受講した国語部会では木下による「学校経営論」の講演(3時間)が行われていた (52)。その講演内 容は翌年の『学習研究』で発表された「学校経営の概観」や「学校進動論」にみることができる。当時 木下は,一つの社会である学校には「人及び物の二要素がある。…[中略]…学校組織の各部は本質的に 相関係して居る。学校は自身の目的に向かつて内部から成長発展するから学校には有機的性質がある」, と述べている (53)。彼の「学校進動論」は,「学校は一の構成社会で有機的人格的の統一体であるから学 校は生命を持つている」 (54)という文章で始まり,学校を身体に喩えながら,その特質を社会システム論 的な機能連関によって説明したものである。学校改革を志して富士小に赴任した直後の上沼は,木下の 学校経営論に傾倒し,奈良女高師附小をモデルとして学校経営に着手した。. 一方で,学校は「特殊化作用から普遍化作用へ」 (55)を交互に反復して進動するという木下の説明の仕 方を用いるならば,上沼は富士小という学校を特殊化(差異化)することを自身の使命として認識して いた。奈良女高師附小とは異なる独自のカリキュラム実践の創出をめざすようになっていったのである。 ただし,上沼は,木下のように自らが特殊化作用の主体となることはできないことを悟っていた。彼は, 自身が特殊化・普遍化を促す. 0 0. 存在であることを自覚していたと考えられる。たとえば,上沼が欧米教育 視察の報告書として上辞した『生活学校デクロリイの新教育法』は,視察以前に刊行が目論まれてい た (56)。同書は,1931年に上沼の著書として刊行されたが,その内容のほとんどはドクロリー教育に関す る英書の翻訳であり,上沼以外の4人の富士小関係者が翻訳を担当し,それぞれが実践改革の参考に用 いていたものであった。つまり,上沼は,実践研究や実践指導からは距離をとるようになり,共同研究 のための環境整備やその成果を宣伝するスポークスマンの役割を果たしていたのである (57)。以上のよう に,上沼は,カリキュラム実践を支え,教師の成長を促すことで学校改革のリーダーシップを発揮して いたといえる。. 5.おわりに 富士小の訓導たちは,カリキュラム改革に取り組む中で同僚に学びながら自己研修を行っていた。そ. のために必要な外部環境や内部環境を整備することが上沼校長にとって理想的な学校経営であり,訓導 たちはそれぞれの興味と適性を活かして共同研究に携わっていた。上沼による環境整備のうち,とりわ け重要であったと考えられるのが,訓導たちの主体的な研究意欲を引き出したことである。改革に積極 的に取り組んだ訓導たちは,上沼が「失敗してもよいから,できるところからやりたまえ」と背中を押 してくれたことが有り難かったと回顧している (58)。周知のように,戦前における校長の社会的地位は現 在よりもかなり高く,学校内における権力も絶大であった。当時の公立小学校長には,法令を遵守しつ つ「生きた機械」である教師を監督して,国家主義教育の実を挙げること,すなわち学校に派遣されて いる「官吏」としての役割が期待されていた。そうした状況の中で上沼は,国定の教育内容を超えるカ リキュラム改革を始めることを決めたが,改革の手順や形を提示することはしなかった。熱意ある訓導 にとって,提案した企画が校長に認められ,それを任されたことは,自分の殻を破るための大きな励ま しとなり,両者の信頼関係は深まったとみられる。このように上沼は,自らは実践を牽引せず,訓導た ちに対して失敗してもよい試みを誘発する環境,すなわち「実験」できる環境を設えていたといえよう。. この事例が現在の教育改革に示唆しているのは,カリキュラム・マネジメントやそこで重視されるリー ダーシップを動的で多様な機能として捉え,それが機能する文脈に応じた教師教育を支援することの必 要性である。スクールリーダーを含む教師の力量形成を,「カリキュラムを基盤とする学校経営」の中で 進める方法や課題を探るためには,大正新教育の多様な実践改革は格好の事例となる。ただし,こうし. 大正新教育期富士尋常小学校のカリキュラム改革と学校経営. ─ 24 ─. た視点から大正新教育を検討するには,当時の多様な実践を誘発し促進した個別の文脈について,実践 改革に携わった教師たちの「関係」に注目しながらそのプロセスを明らかにしなければならない。とり わけ,当時の公立小学校の新教育は,従来,校長の教育論が教師たちによって具現化されたという図式 で描かれてきた。多くの場合,教師たちの協働の成果は校長の業績となり,彼らの力量形成の過程が検 討されることはほとんどなかった。本稿においては,実践改革と教師教育を関連付ける視点から学校経 営に着目した新教育研究の可能性に言及したが,今後は教師の力量形成の過程を分析できるような協働 の実態を解明していきたい。. 〈注〉 ( 1 ) 拙稿「学級・学校経営研究のはじまり」橋本美保・遠座知恵編『大正新教育 学級・学校経営重要. 文献選』6,不二出版,2019,pp.389-392。 ( 2 ) 天笠茂『カリキュラムを基盤とする学校経営』ぎょうせい,2013,pp.4-5。 ( 3 ) 拙稿「上沼久之丞によるドクロリー教育法の紹介―大正新教育期公立小学校長のリーダーシップ. ―」『東京学芸大学紀要』総合教育科学系Ⅰ,69,2018,pp.1-14。 ( 4 ) 鈴木そよ子「富士小学校における教育実践・研究活動の展開―昭和初期公立小学校の新教育実践. ―」(『東京大学教育学部紀要』26,1987,pp.251-260)や渡邉優子「東京市富士小学校におけるカ リキュラム研究の特質―校長上沼久之丞の果たした役割に着目して―」『カリキュラム研究』21, 2012,pp.15-27)など鈴木・渡邉による一連の研究のほか,谷口和也『昭和初期社会認識教育の史的 展開』(風間書房,1998,pp.286-323),田村真広「富士小・小林節蔵訓導の「生活学習」における題 材選択の論理」(『日本社会事業大学研究紀要』54,2007,pp.191-217)など。筆者はリーダーシップ を「目標達成のために個人や集団に対して行動を促す力」と捉えている。その力の内実に迫るため には,校長の言動を分析するだけでなく,訓導たちの側からそれがどう作用していたのかを考察す ることが不可欠である。. ( 5 ) 上沼の履歴については,上沼家所蔵の履歴書および富士小学校所蔵文書による。 ( 6 ) 上沼の思想的転機および学校経営観の形成については,前掲拙稿「上沼久之丞によるドクロリー. 教育法の紹介」(pp.2-4)に詳しい。 ( 7 ) 上沼久之丞編『生活学校富士の教育』東京市富士小学校内学習指導研究会,1933,pp.309-310(未. 刊行)。上沼は,1926年1月に杉本を手工専科訓導として富士小に呼び寄せている。 ( 8 ) 上沼久之丞「私の学校経営」『教育論叢』34(1),1935,pp.9-12。 ( 9 ) 東京市富士尋常小学校・富士小学校学級保護[者]会『紀元二千六百年教育勅語渙発五十年本校創. 立四十年記念誌』1940,p.8(未刊行)。 (10) 「大正十一年度第参回冬期講習会員府県別名簿」(奈良女子高等師範学校附属小学校学習研究会,. 1922)には,府県別出席者の東京の欄に上沼夫婦の名前がある。 (11) 上沼久之丞編『富士の教育』Ⅱ,東京市富士小学校内学習指導研究会,1929,p.5(未刊行)。 (12) 増子菊善「一昔の読方指導の回顧」(『実際の理論化』7,東京市富士小学校内学習指導研究会,. 1933,p.8,未刊行)や,志垣寛「新教育卅年史(18)」(『教育週報』858,1941.10.25,p.4)には, 富士小に対する世間の「冷笑的態度」について記されている。. (13) 前掲鈴木論文および,鈴木そよ子「公立小学校における新教育と東京市の教育研究体制―1920年 代を中心に―」『教育学研究』57(2),1990,pp.149-158。. (14) 前掲谷口書,前掲田村論文,前掲渡邉論文のほか,林曼麗『近代日本図画教育方法史研究―「表. カリキュラム研究 第 29 号 2020 年 3 月. ─ 25 ─. 現」の発見とその実践』(東京大学出版会,1989)など。 (15) 前掲『富士の教育』Ⅱ,p.72。奈良靖規の回想によれば,坂本は東京外国語学校卒業だったので,. ドクロリーの英訳書を「真先に読んだ」という(奈良靖規「低学年教育法とその反省」『教育方法史 研究』2,東京大学教育学部教育方法学研究室,1984,p.129。. (16) 小林茂「追憶」前掲『実際の理論化』7,p.6。 (17) 谷岡市太郎「創造教育六ケ年の回顧」『実際の理論化』3,1929,p.6。 (18) 前掲『富士の教育』Ⅱ,p.72。1927年3月に東京市より受けた表彰状の略歴より。 (19) 東京市富士尋常小学校『生活創造の修身教育』1931,pp.1-2(未刊行)。 (20) 「生活指導の修身教育」の「研究の経過」の記述から,坂本が修身の「学習指導方針」(1926年4. 月)を作成したことが判明した(前掲『生活学校富士の教育』pp.20-21)。 (21) 東京市富士尋常小学校『富士の教育』1926,pp.5-7(未刊行)。 (22) 前掲『生活創造の修身教育』p.2。 (23) 同上書,pp.8-9。 (24) 上ノ坊仁「日誌中心の修身教育」前掲『実際の理論化』3,pp.49-56。以下,上ノ坊の実践報告は. 同誌の記述による。 (25) 前掲奈良論文,p.130。 (26) 奈良は秋田県成章小学校在勤中に,表現科教育の改革を計画して同人誌『美の教育』を創刊した. (『鹿角市史』3下,鹿角市,1993,pp.369-370)。 (27) 奈良の教育実践については,鈴木そよ子「富士小学校の授業改造と奈良靖規の実践」(前掲『教育. 方法史研究』2,pp.1-19)を参照。 (28) 同上,p.8。 (29) 前掲奈良論文,p.131。 (30) 上沼久之丞「生活の指導原理と教科改造案」『富士の低学年教育』東京市富士小学校内学習指導研. 究会,1932,pp.10-22(未刊行)。 (31) 前掲奈良論文,p.140。 (32) 奈良靖規「低学年教科書なしの教育法覚え書き」前掲『教育方法史研究』2,pp.159-160。 (33) 同上,p.160。小林の生活題材に関する実践については,前掲田村論文や前掲谷口書 (pp.305-313). など社会科教育の立場からの研究がある。 (34) 谷岡の経歴については履歴書(「[職員履歴書綴]」,富士国民学校時代のものとみられる),および. 筆者からご親族への問い合わせに対する回答(私信)による。 (35) 前掲谷岡論文,pp.7- 8。 (36) 前掲上沼「生活の指導原理と教科改造案」p.10。 (37) 「教科課程の改造」前掲『生活学校富士の教育』p.195。 (38) 同上,pp.202-203。 (39) 前掲谷口書,pp.299-305,渡邉優子「東京市富士小学校における教育実践とドクロリーの教育思想. ―「創造生活」に注目して―」『東京大学大学院教育学研究科紀要』52,2012,pp.26-27。 (40) 前掲上沼「生活の指導原理と教科改造案」p.13。 (41) 谷岡市太郎「生活発展と環境組織」(前掲『実際の理論化』7,pp.1-8)には,基準案の作成過程. でこれらの実践情報を用いて研究していたことが記されている。 (42) 「低学年研究会記事」『学習研究』11 (1),奈良女子高等師範学校附属小学校学習研究会,1932,. 大正新教育期富士尋常小学校のカリキュラム改革と学校経営. ─ 26 ─. p.60。 (43) 前掲『富士の教育』Ⅱ,pp.79-84。同書によれば,1928年度には校長1名と訓導41名(年度中の転. 出入等を含む)が在職していた。訓導のうち4名が専科訓導であった。 (44) 前掲『生活創造の修身教育』pp.2-3。 (45) 研究部会の構成は,『実際の理論化』5,(1931,序および編集後記),各部会の研究内容について. は,上沼久之丞『体験富士の学校経営』(明治図書,1936,pp.521-522)による。 (46) T 生「編集雑感」『実際の理論化』6,1932,p.150。 (47) 前掲上沼『体験富士の学校経営』p.522。『富士の教育』Ⅴ(1934,pp.29-30)には「研究会部」(学. 年別および専科部),および各訓導の「研究科目」の一覧がある。 (48) 本稿では,史料の制約から修身科と合科のカリキュラム開発における教師間の協働的な関係を取. り上げたが,その他の教科においてもこうした関係が存在した可能性がある。 (49) 前掲『生活学校富士の教育』p.293。〈図2〉は,この頁の記述に基づいて筆者が作成した。以下,. 「学校経営の方針」に関する引用は全て同頁による。 (50) 富士小では,各訓導に学級経営の独自性を認めた上で,その計画や方案,反省録を提出させてい. た。同校では,訓導が提出した「学級経営案」を校長が確認するだけではなく,毎学期始めの職員 会で「相互研究」したという(前掲『実際の理論化』7,p.233)。. (51) 前掲『生活学校富士の教育』p.293。 (52) 学習研究会「第三回冬期講習会庶務書類」(奈良女子高等師範学校附属小学校,1922)によれば,. 上沼夫妻は共に国語部会に参加しており,木下の講演を聞いたとみられる。 (53) 木下竹次「学校経営の概観」『学習研究』2 (4),1923,p.66。 (54) 木下竹次「学校進動の原理(一)」『学習研究』2 (5),1923,p.10。 (55) 木下竹次「学校進動の原理(三)」『学習研究』2 (7),1923,pp.57-61。 (56) 『生活学校デクロリイの新教育法』の編集過程における上沼の役割については,前掲拙稿「上沼久. 之丞によるドクロリー教育法の紹介」において考証したので参照されたい。 (57) このほかにも上沼は,校医,衛生婦,小使に研究紀要への執筆を勧めたり,児童による学校自治. 会・学級自治会活動の活性化や学級保護者会との連携に力を入れたりするなど,訓導以外の職員や 児童,保護者などの成長を促す工夫を講じている。. (58) 前掲奈良「低学年教育法とその反省」(p.131),杉本茂晴「新教育の回顧」(前掲『実際の理論化』 7,p.19)など。. [付記] 本稿で用いた未刊行資料のほとんどは,上沼久之丞旧蔵文書であり,上沼舜二氏に閲覧させていただ. いた。また,調査にあたって,富士小旧職員のご親族である,奈良公夫氏,森本厚子氏,伴三男氏に もご協力をいただいた。論文を発表するのが遅れたために,故人となられた方もおられる。衷心より 感謝と哀悼の意を表したい。. カリキュラム研究 第 29 号 2020 年 3 月. ─ 27 ─. The Curriculum Reform and School Management at Fuji Elementary School During the Taisho New Education Period:. The Principal’s Leadership and Collaboration of Teachers at a Public Elementary School. Miho HASHIMOTO (Tokyo Gakugei University). This article aims at clarifying the process of curriculum reform and the characteristic of the school manage­ ment at Fuji elementary school during the Taisho new education period. Despite of being a public school where was generally hard to engage in such movements, Fuji elementary school has shown a good performance of the curriculum development of life education for the whole school under the leadership of principal Uenuma. Former studies had put their eyes on what Uenuma had written or had said, evaluating his leadership. However, this paper focuses on teachers’ activities and their growth, and sees how the leadership or advice of Uenuma had worked. For that purpose, I investigated into various kinds of reports and reminiscences of the teachers, and analyzed the relationship of the staffs including the teachers and the principal. Then I could see how they were brought to the development of life­unit curriculum and how they thought and acted during the process of the development.. Main findings of this paper are as follows. The first finding is about how curriculum reform had taken place. A bunch of practical leaders had led the lesson improvement, and then involved other teachers that would share the same concern. They came to understand that their students’ development of interest and abilities are very dynamic and became to establish the stance to find the problems from the observation of their students. The second finding is about the organization process of the teachers’ activity of research. The primitive voluntary group formed around the leaders came to be organized as a research section in the school, and the section got reformed furthermore to form a research community where they can learn from each other. And the third finding is about the Uenuma’s critical role as a principal. Without requiring reformer’s attitudes of the teachers forcibly, he took the responsibility of preparing the condition for teachers’ research activities and the role of being accountable to the public. Thus, he could support the curriculum development by facilitating the progress of the teachers and that was the kind of leadership he took in the school reform.. At last, I reflected upon what kind of implication this case study would give us for our educational reform. Through seeing the leadership as dynamic and multi­function, I pointed out that we need the relevant environ­ ment and context in the teacher education system so that such function could really work.

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